美術の窓

無料ニュースレターの購読

公募展便り(2015年6月号)

「美術の窓」2015年6月号

第74回水彩連盟展

(4月1日~4月13日/国立新美術館)

文/高山淳・編集部

1室

 中村英「からくり考 踊る人 踊れぬ人」。阿波踊りに「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」という歌があるが、そんな言葉を思い起こした。画面の中に横向きで踊っている人、こちらを向いて仰向けに手を上げて踊っている人。二人の像がある。それを手前の座ったシルエットの男が眺めている。まるで黒子のような雰囲気である。踊っている二人の男のあいだにもう一つの顔が見える。目のあたりに白い仮面がつけられている。まさにからくり考で、いわば人形芝居のように構成しながら、人生の深い意味を表現する。横向きの男が右手に木のようなものを持っていて、その先が燃えているようなイメージがある。パッションの意味だろうか。画面全体ところどころに朱色が散って、背後は焦茶色の深い空間である。そう思って見ていると、逆様になって倒れかかっているもう一人の仮面の顔が見える。あまり考えずに踊りながら人生が終わるケースもあるだろうし、インテリふうにあれやこれや考えながら、恋をするような激しい感情も経験せずに人生を終える人もいるだろう。そんな二つの人生のスタンスを画家はここに語ろうとしているのだろうか。そうすると、画家のように見る人はどこに存在するのだろうか。黒子のようにうずくまっている男もまた画家の分身であるにちがいない。スポットライトを浴びたように踊る四人の表情。その手足のフォルムに、不思議な哀愁のような雰囲気があらわれているところが面白く思う。また、四人の踊り手のあいだに赤い五センチほどのストライプが水平に置かれているのも、なにか人生というものに対する敬虔なイメージを思わせる。人生というものは、そこに生きている人のみが参加できるもので、単なる傍観者にはそこへの参加を拒否しているものがあるだろう。そんな進入禁止といったイメージも赤いストライプに感じることができる。ノンシャランな中に、なにか厳粛な人生芝居が展開されていく。(高山淳)

 忠隈宏子「天と地の間」。たらしこみふうな空間。虚無の中に開いた花のようだ。緑や青、オレンジ、白などの色彩が散りばめられている。乾とか坤といった易でいう世界の始まりのようなイメージが抽象的な空間の中に表現される。まさに「天と地の間」という題名にふさわしい表現である。(高山淳)

 岡野亮介「冬隣」。巨大な幹のあいだに鳥の巣があって、卵が一つ。左のほうの枝には雀のような鳥がとまっている。上方に伸びていく枝。先は切断されて、その上にクジラが浮かんでいる。と思うと、下方に横断歩道があって、人々が歩いていく後ろ姿が見える。新聞紙をコラージュしたフォルムがビルを暗示させる。冬の木立が街に伸びている様子からイメージを変容させアレンジしながら、独特の詩的情景をつくる。ここに浮かぶクジラは都会の孤独感を癒す存在のように、母性的なイメージであらわれている。情報社会を暗示するように新聞をコラージュすることによってビルがつくられる。人工都市はそのまま情報都市と言ってもよいイメージ。しかし、そういった情報と孤独のなかに、太古のいわば哺乳類でもある巨大な魚を宙に浮かせて人々を癒そうとする。(高山淳)

 白井洋子「青い刻」。白いテーブルにサテンのような青い布。その上に時計やお皿、鉢などの青いものが置かれて、青い薔薇が差されている。右のほうに青い小鳥が椅子にとまって、青い蝶が飛んでいる。背後は黒箔を貼ったような、和風でありながらモダンな雰囲気。青い花というと、チベットの奥地にある青い花のことを筆者は思い起こすのだが、なにかミステリアスでロマンティックなイメージがこの画面に漂っているところが面白い。(高山淳)

 岸本惠美「アルの休日」。アルとは画家のかわいがっている犬の名前である。この座っているアルは何代目になるのだろうか。大きなアルは画家の信頼に応える存在である。画家自身はそばに小人となって宙に飛んでいる。大車輪をするような雰囲気で浮かんでいる。黄色いバックが鮮烈である。空の青い色彩をひとつのストライプとして置く。ドローイングふうなコンテによる小さなフォルムを星のように散らばせる。アルを中心に、画家のイメージの活性化するに任せて、親和的な空間をつくる。(高山淳)

 西原幹「記憶の中に」。どこか物置のような暗がりの中にまとまって積み上げられて放置された段ボールの山が描かれている。その手前には手紙が散らばっている。うっすらと明かりに照らされたそれらの姿が実に寂しい。刻々と過去へと追いやられていくかつての出来事に別れを告げるような雰囲気である。そういった中で、どこか抽象的な段ボールの組み合わせやそれを縛る白いヒモ、手紙の様子が強い心象的要素を作り出しているところがおもしろい。特に、中央の赤紫の箱が、独特の存在感を放っている。忘れられることへの抵抗をメッセージするような、静かな自己主張が強く印象に残る。(磯部靖)

 佐藤鎭雄「さん・てれみに」。植物が繁茂している。それをずいぶん接近して描いている。一つひとつの植物に接近し、その匂いをかぎ、そのフォルムに触りながら、ここに集めたような濃密な気配が感じられる。植物の一部がまるで燃えている炎のようなフォルムになっているところも面白い。(高山淳)

 安達智行「道標(稜威Ⅴ)」。激しく波が立ち上がっている。そんな海の中に大きな岩が一つ、中心に存在する。手前は浜辺なのだろうか。上方に月が見える。津波の大震災に対する深いレクイエム。大きな一つの岩はそんな鎮魂の碑のようだ。(高山淳)

 西山督夫「鈍日(Ⅱ)」。上半身裸の男のホームレスの全身を描いている。鉛筆によって細やかに陰影を付けながら描き込まれた背中の触感が強いリアリティを引き寄せている。鬱々とした雰囲気を漂わせながら、男の呼吸が聞こえてくるような臨場感が魅力である。(磯部靖)

2室

 坂口かほる「湿原枯花」。オミナエシも小さな白い花もみんなドライフラワーになったようだ。湿原の中でドライフラワー化して結晶したような、そんな花々が画面いっぱいに描かれて、不思議な詩情を醸し出す。右下方にはマンリョウのような赤い粒々の実がなっていて、その後ろは暗い空間。そのあたりから細い枝が立ち上がって、白い小さな花が点々とつけられた植物がある。左前景には黄金色のオミナエシの花。いずれも結晶し、ドライフラワー化した様子。季節や時間の制約から離れて、花が自らドライフラワー化しながら永遠化しているような、不思議なイメージを描く。(高山淳)

 岩脇哲也「ミスN・T」。縦長の画面いっぱいにミスN・Tが描かれている。全身像である。紫の布を頭に巻いている。その部分は画面の上辺ぎりぎりになっている。下方三センチほど残して、この女性の靴が置かれている。茶褐色のお洒落なワンピース。緑のセーター。淡い紫のスカーフに左手が添えられている。謎めいた微笑をもつ女性の顔。画家のつくりだしたモナ・リザのようなイメージと言ってよいかもしれない。すぐれたフォルムに対する感覚。実際のミスN・Tをモデルにしながら不思議なほほえみを浮かべた謎めいた女性像の表現である。(高山淳)

 太田昭「夕陽駿河富士」。下方に港を描き、その背後に高く大きな黒富士を描いている。富士には金色の雲がかかり、向かって左側には沈みゆく夕陽がある。どこか妖しく色気のあるその姿に惹き付けられる。濃密な画面の中に、そういった強い感情的な吸引力がある作品である。(磯部靖)

 吉田勝美「木馬の詩」。若い女性があぐらをかいてギターを抱えこんでいる。その後ろに大きな馬のフォルムがあらわれる。木馬という題名のように左右に揺れているフォルムであるが、実際の馬の情動の強いイメージもそこに重ねられている。激しいパッションが馬を通してあらわれてくるようだ。余分な装飾的な要素は省いて、フォルムだけで勝負をしているところがある。ギターを弾く女性と馬。二つのコントラストによって、深い人間の無意識の力が画面に引き寄せられる。(高山淳)

 遠山治代「successione」。松ぼっくりが六つ、まるで花のように巨大に描かれている。遠景には鋭角的な峰をもつ雪を抱いた山。満月がそのそばにあらわれている。そして上方から松ぼっくりの一片一片が黒くなって落下しつつある。不思議な幻想である。背後は針葉樹を思わせる三角形の樹木のかたちが、一つひとつ松の葉を重ねたようなかたちで描かれているのも面白い。松笠のもつあの不思議な形が、曼陀羅的な配置の中に花のように表現されて、月を引き寄せているのが不思議である。(高山淳)

 山口恵子「乾いた戸口(Ⅰ)」。壁が落ちて、昔でいえば壁のシンのようなものがむきだしになった様子。下方には石が散乱している。窓と思われるところは壁になって、そこに文字が描かれ、風景が映されている。壁の剝落した様子一つひとつを淡々と描きながら、全体でこの乾いた崩壊した壁が不思議な心象風景になっている。それぞれのものがクリアに描かれているところがこの作品の絵画的な面白さで、その謎めいたフォルムを見るだけでも面白く感じる。(高山淳)

 福島千賀子「石畳の街」。石を敷いた地面にいくつも建物が立っている。二階建て、四階建て。そんなキューブな建物の壁と窓。そこに不思議な情感があらわれる。汚れた壁に人間の歴史がしぜんと浮かび上がる。(高山淳)

3室

 平川二三男「滅びゆくもの(軍艦島)」。軍艦島は長崎から船で行く島で、かつて炭鉱として栄えたところである。いまは人はいず、廃墟となっている。そんな時間のお化けのようなものがあらわれている島をテーマにして、激しいストロークの中で画家は一つの空間をつくる。黒や灰白色、朱色が飛び散るように動くように描かれている中に、こだましてくるものがある。時間のなかに隠れてしまったもの。そういったものが画家の筆力によって立ち上がって叫んでくるようだ。(高山淳)

 廣田純男「中世山岳の村」。真ん中に道がだんだんと下降していく。その両側に漆喰の壁に瓦屋根の家が続いている。左のほうには石段があって、もっと古びた建物が連なっている。下りていくと、その下りきったところから、おそらく道は上昇するのだろう。お城のような巨大な建物が見える。ベージュの色彩。灰白色の色彩。斜光線を受けて壁が輝いている。「中世山岳の村」という題名のように、中世のお城が遠景に聳えている様子はいかにもヨーロッパの風景で、それをしみじみとした繊細な光の中に画家は表現する。一つひとつのフォルムがそれぞれのポジションの中に置かれて、中を道が通っている様子が、まさに歩けるように描かれているところもこの作品の強さだろう。(高山淳)

 森治郎「古代感性の追憶」。金箔や銀箔などを貼って、それらが浮遊している。背後は青のグラデーション。千年、二千年の時間がそのバックに流れているようだ。淡いブルー、深いブルー。そんな中に白い縦の紡錘状の形が三か所に並んで浮かんでいるのは何だろうか。あるいは、黄金色の台の上に旋回するようなフォルムが伸びている。薄明の霧によって空間が定かに見えない中に、王朝時代の色彩をもったフォルムの断片が浮かび上がり、お互いに呼応しながら動いていく。(高山淳)

 川村良紀「道程」。森の中に入っていくと、実に神秘的な様々なものに出会う。今回は両側から滝のようなものが落ちてきている。それが清冽な雰囲気。紫の色彩は花を思わせる。こんじきの色彩もそこに重ねられ、下方に水を思わせるような青い色彩などが入れられて、神秘の世界が豊かに繰り広げられる。森のミステリアスでふかぶかとした空間、現実以上にひときわ深く透明な色彩が画面の中に展開する。(高山淳)

 田中実「赤いカーデガン」。赤いカーディガンを着た若い女性が座っている。首が長く、顔は卵形で、独特の木彫のようなフォルムである。背後はグレー一色。スカートが黄色に黒い縞模様で、シンプルな中に強い造形となっている。(高山淳)

 森相實「木の葉舞う原」。桑の木のような樹木が枝を広げている。繊細で複雑な屈曲するかたちが、まるで人間の苦悩の表情のように思われる。地平線からいま日が昇ってきた。激しい太陽のエネルギーが野原やこの樹木に浸透してくる。それに沿ってこの木は揺れ動くようだ。そんな動きのなかに木の葉が舞う。すべての木の葉がなくなると、生きるということの真の姿のようなものがあらわれるかもしれない。なにか大正ロマンを思うところがある。村山槐多などの青年たちが純粋に絵を描くことでひとつの詩的ヴィジョンを表現するように、この老齢の画家に襲いかかっているものもそのような詩的なヴィジョンのように思われる。激しく太陽と木とがお互いに呼応しながら動くなかに、強い詩情ともいうべきイメージが引き寄せられる。木の葉はいわば人生の装飾的要素であって、そういった要素を省いて裸形の生というべきものを表現しようとするかのようだ。(高山淳)

 越野邦夫「散華」。夜の闇の中に植物が息づいて、普段見せない色彩を浮かべている。上方に無数と言ってよいほど色とりどりの葉があらわれて、そのあいだに可憐な白や黄色やピンクの花が咲いている。葉のあいだに満月が見える。下方には祠のようなものがあって、仏さまがそこに鎮座して花が添えられている。その手前のテーブルには小さな鳥たちが集まったり、高杯の上に白い花が見える。それに向かってお辞儀をしているような人間の姿。テーブルの下の黒くあいた部分が祠のようになって、そこにも仏さまがいる。左のほうには光が下りてきて、その光の中にもう一つの月が見え、花が咲いている。「草木国土悉皆成仏」、森羅万象すべて仏性という言葉があるが、すべての植物や石のように無機的なものも一切が生きてこの世界を構成しているといったイメージ。そんな要素を集めると、それぞれが実に不思議な色彩を表す。それらが集まって全体でハーモナイズする様子に、深い声明が聞こえてくるような気持ちになる。日本ではお盆に亡くなった人がみんな集まってくるそうだが、現実にここに存在しているものだけでなく、亡くなった人々もここに集合し、色とりどりの音色でお互いにコミュニケートしながら、寂々たるこの不思議なメロディを奏でるような空間をつくりだした。現実の色彩より一皮も二皮もむいた、もっと純粋な色彩がここにあらわれているような感慨をもつ。(高山淳)

 栗岡恭子「楽しいテーブル Ⅰ」会員推挙。白いテーブルクロスの上にたくさんの瓶が並べて置かれている。花瓶や果物もある。それらが掠れるように描かれながら、しっとりとした色彩で彩られている。落ち着いた雰囲気の中に、心地よいリズムが感じられる。そういったテンポの良さが、大きな魅力となっている作品として注目した。(磯部靖)

 大久保弘子「故里へ」。不思議なカーヴする枝が上方に伸びて、そこにシダのような葉がついている。そんな植物が何本も下方から上方に上っていく。まるで手のように感じられる。あいだに水があるようだ。そこに月を映している。その向こうにススキの穂のようなフォルムが連続して見える。この絵の中ではそういった一つひとつの植物が生きているものとして描かれている。それによって独特の濃密な空間が生まれる。命の水が中心にあり、そこには月が抱かれて、周りの植物が合唱するように手を広げ背伸びしているようなあやしい雰囲気が鑑賞者を招く。(高山淳)

 木下一士「アイアン・スミス」。スミス氏は職人で、その仕事場が描かれている。周りは墨一色の中に金属の様々なものが棚や壁に釘でとめられて置かれたりしているが、スミス氏は赤いシャツを着てカラフルに表現されている。周りはモノクロ映画のようで、本人だけは天然色。優れたデッサン力で、ワンストロークがそのまま形をなしていくといった様子。その写実力に感心する。また、堂々とした体格でこちらを眺めてすこしほほえんでいるような表情も親しみがもてて、絵の魅力になっている。(高山淳)

4室

 小関くに子「monologue」。線描によってたくさんの人々、老若男女を描いて不思議な雰囲気である。空間はグレー、朱色、紫などの色彩が滲むようにあらわれている。画面に接近すると、真ん中あたりには若い少女たちが描かれていて、上方にはすこし中年の人もいるが、おもに若い人がたくさん描かれている。彼らはなんとなくここに集まっているようで、それがまた不思議な雰囲気をつくる。好きだったら描けばいい、いま人を殺してうんぬん、早朝会議でうんぬん、まさにモノローグで画家のメモのようなものを描きながら人間をそこに置いていくということ。その積み重ねによって不思議な濃密な空間が生まれている。(高山淳)

 大塚好雄「子供巡礼」。近景から噴水が上方に噴き出している。向こうに子供の小さな人形のようなものが歩いているのが、あやしい幻想のようだ。上方には馬跳びをしている子供たちがいる。さらにその上には厚い衣装を着て歩いている少年少女がいる。子供たちのそんな三列の様子を幻視しているわけだ。水はおそらく命の象徴なのだろう。子供には未来があって、可能性の塊であり、そういった子供が三列になってこのような様子で動いているところから、実に深い生のヴィジョンがあらわれる。(高山淳)

 松林廣子「巣 '15」。大きな鳥の巣が画面いっぱいに描かれている。細い枝を無数に組み合わせたそのフォルムが重厚な雰囲気を作り出している。画面全体はピンクがかっている。巣の中に卵や雛の姿はなく、紙の切れ端が一枚あるだけである。寂しさもあるが、それを包み込もうとするやさしさのような感情も感じられる。例えば、手元から子供が巣立った親のような、相反する心持ちである。深い想いと共に描かれた巣の存在感が、鑑賞者の余韻を引く。(磯部靖)

 小室幸雄「活」。赤い色彩が輝くように入れられている。周りはすこし暗く、だんだんと中心にいくにしたがって明度と彩度が高くなってくる。その中心に白く輝くものが入れられている。その周りには緑やブルーなどの色面。赤がまた懐かしく、なにか親和力をもって迫ってくる。「活」という題名のように、ひとつの生気ともいうべきもの、血の通った温かなイメージが、この抽象空間によってつくられているところがよいと思う。(高山淳)

 萩山信行「散歩するかたち(dark, fusion)」。細い骨を思わせるようなフォルムが四辺を囲んでいる。その形が散歩したあとの道でもあるのだろう。散歩するということをフィジカルに捉えて、全体で散歩というよりダンスのようなイメージ。そのあとの軌跡のようなフォルムが連結して、中心があいている。人間の行為というものがほとんど無目的に行われている様子。中心に月光を思わせるような光があふれている。不思議なロマンが感じられる。無明長夜という言葉があるが、そんな中を生きている人間のコンディションをいとおしく描いているというイメージもしぜんと浮かぶ。(高山淳)

 滝田一雄「室内風景(カマレー)」。中心に座っている二人の女性。後ろには両手を伸ばした上半身の像が浮かぶ。いずれも女性である。青や黄色、赤などが滲むように入れられた色彩の中にエレガントな女性のフォルムが浮かび上がる。いわば三人の女性がこの室内に咲いた花のようなイメージで表現される。(高山淳)

 齋藤淳子「風に訊」。白いワンピースを着た一人の女性像である。身体を少し捻ったようなポーズを、自然に描き出している。画面の向かって左側は寒色、右側は暖色というバックであるが、それらが違和感なく馴染んでいる。海や空、大地を想わせながらも、そこに女性の心の中にある感情が含まれているようで興味深い。女性の強い眼差しも印象に残る。(磯部靖)

 坂田快三「瀬戸内に至る」。広々とした平野が広がっているのだが、それは田圃で、刈田になっている。枯れたあとの稲の穂が点々と見える。黄土色の色彩がお互いに連結して、気持ちのよい空間が生まれているが、そのあいだに水が張られて空を映している場所が点々とあって、黄土色の空間と空を映している空間とが微妙なバランスで広がっているところに深い情感があらわれる。不思議な抽象美と言ってよいような農村の光景である。これまではもっとこの田圃を近く引き寄せて描いていたが、今回の作品はパノラマふうに広がっていて、その全体のハーモニーに懐かしさが感じられる。(高山淳)

 平林幸子「MIND・ピンク」。やわらかなピンクの色彩をバックに、灰白色の動きが幾筋も入れられている。画面の上方では球体を形作り、下方では波打つ。そしてバラの花のようなフォルムがいくつか点々と入れられている。美というものの本質、美しい心とは何かを訴えかけてくるようだ。右上方の太陽がそういった美に生命力を与えているところも興味深い。(磯部靖)

 福島ひろし「鳴くフクロウヒナ」。角柱を柵にしたところに二羽のフクロウがとまっている。雛である。一羽は正面を向き、一羽は右上方を見ている。背後に太い幹をもつ樹木がいくつも立ち上がって、そのあいだからフクロウがのぞいている。その樹木が、後ろにいくと手を広げた腕と長く伸びた手の指のようなかたちになって続いているのは幻想である。子供のフクロウと樹木を組み合わせながら、人間くさい独特のファンタジーを表現する。単なる樹木ではなく、樹木との関係は近く、様々なメッセージを発信する木になっていて、その木のあいだからのぞく小さな雛のフクロウは子供でもあるし、いたずらをするかもしれないし、不安でもあるし、様々な子供のもつ心理的要素を託された存在と言ってよい。(高山淳)

 菅原克子「晩夏」。青がふかぶかとして不思議な魅力を放つ。その青の中に樹木の枝が伸びて葉がついている。上方には三つのブロックのようなものが重ねられて、その上に洋梨のようなもの。そこに伸びていく植物の梢。その先は赤く色づいて不思議な雰囲気。青は夏の空間を思わせるのだが、すでにその先には秋が来ているといったイメージである。いずれにしても、青のたらしこみふうな色調に魅力が感じられる。(高山淳)

 村上真由美「出て立つ」。手前を向いて立つ少女。髪のほうに手を伸ばしている。その後ろに四人の少女がシルエットふうに向きを変えながら描かれている。ティーンエージャーのもつ生命感、ティーンエージャーのメランコリックな雰囲気を群像の中に表現する。(高山淳)

5室

 新藤千鶴「雲」。空に浮かぶ雲を大きく描いている。朝日または夕陽、あるいはその両方とも言える光に染められた雲の量感が実に豊かである。刻々と過ぎゆく時間と共に変化していく雲の姿が、強い情感を作品に引き寄せる。僅かなノスタルジーを感じさせながら、無常の真理を描き出しているかのようだ。(磯部靖)

 宇野満寿美「春の音」。中心に糸車が置かれている。クルクルと回る糸車に沿って画家は深い瞑想のなかに入るようだ。子供の頃、蔵で遊んだ。怖かった思い出がある。花が咲いて、燕が飛んできている。手前には鋏や糸などが置かれて、それが緑やピンクや赤で、お互いが懐かしいハーモニーを奏でる。右上方に、床の上に裸の俑のようなものが見える。その俑のようなものは画家の青春の時の自画像と言ってよいのだろう。明恵上人は善妙という俑を見た瞬間そこに生きている女性が囚われているように思ったという逸話があるが、同じようなイメージを感じることができる。糸車が回るごとに様々な記憶がこの画面の中に浮かび上がってくる。上方の、桜か桃の花かわからないが、ピンクの花が咲く中に燕が飛んでいる様子は、まさに画家の心の生きていること、その自由に羽ばたくイメージの象徴のようだ。(高山淳)

 桑野幾子「'15 心の旅」。画面の中央に丸みを帯びたフォルムがあり、それには編み目が装飾されている。それによって獲得された立体感が、中央のさらに奥へと入っていくような動きを見せている。背後にはさらに細やかな紋様が施されていて、少しずつ動きながら変化していっているようにも見える。深く自己を内観するようなイメージの中に、様々な感情が生まれては消えていく。それらは緑、あるいは青、赤といった色面となって浮かび上がる。画面を構成しながら発信される強いイメージが大きな魅力の一つである。(磯部靖)

7室

 小木曽文子「MY WAY」。黒い空間が画面の三分の二ぐらいを占める。上方に白い横断歩道と建物を組み合わせたような幾何学的なフォルムがあらわれる。近景には塀が白い色彩で五角形ぐらいにつくられて、そこに棒が立て掛けられている。手前に人間の内界の陣地のようなものがあって、その向こうに都市の景が浮かび上がってくるといった雰囲気。スリリングでシュールな独特の空間表現。(高山淳)

 小沢一「写景」。マンションのようなフォルムがあって、その上に三角のガラスのようなフォルムの連続した面があらわれている。その面の中に建物の内部や外側のイメージがあらわれる。お互いが連帯しながら集合住宅の中で暮らしている様子。それはそのまま現代の日本の都市の社会構造と共通するものがあるが、そういったイメージを優しい緑のガラスのようなグラデーションの中に暗示的に比喩的に表現する。その光の繊細な三角形の緑の色彩に対して、明暗のコントラストの強い集合住宅のようなフォルムが対照され、都会の明るい部分と暗い部分とが象徴的に表現されるようだ。(高山淳)

 天野仁「迂回して」。掠れるように描かれた情景が、透明感のある水色の色彩によって浮かび上がってくる。画家がこれまで見てきた風景がいくつも組み合わされながら画面を構成している。手前から奥に左にカーヴするような動きがあって、それが作品に一つの動きを作り出している。その中に風が吹き、そういったイメージを運んでくるような様子である。繊細でありながら大胆な描写が鑑賞者の好奇心をそそる。(磯部靖)

 黒田真由美「刻の音色」。グレーの色面が茶色や焦げ茶色の上から掛けられているのだが、風が左右に強く吹いているような雰囲気である。風に吹かれて、たとえば激しく雲が動く中に星がまたたいたり、あるいは昼の月があらわれたりといった、そんな言葉でこの作品の魅力を言うことができるだろうか。あいだに朱色の線や黒い線などが引かれ、ところどころコラージュされた段ボールのギザギザのフォルムも、画面の中の画調を複雑にしている。上方には紙を貼ったあとのようなマチエールも見えるし、紫でバッテンや丸などが入れられている。この心象空間は人間の心の無意識の世界と意識された上部の世界をあらわすようだ。その中に激しく動いていく様子。それはまた音楽の世界と共通するかもしれない。メロディが流れていく中に様々な楽器が鳴り、虚の空間があらわれ、激しく高鳴る高音部に低音部がハーモナイズする。そんな言葉で形容できるかもしれない。いずれにしても、速やかに激しく動いていくなかに、純粋で無垢なもののイメージがまたたく。そのイメージは人間と断絶しているようであるけれども、きわめて人間的な側面をもったイメージの流れと言ってよい。客観的な世界というより、きわめて主観的な画家の心の中を動いていく旋律のごとき、音楽的な空間の造形的表現のように感じられる。(高山淳)

 尾中真理「'15 墟」。大きなコンクリートの塊が暗色をバックに描かれている。二本の柱とその上部を繫ぐようなフォルムである。そのコンクリートの強い存在感に惹き付けられる。グレーの表面には様々なアクセントが付けられていて、それらが実に繊細である。魂のない身体のような雰囲気もあるところが興味深い。存在そのものの定義を問いただすような、強い発信力が魅力である。(磯部靖)

8室

 田内康敬「希望への道」。上方に満月が出ている。中景に建物が横に並んで、窓が見える。石段があって、下方に水が流れているようだ。そんな水と民家と月、そして月の移動していくイメージなどを、渾然とした陰影の中に表現して、雅やかな空間をつくる。寂々たる音楽がきこえてくるようだ。(高山淳)

 黒川和枝「想」。樹木のようなフォルムが上下に貫通している中にたくさんの胞子が集まって、曼陀羅状のフォルムがあらわれる。そういったフォルムが大小あって、夢幻的な雰囲気。樹木の精と言ってよいイメージがそのまま人間のイメージと重なる。(高山淳)

 中田純子「時間のかけら」。夜の街を思わせる様な、賑やかな画面である。人々が行き交い、食事をし、歓談する。そういった、人間の生活の気配が作品の中からしみ出でてくるようだ。強い抽象性を感じさせながら、生き生きとした画面を構築しているところに注目した。(磯部靖)

9室

 中島光榮「蝶の舞う丘」。近景はたくさんの花が咲いている。花の野と言ってよい。そこに色とりどりの蝶が浮かんでいる。微細な花がこの大きな蝶に変身しながら集合しているかのような、華麗で一種シュールな世界。あいだに川が流れている、すこし周りより低い地面があるようで、その場所を渡ると、向こうに赤や青の屋根をもつモダンな建物が緑の野の上に見える。そしてさらにそのもうひとつ向こうに高い山がいくつか聳え、雪を抱いている。山と手前の民家がある緑とのあいだには青い色面が置かれて、そのブルーがそのあいだの空間を隠してはるか向こうに山がのぞき、青い澄んだしっとりとした空が上方に広がっている。だんだんと向こうに行くにしたがって、現世とは異なったもうすこし厳しい、あちらの世界のイメージがあらわれてくるようなところがある。手前のイメージはまさに前述したように蝶と花が満艦飾で、実に楽しい平和で幸せな雰囲気。あるいは、中景の民家のある風景が現実の風景で、向こうに聳える高い山も手前の花の野もあちらの世界に属するものなのかもしれない。そのような深いイメージを源泉にした風景の表現である。(高山淳)

10室

 羽根田英世「ふるさとの地」。羽根田英世というと、藁でできた簾のようなフォルムの向こうに夏の植物が繁茂している絵が浮かぶのだが、この作品はそれと全然異なる。むきだしの地面が向こうまで続いている。向こうには川があるようだ。真ん中あたりに木の柵が立ち、地面に影を捺している。そばには小石や縄や微細なものが散乱している。そういったものまでクリアに描くことによって一つひとつの石やくぼみの中に人間の記憶がわだかまっているような雰囲気。いわば脳髄を思わせるような地面の様子が描かれて、新鮮な雰囲気である。光が当たり、すべてのものがクリアに立ち上がってくるのだが、それが地面を単に描いていると同時に内界にある風景と重なるように表現されているところが優れていると思う。(高山淳)

11室

 鈴置昭「寒凪」。画家の視線は低い。ほとんど地面すれすれのところにあって対象を眺めている。そこには様々な植物が繁茂していて、光が当たり、陰影がつくられる。その複雑な様子を画面の中に拡大するように描く。ミクロな世界とマクロな世界が重なる。(高山淳)

 伊藤郁「コミュニケーション Ⅱ」。管にロープが巻きついている。その中に三つのポイントがつくられ、赤い線で結ばれている。連帯、コミュニケーションのイメージ。左下には四羽の鳩が集まって、お互いに会話をしているようだ。右のほうには孤独な一羽の鳩がとまっている。上方に三羽の鳥が舞っている。舞いながら話をしている様子もある。ロープを管に巻くという面白いアイデア。そんなコンポジションの上に儚い命の連帯を表現する。(高山淳)

 芥川一代「レケイテオの朝」。スペインのバスク地方の街。道の両側に建物がある。どこか日本の建物に似たような雰囲気。あいだの隙間から光線が差し込んで、黄金色に染める。影になっている部分のしっとりとした雰囲気。陰影のなかに光というもののもつ神性ともいうべき性質が引き寄せられる。(高山淳)

 渡辺愛子「富める国の礎」。小さな植物を地面からもいでいる二つの老人の手。下方には植物の葉が連続して描かれている。農作業する老人の手。長いキャリアをもった人の手。ずいぶんしわができていて、そこには経験を重ねてきたこの人の歴史があらわれている。日本はもともと農業国である。大地と付き合いながら生きてきたイメージを象徴的に図像的にリアルに表現する。(高山淳)

 宮﨑禮子「吉野ヶ里幻想―南国の舟に乗りて」。手前にある一艘の舟に脚を上に向けて倒れた鳥が乗っている。周囲にはどこか幻想的な雰囲気が漂っている。死者があの世へと運ばれていくような、神聖な気配も感じられる。祈りとともに魂のやすらぎを願うような、深い感情が鑑賞者を捉えて離さない。(磯部靖)

 木下由美子「卓上の物たち(Ⅱ)」。カラフルな色彩に生気がある。ドライフラワーの入れられた花瓶。手前には王女のような人形が座っている。『アラジンと魔法のランプ』に出てきそうな壺。豊かなイメージのなかに静物を色彩豊かに表現する。王女のような人形の横には白くデコラティヴな衣装を着たもう一人の気品にあふれる、より位の高い王女のようなフォルムも見えて面白い。蔓のような植物が旋回する動きが、心理の綾であると同時に生命の連続した力のような雰囲気もある。(高山淳)

12室

 髙野勝子「バザール」。若い女性が自転車に乗って疾走している。その向こうに三階建て、あるいは四階建ての建物が直方体で描かれている。その手前にたくさんの人々がいるのだが、それは目鼻口が省かれたフォルムの集合として表現されている。空が白く、白い光がわだかまるように差し込んでいる。夕暮れで、背景はだんだんと闇の中にフェードアウトしていくような雰囲気。そんな中に前を向いて真剣な表情で若い女性が自転車をこぐ。生きていることに真剣な一人の女性と社会の曖昧な姿といったものが、一つの画面の中に構成されていると言ってよい。独特のユニークなコンポジションである。(高山淳)

 上山八洲子「ひとりぼっち」。八人ほどの群像。男と女がいて、立っている人もいるし、歩いている人もいる。グレーの微妙なニュアンスの中に人間というものの実存的な姿を表現する。トーンにしみじみとした味わいがある。どこか彫塑を思わせるような造形である。(高山淳)

 宮中千秋「暮雪」。青く風景が染まっている。その中に黄色い道が続いていく。途中で道は青い闇の中に消えている。その向こうに民家を太い線によって表現する。低い山が遠景にある。空は残照の名残の黄金色。ぐいぐいと描きこむ筆力。それによって全体にあらわれるリズムが面白い。(高山淳)

 後藤千恵「夏に想う」。木製の椅子に座った若い女性。対角線に女性のフォルムを入れている。しっかりとしたフォルム。女性を外部から描きながら、内側からこの女性の心を描いているような、そんな深い味わいが印象的である。(高山淳)

13室

 小櫻京子「白い残像・3・11」。画家は二〇一一年三月十一日の津波に衝撃を受けて、繰り返しそのテーマを連作している。今回は白い道が海の向こうに続いている。両側は壊された残骸の山である。海に向かう両側に蜃気楼のようにビルのようなフォルムが見え、何か漂白されたような雰囲気である。あまりにもおきた出来事が激し過ぎるがゆえに画家を蝕んで、このような白々とした空間をつくりだしたと言えばよいのだろうか。(高山淳)

 服部恭子「果樹園」。窓があいて、その向こうに低い樹木が続いている。林檎の木かもわからない。その屈曲した丈の低い裸木の形は、まるで神経細胞がたくさん集合しながら、お互いにそのシナプスが続いていくようなあやしい雰囲気である。遠景にはこんもりとした山がいくつも見え、その向こうには、すこし高いところにある山なのだろう、雪を抱いた山が見える。しんとした肌寒いような空気感のなかに、無言のうちに生きているもののイメージがこの裸木を通してあらわれる。(高山淳)

 山口洋子「壊された平和」。瓦礫の山の中に少女が壺を持って立っている。中東の戦争のなかに生きている少女の像を心をこめて表現する。力強いコンポジションである。(高山淳)

 中條國男「雨上がりのシルエット」準会員推挙。マンションが向こうに並んでいる。広い道で、バスもとまるようだ。横断歩道があって、手前のペイヴメントにシルエットの人々の群れ。コカ・コーラのマークのある自動販売機。都会の夕暮れをしんしんとした気配のなかに表現して、どこかシュールな味わいを醸し出す。(高山淳)

 吉田政巳「恵みは巡る」。左のほうに井戸のようなものがあって、深い群青やセルリアンブルーの色彩によって彩られている。中に流線型の小さな魚がたくさん泳いでいる。その湧き水と思われるところの水が溢れて、右のほうに流れている。そばに小さな植物が緑の葉を茂らせている。井戸の中をのぞきこむと、もうひとつの世界があらわれてくるような神秘的な雰囲気。(高山淳)

 舩越秀忠「悠久の谷 Ⅰ」。グランド・キャニオンを正面から描いている。両側には立ち上がってくる岩肌。その下方を水が流れている。昇った太陽がこの光景を照らして、水を白く輝かせ、崖を赤く照らしている。昔、ネイティヴ・インディアンにとってこのグランド・キャニオンは聖地であったといわれている。観光名所としてではなく、そんな聖地の時のイメージが画面から立ち上がってくるような強い表現になっている。上方の白い太陽の周りのオレンジや黄色の透明な色彩は、まさに水彩ならではの表現である。黒々とした谷の陰影と赤く照らされた崖と白い川がお互いに絡みあいながら、スケールの大きなコンポジションをつくる。深い情感が醸し出される。(高山淳)

14室

 重田恵美子「フェズの裏通り」。フェズはモロッコの街である。土でできた褐色の壁。入口の赤い扉が、半ばあいている。そばに紐が伸びて、赤やピンク、緑の上衣が干されている。その下に自転車。大地の香りが画面から漂ってくる。シャープなフォルムや色彩が面白く構成されていて、不思議な華やぎを見せる。詩情が感じられる。(高山淳)

15室

 浦野昭二「宴のあと」。橋の下に屋形船のようなものがいくつか浮かんでいる。緑の水に抽象的な波紋のような波状のフォルムが重ねられてロマンティックな雰囲気。上方の外灯も黄色い抽象的な円によって連続する。右のほうには三日月が出ている。色彩感覚が優れていて、構成がモダン。(高山淳)

 菊池満子「想い」。画面の向かって右側に、椅子に座った若い男性が描かれている。その左側には、白樺のような樹木が立ち並ぶ風景が見える。男性はそれを眺めながらも、自身の想いに耽っているようだ。輝くような灰白色の色彩を、青みがかった暗色の中で効果的に扱いながら、心象的な情景を描き出している。そういった表現力に注目する。(磯部靖)

16室

 岩永美代子「旅の記憶」。若い女性が立って、両手を首のあたりに置いている。全体にベージュ系の明るい明度のなかに若干紫やオレンジなどの色彩が入れられて、パステルカラーの中に品よく女性のフォルムがつくられる。下方には向かい合う鳥の図像、上方には窓などが描かれて、なにか詩的なイメージ、現実から離れてもう一つの世界を引き寄せようとするかのようなコンポジションになっている。女性のフォルムは端正で、画家が優れたデッサン力をもっていることがわかる。(高山淳)

 人見春雄「NO DRUG」。石を積んだ高い壁。そのベンチに内向的な少年が赤い服を着て座っている。手前に黒い衣装を着た青年が自転車に乗っている。上方には橋がかかっていて、そこにシュミーズ姿の女性の後ろ姿が見える。左のほうには、左手を握りしめたフォルムが大きく図像的に描かれている。壁には大きな落書きが激しいタッチで描かれている。つむじ風が吹いているような激しさであるが、画面の中はしんとして孤独な虚無感のようなものが感じられる。ベンチの赤い服の少年が幽体のような不思議な雰囲気で描かれる。(高山淳)

 吉野勝子「旅路」。女性の頭の後ろに光背のあるマリアのような像があらわれ、オリーヴの木も見える。しっとりとしたグレーやベージュの色調のなかに白いツーピースを着た女性が立っている。イノセントで、純潔な女性のイメージを淡々と描く。単純化されたフォルムが力強い。(高山淳)

 加藤伸「こもれび」。二人の裸婦像である。二人並んで、一人は横座り、一人は足を伸ばして座っている。そのフォルムが優れている。マチエールを工夫して、まるで剝落した壁に描いているような雰囲気になっている。その中からミューズのような二人の女性のかたちが現れてきて、ロマンを漂わせる。(高山淳)

 山竹佳子「かくれんぼ」。「かくれんぼ」という題名だが、描かれているのは、小さな花のようなものが集合している不思議な雰囲気である。その中に几帳のようなものも見えるし、布の掛けられた屛風のようなイメージもあり、地平線が上方にあり、そこにはオレンジ色の光があらわれている。汎神論的なイメージである。華厳経にあるように無数の要素が集合しながら刻々と有力と無力に変化しながら動いていくような世界を、ファンタジックに表現して面白い。(高山淳)

17室

 田辺伝「狂乱」。赤い襦袢を半ば身にまとった様子で半裸体の女性が立って、風のなかに髪を靡かせている。背後は斜面になって、そこに鳥居が連続して描かれている。狂人のイメージを生き生きと描く。よく見ると、女性のフォルムもしっかり描かれているし、構成力もある。赤が強いエモーションを表す。(高山淳)

18室

 一ノ瀬尚文「牛」。七頭ほどの牛が集まってユニークなコンポジションをつくる。アルカイックで、古代の図像的な牛のイメージを引き寄せたかのような面白さである。(高山淳)

第74回創元展

(4月1日~4月13日/国立新美術館)

文/高山淳

1室

 谷貝文恵「プロローグ」。面白いコンポジションである。女性が箱を持って歩いたり座ったりしている。その箱が、その人の記憶であるとか、背負った重荷のようなイメージ。手前に緑のワンピースを着て立っている女性。その後ろに黒いワンピースを着て座っている女性。いずれも箱を持っている。その後ろに何も持たずに単に座っている人がいる。三人の遠近感の中の動き。だんだんとこちらに女性が向かってくるような独特の韻律。左にはマリアの像が置かれている。緑という落ち着いた、すこしエキゾティックな色彩を使いこなしている。その色彩がこのような人生の比喩的な意味合いを表現するのに実に適した感じで使われている。ところどころ明るい雲のようなフォルムが浮かんでいる様子は、この空間の中の気配とか魂とか、そういった形而上的なイメージとして入れられているようだ。そんなイメージがごくしぜんに人物の群像の中に置かれている様子も、この作品のよさだし、面白さと言える。

 前田潤「刻の影」。下方に牛骨と流木のようなフォルム。壊れた車輪。上方から鳥の羽が落ちてくる。影が背後のコンパネふうな緑の空間に映っている。「刻の影」という題名のように刻々と移ろっていく時間のイメージ。そして、その結果、牛の頭もこのような骨になったわけだし、壊れた車輪も同様の時間というものを暗示させる。それが一種幽玄と言ってよいような雅やかな気配のなかに表現されているところが面白い。

 三村浩二「街のかたち」。すこし俯瞰したかたちでこの街を描いている。瓦を積んだ屋根。グレーの壁。中心に鐘楼と思われる教会の塔が聳えている。その周りを囲んだ民家のフォルムが面白く、一つひとつその形を追いながら、全体で回転するような、あるいは円弧を描き左右に動いていくようなリズムをつくる。無機的な建物を構成しながら、一種の音楽的な効果と同時に、存在するもののもつ重量感とそこに差す光を表現する。見ていると、ルネサンスの頃、あるいは中世の音色がそこから聞こえてくるようだ。

 古賀英治「刻の風景」。漁村の群像。上方にテトラポッドが見え、湾には船が繫留されている。手前に潜水用のかぶるものや錘などが置かれて、ずっしりとした存在感を示す。この潜水用のものと、中景の漁師たちの様子を見ると、やはり二〇一一年三月の津波に対する深い思いがしぜんと画面から漂ってくる。近景、中景、遠景と、しっかりとしたコンポジションの中に空間が表現されると同時に、深い寓意性を感じる。

 小川尊一「野バラ咲く」。石を積んだ塀の上に女性が座って、右手をついて顔をひねって遠くを眺めている。後ろに白い野薔薇が満開の様子。その明るい緑と白い野薔薇の花とが、この女性を背後から荘厳しているような雰囲気。あるいは、女性のしっかりとしたフォルムと野薔薇のフォルム、色彩が対照されて、独特の華やぎが生まれる。若い女性の全身のかたちが実にしっかりと表現されている。それは一種彫刻的と言ってよいほどの筆力で描かれている。青春のモニュマンのようなイメージが立ち上がる。

 倉林愛二郎「刻(家族)」。部屋の扉があけられて、三つの部屋が連結されて、独特の奥行が生まれる。その中に緑のガラスの浮き玉が置かれているのだが、実はそれは向こうから転がってきて、いま手前にあるというかたちでラインが引かれているのが面白い。静中の動と言ってよい。独特のトリックをこの室内に仕掛けた表現になっているところが面白い。

 松﨑良夫「壮麗・高野山西塔」。この西塔はインドのストゥーパのイメージをよく伝えた木造建築である。そんな西塔を正面から描いて、独特の存在感があらわれる。細密に対象のフォルムを追って、いかにもこの画家らしい緻密な表現である。

 沼田久雪「シンフォニー」。独特の感覚のよさである。上方はウルトラマリンやピンクの色彩。それから緑が入れられ、下方になると柔らかなグレーとブルー。中心に大きな波紋があらわれる。水に映った景色というシチュエーションだが、一種抽象画と言って差し支えないぐらいの色のバランス、奥行がある。とくに手前の空の映っている様子は、奥行があって、水というより、そこに空があらわれたかのような深さがある。中心に波紋が広がり、不思議な動きをつくる。画家は音楽が好きなようだ。画面全体は、音楽でいえば複雑な和音によって組み立てられているという言い方もできる。そこにメロディが鳴り、その結果が中心の波紋となってあらわれた。そのメロディのバックに低音部から高音部までの音が響いているといった形容もできるかもしれない。

 池上わかな「above」。樹木の立ち並んでいるあいだに散乱しているものは廃棄物のようだ。その廃棄物の上に雪が積もって、不思議な幻想的な光景があらわれる。廃棄物と樹木の取り合わせも不思議であるが、それも雪化粧によってもうひとつの別のものに変容する。そういった中に女性が立って上方を眺めているといったシチュエーション。優れた筆力によって形象をぐいぐいと描きこむ。その力を駆使しての独特の幻想と言ってよい。

 福島保典「反射の中」。両側に男と女がいる。男は黒い帽子をかぶり、女は目を見開いて驚いている様子。両手を広げている。あいだに子供がいて、頰杖をつきながら夫婦のその会話を聞いているような雰囲気。段ボールを板の上に貼り、その上から絵具を置く。それによって独特のマットな感じと強いマチエールが生まれる。心の中の問答、あるいはイメージの世界を三人の人物によって表現する。優れたコンポジションだし、独特のエスプリと言ってよい。フォルムが一種図像的な力を獲得している。

 小柴悦子「斬創漁港」。電信柱が立ち上がり、電線が伸びていく。そんな向こうに大きな看板があらわれ、その大きな看板のような矩形のフォルムにライトレッドが入れられて、実に強い印象である。はるか向こうからこだましてくるものを画家はゲットして、それを絵に描いたような臨場感がある。そのこだましてくるものは、目に見えるものというより、全身で感じとるもの。それを絵画の中に表現する力がある。

 林田博子「AFTERNOON」。ノンシャランな雰囲気のなかに不思議な気品がある。丸いテーブルの上に白い皿。中に柘榴のような果実。白いティーカップ、あるいは絵皿。ピンクの肘掛け椅子。カーテンの向こうにヨーロッパの風景があらわれる。暖炉の上にある香水瓶や時計。右下の床のピンクの部分が大きくあけられているのも、空間の配置として優れている。赤系の色彩と緑系の色彩が静かに響き合う。「AFTERNOON」という題名のように、午後の閑寂のなかに休息感と充足感が感じられる。

2室

 小田昇「片岩」。千畳敷きのような岩の表面を見せる片岩の様子。水が鏡のように澄んでいる。そこの枯れたような木の枝の上に黒い鳥がとまっている。この片岩ができて何億年も時間が経過したようなあやしい雰囲気と静かな鏡のような水。そこに生きているものの象徴として鳥を配して、独特の情景である。

 宇野彰「静かな日」文部科学大臣賞。女性が座っている様子をすこし横から描いている。柔らかなベージュ、緑、ピンクなどのハーフトーンを組み合わせながら、パステルカラーによる表現。指や首、頤などに褐色の線が入れられている。ハイヒールを履いて、ワンピースをまとっている。柔らかな調子のなかにゆらめくような動きが感じられる。甘美な表現。

 三井桂「明けゆく」。黒いバックに月見草の黄色い花が咲いている。それが実に鮮やかで、その花の画面の中の位置に独特のリズムがある。可憐でありながら絢爛とした雰囲気で、見事なコンポジションになっている。

 北島精六「薔薇と少女」。白いイヴニングドレスのような衣装をまとった女性が立っている。妖精のような雰囲気で女神のようでもある。風に白い衣装が靡いている。それを薔薇の花が囲んでいる。画家の心がつくりだした耽美的な花。

 本村浩章「角島の海」。残照の空と海である。岩に波が寄せて白い波頭を上げている。その波の様子が筆による大きなストロークによって表現されている。岩の中でたゆたう波のかたちが生き生きとしている。永遠に繰り返すような趣。筆によるストロークに深い味わいが感じられる。また、対岸の陸のようにも島のようにも見えるフォルムの右側に水平線があって、そのあたりのインディゴふうな青と空との境目が面白く、そこまでの海の距離感がよく表現されているところもこの作品の魅力。

 大木美智子「記憶」。黒いワンピースを着た女性が立っている。おかっぱふうな黒髪の女性で、大きく目を見開いている。不思議な雰囲気。下方の植物に黒い蝶がとまっている。背後の緑の樹木や塔のある建物。背後はヨーロッパの風景のようだ。大正ロマンといった言葉が浮かぶ。エキゾティックな香りが画面から漂ってくるような深く繊細なイメージである。

 島﨑庸夫「業」。二人の女性が喧嘩をしている。向かって右の女性は子供を逆さに吊り下げている。その子供に向かって左の女性は怒っている。顔を真っ赤にしているから、子供の母親なのかもわからない。子供の悪戯というものによって二人の女性がいがみ合っているのかもしれない。子供は両手を前に出して虚ろな目つき。激しく怒る若い女性と子供を吊るしたもうすこし年上の祖母のような女性。怒る女性の向こうにくねくねとした僧侶のような姿が見える。巻き舌を出してこの様子を盗み見しているようだ。画家は坊主が嫌いである。坊主は偽善者のように思う。その偽善者の姿が悪魔のようにこの女の向こうにいて、この光景を眺めている。女のもつ業というものは偽善さえも押し退けて、激しい情動をつくりだす。背後は赤が使われて、その中にウルトラマリンのようなブルー。夕闇のイメージ。向かって右のほうには女性の横顔が見えるのだが、赤とグレーによってできていて、まるで日没時の風景のようだ。怒っている女性の広げた手がまるで歌舞伎「勧進帳」の手のような面白さで表現される。諍いというもの。終わることのない怒り。怒っている女性の後ろに風神のもつ袋のようなものが描かれているのも面白い。この袋から怒りが出て、止まることがあるのだろうか。右のほうには夕方の風景がそのまま女の顔になったようなフォルムが見える。風景が人間化してあらわれた不思議さ。この光景を眺める僧侶の様子。この前は僧侶がストリップ劇場の中でかぶりつきのところにいたが、この女同士の諍いをこの男は眺めて、その馬鹿馬鹿しさに舌を出しているといったことになるのだろうか。イノセントな子供の両手を上げた虚無的な姿。それぞれのフォルムがひとつの性格を表し、ドラマが進行する様子。そのような造形表現の面白さ。

 守屋順吉「火焰山」。火焰山はシルクロードの途中にある山である。三蔵法師の話の中に出てくることで有名である。これまでキジルなどの洞窟の中にある仏教壁画を描いてきたが、火焰山を背景にしてお坊さんを描いた。筆力が感じられる。モデルはタイでスケッチしたそうだ。花を持ったこの青年僧には不思議な存在感が感じられる。画家の祈りの心持ちが画面の背後にあって、それが独特のこのようなモニュマンとしてのコンポジションをつくりだしたものと思われる。赤い火焰山にオレンジ色の僧衣、そして白い花が清らかにハーモナイズする。油絵らしい、ねっとりとしたマチエールが面白い。強い存在感が感じられる。

 工藤和男「舞」。八岐大蛇を退治する神楽である。八岐大蛇の胴が何重にも巻いて、上方に頭が見える。刀を持って向かい合うスサノオノミコト。救われた娘。ほっとした母親と思われる二人の老婆。向こうには演出家のような男が座っている。ぐいぐいと描きこんで、独特の筆力のうえにあらわれてくる神楽の生気ある表現である。画家は郷里の大分に戻り、大分の神楽をテーマにした。長く見慣れたイタリアや、あるいは日本の漁師の風景とは異なった、いわば民話をもとにした神楽のもつ熱気をぐいぐいとした筆力のなかに表現して、独特のダイナミズムをつくる。

 山岸忠彦「卓上静物」。矩形の緑のテーブル。後ろに車輪がある。テーブルの上にランプ、白い高坏の上に葡萄や林檎、赤いマツバガニ、ウニ、イワシのような干物などが置かれている。白いワイングラスの中の青い色彩。独特の生気が感じられる。それぞれのものを自由に配置しながら、布置をつくる。床や壁やテーブルの緑が深く、海のようなイメージを連想させる。その中にそれぞれのものが一種結晶したようなイメージをたたえて描かれている。とくに大きな目のイワシのような干物がユーモラスで、生き生きとしたアクセントになっている。

3室

 髙塚照恵「あなたを信じる」。床の上にヴィーナス誕生の有名なレリーフの模刻と思われるものが置かれている。それを背景にして、ターバンを巻いた黒人の男。その台座に「forgive me」、私を許せという言葉が見える。紫陽花のような花がかなりドライフラワー化されて、緑の壺に差されている。向かって右のほうには黄金色の車があって、その把手に緑の小鳥がとまっている。グレーの中に緑がファンタジックにエレガントに使われている。黒人の胸像のそばにランプがあって、ランプの中に赤い色彩が入れられ、燃えているようだ。静かな中に祈るような心持ち。精神の深い緊張が伝わってくる。

 松島明子「わんだふるな夜」。赤ワインのグラスを持つ女性。そばの椅子に犬がいて、テーブルに前足を置いている。洋梨とさくらんぼのようなもの。後ろには水をついでいる金髪の女性。カウンターの向こうには白髯の男。イメージに従ってフォルムが生まれ、お互いに響き合う。茶系や黄土の色彩の上に緑や黄色、ピンクなどの色彩が置かれる。それらはすべて固有色でありながら、独特の色彩効果を表す。三人の男女のフォルムが優れていて、生き生きとした生命感を表す。

 増田萬珠子「想」。頰杖をついた女性。そばにチェロのようなフォルムの一部が見える。ブルーがかったグレー。ほんのりとしたピンク色。柔らかなハーフトーンの中に音楽が鳴る。

 原田守啓「蘇州老街裏」。白い漆喰の壁。褐色の瓦。窓があけられていて、中は緑や赤の色彩。まるで建物が人間で、窓が目のような雰囲気。柔らかな調子のなかに建物がイメージ豊かに描かれる。

 鈴木静枝「やさしい夢」。椅子の背に手を置いて、そこに頰をのせて眠っているかのような女性。そばの鳥籠には鳥がいない。後ろの引き戸があけられて、庭には緑のインコのようなつがいの鳥がとまっている。赤く紅葉したような葉。淡々とこの光景を描きながら、詩情を醸し出す。

 高田宏「ワイン’ズ カウンター」。カウンターの向こうにいる女性とこちらにいる女性。赤ワインのグラスを手に持っている。柔らかな光が差し込んでいる。赤い花が咲いた植木鉢。この二人の女性はどんな関係なのだろうか。室内の閉じられた空間の中に二人の女性が微笑んでいる様子が、謎めいた感じで表現される。

4室

 並河委佐子「暮色」。これまでの川沿いの家から一転して、駅がテーマになった。三本の電車がこちらに向かって、いま停留されている。上方の高架に左右に広がるフォルム。その遠景に建物やビルの姿がシルエットふうに表現されている。独特のシャープな形。すこし汚したような色彩に生活感がある。グレーの空の曇った調子。それに対して、下方の地面の赤茶色の調子の中に黄色やオレンジ色の電車の色彩。グレーと色彩とが絡み合いながら、独特の詩情ともいうべきものを醸し出す。ぐいぐいと描き起こしたフォルムに不思議な動きが感じられる。

 青沼美智子「THE SUBSTANCE」。サブスタンスとは実体といった意味である。記号的なフォルムが上下にあるが、上方に人間の横顔と手のような形が見える。厚いマチエール。黒白の中に厚く盛り上げた絵具の上からグラッシした色彩。実存的な強さをもつ人間のイメージ。

 田中晶子「ぷかぷか。」。シロクマが泳いでいる。水が青く、その揺れる様子をよく表現する。その中に顔をすこし出してシロクマが泳いでいる様子が、ゆったりとした調子のなかに描かれる。青と白の色彩の対比。ポップふうな明るいイメージのなかにフォルムが浮かび上がる。

 中島洋一「二羽の鳥」。上方に二つの目のようなものが見え、それがぐるぐると渦巻いたかたちでフォルムが伸びている。下方には巻貝のようなかたち。その横には教会の内部を思わせるような紡錘状の空間。白と黒の世界の中でぐいぐいと曲線を使いながら、独特の生命感やエネルギーをもつフォルムをつくり、構成する。現実を超えて、もうひとつ向こうのエネルギーを手前に引き寄せるような力が感じられる。

 暁和子「二月(Ⅱ)」会員新人賞。白い仮面をかぶった男。手前のテーブルの上の赤い箱。矩形をいくつも重ねたようなフォルム。手前には雲のようなフォルムが浮かび上がり、中心に赤い色彩が点じられている。二月。まだ寒い時期であるが、この空間はエネルギッシュで、独特のパッションに満ちている。

 笠原淑子「くちなし」。三人の裸婦。いちばん左は横向きで、その肩に手を当てて立っている真ん中の女性の横から見たフォルム。向かって右は正面向きの女性が立っている。三人の女性の、まるでパントマイムを思わせるようなしぐさ。言葉には表現できない繊細なイメージが画面から伝わってくる。人と人との深い連帯感や関係性といったものが、この優れた裸婦のフォルムの組み合わせによって表現される。

5室

 宮本悟「夕月」。黒いカウンターのあるバーの中。ホステス、あるいはマダムがカウンターの向こうにいて、手にタバコを持っている。手前には客の背中が見える。五人ほどの客。手の形、背中の表情、あるいはこちらを向いたマダムの目や唇、手の表情などのディテールが面白い。黒い背景の中に顔や手のディテールが浮かび上がる。左上方に窓があって、窓の向こうには路地が見え、そこに若いカップルが立っている様子が描かれている。看板なども面白くそこにアレンジされて、独特の物語が画面から伝わってくる。背中を見せる男たちの表情も独特のもので、不思議な現実感が感じられる。

 小川尚子「悠久の刻」。逆円錐状のフォルムの上方にはしわができて、山と谷のようなイメージ。ところが、それはグラスのように下方の地面に置かれている。地面の向こうは海のようなかたちになり、雲のようなものが浮かんでいる。不思議な幻想感である。ちょうどグラスの中をのぞきこむと、その中に風景が見えてきて、テーブルの向こうに海が広がるといった、そんな様子を面白くヴィヴィッドに表現する。

 横森秀彦「聞こえる」。画面の真ん中に赤い袖なしのワンピースを着た女性が立って、耳のそばに手を広げて、何かを聴こうとしているようだ。宇宙とチャネリングしているような雰囲気。様々な音がイメージがこの女性のほうに集まってきている。それは青い色彩の中に様々な図像として表現される。まるでこの女性の分身のように、上方に黄金色の満月が輝いているが、その様子は太陽のイメージと重なる。下方の白と黒の市松状の床の両側には三角形の石があり、その向こうに草原が広がっている。画家は一種の瞑想のなかにいるようだ。室内で描きながら、集中しながらイメージを引き寄せ、このような光景をつくりだした。独特のコンポジションであるが、両側の三角形の不思議な岩があらわれているところがとくに面白く感じられる。

 小林真由子「ホテルモリエール'15」。赤いソファに寝そべって上を向いている女。壁の中に猫の顔が描かれた絵。なにか呪術的なイメージを画面に引き寄せようとするかのようだ。猫とこの女性とは深い親和関係のなかに存在する。

 長谷川暢子「季」。向日葵が枯れている。ドライフラワー化している。高い茎としおれた花の様子。そのデッサンともドローイングともいえる黒いフォルムが生き生きとしている。厚く塗られた緑の手触りのあるバックの上にコンテで描いたようなそのフォルムが、独特のイメージを発信する。

6室

 小野寺正光「そよ風の誘い」。五人の若い女性たち。中心の女性は赤いイヴニングドレス。それぞれファッショナブルな様子をした女性たち。窓の向こうには画家が繰り返し描く矢切の渡しが見え、白い船が繫留されている。優しい、女性のイメージ。そのロマンティックな表情が魅力。

 加藤仁史「穏やかな日」。だんだんと地面が高くなって、その上は畑になっているようだ。いちばん上方に民家が見え、そばに高い樹木が聳えている。途中は何もなく上方だけに葉の茂る不思議な黒い樹木。すこし紅葉している。右のほうには水が流れているようだ。全体にリズムがある。そのリズムの中に田舎のある情景が表現される。その韻律ともいうべきものが心地よいし、魅力である。

7室

 小林麗「坂道のカフェ」。独特の色彩家だと思う。グレーや茶、黄色、緑などの色彩が生き生きと使われている。階段が構成のポイントになっている。正面のペナコッテという文字の書かれた美術館。モディリアーニのポスターが貼られている。一階はレストランになっているようで、手前に食卓があり、メニューを見ている男。とじられたカフェの傘。画家はお気に入りのものをここに集めながら、楽しい独特のリズムやハーモニーをつくる。現実がそのまま楽しいファンタジーに化すようだ。

 菅沼ミツ子「スタジオで」。レオタード姿の女性が座って、足に手を置いて屈伸運動のような準備体操をしようとしている。その姿をすこし後ろから眺めている。女性のフォルムが優れている。生きた肉体のもつその存在感がよく表現されている。

 服部譲司「春を待つ」。安曇野の風景だろう。まだ雪をかぶった田圃。向こうにアルプスが見える。しっとりとしたグレーの中にそれぞれの絵具がそれぞれの位置に置かれて、実に見事。朝日がいま出てきて、向こうの山をピンクに染めている。左のほうの山の端のピンクと呼応する。霧の動いている様子が、この静かな風景の中にムーヴマンを与える。

9室

 早野禎「洞窟住居」。マテーラの街の一角だろうか。巨大な入口が下方に描かれているが、その奥は山の裾で、洞穴になっているのだろう。長い時代のなかで醸し出された独特の雰囲気が画面の中に表現されていると思う。

 堂野前良子「北海道の夏」中野和高賞。白い花が群生している様子を丹念に描いて、その中にある動き、茎や葉のディテールまでも表現する。手前にはもっと大きな葉の草が生え、背後には樹木が緑の葉を茂らせている。柔らかな光線と緑が複雑な韻律をなす中に、光と戯れるかのような花の群生した様子が生き生きとして、上品で、その柔らかな白い色彩が実に魅力的である。

 篠崎京子「春隣」。若い女性が赤いスカートの上に両手を置いて椅子に座っている。上衣はグレーで黒髪の、目のぱっちりとした、いかにも日本的な顔立ちのふっくらとした女性であるが、その全体の量感がよく表現されている。また、座った自然体のなかにある女性のムーヴマンともいうべきものもよく描かれ、静かにこの女性の呼吸しているようなニュアンスまでも画面に描きとられているところに感心する。

10室

 渡辺正幸「古村遠望」準会員賞。イタリアの風景のようだ。グレーの壁に瓦屋根の建物がずっと続いて、遠景には鐘楼のある建物が見え、その背後は畑になって、柔らかな緑の色彩がそこに置かれて、地平線まで続いている。光が透明で、光自体に一種の魅力が感じられる。その光は屋根や壁を照らし、反射して、鑑賞者の目にそれが伝わってくるわけだが、その複雑なベージュの変化の中に清潔できらきらとした魅力がある。淡々とこの集落を描きながら、そこに差す光を見事に表現する。

 島袋恵子「琉舞 かせかけ」。これから踊ろうとする直前の女性の姿。ピンとした緊張感がある。赤い襦袢のような衣装にカラフルな着物が掛けられている。後ろは鏡で、背後が映っている。明るい色彩のハーモニーの中に女性の踊り子の姿が生き生きと表現されている。

 松田和子「時空の記憶・Ⅱ」。三人の男の子と女の子がまるで七五三のときのような服装で描かれている。それはモノトーンの中に線描きで描かれていて、記憶の中に浮かび上がってくる姿のようだ。面白いのは、三人の子供を囲むようにエジプトの壁画に出てくる女神の姿があらわれていること。エジプトの壁画は黄泉の国と生きている国の二つの世界を描いている。その女神に囲まれるように、この小さな子供たちの姿がイノセントな雰囲気で浮かび上がっているところが面白い。幼年という二度と返らない時代を貴重なものとして画家はここに描く。

 石川賢「早春賦」。十代の二人の姉妹か友達と思われる少女が向かい合って立っている。草を手に持って会話をしている。周りに白い鳩が舞っている。百合の白い花も咲いている。川が流れ、中景にはあずまやのようなものが見える。早春といってもほとんど春の日差しが差しているようだ。十代のこの少女を画家はいとおしく描く。青春というものの輝きを表現する。

 坂本ふみ「赤い屋根の下で」。民家のあいだの小さな広場にテーブルがあって、そこに女性たちが座って話をしている様子。上からそんな情景を眺めている。明るい光線が差し込んで、オレンジやピンクの屋根瓦と明るい乾いたベージュの地面が光の中に浮かび上がってくる。その色彩感覚と線によるフォルムの扱いが生き生きとして、独特のリズムが感じられる。

 森忠郎「追憶の光(足尾)」。足尾銅山の内部にわらじ履きの男が手拭いを頭に巻いて座って新聞を読んでいる。そばのトロッコに明治20年という文字が見える。左上方には亡くなったたくさんの人々の姿が亡霊のように浮かんでいる。足尾銅山は江戸時代に盛んに銅を産出した有名な銅山だが、一時鉱脈が掘り尽くされて衰退して、明治になり古河市兵衛が新しい鉱脈を発見して、近代的な発掘方法で銅を採掘したのだが、鉱毒事件を起こしたことで有名である。この絵の中には最初に鉱毒事件が起きる頃の雰囲気が描かれていて、面白い。採掘をする仕事を人力で行っていた頃の様子。つるはしにわらじ履き、桶などがあって、新聞ははじめて公害のことを報じているのだろうか。緑をベースにしながら褐色や黄土の色彩を入れて、ゆったりとした落ち着いた雰囲気のなかでこの足尾銅山の内部が描かれているところが面白い。

 大原瑩子「天翔ける人、人」損保ジャパン日本興亜美術財団賞。水墨ふうな表現で、二人の人間が両手を上げている。どこか埴輪を思わせるようなフォルムで、ノスタルジックなイメージが漂う。

 石井洋子「ある情景」。女性のトルソらしきものが画面のほぼ真ん中すこし左に置かれ、右手を曲げて指が上方をさしている。そばにサボテンが置かれている。手前には切断されたトルソの腕。青い色面は空を表すのだろうか。朱色が画面の中で相当の面積を占めている。燦々と差す太陽の中に伸びていくサボテンの生命感。その中でパントマイムをするようなトルソの姿。自問自答しながら絵を描く画家自身の姿を暗示するようだ。フォルムとマチエールが強い。ぐいぐいと描きこむことによって、独特の生命感が生まれる。形にリズムが生まれ、それが生気を引き寄せる。

11室

 宮本浩司「小さな教会(Ⅰ)」。川に面した教会。壁のグレーにすこし緑がかった調子。空も緑がかったグレーで、全体に緑がかったグレーの複雑なニュアンスの中にこの建物は描かれている。しっとりとした雰囲気で、心の中にある風景のように教会を描いているところが面白い。

12室

 水谷秀男「民家眠る時」。雪景である。ふかぶかと雪が積もっている。その屋根の上の雪の様子や、あいだに電車のようなものが雪に埋もれている様子。裸木が枝を広げ、電信柱が立って、道がカーヴする。なにかノスタルジーを感じさせるような懐かしさ。色彩も、白の中にすこしブルーが入って、あいだに赤や黄色が入れられ、独特のハーモニーをつくる。

 加藤木誠「ススキの野」。手前にススキが群生していて、その穂の髪の毛のようなかたちがジョンブリヤン系の色彩で面白く表現されている。風が吹いているようだ。中景はカーヴする道で、道のそばに緑の屋根をもった小さな小屋のような建物。遠景は松林のような雰囲気。空にオレンジ色の雲が出ているから、夕方なのだろうか。ぐいぐいと描いて、繰り返されるストロークの結果、リズムが生まれる。油絵らしいねっとりとしたマチエールと色彩の輝きが魅力。

 水野美智子「集落」。建物と建物のあいだの道。だんだんと下降していく。建物は漆喰のようなオレンジ色の壁に瓦屋根が置かれている。すこし上から俯瞰したかたちで眺めていて、瓦屋根と壁とが面白いかたちで組みあいながら、独特のリズムをつくる。上方は暗く、近景の光が側面に当たっているあたりの様子が暗い部分と対照されて、不思議な華やぎをつくりだす。

13室

 園田隆則「轍」創元会次賞。水彩作品で、「轍」「高原」という二点が陳列されている。「轍」は、車がスクラップされている場所を描いている。自動車やクレーン車。散乱する解体された車が白々としたトーンの中に生き生きとしている。ドライでシャープな中に独特の動きがあらわれて、その動きが一種の情感とか詩情といったものを引き寄せる。それに対して「高原」は、北海道なのだろうか。サイロのような建物と低い瓦屋根の建物が目を引く。それが中景にあり、あいだを道が蛇行しながらはるか向こうに続いている。遠景には岩山が見えるといったパノラマ風景で、光の扱いが優れている。

 山中さとゑ「スペイン・秋光」。カトリックの教会の中のステンドグラスを描いている。ブルーの花のような窓。垂直に立ち上がる中に赤を主調色に緑などの色彩の入れられたステンドグラス。そばには逆に緑が主調色となったステンドグラスの中にオレンジ色が見える。そんないくつかのステンドグラスが濃紺の空間の中に鮮やかに浮かび上がるように描かれている。左には細長い窓があって、白い光が入ってきている。教会の宗教的空間のなかにステンドグラスが輝いている様子が、しみじみとした感情のなかに表現されて独特である。そのステンドグラスの青、赤、緑などの色彩が形而上的なイメージを伝える。

14室

 伊藤田鶴子「五十集(いさば)」。五十集とは市場の魚を売る人や売る店のことを言うそうだ。大きな白いベージュの魚の尾を持った女性の全身像である。不思議な存在感が感じられる。顔が大きく、体は小さく、どこか妖精的なイメージもある。裸足で魚をぶら下げるというアイデアが面白く、魅力を放つ。

15室

 谷口洋子「凪の向こうへ」。すこし地面が上りになっていて、両側に白い壁の建物が立っている。空は青く、白い雲が出ている。しーんとした気配である。土のもつ感触と白い壁、青い空の、地中海のようなイメージが響き合いながら、モダンな中にミステリアスな雰囲気をつくる。

22室

 阿万孝司「樹」。五十メートルほどある大木が肖像のように画面の中心に描かれている。この大木の大きさを示すように下方に中年の夫婦が立っている。二人は外国人のようだ。カラフルな赤い縞模様の上着が、この渋い色彩の中でアクセントになっている。いずれにしても、樹木のもつ存在感、そのフォルム、そのボリューム感がこの作品の見所である。明るいベージュの空が下方にいくにしたがって輝いているのは、その向こうに光があるからで、一種の樹木の光背のようなイメージもそこにはあらわれている。

23室

 吉野高秋「夜半の月」。漁師町だろうか。道のそばはすぐ湾になっていて、ボートや漁船が係留されている。一階や二階建ての建物が続く背後は低い山である。満月が出て星がきらめいている。電信柱が一つ立っている様子が、独特の存在感とアクセントになっている。この夜の景色を画家は絵具を重ねながら描きこんで、ずっしりとした存在感があらわれる。と同時にグレーの中に微妙なニュアンスがあらわれて、繊細な色彩感覚を見せる。沈んだ無言の建物。月と星が輝く。

24室

 松岡隆成「渓谷」。ペインティングナイフで絵具を重ねて盛り上げて、色彩に輝きがあらわれる。褐色の岩のあいだを水が流れ、小さな滝のようになっている。岩のもつ存在感に対して、流れていく水の清冽なイメージが対比され、それを色彩によって表現する。水の動きが鑑賞のポイントである。

25室

 松浦藍「在りし日のゆくえ」。地面に若い女性が座っている。なにか放心の表情で、気でも狂ったような雰囲気。そばに丸太を組んだ木馬が二つあって、そのあいだに座っているのだが、あやしい雰囲気である。人間の心理の面白さをよく表現する。

 あんね・さんじゃがーな「月の小路」柏賞。階段を下りていくと石造りの建物の入口になり、外灯がついている。そこからすこし階段を上って路地を歩む道がある。そういったところを上方から眺めた線による表現である。繊細な画面の表情と光の扱いが優れている。不思議なメロディが画面から聞こえてくるような心持ちになる。

 佐藤太一「青年Ⅱ(Let it be)」柏賞。厚く塗られた絵具が重ねられて、密度のある画面があらわれる。ドラマーが描かれている。スティックを持って座っている男。暖色系の色彩を使いこなしながら、独特の存在感を表現する。

 殿坂友里恵「都市進行」会友賞。赤と緑の色彩をうまく使って華やかな雰囲気。横断歩道を渡る人。鑑賞者のほうを眺める若い女性。疾走する車やトラック。都会の一隅を生き生きとしたリズムのなかに表現する。

 齋藤均「水鏡」会友賞。池に木立の影が映っている。木の枝が水面から突き出ている場所。水紋がいくつか見えるのは、何かの落ちたあとだろうか。曇り空の中の木立の色彩。水面が賑やかで、様々なものがそこに映り虚像をつくると同時に、実際に存在するものが入れられて、独特のハーモニーをつくる。

 平野克己「刻の記憶」会友賞。川の向こうには建物が立ち、階段を上っていくと大きな洋館が見える。手前にシーラカンスの巨大なフォルムが浮かんでいる。ねっとりとした独特の油絵のマチエールのもつ質感。シーラカンスは何万年も前に死に絶えたといわれる魚で、肺があって、魚の最初のかたちだという。そんな長い時間に対してこの建物のすこし崩壊したような古い集落が対比され、街の歴史ともっと長い魚の時間とが対比される。グレーに独特のニュアンスがある。

 松永佳江「立春」柏賞。オレンジ色の光が画面に満ちていて、幸せな雰囲気のなかに懐かしい感情が重なって感じられる。木立のかたちが面白い。幹から枝にわたるフォルムをよく見ながら、なにか人間的な雰囲気である。その上方の紅葉した葉の色彩がお互いにハーモナイズしながら、独特のメロディがそこから聞こえてくるようだ。

 清水敦子「彩りの街」。様々な絨毯が掛けられている天井の高い室内に、青い衣服を着た女性が座っている。この店のマダムだろうか。空間の広がり、大きさとその色彩の面白さ。エキゾティックな魅力がある。

第68回示現会展

(4月1日~4月13日/国立新美術館)

文/高山淳

1室

 正木茂「モンマルトルの扉」。石畳の道。右のほうがすこし下がっている。そこに白い石を積んだ壁があり、青い扉がある。正面からそれを描いている。椅子が四脚ほど出ていて、そばの椅子にオレンジ色の激しい色彩が置かれている。それが動きを表す。不思議な気配が画面からあらわれているところが面白い。扉はその内側と外側の境界領域だが、それを描きながら、このモンマルトルの街の音や声を聞いているかのような雰囲気。

 武敏夫「追想」。スペインのある街を旅行したときの思い出を描いたという。テントの下に人々が集まってお互いに会話をしたりしている。市場のイメージ。それを背景にして、若い女性が立って物思いにふけっている。そのフォルムが一種彫刻的な強さを見せる。テントの後方には白い建物が集合し、鐘楼のようなもの、教会のようなフォルムが浮かび上がる。青い空に白い雲。記憶の霧が取り払われて光景が浮かび上がってきたような臨場感がある。

 佐藤祐治「城壁の丘と村」。石を積んだ城壁の中には瓦屋根の民家が点々とあり、その向こうにお城が見える。そばには教会らしき建物。手前の民家。一つひとつ丹念に描きながら、まるで画面の中に画家自身がこの街をつくっているかのごとき感がある。一種刺繡をするような丹念さでフォルムをつくりながら、独特の韻律、あるいは総合的な集落としてのハーモニーやリズムを画面の中につくりだす。そして、そこからなにか物語らしきものが生まれつつあるような雰囲気。

 武田敏雄「羽黒山五重塔」。縦長の画面のすこし左寄りに五重塔が立っている。その手前に太い杉の木が何本も伸びている。五重塔も高いが、それ以上に杉の木の圧倒的な存在感が表現されている。一メートルも二メートルも雪が積もっている様子で、雪のふかぶかとした様子が独特のトーンをつくる。杉の枝にも雪が積もっているようで、その樹木に積もる雪と地面に積もる雪、屋根に積もる雪が対比されながら、いわば雪が花のように画面全体を覆っている。そんな中に深々とした歴史をもつ五重塔が聳えている。左右に向かって奥に上方に反りのある屋根の形。その五つの連続する形。木造建築で、素朴でありながら優雅な独特の霊的な雰囲気がよく描かれている。この五重塔の表現にはずいぶん気をつかったものと思われる。下から上方を眺めているその形の連続した、いわばメロディの鳴るような形。あるいはリズム。しんしんとした雪の中の五重塔の姿。これまでの山を描いていた表現から羽黒山にテーマを移した、いわばプロローグともいうべき作品。

 鈴木實「太い木と、白い流れと」。奥入瀬を描いたものである。S字形に水が波頭を立てて激しく流れている。右ではすこし滝のようになって落ちている。その水の清冽な姿がこの作品のポイントだと思う。両側に太い樹木の幹とまだ若い幹とが描かれて、そのあいだの樹木はすこし紅葉している。深い山の中の様子。その中を流れる清冽な水が命というもののもつイメージをしぜんと暗示させる。画家の詩情がこの水に集約されてあらわれているようだ。また、手前の太い幹は相当の樹齢で、そこに過ごした樹の年輪といったものが暗示される。

 樋口洋「おたる」。まぶしいような雪景色。線路の上に新雪が積もっている。燦々とそこに光が差している。赤い電車が一両そこにいて、蒸気を上げて動いている。左のホームの、影になっているところに駅員がその後ろ姿を見せる。遠景には山の斜面があり、その下方には建物がたくさん立っている。そんなものを背景にして茶褐色の古いビルの形。明暗のコントラストが実に見事で、線路の上の新雪を背景にした赤い電車が実に生き生きと表現されている。いま蒸気の立っている姿は現在進行形の時間を表し、独特の臨場感が感じられる。小樽の古い建物がこの新雪の風景のそばにあって、すこし落とした調子のなかにしっかりと描かれている。小樽という街の独特の表情をそこに描く。

 成田禎介「連峰と山上池景」。真ん中に緑の不思議な湖がある。その周りにはびっしりと植物や樹木が育っていて、もう春がそこに来たようだ。背後の黒い山。高い山にはまだ雪が積もっている。青い空に雲が浮かんでいる。無人の光景が幻想感のなかに描かれる。そのままファンタジーの世界に引き込まれるような自然のあやしい魅力をよく表現する。

 井上武「都市の景」。この前、日展だったと思うが、隅田川のアサヒビールの看板のある景色を描いたことがあるが、この作品も手前の川は隅田川だろうか。緑の橋がそこを渡っている。それに対して左の対岸の上方に高速道路がかかって伸びている。上方にビルが立ち上がる。そんな情景をぐいぐいとした線によって表現する。線は白や黒や自由に色彩を使いながら空間の中を横切っていく。その伸び伸びとしたストロークが心地よいし、それ自体の呪術的な動きが画面を活性化させる。そういったストロークが、白い空の上方の雲の中ではまるで音楽をそこに表現したような不思議な味わいで描かれている。風景から受けるインスピレーションを抽象的なフォルムとして空の上に描く。その伸び伸びとした色彩や太いグレーの線などは実に面白く、それらが相まって下方の具体的なかたちに対して抽象性を獲得する。そこに下町のうたともいうべきものが生まれる。そこにはまた生活感のようなものが感じられる。画家は名所のようなものを描かず、人間くさい都市を描く。そこに生活する人々の生命力ともいうべきものが画家をインスパイアし、独特の生気ある風景表現にするのだろう。その造形を見ていると、伸び伸びとした琳派の世界を思わせるところがある。

 瀧井利子「父のいた作業場 待つ」文部科学大臣賞。テーブルの上のものたちを描いていたが、今回は緑の椅子の上に眼鏡と手袋、青い上衣と帽子。まるで父の匂いをかいでいるかのように犬がそのそばに横になっている。塗りこまれたマチエールが独特で、そこからこの渋いなかに輝きのある色彩と密度のある空間が生まれる。

 錦織重治「澄光・乗鞍岳」。雪をかぶった地面や山。新雪の表情が独特で、風が吹くとその雪が散って動いていく。そこに光が当たり、きらきらと輝くような景色が生まれる。中景の雑木の紫色を帯びた色彩の層と青みがかった雪の白とが生き生きと対照される。上方を見ると空は青く、あまりに明るいために暗く見えるような、そんな臨場感のある表現である。

 秋山範子「浅き春」示現会賞。漆の和テーブルの上に白磁が置かれ、椿が一輪。これから出す手紙だろうか。まだ封がされていず、切手が二枚。障子の下はガラス窓になっていて、その向こうに雪の積もった風景が見える。北の風土で日常的に見られる光景を淡々と描いて、不思議なときめきのような空間をつくる。光の扱いが優れている。

 中西敦「使徒達の午後」。上方に教会が聳える。ゴシックふうの建物である。手前に雪の積もった道が下降している。轍が見える。犬を連れた女性の後ろ姿。教会と道とのあいだには建物があるのだが、その一つひとつを丁寧に描きながら、屋根から出た煙突が独特のリズムをつくる。ヨーロッパの物語がここからしぜんと紡がれるような、そういったファンタジックな空間が独特の構成の中に表現される。

 中井悦子「レインフォレスト」。タイの女性だろうか。果物の入れられた鉢を持って座っている。その端正な女性の姿、フォルムに気品がある。芭蕉のような大きな葉が背後にいくつも茎から出ていて、それらが雨の中に煙るようだ。そのしっとりとした背後の情景と白い上衣を着た女性のもつノーブルな雰囲気が対照される。大きな目をして、すこしほほえんだかのような女性の顔、その姿が実に魅力的に表現されている。

 小材啓治「石武人の立つ古墳」。首から上がない武人の埴輪。背後は朱色で、二重丸の図像などが浮かび上がる。九州熊本のチブサン古墳からイメージしたような呪術的な壁面を背景にして武人のトルソが浮かび上がり、独特の存在感を表す。念力的な波動が画面から伝わってくる。

 徳田則子「緑陰」。白い植物の花に手を上げて触っている女性。そばに座って白い花を持っている女性がいる。大きな緑の葉の植物の中にいる二人の女性が一種妖精的に表現される。緑の扱いが魅力である。

 遠山厚史「秋の階」。学校の一隅だろうか。階段の途中で本を持っている少女。大きなガラス窓の向こうに運動場が見え、校舎が見える。建物の内部構造を使いながら、独特のコンポジションをつくる。外の風景と内側の空間とがお互いに呼応しながら、きらきらとした広がりのある空間をつくる。空間のシチュエーションのつくり方が面白い。

 渡邊正博「落ち葉」準会員推挙。木のそばで上体をすこしかがめた女性のフォルム。頭にスカーフを巻いて白いブラウスにオレンジ色のスカートをはいた女性はファッショナブル。その様子を気品豊かに表現する。画家独特の洗練された美意識が画面から伝わってくるところが面白い。実際そのような一種風俗的な魅力をもつ女性の美の表現と言ってよい。

 鎌田雅臣「春来」準会員推挙。広いベッドに浅く腰掛けた若い母親。そのそばに一歳ぐらいの女の子がちょこんと座って、この母親を眺めている。その二人のコミュニケーションする様子が愛らしく描かれているし、手や目のディテールが実に生き生きとした表現になっている。

2室

 林勝彦「日差し」。洋梨やヴァイオリンなどのあいだにフランス人形が座っている。その柔らかな紫色の衣装をつけた人形のあどけない姿が淡々と描かれて、不思議なロマンを醸し出す。上方の画面の約半分を占めるレースのカーテンの、色彩を含んだような独特のトーンもまた魅力で、繊細な色彩感覚の持ち主であると思う。

 石山実「山裾の冬日」。田圃に雪が積もっている。それによって、この地面の段差、その形がよく浮かび上がってくる。山裾に民家が点々と建てられている。その後ろは針葉樹の雑木になっている。さらに背後は霧がかかっているような山の斜面。日本の里の光景をしっかりと描く。雑草の一つひとつまでも見逃さずに画面の中に配置しながら、強い深いムーヴマンを表現しているところがこの作品の魅力。コンポジションも優れている。

 平野真司「刻 No.2」。錆びた金属の扉。倉庫なのだろう。その前に同じように錆びたドラム缶があって、折れた木材が入れられている。そこに一羽のカラスがとまっている。これほど赤錆が出てくるには何十年もの歳月が過ぎたと思うのだが、そこにきょうの陽が当たり、カラスが遠くを眺めている。カラスという生き物と錆びた金属とが面白く対照される。

 永江咲紀子「春日奥山の仏」。柔らかなグレーの空間のなかに結跏趺坐した仏の像。そばにもう一体の仏がうっすらと見える。線描きによって表現されている。衣が赤い。ずいぶん古びた像を、画家はこの油彩画の中に表現する。まるで長い歴史のなかから浮かび上がってくるような仏の姿。

 波多野雅子「偲(有明)」。有明海を背景にして、小屋の中の木の棒に網のようなものが掛けられている。有明海は今ずいぶん寂れている。かつて漁が盛んであった有明を偲ぶような気持ちから、このような光景が描かれたのだろうか。独特のコンポジションで、手前の白と赤褐色の色彩がまるで破れた心のように表現されている。

3室

 玉谷明美「日溜り」。アーチの向こうに石でできた建物がある。床も石でできていて、そのあいだを漆喰で固めてある。レストランかギャラリーになっているのか、入口の上方にカンテラのような外灯がつけられている。それに対して、その入口のそばの大きな石の上に植木鉢が置かれている。入口を入ると、室内の天井に照明灯がつけられ、白い椅子がのぞく。クラシックな雰囲気をつくりだす一つひとつのものを画家はよく捉えて、それを画面の中に描いて物語をつくろうとする。単に客観的に石造りのお城の一部のような建物を描いているだけではなく、そこに営まれる人間の気配ともいうべきものを描いているところから、この独特の親和力が生まれるのだと思う。

 百瀬太虚「清風」。山の中の川の透明な水の様子をよく表現する。あまり水量はなく、水底の様子が浮かび上がってくる。上方には雪をかぶった岩山ともいうべき姿があらわれ、青い空がその上方に見える。河岸には芽吹いたばかりのような初々しい緑の葉をつけた樹木が並んでいる。初春の頃の高山の光景を繊細に生き生きと描く。

 藤井敦「海辺」。石段を一つひとつ下りていく老婆。腰をかがめて杖を持っている。後ろに猫がついてきている。漁村の一隅の景色。石垣や瓦屋根などの朴訥な表現も魅力だが、階段を下りるこの婦人の後ろ姿が繊細で生き生きとした表情を見せる。

 小材啓子「大地へかえる」。巨大な向日葵が地面の上に倒れている。その量感のあるかたち、屈曲した太い幹と黒くなりつつある花びら。まるで地に崩れた向日葵が炎となって燃えつつあり、だんだんと炭色になっていくような気配がある。遠景の黒い山やそのあいだの丈の高い植物。黄土色の地面の様子。コクのある色彩の中に密度のある空間をつくり、土にかえりつつある向日葵の姿をパッショネートに表現する。

 森本まり子「川沿い」。川沿いの古い建物。水が澄んでいて、ほんのすこしの風に波を見せる。青い空。ブルーを主調としたひっそりとしたなかに、川沿いのこの下町の建物の様子を描いて深い情感を醸し出す。

 唐木妙「アポロとダフネ」準会員推挙。ダフネを追うアポロ。ダフネは結果、月桂樹に変化する。その大理石の像を描いている。優れたデッサン力がうかがえる。

 柴田百合子「蒼春」。椅子に座っている青年。フローリングの床。ガラス窓の紗のカーテン。そこから白い光が漏れてくる。ほとんどモノトーンの中の青年の姿。そのディテールが繊細で、情感がそこにあらわれる。光のもつ陰影の表情をよく表現する。

4室

 杉山淑子「コブシ咲く頃」。コブシの白い花が咲いている。巨大な樹木の幹の上に五匹の猫がいるのも不思議である。手前に二匹の猫がいるのだが、地面を歩いているというより、宙を動いているようなあやしい雰囲気である。猫のもつ不思議な直感的な独特な雰囲気を、コブシの樹木と花を背景にして実に生き生きと描く。画家と猫との関係が強く、亡くなった飼い猫もここに現れているかのような、ヴィヴィッドな表現になっている。

 渡邉とめ子「都会 2」。新宿から見た光景だろうか。NTTドコモの高いビルの周りにビルが立ち並んでいる様子を褐色の中に表現する。左上方はもっと小さな建物が密集しているような雰囲気で、手前は大きなフォルムの連結になっている。建物の大小を面白く扱いながら、そこに光をあてて詩情を表現する。ベージュや褐色、紫色っぽい色彩。中に黒が入って、お洒落なセンスがその色彩に感じられる。

 堤敏朗「憩うライダーたち」。スペインの風景だろうか。石でできた舗道。古い教会を思わせる建物。その石段のところに四人の男女が腰掛け、長身の男が立っている。そばにバイクがある。右上方には龕のようなものがあり、そこに聖人の物語が描かれている。その下方、右のほうにもバイクがある。燦々と日がここに注ぐ。それぞれのディテールがクリアに立ち上がってくる。そのディテールの中に独特の生気があらわれる。光の扱いも巧みであるし、左下に寄せた人間たちのフォルムの大きさと建物全体の大きさとの対照、あいだにそれをつなぐバイクの形、見事な造形的コンポジションである。

5室

 周天龍「古きを訪ねて」。木造の建物。高床式というのだろうか、一階は柱のみで、その上に二階、三階、四階の建物があり、それが密集している様子は独特である。下方は運河で、一艘の船にカラフルな衣装をまとった人が立っている。生活感と歴史のあるこの街の様子を淡々と描く。そのディテールの力によって、歴史という時間を積み重ねた存在感がしぜんと鑑賞者に訴えてくる。

 宇賀治徹男「堤外地(なごり雪)」。向こうに土手が左右に通っている。そこは雪が積もっていて、白く輝いている。そこから手前まで、「堤外地」という題名のあるように雑草が生えた地面がむきだしの場所で、丈の高い植物や低い雑草などが生えて、人の通った跡の道のようなものもあらわれ、一部雪が積もっている。土手の向こうには雑木が左右に生えていて、空は明るいベージュ色に輝いている。光線が美しい。一種逆光の風景だが、手前まで浸透してくるような光の性質に独特のものが感じられる。水彩であるがゆえに表現できる透明感と繊細さと言ってよいかもしれない。骨格のしっかりとした風景のコンポジションの上に光がのせられているところが優れている。

 江本智美「バイバイ」。スカーフを頭に巻いた女性がこちらを向きながら、視線はすこし右のほうを見て手を振っている。後ろは海で、波が寄せている。夕日が対岸の山近くあって、海を赤く染めている。海には鳥が海面近く飛んでいる。夕日の赤と海の緑、そして逆光の中の女性の赤く縁取られたようなその色彩。お互いがハーモナイズして、独特の深い感情を表す。ノスタルジックでもあるし、無限の前に腕を振っているような、そんな雰囲気。色彩が繊細で、一種哀愁と言ってよいような色調を表す。また、抑えられた赤のもつ純粋な性質には西方浄土を思わせるようなイメージも感じられる。

 西川きみ枝「華」。二人の花魁の姿。顔と手には彩色しているが、衣装は黒一色。髪飾りは黄金色に、あるいは花模様の白で、色彩を数少なくすることによって、逆に色彩の効果が上がる。二人の花魁の哀愁を帯びた妖しい表情が画面から浮かび上がる。

 森脇位泰「刻」。石畳の道がずっと向こうに続いている。左下がりの道が、手前からだんだんと高くなっていく。はるか向こうまで続いている。両側の壁と建物。二つの建物をつなぐ通路のような橋のような骨格。深い陰影に彩られたベージュの色彩。歴史のなかに存在するこの街の様子を、深い陰影のなかに表現する。

6室

 湯淺廸哉「若狭路冬」。若狭の海が背後にあり、波が寄せている。自然木でつくった小屋の中にボートが置かれている。周りに褐色の錘のようなものや網がのぞく。ぐいぐいと描きこむ筆力。海を相手に長く労働してきた漁師の生活がちらつくような表現である。緑の暗い空とインディゴのような海の白い波頭を立ててこちらに向かってくる様子には、自然のもつ強い存在感が感じられる。それに対して雪をかぶった小屋とボートには不思議な明るさがあり、そこを日が照らしている様子で、風景と人間のつくった世界とが強いコントラストを見せる。

 中川澄子「風跡」。最近フランスの修道院を繰り返し描いている。ピレネー山脈の麓にあるそうだ。石でできた厚い壁の前に二つの聖人と思われる全身の像がある。一体は女性で一体は男性のようだ。画家独特の紫がかったグレーのトーンの中に、しっかりとその二体の彫刻を表現する。中にオレンジや朱色が入っていて、深い感情を表す。壁の向こうは民家で、樹木が立ち、花が咲いている。遠景には山がピンクやオレンジ色の柔らかな色調の中に空間に溶け込むように表現されている。不思議な安息感がある。このカソリックの修道院あるいは教会は、やはり日常生活から人々を引き離して不思議な安息感に導くのだろう。時間の流れや空間のクオリティが画面の中にしっかりと描かれていて、鑑賞者をそこに誘うようだ。

 桜井淑子「少年とことり」。白いテーブルの前に椅子を置いて少年が座っている。テーブルには鳥籠がある。六羽の鳥が外に出ている。オレンジ、黄色、青の鳥が実に魅力的。色彩を見ていると、魂の色彩といった言葉が浮かぶ。周りの黄色い色彩や黄色と白の椅子、黒いポットなども、画面の中の構成要素として優れた表情を見せるが、白いテーブルの上の六羽の鳥の不思議な存在感と色彩に感心した。

 宮定真弓「ピエロとオルガン」。オルガンを弾くピエロ。中年の男性で、帽子と長いコートを羽織っている。楽譜を前にしてオルガンを弾く様子は、人生のもの悲しい旋律が画面から聞こえてくるような雰囲気である。

 内海義子「旅立2015」。散った桜の花びらが池に積もっている。池は紫色の色彩で、深い、独特の表情を見せる。両側に枝垂れ桜。池の向こうにも桜が咲いている。春の一刻。風のない穏やかな日の陶然とした空間。

 江口登「遺跡のある路地裏」。ほとんどナイフによる仕事で、堅牢なマチエールがつくられている。石造りの建物。石を敷いた道。その石の表情を一つひとつ測るように描いていく。杖をついた女性が歩いていく。その後ろ姿。後ろに小犬がいる。そう思って画面を見ていると、二階のテラスに花が置かれているのが瑞々しいアクセントになっていることがわかる。静かな透明な光が画面に差し込んで、ヨーロッパの日常がしっかりと画面の中に描きこまれる。

 髙橋正則「冬晴れ」会員推挙。轍が見える道路がカーヴしている。麓には十ぐらいの民家が点々と見える。その向こうは山で、ずいぶん高い山らしい。その山は雪が積もってきらきらと白く輝いている。その神々しい様子と地面に積もった雪とが対照される。強い臨場感のある表現。

7室

 加古博美「アルバイシン」。アルバイシンはスペインのグラナダの町。砂利を固めた路地の両側に漆喰を塗った壁が続いている。そこに鳥や猫などの落書きがされている。繊細で強い表現。グレーがそれぞれの壁の位置となって物質化されて、繊細で堅牢なニュアンスを醸し出す。壁にかかれた落書きが生き生きとしたアクセントになっている。

 深井佐恵美「ブルードーム」。白い壁の建物が続いている。イタリアの地中海に面した町だろうか。その中に青い丸屋根をもった建物が画面の中心的役割をなして、構図を引き締めている。清潔な白のヴァリエーションに対して、緑や茶のヴァリエーションが両側にあって、お互いにハーモナイズする。遠景の紫がかった山が脇役として存在感を放つ。緑がかった空が画面全体を引き締める。

 五十嵐絵里子「朝影」。ヴェニスの風景。中景にゴンドラが運河に浮いている。その向こうの橋。すこし靄がかかっているような雰囲気。空はオレンジ色で、いま朝日がこのヴェニスを照らしている。無人の中にカンツォーネでも聞こえてきそうなロマンティックなニュアンスが醸し出される。

8室

 阪本由捷「揺光」。緑の葉の茂った鬱蒼とした樹木のあいだから、木漏れ日が地面に差している。そんな小道を歩いていくと、山門が見える。瓦屋根に漆喰の塀。緑の複雑な階調の中に一つひとつのものをしっかりと描き、奥行を表現する。優れたデッサン力である。

 髙橋晃「小樽倉庫 No.1」。石を積んだ壁に緑の屋根。入口もそれぞれ修復されて、お洒落な雰囲気の元倉庫。手前に白い布の置かれた丸いテーブルに向かい合わせの赤い椅子。妖精的なファンタジックな空間がここに生まれる。色も独特であるし、とくに近景の向かい合わせの赤い椅子などは心憎いアクセントになっている。

 畔上正夫「春を待つ山里」。近景の葉の落ちた大木の枝を広げている様子。中景の丈の低い灌木と雪の積もった民家。遠景の高い山は真っ白く雪化粧である。ほとんどモノトーンに近い表現の中に独特の詩情を表現する。

10室

 穴吹哲二郎「関門夕景」。太陽が低い位置にあって、風景を赤く照らしている。対岸の高い塔やビル。そして関門海峡を船が何艘か静かに進んでいる。赤に不思議な魅力が感じられる。ノスタルジックな感情を引き起こすような赤の表現に注目した。

 山岡健造「残雪」。川のそばの道と建物。建物のそばに高い鉄塔が立って、その向こうに冠雪の山が見える。静かな雰囲気のなかにしっとりとした情感を醸し出す。

 武田滋「或る街の一隅〈友〉」。石でできた階段の上に少年が二人座って会話をしている。後ろのベージュの壁。そばの下降していく路地。街の片隅の表情を丹念に描きながら、会話をして笑っている二人の少年を生き生きと描く。

11室

 山崎谷間「山路」。石を地面に埋めた舗道が向こうまで続いている両脇に、樹木が立っている。手前の樹木は裸木で、葉がついていない。その向こうは緑の葉。その向こうは針葉樹のような趣。しっかりと一つひとつ触るように描いて、堅牢な空間が生まれている。

13室

 山岸深志「村の広場」。ペインティングナイフをうまく使って重厚感がある。赤い煉瓦の塀の手前の人々。その煉瓦の向こうはこちらより低地になっている。そこにテントが出ていて、馬車も見える。お祭りだろうか。周りを囲む家々のオレンジ色の屋根とグレーやベージュの壁、緑の樹木。お互いが静かに響き合う。お祭りのプロローグといった時間帯のなかのヨーロッパのある街の光景である。

16室

 小林年子「バス・ストップ」。赤、黄色、白などの色彩が、彩度を落としたり上げたり、明度も変化させながら、お互いにハーモナイズする。自動販売機のそばにタバコを売っている店がある。手前にバス停の標識。後ろには高層ビル。残照のオレンジ色の空。

17室

 多田敬子「クロガネモチの木」。丈は高くないが、左右に枝が伸びている。赤い花が咲いている。その屈曲した幹から枝にわたるかたちをよく表現して、そこに透明水彩の絵具を置く。絵具が重ねられて複雑なニュアンスのなかに表現される。透明水彩独特の光を感じさせるような色彩効果。そして、屈曲するこの木の様子を見ると、人間を見ているような生き生きとした表情になっている。

18室

 千田秀子「御手の中」佳作賞。巨大な杉の木なのだろうか。しかし、屈曲する枝がその巨大な幹から伸びているから、杉ではなく、別の木なのかもしれない。その枝があやしい雰囲気である。手前と後ろの三本の樹木の幹から枝が出ている様子は、まるで千手観音のような雰囲気である。その枝が有名で、「御手」という題名の言葉が生まれたのだろうか。ユニークな強い表現である。

 坂井たかし「渓音」佳作賞。山の中を渓流が流れている。近景はざわざわと波頭が立って、白いしぶきが上がっている様子。中景は一瞬時が止まったように深い淵のような雰囲気で、緑色。その遠景はまた波立っている。両側に岩や石が迫っている。上方には初夏の緑を思わせるような色彩。透明な光が差し込んで、画面全体をきらきらと輝かす。水の動きの中に清涼な空気感や光をよく表現している。

 砂子精一「三寺詣り」。川沿いにテーブルを長く置いて、そこに蠟燭をともして女性たちが合掌している。和服姿である。街灯が点々とともっている。日本のどこの街なのだろうか。大正時代に戻ったような雰囲気で、女性たちの後ろの男の外套の姿も二重回しといった様子。青みがかったグレーがかった空や水の中に女性たちの衣装が華やかで、蠟燭がまたたいている様子は深いレクイエムの表現のように思われる。四年前の津波に対する鎮魂の心持ちもあるのだろうか。あるいは、「三寺詣り」という題名のように、お盆などに行われる風俗だろうか。水彩であるが、しっかりとフォルムが描かれているために重厚感があり、奥行が感じられる。

19室

 佐藤辰男「淡墨桜」。千年以上の樹齢をもつという淡墨桜。その桜に正面から挑んでいる。ほぼ満開の花をつけた様子で、淡墨桜を包みこむ空間もよく表現されている。白い花が高貴な雰囲気。画面の下方を見ると、広がる幹の向こうに山道が蛇行している様子が描かれているのも、この作品の奥行をつくりだしている。

21室

 有川峯子「栞の麓駅」。中景にはカーヴする道(線路にも見える)。赤い屋根の家が点々とある。近景はそこより地面が高く、すこし紅葉した雑木が生えている。そのカーヴした道の向こうもまた小高い山になっている。さらにその背後は高い山で雪が積もっているのだが、そこからいま日が昇りつつあるような神々しい雰囲気。山の端に太陽がかかっている。油彩画で表現した水墨的空間と言ってよいかもしれない。ノスタルジックな気配もまたこの作品の魅力だろう。

22室

 竹村律子「午後のひととき」。キッチンで女性が丸い椅子に座ってこちらを見ている。エプロンをして、白い上衣に緑のスカート。後ろの青みがかったグレーや褐色も、全体がハーフトーンの色彩と言ってよい。自然体の動きのなかに品のよい手触りのある表現になっている。

28室

 星野正治「冬景」。中景は平野で、川が流れている向こうに点々と建物が立っている。遠景は高い山脈で、雪をかぶっているところに光が当たりきらきらと輝いている。明度は逆に中景より遠景のほうが高い。その二つの光の対照とクリアなフォルム。近景は低い山がおむすびのようなフォルムを見せる。コンポジションが面白い。

 福本一枝「画室の向日葵」。イーゼルの前に革の重厚感のある茶色いトランクがある。その上に枯れた向日葵がいくつも置かれている。向日葵も重量感がある。暖色を使いながら対象をしっかりと描いて、安心感が感じられる。

29室

 小泉幸雄「暮れなずむ」。外灯がともっている。漆喰の壁。屋根から煙突が見える。南欧の風景だろうか。犬の後ろ姿がシルエットになって、道の端にいる。空が赤く、その色彩が深い感情を表す。

 三浦和昭「Sunday」。オートバイの部品を修理している青年。背後にモダンな流線型のオートバイのフォルムが描かれ、手前にしゃがんで作業をする青年。そばに工具などが置かれている。作業する青年の姿とメカニックなオートバイのフォルムとが面白くコントラストされる。

 太田佳代子「afternoon8」。青年がしゃがんでいる手前に犬が伸びをしている。あいだにコーラの瓶や看板などが置かれて、柔らかな朝の光線のような光が浸透する。色彩は繊細。そのなかで犬と青年のほうはむしろ影が薄く、瓶や看板などが強くその存在を主張する。メランコリックな雰囲気のなかの一情景。

 月安一男「灯」。ターバンのような雰囲気で髪にシルクを巻いた若い女性の横からのフォルムが生き生きとしている。目や口、手のディテールもよいし、大きなボリューム感がある。どこか夢見がちな少女のようす。燭台に蠟燭が一本立ち、燃えている。大地的な色彩の中に揺れる蠟燭の炎と女性の横顔がロマンティックに表現される。

 下関正義「愁」。しっとりとした情感のなかに、晩秋の落ち葉が積もった地面のそばの二人の男女。遠景には教会のようなフォルムが霞んで見える。霧の中の風景のようだ。物語が進行しつつあるような文学性が興味深い。

 藤島廣司「白粧、種差海岸」。激しく風が吹いて、それにつれて波が騒いでいる。低い地面に雪が積もって、うねるような起伏。そして、上方には雲が低く、全体で不穏な雰囲気のなかに激しく渦巻くようなパッションが感じられる。低くウミネコが飛んでいる様子もこの風景の一部となっている。

第65回モダンアート展

(4月1日~4月16日/東京都美術館)

文/高山淳・編集部

1室

 望月文人「On Under the Ground and the Water.」。やはり四年前の津波の災害のイメージだろうか。いまも原発の汚染水は絶たれておらず、地下水に流れているという。水道の蛇口やパイプを画面にコラージュし、カレンダーを置き、下方の汚染され積もった地下から、何かもわもわと禍々しいものが立ち上がってくる。カレンダーにバッテンがつけられて、その日が過ぎていったことが描かれている。なにか悲しいモニュマンのようなイメージが、鑑賞者に語りかけてくる。(高山淳)

 山田展也「風の景〈月光〉」。画家は北海道の北東端、網走のそばに生まれた。敗戦後、国境を越えてソ連兵が侵入してくるという噂も立ったという。そういった境界領域の中で思考してきた空間が表現されている。そういった恐ろしさは、たとえば今回の津波によって原発事故が起きたのだが、その恐怖の臨場体験のようなものに想像力がいく。国境で経験したことがそのようなところにしぜんとその想像力の触手が伸びる。画家の視点はずいぶん低い。五つのブロックが宙に浮いているように見える。地面の中に埋もれているのだろうが、画面の中では浮かんでいるように感じられる。厳重に蓋をしたブロックである。厳重に封印したそのブロックのもつ重い存在感が、この作品の中では宙に浮いていて、そのアンビバレントな雰囲気が面白い。地平線の向こうにも白い塊、箱が一部のぞく。上方に夜空があって星が浮かび、そこに飛行機の軌跡のようなフォルムが繰り返し遠近感の中に表現され、それらはクロスする。この空間は地上から海のほうを眺めているのか、海のほうから地上を眺めているのか、定かでないところがある。あるいは、こちらから向こうを眺めているのか、向こうからこちらを眺めているのかと言い換えてもよいのだが、境界の向こうに一部のぞく白い建物のような直方体は、とくにそのような雰囲気で、こちらから向こうを向いて眺めていたのが、いつの間にか向こうからこちらを眺めているといった視点。それによって地面の上に確たる存在感をもっていたものが宙に浮いて、なんとも不安な雰囲気になった。その不安感こそが、この作品のテーマのようだ。しかも、月の光がこの直方体を照らし、不思議なブルーに染めている。月夜の幻想。外界にあったものが実は内界の世界。画家は内界に浮遊するものを落ち着かせようと試みながら絵に表現した。その浮遊するものをしっかりとした布置の中に置こうという画家の希望、まるで中原中也がうたったように、到達しえない「無限の前に腕を振る」ような心持ちを、この直方体のブロックを使いながら表現したという言い方もできるかもしれない。(高山淳)

 野口眞木雄「崩壊(追懐)」。巨大な岩、あるいはすべての鉄が溶解したような塊が宙に浮いている。激しいエネルギーによって変形した塊が近景と中景に二つ、浮いている。下方は建物が続く静かで平和な集落である。津波は一時、四十メートル、五十メートルの高さで東北を襲ったという。それによって船さえも浜辺に引き揚げられ、壊された。そういった激しいエネルギーをこのようなコンポジションの中に表現し、四年前の津波を追想する。(高山淳)

 中井幸一「化粧する女」。女性の、すこし横から見たシルエットがあって、その中心あたりに一つの目が大きく描かれている。その周りは万華鏡のような赤や黄色、緑の色彩である。目は口ほどにものをいうという言葉があるが、女性をシルエットの横顔にして、目だけをピックアップし、その目を万華鏡の中心に置くというユニークなコンポジションである。(高山淳)

 鵜木かおる「私の温室」。豆の様な楕円がある。その中にいくつかの生命が宿っていて、中心には大きな双葉が芽生えている。またこの楕円空間自体も、大きな植物から育った果実か花であるように描かれている。植物を糧に新たな植物が育つという生命の再生・循環を、温室と名付けられたイメージの空間の中で表現している。(紺世邦章)

2室

 村田とも子「トルソ '15 背背・影」。井戸から水を汲み上げるポンプが、昔は家の前にあった。そのポンプをロールシャッハのように中心から左右に重ねて離したようなフォルムがある。不思議なことに、それが真ん中では人間のトルソのようにあらわれている。中心は黒く抜かれていて、それが深い井戸の中につながる水路のようなイメージを表す。人間という一人の存在は、その父母、祖父母、連綿と続いている命の連続のなかにあるわけで、その時間の流れのようなものも、このトルソのようなフォルムにあらわれているから不思議である。(高山淳)

 桜井武人「風化の詩 15C」。藤色の岩壁の中に、二つの洞穴がある。洞穴の中は虹色で、不穏な空気が感じられる。洞穴には生物のような球体がデジタルコラージュのように並べられている。球体には目あるいは口のような器官が付いている。それは閉じられていて休眠しているようでもあるが、個々の球体に意識があって、この洞穴の中で何かを思念しているような気配もある。球体が活性化すると、何か事件が起こりそうな危うさがある。一人の人間か、あるいはもっと大きな社会の要素の反逆の予感を、洞穴と球体のユニークな構成のなかに表現しているようにも感じられる。(紺世邦章)

 石川忠一「ある家族の肖像〈2011・3・11に祝福を!〉」。この家族は津波の被害を逃れることができて、生き残ったのだろう。その助かった命を喜んでいるようだ。いちばん中心にいるのは父親のようで、そばに母親がいて、母親の胸に子供が抱きついて上を眺めている。もう一人、姉のようなイメージなのだが、年上の子供が父親の腕に抱かれて横を向いている。中心には口をあけて正面の上を向いた男性の像が見える。その四体で不思議な花のようなフォルムをつくっている。家族曼陀羅と言ってよいかもしれない。背後には十字形に緑の色面があらわれ、そのあいだに青紫の空があらわれ、下方にオレンジ色の色面があらわれている。夜が後退し、希望の光に満ちた朝が始まったといったイメージになる。上方にはもう一つの月を思わせるようなフォルムの一部が見える。緑の十字がふかぶかとした色彩でこの家族を癒すようだ。生きていることの喜びをかみしめるコンポジション。そして、十字と花弁、あるいは円形の曼陀羅と十字という元型的なコンポジションによる表現で、きわめて強い力を発する。しかも、日の出を背負った家族像である。白いフォルムは四人の体を表すのだが、そこに淡くピンク色の色彩が可憐で、命というもののもつ優しい、もろい性質を表すようだ。白がこの四人の命の輝きを端的に表すようだ。(高山淳)

3室

 大辻紀子「カーニバル」。青い背景の中に、輪を主にした様々な形が交錯して並べられている。それらは左から右へ、赤から黄色のグラデーションで表現されている。その上に白い円形がいくつか描かれ、画面が単調にならないようにアクセントになっている。形全体が水の中を泳いでいくような流動感に注目した。(紺世邦章)

 鈴木田俊二「ある出会い 2015」。砂を使って、二羽の鳥が出会う場面を描いている。左には、黄、緑、赤の羽を持った赤いくちばしの鳥が描かれている。右側の鳥は、灰色のベールに包まれているようにも見えるが、透けて見える姿からは左の鳥とも近種のようにも思われる。この出会いには温和な雰囲気が漂っていて、それを茶系統の砂のグラデーションで表現している。(紺世邦章)

4室

 加藤勝久「白い影―画室の森―」。白い角柱の上には切断された樹木の幹と枝。角柱にはセミの抜け殻が見える。上方には果実が茎につけられて垂れている。そばには鳥の羽も見える。鳥の羽や枯れた果実や幹などを緻密に描きながら、その背後にかつてあったそれらが生えていた場所、森の気配を画面に引き寄せようとする。画面全体は白い空間で、そこにものの影が捺されているのだが、白い空間自体がその向こうにもう一つの森の存在を予想させるかのような、そういったヴィジョンを画家は平面の上に描こうとしているところが興味深い。(高山淳)

 三宅正広「GUSTO-REST」。銀箔で作られた四角形が重なっていて、その上に青い直線が引かれている。右上には、焦がしたような跡がある。gustoには「味」という意味がある。銀箔を食卓と椅子と見ると、青い直線は椅子に腰かけて食事をとる人間のようである。直線的なフォルムがおもしろい。(紺世邦章)

5室

 島田毅「魑魅魍魎壊」。黒い背景の中に、白からベージュで描かれた無数の鳥か魚のような生物が密集している。生物の目にはブルーベリーのような実の写真がコラージュされていて、その実の房も画面中心付近にコラージュされて、生物の卵のようにも見える。その上にある網もコラージュである。何かの拍子で爆発的に発生した生物がフェンスを破って四散していくような、そんなエネルギーのある作品である。(紺世邦章)

 中村啓子「もう一つの時間」。縦長の画面の内部に二つの矩形を重ねている。手前の矩形は青みがかった縦長の長方形で、そこの中心あたりに七つの正方形を横に並べている。左から三つ目はすこし周りより大きく、すこし上方にずれている。下方には白い矩形とごく細長い矩形が置かれ、細長い矩形は画面の下辺から伸びて、下辺から青、緑、黄色という色彩。そこにともしびが灯っているような雰囲気があらわれる。繊細な中に生き生きとしたイメージがあらわれる。不思議と光を感じるところが面白い。光の効果によって陰翳礼讃ともいうべきニュアンスがあらわれ、左下の蠟燭が灯ったような矩形はまた植物などが生きて光合成を行っているような、そういった植物的なイメージも感じられる。「もう一つの時間」という題名のように、人間的な時間とは違ったもう一つの生きている地球の世界の生き物たちのイメージを、抽象形態の中に構成したように感じられる。(高山淳)

 石橋美由紀「森の祈り」。一種の曼陀羅構図になっている。中心に植物の花のようなイメージ。そこから鳥が飛んで動いていく。花が鳥になる。花の中にフクロウの顔が見えて、それが鑑賞者のほうを眺めている。まさに題名のように森の中の命を画面の中に表現し、その命を守ろうとするかのような独特のコンポジションである。(高山淳)

6室

 佐藤素康「9月8日 虹とスーパームーンの日」。画面の上方に虹が立っている。上方ではその向こうに満月があらわれている。下方には家を思わせるようなフォルムや立方体や三角の赤い色面。その両側に、たとえばオリーヴの葉のような植物の茎と葉を図像化したフォルムがあらわれる。燦々と光がここに当たり、植物は光を吸収し光合成を行う。そのような素朴な酸素に満ちた空間が表現されているところが実に面白いと思う。いわば呼吸する存在、光のモニュマンといった雰囲気である。(高山淳)

7室

 湯田弘雄「15・樹物語―樹彩」。六つの板のようなものをチェーンソーのようなもので切り、それをコラージュし、赤い絵具や青や緑の絵具を置いて独特のリズムをつくる。オゾンに満ちた樹木の茂っている空間、森に樹木を戻しているようなイメージもある。樹木という日本人にとってきわめて親和力の高い存在。石と違って、かつて生きていた存在に傷をつける。かつて亀甲を焼いて、そこにできたひび割れたものによって占った時代があったが、木によって阿弥陀をつくっているようなミステリアスな世界があらわれている。決して暗いイメージではなく、もっと原初的な根源的な生命感とも言うべきものを木を通して表そうと試みている。そんな強さとイメージの純粋さが感じられる。(高山淳)

8室

 吹田文明「囚われの赤い紐」。漆黒の闇のような空間の中心に青と赤のフォルムがあらわれる。上方は左右が九列、上下が十列の丸い青い形があらわれ、それは整然たるものではないのだが、どことなく列をなして、歪みながらセルリアンブルーからもっと明るい光を帯びたブルーまでのグラデーションになっている。あいだに飛行機の航跡のような白い直線のフォルムが見える。その下方は青い植物の葉のようなごつごつとしたフォルムが連続して、その前に蝶が飛んでいる。青は深い海の底のようなイメージもある。そして、いちばん下方には赤い紐が重ねられて置かれている。男女のあいだの関係を運命の赤い糸という。運命の糸といったイメージが浮かぶのだが、この紐は広がらず、束ねられて、重ねられて、本来のその役割を発揮していない。だから、「囚われ」という題名になるのかもしれない。様々な人間との関係をだんだんと絶っていく。老年になっていくにしたがって、そのようなかたちで手仕舞を始める。そんなイメージもあるのかもしれない。あるいは、現代の閉塞した社会のなかではコミュニケーションの糸がこのようなかたちで積まれているという言い方もできるかもしれない。また深い鎮魂歌といったイメージがそこにあらわれてきているところも面白く思う。(高山淳)

10室

 椎橋久子「響(Ⅰ)」准会員推挙。水中か宇宙のような空間に、細胞のような生命体が漂っている。それらは集合しているようだが、ぶつかり合うことによって生じた偶発的なメロディがあって、その響きが金や黒、白の激しい描線で表現されている。(紺世邦章)

11室

 赤穂恵美子「白い光線」。中心に目の粗い紗のようなものを重ね、ねじれたかたちでコラージュして上下を貫通している。なにか霊的な力がそこにあらわれているようだ。それに対して左右に向かうフォルムが繰り返されている。布を重ねて、その左右の連続したかたちに独特の動きやメロディがあらわれる。どことなく海を思わせる。ゆったりとした奥行と動きを表す。両側には赤、オレンジ、緑、紫、黄色などの十二色環の色彩が置かれ、日が昇り、昼になり、やがて日が落ち、夜になるといった一日の時間が色彩によって表現されているようだ。海の一日、海の三百六十五日。すべての生命は海から生まれたといわれているように、独特の精霊的なイメージがある。それが中心にもやもやと立ち上がってくるところが面白い。画家の深い祈りの心がそこに重なっているように感じられる。(高山淳)

 藤田美惠子「Tomorrow Sky─2015─」。ステンレスで作られたトリプティックである。空には鳥や飛行機のようなものが飛んでいる。光沢のある表面と、細かく削る技法で曇らせた部分とを使い分けている。その違いは光の反射を利用しているものであるから、見る方向によって作品の表情は様々に変化する。細やかな線によって、柔らかな風を硬質な素材の中に表現している点がおもしろい。(紺世邦章)

13室

 鈴木浩二「surf」。白い地の上に小さな丸い円筒形の形を木でつくって、それをコラージュし、白く彩色して、その連続性によって寄せてくる波のかたちを表す。大きさとか高さが違うものを集合させながら、夢のような、清潔な、独特なファンタジックな空間をつくりだした。優れたセンスだと思う。(高山淳)

17室

 澤村祥「2015 マイガーデン―赤いチューリップ」。赤い空間に赤や黒のチューリップがあって、赤いチューリップには大きな蝶が寄っている。それぞれのモチーフは、先に下地に色を塗ってから大胆に輪郭が取られている。一部チューブから直接絵具を出して、それを流れるに任せたような表現もあり、色の力が鮮烈で形も力強い。画家のバイタリティーによって自然の生命力をいきいきと表現している。(紺世邦章)

18室

 よしだまさこ「風の誘い Ⅰ」新人賞。白い木の柵の向こうに、牛骨が高く積み上げられている。描かれた柵の下部には、木が埋め込まれている。牛骨はひとつひとつ丁寧に描かれていて、その数に圧倒されるような迫力がある。それと同時に柵の隙間から崩れ落ちてきそうな、危なげな雰囲気もある。(紺世邦章)

 相馬亮「one day ~平和への祈り~」佳作賞・会員推挙。大きな写真の中心部にそれとは別の画面を入れ込んで、モノトーンに置き換えて描いている。手を合わせて祈る女性の姿。震災復興への祈りや、鎮魂の思いが込められているのだろう。女性の顔の皺、髪の毛の一本一本までも緻密に描き込んでいく丹念さは、この女性の祈りの強さを表現しているようである。写真を提示されるよりも祈りのイメージの力が強まっている点が魅力である。 (紺世邦章)

19室

 広井力「天と地・HEAVEN AND EARTH」。上の面は正方形で、側面は長方形の直方体。その上に円形のフォルムがつくられ、中心が凹状になっている。まるで上方から月をここに下ろしたような雰囲気。地上に空の月を下ろして置いた。満々たる銀色の水の中に月が映って、その月が浮かび上がってくるような象徴的なイメージ。まさに月と水、地と天の二つのイメージを見事に造形化した。(高山淳)

 深須砂里「Connection」優秀賞。木彫で、両側に二つの足によって支えられた黒いフォルムがあり、その上に白く彩色された樹木の幹の一部が渡されている。樹木のもつ独特の触覚と生命感を使ったコンポジションで、いわば揺らぎのような空間のあらわれているところが面白い。(高山淳)

 山口秀太郎「青い庭」。円形のフォルムの中は鑿で削られて、独特のリズムがあらわれ、そこに黒いニスのような色彩が置かれている。その上に鍵のつけられた不思議なフォルム。片一方は円弧で、後ろは直方体で、それが立ち上がってくるようなフォルム。地上でいうと、小高い丘の下方に丸い池が掘られているような雰囲気。そこに月が映って銀色に輝いている。あるいは、水の上に映っているものを立体的に上方に立ち上げる。上方の鍵のつけられたような先が円形で後ろが矩形になって厚みのあるフォルムは、なにか不思議なメカニックなもので、ねじを巻くとタンポポの綿毛のように飛び去っていくのかもわからない。そのような詩的なイメージを立体に彫る。ナイーヴなイノセントな世界が感じられるところが面白い。不思議な吸引力をもつ象徴的な形である。前方後円墳なども連想するところがある。(高山淳)

第19回日仏現代国際美術展

(4月1日~4月5日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 野村康子「刻(岬)」文部科学大臣賞。深い緑のテーブルの周りが激しい赤い色彩。ところが、そのテーブルは海の中のイメージとなって魚が泳いでいる。魚は縄をそんな形にしてコラージュしたもの。赤く彩色されている。下方には線描で植物のような記号的なフォルムが見える。いわば詩を書くように絵を描いて、イメージの世界に入っていき、そこに鑑賞者を招く。ナイーヴなファンタジーとなっているところも親しみがもてる。

 干田晴美「連関と異次元の風―1503M」。斜線が繰り返される。角度の違った斜線がクロスし爽やかなシャープな空間が生まれる。朝早い光のようなイノセントな光線が画面に満ちている。ビルディングを思わせるような幾何学的なフォルムやガラスの硬質な質感がそれに呼応しながら立ち上がる。そこに内部と外部と二つの位相が生まれ、その二つの位相のコラボによって歌のようなイメージが生まれる。

 ライネルト寿美子「スロー ドライブ」。すこし汚したようなブルーの空間が画面の真ん中にあり、両側にベージュ系の色彩が入れられ、そこに黒い色彩で教会のようなフォルムが見える。その上に重ねるようにベージュやオレンジによって道や光のようなイメージが生まれる。どことなく海岸を思わせる空間のうえに自由なストロークで道をつくり、そこに輝くようなオレンジ色の色彩でモニュマン的なフォルムを入れる。長方形の平面空間が画家のストロークや色面によって深い奥行を獲得しながら、独特の詩的なイメージを表す。

2室

 三好まあや「伝説の彼方より」。楽譜をカットしてカーヴさせながら画面の下方に置いて、その両脇に男女が踊っている。どことなくタップダンスをしているような趣。ジャズの音楽が流れてくるようだ。上方はメロディを自由に抽象的な線描のフォルムにアレンジしながら、独特の聴覚的な空間をつくる。

 上村由希「希望の光」。矩形の額のガラスの前と後ろに色ガラスをコラージュする。アンモナイトのようなフォルム、花や月のようなフォルムにカットしてコラージュする。そこに独特の詩的なイメージが生まれる。透明なガラスの空間が奥行をつくりだす。緑を中心とした柔らかな色彩のハーモナイズする様子も心地よい。

5室

 秋山利夫「モレの町」。馬車が画面の右向こうに進んでいる。赤い馬に御者が乗って、車の中にも人がいる。後ろには宮殿のような建物が見える。雪が降っている。カラフルな色彩を使いこなしながら、独特のファンタジーをつくる。

7室

 橋本光枝「自然」。向こうから渓流が手前に流れてきている。あいだに岩があって、そこは苔むしたり草が生えている。倒木がそこに橋の役割をしている。それも苔むしている。苔や植物がこの自然の中に生きて活動している様子が神秘的な雰囲気で表現され、静かに水のせせらぎが聞こえてくる。

 笹沼恭欣「刻―15」外務大臣賞。手前に大きな岩があって、そこにモミジが散っている。後ろには裸木が枝を広げて、その後ろは低い山のようだ。そこから針葉樹が立ち上がり、巨大な満月がいま現れた。山の端から現れる満月はずいぶん大きく感じられるものだ。そこからいわゆる来迎図としての阿弥陀を感得する。仏教と神道とが重なった垂迹美術がそこからあらわれたのだろう。そういった自然のもつシーンの不思議な様子を、この絵の中によく表現している。モミジが散っている様子は、秋が過ぎて、やがて冬が来る予感のなかに描かれている。季節の別れとやがて来る新年に向かって祈るような心持ちもしぜんと感じられる。単に風景を描いたというより、そういう神道的な空間があらわれているところが興味深い。

 橋本清一「夕暮れ日暮れ」。日が沈みつつある。斜光線がこの二階建ての建物を照らしている。二階のほうの壁はオレンジ色に輝いている。下方は屋根があって、そこには光は届かず、闇がそこにうずくまっているような様子。蛍光灯のような人工灯がつけられて、その光が照らしている。人工灯と太陽の光。闇と光。二つの世界がこの建物に、あるいは地面と空に捺されるように表現されて、二つの世界が対照される。空も低い部分ではオレンジ色であるが、だんだんと緑に、上方では青になっている。空の変化も刻々と日が落ちていくときの様子を捉えて、臨場感がある。夕日のノスタルジックな感情、やるせないような心持ちがよく表現されていると思う。手前の暗い紺や茶や緑の重ねられた地面とその向こうの自動車や様々な器具の入れられた倉庫のような空間のもつ人間的な気配と、上方の壁の光線とが独特のコントラストをなすのも、この作品の優れた絵画性だと思う。

8室

 白尾勇次「状況19─A」。最近の青い空間にシャープな銀色のフォルムが立ち上がる詩情あふれる作品に対して、今回は悲劇のモニュマンのような雰囲気。画面の下辺から上方にコンクリートのブロックのようなものが立ち上がって、上方が崩壊してなくなっている。下方はアルミやステンレスのようなフォルムで、上方はコンクリートのようなイメージ。そこに新聞や雑誌の一部がコラージュされている。文字に意味はないのかもわからないが、上方の文字にヨーロッパの太陽エネルギーといった言葉が見える。それに対して、背後には横に塀のようなブロックのようなフォルムが伸びていて、一部剝落している。そこにも朱色や文字の入った茶褐色の色彩がコラージュされている。二〇一一年三月の津波の災害、原発の事故から四年たつわけだが、その時の悲劇を画家は心の中に抱いて、ようやく四年目にしてこのようなモニュマンをつくったように感じられる。背景は漆黒の闇である。とくに手前の立ち上がるフォルムは、前に出てくるような強いエネルギーのかたちをもっている。いわば墓標のようなイメージがそこにあらわれているところが痛切で、強い悲劇的なイメージを表す。

 大久保岱影「母に成る」サロン・ブラン会長賞。墨による表現。大きな筆のストロークとたらしこみふうな空間によって、新しく生まれつつあるものの予感。墨色が神秘的。

 下川勝「惑星―陽炎」。もの派的な立体である。金属でできた袋の中にものが詰められて、それを閉じて包んで圧縮したようなフォルムが四列あって、七、六、六、五というようにあいだに間隔をあけながら置かれ、その手前には缶の蓋のようなものがおびただしく散乱している。ものによってイメージを語らせる手法で、独特の強い表現である。海外ではずいぶん高い評価を受けているそうだ。

第63回光陽展

(4月8日~4月16日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 花岡寿一「王女と兵士」。十歳ぐらいの少女がお菓子を手に持って座っている。床はキルトのような布が敷かれて、そこに足を投げ出している。テーブルもふわふわとしたサテンのような白い布で、そこにオートミールとシュークリームのようなものが置かれ、兵隊の人形がいる。キルトの上にも人形が立っている。少女の周りに雲のような渦巻くような文様があるのが不思議。しかし、少女のもつイノセントな表情とかピンクのセーターやカラフルなスカート、あるいは背景の赤い色彩など、上からガランス系の色彩をおつゆで置いたような繊細なものである。ひとりで遊びながら食事をしているような少女の様子に、不思議な魅力がある。その同伴者としておもちゃの兵隊がいるわけだが、少女のもつ独特のスピリットが、その周りにこの雲のような不思議なフォルムを引き寄せたのかもわからない。そのような独特の強いヴィジョンのうえに立った表現である。

 奈良峰博「葬送の朝」光陽会賞。男が立っている。シルエットふうなトーンの中に目鼻はしっかりと描かれている。その体の前に夕焼雲のようなピンクの色彩が置かれ、その下に低い家並みがずっと続いた様子が描かれている。後ろには同じような青年の像や子供あるいは妻を思わせるようなフォルムが、白いバックの上に霊的に表現されている。題名とこの絵を見ると、中心のこのシルエットの男性が亡くなったのだろう。それを家族や友人が悲しんでいて、悲しみの人間たちは背後のグレーの中に曖昧にぼかして置かれているということだろうか。独特の深いトーン。よく見るとそれぞれのフォルムはクリアで、優れたデッサン家であることがわかる。存在するものと存在したものがなくなっていく経験。その境界領域ともいえるイメージを一種たらしこみふうな色彩の中に表現して面白い。

 柴田信行「花見燃ゆ」。上方に桜が満開近い様子。青みを帯びたグレーの中にピンクの花が咲いている。画面の左下辺から赤い色彩が上方に上っていく。それは夜桜のときの火炎のような様子。と同時に、花が咲き、散るということが画家にとってきわめて大切なことで、そのイメージ自体が赤で表現せざるをえないような深いパッションを画家に感じさせるのかもわからない。しっとりとしたトーンで花が咲き散っている様子がしみじみとした情緒のなかに表現されている。

 富田徹「カナル船溜り」。ヴェニスの風景。手前に二艘のゴンドラが大きく描かれて、右のほうは画面の右辺で隠れている。緑のシートが載せられて、水の中から四本の杭が立ち上がっている。そばには建物の一部が見える。遠景は建物と繫留されたたくさんのゴンドラ。あいだに水がたゆたっている。遠景の船だまりの一部をピックアップして手前に大きく描いたといった雰囲気もある。そして、ヴェニスの水が静かにたゆたい、空はすこし曇っているが晴れて、その雲が動いていく様子。ゴンドラの上で揺れているようなイメージが、そのまま画家の人生の晩年のイメージと重なるのかもわからない。ヴェニスは古い街で歴史がある。画家の暮らす新潟もまた古い街である。ずっとヴェニスをテーマにして描いてきたが、そこに新潟の風土の中で暮らしてきたイメージが重なる。それによってゴンドラがなまなましいかたちで画面の中にピックアップされているといった感想も、長くその作品を見た筆者には浮かぶのである。いずれにしても、真ん中に大きくあけられた水と空が、実はゴンドラ以上に画家の心の託された存在のように感じられる。

 くしださちこ「サーカス ファンタジー」。三人のピエロ。男と若い女性と子供がそれぞれ楽器を奏している雰囲気。子供は楽器を持たず音色を聴いているようだ。遠景にサーカスのテントがみえる。オオハシのような鳥が大きな嘴を前に出し、キリンが首を出してこのピエロを見守っている。上方に空中ブランコのはしごが揺れている。その向こうに青い空が見え、サーカスのパッションを象徴するようにピンクや赤のアンフォルメルふうな色面が引き寄せられて、独特のエキゾティックなメロディが画面から聞こえてくるようだ。

 工藤昭「厳冬の朝」。雪に覆われた山と地面。手前には雑木林がある。山の裾に針葉樹の林があって、そこにも雪が積もっているのだが、その雪の様子が花が咲いているような雰囲気である。「厳冬の朝」という題名にもかかわらず、この雪景色から感じられるのはロマンティックな華やぎであるところが面白い。

2室

 金愛子「冬日」。柵の向こうに小さな小屋のような建物がいくつも見える。その向こうには大きな樹木が枝を広げ、葉をつけている。雪が積もっている。空も曇り空。その灰白色の色彩と緑の色彩が静かに響き合う。微妙なトーンの変化の中にあらわれてくる空間の音色ともいうべきものが魅力。

 石井節子「明日へ繫ぐ光」。手前に大きな波が立っている。すこし渦のようなものがあらわれて旋回しているような雰囲気もある。その中には波の白と影の黒と朝日を受けて輝く赤い色彩とがあって、その三つの色彩が渦巻いている様子。しかも、その右手前には渦に巻かれて倒壊した建物の破片のようなものが見える。海の向こうの対岸にはサーカスがテントを張って、大観覧車が動いていて楽しい雰囲気である。「明日へ繫ぐ光」というように、困難な現実、たとえば津波のような大惨事を経験しても、その後には夢があり、楽しいことがあると画家は語る。そんなコンポジションになっているところが面白い。崩壊と再生を画家独特のコンポジションの中に表現する。

 山田敬三「代々木風景 63」。上方にドコモのビルが聳えて、画面の上方を突き抜けている。下方には小さな街の中の公園があり、滑り台があり、花が咲いている。そこに光線が差し込んで、小さな集合住宅を染めている。午後のいっときの光が画面の中に静かに表現される。

 吉田高行「早朝の切通し」。両側に断崖があって、そのあいだに道がある。昔からある道なのだろう。道の右上方、崖によって見えなくなっているところに光線が差し込んでいるから、その道はそこで崖から外れて見晴らしのよいところに行くのだろう。道が光の中に浮かび上がり、周りが黒々としたフォルムになっている。しかも、道のそばに若緑色の植物が描かれている。道の左手前のほうには石や遺跡のようなものが転がっている。無明長夜という言葉があるが、両側のこの暗いトーンの中に存在する一本の道を見ていると、人生というものの姿を画家はここに表現しているように感じられる。単に切り通しの道を描いているのではなく、先の見えない道、しかし先には光が差し込んでいる道を、歴史や人生の象徴として描いているようだ。そんな柔らかなトーンが画面の中に感じられる。どこか須田国太郎のあの深い明暗の調子と共通する表現のようにも思える。右の崖の中の黒々としたトーンの中にあらわれてくる岩の形などは、不思議な存在感がある。じっと見ていると、暗い中にもそれぞれの形が見えてくる。と同時に、新緑の緑が鑑賞者の心を癒すように表現されているところも興味深い。

3室

 大塚君子「思ひ出」新人奨励賞。トランクと人形とカラスウリが描かれている。バックも茶色で、カラスウリは赤い色彩。人形もピンクで、全体に柔らかな赤のハーモニーによって表現されて、ノスタルジックな心象空間が生まれる。

 西島勝「六波羅を臨む」。六波羅というと、鎌倉時代の六波羅探題ということを思うのだが、手前の古いお宮のような建物の向こうに家があり、はるか向こうにはビルが立ち並んでいる。そのビルが墓石のような雰囲気で描かれているところが不思議。一つひとつ丹念に描きながら、過去のものがそこに姿を現してくるようなリアルなイメージがこの平凡な風景の中に醸し出されるところが面白い。

4室

 加藤瑞恵「仏陀礼拝」。画家はシルクロードをテーマにして描いてきた。たとえばキジルの千仏洞の壁画などを見て、その感動がこの青い空間の中に浮かび上がってくるようだ。そんな壁画の仏が青いバックの中に立体的に立ち上がってきて、全体でハーモナイズし、深い祈りの空間が生まれる。

 市谷實「いずこへ」。二曲屛風ふうな表現になっている。右のほうは黄金色で、左のほうはすこし青みがかった色彩。うねうねとした波紋のようなフォルムが繰り返されて空間が生まれる。その波紋は右のほうでは波になり、山になって動いていく。その山の向こうからいま朝日が昇ってきた雰囲気。左のほうはもっと海の波のイメージがダイナミックにあらわれ、その波のあいだから月が浮かび上がっている様子。あるいは深い森の中から月がいま姿を現したような雰囲気。絵に接近すると、メディウムを置いて、それを削りながら波紋のフォルムをつくりだしていることがわかる。優れたテクニックであり、それによって強いマチエールと強い波動が生まれる。いわば平成の日月屛風のような空間が生まれているところが実に面白い。

 三浦恒祺「原爆の形象 No.32『復活』」。画家は広島で原爆体験のある人である。今回は、原爆の悲惨さに対して逆に明るい肯定的な生命の讃歌ともいうべき世界があらわれている。上方に太陽が燦々とした光を投げかけ、青、緑、ピンク、赤、黄色、あるいは黄金色や銀色の光に満ちて、生き物や自然を癒そうとしているかのようだ。ところが、左のほうには陰画のように原爆の暗いイメージがあらわれている。その存在によって逆に今日の幸せ感というのがより説得力をもつ。

 安部洋子「俯瞰―道の情景―」。縦横に道が伸び、カーヴし、動く中に緑の色彩が入れられ、ところどころ建物のようなフォルム。あるいはそこを通る月や太陽のイメージも色彩的に表現され、独特の曼陀羅的表現になっている。

5室

 関島雄一郎「予感」。円筒形の建物がすこし傾いて立っている。手前には木造の二階建ての建物。その周りにカラスが舞っている。黒いシルエットに羽ばたいている様子が強いイメージを表す。この羽ばたくカラスは何を表そうとしているのだろうか。「予感」という題名だが、なにか禍々しいことが起きる。あるいは終末が近づいている。あるいはそんなことを起こす天変地異が迫ってくる。傾いた建物は倒壊してしまうのだろうか。強いドラマ性をはらんだコンポジションに注目。

 山下久枝「未来のエネルギーは?」。道路に電信柱の影が長く伸びている。電信柱を描く以上に、その影には強い存在感が感じられる。まるで道にそのイメージが浸透して深く入りこんでいるかのような雰囲気である。「未来のエネルギーは?」という題名であるから、電気というエネルギーが原発なくして済むのかといった問題提起なのだろうが、そういった議論以上に、この電気を運ぶ電信柱の影や電線のシルエットが強い存在感をもって迫ってくるところがこの作品の見どころである。

 松本肇「命輝く惑星」今井繁三郎賞。耳の大きなアフリカゾウが画面の真ん中にいて、そばに子ゾウが鼻を前に伸ばしている。右のほうにはアンモナイトのフォルム。そして、星を思わせるようなフォルムがいくつもあらわれ、右下には青い惑星、地球が浮かんでいる。「命輝く惑星」という題名のように、水と惑星とゾウ、あるいは地球の歴史を思わせるアンモナイト、あるいは創世記神話を思わせる林檎が浮かび、左のほうには少年が裸で立っている。優しい命の表現。そのコンポジション。それを表す優れた造形力。

 杉原孝芳「雪の出雲山里」。棚田がだんだんと上方に上っていく。真ん中にはきっと川が流れているのだろう。右のほうにも棚田があり、下方に下りていく。棚田のあいだに針葉樹が伸びている。出雲の風土を棚田の風土として画家は表現している。そこに雪が積もり、フォルムがよりクリアに立ち上がる。遠景の柔らかなカーヴをした山並み。棚田のフォルムの繰り返される連続性の中に独特のエネルギーが感じられる。左の近景には、その大地に接近して、雪の様子や雑草の生命力を描いたところがあって、一種独特の強いコンポジションによる表現である。

 鈴木幸夫「夕顔の花(半蔀)」会員奨励賞。扇子を持って静かに踊るシテ。右のほうには座ったワキがいる。夕顔の花が咲き、一輪その白い花が落ちている。幽玄な雰囲気。クリアなフォルムが能のもつ象徴性を表現する。

6室

 道川クニ子「再び」会員奨励賞。中心に葡萄棚の横に通る心棒のようなものが描かれている。その向こうにはうねうねと動いていく葡萄の木の枝のフォルム。そして、オールオーバーに葡萄の房が垂れている。あいだに葉が見える。緑の複雑なトーンの中に青や紫の色彩が入れられて、充実した雰囲気である。葡萄の粒が重なってひとつのボリューム感をもつ様子は、まるで宝石のようである。そんな房がいくつもいくつも画面の上方に描かれ、うねうねと動くその幹というのか枝というのか、そんなフォルムと大きな葉とがお互いにハーモナイズしながら、独特の生命的エネルギーともいうべきものを表す。

 佃静聞「心を澄ます折節」。縁側の向こうは障子。障子があけられて和服姿の女性の後ろ姿。前にテーブルがあり、その左には大きな金箔の屛風の一部がのぞき、松がそこに描かれている。端正な矩形を繰り返すコンポジション。そのコンポジションの中にひっそりと座る女性の姿が、静寂な中になにかあやしい雰囲気。静かなエロスともいうべきイメージがあらわれる。

7室

 川嶌照代「帰路」。中東のほうをテーマにしたものだろうか。牧羊犬と羊の群れが向こうに進んでいく。棒を持った女性が後尾にいて、後ろを振り返っている。その女性のフォルムを淡々と描きながら、なにか懐かしい同伴者のようなイメージを画家は表現する。牧羊犬と羊の群れは永遠に歩いていく人生そのもののようだ。その重荷というのか、一つのテーマを背負って歩いていく人間の姿が、この初々しい女性の姿に結実しているように画家は表現する。周りの道や石、あるいは断崖を思わせるような空間などの脇役も、暗示的に表現して優れている。

 梅田脩「庚申塔」。いわゆる野仏である。立っている不動明王のような雰囲気で、独特の波動に満ちた姿。そんなフォルムに光が当たって陰影をつくる。それをクリアに描いて強いイメージを発信する。

 小林晋一「耐震風雪」。巨大な橋が川にかかっている。それを水面から橋の裏側を眺めるように描いている。下方の水面と上方の橋の裏側の向こうに伸びていくいくつもの鉄板とそれをつなぐ金属。下方に横に二つのグレーのフォルムとそれをつなぐ緑の柱が見えるのは、耐震のためのものなのだろうか。川は満々と水をたたえて流れている。夕日なのだろうか。黄金色に染まっている。その広がりのある水の表情は空を映しているわけで、いわば空と水が一体化したような広がりに対して、橋という堂々たる構築物の裏側のかたちが実にダイナミックな雰囲気をつくる。あまり絵に描かない視点をあえて選んでの表現。扇形に手前に広がるそのかたちと、二つの耐震のためのグレーのフォルム、それをつなぐ緑の柱。幾何学的なその構造が人間的な表情をもって迫ってくるところが面白い。そこには人間の営為の跡がはっきりと見てとれるからだろう。その耐震設備のあいだに船のようなものがあり、そこから紐が伸びて、浮きのようなものが一つ浮いているのも、実に人間的な表情と言ってよい。画面から伝わってくる強いエネルギーがこの作品の面白さである。

 木村順子「煌めく風の中」。まるで横断歩道のように横のストライプがずっと向こうまで続いている。そこに柔らかな光が当たり、笹の葉のようなフォルムがたくさん浮遊しながら手前に向かってくる。上方に大きな満月があらわれ、その満月の側面にも笹の葉のようなものが浮遊している。右のほうには竹林のようなフォルムが見える。青をベースにしながら、光に満ちた黄色い色彩がそこに入れられ、合掌し、祈りの空間のようなものが生まれる。

 北川悦子「ティー・ブレイク」東京都知事賞。お盆にティーポット、ティーカップ。お茶を出すための容器。そばにはゆで卵の入れられた器。マフィンのようなものの入れられた高杯。光を照らすスタンドの下には、女性の人形の装飾がつけられている。そばに赤い林檎が一つ。紫の布の上に置かれた様々なものたち。このテーマはスタンドのもつ精神的なイメージなのだろう。照らしているのは、心づかいをもった女主人かもわからないし、あるいはまた別の人なのかもわからない。家族や友達を照らす人。いわば伝教大師のいう一隅を照らす存在といったイメージが、静かにこの静物から感じられるところが面白い。

9室

 森泉「刻」。麻袋の中には半分ぐらい収穫したものが入っているのだろう。上方はくくってある。手前にはトウモロコシとつぶれた南瓜。そばの椅子のような机のようなものの上にはジーンズが置かれ、赤いカンテラとクラシックな時計が置かれている。それぞれのものがクリアに描かれ、独特の存在感をもって語りかけてくる。

 吉實昭子「くつろぎ」。ベッドの上にクッションを置いて寄り掛かっている裸婦。足をすこし曲げて、腕を頭の後ろに置いている。シーツがすこし緑がかった色彩で、赤みがかった肌の色彩と響き合う。健康な女性の豊満なボディであるが、顔の表情などとあわせてみると、どことなく妖精的でエレガントな雰囲気があらわれる。画家の独特の美意識の表現と言ってよい。ベッドの背のカーヴする形と裸婦の輪郭線が、独特のメロディのようなイメージをつくっているところも面白い。

11室

 齋藤満子「流」。青い複雑な色彩が静かにハーモナイズして、優しい和音が画面から聞こえてくる。女性が袖無しの白いワンピースを着て立っている。耳には真珠の耳飾り。そばの椅子の上にはギター。その後ろから海の浮子のようなものが浮遊しながら手前に向かってきて、ネットも遠近感のなかにあらわれ、その背後には空にストライプのようなものがいくつもあらわれている。黄色と白の林檎が並んでいる。「私の耳は貝のから 海の響をなつかしむ」とうたったのはフランスの詩人だが、海というすべての存在を生んだ母性的なイメージを背後に置いて、その音楽の中に人形のような若い女性を置き、その周りは抽象的なネットやストライプによってそのメロディを視覚化する。ひっそりと並んだカップルの林檎が実に愛らしい。

 岩立寛「奥日光残雪」。中景に雪の積もった二つの家。山の斜面にびっしりと樹木が生えているが、そこはシルエットになっている。近景のカーヴする川に向かって雪の積もった地面が広がっている。川の手前には枯れたような雑草が生え、そこに溶けかかった雪の塊。遠景は青く霞むような山で、その向こうに雪を抱いた峰が浮かんでいる。ぐいぐいとこの場所にあるものを描いて、独特の生気をつくる。非凡な筆力である。寒気さえも感じるような臨場感のある表現。

 廣安芳子「薔薇」。ピンクや黄色、白のたくさんの薔薇が染付ふうの花瓶に盛られている。背景は緑。色彩が豊かに響き合う。

 大野起生「鳥になって・街」。中心に渋谷の駅が描かれている。手前のほうは西武という文字も見えるが、東急デパートに向かう上り坂になっている。渋谷のそばの交差する陸橋。109のビルも見えるし、その背後に高層ビルも聳えている。渋谷の駅のあたりにスポットライトのように光が当たり、周りに向かってだんだんとフェードアウトしていくようなグラデーション。画家にとって渋谷の街は身近で、よく知った存在なのだろう。その存在を鳥になって空から眺めて描き出すのも絵画としての面白さである。そこに深い感情がこの独特のマチエールを通して浮かび上がってくる。

 大塚照子「夢」新人奨励賞。仰向けに草の上に寝た少女。足を組んでいる。バッグの中から莵が飛び出てきている。たくさんの莵がそばに来て、この少女を見守っている。蝶が飛んでいる。『不思議の国のアリス』のプロローグのようなイメージを独特の生命感のなかに表現する。

12室

 三戸弘「鎌倉大仏坂切通」。大きな岩。道が崖のそばを通っていく。左のほうには石段があり、鬱蒼と樹木が茂っている。そんな様子をぐいぐいとした筆力で描く。生気とムーヴマンが感じられる。

 竹花美智子「花いかだ」新人秀作賞・会友推挙。桜の花びらが川に落下してうずたかくなっている様子を花いかだという。そこに満月が映っている。花いかだの上に少女が立っているのはすこし異様な雰囲気である。立っているために柔らかな花びらが石のようなイメージに変容する。それはともあれ、少女の全身像のフォルムは優れた形態感覚と言ってよい。顔を見ると、どことなく能面ふうなイメージもあらわれる。

 岡本邦治「語らい『古都』」。残照の空。山の向こうにいま日が沈んだようだ。シルエットになった京都の東寺の五重塔がずっしりとした存在感を示す。その手前には、朱色の柱が組みあっていて三人の女性が座っている。バックには光琳の紅白梅屛風の一部が見えて、日本の美意識を示す。また、手前の水の波紋は時間というものの象徴となっている。ジーパン姿の女性。ピンクのスカートの女性。合掌している女性。京美人という言葉がある。千年以上の京都の文化。そんな流れのなかに現代の若い女性も生きている。雅というもの、あるいは東寺に見る宗教性、あるいは山に日が沈んだあとのノスタルジックな空間などを集めながら、独特の京都讃歌、古都讃歌といったイメージを画面の中に構成する。

 加藤正男「刻」。角柱の上に段ボールが二枚置かれて、その上に黄金色の果実や花が置かれている。瓢簞や巨大な瓜、枯れた向日葵、カラスウリ、玉葱などで、それらが集まっている様子。時間が失われて、それぞれの形がお互いに響き合いながらうずたかく積まれている様子は、実に不思議な雰囲気である。上方にヘチマのようなものがぶら下がっている。「刻」という題名だが、時の腐敗する方向の時間が消えて、そのまま別の黄金色の果実や花に、あるいはドライフラワーに変身している。画家の独特のヴィジョンの表現と言ってよい。

 岩井美枝子「SCRAP MACHINES」。様々な機械の一部が構成されて、ダイナミックなパワーのようなものが画面から伝わってくる。手前にクレーンの先にある、ものを摑むような錆びたものが置かれていて、その地面に置いた状態は花の花弁を逆様にしたような雰囲気で、独特のフォルム。そこに光が当たって輝いている。後ろは調子の落とされた黒やグレーで、巨大なパイプの連なったものや、中が円形にくり抜かれた鉄板などが置かれて、それらの幾何学的なかたちがお互いに響き合いながら、強い親和感を示す。遠景のバックはグレーで、だんだんと向こうにいくと霧がかかっているような雰囲気になるのも、時間の流れがそこでフェードアウトしていくようだ。そこに回想的なイメージが表われる。

 小田柿寿郎「思い出のかたち」。サンタクロース、西瓜、描きかけのキャンバス、筆、奴凧、雛人形、案山子の顔に「へのへのもへ」と書いてある。鳥が電線にとまっている。ヨットと海。まさに題名のように、画家にとって好きなもの、印象に強く残っているもの、大切なものを画面に集めて構成して、独特のアンティームな空間をつくる。それらのものたちを通して画家の生きざまやイメージの広がりがしぜんと伝わってくる。

 浜野洋一「匿いの山~太平記・船上山~」文部科学大臣賞。元弘の乱により隠岐に流されていた後醍醐天皇が脱出して、伯耆国(鳥取県)の名和長年を頼り、鎌倉幕府とのあいだに戦争を行った。名和長年はこの船上山で挙兵し鎌倉の軍勢を撃退した。そんな山が円弧の形に描かれ、その上方に満月が昇っている。月は船上山の戦いがあった七百年ほど前にも昇ったにちがいない。そんな感想がしぜんと浮かぶ。その周りの樹木や崖などが実にクリアに描かれていて、写実力のある画家であることがわかる。その写実力で筆力を駆使しながらぐいぐいとこの風景を魚眼レンズふうに構成し、その中心に月を置くといったユニークなコンポジションが面白い。その月は後醍醐天皇のイメージとも重なるものがあるだろう。

第101回光風会展

(4月15日~4月27日/国立新美術館)

文/高山淳

1室

 山本英夫「遥か」庄司栄吉記念賞。エジプトふうの文様のある黒いワンピースを着た女性が椅子に座っている。背後にエジプトの壁画のようなフォルムが霧の中にあらわれるように表現される。女性のモデルを通してエジプトに対する遙かな思いを表現する。

 橋浦尚美「After School」光風会会員賞。光が独特の性質をもって使われている。一種精神的な力が光にあって、それが対象を照らすところにすこしシュールな気配があらわれる。その光に対する扱いが、この作者の独特の力となる。左のほうにはセーラー服の少女。右のほうには同じ年頃の青年が浅く腰を掛けて、伸びをするかたちで両手を頭の下に置いて座っている。二人のあいだにテーブルがあり、そこにオセロ盤と石が置かれている。オセロのゲームは、周知のように挟み込むと相手の色が自分の色に変わるゲームである。まだ成熟していない男女の恋心のようなものが、その清潔なオセロ盤によって象徴されているとも言える。いずれにしても、二人の男女のあいだのバックは無地で、光だけがそこに氾濫している。それは過去がまだあまりなく、未来がほとんどの思春期の少年少女のコンディションを表すとも言える。じっと見ていると、朝の海のような空間がそこに感じられるところも面白い。

 堀研一「小休止(壁の虫)」辻永記念賞。使い古した大きなボストンバッグの上に腹話術師の使う人形がのっている。すこし笑っているようだが、さみしい雰囲気である。そばにやはり長く使われたコート。手前には瓶などが置かれている。腹話術師が旅行しながら生計を立てる。今すこし休みでバーにでも呑みに行ったのだろうか。芸人はいないが、彼の使っている人形が彼の心を代弁しているかのようにボストンバッグにのっている。そういったひとつのヒューマンストーリーが作品から感じられるところが面白い。

 佐々波啓子「雲中供養菩薩より『響』」パルテノン賞。黒い衣装をつけた女性が座っているのだが、背後に平等院鳳凰堂にある飛天のフォルムがあらわれている。平安時代の浄土宗の代表的な仏である。王朝時代に思いを馳せる。この女性の美意識のなかにそのようなものがあって、このようなコンポジションが生まれたのだろう。上方の雅やかな雲中供養菩薩に対して、手前の現代に生きる若い女性が独特の存在感を示す。

 福本弥生「times on the table」。静物を配置しながら、その直線や布の曲線などを組み合わせて、画面の中にメロディが聞こえてくるようなコンポジションをつくっている。グレーを主調色とした、形態によるコンポジションと言ってよい。

 近藤欣子「春の共演」T氏会員賞。小さなウィーンふうな花瓶にたくさんの百合の花などが差されている。これだけのものが差されると、実際にはきっと倒れるのだろうが、その危ういバランスが絵としての魅力をなす。下方のスカーフもマイセン陶器の文様のような雰囲気。ヴィクトリア時代やマイセン陶器などにあらわれている美意識が画面の背後に感じられる。しかし、しっとりとした百合の花のトーンなどは和風である。

 茶谷雄司「Calmando」損保ジャパン日本興亜美術財団賞。フローリングの床に木製の椅子があって、そこに座って窓際のチェストに肱をついて窓の向こうを眺めている。窓はグレーで、光がそこにあふれている。戸外の景色は見えない。光がこの少女に差し込む。成熟に向かって豊かな未来があるに違いない。そういった未来からの光を受けている少女を画家は描いた。そのようなコンポジションをつくりだした。

 中土居正記「再生・Sea breeze」。カラフルな平面の中での装飾的なコンポジションが一転して変化した。写真を思わせるような形態で、女性を、一人は椅子の上に座らせ、一人は浜辺に座らせて、その二つをコントラストさせる。波が寄せている。一種映像的な雰囲気が感じられる。椅子に座った女性はガラスの容器を持っている。中に金や赤の色彩が点じられて、花のようなものが入れられている。モノクロームの映画の中に鮮やかな色彩があらわれたといった印象。次の展開が期待される。

 高山博子「灯明」。中心に若い女性が左手に香炉を持ち右に蓮の花の蕾を持っている。その女性のリードによって、手前の若い女性がなにか言葉を発そうとしている。左下には老婆がうずくまって、謎めいた表情。金を背景にしてインドの仏教の世界を描く。黄金色が崇高な精神世界、あるいは楽園のようなイメージを与える。金をベースにして、青、朱などの色彩が目覚ましい効果を上げる。

 西田陽二「Jeune femme orientale」。韓国の漆による衝立の前に、白いドレスを着た女性が座っている。その襟元をきっちり締めて赤い扇子を持った女性は日本人と思われるのだが、すこし韓国ふうな雰囲気を漂わせている。いずれにしても、背景の黒と紫色による漆の巨大な風景と清楚な白い衣装の女性とが面白く響き合っている。以前の白一色の世界から一歩前進した佳作である。また、女性の持っている赤い扇子も見事なアクセントになっている。

 渡邊裕公「龍神伝説(玉華交換)」。背後に巨大な龍の水墨が描かれ、下方は波が騒いで波紋を大きくつくりだしている。その龍は俵屋宗達の水墨作品を参考にしたそうである。それを背景にして二人のチャイナ服を着た女性が向かい合っている。一人は黄金色の玉を、もう一人は椿を。玉をなくして困った龍は、女性に変身してその玉を拾った女性に会い、椿と交換するように求めたという伝説がある。それによって無事、龍は玉を取り戻して天空に舞い戻った。中国においては椿はそのような貴重な花で、また不死の伝説ももっているそうだ。中国の故事をベースにしながら、不思議なシュールな二人の女性の向かい合った様子。あの猛々しい恐ろしいエネルギーをそのまま具現化したような龍が女性に変身するという話も、なにかユーモラスなところがある。画家独特のボールペンによる表現である。ボールペンによってこれだけの透明感のある色彩と奥行のあるトーンがあらわれているところも驚く。

 竹久秀樹「ドリーム」。女性がシーツの上に横になっている。紫色の衣装を上に掛けている。人間と人形の中間のようなイメージがあらわれている。バックの紫の中に赤が入れられているのが、独特の鮮やかなアクセントになっているし、深い情念のようなイメージもその赤に感じられる。

 児島新太郎「夢想」文部科学大臣賞。黒いワンピースを着た若い女性が、コンクリートのボックスのようなものに座っている。背後の壁も同様の質感とグレーの色彩をもっている。雪が降っているようなしんしんとした気配である。しっとりとしたその雰囲気のなかに、膝の上に掌を上にして手を置いた女性のもつ雰囲気は、なにかあやしい。大きな目にすこし厚い唇で、目鼻立ちのしっかりとした若い女性である。鎖骨もしっかりと描かれている。形態に対する感覚が優れている。画家はモデルを描きながら、新しく雪女のような女性を創造したという言い方もできるかもしれない。独特の絵画的な魅力を感じる。

 桑原富一「包まる」。シーツにくるまって仰向けに寝た裸婦。変わったポーズである。床はライトレッドの強い被膜力のある色面。モデルの女性をまるで一つの物体のように画家は描く。彫塑的な強さがそこにあらわれる。

 大谷喜男「路」。ピエロが立っている。手前に馬がいる。ところどころ球体が浮いている。ジャグリングをしているのだろう。大胆な色彩。赤、緑、青、黄色など、いわゆる十二色環の原色を自由に使いながら音楽的な空間をつくった。動きのなかにメロディが聞こえてくるような空間。高村光太郎は「道程」という詩のなかで、道は自分の歩いたあとにできるのであって、先に道はないといった内容のことをうたっているが、ここに描かれているのは、過去ではなく、未来。その運命を占っているかのごとき、そんなセンスが感じられる。その運命という暗い力が、この独特のコンポジションの中から聞こえてくる。

 西房浩二「Marsaxlokk」。これはマルタ島の漁師町である。空に雲が出ていて、それによって日差しが遮られ、そのまま風景が宙吊りになって浮かび上がってきたような雰囲気がある。画家の筆力は建物も船も岸壁もそれぞれのものをリアルに把握する。そして、それを組み合わせて構成するわけだが、基本的な背景の教会や岸壁などの構成要素は変わらないが、船の位置であるとか浮いているものなどはもちろん変化する。このマルサシュロックは有名なところで、写真で見ると、まさにここに描かれているようなのんびりと船が浮かび、楽園的な雰囲気が感じられるのだが、それが画家の手にかかると、もうすこし陰影がそこに引き寄せられる。日本人の感性だと思う。対岸のベージュ系の色彩の微妙な変化するかたちの連続性。それに対する手前の海に浮かんでいる船のかたち。グレーの建物の様子は複雑なメロディを思わせ、手前の船はカラフルな様子だが、リズムを表現する。中景の宮殿と岸壁は、この港町の杭のような存在。そして刻々と変化するものの象徴として雲が浮かび上がる。そしていま雲は日を遮る。それによって光と影が一瞬失われ、不思議な柔らかな宙吊りにされたような光景があらわれる。

 福田あさ子「瞬く」。和人形が立っている後ろに屛風がある。その屛風には枯れた蓮の茎や葉が描かれている。ところが、その枯れた蓮の茎や葉が赤く彩られて、なにか不思議な感情を表す。和人形のそばにペアの折鶴や花札などが置かれている。和人形はいわば女性の変身したものとしてあらわれているわけだが、本来の女性に戻って花札に興じたりする。あるいは、枯れた花が赤く彩られているように、もう一度青春の情念を取り戻す。しかし夕日が射し、やがて来る晩年のイメージもそこにあらわれる。様々な感情世界をそれぞれのものが象徴するように構成されているところが面白い。

 西田伸一「風の音」。黒い上衣にスカート、ストッキング、ブーツと黒ずくめの衣装の若い女性が立っている。その立っている位置は奥行が一メートルほどの板のようなもので、左足の爪先の一部がはみ出ている。背景もグレーの板のようになっていて、その上辺と右辺のバック、そして下方の床に接する部分の半月形に切り取られたあいだから不思議な花のようなイメージのものがあらわれている。ダークな色調の上にメタルカラーの金や銀、あるいは紫などの色彩で抽象的な文様がつけられているのだが、それは夕方や夜の花や花火のようなイメージ。幽玄な気配が漂う。背後のグレーや床のグレーもしっとりとして、雪を思わせる。画家はこの女性のコンディション、その未来をここにイメージしている。その力がこのような背景を引き寄せたのだと思う。そこにはこの女性の未来に対する画家の静かな祝福のような気持ちもこめられていると思う。

 遠藤原三「夜の片鱗」。夜になると様々なイメージがあらわれる。、夜、博物館にいるものたちが動き出す映画があったが、絵の中の古代の人形や操り人形などが動き出しそうだ。古代の人形は深い人間の情動から表現されたものであるが、いまは無機的に人形としてそばにある。それが本来の呪術的な役割を果たすように活性化する。そんなものに囲まれた少女が画家のロマンティックなイメージを伝える。右のほうでは、その少女がもうすこし妖精のような存在に変身し、アルカイックな人形に肩を支えられているといったフォルムもあらわれる。人間の無意識の中にある世界。あるいははるか古代の世界も実は遺伝子の中に存在しているわけで、そのようなイメージを活性化させるコンポジションを画家はつくりだした。

 青栁敏夫「西日」。朝顔などの花が咲いている。後ろにはビワのような木も伸びている。そんな中にカラスがとまって、後ろを向いている。西日が道や周りの光景、地面を赤く染めている。深いノスタルジックな心持ちがこの心象空間に感じられる。

 本山二郎「芽生えるとき」。フローリングの室内に二人の少女。一人は立って、一人は座っている。立っている女性は白いブラウスに赤いスカート。座っている女性は紺のワンピース。あいだに花が花瓶に生けられている。カラフルな色彩のハーモニーのなかに若い女性の生命感をうたいあげる。

 米澤玲子「人形劇」。背後に、たとえばヨーロッパの町々を巡業する人形劇団のような雰囲気のものがある。小屋掛けになっていて、それを移動させながら演じていく。窓があり、そこには王女と王妃と王子といった趣の三体の操り人形が吊るされている。そんなものを背景にして、日本の若い女性が立っている。人形劇のボックスは緑や青で彩られている。その周りの道も空も同様で、なにかエキゾティックでロマンティックな雰囲気があらわれる。それは未来に向かうこの女性の心持ちときっと共通するものがあるのだろう。深い文学性ともいうべきものをテーマにした表現として注目した。

2室

 鈴木英子「STAND BY ME」。緑のベンチに女性が座っている。衣装の紫が独特の色彩効果をあげる。両手で抱えている二頭の動物は、虎や猫の子供のようだ。そばには大きなヒョウが横たわっている。そばのサボテンがどんどん伸びていく。後ろの白い塀のところから猿がのぞく。木のあいだには大きな耳をピンと伸ばして莵がいる。音を耳で拾っているようだ。その後ろには蛇がいる。画家のお気に入りの生き物や植物を集めて、なにかしっとりとした雰囲気である。これまでは女性は裸でのびのびと自然にかえったような雰囲気で遊んでいたが、今回はひっそりと物思いに沈んでいるような気配がある。そうすると、動物たちや植物もそれに従うように変化する。色彩も緑を中心としてしっとりとしている。独特の心象的世界が繰り広げられる。アンリ・ルソーを思わせるようなユニークな才能の表現。

 山田喜代子「テイラー・スウィフト(画室の風景)」。手前の白いテーブルに古いタイプライター、タンバリン、イヤホン、「テイラー・スウィフト 1987年」というジャケットが置かれている。上方にはそのテイラー・スウィフトがサングラスをかけて座ってる様子が、カラー版とモノクロ版で大きく貼られている。テイラー・スウィフトはカントリー・ミュージックの有名な歌手。画家は白黒の世界を好む。無彩色の中にほんのすこしカラーを入れることによってカラーが生かされる。テイラー・スウィフトのカントリー・ミュージックはのびのびとしたいかにもアメリカらしい音楽である。この無彩色の中からこの歌が懐かしく聞こえてくるようだ。ポスターの中のモノクロームのテイラー・スウィフトの横にカラーのスウィフトが並んでいるのも面白い。

 卜部俊孝「アトリエの華」。褐色の空間。大きな絵の前に西洋の鎧兜やワイングラス、一段下には薔薇の花の生けられた壺などがある。手前にはイーゼルに筆。画家のアトリエの中で画家の想念が煮詰まり、イメージがどんどん進行していく。そのままのコンディションをそのまま絵にしたような面白さ。描きかけのキャンバスの中に沢山の花びらが浮遊しているのも面白い。

 田所雅子「海を聴く」。耳に手を当てて、なにか音を聴こうとしている。題名によると、海の響き、つまり波の音を聴いているのだろうか。白いワンピースを着て立つ女性のボリューム感、存在感が、この作品の見どころだろう。バックはすこしピンクを帯びた空で、下方に静まりかえった海のフォルム。斜光線に女性の衣装は白く、その健康的な肌の色彩を言葉で言うのは難しいが、独特の魅力をたたえている。

 山田一郎「待春風光」。ほとんど水墨を思わせるような白と黒の色彩の中に、褐色や緑がほんのすこし入れられている。画面の中心は、中ほど上方にある向こうに続く道のようだ。そこが白く光っている。地面全体が雪にうずもれているのだが、その部分から屈曲しながら山の麓に行く部分が、この作品のポイントになって、その先から山が立ち上がる。そこから手前に中景ができ、近景のゆったりとした樹木や地面の様子になる。風景のもつ抑揚を画面の中に創造的に表現しているところが面白く感じられる。

 早崎和代「春に」。緑のすっと立った花瓶に白いカラーやピンクや黄色の花が生けられている。その花の背後がステンドグラスふうな窓になって、四重の円の中に円弧が組み合わされている。空に満月が浮かんでいるようなイメージもそこに重なる。ヴァイオリンが立て掛けられているが、そのヴァイオリンの音色もそんなロマンティックな音色を醸し出すのだろう。「春に」という題名のように、まだ早春だが、春が来て、花がいっぱい咲く季節を願いながら表現したような雰囲気。上方の円弧に対して、下方は横に伸びる直線が中心になったフォルムになっているところも面白い。

 河内八重子「埴輪・巫女の棚」。大きなボックスが左右、上下に分割されて、五つの棚ができている。いちばん大きな空間にいちばん大きな巫女の埴輪。そばに頭も腕も欠けたトルソのような埴輪がある。上方には様々な埴輪の頭が五体置かれ、右のほうの棚には馬や壺などが置かれている。右下の壺は縄文土器のようだ。弥生時代のものが中心になっているが、縄文土器が置かれることによって、かえって弥生時代の懐かしい埴輪のイメージがクリアになる。今回はとくに巫女の埴輪が暖色系の色彩で彩られ、中に朱色が入れられて、色彩的な効果を上げている。とくに、この埴輪には絵具が重ねられて、質感といい、温かな、いま出来上がったかのような優しい表情。そして一種呪術的な朱色などが入れられて、優雅な中に強いイメージを感じさせる。古代に対する画家のロマンティックな夢想の心持ちは、この棚全体に漂っている。

 上垣和子「時のあわい(遙か)」。花柄の繊細なワンピースを着た女性が立っている。すこし俯いた雰囲気。その頭の後ろに光背のように満月が浮かんでいる。周りのグレーや緑の色調も優しい。ロマンティックな夢想的な音楽が流れる中にひっそりと立つ女性の佇まいが魅力。

 武田佐吉「記憶の中の…」。中世の街と思われる。茶褐色の屋根に白い壁。教会と思われる鐘楼のある建物の周りが広場になっている。左のほうの建物の前に鞄を背負って歩いている旅行者。右上方にはショーウインドーを眺めている母と娘がいる。ささやかだが、純粋な物語を、画家はこの街を描きながら表現する。物語といったが、その内容はむしろ音楽のメロディに近いものだろう。

 池岡信「里華の人形」。ボックスがあけられて、中からたくさんの人形が顔を出している。ボックスの外側にも映画のシーンを思わせるようなポスター、あるいはチラシのようなものが貼られている。白い衣装をつけた里華の人形が座っている。楽しかった青春時代の記憶が里華の人形を通して画面の中に引き寄せられるかのような雰囲気。そんな夢想的な気持ちがこの不思議なコンポジションをつくる。

 橋本一貫「時」。船で使う大きな舵輪のようなもの。ランプ。ガラスの瓶の中にはたくさんの貝殻。山羊のようなものの骨。ホオズキ。乾いた南瓜。そんなものが静物としてセットされて、独特のしんとした気配をつくる。それぞれのものの方向性というものがしっかりと描かれている。そのシャープな動きが、お互いに響き合う。そうすると、背後の舵輪が輪廻の車輪のようなイメージに変容する。

 佐藤淳「盈虚」。染付の壺に赤、黄、ピンクの薔薇の花。そばに葡萄の盛られたグラス。壁には三つの哺乳類の動物の骨。そのあいだにモンシロチョウが翔んでいる。しんとした気配。画家は対象を眺めることがずいぶん好きである。眺め続けているうちに、たとえばモンシロチョウのような幻想が浮かぶ。視覚を徹底し、それを繰り返す時間が、この独特のリアルでありながら不思議な手触りをもった画面をつくる。

 長谷川満智子「夏草の香り」。工事のための塀のようなものがつくられている前に、白い帽子を持った若い女性が立っている。隙間から広い草っ原が見え、遠くに家並みがある。リアルな再現的な描写力。塀の外側と内側というコンポジションの中に、なにか不穏なエネルギーがだんだんと増大していくような不思議な感想をもつ。

3室

 日野功「川沿いの暮らし」。画家はこの川沿いの建物を連作してきたが、今回の作品はこれまで以上に存在感がある。赤く錆びたトタン屋根の下に洗濯物が干されている。白や赤、ブルー、グレーなどの色彩。その下に植木鉢があって、花が咲いている。テラスのように建物から水のほうに突き出たところに、大きなガスボンベが二本。その下に水に下りていく梯子があり、水の中から杭が幾本も立ち上がっている。塗り込まれた色彩は底光りするような輝きを放つ。このバラックのような貧しい建物を、まるで聖なる存在のように画家は表現する。その繰り返される絵具の重なりによって、一本の杭や梯子さえも、なにか輝くような存在感をもって表現される。

 渡辺晋「木馬と家族」。白馬にまたがる少年。そばに若い母親がいる。その後ろには青い衣装を着た若い父親と黒髪の少女がいる。後ろに電車のようなフォルムが動いている。グレーと黄色、青、褐色などの色彩が繊細に響く。対象を描きながら、実はそこにいるファミリーの内部の時間を描いている。そういった表現力と繊細な色彩に注目。

 池山阿有「山行」。杖をついて歩くおばあさん。モンペをはいて帽子をかぶっている。その腰の曲がったフォルムを聖なるものとして画家は描く。体全体のフォルムを大づかみに捉えながら、杖を持つ手と顔はずいぶん丹念に描かれている。繰り返しモデリングのために筆が入って、その顔と手が輝くような存在感をもって表現される。

 横尾正夫「舞台づくり」。手前に三人のバレリーナ。そして中景に後ろ姿を見せる三人の女性。遠景に建物の門のようなものをつくっている舞台裏の人々を配している。見事な構成力である。そして、その中にいる女性や男性を動きの中に捉えている。ドガなどの群像表現を学び、それを現代の日本に生かした表現として興味深い。

 杉山吉伸「忍冬茶臼女人譜」。画家の住まいは栃木県が、そばに茶臼岳がある。その茶臼岳は火山で、噴煙を上げている。そのフォルムがずしっと画面の中心に描かれ、生きている大地のイメージを表す。それはまた人間の深い情動といったものを暗示する。下方に女性の上半身が描かれている。顔は右にひねられて、その横顔が描かれ、背後に髪の毛が伸びて、風に吹かれて騒いでいる。後ろの棚に鳩と人形が女性を中心に外側を向いている。それらが、イメージの中では現実の鳩になり、現実の少女になりつつあるような、イメージの浸透していく力が感じられる。女性の白い肌、あるいは胸元に置かれた白い手があやしい。女性というものをロマンティックな存在として画家は考える。その極端な例は、会って魅惑されているうちに殺される雪女。そのようなイメージもしばしば画家の作品の中にはあらわれる。今回は、このきわめて男性的な茶臼岳(女性的でもある)の存在を中心に置きながら、人間というものの感情の深さ、その思いというものを見事に表現する。

 根岸右司「浜益に陽が差す」。浜益は北海道石狩の最北端の場所。岬が日本海に向かって繰り返し向こうに伸びていく。その雪の積もったフォルムを見事に描いている。海に傾斜し傾いたところに裸木が幾本も立っている。その風雨にさらされたフォルムが、この風景の強いアクセントになっている。薄ら日が差して、ところどころ地面が光っている。遠景には、影になっているのか、青黒い陸地が続いている。いわば大地のドラマともいうべきそのフォルムを描く。

 藤森兼明「アドレーション・サンタマリア アスンタ」。サンタマリア・アスンタはイタリアの教会である。その内陣の黄金色のビザンチン様式の色彩が実に強い存在感を放つ。それを背景にして現代の女性が座っている。白いワンピースを着、茶のショールを羽織っている。黒い髪。背後の分厚い金の上に朱色が入れられて、画面全体に強い存在感が生まれる。金の輝きが装飾的な効果を超えて長い時間の人々の信仰のヴィジョンのごときものを表現する。清楚な白いワンピースと黒髪のシンプルな様子がそれに対応するのだが、内側からこの女性の佇まいを描くかのような、そういった強さが感じられる。

 寺坂公雄「鼎立の樹」。画面の下方に岩のようなフォルムが見える。そこから緑の若木が伸びている。もう一本はその木の左後ろのほうから伸びている。また、右のほうからもっと黒っぽい緑の木が伸びている。若木のいわば萌えるような緑の色彩が強い効果を上げている。鼎立ということだから、三本の木がそれぞれ存在感を放ってバランスをとっているという意味だと思うが、新しく次の未来をつくるような、そういった樹木のイメージを表現したのだと思う。左のほうに木立の中を通っていく道があって、それがはるか向こうまで続いているのも、この作品のコンポジションの内容を深くしている。

 金山桂子「ガラスの詩」。色彩に透明感があって瑞々しい。透明な三つのガラス。そのあいだに黄色い現代ふうなガラスの細長いフォルムが伸びている。右後ろのほうには中東ふうな形の青いガラスの壺があり、その手前に小鳥をかたどった小さなガラス器がある。また、手前の白い大きなガラス器のそばには、胴に赤や青の入れられたお洒落なフォルムから細い管が伸びていくガラス器がある。それらの置かれた青い机のようなものはかなり曖昧に表現されて、ただ深い青い色面として一気に表現されたような面白さ。単なる机ではなく、それはもっと違ったもののイメージもある。たとえば日が照って、その影のようなものが伸びている。そこにガラス器がそっと置かれているといったイメージもあるだろう。バックは輝くような柔らかな空間で、ほとんど灰白色に近いのだが、そこにピンクやブルーや黄色などが柔らかくほんのすこし差されていて、物質でもなく、空間でもなく、不思議な存在感と奥行をもっている。ガラス器の描き方も、マチエールを描くというより、今回はすっと筆が入っていて、のびのびとした表情をもっている。「ガラスの詩」という題名が使われているように、画家のイマジネーションがその器を通して空間のなかに立ち上がり、うたってくる。

 長谷川仂「朝・古い港で」。イタリアの港町の一隅である。海岸際の道が屈曲しながら向こうに向かっている。そこに自転車に乗った少女と犬が進んでくる。右のほうの船の艫のほうには作業をしている男の上半身が描かれている。手前には無人の船がたゆたっている。湾になっていて、道は屈曲しながら半回転して右のほうに向かう。こちら向きの壁に日が当たり、伸びていく道と同じ側の建物の壁や道は影になっている。その陰影の表現。燦々たるイタリアの光を受け止めた壁や船の物質感のある表現。古い港町の朝の一刻を、画家は生き生きと表現する。上方の建物に窓が穿たれていて、しぜんと人間の生活を想う。その位置によって変化する窓のかたちを目で追っていくと、この街のもつ独特の雰囲気がしぜんと伝わってくるようだ。何か懐かしく穏やかな時間が、そこにたゆたっている。

 町田博文「グラナダの丘」。スペインのグラナダの街をバックにして、椅子に座る女性。色彩豊かなスカートをはいて扇子を持った女性。空がウルトラマリンのような青い色彩。それぞれのフォルムがクリアで、風景と人物を組み合わせた優れたコンポジション。

 長井功「白い道(みずなら)」。雪の積もった道の中に轍が見える。画面の上辺を突き抜けて伸びる樹木。それは葉を落とした木だが、その向こうには葉のついた針葉樹。あいだに茶褐色の葉の色彩も見える。日が差し込んで陰影ができる。樹木の上方に立ち上がっていくかたちと下方の雪道の影によって、爽やかな強い韻律が生まれる。

 福島隆壽「瀬戸内海 '15A FEBRUARY」。椅子に座った男。逆光の中の存在。周りがきらきらとした光に包まれている。二月の瀬戸内海のイメージ。なにか圧倒的な存在感が風景の中にあり、その風景から受けるものを啓示のように捉える男の姿。それがモニュメンタルなコンポジションとして表現される。

 守長雄喜「牡蠣の水揚げ」。画家の作品が変化した。カキ打ち場を描いてきたが、今回は海からカキを水揚げしているシーンである。白い船の前後に養殖のためのいかだが描かれている。そのいかだの下にカキがびっしりとついている。それをクレーンで持ち上げる。そして、男が二人、先についているカキを道具で搔き落としている。空も海も赤く染まっているのは、夕焼けなのか。上方からびっしりと数珠つなぎになっているカキの重量感のあるフォルム。そのそばに太陽が昇っていて、周りを赤く染めている。収穫の様子と夕日のノスタルジックな感情とが重なって、独特の空間が生まれる。海によって育てられたカキの収穫の、いわばモニュマンと言ってよいコンポジションである。

 森康夫「春の訪れ」。雪が浅く積もった様子。車道がカーヴしながら続いている。両側の裸木のすこしカーヴしながら立っている様子。雲と空。淡い暖かな光線が差し込む。親密で懐かしい風景が清潔な叙情のなかに表現される。

4室

 白木啓嗣「至福のとき」。若い母親が子供に乳をふくませている。その二人の姿は、いわば母と子供の永遠の像と言ってよい。それはそのままモニュマンとなるだろう。そんな様子をクリアなフォルムによって表現する。

 木村のり子「枯れ葉の賦」。枯れ葉や切られた枝の上に鳥がとまっている。剝製の鳥なのだろう。背後に木製の椅子があり、そこに白いポットやジーンズの上着。木のボックスにはランプなどが置かれている。秋が終わり、冬が来る、秋を懐かしんでいるような雰囲気もある。季節の移ってゆく時間の流れを空間の中に画家は表現しようと試みる。そこに画家独特のコンポジションが生まれる。

 大附晋「ノルマンディーの港町」(遺作)。今年一月九日に逝去された。享年八十八歳。柔らかなハーフトーンの中に、このノルマンディーの港町に見られるようにヨーロッパの風景を一貫して描いてこられた。その中に光が引き寄せられ、ノーブルで上品な作風であった。筆者はたいへん親しくしていただいていたので、残念である。惜しい人を亡くした。合掌。

 田中実「弥生」。白いブラウスに紫のワンピースを着た若い女性が足を組んで椅子に座っている。後ろに布が吊るされている。グレーに緑の大きな葉が表現されている。ヤツデのような葉で、そのフォルムが生き生きとしている。マティスの文様のような、そんな生命力をもった葉の形が背後にあらわれることによって、この女性も活性化する。卵形の顔と長い首。そのあたりの形の強さ。あるいは手を重ねたフォルムなどが、生き生きと周りのフォルムと響き合う。なにか光を含んだような独特の色彩になっている。

 庄司栄吉「チェリスト」遺作。今年二月七日に逝去された。享年九十七歳である。大往生と言ってよい。もともと大阪外国語学校をお出になって、フランス文学を専攻されたのだが、東京美術学校に再入学された。また、音楽が大好きな人であった。遺作もチェリストを描いたもので、甘美な色彩感覚を感じる。文学と絵と音楽を共に愛した画家であった。合掌。

 円地信二「愛しき友」遺作。若い女性と人形がソファに座っているが、画家独特のうねうねとした曲線によって構成されていて、それが生命力とエロス的な力を表す。今年二月十七日に逝去された。享年八十九歳である。画家の作品を見ると、時々筆者はスーティンを思ったものだが、その独特の曲線による表現力には常に感心していたので、残念である。合掌。

 井口啓「病める人(インドの病院にて)」。男が俯いている。その周りにあるシーツが、混沌とした砂漠のようだ。手前に看護師と思われる二人の女性。ベッドの向こうは空で、そこに両手を前にして飛んでいる人がいる。上方には二七日ぐらいの月が浮かぶ。この白い霊的な存在は魂のようだ。苦悩している人間。病める人。画家独特の強いプリミティヴな表現。

 林可耕「オン ザ マユゲ」。自然体のなかに画家の経験した時空間を表現する。フローリングの床に少女が黒い猫の縫いぐるみを抱えて座っている。赤い上衣に白いブラウス。ウルトラマリンのスカート。そばに柴犬がいて、上方を見ている。少女と同じ方向を眺めている。そこに何があるのだろうか。すりガラスを通して光が差し込んでくる。その中にある微妙な気配。少女の両側に髪がすこし伸びているが、額の上はおかっぱふうに切った黒髪の様子。その清潔な雰囲気が、すっと立った犬と呼応する。愛情をこめてこの情景を描いている。

 河野とみ子「昼下がり」。近景は、室内の丸いテーブルに白い布が掛けられ、古式なタイプライターが置かれている。いま、上方の紙に打たれた文字が見える。出窓のようなところに向日葵が花瓶に差されている。窓の向こうは海で、低い山がその向こうにある。窓に紗のようなカーテンが掛けられてアール・ヌーヴォーふうな意匠を思わせる植物の葉や花の形が薄いシルエットとなっている。その優雅なデザインされた植物の葉や花の様子がロマンティックで、なにか繊細な気配を伝える。海を通してはるか彼方に対する思いのようなもの。画家はタイプライターでそのような思いをつづっているのだろうか。そのようなイマージュが浮かぶところが、この作品の面白さである。

5室

 武石英孝「夜光」。黒いミニの袖なしのワンピースをつけた女性が座って、こちらを眺めている。下に赤い布が置かれている。しっかりと対象が描かれている。優れた筆力に注目。

 小保方清「浜辺」。浜の砂のしっとりとしたマチエールがシュールな気配を表す。そこに原形をとどめていない廃船の一部が置かれている。遠景は海で、白い波が寄せる。音が聞こえてこない世界。東北を津波が襲ったときに三十メートルほどの高さになったという。そういった不穏なことが実際に起こるわけだが、この無音の浜辺の世界には津波に対するレクイエムのような気持ちも感じられる。

 川村隆夫「フランシスコ会修道院」。しっかりとした石造りの建物。上方にはピエタの像が彫られている。緑の入口。扉があけられて、中に座った老婆。建物のもつ堅牢なマチエールと長い歴史のなかに、最晩年を迎えている一人の女性が描かれている。深い感情がそこに表現される。

 野末光子「私の部屋・宴」。黒と白のストライプのテーブルの上に和人形が立っている。そばに招き猫がいる。左のほうには赤いワイングラス。後ろには魚などが置かれていたり、コラージュされた文字のようなものが見える。手前には花がドリッピングした色彩で表現されている。夜の中での画家の想像力の展開を、和人形を中心としながらロマンティックにうたいあげる。どこか音楽的な世界。聴覚を刺激するようなコンポジションになっているところも面白い。

6室

 髙橋恭子「憧憬」。緑のワンピースを着た女性が椅子に座っている。椅子の背に右の肱を置いて、なにか瞑想しているような雰囲気。後ろには白い柱が立ち、それ以外はオレンジ色から緑にわたる色調によって染められている。独特の色彩家である。緑というものが人を癒す色彩として使われている。また、題名のように空間の中に浸透してくる不思議なイメージの力がある。その力によって、たとえば背後のオレンジ色は残照のようなイメージを引き寄せる。この瞑想する女性は、どんな女性も心の中にもっている甘美な存在で、画家の心の中に存在する人恋しいような、あるいは題名のように憧憬という心の動きを象徴するような人物なのだろう。モデルを描いているようで、そのような心の中の女性と重なるように表現されているところが面白い。

 三木レイ子「途」。緑の葉の茂った樹木が七本ほど、画面いっぱいに描かれている。遠景には低い丘のようなフォルムが見える。すこしモダンな色彩のしっとりとした緑。この樹木がお互いに囁きながら会話し、踊っているように感じられる不思議なセンスが面白い。

 伊藤常男「時空」。手前に白い鷺がとまっている。そのノーブルな雰囲気と丸い目とが不思議。背後は十七日ばかりの月のかたちがあらわれ、実はその月は星座になっている。これから月が欠けていくイメージと星座のきらきらとしたイメージとがダブルになって、鷺の光背のようにあらわれている。時間の中に失われていくもの。時間の中に永遠に輝くもの。

 鈴木義伸「砂丘(嵐の跡)」。リアルな表現である。「嵐の跡」という題名のように、樹木が倒れ、散乱した様々なものが砂地の上に置かれている。そして、中景には向こうの丘に続く柵が伸びている。左の遠景には海が見え山が見えるが、不思議なことにそこだけが青い。手前はモノクロ映画だと思って見ていると、急に天然色があらわれたような不思議な雰囲気。写真を使ったような再現的な表現であるが、暴風雨の嵐のあとのイメージをヴィヴィッドに伝える。ここに描かれている光景が面白いのではなく、その前に起きたことに鑑賞者を引き寄せるような、そんなコンセプトが面白い。そのコンセプトによって逆に左の穏やかな青い海が生きるのだろう。

 入江康子「街角」。ショーウインドーの前に立つ若い女性。白いコートを着て、黄土色のバッグを持っている。ショーウインドーの中はファッションの店で、マネキンに服が着せられている。ショーウインドーには手前の横断歩道やビルが映っている。街の中で誰もが経験することだが、それをいわば優しい舞台のように画家は表現する。女性の表情もあどけなく、品がよい。画家の若い女性に対する愛情がしぜんと感じられる。街の中で生き、街の中で暮らす女性の様子を自然体で、そのまま肯定しながら、この不思議な情感のある空間を構成する。朝方のような初々しい空気感が漂っているところも魅力。

 新井清永「待春戸隠高原」。戸隠の山が目の前に迫ってくるような臨場感がある。下方を見ると、麓に向かって一筋の道が続いている。道の両側に雪が積もって、雑木が立っている。しっとりとしたトーンのなかに冬の戸隠の情景を生き生きと臨場感をもって描く。

 山下英夫「漁夫」。赤いパンツ一枚であぐらをかいて、酒を呑んでいる男。だいぶ酩酊の様子。おそらく漁師なのだろう。背後に海があらわれ、赤い魚が泳いでいる。ぐいぐいと描きこんだその筆力によって、生気が生まれる。

 平久美子「白い村」。白い石を積んだ壁。右のほうには少し窪んだ奥に扉がある。左の茶色い扉はあけられている。左は階段が上方に向かい、そこに緑の扉がある。一隅を画面の中に構成して、独特の質感と同時に街のもつ気配のようなものを表現する。

 野中弘士「廃村」。黄土色の色彩が錆びたこんじきに見える。階段や道、建物の窓。手前は道が切れて、その下方には何があるのだろうか。街というものが謎めいたものとして画面の上に表現される。街をモチーフとしてミステリアスな空間をつくる。

 阿部香「Blue moon」。青みがかったグレーの空間。白い薔薇の花が咲いているが、その中にすこし青みや紫色が入れられている。その花々はこの白い円形の机に腰掛けた少女を優しく包んでいる。少女は実は人形である。画家の心の中にある詩心の象徴としてあらわれている。

 谷晶子「希求」。操り人形が何体かぶら下がっているが、手前の赤い人形に独特の力がある。画家には一種の呪術的な力のようなものがあって、色彩によってなにか発言し、鑑賞者の心を捉える。右後ろの十字架のキリストが隠し味のようにきいている。

 野村京子「或る日」。二つのフランス人形が座っている。周りの緑の空間。手前の黒い猫。この空間の中に思いをひそめて侵入していくような画家のイマジネーションの力。

 石川吉郎「北のセメント工場」。俯瞰した位置から眺めている。大きな建物を線によってぐいぐいと描きながら、手前には赤い色彩、後ろにはオレンジの色彩などを入れる。背後の山や一部は白く染まっているから、雪が積もっているのだろうか。感覚豊かな作品。

 渡部かよこ「おだやかな街」。ピンクや黄土色の屋根や壁。暖色系の色彩によって彩られた建物と屋根が画面の中に複雑に構成されている。左のほうに直線的なラインが上方に伸びて右に曲がるのは、あいだに道があるのだろう。それに対して右のほうはそれぞれの建物が自由に建てられ、あいだに空き地があるようだ。しかし、人間の生活する建物、それの集合する街は決して無秩序というわけではなく、なにか独特の秩序がそこにあらわれるものだ。そういった秩序を画家は画面の中に探りながら一つのコンポジションをつくる。全体で大きく旋回するような動きもあらわれる。垂直に立ち上がる動きのなかに煙突がそのリズムを補強する。暖色系の色彩のハーモニーが温和で親密な雰囲気を伝える。画家の深い感情を建物の密なコンポジションを通して表現する。

 河本和子「夢想」。たくさんの花が咲いている。妖精のような女性が花を抱きかかえている。頭の髪が赤い花になっている。そばに鳥が下りてき、枝に赤い鳥がとまっている。自然というものが画家にとって花というキーワードによって染められる。人間も花の化身のよう。そんな画家のイメージが独特の濃密な空間を構成する。

7室

 沢山睦子「深秋の木立」。樹木の幹がたくさん描かれている。地面から伸びている幹もあれば、その途中を画面によって切り取られているものもある。それらが数十本集まって、お互いにハーモナイズする。まるでそれぞれが一つの歌をうたっているような雰囲気で、全体でお互いが呼応しながらハーモナイズする様子は実に不思議な味わいである。

 望月照華「密談」。グレーのテーブルの上に三つの赤い液体の入ったグラス。三脚の無人の椅子。空間が不思議な味わいを醸し出す。

8室

 菅井隆吉「春来」。近景に、林檎の木なのだろうか、屈曲したかたちを見せる木がある。それがほとんど画面全体を覆っているかのような雰囲気。色彩はベージュ系のグレーで、その中に明るい部分や暗い部分の複雑な陰影があらわれる。梢の先まで描かれているその様子は、なにかメランコリックでもあると同時に生命というもののもつ繊細さ、傷つきやすさ、あるいは強靱さのメタファーとなっているように思う。まだ早春の季節。畑や向こうの雑木林の中に点じられた柔らかな緑が初々しい。木の左後方に小屋のようなものが一つ、小さくぽつんと置かれ、その焦茶色系の色彩による立体的なかたちが、裸木のかたちと響き合う。樹木が線によって表現されているが、手前と向こうとのあいだの奥行があり、いわば樹木によってつくられた包まれるような空間がまたこの作品の面白さだと思う。いずれにしても、この一本の木は生きているということの様子をよく表現する。

 稲用忠幸「浜の入江」。浜に壊れた船が一艘。少女を連れた父親が背中を見せている。中景から遠景に向かって水が見える。空よりすこし青みがかった色彩で、なにか光る存在のように描かれている。しっとりとしたトーンのなかに父親と娘の後ろ姿が実に愛らしく味わい深く表現されている。

10室

 五味泰平「春の訪れ」。ベージュや黄土、屋根の瓦のグレーなどの調子がしっとりとした雰囲気。油彩画のもつマチエールを画面の中によく生かして、堅牢な空間をつくる。とはいっても、しっとりとした空間で、建物の周りを取り囲む樹木や草や水などはほとんどトーンによって表現されている。そのトーンの味わい、色調が深く、しみじみとした情緒を醸し出す。

 松岡冨士則「赤い橋の見える雪路線」。水墨の世界を思わせるようなほとんど白黒の表現であるが、雑草の部分の黄土色、踏切の黒と黄色、そして左のほうに見える陸橋の錆びたような朱色が、色彩的な効果を上げている。それに緑のしっとりとした樹木の翳るような調子。上方にはるか向こうの山の様子が雪を抱いて描かれている。ところどころ使われる線が独特の表情を示す。それによって詩情ともいうべきイメージがあらわれる。上方に向かっている踏切の白と黒のフォルム。手前のペケ印を入れた標識。あるいは陸橋の形などが、この雪景の中に不思議な存在感を表す。

 池崎幸「黄昏」。緑の壁の向こうに青い建物が見えるのは、夕暮れのために陰っているのだろう。空はピンクやオレンジに染まっている。手前の緑の壁に花柄のようなものが描かれているのだが、そこに装飾性と生気のあらわれているところが面白く、現実がそのままファンタジックな空間に変容するようだ。そのようなイメージをつくる力がこの作者にはある。また、色彩感覚が優れていると思う。

13室

 坂本直「茂み」。様々な樹木が密集している様子をテーマに淡々と描きながら、その樹木のもつ大きさ、奥行をよく表現する。

 松本信子「八俣遠呂智(水の精)」。これまでの街の風景を描いたものから大きく変化したことに驚く。水の中にスサノオノミコトが座っている。その周りにヤマタノオロチがいる。八つの頭がある大蛇である。この絵の中には、ヤマタノオロチがスサノオを取り巻いているように描かれている。山を思わせるような紫色の優雅なカーヴするかたちが水の上に描かれ、山と水とが一体化したような雰囲気である。また、その緑の水を思わせる空間は、『古事記』の世界に画家の想像力をすすめるための時間の象徴なのかもしれない。いずれにしても、先だっての銀座の画廊での個展で、画家の筆力の非凡であることをよく理解した。その筆力とイマジネーションの力によって、瞑想するスサノオノミコトを中心にしてユニークなコンポジションをつくりだした。スサノオノミコトは出雲で活躍するわけだが、それ以前に天照大神に疎まれて高天原を逐われるという悲劇の主人公でもある。そんなイメージもしぜんとこの作品から感じられる。

14室

 堀木達也「漁村風景」。トタン屋根のバラックのような建物。そのあいだにトラックが一台、顔をのぞかせている。反対側に犬がいる。空を見ると、一羽のトビのような鳥が飛んでいる。トビと犬とトラックとが、画面の中でいわば動く存在として置かれて、不思議なニュアンスを見せる。相当さびれた町で、無人の気配のなかに鳥と犬が生きた世界を表す。

 岩本佳子「箐」。笹が画面全体に描かれている。その流線型の形を歪めたり屈曲したりしながら描いている様子。竹は生命力の強い木で、どんどんと伸びていく。それが地面の低い位置にあって、独特のリズムをつくる。その中にあらわれてくる生命感と形の面白さ。同時にそれが全体で集合体としてあらわれるわけだが、それをいわば無作為のなかのコンポジションのような雰囲気で表現する。

 諏佐英和「瞑想する老人」。椅子に座って何か考えこんでいる老人。後ろを見ると「アヴィニョンのピエタ」のキリストが省かれた絵が描かれている。ということは、この老人をキリストに見立てているということになるのだろうか。老齢の人間のもつ苦悩のようなものの表現だろうか。いずれにしても、老人のフォルムの細部まで緻密に描き起こすその再現力に注目した。

15室

 川村守一「郷愁河崎(にわか雨)」。細々と心をこめて丁寧に表現している。画面の下方三分の一あたりは水面で、岸壁になっている。船が係留されている。岸壁の向こうには瓦屋根のお店があり、中で働いている人がいる。そんな問屋街の一隅を様々な色彩を重ねながら表現する。夕方のともしびがこの光景を照らしているのが懐かしく、また心温まる様子。柔らかな色彩がお互いにハーモナイズしながら、いわば心の町ともいうべきイメージをつくる。

 大久保佳代子「宿題終わったよ。」。少年がソファに座っている。片足をその上に立てている。光が差し込む。たらし込みふうな水彩絵具の使用とところどころ入れられた線の力によって描き起こす。光の扱いが優れているし、全体の量の表現がよい。

 清水佳代子「高架下の家」。白黒の世界。木版。古い建物。ブロック塀。トタン屋根の一部は壊れている。その向こうには二階建ての家が見える。電信柱が立つ。電線がそのあいだに渡っている。手前の下方は影になって暗く、上方は光が当たって白い。下町の一隅を独特の詩情のなかに表現する。その詩は白と黒の、あるいはグレーの陰影のもつ力による。

 尾山章「火祭り『極』」。木版画。大を持った男たち。男たちは画面の下方四分の一ぐらいに集まっていて、そこから大松明が上方に伸び、上方三分の一あたりに赤い炎が燃え上がっている。雄大な力強いコンポジション。

16室

 佐々木節子「休日」。猫を膝に抱いた六十ぐらいの男性が、肘掛け椅子に座って足を組んでいる。窓はあけられて、街の建物が描かれ、背景に山並みがのぞく。淡々とした自然体の表現であるが、この男性のもつ精神性ともいうべきものがよく表現されていると思う。

17室

 黒川敬子「窓辺の人物」。低学年ぐらいの年頃の少女が二人、丸い椅子に座っている。左はそのまま淡々と描かれているのだが、右のほうは空間のなかに陰るように置かれている。まるでこの左の少女のシャドーのような雰囲気で表現されているところが、心理的な印象を与える。形態感覚が優れている。

18室

 小林理恵「横浜夕景23・渚」。木版とは思えない大きな画面。波が大きく右のほうに向かって動いている。その遥か向こうは水平線で、残照が海を照らして黄金色に輝かせている。黄金色、赤、青の三つの色彩のパートに分けられるのだが、それが逆三角形のフォルムの中に置かれて、豪華、雄大なコンポジションになっている。

 鴨脚えり子「花街を繫ぐ~世界文化遺産の森~」光風会会員賞。がさんに先導されて前にを立てて歩んでいる。赤い衣装に、花魁特有の前につけた帯の紫色。この後ろの樹木にがしてあるから、この森は古木がたくさんある場所なのだろう。京都は千三百年の歴史をもつ都である。画家自身は下鴨神社の社家の出。しきたりをテーマとして、静々と歩む花魁を中心とした見事なコンポジションである。

 住吉由佳子「森森」。雪の積もった森の一隅。手前は池のようになっていて、白骨化したような木が立ち枯れている様子。それが水に映っている。その向こうは繁茂する生命力豊かな植物のフォルムが連続している。死と再生。生きていく力。輪廻するようなイメージを、独特の抽象的なコンポジションの中に表現した。

 大串悦一「光さす」。林の左上方から光が手前に差し込んでいる。その向こうに太陽があるのだろう。そのあたりのオレンジ色から緑、明るい紫がだんだんと右に行くに従って黒々としたシルエットになる。水面も同様のグラデーションになっている。光というものをこのようなコンポジションの中に画面に引き寄せ、その魅力を表現する。聖なるイメージがそこに漂う。

 大上敏男「扉」。アクリル絵具と思われるが、厚く塗られた重厚な作品である。グレーの扉がすこしあけられている。その扉や周りの壁にポスターの貼られた跡がある。その文字に独特のリズム感が感じられる。メトロのシリーズが長かったのだが、この場所はどこなのだろうか。いずれにしても、人間の精神のもつパッション、あるいは詩情ともいうべきものをダイナミックに表現する。

 吉田勝美「ねむらない街」。女性が球を持って座っている。後ろにはメリーゴーラウンドの馬が回っている。そのあいだに縦笛を吹く少女。サーカスのもつエキゾティックな雰囲気を線によるフォルムによって見事に表現する。手前のすこしピエロふうなイメージをもつ女性と妖精的な少女と回転する木馬を一つの画面の中に構成しているのだが、実に優れたコンポジションである。

 滝澤宣寛「公園の古木」。鉛筆によってこの樹木の様子を丹念に描いて、強い生命感をつくりだす。樹木というのは、見れば見るほど不思議な形をしている。とくに古木はそうである。そのフォルムを長く生きた生命体として画家は表現する。

19室

 川村未紗「凡庸」。籐の椅子に座った女性。七十歳ぐらいになるのだろうか。その顔や手の表情、あるいは体全体の様子を実に生き生きと表現する。対象に接近して、その対象のもつ存在感を再現する力に感心した。

 高木満智「春暁 浜の宿」。右上に民宿はなやという文字が見え、そばに赤い郵便受けが置かれている。それがそのまま画面の面白いアクセントとなっている。立派な入口を入ると、中の広場にまた門があり、樹木が伸びて花が咲いている。そんな様子を緑や黄土、茶色などの色彩を使いながら生き生きと描く。筆触を重ねることによって、生気あるリズムが生まれる。扉の向こうから猫がのぞいているのもほほえましい。

 半田豊和「春のうた」光風会会友賞。マンドリンを持つ女性。白いワンピースを着ている。後ろに音譜を思わせるような不思議な抽象的なフォルムが見える。リズミカルな雰囲気の中に明るくこの女性の全身のフォルムを描く。

 片山弥生「鳥居門」。この門のマチエールを出そうとして絵具を重ねている。鉄の鋲を打ったずっしりとした木のお城の門。すこしあけられて、向こうに緑の草やもう一つの小さな建物が見える。手前に三羽の雀が来てとまっているのがほほえましい。いずれにしても、数百年の歴史を経てきたと思われる扉のもつ存在感が、この作品の魅力の中心になっている。

 山崎伸子「爽日」。金の砂子をまいたような絢爛とした屛風の前に、盛装した舞妓の姿。青に片輪車や花々が大きく描かれた華やかな振袖を着、黄金色の扇子を持った女性。和風なすっきりとした顔立ち。おちょぼ口に大きな目。花の髪飾りが下方の衣装とよく響き合っている。和服を着た日本人の美というものを画面の上に追求して、余念がない。帯もまた華やかなもので、赤白の帯締めがよく全体の中で生かされている。端然とした様子を見ると、これからこの女性は日本舞踊を踊るのだろう。その直前の気品のある凜とした雰囲気を表現する。

20室

 渡邉靜子「私空間」。画家のアトリエ。H型のイーゼルに白いキャンバス。線描きでピエロの顔。下方にパレットやナイフ。その下に溶液などが置かれている。画中画のキャンバスを中心に置きながら、周りの道具をしっかりと描いて強い存在感を示す。強いマチエールが独特で、そのマチエールによる臨場感としっとりとした色彩に注目。

 伊藤二三男「光の中で」。シューズをはいて立っている女性をすこし横から眺めている。青、赤、黄色、三色の華やかな衣装。床もバックもグレーで、その中に女性のフォルムだけが浮かび上がるように表現する。毅然としたムーヴマンがあらわれる。

 川尻和子「森の記憶」。階段の向こうに白い教会がある。カップルの男女がそこに向かおうとしている。手前には尼僧が一人立ち、祈っている。誰も座っていない三脚の椅子。周りに樹木が立ち、しっとりとした緑の葉の様子。なにか鑑賞者の心を癒すような独特の空間が生まれる。心の中の風景のような表現に惹かれる。

 尾関静枝「雪の奥利根」。遠景におむすびのような山頂を見せる山が広がっている。中景には雪景に隠れてすこしのぞく川がカーヴして、空を映して青い。周りは雪景だから、その青が目を引く。上方の空の青より雪の中の青が構成のポイントとなっている。雑木の塊が手前の地面に二ヶ所あり、その褐色や緑の調子はまさに日本の風土のしっとりとした調子。空の青さと山頂の雪を照らす光、あるいは前述した中心の川の青などを見ていると、風景を通してロマンティックなときめくような心象があらわれる。

21室

 木下貴志「ルージュの伝言」。洗面台に立ってルージュを持って鏡に向かっている若い女性。短いジーンズの短パン、ストッキングで床の上に立ち、熱心に鏡を見ている女性のしぐさをリアルに表現する。モデルが気がつかないうちにその様子を描いたような臨場感が感じられる。

23室

 蜂須賀美智子「ヨシ焼き(渡良瀬遊水地の春)」。春といっても、まだ冬の雰囲気の雑草が手前にあって、その向こうに斜めに火がメラメラと燃えている様子が描かれている。背後はもう焼いて黒ずんで煙が立ちのぼっている様子。火というもののもつあやしい雰囲気がよく表現されている。

 太田稔「復興の華」。海の向こうに対岸の様子が黒くシルエットふうに描かれ、そこに点々と光が見える。その海の上に巨大な花火が上がる。夜の花火である。繰り返し画家はその花火の様子を描くのだが、今回の作品を見ると、ある程度画家のイメージによって花火の形態をつくりだしている。今回はとくに絢爛な雰囲気で、巨大な花火の内側にまた花火が上がっている様子。その連続した中に深い祈りのようなイメージがあらわれる。華やかなものと祈る静かな内向的な心持ちとがリンクしたところから、この不思議な空間が生まれる。

24室

 西敏嘉「回廊のあるお寺」。木でできた廊下。そこから立ち上がる木の柱。天井も木でできている。その広い廊下の先は腰板だけで、上方はあいていて、霞んだ山が見える。右のほうから光が入ってきて、影が長く尾を引く。光と影の様子を木が映し出している。なにもないシンプルなその様子が空気感や奥行をつくりだして、シュールな雰囲気が生まれているところが面白い。

25室

 佐々木啓允「エレンのコテージ」。レストランの木の扉が閉まっていて、外のテーブルにパンやケーキなどが置かれている。上方にガス灯のようなかたちの電灯がともっている。石と石のあいだに漆喰を塗った壁。それぞれのディテールを丹念に描きながら、なにか物語を紡いでいるようなコンポジションに注目。

 西原さと子「やすらぎの光」。ゆったりと肘掛け椅子に座る女性。白いワンピース。量感のあるフォルム。すこしあけられた窓の向こうの樹木の緑。柔らかな光がこの光景を照らす。ハーフトーンの色彩と女性のフォルムに注目。

26室

 佐々木和子「冬、ある日」。緑が主調色となっている。その緑の扱いによって神秘的な雰囲気が生まれる。丸いテーブルに肘をついて座る少女。黒い猫に話しかけているようだ。右に手紙を持っているから、恋文のようなものだろうか。後ろに湖が広がり、雪を抱いた樹木や遠景の山が見える。湖の緑もまた深い感情を表すようだ。「底ひなき淵やは騒ぐ」という素性法師の歌があるが、静かな中に深い思いが表現される。

27室

 鬼頭義和「丘の家々」。褐色の地面に点々と民家が立っているのだが、後方に行くにしたがって高くなるような場所で、あいだを階段や道がたどっていくように続いている。そんな全体を一つの画面の中にまとめる。水墨でいう山水を思わせるようなコンポジションが生まれる。色彩が、地味ではあるが、微妙な変化があって、独特の魅力を放つ。

28室

 中島洋介「勝手口」。懐かしい光景。板の引き戸の前に水を入れたバケツが置かれ、日が当たっている。そばに水道管とホースが見える。上方を見ると、軍手などが干されている。金属のバケツと中の水の質感が光の中に存在感を表す。

30室

 粷谷直美「蒼のお茶会」。『不思議の国のアリス』がテーマになっている。宙に浮かぶアリスの下方に楕円形の青い光のようなものが見えるが、それは時計で、文字盤が外れて宙に浮いて混乱している。そばの階段、帽子屋、ヤマネ、三月兎などが描かれ、独特の円形の動きがあらわれる。ユニークなコンポジション。

 西田貴世「クラリネットを奏でる人」。楽譜台に向かって左手でクラリネットを膝に持ち、右手で譜面に手を伸ばしている。白い衣装。淡々と描きながら、少女のもつ存在感が表現される。しっかりとした量感とシンプルなフォルムの魅力。

31室

 藤田壽男「ブラシュ」。ブラッシングをする女性。シュミーズ姿で鏡に向かっている。ブラシを持つ二つの手の表情、フォルムが面白い。細部のフォルムを面白く画面の上に生かしている。

 川村寿一郎「白と黒のバラード」。雪の中の大きな二頭の黒い犬。その犬に接近して、息や体温なども感じさせるような臨場感のある表現。

 鈴木三枝「Poupee en biscuit」。人形が画面の真ん中にいて、グレーの椅子に座っている。その花模様の衣装やくっきりと開いた目の表情などがミステリアスな雰囲気。そばに木製の簞笥があり、上に糸巻。あるいは百合の花。あるいは裁縫のためのマネキン。モダンな洋風の感覚の中に、なにか物語が進行しつつあるような様子が興味深い。

32室

 齊藤紀久子「雪の竹林」光風奨励賞。竹林の中を道が伸びている。幹のカーヴするかたちと緑の新緑のような色彩が独特の韻律をつくる。

 渡部孝司「記憶の扉へ」光風奨励賞。鉄の扉の前に座る少女。倉庫だろうか。扉は錆びている。その質感に対して、いま生きている女性の柔らかなボディが対照される。

 出来尾裕子「尋海神・あけゆく」光風奨励賞。海の波が手前で渦を巻いている。その複雑な水のかたち。色彩も泡立つ白から深い緑や青までで複雑だが、そこに朝日が斜めに差し込んで、より複雑な調子をつくる。なにか神秘的な神々しい風景が生まれる。また、向こうまでの海の奥行がよく表現されている。

 松山芳子「遥に」光風奨励賞。鉄の扉に青いペンキが塗られ、ルート66などの白い文字が見える。ずっしりとした存在感がある。

 大森まさ代「キッチン」光風奨励賞。大きな中華鍋に、三つの蟹の茹でられた赤い色彩。それが黒い中華鍋を背景に輝くように表現される。

 上野留美「旅日記」光風賞。左手を右手の手首に添えて、すっと立った女性のフォルムが生き生きとしている。青いシャツに白いスカート。背景にはグレーのバックに世界地図のようなものが浮かび上がる。清々しい印象とフォルムに対する感覚のよさに注目。

 菊池彩「こわれもの Ⅱ」光風奨励賞。バイクがいま修理中である。赤いバイクで、後輪は外されている。その一種の混乱の中にフォルムをぐいぐいと描き起こし、スピーディでシャープな動きを表現する。

 青柳幸子「内房のひと」光風奨励賞。木製の椅子に座った男。題名から見ると、漁師なのだろうか。男の生活感のある表情や体つきをリアルに描く。

 髙田望「夏の日」光風奨励賞。階段をだんだんと上っていく先は光の中に消える。周りの鬱蒼と茂る樹木。自然のある一隅を画家は発見して、ぐいぐいと描きながら、なにか神秘的な雰囲気をそこに表す。

 鈴木里奈「二十歳の憂い」光風奨励賞。椅子に座った二十歳の少女。膝に両手を置いている。地味な色彩であるが、この少女のもつ存在感、その個性的な表情、つまり、肖像画としても優れた効果を上げている。背景の雪の積もったような建物、風景と手前のグレーの空間との上品な対比も面白い。

 白石美佐子「憩い」。小学校六年ぐらいの女の子が椅子に座っている。背後にグランドピアノの鍵盤が見える。少女の姿が愛らしい。柔らかなその体型を生き生きと描く。優れたデッサン力が感じられる。

33室

 山地あずさ「便り」。手紙を読む女子生徒の前に大きな壁があって、そこに抽象的な文様が見える。教室の一隅のような空間。そこに差す光。少女の姿。それぞれを生き生きと表現する。

 中野日和「遠い記憶」。近景に踏切がある。いま遮断器は上方に上がっている。すぐ向こうは石段になっていて、昇っていくとお寺の屋根のようなものが見える。そこになにかあやしい気配が満ちているような雰囲気。ある意味で精神的に感応する空間を画面の中に描く。そういった能力に注目。

 熊倉幹子「八月の日曜日」。ベージュに点々とした模様のある衣装を着た女性が床に座っている。その女性のムーヴマン、あるいは座ったなかにある命ある人間としての存在感をよく表現する。柔らかな色彩がハーモナイズする様子も魅力。

34室

 中島武「扉」。アーチ状の入口に厚い木の扉がつけられて、いまそれがすこしあけられた。その向こうにエメラルドグリーンのワンピースを着た若い女性が立ってほほえんでいる。描きこんで強い手触りのある表現。

35室

 髙野悦子「岸辺の町(クロアチア)」。画面に接近すると、画家はずいぶん丹念に筆を重ねていることが分かる。それによって、しっとりとした中に深い情感が醸し出される。道に白い上衣を着た旅行者らしき女性が立っている。手前は川で、水が深い表情をたたえる。壁のオレンジ系の柔らかな色彩にしみじみとした調子があらわれる。

 田村和子「沖縄の海」。燦々と日が照る中に海が青く輝いている。いま潜水をしている男が浮かび上がって、周りに波が立っている。向かって右のほうには、もう一度潜ろうとしている人の姿が見える。動きと光の表現に注目。

37室

 立木雅子「凍てつく村」。右のほうに道が続き、それに沿って建物が見える。それに対して左のほうには階段が屈曲しながら上方に伸びている。それに向かい合う家の壁。中心にはレストランがあり、階段の上にはアンティークという看板が見える。幾何学的な形の中に独特の美意識が感じられる。雪が降っていて、風景を、聖夜といった、そんな物語性のある情景に変容させる。

 西田浩司「うつつ」。床にシーツを敷いて画集を眺める女性。横座りに座っている。そのフォルムが生き生きとしている。

 仲田洋平「分裂再生~私の翼は何度でも蘇る~」。若い女性の背中から白い大きな翼が伸びている。ところが、その下辺を見ると、それが壊れて破片となって散っている。その痛々しいイメージと同時に、長い髪に白い衣装をまとった魅力的な女性のフォルムが、壊れつつある翼と相まって独特のロマンティックな物語を感じさせる。白の扱いがうまい。

第92回春陽展

(4月15日~4月27日/国立新美術館)

文/高山淳・編集部

1室

 小池悟「Cloud」。テーブルがあり、飲み物が置かれている。梯子や植物も見える。頭のない、両方とも尻尾の犬がところどころにいる。雲が女性に変容しているのか、女性が雲に変容しているのか、そんな様子のフォルムが画面の真ん中にあって動いている。画家にとって女性の存在は曖昧で魅力的であるが、雲のようにその実体がよくわからず、曖昧なままに部屋の中を動いていく存在ということになるのだろうか。そうすると、頭のない犬は画家自身の肖像画と言ってよいかもしれない。そんな一種女性崇拝的なイメージの中に室内の風景が動いていく。そのノンシャランなイメージの展開が今日的だし、面白い。(高山淳)

 有吉宏朗「流れる風景」。ほぼ正方形の画面の約三分の二はグレーの空である。空と接する水がその下方にのぞき、岸壁に向かって道路が続き、建物がある。幾何学的な形をシャープな線を中心として表現する。雨が降っているような雰囲気で、しっとりとした様子。無機質な幾何学的なものと雨が降ってしっとりとした様子となにか孤独な雰囲気とが、この風景を叙情詩の世界に変容するようだ。(高山淳)

 畠山昌子「Vision 150401」。水面に樹木が枝を伸ばしている。そのあいだから対岸の建物がうっすらと見える。水は樹木を映している。樹木のあいだに白い空がのぞく。きらきらとした光と逆光の樹木の枝と葉。それを映す水面。そして、霧のかかったような対岸の風景によって構成されている。なにか鑑賞者の心を癒すような力がある。それはこの緑から青にわたる色彩と同時に色調の深さによるものだろう。それを映している水の様子には、それは虚像には違いないのだが、もう一つの世界がそこにあるような、そんなファンタジーも生まれている。(高山淳)

 四谷明子「DESTINATION」。デスティネーションとは、目的地とか行き先という意味。岩肌の地面が隆起して、尾根のようになって向こうに続いている。その上に三つの直方体がつながっていて、それは道を思わせる。ところがその先は行き止まりで、岩が遮っている。つまり、目的地には到達できないコンディション。そんな憂鬱な風景を現代のコンディションのように画家は表現する。主観的な意味合いが、世相とかの客観的な社会性の広がりをもって描かれているところが面白い。長方形の画面の真ん中あたりから岩が突き出るように画面の上辺から上がっているのもユニークな表現である。(高山淳)

 三浦明範「Quo imus?」。題名はラテン語で、「我々はどこへ向かうのか」という意味になる。裸の男女が立っている。それを後ろから描いている。男は前に、その後ろに女が寄り添うように立っている。下方はフローリングで、そこに山羊のようにも水牛のようにも見える巨大なカーヴする角をもつ頭蓋骨が置かれている。向かって左のほうには二羽の鳥が死んでいる。西洋にはヴァニタス画といって、虚栄を忘れろ、やがて死が来るから死を忘れてはいけないという絵のテーマがあるが、そういったテーマにも系統立つのだろう。フローリングの床のはるか向こうは地平線になっていて、その上方は暗い。つまり、未来はよく見えない。それに向かって立つ男女の姿。鉛筆による表現で、女性の白い肌のなかの陰影と男のまた違った肌色の陰影とが対照される。鉛筆によって色までも表現しようとする画家の優れた筆力。画家にとって、運命とか死とか生という内容を描くのに、とくにカラーにする必要はない。テーマが明確になればなるほど、画家は自分のデッサンを磨いて、デッサンによって人間を捉え、それによって鑑賞者に語りかけてくる。そういった方法をとる画家の最新作である。(高山淳)

 小林裕児「地底湖」。地底に湖がある。それはまた人間の意識の深く下りたところにある世界と言ってもよい。そこは死者も生者もともに集まる場所のようだ。湖の真ん中にボートがあって、ボートに若い夫婦とツインのような少女がいる。ミモザのような黄色い花の中に立っている。そのそばにもお椀のようなものが浮かんでいて、そこにも人間があらわれ、その後ろに樹木のあるものが、まるでお盆の迎え火で現れてきた魂のような雰囲気。近景では男女がタンゴを踊っている。その後ろには山羊が落下してきているし、そのまた向こうには馬の背に乗る女性がいる。上方を見ると、羽の生えたカップルが浮かんで、男は魂の火のようなものに手を差し延べている。船が浮かんだ先には女性が一人立っている。つまり、男女や子供、その魂、動物たち、鳥、樹木、あらゆるものがここに集められて、自由になり、気儘に自分自身を取り戻している。そのコンディションを画家はここに描こうとする。生と死の境界をなくした世界を描こうとする。その画家のヴィジョンの強さと、それを表現する空間のクオリティに注目。(高山淳)

 東直樹「形相因」。花あるいは人間のようなフォルムを、点描を用いたり、色を滲ませたりしながら空間の中に表現している。画面の中心付近は、空間に包まれるように隠れて曖昧になっている。形相因とは、素材と結びついてあるものが生成するための概念で、建造物でいう設計図に当たるものであると説明される。モチーフが仮に人間であるならば、このフォルムは人間から肉体を除いた部分、魂であろう。そのように見るとこの作品は、人間の頭の中にある魂の形を取り出して、キャンバス上に再現しようとする試みそのものであり、頭の中にしかない概念の曖昧な形を、画家の筆力によって見事に捉えたものである。(紺世邦章)

 沓間宏「シロアムの池(乾かぬ泉)」。シロアムの池は、その池の水で盲人が目を洗うと目が見えるようになったというキリストが奇跡を行った泉のことである。その泉が画面の真ん中にほんのすこし青から黄色い色彩で神秘的に表現されている。それを岩が取り巻いている。上方に満月があらわれている。岩の組んだ様子は困難な人生を連想させる。そして、上方の月はキリストを象徴するようだ。新約聖書から題材を取った作品だが、画家独特の強いコンポジションである。(高山淳)

 濱實「海岸風景 1」。海に沿ってコンクリートの道が続いてカーヴしていく。塀が黒いシルエットになっている。光が当たったところの塀は左にあって、不思議な緑色。その左のほうに湾がのぞく。道の向こうにも海があるようだ。空に雲が出ている。その明るい白い雲と左のほうの暗い雲の様子が不思議である。日が差しているところと雨の部分が同一画面にあらわれているようだ。道は濡れている。見晴らしがきかない道は、なにか困難な人生の現実を思わせる。そんな上に輝くような白い雲は希望のようだ。そして左の湾の渾沌とした海。海の中に杭のようなものが見えるし、電信柱のようなフォルムや黄土色のアーチのようなフォルムも見える。それは深い心の中の領域の世界のようだ。一転して左の塀を越えると、渾沌とした内界がそこに浮かぶ。晴れと雨と述べたが、現実と内界も同じ画面に併置されているようだ。しばしば私は濱の作品を説明するのに、内田百閒の海に突き出す突堤の不思議な世界を例にする。そこは様々なものの境界領域で、境界領域であるがゆえに、現実と非現実、外界と内界、様々な相対する要素がそこに引き寄せられ、時には謎めいた女性さえも現れてくるのだが、今回の作品はこれまでの作品とすこし異なったイメージを感じる。渾沌とした中に視界が開けはじめてきたような、ときめきのような、そんなイメージが画家独特の純粋な、猥雑なものを取り外し脱落させたなかにあらわれてくる。そこにあらわれてくるトーンは実に繊細で微妙なものがある。それこそが、この作品の絵画性と言ってよい。(高山淳)

 大石洋次郎「ばんかのとき」。夏がそろそろ終わりに近づいた頃。樹木の上に猫が寝そべっている。少女を膝に置く母親の後ろでは、犬が眠そうな雰囲気で横になっている。母親が座っているのは、大きなキノコである。姉が木に梯子をかけて上を眺めている。そんなすこしアンニュイな夕方のファミリーの様子を生き生きと表現する。人間以上に猫や犬が生き生きとしているところが面白い。(高山淳)

 山本睦「L'ESPOIR」。エスポワールとは希望という意味だが、これは震災によって崩壊したコンディションを画家独特の構図によって表現している。倒れかかった柱。机の上は泥にまみれ、その机は半ば水の中に没している。水の中に垂れた泥水は、水の中に同心円の波紋を起こしている。ところが、その水の同心円の波紋を見ていると、そこには新しく再生する力がその水に宿っているような、もう一つの対抗するヴィジョンがあらわれていることがわかる。いて考えている白馬は画家自身なのかもしれない。画家によって大災害を咀嚼し、希望のストーリーをこの画面の中に表現した。シャープなエッジの立ったフォルムが画家独特のフォルムで、それをタロットカードで占っているような不思議な光景に注目。(高山淳)

2室

 山中眞寿子「見上げるひと」。女性が空を見上げている。胸から上が描かれている。右手の掌が見える。周りにたくさんの花が咲いていると思ってよく見ると、それはすべて鳥である。フクロウからカナリア、ハト。様々な鳥が集まっている。色も青、白、黄色、紫など。とくにところどころ紫の色が置かれているのは、この女性の黄色の補色であって、強いハーモニーをつくる。鳥は画家にとって心のメタファーと言ってよいのだろう。希望もあれば、苦悩、渾沌、怒り、優しさ、様々な感情が一つひとつの鳥に託されているように思われる。つまり、鳥を使って心のヴァラエティを表現した。同時に、この女性の体の色彩を見ていると、それ全体がひとつの植物的なイメージと重なる。植物の命が女性の命と重なってオレンジ色に燃えているような気配がある。それを様々な人間的要素が取り巻いて、全体で強い生命力ともいうべきものがあらわれてくる。だんだんと日が暮れて夕方になってくると、ますます鳥たちは活性化し、画家は人間を超えて植物にも花にも様々なものに変身していくような、そんな強いメタモルフォーゼと言ってよいイメージになっているところが面白い。(高山淳)

 羽田裕「ドルドーニュの古城」。ドルドーニュはフランスの南部の内陸にある町である。そこを西に向かうとワインで有名なボルドーがあり、大西洋に向かう。南のほうに行くとスペインがある。そんな場所の古城のある風景。石を積んだ建物が、どことなく中世ふうな印象を与える。その前の斜面の緑。古城を囲む樹木。林。一つひとつ丁寧に画家は描く。個的なものが普遍性を獲得するように表現する。また、独特のハーフトーンの陰影がつけられている。かつて画家はイタリアで勉強したとき、その教授に半音階的な表現のユニークさを指摘されたそうだが、この作品から筆者はその恩師の言葉をしぜんと連想した。(高山淳)

 浦野吉人「密やかな夜」。バラックのような建物。二階建て、あるいは三階建て。いずれもその上の屋根裏にもう一つの部屋があるようだ。母親と娘、二人の男性、少年、あるいは、怒っているような女性の顔、瞑想的な詩人の顔。眼鏡をかけてほほえんでいる男などの顔が、その窓から浮かび上がる。建物とほぼ同色のグレーがこの建物を包んでいて、上方に星がまたたいている。下方のドアがすこしあけられ、室内の明るい光が滲みでている。人間と人間の連帯感。人間が暮らしている家を自由に集合させて、語りかけてくる。余分な色彩は抜かれて脱落し、室内をかたちづくる骨格があらわになる。装飾性がなくなったために、スラムのような雰囲気が生まれるのかもわからない。もっとも、高級住宅地の中には人間の気配はあまりなく、スラムのようなところにこそ人間の息づくようなリアルな生活感があらわれるだろう。そこではののしり声や、ときに吐息さえも聞こえてくるだろう。そういった人間に対する接近の仕方、その近さからこのようなコンポジションが生まれる。接近したうえでイメージを引き寄せ、もう一回、突き放すようにこの建物の中に人間たちを閉じ込める。それによって叙情が客観性を獲得し、独特の詩人の世界があらわれるといったことになるだろうか。ところどころ赤や黄色、青が使われているのが、まるで宝石のような魅力である。(高山淳)

 堀内貞明「3・11 そして誰もいなくなった」。緑の肘掛け椅子にエメラルドグリーンのような透き通った上着と帽子が置かれている。手前の緑の絨毯の上に赤い靴が転がっている。背後の窓がすこしあけられて、向こうに灌木が見える。緑の深いヴァリエーションが実に魅力的である。その緑のヴァリエーションには香りさえも感じることができるほど繊細なものがある。画家自身も病気をした。三・一一でたくさんの人が亡くなった。三・一一の出来事が画家にとって身近なものとなった。そのような深いところから表現された空間だと思う。肘掛け椅子の上の透明な緑の上衣も帽子も、亡くなった人のもののようだ。転がっている赤い靴も同様のイメージである。つまり、ここにあるのはかつていた人の不在の空間である。深いレクイエムの心持ちが、そこまで下りてくることによってもう一度、再生とか希望のイメージを引き寄せようとする。(高山淳)

 入江観「湖畔晩夏」。最近、日光のシリーズが続いているから、この湖は中禅寺湖なのだろうか。もしそうであれば、向こうに見える山は男体山や白根山になる。晩夏ということだが、まだ緑は瑞々しく、光を受けて柔らかな緑あるいは暗い緑と様々な色調を見せる。山の上には白い雲が浮かんでいる。その上方はセルリアン系の空で、湖もセルリアン系の色になっている。手前の芝生のような草の緑のあいだの地面の代赭色。そして草に咲く可憐な白い花。樹木や山に囲まれたこの湖の不思議なセルリアンブルー系の青が、明るいなかに神秘的な様子を見せる。空はごつごつとした表現になっている。かつて画家は、空は単なる空ではなく、手触りがあって、手で触れるように一つひとつの面ともいうべきものが見えてくるときには調子がいいと述べられたことがあるが、まさにそのようなコンディションの空が上方にあって、この湖を眺めている。客観的に見えて、実は空も樹木もこの湖を囲んでいるような、そんな緊密な配置になっているところが面白い。つまり、半球状の空間がここに描かれていて、その半球状の中心あたりにこの静かな青い湖が存在するように表現されているところが、この作品の魅力だと思う。(高山淳)

 松島治基「試し刷」。版画を試し刷りしている作業を描いている。ルーペで見たり広げたりしながら動作をしている白髪の男性は自画像なのだろう。その横に会話をしているように見える同じ男性が衣装を替えてあらわれているのも、同様に画家自身だろう。柔らかな光が差し込んでいる。光による遠近感ともいうべきものがあらわれている。手前に丸まった白い紙。大きな机。この空間を支えるのは光と影である。その光と影の独特の力や魅力が、この作品の鑑賞のポイントである。(高山淳)

 今關鷲人「虹」。空が約六分の五ほどを占め、下方に橋が左右に渡っている。その上方に巨大な虹が立っている。赤、黄色、緑、紫。雲はオレンジ色に染まっているから、朝日が差しているのだろうか。あるいは夕日かもしれない。ただ、透明なこの色の感じからすると、朝日のように思える。巨大な虹の表現が大胆で、力強い。独特の色彩家だし、独特の空間表現だと思う。(高山淳)

 積山恭平「観月」。お寺の建物が象徴的に赤褐色のシルエットで描かれている。その前に立つお坊さん。上方に月が浮かんでいる。タイなどの仏教国で取材したイメージを感じる。厚く塗られた絵具がふかぶかとした雰囲気である。月がこの風景を照らしているように表現されているところが面白い。月に対するそのような親和力はおそらく日本人独特のものであるに違いない。(高山淳)

3室

 中嶋康評「永遠」。青いバック。紫色の花が咲いている。一筋の光る道が左右に伸びている。手前には透明な立方体の中に球やリングのようなものが置かれている。一本の長い茎が伸びて、不思議な花を咲かせている。水滴が宙に浮いている。ミクロな世界がそのままマクロな空間の性質を獲得して、なにか永遠的な時間のなかに置かれているところが面白い。(高山淳)

 奥田良悦「新しい家族の誕生を見守る」。土の中の様子を画家のイメージによって表現する。中心に女王蜂が大きく描かれている。そばに卵がいくつも転がっている。それに働き蜂がとりついている。天井にも働き蜂がいる。閉塞された空間の中の女王蜂と働き蜂。そのファミリーが異様なほどの密度の中に表現される。卵にしても蟻にしても。蟻の一匹などは手の上に載せてみると、重量さえも感じないと思うのだが、それが一つひとつの重量をもってこの穴の中に描かれているところが面白い。画家のイマジネーションの強い働きの結果である。とくに卵のもつ紡錘状あるいは俵のような形。一つひとつ微妙に異なって、その様子、手触りなどの表現に瞠目した。(高山淳)

 藤沼多門「葡萄」。紫、黄色、オレンジ、緑。様々な葡萄の房がたくさん集められて、実りの豊饒さを表す。周りはオレンジ色の空間で、房のあいだに枝や葉が置かれて、象徴性と装飾性とリアルなものが混在した独特の表現となっている。(高山淳)

 鈴木善晴「屠蓄場」。ここに描かれているのは、どこで、いつ頃なのだろうか。皮のはがされた肉の塊に包丁を入れる男。倒れた時計。昔のポンプのような飲料水を出すもの。古びた集合住宅。煙を吐く煙突。円筒形の巨大な建物。映画で見たシーンや本で見た光景や自分の記憶などが入り交じって、どこでもない場所ではあるが、誰もが経験したような、そんなドラマがここに進行していく。(高山淳)

 舘寿弥「相」。画家は僧侶の籍にいる。和紙を貼り、上から墨を垂らし、また和紙を貼り、といったことを繰り返しながら独特の深い陰影をつくる。まるでがそのまま造形化されて、この空間の中に存在するかのように。(高山淳)

 松宮直子「緑風のしらせ」。不思議な植物。そこにレモンのような果実が鈴なりになっている。下方を見ると、巻貝がイクラのような青いフォルムの上に置かれている。そばにはねじ釘のようなもの、あるいは壊れたシリンダーのようなものが転がっている。葉が落ちている。柔らかなベージュから緑の空間の中にひっそりと生きている植物たちの世界。その植物の胞子状のようなものは海のものと共通する。巻貝のような時間のメタファーのものもあらわれ、無作為のようで作為的でもある空間が生まれる。「緑風のしらせ」という題名だが、植物の一つのフォルムからだんだんとイメージが展開していったのだろうか。(高山淳)

 平井誠一「実る」。ドイツで樹齢三百年ほどの巨大な林檎の木と出会ったところから、このシリーズが始まった。だんだんとそれは発展してきて、今回のように樹木の幹はなくなり、鈴なりになった林檎の赤い果実と葉だけの表現になった。強い装飾性を獲得した。林檎というもののもつ物質感はしっかりと捉えられている。と同時に象徴化されて、この赤い林檎の色彩を見ると、ステンドグラスからあらわれてくるような透明な光によって赤が通過されたような、不思議な色彩になっている。物質感を通り越して、林檎という形而下の存在が、なにか形而上的な世界に存在するようなイメージがあらわれていると思う。それを取り巻く無数の葉。あいだのブルー。それらが集まって何千個もここに描かれてくるのを見ると、なにかアラベスク模様のような強い抽象的ヴィジョンを感じている。青、黄色、赤などの色彩がお互いに反響し合いながら合唱し、いわば自然を讃歌する図があらわれる。(高山淳)

 木村梨枝子「場所 2015─03」中川一政賞。砂浜のもつしっとりとした質感が描かれているように感じられる。大地のもつ感触、その匂い、水を含んだしっとりとしたその存在が、聖なるもののように表現されている。その繊細な、一種陰翳礼讃的な感覚が面白い。(高山淳)

4室

 髙橋政子「冬よもぎ」。丈の高い笹の葉が生えているところに雪が積もって、ふかぶかとした調子をつくりだす。降ったばかりの雪は清潔で、それがそれぞれの位置にこんもりと積もった様子は実にイノセントな雰囲気。笹の葉と雪とのコラボレーションともいうべき様子を見事に表現する。加えて、葉のついていない細い枝だけの植物がそこにあって、複雑な曲線をつくる。笹の葉はそれなりに面積があって雪の重量感と同時に凹凸状のフォルムをつくるわけだが、それとは別個に一ミリか二ミリの細い茎の枯れた様子は不思議なリズムを画面全体につくっていく。その様子は繊細で、なにか神経にさわってくるようなところがある。笹の葉のもつ大和絵に描くのにもふさわしいような表現に対して、繊細な抽象美ともいうべきものがあらわれ、どことなくメランコリックでもある。題名を見ると「冬よもぎ」とあるから、葉を落としたヨモギの茎はこのようなものなのかもわからない。もちろんそれは筆者の想像ではあるが。いずれにしても、雪、オールオーバーに雪の積もった光景を描き起こす画家のイマジネーションと筆力に感心する。(高山淳)

 石田勤一「時の湊」。二つの貯水タンクのような楕円形が描かれている。右の楕円形からは、水しぶきが出ている。画面上には、青や赤の無数の弧があり、この楕円形の鼓動を表現しているようである。タンクであるならば無機質な金属の塊であるが、この楕円形には生命感が表現されている。(紺世邦章)

 佐藤淳子「初夏」。海が黄金色に染まっている。夕暮れである。手前にテーブルがあって、白い花が差された二つの花瓶。プラムが白いお皿に三つ。一日が終わり、人々と別れることが切ないような雰囲気。いずれにしても、色彩に透明感があって、実に魅力的である。ますますその色彩が輝くような力を表してきた。(高山淳)

 花房このみ「巡り会う」。鋪装された道路の上にススキが群がるように集まっている。背後は植物がたくさんあるようだが、車道のそばの歩道のところにぽっかりとあけられた地面があって、そこに生えているススキの様子が面白い。画面の中心にあって、柔らかな様子で黄土色の穂を輝かせている。その様子と硬い地面のコンクリート、あるいは白い線などが対照される。無機的なものと有機的なものがコントラストされる。空を見ると、暮れ方のようで、すこし紫がかったグレーの空で、なにか懐かしい雰囲気。(高山淳)

 八代美紀「不安定な大地」。手の五本の指を組み合わせる。おそらく全部で四人の手がここに描かれている。総計二十本である。複雑なかたちができる。お互いが関係をもちながら、複雑で無秩序なものがそこにあらわれる。そこにはエネルギーがあり、すがるような心持ちも、拒絶するような心持ちさえもあらわれてくるだろう。お互いが奪い合い、排除し、求める。そんなイメージを指でもって表現するという発想がユニークである。(高山淳)

 野口宏文「CUP I」。ほとんど抽象的コンポジションである。左のテーブルにはコーヒーミルと二つの白いカップ。右のほうは開かれた段ボールのようなフォルムで、手紙が一通か二通。親密なプライベートな空間を独特の抽象的空間のなかに表現する。マチエールが呼吸するような柔らかさで、生きたニュアンスを伝える。(高山淳)

5室

 齊藤雅之「地鳴りの日」。裸婦が二体。仰向けの裸婦と横になって背中を見せている裸婦。横になっている裸婦の頭は見えない。独特の質感によって裸婦が描かれていて、身近な存在。しかし、その二人の裸婦は揺れ動くなかにあって、困難なコンディションのなかにいるようだ。周りのすこしピンクがかった色彩やグレーなどは、題名のように地鳴りの表現のようで、それに翻弄されている様子を裸婦を通して表現する。裸婦のもつ地上的な安心感のある存在に対して、振動する周りの空間。結局、裸婦のほうは負けて、ほとんど気を失ったかのような雰囲気。そんなイメージを大きな画面にぐいぐい描く独特の絵画的な表現。(高山淳)

6室

 小宮英夫「飲食(おんじき)」。テーブルの前に男がいて、仰向いて口をあけている。接近してみると、体内の内臓が、じかに食道と胃袋、肺などが見える様子。鉄のようなものを肩にはめられて、ボルトで留められている。たとえばガンになって手術され身動きできないようなコンディションの人間のイメージと言ってよい。絶叫しているようだ。あるいは、食べようと思って口をあけているが、食べることができない。テーブルの上には白い皿にほとんど丸焼きのような、鶏一羽を料理したようなものが置かれている。丸々太って逆様になったかたちで、足が上向いている。その鶏は食物であって、それが食べられないというイメージと同時に、丸々太ったまま逆様になって殺されたという、この人間の憂鬱感ともリンクするのかもしれない。いずれにしても、激しい飢渇の表現と言ってよい。「飲食(おんじき)」という題名も強い言葉である。(高山淳)

 生駒幸子「時の稜線」。直線と円弧を組み合わせながら、なにか楽しいメロディが伝わってくる。中心に二階建て、三階建ての建物が見える。そこに階段がつけられ、そこに入るための道が伸びている。手前には、車に羽のようなものがついた不思議な乗物がある。わが家に帰ろうとする心持ちをこのような不思議な乗物で表したのだろうか。この光景は全体で建物の中からのぞくようになっていて、その建物の上方には電灯、切れた電線、右のほうにはガソリンスタンドのホースのようなイメージもあらわれている。ぐいぐいと描きこみながら、混乱した現実に対して帰るべきところといった、二つの要素が画面に表現されている。不安と安定、冒険とホーム。その二つが対立しながら独特の動きをつくる。そのヒューマンなムーヴマンがこの作品の面白さだと思う。(高山淳)

 川野美華「夜行性の庭」。太宰治に、恥ずかしいことに出会うとキャッと驚いて、首がろくろ首になるという言葉があるが、そんな感受性をこの作者はもっている。強い自意識から生まれた表現だと思う。カマキリのようなものに変身した女性。パンティに小さなかわいいリボンがついている。そばには、倒れて地面に顔をつけた女性の顔。その下には、髪が長く伸びて、まさにろくろ首になったような蛇のようなものの先に女性の顔と長い髪の毛が揺れているような女があらわれ、赤い舌を出して鋏でもって俯いた女の髪を切っている。ジェラシーだろうか。右のほうでは男が口をあけて脅えている。そのあけられた黒い口に模造真珠のようなものがコラージュされているところが面白い。自由に自分の感情が動くままにドローイングが形をつくっていき、独特の心理的世界が表現される。(高山淳)

7室

 坂田和之「景―150331」。上方に茶畑が抽象化され積み重なったフォルムとなって浮いている。下方には椿の葉のようなこんもりとした植物。あいだに赤と白のバーが入れられている。あいだに水と山とが重なったような世界があらわれる。黄緑色の色彩によって彩られている。まさに景で、なにか画家のイマジネーションが開かれて、こんこんとした月光によって照らされたような、満々とたたえられた水と山といったイメージが、茶畑と樹木のあいだにあらわれて、独特の強い存在感を放つ。まるでシンバルが鳴って景が現れたような、そんな強い印象が感じられるところが面白い。(高山淳)

 岸妙子「跡」。左のほうに障子のようなグレーの空間があらわれている。そして、障子があけられると夜空があらわれる。そこに星がまたたいている。右のほうには植物のざわざわとした声が聞こえてくるようだ。日本家屋の障子を境とした室内と室外。庭の向こうの夜空といったものが象徴的に引き寄せられて、独特の深い空間があらわれる。(高山淳)

8室

 山口愛美「君の罪と僕の罰」。巨大な魚が泳いでいる。その真ん中あたりに穴があいて、そこに柘榴のような果実が見える。そこから樹木が立ち上がって、繊細な枝を広げている。下方にも草が伸びている。後ろには高い樹木が黒いシルエットとなって騒いでいる。風が吹いている。海の中の存在と地上の密林の中の存在とが重なって、アルカイックな世界が生まれる。魚の命と植物の命が重なる。独特のドローイングによる表現である。(高山淳)

 平井智子「地の声 Ⅱ」。大きな鈴を重ねて土台のようになった上に植物が置かれ、いちばん上には大きな枯れた向日葵の花が置かれている。植物によるトーテムポールといった趣がある。下方の鈴のようなフォルムは巨大な豆のようなフォルムと重なる。まさに地の声を、うずたかく積んだ植物や果実や花から聴く。(高山淳)

 黒田邦裕「大地『INoRI』」。画面左には五重塔、右には母子像とその背後にトルソが描かれ、中心には観音菩薩が描かれている。粗いマチエールで作られた黄土色の空間には何処か荒廃した雰囲気もあるが、そんな世界に生きる母子に、紫色の鮮やかな裳をった菩薩が訪れる。静かな救済の場面が切々と描かれている。(紺世邦章)

10室

 北原宏太郎「甲斐の山並」。高い山が幾重にも聳えている様子をぐいぐいと描きこんでいる。近景は晩秋の雑木や草のようだ。すでに山には雪が下りている。曇り空の中に雲が動いていく。水墨で表現するのにふさわしいような表情を油彩画で淡々と表現して、独特の生気をつくる。(高山淳)

 加々美圭介「耕耘の畑」。遠景に山が並び、雲一つ無い空が描かれている。前景には主題の畑があり、耕耘機によって耕したような跡が描かれている。轍は複雑に入り組んでいて、一種の抽象絵画のような趣きもある。土に生命が宿っているか、あるいは耕耘機が生きているかのような雰囲気があっておもしろい。(紺世邦章)

11室

 岩渕ケイ子「咲く花の中に」。ピンクの花が咲いている。淡い白い花が咲いている。いずれも桜の花のように感じられる。その下に金髪の少女が立っている。白い犬がいる。主観と客観とが一体化したなかに表現された生気ある表現である。独特の色彩家だし、強いエネルギーを感じる。(高山淳)

 田中岑「90歳の回想」遺作。田中岑が昨年四月十二日に亡くなった。享年九十三歳。第一回の安井賞を受賞したのが一九五七年。三十六歳の時である。洲之内徹の『気まぐれ美術館』の中に田中岑氏のことがよく出てくる。いかにも昔ながらの画家らしい画家であった。自分のイメージを徹底的に追求し続けた。最後は光というものの神的な性質を画面の中に表現しようとしたのだと思う。大往生である。合掌。(高山淳)

12室

 峰丘「封印を解く錬金術師」。封印を解くと錬金術師は活性化して、何をするかわからない。羽が広がり、角もますます伸びていく。頭には牛の骨のようなものをかぶっている。黒魔術を思わせるような衣装である。長くメキシコで暮らした画家のユニークな表現。上衣のレインボーカラー、赤橙黄緑青藍紫といった色彩も上方の金による頭部や翼の表現と相まって、実にダイナミックな波動を起こす。(高山淳)

 田中俊行「樹 14―Ⅰ」。一本の樹木に向かい合って描いている。背後は草原で、その向こうは褐色の低い山がある。樹木のカーヴする枝の動き。そこに生える葉を全体に連動させながら、独特のフォルムをつくっている。一つひとつの葉ではなく、全体でもって動きを発見し、それを大きな一つひとつの色面の中に表現しようとしている。樹木のもつあやしい雰囲気がよくあらわれている。(高山淳)

 進藤妙子「終ったバラ」。水彩作品で小品であるが、残照の中に一輪の薔薇の花が咲いている様子がしみじみとした情緒を醸し出す。もう一点の「藪の中」は陰翳礼讃ふうなドローイングで、木炭のニュアンスが微妙な光を引き寄せながら画面の中を動いていく。下方に、水彩と思われるが、青と紫の小さな色面があって、それが花のようで、いかにもこの画家らしいひっそりとした華やぎを見せる。(高山淳)

14室

 長谷川光一「臨界」。タンクやパイプなど、工場や発電所などにあるような非生物的なモチーフを利用し、のような生物を描いている。その体に無数に走るコードは血管のようで生々しく、赤いランプは目のように妖しく光っている。この生物からは蒸気が立ち上っており、何らかの危機に遭っているようだ。そうした状況もまた、原子炉の臨界、エマージェンシーの状態と重ねて表現されている。(紺世邦章)

 乃村豊和「レッスン後の髪を解くバレリーナ」。仰向けになって両手を髪の後ろに置いたポーズの女性。上半身は裸である。後ろにはうずくまってシューズを取ろうとしている女性がいる。向こうにはバレーを踊っている人々の姿。ぐいぐいとしたデッサンがそのままタブローになってくる面白さ。デッサンとタブローが重なった表現になっているところが、この画家独特の表現である。ドローイングの線が生かされて、最後までタブローの中でその存在を主張しているところも面白い。(高山淳)

 石川茂「Golden earth 愛と平和の種子をまく象」。象が幸せの使者のように画面に表現されている。周りのオレンジやピンクなどの色彩が鮮やかで、独特の動きがある。水が飛び散っている様子などはとくに面白い。(高山淳)

 伊藤昭二「晩夏果菜」。須田国太郎の風景や静物を思わせるところがある。ダークな植物の葉が密集している上にトマトがなって、そこに光が当たってつやつやと輝いている。大半がオレンジ色だが、中に緑のトマトもある。全体は逆光の中にあるようで、空がオレンジ色に輝いている。そんな様子が夏の終わり、晩夏のイメージと重なるのだろう。いずれにしても、独特の強いマチエールとコクのある色彩が魅力。(高山淳)

15室

 小林俊明「見慣れた風景 2」。風景を構成する建物や道、樹木を抽象的にアレンジしている。緑とイタリアンレッドのような色彩が瑞々しくハーモナイズし、それをグレーの色面がつなぐ。フラットでなく、厚みのある空間の生まれているところがよい。(高山淳)

17室

 奥山哲三「オモイ ヲ タドル」。面白いコンポジションである。帽子をかぶった青年が猫を持ち上げている。その猫の背に赤い屋根の民家が立っている。青年の肩にも小さな赤い屋根の民家が立ち、猫がそこに座り、遠眼鏡を持つ男。マットなマチエールで、フレスコふうな肌合いの中に、イマジネーションの世界と現実の世界がリンクした幻想的な世界が表現される。(高山淳)

 加藤順子「スクランブル Ⅱ」。スクランブル交差点を男女が歩いている。ひんやりとしたグレーの地面に白いストライプ。そこを渡る人々の様子が生き生きと描かれている。冬のようで、あまりカラフルな色彩のものを着ていないのがまたしんとした気配で、この作品の面白さになっている。(高山淳)

18室

 髙野美夫「ぶどうの丘(冬)」。丘の上に大きな白亜の建物が立っている。近景には葡萄棚が屈曲したその枝を左右に広げている。その向こうに民家が点在する。地面の起伏をしっかりと描きながら、アッパーなところにある建物と低地の集落、そして葡萄の枝のもつ独特の有機的なフォルムを使いながら、不思議な詩情ある風景を表現した。画面の中に風が渡っているようだ。(高山淳)

 関錫枝「青の刻(Ⅲ)」。夜の風景。透明なガラスでできた建物。ところどころイルミネーションがつけられ、きらきらと輝く。そこに一輪車に乗る女性がいて、不思議な音楽が流れる。(高山淳)

19室

 守谷匡子「室内の秀明菊と女性」。テーブルに向かって腰を下ろした女性。テーブルには果実や大きな花の差された花瓶。下方には猫がいる。窓の向こうには白い建物がのぞく。黄色がうまく使われて、独特の色彩効果を表す。線を使いこなして、プリミティヴでありながら、どことなく情感が漂う。(高山淳)

20室

 古川昌弘「露天鉱土(3)」。露天でぐるりと円弧を描きながら鉱物を掘っていく。それによって巨大な渦巻きができて、いちばん下はフラットな様子で、そこに道が続いている。その長い歳月掘り進んだ大地の側面のもつ不思議さ。自然の層と人間の営為の跡がそこにあらわれてくるわけだ。それが静かに光る貴重な存在として画家は表現する。と同時に、そこにあるなにか恐ろしい力のようなものも表現されているところが面白い。(高山淳)

21室

 星啓子「響きあって(Ⅰ)」。赤や黄色を用いて、幾つかの重なりあうトルソを描く。それらは一つの大きなトルソのようにも見える。複数のボタンやベルトのバックルがコラージュされていて、それらはトルソの人物に纏わるもののようにも思われる。空間も幾つかの場所が合わさったようであり、人物の記憶の集成のような、不思議な世界が作り出されている。(紺世邦章)

 今尾さち子「記憶の残滓」。紙にアクリルだろうか。水墨ふうな表現になっている。下方に白いくねくねとした幹と枝。そこから細い枝が出て花が咲いている。あるいは、それに絡まるように枝がひっかかって、先に花のついている様子もある。上方から花と葉が落ちてきている。そばに水盤のような形が見える。枯れ木に花が咲くイメージと同時に、枯れてしまった、かつて咲かせた花のイメージが重なりながら、下方のくねくねとした切り株のようなフォルムが不思議な生命的なエネルギーを発する。いずれにしても、画家の主観的な力がこの植物を生かしていることは間違いない。そういった表現が面白い。(高山淳)

 八島儒子「遠い記憶」。岸壁に若い女性が立っている。岸壁に船を繫留するための杭があり、その向こうに水が見える。女性は緑系の色彩で描かれていて、あやしくロマンティックである。そのそばには海のほうを眺めている女性のシルエットが描かれている。いわゆるアニマの像で、独特の魅力を放つ。(高山淳)

22室

 陶山傑「こうなったのもお前のせいだ」。カーテンで仕切られた野外の板間で、前景の人間らしき生物が紫の長い首を切断されている。遠景では火山が噴火し、宙には人面の鏡が笑っている。塀を突き破る蛇、貝柱だけ残った貝など、連関のないモチーフが混沌と存在している。寓意性がなくナンセンスで、常識や理屈の介入の余地の無いところが、この作品の魅力である。(紺世邦章)

 鵜飼冴子「時・空間 Ⅰ」。ピアノのある部屋の窓から、幾つものビルが見える。それらは直線で表現されていて、部屋の壁や床などと相まってリズミカルなコンポジションを作る。さらにこの部屋にあるピアノは、音楽が流れていることを示唆しているようである。作品の時間と空間とが、リズムによって呼応している点に注目した。(紺世邦章)

 草柳公三「園」春陽会賞。岩のようなものが真ん中に描かれている。その中に仰向けの女性がいて、その岩の窪みに目玉のようなものがあったりする。分解された生命体が固まってこの岩をなしているようだ。下方にはサル、ヒョウ、犬、オランウータン、鳥、サイ、昆虫などが線描でドローイングふうに描かれている。岩の上方にもサルのようなフォルムがあらわれている。「園」という題名であるが、楽園ではなく、命あるものが脅迫されて困難な現実の中に追いやられつつある様子。死んだものが集積して岩になって中心にあるといった、かなりペシミスティックなイメージのようだ。それを一種イラストふうな構成感覚の中でまとめる。(高山淳)

 田中由子「'15 時の外に在る Ⅱ」奨励賞。腿と手、腕などの人体のパートが組みあいながら、上方に上っていく。背後には暗い塀があって、塀の向こうから人間が両手ですがりついている様子が見える。一つの壁があり、壁のこちらでは人間たちが集合しながら苦悩の様子。しかし、壁の向こうも大変な現実があるようだ。そんな憂鬱な状態を人体のパートの集合の中に表現する。独特のコンポジションである。(高山淳)

24室

 田中みどり「歩く」。石を積んだ壁にアーチ状の窓がつけられている。その窓の向こうにも階段が続いて、戸外に向かう。手前の石の壁はグレーや青っぽい色彩だが、アーチの向こうはオレンジ色の光に照らされている。柔らかなトーンの中に一歩一歩歩きながら現実を克服していくといったイメージがしぜんと浮かぶ。柔らかな感性による不思議なコンポジションである。(高山淳)

 小口敏「2015・厨房」。ガスレンジやシンク、中華鍋、水道などを凝縮するように描いて、強いエネルギーを画面から発する。(高山淳)

26室

 片岡覺「炭鉱譜・坑内風化」。黒い圧倒的な壁のようなものに囲まれて、錆びたカンテラが一つ。題名を見ると、かつて坑夫の使ったものだろう。強い存在感が表現される。(高山淳)

 吉村敬子「陽ざし(A)」。ジャングルジムに光が斜めに当たり、長い影を地面に捺している。あふれるような光の中に褐色のジャングルジムが結晶体のような輝きを見せる。詩を表現するような感性が興味深い。(高山淳)

27室

 山本昌代「こどもの領域 Ⅰ」。自動車のタイヤを綱で吊るして、その上に子供がまたがって遊んでいる。二人の少女がそのプレイをしている様子を生き生きと描く。ドローイングの力が強いムーヴマンを引き寄せる。光がそこに差し込んで、光のドラマもそこに重なる。(高山淳)

28室

 久保敬子「耳をすまして」奨励賞。横長の画面の右辺から山羊の首があらわれ、画面いっぱいに頭が描かれている。実際より二倍も三倍も大きい山羊の頭である。鼻息が鑑賞者のほうにかかりそうな近さに描かれた山羊が、独特の親和力をもって迫ってくる。この作者には接近する力があって、その感性が面白い。(高山淳)

 諸星浩子「S」奨励賞・会員推挙。モノトーンの空間に、カマキリの抜け殻を描いている。大きな前脚で獲物を捕食する勇ましいカマキリと同じ形をしているのだが、抜け殻はどこか心もとない。抜け殻自体は元々生きてはいないが、抜け殻の主が死んでしまったかのような寂寥感を、ハッチングを用いながら丹念に描き出している。(紺世邦章)

 中台ゆう子「頭蓋骨(Ⅰ)」春陽会賞・損保ジャパン日本興亜美術財団賞・会員推挙。何の骨かわからないが、動物の頭部(下顎がない)が正方形の画面いっぱいに描かれている。歯や眼窩。ひび割れた目の前の骨の様子。それを拡大して描くことによって、存在するものが一つひとつ認識され、しぜんとシュールな雰囲気があらわれる。(高山淳)

29室

 ゆみこむらせ「SOIL・Dead head I」奨励賞。植物の葉か花かわからないが、そんなものが大きく描かれている。緑と柔らかな黄色みを帯びた白。自由なストロークの中に、半ば感性でもって植物を表現する。それによって豊かなハーモニーが生まれる。(高山淳)

 水谷武「予感 2015 B」奨励賞・会員推挙。幾何学的な形。左右に伸びるパイプ。垂直に立つ直方体の形がいくつかあらわれ、下方には通路のようなものがあらわれる。グレーのトーンの中にすこし褐色の色彩が入れられている。幾何学的なそのコンポジションは力強いのだが、なにかしっとりとしている。この迷路の中に鑑賞者を誘いこむような不思議な力が感じられる。(高山淳)

 髙橋かずこ「生命の木」奨励賞・会員推挙。の木が描かれている。その実に比べると、丈がずいぶん小さい。それにもう一つ別の白い葉をつけた植物が寄生しているように絡まっている。その細い枝に白いトカゲがいて、そばに無花果の実が半ば割れて、中の赤い色彩をあらわにしている。上方にもトカゲがいる。無花果というと、「空腹でイチジクを食べたかったキリストが時季でないため実をつけていなかった木に向かって『今後、お前から実を食べることがないように』と言うと、その木が枯れてしまった」(マルコ伝)といった聖書の話が有名であるが、実に美味な実をつける。そんな無花果とトカゲを組み合わせながら、きらきらとした夢の中の世界へいざなうような雰囲気。左下や画面の下辺からとげとげの葉をつけていない荒涼とした植物があらわれているが、その形の連続した様子はなにかほほえましい優しいもので、やがてこの枝も葉や実をつけるのだろう。中心の無花果の木が再生のメタファーのように表現されている。(高山淳)

 今尾啓吾「祭壇」奨励賞・会員推挙。画面右の黒い空間に金色の祭壇があり、骨や人体模型の胴体部分のようなものが捧げられている。双頭の生物の一つの首が、祭壇を振り返って見ている。画面左の白い空間には、女性の生首があり、微笑みながら祭壇を見つめている。サロメやメデューサを思わせるモチーフである。祭壇の人体には首がないので、この女性の生首は祭壇の供物なのかも知れない。祭壇の上空に垂らされた白い絵具は、ここで行われる儀式の効果を表しているようだ。幻想的で妖しい雰囲気がおもしろい。(紺世邦章)

30室

 坪田達義「寂静の道化師」。若い道化師が叢に横になっている。叢は枯れたような色彩。そばに樹木の幹が立ち上がり、その周りを蛾が飛んでいる。後ろにウサギが一羽走っている。眠っているピエロの手前にも蛾がいる。その蛾のあやしく飛ぶ様子は、このピエロの眠っている様子とリンクしながら、悩ましいようなロマンティックな曖昧な心持ちをよく表現する。ピエロの上半身のかたちのクリアなところがこの作品のよさであり、イメージを強くする理由だろう。(高山淳)

 吉澤孝広「向上」。巨大な顔が上方に浮かび、その顔をもつ少年が木材を積んだ上にいる。また、下方の地面にもその少年の全身像が描かれている。児童のようなイメージを筆者は作品から感じる。その内向的なイメージが強く迫ってくる。(高山淳)

32室

 荒川桄一「川沿いの家(1)」。川が画面の下方約三分の一。川面から上の地面までの高さが相当あって、その地面に家が十ぐらい立っている。キューブな形で、いわば積木を自由にカットして置いたようなフォルムである。そのフォルムが面白いし、色彩が独特で、しんとした中に純粋なハーモニーが感じられる。詩人の見た風景といった感想が浮かぶ。(高山淳)

33室

 藤田馨代「つながる屋根」。屋根瓦を手元に引き寄せて、一つひとつ丹念に描いている。そこにあらわれてくる抽象的な形が面白い。(高山淳)

 荒井美智子「協奏 3」。蓮が枯れて、その茎が屈曲しながら水に先端を没している。そのフォルムが残照のような水面を背景にして描かれて、独特の面白さである。線によるその茎の形にリズムがあり、いわば不思議なメロディのようなものがあらわれている。「協奏」という題名のように、そのシルエットの茎の形の連続性、あるいはその対照によってあらわれた抽象美の面白さ。(高山淳)

34室

 古閑良隆「夜明け」。中景に柵が左右に伸びている。何かを養殖するためのものだろう。そこから近景まで約三分の二。水の様子が描かれている。風によってすこし波が立っている様子が丁寧に描かれ、近景では一つひとつの波の形までも描かれている。柵の向こうはすこし光っている海の様子で、遠景には山が左右に伸びている。日が昇りはじめたときの空の様子。暗い雲の中からセルリアン系の青い空が浮かび上がる。青のこのヴァリエーションには独特の魅力がある。青の色彩の変化を見ていると、それはそれぞれのポジションをもつのだが、なにか音楽が聞こえてくるような気持ちになる。(高山淳)

35室

 辻早苗「内観 Ⅰ」。裸の女性が座っているのは板のようなもので、それはもともとガラスに囲まれていたのだが、そのガラスが壊れて破片が散っている。そのそばに砂にうずもれた人形。しんとした雰囲気のなかに、何かを突破して次のステップに行こうとする女性のイメージを静かに語る。(高山淳)

 神代亞紀男「初夏の花精」。。紫陽花を描いている。一つひとつの花が色が異なる。紫やピンクもあれば、オレンジの紫陽花もあるし、葉が落ちて、そのあいだから小さな点々とした蘂が集合してカラフルな色彩をもっているものもある。ちょうど円状にそれらを配して、色彩のそれぞれの固有色を大切にしながら、星を見るようなあでやかに結晶したような魅力を表現する。(高山淳)

36室

 長谷川克己「ブルース」。トランペットを吹く男の全身像である。白黒によって全身を描いている。トランペットを吹くことに集中している男の全身の姿が、面白く力強くエネルギッシュに内向的に表現されている。(高山淳)

37室

 小池辰夫「マイ・ハット」。帽子掛けに青い帽子が掛けられている。そのそばの扉があけられて、次の部屋が見える。棚の上に石膏像や青磁、染付の壺。花瓶に花が差されている。後ろ向きのキャンバスがイーゼルに立てられている。その様子が実にシュールである。淡々とこういった一つの客観的なシーンを描いているはずなのだが、トーンからくるものか、色彩からくるものか、なにかあやしく深い内的な中での出来事のように表現されている。密度のあるしんとした気配が魅力。(高山淳)

38室

 服部町子「  '15─Ⅲ」。雪の積もった地面。そこにブドウ棚のようなフォルムがうねうねと描かれている。その曲線の絡まったようなフォルムが、雪景を背景にしてあらわれてくる様子が実にダイナミックで印象的で心象的である。(高山淳)

 山田寛「栄枯の名残り Ⅲ」。巨大な向日葵がドライフラワーになったようなものが連続してたくさん密集して描かれている。ほかの大きな花もまたそのような雰囲気で描かれている(花の名前はわからない)。そこから新しい芽が点々と出ている様子が実に愛らしく不思議な様子である。まるで夜空に星がまたたきはじめたように。実際にこのようなことが起きるのかどうかはわからないが、絵の中では枯れてほとんど死にかかっている様子とその茎から新芽が吹いている様子が、実に面白く表現されている。(高山淳)

 松本東樹「工場構内」。一階や二階の大きな建物。あいだの広場をトラックが動いている。空に塔のようなものが伸びている様子が遠景に見える。褐色から黄土の色彩の中の微妙なニュアンスが懐かしいような気持ちになる。この陰影の豊かな建物のある風景は、水墨の世界とも通じるものがあるのだろう。心の中の風景のような雰囲気で、客観的な現実と心象とが重なって表現されているように思う。(高山淳)

39室

 田口淳子「徨」。近景には階段があって、階段は地下まで続いている。その向こうに十字路がある。向こうには両側に建物がずっと続いているが、その向こうには橋がある。その十字路に子供を連れた母親や腰を屈めて杖をつく老婆とその同伴者、あるいは後ろ向きの男、花を持った少女、壁に背を傾けて座る男などがあらわれる。ポイントは花を持つ少女である。それが画家の分身のようだ。それ以外は顔が描かれていず、シルエットふうに表現されている。記憶の中に浮かび上がってきた人間たちとのコミュニケーションが沈黙の中に表現される。(高山淳)

41室

 檜垣友見子「私の紅葉湯めぐり街歩き」奨励賞。右に階段があって、だんだん上っていくと、「おつかれさま」と書かれた建物があり、その向こうにはスタンドふうに食べるものを調理して売る店がある。左のほうにはモミジもあるし、公園もある。風呂もあるし、いちばん下方には滝が落ちている。だんだんと上方に層になって上っていく階層と左右に伸びていく階層によって、前述したように、風呂やレストランや遊園地、あるいは宴会場、あるいは家の中、あるいは旅館などが、壁が取り払われて、中の光景が見えるように描かれている。一つひとつのフォルムは一種稚拙と言ってよいと思うが、それがこのようなかたちで集合すると、独特の強い迫力を表す。本来ずれている時間と空間、そこで動いているものが絵という一つの面の中に同時に表現される不思議さと面白さである。ユニークな才能だと思う。(高山淳)

42室

 大津悟司「まだ世界はあるか Ⅵ」奨励賞。木口版画である。それを三つ上下に置いて、その中の微細なフォルム、建物や植物の葉などによってなにか宇宙的なイメージがあらわれる。三つをそれぞれ魚眼レンズで見たような風景になっていて、それらが組みあいながら、まさに題名のような不思議なイメージを発信する。また、色彩が実に豊かである。(高山淳)

43室

 舩坂芳助「My Space and My Dimension.MM128.」。正方形の中に赤い正方形の色面をつくり、そこにタツノオトコシゴのような抽象的なフォルムを二、三、四、計九つ浮かせる。赤い色面には墨のドリッピング。お洒落な生き生きとした色彩の魅力的な作品である。また、宙吊りにされたような不思議なムーヴマンの表現も魅力。(高山淳)

 大久保澄子「森への誘い Ⅵ―甦える森―」。柔らかなカーヴをもったフォルムがだんだんと上方にいくにしたがってすぼまってきて、最終的には閉じる。不思議なノンシャランな三角錐のようなフォルム。その上方の頂点の上にエンボスされた植物の葉のようなフォルムがあらわれている。エンボスされた三弁の中に植物の葉がさらにエンボスされているようだ。また、この全体のフォルムから植物の茎や葉、あるいは樹木の一部と思われるイメージのものが飛び出ている。中には水があり、林があり、太陽があり、果実があり、柔らかな緑の葉があり、といった様子でかなり抽象的にアレンジされているが、様々なものがカラフルにこの中に入れこまれている。色彩も太陽の光だけでなく、月の光さえも入れこまれているようだ。果実も緑や紫や赤い果実。そして、紫と緑を重ねたような丘の下には水があり、そこから画家独特のシンボリックな樹木と葉をプレスして人体のトルソのようなかたちにしたものが立ち上がっている。その後ろには不思議な大きな、筆者には巨大な果実と隕石のようなイメージが重なったものと思われるものが、茶とブルーを重ねて描かれている。実に謎めいたフォルムであるが、全体では柔らかなハーモニーが起こり、優しい光に満ちた幸福な存在がここに表現されていることがわかる。その温かな様子がしぜんと鑑賞者の心にも響いてくる。じっと作品を見ていると、下方にはその光の淸ったような雰囲気もあらわれてきて、やはり空間のみならず時間というものも表現されているように感じられる。技法は木版、銅版、コラグラフ、エンボスと実に多様な要素をこの中に入れこんでいる。(高山淳)

 林和一「樹暁」。樹木の後背に光が満ちてきたのだろうか。光の中になにかあわあわとあらわれてくるものがあって、それが神秘的な雰囲気である。金と銀灰色の色彩の周りは黒々としていて、そのさらに外縁は淡い金地。金というもの、墨というもの、胡粉のような色彩がお互いに干渉しあいながら、一種琳派の時代のあの絢爛としたイメージを引き寄せるようだ。(高山淳)

 髙橋房雄「明日へのラプソディ」。木版。抽象的なかたち。すこし家紋を思わせるようなフォルムがそこにあらわれている。そして、折り尺のようなフォルムがやがてカーヴするように画面を動いていくような楽しさ。木版の黒からグレーにわたる実に繊細なトーンとくっきりとしたフォルムの要素を重ねた表現に、青い三角形の陰翳のようなものがそこに重ねられている。日本人のもつ江戸時代からのデザイン感覚を版画に引き寄せながら、朗々としたうたを自由にうたいあげる。見事な木版作品である。(高山淳)

44室

 関野洋作「さくら」。植木鉢に植えられた桜のようなコンディションになっているが、金地を背景にして、その桜は満開で、絢爛とした様子。しかもしっとりとして、京風な和の美を表現する。(高山淳)

 幸田美枝子「蛙のすみか」。銅版である。敷石のところにしゃがんだ少女が、敷石と敷石のあいだの地面の上にいるトノサマガエルと会話をしている。そばの白い花。左の放射する髪の毛のような長い白い葉をもった植物。夜の一隅のあやしい雰囲気が、そのまま地球のあやしさとつながるような面白いユニークなヴィジョンの表現である。(高山淳)

 塩田恵「A VIEW of a moment(A)」。ファンタジックなおとぎ話のような建物が続く。右のほうは丘になっている。そんな様子を窓から眺めている。中心に桟が伸びている。大きく虹がかかって、半月と満月の両方が出ている。というのは、左の窓ガラスの風景と右の窓ガラスの風景とは、実は連続しているようで異なっている時間を表現しているからだろう。そういったトリックも入れながら、ポエムを表現する。(高山淳)

45室

 中島白翔「アシュラ(彷徨える魂)」。女性が阿修羅のポーズをしている。阿修羅というと、興福寺の阿修羅像が有名であるが、これは若いエロスに満ちた阿修羅である。その周りに女性たちが様々なポーズをしている。ダンスをしたり、空中飛翔したり。裸の女性も飛んでいる。阿修羅は顔の周りが炎になっている。いわば変容の美学ともいうべきもので、阿修羅を引用しながら自由な現代の女性のコンディションをうたいあげる。(高山淳)

 西松サチ子「New York(15-1)」。英語の看板やメッセージの様子を小さくカットして集合させて風景をつくる。建物になったり、道になったり、光になったりする。それ全体でニューヨークという街のイメージを発信する。(高山淳)

46室

 山崎英子「時は終わり、そして始まる 5─Ⅱ」。ポップな感覚で風景の中にぽつんと人間を置き、キューブな幾何学的な形がそこに配され、渦巻きのような白い雲が飛ぶ。感覚的なコンポジションが、お洒落な、版画ならではのもう一つの世界を表現する。右のほうの四つの赤い球などのコンポジションは秀逸である。(高山淳)

47室

 丸山智代「地下の音 Ⅲ」。女性がしゃがんで手を伸ばしている。反対から二つの手があらわれている。その手のフォルムは銅版の線であるが、繊細で強靱でエロティック。(高山淳)

50室

 橋本彰夫「かすみそう」。透明なグラスにカスミソウが差されている。細い線が上方、左右、斜めに伸びて、そこに五弁の白い花が咲いている。花の大きさも大小自由だし、実際この茎の大きさと花のバランスなどは自在な表現となっている。画家のイメージによってカスミソウというモチーフを変容させながら、この矩形の中にひとつのポエジーの世界を表現する。洗練された美の極みと言ってよい。(高山淳)

51室

 清水美三子「爽」。オフセットだと思うが、瓶に青い植物のようなものが差してあって、それを自由なストロークのなかに生き生きと表現する。とくに青が魅力的で、どことなくイヴ・クラインの青を連想した。(高山淳)

 海老塚耕一「水・分断される世界へ Ⅰ」岡鹿之助賞。銅版である。真ん中あたりにこんもりとしたラインがあらわれて、下方がいちばん黒々としたトーン。そこに雪の破片のようなフォルムがあらわれる。また、長方形にすこし傾いたものがこの丘のようなフォルムの上にあらわれて、すこし背後の様子を透かしている。その上はグレーで、繊勁な茎のようなカーヴするラインがあらわれ、そこに白や球や点々としたフォルムが置かれている。水の変容する世界。雨になったり、雪になったり、流れていく水の様々な様子がそのまま風景と化す。画家は優れたコンポジションで一種のモノ派と言ってよいわけだが、自然からの感覚が優れていて、その抽象的コンポジションが自然の風景をしぜんと表徴する。(高山淳)

 鈴木雅弘「colors1」。青いバックに紗のようなマチエールで、上方に三つの矩形。右からグレー、コバルトブルー、グリーン。下方には三つの形、三角と縦の長方形と横の長方形。いずれもウルトラマリン系の色が二つ続き、セルリアン系の色彩が続く。もちろんその色彩も微妙に左右ではトーンが異なっている。背景のインディゴふうの空間の中に、抽象的なフォルムと色彩が静かに輝く。そのハーモニーはモダンで品がよい。明度も彩度も異なっていて、それ自体の色面に奥行が感じられるところも面白い。(高山淳)

 本田耕一「COSMIC ATLAS-1505」。本田耕一は二点出品。「COSMIC ATLAS」ということで、宇宙的な世界が描かれている。左のほうは、斜めにオレンジや赤、緑、青などのフォルムがスピーディに動いていく様子で、独特のきらきらとした豪華な感じがある。それに対して右のほうの「COSMIC ATLAS-1505」は、渾沌とした世界の動きの中に上方から光が下りてきているようなイメージ。赤い炎のようなフォルムが両側にあって、そのあいだが谷間のようになり、その上方にピンクの不思議な色彩をもったものが下りてきつつあるようで、渾沌とした中に新しい秩序があらわれつつあるような、独特の空間の広がりと無限なるもののイメージを感じる。(高山淳)

第54回日本現代工芸美術展

(4月18日~4月23日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 手銭吾郎「Back away」。両手を前に出した関節人形のようなフォルムを金属によってつくっている。真鍮のような頭部とブルーや黒の胸や足などのトルソ。パントマイムをしているような不思議なあやしさとメッセージ性を感じる。

 小畠泰明「慈雲」現代工芸本会員賞。「施盤・鏨により切削したのち、鍛造し、錆をふかせた後、漆を焼き付けた日本古来より伝わる錆びつけ技法の色付けである」。鉄の素材を使いながらこのように自由にカーヴさせたフォルムが、鉄のもつ堅牢な素材と相まって独特の響きをつくりだす。鉄を粘土のように使いながら、しかし鉄のもつマテリアルな力があって、それによって優雅なメロディのようなものがつくられながら不思議な空間を演出する。

 相武常雄「それでも未来へ」。中心にアルミによる鋳造によって男と女のペアが二カップルつくられて、四つのY字型のフォルムが上方の緑の雲を持ち上げている。頭はつくられていず、それは樹木のイメージと重なる。ふかぶかとした緑の雲には大きな存在感があって、いわば人類の重荷のようなものをみんなで持ち上げているようなイメージもある。彼らが立っている場所は球体に近いフォルムで、上方はアルミを叩き、下方は銅を叩いた形。アルミの上に小さなパチンコ玉のようなものが沢山置かれている。裏側に磁石があり、子供もそれを動かしながらこの作品に参加できるような楽しさがある。

 吉賀將夫「萩釉陶壺『白黒の交わり』」。萩釉独特の灰白色のしっとりとした釉薬の中にピンクが入って、まだ三分咲きの桜のような雰囲気。黒い切り込みがそこに入れられ、内側から黒い地があらわれて、独特の幽玄な気配を示す。口縁のカーヴする五角形のような形も面白い。

 春山文典「宙の環」。アルミによる成形。板になっているが、中心がカーヴして膨らんでいる。自由な子供の遊びのようなフォルムが独特の詩的なイメージをつくる。そこに点々と丸く穴があけられ、妖精の歩いた跡のようなイメージがあらわれる。

 大樋年朗「『羊』に想いをはせて」。ずっしりとした存在感。おそらく紐造りなのだろう。羊のフォルムが濃緑色の胴に明るい色彩によってつけられている。そのフォルム自体がユーモラスで、独特の絵画性が感じられる。白い土を薄く上に象嵌して羊の形をつくる。なお、その上にプラチナによって色を置いて焼くことによって、この内側から輝くような渋い色彩があらわれている。古代と現代とがリンクするような存在感とモダンさとが感じられるところが面白い。

 奥田小由女「平和を祈るエンゼル」。ワンピースを着た女性がぐっと立ち上がって、両手を上に持ち上げる。その上に二人のエンゼルがいる。赤や青の色彩。愛らしい少女のエンゼルである。下方の女性のフォルムは地母神のような力強さ。その衣装にピンクの花や青い花などが咲き乱れて、豊饒の大地をイメージする。面白いのは、今回この大きな人形の後ろ側から見ると、エジプトのラーの神を思わせるようなかたちが浮かび上がってくることである。エジプトの不死の神話のイメージが背後に感じられるところが実に面白く思った。

 宮田亮平「Familie」。四体のイルカを組み合わせた、独特の造形表現である。上方にいちばん大きなイルカが跳ねたフォルム。その背に小さなフォルムがつけられている。その下方にほぼ同じ大きさの二つのフォルムが囲んでいる。子供を背中に乗せた母親が優雅に泳ぐ下に姉と弟が一緒に戯れているような、そんなイメージ。だから、ファミリーという題名もよくうなずける。ふっくらとした量感のある流線型の形をひねりながら、シンプルに象徴的にイルカの形を表現する。その造形力と同時に、それらを組み合わせて四体のフォルムにより一つの家族のイメージをつくる構成力に感心する。きらきらと光る銀色の背に青やピンクなどの色彩がドリッピングされているのも、独特の装飾的な効果を上げる。

 山岸大成「白き祈りの座」。白磁がしっとりとした独特の質感を示す。直線によって構成されたフォルム。建物のようなかたちの中心にあけられて、なにか記念碑のような宗教的なイメージが漂う。

 三田村有純「星の道」。黒漆の中に金彩が神秘的な輝きを示す。中心は直方体がえぐられたかたちで、そこに金彩。星が通った跡のようだ。上の面の左端に四つの建物が見える。下方の台は銀河のようなイメージ。そこに大きな船のようなフォルムがあらわれている。星の集合体に銀河と名づけたように、地球の上にあらわれた星の痕跡のごときイメージでフォルムをつくり、大地をえぐる。その下方に空を置くという発想が面白い。

 小口稔「天空の湖」。高台から左右に広がるフォルムがダイナミックで力強い。巨大な杯のようなイメージ。そして、見込みが深く、中に題名のように湖のようなイメージがあらわれる。ただ、スケール感があるために、地上に存在するのではなくて、まさに題名のように天空の湖ともいうべき、そんな深い空間があらわれている。青磁のもつ澄明な色彩。とくに白と青の釉薬をかけあわせることによってあらわれる、しっとりとした色彩がまた魅力。

 石添秀正「翠翔」NHK会長賞。巨大な円筒状の形。胴が中心ですこし凹版になり高台に向かって広がる。そこにでこぼこのストライプのフォルムがつくられ、緑から濃紺にわたるグラデーションが捺されている。口縁は二か所。内側に白く突き出ている部分があって、そこに鳥のフォルムが優しくあらわれている。鳥の飛び立つときのイメージと同時に、内側のこの明るい青い色彩が空や海などの無限感を表現する。

 鈴木丘「伸」。紡錘状の形を半分にカットして、その上に直線とカーヴによる低い丘のようなフォルムを置いている。シンプルで力強い。また、大地の広がりと同時に、そこに存在する地層的なイメージも表現する。鉄と思われるが、その質感と黒い色彩とが一種沈黙の美ともいうべきものをつくる。

 佐藤好昭「那国夢幻・Ⅵ」。三人の人が組みあったかたち。顔が小さく、胴が大きく、独特なうねりのなかに黄金色や黒、あるいはチブサンの装飾文様のような三角形の赤が彩色されている。一種妖精的であると同時に、日本の埴輪的なイメージとモダンなヨーロッパの人形のようなイメージとがお互いに連結した独特の雰囲気に注目。

 織田定男「記憶の情景」現代工芸理事長賞。漆の台の上に笹舟のようなフォルムが五つ重なり、上方に金や赤漆で遺跡のようなフォルムがあらわれる。蜃気楼を思わせるような、イノセントで純粋なイメージがあらわれる。それを黒いしっとりとした漆のシャープなフォルムが支えている。

 永澤永信「霖雨」文部科学大臣賞。青白磁で上品で清潔。その白い胴に柔らかなほんのりした青がつけられ、その中にすこし濃い青い線条によって雨を表している。日本のしっとりとした風土のイメージがこの青白磁の上に品よく表現される。

 大樋年雄「Gaia Vessel 『尊崇・2015』」内閣総理大臣賞。「米国コロラドのグランドキャニオンを訪れ、その地にてインディアンとの出会いと大自然の大地の『誕生から未来』を想像させられた情景が原点で有り、それに魅了され創作に至ったものである」。褐色の色彩の大樋飴釉がとっぷりと掛けられて、それが雄大なグランド・キャニオンのもつ陰影をよく表現しているところが面白い。口縁が大きくあけられて、外側というより、内部の渾沌とした渦巻くようなフォルムの力がこの作品の魅力である。底は黒く、黄土や褐色、黄色などの色彩が大樋釉としてそこにつけられて、全体に渾沌とした力が感じられる。グランド・キャニオンがつくられた何百万年もの歴史をそこに浮かび上がらせると同時に、インディアンの聖地であったというその場所のもつイノセントな祭祀的なイメージも表現されているところも面白い。

 政所新二「映月」現代工芸大賞。米ヒバ無垢材から彫出したという。月の満ち欠けのイメージを描いたそうだ。下方の波打つフォルムは水面を思わせるし、また時間の象徴なのだろう。円弧と直線を組み合わせた独特のスケール感が魅力。また、木のもつしっとりとした色彩が全体でこんじきにも見えるのも実に魅力である。

 山本清「宙光季2015─Ⅰ」。木をカーヴさせて波のようなフォルムを上方につくる。そして、立ち上がった木の側面と下方から真鍮のような金属を立ち上げて、そこに三角柱の木を置いて、そこから伸びた先に球がつけられている。不思議な詩情を感じる。木によって包まれた空間にオーラが感じられる。木の柔らかさ。木の生きてきた歴史が、立体の中に生かされる。

 杉原外喜子「連 XIII」東京都知事賞。「作者は永年『三角形』に魅力を感じ造形活動を行っている。この作品は、アメリカ、ヨセミテ国立公園で見た岩山と苔むした洞窟などから、その生命力の強さを感じ表現したものである」。三角形の形が組みあいながらあらわれてくる造形には、建築的なフォルムといったイメージがあらわれてくるところが面白い。また、緑に彩色されていて、その色彩も全体の会場の中で異色な輝きを放つ。

 角康二「星、月、夜」。黒漆の上に葡萄、レモン、葉、星などを散りばめて、独特のポエジーを表現する。黒と金との華やぎの中に葡萄のブルーの色彩がしっとりとした雰囲気であらわれる。右のほうには蝶と葉がお互いに重なったようなフォルムが浮いているのも面白い。どこか長谷川潔の繊勁な銅版画を拡大したようなシックな華やぎを感じる。

 赤堀郁彦「連鎖の反応」。五つの円形のフォルムが赤漆の上に組み合わされている。よく見ると、それに加えて二つの円がつくられ、円の中にも円がつくられて、お互いが回転しながら独特のハーモニーをつくる。赤漆の上で動きながら遊んでいるような、そんなイメージを感じさせる構成力に注目。

 中井貞次「樹映」。青のハーモニーがしっとりとした雰囲気。白い樹木などがそこにあらわれている様子はイノセント。月光の中に見る樹木のような、そんなロマンティックなイメージが感じられる。

 伊藤裕司「杜若」。中心に波紋を置き、両側にアヤメを意匠している。左は白、右は紺、紫。中に卵殻や貝などの螺鈿。花には卵殻などの螺鈿が施されている。大胆なデザイン。中心の波紋は歴史というものの象徴のように思われる。

 並木恒延「新緑の道」。中心に金の箔を置いた道があり、両側に黒々と樹木の幹が立ち上がる。そこに新緑の緑が白蝶貝の裏側に貼られた色漆によって表現される。黄色、緑、青。その細かく螺鈿技法で貼った貝の無数の形がモダンで優雅な陰影をつける。うっすらとした光が内側から輝いてくるような、そんな幽玄な気配だし、同時にその瑞々しい色彩は純粋で晴朗といった言葉が浮かぶ。そのあいだにあらわれてくる黒による樹木の幹や枝の形が優れている。フォルムの強さによってこの作品はもっていると言ってもよい。その樹木の影が中心の赤金のような色彩の道にあらわれ、独特の装飾的効果を上げる。日がすこし傾いた頃の新緑の並木道。

 角田純一「光と影の中で」。柔らかな緑や金、銀の色彩が静かにハーモナイズする。陰翳礼讃といったイメージだろうか。そのような色彩の表現が実に心地よい空間をつくる。

 岡本玲「天よ、在りや」現代工芸副理事長賞。「天空を窺い、天空を問う。神仏は天空から見守ってくれているのだろうか。ひたすら平穏を祈り、紅華の舞を捧げる」という作者のイメージが、彫金技法を用いてレリーフ状に表現された作品である。様々なわざを使いこなした明るいユーモラスな作品である。神道的な強い波動を感じる。

 加納由美子「天の恵賜」現代工芸本会員賞。黒漆の上に直線の金属をコラージュすることによって、海の波紋と遠近感を表す。岩は色漆で置き、上方に巨大な月を金の箔を置くことによって表現した、雄大でロマンあふれる作品。

 友定聖雄「BEAM」。ガラスが輪になって、傾いたかたちでとまっている。その切り込みの入った透明な緑の色彩の中から不思議な音色が聞こえてくる。その音楽は海や空を象徴するようだ。

 中村厚子「記憶から、明日へ」現代工芸本会員賞。建物のイメージで、どこか俑を思わせるようなマチエールである。歴史というものを感じさせる表現に注目した。

2室

 原田和代「REDくん。」。赤い球体の中に黒い目がついている。三つのアンテナのようなものが突き出し、二本足で立っている。尻尾があって、尻尾は後ろのほうにU字形に伸びて、その先がソケットになっている。ユーモラスで独特の感覚。一つ目小僧の妖精のようなイメージを漆によって立体的に表現する。

3室

 中島敦子「星降る森」。漆の作品。黒漆の中に小さい貝の螺鈿によるフォルムがコラージュされ、それが星を表現する。金によって巨大な樹木の幹や枝が表現され、それに寄り掛かるように少女やクジャク、フクロウ、カメ、イタチ、サル、バクのようなフォルムがあらわれる。具象的な要素が強く、優れたデッサン力をベースにして樹木によって守られているような幻想的妖精的ファンタジーを表現する。自然、或いは生き物との深い交信力ともいうべきものが感じられるところが面白い。

4室

 藤田晃一「刻(とき)」現代工芸賞。天空の異次元の空間を想像してつくられているそうだが、同時にそれは深い海の奥に存在する神秘の世界も感じさせる。いぼいぼの独特の質感と黒や赤のねっとりとした光沢のあるマチエールとが相まって、そんな不思議なミステリアスな空間自体を切り取って眼前に置いたようなあやしさが感じられる。

 宮島覚「天深滉命」。樹木の塊からカーヴしながら彫り出した形が実に不思議。まるで鍾乳石を思わせるようなフォルムが無限の時間を象徴するかのようだ。木目がうまく造形の中に使われ、また、拭き漆なのだろうか、光沢のある赤みを帯びたその色彩も魅力。

 永見文人「春の気」。もっこりとして、立ち上がってくる山のようなフォルムに三つの雲がかかっている。上方の雲には六重のフォルムがつけられている。また、そこに緑の若葉のようなフォルムを紐のように伸ばして、蜘蛛の巣がつけられた形もある。色彩と独特のマチエールによって、いわば深山幽谷の神山の世界を表現したような面白さ。

 青木清高「夕日の西海路」(遺作)。海を思わせるような深い青い色彩をもつ青磁。釉薬のたっぷりと掛けられた色彩とマチエールに、うっすらとピンクの色彩がつけられている。その青木さんの作品に黒いリボンがつけられていて、亡くなったことがわかり、たいへん驚いた。実に才能豊かな、惜しい作家をなくした。合掌。

 萩下雅美「風―刻―」現代工芸賞。しっとりとしたキメ細かいベージュのマチエールが魅力。そこに巻き貝を思わせるような円形のフォルムによる浮き彫りのような形があらわれて、独特の詩情を醸し出す。

 徤名文一「方魂の心象」。題名のように魂のような霊的なものを封じ込めた箱のような、独特の気配が感じられる。

 浅井啓介「抽象空間」。山口長男を思わせるような抽象的コンポジション。赤や茶色、黒、あるいは緑などの漆の色彩とマチエールを、絵画的造形表現として使用して面白い。

 猪俣伊治郎「埴輪(99)―雲流るる」。革の作品。下方に燃えているのは火のようで、ヤマトタケルノミコトの時代を想像させるフォルムが大きく腕を広げるように表現されている。日本の神話を引き寄せながら、弥生時代のイメージを面白く造形する。

 後藤健吉「時のまにまに」。下方にイタリアを思わせるような、中心に鐘楼をもつ風景が切り取られ、それに対して上方にステンレスのようなアルミのような色彩の雲のフォルムが五つあらわれている。その二つの対照に鮮やかな印象を受ける。もう一つ、小さな点々の貝による螺鈿のような雲をかたどったフォルムがそのあいだに置かれて、もう一つの幻想感を引き寄せる。具象的要素と抽象的要素、存在するものと気のようなものとの連結の表現。

 宮田みち子「旋律」現代工芸賞。天照大神は太陽のことだが、そんな神秘的な強い波動を感じさせる織物である。よく見ると、紐のようなものをうまく使いこなして、優れたテクニシャンであることがわかる。輝きと同時に神秘的な波動を感じる。色彩がとにかく魅力だと思う。と同時に強いムーヴマンの表現に注目。

5室

 野田朗子「Light and Shadow」。大きな花弁状のフォルムがガラスでできていて、そこに金による紐のようなフォルムが入れられて、儚いような淡い光が発せられる。繊細でありながら強靱でもある不思議な造形。

 三神慎一朗「旅の途中」現代工芸新人賞。初々しい作品。黄金色の円弧によってつくられたフォルムの上に銀色の小鳥がのっている。それは逆円錐状のフォルムによって支えられている。造形は銅版を叩いた鍛金技法によって、下方は緑青の色彩、上方にはプラチナ箔、金銀箔を砂子として撒き散らして、黄金に輝くような空間にとまる鳥があでやかで、独特の装飾性を表現する。

 近藤なを「銀河」現代工芸新人賞。陶芸であるが、フォルムが面白い。円弧が組みあいながら呪術的な形がつくられ、上方中心に穴があけられ、花瓶となっている。質感も、どこか金属を思わせるような力強さがあるが、とくに円弧の組み合わせによるフォルムの面白さに注目した。

8室

 伊与田朋美「やわらかな風」。白馬に乗る二人の女性。若い母親と娘。あるいは姉と妹。白い無垢な色彩の中に優雅につくられ、疾走する馬と一緒に浮遊する。独特の詩的なイメージである。作者の感性のよさに注目。

第45回日彫展

(4月19日~4月30日/東京都美術館)

文/高山淳

 嶋畑貢「天使の詩 Ⅵ」。四歳ぐらいの少女だろうか。つぶらな目。ふっくらとした唇。両手を前に出して下方は布を巻き付けている。ほほえましい。あどけなくイノセントな雰囲気を実によく表現する。

 堤直美「鵲の詩」。ワンピースを着て立つ女性。シンメトリックな様子で、両足に力点がかかった姿。両手を立てて、手のひらを内側に。ウエーブのかかった髪の毛とワンピースの布とが相まって、炎が燃えているような、そんな不思議な動きが感じられる。それによって女性のもつ神秘感が強調される。

 山崎和國「春の風」。左足をすこし前に出して、頭を右に傾けたポーズ。右手は軽く前に垂らした髪の先をつまんでいる。穏やかな雰囲気。柔らかな光がこの彫刻に注いでいるような、そんな趣の中に女性のもつ内面美ともいうべきものを表現する。

 髙野眞吾「光明」。幼児を抱く若い母親。面白い髪型で、その髪に満月が下りて輝いている。妖精的な母親のイメージも感じられる。全体で聖母子像を思わせる。どこか日本の仏像彫刻の流れも感じられる。

 田畑功「初夏の頃」。足がすらっと長く、胸が張った、健康な若い女性の裸婦像である。首にストールを巻いている。マンズーなどのイタリア彫刻を思わせるところがある。量感のある見事なモデリングである。理想美ともいうべきものを、女性を通して表現する。

 熊谷喜美子「光を求めて」。女性の上半身。胸の前に両手を交差して遠くを眺めている。なにか宗教的な法悦感の感じられるようなイメージ表現。

 上田久利「まどか」。座って両足を引いて交差させている裸婦。ふくよかなモデリング。石膏の白さがよく生かされて、神々しい雰囲気をつくる。

 寺山三佳「dialogue」西望賞。木の板がほぼ白木でテーブルに使われ、そこに肱を置いた二人の青年。二人は対話をしているのだが、顔を見ていると、それぞれがそれぞれの分身のような雰囲気。したがって、対話をしている相手は自分自身といったイメージで、その内向的な雰囲気が不思議な面白さをこの彫刻に与える。

 早川髙師「お! みえた」。一寸法師のような物語を彫刻でつくっている。船に乗る少年が遠眼鏡で遠くを見ている。後ろに二つの大根が白く彫られて置かれているのがユーモラスである。一つの大根の大きさぐらいの身長で、この大根ほどの体重もないであろう少年のボディ。木の船。それを支えるアーチ状のフォルムの下には魚が顔をのぞかせている。明るく、生き生きとしたイメージがある。

 小関良太「春風」。両足の踵をつけて、すこし右足が後ろに引かれている。顔を左にひねって首に両手を当てた裸婦。その豊かな腰の感じ。ふくよかな成熟したフォルムから乳房にわたる曲面。あるいはそれを支える二つの足。日本の女性のもつ肉体の特徴がよく捉えられている。どこか母性的な要素と清潔感のあるところが好ましい。

 堀龍太郎「装・フライトジャケット」。フライトジャケットを着て立つ若い女性。タイトなズボンのポケットに軽く両手を入れている。起伏のあるフォルムが彫刻的な手触り感をつくりだす。すこし微笑んだ表情が愛らしい。のびのびとした全身のもつムーヴマンも魅力。

 田丸稔「叙事詩の男と馬」。馬の頭部が直立するように口のところで支えられて立っている。そこにクロスするように男性のトルソが置かれている。断面は白く彩色され、それ以外は黒褐色の色彩。二つの量がリンクし、コントラストする。馬のもつ強い本能的な情動的なイメージとトルソのひねった形がバロック的ともいうべき力を醸し出す。まさに叙事詩、つまり英雄的な出来事を伝えるドラマを表徴するようなコンポジション。

 伊庭靖二「まなざし Ⅴ~月明かりの中で~」。膝の下で切られて、そこから台座になっている。まるで水の中に立っているような雰囲気である。掌を上に向けて、すこし開いた二つの腕。下方を眺めている。なにか神秘的な雰囲気が漂う。「月明かりの中で」という題名のように、体は黒く塗られ、同じような色彩に彩色された板の上に置かれた像は、夜の中の女性像と言ってよいだろう。女性の姿が水の上に映っているかのような、そんなイメージも感じられる。

 村山哲「旅路」。乾漆である。どこか菩薩像を思わせるような表情。左腕はつくられていず、足も一部切断されて、S字形の動きのなかに独特の精神性を表現する。

 圓鍔元規「春を感じて」。足を交差した女性像。左手を後ろに回して、右手の二の腕を握っている。頭を傾けて笑っている。その目や唇、そして全体のムーブマン。若々しい清新な動きをよく表現している。

 得能節朗「遠い国から」。果実の入った籠を右手に抱えた女性像である。頭には布を巻いている。すこし右足を前に出している。二つの果実を左手の掌に。量感があって、しぜんなポーズのなかに独特の動きが表現される。

 石黒光二「穏やかな時間」。丸い椅子に座った若い女性。肱をその縁に置いて、頰に指をついている。優雅な体全体のラインを円形の椅子に座らせて表現する。ロマンティックなイメージが醸し出される。

 吉居寛子「wish III」。両手をおなかのあたりに置いて立つ若い女性である。ふくよかなそのボディは、静かに呼吸をしながら体がそのつど動くような、そんな柔らかで生命力のある表現である。

 村井良樹「時の扉」。時計の針に右手を置き、円形の時計の中に組み込まれた裸婦像である。歯車がむきだしになっている。時というものの象徴、時のためのモニュマンと言ってよい。どこかにこの像が立つのだろうか。象徴性とモニュマン性を備えたモデリングである。

 神戸峰男「JUDITH」。ユディトとは旧約聖書外伝に出てくる女性である。ユダヤ人がアッシリアに攻められた。司令官ホロフェルネスをアッシリアの王は派遣した。ホロフェルネスはユダヤの街の水源を絶った。そのため指導者オジアは降伏を決意するのだが、ユディトは民を励まし、その危機を救う。着飾ってホロフェルネスのもとに赴いた。ホロフェルネスは酒宴にユディトを呼び出したのだが、ホロフェルネスは泥酔する。そして、ユディトは眠っていたホロフェルネスの首を短剣で切り落としたという。美しい意志の強い寡婦ユディトの顔である。目の表情が独特の表現となっている。

 雨宮敬子「春のまなざし」。右足をすこし曲げて左足の後ろに、体をすこし左に傾けて遠くを眺めているような女性。深い物思いのなかにいる。両腕が二の腕の途中で切られている。静かに歩んでいるようなイメージもあるが、横から見ると、そのような足のかたちをしながら静かに立っていることがわかる。イメージの中ではこの女性は歩いているのだろう。人生という旅を歩いている女性のイメージを、画家はここにつくったように思う。簡潔で余分のないフォルム。本質だけを浮かび上がらせるような造形。女性のすこし微笑したような表情がミステリアスで、実に魅力的である。そのほほえみを浮かべた顔は、筆者にはどこか仏の顔に重なる。その仏の顔をもった少女は永遠に歩いていて、それによって人々を癒してくれるような、そんなイメージを作品から感じるのである。

 山本眞輔「夏待つ海」。左手に巻貝を持っている若い女性。ブーツをはいて立っている。肩を出した面白いモダンな衣装。長い髪はポニーテールのように結んでいる。巻貝を見るこの若い女性。巻貝のカーヴを貝がつくる時間。そして、夏が近づいてきた。激しい太陽が海を照らし、海が紺碧に染まるような季節を待つ女性。女性の柔らかな流麗なボディのラインに対して、衣装のごつごつとしたフォルムが対照され、その衣装によってより女性の優雅な繊細なフォルムが浮かび上がる。下着は線描きによって表現されているところも面白い。未来と過去とがクロスするような不思議な雰囲気のなかに、この若い女性がつくられている。

 中村晋也「MISERERE―Lux Aeterna―永遠の光を」。最初は女性かと思って見ていると、青年の像にも見えてくる。両性にまたがった普遍的な像。軽く目を閉じている。「ミゼレーレ」の連作。この人間に救いの手を伸べてくださいと神に言う。簡潔なフォルムによって人間のもつ普遍的な苦悩を癒そうとするかのような表現。

 橋本堅太郎「サイレント」。両手を組んで、すこし体の前に出して立っている若い女性。ほぼ均等に両足に重心をかけて、組んだ指を下方に伸ばしている。そして、下方を眺めている。静かに思いのなかに入っていく。考えこんでいるイメージ。豊かな胸と巴旦杏のすこし反った目の初々しい顔の表情と五本の指を組んだ様子。緩急が見事にこの彫刻の中に表現されている。そこにあらわれるムーヴマンのもつ独特の精神性ともいうべきものに惹かれる。

 能島征二「大地―母と子―」。一歳ぐらいの幼児を抱えた若い母親の像である。後ろのほうに椅子のようなものがあって、そこに浅く腰掛けている。踵を地面につけて、指は浮いている。母親の目のくっきりとした形、秀でた額、しっかりとした唇のラインなどによって、意志の強い女性の像が浮かび上がる。しかし、体はふっくらとして、子供を生んだ若い母親のフォルムになっている。抱かれた一歳ぐらいの童女は目をつぶって、仏様のような不思議なオーラを放っている。その一歳ぐらいの女の子のもつ仏像的なイメージと毅然とした若い母親の顔とがリンクするところに、この母子像の独特の魅力があらわれると思う。

 蛭田二郎「赤い帽子の女」。黒く彩色された女性の頭部で、頭に赤い帽子をかぶっている。すこし根来ふうな朱色。ほんのすこし首が傾いているような雰囲気もある。微妙な動きが感じられる。見ていると、少女の顔と母親の顔の二つが重なって表現されているようにも感じられる。誰かの肖像ではなく、作者の女性に対する憧れとか理想的なものを入れこんだ普遍的な像となっているところが面白い。秀でた額にはスピリチュアルなものが詰まっているようにも感じられるし、どこか埴輪を感じさせるような目の表現。ふっくらとした唇は、ほんのすこし笑っているようにも見える。横から見ると、髪が帽子の一部から出て首の後ろにつながっている。ちょうど円形の形がそこにできている。奥行のあるフォルムであることがわかる。表情という不思議な決して静止しない女性の顔のもつイメージをよく捉えていると思う。

 山田朝彦「紡ぎ」。足首を立てて膝をついて座っている女性像である。両手はその足のあいだにあって、すこし頭をひねって遠くを眺めている。衣装のひだが独特の波紋のような表現になっている。希望や悩みなど、思いがさざなみのように像を通して伝わってくるような、そんなイメージをよく表現する。

 稲垣克次「古代を偲ぶ」。銅鐸に左手を置いて立っている男性。その姿は飛鳥時代やそのすこし前の古墳時代の人間のようだ。首に勾玉を吊るしている。オオクニヌシノミコトとかヤマトタケルノミコトといった『古事記』に出てくる人間像を思う。精神性とロマンの漂う佳作。

 佐藤敬助「友の像」。上半身がつくられている。スーツを着、ネクタイを締めた、どっしりとした存在感のある男性像。しっかりとした身体。大学教授であるとか、成功した実業家のような、存在感のある表現。

 長谷川倫子「朝東風」。顔を右にひねって遠くを眺めている女性の姿。反ったポーズを支える骨盤から脊柱、首の骨から頭骨に向かう動きが力強くおおらかに表現されている。

 一鍬田徹「永遠の夫妻」。黒いボックスのようなものにテラコッタの夫妻が吊るされている。一部壊れた二つの人体。「永遠の夫妻」という題名のように、いわば埴輪のようにつくられた人体ということになる。二人とも太ったおなかの出たかたちであるのがユーモラスな雰囲気。日本の文化のなかには、たとえば壺なども壊して、それを金継ぎしながらそこに味わいを新しくつくるという美意識があるが、同じような思想の延長だろうか。焼かれた褐色のテラコッタのもつ独特の肌合い。いくつかに割れたものがつなぎあわされて、一部空洞になりながら、この二人のもつ呼吸のようなものがしぜんと作品から感じられる。

 志村広子「桜姫~旅立ち~」。左足に重心を置いて、右足をすこし横に伸ばし、右のほうに九十度ほど顔をひねったポーズ。女性のもつ量感がよく捉えられている。温和な雰囲気の中にこの女性の生命感ともいうべきものが表現される。

 髙橋一葉「遊びたい猫」。顔を右にひねって女性の肉体の優雅な曲面をまるで音楽のメロディのように表現する。独特の美的な感性が感じられる。

 村上佑介「不自由な抱擁」日彫賞・正会員推挙。男性の体が毛布のようなもので包まれている。腰から足まで。そして口を覆い、頭まで伸びている。すこし背中をなにかにあずけて足を伸ばしたような不安定な姿勢で、両手が下に垂れている。題名のように、たとえば母親の愛にくるまれていることが実は不自由な状況といったイメージも、しぜんとこの作品から感じられる。そのような心理を男性の全身の彫刻をもって表現しているところが面白い。

 横山丈樹「rebirth VI」日彫賞。仰向いた裸の男性像だが、顔や腕、あるいは脇腹にコンクリートのブロックのようなものが突き刺さったり、そのようなものに変容したりしている。人体の起伏のある滑らかなフォルムに対して、そのような無骨な重量感のある無機的なフォルムがその中に入り込んで、そのコントラストによって逆に彫刻が活性化するといった趣である。ボディのもつ量というものを追っていくうちに生まれたアイデアだろうか。

 境野里香「おんぶ」優秀賞。女の子を背中におんぶした若い母親。左足に猫がとりついて、その前足を伸ばしている。全体に親和力のようなものが感じられる。優しい愛情深い関係性がこの彫刻を照らしている。あるいは、そのようなイメージが立ちのぼってくる。淡々と母親と娘と猫を組み合わせながら、不思議なオーラを醸し出す。

 上松真弥「空旅」優秀賞。右足の爪先で立って上体を伸ばして、不思議なものを両手で摑んでいる。その先を見ると雲になっている。雲はゆらゆらと上昇していく力があり、それを摑みながら、危うく地上で爪先立ちになった少女の姿。そんなフォルムが生き生きとモデリングされている。夢の中に入りこむような楽しさである。

 岡本和弘「朝の使者」優秀賞。一木で、五十センチぐらい残された丸太が台座になっている。そこから彫り出された少年は鶏を抱えている。少年の柔軟なボディ。まだ幼いその骨格の少年のイノセントなイメージが感じられる。木が削られて、そこが空間になってこの少年を包み込んでいるわけだが、削ることによってあらわれてくる空間がもとの木の気配のようなものを漂わせて、この少年の体を包みこむように感じられるところが面白い。

お問い合わせ
  • 株式会社 生活の友社
  • 〒104-0061
  • 東京都中央区銀座1-13-12 銀友ビル4F
  • Tel. 03-3564-6900
  • Fax. 03-3564-6901
[ 美術の窓 ]
[ アートコレクターズ ]
[ ARTcollectors' in Asia ]
[ オンラインショップ・その他 ]