美術の窓

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公募展便り(2014年11月号)

「美術の窓」2014年11月号

再興第99回院展

(9月2日〜9月15日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 王培「路漫漫」。中国の北部のほうの風俗だろうか。衣服を着込んだ姉と妹が道を歩いている。その厚い、中に綿の入ったような服や柄なども丹念に描き、元気な妹の様子とそれを見守る大人びた姉の雰囲気とがお互いに連携し、独特のニュアンスをつくる。みぞれでも降るようなグレーの背景の中に、姉と妹が歩いている姿が愛情深く表現されると同時にそのクリアなディテールが生き生きと発信してくる。

 番場三雄「ヤルツァンポ 渡る」。水の中をヤクが歩いている。チベットの牛の一種である。曇り空の中、いつ雪が下りてきてもおかしくないようなしーんとした気配がある。周りの空と水とが一体化したような空間に対しての仕事がずいぶんなされている。その空間に囲まれてひっそりと歩いていくこのヤク。全体がシルエットとなって、どこか寂しげな雰囲気もある。それはむしろ自然の陰画のようなかたちで登場している。テーマはこの不思議な広がりと密度のある自然のもつ気配だと思う。実際この中に鑑賞者の一人が入ってみると、この厳しい自然のもつ凛冽たる雰囲気のなかにしびれるような思いになるかもしれない。そういった自然のもつ力が実によく表現されている。

 福井爽人「春韻」。「風景は季節や天候、時間等その時の折々の条件で様々な表情をみせます。ながく厳しかった冬がやっと終わりを告げ、残雪の輝く早春の陽を静かに浴びながら無言で佇んでいたこの池の光景は印象的でした」。北の国の湖の中から樹木が立ち上がっているが、途中で白骨化しているような雰囲気である。対岸には雪が積もって、そこにも点々と樹木が伸びている。水の中から立ち上がる樹木は幹から短い枝が出ていて、まるで棘のようなかたちで痛々しいような雰囲気で立ち並んでいる。また、二、三メートルもすると上方が折れている木もある。そういった生と死の中間のあたりにいるような木が水から顔を出していて、シルエットで不思議なリズムをつくる。厳しい自然のなかのその命の姿がこの作品の鑑賞のポイントと思われる。その痛々しい存在が透明な緑の水と柔らかな対岸の山の斜面の人を癒すような緑とのあいだに置かれていて、独特のイメージを発信する。

 那波多目功一「春に憩う」。ソメイヨシノの桜の枝に三羽の孔雀がとまっている。透き通るような輝きを見せる桜の花の様子。満開の桜の中に緑色の羽を垂らした孔雀がとまっている。孔雀のもつ重みに枝がすこし揺れているかのような、そんな存在感も感じられる。それに対して満開の桜はあくまでも透明感をもって輝くようで、その二つの対照が実に不思議な雰囲気を醸し出す。また、すこし青みがかった空のグレーの調子が充実感のなかに表現されているところも面白い。孔雀の羽の中にある楕円形の黄土色の中に青みがかった緑の玉のあるその装飾的な文様が、小さな桜の花びらの集まった様子と静かに呼応しながら輝く。

 松尾敏男「長崎旅情」。画家は大正十五年、長崎市に生まれ、三歳の時に東京へ移った。画家によると、「『吾が故郷は長崎』の想いが強くありました。その想いが今度の作となりました。私にとって初めての『郷帰り』なのです」。不思議な光景である。百万ドルの夜景という言葉があるが、そんな様子で、長崎の街がきらきらと光の中に輝いてイルミネーションされている。海際には高層ビルが立ち並んでいる。不思議なことに、山の上方の空は青く輝いていて、グレーのこの山までの量感のある風景の中にイルミネーションされている様子が実に幻想的でもあるし、ノスタルジックでもある。豪華船が係留されていたり、海の中を進んでいたりするが、手前は霧がかかっているような雰囲気。すこし柔らかなベージュがかったこんじき色のもやもやとした様子のものが漂っている。記憶の中にあらわれてくる光景のようである。この光景をどこから眺めているというのではなく、記憶の中によみがえってくる長崎の街。画家の自由なデフォルメの中にその存在がいま現われたといった、そんなヴィヴィッドな印象が感じられて、そこが面白い。建物も光も記憶に従ってすこし変化していくような動きさえも画面から感じられる。また、海の静かで深い水の調子が、心の底にある存在、無意識の深い世界といったものを暗示するようだ。

 下田義寬「春来」。山中湖畔での富士山である。日の出の頃で、斜光線が山頂に差し、黄金色に輝かせている。夜の青い空間が後退していく。そんな中に空のグレーの様子が手前の山中湖の上に下りてきたかのような不思議な動きを見せる。風が出てきたようだ。「いつの間にか霧も霽れ山稜を走るちぎれ雲が山頂の風の強さを教えてくれる。無限の変化を孕む瞬間、しかし確実に水は温み春間近である」。画家の天馬空を行くようなイメージの表現。ダブルイメージになっていて、富士山の山頂近く茜色の雲がかかっているが、その風の変化と同時にもうひとつの風が雲となって近景にあらわれる。時間のずれのなかにある変化を一つの空間の中に表現する。山中湖は富士の山頂を朱色に輝かせて映している。そのあたりのセルリアン系の青とウルトラマリン系の青、あるいは朱色の輝きは一種抽象画のようなハーモニーも見せる。富士というものを静的なものではなく、イメージのなかに動的に表現する。そのために動いている富士ともいうべき姿があらわれて、それが画家独特のダブルイメージのなかに見事に表現される。

 後藤純男「桜島」。「雪の桜島も描きましたが、夕刻、光の加減で噴煙が黒色を帯びると、活火山の勇壮で荒ぶる魅力が一層際立ちます」。ずっしりとした存在感の感じられる桜島である。黒い噴煙の動きが豪壮である。こんじきに、あるいはオレンジ色に輝く雲。鹿児島湾はすこし波立って白い波頭を見せる。時間の動きのなかに刻々と動いていく空や水の様子。また、煙の様子。そんなものに取り囲まれながら不動の存在感を示す桜島が実に豪壮なイメージをつくりだす。

 村岡貴美男「月蝕」。白いワンピースを着た女性が逆さまになって浮いている。その後ろ側にヤギや羊、白鳥、クジラ、鳥、様々な生き物が集合して、背後からこの女性を支えているかのようなあやしい雰囲気である。そして下方には、蛾やコウモリが飛んでいる。そして、いちばん下方は赤く染まった街並みが描かれている。画家の好きな西洋の中世に対する思いを、このあやしいコンポジションの中に表現したように思われる。生きている海のものや地上のもの、空を飛ぶものを集合させ、その存在とこの若い女性とが連結するように表現されている。髪の広がった下方に繊月が囲んでいて、月蝕という言葉のようにあるドラマが起きる。月蝕にしても日蝕にしても、古代人からするとあやしい不吉な出来事だろうけれども、画家はそれをひとつのロマンがあらわれてくるきっかけのように捉えて、それを面白く下方にアレンジする。

 松本高明「晨気」。檜の若木が手前に二本ある。背後に大人になった檜の幹が太さを変えながら連続している。その間から遠景に、墨によってシルエットふうに檜のフォルムを描くという三つのかたちを響き合わせながら、独特の樹木のもつ気配、その歴史ともいうべきものを表現して面白い。

 武部雅子「風媒花」奨励賞・特待推挙。女性の姿やその手前の草の様子、あるいはフォルムが強い。一部コラージュした部分もある。秋がたけてのち冬に向かう頃の季節の雰囲気のなかに若い女性の姿があらわれる。線によってフォルムをつくり色面化する中にもう一つ線が入っていって、独特の韻律をつくりだす。モダンな造形感覚である。

 山崎佳代「午下」。土でできた壁の向こうにたくさんの馬がいる。光が差し込んで、斑状の陰影をつくる。それぞれのフォルムがクリアである。日射しを面白く画面に引き寄せて、画面の下方七割方は白い壁と白い地面だけで、しみのような影によって表現し、その向こう側の十頭ばかりの馬を描くことによって画面をつくっている。独特のユニークな感性だと思う。

 岸野香「弦楽」。田圃に水が張られている。その中を畦道が直線的に走っている。遠景は杉林のような垂直に伸びる樹木である。水がその杉の木を映し空を映して、メロディをつくる。水の中の虚像を眺めるうちに、そこに一つの世界が生まれ、そこに音楽的なイメージを表す。

 染谷香理「梅子の背景」奨励賞。着物を着て座った女性。その後ろにたくさんの人が着物を着て立っているのだが、その着物の柄は連続しながら大きな梅模様で、そこに手が現れ、下方のフローリングには足がのぞく。そして、その梅の花は流れていって、風が吹いているといった雰囲気である。人間が集まったその着物の意匠が風景的にこの梅子の背後にあらわれ、梅子はそれを着ながら遠くを眺めているといった様子で、一種の感覚美の表現として面白く感じられる。

 大石朋生「雫」奨励賞。水に波紋があらわれている。下方から草が伸びている。水に映る樹木の影が白く輝いて、影がもっと虚像としてその存在を発揮する。虚像と実像とがお互いに響き合う。そんな様子を感覚的なコンポジションの中にまとめあげて注目した。

 倉島重友「空へつづく道」。「9月に訪れた南イタリア マテーラの道。遠い昔から人々が行き来していたであろう道。夏の盛りより少し和らいではいるが、名残りの強い日差しの中で野の花々が咲いていた」。ハーフトーンのしっとりとした調子のなかに静かな華やぎがある。土の道がすこしカーヴしながら上っていく。左右に野の花が咲いている。緑の中に黄色い花が点々と咲いて、中に赤い花や紫の花もある。空も地面との境目のあたりは土と同じような色彩で、その上に澄んだセルリアンブルーの空が広がる。夢の中の世界に入っていくような雰囲気で、ノスタルジー、あるいはロマンといったイメージが漂う。

 宮北千織「佳き日」文部科学大臣賞。「従兄弟の結婚式での取材です。白い布、背景はプラハの教会の片隅で見たステンドグラス、人物、そして舞っている花びら。自然と日頃から描きたいと思っているモチーフが集まりました」。左側に花でつくったベルトを頭に巻いた少女が籠を持って先導する。そして、花びらをまく。後ろに新郎新婦が歩んでくる。女性は白いベールをかぶり、その向こうに男性の頭部がのぞく。あいだの空間は散る花や赤や青、オレンジなどの色斑、あるいはステンドグラスのようなフォルムが光の中に表現されている。あいだの空間が不思議な光の中にあらわれる。イノセントな中に深い音楽性ともいうべきものが感じられるところが魅力。

 小田野尚之「暮れゆく」。「岡山県のJR姫新線・岩山駅での取材をもとに制作しました。一日の乗降客が10人程度であるとか、昭和4年開業当時の駅舎がほぼ当時のまま残っているとか、取材に訪れたときに線路際に昇天した狸が横たわっていたりとか、ローカル線好きな私にとってはいかにも風情のある素敵な駅でした。ですのでこの絵をご覧になったかたの多くは、『待ちわびていた列車がようやく来た…』という作者の気持ちを想像されるかも知れませんが、実は『もっともっとここにいたいのに列車が来てしまった。あれに乗らないと今日中に帰れないから仕方ないか…。』というのが本心です」。それは一両の電車だが、こちらに向かっている。後ろは瓦屋根の民家で、その背後は畑か田圃や杉林が広がっている。手前の木造の駅舎とホームが淡々としたタッチのなかに強い現実感のなかに表現されている。それぞれのもののポジション、フォルムがきわめてクリアであるところが特色である。そのお膳立てによって電車がいまこちらに向かうという時間が画面の中に切り取られる。電車がこちらに走ってくる。それを待つ気持ち。眺めている人は描かれていないが、その気配が濃厚に感じられる。三越で初めての個展を開催して、それを拝見して面白かったのだが、以前より色彩に温かみが出てきたように感じられる。突き放して対象を見るのではなく、風景の全体を心の中に入れこんで表現する。そういった姿勢からこのふかぶかとした空間の性質があらわれてくるのだろう。

 清水由朗「原生」内閣総理大臣賞。「荒野に実る葡萄の果樹を描きました。陽溜まりの中で青く映える果実が印象的で、その雰囲気を大切にしながら試みた表現です」。四曲の屛風の右から二番目に葡萄の太い幹が立ち上がり、そこに二つの青い葡萄の房が輝くように描かれている。まるで宝石を思わせる。その周りの葉は大きくリアルに描かれているが、緑の部分より白く輝く部分が多く、光にさらされているような不思議な雰囲気である。この中心の葡萄の外側の部分はほとんど銀灰色で埋められていて、あわあわとした靄がかかっているような雰囲気。また、樹木の背後は暗く、草が生い茂っている。その中に白い葡萄の房が点々と垂れている様子がいくつも左の方向に描かれている。画家は荒野と言っているが、漂泊するような時間の中にいま実った葡萄の青い房といった二つの時間の対比が表現されているように感じられる。いまという時間のもつ性質を愛重し、いまという時間の象徴として葡萄の房が描かれ、茫漠たる過ぎていく時間と対比されるといった様子。クリアなフォルムを使いながら、そのような時間というもの、歴史というものを暗示する表現であるところが面白い。

 國司華子「理」日本美術院賞(大観賞)・第二十回足立美術館賞・招待推挙。青年がセーターを着て自然に立っている様子。それを下からすこし見上げる角度から描いて、伸び伸びとした動きをつくりだす。周りの花や本、あるいはテーブル、猫、ウサギなども画家のイメージに沿って自由に引き寄せられて、それぞれがお互いに呼応しながら生き生きとした日常生活のなかのうたともいうべきイメージを表す。中心に立つ青年の動きと同時にその周りのものたちが連結しながら、旋回するような不思議な動きが感じられて、それがベージュの空間を揺り動かすようなコンポジションもよいと思う。

 松岡歩「群生」奨励賞・第二十回天心記念茨城賞。水族館でサンショウウオを見て、それをモチーフにしたという。たくさんのサンショウウオが自由に動いている。その上方には植物を画家のイメージによってつくりだしている。サンショウウオがまるで幼児のようなあどけないイノセントな雰囲気で表現され、それらが連続し群生するところに独特の生命の輝きと遊び心とがあらわれる。

 三浦愛子「ブリコルール」。若い女性が浅く腰掛けて鑑賞者のほうを眺めている。後ろに船があり、船にたくさんの植物が植えられている。振り向いた瞬間の動きがストップモーション的な韻律をつくる。また、背後の黒い部分と明るい部分との明暗の強いコントラストの中に、女性のもつ生命感が独特の韻律をつくる。

2室

 加藤厚「葦間」。ヨシのあいだに鴨がいる。面白いのは、左右に分かれていて、左には母鴨と子供が二羽、右のほうには父親と思われる鴨がいて、向かい合っていることである。真ん中の水に霧が出ているようで、ゆらゆらとそれが漂っているようなあやしい雰囲気である。また、ヨシの黄土の色彩や緑の色彩などによって春の気配があると思ったが、よく見ると、ススキが揺れているので、秋なのかもしれない。筆者はそのあたりがよくわからないのだが、季節のなかに動いていく鳥の生活ともいうべきものがよく表現されていると思う。

 松村公太「帰舟」。空も水も穏やかなオレンジ色に染まっている。海に風が走り、白く波が立っている。そこをゆったりと船が進む。左右に長い船の形で、点々と人影が見える。中国の南やベトナムなどにある船だろうか。画家の描くこのコンポジションの中には、雄大さとのんびりとして時間の流れを捉えた感覚があって、見ていると、こちらもゆったりとした気分になる。旅情ともいうべきイメージを面白く表現する。赤い旗が靡いている様子が、色彩的には一つアクセントとなっている。

 赤田美砂緒「昼下がり」。木造の校舎のような建物。庭にコスモスの花が咲いている。無人である。瓦屋根の後ろに低い山が見える。独特の強い手触りのあるマチエールの中に白く輝く、漂白されたような色彩。廃校のようだ。過去の記憶がこの舞台の上に亡霊のように浮かび上がってくるかもしれない。そんなイメージを手前のコスモスの花が象徴する。不思議な時間を創出した光景といってよい。

 藤原まどか「港近く」。小樽の運河と煉瓦倉庫が背景になっているのだろうか。そばの橋に白い傘を差した青いレインコートを着た女性が物思いにふけっている。彼女の思いと呼応するように水が揺らめいている。この画家には独特の美的センスがあることはよく知られている。その美的センスを生かした構図に惹かれる。色彩を抑えながら、深い人間の感情を表現する。

 狩俣公介「閑寂」。巨大な岩が盛り上がるようにして正面にあって、その下は崖になっている。そこにたくさんの広葉樹が生えている。そんな様子を白黒のモノトーンの中に表現する。岩は絵具を盛り上げて、プラチナなども入っていると思うのだが、独特の触覚がある。見上げるという角度と、放物線を描いて中心がいちばん高くなっているという構図によって、いわゆる古神道の磐座のようなイメージが、この断崖の上に感じられる。曇り空の中、雲の動いていく様子、そして柔らかな光の当たっている様子などに独特の神韻渺々たるものがある。

 西藤哲夫「歴史の波」。アンコールワットの仏の顔を正面から描いて、独特のロマンを感じさせる。

4室

 斉藤博康「歴―茜風浜―」。夕暮れの残照の中に廃屋のような建物がシルエットで描かれている。手前は風に晒され時間に晒された植物のようだ。黒いシルエットと白いシルエットがお互いに響き合うなかに、時間という裂け目のなかに落ちていく。いわば、すでにない虚の世界を画面の中に立ち上げる画家の強いイメージの力。

 山田伸「カノン」。夏物のワンピースで、肩が大きく出ている。中に孔雀の模様がついている。そんな白いワンピースを着た女性が立っている。両手を胸の前に置いて、掌を向かい合わせているから、そのあいだに何かものが存在して、鑑賞者には見えないのだが、この女性はイメージのなかにあるものを触っているような微妙な動作をしている。後ろに驢馬がいて、さらにその後ろにはメリーゴーラウンドが回っている。青い闇の中に回るメリーゴーラウンドは、黄金色の光の中にシルエットで描かれている。万国旗がたなびく。女性の周りには不思議な花が咲いている。夏の夕方に夢想する。そんな心の状態をそのまま空間全体に広げて表現したようなロマンティックな味わいがある。

 吉原慎介「月あかりの夜」。真ん中にアザミのような植物が群生していて、その先に蕾がいくつも見える。その向かって右に狐、左に莵がいる。莵は後ろ足で立って様子を見ている。狐は匂いをかぎながら前を眺めている。出会うと、おそらく狐は莵を襲うのだろう。しかし、ここにあるのはもっと剽軽な雰囲気で、莵はこのゲームを楽しんでいるような雰囲気であるところに、独特の幻想感や物語が生まれる。暗い調子の中にほんのすこし光が差し込む。そんな中での生き物のドラマを描く。

 藁谷実「想い」。ボートが壁のそばに引き寄せられている。運河に向かって建つ建物。その窓の向こうに赤い衣装を着た女性の姿が見える。全体に柔らかな明るいベージュから黄土、茶褐色までの色彩のグラデーションの中にこの女性があらわれることによって、夢の世界のような柔らかな雰囲気が生まれる。

 清水操「星砂の浜」。青い波が浜に寄せている。浜は白く輝いていて、そこに一羽の鳥が下りてとまっている。その鳥のクリアなしっかりとしたフォルムと周りの茫漠たる砂地。揺れる波の文様。夏の夢のような一刻。

 下島洋貫「湖水幻映」。鷺が一羽、湖水の中に立っている。浅い水のようだ。しかし、水はかなり揺れていて、その波紋が手前に動いてくるにしたがって、そばに伸びている柳のような葉が影を映している。そこに抽象的な不思議なシルエットが生まれる。まるで声明のような響きが伝わってくる。一種仏画を思わせるような存在感がある。

 岡田眞治「時の扉」。ソファに足を持ち上げて、その背に肘をついて座っている女性。後ろの壁には絵などが掛けられている。抑えられた色調が静かにハーモナイズする。

 劉煐杲「涼風」。竹林である。緑の色彩の中に凛々とした韻律が爽やかな雰囲気である。竹林の七賢人という言葉があるように、竹林はそのような脱俗の場所だった。そんな竹の性質を画面の上に上下に突き抜けるように表現し、一種抽象的にその響きをリフレインさせながら、独特の空間をつくる。

 平林貴宏「表象と消費」。着物を着た若い女性。いまにも倒れかねないような、病気のような雰囲気で立っている。柴田錬三郎は眠狂四郎を表現するのに「うっそりと立つ」という表現を使っているが、この女性もうっそりと立っている気配で、それが不思議な気配やオーラを発する。左手にちぎれた水晶の数珠を持っている。鳥の羽が画面の中を舞っている。鳥が殺されたのだろうか。そういった殺生に立ち会った人間の姿だろうか。着物にも鳥の柄が描かれている。そのお尻の下まで伸びる長い髪があやしく、全体で白昼に現れた幽霊のような存在感がある。

 西澤秀行「夕暮れ」。一輪車に腕を添える少女のそばで、姉がトロンボーンを持って座って、二人で笑いながらおしゃべりしている。ほほえましい。それは川の上にかけられた橋の上で行われている。夕暮れの空の下には民家の灯がすこしともり始めた頃である。日本画とは思えないような、油彩画のようにクリアにボリューム感をもって対象を再現する力が、この作者にはある。その力を駆使して、毎回絵の中に一つの舞台をつくる。今回は夕暮れの橋の上で会話する姉妹という物語である。しぜんと鑑賞者も作品のなかに引き込まれる。

 ⻆島直樹「遠敷川」奨励賞。作者は山伏のシリーズを続けている。今回は川のそばで頭を下げ祈っている山伏の一団。数えてみると九人ほどの一団を描いている。独特の気韻が感じられる。水の表現はかなり様式的な琳派的な表現であるが、山伏の九人の姿は写真によるもので、一つひとつ具体的にクリアに描きながら対象に迫っている。金を地に、墨による仕事。上方の空の明るい光線と水とが響き合っているところも面白い。

 坂元洋介「バベルの遊園地」。観覧車が回転している。そばに電車や橋、メリーゴーラウンドなどがある。墨によって水も空も表現されているような空間の中に、観覧車や電車やメリーゴーラウンドに赤や黄色や緑の色彩が点じられている。実景というより、記憶のなかに現れてきた光景のような、懐かしさとあやしさ、そして到達できない非現実感のようなものが存在するところが面白い。つまり、この景色と鑑賞者とのあいだには距離がとれない。現実にあるものではなく、画家の心の中に動いているものだからだろう。心に見える世界をクリアなかたちに表す画家の表現力に注目した。

5室

 松村公嗣「どんど」。「一月十五日(小正月)に行われる火祭の行事。正月の松飾り・しめ縄・書初めなどを集めて燃やします。一気に燃え上がる炎に向かって家内安全・無病息災・五穀豊穣を念じ、また新しい一年が始まります。生まれ育った奈良県大和で『どんど』の行われる川原に、餅をさげて走って行った幼少期を思い出します」。中心に炎が立ち上がって、強い動きを示す。下方の人々はそばで見るとすべてたらし込みの表現によってつくられている。目鼻口すべてが省略され、大づかみなシルエットのたらし込みで描かれていて、それがすこし離れてみると、生き生きとした人間の姿を表す。棒がそこから立ち上がって、結んだ紙が空に舞う。満月が出ている。中心から炎がこんじきに赤く輝き燃えている。その炎の表現が強く絢爛としている。画家のもつ一種のデザイン感覚ともいうべきものが十全に発揮された佳作である。「どんど」は何回か作者が描いてきたテーマであるが、今回、どんどの横に広がる人間たちのシルエットの様子とその向こうに盛んに立ち上がる炎とが見事な絵画空間をつくる。

 田渕俊夫「月明り」。「見慣れた光景だった。気が付くと竹林が輝いていた。やがて梅林が輝きだし、別の世界が表われた」。空には星がきらきらと輝いている。民家の窓に電気が灯って人懐かしい。手前の紅白の梅林が赤く白く輝いている。その背後の竹が柔らかな若緑色に輝きながら揺れている。画家の言っているように平凡な通常の光景が画家の絵の中にピックアップされ構成されると、神秘的な表情を表す。そして、その中に独特の動きを示す。平凡な日本の田舎の一隅が空と地のものに囲まれた、いわば詩的情景と化す。

 手塚雄二「春夜」。「風がふいてきました。静かな春の夜に」。水がさざなみを立てて揺れている。海のようにも見えるし、大きな川のようでもある。その上方の空に幻視するように浮かび上がる桜の花。ほとんど満開の花である。その柔らかな紫がかったピンクの色彩に対して、その下方の海は紫色の色彩が置かれている。紫あるいはモーブといった色彩を画面の中にこのように扱った例を知らない。幽玄でロマンティックで雅びやかな雰囲気が漂う。そして、さらに上方を見ると、ぎっしりと樹木の茂ったあいだから空がのぞくような風景があらわれる。海の上方は空で、空の上方に森があらわれ、そのあいだに満開の桜の花が幻想のように浮かび上がる。実に不思議な雰囲気である。能では死者がしばしば舞台に現われる。そして仮面をつけて踊るわけだが、そのような演劇空間との共通性もあるかもしれない。桜の満開の花はいわば能面のような雰囲気で、上方に浮かび上がり、時間を超越した存在のようにあらわれてくるところがこの作品の面白さだろう。下方の繰り返されるさざなみの無限の繰り返し。その無限の連続性のなかに、上にあわあわと紫の霞のようなものがたなびく。実に幽玄の空間表現である。

 西田俊英「月窓」。「月光の下で密やかに浮かび上がる桜樹。儚い浮き世の孤独を癒してくれる満月の煌々とした光。それぞれの三つの魂はゆったりと穏やかな刻を過ごしています。夢か現か定かでなけれど、何処かで誰かと共有した春の夜の小さな幸せの記憶を思い出していただければと思います」。駒場の旧前田侯爵邸にこのような部屋があるそうだ。そこを実際に取材しながらこの構想を練った。天井の高い広々とした空間。そこにガラス戸がはまって、左のほうはすこしあけられた先に朧月が光っている。そばにはイグアナがいて、遠くを眺めている。ゆったりと手前のソファに座る白衣の男。そばにボルゾイがいる。黒と白の市松の床。明治から大正時代にこのような洋風建築が日本でつくられるが、その文化の香りがしぜんと漂う。窓の向こうは桜で、墨の仕事のなかに花が白く輝いている。柔らかな枝から梢にわたる屈曲するフォルムが繰り返される様子が、いかにもロマンティックなメロディを思わせる。そこに白い花が咲いている様子はうっとりとするほど甘美である。作者によると、桜と月と人間の三者がお互いに一体化した雰囲気を描いたという。白い衣装の男性はどこかインド人を思わせるところがある。院展を指導した岡倉天心は、インドの女性と恋愛関係に入ったことはよく知られている。そういった茫漠たるインドのイメージもこの画面の中に引き寄せられながら、この画家らしいロマンティックな空間をつくりだした。とくに月明かりが窓から差し込みイグアナを照らしているあたりの、窓の桟の柔らかな影を映している様子などは実に繊細で、そのディテールに対する配慮は画家のつくりだした見事な舞台効果と言ってよい。色彩を抑えながら、大画面を柔らかな光の中に浮き立たせるように表現したその筆力も注目した。

 前原満夫「八汐つつじの頃」。苔の映えた長い樹齢をもつ樹木の幹が強い存在感を放つ。その背後にはピンクの花が咲いている様子がシルエットふうに描かれている。手前の笹の様子。対象に接近し、一つひとつ手で触るように描くその筆力によって、自然のもつ気配があらわれる。

 久保孝久「残雪の高原」。畑の畝に沿って雪が下りている。そこに白と褐色とのストライプがあらわれる。すこし向こうの道に向かって隆起している。その向こうに左右に樹木が描かれている。それは黒く、墨による表現だろうか。それぞれの丹念なかたちによって、ひんやりとした冬の自然の姿があらわれる。はるか向こうの霞む山並みも含めて、全体で緊密感のあるコンポジションであるし、鋭利な感性が面白い。

 川島優「Deja Vu」奨励賞・院友推挙。長い髪の毛をした少女が椅子に座っている。白いツーピースで、背中合わせに座っている様子。ツインと言ってもいいし、同じ女性をこのようなポーズで組み合わせたと言ってもよい。向かって右の女性は膝を立てている。微妙に女性の角度が違う。それによって独特の体全体で発信してくるものがある。いわば少女の内向的な気配ともいうべきものが画面から感じられるところが面白い。銀灰色の画面で、色彩を使わないところがかえって新鮮な強さとしてあらわれている。院展のなかでは異色の作品であるが、先だって損保ジャパン美術賞FACEグランプリをとった。そういった画家が出品するのもまた院展の懐の深さである。

 菊川三織子「収穫譜」。「今年は庭の葡萄が実り、夏の暑い日射しをやわらげています。下図を作ってから、もう一度スケッチしてみました。今回は四人の女性の群像を描きました」。葡萄と梨を持つ女性。手前に緑の衣装を着た三人の妖精的な女性がいる。文楽に出てくる人形が集まったようなあやしい雰囲気である。そして、その周りに海外のお城や建物などが線描きで描かれ、その下には葡萄の葉が描かれている。イメージの世界である。葡萄をキーワードにしながら、画家のイメージはヨーロッパに飛んだり、眼前の葉の上を追跡したりしながら、文楽の人形が黒子によってあやしく踊るように人間たちを引き寄せて、独特のポエジーの世界を表現する。

 村上裕二「帰り道」。「ぼく自身の心を写生してみた。記憶とか思い出とかでは納得できないほどに探し求めたその末に、夕方の工場と人影を捉えた。人影は母と子か、又は…。なんとも人の情がこびり付いた絵。少しはずかしい。それだけに、この歳になるまで描く事をためらっていたのだと考えられる。ぼくは間もなく50歳になる」。子供の頃の思い出が引き寄せられたのだろうか。荒川の対岸には昔、お化け煙突という高い煙突の立つ工場が密集していた。その頃の記憶のように思われる。高い煙突から煙が上っている。空は残照で、それを川が映して輝いている。手前の道も黄金色で、そこに子供を背負う若い母親がいる。記憶の力が荒川の黒い草の生えている洲に浸透して、まるで群がってくる黒い雲のようなヴィヴィッドな印象である。対岸の煙突のある場所と手前の柵の手前に子供をおんぶする若い母親とは、空間、時間ともに異にしてここに現れているかのような雰囲気もある。記憶というもののもつダイナミックな力が画面全体に浸透して、独特のオーラのようなものを発している。

 清水達三「朝の那智」。「別名三本滝。世界遺産熊野古道の終点。六月早朝の霞んだ滝の近くを飛ぶ野鳥の姿『山翡翠』が印象深い」。岩をつたって那智の滝が下りてくる様子が右のほうに描かれて、神韻渺々たる雰囲気である。左右を緑の色彩が囲んで、それが霞のような雰囲気である。その左の濃い緑の上方にヤマセミが飛んでいる。滝の激しい動きに対して、ヤマセミの優雅でありながらシャープなフォルムやその動きが対照されて、独特の雰囲気をつくる。ヤマセミを通して那智の滝との関係がより近くなるような雰囲気である。それは画家のもつヒューニズム、あるいは人間性の幅の広さがこのようなイメージを引き寄せたものと思われる。

 宮廽正明「守破離」。「一瞬間に弾けるひかり、半分の間をおいて身体の底に沁みる音と感触、しばらくして漂う火薬の匂。まるで海の中を覗き込むように夜空を泳ぐ朦朧とした心。自然の摂理と人間の創造が絡み合いながら醸し出された時が、惜しげも無く流れ去る。古代から営みを続けていたアンモナイトや巨大な海月が、夜空のキャンバスに蘇っては消え去る。概念から解き放されると未知の世界に大きな飛躍を遂げる。秋田県大曲花火大会(守破離より)」。作者は夜の花火を見ながら古代の海の中にそのイメージを馳せている。その古代の海の中には巨大なアンモナイトやクラゲが漂うといった様子で、作者の深いイメージがこのような異様なフォルムを画面の中にあらわした。アルカイックな世界である。とくに左のほうの巨大なクラゲのようなフォルムは、クラゲでありながら巨大な貝でもあるような、なにか恐ろしい存在である。たくさんの精霊が集まってこのような光のあるフォルムをつくったかのような雰囲気さえも感じられる。右下には放射して伸びていく白い火の軌跡がいわゆる花火らしいフォルムをつくるわけだが、その様子を見ていると、その手前には上っていく花火もあって、刻々と動いていく時間の軌跡がそのままトレースされているような雰囲気である。柔らかな調子の中に麻のようなすこし手触りのある布を貼った上から仕事がなされている。その触覚的な強さもあるのだろうが、きわめて神秘的なヌミノースな世界が表現された。

 吉村誠司「白夜」。「異国の路地裏から、そびえ立つ巨大な聖堂の姿に感動して描きました」。真ん中上方に逆三角形にこんじきに光り輝く聖堂の壁面がある。槍を持ち翼をもった天使。太陽や月のシンボルも塔の上につけられている。十字架。座っている聖者の姿。様々な聖像が屋根の上や龕、あるいは柱頭の上につけられている。いちばん手前にあるのは右のほうの空間で、光り輝く壁面を背景にして、何かを持っている頭をすこし下方に向けた聖像も見える。輝く聖堂の左の壁面にも柱頭彫刻があり、そこはオレンジ色の柔らかなトーンの中に描かれ、右側のシルエットは下方は緑の暗い色面に覆われている。ふと空を見ると、満月が現われている。昼の月なのかもしれない。夕方の斜光線の宵方にあらわれた月のようでもある。いずれにしても、それぞれの光や影に包まれたフォルム、とくに柱頭彫刻の様々な形がお互いに響き合い、全体でロマンティックな幻想的なイメージをつくりだす。あるいは、ヨーロッパの音楽でフーガの構成があるが、そんな様子で、柱頭彫刻がそれぞれの影や光に包まれながらあらわれ、次の形がまたあらわれるといったように、それらの形がいわば一つの曲のメロディのように画面の中に繰り返しあらわれて、全体で不思議なハーモニーをなすといった趣も感じられる。その意味では大聖堂であるにもかかわらず、物質感は意外と希薄で、むしろ音楽により構築された巨大な建造物のようなイメージのあらわれてくるところが面白い。

 髙島圭史「旅にでる理由」奨励賞。少年が椅子に腰掛けてテーブルに向かっている。その前には植物によってつくられた小さな箱のようなものがいくつか置かれて、それが緑に輝いている。不思議な雰囲気である。上方を見ると、巨大な天球儀が現れ、星座がそこに描かれている。前述したテーブルの端のほうには、その向こうに大きな地球儀が置かれている。星座と地球儀のイメージは人を旅に誘うだろう。そう思って見ていると、テーブルの緑のボックスの後ろ側には馬のようなフォルムがあらわれている。渋い調子の中に、いわば詩を組み立てる要素のようなものがいくつも引き寄せられて、独特のロマンが漂う。

 小島和夫「メモリー '14」奨励賞。モロッコとそこで見た人をモチーフにしている。老人と中年の人とが会話をしている様子が親身で温かく、独特の存在感を示す。また、この画家の特色であるが、人物を描くと、その全体のボリューム感を描き起こすから、なおさら二人の会話をする様子には強い存在感と同時にモニュマン性ともいうべきものがあらわれる。背後の石造りの建物や驢馬なども脇役としてよくきいている。

6室

 瀬永能雅「散華」。花火が開いて、落下してきている。それを人々が眺めている。あまりにも強い火なので、火傷でもしかねないような激しさで光が下りてきている。人々はシルエットで、その上を見上げている。見ていると、花火というより、もっと不思議な神秘的なことが起きている様子を眺めているような深い味わいが感じられる。

 中井香奈子「百年駅舎」。木造の駅舎は百年たっている。雪が積もっていて、道路に沿って雪かきがされている。車が走った跡が見える。電信柱の街灯からの光。駅の中の光。そんな様子をクリアなフォルムで描いている。平凡な情景が、この画家の筆にかかると不思議なファンタジーの世界に変わるようだ。後ろに電車がとまっているのだが、その光が前に差している様子も不思議な感じである。茶系の微妙な色調の変化を捉えることによって繊細な味わいが生まれ、そこにきわめてクリアなフォルムがつくられて、無人の中にある物語性が生まれる。

 芝康弘「音色は風と共に」。横笛を吹く八歳とか九歳の少年。秋の景色のようだ。広葉樹の葉がすこし緑を失って褐色に移り変わる頃の季節。少年の足元に白い小さな花が咲いている。後ろは斜面になって、畑である。コローは樹木と人間を組み合わせた作品をたくさん描いているが、この絵を見ていると、日本画によってつくられたコローの世界のようなイメージを感じる。遠景は海で、島が点々と見えるから、瀬戸内海の光景なのかもわからない。瀬戸内の穏やかな日射しの中での物語性豊かなコンポジションである。

 麻生弥希「賛美神」。中心に正面向きの女性、左右に横向きの女性。衣装を見るとインドふうな衣装で、インド特有の踊りを踊っているのだろうか。実にエロティックな体の動きを画面は捉えている。バックは金の箔を貼ったもので、装飾的な空間。三人の女性のフォルムが生き生きとしている。ただ、顔を見ていると、一人の人間の三体のように見えるのが残念で、三人の女性がそれぞれ違った女性だと、もっと複雑な面白さがあらわれるように思った。

7室

 村田林藏「蒼天」。いま子牛が生まれたばかりで、すっくと子牛が立ち上がった瞬間のようだ。後ろに母牛がいる。その大きな母牛の体と小さな子牛の繊細な表情を描き分けて、いわば牛の聖なる母子の像ともいうべきものを表現している。上方の屋根の桟を通して夜空が見えるのも、馬小屋で生まれたキリストのイメージが背後にあるのだろうか。

 鈴木恵麻「夢虫」。盛りを過ぎた紫陽花のような植物の中に女性が立っている。腰巻きを巻いて、上半身が裸。その女性の姿と周りの緻密に画面の中に入れられた葉と花の様子がお互いに響き合って、独特の幻想性が生まれる。対象のもつ力を引き起こすように描いていて、独特の強さがある。そのうえに立ってもう一度それをイメージのなかに沈めていこうとする、そんな画家の姿勢が興味深い。

 速水敬一郎「夕」。巨大なコンビナートを夕焼けの残照の中に描いている。巨大なパイプでつながったコンビナートのそれぞれのフォルムが、逆光の中に浮かび上がる。そのフォルムがクリアで、全体で一つの有機的な生命体のような姿が生まれるところが、実にヴィヴィッドな印象を醸し出す。画家の筆力のたまものである。

8室

 前田力「街の音」。ちんちん電車がいくつも描かれている。こちら向きにも横向きにも。そこにたくさんの人々が歩いている。こんな数のちんちん電車は現実にはないと思うから、おそらくイメージの世界なのだろう。かつて画家が親しくなじんだちんちん電車を画面の中に再現し、人を集めたのだと思う。ノスタルジックな気配が濃厚に画面から立ち上がってくる。

 加来万周「優煌」。崖の上に白い霧のようなものがわだかまっている。崖の下には水が流れているようだが、そこは黒々としている。また、霧の向こうには岩が立ち上がっていて、植物の生えていない山のようだ。不思議な光景で、どこの場所をテーマにしたのかわからないが、世界の果てのようなイメージが面白い。崖につくられた形。接近すると、そこに水が流れていることが見えてくる。その水の流れている手前は黒々としている。無明の川の流れといった言葉が浮かぶ。人間を除外して、孤独になり、風景と向かい合って強い集中力で想念を凝らす。そういった場所を絵の中に表現したかのようだ。マチエールも面白い。

 藤井聡子「ワルツ」。アーチ状にあけられた回廊の中で楽器を演奏している。チェロとヴァイオリン。そばのテーブルには赤ワインとボトルが置かれている。向こうにも回廊が見えるが、向こうは無人である。柱の上方には手前に植物が茂っている。ヨーロッパのロマネスクの回廊などは実に魅力的だが、その回廊の魅力をより表現するのに、そこに音楽家を置いて演奏させたという画家の幻想的コンポジションと思われる。独特の詩人的感性による表現だと思う。

9室

 近藤仁「朧」。両側に小高い丘があり、そのあいだの陸橋を電車が走っている。谷にたくさんの家があって、光が灯っている。そんな光景が背後まで続き、いちばん後ろ側には、すこし高いホテルのような建物が見える。画面全体が左に傾いている。たとえば昔の香港のような街を飛行機から眺めた光景だろうか。独特の臨場感とリズムのなかに懐かしい人間の暮らしを彩る色彩が輝いて、ロマンティックでもある。

 松下雅寿「望道」。雪の積もった道が続いている。その山の斜面には針葉樹が墨で描かれている。何層にも交互にその針葉樹の斜面はあり、そのまた向こうに山の斜面がある。そこは雪が積もっている。雪の積もっている斜面や道と黒い針葉樹を組み合わせながら、独特のふかぶかとした情感豊かな空間をつくる。

 岩波昭彦「白陽」。川が流れている。手前は、地面の上にたくさんの雑草が描かれている。そのあいだから水が見える。太陽を受けて白く輝いている。平凡な光景の中に独特の詩の世界ともいうべきものを引き寄せようとするかのようだ。そういった画家のイメージが面白い。

10室

 宮下真理子「彩風の始点」。ヴェニスだろうか。運河の両側の建物。赤褐色の壁と煙突。樹木は白く、風化したような色彩。描かない部分と描く部分との関係が面白く、そのことによって一種の風圧が起こり、風が吹く。

 井田昌明「分岐点」。二つの電車がトンネルから出てきている。右の電車は現実の電車で、手前の電車は幽霊電車のようだ。下方が川になっているようで、水が飛沫をあげている。シュールな世界である。二つの時間を画面の中に描くという画家の願望が面白い。ほとんどモノトーンの中に、電車というものが生き物、あるいは記憶のメタファーのように画面の中に表現される。

11室

 小山硬「天草 崎津牛」。「天草写生旅行の時描いたもので、母親牛と子牛が満月をバックに向き合っている。母子牛の愛情の深さを表現致しました」。左二曲に子牛、右三曲に母牛を置いて、母牛と子牛のあいだに満月を置いている。バックの緑が独特の落ち着いた調子。プラチナと思われる満月の色彩。どっしりとした母牛の存在感とかわいい子牛のフォルム。そのあたりは墨による仕事。一種図像的な強さが感じられるところがいかにもこの画家らしい。対象を再現するのではなく、イメージを断定的に表現するその筆力に注目した。

 福王寺一彦「朝陽と三日月」。「金箔の下地を生かしながら描いてみました」。六曲の屛風である。厚く塗られた金地に独特の強さがある。左下に太陽、右上に三日月を置き、中心に緑の樹木が立ち上がり、白い花が点々と左右に中心に咲いている。煉瓦づくりの建物がある。金のもつ神秘的なイメージを空間に重ねて、独特の象徴的な表現となっている。

 齋藤満栄「山霧」。「3月末、奈良県吉野へ写生に行きました。桜はまだ莟の状態でしたので、吉野周辺の風景を描きました」。六曲の屛風である。中心の上方の空があけられている。下方に松の木が幾本も伸びてきている。その向こうは山間になるのだろうか。白い霧のようなものが立ち込めて、何も描かれていない。両側にはグレーの広葉樹のようなもの。そして、右下には山桜の枝が描かれ、花は蕾。画面に接近するとわかるのだが、ほとんど鉛筆による仕事である。その上に墨が置かれているケースもあるが、鉛筆のままの状態もある。現場で写生したわけではないと思うのだけれども、対象のもつ空間の深さに迫るような、激しい正面切っての仕事である。それによって独特の韻律が生まれる。また、グレーのトーンの変化も独特で、この吉野の山の奥の気配ともいうべきものがもうもうと画面から立ち上がってくる。

 高橋天山「浄闇〝第62回伊勢神宮式年遷宮遷御之儀〟」。「昨年秋、伊勢神宮式年遷宮、遷御の儀を特別奉拝させていただいた事は、忘れられません。わずかな灯火の中に浮かびあがる昔より変わらぬ儀式、正しく神秘そのものでありました。“浄闇”に相応しい表現を求めるには、何より墨の美しさ。栄寿堂古墨で地塗りし、明代の方于魯(ほううろ)を重ね、程君房(ていくんぼう)を僅かに添えています。300年の時を超えたゆかしい墨色が、千年の儀を彩ります」。真ん中に女性が歩いているが、これは内親王である。黒田家にお嫁に行った清子さま。その足元を宮司が照らしている。後ろには笏を持った二人の神官が歩いている。柔らかな墨色。その中にぼうっと現れてくる四人の人間の姿。作者が語るように神々しい様子。神秘的な雰囲気がよくあらわれていると思う。この画家らしい形態に対する鋭敏な感覚が、このようなぼんやりした中に線によってフォルムを立ち上げて、独特の生気をつくりだす。

 荒井孝「樹下」。白い衣装を着たインドの老人が杖をついて立っている。左足で立って、右足をすこしくの字に曲げている。右手は杖に、左手はポケットの中に。後ろに巨大な樹木が枝や葉を茂らせている。このインドの男性の全身像が実に魅力的である。彫りの深い顔。真っ白なひげや髪。その白はそのまま衣装の白とつながっていくのだが、インドという土地の不思議さを象徴するような人物像としてあらわれている。インドは人間と動物とを区別しない。日本では考えられないような思想がそこに生きている。そういったインドに魅せられて連作を続けているが、背後の巨大な樹木の存在感と拮抗するようにこの手前の老人が描かれ、その老人はおそらく普通の平凡な人なのだろうが、哲学者のような不思議な風貌のなかに描かれている。

 大野逸男「牡丹」。「新緑の5月と言いますが、日差しは強く、陰は黒くクッキリと出ます。優雅な牡丹ではなく、緑陰の中の牡丹、抵抗感をもってもらえるような絵をめざしました」。白い牡丹の花が十ぐらい描かれている。蕾もあれば、開いている花もある。独特の激しさがある。それはこの地面から伸びてきて咲いた花で、その周りの黒々とした雑草や樹木などに囲まれているからだろう。花瓶に差された牡丹ではなく、自然のもつ気配、あるいは大地と強い関係をもったこの牡丹の花である。花びらや蕊の表現も理想化せずに、いわば野生の牡丹といった様子で、その様子を強く独特の動きの中に表現している。

 大矢紀「冬韻待春」。手前に林檎の木がいくつもその枝を広げている様子が描かれている。遠景に浅間の山がずっしりとした存在感を見せる。すこし高台から見ているので、いちばん上方の向こう側の浅間が描かれている。通常この山は見えないそうだ。いずれにしても、モノトーンに近いグレーの中に力強いフォルムが描かれる。とくに風雪に耐えてきたような林檎の屈曲する形は実に見事で、その幹や枝のたくさんのフォルムによってドラマティックなイメージやリズムが生まれる。人間が手を差し伸べているような踊っているような林檎の木に対して、どっしりとした雪をかぶった浅間の山がその向こうに対比させられる。自然のもつ不思議な強さや神々しさといったものが表現される。

 梅原幸雄「夕轟」。「いつの頃からか、着物を着た女性を描きたいと折にふれ思うようになり、心おどらせて、構想を練っていた。落ち着いた色調で気品ある着物を凛として着こなす強さと、内に秘めた蠱惑的な色気が、表現できれば……」。屛風の前に二人の女性がいる。一人は白い肌襦袢で足を前に投げ出し、一人は座っている。屛風にはガマの仙人や鯉を摑む男や女性などの中国に題材をとった人物が描かれ、その前に着物が吊るされている。現実というより、もうひとつイメージの中に入りこむところから生まれた空間で、手前の二人の女性はデッサンによってよく表現されているが、すこしあやしい雰囲気が漂っている。ドローイングする力を武器に独特のパッショネートな空間をつくる。

 北田克己「あ伎の野辺」。「山上憶良が詠った有名な『萩の花 尾花葛花 なでしこの花 をみなへし また藤袴 朝貌(あさがほ)の花』の『あさがほの花』は最近、ほぼ桔梗だろうとされているそうです。色にも形にも惹かれてよく画題にしてきました。秋の清涼な空気と控えめな花たちは、厳しい夏を過ごしてこそ体と心を癒してくれるように思います。ただ、花期は意外にばらばらで、絵の中にちりばめて楽しませてもらうことにしました」。四曲の画面である。左右はほとんど和紙の紙の地を生かした表現になっている。右のほうからは縦に黄金色、そして暗い調子、その横には水色のストライプの空間が入ってくる。右のほうは朝で、中心は夕方の頃のイメージをしぜんと思う。上方に短冊形のフォルムが入れられて、夜の空間を表すようだ。左右はそのような時間を外れた空間で、そこに象徴的に黄金色の楓が散らされている。上方には水を思わせるようなフォルムもある。中心に萩の花、桔梗の花が散らされている。そしてそこをゆるやかに落ちてくる黄金色の楓の葉が散らされて、ゆったりと時間が推移していくようだ。桔梗や萩の花が実に可憐な雰囲気で置かれている。いずれにしても、量感のあるものを置かずに、これだけ小さなものを散らしながら画面をまとめることはなかなか難しいと思うのだが、それに成功している。一つは右の二つのストライプの黄金色を背景にした場所の楓やススキのフォルムの強さと、その横の夕方に水が流れていくような、バックに溶け込むようなにじんだようなフォルムの動きなどが相まって、時間のなかに動いていく光や植物の姿が象徴的に捉えられ、それらが構成されているからだと思う。独特の韻律をもつ。いわば虚の空間を画面の前面に置いた不思議な作品である。

 今井珠泉「寒鴉」。北海道斜里町宇登呂という知床半島の起点を画家が訪ねたのは五十年ほど前で、そのころは静かな漁村であった。そこで見たカラスの集団は、東京で見るカラスとは大違い。生き生きとして、それは美しかった。その記憶を画面の中に引き寄せたそうである。近景にたくさんのカラスが群がっている。左右には枝にとまっているカラスもいる。垂直にすっと伸びていく樹木はカラマツのようなものなのだろうか。空は黄金色で、地面も柔らかな黄金色で、イメージの空間の中にこのカラスは生かされている。しかしその形がクリアで、黒いフォルムが下方にあるように絡みながら集まると、独特の気配を表す。この作品の中ではカラスの鳴き声は聞こえず、無音の中にいるようだ。無音の中にありながら激しく動くカラスの様子が、独特の力をもって迫ってくる。イメージの中に深く入ったために、そのようなことが起こるのだろう。

 吉井東人「雪の河原」。雪のすこし積もった河原に若い女性が立っているが、ニットのスカートや上衣、マフラー、帽子などと雪とが響き合って、まるで雪の中から現れた雪女のような不思議な魅力を醸し出す。そこに白い鷺のような鳥が二十羽ほど集まっている。鷺が少女に変身したのかといった言葉も浮かぶ。独特の幻想とロマンが重なった佳作である。

 伊藤深游木「昔日」。花火が開いた瞬間が描かれている。三つの赤い花火。ドドドーンといった響きが聞こえてくるようだ。三秒とか五秒ごとの時間のなかに開きつつある花火の形を画面の中に捉えている。独特の感覚美である。

12室

 石谷雅詩「休息」。ホームが左右に二つあって、電車が三台とまっている。それを手前の暗い部分から描いている。レールの一部が白く光っている。その金属の触感までも再現するような独特の表現力である。対象に接近する力からあらわれてくる表現の強さだろう。

 小林路子「秋陽」。この人の作品はいつも不思議な作品で、シュールと言ってよい。今回も、樹木の影と地面とのあいだに無数と言っていいような、四重丸とかそんなボタンのようなフォルムが大小あらわれ、それは楕円も角もあるのだが、まるでそこに生き物が存在するかのような不思議さである。木の影がタコのようなフォルムとなってうごめいている。それと三重、四重の水玉模様が相まって不思議なアルカイックな力をもって迫ってくる。

 杉山紀美子「風の詩」。ベンチに横に座った少女。後ろに釣鐘草のような花が咲いている。花が大きくなって、人間の顔ほどの大きさになっているところは幻想的である。いずれにしても、フォルムがクリアで、クリアなフォルムを組み合わせることによって独特の生気が生まれる。今回は植物がかなりの大きさでもって迫ってきて、少女がだんだんと小人になっていくような、そんなイリュージョンも感じられる。

 梅津道雄「三差路の家」。木造の家。いわゆるY字路に立つ家。そばに白い日傘を持ってワゴンを引いて向こうに歩む女性。手前の横断歩道。道路標識。平凡な日本のどこにも見られる光景だが、時間というものの謎、あるいはシュールな気配がしぜんと画面にたちこめているところに注目した。

13室

 小川国亜起「早春暮色」。川の洲に鷺がいる。洲にはススキが密生している。洲のそばから黒い樹木が立ち上がって枝を広げている。それは中景のもうひとつ向こうの洲にも並んでいる。なにか不思議な感覚的な表現である。心が破れて空虚な空間の中に水が流れ、ススキが風の中を乱れているような雰囲気。そこに気高い鷺が一羽、とまっている。実景がそのまま、たとえば泉鏡花の世界につながるようなロマンを帯びる。

 丸山國生「シュート」。油絵具を置いたかのような表現になっている。十メートルを超えるような天井高の下でサッカーをしている。異国の建物。いま机は寄せられているが、夜になると野外のカフェになるのだろうか。天井の形、奥行もよく表現されていて、大きな空間が臨場感をもって描かれている。そこでサッカーをする少年。その向こうには窓際にたくさんの人が立っているようだ。独特の気配が描かれている。その気配はこの床にも天井にも壁にも描かれていて、生気ある空間が生まれる。

14室

 松下明生「うんどうかい」。黄色い帽子をかぶったクラスと紫の帽子をかぶったクラス。幼稚園の運動会である。それを上方から眺めている。小さな子供たちにもかかわらず、影は長く伸びている。かっと照る日射し、その影。少年たちのそれぞれの上から見た姿。視覚の面白さを生き生きと表現する。

 村上里沙「心匠」院友推挙。水の中に影が生まれている。その影をテーマにしている。その光と影によってできる形がアルカイックで、不思議な力があらわれる。じっと見ていると、むしろ音楽を空間化したようなイメージもわく。対岸のこの影をつくっている樹木などのある空間は淡々たる写実であり、七割を占める水の中の一部の影がそのようなデモーニッシュな姿を見せているところが面白い。

15室

 三浦長悦「清晨」。樹木と鑑賞者とのあいだに青いネットが張られている。そのネットを通して樹木の姿が浮かぶ。ほんの一部、上辺と右辺の上にジョンブリヤン系の空のもとにオリーブの葉のような樹木が見える。それ以外はネットによるものだが、ネットもゆがんでいて不思議な姿を見せる。ネットがまるで波紋のような動きを見せながら不思議な雰囲気をつくる。独特の感覚のよさだと思う。感覚によってつかまえられた対象の形が生き生きと発信してくる。

 大場茂之「残陽」。石を積んだ建物。だいぶ壊れかかっている。そばに蔓のような木が上方に伸びて、そこは金や朱色の色彩で彩られている。横になった倒れた籠。屋根の上に登る一匹の猫は、背中を見せて空を眺めている。存在するものの過去と現在と未来といった言葉が自然と浮かぶ。存在するものの過去の堆積を、マチエールを通して描く。独特の表現である。

16室

 大河原典子「光塵」。ソファに布を敷いて、まるでハンモックに座っているようなポーズをしている若い女性。その女性のフォルムがクリアで面白い。形に対する感覚が優れている。

17室

 横山由美子「歴」。樹齢数百年の桜の花の開いている様子を、まるで人間のように正面から表現している。樹木の幹はたらしこみ。胡粉によって花の様子を描く。ぱっとこの絵を見るときの印象にたいへん強いものがある。それは墨というものの技法をよく生かしているからだと思う。

19室

 古谷照美「海聴」。ヨットのような船が砂浜に置かれている。そばに珊瑚のようなものが見える。グレーのその船の形が面白く、不思議な生き物、たとえば鯨を変形させて置いたようなイメージもしぜんと感じられる。海の緑と日に輝く光っている様子。全体に初々しい独特の雰囲気で、なにかシュールな気配を感じることができる。

20室

 森川博幸「ハイデルベルグ城」。ドイツのレストランのようだ。「ハイデルベルグ城」というタイトルだから、お城の一部にそのような機能をもたせているのだろうか。長い時間のしみ通ったような煉瓦や石を積んだ壁。窓の中にそれぞれのものが見えるが、中心にアーチ状の扉がある。上方には石の彫刻のようなものが半ば朽ちて置かれている。エキゾティックなドイツの建物を面白く描く。

21室

 田中宏明「水面―息―」。水の中の一羽の白鷺。後ろから樹木の枝が広がって、この白鷺を囲んでいる。それが揺れるような韻律をつくる。薄暮で、斜光線が差し込んでいる。コンポジションが面白い。

 平田望「A Mad Tea-Party」院友推挙。三人の女性。真ん中の女性は頭の上に赤黒いリボンをつけ、両手を左右の女性のほうに向けている。掌が見える。それを眺めている向かって左の女性にはウサギの耳。向かって右の女性はシルクハットをかぶっている。背後に薔薇の花がたくさん咲いている。ファンタジーの世界である。そのファンタジーはこれからますます佳境に入っていく。その序章のようなシチュエーションを面白く描く。手を例にとると、指の形、掌の形などがごくしぜんに生き生きと強く描かれているように、この絵の魅力はディテールの力の上に立っていることがわかる。

 羽子田龍也「冬籠」。幹とその前に伸びていく小さな細い枝と梢。そこに雪がふかぶかと積もっている。手前は川で、水が流れている。その上に木から落ちた雪が一緒に流れ、枝も一緒に流れている。自然の中に発見した形である。そのまま俳句や和歌が詠めるようなシチュエーションを表現する。

 水津達大「今昔」。地面の上に横座りして、岩の上に両手を置いて、そこに頭を置いている若い女性。その上をオリーブのような木が覆っている。視点が面白く、上方から眺めるところからこの妖精のような女性を描いている。この女性の時間と岩の時間、木の時間。三つの時間がお互いに語り合うようなイメージの中に、クリアなフォルムによってユニークな視点から見たコンポジションをつくる。

22室

 鈴木広太「Who are you ?」。黒のキャミソールに黒のタイトスカートの女性。立っている人と座っている人。一人の女性の二つのポーズ。現代的な感覚がある。女性の姿を美化するのではなく、もっている気配や存在感をしぜんと描く。モデルの心の中に筆が届いているような筆力に注目した。

 澁澤星「二人」。椅子に座って足をぶらぶらしている女性。もう一人は足を椅子の上に置いて立て膝をしてこちらを眺めている。エゴン・シーレを思わせるような線による表現だが、色彩感覚がよい。

 川﨑麻央「存在の矢」。馬に乗る女性。馬はいなないているが、手綱を持たずに女性は乗っているから、いつ振り落とされるかわからない。デッサンだけによってつくられた空間。

23室

 澁谷祥子「旅情」。マチエールがずいぶん凝っていて、画仙紙のようなものに徹底的にハッチングしたり絵具を置いたりして、それを裏打ちしているようだ。ヴェニスのゴンドラを操る男、水が中心になって、その周りに船や建物が見える。独特の動きがある。また、傾いたなかにあるバランスともいうべきものが描かれている。初々しい感覚に注目した。

 西岡悠妃「祈りの音」。色面として画面を捉えている。中心は着物姿の女性。そばに扇子のようなものがある。衣装が上から垂らされている。バッグ、小物。そういったものを集めながら、爽やかな風が画面を渡っていくような空間をつくる。その風の中には甘い香りが漂っているようだ。複雑な構成をつくりながら、それを統合する力に注目した。

 神山由香「月奏」。釣鐘草やヤマブキや菊のような花が咲いている。「月奏」というタイトルのように、月の光に照らされている。内側から花は輝いているような雰囲気で、植物の命を画家は眺めている。その命を一つひとつ画面の中に灯していくような、そんな穏やかでしっかりとした表現に注目した。

24室

 鎌田文子「映りゆく二つの影」。白いチューブでできたモダンな二つの椅子。そこに日射しが差し込み、壁と床にグニャグニャとしたカーヴする影をつくる。床は直線でできた市松状のフォルム。光と影によって不思議な幻想感を醸し出す。

 シュナッケンベルグ輝華「Forgotten Garden」。錆びた柵の入り口。赤錆、白いペンキ、青いペンキ。緑の蔓草。向こうの広場の上に立つ木立。そのあいだからオレンジ色の空がのぞく。色彩が潑剌としている。このガーデンの中には秘密の花園があるような、そんなときめきを感じさせるイマジネーションの力に注目。

 山田雄貴「環」。広い食堂。たくさんの丸いテーブルに四つの椅子。そこにたくさんの人々がいる。みんなシルエットである。それが室内ではなく、戸外の場所にしつらえられている。遠景の先に柵があり、両側に木立が立ち上がる。不思議なイマジネーションである。無意識の中の物語を画面に描いたようなシュールな気配。

50周年記念主体展

(9月2日〜9月15日/東京都美術館)

文/高山淳・編集部

1室

 井上俊郎「火焰山の麓を往くキャラバン」。駱駝に荷物をのせてキャラバンがいく。いちばん前に先導する歩行の人がいる。火焰山が斜光線に輝いて、その遠景にダイナミックなフォルムを見せる。そのストライプの輝きの力強さに対して、繊細なキャラバンの姿が対照される。光を色彩に変えて表現しているような独特の色彩の魅力がある。(高山淳)

 植田寛治「ノートルダム寺院」。縦長の画面の上方にノートルダム寺院。片面が光に輝いている。そこから一段下の地面に車がたくさん走っている。交差点がある。手前は何かの陰になっているようで、道全体が黒々と表現されている。その明暗の強いコントラストが面白いし、とくに明るい面の柔らかい光のグラデーションが輝くような魅力を醸し出す。暗いところもまた、その中にすこし車などが光っていて、その陰影の表現も見事であり、全体にシックという言葉を使いたくなるような洗練が感じられる。(高山淳)

 矢野利隆「二つの間に」。画面の下方に黒い衣装に包まれた三人の女性がいる。若い女性から中年、老婆と年齢がそれぞれ異なる。その背後に岩壁が伸びている。三年前の3・11の津波のイメージが漂う。上方には明るいベージュ色の色彩で裸の女性や鳥や骸骨になりかけた鳥のイメージがあらわれている。そこは異界で、あちらの世界のようだ。三つのフォルムが上下に重なっている。浮遊しながら、だんだんと上方にいくに従って小さくなっていくそのフォルムは、いちばん上方では棺桶のようなイメージが漂う。そういったイメージの背後を深い川が流れている。三途の川を思わせる。三途の川を背景にあらわれた漂白されたような人間や鳥や矩形の形。そして、画面全体をすこし緑がかった不思議なグレーが取り囲んで、ひっそりとした雰囲気が感じられる。生と死。二つの時間を一つの画面の中に描きながら、そのあいだにある不思議な世界を画家は描く。それこそ画家の創造する空間と言ってよいだろう。(高山淳)

 吉江新二「8月15日」。日本の敗戦の日である。おそらく画家も軍隊にいたのではないだろうか。解放感を覚えただろう。しかしそれはまた、敗戦という悲しみの日でもあっただろう。様々なイメージが錯綜し、ある絶対値に近いような感情がこの画面に引き寄せられ、アンフォルメルふうな空間をつくった。グレーのあいだからベージュ系の色彩がきらきらと輝く。それは心の絶対値、感情の絶対値ともいうべきイメージだろうか。いずれにしても、緊密で緊張感があり、ピュアで輝きのある画面である。(高山淳)

 中村輝行「蒼い壁」。画面全体はインディゴのような青い色面によって下方が覆われていて、五分の一ぐらい上方が煉瓦色である。そこに十羽ぐらいのカラスがいて、お互いに会話をしているような不思議な雰囲気である。そして、インディゴのような、下方のほぼ全体で正方形を思わせるような色面の真ん中に明るい青みがかったグレーの長方形があり、その中に長方形がもう一つつくられ、片一方はあけられた窓のようになって、ジョンブリヤン系の色で輝き、片一方は暗い空洞のようなフォルムがあらわれる。そして、画面のいちばん下辺から子供の胸像のようなフォルムが浮かび上がる。上方の窓といった部分の黒い中に、よく見ると、女性の横顔に見えたり女性のトルソに見えたりするフォルムがある。その左のジョンブリヤンなどの輝くような色彩を見ると、斜光線の中にその光は輝き、残照のイメージが漂う。画家自身が人生の晩年に差しかかっていることが影響しているのだろうか。そして、このあけられた窓の奥には実に様々なものが詰まっているようだ。過去の記憶、あるいはその窓の向こうには深い無意識の果てに死の世界につながる通路があるかもしれない。不思議なこの矩形のボックスは人生の重みとほぼ等しいもののようだ。それがきわめて貴重なものとしてシンボリックに中心に描かれる。下方にはまだ若い時の人間の姿。そして、上方の鳥のささやく様子は、この人が向こうの世界に行ってしまったことを嘆き、あるいはそれを伝言しているような、そんな不穏なイメージも感じられる。そして、その煉瓦色の空の色彩の一部を下方の窓のようなところに置いているようでもある。人生というものの一生の重み、そんな言葉さえも浮かぶような実にシンボリックな不思議なコンポジションである。とくに下方の長方形というより直方体といってよい、ずっしりとした存在感をもつボックスのもつ強い力に感銘を受けた。(高山淳)

 田中淳「崖」。画家はこれまで、あの世と接するような一種の宗教的な場所をよく描いていた。今回は、崖がえぐれていて、空洞化して、上部のものがいつ下方に落ちてくるかわからないような、あやしい崖が描かれている。巨大な岩でできたフォルムで、右のほうには小さな岩が集積して、雑草が伸びている。時間というものの謎がお化けのようにあらわれてくる不思議な風景と言ってよい。空間を描いているのか時間を描いているのか定かでないような、独特の表現である。(高山淳)

2室

 冨田昭正「蓮曼荼羅」。円形の画面の中に、蔓をねじるようにさらにいくつかの小さな円を作って画面を構成している。中央の大きな円の中では蝶がとまっている。周囲では蓮の花が咲いていたりしている。画面全体は緑の色彩をメインにしながら、そこに黄やピンク、茶の色彩によってアクセントを作り出している。旋回するような動きを作り出し、そこに美と生命を讚えるイメージを浮かび上がらせているところがおもしろい。(編集部)

 水村喜一郎「暮色(旧道に沿って)」。昔の連子の引き戸のある入口。そんな玄関をもっている建物が続いている。屋根を見ると、瓦の屋根が多い。空は残照で、オレンジ色に輝いている。家の前にケヤキのような樹木が葉を落として点々と立っている。あいだは三十センチほど下にあって舗装されているのだろう、グレーの道が続いている。それがこの画面の中では川のような雰囲気に感じられる。両側には舗装していない道が家の前に二メートルぐらいの幅で続いているようだ。点々と窓に光が映っているのは、残照を受けてガラス戸が輝いているからなのだろう。青い光は室内の光かもしれない。見ていると、裸の樹木が人間のように見えてくる。両手を上にあげて動き出しそうな気配である。うずくまるような建物のもつ立体的な雰囲気に対して、樹木はそのように生きているように描かれている。いまがいちばん空が輝く時で、あとすこしすると、あっというまに空はあせてグレーになり夜が来るのだろう。そういった夕暮れのある時間が画面の中にしっかりと引き寄せられている。右のほうの家の向こうに山のシルエットが見える。そんな様子は日本の至るところの田舎にある。飛行機で日本列島を見ると、本当に山が大半で、海岸べりにすこし平野があるぐらいだ。旧道沿いの日本のある場所のある光景なのだが、画家はこの道を黙々と歩いたようだ。その歩いたということの経験がそのまま深い触感のような独特の画面の中を浸透する力としてあらわれているところも面白いと思う。(高山淳)

3室

 水野博子「翔」。長く人物をテーマに描いてきた画家であるが、ベージュがかった灰白色の屈曲した二つのフォルムは、人体を表しているようだ。それが躍動感をみなぎらせてクロスするように配置されている。説明的な要素を削ぎ落としていくことで、その存在と動勢がクリアに発信されてくる。随所にシャープな線を入れてアクセントを作り出し、強い心象性を孕みながら鑑賞者に迫ってくる。(編集部)

 森慎司「鉛の海の底で」損保ジャパン日本興亜美術財団賞。近代的な建物の内部とそのガラスの壁の向こう側を描いている。そこにはたくさんの人が歩いているが、内部では歩いている人物が床に沈むようにして描かれている。そしてそれをエスカレーターそばの少女が見つめている。人工的な建造物がそこに暮らす人間までも無機質なものに変えてしまっているようだ。それを無垢な少女を通して画面を展開させているところにおもしろさがある。吹き抜けのフロアの広い空間が、そういったメッセージに余韻を持たせている。(編集部)

 中嶋修「横浜にぎわい座・客席の賑わい」。画面を三枚縦に繫げた構成であるが、そのうち最も下にある画面が面白いと思った。段状に並ぶ席に、たくさんの観客が座っている。観客それぞれの様子もおもしろく、密度の濃い画面となっている。生き生きとした人間模様が楽しく、ある種の臨場感も相俟って印象的な作品となっている。(編集部)

4室

 見藤瞬治「層層」。この縦長の画面は正方形を二つほど重ねたような感じだから、一対二ぐらいの比率、あるいはもっと比率は高いのだろうか。下方に川が流れているが、その川の周りの岸に人の顔がいくつもあらわれている。そして、その横顔を見せる人間たちがお互いに手話をしたり会話をしているようだ。空は地面と同じ茶褐色なのだが、その上方にも横に岩石の連なりがある。それは人間の指なども連想するが、やはり岩石であると思って見ていると、横顔のようなものがそこにもあらわれてくる。さらにその上方は海と岸壁のようなフォルムだが、その向こうに大きな島のようなものがあらわれる。島の高台に向かって道が続き、集落がある。画家がこのような仕事を始めたのは阪神大震災の経験による。同じような規模、あるいはそれ以上の規模のものが東北を襲ったのが三年前の3・11である。その東北のイメージを、画家は関西で経験した、自然を人間のように眺めるという手法で縦長の画面に描いた。不思議なモニュマン的な空間をつくりだした。上方の島のようなフォルムの中にある民家の様子は可憐で、画家の祈りのようなイメージがそこにあらわれているように思う。(高山淳)

 山本靖久「緑蔭」。曲線で区切ったキャンバスの上に、象のそばにいる二人の女性を描いている。そばに樹木が伸びて、黄金色の雲の向こうに月がある。水が流れてきて、蝶が飛んでいる。いわば原始的な楽園のイメージを描く。頭の中にあるそんなイメージを変形キャンバスの上に切り取って、もちろん額はつけずにそのまま東京都美術館の壁に掛けて、そのイメージを鑑賞者に語りかける。(高山淳)

 中城芳裕「エデン島絵伝」。この4室のコーナーに二曲屛風のようなかたちで一三〇号だと思われる正方形の画面が二枚陳列されている。まさに中城ワールドになっている。画家が描いてきたモチーフが全員集合といった雰囲気である。子供と会話をする牛のような角をもった恐竜。長い尾をもっている。見ていると、子供の尻にもしっぽがある。十歳頃の子供にとって世界は大人と違って恐竜も友達になれる環境なのである。そういった恐竜たちがここに集合し、あるいは骨のまま現われてきている恐竜やマンモスもいる。月に鳥影があらわれ、それも恐竜のようだ。二つの画面の折れ目のところに曼陀羅のようなフォルムがあり、文字が見える。中に命といった甲骨文字のようなフォルムもあらわれて、そこにたくさんの小さな精子のような生き物が向かっている。命が生まれ、命をはらむということが中心に描かれている。そして、上方は黒いシルエットで、そこから若い父親と子供とが一緒のグレーの中に丸まって下方に垂れてきている。あるいは球体の中にいる胎児もいるし、前述した恐竜のそばには金田一耕助のような男の頭に鳥がとまっているといった、ほほえましいフォルムも見える。はるか向こうは平野で、ところどころいぼのような山が見える。中心にそのような受胎というものを置き、少年時代、様々なものと会話をし語ってきた記憶が描かれる。宇宙服のようなものを着た少年もいる。バッタと語っている様子もある。まさにそれは少年の幸福な時代であった。少年のエデンの園である。そういったものを描くことによって、画家の中に走った強い亀裂を統合しようとするかのようなダイナミズムが感じられる。(高山淳)

 浅野修「太陽と壊れた厩(千年の森・虚と実)」。画家は十勝平野の千年の森という後楽園球場ほどの広さのある場所で、壊れた厩を自然に返すというプロジェクトを行っている。そこに新しくつくった建物の内部には世界中の子供たちが描いた絵を展示するそうだ。そういったプロジェクトの中からあらわれてきたフォルムである。時間というものが上方に不思議な顔のようにあらわれ、下方には厩のフォルムが傾いたかたちで、馬の形がシルエットふうに描かれている。そして、上方の時間と厩とのあいだをメディウムがコネクトする関係をもたせてリンクさせている。茫漠たる白い空間の中にそのような形而上的な世界と形而下のものが不思議なかたちで引き寄せられる。(高山淳)

 結城智子「楽園の寓話―こどもの日―」。独特の幻想的な世界観が展開している。大きな亀に支えられた街に人々が溢れ、そこには擬人化された動物たちもいる。そして背後にはそれを見守るように白いミミズクが大きく描かれている。一つひとつの場面を見ていくと、どこか人間たちが蔑ろにされているようだ。鯉のぼりを掲げてこどもの日を祝いながら、その世界は動物に支配されている。そういった現代社会に対する皮肉がこの画家特有のユーモラスな感性で描き出されている。(編集部)

 榎本香菜子「MAZE―何処へ」。緑の迷路がつくられている。そこを猟犬がウサギを追って走っている。ウサギと猟犬がこの巨大な迷路に遠近感に従って見え隠れするように描かれる。実に不穏で、一度見たら忘れられないような強烈なイメージを発信する。手前の地面に乳母車が倒された図が描かれている。そばに花柄のスカーフが広がっている。倒された乳母車はもう錆びているが、スカーフはまだ鮮やかで、ピンクの花が咲いて、花柄が不思議な哀切感のなかに表現される。地平線から竜巻が現われ、手前に向かってきている。竜巻が接近すれば、この迷路も一切を破壊するだろう。その竜巻は、たとえば放射能の事故などのイメージと画家の中では重なるのだろう。チェルノブイリの事故が画家に衝撃を与えて、このような作品の展開が始まったと筆者は記憶している。巨大な禍々しいものが手前に近づくなかに、それに気がつかずに猟犬はひたすら激しくウサギを追う。目の前の現実しか見えない様子が禍々しく表現される。それは人間も同様で、目の前の現実しか見えずに生きている姿の暗喩と言ってよいだろう。巨大な人間社会のドラマ。その不穏な様子のメタファーとしてこの迷路はつくられ、まさにどこへ行くのかといったメッセージがしぜんと伝わってくる。(高山淳)

 長沢晋一「WALL 2014」。横長のキャンバスを二つ上下に置いて、黒をそこに塗り、グレーのチョークと金の箔で円弧を描く。黒はしっとりとしたマチエールで、その中のグレーは切り込んだ中に入れられている。独特の触覚的な表現で、まるで金環食を思わせるところがある。日食の中に輝き出る炎のリング。そこに不思議なロマンが感じられるのだが、そんなイメージがあらわれているようにも思うし、黒という無限な深い空間の中に人間の行為を一つのトレースのように置くといったイマジネーションのようにも思われる。(高山淳)

5室

 多田欣子「悠なるかな」。いくつもの地引き網が投じられた海中を描いている。海中には陽の光が差し込み、明るい。そしてたくさんの魚や貝、エビなどが生命を謳歌している。上方から網が降りてきているが、その緩やかな動きが、海の持つ遥か太古からの大きな時間の流れと相俟って、独特の時間感覚を作り出している。透明感のある気持ちのよい画面が、そういった奥行きのある精神性までも引き寄せている。(編集部)

 坪井健一「LINE」。駅のプラットホームが奥へと重なるように続いている。それが作り出す縦、横、斜めの繰り返される線が、律動的なテンポを作り出している。そしてそこにたくさんの人々が点景で描かれている。グレーの色調で纏められた画面がどこか無機質で、そこに人々も取り込まれているようだ。電車が行き交い、乗り降りする現代人の日常の一コマを淡々とクリアに描き出しているところに注目した。(編集部)

 栗﨑進一「麦秋『風の迷い』」。黄金に実った麦の穂が画面いっぱいに手前から地平を埋めつくして広がっている。そこに風が吹き、麦の穂は実に豊かで複雑な表情を作り出している。画面の中央やや右よりのところに、麦が大きく左右に分かれている部分がある。よほど強く鋭い風が吹いたのだろう。そしてそこから周囲に風は抜けて行っているようだ。細部を細やかに描き込みながら、全体で目に見えない風の動きを作り出して鑑賞者にイメージさせるという、その筆力に強く感心する。今回は特に、画題にもある風の逡巡するような動きが作品に確かな見応えを作り出していた。(編集部)

 小野昭「駆ける神馬」。画面の向かって右から左に人や動物が駆け抜けている。中央に巫女の乗った馬がいて、周囲には男性や犬、鳥が密集している。その密度を持った画面の充実と勢いが強く印象に残った。(編集部)

 藤田英子「砂子と白い帽子」。海岸に立つ一人の若い女性が画面のやや左寄りに描かれている。灰白色をベースに柔らかな色彩を使いながら、その中で女性の上衣の暗色がよく効いている。どこか寂しげな雰囲気の中で、若い女性の儚げな存在感をしっかりと描き出していて注目した。(編集部)

 有馬久二「時の伝言」。板の箱に横板をつけたようなシンプルな空間に古い新聞紙が置かれ、そこに鳥の死骸が置かれている。ほとんど骨になっている。そのフォルムは実に優れた描写力であるし表現力だと思う。鳥の骨がそのまま魂のようなイメージを表す。そばにワインボトルが置かれている。この箱の手前に縄が渡されて、そこにホオズキが一つぶら下がっている。それと呼応するように棚の中に白い石が一つ。祈るような深い想念が漂う。「時の伝言」という題名であるが、静物というものを描きながら、それが死んだものではなく生きたもののように、何かのメタファーのように描いているところが面白い。鳥の下のドアが半開きになっていて、その中に何か不思議なものが入っているような気配さえも感じさせる。このシンプルな箱の中にあるものたちを描きながら、腐っていく時間ではなく、生きていく時間のほうに、時を逆行させていくような画家のイメージの力に注目した。(高山淳)

 池田稔幸「再港の扉」。船の並ぶ港に重厚な鉄の板やロープが積み重ねられている。その重量感と存在感がじっくりと描き込まれている。背後には二隻の船が見えるが、それらとの巧みな遠近感の取り方で、作品をよりドラマチックなものにしているところもまた見どころである。(編集部)

6室

 丸谷恵「地・めぐり・めぐる」。鳥海山を望む風景を俯瞰するような構図で描いている。ただ、手前では見下ろすような視点だが、奥に行くに従って真横に視点が変化している。その自然な動きが鑑賞者を作品世界へとスムーズに誘う。細部にこだわりながらも違和感なく画面をまとめている筆力に注目した。(編集部)

 木村正恒「洛東夕映」。京都の街並みを情感深く描いている。手前から斜陽が差し、深い影を川面に作り出している。その強い明暗のコントラストがしぜんである。遠景の山並みまでの透明な空気感もまた魅力的である。(編集部)

 森脇ヒデ「'14  梼」。樹木の根が描かれている。巨大な幹と根。根の下には地面がある。その根があやしい生き物のように描かれている。何人もの人がそこに横たわり、しがみついているような雰囲気で、不思議な気配を表現する。(高山淳)

 續橋守「ある日の製錬所」。足尾銅山を描いて、まったくがらんどうの工場を描いた時期がある。抽象的であり、独特のリズムがあり動きがあって面白かったのだが、最近、だんだんそこにものがあらわれてきて、不思議な雰囲気である。まるで亡霊のように、撤去されたものがもう一度画家のイメージのなかで置かれて、だんだんと鼓動して工場が動き始める方向に向かいつつある。もっとも、この作品での機械はそうであっても動いてはいず、すべて廃棄されて止まった状況であるが、画家のイメージにはそれを動かしつつあるような不思議な力が感じられる。管もそうだし、遠景のずっしりとした回転する機械などがいくつも置かれている様子も不思議な存在感を表す。宙づりにされたパイプが上からの鎖によって支えられている。その斜めの管などは、この整然たる垂直水平の動きに対して不安定な、不思議な現在進行形のようなイメージを表す。その上方にH形鋼の柱や梁が置かれているのも面白い。トーンが褐色や紫、黄土などの色彩で、そこに光の陰影があらわれて繊細な表情を示すところも面白い。実際にここには画家のつくりだした一つの不思議な空間が存在する。工場が生き物とすれば、生と死の中間の領域にある気配をもつ空間が描かれているところが面白い。(高山淳)

 鴨狩泰代「消えゆく形」。画面の左手前に黄色い葉を付けた樹木が立ち並んでいる。その右側には道がカーヴしながら伸びて、奥の山へと向かっている。茶系の色彩も相俟って、素朴な情景となっている。力強いフォルムでそれらを描きながら、深い情感を作品に引き寄せている。黄葉の色彩が黄金の輝きを思わせているのも印象深い。(編集部)

 麻生眞紀子「風に舞う」。一人の女性が座り、四人の女性が立っている。Tシャツとジーパンのようなものを着ているのだが、一人の女性の五つのポーズで、ちょうどV字形に広がっている。とくに右の三人は背中、横、正面向きで旋回している様子。座っている人は遠くを眺めて考えているし、同じようなイメージで立ちながら遠くを眺めている人がいる。その背後に大きな樹木がシルエットで表現される。「風に舞う」という題名だが、女性のポーズ、踊りをパントマイムふうに画面の中にアレンジしながら、時の過ぎていくなかの希望や過去のイメージを静かにうたいあげるといった趣である。(高山淳)

 﨤町勝治「清田大樟」。相当の年月を経た樹木の幹を画面に大きく描きだしている。隆起しながら上方へと伸びるその姿が、強い生命力を孕んでいる。また、幹やその他の枝葉、地面の藁なども濃密に描き込んでいる。そして、右下には一匹の猫がいる。右に向かってゆっくりと歩いている。それが穏やかで微笑ましい、心温まる情感を運んでくる。根本には若い芽も小さく伸びていて、生命の循環と悠久の時間を静かにメッセージしてくるようだ。(編集部)

 中島佳子「竹林」。竹のしなるような動きは独特である。それが連続すると、なんとも言えない味わいが生まれる。そんな竹林の様子を内的なイメージの象徴として画家はここに表現した。地面が左に傾いていて、それに沿って竹林が黒っぽい褐色、紫系の色彩で置かれて、ざわざわとざわめいている。その竹林のしなる様子を白い線によって手前の地面から立ち上げている。そんなものが幾本か描かれている。地面はグレーで、そこに茶褐色の色彩が置かれる。かつて画家は葡萄棚という地面を這うようなフォルムを連続して描きながら、それを人間の心象風景として表現して高い評価を得て、安井賞を争ったことがある。自然のフォルムを心のメタファーとして表現する画家の姿勢は変わらない。一時、遺跡のシリーズも描いていたが、今回は、竹林を通して自然のもつ気配や動きを描く。描くうちに自然の奥のもう一つの世界に連れていかれる怖ささえも、表現される。画家はこの竹林を描きながら、描いているうちにだんだんとこの絵の内部に入っていき、絵の奥のほうから何か語りかけてくるような、そんなあやしいイメージが感じられる。(高山淳)

 岩見健二「創る」。夜、光に輝くコンビナートの様子である。機械は止まらず動いている。そのために照明が必要である。生き物と言ってよい。しかし人間は描かれていない。巨大なパイプが絡まり、上方に向かい、U字形に下りてくる。手前に大きな円筒形のタンクがあり、そこに渡されたブリッジがある。垂直、水平、カーヴするフォルムが入りくみながら、全体で巨大な生き物のようなイメージがあらわれる。人間の心臓や肺の動きなども、実際あけてその中を見ると、この工場のような姿を連想できるだろう。これは無機的な工場でありながら、画家のつくりだした有機的なもののイメージである。作品を見ていると、その動きは無限に続いていくような永遠性といったイメージもしぜんと感じることができる。(高山淳)

 山﨑弘「白い雲」。手前に森、遠景に雪を被った山を描いた風景である。そして大きく虹が上方へ立ち上がってきている。虹はうっすらとその色彩を見せ、雲はゆっくりと流れる。雄大な自然の美しさが鑽仰されているようだ。雲の影で暗くなった森の中に、建物の尖塔が小さく見える。それがまた作品の中である種のアクセントを作り出していて印象的である。(編集部)

 吉田正「連添い」。ロッキングチェアに女性が座って本を見ている。中年の女性である。周りは暖色系の紫や茶系の色彩で、床と壁とがほぼ同色でこの女性のフォルムの周りに置かれている。丹念にこの女性に迫っている。顔、手、足、全身、そのニュアンス、ディテールに迫りながら、結果的に静かに呼吸をして瞑想しているような、そんな女性の姿があらわれる。外側から描きながら、この女性の心の内部に筆が届こうとするかのごとき筆力である。(高山淳)

7室

 富樫耕一「3・11 拾遺 Ⅰ」。ものものしい防護服を着た二人が廃屋から出てきている。その上方には白い衣服の案山子が掲げられている。真っ暗な画面の中で、その案山子が妖しい気配を帯びながら浮かび上がってきているようだ。そしてそれは十字架のようにも見える。画題にもあるように東日本大震災をテーマにしながら、独特の視点と構成で描いているところにオリジナリティがある。(編集部)

 グェン・ディン・ダン「THE EUCHARIST 聖体」。キリストの血はワイン、聖体はパンに例えられる。それをストレートに画題にした作品である。細部にこだわって描き起こしながら、そのクセのあるようなパンの様子が強く印象に残る。大作と合わせての展示だったが、掲出の作品の方がより面白いと思った。幻想的な世界にリアリティを引き寄せることのできる筆力のある画家だけに、こういった直球の作品にも強い説得力を生み出す。(編集部)

 小菅光夫「農村歌舞伎」。上半分にスポットライトを浴びた舞台の場面、下側には舞台の裏側の様子を人情味豊かに描き出している。それぞれが台本を読んだり、化粧をしたり、衣装を整えたりと忙しそうだ。酒を飲んで語らっている者たちもいる。そういった賑やかな、人間同士の絡み合いが熱気を帯び、朱の色彩となって現れて来ているようだ。そういった情感が深い味わいを作り出している。(編集部)

 佐野たいし「8月6日の王様」。八月六日というと原爆が投下された日であるが、そのような意味ではないのだろう。題名の意味はよくわからない。二〇〇号と思われる大作で、縦長の画面。板を置いて、それを立ち上げて、上方にボックスのようなものがあらわれ、その上にバケツのようなものが置かれている。そして、空中に四つの板が浮遊している。いちばん下は下方から眺めているが、それ以外の三つは上から眺めて、浮遊している。その周りに黄土系の色彩がバケツと矩形のグレーの板との周辺に置かれている。きらびやかな雰囲気である。画家は独特の音楽的な感性をもっていて、きびきびとしたフォルムを使った作品を見てきたが、ここにあるのは、もっと穏やかで曖昧な世界である。下方の板のようなフォルムは側面から眺めているが、上方にいくと視点を移動して、上から眺めていて、そこにグレーや黄土の微妙なニュアンスがあらわれ、なにか輝いている雰囲気。直線が入ってきて、バケツの中に何か入れられたものもまた全体で浮遊しながら、静かなメロディを奏でているかのような不思議な印象を受けた。(高山淳)

 福田玲子「ground」。蔓が立ち上がり、伸び、三台の自動車を覆っている。この蔓は葛だということだ。恐ろしい力である。文明の象徴ともいえる自動車を覆い、解体し、もとの素材に戻そうとするかのような激しさである。葛の蔓が一種魔的な力をもって画面全体を覆っている。そのいちばん上方に生き物のようなものがいるのが見える。黒とグレーのもので、そばに行くと鳥のようにも見えるし、遠くから見ると猫のようにも見える不思議な存在がひっそりとこの黄土色の葛の上にいて、鑑賞者を眺めている。激しく画面の中を旋回するように動くこの葛の蔓のフォルムを追っていくと、その圧倒的な存在感に驚く。そのエネルギーが筆者の内部にも浸透してきて、なにか不安な雰囲気になる。一切を破壊し、土に戻すような、その葛のイメージはきわめてアルカイックで原始的で、大地そのものの力の表徴のようだ。そのような力を画面の上に展開する画家の想像力の強さに感心した。(高山淳)

 オノ・ミチ・ヒロ「イタイノワカル? アブナイノミエル?」。画面を木箱に見立てて、その中に二体の熊の人形が描かれている。その熊の目がいくつもあったりするなど、妖しい雰囲気を作り出している。二体は向かい合っているが、その間に小さな手が伸び出てきて大きい方の熊の足をつねっているようだ。愛らしい人形をブラックなイメージによる危うさのメタファーとして使っているところが面白い。グレーの色彩を基調色にしながら、そういったギャップを淡々と描き出している。(編集部)

8室

 手塚國彦「峠の棚田」。新潟県の山間部の長野に近いあたりの場所を描いている。右下から道がカーヴして向こうに続いている。それは左の方向に行って遠景に棚田が見える。その棚田の手前、もうひとつ視点の違う場所に立って棚田を眺めている。そしてまた、前述した棚田の向こうに、もうすこし棚田を上方から見る角度から手前に引き寄せたシーンがあらわれる。畦道に緑の草が茂り、田圃には何も植わっていない。五月頃だろうか。新緑の草木がその周りに茂っている。その後ろのグレーの空間は花のようなものが咲いたかたちで樹木が茂っているようだが、その果ては空になって、空の周りの入道雲にそれは変身する。画面と対話をしているうちに、だんだんと風景が見えてくる。見えてくるにしたがって制作を続けるうちにこのような不思議な三つの風景を連結した空間が生まれたのだろう。そのイメージのなかに画家は深く入っているから、それほど違和感はなく、逆にそれによって密度のある心象的な風景の深さや広がりがあらわれてくる。いずれにしても、大地というものの鼓動を画家は聞いている。それを全身で聞いているような、そういった強さがある。その中にこの棚田のだんだん変化していく様子が画面に引き寄せられる。右の下のほうは実景で、三つめの大きな棚田もかなり実景であるが、だんだんと理想化され、左のほうにいくと桃源郷のような世界があらわれつつあるような印象である。渋い調子であるが、塗りこまれた内側から色彩が輝いてくるような魅力がある。(高山淳)

 佐藤善勇「欧州スケッチの旅」。画面の手前に二人の男性がテーブルを囲んで杯を交わし、座っている。その背後にはヨーロッパの様々な風景が組み合わされながら描かれている。男性はどちらも主体美術協会の作家で、向かって右側が大野五郎、左側が磯村敏之である。二人とも主体展の創立に関わり、会を代表する作家であるが、大野は二〇〇六年に、磯村は二〇〇七年に亡くなった。二人と長く親密に付き合ってきた佐藤は、五十周年記念展である今展にこのような作品を出品した。背後の風景は、共に幾度も取材旅行をした場所である。視点を変えながら街並みや河、森などを密度高く描いているが、その風景の巧みな組み合わせに、この画家の構成力が見て取れる。こちらを向いた二人の表情は、実に穏やかである。まるで、逆に向こうから記念展の会場を眺めているような雰囲気である。二人の存在感の強さは、そのまま画家の想い入れの深さと繫がる。今展に相応しい作品である。(編集部)

 石井晴子「夢・八月」。丸いソファに若い女性が足を組んで座ってまどろんでいる。その後ろに白い高層ビルがたくさん集まったシーンがあらわれ、その向こうは青い海である。たくさんのホオズキが浮遊している。その向こうに傾いた建物が見える。傾いた建物は津波のイメージだろうか。それを癒すようにホオズキが中に実を入れて、メッシュ状の白いフォルムとなってたくさん下りている。白い高層ビルは健康な未来の希望のようだ。もともと画家は秋田に生まれ育った。その風土のイメージがどこかこの絵の背後にあるようで、柔らかなマチエールが生まれている。手前の女性の同伴者として犬が座っている。自由にのびのびとフォルムを引き寄せながら、風がそこに吹きながらイメージをつくっていく様子が面白く表現される。(高山淳)

 伊藤明美「Pose」。ライブハウスを背景に、一人の若い男性を描いている。その若々しい表情とポーズが強く印象に残る。背後は暗色の入り交じる赤であるが、男性の背後のステージ辺りはスポットライトによって明るくなっている。自分の最も輝く場所を背後にした男性の自信に満ちた様子が、若者の特有のエネルギーとなって鑑賞者を作品に惹き付ける。(編集部)

9室

 石崎哲男「コスモス(調律)」。矩形のテーブルの周りに十人の楽器を演奏している人がいる。マンドリンやギター、トランペット、ホルン、アコーディオン、チェロなどさまざまである。中心のテーブルの中がぽっかりあいて、夜空が見える。また、この人間たちの周りにも夜空が広がっているようで、不思議なファンタジーとなっている。いずれにしても、十人が合奏しながら題名のような不思議なコスモスがあらわれ、お互いがハーモナイズしている様子である。人間たちも、上から見、横から見、その視点も自由で、その中心に広がる無限の夜空が心の中の魂を象徴するようにも感じられて興味深い。(高山淳)

10室

 宮林さわ子「生々流転(連画)」。二枚のパネルを組み合わせ、そこに独特の空間意識を作り出している。左右や上下方にはデフォルメされた人体が描かれている。それが強い動勢と共に画面を活性化させている。暗色の部分にも影が映り込み、補色関係にある黄と紫の色彩も相俟って、印象深い作品となっている。(編集部)

 齋藤典久「scene」。アイルランドのアラン島というところに何十年か前に行って、彼のシリーズが始まった。今回はすべて凍土に覆われている地面のイメージだろうか。その極北の地のイメージがイノセントでピュアなイメージを引き寄せる。この画面の側面から見るとわかるが、メディウムを使って四ミリぐらいの厚さのマチエールをつくっている。画家自身が必要なマチエール、まるで凍土そのものをここに置いたかのごときマチエールの強さ。それはまた媚びや曖昧なものを排除した厳しい世界である。そのように追い詰めた極限的な空間が逆に柔らかな優しいものを引き寄せてくるから不思議である。画面は四層になっているが、下から三層目あたりの緑がかったグレーの銀灰色の様子には、なにか柔らかく舞っているような、ときめきのようなイメージがあらわれている。一度すべて他者を拒絶したうえに、もう一度人の心を引き寄せる。そんなスタンスを暗示しているような、空間の性質に注目した。(高山淳)

 野辺田紀子「月の光」。画面の中央やや上に満月がひっそりと輝いている。その下方には夜空を想わせる円形の空間があり、さらにそれはうっすらと格子で囲まれているようだ。下方には草が茂る地面が繊細に描かれている。どこか幻想的なイメージ世界が心地よい情感を作り出している。自然の声に耳を傾けるような、画家の穏やかな心情とそれによって生まれるポエジーが魅力の作品である。(編集部)

11室

 柴田かよ子「道―熱情―」。大胆な画面構成と厚いマチエール、コクのある深い色彩が強く印象に残る。画面の右と下方に暗色の部分があって、そこに赤が入り交じっている。よく見ると青も少し入れられている。深い感情、意志を思わせるが、そこに青があることによって、一方で冷静な部分もあるというところがおもしろい。ベージュの空間もまた深い精神的な奥行きを感じさせる。画面全体でそういった心理劇が展開されているようだ。(編集部)

 水谷幸子「scene」。茫洋と広がる風景が、どこか幻想的な世界観を引き寄せている。掠れるような灰白色の中に、様々な色彩が入れられている。そして上方に島、あるいは港のような影が見える。画家の心の奥底から浮かび上がってきた、強いイメージを孕んだ世界が鑑賞者を誘うようだ。(編集部)

 本木エツ子「風の丘」。グレーのグラデーションを重ねるように、或いは積み上げるように画面を構成している。ある風景を画家のイメージの中で純化したような、強い抽象性が独特であり、風景的要素を引き寄せている。じっくりと画面を眺めれば眺める程、その世界に入り込んでしまう作品として注目した。(編集部)

 水戸部千鶴「時の浄化」。長い年月を経た地層を思わせる画面が印象深い。右上方に弧を描くようなフォルムが見える。時のようでもあるし、紋章のようでもあり、興味深い。左側には地層を切り裂くような鋭い線が入れられている。人間にはどうすることも出来ない事も、大自然の持つ時の流れが解決してくれることもある。その人間の小ささ、自然の懐の深さがメッセージされてくるようだ。グレーから黄土の色彩を繊細に扱いながら、そういったメッセージを発信している。(編集部)

 佐野未知「こどう〈STAPの芽の行方〉」。緑がかった黄の色彩が鮮やかに画面を満たしている。画面の上方左側には装飾された暗く長細いフォルムが見える。画家は長く生命をテーマに作品を描いてきたが、今回の作品は強い発信力を孕んでいるようだ。科学の進歩によって、これまで助からなかった命も救えるようになってきた現代において、一連のSTAP細胞騒動に一喜一憂した画家の好奇心が高いテンションで描き出されているようだ。釉薬を使った独特のマチエールと色彩感覚が、ヴィヴィッドな感情表現を可能にしている。(編集部)

12室

 西森聰子「無+無」。赤、黄、白と言った色彩が矩形を作りながら配色されている。そこには、連続して次々と浮かぶ日常の様々なイメージが入れ込まれているように思う。或いは、純粋な色彩の競演が生み出すリズム感、音楽性の心地よさが感じられる。いずれにせよ、そういった気持ちのよい絵画的なセンスのある作品として注目した。(編集部)

14室

 宮内和「秋色に染まる大地」。深い茶の色彩にそまった草原とその向こうに見える大地が味わい深く描かれている。秋の季節特有のどこか寂しい情感がじっくりと表現された作品である。(編集部)

 河内一「雪荒ぶ海沿いの踏切 Ⅰ (羽越本線、柏尾)」。画面の手前に踏切があり、その向こうは激しい波が立ち上がる海辺の風景である。自然の持つ厳しさ、恐ろしさと人間の生活が作品の中で重なり合うように描かれている。今回はこれまで以上に波の様子に臨場感がある。それは踏切という生活に欠かせないものがその対比として描かれていることから来ているのかもしれない。鑑賞者を作品の中に引き込み、強い孤独感を感じさせるような、そういったリアルな情感が確かな魅力を作り出している。(編集部)

15室

 玉木志穂「深夜バラエティー」。暗い部屋で一人テレビを観る上半身裸の女性が描かれている。無防備なその姿が、強く印象に残る。テレビ画面は明るく、その光が女性の姿を浮かび上がらせているところがよく描き出されてもいる。独特のユーモラスな感性を感じさせる。(編集部)

 新野安紀子「よどみズム・Ⅱ」佳作作家。部屋の一隅にボトルなどの置かれたテーブルがある。周囲は薄暗く、左奥からは灰白色の光が入り込んできている。ドローイング風にぐいぐいと描き出しながら、独特の空間性を作り出している。テーブルの脚の一つが水色になっているところが、この画家の絵画的センスのおもしろさを感じさせる。(編集部)

 髙澤信「追憶」佳作作家。住宅街の間の階段を降りてきたところにスーツを着た二人の男女が描かれている。そのすぐ背後に大きな掌が描かれている。奥の方にもいくつか手が見える。きびきびとしたクリアな描写で描き出しながら、そこにシュールな世界観を引き寄せる独特のイメージの力が鑑賞者に新たな空間の魅力を発信してくる。(編集部)

16室

 大口満「降りしきる雪のもとで」秀作作家。雪の積もる海岸近い街並みを小高い丘から眺めるような視点で描いている。奥に行くに従って徐々に下降していく様子をしっかりと捉えている。険しい崖に挟まれた場所に家屋が点々とリズムを刻みながら建っている。そういった画面構成に説得力がある。(編集部)

 荒井美緒「精霊」新人賞。森の中で樹木を背後に座る一人の女性が描かれている。強い霊的な気配が画面を満たしている。デッサン力もさることながら、作品全体の雰囲気をうまく作り出す表現力に注目した。(編集部)

 永井直子「明日が見えない」佳作作家。上半身を大きくデフォルメされた男性が膝をかかえて座り、こちらを見つめている。ちらかった部屋に籠もり、悶々としているようだ。その何とも言えない心情にこちらも同調してしまう。そういった決してポジティヴではないものの、見る者を引きつける不思議な魅力がおもしろい。(編集部)

 藤代康子「造られる橋梁 Ⅱ」秀作作家。橋梁を下から見上げるような視点で描いている。縦横斜めに組み合わされた直線がテンポのよいリズムを作り出している。錆びた赤の色彩が、空の灰白色と旨く馴染んでいて、それがどこか寂しげな情感を引き寄せているところが特に印象深い。(編集部)

17室

 大都志帆「春きざす」。暗い室内の窓から雪の積もる屋外を覗いている。しかし木立の周囲にはピンクの色彩が入れられていて、仄かな温かみを感じさせる。激しい明暗のコントラストの中に、待春の情感を繊細に入れ込んでいるところがこの作品のおもしろさだと思う。(編集部)

 山田宏「時の眼差し─2」。画面に大きく胸像が四体描かれている。いずれもデッサンに使うおなじみのものである。背後には雲の浮かぶ青空が広がる。デッサン力と大胆な画面構成が強く印象に残った。(編集部)

18室

 川端みち子「オデオン」。古代ギリシアの劇場を描いている。一番下の座席に座って眺めた視点で描いているようだ。右手前から左奥にカーヴしていく座席の動きがじっくりと描き出されている。また地面と遠景の描写に様々な色彩を使って深みを作り出しているところにも強い味わいを感じた。(編集部)

 上野信彦「夜の目黒川 2」。真っ暗な中に目黒川の情景が描き出されている。左奥にある店が黄色の明かりを作り、少し残る桜を浮かび上がらせる。感性豊かに描き出した画面が確かな臨場感を引き寄せている。(編集部)

19室

 澤井弘之「寂光」。旋回するような構図で描かれた古い都市。どこかある種の抽象性を孕んでいるところがおもしろい。直線や曲線によって抑揚を作り出しながら、独特のイメージ世界を展開している。(編集部)

 長澤弘美「HOME(夜の洗濯)」。あるマンションのそれぞれの世帯を少し離れたところから見て描いている。部屋ごとに住人それぞれの生活があり、それがオムニバス的に展開しているところがおもしろい。淡々と描きながらも、日常にある情感をそこに入れ込んでいる。それらを纏め上げる筆力にも注目する。(編集部)

 池田正子「TUGUMI(I)」。手前に卵の入った小さな鳥の巣があり、その背後には大きな惑星が描かれている。その惑星はどこか手前の卵と響き合うような様子である。卵から生まれる鳥の一生と星の一生は、果てしない程の時間的な差がある。しかし、生まれ、そして消えていくという意味では、共通する部分がある。そういった生命の平等、大切さを画面から感じた。シンプルな画面構成もそういった鑑賞者のイメージを刺激する。(編集部)

第21回新作家展

(9月2日〜9月7日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 河口いくえ「宮沢賢治より 貝の火」。ウサギが溺れているヒバリを助けた。それによって丸い赤く燃える球を手に入れて、自慢であったのだが、だんだんと思い上がっていくうちに、その美しい火がだんだんと冷めていくといった物語である。下方の三匹のウサギ。上方に救われたヒバリが擬人化されてブロンドの少女となって、赤い球体を抱えている。そして、そのまま空を飛んでいる。宮澤賢治の小説は、意識が下降することによって現実の外側に出てしまうようなところがある。画家はそれを逆に天上に上昇させるようなイメージのなかに描いているところが面白い。

 森吉健「life」。一歳よりすこし前あたりの男の子だと思う。裸の男の子をしっかりと描いている。体は上を向いて、顔は横を向いている。左手でおなかの皮をつねっている。そばで眺めているところからくる強さが面白い。単にモデルとして描いたというより、自分の子供と暮らしながら、ある瞬間の姿をこのようなかたちで、表現したと思われる。柔らかな布の上にこの子供はのっているが、下方は無地のグレーのトーンになっていて、その無地のトーンに独特の光が引き寄せられている。そこから一種この子供を荘厳するようなイメージもあらわれる。

 中野淳「サンジェルマン・デ・プレの記憶」。パリの若者の街、学生の街、サンジェルマン・デ・プレのカフェに座る若い男女を描いている。かつてこの地でスケッチしたところから起こしたのだろうか。かえって現象的なものが遠ざかって、七人の男女の様子に不思議な存在感が感じられる。六人は座り、一人は立っている。会話をする人。あるいはそれを黙って眺めている人。違う方向を眺めている人。本の上に手を置いている人。背後は極力消して、人間のもつ表情、その姿を画面の上に静かに浮かび上がらせる。オーラのようなものが画面から感じられる。

 根岸正「不吉な梅雨あけ」。空に入道雲がわいている。夏が来た。入道雲と反対側には黒や紫、ピンク、青などの菱形や歪んだ四辺形の色面があり、そこに緑やオレンジなどの色片が散っている。いちばん上方は梅雨の季節のような青に墨をたらしこみにしたような空間である。それがだんだんと下方に来るに従ってクリアになり、いちばん下方は黒い中に赤や緑、オレンジなどの色面がきらきらと輝くように置かれている。湿度が落ちて、ものの色彩が浮かび上がる、といった雰囲気である。その背後に小鳥たちがシルエットになってとまっている。植物が伸びている。その小鳥たちの様子を見ると、梅雨のなかに画家が黙ってその自然の様子を眺めたり、聞いていたりするような、そんな雰囲気がしぜんと彷彿として、筆者にはその小鳥の姿に画家の姿が重なるようだ。それが右のほうには明るいスカイブルーの中に入道雲が現われるといったように、一転して梅雨から夏への変化である。しかし、題名を見ると「不吉な」という言葉が「梅雨あけ」についている。画面からはそれは感じられないけれども、今年の異常気象を思い出しながらそんなタイトルをつけたのだろう。そうすると、右の明るい夏の風景に対してもこの小鳥のシルエットは何か考えこんでいるような雰囲気で、その不吉なイメージもその小鳥の表情に漂うようだ。

 小池弘恵「浜菊咲く」K氏賞。津波でたくさんのものが流されてしまった。その荒野のような浜辺に一歳に満たない子供を抱く若い母親とその上のお姉さんと思われる少女を描いて、希望のイメージを表現する。若い母親のスカートには花が咲き乱れているし、砂地にも浜菊が咲き、その浜菊を子供が持っている。背後は散乱する壊れたものが海まで延びている。空と海とが一体化した塩辛いような青がそこに使われている。津波は終わったけれども、なにか不穏な雰囲気もそこに漂う。それに対して手前の若い母親を中心に二人の子供というコンポジションが、聖母子像のようなイメージを醸し出す。

 加藤広貴「十本足の船」。建物が広がっている。あまり高い建物ではなく、一階とか二階の建物。それをキュービックなかたちで表現する。その生活感に満ちた建物群の上に一本の道が通っている。その道の上に蜘蛛のような長い足を置いて、上方に船のあるものがそろそろと動いていく。空には残照のようなイメージが漂う。船は一つの家のようなイメージと重なる。そろそろとこの道を動いていく船の様子には、大切なものであると同時に不安定なイメージが漂い、しぜんと人生というものを感じさせる。

 伊藤介一「星に至る」。蓮の葉がたくさん群生している。上から見ると緑色で、下から見ると黄色い色彩になっている。その蓮の葉が空に向かって群生し、そこに青い空がハート形に浮かび上がり、青い星がのぞく。下方にはいくつか花が咲き、ミミズクがとまっている。そのミミズクは作者および人間の代表である。やがて天国に渡ることを願って、この画面が生まれた。いわばこの世と天国をかける橋が蓮によってつくられているといった、実にユニークなコンポジションで楽しい。フォルムの連続性には寂々たる音楽性も感じられる。

2室

 桜井理子「10歳の憂え」。椅子に十歳の男の子が座っている。その奥には上体をくの字に曲げて机に頭をつけて嘆いている姿。手前には紫陽花のような植物や向日葵が咲いている。フォルムが力強く、暖色系をバックにして、少年の姿を生き生きと描く。

 安喰宣善「暮れゆく刻」。山頂が鋭角的な山脈が描かれている。遠景にもそのようなフォルムがあり、あいだには霧のようなものが覆っているようだ。三日月が浮かんでいる。空は深い緑色を中心に周りに雲のようなものを置き、山なみは青を中心とした色彩である。その二つの色彩が共鳴しながら、はるかかなたに向かってロマンティックな音色が聞こえてくるような、風景のコンポジションに注目した。

 澤田嘉郎「西風の見たもの」。若い女性が裸で立っているが、その立っている場所は砂浜で、そばにヒトデが見える。風紋のようなものの上に立っている。遠景に海がのぞく。空もベージュで、空と砂浜とは同色の中に海が青いアクセントとして入れられ、砂浜と同色の裸の色彩で、全体で柔らかなハーモニーが生まれる。裸というと、衣装を脱ぐという行為が必要であるが、これはむしろもともと裸の女性を描いているような、そんなしぜんな感じのあるところが面白い。柔らかなカーヴによってつくられたこの女性の様子には、優しい恥じらいのなかにロマンティックなイメージが感じられる。

 安井キミコ「GAVOTTE」。ガボットとは舞曲の一種だという。翼をつけた指揮者が手前に大きく描かれ、その向こうに弦楽器や管楽器、太鼓などを演奏する二十人の演奏者がいる。それぞれのポーズがしぜんで、集まると独特のパッショネートな空間が生まれる。それに対して向かって右のほうには一人、コントラバスを弾いている人がいて、なにか瞑想的な雰囲気も生まれる。音楽に対して作者は強い親和力があるようだ。楽士の姿を描きながら、聞こえてくる音楽を画面に表現しようとするかのようだ。だから、一人の指揮者と二十人の楽士全体が一つの大きな空間として包まれるように描かれて、紫の暗いバックの中に明るい緑やオレンジ色で彩られた楽士たちの姿には独特の魅力がある。密度のある動きや色彩が魅力で、そこから発してくるパッショネートな、イメージが筆者を画面の中にいざなう。

3室

 繁森厚志「回帰」。川から裸木が立ち上がっている。水に影を伸ばしている。その中心に若い女性がシーツのようなものをまとって立っている。その手前にフクロウが翼を広げてこちらに飛んでくる。不思議なイメージで、水は上方の茜雲のある空を映して輝いている。だから、水というより空に立ち上がっているようなイメージもあらわれる。ぐいぐいと描きこむ筆力によって、あるロマンティックなイメージを強い動きのなかに表現する。

4室

 池田美恵「愉快な仲間」。ピアノとベースとトランペットを吹く三人のミュージシャン。ぐいぐいと描きこむフォルムの力強い表現に注目した。

 八木原由美「桃」。女性がソファに仰向けに寝て、すこし膝を曲げている。くすんだ緑の衣装をつけているのだが、胸からお尻、左足はその衣装が脱げて素肌が見える。キメ細かな練絹のような肌の感触が独特の魅力でエロティックである。全部を裸にせずに一部を露出することにより、より肌の魅力があらわれる。右の掌に桃を持ち、右の肱と右の腿とのあいだに黒猫が寝ている。この黒猫もまた女性の肌、あるいはその香りなどを強調する脇役となっている。また、猫自体もしなやかであるために、女性のフォルムと呼応する。猫は実はもう一匹いて、上方に伸ばした左手の向こうに目を見開いている。黒い髪の向こうが猫になったかのような印象。密室の中の密度を高くすることによって、エロスの香りが一つひとつ結露するような表現に注目した。

 石田曻「防波堤散策一隅」。防波堤の近くに何艘も漁船が繫留されている。波が寄せて船が揺れている。そんな様子を臨場感をもって描く。

 橋本清一「なみだ窓」。外が冷たく窓が曇る。暖房をつけると温まって、それが液状化して垂れてくる。そんな経験はだれもがあるだろう。そんな窓を通してパリの風景を眺めている。建物がすりガラスを通したように見える。そこに液状化した跡が涙の流れたあとのイメージと重なる。夕焼けに建物の背後が輝いている。明かりが一つともっている大きなマンションのような建物とは別に、左に小さな建物があって、そこにも一つ灯がともっている。その建物の中の室内の灯と、夕日の輝きとが呼応する。フロッタージュは対象の材質を浮かび上がらせる技法だが、窓という媒介を通すことによって、いつも見慣れた街が別のものに変質する。そして、建物の上方に立ち上がるフォルムはおそらく街路樹なのだろう。そういったものがこの一枚のガラスの上に一体化して、不思議な表情を見せる。全体で、メランコリックな悩ましい独特の心象を喚起するものがある。そんな中に目玉のようにあいた小さな光が、希望のイメージを表すようだ。いずれにしても、画家は触覚にたいへん強い人で、画面に接近するとわかるのだが、この独特の見通しの難しい窓のもつ材質感ともいうべきものを、そのままキャンバスの上に浮かび上がらせて、謎めいた風景を描き起こした。ノスタルジーとメランコリックなもの、あるいは希望、あるいは題名のように悲しいイメージなどの様々な心象がクロスする独特の風景表現となった。

5室

 日高梢「想」。画家の使う赤には独特の感触がある。ロマンティックなもの、ノスタルジックなもの、様々な思いがその赤に入れられている。そして、その赤は微妙に変化しながら、光線のようなイメージをつくりだす。画面は右の暗いトーンと左の明るいトーンとに分かれる。その明るいほうには、おそらくテーブルの上に布があり、その上に静物が置かれている。そして、そこに置かれている球体がだんだんと上方に上っていく。窓の向こうに建物のようなイメージがあらわれる。室内で一人、画面という空間の中で画家は手さぐりで作曲をするような雰囲気である。そこにじわじわとコンポジションが生まれ、色彩が引き寄せられる。そして、中心は赤という強いノスタルジックなイメージをもつ色彩で、それを背景にして緑やピンク、紫などの球体があらわれる。今回、上方にブルーコンポーゼふうな色彩が現われた。そこに新しいロマンを画面に引き寄せるかのような、不思議な味わいが感じられた。

 竹石妙子「innocent 14-2」。時計に腰を下ろして双眼鏡で見ているジョーカー。手前にはトランプからハートのキングが立ち上がり、ヒヨコが遊んでいる。そばに緑の飛行機が動いている。時計の向こうにはスペードの1が立っている。時計やトランプのキングやジョーカーといったカードからイメージを立ち上げて画面を構成する。パースのかかったフロア。イノセントという題名のように、トランプのカードを繰りながらイメージを広げて、不思議な物語をつくる。

 池田信子「眠る女」準会員奨励賞。ソファに座り、丸いテーブルに両手を置き、顔を横にして眠っている女性。それをトーンのなかに表現して、独特の瞑想的な空間をつくる。

 坂口富貴子「風が通り抜けた街」A氏賞。ピンクのマンションのような建物。あるいは三階建ての建物。そばに細長い教会が寄り添っている。三角形の屋根の上に十字が見える。紫のマンションに横にオレンジ色の色彩が入れられているのは、毎日繰り返される夕日からとったのだろうか。手前の黒い色面は夜を表すようだ。そばに公園があり、それは緑の色面で描く。周りの明るい、すこし黄色みを帯びたような輝くようなグレーは朝の光だろうか。一日の光線の変化する様子、そして日中と夜とが画面の中に引き寄せられ、独特のシャンソンのようなメロディが聞こえてくるような画面がつくられる。きわめて大切なものの象徴として画面の下辺から茎と五つの葉が現われている。それは幼いもの、新しく生まれてくるもののイメージだろう。その下方に黒い建物がシルエットのように描かれているのも見事な構図だと思う。

 本田久一郎「追憶」。三年前の津波に対するレクイエムである。子供の三輪車が転がって錆びている。三年の歳月がそこにしぜんと浮かび上がる。地面はたくさんの貝が埋め尽くしている。数えると数万の貝が描かれているのかもしれない。そこに強いパッションが感じられる。画家は海が好きで、釣りなどもよくしてきた。そして、亡くなった人々の一人ひとりを貝殻によって表現しているようだ。たくさんの人々が亡くなったことに対するレクイエムの表現。それが集積する貝となり、子供という切ないイメージがこの三輪車に象徴的にあらわれる。シンプルで強く深い構図である。

第99回二科展

(9月3日〜9月15日/国立新美術館)

文/高山淳

1階─1室

 粕谷正一「美術室」。黒板にはプリズムによる光のスペクトルが描かれている。その周りに馬の頭の石膏像から蓄音機のラッパ、人体模型、観葉植物、定規、シャガールの結婚の絵、ミニカーなど、様々なものが置かれている。その一つひとつをクリアに描いていく。ディテールが魅力で、ディテールがお互いに語り合うかのような画家の筆力による仕事である。ポイントは光に照らされた馬の頭部で、そこにはギリシャふうなミステリアスな雰囲気がある。つまり、ギリシャのもつ明晰さがそのまま神秘につながるようなイメージが感じられる。

 木戸征郎「共に」。中心は淡い緑が主調色となって、上方に満月が浮かんでいる。対象はシルエットとなって浮かび上がる。夜というより夕暮れ方の、あるいは朝方の景色のようだ。左右には樹木が幹から枝というように、あるいは雑草が伸びている。茫漠とした自然。自然は静かに時の流れのなかにある。そして、ふと思うと夕暮れの世界に入る。しかも、面白いことに、この柔らかな緑の空間の左右に樹木の幹のようなフォルムがあらわれて、それがそのまま周りのグレーの空間との橋渡しとなって、それはもう夜の風景であるが、樹木でありながら細長く切り取られた風景の一部のようにあらわれているといった、そんな不思議なイメージである。左のほうの赤い色彩は、紅葉したようなイメージである。中心の早春を思わせるような空間に対して、晩秋のようなイメージも左にある。ノンシャランな淡々としたフォルムをシルエットふうにハーフトーンの中に置きながら、時の移ろい、自然とともに過ごしていく人間の時間、感慨といったもの、詠嘆をうたいあげる。それが実に自然体のなかに表現されているところがよいと思う。

 香川猛「祭囃」。画家は音楽が好きで、また見事な歌手でもある。画面全体は山吹色に染まっている。祭り囃子というと、秋の大祭の頃に演奏されるのだろうか。すでに周りは紅葉に染まって、手を入れると染まるような雰囲気。その中に右のほうでは踊っている人間のフォルムを思わせるような回転するかたちがあらわれ、それに沿って円がだんだんと大きくなる。クレッシェンドなイメージがあらわれる。中心からカーヴしながら伸びていくフォルム。その下方の胴体の部分は紫色やグレーで、中にも人が手をつなぎながら横になってダンスをしているようだ。また、もう一つのパートの左上方にはスカートをはきハイヒールをはいた女性や両手を上にあげて精いっぱい声を張り上げて歌っているようなイメージもあらわれている。その中に小さな切り絵のように様々な原色に近い色彩が置かれ、全体でハーモニーが起きる。そのハーモニーは透明でありながら、秋の澄んだ音色を思わせるような二つのイメージがクロスする。祭りのパッションと澄んだ秋の音色。二つのメロディが画面のなかで聞こえてくるように感じられるところが面白い。

 西健吉「浜の娘」。向こうの岸壁に灯台が見える。船が繫留されている。手前の岸壁には五人の男女がいる。手前の三人の女性が座ったり、木箱を持ったり、網と格闘したりしている。いちばん手前には男が座って背中を見せる。もう一人、岸壁から向こうを見る男の姿が見える。それぞれ結ぶと、幾何学的な独特のコンポジションが生まれるだろう。浜の漁師たちの仕事、働きを海と岸壁と人間の配置によってうたいあげる。

 中島敏明「慈愛 '14」。愛する妻を亡くして何年たつだろうか。その悲しみのなかから妻をもう一度この世に引き戻したいといったイメージからこのシリーズが始まったように記憶している。今回は、その冥界の存在が乳飲み子を抱いてあらわれた。豊かなボリューム感のあるフォルムである。とくに腰などのフォルムは圧倒的で、そこにひとつの宇宙が存在するかのようだ。その奥には子宮があって、その子宮からこの子供は生まれたわけで、そういったことをごくしぜんに連想させるようなフォルムだし、色彩だし、マチエールである。向こうを向いた子供は頭はすこし窪んだりして、女性の目鼻のない顔や頭部と共通している。実際この世の存在ではないのであるから。緑の不思議なものを持っている。その緑のものは徐々に大きくなりながら、この母親の背後を通って後ろのほうに回っている。実に不思議なアルカイックな存在で、二つは一心同体と言ってよい。子宮にいるときはへその緒というチューブによってつながっているが、外に出ても同じようなかたちでこの母と子供はつながっているようだ。そして、下方に窪んだようなフォルムがあるのだが、その先は透明になって、周りの不透明な膜とは異なる。そのあたりのイメージを左右見ていくと、背後には空があって、この下半身のフォルムはそのまま山脈や谷、空、丘などのイメージと重なっているように感じられるところが面白い。画家は自然というものと対峙しながら、深い想念のなかで実に不思議な存在を画面の中に奇跡的に引き寄せる。

 伊庭新太郎「網」。様々な細胞が組み合う中に網の目のようなものがそれを覆い、さらにその上方にもっと太い紐があらわれ、結び目の中から左右に出ていく。いわゆる高速のファイバーが伸びていく中にサーバーがあり、様々な情報がウェブ上に存在するといった、そんな寓意性を筆者は感じる。いわゆるDNAとか塩基とか細胞といったイメージも当然、作品から浮かぶのだが、そういったものも含めて現代の社会の構造といったものを面白くこのようなかたちで表現したように感じるが、どうだろうか。そして、柔らかな緑が発光しているような雰囲気である。それは生きていることの証拠と言ってよいかもしれない。受精卵もやはり発光するそうだけれども、このような人工と自然との中間領域のような世界も不思議な光の中に発光しながら動いているような、そんな強いヴィジョンを感じる。

 田中良「湖畔夕照」。太陽が湖畔近く下りてきて、その光が手前まで伝わってくる。手前には根が張っているが、幹のところで壊れた白い樹木がある。雑草が黄土色に水際に生えている。手前は暗く、そのいちばん右下に円弧がある。深い井戸のような趣。この夕日は老年のイメージと言ってよい。ほとんどボディが壊れかかっている中に夕日が下りてきて、壮大に周りを照らし、絢爛豪華に染め上げる。

 生方純一「哄笑」。六つの岩が転がっている。それが、修道士が衣を頭からかぶってうずくまっているような、不思議な印象である。中心の地面が光り輝いている。中心から四方八方に光が伸びて放射しているような雰囲気。その光のイメージを背景に扇形の蜃気楼のようなフォルムをつくる。「哄笑」という題名だから、この石は笑っているのだろうか。石が石ではなく、別のものに変容しつつあるような、そんなあやしい存在。六つの石が周りに環状石のように置かれて、不思議な世界を表す。

 山中宣明「An anonym」。アノニムとは匿名性という意味である。今回は、水の中に巨大な生き物が生まれつつあるといった不思議な印象である。宇宙の始原、地球の始原といった言葉も浮かぶ。中心のベージュの輝くような塊。この海の下に巨大なある生成するものが存在して、それが海の表面を通して浮かび上がってくるような圧倒的な存在感がある。そして、その下方は茶褐色で、上方は緑色の海である。海の向こうはウルトラマリン系の空間になっている。渾沌とした中から命の誕生を祝うといった神話的なイメージの表現である。

 中原史雄「風の景緑彩14─6」。画面は上下四段、左右四段、十六個のパートに分けられている。そこに緑の葉が一面に描かれ、紫の花びらが散っている。五人の女性の背中が見える。中心からほぼ等距離に左右に並んでいる。緑の中に青い色彩が入れられて、それが風の道のようだ。風の道と、光合成を行う燦々たる緑の葉。しかし、その緑の葉の中にも陰影があらわれて、きらきらと光に輝く面と暗くしっとりした部分、そして、風の道がなにか水の道を思わせる。それを眺める五人の女性は、この自然の侍女のような雰囲気である。眼前にあるのは豊かな命の現象であり、去っていく花は次の季節を迎えようとしている。しかしまた、見ていると三年前の津波で亡くなった人々に対するレクイエムの気持ちもそこにあるように思われる。何層にもそのようなイメージが重ねられて、この作品が生まれたことがわかる。そしてそれがすべて、自然というもののもつ働きに還元されるように表現されている。きわめて日本的な仏画のイメージも感じられる。

 加覧裕子「海譜」東京都知事賞。母を亡くした。亡くした母が海の中のクラゲとなって、だんだんと浮遊して去っていく。そんなイメージから、そのクラゲを脇役にして、もう一つの新しい命の誕生。人間が、女性が生まれてきた。三つのフォルムが重なって、だんだんと手前になるにつれてフォルムがクリアになり、女性の姿を表す。周りにはクラゲがゆるやかに泳ぐ。そして、上方の光が海面の波の揺れをそのまま映しながら海底に揺れている。海の中の世界。その半ば無重力の空間を祈りの世界と捉えて、そこに一つのフォルムを画家は創造する。

 山岸光代「あなたへ」。強烈な光を感じる。光を画面に引き寄せている。三人の女性が描かれている。左のほうでは女性は背もたれにもたれかかるようにして足を投げ出している。右足は曲げていて、右手の伸びた先に黄色い花を持っている。向かって右のほうには二人の女性が立っている。手前の女性は花を抱えている。後ろの女性は花をもって帽子に花を差している。床にもたくさんの薔薇の花が置かれている。女性の体に光が当たっている。黄色い光、白い光、そして影は紫である。黄色と紫は補色関係にあって、その補色のためだろうか、ひときわ光が輝くように感じられる。画面は直線によって区切られている。それらの色面の中に三人の女性が置かれている様子は、まるでステンドグラスのようだ。画面の向こう側から光が差しているのかもしれない。こちらから光が差すというより、内側から光があらわれて画面をゆらゆらと揺るがせているような、そんな不思議な感じ。その光には一種聖性ともいえるようなスピリチュアルな性質が感じられる。線によって区切られたフォルムが力強く、そのフォルムが内側から光に透過されて、独特の輝きを放つ。

 植地貞夫「海想譜・風の刻」。緑のエメラルドグリーン系の色彩が輝く。その中心に垂直に立ち上がっていくストライプのような幅の広い矩形のフォルムがあり、そこに白いマーガレットの花がたくさん咲いている。海の中に咲いているような不思議な印象である。亡くなった人が天上の星になるという言葉がよくあるが、亡くなった人がこのような花となって咲いているような、そんなピュアな霊的な印象が感じられる。下方の茶褐色の色彩に独特の強い感情が入っている。

 田浦哲也「欠伸している神様の圖」。上方で人間の顔が分解したようなフォルムがつなぎ合わされている。口は欠伸をしている。耳は遠く離れて、何かを聞こうとしている。脳味噌が流れて、右向こうに垂れている。下の街は傾いている。建物はキューブに表現されているが、それぞれが傾いて、地震のあとのような雰囲気である。欠伸をしているうちに地球では大変な惨事が起きたといった雰囲気。それをものともせずに欠伸をする上方の神様。ユーモラスで、すこし毒の入ったイメージを生き生きとした図像に表現する。

 濱田進「画室の秘め事」。木製のテーブル。その左右にパリの街並みがのぞかれる。そして、四隅には簞笥やオルガン、イーゼル、椅子などと同時にテーブルの上にはモチーフになるものがうずたかく重なっている。そういった内容を、線を使いながら緻密に描き出す画家のパッションには驚く。その渾沌としたものを聖なるものとして中心に置いて、周りにパリ風景を描いたユニークなコンポジションである。

 横前秀幸「伝言―La,Vie,S'en,Va」内閣総理大臣賞。右のほうに紡錘状の不思議なフォルムがある。左のほうには人間の立っているフォルムのシルエットのようなものがある。一つは人間、一つは自然の生き物の形象化のようで、二つはコミュニケートしている。下方に大きな広場があって、塔のような白いフォルムが立ち上がり、暗い噴煙を上げている。その部分はすこし不吉な印象で、その下方に緑の湖があり、そこにはタイプライターのキーボードのようなものが置かれている。光り輝くような色彩の中に孤独な人間の目が捉えた自然と世界の成り立ちが表現される。自然と社会と孤独に対峙し、やがて爆発する直前のような、スリリングなエネルギーが画面に静かに満ちてくる。

 五味祥子「黒い華―羽化する人―」。不思議なコンポジションである。元型的な表現である。地、水、火、風、空という元型で五輪の塔はできているが、そのような言葉を引用したくなるようなコンポジションになっている。水の周りは黒い色彩とベージュ系の色彩によって花びらのようなフォルムがあらわれている。その周りは燦々とした自然の花の咲き乱れる野原のようなイメージである。そんな中に薔薇の花の奥にこのような女性がいようとは、だれも思わないだろう。いや、存在するのかもしれない。人間の形をまとった妖精のような存在があらわれる。

 松室重親「刻」。駱駝とグレーの衣装をつけた女性。バッグを持っている。後ろのテント。下方には椰子のような植物が見える。砂漠の生活をグレーを中心としてベージュ系の色彩を使いながら静かにうたいあげる。柔らかな色彩のハーモニーに気品がある。

1階─2室

 阿美代子「舞ひ降りて」。小袖が舞い降りている。下方は蓮の花の咲いた池になって、水が満月を映している。白い花が黄金色に輝いている。上方の空も満月に彩られて、輝いている。普通、人が死ぬと昇天するという。この作品は逆に、下降しながら、実は天上に向かっているといったコンポジションになっている。蓮の葉の大きなフォルムの縁を連続させながら、無限旋律のようなイメージをそこにつくる。同じような円弧が月を映した黄金色の水にも使われていて、それぞれの曲線がお互いに連携しながら、優しい寂々たる天国へ人をいざなうようなメロディアスな形をつくる。

 倉橋寛「未来へ」。赤い船に「二科」という看板が掛けられている。二科が九十九回、来年が百回に対するお祝いのイメージ。いつも人物を出品しているから、急にこの作品を見ると驚く。画面全体はピンクに染まっている。

 栗山淳「利根川緑地」。利根川が曇り空を映して白く輝いている。手前の緑の葉の茂った樹木の群れ。対岸にも緑の草が茂っている。その向こうはシルエットとなって黒ずんでいる。空のグレーの独特の触感。なにか心にさわってくる利根川の風景である。

 大隈武夫「沙漠の村」。ずっとインド西部のラージャスターン州の人々を描いてきた。これはファミリーを描いたものだろう。祖父と若い夫婦、そして女の子と男の子の二人の子供。後ろに駱駝がいて、たくさんの花をつけた植物を背負っている。祖父と父親は白い衣装だが、そのあいだに立つ母親はピンクのサリーを着て、頭にも帽子のようなものを置いている。女の子もピンクのショールのようなものを掛けていて、全体の色彩の中にそのピンクが燃えるようなイメージをもたらす。駱駝が背負う植物の葉のブルーコンポーゼ系の色彩に対して、そのピンクが華やぐような効果を上げる。左のほうに地面に座って作業をしている人間の手前に、子牛のような生き物がいる。穏やかな光景。幸せな一家が集合して記念写真を撮るようなポーズの中に、深い温かな心象空間が生まれる。大きな筆のタッチが重ねられて、それが独特の生気を画面に与える。

 平権「吉祥天の空」。吉祥天が宙に浮いている。前に産着に包まれた赤子も宙に浮いている。雀が花びらを一つ持って、この赤子を祝福しにきているようだ。上方にはコウノトリが下方を見下ろしている。手前から屈曲する桜の木。幹にじかに花が咲いている。子供の誕生を喜び寿ぐコンポジションである。クリアなフォルムを縦横に使いこなしながら、ふかぶかとした空間の中に光に包まれた赤子を描く。

 戸狩公久「北彩」。中景に倉庫のような建物があり、手前に岸壁がある。そこからいちばん手前の雪の積もったこちらを向いている船までの距離と、倉庫からその奥のほうに橋があり、小さな倉庫がいくつも続いているその遠景までの距離とが、独特のバランスをもって迫ってくる。したがって、いちばん近景の船と遠景の橋の向こうの風景との距離は相当あって、それがこの作品の厚みとなってあらわれている。海は空を映してほぼ同色の青である。すっぽりと青い空間に包まれたこの何艘かの船と建物には、静寂感の中に新鮮なものがある。倉庫の岸壁近くに向こう向きの船が二艘。横を向いた船が一艘。そして上方に月のようなフォルムがうっすらとあらわれている。すこし雪が降っているようで、その様子も、静かな空間の華やぎとなっている。心の底を眺めるような味わいがある。画家は郷里の風景からこの部分をピックアップして描いているのだが、深い水の奥行を見ると、そこに記憶や無意識の世界、様々な心象がその奥に塗りこまれているような印象ももつ。

 荻原寬子「樹・樹」。樹木と赤いベンチ。地面の褐色の色彩。秋の気配の漂う光景である。しっくりとした自然の韻律を静かに聞く。

 鶴岡義詮「星」。ほとんど逆光の女性がほんのすこしガラスの板に浅く腰を下ろしたかたちで立っている。ふくよかな裸婦である。丸みをもった大きな乳房と豊かな量感をもった体。長い髪に覆われた顔。それがほとんど逆光の中に描かれて、しーんとして、幽玄と言ってよいような魅力を醸し出す。背後は深いセルリアン系の青い色彩。下方は一部緑のようなグレーのようなフォルムが床の部分に使われている。右下のほうの青を見ると、海のようなイメージもそこにあらわれる。空と海とが一体化したような背景の中に、まるで巨大なイコンのような女性の姿が浮かび上がる。ロマンティックだし、艶やかだし、独特の情感がその空間からにじみ出るようにあらわれてくる。また、右上方にピンクと紫の空間が置かれているのも、全体の色彩の対比のなかでは素晴らしい効果を生む。背後にこの女性の輪郭をなぞるような線の動きがつくられ、女性のもつオーラがそこに反響しているような趣も感じられる。

 阿部正明「望郷・海」。三人の少年の上半身が描かれ、手が不思議なかたちで、合掌するように近づいたり、上下に重ねられたり、耳元を触っていたりして、まるで手話のようなメッセージを発信する。上方に海があり、波が寄せている。この前の津波に対する深いレクイエムの表現である。

1階─3室

 松田朝旭「丘の聖堂」。ドームのある白亜の宮殿。教会だろう。柱頭彫刻。あるいは中心の龕のようなものの中には聖人の像がつくられている。丘の上にあるようで、下方から階段が伸びている。そこに数人の人々。あるいは途中の中心の緑の芝生のあるベンチにいる二人の女性。あるいは建物の下方にも数人の人がいる。どっしりとした中に揺れ動くような不思議な動きが感じられる。教会はすこし左に傾いている。魂というものと深い関係をもつ建物には繊細な味わいがあって、それをこのしっかりとしたマチエールの中に描きながら、その味わいをこの作品が描いているところがとくによいと思う。

 岩田博「俯き」。四体の関節人形によって構成されている。手前の関節人形は立って、両手を顔に当てている。後ろの三体の関節人形は座っている。一人は蹲って、その腕の中に顔を埋め、一人は後ろ姿を見せ、一人は右手を頭の上に置いて、やはり俯いている。何か考えこんで苦悩しているイメージが濃厚にあらわれる。背後は夜と朝の世界になっている。暗いブルーとグレーの中にあらわれてくる朱色。そして、夜空に四つの不思議なフォルムが浮遊しているのが、この四体の魂のように感じられる。

 永井二郎「里山日記」。少年が立って楽器を弾くような動作をしているが、その後ろに樹木が連なっている。その樹木の連なる形にはこの村の人間たちのお互いの連携とか助け合い、あるいは社会といったものをしぜんと感じさせる。少年の魂のようにその前に鳥が飛んでいる。下方にはつがいの白い蝶が飛んでいて、そのさらに画面の下辺ぎりぎりの遠景に集落が見える。社会とかかわる人間の生活、そして少年の未来を暗示するコンポジションである。

 武藤挺一「河原崎國太郎」。河原崎國太郎が見得を切っている様子。花魁に扮している。緑を背景にして赤と黒の大胆な衣装。目の周りの朱。おちょぼ口。手を前に突き出した様子で、両手で裾を持ってぐっと見得を切った瞬間の動きを造形化して、面白い。前に帯を垂らして、牡丹模様の花がいくつもそこに描かれているのも面白い効果を上げる。

 井田健一「インド紀行」。牛をバックに若い夫婦が手前に描かれている。母親は一歳ぐらいの子供を抱いている。後ろには放牧する人の姿。インドの古い建物が右後ろには見える。悠久たる大地のイメージを背景にして、若い夫婦と新生児が描かれて、希望のイメージがあらわれる。連続する過去の記憶、そして未来につながる命といったイメージを見事に造形化する。

 木脇秀子「ベネチアの旅」。ベネチアは古い街である。運河と小道のたくさんある街は、実は小さな街でもある。「ベニスに死す」という映画のように、美少年を恋した芸術家の街でもある。ヴェニスのイメージを赤やグレー、黄色などの色面で画家は表す。ピンクの衣装をつけ、帽子をつけた女性が立っている。そばには八の字のひげをはやしたそのパートナーが、ステッキのような棒を持って立っている。ユーモラスで楽しいし、ときめきがある。旅行によってリフレッシュし、よく知っている人も知らない人のように見えてくる。そんな旅のイメージを、この二人の男女がよく表している。下方に月が下りてくる。女性は小さなかわいい犬に鎖をつけて同伴者にしている。

 佐野明子「B.Rail」。黒が画面の大半を占める。その中にカーヴする白いフォルム。右のほうには二つの正方形があらわれ、一つは赤で、一つはグレーである。黒の中に絵具を置き、伸ばし、削りながら、あるいはそこに波打つような段ボールのようなものをコラージュし、複雑なニュアンスをつくる。夜の内部。それは人の心の内部と重なるだろう。そこから浮かび上がってくるエネルギー、パッション、理想、優しい感情。そんな様々なものをそこから引き寄せながら、メロディ化するようにフォルムをつくる。右上方にはメトロのパリの地図を思わせるようなフォルム、時計は壊れて、詩の街が空中にあらわれる。

 森岡謙二「ヴォールドな色とりどり」。ヴォールドとはヨーロッパの建築の穹窿のことである。そのヴォールドが赤いフォルムで強調され、周りの壁は外されて天空に向かって伸びていく。その外された壁の向こうから教会の外側がシルエットとして浮かび上がり、ヴォールドと同一の方向に伸びていく。その頂上には十字架が置かれている。たくさんの蝶や蛾がその上方に向かって飛んでいく。中心の下方にはステンドグラスの細長い、上方のカーヴしたアーチ状になったフォルムが描かれる。ダイナミックな力強いムーヴマンをもつコンポジションである。ゴシック建築の天に向かう意思。そのような動きをよく画家は理解して、その骨格を捉え、余分なものを外して、天上に向かう動きを画面に再生した趣である。そこにある憧れとか希望、様々な強い精神的なイメージ、あるいはパッションもそうかもしれないが、そのイメージが鑑賞者を引き寄せる。

1階─4室

 塙珠世「アルタイルとベガ」。アルタイルは鷲座でベガは琴座。同時に、アルタイルは彦星でベガは織姫。七夕の夜に年に一回、彦星と織姫が会うというロマンティックな物語がそこにある。そういった言葉もこの洋風な女性の背景にはあるのかもしれない。いちばん手前にスリムな女性が上方を見上げながら両手を前に差し出して、不思議なオーラをつくりだしている。その長いウェーブした髪の向こうにこの女性の横顔が大きく反対側を向いてあらわれる。その背中のあたりに孔雀、そして向かって右のほうには鳥の形があらわれ、その大きな羽は孔雀を思わせる。豪奢な鳥で、鷲というよりはもっと華麗なイメージがそこにはあらわれる。大きく旋回するような構図が右上方にあらわれる。オゾン、光、酸素。闇の中に様々な光が交差し、下方には赤い光も交差する。赤はパッションを表すのだろうか。そして、ピンク色の光線の中に幼い少女を思わせるフォルムが浮かび上がり、その反対にはその少女のシルエットのようなフォルムが浮かび上がる。そして、右のほうには空中に浮遊するヌードのような女性のフォルムも浮かび上がる。やはり、見ていると、彦星と織姫のあの出会い、様々な思い、そういったものを宇宙を背景として物語化したように思われる。あらわれてくるこの画家らしいダイナミックな円弧の動きが鑑賞者をからめとる。

 鎌田道夫「追懐」。上方で演技をする五人のサーカス団員がいる。女性もいる。手前に二人のピエロ。一人は帽子をかぶって傘を持っている。もう一人は帽子をぬいで赤いネクタイをしている。二人ともタバコを吸っている。二人は作者のそれぞれの分身なのかもしれない。サーカスのメロディが流れる。それはそのまま人生のメロディのように聞こえてくる。老年に達したピエロが物思いにふけっている。上方の演ずる人々は若く、彼らの若い時の姿がそこに重なる。いずれにしても、人生というものの思いを濃厚に立ちあらわした構成であり、強い表現力をもつ。

 深見まさ子「翔可」。孔雀の羽が上方から下方におりてきて、その文様が不思議な目のような表情を示す。それをリフレインしたようなフォルムが左右にある。背後は夜空で、銀河がきらきらと輝いている。右のほうは室内のようで、カーテンのようなものが見える。部屋の中で夢想し、一部はその夢想が進み、窓の向こうに夜空が見える。銀河がすぐ手の届くところまで下りてきている。右のほうにはテーブルや様々な思い、記憶の入れられたノートのような壁があるようだ。

1階─5室

 髙岡次子「記憶の中」。足を立てた裸婦。後ろには横になった裸婦。黒をうまく使っている。黒の中に黄色やピンクなどがさされて、シックな中に華やぎが生まれる。足を立てた裸婦のフォルムが肉感的というのか、存在感がある。独特の触覚的な要素もあるし、しぜんな動きが裸婦からあらわれている。寝ている裸婦も簡単な線描きでよくその姿を捉える。優れたデッサン力をもとに、描くものと描かないものとをうまく画面の中に構成している。

 藤橋秀安「晩秋譜」。上方にチェロを弾く人。その後ろにサックスのような楽器を吹く人の横顔。秋の音色が画面から聞こえてくるようだ。黄土色で木立のフォルムを繰り返しリフレインするように画面の中に構成する。画面の下方左側に赤い色彩で木立を描いている部分がある。黄土色が黄金色に見えるような諧調の中に、その赤と黒の色彩がアクセントとしてよくきいている。

 有水基雄「競う」。剣道の試合が二組、前後に描かれている。激しい動きが疾風のような動きを画面にもたらす。背景は赤、黄色、緑の三原色を使って、輝くような雰囲気。まるでステンドグラスのような力が感じられる。動きというものをテーマにしたコンポジションが見事。

 吉沢智大「時」会員賞。女性があぐらをかくようなかたちで座って、その足に両手を置いている。三十代半ばぐらいの女性なのだろうか。女性の経てきた歳月がしぜんと感じられるように描かれているところが面白い。背景の透明な板を置いたようなグレーや茶褐色は流れる時間の表徴のようだ。

 江﨑榮彦「ゆらめいて・かげろうのように」。傘を差して横断歩道を渡る人々。ちょうどスクランブル交差点になっている。面白いのは、その上に雲のようなフォルムを描きこんで、その上にまた人間たちの姿を描いていることである。後ろには実景のような白線のストライプと人間たちの昼の様子。下方には夜の様子を描きながら、その上にもう一つ緑の雲を置いて、そこに人物を置く。そこに楽しいファンタジーが生まれる。青い色面の上には子供が傘を投げ出してジャンケンをしている。実景の上に自由にイメージを繰り広げて、生気ある画面をつくる。これまでの作品からずいぶん飛躍したトライで、成功していると思う。

 石関和夫「はじまりの日・風」。グレーのトーンにしっとりとした味わいがある。少女が白い上衣を着て立っている。両手を前にして綾取りをしているような手つきである。「はじまりの日」という題名のように、何か新しいことを立ち上げようとするイメージなのだろうか。後ろにもう一人の少女が横向きで、ほとんど倒れかかっているような感じで、宙に浮いた雰囲気で描かれている。思春期のもつ危ういイメージだろうか。クリアなフォルム。たとえば手の表情にしても見事なものだと思うのだが、そのフォルムによって語りかけてくるユニークな作品。

 益子佳苗「空」。赤い空間に画面全体が彩られている。そこにシルエットのような黒い女性が下方に立って上方を見ている。その視線の先には黒の上に白い絵具で塗られた不定形のフォルムがある。その不定形のフォルムと語っている。女性のフォルムは一種塑像的なモデリングがされている。天空に存在するものと語るというと、旧約聖書の世界などはその典型であるから、たとえばヤハヴェとの対話のようなイメージをここに描いているのだろうか。深い実存的な人間に対する認識がこの画家にあるようだ。独特の強い表現である。

1階─6室

 岩下百合「明日への刻 Ⅱ」。瓶やスケッチブック。籠の中に果物。建物。身辺にあるものを画面の中に描いていきながら、時が過ぎていくその時間を画面の中に表現しているようだ。穏やかな中に情感が醸し出される。

 相澤道子「深紅の貴婦人」。プロの仕事と言ってよい。緑の中に赤い花の咲いたチャイナドレスを身にまとった女性。大きな瞳に繊細な長い手の指。そして、その周りを花で囲んでいる。同じような動きで、背後にアーチ状の橋を描く。円弧を繰り返しながらこの女性を荘厳する構図で、独特の魅力が画面からあらわれる。

1階─7室

 米田安希「道」。田園や田圃を背景に男と女が自転車に乗ってこちらに進んでくる。宙に浮いているようだ。二人はパートナーのように感じられる。その棲家が左の大きな樹木の葉の茂った太い幹のあるそばの教会のような建物だろうか。それは街の教会で、二人の住まいはまた別のところにあるのだろうか。ベージュや黄土の暖色系の色彩を使いながら、ふるさとの中でのびのびと生活をエンジョイする夫婦のイメージがしぜんと画面から浮かび上がって、安息感が感じられる。

 水谷征矢生「深海(赤い風車)」。塗りこまれたインディゴふうのブルーともうすこし明るいグレーの空間に分けられているが、そこに彫るように、あるいは線描きで、様々な魚や生き物のフォルムが浮かび上がる。右上方に赤くガーベラのように伸びていく花のような色彩の下にムーランルージュと書いてある。その手前には男女がバーのカウンターのようなところに座っている様子がある。左のほうには遠くから手が出ている。深海に生きる生き物たちと同じように、深夜族のそれぞれに深海の魚の名前を与えて集合させたような、そんなユーモラスな趣も感じられる。口をあけると、大きな歯があって、しかもその前には提灯がぶら下がっていて、あっという間に呑み込んでしまうような魚は、やくざの別称かもしれない。そばに逆さまになった少女の顔が浮遊している。いずれにしても、それぞれのフォルムには独特の生気があって、全体で踊るような浮遊するような動きが感じられる。

 渥美幸裕「木立 1」。様々な樹木が自由にアレンジされて、グレーの空間の中に置かれている。葉が強調された樹木もある。黒い太陽のようなフォルムが浮かび上がっている。詩の世界と言ってよい。対象を自由にデザインし、画面にはめこむ。矩形の建物を配して、植物のもつ有機的な伸びていくかたちが面白く入れこまれ表現される。

 鬼頭恭子「風の刻 '14蘇生」。おわら風の盆からヒントを得たそうである。風の盆は富山県富山市八尾地域で九月一日から三日にかけて行われるお祭りで富山県を代表するものである。越中おわら節の哀切感に満ちた旋律に乗って、坂が多い街の道筋で無言の踊り手たちが洗練された踊りを披露する。この作品は、画家のつくりだした造形詩といってよい。中心の上には顔がウルトラマリンの色彩で彩られた卵形のフォルムの周りに茶髪の女性がいる。腕を上にあげている。その女性が中心となって、下方には手や足が組み合わされて、エレガントなメロディがしぜんと感じられるような構成になっている。金色、緑、ベージュ、青などの色彩でそれらのフォルムは彩られている。中に手の指をきちんと描いたフォルムが左下方に二つほどあり、そばには足のフォルムもある。右のほうはもっと抽象的になっているのだが、そういった具象のディテールをしっかりと残したものから、ほとんど具象性が消えたフォルムも含めて、それぞれがそれぞれに呼応しながら、全体でたくさんの人々が足を上げ、手を振りといった不思議なかたちが浮かび上がる。左上方には横顔を線描きで面取りのように描いたフォルムもある。健康なエネルギーと同時に爽やかな風が吹いているような、あるいは花が銀色に輝き、そよ風が吹き、波が寄せては返すといったイメージもある。インディゴふうな暗い色面の中には山の上の空のイメージも組み込まれて、不思議な華やいだ空間が生まれている。

 曲線によって分割される色面の中にどのような色彩を置くか。それが単なる止まった空間なのか、動いていく空間なのかといったことを考えながらつくりだした複雑なコンポジションである。この富山県の踊りは声を発しないそうだが、この作品も無音のなかで静かに内側から輝いてくるような力が感じられる。

 宇都木裕子「女のいる室内」。キュービックにフォルムを分割して、生き生きとしたコンポジションをつくる。ベージュと茶の市松の敷布。その上の矩形のテーブル。六角形のお皿の上にのった葡萄。テーブルに寄り掛かった青いワンピースの茶髪の女性。それぞれのフォルムはキューブ的に解釈されて色面化され、全体で独特のハーモニーをつくる。

 工藤絵里子「ひまわりのシュークリーム Ⅰ」。ひまわりという名前の喫茶店の内部なのだろう。階段があって、二階がある。一階の木のフロアには向かい合わせに椅子が置かれている。上から電気の照明が下方を照らす。左下のテーブルにはシュークリームが二つ、コーヒーカップが一つ、水が一つ。一つひとつを手で触って描いていったようなマチエールが面白い。それぞれのマチエールが堅牢で温かく、それぞれの質感を表しながら、独特の構成要素となって、親密な人間的な気配を表す。よそよそしさも他人行儀もない、このひまわりを経営する人がつくりだした空間のもつ性質を、面白くしっかりと表現している。

1階─8室

 川井幸久「奥久慈」。画家の郷里の風景を最近、描いている。舗装した道路がカーヴしながら右に行き、また左にカーヴする。この道を運転しながら左右や上方を眺めているといった臨場感がある。上方の山はすこし霞んでいる。中腹は削られたような斜面になり、針葉樹がその周りに立っている。左のほうには畑があるようだ。右の下も採石されたのだろうか、えぐられた地面が見える。奥久慈の風景。車に乗りながらだんだん変化する風景を眺めているような臨場感のなかに、たとえば道がもう一度カーヴする、そのすこし補強された地面の上にミラーが一つ置かれている。そのミラーが不思議な印象を醸し出す。モニュマンのようでもあるし、心を映す鏡のような、実にあやしい不思議なポイントになっている。小さなものであるが。そう思いながら見ていると、この風景と画家とはきわめて近い関係にあることが分かる。実はどの場所にも思い出が埋まっているのだろう。語りかけてくる風景という言葉がしぜんと浮かんでくる。

 渡邉丞「チムニーのある景」。タンクトップの若い女性の上半身が描かれている。ふくよかな豊かな感じがする。後ろには画家がずっと描いてきた煙突がいくつも描かれている。一部は壊れかかっている。煉瓦がむきだしになった煙突。一度、震災のあとの頃だったと思うけれども、壊れた煙突は実に悲惨な様子で、よく記憶している。今回は、煙突はいわば暮らしの象徴であって、煙突から煙が勢いよく噴いていることは、そこに住んでいる人の日常生活が健康に営まれていることと同じ意味になる。そういった復活のイメージが顕著で、そこからこの手前の豊満な女性もあらわれたのだろうか。女性と煙突とが一体化しながら、ともに生活のうたとか理想といったものを表現するようだ。

 田中節子「スピリット1」。下方に赤い球がいくつも置かれている。そばにはコラージュされた褐色のもの。古い記憶のようなものがコラージュされた画面から浮かび上がってくる。記憶をまさぐるように、その軌道のようにフリーハンドの曲線が置かれている。上方には球や方形のフォルムが見える。記憶の玉が浮遊するといった雰囲気で、日常のなかからあるスピリチュアルなものを引き寄せながら、そのイメージと画家は遊んでいるような不思議な雰囲気。ノンシャランな中に記憶というもの、イメージというもののもつ力が面白く表現される。

 武田美智子「LIFE・光に向って(実りの大地よ)」。若い夫婦と生まれたばかりの子供。二人の姉。一人はこの夫婦の兄弟かもわからない。百合の花。果物。背後には川が流れ、果実の実る木が葉を茂らせている。そこを鳥が飛んでいく。自然というものと深い関係をもつ人間たちの姿が描かれている。父親の後ろには翼が二つつけられているから、守護神のようなイメージだろうか。そばの椅子には林檎が置かれ、背には羽がつけられ、楽譜が宙に浮いている。一種クリスチャンふうな世界観を大きな画面に壁画ふうに表現する。

1階─9室

 山岸睦「夢遊人」。テーブルの上に三人の人が座っている。手前の女性は、角をつけた動物の頭になっている。そばの人間も女性のようだ。後ろを見せているフォルム。テーブルの向こうにこちらをうかがっている少年の顔。そして、テーブルの下は檻になっていて、四つんばいになったあやしい赤い生き物がいる。その場所は直方体の中がすこし空洞になったようなものを積み重ねた上で、最後は檻のあるテーブル。あやしいスリリングな気配。上方には隕石のような、あばたのある石のようなものが浮遊している。全体が夢の世界のようだ。夢のなかにもう一つの夢。何層もの夢の階層の上方にこの三人の人物がいる。柔らかな調子のなかに不思議な光がそこから発している。荒唐無稽なようで、人間の不安感や恐怖、憧れ、あるいは優しさ、あるいは突拍子もないアクションといった、人間の本来もつ様々な要素がしぜんとこの作品から感じられるところが面白い。

 加藤ひとみ「もうひとつの刻」。夕焼けの空。逆光になった樹木の枝がシルエットになってそこに伸びている。両側に行くとほとんど暗くなっている。枯れかかった枝に白い布が巻かれている。面白いことを画家は試みる。その絵に描かれた光景をフィクションとして破りながら巻いて左のほうにもっていくと、そこからすこし前の時間の空があらわれた。雲の向こうに夕日がぼんやりと映っていて、樹木ももうすこし明るい。そして、二つの時間の空がハーモナイズしながらより複雑な音色が画面から聞こえてくる。時というものの不思議さ。時は逆行しないが、画家は画面の中であえてそれを実行して不思議な空間をつくりだした。

 添野忠「夢語り」。紫のワンピースを着た女性が立っている。ロングヘアで、ウェーブのある髪。両手を下方にすこし体から離して、掌を見せて静かに呼吸しながら瞑想し、何かをこれから語ろうとするかのようだ。いわゆる霊媒が霊との交信を行おうとするときのシーンを描いたかのような雰囲気がある。そばにすこし黄色を帯びた白い花が咲いている。上方には建物の絵が掛けられている。全体が柔らかなピンク色の色調。空間も呼吸をするような柔らかな雰囲気で、繊細な味わいを示す。手前に椅子があるが、だれも座っていず、この女性は左手で椅子の後ろ側に触っているような雰囲気。無人ではあるが、そこにもまた人の気配が感じられる。いわば霊界との交信といった行為を行う一人の人間の様子を生き生きと描いていると思う。

 柳田邦男「時の標」。たくさんの女性たちが描かれている。すっきりとしたフォルムで、見ていると、プロのモデルが裸でここに集合して、歩いたり、座ったり、すこし休んだり、物思いにふけったりしているようなイメージも感じられる。地面が光で輝いている。その反射を受けながら、また上方からの光に照らされて、微妙な陰影がつくられる。トーンというもののもつ魅力を十分画面に引き寄せながら、健康な女性の身体をきびきびと描き(若干キュービックに)、独特の美の韻律をつくる。

 寺田眞「田園」。グレーに繊細な味わいがあるし、独特の強さもある。下方に石でできたようなボックスがあり、その中に上下がずれた十字ができ、四つの小鳥の文様が描かれている。その上に生きた小鳥がとまっている。右のほうには樹木が立ち上がり、下方からも樹木が立ち上がる。もう一つの石の塊の上にフクロウがとまり、反対側にはウサギがいる。フクロウも鳥たちもみな、考えこんでいるようだ。ウサギはなにかキョトンとした感じで周りの環境に目もくれず、やがてジャンプするのだろうか。太い樹木の幹に安心感が醸し出される。全体に明るいグレーで、いちばん上方に白い太陽を思わせるような光が見える。しっとりとした曇り空のような雰囲気のなかにそれぞれの生きているものの姿をしっかりと表現する。その象徴的なフォルムと周りの空間の中にはしぜんと時間という要素が入れられる。その時間が薄っぺらな雰囲気を画面につくらない。それぞれがそれぞれの時間を背負ってこの絵の中に表現されているところが、この作品の魅力である。グレーの中に緑や黄土系、あるいはジョンブリヤン、朱色などがかすかに入れられたトーンには不思議な奥行が感じられる。じっと見ていると、あのカンピーリのもつ上品なモニュマン性ともいうべきものと同様の性質が感じられる。

 祝迫正豊「大地回想 14」。昔の農家の様子が描かれている。生き物や自然と共生する理想的な生活として表現されている。温かな茶系の色彩をベースにして、向かって右のほうに二頭の馬に少女と母親、下には鶏が歩いている。手前のソファには乳飲み子を抱く若い母親とそばに小さな子供がいる。左のほうには犬がいて、リヤカーがあり、その向こうには山羊のような生き物が見える。鯉のぼりが空に舞っている。中心には犬を連れた少女が下方を眺めて、そばに鷹のような鳥がいる。ゆったりとした空間の中にポイントポイントを押さえたフォルムが置かれ、全体で自然と共生する農村詩といった趣である。

 竹井英子「Blue Sky」。まるで女性が雲を抱きかかえているようなイメージである。柔らかな夢のいっぱい積もった雲のような雰囲気。そばに二輪の薔薇の花がある。女性の目は切れ長で、ブロンドの髪。青い空。じっと見ていると、この女性の顔自体も女神のような雰囲気で鑑賞者に迫ってくる。

 木村ユリ「再生 Ⅰ」。岸壁などに貝殻がこびりついているが、そういった貝殻の一部をピックアップして、新しい別の生き物のようにユーモラスに画面に大きく描いて楽しい。

 髙藤博行「生きる―共生―」。横長の画面の中心に白い色の幹をもつ樹木が立ち上がるように枝を広げている。巨大なおろちが上方に伸びて、左右にその手を伸ばしているような、アルカイックな姿である。その後ろには、樹木のあいだに続く道が見える。ところが左右は都会化して、近代的なガラスのビルが両側にのぞいている。その左の高い窓に大きな牛の頭が映って、鑑賞者のほうを眺める。不思議な幻想である。かつてここにあった自然がもう一度、いまはおそらく木は切られてビルが並んでいるのだが、その丘の上にかつてあった樹木を引き寄せて、もう一度かつての自然を都会の光景に重ねているような、そんな強いイマジネーションである。独特の動きが感じられる。それに対して静かなビルの存在とが面白く対照される。

1階─10室

 濱征彦「ビュット・モンマルトル」。ムーランルージュという文字が道の向こうに見える。そばにカフェがあって、人々がそこに座っている。手前のほうに二人の男性が立っているのは、客引きだろうか。後ろにパリの建物がたくさん描かれて、サクレクール寺院のようなものも見える。すこし俯瞰したコンポジションである。赤い馬を連れた男が手を振っている。画家の経験した懐かしいパリの街を画面の中に描きながら、静かにパリの街と会話をしながら、その楽しい会話を鑑賞者に語りかけてくるような雰囲気である。色彩がその心を伝える。手前の馬の朱色などは、そのようなノスタルジーの心が馬を染めたものと思われる。

 大脇春美「面―デイドリーマー」。女性の顔が大きく描かれている。白日夢という言葉のように、柔らかな不思議な空間がそこにあらわれる。両側に目があるが、その目は左右の横顔につけられている目で、その目がまた一つの顔の二つの目になっている。左の輪郭線は緑だから、左の目は緑で、右の輪郭線は紫だから、右の目は紫。そして、下方に唇が一つ。鼻のあるところにワンピース姿のウサギがいる。手に白い手紙を持っているのだが、表情からすると、恋文のようだ。じっと幸せそうな雰囲気で、その手紙を大事に持って考えこんでいる。上方には美容体操しているようなフォルムが三体見える。下方には寝そべったウサギ。日常生活の必要性から離れて夢想の中にいる女性。その夢想の中にいるコンディションと空間のクオリティが画面に描かれる。春の野原のような柔らかな緑の空間の中にピンクの色彩が混じり、お花畑のようなイメージもそこにあらわれる。リラックスしたそのコンディションのなかのイメージがひとつのときめきであり恋愛状態にあるような、そんな不思議な心象がそこに描かれて、独特の魅力をつくりだす。

 今村幸子「食器など」。正方形のグレーのしっとりとした色面に、帯のようなフォルムが真ん中あたりから左右に広がっている。黒と白によってつくられた色面。その上にコップやランチョンマットなどが置かれている。シックな中にものが一つひとつ象徴的なかたちの中にからめとられて、いわば詩情ともいうべきものがそこから発する。背後のグレーの色調もひんやりとした独特のものである。そして、その上にスクラッチした跡によって線が生まれ、樹木のようなかたちもそこにあらわれる。画家の仕事を見ていると、あぶり出しのように徐々にイメージが煮詰められながら形があらわれてくるようだ。そのイメージを追うということが空間のクオリティをつくる。目の前にあるものを再現的に描くのではなく、浮かび上がってくるものとの会話によってこのような密度のある空間が生まれるのだろう。したがって、あらわれてきたそのフォルムは説明的なものではなく、一種の記号のような暗示的な象徴的な存在と化して画面に描かれるのである。その背後の線を見ていると、風景的な広がりや奥行があらわれてくるところも面白い。

 佐々木里華「ぼくの窓に」。女性のヌード。仰向けに体を反らしているのだが、そのそばに横向きのヌードがある。仰向けヌードは女性で、横向きヌードは男性のようだ。それを塑像のように画面の中に表現する。独特のリズム感があらわれる。女性は語りかけているが、男のほうはすこし素っ気ない雰囲気。そういった関係のなかにあらわれてくる感情を、面白く表現する。

1階─11室

 久保寺洋子「輪違屋 Ⅱ」。輪違屋とは島原の置屋兼お茶屋である。帯を前にした花魁のあでやかな姿が画面いっぱいに描かれている。顔や胸はグレーで、あまり表情は描かず、その衣装がテーマになっている。帯を前にしたその文様が牡丹で、その牡丹が独特の強さをもって画面から迫ってくる。日本の文化のもつ装飾性を画面の中に引き寄せて、情念のようなものを表現する。下方には波濤文のようなフォルムがあらわれている。それもまた一つの情念の表現と言ってよいかもしれない。

 安藤恒子「念願」。赤い模様のあるサリーを着た女性が座っている。どっしりとした強い存在感のあるフォルムである。手を組み合わせているその表情や目の表情など、実に絵画としての魅力である。後ろにヒンドゥー教の神である象のような神の図像が貼ってある。シンプルな中にインドの女性の姿を通してその文化が画面から発信してくるようだ。

 片岡佐智子「人形 2」。アコーディオンに寄り掛かった少女の人形。そばに帽子が置かれている。全体は紫で彩られて、中に柔らかな緑が入り、ずいぶん内向的な空間が生まれる。一つひとつ心の中に抱きかかえ、手で触っていくような、そんな繊細な表現と言ってよい。

1階─12室

 須田美紀子「道しるべ―2014」。曇りガラスを通して見ている世界のようだが、実はそのガラスの手前のほうに事件が起きている。大きな波と渦がそこにあらわれている。ガラスの向こうはほとんど視界が見えなく、カーヴするフォルムがかすかにわかるのみ。深い想念の中にいるようだ。シュールな雰囲気もある。波が寄せ、渦を巻く様子。混沌とした内界の世界を外界に映した表現だろうか。

 高木和子「ホームパーティ」。独特のエネルギーを感じる。テーブルの向こうに女性が座っているのが、すこしミステリアスな雰囲気を醸し出す。後ろに横になった女性の姿が見える。オレンジの服に不思議な目の表情。赤毛の女の子。後ろに大きなケーキを持って動いている女性がいる。そばに青年がいて、左手を伸ばしている。反対側には椅子に座って俯いている白髪の男性。手前の白いシーツのこちらに巨大な爪をもったカニのようなフォルム。左のほうには爪だけ大きく描かれている。そのあたりの料理の不穏な様子。白いシーツの上にはバナナやお菓子のようなもの……。褐色をベースにしながら、独特の生気というか、エネルギーが感じられる。その動きのある独特のフォルムの中に静かに座っている女性と横になっている少女とがもうひとつの世界にいるような、不思議な味わいを醸し出す。強い美意識や強い感受性の中に表現された、パーティ前の人間たちや静物のフォルムである。

1階─13室

 井上邦男「祈り」。大胆な色面構成である。左半分がグレーの空間で、そこにシルエットふうに女性の横顔があらわれる。右上方は散乱する風景と言ってよい。下方に赤い色面がある。メランコリックな雰囲気の中に深い想念のようなイメージが画面の中を伸びていく。

 浅賀昌子「SING,SING,SING」。花のもとで女性が静かに踊っている。楽しそうな回転するような動きが画面につくられている。それは褐色の三つのフォルムなのだが、そのあいだに緑のフォルムによってもう一つの動きがつくられる。背後にはカーヴするメビウスの輪のようなフォルムも見える。白い不思議な花が波のように動きながら輝いている。満月の下で耽美的なイメージを追うかのようだ。不思議な旋律が聞こえてくる。あるいは、その旋律に沿ってフォルムがあらわれたような、音楽と絵画との合体した楽しい空間が興味深い。

 尾崎ゆき子「ぼどこ」。「ぼどこ」とは、継ぎ接ぎだらけの布のことをいうそうだ。大画面に大きく顔が描かれている。顔の中に横顔が見える。二つの目と思ったのが、横顔と片側の目との組み合わせ。真ん中の茶と白い線とのダブルによって横向きの輪郭線があらわれる。そのそばの白い目はなにか象徴的なイメージ。右半分は黄土色やブルーの色彩が入れられ、青い目がそこに入れられている。暗い内面と外にあらわれた表情。周りの色面は茶褐色のライトレッド系の強い色面が上方にあって、そこからこの楕円状の顔の輪郭線が引かれる。海のざわめきを思わせるような青い色面がその外側にあり、上方には室内の壁を思わせるような黄土色の色彩。夜の顔と朝の顔とが連結されているようにも見える。そばに近づくと夜の顔。左のほうはハッチングした跡が激しく、独特の強い手触りがある。朝の顔のブルーは絵具をかき混ぜた混沌とした調子であるが、すこし離れてみると、澄んだトーンがあらわれる。目の周りにもグレーの色彩が置かれ、やはりハッチングしたような跡がある。断定するようなライトレッドの輪郭線。下方からちょうど全体の三分の一あたりに、直線と円弧によってライトレッドの線がなにかの受け皿のように置かれている。画面は一対二の比率。人間のなにか記念碑のような表情。男性とか女性を超えた人間のもつ内界、あるいは神的な要素をこの像から感じることができる。

 青木悠「愴」。テーブルの上に男性の首が載っている。彫刻と思われるが、なんとなくドキッとする。背後はテーブルで、花や果物が置かれた静物になっている。陰影の中にそれぞれのものが浮かび上がってくる。その陰影の調子に独特の魅力がある。斜光線がこの部屋に入ってきて、その影がだんだん伸びていくような味わいが面白い。

 井上裕義「GIRAFFE No.9」会員賞。ジラフとはキリンという意味である。人間がつくりだした金属のキリン。下にはロボットや犬や鳥、ウルトラマン。すべて人間のつくりだしたおもちゃのようなフォルムがあらわれて、独特の気配を示す。空にはクジラが飛び、二つのプロペラの飛行機が飛んでいる。キリンの首につけられた台の上では三人の女性がショーを行っている。ヌードである。作者自身があらゆる形を自ら考案してつくるということ。その集合によって、ファンタジーが生まれる。

1階─14室

 宮村長「日記・祇園祭」。祇園祭にはたくさんの山車が出る。その山車の鉾などに様々な絵がつけられているが、そのあたりからヒントを得たのだろうか。エビスさまと長者が酒を飲んでいる。それをお多福のような女性が喜んでいる。右のほうは、上方に雷神がいるようで、下方にはその雷神が地上に落下して傘を持って歩いている。雷神の太鼓を紐で引っかけて走っている様子を、上からもう一つの雷神が怒って雷でも落とそうとしているかのようだ。日本の昔話のようなイメージが淡々と画面に描かれる。そして、手前にその前を歩くシルエットの人間。お祭りの中の山鉾の一部を拡大しながら、京都あるいは日本の古い物語や民話などが面白く画面の中にあらわれ、動いていく。

 須藤愛子「Le Vent(風)起源」。これまでの稲光が画面の中で激しくまたたいているような作品とすこし雰囲気を異にする。不思議な重量感が感じられる。起源という言葉のように、世界の始まり。インドでは世界の始まりはオウム、音だという。一つの波動があらわれて、そこから世界は始まったそうだ。聖書では最初に言葉ありきという文句もある。この起源はある重量感のなかに静かに何かを開いたという感じがする。上方から黒いストライプで壺のような形があらわれる。中に不思議なランプのようなフォルムが見える。左のほうにはまるで人の顔を思わせるようなフォルムが黒くあらわれている。もちろん人の顔ではなく、黒いフォルムによって白の重量感のある厚みのあるマチエールの中にひかれ、左のほうでは幅が三十センチほどある黒の左右に陰影があらわれる。白の色彩の下のほうはストライプのフォルムで、黒のあいだから朱色や茶色やベージュなどの色彩が縦に置かれている。上方には紫色の色彩がバックに使われている。混沌とした中に形をつくろうとする力が、この作品の強さとなっている。混沌を置いたのも画家であるし、そこに黒い線によって形を起こそうというのも画家である。画家というのは、画面の創造者であるから、不思議な存在と言ってよいかもしれない。小説にしても音楽にしても絵にしても、そういった創造するということのためにはそのカウンターパートとして混沌というものを引き寄せなければ、前に進まないのだろう。その過程がこのようにあからさまにあらわれてくる作品も少ないと思う。過程がそのまま絵になっている。もともとはきれいなキャンバスの上に、ここまで混沌としたパワーがあらわれて、そこに線によって秩序をもたらそうとする表現方法は、たとえばドイツのキーファーといった作家の仕事も連想するところがある。表現というものに対する考え方が周りの作品とずいぶん違う。あえて画家は「Le Vent(風)」というタイトルをつけているが、それはシュトゥルム・ウント・ドランクという根底的な激しいイマジネーションの意味だろう。左右に二つのフォルムがある。そして、両方にネープルスイエローのような、つまり壁の土のような、京壁を薄くしたような色彩がそこに上から置かれているのが、不思議なこの絵の柔らかな心象的な要素を表すように思う。

 大塚章子「主よ憐れみたまえ」。大画面である。長方形の画面に三角形のフォルムが上にのっている。そこには母親と娘が描かれている。聖母子像のようだ。下方にはエジプトふうな緑の髪の毛をした大きな目をもった女性が立っている。その下方に五体投地をしているような女性の姿が黒くあらわれて、その顔はオレンジ色に輝いている。画家はクリスチャン。旧約聖書や新約聖書はよく読んでいるのだろう。「主よ憐れみたまえ」とはソロモンの話だが、ここに使われている赤やオレンジ色の豊かな力に驚く。それに対抗する緑の髪。平和な中に神に感謝をしているといったイメージがしぜんと感じられる。上方の聖母子の前にたくさんの直線のフォルムが置かれて、聖母子像が檻の中にいるような雰囲気は面白い。手前のその直線のフォルムは一種の暴力とか、陰惨な禍々しいことの象徴のようだ。そういったものから身を守るようにあらわれてくる聖母子像。下方は燦々たる日の光の中に神の恵みを感謝しているようなイメージがしぜんと感じられる。いずれにしても、図像的な大きなフォルムを組み合わせ、強いコンポジションをつくる。

 寺﨑陽子「青い街の誘惑」。色彩家である。ウルトラマリンの深い調子に対して明るいグレーがかみ合って、そこにオレンジなどの色彩が入れられる。あるいは円弧、直線、ドリッピングしたフォルム。地中海のイメージなのだろうか。純粋な色彩がハーモナイズする。ドンゴロスのようなものや様々なものをコラージュしている。新聞や雑誌の紙などもそうで、それによって天空のイメージをこの地上のキャンバスの上に描いたような、独特の詩的エネルギーの強さを感じさせる。

 竹内幸子「人質」。画面の左下に柵があって、柵の向こうに人質のフォルムが見える。そばにロープを束ねるフォルムがあり、その先はコードになっているから、電線らしい。コンクリートでできた水飲み場が歪んで描かれている。背後はベージュの壁で、そこに吊るされているものはそれぞれ人間の姿を連想する。足や手、あるいは線のようなものが足を連想したり、立っている人間のフォルムも見えるし、昆虫のような顔があらわれ、そこから手や足が出ているといったニュアンスもある。人間の標本のようなものが何体もそのベージュのジョンブリヤン系の壁に吊るされている。手前にはうずくまった人質がいる。フランシス・ベーコンの作品に出てくる人物のようなフォルムである。画家の感じるプレッシャーはずいぶん大きいのだろう。画家のヴィジョンの中では人間はみんなこのような存在として社会の中に存在するということになるようだ。それを一つひとつつまんでピックアップし、このような画面に構成する。そうすると、人間の姿に驚く。いわば実存的な表現となっている。むしろ歪んだ水飲み場のほうが人間的な生命的なパワーを示す。さらに、換気扇のようなフォルムが両側にあるが、それは月のようなイメージをそのような形で画面の中に引き寄せたように思われる。いずれにしても、今回の二科展の中でも圧倒的な存在感を示す作品であることは間違いない。

 本間千恵子「刻音(自由空間)」。たくさんの歯車が集まって、お互いに関係をもちながら動いている。いちばん下方の歯車は下半分がなくなっていて、その中に四つほどの歯車が動いている。真ん中には歯車の中に三つほどの歯車が入っている。上方には大きな歯車が七つか八つ。それらがギザギザの白と黒の色彩の中に描かれている。バックは黒とグレー、そして褐色。左右の褐色の色面は建物のようなものを象徴するのだろうか。都会生活の中で刻々と動いていく時間。「自由空間」という題名だが、このようなかたちでイメージしていくと、ほとんど人間には自由はなく、ある運命のなかに時は過ぎていくような思いに誘われる。ノンシャランな雰囲気、自由な雰囲気で描きながら、その中からそのような運命とか宿命といったものの人間的存在が浮かび上がってくるように思われるところが実に面白い。中心の八角形がすこし壊れたようなフォルムの中の明るいグレーの中の歯車。その歯車の中に前述したようにいくつかあるのだが、その明るいグレーなどは満月の光を思わせるような輝きがあって、そこに自由に歯車が動いていくようなイメージもあらわれるのだが、全体のコンポジションを見ると、その関係性は必然で、その関係から逃れることはできないといった、相反する二つのものがこの画面の中に表現されているところが実に面白く感じられる。人間の社会性とか人間の自由とか宿命といったものの実に象徴的な表現だと思うが、どうだろうか。

 藤田由明「魔鳥錯乱」会員賞。横長の画面で、だいたい一対三ぐらいの比率のようだ。その中心に朱色に輝くものがある。その上方にそれと対応するような黒い円弧。朱色の周りはブルー。その周りは黄色。拡散していくような黄色の色彩に対して、ブルーは凝縮する色彩で、そのブルーに取り巻かれてオレンジがダイヤモンドのように光っている。きわめて困難な現実を通過して、もう一度再生の神話が始まる序章といった趣である。

 金澤英亮「INNER SPACE」。横長の画面に四つの色面がベースに置かれる。左からいうと、青みがかったグレー、すこし紫がかったグレー、そのグレーを若干明るくしたグレー、そしていちばん右側は緑がかったグレーである。その四つの色面の上に長方形のフォルムがあり、それが左右に伸びていく。全体は、たとえば港の埠頭などを上から見ると、このようなフォルムがあらわれるかもしれない。そして、上下にもっとダークな色彩で幾何学的なフォルムが入れられている。また、グレーの色面に対して黒い色面がところどころ入れられる。インナースペースという言葉のように、内面の世界。あるいは室内。いずれにしても、時間が流れていくなかにあらわれてくるときめき、あるいは揺れる感情、平静というように、そんな心象が柔らかなトーンの中に表現される。たとえば左右に伸びていくラインは、左ではすこし明るい緑がかったグレー、その右のほうに伸びているのはすこしピンクがかったグレーというように、周りのグレーと微妙にその響きが異なって、その響きの異なることによって微妙な気配、繊細なものを伝える。

1階─15室

 金井美智子「干物のあるテーブル Ⅰ」。アジの開きがテーブルの上に存在感をもって描かれている。後ろにウイスキーの瓶のようなものがあり、その向こうには焼いたタラのような魚。テーブルの上をアジがいっぱいになるような大きさで描かれている。両目が真ん中に寄ったフォルムがユーモラスで、独特の生命感がある。茶系の色彩を中心にして、落ち着いたトーンの中に手触りのあるマチエールも魅力である。

 馬渕寿子「再生・復活」会員推挙。中心にサナギが描かれている。サナギはその中で虫が変身し、たとえば蝶になる。上方に蝶のシンボルとして顔が擬人化されるように描かれている。それと呼応するように人間の顔がサナギのそばに描かれている。少年が思春期を超えて成長する過程が、そこに重ねられる。周りに老人たちも歩んでいて、再生の物語は、年をとっても同じようなテーマとして貴重だと画家は語るようだ。

 鈴木三喜男「初冬」会員推挙。小さな小川の表面が凍っているような雰囲気。そんな初冬の冷気が感じられる光景を生き生きと描く。

 鈴木章司「ガラスの蜃気楼」会員推挙。背後に海があって、すこし波が揺れている。繻子のような布の掛けられた四角いテーブル。その上に動物の頭の骨が三つ。手前に時計。後ろには人形の馬。それを囲むような大きな植物の葉。その背後に女性の裸が透明なガラスのようなフォルムで仰向きに浮かび上がり、その向こうにも花がある。海の寄せる波の響きは、女性の体とイメージが重なる。森や風化した自然の奥から女性の裸が再生のシンボルのように上方にあらわれる。

 石倉妙子「つきぬものたちへ 2」会員推挙。女性のセミヌードのフォルムが画面の真ん中に大きく描かれている。そのフォルムは一種ギリシャふうの力をもっている。にもかかわらず衣装は和服のようで、それが体の一部にまとわりついて、胸や腿のあたりはその裸身があらわになっている。そこに月の光のようなものが当たって、ロマンティックな音色が聞こえてくる。夢想しながら、女性のもつ内面性や官能性を画面の上に引き寄せる。

 高畑彰「遠い日 Ⅰ」会員推挙。時間の移ろいを面白く表現している。中心から右のほうに女性の裸身がシルエットになって浮かんでいる。その後ろに鳥がシルエットとなって大きな羽を広げている。二つが対になってともに浮かび進んでいるような雰囲気。背景は夕日のような赤い色彩で、ノスタルジックな雰囲気が漂う。エレガントな様子がまた魅力。

 有泉學「KAO・hito」会員推挙。筆のタッチを残し、それを重ねることによって独特のリズムが生まれる。手前にピエロの横顔。背後に仰向けになって寝そべったピエロ。二つのフォルムを描き、そのタッチによって空間の響きや気配を表現する。色彩もまた同様で、光がその周りを取り巻いているような雰囲気も面白い。

 北村美佳「駐輪場にて―2」会員推挙。ベージュのバックに黒いフォルムが強い印象を醸し出す。しかも十センチぐらいの幅でリングになっているものが大小三つある。それは自転車の車輪。背後には緑っぽい色彩で車輪が描かれ、五つの車輪がお互いに響き合って楽しい。

 ナカムラ延「出逢い」会員推挙。抽象的な不思議なファンタジーである。右のほうに男性とおぼしき人が立っている。左のほうには同様の色彩で小さな家が地面の上に置かれている。周りにもあもあとした空気が漂うように表現され、中にピンクや緑などの色彩も入れられている。出会いの予感のようなものをここに表現したのだろうか。心象を周りの空間に投影した表現として面白い。

 村山成夫「色はにほへど(流)」二科賞・会友推挙。雄蕊、雌蕊が大きな蓮の葉から黄金色の光となって、あるいは砂子となって流れてきている。そこに地面に落ちた大きな花弁がころがっている。時の移ろいを静かに荘厳している趣。時間をテーマにしたユニークなコンポジション。

 石橋国夫「生命のチカラ Ⅰ」会員推挙。ピンクがかった色彩に独特の力がある。命が輝いているような印象である。受精卵は発光するそうだが、なにかを胚胎し、だんだんとかたちをなしつつある、そういった命の現象を静かに画面の中にうたう。

 髙松良幸「港にかかる橋」会員推挙。二点出品で、一点は「横から見た建物と上方に海がのぞくが、この「港にかかる橋」は上方から下方を眺めた俯瞰した構図。海に橋がかかっている様子。地面のかたち。海と陸地との関係を面白く表現した構成的な作品である。全体で蜃気楼のような不思議な儚い雰囲気が漂うところも面白い。

 及川英之「祈り 2014」会員推挙。羊の首を抱く女性。中東ふうな衣装をつけている。左手の先に月が下りてきている。中東の国旗には月をあしらったものもけっこうある。中東の民、砂漠の牧畜する民のシンプルな生活に対する讃歌といった趣である。大きく目を開いた羊の頭の表情が生き生きとしている。

 餠原宣久「時感 14─Ⅳ」。下方に三人の女性が立っている。お互いに背中合わせになって、三人で一つの柱のような強さがある。後ろに船に乗る男と犬がシルエットとして描かれている。その周りの浜辺に三々五々女性たちが立ったり歩いたり、あるいは一人の女性は綱を船につけて、その先を持っている。そのそば、画面のいちばん右端だが、抱き合う男女のメランコリックな雰囲気がある。人生はひとつの旅である。その旅のシーンを面白く画面の中に配置し、ロマンティックな雰囲気を漂わせる。

1階─16室

 遠藤つるえ「華(B)」会友賞。向日葵がドライフラワーになって、それがこの赤いテーブルの上に置かれている。かつて黄金色に輝いていた向日葵の強い生命感が黒ずんだ存在となり、その生命感を周りのテーブルや壁に投影しているかのような雰囲気である。ノスタルジーといった強い感情が画面に漂う。フォルムを断定的につくり、それを緻密に力強く構成したコンポジションが魅力。

 さとうのりこ「春秋譜」会友賞。蓮の葉が枯れかかっている。上方ではくの字形に茎が折れている。その水に空が映っている。青い空と白い雲。時が移るなかにモンシロチョウが飛ぶ。水の中に映る空を背景にした独特のポエジー。

 小野由紀子「孤独(ひとり)3」会友賞。布に包まれて人間が地面に横になっている。右のほうには足裏が見える。その向こうに木の赤茶色の扉が描かれている。インド大陸には様々な飢えた困難な人々がいるが、そういった人間をここに象徴的にこのようなコンポジションの中に表現したのだろうか。強い静かな抗議のような力が画面から感じられる。

1階─17室

 田辺幸子「卓上の譜(Ⅱ)」会友賞。アジのような魚の背骨と目のはずされたフォルムが宙に浮いている。下方にはサバのような魚の骨と頭。そのもっと手前にはカレイやイワシもいる。そんな食べられた魚たちがここに集合して、楽しく語り、踊りといった雰囲気で、ユニークな幻想性の感じられる静物となっている。背後の青の色面の扱いも面白い。

 鶴田英輝「珊瑚の化身 C」会友賞。珊瑚が様々なフォルムの中に入りこんでいる。具体的な形というより、そのフォルムが全体で楽しく会話をするような雰囲気。あるいは、お互いにハーモナイズして、独特の生命感と音楽性をつくる。

 三宅敦子「沈黙 1」会友賞。強制収容所のイメージだろうか。二つの女性のトルソ。茶褐色と黄土色。手錠がぶら下がっている。1、2、3、4、5、6、7、8。あるいは数字を逆さまにしたものも見える。収容所の中での日々を数えたという意味だろうか。手形も押されている。沈黙のなかに強い力が満ちてくる。

 織田清子「生る Ⅰ」。赤い椅子に座る裸の女性。後ろには立って上方を見る裸の女性がいる。もう一人、横になった女性がそのあいだにいるようだ。戸棚の上にはボトルが三本ほど。褐色のトーンの中に女性の鼓動が聞こえてくるような裸のフォルム。手前の女性が腰に手を当てて目をつぶって下方を見ているように、なにか画面全体に自分の命の音を聞いているような瞑想的な雰囲気が漂う。

1階─18室

 浅野はま江「風がはこぶもの」。若い女性が右足を高く持ち上げて、左足一本で立っている。後ろのレースのようなものにそっと触れながらバランスをとっている。その頭から下方の足をぐっと回るように紅葉した蔓のような植物が見え、その先を鳩がつまんでいる。ヤマブドウのようなものかもしれない。背後に五つの風船が大小浮かんでいる。パントマイムふうな表現で、エレガントで優雅なものをここに画家は表現しようとする。

 古谷和子「姉妹」会友賞。妹が姉の胴に手を回し、姉は妹の肩に手を置いて、二人で歩いてくる。なんとなく妹の右足に包帯が巻いてあるような雰囲気。そばにもう一人のもっと年長の女性が立って、三姉妹なのかもわからない。少女の危ういような繊細な体のフォルムをよく表現し、いわば体にひとつの表情をつくっているようなデッサン力が魅力である。そこから、包帯を巻いた妹といったイメージもあらわれる。

 熊田奈穂子「object I」会友賞。カーヴするフォルムのあいだから人の顔のようなフォルムが浮かび上がる。泣いているような笑っているような、不思議な顔である。フォルムがお互いに響き合いながら上方の雲のようなフォルムと相まって、日常の意識の流れを表す。

 會澤佐智子「北の浜辺」。上方に川が黒く描かれている。地面は雪が積もっている。手前にはガラスの錘がたくさん置かれ、引き揚げられた小さな船。寄せ集められた海のための道具に絡まっている鳴子のようなもの。北の漁村の冬ごもりの様子を温かくしーんとした気配のなかに表現する。じっと雪や寒気のなかに閉じ込められながら、人間の温かな気持ちがしぜんとこの作品から伝わってくる。

 館礼子「'14 私の部屋 Ⅱ」。赤い南瓜。そばに葡萄。後ろに開かれた本と地中海ふうな壺。南瓜は赤く彩られて、夕日のようなものをこの中に引き寄せて輝いているかのようだ。ノスタルジックなイメージが漂い、古代の文明に意識が移行していくような、ノスタルジーが漂う。

 牟田志津子「風の記憶 Ⅱ」。ずっしりとしたコンクリートのブロックや脚が組まれて、そのブロックの上につがいの鳩がいて下方を眺めている。ブロックの組み方には独特のバランスがあって、すこしスリリングな気配があるのだが、その上にのる鳩は愛らしく、小さな存在である。また橋脚の下方にビルが遠望される。都会の一隅に発見した一つのポエジーと言ってよい。

2階─1室

 金田道子「風道 2」。グレーや紫、黒、褐色などの独特の色面が画面を動いていく。そこには点描によってマチエールの変化がつけられ、模様の変化がつけられる。動いていくものを眺める人間の後ろ姿が線描で表現される。無常の風が画面を吹いていくようなイメージ。

 小林豊弘「マイミュージック2014 Ⅲ」。ほとんどコラージュによって画面ができている。そのベースはグレーの強い色面であるが、その上に様々なコラージュによってパッチワーク的に強い画面空間が生まれている。立ち上がっていく人間の姿が上方から見られている雰囲気。一つひとつのフォルムを組み合わせながら、歌をうたう。

 小川エリ「曙」。サックスを吹く若い女性。黒い帽子に黒いナイトドレス。背後にバイオリンを弾いている男の姿が見える。音楽につれて金の箔が画面に散り、星雲のようなものがあらわれる。下方には蛾が飛び、ピアノの鍵盤のようなフォルムがデフォルメしながら左右に動いていく。

 渡辺美加「衣装」。大きな姿見で衣装合わせをしている女性。バレーの服を見ている。見ている鏡の中の女性はバレリーナになっているが、手前のその衣装をあてがっているその後ろ姿は短パンに紫のシャツ。そして、そばで若い母親が衣装を縫っている。それぞれのフォルムがきわめてクリアで、一つひとつそのフォルムを画面の中に縫い込むようにつくっていく。独特の感性である。結果的にそれが全体でしぜんな空間となる。鑑賞者に語りかけてくるような空間が生まれる。手前のミシンのフォルムなども脇役としてよくきいている。

 工藤静香「12の誓い」。ペガサスの前でフルートを持つ女性。ペガサスのたてがみが長く伸びて、この女性を覆っている。この女性の守り神のような存在としてペガサスがあらわれている。ロマンティックで生命的なイメージを強く表現する。

 吉井愛「苺王様カレー」。円のキャンバスがそのまま皿の形。苺ジャムの中に少女が埋まっているという様子。カレーという題名だが、筆者にはむしろ苺ジャムのように感じられる。過食や拒食といった食と少女とのちぐはぐな時代のイメージもその背後に感じられる。

 山岡明日香「FOREST2」。下方は黄色い色面で上方は深い緑の色面というように上下二色に分け、上方には樹木と家、下方には樹木の幹を大きく拡大して、画面を上下に縦断させる。秋の音色が画面から聞こえてくる。フリーハンドの動きと樹木の傾きやフォルムによって秋の透明な空気感やそこから感じるものを音楽的に表現する。

 吉金幸枝「夏のうた」。グレーの上にブルーやエメラルドグリーン、オーレオリン。ノクターン的な雰囲気。大きく線によって円弧をつくり、その上に太い白い絵具でストロークする。下方に窓のようなイメージがあらわれる。夜空を眺めながら街を散歩する。そんな心象空間をピュアに表現する。

 今村惠利子「此処から」損保ジャパン日本興亜美術財団賞。樹木の根のようにも、爬虫類的な生き物のようにも見える不思議なフォルムが蠢いている。渾沌とした中から形が生まれ、未来に向かっていく。独特の命のイメージを生き生きと表現する。

 吉田紗知「白日」パリ賞・会友推挙。「白日」という作品と「不安な気持ち」という作品の二点出品である。いずれも女性が座っている。「白日」は白く輝くような背景に対して、「不安な気持ち」はグレーが中心となっている。独特の色感の中にヴィヴィッドなリズミカルなコンポジションが注目される。

2階─2室

 田口郁子「命のぬくもりを感じながら」。イスラムふうの衣装を着た女性。子供を抱えて、母親が立っている。その衣装がかなり厚く、黄金色であり、温かな慈愛のイメージがしぜんと感じられる。画家のつくりだした聖母子像と言ってよい。下方にイスラムのドームのある建物がいくつも見える。民家もそのあいだに描かれている。それらの風景を画面の下方に置いて、空が約七割以上を占める。空の中からオーロラのような光が下りてくる。それはこの母子を荘厳しようとするのだろう。下方の街のクリアで奥行のあるフォルムが、画面の隠れた骨格をつくる。それを背景にしながら、題名のように「命のぬくもり」を静かにうたいあげる。

 寺田秀子「いのちへのまなざし」。女性が横座りになり、あるいは横になっている。メランコリックな様子。横になっている女性の下から大きな手が伸びて、それを支えている。上方に赤い上衣を着た不思議な妖精のような人間があらわれている。その下に馬が動いている。馬は深い人間の情動とか本能のメタファーとしてあらわれている。苦悩のなかからもう一度命の根幹のものを引き寄せて生きていこうといったイメージだろうか。力強いコンポジションである。

 工藤孝城「手紙」。椅子に座って手紙を持ち、遠くを眺める女性。手紙は恋文なのだろうか。バックのエメラルドグリーンやビリジャン系の色彩が神秘的な雰囲気をつくる。それに対して紫系の上衣やスカートの花柄の文様がロマンティックな雰囲気を醸し出す。この画家特有のクリアでシャープなフォルムが横顔、手のフォルムに表現されて、画面を締める。それを囲むロマンティックな雰囲気がさらに魅力。

 山下宏「回想」。赤が独特の効果をあげている。三人の女性が赤一色の中に表現されているのだが、その中に微妙に変化する赤が使われている。中心が女神のようなメインの女性で、両側に侍者のような女性がいる。赤が内側から徐々に画面の表、鑑賞者に向かって輝いてくるような独特の効果をもつ。赤というより夕日の光線のようなものを画面に表現しているところが面白い。

 竹淵直美「槽 Ⅰ」。水槽のようなものをあいだにして二人の少女が向かい合っている。髪が目を覆っていて、しかも横顔なので、顔の表情はあまりよくわからない。斜光線が差し込んで一部この女性を明るく照らしている。後ろに窓の影が歪んで映っている。何もない空っぽの水槽をあいだにして会話するというシチュエーション自体がきわめて面白い。空虚なものが実は二人のあいだの関係のなかにあるということの暗喩と言ってよい。そのような現代の女性たちの心象に迫りながら、その舞台装置はクリアで、力強い二人の少女の表現になっているところも面白い。

 富永穆「繁栄の翳り」。樹木から紅葉した葉が落ちてくる。蜘蛛の巣に大きな蜘蛛。黒い猫が落ち葉の上にいる。向こうに電車が続いて、ぽつんと小さな木造の駅舎が見える。東京に対して地方は大変な不況で、どんどん人口が減っている。そういった日本のいびつな地域による社会的構造のイメージもこの作品の背後にはあるようだ。いずれにしても、あまり深刻にならずに、うたうようにそれぞれのものを集め、構成し、静かにメッセージする。

 佐野宜子「WICKED」。若い女性が歩き、ジャンプし、向こうのほうには男性がいる。深夜のバーとか踊り場のイメージ。都会の中のそのような歓楽街のイメージが背後に漂うなかに人間が動いている。線を駆使しながら独特のニュアンスをつくりだす。

2階─3室

 狩谷昌孝「ピース」。赤いショルダーバッグを掛け、赤い帽子をかぶった若い女性が、ピースの合図をしている。そばにバス停らしきもの。後ろの家の壁にポスターが貼ってある。猫が目をつぶって知らん振りをしてそばにいる。弾むような心持ちを、具体的なフォルムの中に入れこむように表現する。温かな気持ちがしぜんと画面から伝わってくるような作品。

 徳永スエ子「おひと(矢作ダム 3)」。矢作ダムは大きなダムで、矢作川の水をせき止めてつくったダムで、百七十七戸の家が沈没した。そのことを五十年ほどたつ現在、鎮魂の気持ちでこのような構成をつくったのだろうか。赤い鳥居がずっと向こうに続く。その向こうに鬼のような顔が赤く彩られて、建物の向こうに浮かんでいる。手前には数珠をつないで立つ女性。背後の石垣のある家。

 水野興三「風の街(1)」。ベージュの色面の上に道や建物、樹木などを俯瞰したかたちで描く。斜面につくられた建物の様子が面白く浮かび上がる。地面と建物との関係のなかに一つの集落の全体像を、独特の円弧の構成の中に表現して面白い。フォルムが強く、一つひとつ立ち上がってくるところもよい。

 森山修「これから」。軍鶏が一羽ぶらさがっている。その上方に軍鶏の顔が二つ現われて、この吊るされた軍鶏を見ている。手前になにか考えこんでいる人間の姿がある。闘鶏で負けた軍鶏。それに対して新しく王座を争う若い軍鶏たち。そんな軍鶏の闘いをすこし憂いの表情で眺める人間といった様子。背景はベージュ系のグレーの中に複雑なトーンがつくられて、しみじみとした情趣が感じられる。

 飯田由美子「夏をよぶ鳥 Ⅰ」。強い動きがある。グレーと明るいグレーの二つの空間。あいだに植物が伸び、鳥が動き、若い女性がシルエットの様子で立っている。その手前には俯いた女性もいる。これから梅雨が終わり、夏に近づく頃の人間の高揚していく気持ちのようなものを陰翳のなかに面白く表現している。

2階─4室

 岡部忠則「マンション管理人」。マンションの窓にタバコをくわえた男性の横顔やヌード、猫、ボトルなどが浮かび上がる。そばにもう一つの細長いマンションが伸びている。その二つのあいだの通路を歩く人がいる。マンションから木の枝のようなものが伸びている。マンションというたくさんの人が住んでいる集合住宅が、年代を経ていくうちに生き物のようなイメージを獲得する。そんなファンタジーを力強く描く。

 太田広信「Layer 14-2」。座っている女性と立っている女性、そのすこし後ろには犬、その向こうには雪をかぶった山脈、そして山脈際の太陽といった、奥に奥にと行くコンポジションの中にフラットな色面による構成。帽子の下の顔は黒く、上半身は明るくといったように、一つの人体でも明暗の強いコントラストの中にフォルムをつくりあげていく。そのあいだに中間色のようなグレーが背後の地面にあり、そのそばを屈曲していく白い明るい道が続く。

2階─5室

 柴﨑康男「船のある風景 A」。「船のある風景」という題名だが、画面の中に船はなく、その残骸のようなものが散らばっているようだ。津波のあとに残された光景のようだ。黒と白の色彩がギラギラと輝くように表現されている。

 奥山嘉男「マテーラ(Ⅷ)イタリア」特選。マテーラは一万年前の穴居時代から今日までの住居が一つの地域の中に混在する不思議なところである。長い歴史の街を描くのに、階段がコネクションとして使われている。その両脇に白い建物がいくつも置かれ、下方は断崖のようになっている。フォルムを組み合わせながら、一種メロディアスなコンポジションをつくる。

2階─6室

 三浦梨加「祈り」。下方に大きな赤いケシの花。背後に正方形の金の画面。その上方には黒い円弧の中にサンスクリット文字、梵字が描かれている。祈る力ともいうべきものを強いダイナミックなコンポジションによって表現し、会場の中でもひときわ目を引く。

2階─7室

 鈴木桂子「早春賦(1)」。力強い。左がすこし下に傾いた五つの焦げ茶色のストライプ。朱色が少し入っている。その隙間から樹木の幹や木立や青い色彩や白い雪のようなイメージのものが浮かぶ。冬の時間のプレッシャーのなかから春が萌えてくるといったイメージを表現する。

 石田勝己「街角の黒板」。自由に日記を描くようにイメージを紡いでいく。上方の建物が組み合ったひとつの風景的な空間と下方の室内のイメージの空間とを連結しながら、一種の私小説的なファンタジーを繰り広げる。

2階─8室

 土屋真理子「街②」特選。建物がいくつも構成されている。直線と円弧とがうまく使われている。白い壁。円弧を繰り返しながら、メロディが画面から聞こえてくるようだ。ベージュに柔らかな緑、紫、青などの色彩のハーモナイズする様子はロマンティックである。

 谷美津子「あの歌をもう一度(Ⅰ)」。赤が強く画面に入れられている。あいだに黒と灰白色が置かれている。黒はまた上方に伸びていく力で、何本も使われていて、それを受ける赤が左右に動く。中心に白い絵具で筆によって円弧がつくられている。パッショネートな音楽。たとえばタンゴのようなイメージを抽象的に画面の上に構成したような趣。

 大築笙子「窓 1」。上方に窓がいくつもあり、あいだに子供の顔や落書きのようなものが見える。グレーの中に、ちょうど舗道の上に蠟書きをするような様子で力強く表現されている。下方にもベージュの色彩が左右に広がっていく。窓というのは人間の内面と外面との境目にある位置づけで、画家の内部にある様々なイメージを、窓というキーワードを通しながらぐいぐいと描きこんだような活力に注目。

2階─9室

 合田紘露胡(寛子)「想 A」。柔らかな灰白色の中にほんのすこし暖色が入れられた色彩が、匂うような感じでロマンティックな雰囲気を醸し出す。満開の桜の花と木のイメージをこのように抽象的に表現したのだと思う。

 西眞紀子「'14 刻を超えて―希望 Ⅲ」。女性が立て膝をして座り瞑想している。オレンジやブルーによって彩られている。それが背景にも使われて、全体で独特の柔らかな発光するようなオーラを醸し出す。希望のイメージを表す。

 篠原征子「風景 Ⅰ」。青いトーンの中にU字形のフォルムが現れ、宙に浮いている。紐のようなものの上に毛糸の玉のようなものが転がっている。アンティームな親密な感情のなかに夜空を手元に引き寄せて、その空間のなかで遊んでいるようなファンタジーが魅力。

 汐待和子「仮面のむこうに Ⅰ」。上方に女性の顔がある。目の周りに黒いマスクをしているのだが、そのそばに白く塗られたもう一つの顔が仮面的に描かれている。頭部には薔薇の花。下方には先の尖った鳥のような仮面が浮遊し、魚のような顔をもった哺乳類のようなものも描かれている。あやしい雰囲気である。人間の心理の奥にある様々な存在、本能的なもの、リファインされた感情、あるいは拒絶感、あるいは親和力、様々な心の要素がこの画面の中に引き寄せられて、ストラグルしながら独特の強い緊張感と動きを醸し出す。

2階─10室

 椎名静雄「私の刻 Ⅲ」。女性の上半身が大きく描かれている。背後は丘の上に立つ樹木や植物。緑がかった黄色に独特の手触りと親近感が感じられる。手前の女性のフォルムには彫刻的な強さがある。親密な気持ちを起こさせるような色彩も興味深い。

 二川礼子「風譜 Ⅲ」。正方形の画面の真ん中にマネキンのトルソがあり、それが緑によって彩られ包まれている。そこには黄色い花も咲いている。空をパレット状に手前に引き寄せる。室内でイメージを飛翔させながら空間を引き寄せ、独特の詩情の風に沿って動きをつくる。

 佐治登茂子「墟 Ⅱ」。墟とはあれはてたあと、古跡、旧跡。ここには三つのフォルムが上下に重ねられているが、むしろ錆びた金属の鉄のような存在感のものが描かれている。危うい均衡のうえに載せられていて、いつ崩れるかわからない。手前に緑の細い棒のようなものが伸びている。背後は青である。鉄に錆が出るまでの長い時間。そしてその結果、なにか発光しながら生まれてくるものに対して画家は肯定的である。時間のなかに積み重ねられたものがいつ倒れるかわからないといった雰囲気。しかし、それらをすべてカバーしながら、母性的に包みこむようなイメージの広がりと深さを思う。

 山崎英子「兆」。水に足をつけて座り、すこし俯いて瞑想している女性。そんな様子の三体のフォルムの後ろに満月が現れている。暖色系の中に寒色の青が入り、そこに月光を引き寄せて、ロマンティックな空間をつくる。

2階─11室

 小林正直「今生の装い―クピドの提案―」。翼のある女性には白い紙でできた仮面。そばには小さな子供の天使が前を指差している。そこには十の写真が貼られている。十人の年齢の異なる女性たち。女性のもつ強い吸引力。シュールなあやしい雰囲気が漂う。

 小林優子「瞬間(時)」。女性がソファに座っている。後ろに二匹の猫。上方にも大きな猫がいる。背景は青く、女性はすこし明るい青い色彩で染められている。ノクターンといった雰囲気で、画家の心の中に動くイメージを猫がパントマイムふうに表現する、という言葉が出るような猫との親和力のなかに表現されて、独特の幻想感をつくる。

 筒井政子「卓景 1」。テーブルの上に様々な瓶などが置かれている。白い大きな花瓶には向日葵をはじめとした花がいけられている。小さな布で包まれた花瓶には黄色い花が入れられている。青やグレーのトーンの中にそれぞれのものが静かに立ち上がって響き合う。

2階─12室

 高谷ひろ子「la vie(Ⅱ)」。黒い、すこし透き通るようなシルクのワンピース。グレーの帽子。後ろに紫のリボンのようなものが浮遊している。背後の川は、セーヌ川のようだ。そばにマンホールがあり、その上に猫が載って川を眺めている。パリの思い出を引き寄せながら、独特の風を画面の中につくる。その風は画家の深い感情からあらわれたもので、エレガントな性質をもつ。画家自身の高い美意識によるコンポジションや色彩に注目した。

 栗林洋子「木花開耶姫(1)」。コノハナサクヤヒメが空を飛んでいる。背後にはコノハナサクヤヒメと深い関係にある富士山が見える。下方には風神雷神が元気な雰囲気で、風を膨らませ太鼓を叩いている。ピンクの壁画的なマチエールをもつ色彩の中に、それぞれが生気をもって描かれる。独特の神道的な力を面白く表現する。

 及川政子「キジャン市場」。韓国の市場を描いたもの。オレンジなどの果物の横には、赤やグレーの魚がたくさん並べられている。上方のテントの赤い色彩。その横には海が傾いて見え、白い建物も見える。独特の生気のある構図の中に色彩が輝く。

 平井征史「靴音が聞こえる」。パリの街のようだ。白い壁がしっとりとした存在感を見せる。無音の中に街の質感が表現されているところが魅力である。トーンの力に引き寄せられる。

 斉藤りゅう子「牛 Ⅲ」。三頭の牛がこちらを眺めている。真ん中の牛に寄り添うように両側に青い牛がいる。いずれも人間のような雰囲気である。中心がいわば一家の長のようなもので、左右にそのサブの牛がいるといった雰囲気。時代に不安感をもち、疑い、考えこんでいるような、そんな強いイメージが漂う。

2階─13室

 奥山裕子「Venezian・Ⅱ」。運河、ゴンドラ、宮殿、旅行者。心象的な空間の中にそれぞれのフォルムを位置づけ、色彩を置き、色彩がお互いにエキゾティックなハーモニーをつくる。運河が広がって海に重なるようなイメージがあらわれる中に一艘の船が進んでいくのは、旅情をよぶ。

 村尾万理子「宙 Ⅱ」。女性の上半身を大きく描いている。とくに目の表情などは哀愁を感じさせて、独特の造形だと思う。そばに可憐な野の花が咲いている。空は澄んで、そろそろ十五夜が近づいてくる。

3階─1室

 中井美甫「記憶の中で 4」会友推挙。赤が呪文的に使われて強い印象を醸し出す。牛や黒人の仮面、樹木、家、そんなものを組み合わせながら、アルカイックな力を構成のなかに表す。

 皆吉経之「鍋島騒動〈三〉」。鍋島騒動というと化け猫で有名である。たしか油をなめるシーンもあったのではないか。その化け猫のイメージを、黒いバックに金の線によって面白く表現している。顔を拡大したそのフォルムと口のあたりのぎざぎざの様子など、大胆で面白い表現である。

 田村忠男「帰り道 Ⅰ」特選。下方に線によって建物をいくつも描いている。そこに懐かしい雰囲気が生まれる。下方には水が流れているようだ。上方には建物の壁のようなフォルムをいくつもつくって、その中にまた線によって建物群を表現する。線とグレーの色面を組み合わせながら、懐かしい故郷のイメージを表す。

 上石直美「ゆらぎ 1404」会友推挙。蓮の大きな葉が水面近くにたくさんそのフォルムを広げている。そんな様子を水面近くの視点から眺めて、はるか向こうまでその様子が続いているコンポジションはシュールと言ってよい。青を中心とした色調に詩情が感じられる。

 野平智広「心を近くに感じた時」会友推挙。ボトルが倒れて、水が床の上にたまっている。その水を求めて床の上にカバが現われた。幻覚であるが、その向こうには小さなキリンをつまんで、水を飲ませようとする女性がいる。渇いた心を癒やそうとするイメージの表現だろうか。

 鈴田文明「王子駅」。王子駅の立体交差の道と駅ビル。上方は新幹線が走っている。魚眼レンズで写したように構成して、新鮮な画面構成をつくる。点々とそこにいる人間たちのフォルムも生き生きとしている。

3階─2室

 菅原靖「コミュニケーション(B)」会友推挙。一緒に携帯電話を眺めているカップル。このスペースはたくさんの人が座っている。耳にヘッドホンをつけている男。携帯電話を持つ少女。そんな若い人の群像がその後ろにも、多数描かれている。ぐいぐいとフォルムを置き、線で対象の形をつかみながら、生き生きとした動きをつくる。

 大橋直樹「ひとり通学」。水彩作品。白い線路がカーヴしながら向こうに続く。駅舎に一人、ランドセルを背負った少年が立っている。無人の駅のようだ。柔らかな緑の色彩。地面は紫。光の中に浮かび上がってくるこの像は幻のようだ。記憶のなかからあらわれた光景だろうか。

 吉田幸子「アトリエの光景」。テーブルの上に白い布。パレットに筆。花瓶に青い花。柘榴のような果実。瓶が三つ。ヒラメが向きを変えて二つ。ペアのワイングラス。植木鉢。そんなものをぐいぐいとこのテーブルの上に描く。柔らかな光が画面に差し込んでいる。下方のテーブルの椅子がリズミカルで、十数本あるのも面白い。そのそばに光の足跡のような矩形のフォルムが続いている。静物を描きながら、それがひとつのイメージと化して風景化しているような不思議な雰囲気が魅力。

3階─3室

 山口進治「窓辺の風景」。オレンジの瓦屋根にベージュの壁。ひときわ明度の明るい色調で、その建物群が表現されている。手前は緑で、緑の窓枠があけられて、手前は部屋になっている。対して、街の向こうには山が見える。空は青。カラリストである。色彩を組み合わせて、強いハーモニーをつくる。とくに中心の燦々と輝く太陽を浸透させたような白い建物が魅力。

 関口次子「そば処」。瓦屋根の二階建てのしもたやのような建物。白い暖簾に「生そば」と文字が書かれている。全体に微妙にデフォルメがしてあって、生き生きとしている。二階建ての建物がまるで人間のような生気を醸し出す。

 山村出洋「JAZZ LIVEの夜(Ⅲ)」。ピアノを弾く女性の背中が見える。強い存在感がある。そばに丸いテーブルがあり、ウイスキーのような飲み物が見える。その右向こうにはボーカル、左向こうにはサックスやベースを弾く人が、すこし調子を落としたシルエットふうに表現されている。ピアノの白と黒。黒い中の白い鍵盤が画面のポイントとして面白く扱われている。

3階─4室

 宮川和三「体験―1」。石垣があり、囲い込まれた湿地帯のような様子のものがある。地面の上に植物が生えているのだが、ぬかるんでいる様子だし、池のようになっている部分もある。そういった中に板が渡されて、堤防のようなものがその周辺につくられている中を人が歩いている。実景だと思われるが、一つひとつのフォルムがクリアであり、不思議なファンタジックな異次元のような世界があらわれて、そこに人物を置くという構成に注目した。

 藤井清子「天空の風」。空に布が浮遊している。そばに大きな樹木のようなものが伸びていて、その下には建物が見える。見上げる角度にもかかわらず、その旗のようなものや、お皿に卵のようなものが入れられているフォルムは、上から眺められている。視点がしぜんと移動しているところも面白い。上方に三日月が出ている。そうすると、手前のお皿の中の卵は、太陽のイメージなのかもしれない。全体に緑が神秘的な雰囲気を醸し出す。自分の住んでいる建物やそばの樹木の見慣れた光景を上方から眺め、そこに幻想をつくりだしているようなイメージの展開に注目した。

3階─5室

 藤田典子「おとぎ話のように A」。グレーの空間の中に自由な構成をする。下方には机があって、その上にはコップに双葉の植物。青い鳥の置物だが、その鳥は口に植物をくわえている。上方の赤い色面に少女の横顔。そのそばには三つの建物。それぞれのフォルムが図像化されて、この空間の中に引き寄せられる。詩情豊かなファンタジーをつくる。

3階─6室

 田中和子「夕日の中のポンペイ」。建物が赤く染まっている。その建物も自由なかたちで表現されている。ガウディの建築のようなフォルムも中に入れられていて、楽しい。窓の中には明るいブルー、あるいはすこし暗めの青い円窓もある。インディゴのような色面に白い何重かの楕円形のフォルム。その上方に黄色い星のようなフォルムも見える。ポンペイというと赤い壁画が有名だが、作者のつくりだした不思議な街のファンタジーである。

 佐藤正子「パリの街角」。パリの建物と道。この広場から六つか七つくらいの道が放射状に伸びていく。広場は雨に濡れて建物を映して輝いている。その輝きの中に自由なタッチでメロディのようなフォルムを画家は描く。

 星野千鶴子「月の形のボート」。色彩家である。黄色いボートに乗る女性は茶色い帽子をかぶり、緑の上衣を羽織っている。その女性の見ているところに白鳥が二羽。空は青く、白い雲が出ている。湖とその周りの樹木や建物、テラス、山などを自由に画面の中に構成する。光を中に入れこんだような色彩が静かに輝く。

 德弘あずさ「ある街 Ⅱ」。画面の中心すこし下に建物がある。赤い円形の屋根と白い壁の塔のような建物で、それと接続されて、もう一つの建物が三角形の屋根をもって描かれている。周りは白と黒との明暗のコントラストによって表現されて、独特の韻律と空間が生まれている。画面に接近すると、調子をつくるのに貝やネジ釘や小枝などがコラージュされていることがわかる。右の上のほうには段ボールもコラージュされている。それによって抵抗感をつくりながら空間の中に韻律をつくろうとする。下方の赤い屋根の白い壁の建物が、いわばアラジンのランプのように画面に扱われているところも面白い。

3階─8室

 鈴木旭「赤い不安(Ⅱ)」。ムーランルージュの風車が右上方に描かれている。パリの夜の風景を赤い色彩に表現しているのだが、それを背景にして女性の横顔が大きく描かれている。肩を大きく出したその女性の横顔は妖精のようなイメージである。とくに大きな目の中に黒目がなく、白目だけで描かれるために、なおさらそんな雰囲気があらわれる。イメージを浮かび上がらせるために繰り返し画面に向かう。その結果、赤に独特の奥行と内側から輝くような色の輝きが生まれた。

 山村由紀子「こどものくに Ⅲ」。小さな子供用のヴァイオリンや笛を演奏する兄と妹。そのそばには上を眺めている小さな女の子がいる。そこには象が歩いている。お祭りの雰囲気で、様々な色彩がこの空間に引き寄せられ、お互いに楽しくハーモナイズする。

3階─9室

 尾世川正明「蝶と遺跡の記憶」。アゲハチョウのような蝶が飛ぶ室内。窓が大きくあけられて、その向こうに一本の樹木と遺跡のようなものがある。手前の緑の石を並べた床に白いワンピースのブロンドの女性が寝ている。まるで古代の女性がそこによみがえったかのような雰囲気。シュールな味わいを醸し出す。ミステリアスな作品である。

3階─10室

 平塚公子「自分の未来について(混沌)」。二本の赤い紐が上下に垂れている。その周りに黒い鳥のようなフォルムが動き回っている。この二つの紐は未来につながるものだろうか。そこに情念の塊のような鳥が激しくもみ合っている様子は、葛藤というものの表現のようだ。内部の混沌とした感情やエネルギーを面白く絵画としてあらわに表現しているところが面白い。

 康本節子「宙 3」。色彩家である。黒と赤とがシックな響きをつくる。そのあいだに褐色や柔らかな黄色、ジョンブリヤン系の色彩も入れられている。テーブルの上に柿のようなものがあり、上方に吊るされているものがあるということで、具体的に何があるかわからないが、室内の中のものを色彩豊かにうたいあげて、独特の詩的な空間をつくる。黒みがかった焦げ茶色と赤とのハーモニーにとくに感心した。

 井上真智子「記憶 1」。緑に不思議な奥行が感じられる。湖に鳥がいるようなイメージであるが、ほとんど抽象的なコンポジションのために、描かれている内容を指摘することは難しいが、なにかロマンティックなメロディが画面から流れてくるような味わいがある。緑のもつニュアンスを十全に使いこなした表現であるところが面白く、緑をこのように扱える画家の色彩感覚に注目した。

3階─11室

 宮井啓江「思考の欠片 1」特選。茶褐色、暗い青、黒、灰白色などの色彩を重ねながら、風景的な空間が生まれる。ずいぶんコラージュされている。白い部分などは紙がそこに貼られている。その紙のそばに右手が伸びて、手のひらが上を向いている。なにか身悶えするような内向するところから引き寄せられたイメージ。その内部にある豊かで、しかも矛盾し合うような世界が、一種アンフォルメルふうな空間の中に表現される。

3階─12室

 中村百合江「大禍時―昆虫―」。蛾と蜘蛛を大きく描いている。上方の蜘蛛が蛾を捕らえて手前に引き寄せようとする、そんな様子を面白く描いている。どことなくのんびりした雰囲気のなかに昆虫の生命を描く。

 髙木陽「赤い丘―終焉―」上野の森美術館奨励賞・会友推挙。不穏な世界である。建物の上に雲があって、満月が浮かんでいる。そのモノトーンの世界の手前に赤く塗られた不思議なものがついている。まるで内臓のようなイメージで、そばに、顔が女性で体が獣で翼をもった不思議な生き物が身悶えしている。伝奇的ロマンの世界を面白く表現する。

3階─13室

 南木まどか「蒼鷺の家族が棲む森」。森の中に池があって、そばにアオサギの母親と二羽の子供がいる。その様子が柔らかな光線の中に立ち上がってくる。その手前には蓮の花が咲いている。向かって反対側には対のアザミのピンクの花。枝の上にはカワセミのつがい。小鳥がいる。向かって右の、つまりアオサギの上のほうには、つがいの小鳥と褐色のおなかをした小鳥がいて、満月を眺めている。V字形の空に皓々たる黄色い月が昇っている。森の神秘的な世界のなかに生きる鳥たち、あるいは植物を表現して、ユニークで楽しい空間をつくる。

 大橋瑛子「魚料理」。染付ふうな皿に一尾のカレイ。二本の箸。水。醤油差し。漆のお椀にはアサリの味噌汁。木のテーブル。それをじっくりと描きこんでいる。そこから独特の手触りとリアリティが立ち上ってくる。魚の上に山椒の葉が置かれているのがかわいい。

3階─14室

 野村緑「三日月 Ⅰ」。緑の池のそばに三人の人形が座っている。対岸には大きな母親を思わせる女性が立って、背中を出したイヴニングドレスのオレンジの衣装が輝いている。ノンシャランな雰囲気のなかに不思議な幻想風景をつくる。人間と人形との中間のようなフォルムが詩の要素として面白く使われている。

 小川憲一「遠い日(2)」。兄と妹が木の前に立っている。妹は帽子を持ち、兄は捕虫網を持っている。後ろに道や建物やお寺や川が図像的に描かれ、それぞれがお互いにリンクし、強いコンポジションが生まれる。

 浅沼知子「moon(Ⅱ)」。枝の向こうに満月が昇っている。その下に雲が浮かんでいるのだろうが、それが箔によって表現されている。ピンクの箔、オレンジの箔、柔らかな桃色の箔、グレーの箔、また、金銀の砂子、あるいはピンクの砂子が画面全体にかけられていて、独特の装飾的な表現になっている。光というものが夜空の中におもしろく捉えられていて、楽しい。

3階─15室

 加藤暁子「明ける」。ハドソン川の手前からニューヨークのマンハッタンを眺めている。高層ビルが立ち上がって、斜光線がそこに強い陰影をつくる。ハドソン川の船や倉庫。明暗のコントラストがダイナミックな動きをつくる。生活感が独特の力として画面に引き寄せられる。

3階─16室

 佐々木邦枝「陽・サイゴン」。扉をあけた向こうにカフェがある。あけられた扉は逆光の中に青く表現されている。オレンジ色から淡いベージュ、白などの色彩と影になった扉の青とが響き合う。エキゾティックな中に異国の香りが漂ってくるようだ。

 三好るり「瓏 ROU-2014 SUPER MOON Ⅱ」。スーパームーンというタイトルのように、月を大きく装飾的に画面の左上に描いている。その月の中に正方形の箔、あるいは正方形の金のフォルムを入れて、月がそのまま曼陀羅的なイメージを醸し出す。垂直の線がいくつもあらわれて、月のそばで音楽が鳴るようなイメージ。

3階─17室

 保坂美佐恵「街 Ⅱ」。ずいぶん塗りこまれている。それによって独特の色彩の輝きが生まれる。建物の窓。上方には森のようなイメージもあらわれてくる。描き進むうちに季節を離れて、人間のふるさと、画家の理想的な集落ともいうべきイメージが生まれたのだろうか。水墨には胸中山水という言葉があるが、油彩画でそのようなヴィジョンを描いて筆者を引き寄せる。

3階─19室

 桐原惠「路地」。石でできた建物。そのそばには階段がある。広場も石の敷きつめられた舗道になっている。そこに光が差し込んで、黄金色に輝かしい陰影をつくる。石のもつ手触りを画面の中に引き寄せ、この街の歴史ともいうべきもののイメージを浮かび上がらせる。

3階─20室

 上田義美「春よ来い」。カーヴする山の稜線。そこには裸木がたくさん植わっている。山の斜面はピンク色を帯びた紫色で、その手前に兄弟が絣の着物を着て手を上げている。白い犬がそばにいる。川が流れて、石でつくった橋がその上に渡されている。赤い牛。かつて存在した日本のふるさとのイメージを絵の中に浮かび上がらせ、高らかにうたいあげる。楽しいわらべ歌が聞こえてくるようだ。

3階─21室

 今村紀代子「港のある町」。穏やかで柔らかなトーン。そこにはゆったりと川が流れている。橋がかけられている。白いずっしりとした建物が光に輝いている。夕日が空を染め、川を染めている。高層ビルが並んでいるようだが、それはこのトーンの中に融解されている。夕日の中に街が溶け込んでノスタルジックな空間を引き寄せる。

3階─22室

 望月强「夕暮れの街」。街を上方から眺めている。歩道に沿った商店が光の中に輝いて、人々はシルエットになっている。大きな自動車の通る道。その手前はもうひとつ違った舗道になって、パラソルが広げられ、屋台のような店になっている。そんな様子をときめくような黄金色の中に表現する。

 川路聡美「静かなひととき 2014 Ⅱ」。しゃがんで本を読む少年。そばに妹が立っている。不思議なことに、その壁があいて、小さな路地があらわれ、姉妹が歩いていく。兄と妹のそばに大きな植物の葉が描かれているのが、なにかしっとりとした情緒を醸し出す。詩の世界が引き寄せられているかのような、生き生きとしたイメージの展開に注目した。

 本間昌子「青い風」。十代の少女がズックをはいて短パンをはき、白いTシャツを着て立っている様子が潑剌と表現されている。周りに赤と緑の色彩が面白くアレンジされている。

〈彫刻室〉

 前田忠一「Radar and Antenna」。妖精的な少年の顔が力強く重量感をもって彫られている。その耳に人指し指が突き立てられているという面白いコンポジション。聴覚によって認識するこの少年のイメージを、レーダーとアンテナという題名のもとにつくっている。耳にも実際には聞こえないと思うのだが、そういう周波数のもの、電波が世界中を動いていて、そういったものを認識することのできる神的な童子の表情を生き生きと彫る。

 池田嘉文「HORIZON ホライゾン」会員推挙。数百人の人体が中に入っているのだろうか。裸の女性が集まり、手を広げ、叫び、混沌とした中に強いオーラが発してくる。混沌の中から誕生して、手を上げて叫んでいる裸の女性の集合体は、たとえば地平線から昇る太陽といったもののイメージをこのように具象化したのだろうか。いずれにしても力作である。

 稲葉朗「CLEAR」彫刻の森美術館奨励賞。サッカーの二人の選手をダイナミックにモニュマン的に表現している。立っている青年の肩に手をかけてジャンプした背後の青年の額にサッカーのボールが当たっている。下方の台座を見ると、一木から彫り起こして、そこに一部接ぎ木したのだろうか。一木特有のオーラのようなものが感じられる。

 津田裕子「王と王妃」文部科学大臣賞。石膏のしっとりとしたマチエールが目を引く。また、その石膏のもつイノセントな味わいも、この彫刻のヴィジョンを支えている。チューブが人体を取り巻いて、マスクをした王とチューブを頭にした王妃。手はチューブになっている。現代の混沌とした中の新しい男女像と言ってよい。イメージをどのように具体化するかということにチャレンジした見事な成果と言ってよい。

 細田愛由美「しめさん」会友推挙。ウサギの帽子をかぶった青年が座っている。寄木による作品で、繊細な現代の男性の表情をつくる。膝から足の先までの細さと肩幅の大きさなど、いまの青年のフォルムを生き生きと捉えながら、ファンタジックなイメージを表現する。

 日置万里「夕焼けの帰路」。のびのびとした彫刻である。若い女性が両手を広げている。ワンピースを着ている。その夜会服ふうな衣装を赤く染めていて、その赤がまるで夕日をそこに映しているかのような、そんな豊かなイメージを醸し出す。

 大村富彦「春の如く」。テラコッタの胸像。両手を胸の前に置いて、顔を左に傾けた像。全体に優雅なメロディのようなものがそこにあらわれる。一部金泥が置かれているのも、春の光がそこにちらつくような工夫である。

 嶋崎達哉「La Musa」。向かって左から風が吹いている。スカートが右のほうに靡いている。右足に重心を置いて、S字形に伸びていくフォルムが見事である。木彫に彩色であるが、女性の柔らかな身体を見事に空間化する。同時に、今回はそこに風の動きを入れて、なよなよとした動きを表す。La Museとはギリシャ語で芸術や音楽をつかさどる女神という意味だそうである。また、台座の波紋状の文様も上方の人体と連携して、優れたものである。

 秋山隆「Nuage」。Nuageとはフランス語で雲のことである。雲の形は先がくるっと回った渦巻くようなフォルムによって木彫されていて、そのフォルムが連続する中にブルドッグがいる。手前向きと後ろ向きのブルドッグが中に入れられているのがユーモラスで面白い。優れた木彫の力と同時にイメージの豊かさである。狛犬はずいぶん彫られているが、ブルドッグをこのようなかたちで装飾的な雲のフォルムの中に入れこむという発想が面白い。

 細井良雄「ガルダーのように―ミドリ―」。少女の頭に鷲のような鳥がとまっている。鳥の中の王様のような存在が頭にとまっている。エジプト彫刻をしぜんと連想する。そうすると、この女性も人間というより女神のイメージなのだろう。木彫である。それほど大きな作品ではないが、この彫刻から受ける印象はずいぶん大きい。そんな空間があらわれてくる。優れたモニュマンと言ってよい。

 綿引道郎「鈴木大拙大士―散歩の時」。鈴木大拙が着流しでこちらに歩んでくる。威風堂々たる雰囲気のなかに柔らかな風が吹いている。自然体の大拙の像を見事に作者は彫りおこした。

 吉野毅「夏の終り '14」。しっとりとした石膏のマチエール。両手を腰にあてている。スカートに触れている手の甲のあたりは白く、輝いている。胸の輝きと相まって、あるいは足の部分の輝きと相まって、微妙な光をこの彫刻のなかに取り入れている。夏の終わり、季節の変わり目のあの不思議な時間、印象を一人の女性を通して表現する。見ているとデスピオなどの彫刻に通ずるような端整な気品が感じられる。

 与島雪「はじめまして」新人奨励賞。少女が立っている。後ろに猫がいる。一木から彫りおこしたのだろうか。優しい柔らかな彫刻で、少女のもつ無垢なイメージをよく表現している。それに対して猫のほうはすこしあやしい雰囲気で、この少女の未来のイメージを猫が支えているようだ。

 工藤直「あ! きた春」。両手を広げて、右足で爪先立ちした木彫。あっけらかんとした印象。ボリューム感のある彫刻であるが、一本足では立たずに、下にその台が金属によってつながれている。それほどあやういバランスというものが、逆に上方のボリューム感と対照されて、彫刻の面白さをつくりだす。

 工藤健「序」。右足一本で立ち、そのまま右手を上方に上げ、左手を伸ばした像。右手は掌を上にあげ、左手は掌を下に、そして左足の踵は右足の腿の上あたり、ちょうど膝頭の下あたりに爪先を置いている。それをキュービックに表現する。とくに正中線を大事にして、正中線からボリューム感をつくっていくために、波打つようなキュービックなフォルムがそのまま堂々たるふくよかな量感を引き寄せる。後ろから見ると、肩甲骨あたりから腰にわたる面の解釈、そして力強い右手と左手の肩の立ち上げなどのフォルムとフォルムの関係性も実に見事につくられている。

 信時茂「奏でる雲の」会員賞。両手を前に伸ばした女性の像。ワンピースを着て、下方の服は地面についた様子。そこにカーヴする塊が生まれ、上半身の繊細な手や顔の表情を逆に下方の布のフォルムが支えて、より強調している。

 吉田朋世「吠える」会友推挙・特選。山羊がその頭を下の台座につけて倒立している。独特のシャープな造形感覚とリズム感があらわれる。エスプリがそのまま具現化したようなヴィヴィッドな印象。モデリングの問題だが、ふくよかに量をつけていく方法と削っていく力とが見事なハーモニーをつくる。どちらかというと、粘土を取ったあとにあらわれてくる空間の面白さと言ってよいかもしれない。

 藤巻秀正「森の旅人」。たくさんの樹木が集合して、全体で一つの彫刻的なフォルムをつくる。そのフォルムが題名のように歩いて動いていくような不思議なファンタジー。クスノキの一木から彫り出し、そこに一部接ぎ木をしたかたち。一種抽象的な目や口のあいたような幾何学的な形を変形させたようなフォルムがシャープで、不思議な詩情を醸し出す。

 日高頼子「憧憬」。女性が両手を頭の後ろに組んでいる。それにつれて、胸が後方に引き寄せられている。その胸の豊かに実ったという言葉を使いたくなるような健康なフォルム。そして、柔らかでどっしりとした腰からまっすぐ伸びた左足の甲。それに対して右足は後方に置いて、しっかりこのフォルムを支える。シンプルで美しい。健康な女性のボディの美しさが一種神的なイメージを醸し出す。

 小田信夫「山茶花」。若い父親と母親と子供。後ろには木の上に少年が彫り出されている。おそらく一木の中からこの家族の像を彫っていき、木の枝に寄り掛かるようにして若い夫婦の形を彫り出した。平安時代に一本の木の中に仏を見て彫り出した立ち木観音というものがあるが、そういった日本の長い木彫の伝統を感じさせる彫刻である。

 橋本和明「Kanon─月の舟」。仰向けに寝ている若い女性。ワンピースを着ている。全体に上下に引き伸ばされている。その色彩がすこしこんじきで、緑がかっていて、仏像のようなイメージでもある。あるいは涅槃図のようなイメージもそこに漂う。「月の舟」という題名だが、光の中にこんなかたちで横になって光を反射するイメージは、実にロマンティックといってよい。

 本多紀朗「起」。馬の頭部をつくっている。素材が石膏、樹脂、ロープ、鉄、木で、独特の面白さ。ロープなどもグルグル巻いて、まるで鉄のような強いかたちになっている。いわば廃物でつくった馬のモニュマンといった力強さがある。

 本田俊朗「東風」。十歳ぐらいの少女の像である。赤い丸いものに腰を下ろして、二つに結んだ髪を後方に伸ばしている。サンダルをぬいだ右足をサンダルをはいた左足の上に置いている。そういった微妙なポイントポイントをつくっているところも面白い。無垢なイノセントな少女のイメージを面白く表現する。

 石渡彩「くもりの日」。ワンピースを着て座った少女。少女のようにも大人のようにも見える不思議な像である。膝を立てて、そこに両手を重ね、頰を置いている。内向的な、考えこんだ、メランコリックな女性の姿を面白く彫刻的に、ひとつの量の中に表現する。

 島田紘一呂「翔」。二匹の猫がつくられている。その骨格をピックアップして作者がつくりあげた、猫の疾走する像である。ほとんど彫刻の心棒のようなかたちにまで削りこまれている。背後の壁に映る影も面白い。

 大塚邦博「悠久―刻」。女性があぐらをかくように座って、その足のあいだに頭と両手を沈めている。山のように盛り上がった曲面を石膏によってつくる。量というもののもつ魅力。その量が女性の体になりながら丘のようでもあるというダブルイメージになっている面白さ。

 野路育子「雨の調べ」。少年がフードのついた上衣を着ている。その上半身が銅板によってつくられている。銅板をなめし、鍛金した結果である。叩くことによって独特のエネルギーがその中に充填されるようだ。その叩かれたフォルムが彫刻となると、静かなエネルギーとなってこちらに発信してくる。

 中山憲雄「マジシャン」。鉄をなめして叩き、それを溶かし、溶接した像である。馬の頭が人間の頭と重なり、帽子をかぶって、ピンと驢馬のような耳を伸ばしている。驢馬の耳をしたマジシャン。金属であるがゆえの独特の強さ。その強い材質感に囲まれたなかのこのイメージは、「マジシャン」という題名のようにきわめてミステリアスな雰囲気である。

〈野外彫刻〉

 千葉伸子「つかむ手」。エポキシ樹脂。二段、四段、六段、八段と板を重ねて、その八段目の上にキューブなフォルムを置き、そこから左手が伸びて球体を摑んでいるといったシュールなコンポジションである。不思議に強いイメージが発信してくる。心にふれてくるものがある。その内容はおそらく指のもつ不思議な人間的な力とその周りの抽象形態とのコラボというか、抽象形態によるイメージの連結だと思う。コンポジションが優れている。

 安田明長「Silent Language」ローマ賞。楕円状のフォルムを石でつくって、上方をカットしている。それによって閉じられた空間が外部と接触する。モニュマン性のある彫刻である。

 菅原二郎「内側のかたち 2014」。巨大な幹のようなものが柔らかく連結して、無限に続いていく。そんなコンポジションをカットして直方体の中に納めたような雰囲気。そして、その表面は赤く彩色されている。それを見ると、筆者には顕微鏡で眺めた血管の中の樹木のようなフォルムを連想するものがある。それはミニマムな世界の中にあらわれた巨大な血管の中の森であるが、そういった森のもつ根源的なイメージをこの抽象の中に作者は表現したと思うのである。

 宮澤光造「風は野に」。もこもことした雲のようなフォルムの上に、女の子がU字形のカーヴのようなフォルムとなって置かれている。両手を上に伸ばして体を曲げて、その両手は空に向かう鳥を抱えている。シンプルなフォルム。シンプルな動き。そのコントラストの中につくられた親密感のあるモニュマンである。

 市川明廣「森の中―ふわり―」。大理石であるが、虫が食ったように穴があいて、風化して、なにか時間のお化けの中からあらわれてきたようなイメージがある。その岩のようなフォルムの横に女性のヌードが彫られている。そして、上方には雲のようなフォルムが置かれている。インドには岩窟寺院があるが、その岩窟寺院の崖に彫られたフォルムをこの石の中につくりだそうとするかのような不思議な味わいがある。空間と同時に時間というもののもつ不思議さを彫るところからあらわれた独特のヴィジョンだと思う。そのためには、この虫の食ったようなフォルムが必要であったに違いない。実際にこの彫刻の周りを三百六十度回ると、そんなイメージがよく伝わってくる。

 漆山昌志「草原」会友賞。どこかロマネスクの彫刻を思うところがある。右に植物の枝を持ち、左に帽子を持ってワンピースを着た女性が横になっている。服から両足が出ているが、フォルムがクリアで、きわめてシンプルに造形されている。全体の量としての大きさと丘のようなフォルムがそのまま女性のフォルムに変じているところが面白い。石という素材が絶対的に必要な彫刻である。石がそのまま女性の体に変じて、優雅でエレガントな雰囲気で横たわっているような不思議な印象である。ロマネスクの彫刻の中に林檎に手を伸ばすイヴの像があるが、それをこの作品から連想した。

 前田耕成「結界」。直方体が二つ重なった階段、二段状のものに、岩を粗削りに彫ったフォルムが置かれている。滑らかなものとごつごつしたもの。人工的なものと自然。二つの石の形が対照され、禅問答のような不思議なイメージを発信する。いわば石庭の中の一部を彫刻としてピックアップしたような面白さと言ってよいかもしれない。

 豊田晴彦「母性―包むかたち―」。背中を曲げて両手を組んで横を向いた女性のフォルム。曲面を強調して、優しい夢のようなフォルムがつくられる。

 

第40回東京展

(9月9日〜9月15日/東京都美術館)

文/高山淳・編集部

1室

 磯崎式子「光へ Ⅰ」。鉛筆による陰影で描かれた神秘的な空間。宇宙に浮かぶ惑星から放たれたように、雪洞に似た物体が浮遊しながら近づいてきて、地上に降り立ち花を囲っている。モノクロームでありながら遠近をうまく表現していて、紙や花弁の薄い感触も伝わってくる。(編集部)

 原弘「014 内面空間」。下方から槍のようなフォルムが集積して伸びている。その上方には三角の形が何列か左右に繰り返されて、いってみれば、熊本のチブサンの装飾古墳を思わせる。その向こうに円弧を描く三角錐のようなフォルムが向きをそれぞれ変えながら上方に向かって揺れている。その揺れている様子と下方の整然とした集合して上方に鋭い切っ先のような三角錐を立てているフォルムとの対照が面白い。上方の揺れているようなフォルムは社会の激しい変革のなかに動揺する心持ちを表すようだ。それに対して下方の集合した槍のような穂先は一途な人間の内面を表徴するようだ。そして、そのあいだの装飾古墳ふうな三角形のフォルムの連続するかたちが、そんな人の心を鎮めるような強い呪術的な働きをするように思われる。心を表徴するフォルムを使いながら、現代人の心象を空間化する。(高山淳)

 阿部アヤ「床掛けのように」。二つのパネルを上下につなぎ、掛け軸に模した画面を作っている。和紙が二重に貼られていて、下層には墨による描写、上層には彩色された描写でグロリオサが描かれている。グロリオサ独特の赤と黄色の花が控えめながら強い印象を残し、ぼかしたような色彩が幻想的である。カラーとモノクロのバランスと調和がとれていて、心地の良い間のある作品である。(編集部)

 横前裕子「紫の上(源氏物語)」第40回記念展賞。縦長の四枚の作品によって構成されている。紫の上は源氏の永遠の恋人である藤壺の姪にあたる。藤壺の面影を宿した紫の上の少女時代に源氏は出会い、それを略奪するように自分の屋敷に連れ帰って育てる。左のリングの中には紫の上の美しさが静かに輝いている様子が表現されているようだ。そして、二番目のシーンは源氏と紫の上が結ばれるシーンのように思われる。柔らかな二つのフォルムが向かい合っている。上下している。そして三番目は、紫の上がほぼ正妻の位置を占めて、やがてそこへ明石の宮の娘が養女として連れてこられて、それを育てる幸福な時代の源氏と紫の上の生活の様子がそこに表現されているようだ。

 しかし、やがて朱雀帝から女三の宮の降嫁といった話があって、正妻ではあるが、実際の正妻とは異なる微妙な妻の立場の不安定さに動揺して、その心持ちを源氏は理解しない。そのすれ違いのなかに苦悩のままその生涯を終える。源氏と紫の上はすこし斜めに向かい合いながら、二つは触れ合っていず、やがてすれ違いのまま紫の上は亡くなり、亡くなったあとに気づいた源氏は後悔するといったストーリーを、このような円弧の中の抽象的な花びらの一片を組み合わせたり、円弧と直線によってできる不思議なフォルムによって表現する。背後の深い緑色はいわゆる緑青系の色彩と言ってよい。その中に金泥や銀泥、あるいは箔を散らした様子が、四つの円弧の中を通りながら、だんだんと頂点に向かい、やがて静かに下方に向かう、紫の上の運命をそこに表現して、深い余韻をもたらす。(高山淳)

2室

 菅原亘「神々の崩壊」奨励賞。キリストや仏陀などあらゆる神々が崩壊し、地上は終末を迎えようとしているのだろうか。神々の間から鬼が現れ、虚ろな神々とは対称的に鋭い眼差しを向けている。その鬼の前には僧侶が座り、祈りを捧げる。神も仏も信じられないような事柄が起こり続ける現代社会への嘆きが、複雑な感情を湛えた鬼の形相に込められている。明解な描写による迫力のある画面である。 (編集部)

 後藤寿朖「たけくらべ A」。ヒビの入った大きな卵が画面の左側に置かれている。卵には大きな羽が一つ右から左に突き刺さっている。そしてその上にもう一つの小さな卵が乗っていて、さらに色の付いた羽がそこに乗っかっている。そのどれもが傷つきながらも微妙なバランスで関係性を保っている。それは、現代社会における人間関係、あるいは一人の人間の精神のバランスを想起させる。確かな筆力でそれらをクリアに描きながら、強いイメージの力によって作品に説得力を持たせている。(編集部)

3室

 西浦絵里「canon -Primitiva-」。黒い楕円形のフォルムから赤い空間が広がり、旋回するように様々な線や色面が漂っている。一つの部屋を上方から眺めているような感覚もあり、そこにリズム、主旋律、副旋律と徐々に音の層が重ねられているようなイメージがある。右下の白いL字型の色面から左上の白、そして青緑色の四角い色面につながるラインが画面をうまく支えている。(編集部)

 荒木一男「LaFu・2014」優秀賞。背中を丸めてうずくまる裸婦の姿。背中から臀部にかけて体の量感が巧みに表現されている。鼻から上を隠すように髪を垂らしているが、その表情に不思議な色気がある。髪は、画面の周囲にモデリングされている菊の花へと変化するように描かれる。美しい物の怪の世界とでも言えるようなユニークな作品である。(編集部)

4室

 明輪勇作「公園」。空の青と公園の緑が真ん中の黄色に向かっていくようなグラデーションが画面全体を包み込んでいる。点描のような細かいタッチによる描写であり、近景から遠景に向かう景色の表情が変化に富んでいる。昼下がりのほのぼのとした公園の一場面によって、都会の刺々しい空気が緑の中に溶け込んでいくようだ。(編集部)

22室

 齋藤鐵心「空間演出方そのⅢ(立体と平面の狭間で)」。両脇の白く細長いパネルには、様々な幾何学的な形状をしたパーツが複雑に組み合わされていて、中央の黒いパネルには、同様のパーツと赤いワイヤーが組み込まれている。それらの間には大きく白い空間の空けられた平滑なパネルがあり、ビル群の谷間を思わせるように矩形が描かれている。立体作品は、鑑賞する角度によって様々な表情を見せるが、この作品では、光の当たる角度によって様々な形の影が平滑なパネルに投影され、様々な表情を見せることになる。光の立体化と形容できそうな意欲作である。(編集部)

 万代進「生きる・1962年の記憶」。一九六二年に三十六年ぶりに噴火した十勝岳の噴煙が画面いっぱいに描き出されている。濛々と立ち昇る煙を目の当たりにした画家は当時十八歳だった。それを未だに鮮やかに記憶している。深い暗色の色彩でその噴煙を描きながら、所々に炎が入り交じって明るくなっている。それが作品に微細なテンポと抑揚を作り出している。横長の画面いっぱいにその煙だけを描き込んでいるが、イメージの中で画家はその噴煙にかなり接近しているようだ。だからこその臨場感、ドラマチックな情感が生み出されている。大自然の偉大さ、恐ろしさが鑑賞者の眼前に迫ってくる。(編集部)

 青柳芳夫「上原家族」。鮮やかな色彩で彩られた画面の中央に五人家族が描かれている。周辺はサバンナを思わせる剝き出しの大地で、三十種類はいるかと思われる獣や鳥たちが所狭しと配置されている。モチーフの一つ一つが高い描写力によって描き込まれているのだが、不思議なまとまりをもって大画面に馴染んでいる。大きな二輪の造花の花びらや、父親のジーンズなど、青い色彩が画面に安定感をもたらす。ライフルや拳銃、戦車なども描かれているのだが、家族の表情は平和で穏やかである。それがこの浮世離れした世界に独特のユーモアを与え、どことなく楽園的なイメージを呼び込んでいる。(編集部)

 井上利哉「GENJI(れんぼ)」。井上利哉は二点出品である。同じ「GENJI」のシリーズ。「れんぼ」は、柔らかな紫色を中心とした色彩である。恋する人の浮遊するような心のときめきを、その色彩によって表現している。紫のフォルムが連続して左奥のほうに続いていくが、その様子は冠をつけた男性を後ろから見た姿が中にあるように見えるが、そうでないのかもわからない。ほとんど抽象的なフォルムの連続によるのだが、その紫の中に黄色や緑が入れられている。連続するフォルムの浮遊感。そして、そこから右上方に向かって、斜めに不定形のフォルムがゆらゆらと揺れるように浮遊していく。また、そのそばの明るい空間、グレーであるが、それも人を恋う心持ちの月明かりの中の心象風景のようなイメージである。また、その上方にセルリアン系の青が入れられているのも、恋する人の切ない純粋な心象を表現するのだろうか。

 それに対して「GENJI(そねみ)」は、赤を主調色として、ある内向していく中で拮抗する力を表すようだ。手前に座っている男。その向こうに立っている女性のフォルムが筆者には見えるのだが、それも定かではない。背後に几帳がある。几帳の向こうにもう一人の人間の顔らしきものが浮かぶ。赤という激しい情念を表す色彩に取り囲まれて、嫉妬という強い感情が表現される。どうしてもその嫉妬の情は抑え切れないといった様子で、赤のヴァリエーションの中に内向するベクトルによって表現される。中心の、筆者には立っている女性に見えるのだが、そのフォルムの身悶えするようなかたちも、その意味の心象風景と言ってよい。(高山淳)

第10回世界絵画大賞展

(9月9日〜9月15日/東京都美術館)

文/編集部

1室

 大越みさき「つみき」大賞。東日本大震災による津波が多くの材木を海岸に置き去りにした。その様子を独特の視点でドラマチックに描き出している。特に手前にある流木が一際大きく描かれているところが印象的である。遠景では細やかにそれらが積み重なっていく。そして画面を満たすしーんとした気配。震災に対する感情をあえて排除し、一つの絵画として演出された無言劇のような、シュールなおもしろさがある。

2室

 古暮千恵子「イノセント」優秀賞。川縁で遊ぶ子供たちを俯瞰するように描いている。細やかに描きながら、両岸の表現はどこか抽象的である。明るい陽射しと川面の動きを実に繊細に描く表現力に特に注目する。

3室

 西山万智「気配、夕暮」優秀賞。朱に染まった街の路地裏に一匹の猫が歩いている。左側の店からは明かりが漏れている。淡々とシンプルに描きながら、深い情感を作品に引き寄せているところに特徴がある。鑑賞者それぞれにストーリーをイメージさせるような、独特の味わい深さがある。

 伊藤千恵「顔」絹谷幸二賞。画面に大きく顔の一部が描かれている。鼻と頰と口。その大胆な画面構成とクセのある描写にオリジナリティがある。歯茎や頰の輪郭が水色になっているなどの効果的な表現もあり。勢いだけでなく綿密に描いている。独特の絵画性が魅力である。

4室

 吉田征輝「曖昧な記憶の風景 Ⅱ」東京都知事賞。浅草寺の雷門から境内までの仲見世通りを上方から描いている。左から右奥に向かって徐々に視点を変化させているが、それが違和感なくしっかりと描き出されている。それを表現するイメージの強さと構成力がこの作品を支えている。

5室

 徳田景「aviary」遠藤彰子賞。室内に立つ女性の腰から下が鳥籠になっている。右側の窓は開けられていて、小鳥が一羽とまっている。籠に入れられるべき鳥は外を自由に飛び、人間が囲われている。そういったやわらかなアイロニーが確かなデッサン力によって描き出されている。女性の顔が見えないところが、逆に汎用性というか、鑑賞者の共感を引き寄せているようで興味深い。

6室

 吉田諭史「Summer rain」本江邦夫賞。郊外の住宅街の情景。先程まで雨がふっていたようで、地面はしっとりとしている。手前は地面で、中景に家屋、遠景に夕刻を思わせる明るさが見える。クリアな描写でそういった情景を描き出しながら、繊細な情感を作品に引き寄せている。蒸すような湿度までもイメージさせる表現力に特に注目する。

第78回新制作展

(9月17日〜9月29日/国立新美術館)

文/高山淳

2階─1室

 有田守成「時間(変動 '14)」。画家は国鉄時代に機関車の経験をしている。下方に銀色に光る線路が地平線まで続いている様子は、そこから来ている。しかし、このように見ると、機関車の運転士も恐ろしい職業であることがわかる。はるかかなたまでこのようにダイナミックに広がっていく線路を通って、あれだけの重量を運転する仕事。そこから人類の未来とか過去といったイメージが引き寄せられた。今回は、その上方に激しい渦があらわれている。その渦の中に人間の顔が取り囲まれて、空の上方に持っていかれる。不気味な世界である。この竜巻のようなフォルムは、人々を囲んでどこへ連れていくのだろうか。死の世界がこの青い空間の向こうに接近してきているような、不思議な雰囲気がある。左のほうにも暗いブラックホールの空間があらわれている。そのブラックホールの果てには何があるのだろうか。人々は目をつぶって竜巻に巻かれて、そのまま移動しつつある。一見不吉な画面のように見えるのだが、じっと見ていると、この竜巻は深い自然の摂理の使者のような雰囲気で、静かに人間たちを運ぶ存在のようにも感じられる。日本は老齢化社会が進行しているが、そういったなかでの老年の生と死のイメージを鮮やかに表現したと解釈すると面白いかもしれない。

 松尾萬里「赤の椅子」。十数人の女性たちが立っている。左のほうを向いていると思ったら、右向きの人がいて、また右向きがいて、左向きの人、右向きの人。なにか渾沌とした波のような渦のような動きが、この女性群像にあらわれる。それを赤い色彩が取り巻く。まるで、フンデルトワッサーのあの旋回する構図に近い。不思議な生命の時間が流れるなかに、白い顔をした女性たちが集合して、不思議なメロディを奏でる。

 蛭田均「追憶の螺旋」。女性が肘掛け椅子に座っている。その背後に仰向けに寝ている女性がいる。その上方に二つの巨大なアンモナイトのようなフォルムがあらわれている。そばには赤い針金によってできた女性のトルソがあって、中に犬が飼われている。アンモナイトの螺旋は、時間というものの象徴のように置かれている。時間はゆるやかに動いていく。なんとも言えぬアンニュイな雰囲気が漂う。それを引き締めるかのような赤い線でできたマネキンのトルソ。トランプがそこに挟まれている。全体の黄金色の調子のなかの深い陰影。少女はだんだんと時間の中を成長していく。そんなイメージを手前の円形の絵の中の女性が反射する。

 平田智香「マリオネット達」。電車の中の男女。ホームには頭のないマネキンの人間たちや女性たちがいて、花束を持っている。夜の時間。乗客の前に不思議な人間たちが集まってきて、過去の記憶を呼び戻そうとするかのようだ。そこに旋律があらわれる。それはマリオネットで、上方から伸びている線によって操られている。ホームの頭のない女性たちもそうである。この糸を繰っているのは、もちろん作者である。通常の電車に乗っている少年や少女を中心にしながら、そこからイメージがどんどん広がっていって、夜の招待客が画面にあらわれる。その意味では、博物館が夜になってみんな活性化して動きはじめる、ナイトミュージアムのようなイメージの展開が感じられる。

 中井英夫「and from now」。ずっと作者は喪失の深い悲しみの絵を描いてきたのだが、この作品を見ると、いまから新しく人生が始まるといった明るい雰囲気があらわれた。時計の文字盤が背景にあって、手前に木馬や、たくさんの小さなものたちがそこに置かれている。ウサギがラッパを吹いている。その向こうにあらわれている女性の人形は、亡くなった妻の像なのだろうか。妻も祝福しているようだ。時間は四時四分。黄金色の色彩の中に、この画家らしいクリアなそれぞれのフォルムが生き生きとして集合し、お互いが合唱しながら前に向かって進んでいく。

 金本啓子「ストールの女(月夜の花火)」。オレンジや赤の色彩が強烈である。大画面の中に灰白色のバックに赤い色彩が、まるで命そのもののように動いていく。巨大な光が画面の中に燃えている。実はその赤は右に歩んでいく女性のコートであり、オレンジはそのフードのようなものである。そして、左足を前に出したその下にもオレンジ色の色彩が置かれていて、それを右の木馬が眺めている。いずれにしても、花火のようなフォルムがその周りにあらわれ、花柄の文様と同時に色彩による生命賛歌ともいうべき力がヴィヴィッドに表現される。

 菅沼光児「Granite」。グラニットとは花崗岩のことである。浅い水が流れてきている。山の中の光景である。花崗岩がごろごろと転がっている。そこに光が当たる。独特の色彩がここにあらわれる。きらきらとその光が石に反射しながら輝く。水の深い緑の色彩。周りの樹木の緑。このような谷川を描いて、モダンな色彩表現の魅力に注目した。

2階─2室

 鶴見雅夫「THE FOUNDER ―アトリエの軌跡―綾―B」。正方形の画面。紫の中に円弧が繰り返しあらわれる。その中に深いスカイブルーのような色彩。曲線がピンクによってつけられ、全体でリズムが生まれる。穏やかな、すこしアンニュイなリズムを壊すように、画面の下辺から直線の白いストライプが立ち上がる。その先端は斜めに切られている。それと呼応するように三つの黄土色のストライプ。白い立ち上がるストライプの両側は紫と赤の色面である。緑が一部入れられている。抵抗するものがあって、抵抗するものと向かい合いながら、画家は一つの旋律をつくっていく。まさにファウンダー。創設者である。絵を描くことが発見であり発明であるような抽象表現に注目した。

 佐野ぬい「シティーブルーのテーマ」。時が移ろうにしたがって光と影が動いていく。それが色彩によって表現される。明るいオレンジの希望に満ちた心理的な色彩。暗い夜を思わせるようなブルー。スカイブルーのような三角形の色彩を含んだ紫色とブルー。その果てにある赤い色彩。自然と人間とが一体化する。人間と周りとの環境が区別されない。一体化する中に時が移ろい、自然が生成するように、人も変化していく。そんな深い時空間が画面に表現される。色彩のもつ力が実に魅力である。

2階─3室

 太田國廣「悠久の異邦人」。高松塚古墳に出てくる女性たちとキトラ古墳の四神図とを画面の中に招いている。背後は富士山である。その女性たちはまるでコノハナサクヤヒメのような雰囲気で、数人が集まっている。東西南北を表す亀と龍と鳥と虎の四神図がそれを取り巻き、あいだにうねるようなカーヴするフォルムがあらわれて、エネルギッシュでパワフルな空間が生まれる。日月がそこに引き寄せられ、円形が繰り返し描かれ、渦巻きもまた引き寄せられる。いわば図像的な元型的なものを画面に引き寄せ、構成し、力強い動きをつくりだす。金が見事に使われている。金をこのように使いこなすには、なかなかの修練が要るだろう。そして、画面の中心から轟きわたるような動き、生気が生まれる。

 石阪春生「三角形の椅子と人形(女のいる風景)」。今回は十字形の構図になっている。下方中心にギリシャの神殿の柱を思わせるようなフォルムがあるが、実はそれは縞のある水指である。それに対して左右に石垣が煉瓦を積んだように置かれている。中心に若い女性を置いて、左右に三人の人形が配されている。女性は大きく、左右の三人の人形は脇士のように描かれている。女性のフォルムは白とグレーのギャザーのあるドレスで、その色彩と下方の白い、前述した水指とは色彩的に連携していく。石垣とそのグレーの色彩によって、十字形の構図が生まれる。くわえて、女性の姿が大きく、左右の人間の前に出ているために、柱に支えられて、この女性が大きく描かれているような構図になっている。その意味では、この女性を荘厳する祭壇図のようなコンポジションと言ってよいかもしれない。手前に木製の椅子があり、椅子の上には桃がある。もう一つのところには三角形の椅子が描かれている。しっかりとした、向かって左の椅子と、不安定な三角形の椅子とが、この白い柱のような水差しの両側に置かれているのも、構成の妙である。周りにドライフラワーが囲むように描かれ、蔓のようなフォルムがあらわれ、布のしわも含めて、背後の紫陽花のような不思議な植物とつながる。周りのドライフラワーが、この女性と三人の人形や前述した柱のようなフォルムを包みこむように、旋回するように描かれているところも不思議である。いわば女性と人形を荘厳する、渦を巻く曼陀羅のようなコンポジションになっている。すこし中心をずらしながら、ゆるやかに旋回する動きは力強い。キャンバスの中に、画家はフォルムをつくりながらだんだんと増殖し、うねるような動きがあらわれ、今回は十字と円という、いわば元型的なコンポジションをつくりだした。ドライフラワーはドライフラワーであるがゆえに永遠である。枯れたり腐ったりするものはすべて排除され、画家のイメージのなかで生かされる存在。すべてがドライフラワー化され画面に配されるのだが、しかし、女性の顔や人形の顔立ち、体のいかに瑞々しいことか。現実の時間はとめられ、夢想の時間が流れていく。画家の魔法によって、覚醒と眠りの中間のコンディションのなかにイメージは成長し増殖していく。

 宮田保史「伊太利亜 2014―人魚伝説のあるポジターノ」。ポジターノはイタリアの西、地中海に面した観光地の一つである。そばには有名なアマルフィーという街がある。そのホテルのような建物や広場が白く描かれ、それを赤い色彩が囲む。しっとりとした黄土と緑の色彩がその周りをもう一回囲んでいる。その色彩の重なりと重層的な表現によって空間が生まれる。海と空とが一体化した様子で、その周りに描かれている。ちょうど一つの中心から周りに円弧を描きながら、それが空間をつくっていくという構成は、一種曼陀羅的と言ってよいかもしれない。ねっとりとした輝きのある色彩も魅力。

 金森宰司「ライフ『駆け引き』」。青い半円形のテーブルの向こうに二人の女性がいる。ずいぶん太った体で、頭が小さく、二人は会話をしている。右の女性は手を差し伸べている。衣装が面白く、向かって右の女性の黒い色彩の中の茶色い飛び飛びの色彩。左の黒の中の白いあみだくじのようなフォルム。その前の青いクロスは空を思わせる。色彩とフォルムがお互いにリンクし、不思議なハーモニーを奏でる。たとえばボテロも太った女性を描くけれども、それは彫刻的な強さがある。それに対して、ここにある太った女性のフォルムの扱いは、きわめて平面的で、すこし浮世絵の風俗絵巻を思わせるような、そんなお洒落な感覚があらわれているところが、いかにも日本人のもつ感性と言ってよい。

 佐藤泰生「Café・それぞれ」。カフェにいる人々をオールオーバーに表現している。いわゆる遠近感を無視して、フラットに平面的に人間を扱っている。左のほうのテーブルには五人の男女。右のほうのカウンターに三人の女性たち。その向こうにはサービスの男が二人ほどいる。カウンターの曲がった向こう側にはピアノを弾く人がいて、後ろ側に二人の女性がいる。そのそばにももう一人のウェイターがいる。床は赤で彩られて、緑、黄色、青、様々な色彩が散りばめられて、まるでお祭りのような雰囲気である。色彩が燃え、ハーモナイズする。命の歌をうたう。フォルムはまるで炎のようだ。デフォルメが空間と一体化しながら、画面の中で燃え上がりながら、またふと見ると、しっかりとしたデッサンの中にその色彩はそのフォルムに取り込まれる。下方に猫が上を向きながらゆっくりと動いている様子が、実にユニークなアクセントになっている。

 田澤茂「日本人の神々 2」。田澤茂は三点対である。「日本人の神々1」「2」「3」。中心に赤富士を置き、左右に黒い富士を置いている。そこには死んだ人も生きている人も神様も、あらゆるものが集合して、日本人のもつベーシックなエネルギッシュな宗教感覚ともいうべき神仏習合的な力があらわれる。中心の赤富士の下のフォルムであるが、上方に風神雷神があらわれ、下方にはエビスさまや鯛を運ぶ男や楽器を奏する弁天、そして中心には神輿があらわれている。鬼が大きな団扇で仰ぎ、人々がそれを担いで手前に歩いてくる。周りはグレーの中の黒と白の空間で、羅漢のようなもの、不動、人間、野仏。いわば億兆といった無限の数の魂がここに表現され、お互いが響き合い、動き、明るい波動をつくりだす。そんな中にしんしんとした死の気配もあらわれる。両側の富士は死の気配で、手前の赤富士が生であれば、両方の黒い影になった富士はあちらの世界と言ってよいかもしれない。いわゆる曼陀羅は金剛界と胎蔵界の二つ、地上と天空の二つからなっているが、この富士三図は生と死、二つの死に囲まれた生の表現としての三幅対となっているのも、見事な構想と言ってよい。とくに「3」のほうはモノトーン一色で、斜めに強い動きのなかに富士があらわれる。「1」のほうには十字形のフォルムの上に富士があらわれ、そこには死の中から朗々とした音楽を奏でるように、色彩によって弁天や仁王や大黒があらわれ、「2」の富士の中の一部のフォルムは「1」の黒い背景の中に拡大して描かれて、三点はそのような連続した動きの中に構成されているのも、構成の妙と言ってよい。

 松浦安弘「夕星」。手前に砂漠が広がっている。低い山が中景の両側にある。その向こうにはグレーの山があって、三方向の山に囲まれた、不思議な聖地のようなイメージが砂漠の向こうにある。その上に空が広がっている。黄金色の光が地面の上にあらわれ、目を上方に転ずると青い空で、刻々と日が落ち、夕方に向かう時刻である。そこに一つの流れ星が描かれる。青からピンクにわたる細長い軸によって、青い空を背景にして流星があらわれる。実にロマンティックで美しい魅力的なイメージである。この流れ星を取り巻く青から黄色、紫などの色彩と空間は深い。それに対して地上は輝いている。地上の輝きの頂点に星が流れるのだろうか。画家のもつ詩人的な感性によってつくりだされた見事なコンポジションと言ってよい。

 鍋島正一「孤島の教会」。五島列島の隠れキリシタンのつくった教会が上方に聳えている。下方には石垣と草原。そこには鹿が点々と立っている。そんな情景が、独特の粘着力のあるマチエールによって表現されている。空を見ると、雲が動いていて、刻々と時間が過ぎていく。そんなムーヴマンも、この作品の魅力。五島列島の野崎島にあるカトリックの聖堂である。長崎県の有形文化財に指定されている。

 馬緤紀子「いのち  2014─2」。少女の上半身が描かれている。不思議なことに、少女の顔の前には地面を切り取ったものがフォルムとしてあらわれ、樹木の枝や根っこがこの女性を取り巻いている。額のあたりにはうねうねとした畑のようなフォルムがあらわれている。髪も畝になっている。両手で根の一部を持っている。自然の表徴としての女性である。そして、その女性はいまよみがえろうとしている。地震や津波があって人も死んだ。大災害があったが、そういった不幸なところからもう一度命がよみがえろうとする。自然の癒そうとするかのような刻々としたその動きが擬人化され、このユニークなコンポジションの中に表現される。頭の両側に二つの若葉が伸びているのも再生のシンボルである。

2階─4室

 村山容子「風の詩 '14─Ⅰ」。黒いバックに赤いフォルムが立ち上がってくる。これまでは夢想的な空間の中に広がっていく不思議なフォルム。それはもう一点のほうの白い平面の向こうに紫色の光に包まれた赤い物象、そして円形のフォルム、黒と赤と白の世界と関係するのだが、今回はその遠景から中景に、垂直に立ち上がってくる風景があらわれた。それはきらびやかで時間を超越した存在のようだ。夢想の中にあらわれてきた不思議な街。エキゾティックでもあるし、懐かしくもある街。しかも、不思議な霧の中に表現されている。赤の中に紫やバイオレットなども入れられて、独特の柔らかなトーンの中にこの建物群は表現されている。そして黒い空間のいちばん手前には、不思議な風の軌跡のような赤みを帯びたグレーのフォルムが、斜めに、あるいは左右に描かれている。黒の中に眠っている街。心の内部にある宮殿。そんなものがイノセントな元型的な姿で黒い空間に立ち上がってきた。画家は詩人と言ってよい。その詩の源泉のところにある不思議な風景。一種大陸的でもある。画家は朝鮮に生まれ育ったそうだが、大陸のもつきらびやかな広がり、そのようなイメージもこの絵の中に感じられる。不思議な風が吹いている。時間の風だろうか。

 加藤貞子「先達のうた」。下方の男性が亡くなったことに対する供養のようだ。飛天が雲の上を飛んで、楽器を奏している。滝が癒すように下りてきているが、二枚のキャンバスによって、上方に不動明王と二人の童子が描かれている。その下りてきた水は男性のそばを流れている。画家独特の一つひとつのクリアなフォルムを使いこなしながら、深い鎮魂の世界を表現する。

 荒井茂雄「祝宴の後」。荒井茂雄は三点出品である。たとえば「祝宴の後」では、おもちゃのタイヤやチューブなどがコラージュされ、あいだに黒と黄色の綱がカーヴしながら置かれている。バックは黒。祝宴のあとのなにか寂しいようなパッションの余韻が、しぜんと画面から感じられる。向かって左のほうは〝祝宴〟で、円形の様々な集められたものたちがオールオーバーに貼られて、そのあいだに小さなチューブなどが置かれて、まさに祝宴の最中の状況。〝祝宴の前〟は、戦車のベルトのようなものが下方に置かれているのがポイントで、ひとつの準備をしている最中のイメージ。そして、中心の「祝宴の後」の余韻の表現。それらがすべてレディーメードのものの部品をコラージュすることによって表現されているところに驚く。

 加藤鉦次「懐かしい未来―祭り―」。衣冠束帯の男が座って水の中を船に乗って動いている。右のほうには松の木があって、そこを、いわゆる松浦屛風に出てくるような女性たちが歩んでいる。右下にはバーのカウンターにいる女性。中心にはあずまや。あずまやの下では二人の結婚式が行われているようだ。かつて存在したものが、画家のアレンジによってこの空間の中に生かされる。数百年の中の出来事、あるいは美術品の中からアレンジされたものが集合し、独特の霊的な空間があらわれる。

 伊藤康夫「ARCADIA〈光波の部屋〉」。少女を抱く母親。そこに光が差し込む。少女の手から帯が伸びて、白馬の首にかかっている。斜光線は窓の様子を映し出し、窓の外に向かって少年がいる姿があらわれる。アルカディアとは理想郷という意味だが、聖母子像のイメージ。室内の母と子の姿とそれを照らし出す温かなオレンジ色の光が、その一つの理想郷のようだ。しかし、倒れた木馬につながれた帯とその帯の先が少女の手首に巻きついているのが、なにか痛々しい。母親はこの少女を癒そうとするかのようだ。空の向こうに向かって手を上げているのは少年のようで、なにか無限の前に腕を振るようなイメージもあらわれる。光の反転。光による癒し。しかし、現実の傷は徐々にその中に侵入しつつあるような、現代的な不安感もそこに感じられる。

2階─5室

 坂本康男「落葉 Ⅰ」。井戸の上に木の枝で柵がつくられている。落ち葉が積もっている。暗い空洞の井戸。枝と太い幹。樹木を切り、画面の中に配しながら、不思議なノクターンのようなイメージをつくる。植物的な生命力を画面に生かす。

 木滑美恵「闇―O氏に捧げる詩篇140」。モダンダンスを思わせる。舞台の上で踊る男女のダンサーと指導者。手前の床には三人の男女が横になって、くねくねと蛇のような動きをしている。そんな群像表現である。人間の優れたフォルムの扱いに注目した。

2階─6室

 奥村真美「おもちゃ箱」。背後は市松状になって、ピンクや紫、青などの色面。帯の文様なども置かれている。その上に牡丹の花が描かれ、それを背景にして着物を着た女性が坐っている。片肘を立てて、すこし体から着物がずれている様子。優れた写実力を中心として、日本人のもつ美意識を探究する。

 石井芙沙子「中世のまち(太陽のめぐみ)」。色彩家である。台の上にアーティチョークやトマト、様々な果実がたくさん置かれている。背後の中世の街のような建物。黄色、グレー、赤、ブルーなど。果実は光を中に含んだような色彩で捉えられ、構成される。

 立畠裕子「記憶の外 Ⅱ」。マンドリンを持つ女性。そばには本を持つ男性がいる。そばに四人の子供たちがそれぞれのしぐさで、ホルンを持っていたり、虎の上に乗っていたり、ぼんやりしていたりする。後ろから不思議な樹木が伸びている。それを眺めているもう一人の青年。神話的な物語をテーマにして描いてきたが、今回はそれぞれが実にばらばらで、不思議な群像になっている。「記憶の外」という題名だが、若い夫婦と四人の子供。そしてその若い夫婦と血縁関係にあるような男性の七人が円弧の中に描かれているが、それぞれがそれぞれの勝手なポーズで、その外側の自然のもつ幻想感といったものが逆に浮かび上がってくるようだ。その自然の幻想感の頂点として、白虎にまたがる白い天使といった不思議なコンポジション。

 清水邦子「日々是好日―Ⅰ」。子供がポップコーンをばらまいている。そのフォルムが面白い。手前には若い母親が赤いキャミソールをつけて上向きに寝ている。テラスの向こうに白い建物が描かれる。視点を変えながら、一種キュービックに対象を捉える。フォルムの力に注目。

 椎名みどり「夢の中の日常 Ⅱ(リンゴ売)」。石を敷いた広場に白いクロスを掛けた食卓があらわれ、そこにはサケが置かれ、それを配達する猫の頭をしたサービスの女性。手前には子供を抱く母親。チェロやヴァイオリンを持つ少女。そばに少年が林檎を抱いて遠くを眺めている。後ろでは男女がタンゴのような曲を踊っている。そんな広場の上の幻想を描く。後ろに松葉杖をついた傷病兵のようなフォルムのあらわれているところが、脇役として優れた効果を上げている。

 松本直子「プールサイド」。円形のプールの中の水は緑色に近い青。ビキニ姿の若い女性。犬も中で泳いでいる。そこに立って鏡を見ている白く髪を染めた女性。手前に水中グラスを持って歩いている少女はサメの姿をした浮き輪を持っている。赤い帽子が面白いアクセントで、赤い水中グラスと響き合う。プールの周りも赤が使われている。そのそばに球の上に足をのせて人の上体はパラソルの中。いずれにしても、思い思いの人々がのんびりとこのプールサイドで自由気ままな姿をしている。そんなノンシャランな姿を、真夏のベージュの色彩と青緑の水の色彩をベースにして表現する。プールの周りの幻想ともいうべきイメージ。画家のつくりだしたイメージの世界が不思議な活力をもってあらわれ、鑑賞者を誘う。

2階─7室

 肥後勉「光と空間、駅」。新宿駅とか東京駅の大きなホーム。たくさんの人々がいろいろなポーズをしている。左には緑の電車が来ている。右は電車を待っている。コンクリートの床が水に濡れたように独特のタッチのなかに表現される。その床にはなにか不安な心持ちがあらわれる。人々はそれぞれの表情で自分自身のなかに籠もっている。一人でぼんやりとその人間のボディの中に存在するが、プラットホームの表面には徐々に不安な不思議な禍々しいものがあらわれつつある。そんな様子を淡々とした具象的な筆力で表現する。

 竹本義子「キッチンの詩 Ⅱ」絵画部賞。大きなテーブルの上でアジと格闘する少年。お母さんがその子供の上に覆いかぶさるように指導している。手前の若い母親はお皿の中に卵を五つほど割って搔き混ぜようしている。それを少年が眺めている。そういったキッチンの仕事のシャドーのように、右のほうに巨大なタコが現れた。黒いタコがうねうねと動いている。それを、画面の右端の白いテーブルすれすれのところに顔を置いて眺めている少女がいる。キッチン物語と言ってよいだろうか。キッチンという料理をする場所。生き物を殺し、煮炊きをするところ。そこにあらわれてくる現実を、ユニークな視点のなかに表現する。

 藤川妃都美「はるがきた!」。高速道路が地下に潜りつつある。高速道路の車より大きなカエルが、反対車線の柵を越えて顔を出す。天井に巨大なカタツムリが現れる。背後は団地である。こういったイメージは内田百閒の小説にも描かれている。啓蟄といって春に地中の植物や生き物が動き出す、その生命力がこの都会の高速道路を壊しかねない雰囲気であらわれたのである。カタツムリの後ろにツクシが伸びている。作者はノンシャランに自由に、イメージをこの都会の光景の中にぶつけて、独特の面白さとパワーを獲得した。

 袋井芳子「Reflect-'14」。高層ビルが背後に描かれている。下方は白い横断歩道。ベージュの道路。黒い街灯。男たちは黒かグレーによって表現されて、しーんとした気配がある。都会というものの中にひとつのクラシックな美を作者は見つけた。幾何学的な美の中に白と黒の色彩で五、六人ほどの人間が描かれ、しっとりとした情感を醸し出す。

 後藤桂子「影」。ベランダの光景。洗濯物が翻って、影がそこにくっきりと捺されている。そばのプラスティックの簡易プールに水が溢れている。子供がそこで遊んでいる。サンダルがピンク色に輝いている。日常の一刻をポップに生き生きと表現する。

2階─8室

 田中亮平「ノスタルジィア」。ガードの上を赤い電車が走っている。その下がアーチ状にくり抜かれて、そこには路面電車が走っている。手前に電話ボックスがあって、その前に立つコート姿の男。右のほうの壁には手前にベンチがあって、新聞を読むソフト帽の男がいる。日本とヨーロッパがお互いにリンクしながら、不思議な光景があらわれる。平成というより、昭和の風景の趣があって、強いマチエールの中にイメージが徐々に画面の中にあらわれる。ガード下の光景というのは実に人間くさい。その人間くさい光景がそのままパリの光景とつながっている。そんなイメージの展開に注目した。

 奥田善章「汚された太陽」。ボールペンによる作品である。犬を抱えた太った女性。丸い井戸のようなフォルムが点々と遠景まである。福島の原発の汚染を暗示するような光景である。線による強い表現。

 石川由子「ある町の一日」。団地を上方から眺めている。団地がいくつもあって、屋上では盆踊りをやっているようだし、お祭りもやっている。窓の中にも人々が密集している。あいだに川がうねるように渡っている。日本の庶民の活力を生き生きと画面の上にうたいあげる。

2階─9室

 渡辺幸子「命 Ⅱ」。乳母車の影。建物のような、ビルの屋上のようなフォルムは、自動車の部品でもあるし、コンピューターの半導体的なフォルムにも見える。無機的な都会の光景。それはマクロな世界かミクロな世界か、二つにわたるイメージだが、その上に乳母車の影が動いていく。幼いいたいけな命のイメージがドライな現代の空間と重なる。そこにあらわれる衝撃。

 今崎順生「ANSERMET」。室内の空気の密度が高まり、やがて爆発寸前である。散乱するその周りのフォルム。じっと見ていると、爆発したあとの散乱した風景のようにも見える。

 葉山たみ子「時の風音 Ⅱ  ~トンネル~」。画面に接近すると、その壁画的なマチエールに驚く。そして、そこから植物の芽が突起してくるようなフォルムが点々と画面にあらわれ、上方には散る花びらのようなフォルムがあらわれる。中心にアーチ状のフォルム。時のトンネルを通じて記憶が徐々に手前にあらわれようとしているのだろうか。あるいは、時のトンネルから外を眺めようとしているのか。トンネルの中は、前述したように、突起した様々なものがそこに押されて、なにか異様な印象である。時の洞窟の中に作者はいて、その地面や壁や天井に一つひとつ点を打ちながら、何かの確認作業を行っている。不思議なニュアンスを醸し出す。

 大上美智子「風葬(A)」。鳥が数羽下りている。空を飛んでいる白い鳥や黒い鳥。ススキのような植物が風に靡いている。あいだにもっこりとしたものがある。右のほうは川原のようで、川原の洲の石の上に鳥がいる。「風葬」という題名を見ると、これは現代のあだし野の光景のようだ。手前は三途の川か。風は無明の風なのだろう。内的な世界、死の世界から現世を眺めているような不思議な味わい。

2階─10室

 大道寺里子「いつしか時は‥2」新作家賞。トウモロコシ畑が描かれている。その葉や茎を丁寧に描きながら、それを遠近感の中に表現する。その広がりの中に存在感があらわれる。また、光っている葉の部分も面白いが、影の部分にダークな闇のようなイメージがあらわれる。

 滝田一雄「室内風景(ポンタヴェン)」。ポンタヴェンとはフランスのブルターニュ地方の街の名前である。フランスふうなエスプリというか、エレガントな色彩のハーモニー。テーブルの上に花や果物が載っているが、それに重なるように女性が座っているフォルムが浮かび上がる。その後ろには、立って背中を見せて、振り向いた姿が見える。微妙にフォルムがお互いに関連しながら動いていく。右のほうには瓶や葡萄、植木鉢などが置かれている。紫や緑の中に同じ色彩の暗い部分と明るい部分が使われ、シルエットふうなフォルムがまた明暗の中に表現され、全体で独特のハーモニーをつくる。高音部と低音部の二つの旋律がお互いを追い掛けていくような、そのような音楽的な効果も感じられる。

 藤田憲一「サガシモノ」。少年や少女たちが懐中電灯を持ったり、手で床をひっくり返したり、引き出しをあけたりしながら、探し物をしている。中心から五人の男女が花びらのようにそのような動作をしている不思議なコンポジションである。中心のパソコンは壊れて、地球儀の中に不思議な記号のようなものが入れられ、メモが宙に浮かび上がる。パスワードという言葉も見える。パソコンの中での探し物を、人間のパントマイムによって表現しようとしているのだろうか。いずれにしても、クリアな人間のデフォルメしたフォルムの構成に注目。

2階─12室

 松木義三「子供の時間」。三十人ぐらいの子供たちが走っている。大きく旋回して輪になっている。それだけのコンポジションであるが、それをまともにこのように大画面に描くと、不思議な存在感があらわれる。手前の子供たちは半ズボンにTシャツで右に向かっている。後ろの子供はすこし距離をおいて、小さくなって右から左に向かっている。手前の女の子の髪の毛に朱色が点じられていて、同じ朱色が反対側に走る女の子に点じられている。何を意味するのだろうか。よく鳩の首に識別するための印をつけるが、何か識別するために朱色の色彩が髪に置かれているのだろうか。ナチュラルに見えて、そのような微妙な気配が画面に感じられる。無個性の子供たちの集団の中になにか個性的なものを追求しようとする、そんな不思議なニュアンスも感じられる。

 四宮敏行「卓上の会話」。大きな木の切り株がテーブルになっている。それに向かって膝をついたダミーのような人間。そっと人さし指を伸ばして、沈黙といった合図をしている。切り株の上には白い関節人形(ダミー)が座っている。その腿に頭のないもう一つの人形が仰向けに横たわる。そばの洗面器から足を出しているもう一つの人形も頭がない。後ろに大きなイヤホンを耳に当てた女性が現れている。その女性がこのダミーたちの動いている様子を観察して、その音を聴いているかのようだ。不思議な気配が画面に満ちている。テーブルの下には横たわったもう一人のダミーがいるようだ。茶褐色の地面が地平線まで続き、空はすこし緑がかった青。キリコの形而上絵画を思わせるところがある。イメージの中に深く入っていく。テーブルの上で行われていることが、このような不思議なダミーの演ずる無言劇に変容し、その中に一人の女性が現れて耳にイヤホンをしているのだが、それもまた一人のダミーかもわからない。人間による群像を描くより、人形同士の構成によって深く無意識の世界を表現しようとする。もう一点の作品では、扉の向こうは夜の世界で、その扉をあけてそっと昼の世界を眺めている人形がいるが、お互いのフォルムが関連しながら、全体で不思議なメロディをつくるような構成に感心する。

 島橋宗文「田園譜―植物的形象」。画家は三重県の鈴鹿サーキットのそばにアトリエをもっている。その周りの山や平野や湖などが繰り返し画面の中に構成される。今回は、画面の下方に青い色面が描かれ、それと呼応するように黒い色面が対置する。あいだに緑やグレーの色面。面白いのは、画面に接近するとわかるのだけれども、大きな葉がフロッタージュされていることだ。その葉のフロッタージュを見ると、この光景は掌の上にある光景のようにも感じられる。しかし、一見すると、広がりがあって、青は大地の中に空のイメージをはめこんだようなダイナミズムがある。それは水の広がりかもしれない。水と空とが一体化しながら、この山間の大地に侵入してくる。それに対して白い丘のようなフォルムが拮抗する。黒が二つの空間をつなげるようにあらわれてくる。また、それは周りの朱色の地面とリンクしながら、昼の光景と夜の光景の二つの色彩のようでもある。よく知った自分の周りの風景を掌の上に置いて眺め、ときに鳥の目になって空から眺め、あちらからこちらから眺めながら、強いコンポジションをつくる。そのコンポジションの動的なダイナミズムの中に、今回はそっと郷里の植物の大きな葉をフロッタージュした。マクロなものとミクロなものとのあいだを行き来しながら、ひとつの詩のある空間をつくろうとするかのようだ。

 成尾勝己「ハカセの宇宙パレード」。赤い椅子に青年が座って紐を持っているが、その先には犬や人形がいる。周りに漫画のキャラクターなどが集合して、それぞれのポーズをしている。その世界がミクロな頭の中の世界であると暗示するように、右のほうに巨大な人間の足があらわれる。画家のアトリエの中での夢想を面白く視覚化する。

 小林一彦「ヒトヲクッタハナシ」。ダイナミックな動的な空間である。上方で女性の足が巨大な唇の中に入れられている。下方では、その中にほとんど胴体の入れられた世界。必死になって逃げる男。右のほうでは、死んだ人間をまるで四つ足の動物を背負うように持って立つ男。犬が激しくおののいている。緑や青、黄色などの原色の中に動的な神話的な世界が表現される。

 木下和「邂逅の都―残輝・江波山桜―」。ソメイヨシノが満開である。画面の下辺からV字形に伸びていく巨大な幹がシルエットふうに表現されている。向こうに日がいま沈もうとしている。その巨大な太陽が輝いている。空間全体が赤く染まる。巨大な光り輝く太陽と赤く染まった空間の中に、ソメイヨシノの樹木と花がシルエットになって画面全体にオールオーバーにあらわれる。独特のコンポジションである。装飾性と時間性との見事な結合と言ってよい。

3階─1室

 小島隆三「封印された大地“永遠の愛”」。津波のあとのようだ。たくさんの人が亡くなった。その人々に対する深いレクイエム。画面の下方に船がある。船は生と死のあいだを行き来するもののようだ。そして、そこに銀色の鉛のようなもので記念碑がつくられ、左手の先に花が一輪摑まれている。そして、手前に男女が抱き合った像が描かれている。ブランクーシにキスする彫刻があるが、そこからも影響を受けているようだ。いずれにしても、独特のモニュマン的表現である。

 竹内一「音刻軸―ペンテコスタ―」。ペンテコスタとは、精霊降臨と呼ばれる新約聖書にあるエピソードの一つ。イエスの復活、昇天後、集まって祈っていた百二十人の信徒たちの上に神からの精霊が降ったという出来事のこと。および、その出来事を記念するキリスト教の祝祭日。板の上に七人の人が描かれている。それぞれの人の手と足が赤く、ただれたようになっている。「使徒言行録」一章八節によると、激しい風のような音が聞こえ、天から炎のような舌が一人一人の上に分かれて降った、集まって祈っていた信徒たちは精霊に満たされた、様々な国の言語で語り始めた、とあるが、その炎の舌のようでもあるし、キリストの十字架のイメージがその手足に描かれているようにも思う。作者はクリスチャンである。中心に柱が上まで伸びていて、キリストの磔刑のイメージと同時に癒しのイメージ、そして天から不思議な精霊が降りてきたイメージ。三つのイメージがこの作品には重なって、全体で独特のハーモニーがあらわれる。心の奥から歌われ合唱になるようだ。

 矢澤健太郎「イザナギイザナミ」。向かって左がイザナギ、右がイザナミだろう。イザナギノミコトとイザナミノミコトの国生みの神話ではなく、どうもイザナミがカグツチノカミを生んで亡くなって黄泉平坂の中に入っていったあとの問答からヒントを得ているようだ。二人は宙に浮いている。イザナギノミコトは雪の結晶のようなフォルムを持ってメッセージを発信している。それに対して、イザナミノミコトは雲のようなものの上に乗って、手からあやしい霊気のようなものを出している。下方に二つの三角形のフォルムがあり、左のフォルムには井戸のようなものがあって、そこから黒い煙がたなびいている。イザナミノミコトは黄泉国での自分の姿を見られて、これから千人の人を殺すと言うと、イザナギノミコトは千五百人の子供を生む語る、生と死の問答。千引岩を置いて二人は会話をする。そのダイナミックな『古事記』の人間的な世界を画家は表現する。いずれにしても、二人の人間のフォルムがすこし漫画的ではあるけれども、逆に漫画のもつ強い表現力を駆使したかのごとき不思議な強いイメージの表現である。

 田村研一「人生ゲーム  鎮魂行脚編」。F型のキャンバスを上下合わせて300号を超える大きさ。500号と言ってよいかもしれない。そこに異形の亀や虫、あるいは鳥、歯医者のメカが人間化したようなものなどが置かれている。それらのあいだに双六のような道がつけられ、現代の風俗が描かれる。病院のベッドに寝ている人もいれば、病気を告知されている人もいる。会話をする人。洗濯物を干す人。地面に座って笑っている少女。自動車。宅配便。山。コーラス。喧嘩。そういったものが縦横に描かれて、画家の筆力に目を見張る。部分部分を切ると4号ぐらいの画面になるだろう。それを切って横に並べてもそのまま見事な絵になるような筆力である。

 林純夫「スクエアな風景 2014」。横のF型、縦のF型を左右合わせて、そこに矩形や斜線を入れて、朗々たる空と光と花と大地のイメージを描く。

3階─2室

 田中直子「名護のピンプンガジマル」。沖縄の風景である。ガジュマルの根が圧倒的な存在感を示す。一本の巨大な木を人間のように描いている。300号ほどの大作になっている。中心に光が見える。緻密に存在を描き起こすそのパッションと、それによってあらわれるエネルギーに注目。

 岸宏士「クリスマス近く」。夜のパリの街。中心にシャンゼリゼ通り。向こうに凱旋門。建物は自由にデフォルメされ、暗い黄土や紺や緑の上に明るい赤や黄色、青などの色彩が点じられて、実に楽しい。空に黄色い雲が浮かんでいて、その下方に黄色い地面が海のように広がっている。手前の大通りには車が走っている。画家の絵を見ると、パリの街から見た感想を、一度作曲するように音楽に変えて、その一つひとつの音色を色面に変えて、フォルムに変えて、画面に配置したような趣がある。それほど、一種音楽的な感興を覚えるところが、この作者の特質であり優れているところである。その意味では、イメージとしてのリアリティであって、そのリアリティはそのまま音楽のもつ構築力ときわめて深い関係をもっていると思う。

 間中敏子「想 '014 Ⅰ」。四体のマネキン人形。頭のないものもあるし、足のないものもある。下方に足が上方を向いて十ほどある。「想」という題名のように、深い物思いのなかに時間が流れ、しんしんとした空間があらわれている。柔らかな光がそこに差し込んで、記憶のなかに鑑賞者を引き寄せる。

 桜井陽子「ONE SPACE ―残した言葉―」。散乱した地面の上に斜光線が差し込み、影を捺する。二つの白いカラーが鎮魂の花のようだ。大事件のあとの地面。その余韻のごとき空間。それを見事に地面の上に描く。

 辻井久子「栖の静物―2014」。テーブルの上がそのまま風景と化している。テーブルの上に木漏れ日の道があらわれ、そこに牛の頭があらわれる。右のほうには花が咲き、窓の向こうに影が見える。テーブルの上のものたちから入っていきながら、それがイリュージョンを呼び、風景や生き物を引き寄せ、それをコンポジションする。とくに今回は、その上にあらわれた光というものの性質、その独特のクオリティの高さに注目した。

 高堀正俊「子」。兄と妹。兄が十歳、妹は七歳ぐらいだろうか。その二人がグレーの土の上に立っている。後ろの壁も漆喰が壊れている様子。工事現場に立たせたようなイメージ。壁に人間のドローイングするような線描きのフォルムがあらわれている。裸の男の子と女の子。その周りの不思議な現在進行形の工事中のような空間。画家の筆力は、そのような場所に設定して二人の表情、柔らかな十歳ぐらいの男の子と七歳ぐらいの女の子の体を描きながら、その内面を透視しようとするかのようだ。つまり、現在進行形の工事中のようなものがそのまま、まだ未成熟な二人の子供の状態とも重なるということなのだろう。繊細で強い写実による表現である。

 小野仁良「オトノキオク・ナツノウツセミ」。二点出品だが、掲出した作品のほうが良い。昔の住居、特に農村では縁側を広くしてその外をガラス戸で密閉した。内側に障子を置いて、その縁側でもあり廊下でもあるスペースがゆとりの空間になった。そこに少女が座っている。ガラス戸の向こうには庭の緑が見える。この作品の面白いところは、その内側にもガラス戸を置いて、ガラス戸と障子の間には非現実の空間が現れる。内側のガラス戸には不思議な風景が映っている。記憶がそこに現れる。題名はカタカナだが、普通の日本語にすると「音の記憶・夏の空蝉」。自然と出入りできるような環境が昔の日本の農村の住居にはあった。その頃の思い出を具象的な表現のなかに、いわば迷路のような空間を作って万華鏡的に表現する。フォルムに対する強い感覚が、そのコンポジションを支えている。

 鈴木喜美子「足尾の今(Ⅰ)―2014―」。足尾銅山の跡。まだ太い煙突が残っている。左のほうには塀のようなものが残り、壁の一部が残り、入口が黒々と描かれている。それを囲む黄土色の地面。柔らかな地面はいま冬であるが、やがて春が来ると芽吹きが始まるのだろう。そんなものを背景にして、太い煙突の下方の入口は閉められているが、死体の焼却炉のようなイメージを感じる。それほど時間というものがお化けのようにこの足尾銅山の周りに揺曳して、そのお化けのような時間を画家はこの画面の中に表現したと思う。

 片山裕之「ある風景」。飛行機の骨のようなものが描かれている。模型飛行機を拡大化したようなもので、それが雑草の中にうずもれている。敗戦から六十九年たち、当時のことはこのように風化して錆びてしまった。野の草がそこに献じられている。悲しいモニュマンを、クリアなフォルムと構成によって表現する。

3階─4室

 脇本イサヲ「憬 Ⅰ」。テーブルの上が白い地面になり、そばに夜空があらわれる。白い地面の中にも夜空があらわれ、樹木がそこに生えてくる。空に星があらわれ、雪が降る。しんしんとした雰囲気である。キャンバスの上に様々なテクスチャーの和紙を貼り、黒と白のベースの上にドリッピングしたホワイトや墨のたらしこみ、あるいは青い色彩を入れながら、いわば田園詩のようなイメージをつくる。

 岩﨑惠子「もうひとつの世界 Ⅱ」。曲線によってできた空間。その曲線が連続するうちに建物ができ、花ができ、日ができ、お互いが関連しながら世界が生まれる。そんな女性のもつ世界観を生き生きと表現する。

3階─5室

 吾郷里美「カタチをみつけたなら・'14─2」。ずいぶん塗りこんだ絵具の層。そこに黒い線によってフォルムを立ち上げる。独特の韻律が生まれる。現在進行形の工事中のような心象風景である。そこに或るイノセントなイメージがあらわれる。

 朝田智子「六月の詩」。楕円状のシンクのある洗面台。窓はガラスになっているようだ。そんな中にチューブや歯ブラシ、花などが置かれている。それを拡大して画面にする。独特のコクのある色彩のハーモニーが魅力である。平凡なものがもうひとつの別の世界に変容する。そのイリュージョンが魅力。

 鈴木多美子「魔法使い」。タキシードを着た青年が剣を持っている。その後ろ姿。向かっている視線の先に頭蓋骨が真っ二つに割れている。左右にお椀が散っている。シャープな感覚。ある行為を行った瞬間のもつイメージを生き生きと表現する。

3階─7室

 森愛子「大団円 1」新作家賞。細かな車輪のようなフォルムに陰影ができる。圧倒的なアラベスク模様があらわれる。それが実は、中心に大きな建物を置いて、四方八方に放射状に広がる民家によってできている。同じような丘のようなものが背後に四つある。独特のパッショネートな表現である。車輪というのは、ユングの心理学によると、一つの元型である。四輪車に乗って太陽を運ぶイメージが、その背後に神話的現実としてあるという。

 奥山久美子「植物の生活(Ⅰ)」新作家賞。皮を剝いた果実。葉。そんなものが画面に置かれ、ノンシャランな動きの中に表現される。小さなものを拡大することにより空間が活性化される。

 板谷諭使「ダヴィンチの空」新会員。洋書を重ねた上にしゃがんでいる女性は、眼鏡をかけている。爪先立ちしていて、すこしバランスを崩すと倒れる。そばに女性が立っている。二人は友達のようで、アパートをシェアして借りているのだろうか。白い古びたドアをあけると、向こうに川を中心とした街並みが続く。どことなくイタリアのフィレンツェの風景を思わせるところがある。それらが晒されたようなグレーの中に描かれる。現在と記憶とがない交ぜになった不思議な心象的イメージを、室内風景の中に人物を置くことによって表現する。

 近藤オリガ「祭の時」新作家賞。柱が上方に伸びている。その柱を抱える男女。三人の男女が泣いている。柱の上には巨大な二つの足が見える。どことなくキリストの磔刑を連想するものがある。「祭の時」という題名だが、祭りの背後にはキリストのイメージがちらつくということになるだろうか。クリアなしっかりとしたフォルムによる表現で、群像により独特のドラマを表現する。

 下倉剛史「帰路」新作家賞。大阪の横町のようだ。「串」という看板が見える。串カツのことだろう。電気がまたたいて、左右に飲食店が軒を連ねている。横町や場末の飲食街を正面から描く。余分なディテールを削ることによって、そこに存在する空間としての性質があらわれてくるところが面白い。

 浜本忠比古「ふるさと・想 Ⅱ」。正面向きのおかっぱ頭の女性。後ろに質素なワンピースやツーピースを着た女性や青年が立っている。バラックの家。一つはドアがあけられている。車。昭和の頃の生活、家族。そんなイメージを面白く、象徴的に、一つひとつのフォルムをピックアップしながら表現する。

3階─8室

 仲田道子「スツール」絵画部賞。エプロン姿の女性。後ろに倒立して浮かぶ女性が描かれ、そのあいだに椅子が二つ。上方には、逆様の椅子が傾いて振子のように揺れている。人間を振子のように揺らしながら、時が刻んでいくようなイメージと、すこしマジシャン的なイメージを表す。画家のつくりだした女の子のフォルムが生き生きとしている。

 池田紀子「樹―'14」。イチョウの木のような、樹齢の何百年かたつ木の一部をクローズアップして描く。そこにあらわれてくる樹木の幹や枝、梢の形が面白く表現される。ディテールの力である。

 渡邉和恵「GARDEN Ⅲ」。池には蓮の花が白く咲いている。岸辺には草が茂り、木立が伸びる。柔らかな緑による早春の風景。甘美なメロディが画面から流れてくるようだ。

 堀野眞砂子「こわされた音 Ⅰ」。太い輪郭線によってつくられたフォルム。ギターや本、ネクタイ、楽器などを一種キュービックな手法で構成している。そこにある造形的な強さに注目。

3階─9室

 青山幸代「半夏生」。半夏生は七月二日頃の季節のことである。花が咲き乱れている。梅雨の合い間の気だるいような夏のイメージの合い間。ピンクの花はケシの花のようだ。芙蓉の花も咲いている。若い女性がその裸身を、股を開いて仰向けになっているが、その陰部を赤い大きな花が隠している。上方には女性の顔が浮かび、なにか訴えてくるような眼差し。七月二日頃の季節の気だるさと若い女性のエロスとが重なりながら、独特の心象風景をつくる。花を静物ではなく象徴として扱って、人物と組み合わせるところが面白い。

 豊澤めぐみ「アンインストール」。三人の少女。一人は踏台の上に立っていて、まるで首吊り自殺をしそうな雰囲気。メランコリックな鬱陶しい十代の独特の心象風景である。

 長村恵美子「壱丁目壱番地市場の行列」。五十人ほどの女性が並んでいる。いちばん手前には頭が骸骨になった婆さんがミラーを見ながら立っている。片足を棺桶に突っ込んでいる。若い十代の女性もいる。何かのために行列している。この老女の後ろに、十代の女性が鏡に自分の顔を映して帽子を点検している。その向こうには横になって眠っている少女の後ろに猫がいる。独特の人生曼陀羅ともいうべきイメージである。関西ふうなテイストだろうか。人間関係の密なところからあらわれてくる強いイメージである。

3階─11室

 増田偕子「静音」。中景に海が見える。手前の陸地の上がすこしもっこりとして、雑木が何本か立っている。ところが、手前に白い色彩が置かれている部分がもう一つの海のように見える。そのあたりは遠くから島を俯瞰したようなイメージがあらわれて、ダブルイメージになっている。そして陸地に、手前に一匹の猫がいて、そこから樹木が立ち上がっている。風景というもの、自然という存在を、独特のイリュージョンの中に表現する力がある。

 阿部京子「白旗  No.2」。クラシックな緑色をした車。その後ろは壁になっているが、壊れかかっている。壁から茶褐色の煙突が立ち上がる。紙飛行機が飛んでいる。地名を書いた矢印。入口の向こうに風力発電用の風車。白い旗。しっとりとした不思議な雰囲気のなかになまなましい人間くさいイメージがあらわれる。人間の深い無意識に存在する感情のようなものを画面に引き寄せる力がある。

 星ゆみ「遅れて来た青年…下を見てはいけない、そして上も見てはいけない」。画面に接近すると、独特の壁画的なマチエールがつくられていることがわかる。その黄土系の色彩の上からグラッシするようにおつゆを垂らしてフォルムをつくっていく。中心にはフードのある赤いコートを着た男が立っているのだが、その足元が崩れかかっている。右のほうの男は座っているが、同様の雰囲気。左のほうには、その台が不思議なフォルムをつくりながら伸びていく。遠景に、もう一人の人がこの壊れかかった台の上にのっている。まさに、上も下も見てはいけないどころか、要注意で、バランスを失う。あるいは、脇見をした瞬間にすべて世界が崩壊するといったコンディションを、絵の上に描いている。そこにあらわれてくる集中力ともいうべきもの、そのバランスが、この作品の鑑賞のポイントと言ってよい。

 河島鏡子「遠い日 Ⅱ」。この人の作品は独特で、なにか香りがする。窓がすこしあけられ、市松状の床に柔らかな光が差し込んでいる。四角いテーブルの上に人形と卵の入れられた巣。時計は一時半頃を指している。椅子に座るフランス人形。手前に背中を見せるマネキンのトルソ。それは作者の後ろ姿のようだ。右側には衣装掛けに掛けられたコート。緑がかったグレーのトーンの優しいしっとりとした雰囲気のなかに、白い輝くような光が差し込む。空間のもつ独特のクオリティともいうべきものに惹かれる。

3階─12室

 杢谷素子「街角の人生〔Ⅰ〕」。路面電車が向こうからこちらに近づいてくる。右のほうにはボクシングをしている青年。そのそばにおめかしをして歩いている四人の男女。ボクシングをしている青年の背後のドアがあけられて、寝台が見える。街のうえで起きるドラマが内面化される。部屋の中で起きるドラマと外で起きるドラマが共通した次元で描かれる。路面電車が手前に走ってくる。その路面電車の様子自体が画家の想像力そのものの象徴と化している。電車はペイヴメントを通って室内にも侵入してくるにちがいない。

3階─13室

 鶴山好一「丘へ続く道」。褐色の何もない大地。手前の広い道には車が走っている。アメリカの映画によく出てくるドライブインが傾いている。アメリカのロード・ムービーを日本のしっとりとした空間に転調したような面白さ。

 鈴木幸子「花々花々」。着物の意匠に使われている花を描いているうちに、その花が現実の花のようになってきた。それがこの画面の中心上方にある花だと思う。人工の花がそのまま生きた花となって、瑞々しく咲き始めた。そういったヴィヴィッドなイメージが画面から感じられる。柔らかな太陽の光と香りさえも、この作品は運んでくるようだ。

 眞野眞理子「羊飼いと天使」。七人の天使が上方にいる。下方に三人の羊飼いと十五頭の羊がいる。それがモザイクのように描かれている。ビザンチン美術に対する画家の傾倒によるのだろう。羊と羊飼いは民衆と指導者、そして天使たちはキリスト教の世界そのものとして、繰り返し描かれてくる。天使たちは羊飼いにキリストの生誕を知らせにきたのだろうか。穏やかな静かなトーンの中に強いコンポジションがあらわれる。

 杉野和子「潜」。鉛筆をおもに使った表現で、ホワイトの絵具の上に描かれている。樹木の根がそのまま機械と重なりパイプと重なる。つまり、人工のものと自然の植物のもつ力とが組みあう。そして、そんな中に陰影ができ、陰影の向こうに夜空が広がるといった、不思議なイメージの展開である。

 石倉郁美「VOID '14」。水が溢れている。水が逆巻き、手前になるにしたがってすこし収まってくる。そんな水の不定型な激しい動きにスポットライトを当てて、ひんやりとした不思議なイリュージョンをつくる。ボイドとは無効という意味だが、水をテーマにした音楽のようなところがある。そこには実態はなくメロディだけが流れている。そのメロディをもう一度視覚化した、そんな不思議な華やぎと静寂に注目した。

 沼本秀昭「流転図」。パッショネートな作品である。明らかに今回の津波の大被害、その問題に取り組んでいる。津波のあの死体の埋まった地面をそのままここに移してきたような迫力がある。そして、刻々と時間が過ぎていく様子。それをこのような不思議な圧倒的な表現にした。板や綱やパイプなどをそのままボックスの中にコラージュし、三幅として描き、日の移ろいのような時間性もそこに表現した。悲劇は終わらず、いまだに持続しているようだ。

〈彫刻室〉

 日比野知三「一輪のバラが繋ぐ平和への願い」。量感のある母子像である。左手に幼子を抱き、右に一輪の薔薇を持っている。強い波動が彫刻から発する。柳原義達の彫刻を思わせるような、ヒューマンな力が魅力。先日、国立で回顧展を開催した成果が、この作品に現れていると思う。

 田島享央己「Speak low」新作家賞。木彫である。白く彩色されている。俯いた女性の上半身から強いムーヴマンが表れる。若い女性の持つ気配。不穏で、きっかけがあれば爆発するようなエネルギーが彫刻されている。

 上松和夫「門・門・門」。金属の直方体のフォルムが四つほど経っている中に、セメントによる樹木の幹が置かれている。無機的な存在と有機的な存在が対照され、そこに強いインパクトが生まれる。切断された樹木の幹は、ドライな都会化された環境の中で身悶えするようだ。彩色された鉄の抽象形態と、グレーのセメントによる具象形態が強いコントラストを作る。

 加藤昭男「花売り」。首を傾けて両腕の中に花を抱いている。デフォルメした足や手の表現。画家独特の強い量感のあるフォルム。その中に一輪の花が貴重なものとして抱かれるようにつくられる。周りの量感のある動きのあるフォルムの中に、一輪の可憐な花を星のように表現する。

 照井榮「春のアンドロメダ」。アンドロメダとは銀河の意味である。男性の胸像の頭にその星座が置かれている。横から見るとわかるが、その厚みのある胸から太い首が突き出て顔になっている。その全体が一つの山のイメージを指す。山が擬人化されて、ここに石彫としてあらわれ、その頭上近くに銀河がきらきらと渡っているイメージを生き生きと表現する。

 岩間弘「宙を行く」。宇宙を進む船のようなイメージである。木の板を組み合わせながら柔らかなカーヴをつくり、その上に金属によるフォルムをつくった。宇宙を進んでいく不思議な画家のつくりだした船のようなフォルムが面白い。夢を運ぶ船のようでもある。

 一色邦彦「羽游水邊」。仰向けの女性のしなやかな裸のフォルム。そばに水鳥が泳いでいる。カーヴする女性のフォルムがそのまま水の精のようなイメージ。髪の毛がくねくねとカーヴしながら、水草のようなフォルムをつくる。その先に鳥が触れるように泳いでいる。優れたフォルムによる表現。

 細田修己「砂漠にて」。二つの直方体のあいだにカーヴするフォルムが入れられている。一つひとつ焼いたもの、いわゆる黒陶である。そのふくらみのある内側に様々なイメージを包みこんだようなフォルムが発信してくる。

 杉山惣二「『女』…く・'14」。テラコッタに彩色である。黒い上衣やパンツによって、その女性の肌の色彩が健康なエロスに満ちて表現される。髪を束ねたフォルムとストールを巻いてくくったフォルムとが響き合う。くねくねとした曲面がそのまま若い女性の健康な肉体のエロスを表現する。

 片伯部平「オルガン 19―ポアン・ポアン(Point・Point)―」。直方体の一部にカーヴする斜面のようなフォルムをつくる。両側の側面に長方形の穴をあける。もう一つ細長い側面に、穴をあける。その穴を通して音が響いてくる。ちょうど透明な空気の中に秋の音色が伝わってくるような、そんなイメージである。一つの音の出る装置のようなもの。インドでは世界の最初の始まりはオウムという音であったといわれている。画家は一つの立体をつくりながら、そのような最初の波動のようなものを入れた箱をつくろうとする。その無垢なイメージに惹かれる。

 松本弘司「大地」。一木から彫り出したものだろうか。母親の胸の前に少女がいる。長い髪をしたその下に、小さな女の子の顔と猫と犬がとまっている。十一面観音と似たようなイメージを感じる。平安時代には一本の木に仏を見るという立木信仰の時代があったが、この作品も一本の巨大な木の中にこの母子像を画家は幻視したのだろう。自由でありながら、強いしぜんなイメージが感じられる。ほかに二点の作品が出品されているが、いずれも優れた作品である。

 橋本裕臣「智の森」。裸婦の肩にフクロウがとまっている。フクロウは森の智者と呼ばれている。肩にとまらせながら、女性は遠くを眺めている。筆者は、空間にデッサンをするといったイメージを繰り返し橋本彫刻に感じてきた。この作品もそのような空間に対する切り込みがシャープで、それがこの作品の彫刻性だと思う。くわえて、焼くことによってマチエールと色彩があらわれる。自然の手を借りてインスピレーションしたものが物質化され、不思議な詩の世界として空間に位置される。五月二十八日胃ガンで亡くなられた。惜しい作家であった。合掌。

 五十嵐芳三「クロスするメビウスの環」。金属の円筒形の台座の上に石膏によって二つのメビウスが置かれている。メビウスは、その表面を辿っていくと裏側に辿りついて、永遠に循環するフォルムである。いわば無限旋律と言ってもよい。その無限旋律の二つが微妙にカーヴしながらくっついて、世界全体を示す。最近は十一次元といってヒモ理論というものが盛んであるけれども、作者は彫刻家として空間芸術の中に無限なるものの形を探究する。

 澄川喜一「そりのあるかたち 2014」。長方形の板の上に直方体の台座があり、そこに微妙に角度を十五度ほどひねった位置からフォルムが立ち上がる。カーヴするフォルムに逆の方向にカーヴするフォルムが組みあって、先端は鋭角である。見ていると、天空から何かを呼ぶための装置のような強いイメージが感じられる。或いは地上から上方に向かう力がある。地上と天空とのあいだに交信する装置のような不思議な反りのあるかたち。世界には直線はほとんど存在しない。すべてカーヴした世界である。たとえば水滴は球形になる。そのようなカーヴするかたちでありながら、左右はゆるやかなカーヴでありながら、ほとんどフラットなかたち。その左右のフラットなかたちと前後の二つのカーヴするかたちがかみあいながら、しなやかでシャープで毅然とした、ある精神の佇まいそのもののような彫刻が生まれる。彫刻のもつ量というより、もっと違った、たとえば日本刀を立てたような、そんな反りの美のような世界が空間化される面白さと言ってよい。

 石松豊秋「遮られない休息」。支柱に四辺形が支えられ、その中に頰杖をつく少女とその頭にヴァイオリンが作られる。面白いのは、左辺の枠に半分かじられた林檎が置かれていること。金によって彩色されている。メロディや韻律といったものがそのまま空間化され目の前にあらわれているような、ヴィヴィッドな印象がある。

 奥田真澄「追憶」。黒陶である。胸像である。左手で右の肱を持ち、右の手は上方に立ち上がって、そっと指が頰に触れている。瞑想する女性。先だって銀座の画廊で個展が開催された。そこにあるのは不思議なイメージで、まるで時を喪失した彫刻群、死の世界からよみがえったテラコッタ群であった。この作品はそこまで冥界に近づいたイメージはないが、静かに瞑想するこの像には仏のようなイメージもしぜんと感じられる。

 喜名盛勝「散歩道」。母豚と四匹の子豚。砂岩を削ってつくられた形が実にしぜんで、ほほえましい。ピュアな生命感をたたえる。四つの子豚がそれぞれ異なっているところも実に見事である。石がそのまま子豚になったのか、子豚が石と化してここにあらわれたのか。そんな荘子の花と蝶ではないが、そのような独特の強いイメージによる表現である。

 田中実「遠い思い」。鶏が座っている台座が、おかっぱ頭の女の子の頭のようだ。女の子の頭のころんとしたこけしのようなフォルムの上に、丸っこい鶏がとまっている。その二つのバランス、呼応するイメージが実にイノセントで、生き生きとしている。

 細谷泰茲「指人形と少女」。少女が座って左手に指人形のピエロを持っている。締まったフォルム。小さな手。見開いた目。独特のデフォルメによって、彫刻としての韻律をつくる。

 笹戸千津子「綾」。腰に手を当てて足を交差させた女性像。豊満なそのボディが健康な生命感を感じさせる。

 原田理糸「のびひろがる形」新作家賞。Y字形の木による柱。微妙にねじれの位置にあって、三つのフォルムがそれぞれの方向を示す。強い空間を周りに表す。

 小川原隆太「夜明けの呼び声」。白いドレスを着た女性が前屈みに、両手を目の前に、触れてはいないが交差するように立っている。右足を前に出して前傾したフォルム。まるで夜明けの呼び声がメロディとなって、そのメロディが彫刻として造形化されたような強い印象を醸し出す。

 山本正道「Volterra-2014」。キメ細かい石の表面が滑らかに独特のマチエールをつくりだす。右のほうに遺跡の跡があり、右のほうに建物がある。そばに階段が見える。遺跡のある大地を切り込んで、それを縮小して眼前に置いたような、独特のオーラを放つ。触覚的な要素を最大限生かした彫刻である。

 上野良隆「you ?」。あなたは誰。不思議なアルミのフォルムである。テトラポットのようなフォルムから細長く上方に上っていく七本の細い茎のようなフォルム。その上に蓮の葉を固めたようなフォルムがあらわれ、その上に紡錘状の繭のようなフォルム。そしてその上に二つの花びらのようなものがのっている。そのフォルムとは別個に二つのフォルムが上方に伸びている。先が六弁の花のような、掌のようなフォルムである。無重力の世界。筆者はこの作品を見て、水中にある世界を連想する。上方にもたげたフォルムを下の七本の足は支えていない。むしろ浮遊しながら、無重力で浮力の中にこの茎は伸びていき、その上方に葉のようなもの、繭のようなものを支えている。あなたは誰。地上的な存在から水の中の存在。もっとも、地上も空気に満ちているわけだが、その空気的なものをもっと密度を高くして、水中に置いて、そこにあらわれてくる祈りのようなイメージを彫刻化したように感じられる。かつての空と地上を結ぶ鳥の足から、水草のようなフォルムに発展してきた。

 ゼロ・ヒガシダ「飛天」新会員。ステンレスと木による彫刻である。一本足で立って、カーヴしながら動いていくフォルムは、実に力強い。イタリアの彫刻を思わせるものがある。そして、そのステンレスにしろ木にしろ、そこに窪みができ、空間から影響を受けて侵入してくるものを受け止める。空間との関係が実に密でありながら、その空間から浸食されながら空間を跳ね返す力。そんな力が十全に使われて、カーヴしながら上方に向かう。その姿は天空と地上とを結ぶフォルムであり、祈りのかたちと言ってよいかもしれない。

 土井宏二「ヒコーキ雲」。テラコッタ。いちばんてっぺんに飛行機のフォルム。その下は飛行機のあとの雲を造形化したものである。テラコッタである。焼いて四層に重ねて、不思議な動きをつくりだす。本来、量のない飛行機の軌跡をフォルムとしてつくり、不思議な生命感をつくりだした。ユニークな感覚である。

〈野外彫刻〉

 青木三四郎「つがい」。つがいのトキが半球形の台の上に載っている。それを支える樹木の幹のような存在。絶滅を危惧されたトキがよみがえった。トキのモニュメントとして、どこかに設置されるのだろうか。

 鈴木武右衛門「不の関係」。石彫。男が左手と右手を頭の後ろで組んで、上体を前に倒している。その腰の上に動物の頭蓋骨の上顎が置かれている。碑と言ってよい。ぐるっと回っていくと、その骨に向かって左のほうに人間の顔が浮かび上がってくる。ロマネスクのタンパン彫刻のような味わいがある。生のイメージ、天使の像のようなフォルムがそこに浮かび上がってくる。上顎の骨は死の象徴だし、下の顔は生を照らす天使のよう。二つは生と死を見つめる存在のようだ。いま人間は上体を前に倒している。人の一生が過ぎていく。人の一生を救う存在として、その腰の下にあらわれてきた天使の像。強いモニュマンである。後ろから見ると、上顎が目の前にあって、右のほうには歯が残っているが、左のほうには歯はなく、上顎の中の窪みの不思議な陰影が時間によって風化した洞窟のようなイメージであらわれてくるところも面白い。

〈スペースデザイン〉

 杉田文哉「ゆらぎ 2014―Wall―」。屈曲する直線によってフォルムができる。紙の上に銘々の名前を置いてあみだくじをした経験があると思うが、そのあみだくじが立体化されて、一つの衝立のようにあらわれた。そして、その複雑なあみだくじのフォルムの中に、作者はある韻律や美的な秩序をつくろうとする。独特の感性である。

 萩原真輝「宿り木」新作家賞。白木の台座。そこから上方に伸びていくフォルム。柱の四方向に削り取られた葉のようなへこんだ形が連続する。抽象でありながら、有機的なフォルムが独特のリズムをつくる。どことなくブランクーシの彫刻を連想するところがある。

 五十嵐通代「変様」新作家賞。布になる前の繊維を束ねて、それをつなぎながらフォルムをつくり、上方に翻りながら上っていく。その素朴なマチエール。フォルムが縦横に、上方に伸びていく不思議なかたち。見事な造形表現である。

第69回行動展

(9月17日〜9月29日/国立新美術館)

文/高山淳

1室

 桜井忠彦「流転 '14─9」。紙を揉んで、そのしわをそのまま、この大きな縦長の空間に転写した趣がある。そこに水が溢れて流れている。霧のようなものが立っている。無数の小さな円の点々が、その流れの中に置かれている。先だっての津波で亡くなったたくさんの人の魂が、この一つひとつの点にこめられているような印象をもつ。そして、その魂を成仏させようとするイメージ。画家の深い内向する祈りのような力が全体を支えている。その浮遊する力。流れる力。決してとどまることはなく、その小さな点々を動かしながらじわじわと上方にもっていく、そういった不思議な動きの感じられるところがこの作品の魅力だろう。

 柳原雅「乾いた風」。縦長の画面に上下の直線によって三つの空間をつくる。その中に、たとえば鳥の羽の先端のようなフォルム、ジグザグのフォルムが繰り返されてあらわれる。黒とベージュと白。そのリフレインする力によって不思議なイメージがあらわれる。また、二つの空間をまたいでベージュの色彩に塗られた布をコラージュし、上からたらしこみふうな茶色、直線、風景的な建物のようなイメージもそこにはあらわれる。地上の存在、そして、その上方を過ぎていくエネルギー、風のようなもの。あるいは刻々と動いていく時間。そういった元型的な要素をこの空間の中に表現する。上品なベージュ系から褐色系の色彩のハーモニーがエレガントである。

 石川功「巡礼詩―刻の触手―」。銀座のギャラリー暁で個展を拝見したのだが、実に面白かった。抽象であるにもかかわらず、独特の存在感、あるいは質量ともいうべきものが感じられた。今回も白い空間。その中に茶褐色のフォルム。オレンジ、黄色、緑などのもっと小さなミクロ的形態などがあるのだが、それが抽象でありながら存在することの力ともいうべきものを発して、お互いにハーモナイズし、刻々と動いていく。

 戸田あや子「ひろがりの空間」。コの字形のフォルムが重ねられている。それはパイプのような円柱となってあらわれ、上方と下方のコの字形が関係をもったりしながら、力強い動きをつくる。それに対して円弧がその中心から広がっていく。中心には緑の楕円状のフォルムがある。周りに行くにしたがって白くなっていく。白いフォルムが千切れたように置かれている。しんしんとした気配が感じられる。純化された空間と心象。刻々と動いていく力、それを全身的に感じながら、一つの世界を表現する。

 根本忠緒「WORK 1473 白秋にて」。すこしカーヴしたフリーハンドのストライプが繰り返し引かれて、独特のリズムをつくる。その上下を縦断するフォルムの下方に月を思わせる球体があらわれている。菱形の紙吹雪のようなフォルムが散らされている。画家の作品を見ると、飛鳥時代の幡を思わせる。「白秋」という題名だが、秋という意味。飛鳥時代の幡は、動くとしぜんと音がすると思うのだが、たとえばイチョウが黄葉した様子なども一つの大切なものを中に秘めた幡のような趣で、揺れるたびに落ち葉が舞い落ちていく。そういったイメージもこの作品にあるのだろう。秋の月は美しい。中秋の名月には秋の七草とぼたもちを捧げる。地球と月とのあいだには引力があって、それによって潮の満ち引きが起きるそうだが、月の姿には地球の翳のようなイメージがあらわれている。日本はもともと陰暦で、月の満ち欠けによって暦をつくってきた。寂々と時間が流れていく。ストライプのフォルムは抽象であるにもかかわらず、葦などの植物が伸びているような具体的なイメージもしぜんと感じられる。その黄色のストライプの中に微妙な色彩の変化があり、また重なっている部分もあり、実に強くしなやかに上下に立ち上がっているカーヴ。そこにロマンティックな響きがあらわれる。一つの線が一つの音階。全体で朗々としたハーモニーが生まれる。柔らかな光があつまって、このストライプの強さを見ると、秋のメロディを、静かに弾いたようなところがある。そのハーモニーによって、その強さがピアニッシモで聞こえてくるような、繊細な表情をたたえているところがこの作品の面白さだろう。抽象と具象との両端に足場を置いた作品として興味深い。

 髙井道夫「海の空―星座―」。海の空とは面白い言葉である。海の動きがそのまま空と重なる。そこに波しぶきがあらわれ、花のようなフォルムが浮かんでいるのが、そのまま星座となる。左下、あるいは右下から、指のようなフォルムが上方に向かってあらわれている。それに対して上方から三角形のフォルムが下りてくる。まさに海と空との出会いといった趣である。しっとりとした瞑想的な空間が表現されているところが面白い。

 斎藤幸子「☆1408★again☆」。下方はほとんどキャンバスの色彩で、上方は黒い空間になっている。あいだに青のヴァリエーション、黄色のヴァリエーション、ピンクのヴァリエーションのフォルムが浮かび上がる。それらはたらしこみふうに表現され、なにか燃えているイメージがあらわれる。とくにピンクにはそのような気配が強い。それに対して、その重ねられた背後の青には深い宇宙の広がりが感じられる。そこに流星のように直線や円弧する動きが五つ描かれる。それぞれの軌跡は交わるのだろうか。どうもねじれの位置にあって、交じらずに動いていくようだ。その様子は因果律ではなく、いわゆる縁起的、世界が無数の要素でできていて、その無数の要素が有力になったり無力になったりしながら世界が変化していくという、そんな仏教的な思想をしぜんと思わせる。青い空間のはるか向こうに星がまたたいている。もっとも星は上方の空にもまたたいているのだが、それぞれがそれぞれの宿命を背負いながら輝いている様子である。「色即是空 空即是色」という般若心経の言葉がそのまま絵画的に表現されたような、独特の魅力がある。

2室

 田中正巳「壊れかけた太陽」。縦長の画面をカーヴしながら上方に動いていく力がある。褐色の地上的な力に対して、白い雪のような水のような力。それらが絡み合いながら、エネルギーのダイナミズムともいうべきものがあらわれる。

 小笠原実好「KEEP OUT」。朱色の直線と円弧と×点は飛行機の上から爆撃するための照準をイメージさせる。下方に大地が広がっている。黒いブラックホールのようなフォルムと茶褐色の形。海と陸地。距離感。そのなかでピントを合わせようとするエネルギー。そこに、いわばポエジーがあらわれる。

5室

 黑田恵子「生求 14─9」。上下に植物的なフォルムがつながっている。曲線によってできたフォルム。その中に腸のような内臓的なフォルムが入れられ、中に羽の生えた小さな生き物のフォルムがあらわれる。生まれいずる天使のようなイメージ。腸が大きく蠕動しながら食物を運んでいくような有機的な生命的なイメージの中に、いま生まれたばかりの小さな天使たちが愛らしく表現される。

 中村喜吉「ビザンツの残照」。観音開きの祭壇画的な構成になっている。女性の顔が四つほど貼られている。金を背景にしたイコン的な姿である。右上の女性は聖女のようなイメージもあるのだろう。殉教者のようなイメージのフォルムが左翼の下方に、右下には菩薩のようなイメージがあらわれている。中心には矩形のタイルのようなフォルムの上に、二人の女性のフォルムやつぶされた紙風船、椿の花と枝。下方にはこのタイルが壊れかかって、歯車のようになっている。その歯車は刻々と打つ時間を表すようだ。そして、三角形になったいちばん上方に、金を背景にした優しい女性の横顔が見える。ビザンチンはギリシャやルネサンスと異なって、装飾的なイコン的な表現を壁画を中心に行ったが、そのような中世に対する画家の深い思いがあるのだろう。それを現代ふうに演繹、翻訳しながら、現代の若い女性を通して夢や希望のイメージを表現しようとする。

 増井尚志「ある風景…2014」。上方にいくつも山が見える。両側にはダムの塀のようなコンクリートのフォルムがあらわれ、左のほうにはその内側が梯子が掛けられている。それらに囲まれて白い柩のようなフォルムが浮かび上がる。柩の中には赤くミイラ化したような人体のフォルムが見える。勾玉もある。死者がこの世とあの世との中間に浮いているようだ。それを静かに運び、あの世に、背後の山の向こうの死の世界に持っていこうとするのだろうか。そのような強いイメージの力に動かされる。

6室

 守末利宏「杜のある風景」。この森は鎮守の森なのだろう。下方に階段があって、鳥居がある。その背後は黒く、闇になっている。手前の緑の田圃を見ると、六月頃の季節。神仏習合した日本のかつての宗教観では、山全体が一つの御神体であった。そんな御神体としての怪異な霊気に満ちた山が背後に描かれている。そんな力を画面に引き寄せる作者のヴィジョンや筆力に感心する。

 細井美奈子「LOVE PEACE」。五列の左右に横断するストライプの上に様々な人が置かれている。魚を持つ漁師。ものを運ぶ人。犬を散歩させる人。農民。子供と幼稚園の先生。パラソル。介護をする車椅子を押す人。ポスト。野球。トンボを追い掛ける少年。そんな人々の様子を背景にして、赤いワンピースを着た太った女性が宙に浮いて飛行している。女性パワーの表現。この美術館にも六十代、七十代、八十代の女性がたくさん来ている。出産や子育ての経験などもした女性たちのもつエネルギーともいうべきものが、手前のこの浮遊する女性に集約されている。背後には日本の働いたり遊んだりしている様々な人間たちの現実が描かれ、まさに女性の鈍感力ともいうべき力、ラブとピースのイメージがそこにあらわれる。

 笠松禮子「渇いた街(Ⅰ)」。画面の下辺に少年にも少女にも見える人が立っている。背後にカップルがシルエットで座っている。周りは褐色や朱色、緑などの混在した渾沌とした空間で、上方に茜色の空が見える。孤独な人間のイメージをうたう。大正、昭和、平成と続くなかにあらわれてくる一種の詩人のもつイメージを感じる。

 長野伊津子「Agnes '14(2)」。アグネスとは聖女という意味である。若い母親が子供を抱いている。下方には田圃や畑が広がっている。母子の上に小さなヤギや南瓜や葡萄などが置かれている。農村で暮らす人のイメージ。植物をつくり、放牧したりながら乳を搾る。そんな農村のもつ力をすこしモダンな感覚のなかに表現して、独特のメッセージを発信する。コンポジションも面白い。

7室

 野畑和昭「彷徨」。地層が描かれている。大きな石、岩。そんな中に赤いカンテラも埋まっている。東日本大震災のもっとはるか昔、平安時代の貞観に大津波があったそうだ。日本の地層を見ると、様々な天変地異の跡が見えるだろう。それを画家はイマジネーションの中に表現する。エネルギーの跡がこの地層に閉じ込められている面白さと言ってよい。

 赤穂多恵子「マルタよマルタ」。キリスト教的なイメージだろうか。どこかビザンチンふうな表現方法にも思える。金の箔を置いた背景に、頭の後ろに光輪のある二人の女性があらわれる。一人は立ち、一人は座っている。小鳥がそこに向かっている。受胎告知的なイメージだろうか。静かな中に強い輝きが感じられる。

 新美晳也「同行二人…HAZAMAに…」。下方に白い波が寄せている。暗い雲に隠れて月の一部がのぞく。月の光に照らされて波が輝く。月と波とが同行二人ということになるのだろう。潮の満ち引きも月の引力による。一種宗教的ともいえるようなイメージの中に、無明の黒い風が上方に吹くことによって、作品の内容が深くなる。

 國嶋陽子「夜明け」。田植えの終わった田。畦道に生える樹木。遠景には山の斜面があり、その麓に瓦屋根の建物がある。山際のすこしピンクがかった空は夜明けを表して、山の一部にも朱色が入れられている。水墨的な空間を油彩によって表現する。色彩家である。ベージュを中心とした色彩のハーモニーは深い。

 山岡晴夫「風のかたち 14─1」。黒の中に白くドリッピングされた色彩が生きている。あいだに緑があらわれる。土手の下にある池。そこにある植物や水。そして、夕日や朝日のイメージ。花がそこに咲いたり枯れたりする。そんな日本の四季のなかの自然の一部を面白く抽象的に表現する。

 伊藤信義「layer」。ベンチ。階段。メリーゴーラウンドが回り、その下にはその入口のようなものがのぞく。それを眺めている左下の少女。上方には信号機が斜めに立ち上がり、壊れた車が見える。不穏な空間。都会の中の生活。いつ事故が起きるかわからない。そんなイメージを力強く歌うように表現する。

 石原佑一「育ちゆく子たち 14─Ⅱ」。マチエールが強い。緑と白、という色彩もエキゾティックな不思議な働きをする。子供たちが座ったり立ったりしている。それを母親が見守っている。障害をもつ子供なのだろうか。深い子供たちとのかかわりのなかからあらわれた強いイメージである。

8室

 河村純一郎「あの日のこと」。空に女性が浮遊している。空を飛行しているようだ。下方に彼女の住む小さな街が見える。赤い屋根にベージュの壁。星形の花がたくさん咲いている。煙突から煙が出ている。大切な彼女の小さな街。ファンタジックな空間を壁画的な強い深い色彩の中に表現する。

 矢元政行「空中庭園(造営中)」。ずいぶん細長い画面である。そこに長い塔があらわれ、塔の上にはたくさんの人々が乗っている。ところが、その上に黒い塊がある。また、塔には無数と言ってよいほど窓があって、その窓から突き出たものの上に人がのっていたり、あるいはそこから屈曲して出た煙突から煙が出ていたりする。荒唐無稽な空中庭園であるが、命というものの目に見えない働きをこのようなかたちで表現しているような、ある意味のリアリティがある。それがこの作品の独特の魅力をつくる。いわば詩の造形と言ってよいかもしれない。

 大鷹進「暗闇の海・あなたに聞こえるのはなに」。男女がそこにいて、お互いに会話をしたり、ひとりぼっちでいたり、様々な動作をしている。そして、そこから巨大なホオズキが立ち上がってくる。皮はなくなって筋だけになったネット状のホオズキである。その中に大きな耳が入れられている。それに沿って花托の茎が伸びてきて、大きな花托がぶら下がっている。三年前の東日本大震災で数万人の人々が亡くなった。そのことに対する深いレクイエムの感情が、このようなコンポジションをつくりだしたのだろう。画家は亡くなった人々もこの中に生きているように引き寄せ、恐ろしい災害を大きな耳が黙って聞いているコンポジションをつくった。ネットの中に裸の男女がいて遊んでいる様子も、なにか恐ろしいイメージと言ってよいかもしれない。生と死の中間領域の中に存在する霊的なイメージ。画家は経験をここにこのようなかたちで描いている。賛成も反対も肯定も否定もせず、起きた現実を黙って眺め、聞いている。その無言の力によってこの作品は生かされている。

 吉村玲子「つゆのあと・さき」。手前にアザミのような花が七つほど咲いている。植物が伸び、樹木が上方にその枝を広げている。あいだに水が流れているようだ。夜の光景かと思うと、木漏れ日が漏れてきている昼の光景のようにも、朝のようにも思える。不思議な気配が画面に満ちている。植物や樹木の存在を、画面の中に実に生き生きと表現しているところに感心する。

 前田香織「夜の入口」。夜の幻想と言ってよい。浅い水が水平線の向こうまで広がっている。その中に百合の花のようなものが無数と言ってよいほど咲いている。その中に今度は百合の花を頭からかぶったような姿で、そこから裸の足が伸びた妖精のような女性がいる。髪は百合の花ではなく、金髪。そんな少女が手前と中景にいて、夜空に星が流れている。空には花びらが散っている。ノクターンと言ってよいかもしれない。深いイメージが浮かび上がってくる。

9室

 堀田活信「作品」。赤い色をした車のそばに「駐車ご遠慮ください。ノー」という標識があるが、錆びている。シートにはスヌーピーとくまのプーさんの人形がいる。後ろに民家があるが、ほとんど壊れかかっている。二十年ほど雨ざらしになって、だんだんと朽ちていった駐車場。独特のイメージである。そんなシチュエーションを描きながら、画家のイメージはどこに向かおうとするのだろうか。それはこの赤い車の中にいるくまのプーさんとスヌーピーのイメージなのだろう。それは人間と人間との愛情をつなぐ存在としての人形。そういった人形を媒介にした密な人間関係がかつて存在したことに対するノスタルジーのような心持ちが、しぜんと画面から伝わってくる。そして時が過ぎて、そのような関係を喪失した悲しみ。

 松原政祐「生きるものたち『焼土光明』」。山の斜面のようなフォルムの中に階段があったり、人間たちの姿あるいは天使の像、などが描かれている。もっと接近すると、もっと多数の人間たちがこの壁に描かれて、しかも遠近感の中にシルエットふうに表現されていることがわかる。右下のほうにごろんと女性の首が転がって、その向こうには、岩のあいだに挟まれてもう一人の男の顔のようなものが浮かび上がってくる。手前から一本の植物の茎が伸びて、白い花が咲いている。上方に満月が現われている。「焼土光明」という題名だが、どんな墓も何百年もすると無縁塚になるようなもので、時間のなかに消えていく存在をイメージの中に呼び起こして、それを救おうとする強いイメージが感じられる。それは一種仏教的な力と言ってよいのだろうか。

 畑中優「私の居場所」。たくさんの群像である。街と街のあいだから人が現われて、白い布を置いた長椅子の周りに座っていたり、立って本を読んでいたりする。右のほうには丸いテーブルがあって、そこにも人がいる。いちばん近景は、祖母の前にいる林檎を細長い金属で串刺しにした少女の姿である。すべて茶褐色の色彩で描かれている。中原中也は詩の中に「茶色い戦争ありました」と書いたことがあるが、そういったイメージもあるのだろうか。日常生活から追い立てられて、逃げてきた人々の群れのようなイメージが感じられる。その人間たちのいわば根無し草のような存在。その孤独な雰囲気。そういった人間たちの群像が、現代の鑑賞者の心に訴えてくる。

 はるか向こうから旋回するようなかたちで、だんだんと手前に大きくなってくるその群像のフォルムは、いわばピアニッシモからクレッシェンドにだんだんと音が大きくなってくる音楽のメロディのような効果も感じられる。

 初田隆「タマシヒ ノ カヘル トコロ」。モノクロームである。この前の津波のような水。あらゆるものを呑み込んだ水がこの真ん中に寄せて、滝となって落ちてくる。そんな恐ろしいイメージが描かれている。真ん中は円形の形になって、そこから黄土色の細い棒が九本伸びている。「タマシヒノカヘルトコロ」という題名だから、この滝壺のような広い中に魂のかえるところがあるのだろうか。とてもそんなイメージを絵から受けないのだが、混沌としたものが集まってきて、もう一つの世界をつくりつつあるような、ミステリアスで不思議なイメージは伝わってくる。

 高橋三加子「刻―2014」。五人の人間が動作をしている。いちばん左の女性は屈んで赤いパイプに向かっている。いちばん右の人は女性のようで、両手を上げている。中心に三人の人がいるが、一人は買い物籠を持ち、一人は胸のあたりに手を当て、もう一人は両手を上にあげて合わせている。内界で刻々とした心の働きが行われている様子を、図像化して絵の上に描いたような趣がある。マチエールもそのように独特の繊細な中に手触りがある。五人のパントマイムを行っているような人間たちは、何か大切なことをしている。そんな精神の、あるいは無意識の世界に起きる出来事を表徴するような群像の姿である。

 竹村皓子「虚空」。中心に座して合掌している仏がいる。阿弥陀仏のようだ。しかし、この絵の中ではふくよかな女人のように描かれている。蓮台の上にのっている。下方は水が流れて、蓮の花や蕾が見える。後ろには花托になった蓮がある。上方に月の一部が見える。画家のつくりだした仏画と言ってよいかもしれない。衆生を癒す存在。キリスト教のように父性的な神が人間の罪を追及するのではなく、南無阿弥陀仏と唱えれば救ってもらえるような母性的な存在を、独特のトーンの中に表現する。とくに顔がよいと思う。大きな目と厚い唇の女性の豊かさ、威厳、優しさといった性質をもつ独特の顔に引かれた。

 下平武敏「真手野舞浮立・詰太鼓」。佐賀の古くから伝わるお祭りだという。右下に大きな太鼓があって、それを叩く撥を持った男が、顔を上方に上げている。この太鼓は神様を象徴するという。手前には羽織袴に帽子をかぶった侍のような人たちが横笛を吹いている。向こうでは鼓の向こうに女性たちが両手を上げている。絵馬のような雰囲気。木目をあえてつくって、これは一つの物語ということを指示しながら、画家は線によってこの祭りのポイントを描く。連綿と江戸時代からつながる祭りの響きが画面から聞こえてくる。

 髙田光治「盆送」。盆は、迎え火を焚いて死者を迎え、送り火で死者を送る。つまり、一年に一回、死者たちと会う祭りであり儀式である。三途の川のような水が手前に流れている。その向こうには大きな太鼓を持っている人がいる。人間たちは黒い衣装で、まるで精霊のための黒子のような役目をしているようだ。太い樹木。針葉樹。送り火を焚くために草や葉を集めて燃やしていて、そこから煙が立ち上っている。背後の山の奥のほうにはもう一つの世界があるのだろうか。そのあいだに道が銀色に光って、あの世とこの世とをつなぐようだ。モノトーンの中に強いイメージが満ちている。霊的な存在を表現するための独特のコンポジションである。

 猪爪彦一「獏」。バクとは夢を食う生き物だそうである。これは魚の形をしたバクで、小さな足を地面にすこし置いて、後ろにもたくさんの足があって、浮いてすこし地面に足をつけたりしながら動いている。周りには花の蕾のようなものや球体などが飛んでいる。口から煙を上げている。大きな岬のようなものが動いているような雰囲気で、自然自体が夢を見て、その自然の夢をこの生き物が食べているような、あるいはその夢と一体化したような不思議な雰囲気である。

 神田一明「彼女の休日」。金髪の女性が立っている。ほぼ全身の姿が描かれている。そばのすこしピンクの椅子に猫が座って、観客のほうを眺めている。床には時計が一時二十分を指す。人形のようなものが下方にあるし、男の顔が浮遊している。昼下がりの時刻、アンニュイな雰囲気のなかに時が過ぎていく。仕事を忘れてぼんやりとした時間が逆に人間のある真実のイメージをつくる。そういったアンニュイな時間のなかにある真実の生活とか命の働きが画面に表現されているように感じられる。背後の壁などは動いていく時間の象徴のように描かれて、風景的要素があらわれる。女性の黄金色のような色彩も独特で、色彩自体が一種内面的な性質を表現する。

 辻司「聖人達の樹(メキシコの生命の樹 Ⅲ)」。画面の下方から赤い木が上方に伸びていく。中心は幹で、そこからオレンジ色や赤の枝が左右に伸びていく。そこにたくさんの老若男女が座っている。聖人たちでもあるし、中にはエンゼルもいる。いわばメキシコの精霊ともいうべき存在と聖人たちとが集まって、メキシコの土地を讃歌しているといった趣である。肯定的なポジティヴなハーモニーが画面から聞こえてくる。優れたデッサン力のもとにつくられたコンポジションだが、色彩のもつ力も十全に引き寄せられているところもこの作品の魅力である。

 山口実「SOU」。横長の画面の真ん中よりすこし左寄りに円形のテーブルがある。実際の視覚からするともっと楕円形であるが、上方から見下ろした、ほとんど円形に近いフォルム。それを三つの弦楽器が囲む。左のほうにはコントラバス。右のほうにはチェロ。机の上にはヴァイオリン。そばに白い高坏に三つの林檎。テーブルの上にも一つの林檎があるが、そのテーブルの下にもう一個、床の上にもう一つ。三という数字がキーワードのように使われている。窓の向こうには突堤が見えるが、突堤もT字形で、三本の線によってつくられている。三位一体という言葉があるが、そのようなハーモニーを画家は画面に求めている。床のクロスも逆三角形になっている。暖色系の色彩の落ち着いたトーンの中に三つのものを配置しながら、そのヴァリエーションの中に独特のメロディをつくる。「SOU」とは奏でるという意味なのだろう。右のほうにピアノがあり、丸いテーブルの上にメトロノームが動いている。演奏する、あるいは「奏」でる。チクタクとメトロノームが規則正しく動いていく。三位一体の中心は、そのような時を刻んでいくことなのだろう。その時を刻む象徴のメトロノームが、ひっそりと置かれているところが面白いと思う。

 小杉義武「室内のY」。白いテーブルや緑の床などがあるように思うのだが、そこにたくさんの人の顔があらわれて、それぞれがお互いの顔をのぞきこむような雰囲気である。鑑賞者の顔ものぞきこんでくるような、密でエネルギッシュな空間が画面の中にあらわれているところが面白い。

10室

 角護「Landscape―飛べない私」。男の横顔が中心に浮かび上がる。周りは暗い緑のトーンで、そこは様々な要素が絡み合った渾沌とした世界である。そこには大きな鳥が羽を広げている様子やウサギや卵のようなもの。あるいは右の下では牛が乳を出している様子。上方に向かって浮かび上がろうとするイルカのようなフォルム。様々なものが線描きで描かれている。すべては自由にならない。いくら科学が進歩しても、生命には限界がある。環境問題も、地球の限界性から来ている。そういった限界性のなかにあがくイメージを、この人間の周りに描いていく。この渾沌とした空間は上方に一部盛り上がっているといった様子になっているところも面白い。盛りあがっているところは男の頭の頂上と重なる。男の脳の中のイメージが周りに描かれているといってもよいかもしれない。いずれにしても命の限界をこのようなかたちで、内向的に画家は表現する。

 石原恒人「僕の居場所」。二人の男の顔。頭が壊れて、中の配線の様子がむきだしになっている。脳はサーバーのようなもので、巨大な量の送配電線といったイメージでこの人物がつくられている。向かって右のほうは銅像のようで、左のほうは目の中が空洞になっている。ショックによって目の玉が飛び出てしまったような虚ろな雰囲気。二人はジャンケンをしているようだ。いちばん上方からグーの手をもった青年のフォルムがあらわれる。左のほうにも青年の横顔がある。壁は壊れて、中がむきだしになっている。人間を支持するもの。壁を支持するもの。そういったものが壊れてしまった現代という時代の様相を表現する。常識といったものが現代では通用しなくなった。そんな人間像とその社会環境をヴィヴィッドに表現する。

 平木久代「遥かなる夢」。哺乳類が生まれるもっと以前に、地球には植物が盛んに繁茂していた時代がある。そんな長い歴史をもつ植物のもつ力を画面に引き寄せる。その植物に包まれて人間の頭が夢を見ている。後ろにはそのシャドーのようなフォルムがあらわれる。画面全体赤く染まっている。遠景に象が歩いている。象は百年の生命をもつという。過去と未来のなかに人間的現実がある。そんなイメージを独特のコンポジションの中に表現する。

 富田知子「渇いた伝言(方舟)」。画面の真ん中にグレーの船が浮かんでいるが、見ると、船底が棺桶のようなフォルム。上方に横になった人間の姿が浮かんでいる。棺桶と人間のボディあるいは霊が一緒に浮遊している趣。下方には丘があって、樹木が立っている。遠景には林のようなものも見える。自然の中に精霊が存在する。人工的に完全に都会化されても、やはり精霊は存在すると画家は語るようだ。

 市原園子「2014 キョウゾン―風になって―」。仏教の世界が描かれているように思う。下方に植物の葉が広がり、花が開いている。その上方に、いわば植物に支えられるように、向かって右側は鳥の顔、反対側は女性の顔が浮かび上がる。鳥であり女性の顔でもあり、また花でもある存在。まさに仏教の、輪廻転生しながら世界全体が同一のエレメントによってできているという思想の表現のように思われる。そして、静かに時が移るように風が吹いている。優しい時と一体となった風である。深い無意識の世界にまで到達するようなイメージの表現に注目した。

 森井宏青「シュヲヴェリ―水の湧くところ―」。上方から水が下りてきている。まるで禊をするように水が下りてきているイメージが、独特の雰囲気をつくる。ほとんどたらしこみふうな表現である。下方には三角形の水の入った池のようなフォルム。上方にガラスと不透明なボックスによってつくられたフォルムがある。その背後にストライプのフォルムが屈曲しながら右に続き、そこに三人の女性がいる。母親と子供のようだ。水によって癒されている存在。都会の乾いた中に画家は水を求め、水をそこに湧出させるようなコンポジションをつくった。その欲求、そのイメージ、いわばそこにあらわれてくる詩情と言ってよい空間に注目した。

 大平和朗「地のうた '14 宴」。大平の作品が変わった。茶系のフォルムで建物のようながっちりした存在を描いてきたのだが、今回はすべてドローイングによってできて、まだ生成途中にあるイメージのようだ。上方には船の船腹を思わせるフォルムがあり、それを受けて、下方のフォルムの中に南瓜のようなフォルムが塔のイメージと重なる。そばには戸棚のようなイメージもあらわれ、下方には樹木の幹と巨大なエビのようなイメージが重なる。そして、そのような静物と風景が重なったようなイメージが手前にある。いわば一種の画家のつくりだした祭壇のようなイメージが風景と重なって表現される。ドローイングの線による現在進行形のフォルム。柔らかな緑の色彩が、これまでの厚い茶色の被膜力の強い色彩と代わる。一つの世界がいま発生しつつある。

 上川伸「パトス」。ロゴスは理性であり、パトスは感情。大地にも感情、あるいは情動といったものが存在するのだろうか。中心から旋回するようなかたちで螺旋状のフォルムがあらわれている。先端に行くにつれて太くなる。その先端からは種のようなものが放出されている。まるでそれは精子のような存在で、もう一つの命を地上に発生させようとするかのようだ。いわば生殖する力のようなものがダイナミックに、茶褐色の一種幾何学的な形でありながら有機的な形の中に表現されているところが面白い。

 吉井寿美子「刻を積む―片づけ―」。童話でよく寝ている時に小人が現れて仕事をするという話がある。この作品もそのようなファンタジーを思わせる。箱の上にはおもちゃやバケツなどが散乱している。側面に引き出しがあって、それをあけて五人の小人が掃除をしたり、オタマを運んだりしている。プリミティヴでファンタジックなエネルギーを表現する。

 森下良一「記憶の板塀―Ⅲ」。板の上に記憶の風景があらわれる。川がゆったりと蛇行しながら手前に流れてくる。上方の板塀の一部が九十度回転して、水が滝のように下りてくる。二つの黒い手袋。黒いマスク。眼鏡。水筒。そして、滝のような水の横に二つの白い花が置かれている。洪水で亡くなった人に対するレクイエムのようだ。板塀の上にイメージが浮かぶ様子を、たどるように描く。それによってイメージがより純化され、深い記憶や無意識の世界で経験したことがあらわれる。

 阿部直昭「彩壁の中の青玉」。爆発している。爆発の美学と言ってよい。その爆発の内部に青い宝玉が一つ、ぽつんと置かれている。それよりすこし大きな青い玉が下方に置かれている。下方のすこし大きな玉のそばには、チブサン古墳の装飾古墳のようなフォルムが描かれている。大切なものとエネルギー。爆発と静止。ベーシックなエネルギーのさまを面白く絵画的に表現する。

 汐月顕「Termini」。テルミニとは駅という意味である。灰白色の手触りのあるマチエール。そこに雑誌や新聞などがコラージュされている。刻々と動いていく様子。上方からV字形の黒いストライプが見える。駅にはたくさんの人が集合し、また散っていく。そういった駅のヴィヴィッドなイメージを、独特の内向的なリズムのなかに表現する。

11室

 冲田進「舟の道 2014」会友賞・会員推挙。女性のふくよかな横になったヌードの姿が魅力的である。古代の彫刻を思わせる。あるいはマイヨールのようなふくよかな裸婦のかたちであるが、残念ながら首から上がない。背後に船を下から見たようなフォルムが浮かび上がる。柔らかな光の中に輝いているが、基本的にベージュや茶褐色のモノトーンになっている。女性のその姿がそのまま船とダブルイメージになる。船という海の中をわれわれを入れて進んでくれる存在が女性のイメージと重なって、豊かなロマンの世界が表現される。

 脇田啓子「時 Ⅱ」会員推挙。四人の女性が立っている。くねくねとした姿かたちである。胸も大きく、足も指もしなやかで、ハイヒールをはいている。女性性を強調した服を着ている。その自由な活気に満ちた女性群像が懐かしく強いメッセージを発する。淡々と女性の全身像を描きながら、それを組み合わせて、ヴァイタルな生命的な力を表現する画家の作品に注目。

12室

 豊栖亨「復活」奨励賞。地震のなのだろうか。建物が壊れている。そのビルの上方にプロペラ機が重なって下りてきている。海の中の洲がひび割れている。上方の山が噴火している。左に鳥居があって、女の子が祈っている。それが復活のイメージだろう。一つひとつのフォルムを丹念に力強く描きながら、現代の不安と希望を表現する。

 西川欽也「フルメタル ボーン」。右のほうに背骨や肋骨がある。それに覆いかぶさるように歯車が動いている。下方にはベルトのようなものがある。メカニックなものと骨とがリンクし、生かされながら、動き、強いエネルギーを発する。

 朴永子「ストリート Ⅱ」奨励賞。マンションのそばの道を歩く通行人。一階は店になっているようだ。光が差し込み、黄色と紫の二つの色彩をそこに当てる。独特の感性で、強い動きやリズム感が魅力。

 呑山政子「きれぎれのお話 2」。母親と二人の娘。背後は抽象化されて、建物も取り払われて、自然があらわれてくる。そこに、姉と妹と若い母親を聖なる存在として画家は描く。暗い中の色彩の輝きが魅力。

 安養寺智子「みんな・ひとり・ぼっち」。面白いコンポジションである。黒いコートを着た女性が近景にいて、赤いチューリップのような花を一輪持っている。後ろのカフェに青年が座って、オムレツに向かっている。反対側にキックボードに乗ったピンクのワンピースの女性がいる。カフェの前に座る男性に対する愛の思いを手前の女性はもっているようだが、背後のピンクの女性が気になる。その女性も男性が好きで、ライバルなのだろうか。そんな困難な現実をイメージするように、背後に長い階段が上方に伸びて、その向こうに教会のようなちょっとクラシックな建物が見える。空に入道雲が出ている。空の輝きに対して、下方は夜の世界のような内的な空間があらわれている。イメージの強いシャープなフォルムを組み立てながら、心理劇を描く。

14室

 伊藤幸子「地への顕現」。菩薩が横になって、ゆっくりと浮遊しながら手前に向かってきている。それは黄金色の船のようなイメージである。下方の褐色の色彩。円弧のフォルム。ゆったりとした動きのなかに癒しの世界が表現される。

17室

 寺本清子「Cannes-Ⅰ」奨励賞。ベージュに独特の魅力がある。ドンゴロスのようなものをコラージュしたり、シーツのようなものもコラージュされて、ドローイングふうな線がそこに入る。上方から下方に伸びてくる黒いストライプ。左辺から右に行くうねうねとした黒い形。渾沌とした混乱の中に、発光するような精神の力を画面に引き寄せる。

 有賀綾女「赤のコンポジション Ⅰ」会友推挙。強烈な赤のシンフォニーである。夕日が風景全体を赤く染めたイメージを感じる。その赤には深いノスタルジックな心象も重ねられている。

〈彫刻室〉

 今村玄一「Twist 2014」会友推挙。鉄によってつくられたフォルム。ねじれながら上方に向かっていくダイナミックで力強い。強いムーヴマンと量のせめぎあいの表現。

 湯村光「響き合うかたち」。立方体の厚みを四分の一ぐらいにした黒い御影石を壊し、ねじれをつくり、再構成する。そこに幽玄と言ってよいような微妙な美意識があらわれる。割れたなかにできる形。その前後した突起する部分とへこんだかたち。全体であらわれてくるハーモニー。桃山期に織部などは茶碗を一度壊して金継ぎをしたりしながら独特の造形美をつくったが、それと共通するところもある。しかし、黒一色のこの御影石のこの仕事には、ひんやりとしたもっと繊細な幽玄と言ってよいような美意識が感じられる。

 長谷川栄「CET ANGLE DE NUAGES(この雲のアングル)」。ステンレスによる円柱。それを支える薄い台。そこに画家の親しいフランスの画廊主が長谷川栄を讃える詩がプリントされている。ひんやりとしたステンレスのグレーのトーンの中に青い文字が浮かび上がって、いかにも日本的な要素とフランスふうなエスプリともいうべきものとの渾然たる一体感があらわれる。バウハウス以来の幾何学形態を探究する造形運動はいまでもフランスは盛んで、そういったものを支持する画廊のオーナーのつくった長谷川栄を讃える詩である。

 平野元起「もーそーそー」。アルミで樹木の幹をつくる。そこから枝が出て、円環があらわれ、植物の葉がそこから出ている。植物の幹から枝が伸び葉が出るというイメージ、その働きを人工的に追いながら、独特の詩の世界を表現する。

 水本智久「Natural Posture」。二つの円弧によってできた形。円弧と言っても立体の中の円弧だから、向きが異なる。その二つの円弧の上下と二つの円弧が寄って接近する部分に三つの球が置かれている。ステンレスの大きさの違う球。円弧もおそらくステンレスで、円形の台座の上に置かれ、反射し、それが周りの空間を映している。幾何形態でありながら、有機的な強い動きや存在感を放つ。

 糸賀英恵「ちりぬるを」会友賞。銅の板を叩いて、それがくねくねと曲がりながら立体となる。ちょうど百合のような花の花弁の内部を空洞化して重ねながら、全体で雲のような有機的なフォルムとなっている。その形が生き生きとしたイメージを発信する。

 常松大純「〈ベースロード電源〉Base Road of ENERGY」。三角形のフォルムの先の四分の一ほどを直角に立ち上げる。様々な空き缶からバイクをつくる。そのバイクを百ぐらいそこに置いた、独特の遊びの世界である。彫刻家の自由な遊びがそのままポエジーを獲得する。

 新名隆男「風景」。木の板の中に花形のカーヴする形を糸鋸で切って、三十度ほど奥に向かわせる。その内部にもう一度それをやって、四回それをやりながら、最後は八十度ほど後ろに後退したかたち。上にアルミの箔を貼ったのだろうか。その中に虚像のような不思議な立体があらわれる。感覚のよい見事な造形表現。

 

第44回双樹展

(9月17日〜9月24日/東京都美術館)

文/編集部

1室

 吉田香織「無色」。すやすやと眠る赤ん坊を描いている。その無垢な表情に癒される。色彩は淡く、右下方は明けられていて間が作られている。それが鑑賞者の作品に対する共感をより引き立てる効果をあげているようで興味深い。繊細な描写が確かなデッサン力を感じさせる。

 黒鳥正己「千曲川夕景」。夕暮れの川辺の情景がじっくりと描き出されている。微細にカーヴしながら流れる川と逆光になって姿を見せる街並みと山並みが強い情感を引き寄せている。低い目線からの構図が、さらに臨場感を作り出している。

 河合克弘「海遥か」。遠くに海の見える砂浜を繊細に描いている。入り組むように続く足跡と緩やかな起伏が、その風景に抑揚を作り出している。人物も点景で入れられていて、画面全体で仄かな物語性も感じられるところがまたおもしろい。

 伊勢正史「日本海」。険しく切り立った崖が手前から奥へと続き、そこに打ち寄せる波が白く高い飛沫をあげている。海面は遠景は明るいが近景になると崖の影によって暗くなっている。刻々と変化するその様子が実に表情豊かに描き出されている。力強いストロークによって崖や海面を描きながらも、そこに繊細な動きが表現されているのはこの画家だからこその筆力である。水平線の上方には空が広がるが、その空もまた海とは異なった表情を持っている。画面全体で日本海特有の厳しい自然の風景を描きながら、そこに奥行きのある深い情感を引き寄せている。

 狐塚照子「秋道─2014」。淡い色彩で紅葉した樹木の立つ広場を描いている。線によってフォルムを象り、滲ませるように色彩を施している。清々しい空気感が、画家の絵画的センスによって生み出されている。

 今村由美「子供の情景~生命集う時~」。森の中に二人の少女が描かれている。清潔な衣装を着た二人に、どこか妖精的な気配が感じられる。周囲は緑の色彩で纏められているが、それもまた純粋な子供の存在と静かに響き合っているようだ。生き生きとした描写に惹き付けられる。

 岡田一忠「月牙泉」。月牙泉は中国・敦煌近郊の、鳴沙山の麓にある有名な三日月形の泉である。少し離れた場所からそこを望む風景を描いている。夜であるが、月の光によって砂漠や建物は黄金に輝いている。踏みしめられた砂地が日中の観光客の多さを物語り、それが夜のこの静けさと強く対比される。画面全体に満ちる神聖な気配もまた魅力である。

 岡崎国昭「マグロ競り(銚子)」特選。競り人で賑わう市場の様子がじっくりと描き上げられている。横たわるマグロとそれを競る人々が確かなデッサンの力で表現されている。雑然とした場内をしっかりと纏め上げている構成力にも注目する。

 前之園千賀子「夜明け」。光り輝く輪に包まれた三人の女性が画面の中央に描かれている。三人はそれぞれ籠を持ち、そこには花や果実、魚や貝などの自然の恵みが入れられている。自然の偉大さ、ありがたさが、この女性たちを通してメッセージされてくる。遺跡やそれに対するロマンを長く描いてきた画家であるが、今回自然そのものを鑽仰するように描いているところが実に興味深い。女性たちを中心に旋回するように画面を構成しながら、自然に回帰するような未来に対する希望を強く感じさせる。様々な災禍が起こる現代において、もっとも大切にすべきことを鑑賞者に静かに語りかけてくる。

2室

 臼井桂子「やすらぎの時」。屋外に置かれたテーブルとイス、本を開いてそこに座る女性を爽やかに描いている。緩やかに吹く風が草木の葉を揺らし、通り抜けていく。そういった様子が、軽やかに繊細に描かれている。明るい色彩の扱いもセンスのよさを示している。

3室

 石川汪子「早春」。厚く手触りのあるマチエールによって春を迎える里の風景が描かれている。重厚な画面でありながら、パステル調の色彩が清々しい空気を運んでくる。強い抽象性を孕みながら、鑑賞者のイメージにそういった情感を直接訴えかけてくる強さを持った作品である。

5室

 小濱喜平治「樹韻(じゅいん)」。浮かび上がるように描かれた樹木を繊細に、掠れるように描き起こしている。どこか幻想的な雰囲気を孕みながら、樹木の存在と過ごしてきた時間を作品に引き寄せている。独特の色調で画面を纏めながら、ある種の韻律を枝葉によって奏でているようで強く印象に残った。

第86回新構造展

(9月18日〜9月24日/東京都美術館)

文/高山淳・編集部

1室

 大浦秀尚「寂浄」新構造賞。浄瑠璃寺の本堂が静寂に包まれて佇んでいる。黒々とした山林や池に挟まれて白く輝く本堂は、どっしりとした趣でどこか霊的な気配を醸し出している。殆ど油分を感じさせず、描いては削りを繰り返すように描かれていて、幽玄的な風景が表れている。(編集部)

 中谷時男「プラハ夜景」。モルダウ川から聖ヴィート大聖堂に向かう緩やかな丘陵が建物を積み重ねるように描かれている。青を基調に、場面場面の印象を切り取っていくかのような色面が無数に組み合わされている。ライトアップされた聖堂を中心に光の弧が生じていて、呼応するように川にかかった橋が明るく描かれる。古い市街の見せる複雑な街並みによる多様な光と影の競演を、幾何学的に分解して画家自身の心象世界に取り込んでいくようだ。(編集部)

 古川泰司「青森ねぶた祭り」。ねぶた祭りの山車灯籠と山車の引き手、跳人たちが構成されている。牛若と弁慶は山車灯籠から抜け出したような描写で、迫力のある筆致によって描かれている。燃えるような牛若の衣装が寒色を中心とした中で映える。下方の山車の引き手や跳人が拍子を刻み、上方の牛若と弁慶、そしてクローズアップされた跳人が節を形成している。リズミカルで躍動感のある場面が描き出されている。(編集部)

 前嶋実「九十九里凱風」。穏やかなオレンジ色の光に包まれ、まぶしく輝く漁船と、もう使われていないのだろうか、瓦礫に囲まれて陰の中に描かれた漁船が対比されるように描かれている。沖の輝く漁船は、近景の漁船の在りし日の姿なのかもしれない。繰り返す時代の変遷を思いながら、初々しく船出をする若い力を温かな目で見つめる姿が投影されているように思える。(編集部)

 髙橋忠治「宙の指環 H‌26─A」。プリズムを介したオーロラのような色彩が広がっている。様々な波形やグラデーション、同心円状のフォルムが連なっていて、まるで聴覚が視覚へと変換され、音の無い深海のような世界で浮遊しているようなイメージである。規則性と不規則性がぶつかりながら歪みを生じさせ、真ん中の青白い光から新しい宇宙を誕生させるような予兆を感じさせる。(編集部)

 石山匠「天円地方」。黒い画面に金で描かれた蒔絵のような世界。天円地方は古代中国の宇宙観だが、天球の内側にエジプトの三大ピラミッドが置かれているような風景である。地中には歯車などの幾何学的な意匠が成されていて、大地の有機的な動きを機械的なイメージで表しているかのようだ。少し離れて見ると、山から二筋の滝が流れていくような山水画的な場面にも見えてくるのが作品の魅力の一つとなっている。(編集部)

 松久崇恵子「刻の想」。朽ちつつある木の柱に括り付けられた薔薇は、その場から動くことを許されず、ひたすらに鎮魂の祈りを捧げているようだ。永遠に枯れず、花が散っては開く。散った花びらはそのまま宇宙の星へと姿を変える。そんなイメージが水彩を基本とした確かな描写力で描かれている。(編集部)

 田村誠「封ぜられしものは」。左右約二十、上下約三十近い列だから、六百個近いドラム缶のおもてが描かれている。グレーの中にブルーや赤などが入れられて、不思議なニュアンスを表す。二つの穴がつくられていて、それが不思議な目のような表情を見せる。六百近い小さな生き物がここに存在するようである。ところが、その上にシールが貼ってあって、PuとかSrとかCsなどの文字が読める。Puはプルトニウム、Csはセシウム、Srはストロンチウムの意味である。いわゆる核分裂反応が起きたあとの生成物である。福島の原発事故のあとにそれらの生成物によって汚染されたことはよく知られている。そういったものをどのようにして収めるのか。そういった問い掛けの意味がこの作品にはあるのだが、その結果は不思議な謎めいた表情をした人間の顔のようなドラム缶の表面の群れとしてあらわれている。画家はドラム缶に固執して、そこに人間的なニュアンス、あるいはリズム、あるいはハーモニー、様々な造形表現を試みてきたが、今回は核分反応のあとの生成物という恐ろしいイメージが加わって、実に強いメッセージを発信する。(高山淳)

 門前由弘「ファジーゾーン」。男女の悩める姿が丸みのある独特のフォルムによって描かれている。不思議な生々しさがある。周囲の鉄骨が檻のようでもあり、右側の画面には閉塞感が漂う。しかし、左側の画面には鉄骨の切れた先に明るい兆しが見えている。その光を女が見出して見つめている。この女は先に歩み出すことができるのだろうか。人間が普遍的に持つ前へ踏み出すことの不安や悩みが表現されている。(編集部)

 益村司「伝承─蘭陵王─」。蘭陵王の舞をテーマにしたシリーズが続いているが、今回はグレーの背景に連続する蘭陵王の姿が描かれている。手前に向かうほど濃く彩色されていて、一連の舞の動きが残像のように表現されている。高い写実力による描写であるが、画家の視点は動きの表現を追求するところに向かっているのだろうか。自然な流れを感じさせる。また、透明感のある色彩が、勇猛な仮面に隠された蘭陵王の美貌を彷彿とさせ、美麗さと力強さの調和した作品となっている。(編集部)

 神保雅春「サーカスは船に乗って・出港準備」損保ジャパン日本興亜美術財団賞。タンカーとサーカスという組み合わせが面白い。タンカーに付属された様々な機器を使って、船の不安定さを逆手にとるような動きで繰り広げられている。一方で全体の赤い色調は不穏な雰囲気もある。動物の姿が多いこともあって、現代の方舟的なイメージも重ねられる。(編集部)

2室

 宮原志司子「夏32℃,10:47」文部科学大臣賞。バイクをモチーフにした作品を続けているが、今回は、シルエットのように描いたバイクと、道路に投影されたその影を大胆な間を作りながら描いている。キャンバスの地を生かすことで、夏のじりじりとした陽射しや濃い影が上手く演出されている。水墨的だが、よく見るときちんと輪郭が取られていて、細かな部分までよく計算された作品である。(編集部)

 細谷玉江「空の旅人 2014」。正方形の画面。下方は暗い青で、ウルトラマリン系。上方はセルリアン系の色彩になっている。不思議な軌跡をもつ塊が左上と右下にある。軌跡のような線が繰り返され、その中にピンクや緑などの色彩が入れられている。上方はふんわりとして、ある量感をもっているが、右はもっとシャープで、それぞれの動きと色彩とが独特の動きの中に表現されている。その不思議な軌跡を見ると、空間というより、時間がそこに表現されているように感じられる。生々流転という言葉がある。たとえば大観の有名な「生々流転」の絵巻は百メートルぐらいで、水が山に降って河口に向かうまでの動きが描かれているが、そういった生々流転するものをこの100号の正方形の画面の中に一望する。下方の暗い青から上方の明るい青までの奥行のある空間、そのニュアンス。あるいは何層にもわたる空間のみならず、時間の積み重なった深い不思議なニュアンスを表す。時間のなかのダンスのようなイメージ。そのダンスこそが生というものの軌跡であり、無数の生がここに絡み合いながら空中に浮いているようなイメージ。そこには先だっての東日本大震災で亡くなった人々に対するレクイエムの気持ちもあるだろう。同時に、そのようなたくさんの死者は歴史のなかに積もっているわけで、その無数の死者と画家は語りながら、生の意味を問い掛けているといったニュアンス。その生の意味を問い掛けるところに、この繊細でエレガントで、同時に哀愁ともいえるような表情が浮かび上がるのだろう。(高山淳)

3室

 浅野秀夫「軍鶏」。三羽の軍鶏が三つ巴になってにらみ合っている。その眼光の鋭さが印象的だ。赤、緑、オレンジを基調としたハーフトーンの色彩が水蒸気爆発のように内側から沸き出して、軍鶏と同化し、まるで三羽の闘気が迫ってくるようだ。(編集部)

 松田悦子「ぽつんと…。」。白壁の建物を側面から眺めている。窓が一つ。引き戸ふうな窓で、青い色彩でそのガラスが彩られている。手前に電信柱が伸びて、電線が三本ほど、遠くに伸びている。そばに一本の樹木。その樹木の影が長くこの白い壁に映っている。一つの民家がそのまま一人の人間の孤独なイメージを表す。朝が来て夜が来る。その一日の時間の流れが、この斜光線によって投影された樹木の影によって表現される。影は寒色系のグレーで、日の当たっているところはベージュ系の温かな色彩である。その温もりが消えて、また夜が来る。日々の時間の繰り返しもここに表現されているように思う。季節は冬のようで、やがて春が来るのだろうが、冬の中にひっそりとこの建物の中で生活する一人の人間のニュアンスもしぜんと思い浮かべることができる。(高山淳)

 岩井雅義「小江戸の記憶」本目賞。城下町特有のクランク状になった道を舞台に、雪の降る中和傘を差した女学生や書生の姿が描かれている。雪によって雑音が消され、物語の始まりを思わせる。スパタリングするように散らされた雪は現代と過去の隔たりを感じさせ、また、着物の赤や青の色彩を映えさせている。(編集部)

4室

 大久保方子「河凍る」。山の中腹から見下ろした風景だろうか。雄大な雪景色が拓けている。日の光を反射して黄味がかった雪や、遠景に横たわり、遙か彼方まで続いていきそうな凍った河が紫を帯びて幻想的である。近景から伸びる樹木の細かい枝の動きや、中景の小屋周辺にある低木のコロコロとした様子が面白く、アクセントとなっている。(編集部)

 小田原朝子「カスバ・モロッコ」。厚く塗り重ねた色面を積み上げるように構築された建物がそびえ立っている。全体が褐色とグレーのトーンによって表現され、荒涼とした雰囲気である。色を限定しながらも平面的にならず、地面の中に建物が立ち上がってくる。ナツメヤシや人間と思しきフォルムがシルエットで描かれているのは、歴史の記憶をたぐり寄せているかのようだ。過去の気配を塗り込めながら哀愁のある画面を作り出している。(編集部)

5室

 西川くみ代「夢の時間 14─①」。スケートをするように片足を上げて、柱の陰に前のめりになる少女がシルエットになっている。ほとんど脚しか見えていない少女だが、強く印象に残る。画面の下半分は滑らかな水面で、上方の場面を映している。多くの面積を占める雲の構成も面白く、実に涼しげで澄んだ空気を感じる。(編集部)

 小田悦子「サボテン(WORKS NO1)」東京都知事賞。木版リトによる手触りのある作品である。緑を主に茶色をアクセントとして描かれたサボテンは、一つ一つの突起がうごめくように、躍動感たっぷりに表現されている。この僅かな水分の中でも増殖し、成長を続ける多肉植物のイメージに未来への希望が託されている。(編集部)

 谷田川卓「明日へ」。まるで紅蓮に燃える太陽のような強いイメージである。円弧の中に男の顔があり、そばに白い百合の花。上下に林檎。中心に男の顔がもう一つ描かれている。その外側にも男の顔が位置を変えて三つ。周りの紅蓮の炎のような部分には鶏の頭が描かれている。鶏の口をあけて鳴いている様子は朝が来たという合図である。それは純潔であり、イノセントであり、希望の象徴のように思われる。林檎はしぜんの恵みや安心を表すのだろう。林檎のもつ力はたいへん強く、抗ガン作用もあるそうだ。二つの円のあいだにサッカーに興ずる選手の足を中心としたフォルムが描かれて、強いダイナミズムが生まれる。そうすると、口を開いた男もまたサッカー選手のイメージなのだろう。筆者にはその顔と作者の顔が重なるのだが。背後にはT字の赤い大きなストライプがつくられ、朝の希望の光が差し込み、サッカーができるという平和への思い、そして自然の恵み。ポジティブな、生命に対する讃歌のイメージがあらわれる。東日本大震災に対する深い思いからつくられた作品の連作が続いてきたが、今回はその悲惨さを克服して、もう一度肩を組み、みんなでサッカーをやるように支え合いながら未来に向かうというメッセージが、ごくしぜんと説得力をもって作品から発信してくる。(高山淳)

 山口竹夫「山」会員賞。黒いシルエットの山が大きな生き物のようにも楽器のようにも思える。中腹には黒と対照的な紙吹雪のようなカラフルな色面が、山の生物たちの胎動のように敷き詰められている。リズミカルであり、ユニークな造形センスが画面に表れている。(編集部)

 斉藤弘久「諦釈天(AKIRAMENAI)」秋山賞。様々な技法を駆使して制作されているという。モチーフに対する確かな描写力をベースに、版画ならではの味わいが作品を深めている。一匹のリスが尻尾を丸め、まるでチェスの駒のような佇まいで、木の実を持った前足がハート型になっているのも愛らしい。(編集部)

 早坂宗太郎「風の詩 A」。木版の目を縦横に重ねるようにして、柔らかな色彩のハーモニーを紡ぎ出している。三日月の光が、月の欠片のようなフォルムで舞い落ちて、笹舟となって川を流れていく。そんなイメージが浮かび上がる。東北の作家が震災への鎮魂として制作してきたシリーズであるが、穏やかな風に乗った魂が左右にゆっくりと振れながら浄化され、海へと帰っていくのだろうか。三日月を中心とした同心円状の広がりと、色層の複雑な交錯によるフォルムの立体的な配置によって独特の動きのある画面が生まれている。(編集部)

 山香和信「賢風登」一般奨励賞・会友推薦。ステンシルによって、ステンドグラスのような画面を作っている。繊細な技術によってミミズクと木が装飾的なデフォルメで描かれ、色彩豊かである。自然の持つエネルギーの中に、知を司るようなミミズクの姿が凛々しい。(編集部)

9室

 坂田喜久子「樹」。古木のうろに潜むフクロウが静かに外を窺っている。複雑に入り組んだ古木は形状が面白く、胎動してうねり、このフクロウを守っているように見える。よく見ると様々なタッチを混在させて描いていて、樹木の立体的な表情をうまく表している。モノトーンに近いが、色感の良さを感じる作品である。(編集部)

10室

 藤岡節子「アルベロベッロ(Ⅲ)」。建物の陰になった場所からアルベロベッロの町を遠望している。暗い場所から明るい場所を眺めることでハレーションのように乳白色がかった輝きが出現し、斜光線が特有の円錐形の屋根と交わって幾何学模様を形成する。トーンの変化によって柔らかな光と硬質な建物のコントラストがよく表現されている。(編集部)

 上杉紀恵子「サプライズ」。ゴツゴツとざらついた画肌を作り、三匹の猫とシャボン玉が描かれている。夢の中のようでもあり、日なたの心地よさもある。猫のすましながらも興味津々な様子がありのままに描かれていて、特に真ん中の猫の目を細めた表情が愛らしい。(編集部)

 水谷清子「心情の捧げ」。花嫁衣装の女性が凛として立っている。体格が良く、不思議な迫力に満ちている。陰影の表現が独特で、かなり塗り込まれている部分があるが、重々しくはなくクリアな描写で人物が浮かび上がっている。流星や火の粉のような光が背景に入れられ、生涯の伴侶に自らを捧げる強い意志が表現されているかのようだ。(編集部)

 寺本洋子「遥かなる記憶」。アオザイと笠帽子を身に着けた二人の女性が、ベトナムの塩田を背景に描かれている。画面全体に和紙を使い、様々な形で構成しマチエールを作り出す。その和紙の効果か、月明かりを思わせる黄色い色彩が、行灯や障子から朧にこぼれる光のように感じられる。水牛と共に隊列を成して荷を運ぶ人々がノスタルジックで、二人の女性が故郷を思うイメージが表れているのかもしれない。揺らぎの中に風土の香りが漂うような作品である。(編集部)

11室

 内田雅敏「ボサノバ東京」。アメリカンコミックから抜け出したような男女が、南国の夕暮れを思わせる色彩に染まった東京の街並みを背景に描かれている。音楽が地球のほぼ反対側に位置する東京とブラジルをつなぐ。テンポ良く、それでいてしっとりとした雰囲気もあるボサノバの曲調がこの画面の色彩によく表れている。(編集部)

12室

 岸さとみ「マテーラ(南イタリア)」。地中海周辺の陽射しだろうか、独特の明度を持った画面でマテーラの一角を描いている。油彩画の魅力を存分に引き出すような構成であり、緑の階調と壁の白が活きている。色彩の良さもさることながら、小さな窓がリズム良く配置されているなど、長閑で爽やかな気持ちに導いてくれるような光景が描き出されている。(編集部)

14室

 吉野實「空即是色」。山間の庵の周りに桜が咲いていて、月明かりに照らされている。下方の桜は青白く、上方はオレンジがかって輝いている。山には雪が残り、その雪の反射が桜の輝きと共鳴する。舞う花びらは鳥のように見え、幻想的である。庵の僧侶の瞑想の中から作られた世界なのだろうか。まさに空即是色の世界なのかもしれない。(編集部)

15室

 大内敬子「アラスの街並」。擬人的なフォルムの特徴的な建物が、薄暗い背景の中スポットライトを浴びるように並び立っている。石畳がしっかりその質感を捉えて描かれているのに対し、建物には少し温かみがあり、人間っぽさがにじみ出ている。そのぎゅっと密着するような姿も面白いが、建物一階部分のカフェで過ごす人々の様子が実に細やかで見応えがある。手前の傍観するように立つ黒ずくめの女性は、カフェの人々とはかなり異なる存在で、どちらかというと擬人的な建物と対話しているような印象があるのも不思議な雰囲気である。(編集部)

15室

 益村範子「鉄の扉(被服支廠)」。広島の原爆の爆風で歪んでしまった鉄の扉が、悲痛な表情を浮かべるように描かれている。精緻な写実描写であるが、扉周辺のレンガには、どこかこの世のものでは無いと思わせるような妙な視覚効果がある。この施設には被爆した多くの人々が運ばれ、最後を迎えたという。そんな悲劇を目の当たりにしてきた鉄の扉の悲哀がよく表現されている。(編集部)

21室

 菅野美穂子「通り(リトアニア)」会員推薦。リトアニアのダウンタウンだろうか。トーンを統一させながらも対象それぞれの質感がしっかりと表されていて重量感がある。その場に立ち会っているような臨場感のある画面で視線が吸い寄せられる。(編集部)

 川栄健治「懐かしの玩具」会員推薦。日本の伝統的な凧やけん玉、こけし、毬などを構成して画面いっぱいに描いている。背後の壁や床、箪笥の沈んだ色調に対し、玩具ひとつひとつが鮮やかに描き出され存在感がある。そして、ほとんどのモチーフに使われている赤い色彩が全体に統一感をもたらしている。(編集部)

第76回一水会展

(9月18日〜10月3日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 久保田辰男「里の譜」。二頭の牛が穏やかな表情で立っている。そばの柵につがいの雀。遠景には山の下に家があり、里の風景がのぞく。じっと見ていると、この牛は雄と雌で夫婦なのかもしれない。そんなイメージがそのまま里山の風景とリンクし、懐かしいイメージが漂う。牛の背後に、満月のような光背のような不思議な光が満ちているのも面白い。ふるさとを賛歌するイメージからしぜんとあらわれた光だろう。

 木村毅「相生橋から」会員努力賞・委員推挙。古い路面電車のようなもの。その前に広島駅という駅名が掲示されている。それを背景にしてセーラー服姿が横から描かれ、振り向いて、鑑賞者のほうを見ている。女性は画家がはるか昔、この路面電車が動いている頃に出会った人のようだ。記憶のなかから現れてきた風景や電車や人間のようだ。とくに手前の女性の姿にはなにかあやしいものが漂う。

 さきやあきら「貌─かお」。長い樹齢をもつ樹木の幹を大きく拡大して描いている。接近すると、長い年輪の跡のようなしわがあらわれる。そこに光が差し込んで明暗ができる。時間がそのままこの樹木の幹にあらわれているように画家は描く。一羽の蛾がとまっている。短い生を象徴するように。それに対して百年単位の長い歴史のなかに生きてきた樹木の時間が対比される。

 田中義昭「ムードンの丘より」。ロマンティックな劇的な風景である。ほとんど抽象的に画面は扱われている。遠景に塔のようなフォルムが見える。その手前にたくさんの建物が密集している様子が、紫や白のうねるようなフォルムの中に暗示される。いちばん近景に赤い煙突をもつ建物が見える。周りはベージュに緑が入ったような色彩。ムードンの丘から眺めた光景を一種抽象的に心象的に、強いムーヴマンのなかに表現する。

 小川游「屈斜路湖悠久」。静かに空を映して広がる屈斜路湖。中に島が見える。青、紫、緑、黄土などの色彩によって描かれている。繰り返し筆のストロークによって色彩が画面に塗りこまれ、独特の大きな空間が生まれる。

 山本耕造「年月」。ロングのカーディガンを着て座る女性。左手に小さな白い花を持って、それを眺めている。背景に裸木と小さな植物や蔓のような植物が描かれている。背景の風景の中にもう一つ矩形の風景があらわれる。それは流れていく歳月を連想させる。春を待つ頃の冬も終わりの季節のイメージだろうか。茫漠たる時間の象徴のような風景や植物、樹木などに対して、女性のフォルムはクリアで、何か思いをひそめているような様子。両手を握り締めたその緊張感のあるかたちが独特の強いメッセージを発信する。

 寺井力三郎「赤い月」。自転車に乗る少年に伴走するコリー犬。いま満月が昇ってきた。夕方の六時頃の時間帯の風景。その光の様子をよく画面の中に表現する。自転車と犬が右の方向に走っている。月もまたゆるやかに昇って動いているような、そんな二つの動きが微妙に呼応するようだ。時間の足音を聴いているような、そんなイメージの広がりも面白い。

 玉虫良次「街路」。マグリットに夜と昼の時間帯を同時に描いた作品があるが、この作品もそんなニュアンスを感じる。上方にはビルが立ち並び、朝の光が差し込んでいるが、手前に来るにしたがって夜や夕方の時間がそこに侵入してくる。その時間帯には過去の記憶のなかにある建物や人間たちが現れてくる。いちばん近景には六角形の不思議な建物があり、左のほうでは少年がショーウインドーを眺めている。そこには女性用の靴や女性用のマネキンなどが置かれている。ところが、右のほうは同じショーウインドーの、ガラスの中にお菓子などの入れられたいわゆる駄菓子屋の店先になっている。古い電話機もある。電信柱のそばには子供を背中に背負う母親が立っている。左のほうには和服姿の女性が背中を見せ、手前には男が新聞を眺めている。後ろには路面電車がまだ走っている。それぞれの人は動いているようだが、実はストップモーションがかけられて、みんなそこに静止して立っている様子も面白い。画家の魔法によってつくられた、いわば化石化された人間群像と言ってよい。そこにあらわれてくる深い記憶の世界が画面に立ち上がってくる。時間の謎のなかに鑑賞者を誘う。

 新井隆「麗日」会員努力賞・委員推挙。テーブルに向かって女性が座っている。テーブルにはコーヒーメーカーや白いコーヒーカップや林檎などが置かれている。背後は大きな窓で、畑と建物などが描かれ、空も上方に広がっている。柔らかな日差しが風景にも室内にも差し込んでくる。その光のニュアンスによって色彩や影の生まれる様子が力強く表現されている。テーブルの上の三つの林檎がつややかに、まるで宝石のように輝いている。くわえて、手前の六角形のテーブルの上のガーベラのようなオレンジ色の花も同様の輝きをもって入れられている。風景や静物が主役になって人物は脇役になっているのも、面白いコンポジションと言ってよい。

 弓手研平「梅雨明ける」。大きな画面に実に力強いコンポジションである。水たまりがいくつも地面にあって、空を映している。画面上方には牛とその綱を持つ三角形の笠をかぶった男がいる。地面はベージュ。水たまりの中はブルーの中に白い雲。大胆なこのデフォルメした形は、たとえば清初の遺民画家、八大山人などを思わせる。水墨的な自由なデフォルメ。それは心象表現と言ってよいのだが、それを油彩画の堅牢なマチエールの中に表現する。自然は生きている。水も生きているといった趣である。そして、空を映しながら水自体がある不思議な存在感を発揮しながら画面の中に置かれている。地面の中にある水は、通常の視点だともっと違ったかたちになるが、この絵の中ではズボッと自由なアメーバのようなかたちをいくつも画面につくり、その中に空を映すといった様子。そのいわば断定する力がこの画面の骨格をつくり、力強い汎神論的なイメージを発信する。

 保坂晶「遥かな風景・石を積む」会員推挙。イタリアにはサンジミニャーノといって五十いくつもの塔のある街がある。そういった風景からインスパイアされたのだろうか。空に向かって伸びていく建物。あいだに二十八日ばかりの月が見える。空は青く、おそらく朝方の光景で、名残の月のようだ。下方にぽつんと人間のシルエットが見える。まるで夢の中の風景のようだ。自分自身の姿を自分で目にすることがある。ドッペルゲンガーという現象であるが、そういった言葉も浮かぶ。その向こうは水平線である。空と地面と海、建物。そういったエレメントが夢の中に存在するもののように扱われて、強い心象風景をつくりだす。

 柳沢賢一郎「裏町 Ⅵ」会員推挙。緑の扉に白い壁。石造りのペイヴメント。ビストロという文字が見えるから、レストランなのだろう。そういった外国の一隅を強いマチエールの中に表現し、窓にはその手前の風景を映していて、一隅と同時にこの街全体の雰囲気を表現する。ユニークなコンポジションである。

 平井芳夫「晩秋野」委員推挙。晩秋の紫色になった野原を背景にして女性が立っている。白い上衣が鮮やかである。風が吹いているようだ。光が当たる中に、考えこんだメランコリックなイメージがあらわれる。

 茅野吉孝「一隅」会員佳作賞。木箱の上に赤い南瓜が一つ。そばにジーンズの上衣。ブルーである。背後の地面にもドンゴロスが置かれている。落ち葉がいくつか散っている。季節の別れ。秋が終わり、冬が近い。その頃の透明な光がこの光景に差し込む。実りの秋の象徴として南瓜が置かれる。季節の別れの歌のような、そんな繊細なイメージと同時に、描かれたそれぞれのものの物質感とがリンクした独特の表現である。

 山田正博「牧舎」。手押し車に積まれた干し草。手前にはバケツが置かれ、扇風機のようなものが上方に見える。ほとんどグレーの中に表現されている。手押し車は建物のすこし外側に置かれ、その向こうの塀には雪が積もり、その向こうの風景にも雪が積もっている。しーんとした雪の積もった牧舎の光景をしみじみとしたトーンの中に表現する。

 宇野のり子「時は流れて……」。三つのボックスが置かれている。あいだにチューリップの入れられた花瓶。透明なガラスの壺の中には落ち葉が入れられている。それぞれのボックスの上には枯れた葉のようなものが置かれ、秋が過ぎて、やがて冬が来、冬が過ぎれば春が来るといった、そんな季節の変化が表現される。ベージュのバックに黒い三つのボックス。あいだの赤いチューリップ。不思議な韻律があらわれる。

 三輪由紀子「休息」委員推挙。自転車に乗る若い女性を誠実に表現する。背後の倉庫の壁のような堅牢なマチエールに対して、柔らかな女性のフォルムが対照される。

 山田和夫「通り過ぎる秋」文部科学大臣賞。レールが積まれている。レールが分解されて、しばらくここに置かれている。一部錆が出ている。そのレールの集まった様子には強い重量感と存在感がある。その上に立ってこちらを眺める猫。もう一匹の猫は座って下方を眺めている。背景には緑の壁をもつ工場のようなフォルムがある。JRの建物なのだろうか。この画面のみどころは、ここに解体されて置かれたレールのもつ存在感と、そこに佇む猫の生き生きとした姿だと思う。

 田島健次「いわや」。インドの光景だろうか。牛と籠を持つ女性。その向こうには頭に籠をのせた女性がこちらに歩いてくる。巨大な岩。岩の中に彫られた仏像のようなもの。一万年とか五千年前の人間たちの営みと現在の営みとが同じ時間のなかに、同じ空間のなかに存在するインドの不思議な存在。そこに画家は強い魅力を感じていると思う。プリミティヴな時代と今日の時代とが同じ現代という時間に重なってあらわれてくる、そんなイメージをこのようなかたちで構成したのだろう。上方の大きな岩が下方に崩れてくるような強い存在感をもつ。それに対してか弱い儚い人間や牛の存在が対比される。

 武藤初雄「湾岸にて(泉大津)」。海岸につくられたコンクリートの壁が長い時間のなかに風化し、穴ができ、亀裂が走っている。その壁を拡大して画面に描く。その壁自体が時間の象徴のようだ。数十年の歳月のその軌跡を表す。まるで樹木の年輪のように、コンクリートの壁がそのような歴史的な時間のイメージを発信する。その一つひとつをいとおしむように画家は描いていく。一つひとつのひびや穴ぼこ、あるいは磨耗したその表面。それが表徴する時間をいとおしむように画家は表現しているところが面白い。水彩による作品であるが、油彩画以上にマチエールがその存在感を発揮する。

 西真里子「花ひらく朝」一水会優賞・委員推挙。赤い布の置かれた丸いテーブル。そこにはガラスの瓶にポピーが入れられている。赤、白、オレンジ、ピンクの花。白いカスミソウ。後ろの椅子には白いバイオリン。そしてまたその後ろの本箱には黄色い布に砂時計のようなもの。周りはグレーや緑である。三原色の色彩をすべて使いながら、独特の雅やかなハーモニーをつくる。

 滝沢美恵子「想」。女性が座ってこちらを眺めている。後ろの壁にいろいろなポスターが貼られている。いずれも映画のポスターのようだ。画家は映画や演劇が好きなのだろう。そういったもののポスターを貼り、そのポスターの中にあらわれてくる人物、あるいは映画の中からピックアップしたものを配置しながら、演劇的な空間と現代の人間とを対比しながら、セラヴィというのか、人生を歌うようだ。

 小笠原あい子「母」一水会賞。車椅子に乗る老女。膝にノートを持っている。右手にはボールペンのようなもの。全身像である。この女性の生きてきた歳月が体全体に刻みこまれているような存在感を表現する。

 岡山豊樹「路傍の石 Ⅱ」安井曾太郎奨励賞・会友推挙。外国の風景のようだ。向こうから斜めに入ってきた光が、街灯の影を手前まで捺している。左のほうは影になっていて、そこにはミラーやボックスや建物の一部が見える。道路の中心の白いセンターライン。道の半ばと向こうの建物は明るい黄土色。その光のもつ陰影、影が長く引いた様子に深い情感が醸し出される。夕暮れに向かう光がそのままある時間を表すようで、そんな中に空間が深々とあらわれて立ち上がってくる。

2室

 本山唯雄「卓上」。面白い花瓶にダリアのような赤い花が一輪生けられている。花瓶の胴の下方には女性の顔が見える。黄土色のテーブルが大地に変容する。そして、本来壁のあるところに林があらわれ、丘がその向こうに見える。そういった不思議なイリュージョンを画家は表現する。花瓶の下方の女性の顔がそのような幻覚を起こさせる魔女のような不思議なイメージである。

 川村親光「卓上の静物」。木の机の上にポットやコップ、壺、湯呑み、瓶などが置かれている。一つ小さなスプーンが置かれているのが、構成上面白い。トーンによって対象に迫る。そのトーンのハーモニーに繊細で力強いものがある。

 吉崎道治「雪の朝」。新しく雪が降って積もったあとに、人が歩いた跡がくっきりと残る。その雪の質感と足跡によってこの作品はできている。いつごろこの足形がついたのだろうか。いつごろ雪が降ったのだろうか。そんなこともしぜんと思い浮かぶ。見慣れた光景を作者は画家の目で発見する。そこに新鮮なイメージが新しく立ち上がってくる。

 宮原麗子「葉牡丹のある庭」。窓があけられて庭と室内とがリンクする。室内には白いテーブルクロスの置かれた中に、香辛料の入れられた球体の器、箸立てになっているもの、木と皿の組み合ったもの。後ろの簞笥には地球儀が置かれている。庭の地面は黄色く、その向こうに屈曲した樹木が枝を伸ばしている。手前に葉牡丹が青く、ピンクに、白く咲いている。その向こうには空が見える。暖色系の色彩。オレンジや茶色、イエロー、クリムソンレーキなどの色彩を微妙に変化させながら画面の中に使う。それに対して寒色系の青がそのあいだに、また色調を変化させながら置かれている。それらがお互いに絡みあいながら堅牢な空間をつくる。その緻密で力強い空間に感心した。

 丹羽章「宵の山下公園」。山下公園を歩いている若いカップルは手をつないでいる。そばにすこし中国ふうな建物がある。反対側には犬を連れた青年。海の向こうにはイルミネーションされた船が輝いている。空を見ると、三日月が出たばかり。青から紫の色彩を点描ふうに表現する。夕暮れの山下公園の光景であるが、刻々とその色調は変化していくだろう。脇役のように、船や海の向こうの輝く建物などが置かれている。光が宝石のように扱われる。そのすべてが暮れ方のなかに沈んでいくのではなく、逆に輝いていくものを画面の中に引き寄せ、描くところが絵画というものだろう。健康でポジティヴなヒューマニズムともいうべきものが、この作品の魅力だろう。

 辰巳文一「ヴエネツィアの夜」。左からゴンドラの舳先が伸びている。たくさんの杭が運河に打たれている。それは船を繫留するための杭である。後ろには古い建物がいくつも見える。夜の照明の中にそれぞれの建物が輝いている。同時に、たとえば右の茶褐色の壁の建物は窓が暗いが、その横の白い建物の二階は明るく、オレンジ色の灯に窓が染まっている。左のほうにはもっと明るい山吹色のイルミネーションされたモミの木のようなフォルムが見える。黒いゴンドラが手前にある。水は緑で、光を映して一部オレンジ色に輝く。空は暗い紫色。すべてのものが色彩によって捉えられている。そして、その色彩が静かにハーモナイズする。そこにはときめきがあり、ドラマが生まれる。単にヴェネチアの風景を描いているのではない。このヴェネチアという街で生活する人、あるいはここを訪れた人の心持ち、あるいは画家自身もそうであるが、そういった心によって染められた風景を表現しているところが面白い。

 平井利明「ばん馬」。北海道の馬である。馬体はずんぐりしているが、ずいぶん力がある。輓馬の競争するシーンを力強く表現する。五頭の馬がヨーイドンで走り始めたときの、その力強い、いわば馬の群像と言ってよいコンポジション。一つひとつの馬の個性までも表現するような意気込み。強いマチエール。力強い構成。

 寺井重三「民族衣装のえりかちゃん」。緑のスカート、白いブラウス、暗緑色のチョッキに赤や白い花模様。本を持ってポーズをしている。お洒落な靴。後ろに赤いものが置かれている。簞笥の上には写真立て。背景は錆びた黄金色。独特のカラリストである。色彩豊かにこの愛らしい女性を表現する。とくに赤がイノセントな輝きを発する。

3室

 茶本良隆「砂上の廃船」。浜辺に壊れた船が傾いている。そこからマストが立ち上がっている。船腹は壊れて傾いて、地面にうずもれている。倒壊して死にかかっている船を人間のようにドラマティックに表現する。

 中山一昭「早春の轍」有島生馬奨励賞。棚田の一部を大きく引き寄せて表現している。その水を張った中に不思議な文様があらわれている。田植えをする前の棚田の様子をよく知った人の作品だと思う。画面のほとんど半分以上を水を張った棚田が占めていて、その中に出てくる文様が不思議な魅力をもって鑑賞者を引き寄せる。

 伊藤尚尋「Fromnoon Till Dawn」一般佳作賞・会友推挙。正午から夜明けまでというタイトルであるが、描かれているものは、磯に立つ若い女性である。磯の岩のごろごろとしたかたちを丹念に描いている。帽子をかぶって長いスカートをはいた女性がそこに立って、頭をひねって遠くを眺めている。側面から描いているが、顔をひねっているために全体は一つのシルエットとして表現されている。逆にそこにミステリアスな独特のニュアンスが生まれる。いま朝日が昇っている様子である。ディテールの力がこのようなロマンティックな雰囲気のテーマを支える。プロとして通用していくような画面づくりと言ってよいかもしれない。

 三宅柳子「川原の精」。倒れた樹木の枝。そんなものが屈曲して不思議な形をあらわしている。そのそばにコンクリートのブロックのようなものが一つ置かれ、そこにマネキンの人形が置かれている。手足は切断されて、トルソで、大きな帽子をかぶっている。二つの手はそばに置かれている。なにかあやしい雰囲気がある。女性という存在が、この同性の女性にとってもミステリアスなものとして捉えられている。ある意味では同性であるから逆に、女性のもつ生命感とかその渾沌としたエロスの力を引き寄せることが可能であるかもしれない。淡々とディテールを積み重ねながら、そのような不思議な世界を表現する。

4室

 芝田順子「収穫のあと」石井柏亭奨励賞。大根を干している様子を描いている。水彩作品。微妙なニュアンスが描かれているところが魅力。紙の上に、逆にいえば水彩であるためにそのようなニュアンスが表現しやすい。油絵だともっとこってりとして、ニュアンスが消える。もののもつ重量感というより、大根のそれぞれの形とそのニュアンス全体によって独特のハーモニーが生まれる。

 世良ツヤ子「自画像」。パレットを持ち、ナイフを持った作者。帽子をかぶって白い地に青い模様のワンピースを着ている。色彩家である。光がそこに差し込んでいる。全身の自画像である。この作品の魅力はなによりも色彩の力だと思う。もちろん、それを支えるフォルムの強さがあってこそのことだが。

 北野祥子「収穫の頃に」。地面にたくさんの林檎が落ちている。その向こうには低い丈の林檎の木が枝を左右に広げている。そこにもたくさんの林檎の実がなっている。手前の林檎の様子は、林檎を集めて静物的に表現されているが、そのつややかな赤の色彩のハーモニーが実に魅力的である。柔らかな緑のトーンのなかに、宝石のようなつやつやとした数十個の林檎のもつフォルムと色彩のハーモニー。そして背後の緑の陰影とも静かに響きあう。

 江口光興「浜小屋・歳月」。一階建てのみすぼらしい建物。右のほうは廃屋になっている。向こうに海があって、水平線まで静かに海の存在感が表現されている。地味な絵であるが、海と地面、そして地面の上に立つ建物という三つの要素をしっかりと表現する。

 原元勝「老壁と窓」。壁の漆喰がはげ落ちて、土台の煉瓦が顔を出している。この建物はもうほとんど廃屋に近いのかもしれない。百年、二百年という歳月が過ぎたのだろうか。手前のペイヴメントに一羽の鳥が下りている。時間というもののもつ力が建物のもつマチエールと相まって静かに語りかけてくる。

5室

 辻原久美子「おでかけ」。小さなハンドバッグのような籠を持って立っている女性。赤い上衣に花柄のワンピース。黒い帽子。妖精的な女性。岩絵具のようなマチエールで対象をしっかりと静かに描く。

 吉本英子「アトリエの一隅」。独特の色彩家である。テーブルの上に赤い花などが差された花瓶。皿の上に置かれたものが微妙な陰翳を発する。手前にコーヒーカップ。机も椅子も壁も暗い緑系のトーンの中に、お皿や花瓶、花、魚などが浮かび上がる。

 山口武行「暮れゆく」。川が画面の約七割以上占める。そこに無人の一艘のボートが浮かんでいる。そばにつがいの鳥が飛んでいる。上方を見ると、低い位置に満月が出ている。その光がみなもに輝いている。手前の粗末な木の板の上に壺があって、白い花が差されている。手前の切り株に猫がいて、あくびをしているような雰囲気で遠くを眺めている。幻想的な雰囲気で、画家の心象風景と言ってよい。月夜の晩のイメージ。月との関係のなかからこの不思議なコンポジションが生まれたのだろう。

 小泉玲子「小さなバレリーナ」。四、五歳の女の子がバレーの練習をしている様子を愛情深く表現する。トータルでこの子供の愛らしい生命感を表現しようとする、その筆力に注目した。

6室

 池田清明「フラメンコ」。ギターを弾く青年。手拍子をする女性。その二人を背景にして、赤い衣装を着たダンサーが踊る。左手で裾をつまみ、右手の指を独特に曲げながら踊る。上体から首が立ち上がり、頭と接する。肩から腕が伸びていく。そういった人体の基本的な構造がしっかりしていることによって、一種彫刻的ともいえるような魅力が生まれる。しかもそれが絵画として流れるようなリズムの中に表現される。

 佐藤道雄「博物館前庭」。手前で樹木が四本ほど、太い幹を上方に伸ばしている。緑の葉を茂らせている。地面には道ができて、低い柵の向こうに伸びていく。実景を前にしてキャンバスを立てながら描く。それによって風景の厚みが生まれる。緑の独特のニュアンスがこの作品の魅力である。

 松下久信「朝光の丘」会員努力賞・委員推挙。麦藁を積んで上に布を掛けたようなフォルムが、点々と大地の上にある。それをパースペクティヴの中に表現する。向こうに向かってすこし下方に傾斜する大地。それに対して、中景には左から右に向かって傾斜していく大地が、手前より低い位置にあることが描かれている。それを囲みこむような雑木の連続したかたち。空には雲が出ているが、柔らかな光を含んだ様子。手前の斜光線のすこし暮れ方の光景に対して空の光を含んだような表現の対照は、実に鮮やかな印象を受ける。手前の存在感のある地上の風景に対して、空のロマンティックな光を含んだ光景が対照される。

 森敬介「断崖の白い街」会員努力賞・委員推挙。地中海の街の光景だろうか。海から斜めに立ち上がっていく大地に白い壁の家が密集している。中央には教会のようなものがあるようだ。上方にはセルリアンブルーとコバルトブルーをかけたような空が広がって、海はもっと黒々としている。そのあいだに風景がボリューム感をもって静かに表現される。

 宇佐美明美「風の譜 Ⅱ」会員努力賞・委員推挙。砂丘が風によって不思議な風紋をつくる。その砂丘の果てに湖がある。湖の向こうは高く立ち上がった岬のようなフォルムになって、そこも砂によってできている。左のほうに暗いジョンブリヤン系の海がのぞく。その暗い海と手前の湖の空を映して明るく輝いている様子とが対照される。手前の砂丘の様子を見ると、風の動き、気候の変化によって刻々と変わっていくことがわかる。変化する中に静かに動かない湖の様子。手前の五本の杭が砂丘から立ち上がって、枯れたような草がその周りを占めている。大きく円弧を描きながら、空のかなたに逃げていくような動きがある。砂丘は光っている。紫がかった黄金色に輝いている。無人の光景であるが、ミステリアスな不思議な風景が広がる。

 鈴木益躬「断層の岬」。湾の向こうに岬が伸びているが、その岬の先端は白い崖になっていて、そこに断層があらわれている。手前に防波堤のようなものが伸びているが、同時にそれは船を接続する役目をしている。そういったものが手前にすこし小さく短く海に伸びている。その手前には民家が立ち並んでいる。赤や緑や黒い屋根をした民家である。その防波堤に向かって左からもう一つの防波堤が伸びて、赤い灯台が見える。パノラマ風景である。おそらくこの現場で詳細なスケッチをしたうえで描いたものと思われる。画家独特のシャープな筆力が風景というもののディテールを捉え、そこにかたちのドラマを表現する。背後の山、遠景の雪の積もったその山。独特の湿度のある空。靄のかかったような空気感までも描きながら、その中に白い断層の岬がきらきらと輝く。

 河西昭治「シュピタール門」会員努力賞・委員推挙。ずいぶん上方から俯瞰した構図である。赤い茶褐色の屋根とベージュの壁をもつ建物。塀。手前には二つの円弧が重なったドームのような円筒形の建物があって、その真ん中には樹木が生えている。広い道路がそれを囲み、手前には車がとまっている。褐色を中心とした暖色系の色彩によるこのヨーロッパの街並みには、どこか陰鬱で重厚な感じがある。日本ではまずありえないそのような建物と街の様子を上から眺めながら、明暗のある量感のなかに表現する。

7室

 藤目尚江「赤い馬車」。二頭立ての馬車に乗る観光客と思われる二人の女性。御者は後ろ姿を見せている。そういった全体を大きな量感の中に捉えて、臨場感がある。

 山本佳子「土曜日の展示室」。矩形のボックスの上に座った十歳ぐらいの女の子。黒い衣装をつけた横顔。周りのベージュのなかに女の子の柔らかな若い樹木のようなフォルムが新鮮。

 芝教純「刻の涸れた小路」。「刻の涸れた小路」という題名は面白い。小さな道に十五歳ぐらいの少女がズックとズボン姿で立っている。普段着である。周りに黄土色の壁が迫っている。まるで昔の粗壁がそのままあらわれたような民家のかたち。そのフォルムを丹念に描く。少女は今の少女の姿で、生き生きとしてモダンな雰囲気であるが、周りの建物は数十年前にすでになくなってしまった家屋の壁のようだ。数十年前の壁に囲まれた道に今の女の子を置いたような、不思議な味わいがある。「刻の涸れた小路」ということは、そこには時間が流れていないということになる。時間の流れていないその背景に、時間の流れている十数歳の女の子を立たせる。逆に、それによって女の子の生命感がより際立つように表現される。背後のこの幾何学的な壁と窓の光景。まさに廃屋のような雰囲気。そこには、時は流れていないにもかかわらず、古い音楽が鳴っているような、その古い音楽のベースの上に新しい瑞々しい女の子のメロディが重ねられて、独特の心象的な空間が生まれる。

 鈴木喜博「時を刻む」。緑の黒板のようなフォルムが壁につくられている。手前のテーブルには緑と金の布が置かれ、そこに染付けふうな皿や水指やワインボトルや陶器でできたようなウサギの人形、目覚まし時計、金属の容器などが置かれている。そこに置かれた色彩に独特の輝きがある。まるで夢を見ているような味わいの感じられるところが面白い。その意味では、静物を描きながら、心象的なシュールな味わいがそこに表現される。

 河石正義「滞船」。岸壁に船が二艘ほど繫留されている。その向こうには船に対して直角の岸壁があって、そこにも船が繫留されている。そういった様子をずっしりとした存在感のなかに表現する。水彩作品であるが、強い存在感を醸し出す。

 村山陽「たんぽぽの夢」。子供を抱く母親。右のほうにはタンポポの綿毛が描かれている。そこに妖精のように七人ほどの男女が遊び戯れている。その人体のフォルムが実に的確で練れている。画家の造形力というか、かたちをつくる力は優れている。タンポポの綿毛を画面の半分くらいの大きさに拡大して、その綿毛の一部を持って遊ぶ子供たちのフォルムには、生き生きとしたものがある。

 川本幸子「寒い朝」。スペインの風景だろうか。ずいぶん朽ちた建物が道に接して描かれている。その壁の様子を丹念に描く。左のほうには壁と白い瓦屋根が見える。グレーを中心としながら、右のほうにはそこにベージュや黄土色、紫色の色彩が置かれる。面白いのは、茶褐色の壁に青い窓が描かれていることである。強い印象である。グレーからベージュ、紫にわたるその色彩とフォルムは、流れていく長い時間がつくりだしたかたちのようなニュアンスがある。時間というものの謎がそのままメロディとしてこの建物の壁に表現される。そういったなかに変わらない青い空や海を想起するように、壁の中の矩形の青が置かれる。見事なコンポジションによる時間の謎の表現である。

 長坂千恵「朝の道(サントリーニ)」。キクラデス諸島にあるサントリーニ島は白い壁の街で、よく題材にされる。この作品も、そんな街の中の道を中心に置いて、左右上方に建物を置いたコンポジションである。白という色彩が周りの色彩のリトマス試験紙のように扱われている。重厚なコンポジションの中にその色彩の変化を静かに探究する。

 山名將夫「回想のメロディー」。肘掛け椅子に座る夜会服を着た女性。金髪の女性で、足を組んでいる。後ろにヨーロッパの天使や聖母子を思わせるフォルムがあらわれる。寄木づくりのフローリング。クリアな一つひとつのフォルムが静かに物語を語りかけてくる。

 青木年広「窓辺の静物・移りゆく時間」会員佳作賞。テーブルの上に白い布が置かれて、そこに大きなガラスの瓶が二つ置かれている。手前には三つの林檎。水差しには茶色い液体。オウムガイ。白い円筒形のグラスには赤い薔薇の花。面白いことは、手前に白いパレットが置かれていることである。この白い布を見ていると、布であると同時にそこに風が吹いているようなイメージが生まれる。風とパレットの白とが響き合う。大きな窓があけられて、向こうに風景があらわれる。青みがかったトーンで、広々とした野原と遠景に林が見える。戸外に吹く風が室内にも吹いていて、その時間の風のなかに不思議な詩情ともいうべきイメージがあらわれる。

 中村哲泰「とどまることのない生命」硲伊之助奨励賞。矩形のグレーの色面の前に様々な花が集められている。百合や黄色いガーベラ。下方には水芭蕉。上方にはほとんどドライフラワーになったような花々。下方の遠景には山並みが見える。日本の風土に咲く花を、まるで記念碑のようにここに集めた。背景には懐かしい青い山並みがカーヴを描いている。空はオレンジ色に染まって、郷愁ともいうべき感情が起きる。花曼陀羅とも言うべきコンポジションに注目した。

 才村啓「Homer」損保ジャパン日本興亜美術財団賞。ホーマーはギリシャの詩人である。そのホーマーの石膏の胸像が置かれている。周りにはコントラバスやリュートなどの楽器。手前にはスケッチブック。後ろの壁には赤い布。白い石膏像のホーマーを中心として褐色系の色彩によって構成されている。そして、それぞれのフォルムが乱雑でありながら、その乱雑な中に不思議な秩序をつくりだす。

 岡田礼子「軒下」。昔の粗壁のような壁の下に石を積んだものがあり、下方から丈の低い樹木が伸びている。若木のようだ。右のほうには樋がある。奈良などにはこのような昔ながらの民家があるのだろうか。水彩であるにもかかわらず、強いマチエールが感じられる。独特の手触りのある表現で、日本の懐かしい壁を中心とした光景を描く。

8室

 須貝昌春「素足で」。岸辺の岩の上に立つ女性。衣装を脱いで上半身は裸である。後ろには大きな岩のようなフォルム。下方には水が寄せる。そんな中に立つ女性のフォルムが力強く描かれる。その存在が独特の幻想感を表す。

 相馬順子「対話」会員努力賞・委員推挙。左手の人差し指に赤い小鳥をとまらせている。女性は白いワンピースを着ている。そのすこし後ろ側に樹木の枝があって、そこに数羽の鳥がとまっている。女性の雰囲気は妖精的で、森の中の小鳥のいるイメージを不思議な楽園的な雰囲気のなかに表現する。ハーフトーンの独特の色彩がファンタジーをつくる。

 浅見文紀「初冠雪・朝」。手前に向かって水が広がっている。川面は静かに周りの風景を映し、空を映している。雪の積もった地面。ごつごつとした岩の形。遠景の斜面には雑木が生えている。手前の影になった岩でできた岸辺の上に、覆いかぶさるように柔らかな紫色の樹木の葉が茂っている。葉の上に雪が積もっていて、独特の柔らかな紫色をしている。全体はすこし緑がかったグレー。絹本で水墨によって風景を描いたような広がりがある。暗い部分はたらしこみふうな表現になっている。しかしよく見ると、それぞれのフォルムのディテールを丹念に起こしながら描きこんで、この広がりのある奥行のある風景をつくっている。水と地面、地面に積もった雪、そして樹木が、独特の有機的な関係のなかに不思議な気配を表す。人の気配はない。水を見ていると、そこに映っている空の奥底をのぞきこむような不思議な気配がある。風景でありながら、心の内部をのぞきこんでいるような気配が画面から漂ってくるところも面白い。

 斉藤蕙子「追想」。スツールに座った女性。白いドレスを着ている。後ろにガラスの丸いテーブルがあって、その上のガラス器に青や緑や白に咲く花が差されている。カーテンが翻って戸外の風景があらわれる。柔らかな緑の葉が柔らかな光線によって黄色く染まっている。画面全体に光が侵入してきて、それが独特のロマンティックな気配をつくる。中心の女性のもつフォルムは力強く、一種彫刻的な強さがある。耳や首筋にジョンブリヤンやエメラルドグリーンの色彩が入れられて、それがアクセントになっている。

 山本勇「悠久の祈り」。インドの寺院の跡なのだろうか。石を積んだ、がっしりとした基礎の建物。階段が残っている。柱はなくなって上部のものは消えた中に、階段や基礎の平面ががっしりとした石造りの中にあらわれる。下方を見ると、それでも地面から相当の高さになるのだろう。中景には緑の樹木が茂っている。階段の形にリズムがあって、祈りとか夢の跡といったイメージが、この風景から漂う。

 今城俊雄「Hello,again」。岸壁と岸壁のあいだを鉄でつくったパイプでつないである。一つ向こうの岸壁には灯台が見える。波が手前に寄せてきて波紋をつくる。はるか向こうには水平線が見える。海という巨大な広がり、その重量感を背景にして、人間のつくった岸壁が静かに光の中に表現される。

 鳥居佳子「草むらの花」。野の植物、雑草。そんな中にピンクのアザミの花、黄色い小さな五弁の花、あるいはホタルソウのようなものも見える。そんな一隅をよくも描いたと思うほど描きこんでいて、一本一本の植物までも表現する筆力に驚く。しぜんとあらわれた緑の諧調の中に花がイノセントな輝きを放つ。

 安藤忠雄「追憶(寒雲)」。厚い木の台の上に花瓶や古いアイロン、カンテラ、バッグ、あるいはドライフラワーなどが置かれている。夜空に三日月が出ている。茶褐色のモノトーンの中に花瓶とアイロンの把手だけが赤く彩られている。遠景には山があるようだ。不思議な幻想感をたたえる風景と静物とのリンクしたコンポジションである。「追憶」という題名のように、失われた時間を画家はここに呼び起こそうとするかのようだ。

 橋場房子「青木湖待春」。湖の周りは雪が積もっている。そんな中に点々と民家がある。中景にはもっこりとした山がいくつも連なって、褐色の雑木が生えている。遠景は雪化粧した高い峰々。風景を、掌の上に置いて眺めるように描く。この風景を手元に引き寄せるような力が、独特のムーヴマンを画面につくる。

 平林邦雄「街角」小山敬三奨励賞。スペインの裏町のようだ。褐色の瓦屋根の載せられた建物。漆喰の白い壁。トンネルや階段。右下には人がシルエットに描かれている。ところどころに壁にあけられた窓が、独特の生活感のある雰囲気をつくる。斜光線が差し込み、明暗があらわれる。街が生きたものとして有機的に表現される。

 岡崎浩「荒城」会員努力賞・委員推挙。お城の石垣。その石垣は幾重にも遠景に向かって立ち上がって、いちばん上方に天守閣らしきものがのぞく。石でできたこの風景を下方の道の上に立って見上げる角度から描いて、独特の臨場感をつくる。グレーの絵具の中に微妙な色彩を入れて表現する。グレーのもつ味わい深いニュアンスと同時に、量感のあるフォルムがみどころ。

10室

 中澤嘉文「雪の筒石漁港」。浜辺に雪が積もっている。建物が一部、雪の中にうずもれている。そんな光景を描く。無人である。しんとして、声を雪が吸収して音声がなくなったような、不思議な静寂感があらわれる。そういった雪の積もった漁港はひとつの詩の世界に変ずる。

 平井由美子「Campo(原野)にて」。十六頭の羊が描かれている。左のほうは輪になって、それぞれのしぐさをしている。白い羊の様子。透明な光がそこに当たる。セガンティーニのアルプスの風景を思わせるようなイノセントな雰囲気が漂う。

 長谷川清「『緑の遺産』─平和への願い。」。イチョウの下にセーラー服姿の女性が植木鉢を持っている。そこから若葉が伸びている。背景には原爆ドームが見える。広島の原爆では二十万人近い人が死んだという。そういった記憶の象徴としての原爆ドーム。対する若葉と若い初々しい十代の女性。平和への祈りのコンポジションである。

12室

 松岡貞子「サボテン群生」。群生したサボテンに花が咲いている。白い花、オレンジ色の花。上方では小さな花が連なっている。そのまま一種の幻想と化すような強い表現である。サボテンのもっこりとした緑の色彩とフォルムの連続した中に花が連続してあらわれて、独特のハーモニーをつくる。

 長瀬庄衛「蘇州・干將路河畔」。運河沿いの建物。土台は石や煉瓦を重ねてつくられて、二メートルぐらい上方になるところに建物がのぞく。壁の前にテラスのような空間があり、そこに水差しやバケツや干された靴、器、菊のような花を入れた鉢などが置かれている。入口が黒々とした調子で上方にある。そばには窓の一部が描かれている。シャツなどが干されている。一つひとつ実にクリアに描かれて、そのものたちが集合して独特の強い構成となっている。触覚的に対象のもつ特質に迫ると同時に、光によって明瞭なアウトラインがつくられ、それぞれのものの語る声が聞こえてくるような臨場感がある。目の前にある現実がそのまま夢の世界につながっていくような鮮やかさである。

 辰巳彰「昼休みの通り」会友推挙。貸し自転車場がモチーフになっている。自転車がたくさん置かれている。日の当たっている部分と、この建物の内部にある自転車の二つが対照される。二つの自転車の形がシャープに浮かび上がる。向こうで人が話をしているのが、もう一つのテーマになっている。日常のけだるいような雰囲気の中に、自転車のシャープなフォルムがヴィヴィッドに扱われる。

 後藤章「堀端」。お城の堀が画面の中心に流れている。上方に橋があり、その左右は石垣。石垣の一つひとつの石の形を丹念に描く。江戸時代の石垣の美しさがよくあらわれている。ハーフトーンの中に夢のような世界があらわれる。

 森岡節子「予感」会友推挙。浜辺に雪が積もっている。向こうにすこし海がのぞく。グレーの空。灰白色の地面。一つひとつ触るようにこの風景を描く。

13室

 工藤道汪「いま咲き誇る老そめい」。ソメイヨシノの太い幹が画面の下辺から立ち上がり、左に伸びていく。背後にもソメイヨシノが上方に伸びていく。あいだに満開の桜の花。ソメイヨシノの幹のもつ形。とくに老そめいという言葉のように、百年近い歳月を過ぎた樹木を画家は描こうとして、絵具が盛り上がって、その色彩はほとんど銀灰色に輝いている。満開の桜のあいだから透き通った青い空が浮かぶ。桜のもつ透明な様子が重なることによって、まるで不思議な雲のようなイメージが生まれる。そんな花の雲がこの幹の周りを取り巻いて、まるで夢のような世界があらわれる。

 鍵岡太美子「うつろい」。水彩の作品であるが、塗りこまれて、油絵と見間違うようななマチエールと強さがある。枯れかかった雑草のあいだに水が流れている。その雑草の茎につがいの鳥がとまっている。向こうには一羽の鳥(オレンジ色)がとまって、下方を眺めている。自然の中に生きる小さなものたちも取り込みながら、自然の一隅の生きている姿を描く。

14室

 所征男「窓辺」。ソファに若い女性が足を組んで座っている。緑のスカートと靴。上衣にも緑が入っているようだが、赤と重なって、すこし暗い独特の色彩。赤と緑のストライプのクッション。そのような色彩効果によるものか、あるいは女性の顔のすこし観音さまふうな表情によるものか、どこかエレガントでミステリアスな雰囲気が漂う。独特の感覚だと思う。

 勝谷明男「真冬日の道」会員努力賞・委員推挙。見事な写実の作品である。雪の積もった道がはるか向こうに続き、一度下がってまた上っていく。そこに光の当たっている部分と影ができる。遠景には二台の車。中景には向こうに歩いていく人物。点景の扱いも見事だし、左右の電信柱や建物のフォルムも、それぞれの位置にあるそれぞれの存在を見事に再現的に表現する。しっかりと絵具が画面についている。遠近感のなかに光の差す情景が絵の中に切り取られ、永遠化されるようだ。

 下川昭一「街・遠廻りして帰えろう」。スペインの一隅なのだろうか。ガレージの表面の赤い色彩。そばの壊れかかった白い塀。後ろの黄土色の壁にあけられた上下の窓。下方には洗濯物がぶら下がり、上方はテラスになっている。生活感のある光景である。下方の地面を若いカップルが歩いている。それぞれのものが、単に物質感のみならず、画家のイメージの与えられた存在として画面に描かれている。それによって画面から庶民の生活の歌が聞こえてくるようだ。

 綱川サト子「渓」。静かに水の流れている様子が描かれている。浅い川底。そばに立ち上がっている斜面は岩でできている。その光景をリアルに描いている。じっと見ていると、この場所が小さな狭い場所なのか、あるいは大きな場所なのかわからなくなる。そんな幻想感を醸し出すほど、この一隅を眺め、描き起こす筆力が強い。

 沖津達也「望郷~ボヘミアの歌~」。テーブルクロスの上にヴァイオリンや時計、ポートレートの入れられた写真立て、地球儀、お酒の入った瓶などが置かれている。レースのカーテン越しに光が差し込む。壁にはミュシャが描いた「ボヘミアの歌」の絵がロマンティックに描かれている。文学と絵とがクロスする画面と言ってよい。クリアなディテールを構成しながら、ロマンティックな文学的な世界を表現する。

15室

 木原徳子「甍の波」。瓦に白い壁。壁は漆喰らしく、石を積んだ上に塗られている。瓦は壊れかかった様子で、そんな建物が画面全体に描かれていて、この古い街の性格を思わせる。繰り返される瓦屋根と白い壁の構成が、連綿と続くこの街の歴史といったものを想起させる。独特の構成である。

 山下審也「午后の給食室」会員佳作賞。グレーのトーンにひんやりとした感触がある。ステンレスのシンクやコンクリートの壁、金属の容器。給食室の、無人の雰囲気を独特の強いリアリティのなかに表現する。

 寺井徹「朝のクエンカ(スペイン)」会員努力賞・委員推挙。石でできた建物。焼いた瓦の屋根。この街の中心に教会があって、鐘楼が高く屋根のあいだから顔をのぞかせている。光が差し込み、明暗のドラマをつくる。ずっしりとした重量感のある建物を組み合わせながら、古い、おそらく中世にできたと思われる街の様子をドラマティックに表現する。量によって建物をとらえ、量と量との組み合わせのなかに明暗のドラマをつくる。暖色系の色彩に滋味がある。

 髙﨑高嗣「ひととき」。ソファに座る女性。黒髪で、濃紺のワンピースを着ているが、肩が出ていて、この女性のほっそりとした骨格が魅力的に表現されている。足の指の先までクリアに描くことによって、この女性の全体の姿を表現する。ディテールによって女性の年齢や性格までも表現するかのような筆力に注目。

 本多和矩「造船所の跡」会員佳作賞。橋桁が向こうに続いている。岸辺に壊れた船などが散乱しているし、壊れたレールもある。題名を見ると、造船所の跡なのである。遠近感のなかにそんな様子を大きく捉え、独特のムーヴマンを表現する。

 柳茂忠「渓谷陽春(秩父)」。山が削られている。その下に鉄塔が伸びて、すこし民家があり、堰がつくられ、川が手前に流れてくる。自然と人工とが組みあい織りなす光景を、ピンクや青やグレイや緑によって表現する。対象を客観的に捉えながら、それを胸中で温めた一種山水ふうな表現になっているところが魅力。

 高橋康夫「オシャマップの海」。十メートルほどの波なのだろうか。そんな恐ろしい波が寄せてきている。中景に断崖が聳え立っている。雪が上方に積もっている。いまは驟雨で、その中を白い鷗のような鳥が飛んでいる。風景自体がドラマをはらんで動いている。文学のある一場面のような風景表現が魅力である。

 髙林泰「祖谷の里」。水墨を思わせるようなしっとりとした表現である。手前の民家。中景の水の張った田圃か池を思わせる様子の周りの建物。山の斜面。茶褐色のトーンの中に里山の光景をしっとりと表現する。

 佐藤安治「川辺の倉庫」。三艘の船。二メートルほど高くなったところの道と倉庫のような建物。遠景にはクレーンが動いている。海岸の建物や船を独特の色彩で表現する。ナイフによって絵具を重ね、削り、重ねることによって、色彩の輝きが生まれる。渋い調子の中にコクのある色彩がマチエールを伴って表現される。

16室

 荒木幸子「高校一年」。エレキギターを持って立つ少年。後ろに座って横向きのこの少年の姿が、すこし調子を落として描かれている。ナイーヴな少年の内面を描こうとするフォルムに注目した。

 外山順子「マジックドール」会友推挙。若い女性の人形。衣装を見ると、ジーパンをはいて何枚も上衣を重ねた様子は、どこかチャイナふうでもあるし、ヨーロッパふうでもある。大きなボタンの髪飾りをしている。その周りにカードが幾枚も浮遊している。不思議なマジックの世界が始まる。この少女の雰囲気には夢の世界に誘うものがある。そういった表現力に注目。

 阿部俶江「室内の静物」。机の上に赤い布。そのうえに青い布。透明なガラスの壺には紫陽花の花。ガラスの鉢にオレンジやレモン。そして石膏の裸のヴィーナスのトルソ。上方には壺とオレンジやレモンの描かれた絵が掛けられている。それぞれの色彩を入念に考えたうえでの構成である。矩形のテーブルの上のオレンジ色の色彩が独特の強い効果を上げる。

17室

 田村公男「中華の橋 Ⅰ」会友推挙。コンテによってぐいぐいとフォルムをつくり、その上にアクリル絵具を置く。パステルも入れられているようで、コンテ、パステル、アクリル絵具によって独特のマチエールが生まれる。また、そこにあらわれる明暗の対比も面白い。自転車の後ろに二人ほど座れる幌が接続されている。それを運転している人間がメインになっている。近景には後ろ姿を見せて自転車を持つ人、周りの歩く人、小さな店、旅館のような建物などが、独特の人なつこい人間臭い表情を見せる。中国のある一隅の光景をそのように手触りのあるマチエールのなかに、ヒューマニスティックな味わいのなかに表現する。

 正田武「美術館への道」。鋪装された道の両側の歩道。そこを二人の女性が向こうに歩いていく。白い上衣にスカートの赤が鮮烈なアクセントになっている。上方の緑がテンションの高いビリジャンからカドミウムグリーンの色彩によって表現されている。緑、白、赤の色彩の輝き、ハーモニーが独特の魅力をつくる。

 真鍋弘子「雪解けの小径」。アスファルトの地面を大きく拡大して描いている。マンホールのそばに水が流れてくる様子。そのディテールを追うことによって、一種シュールな味わいが生まれる。

19室

 池田誠史「雨上がりのリクヴィル」。フランス、アルザス地方の街リクヴィル。緑の畑に囲まれて茶褐色の屋根とベージュの壁をもつ建物が集まった街の様子をクリアに描く。はるか遠景には山があり、空には雲が出ている。すみずみまでクリアに、パノラマ的な風景をまるで魚眼レンズで見るように一望のもとに表現する。

 小野ひで「郷愁」。川の雪の積もった風景。静かに川が流れている。しっとりとした冬の山の褐色の雑木や針葉樹。手前の地面から裸木が伸びている。そのフォルムが面白い。生きている樹木というように形容したくなるような、独特のなまなましさをもって手前の樹木が表現されているところに注目した。

20室

 髙橋喜美子「漁を終えて」。手前に褐色の網が大きなざるに掛けられて、その中に二尾のアジがいる。ロープをはさんで向こうにサザエがいる。上方から網が下りてきている。その色彩は濃紺で、シルエットのように表現されている。それを支える大きな竿が上方に伸びている。その網の表情を見ると、アラベスク模様を見るような独特の強さが感じられる。漁師の生活をいわば荘厳するように、画家はこの漁網を使いながら表現している。遠景には入江が見え、対岸の岬は緑が萌えている様子。グレーの空にシルエットの網。手前の褐色の網の中にいる二尾の大きなアジ。シンプルな道具立ての中に大きな空間が生まれている。ロープや網を使いながら、求心的であると同時に放射的に動いていく独特のムーヴマンが表現されているところが面白い。

21室

 普川郁三「出発の朝」。木造の駅舎。その木製のベンチに座る女性。コートを着てストールを巻いて帽子をかぶっている。そんな様子を温かな暖色の中に表現する。旅に向かう女性の様子をイメージ豊かに表現する。

 松田寧子「冬光の中で」。岬の上に赤い屋根の大きな建物がある。二階建てのようで、旅館のようにも感じられる。そしてぐるっとカーヴしながら、もう一つの岬の上に灯台がある。近景には雪搔きした道がカーヴしながらすこし見える。雪の積もった様子。影の部分と光の当たっている部分の雪の違い。そこに、こびりつくように樹木が存在する二つの建物。車の轍の残る道。自然と人間の営為の跡を存在感のなかに表現する。

 中村裕二「15(フィフティーン)」。十五歳の女の子が立てた木箱の上にのっている。大きな太い太股。のびのびとした体全体の生命感あふれる雰囲気をよく表現する。

 松林重宗「冬木立」。秋の光景のようだ。太い幹。百年は超えたような樹木が何本かこの場所に伸びている。小高くなっている場所に井戸のようなフォルムがあって、そこからポンプのようなものが立ち上がっている。人間のつくったものを樹木の囲んでいる様子に独特の味わいが感じられる。樹木のフォルムも力強く、その伸びていく枝を生き生きと描いている。

 田村武弘「夕凪の港」。夕日がかなり海近く下りてきている。それを受けて手前の海に数艘のヨットが繫留されている。帆を下ろしたそのかたち。静かな海。ロマンティックな味わい。青みがかったグレーを中心に赤や黄色などの色彩も使われて、独特の色彩家である。雲の中から輝くオレンジ色の太陽にノスタルジックな味わいもある。

 矢野川瀧男「海に生きる」。漁師が長靴をはいて座っている。七十歳を超えて八十歳に近い年齢のようだ。その人間をしっかりと描く。全身が表現されている。青いチョッキに青い長袖のズボン、グレーの帽子。静かに微笑しているようなその顔。岸壁の向こうにコバルトの海がのぞく。

第16回水彩人展

(9月25日〜10月3日/東京都美術館)

文/編集部

1室

 古川健次郎「水面に踊る」。水面からたくさんの細い草が伸びている。草はまっすぐなものばかりではなく、うねっているものもたくさんある。その姿がまた水面に映り込み、画面全体で複雑な様相を呈している。そしてそれがどこか騙し絵風な印象も作り出しているところがおもしろいと思った。

 富岡三枝子「運河 Ⅰ」。寂しげな川沿いの土手の風景を軽やかに描いている。左手前から川がカーヴを描きながら伸びていき、それに従って土手や家屋が動く。その様子が実に自然に捉えられている。現地に吹く冷たい風がその情景をより印象深いものにしている。

 磯貝雅子「秋の庭 Ⅰ」。青い花などが細やかに描かれている。画面全体は寒色系の色彩で纏められていて、それがひんやりとした空気感を伝えてくる。細やかに描き込みながらも、やわらかな雰囲気を失っていないところが特によいと思う。

 堀田由里子「窓辺にて」同人推挙。窓辺で床によこたわった若い女性を描いている。半身を起こしたそのポーズが実に自然に描かれている。明るい陽射しが部屋に注ぎ、気持ちのよい作品として強く印象に残った。

 伊達賀代子「春の宴」。ヴァイオリンが脇に置かれた花瓶に、黄色い花が生けられている。その花のあざやかなヴォリューム感を持った様子がしっかりと捉えられている。バイオリンと花瓶、花の質感もまた確かに描き分けられていて、その筆力に注目した。

2室

 高橋道子「山宵草」。グレーの色彩の中に、うっすらと植物の姿が見える。茎は朱で、それが細やかなアクセントになっている。描写力もさることながらその演出の仕方にオリジナリティを感じた。

 秋元由美子「散華飛天」。大きな蓮の花が左下にあって、右上方には天女が飛んでいる。飛天から伸びる数本の赤い天衣が蓮の花に向かっていて、それが花の色彩と静かに呼応している。そして背後の落ち着いた青としっとりと馴染んでいる。モチーフのフォルムをクリアな曲線を自在に扱いながら象り、神秘的なイメージを作品に投影しているようだ。壁画などで見る飛天が生き生きとした生命力を獲得し、作品世界に引き寄せられている。

 松田憲一「枯蓮(忍ばず池)」。忍ばず池に密生する蓮が枯れ、その茎や葉が掠れるように描かれている。色彩を淡く繊細に重ねながら、深い情感を作品に生み出している。秋を迎えてひんやりとした風が吹く中で、そういったどこか切ない喪失感がしみじみと伝わってくる。

 佐瀬芙美子「卓上の静物」。画面の上方にボトルや果実が置かれていて、そこから少し離れた下方にカップが一つ置かれている。その間の取り方がよいと思う。そこに在るという存在感を追求しながら無駄なものを削ぎ落とすように描いた画面が一つの緊張感を作り出し、強い見応えを感じさせる。

 杉山昭「いのち(ハス)」。画面いっぱいに青々とし荷葉を連綿といくつも描いている。密集しながら連続して奥に続いていくその様子が、じっくりと描き込まれ、緑の色彩の中で、点々と咲く白い花が小気味よいテンポを作り出してもいる。

 橘史郎「発芽」。所々に土が見える地面が手前から奥に広がっている。その途中に柵があって、ネギが芽を出している。画家は現場に何度も通ってほぼ最後まで作品を描き込むが、その日々少しずつ変化していく自然の営みが、作品の中に時間の流れとして引き寄せられている。自然の様々な表情が一つの作品の中に込められることで強い臨場感を獲得し、その臨場感は橘作品ならではの魅力となる。半円状に曲げられたいくつもの柵の中で密集しながら小さく顔を出したいくつもの芽が、いわばある種の群像表現となっていて、特におもしろい。穏やかに何度も筆を重ねていくその筆致が、画家のやさしく深い目線と心情を訴えかけてくる。

 五十嵐威「古鎮穀雨」。中国の古い水郷。路地の間を流れる運河を一艘の船が進んでいく。静かに降る晩春の雨が穏やかな情感を運んでくる。そういった雰囲気がやわらかな色彩によって生み出されている作品である。

3室

 浦山幹司「オデオン座街(パリ)」。雨の降る街の一隅がセンスよく描かれている。広告塔が画面の中央にあって、そこから路地が伸び、街路樹や建物が続いて行っている。画面の右下には一人の人物がシルエットになっている。それがこの街を歩く画家自身のように思えて興味深い。

 奥山幸子「白い月のある風景」。生い茂る植物に囲まれるように、小さな池が画面の中央に描かれている。透明感のある緑の色彩の調子を繊細に変化させながら植物を描き、そこにやわらかな抑揚を作り出している。ふと見ると上方に白い月が浮かんでいる。その控えめな存在感が、逆に鑑賞者を強く惹き付ける。ぱっと見ただけでは気付かないが、その少し下辺りに蜘蛛の巣がうっすらと広がっている。蜘蛛の巣はピンクや水色など様々な色彩で描かれている。白い月の光が蜘蛛の巣によって無数の色彩に変化していくような、独特の幻想的なおもしろさがある。そういった夢と現を行き来するような、独特のイメージ世界が広がっている。

 松波照慶「OUT OF NOWHERE」。見上げた青空に雲がかかっている。その清々しい雰囲気が実に心地よい。少しずつ変化していく雲の表情が、時間の流れを感じさせる。抽象性をそこに孕みながら、どこか不思議な期待感、高揚感のようなものが感じられて強く印象に残った。

 三橋俊雄「逆光の沼」。桟橋が手前から伸びていき、途切れている。周囲には細い木柱が何本も伸び、掛けられた網もいくつか見える。そしてその辺りは、陽の光によってキラキラと輝いている。その輝きは桟橋から先がもっとも明るく、そのまま太陽へと繫がっていく。どこか神聖な、自然に対する敬虔な気持ちがそこに描き出され、鑑賞者を惹き付ける。

 中村孝夫「千間堀晩秋」。水面に映り込んだフェンスの影が、独特の動きを見せている。鴨がそこを横切ろうとしている。その変化していく水の動きが独特のミステリアスな表情を生み出している。丁寧に描き込まれた画面に好感を持った。

4室

 小野月世「夏の終わり」。白い薄手の衣服を着た若い女性が、椅子に座っている。室内であるが、外からの光が入り込み、女性を包み込むように画面を明るく染めている。女性は力を抜いたようなポーズで、その自然な力の抜き具合、体重のかけ方が違和感なくしっかりと捉えられている。ふとしたときに現れる本人さえ気付かない健康的な美しさが、画家の洗練された感性によってここに定着されているようだ。物思いに耽るような女性の表情も相俟って、深く内向していくような心理的な奥行きも感じられる。画家の絵画的センスがよく分かる作品である。

5室

 平澤薫「午睡のマリーナ」。まどろむような午後の港の情景が魅力的に描かれている。ヨットや桟橋などそれぞれのモチーフをしっかりと描き出しながら、画面全体の雰囲気を失うことなくしっかりと纏め上げているところに注目する。

 山本武美「昼下り─ギリシャ」。屋外にテーブルと椅子が置かれていて、そこでくつろぐ人々が手前に描かれている。そこに目線を合わせながらも、奥の店やその他のモチーフもしっかりと描き込んでいる。画面の右側の部分に間を取るような画面構成も巧みである。

 栗原直子「影身に添う」。煉瓦造りの路地にいくつかの白い花が点々と落ちている。そこに上方から枝葉の影がやさしく落ちている。それだけの画面が、どこか寂しげな深い感情を引き寄せている。一つの物語があって、それが終わっていくような、寂しさである。やさしく繊細に描かれたそれら一つひとつのモチーフが、画家の心情を静かに鑑賞者に語りかけてくるようだ。

 吉田佳子「教会への道(ロシア)」。田舎の路地を一人の女性が歩いている。ただそれだけの情景が素朴に誠実に描き出されている。透明感のある色彩の扱いが、とくによいと思う。

6室

 淺田ようこ「夢のあとさき」。操り人形を中心にした静物画である。本や紙包み、花などがその周囲に描かれているが、それらをうまく配置してまとまった画面として成り立っている。しっかりとしたデッサン力もあり、画家の技倆の確かさを感じさせる。

 大原裕行「朗読」。ソファに座って本を読む女性とその膝に座る猫。その周りにも猫が二匹いる。背後の棚には瓶や南瓜などが並べられ、テンポのよいリズムを作り出している。右手前には円形のガラスのテーブルがあって、そこには二冊の本とコーヒーカップが置かれている。モチーフのどれもに独特のデフォルメがなされていて、それが淡々と画面に配置されている。そしてそれらが確かな存在感を獲得している。画面全体の密度を保ちながら、息苦しくない程度の、充実した画面構成が強い見応えを作り出している。女性の読む本のストーリーを聞いているのか聞いていないのか、目を開けて座る猫の存在が、さらにもう一つのおもしろさを生み出しているところも興味深い。

 青木伸一「空花」。青から紫の色彩を実に繊細に、表情豊かに扱っている。何度も色彩を重ねていきながら生み出される深みが、画面に奥行きを作り出す。強い抽象性の中に、生まれては消えていくような、或いは散っていくような生命感がある。画題にある花を思わせるフォルムも感じられる。鑑賞者とのイメージの交感を繰り返しながら作品内に沸き起こる生命感が、強い魅力となって立ち上がってくる。

 

第48回創展

(9月25日〜10月3日/東京都美術館)

文/編集部

1室

 前田麻里「花の下にて」。夜の闇の中にぼうっと浮かび上がる一本の桜の樹。それを背後にしてキツネの面を被った少女が手前に描かれている。桜の花叢の中や周囲には人影が見え、地面には人骨が見える。妖しくミステリアスな雰囲気である。クリアな存在感を持った少女と桜の朧気な雰囲気が静かな対比をみせている。少女が語り部となって、鑑賞者を画面に誘い込むような魅力があり、印象的な作品である。

 宮野尉「聖人を謳う」文部科学大臣賞。横たわったキリストを囲むようにたくさんの人々が描かれている。嘆き悲しむ人々の様子が、それぞれ生き生きと描かれている。力強い描写による群像表現が、密度のある画面を作り出している。

 百瀬まつ子「いのち謳う」。一人の裸婦と向き合うようにその手前下方に三匹の黒猫が描かれている。背後は野山の風景が装飾的に描かれていて、そこに鳥がたくさん飛んで行っている。その独特の画面構成が強く鑑賞者を惹き付ける。女性そのものの美しさを鑽仰しながら、そこから連鎖していく命の繫がり。そういったイメージが、歌うように表現されているところがおもしろい。重層的でありながら透明感のあるメロディが作品の中に流れているようだ。

2室

 増渕修一「川面」。太く力強い線によって小川の情景が描き出されている。大小の岩がリズムを刻みながら配置され、その向こうには生い茂った草花が見える。岩にはピンクや水色がほんのりと入れられていて、それが不思議な色気を作り出しているところがおもしろい。そして川の中央から画面の右上方へと白い霧のようなものが伸びていっている。それが不思議な霊的な気配を引き寄せているようで興味深い。

 森水碧「謳う宙へ」。青空に向かって飛び立つロケットとそれを見送る人々が縦長の画面に描かれている。紙の地を活かしながら、空は青くクリアに彩色されている。そのやわらかなコントラストが心地よい。ロケットの先端を頂点としながら、三角形の構図を作っているところも画面に安定感をもたらしている。噴出する煙に金が散らされているのももう一つの効果を上げている。手を振る人々の様子もまた魅力的である。

3室

 鬼頭霧子「心月」。茫漠と広がる薄暗い世界に白い月が浮かんでいる。その月が強い求心力を孕んでいる。透明感を持ちながら深い奥行きをもった月の姿に強く惹き付けられる。重厚に画面を描き込みながら、そういった深い精神世界へと誘うような魅力を作り出しているところが特に見どころである。

 木間明「水、謳う」。画面の中央を蛇行しながら川が流れ、そこに魚がいくつも描かれている。周囲には花が咲き、鳥が飛んでいる。日本的な花鳥の世界観をこの画家特有のイメージで描き出しているところがおもしろい。随所に線と明暗による矩形を効果的に入れてリズムを作り出し、画面全体で一つのメロディを奏でているようだ。モチーフそれぞれの繊細な描写もまた、そういったイメージを背後から支えている。

4室

 小樋山弘子「円と視線」。赤の色彩を繊細に扱いながら画面を染めている。左下には白く化粧をした女性の顔があり、右上方には二人の女性の顔が見える。その二人を中心にうっすらと円が広がっている。距離を置いたその女性たちの関係性が鑑賞者の好奇心を強く刺激する。独特の空間的意識が作品にあって、そこにイメージが広がっていく感覚がある。女性同士の意識的な距離感が見どころだと思う。

 砂田恭子「ハートステーション '14」。厚く手触りのあるマチエールによって描かれた世界が独特の世界観を構築している。矩形に縁どられた空間に置かれたピアノを中心に画面が展開している。それが右上方の三日月と響き合い、どこか静かなメロディを奏でているようなところが強く印象に残る。

5室

 岸弘明「冬の謳」新人賞・準会員推挙。川沿いに整然と繁るススキが独特の韻律を作り出している。土手の上には裸木が点々と距離をとって描かれている。クリアな描写によって、冬の透明な空気感と肌寒い雰囲気がしっかりと描き出されている。

6室

 原田耿太郎「まんまる月の夜 2」会員推挙。満月の浮かぶ海沿いの街の上空を三匹のシーラカンスが飛んでいる。丁寧にそれぞれのモチーフをやさしく描き出している。物語の一場面のような、どこか寓話性を持った画面が魅力の作品である。

7室

 大竹貞雄「落葉遊び」創展賞。イチョウの木の下で三人の子供が遊んでいる。落ち葉を摑んで舞い上げる情景にほのぼのと心温まるものを感じる。その様子が、自然に違和感なく描かれているところに、この画家の描写力を感じる。黄金に染まる画面の中で、子供たちの青や赤の衣服の色彩がうまく馴染んでいるところもまたよい。

8室

 倉島美友「秋声」。生い茂る草木とその中にある池、さらに向こうには広場。そして満月が浮かぶこの風景が、強い情感を作り出している。丹念に描き込みながら、そういった微妙な情感を失っていないところが見どころだと思う。落ち着いた茶系の色彩を中心にしながら、そこに漂う自然の持つ気配を大切に描き出し、強い魅力を生み出している。

第36回大洋展

(9月25日〜10月3日/東京都美術館)

文/編集部

1室

 建石力子「散歩」。二人の女性とその左下に座る犬が大きく描かれている。塗ったり削ったりを繰り返しながら、独特の色彩感覚で作品を描き出している。女性の衣服の白と背後の鮮やかな黄や緑の色彩がうまく馴染んでいる。朗らかな気持ちのよい感情を引き出すような魅力がある。

 植野徳子「雪の日の詞」大洋会賞。画面の手前に花や瓶などが並べられていて、その向こうに風景が広がる。雪がはらはらと降り落ち、薄暗い。その中に独特の気配のようなものがある。無音の世界と言ってもよいかもしれない。手触りのあるマチエールでそれらを描き出しながら、モノトーンに近い色彩の中に、効果的に様々な色を施していっている。そこに深い情感が湧き上がり、鑑賞者を捉えて離さない。

 加茂糺「帰港」。船の並ぶ港の風景がクリアに描かれている。三艘の船の手前に空間があり、そこに海面が見える。その画面構成も巧みである。清々しい空気感もまた魅力である。

 吉田ひろ子「雪のベルリン」。雪の積もった路地が手前から奥へと続いていき、向かって左側にはドーム状の屋根を冠した建物が見える。目線を下に持って行って、そこに強い臨場感を作り出している。画面の奥へと鑑賞者を誘うような、どこかミステリアスな雰囲気もあって強く印象に残る。

 古橋修三「叢」。画面全体が生い茂る草木によって満たされている。それぞれがじっくりと誠実に描き込まれている。手前から奥に道が屈曲しながら伸びていっていて、それが遠近感をより強く感じさせる。自然の持つ呼吸のような、生き生きとした生命感も感じられる。

 直井照美「里山待春」。茶系の色彩をじつに繊細に変化させて、春を待つ雑木林の情景を描き出している。画面の左手前から右奥に向かって幅の広い道が伸びている。それが作品の中で、一つの落ち着いたような間を作り出しているところがおもしろい。背の高い木立を何本も描きながらリズムを刻み、奥に行くに従ってそのリズムは重層的になっていく。そういった鑑賞者を自然と作品の中へと引き込むような演出が見どころである。肌に迫るひんやりとした空気感もまた魅力である。

 海老原利雄「軍鶏」。三羽の軍鶏を大きく描いている。奥の二羽は動かずに立ちすくみ、左手前の軍鶏は首を後ろに向けながら強い動勢を持ったポーズで描かれている。その静と動の静かな対比が印象深い。背後の白い壁や格子が三羽の軍鶏を囲うように描かれていて、一つの空間の中でそういった動きの対比をさらに強調しているようだ。軍鶏の力強くも柔軟な姿もまたしっかりと捉えられている。

 根岸英「初夏のドブロヴニク」。建物に挟まれた路地の情景である。人々が行き交い、飲食店の軒先で語り合う人々もいる。道の先は昇っていく階段になっていて、その先にはまた建物がある。そしてそこに明るい陽射しが差し込んできている。根岸作品の魅力の一つに気持ちのよい光の魅力があるが、今回はその明暗の対比がやわらかく表現されているところが興味深い。人々で賑わうその楽しげな明るい雰囲気を作品に引き寄せながら、鑑賞者の心地よい旅情感を誘うようだ。

 多々良勲「河原早春」。画面を横切るように流れる川とその前後に広がる野原がじっくりと描き出されている。茶や黄土、川の水色といった色彩を丁寧に扱っているところにも好感を持つ。静かに流れる川面がゆっくりとした時間の流れを運んでくるようだ。

2室

 西脇美智子「想」。窓辺に置かれた椅子に座る女性の肖像。暖色系の色彩を中心に描いている。左側の窓辺には黄色の花が置かれている。画面全体で色彩を統一しながら、この女性の存在を静かに訴えかけてくる。物思いに耽る女性の内面が現れてくるかのような、穏やかな雰囲気が特に魅力である。

5室

 内田文明「道」。川に沿ってカーヴしながら伸びていく土手の道。そこに一本の桜が立っている。桜は大きく枝を広げ、満開に花を咲かせている。何気ない情景であるが、桜が鑑賞者の視界を遮るような独特の画面構成がおもしろい。色彩のトーンに気を遣いながら、うまく画面を纏め上げている。

6室

 斉藤厚子「紙ふうせん」。紙風船を膨らます少女をモノトーンで描きながら、その紙風船だけを彩色している。ただその紙風船の色彩も周囲から浮き立つことなくしっとりと施されている。華奢な身体の少女を繊細に描きながら、愛らしいその様子を強く訴えかけてくる。確かな描写力にもまた注目する。

第64回流形展

(9月25日〜10月3日/東京都美術館)

文/編集部

1室

 荻原勝昭「安曇野夕映え」特賞。近景から中景にかけて、激しいタッチで安曇野の風景が描かれている。夕陽を反射して黄色く染まっているのは川や湿地だろうか。近景の爆発するような草の描写に対して、山々はしっかりと塗り込まれ落ち着いた輝きを見せ、全体で豊かな色彩のハーモニーを感じさせる。

 田島順子「記憶」。段ボールや英字新聞がコラージュされた支持体に水墨による描写がなされている。リフレインするように様々なフォルムが構成されていて、雑踏の音や人々のささやき声が聞こえてくるようだ。コラージュの強さと水墨の繊細さがうまく融合してモダンな画面が形成されている。

 宮下優一「深海隠花」。堅牢でダイナミックなマチエールを作り、木片や段ボールなどをコラージュして深海の奇妙な生態を作り出している。チョウチンアンコウの提灯に集まる小魚やイカ、目の退化したナマズのような魚など、ユニークなフォルムと動きが画面を席巻する。不気味さとユーモアのミックスされた神秘的な世界である。

2室

 北嶋律子「episode」。岩礁のような場所の水面に髪を結った裸婦が立ち、周りに九匹の蝶が飛んでいる。絵具が画面によく馴染んでいて、艶やかな手触りを持つ。ちょうどうなじの上方から光線が当たっていて、その陰影が女性の上半身を美しく象っている。アンニュイな女性の表情は濃紺の空の中、一段と強く鑑賞者を引き込んでいる。

第40回記念AJAC展

(9月25日〜10月3日/東京都美術館)

文/編集部

1室

 深谷滉「『3・11』のふくしまは─。」。画面全体に広がる妖しく恐ろしい雰囲気が強く印象に残る。補色関係にある黄と紫の色彩を効果的に扱いながら、東日本大震災以降の原発問題とそれによって引き起こされる恐怖を強いイメージの力で描き出している。勢いの中にある画家の冷静な視線が特に興味深い。

5室

 宍戸美喜子「噓をつく私または女神」。外の風景が透き通る部屋の中に、一人の少女が描かれている。紐をたぐり寄せながら立つ少女の背後に、大きく羽根を広げる蝶がうっすらと描かれている。独特のミステリアスな雰囲気に惹き付けられる。鑑賞者のイメージを刺激するような様々な仕掛けがうまく働いて、画面全体で一つの世界観を獲得しているところに注目した。

第46回新院展

(9月25日〜10月3日/東京都美術館)

文/編集部

2室

 金森和美「加賀赤絵と金魚」。朱の装飾が施された鉢に二匹の金魚が入れられている。金魚は青いが、その装飾の朱色とうまく色彩的に馴染んでいる。底には二匹の蝶が描かれていて、それが金魚と戯れているような様子であるところがおもしろい。この画家の確かな筆力、表現力を感じさせる作品である。

 石井宝山「花衣」。向かって左を向いた女性の上半身の肖像である。和服を着て、頭には薄い青の衣を被っている。背後にはたくさんの白い花が描かれていて、それがこの女性の美しさを讚仰しているようだ。単純な美しさだけではなく、落ち着いたこの女性の内面までも表すかのように作品を描いているところが興味深い。繊細な線によって描き起こされた女性像が、鑑賞者を惹き付ける。

5室

 頴川ゆう子「夏の日の夢」。花に囲まれた庭園のような場所に一人の少女が描かれている。周囲にはシャボン玉のような透明な玉がいくつも浮かび上がってきている。そして心地よい風が吹き、あたたかな陽の光が降り注ぐ。物語の一場面のような幻想的な雰囲気が魅力である。深い想い入れと共に描き出された画面が、強く印象に残る。

第44回純展

(9月26日〜10月3日/東京都美術館)

文/高山淳・編集部

1室

 稲飯文昭「明日へ」。淡いベージュの色彩を基調色にしながら、石台に座る女性を描いている。ところどころに寒色を効果的に入れているところがよい。人物やその他のモチーフをじっくりと誠実に描き出すことでその存在感を作品に引き寄せ、一つの作品として纏め上げている。(編集部)

 岡田芳夫「遠い日」。昔の玩具をモチーフに長く描いているが、今回はスカイツリーの見える都市の風景を背後にそれらを描いている。過去を顧みるだけでなく、現実との対比を時間軸の中に作り出しているところがおもしろい。玩具の周囲は暗色に染められていて、それが画家の記憶の底から引き寄せられたイメージの世界のように思えるのも興味深い。そういった中で、左上方から降りてきている電灯が、もう一つのアクセントを作り出していて印象に残る。(編集部)

 川田謙三「樹下競演」。森の中で二人のピエロが演奏をしている。その脇には一匹の犬が居て、二人を見つめている。実に楽しげな雰囲気である。長くモチーフとして描いてきたピエロが、生き生きとした描写によって作品に存在している。やわらかな描写がそういった雰囲気をより際立てている。(編集部)

 斎藤良夫「ソラノ、時計台」。トスカーナにある中世の街である。高い断崖の上に集落が存在して、中世の要塞都市の面影を残す。その景観を横長の画面に見事に表現した。光が当たって、建物にくっきりとした陰影をつくりだす。茶褐色の屋根に黄土色の壁。そのキューブな屋根の形がジグザグしながら頂上に上っていく様子は、一種ミステリアスな様子で、それを絵画的なコンポジションの中に巧みに取り入れている。いちばん高いところは城壁の上にある時計台である。いま一時四十分ほどの時刻を時計の針が指している。それと相対する右の鐘楼の塔。下方には断崖の一部がのぞく。その様子を見ると、深い時間の闇のようなものがそこから立ち上ってくるようだ。千年ほど以前に建てられたこの中世の街の時間の中から浮かび上がり、時間を超越したような存在を表現する。(高山淳)

 山川圭子「夏の名残」。波打ち際にたくさんの花が入れられた箱が置かれている。その左脇には木の柵がある。そして遠景には海が見える。どこかロマンチックな雰囲気が漂う。対象を細やかに描きながら、その雰囲気を失わずにいるところがよい。クリアな描写もまたこの画家の筆力を窺わせる。(編集部)

 宍倉聡哉「秋の彩り」。住宅街に囲まれた小高い公園の情景である。背の高い木立が点々と続き、その間を縫うように小径がカーブしながら奥へと伸びていっている。樹木の葉は茶に染まり、秋の季節を感じさせる。奥には立ち並ぶ家々が見えるが、その屋根が前述した木立の葉と少しだけ重なって描かれているところが印象的である。あえてそのような目線で画面を構成しながら、手前から遠景までの距離感を作り出しているところにこの作品のおもしろさがあると思う。空は抜けるような青空で、清々しい透明な空気感を強く感じさせる。点景で人物を入れながら、画面全体で穏やかな心落ち着く風景として描き上げている。(編集部)

 多田恵子「愚かな積木」。手前から奥にひび割れた長い長方形の台があって、そこに積木が置かれている。その左脇の地面から機械で作られたような手が伸びて積木を一つ摑んでいる。そしてその奥で一人の女性がそれを見つめている。妖しく不思議な情景である。直線を繰り返しながら画面の大半をきびきびと描いているが、どこか破綻を予感させるところが興味深い。独特の作品世界が鑑賞者を惹き付ける。(編集部)

2室

 久原信子「縦走路(荒川三山)」会員推挙。山頂に近い山道からその周囲の山々を望む風景である。道脇には野花が鮮やかに咲いていて、それが作品の中の主役のように描かれているところが特に興味深い。堅牢な道や山の様子と、この野花のやわらかな姿が対比されているようだ。複雑な遠近感もしっかりと捉えられているところにも注目する。(編集部)

 五十嵐威「古鎮 暁光」会員推挙。街中を流れる水路に一艘の無人の船が浮かんでいる。中景には橋があって、それが水面に映り込み大きな円を作っている。船は繫留されているが、鑑賞者の目線はその橋の向こうに誘われる。強い求心力を持った画面構成が強く印象に残った。(編集部)

4室

 白戸昭「旅の出会い」。北欧の街の情景を長く描いている。赤い屋根の街並みが特徴的で、それぞれの家屋の間には暗色が入れられている。そして遠景には鋭い尖塔がいくつも伸びている。力強い筆致でぐいぐいと作品を描きながら、そこに深い情感を引き寄せている。現地を旅した記憶が確かなリアリティと共に作品の中で甦ってくるように、鑑賞者とそのイメージを共有するような魅力がある。(編集部)

 水野晃一「カナルサンセット Ⅱ」。複雑なたくさんの家屋や船の並ぶ川岸の情景を、クリアに味わい深く描いている。手前から奥に行くにしたがって描写は掠れていくが、それがもう一つの情感を作り出しているようだ。画面の中央に大きく空間を取っているところも巧みな画面構成だと思う。(編集部)

5室

 飯塚明夫「家族の朝」。店先に置かれた果物や野菜を売る家族の肖像である。色とりどりの商品が作品を賑やかにしているようだ。三人の純朴な様子も魅力的である。じっくりとこの情景と向かい合って描き出したからこその安定感が見応えとなって生み出されている。(編集部)

 森本憲司「夕映えの湖沼(生花湖)」会員推挙。向かって右側に沼を望む道が奥へと続いて行っている。遠景に今沈まんとする夕陽が、木立などに長い影を与えている。その様子を繊細にクリアに描き起こしている。この画家の確かな筆力によって、この情景が作品として甦ってくるかのような、強いリアリティが魅力である。(編集部)

6室

 三蓼正子「天空を仰ぐ」。スカイツリーを仰ぐような視点で、川をカヌーで進む人々を描いている。気持ちのよい空気感とその楽しげな様子が、しっかりとした構図で捉えられている。確かな臨場感をその構図がささえている。(編集部)

 

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