美術の窓

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公募展便り(2014年6月号)

美術の窓2014年6月号

第64回モダンアート展

(4月1日〜4月16日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 村田とも子「トルソ '14 並背・影」。先だって銀座スルガ台画廊で彼女の作品を見て面白かった。そのときには背中のシルエットを大胆に扱ったものと思ったのだが、作者によると、これはポンプや井戸のイメージの展開だという。黒いバックにグレーの、筆者には背中に見えるポンプを左右に置いたようなフォルムが不思議な情感とヒューマンなイメージを表す。真ん中が割れて空洞になっている、あるいはカーヴしている様子は、深い井戸のイメージなのだろう。いずれにしても、人間的存在をそのような深い無意識の世界を念頭に置いたうえでの表現として面白いし、グレーのもつ独特のニュアンスをよく使いこなしているところが作品の絵画性だと思う。

 石川忠一「Trilations〈三つの月の物語〉」。妻を亡くした悲しみの連作が続いていたのだが、昨年、新しい愛の芽生えのようなイメージが表れた。今回は急展開のように羅生門のイメージが描かれている。山の中を旅行中、武士とその妻が盗賊に襲われる。そのなかで妻が乱暴されるという事件が起きる。それについて三者三様の言い分がありそれぞれ食い違うという芥川龍之介の小説『藪の中』を基にした映画である。画面の真ん中にカサをかぶった女性が立て膝をしている。片手に短刀、片手は盗賊のほうに手を差し伸べている。盗賊は刀を持って激しい動きを見せているが、その顔のあたりにこの女性の手は添えられて、そこはピンクになっているのは濃い関係性を示すのだろう。右のほうの武士に向かって女性の短刀は差し伸べられて、武士はこうべを垂れて考えこんでいる様子。上方に三つの月が浮かび上がる。片方の月とは離れているが、片方の月とは合体している。そんな様子がアウトラインによるフォルムによって表現される。灰白色の色面が多く、それは月光によって照らされているのだろう。太陽光線の中ではものの形があらわになるが、月の光の下、夜の世界の出来事には曖昧なことが多い。そのシチュエーションが画家にとって必要なのである。象徴的なフォルムによって、男女の関係、その変化を表すわけだが、見ていると、静かな中に激しい感情の動きがあらわれている。目鼻はつぶされて口がものをいっているのだが、静かな踊りや能を見ているような、そんな不思議なフォルムだし、表現のようにも感じられる。

 相馬亮「one day ~hope~」協会賞・損保ジャパン美術財団賞。正方形の画面。椅子に座った少年。頭を垂れている。両手を前にして一輪の薔薇の花を捧げている。下方にはたくさんの薔薇の花が白いシーツの上に置かれている。花を持っている上半身と下半身の一部は画面から前に突き出た部分に映像ふうに描かれている。3・11の震災に対するレクイエムのイメージなのだろう。光が後ろに黒々と影を投げかけるシチュエーションを、二つの重ねたキャンバスの上に一部を宙吊りにするように置くことによって表現し、強いインパクトを与える。

 桜井武人「風化の詩 14A」。コンピューターグラフィックス的な技法が使われているように感じられる。巨大な樹木の洞のような内部に球形の細胞のようなものが集合している。これまで作者の作品は上方に上っていくようなイメージがあったが、今回はその洞の穴の中に閉じ籠もって冬を越しているような雰囲気。そして、やがてこの黒い種子のようなたくさんのフォルムは弾けて新しい命を呼ぶのだろう。体を屈めながらじっと想念の世界に深く入り、時を待っているようなイメージを面白く表現する。

2室

 山田展也「風の景〈北緯〉」。画家は北海道の北端、天塩に生まれた。ソ連とすぐ国境を接している。一時ソ連が攻めてくるといった噂を子供の頃聞いたことがあって、不安になったそうだ。そういった風土に生まれた画家は繰り返しその時に体験したイメージを画面に引き寄せる。今回ははるか水平線に向かうパースペクティヴの絵画的な表現がまず中心にあるのだが、左右に板が貼られている。右のほうは縦長に板が貼られ、向かって左側は横に塀のように貼られた板が十二枚。金属のフックにロープが掛けられている。右の二枚の板の上方の金属の板によってそれが結合されている。下方にやはりフックによってV字形の鉄の棒のようなものがすこし曲がりながら左右に伸びている。錆びている。それはひとつの結界のように感じられる。画家が繰り返し描くふるさとのイメージ、その前に結界のようなものが張られている。オフ・リミット。海は凪いだような雰囲気で水平線まで続き、そこに二本のストライプが伸びている。まるでレールのように伸びている。空にはフリーハンドのストロークで、左右にすこし傾きながら、あるいは水平に引かれた淡いグレーの緑や紫などの筋が置かれ、星のような小さな点々がばらまかれている。筆者は以前、画家の絵について「無限のまへに腕を振る」という中原中也の詩の一節を引用した。その無限の前に腕を振るようなイメージがより発展して、手前の結界のようなイメージがあらわれたのだろうか。そして、海に二つのレールが通っている。『銀河鉄道の夜』ではないが、そのレールの向こうに行くことは死の世界に入るということになるのだろうか。飛躍的な発想だが、そのようなイメージもしぜんと起こる。そして、左の板塀に吊るされたロープは人間の営為の象徴と言ってよい。人間の営為というものと自然、そして現実と非現実、生と死という二つの対極する世界をこの画面の中に表現し、それを一種祭壇のように結界の上に描いたということになるだろうか。

 オオミダイゾー「WHITE PINE」。3・11の津波によってたくさんの人々が亡くなった。その中に生き延びた木もあったそうで、この白い松はそのようなイメージの象徴としてあらわれているようだ。同時に黒い背景の中にその白いフォルムの梢までわたる様子は、命というもののもつ繊細な表情も重ねられている。右下に車のナンバープレートがへこんだかたちでコラージュされ、「・岩手200 さ15-39 ・」という文字が見える。

 加藤勝久「白い影―旅路・Ⅲ―」。白い直方体の台の上に一足の編み上げ靴が置かれている。周りに切断された樹木の枝。馬に使う手綱。鳥の羽。葉のついた自然薯の蔓。その葉も枯れて褐色を呈している。それぞれがそれぞれの時間を背負いながらここに置かれている。たとえば、この靴は画家がずいぶん昔にはいたものだそうだが、いま絵のモチーフとして存在するまでの時間。自然薯の蔓もこのようになるまでの時間。鳥の羽も同様である。様々な時間がクロスする。それぞれのものをリアルに緻密に表現しながら、描かれているものはそれぞれのものの背負っている時間のようだ。「白い影」とはそのような時間の意味ととってよい。白い背景にそれぞれのものを並列的に並べながら、光をそこに当て、それぞれの時間を浮かび上がらせ、それを見つめることによりヒューマンなものがあらわれる。

 笹岡信彦「裸の木の梢からツグミの鳴き声が聞こえてくる」。亭々と樹木の立っている様子が背景にある。そこは大きな広場のようなところで、後ろには小さな教会がある。教会から尼僧が手前に歩いてくる。数えると、八人なのだが、よく見ると、一人の尼僧が歩いてくるその様子をそれぞれのポジションの中に描いたもののようにも思われる。黒い着衣に白いヴェール。その様子が題名のツグミのイメージと重なる。ツグミのようにこの尼僧を画家は眺め、その不思議なイメージを画面の中に表現する。客観的な広場や木や建物といった空間の中に、きわめて内的なものが侵入してくる様子を生き生きと描く。

 古川秀昭「祝された静物 2013─Ⅸ」。赤くなったカラスウリ。赤くなる途中のカラスウリもあるが、それが台の上に置かれている。そばに箔のような矩形のフォルムが九つ。白いクロス。そこに当たる光。独特の韻律があらわれる。黒と白の幽玄とも言ってよいような美意識の中に金の箔が置かれ、カラスウリの蔓が伸び、それぞれの実がそれぞれの色彩をもちながら不思議な韻律を奏でる。

4室

 中村啓子「もう一つの時間」。正方形の画面のほぼ真ん中に円が置かれ、右には柱のような黒いストライプが背後にあり、それに対して斜めの面、あるいは線が入ってくる。上方には広角のグレーのフォルムがあらわれ、天井のようなイメージ。しーんとした室内の空間の中に円形のフォルムがあらわれている。そして、上方から小さな正方形のグレーのフォルムが下りてくる。その集合体は全体でV字形のフォルムをなす。手前の円形の灰白色のフォルムには独特のマチエールというか、柔らかな触覚性が感じられる。背後のグレーと対照されて、まるで巨大な満月が室内にあらわれたようなイメージ。神々しくもあるし、神聖で近寄りがたい存在のような性質も感じられる。その下方にグレーの影がつけられていて、それがだんだんと上っていくと月は消え去るような時間性。そして、幡のようにこの円を荘厳する不思議な正方形の数十のフォルム。心の中にあるきわめて大事なものをこのようなかたちで画家は表現する。心の中の曼陀羅ともいうべきものを視覚化したような不思議なイメージが感じられる。

5室

 阿蘇千鶴子「宙」会員推挙。茫漠たるスクリーンともいうべきイメージの中に浮遊するものがある。それらがシルエットふうに描かれ、徐々に動いていく。中心にはブルー系のトーンが彩られ、右上方と左側にオレンジ色や黄色の色調やグレーの色調が浮かび上がる。ブルーの下方には月を思わせるようなフォルムがあらわれている。時間がたつにつれてやがて夜明けが来る。同じ明るい部分でも右上方の空間と左の明るい空間とは性質を異にしているようだ。左の明るいグレーやすこし黄色みを帯びた調子は月の光を抱きかかえているような雰囲気で、右上方には夜明けに近い空のイメージがあらわれているようだ。いずれにしても、夜空に向かいながら夢想するところから生まれてきたロマンティックなイメージのように感じられる。

 野口眞木雄「崩壊(TSUNAMI)」。これまでも崩壊した景色を描いてきた画家は、実際に東北を襲った津波の結果現れた光景が、自分の描いた光景とあまりに共通していて驚いたのだと思う。そんな不思議な印象を先だって個展を拝見して感じた。この作品はうずたかく積もった廃車のスクラップ化された上に壊れた車が載っている。それが黄土系や茶系の色彩で彩られている。津波というより、廃棄されたものが時間の中に風化し、錆を現して熟している。あえていえば叙情ともいうべきイメージがあらわれているところが不思議である。背後は黒いシルエットふうな表現で、被災したあとの様子が印画のように浮かび上がっている。片一方には恐ろしい現実があり、片一方には画家のイメージの発展、成熟ともいうべきものがある。その二つが画面に対照されているような不思議な印象を感じた。

8室

 吹田文明「黒い犬」。緑の主調色の中に大きな黒い犬の疾走している様子にロマンが感じられる。背景には星が散りばめられ、球形のフォルムが三つほどパースペクティヴに従って浮かび上がる。この犬は死を運ぶ犬のようなイメージもあるし、生命の奥深い情動の表現のようでもある。渾沌とした命というものが形象化され、ここを走っている。それに仮託して表現するような痛切なものが、この画家の内部にあるのだろう。それを取り巻く星の様子などは戦争中に亡くなった画家自身の仲間のイメージと重なる。

11室

 赤穂恵美子「光の刻 Ⅲ」。正方形の中に正方形をとり、それはすこし下方より一センチほど浮き上がった様子。中心から放射する様子。大きな三重の目のようなフォルムの向こうに黄金色の光のようなものがあり、そこから放射してくる力。画面全体は波打っているような様子。染織の作品であるが、神々しい光の放射する様子を、一種寂々たる音楽的な動きの中に表現する。

13室

 兪佑盡「立体表現 Ⅱ」。いわゆるオプティカルアートである。直線によって立方体や直方体の形があらわれ、それの連続するリズム。下方にはそこにジョンブリヤン系の色彩や紫が入れられ、中心ではすこしその色調が濃い紫や濃い緑になり、上方では明るい緑が使われている。都会に差す朝日や夕日、あるいは夜の光線といったイメージがしぜんと浮かび上がる。透明感のある色彩の連続によってしぜんと音楽的な効果も生まれる。

15室

 ミニー吉野「魚雷試験場跡にて」。魚雷試験場というと、戦前の時代のことだろう。いまは廃墟になったコンクリート造りのガランとした空間に若い女性が立っている。天井も窓もなくなって、樹木が茂っている。白い衣装を着た女性の背中に翼がついているから、天使のイメージが重なる。戦争中に亡くなった人に対する鎮魂のイメージがしぜんと感じられる。その中に六羽のアゲハチョウが飛んでいて、一羽は窓から向こうに出ようとしている。その蝶が亡くなった人の魂と重なる。静寂のなかに強い抑圧というか、海の中に潜ったような気圧が感じられる。その気圧があるからこそ、この蝶も生きてくるし、天使のイメージもまた必然性があらわれる。細密な描写力を駆使しながら、そのようなイメージの深さを表現して興味深い。

〈彫刻室〉

 唐澤朝子「夏の帽子」。まるで出雲の注連縄を思わせるような豊かで力強いフォルムであり、それが二本垂れ下がっている。独特のオーラのようなものがあらわれる。実はこれは女性の三つ編みの髪で、上方に麦藁帽子のようなものがあることを想定してつくられたそうだ。なにか日本の神仏混交の世界の内側にある強いエネルギーを引き寄せたかのようなイメージの感じられるところは面白い。下方に蝶々結びでリボンが二つつけられているのも、ほほえましい印象である。

第18回日仏現代国際美術展

(4月1日〜4月6日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 上村由希「虹のMaui」文部科学大臣賞。透明なガラスに色とりどりの切ったガラスを前後からコラージュして、柔らかな雅やかな雰囲気をつくる。植物が花びらを広げているようなイメージと同時に、巻き貝が集合しているようなイメージ。そこには月のイメージも引き寄せられる。透明なガラスの色彩を生かしながら、空でもあり海でもあり地上でもある空間に、花が咲き、貝が泳ぎ、月が出ているようなロマンティックなイメージを構成する。

 干田晴美「連関と異次元の風―143A」名誉総裁賞。斜め右上方に向かうダイナミックな動きがまず注目される。青と白と水色。濃い青と明るい青とのあいだにグレーが入って、爽やかでもあると同時に一種スピリチュアルな雰囲気も漂う。それが左の辺からV字形に伸びるフォルムによって、ガラスのような透明板を通して見える世界であることを暗示する。まさに二つの次元のものが一つの次元として錯覚されるわけだが、実はもう一つの次元のものが存在することを暗示する。無限に伸びていく動きを画面の中にうまく取り入れながら、その無限なるものの中にある幾重にもそれを構成する次元を垣間見させるようなユニークな作品。

 ライネルト寿美子「回想」。ジャズの音楽でも聞こえてきそうな画面。フリーハンドの黒いフォルムが画面上方にあり、その後ろには黄土色、下方には緑を背景にえび茶色の色彩などが置かれて、全体でヴァイブレーションするような動きが画面から感じられる。陽気でなつかしいメロディが画面から聞こえてくるようだ。

4室

 高橋行雄「黒猫F.Face」奨励賞。鉛筆による。女性の顔の前に黒猫が目を光らせている。フォルムがクリアで、イメージが豊かである。二重の女性の目の表情と黒猫の白く光る目が対照され、背後のグレーに対して猫の黒い毛並みが対照される。

8室

 笹沼恭欣「うつろい 14」。三つのパネルによって出来ていて、中心はつくばいのようなフォルムに対して上方から下りてくる黄金色の光、左右は紫の中に鬱蒼と茂る木立が描かれている。上方から下りてくる金の粉を受け止める下方の石には敬虔なものが感じられる。その金の粉の上方を見ると満月のようなイメージが浮かび上がる。月の光をこのようなかたちで表現した。月は単に月ではなく、阿弥陀仏の化身としてイメージされている。その仏の恵みともいうべきものがこの光に重ねられていて、それを受け止める集合体としての大きな岩。一種宗教的なイメージを面白く構成する。

9室

 橋本清一「パリの骨董屋」。日が落ちつつある夕暮れの光景だろうか。看板の下にZLEという緑の蛍光色のような光が浮かび上がる。下方にもそのような光が差し込んで、扉が赤茶色に浮かび上がる。この店は題名によると骨董屋のようだ。一階は暗く、わだかまるような不思議なトーンの中に描かれている。道が紫色に光っている。道の向こう、骨董屋のそばにテールランプを光らせる車が一台。強い気配が漂う。グレーの中に光が深い感情をこめられて描かれている。

 白尾勇次「状況 99─E」。正方形の画面にコバルト系の青い色彩が置かれている。それは空を象徴するようで、飛行機雲が一筋、上方に浮かび上がる。夜の明かりの灯ったビルを、その中心に垂直にコラージュする。昼の世界と夜の世界とのコントラストである。それに対して水平にもっと太いストライプのフォルムが置かれている。中心にはアルミが置かれ、左右にはそれをマットにしたような箔が置かれ、文字や新聞の一部がコラージュされ、右端にはビルの夜景がそこにも一部コラージュされている。一筋の飛行機雲の見える青い空のもつ無限なるイメージが夜のビルと対照される。夜の光の灯ったビル街には人間の営為というものが濃厚に感じられる。その人間の営為を背後の青い空が浮かび上がらせる。青い空はまるでアッラーのように一神教の神のような強い性質をもっていて、その下に人間の営為が浮かび上がってくるといったダイナミックなコンポジションである。新聞や雑誌のコラージュはインフォメーションを意味する。その小さなフォルムは、なにか愛らしい雰囲気である。そのフォルムの入れ方にはこの画家の一種詩人的な性質といったものが顔を出しているようで、ユニークである。

 大成節子「共生空間 Ⅲ」。腰を屈めた女性のフォルムに独特の魅力がある。手を差し伸べる先には魚がいて、上方に伸ばした左手では水鳥の足を摑んでいる。ナンセンスなイメージであるが、フォルムが生き生きとしていて、ユーモラスな中に独特の生命感が表れる。

 富岡和恵「fleurir au matin2 花咲く朝に 2」。丘の上方から巨大な薔薇の花が浮かび上がっている。それはドローイングの線とハッチングによる。下方の丘に点々と人の立っている様子がシルエットに描かれている。朝日を薔薇の花に置き換える。そのダイナミックな表現に対して人間の姿は暗い。そばのへこんだ山の形もそうである。いってみれば、地球は暗く太陽は輝かしいといった、そんな対立するイメージを面白くドローイングふうな表現にまとめている。

第73回水彩連盟展

(4月2日〜4月14日/国立新美術館)

文/高山淳

1室

 岸本恵美「ちいの部屋」。「ちい」とは上方にある犬の名前だろう。その顔がピックアップされて大きく浮かび上がる。下方には澄んだブルーの色面がある。その中に矩形のようなフォルムがあらわれる。両側や下方にオレンジとグレーとのコラボと言ってよいような空間。左上方には犬と冷蔵庫のようなフォルム。右のほうには「ち」という文字と犬の遊んだあとの軌跡のような動的な雰囲気。下方にはノンシャランな動き。そして中心に青い空のようなイメージが表れる。犬に対する気持ちのなかに限りない感情、青空を見るような想いもあるのだろうか。様々な空間をステンドグラスのように集めながら、その上方に画家の愛する犬の像をイコンのように浮かび上がらせる。

 岩脇哲也「Aさん」。緑のワンピースを着た女性が静かに椅子に座っている。遠くを眺めている。気品のある雰囲気。グレーの中に緑が静かに輝く。あいだに肌がのぞくのだが、全体で神々しいような雰囲気がこの女性のイメージに重なっているところが興味深い。

 土井上初枝「ある冬日」水彩連盟賞。温室の内部のような空間。窓の向こうに雑木が見える。雪が下りたように地面が白く輝いている。手前の地面に何かが生まれつつある気配。敬虔な雰囲気のなかに不思議な緊張感が漂う。

 橋本弘德「回帰」損保ジャパン美術財団賞。円弧が繰り返される。それに対して水平のフォルムが入ってきて、工場のようなイメージのかたちがあらわれる。塔のようなものも伸びる。その円弧の上方は紫で、中心は緑、下方はオレンジで、朝や昼のイメージがそこに重なるようだ。福島原発が収まると、近隣の人ももう一度故郷に帰れるという意味で回帰と名づけられたのだろうか。いずれにしても、工場との深い親和力のなかにこのノスタルジックな画面は表現されている。

 西山督夫「鈍日⑴」。上半身裸でズボン姿の男の後ろ姿である。デッサンが優れている。鉛筆のハッチングによる表現である。その前にはテープでとめられたような布や洗濯物などが見え、背後は淡いブルーの空であるが、なによりもそのデッサンの力に注目した。

 越野邦夫「青のサールナート(インド)」。画家の作品を見るごとに、お盆の時に精霊が集まり、またお盆が終わると精霊たちが去っていくという、日本古来の儀式を思い起こす。今回は(インド)となっているから、日本の仏教のもと、インドに旅行してよりイメージを深めたのだろうか。中心にストゥーパのようなフォルムが見え、仏のような像がいくつか浮かび、そこに飛天のようなものが集まっている。その周りに霊的な人間たちが集合して、その仏に向かって祈っている様子。しーんとした緑のトーン。そのトーンの中に不思議な光が揺曳する。手前には蠟燭のようなものも立てられている。寂々とした気配の中に霊というものの存在を静かに画家は語りかける。

 安達智行「道標(稜威 Ⅲ)」。下方にあるのはいわゆる陵のようだ。その古墳からゆらゆらと白いものが立ち上っている。上方にはそれと呼応するように雲の中が円形にあけられ、そこは青い空で満月が浮かんでいる。満月と陵とが呼応しながら、祈りのような強い想念を表す。

 中村英「跳ぶ」。赤いコートを着た人が後ろに向かって両手を広げて跳んでいる。世界全体を体で受け止めるかのように。下方の床は市松状になっていて、様々な緑のヴァリエーションがそこに置かれ、あいだにグレーがある。このあたりの様子はイタリアのルネサンス時代の様式を感じさせる。その緑の上に空に使われている青い色彩が置かれていて、地上から高く跳びながら、空と一体化しようとするかのようなイメージが表れる。背後の田園を思わせる緑の色面の向こうに、建物がキュービックに幾何学的に置かれている。この猥雑な現実から逃れて、空と一体化しようとする。そんな強いイメージが感じられる。上方に矩形の色面で空が浮かんでいるが、空の中にもまた空があるような複雑なかたちがあらわれている。そこにあらわれる三つの大きなグレーは、放射状にこの人のほうに向かっているが、光というものを表すようだ。空と光に身を任せる人の姿。もっとも、このような乱暴な跳び方をすると、やがて墜落して死に至るかもしれない。どこかつむじが曲がって、この平和なぬくもりの中からジャンプし冒険しようとする一人の人間の激しい意志ともいうべきもの、そんなイメージがヴィヴィッドに伝わってくる。光に取り巻かれ空に取り巻かれているが、そのそばに死を垣間見ているようなスリリングな気配も感じられる。

 岡野亮介「Passage」。横断歩道の上に立つ、背中を見せる男女。その上方に巨大な樹木の幹が描かれている。人間不在のドライな都市空間の中に、聖なるものとして樹木の幹が下りてくる。

 滝田一雄「室内にて(モレ)」。モレというと、浅井忠が描いたフランスのパリから十キロほど離れた街で有名だが、そのモレの中のアトリエでの仕事だろうか。グレーを中心としてピンクや緑、ブルー、グリーンなどの色彩が優雅なハーモニーを起こす。座って頰杖をついたような女性のポーズが、アンニュイな雰囲気のなかに繊細でデリケートな感情を表す。全体で甘美な雰囲気が漂う。

 渡邉範子「不撓」小堀進賞。幹から枝が伸びている様子を大きく、接近して描いている。幹にはうろもあるし、苔のようなものも生えている。まるで幹が大地のイメージに重なる。そこから伸びる枝をリアルに描くことによって、大地的であると同時にアルカイックな生き物のようなイメージが表れる。

 鈴置昭「豊穣」永井保賞。茶褐色の大きな穂をもつ植物。葉はトウモロコシのような大きな細長い葉である。それが連続して日の光の中に伸びている様子は、豊かな雰囲気である。背後には雑木林があるが、これはしっとりと水墨ふうな調子の中に表現されている。それと対照的に黄金色に輝くようなこの植物の連続したかたちが輝かしい。

 萩山信行「散歩するかたち(indigo fusion)」文部科学大臣賞。フュージョンとはジャズをベースにして電子音楽やロックや様々な音楽を合わせた新しい性質の音楽という意味。インディゴという色彩を使いながら、自由な演奏という題名になっている。自由に画面の中をフリーハンドで動くフォルムが面白い。背景は矩形の色面を組み合わせている。その上方に踊ったり散歩したあとのような、そんな自由な動きがあらわれ、しかも、それが一種の音楽性を獲得する。踊ったり散歩しながら地上的な世界からもうひとつジャンプしようとする、そんなイメージを平面の中に造形したという言い方もできるかもしれない。

 小室幸雄「ほっこりむら」東京都知事賞。建物をデフォルメしたのだろうか。アンフォルメルふうな表現のなかに赤が激しく主張する。背後にブルーや黒が置かれて、エメラルドグリーンの窓のようなイメージが表れる。ガウディの建物ではないが、有機的なフォルムが興味深い。

2室

 伊藤郁「コミュニケーション」春日部たすく賞。太い綱が左右に向かって五本ほどうねっている中に、細い黄土色の綱が巻きついている。渾沌とした現実を暗示させる。その中に三羽の鳥が集まって会話をし、それを眺めて飛んでいるもう一羽の鳥。そして、この三羽の鳥のコミュニケーションと離れて、ぽつんとひとり下方を眺めている鳥が右のほうにいる。また、その鳥を眺めているもう一羽の鳥が飛んでいる。社会には様々なしがらみがあって、その桎梏の中に生きているわけだが、その中で生きる人間の会話や孤独感、信頼感、不信感、そういったイメージがしぜんとこの画面から伝わってくる。

 鈴木新「雨靄(アマモヤ)」。路地の周りに古びた民家が立っている。雨が降っている。中景に傘を差した後ろ姿の男が見える。蹌踉として向こうに向かう。小説のワンシーンのような文学性が感じられる。たとえば不倫の結果、家庭を捨て女にも捨てられた男はこの狭い路地裏の向こうに歩んでいく。そんなストーリーを思い浮かべることができる。それはさておいて、フォルムが的確で、簡潔な筆運びによって対象のかたちを画面に浮かび上がらせる。色彩はグリーンを中心とした中に赤なども置かれて、実に巧みである。

 小沢一「対岸の街」。校舎のガラスが壊されている。校内暴力の学校を外から眺めているといった雰囲気。下方には若い学生のような姿が見える。上方には十代の女の子がこちらを眺めている様子。校内暴力という激しい世界を、この幾何学的なフォルムの中にガラスを通して表現した佳作だと思う。

 太田昭「駿河富士」。上方に駿河から見た富士がもこもこと立ち上がっている。強い生命的なエネルギーを感じる。手前にはたくさんの船がある。鳥や魚、建物、街、船からはマストが林立している。駿河の港から世界中に出帆するといった気宇壮大な力強い画面である。雲などには呪文的な唐草模様のようなフォルムがつくられている。念力的な表現による駿河の港と富士になっているところが面白い。

 西原幹「記憶の中に」。実にうまい作品である。段ボールの箱のようなものが三段あるいは四段に積み重ねられている。両側ではそれが少し破れたり傾いたりしている。手前の床に紙切れや写真などや海外のメールの封筒などが置かれている。一部風景や人の姿がその中にコラージュされている。この段ボールには様々な記憶がぎっしり詰まっているのだろう。新しい記憶、古い記憶。古い記憶は消えかかっている。そういった寓意性を段ボールの箱を重ねることによって表現する。バックのグレーには銀灰色を思わせるような雅な感じのあるところも面白い。

 古川みどり「空を飛ぶ夢」。グレーの墨をたらしこんだような背景に男女が飛んでいる。下方には三人の男女がいる。青年たちの心象を生き生きと画面に表現する。

 遠山治代「何処より来たりし者ぞ」。大きな画面の中心に松ぼっくりが三十ほど集まって塊をなしている。その中心のあけられたところに松の葉が置かれている。松ぼっくりをこのようにリアルに描くと、しかもそれが集合すると、古代的な強いエネルギーが感じられるから面白い。その周りには針葉樹を思わせるような緑のフォルムが繰り返される。下方には角柱が置かれて節や年輪が描かれている。日本人の木との深い関係から生まれたイリュージョンと言ってよい。上方に巨大な白い満月が現れる。

 木下一士「交替」準会員推挙。中華料理店のキッチンの内部である。中華のおたまを左手に持ったランニング姿の男。二つの大きなスープ用の鍋。蒸気が上がっている。タバコを吸う男。歓楽街の看板。的確な描写力によってそのシーンを生き生きと表現する。

3室

 吉田政巳「終宴の光景」。桜の花びらが無数に散り落ちている。水たまりにも地面の上にも。幹の根っこのあたりには花が重なって膨らんでいる。雨のあとの情景を視線を低くして地面に近いところから描いた。その視点の面白さと地と水と落花による熱気のようなものが表現されているところが興味深い。

 白井洋子「東照宮幻想」。中心に東照宮の門がある。そこに向かう階段。両側の塀。接近すると、そのあたりは考証にも耐えるような細密なリアルな再現的な表現になっている。背後は黒で、そこに金の箔がいくつも置かれている。黒と金とのダイナミックな色彩対比。絵画のもつモニュマン的な力が画面に引き出される。

 樋口三千代「循環」。キャベツがたくさん地面から生えている。その形が面白い。葉を広げ実りすぎて、もうすこしすると売り物にならなくなるだろう。生命感に溢れるキャベツの姿で、そこにモンシロチョウが飛んできている。キャベツは死んで大地の栄養素となって、また別の植物もふくめて生きものを生かすだろう。そういった農耕から来るイメージをキャベツを中心としておおらかに力強くうたいあげる。

 松林廣子「巣(東北・祈りの夏)」。枝を集めて鳥が巣をつくる。その巣の中にはいま何もない。死んだ蟬と白い千羽鶴。そこに置かれている紙は般若心経である。震災でたくさんの人々が亡くなった。巣とは家の代名詞と言ってよく、家が崩壊した様子をこのようなかたちで悲しく画家は表現する。

 森治郎「古代浮舞」。光琳の紅白梅図屛風に出てくるあの水の波紋。あるいは平安時代にあらわれた継紙のように、紙と紙を組み合わせながら色をたがえて、金の砂子をそこにのせる。あるいは亀甲文。下方には扇面があって、そこには宗達ふうに波の中に聳える島のフォルムが描かれている。平安時代から琳派までの日本美術の精華から援用しながら、独特のロマンある空間をつくる。上方にくの字形の光によってできたフォルムは浮橋であり、二つの空間をその橋がつないでいる。その夢の浮橋は画家と平安時代や琳派の時代の人々とをつなぐという意味もあるだろう。深い青いトーンを背景にして、日本人の美意識を讃歌するように表現する。そこには自然と断絶のない共生する世界が存在した。その深い関係をもう一度構築しようとする意味でも、浮橋はその象徴としてあらわれた。

 森相實「葛の葉舞う」。4Bとか6Bの鉛筆の線だと思うのだが、実にデモーニッシュなかたちが生まれている。その曲線的なフォルムが繰り返される下方にはたくさんの植物の葉が密集して、赤い花なども咲いている。柵の上のすこし赤い調子のものは蛾のようなものが死んでいるのだろう。上方には鳥が飛んでいる。植物が生きて、日々その触手を伸ばしながら動いていく様子。そこに風が吹く。刻一刻と自然の生命が新しいものをつくっていく。いわば自然の生成そのものに画家の鉛筆は近づきながら、その時間の刻々と動く様子をトレースしていく。そこにあらわれてくる稠密な生命力ともいうべきものに驚かざるをえない。素朴なこの柵のようなものを見ると、ごく狭い一隅を見ながら深い奥行きのある広大な空間をつくりだした。遠景に水に囲まれた丘のようなイメージがあらわれている。外界を描きながら、そのまま内界の世界を表現したような面白さ。小さな世界が、そのまま大きな世界につながる。上方の空の、紙の色を生かしたベージュの空間が実に美しく魅力的である。

 田中実「華」。若い女性が椅子に座っている。その腰、胸、首のかたちを見ると、一種彫刻的な強さを感じる。

 川村良紀「情景」。これまでより色彩が澄んで明るくなってきた。タテに四本のフォルムが見えるが、それは光の柱のようだ。下方には青紫色の色彩が置かれ、そこに朱色が輝いている。エメラルド系の緑が実に生き生きと使われている。色彩を光として表現する。様々な光がここに差し込み、ハーモナイズし、独特の交響楽的な空間があらわれる。モネは睡蓮で光の移ろいを眺めたが、ここに描かれているのは物質が光となって立ち上がってくるような、そのような面白さと言ってよいかもしれない。見ていると、地面なのか水なのか空なのかわからないような、不思議な感興を覚える。

 古賀由紀子「路地裏の記憶 Ⅰ」準会員推挙。木造の民家が接近する中に路地がある。廂や鉄の手摺り。上方からかすかに光が差し込んでいる。そこに布団を干したりする下町の生活。リアルにその路地裏の情景を描く。、手前は影になって黒々としているが、路地の向こうには光が当たって明るい壁面があるといった遠近感と明暗の対比もこの作品の絵画的な面白さだと思う。

 内田田鶴子「初秋の叢」奨励賞。ヨウシュヤマゴボウ、タケニグサ、その他名前のわからない植物が繁茂している。その植物の伸びていく動きを的確に描きながら、ひとつの秩序を描いている。対象に接近しデッサンしなければ、このような画面は生まれない。中にヤマゴボウの赤い茎がアクセントとしてよくきいている。

 人見春雄「繁栄の陰」準会員推挙。建物が揺れているようなダイナミズムがある。建物を塊としてつかみながら、それを画面の中で動かす。ところどころ窓枠がぐんにゃりとしている。生活や運命のドラマを、建物をモチーフにして表現する。褐色系の色彩に独特の安心感がある。

4室

 渡辺光章「在景」。楕円の三つのフォルム。その上方に二つの楕円形の光があらわれて、一部クロスしている。形而上的な世界が眼前にあらわれてくるような不思議な雰囲気である。

 小髙悦子「自然」。裸木がうねりながら上方に向かう。そこに蔓が絡んでいる。遠景に花を咲かせているような一本の樹木が見える。光の陰影が複雑である。春が近い頃の自然の繊細な変化を画家は描く。その複雑なトーンの中に一本の樹木を生きているように表現する。その樹木のカーヴするかたちがなまなましく、生命の気配を発する。

 原恵子「望郷、風雪 Ⅱ」。トーンが魅力である。丈のすこし高い雑草、あるいは灌木のようなものが褐色にかたまっている。その暗い調子と周りの明るい調子。左のほうには低い山があるようで、その影の部分が青黒く描かれている。光と影によって画面にいざなわれる。空にも不思議な光がきらめいている。下方の地面にも灌木のようなものがある。遠くにあるようで、実は心の中にある世界を描いている趣がある。そこには懐かしい光景が広がっている。不思議な心象風景である。

 双山盛春「寒の涸沼」。緑の水がはるか向こうまで続いて、その向こうには三角形の山が見える。水に水鳥のようなフォルムが無数といってよいほどあって、一部はその鼻先がオレンジ色になっている。あやしい気配がこの涸沼に満ちている。太陽がいま沈むようで、その低い位置にある光が湖をつたって手前に寄せてくる。自然の不思議な様子を生き生きと表現する。

 山野清子「これから (Ⅰ)」。右のほうに青い如雨露があり、低い円筒形のものが五十個ぐらい、如雨露を取り巻いて、そこに様々な色がつけられている。五十個の絵具皿を眺めているような雰囲気である。いずれにしてもカラリストであることは間違いない。左上方には矩形の容器の中に落ち葉のようなものが置かれて、それも魅力。これからどのような色を使って作品をつくるかといった、そのプロローグのような不思議な雰囲気。色彩のもつ雅やかなハーモニーに注目した。

5室

 森下正夫「聖なる日」。イスラムふうなヴェールをかぶった男女、五人の群像になっている。白と黒の世界に不思議な緊張感がある。聖なる日という意味はよくわからないが、背景に建物が連続して描かれている。何か強く発信してくるものがある。決して明るくはないが、暗くもなく、人間のもつ強い気配が描かれている。

 坂口かほる「秋への序奏」。地面から伸びた茎の上に花が咲いている。そのままドライフラワーになって残っているような不思議な雰囲気である。花の色はグレーから白、紫、オレンジ色、緑と様々である。このような光景が実際にあるのかどうかわからないが、画面の上では真実の世界となっている。仏画の世界に共通するような強いヴィジョンを感じる。下方の葉の様子をしっかり描いているところも大切で、その上に茎が伸びて、花が咲いている様子が遠近感の中に表現されて豊かな情緒を醸し出す。

 山口洋子「明日へ Ⅱ」。子供を抱く若い母親。手前のざるには柿のような果実がたくさんある。全体がグレーの中にその果実の赤い色彩が輝く。フォルムがしっかりとしている。壁の前の地面にじかに座った母子であるが、拡散するのではなく、凝縮するような力があって、そこから発する人間のもつ気配が力強い。

6室

 中島光榮「蝶の舞う丘」。中景は緑の原で、近景はオレンジ色を中心としたカラフルな花畑になっている。その花畑の中にカラフルな蝶が大小たくさんとんでいる。蝶なのか花なのかわからないといった様子で、幻想感がある。上方の緑の原に向かうと蝶のフォルムがクリアになり、二十羽ほどの蝶が見える。その向こうに緑のこんもりとした林が見える。林の内部にはミステリーが存在するのだろうか。そこに向かって蝶は進む。古墳のようなものがあるのかもしれない。そこに長いあいだ大切にされた聖地ともいうべきものが存在するように感じられる。柔らかなグレーの空が取り巻いて鈍色の白い太陽がのぞくのだが、それはそのまま昼の月のようなイメージとも重なる。

 岩堀紀美子「ロハス通り」。中東の街のような素朴な場所にある小間物店。色とりどりのものがそこに置かれている。上から白い布がすこしかぶさっている。漆喰のような壁に小さな窓。画家のイメージに従って、ひとつのファンタジーが生まれる。とくに小間物の何かというのではなく、人形のようにも袋のようにも見えるような様々なものが、カラフルに画面の中心に描かれているのが実に楽しい。Aという文字などは四つあって、それぞれ位置が浮遊しているような様子で、後ろにパラソルや低い机がある。独り遊びをしている様子。そこにお手玉をするように色をつけ、フォルムをつくる。一種の音楽的感興を感じる。

 羽根田英世「甦る風景」。葦簾のようなものがすこし壊れて、間引かれたあいだから風景が見える。葦簾と同じようにトウモロコシのような植物が上方に伸びている。下方には赤い葉を見せる植物。杭のようなもの。そして背後には、古墳でもあるのか低い丘があって、そこに茶畑のようなものと樹木が緑の色彩を発する。初夏の風景と思われるが、現実というより記憶のなかからよみがえる風景で、不思議なオーラを放つ。

 菊池満子「想いでのタイプライター」。昔のタイプライターは重量感があった。いまのパソコンのキーボードのようにブラインドタッチなどできるはずもなく、一つひとつ押さなければいけなかった。そんなタイプライターのもつ存在感が上方に表現されているところが、筆者には面白く感じられた。手前に光る空間があるのは、なにか記憶の光のようだ。

7室

 栗岡恭子「楽しいテーブル」準会員賞。テーブルの上のものたち。南瓜や瓶、水を入れる器、コーヒーミルなどが指摘できるが、そこに小さな丸い紙をたくさん貼った葡萄の房のような不思議なフォルムが置かれているのが楽しい。画家はもののもつ存在感というより、ものの形を追いながら全体でハーモナイズする音楽をつくろうとするようだ。

 吉迫智子「天空の橋」。石を積む。その小さなものを巨大な橋のように見立てている。それが何列も続きながら上方に向かう。不思議なイメージである。

 冨家昭雄「創景図」。丘の上に教会がある。建物がある。水彩に、紗のようなものや布をコラージュする。あるいは紙をコラージュしながらひとつの風景をつくる。色彩に独特の感覚があって、ハーモニーが魅力。

8室

 古谷幸明「0時の壁・月あかり」。柔らかな光が画面から感じられる。とくに下方ではその光が紙の中に灯っているような雰囲気である。そこにはピンクや柔らかなベージュなどが置かれている。ほとんど抽象画面であり、落書きをするようなかたちで表現されているが、そこにあらわれてくる空間のもつ温かな雰囲気に注目した。

 尾中真理「'14 標(GUNKANZIMA)」。軍艦島というと、人々が捨てたあとの集落をいうのだが、上方のコンクリートで矩形のフォルムがつくられているそのイメージが軍艦島を象徴するのだろうか。荒廃し腐蝕したコンクリートによる矩形の柱のようなイメージ。下方に砂時計のように三角錐が置かれている。時を測る象徴のようだ。白い余白に独特の緊張感が感じられるのは優れたコンポジションによる。

 忠隈宏子「天と地の間」。ロールシャッハテストのインクのしみのようにたらし込みふうに色彩が広がっていく。中心は黒で、黒から緑に、青に変化する。そして、そこに朱色やオレンジ色がドリッピングされ、下方には緑がドリッピングされている。きわめて小さなものがビッグバンのような動きをなして広がっていくような、そんな不思議な雰囲気。逆に収縮し、下方の黒い部分に凝縮していくようなイメージも感じられる。たらし込みふうな空間が天と地の始まりと終わりを表すような、そんな寓意性を獲得しているところが面白い。

 酒井敦彦「323」。円形の画面の中に黒を中心としてグレーの光る塊のようなものが動いていく。中にピンクのような色彩も入れられている。夜の中の明かりのようなイメージも表れる。不思議な詩情を放つ。

 黒田真由美「祈り」。画面の中心すこし右側に三体の茶褐色のフォルムが見える。その周りを黄金色のふかぶかとしたトーンが取り巻いている。声明が聞こえてくるようだ。そうすると、三人は僧なのかもわからない。その声明は絶えることなく聞こえて、その余韻が画面の中に満ちてくるようだ。周りはグレーの空間であるが、その中に、下方だと白いたらし込みふうな色彩が生まれて、それも声明の余韻のようなイメージがある。物質感ではなく形而上的な精神的な空間が、一つのスクリーンのように浮かび上がる。小さな球やバッテンといった文様が見えるが、そこに置かれた朱色がきらびやかな光を放つ。球体のフォルムが連続して重なり、あるいは遊離して、上方にあるいは下方に浮かんでいる。魂に向かって僧たちが全員でお経を唱える。その声明の寂々とした、しかも力強い響きが画面全体に満ちるようだ。そこにしぜんとこのような空間がリアルな存在としてあらわれる。内側から響いてくるその精神のもつエネルギーが魅力である。

 天野仁「坂を上って」。柔らかなハーフトーンの色彩が魅力である。右のほうには水道の蛇口のようなものが見える。左上方には矩形のテーブルのようなもの。周りはベージュの広がっていく色彩の中に緑が入れられている。昼下がりのアンニュイな空間。そこに気配といったものが動いていく。それがそのまま白昼夢のようなイメージを醸し出す。

11室

 坂下由紀子「雨の電車通り」。生活感というのか、地に足のついた雰囲気で、色彩に輝きがある。 

 田辺伝「赤帽の羊飼い」。赤い帽子をかぶった黒い肌の男が棒を持っている後ろにたくさんの羊がいる。緑の花が地平線まで続き、大きな満月がそばに出ている。満月と呼応するように男の白いシャツが輝く。逆光の中に羊たちの草を食む樣子がのんびりと表現される。悠久なるロマンの世界である。

 渡辺愛子「日本人の物証―襤褸」。ぼろ布に糸を通している。雑巾にでもするのだろうか。しわしわの二つの手。八十歳ぐらいの女性の手のようだ。しわがそのまま年輪を表す。尖った鋭い針と糸。手が動いているようなリアルな感じがある。以前はもっと静物的に手を描いていたが、この動いている手のもつ生命感ともいうべきものが魅力である。

 夏川節子「仲間たち」。三匹のシャム猫を面白く描いている。つぶらな瞳にしなやかな体。ノーブルでありながら愛らしい猫のイメージ。

 馬場君子「マイライフ」。男性が汗をかきながら電話をしている。前には黒と赤のボールペン。そばにパソコン。後ろには棒グラフ。そして、紙を配っている男の像がある。この男性は営業活動をしているのだろうか。大変らしい。フォルムが生き生きとしている。そこにこの作品の絵画性がある。

 加藤渥美「集」準会員推挙。枯れた向日葵や赤いホオズキが集合している。それらが集合している上方に白く輝く部分がある。コップや砂時計や瓶などの周りであるが、その白の輝きが周りの暗いグラデーションと不思議な効果を表す。詩のイメージと言ってよい。

12室

 髙野勝子「風通る丘で」。自転車に乗った女性。赤やブルーの華やかなワンピースをつけているが、面白いのは、前の籠に毛並みの長いマルチーズのような犬を置いていること。そばの建物は古美術店のようで、様々な壺などがある。後ろには小さな塔のある建物があり、そこには川が流れ、遠景には山らしきものが見える。風が渡っている。上方のグレーに黄金色のストライプが入る。ポエジーを呼ぶ風のようだ。

 平林幸子「MIND」。三角形のフォルムの上に顔がつけられている。その周りを帯のような白いフォルムが円弧を描きながら取り巻いている。悩みに縛られた人間のイメージがしぜんとあらわれる。花びらのように赤く揺れているのはロマンティックである。そんな風景の下で、何か模索する人間のイメージが面白く表現される。

 宇野満寿美「ヨットハーバー」。品のよい作品で、ヨットの形がそれぞれ面白く、お互いが合唱しているような趣である。輪郭線も一筆で描かずに、途切れ途切れになっているところがまた面白く、そこに呼吸をするような動きが生まれる。海の色が緑やグレー、黄色などで彩られ、向こうのカーヴをなす山の稜線の部分にブルーや紫が置かれている。白い雲が浮かぶ。全体にフォルムが揺れている。その揺れている様子が柔らかな生命的な波動として画面から感じられる。その波動を眺めると、山は山の、ヨットはヨットの、水は水の歌をうたいながら、全体で伸びやかな合唱するような音楽が聞こえてくるようだ。雲が実にイノセントな雰囲気である。

 原田睦乃「節分のころ」。地面からにょきにょきと命が萌えいずる。土の中でも生命活動が行われているのが、地表にすこしのぞいてくる。そういった生命の愛らしいかたちを面白く表現する。

13室

 福島ひろし「迷うフクロウのヒナ」準会員賞。板でつくられた塀の上に子供の梟がとまっている。一羽の梟は枝を嘴で摑み、もう一羽はそれを眺めている。後ろに樹木が幾本も伸びている。太い幹から枝が伸びているのだが、梢がなく、まるでそこで何本もの手が指を広げているような、あやしいファンタジーがあらわれる。夜の世界の幻想のなかに愛らしい二羽の梟がいる。

 新藤千鶴「宙」。ピンクにオレンジ色に燃える空に雲が浮かんでいる。雲の中にも黄色い色彩が入れられて、空が合唱しているような豪奢なイメージを表現する。

 吉田勝美「マジシャン」。トランプを持つ女性のピエロ。体の後ろに回した左手が持つカードには花のようなものが描かれている。そばに象がいて、子供のような小さなピエロがアコーディオンを弾いている。サーカス自体が一般人にとってはミステリーな世界である。そのミステリーな世界をさらに強調するようなこのピエロのトランプ。エキゾティックな音楽が画面から聞こえてくる。オレンジ色系を中心にしながら、クリアなフォルムによって不思議な世界をメッセージする。

 小櫻京子「飛べるものなら・石巻小」。津波で大きな被害があった石巻小学校。散乱する廃棄物。廃校となった学校。そんな様子が縦長の画面の下方に描かれているが、その上方に巨大な時計のようなものが置かれ、その中心に太陽を思わせるような光が置かれ、そこに向かって霊体が浮遊しているようなあやしい雰囲気である。下方のしっかりとした地上の光景に対して、上方にあるのは画家のイマジネーションの世界である。

 西田國子「休息」準会員推挙。ドローイングの力がある。フォルムがクリアで力強い。下方に三頭の牛がいて、上方にベッドがあり洗濯物が干してあるリビングのような部屋。女性がカップを持ってきている。後ろにはゲストルームという文字の貼られたドアが見える。それぞれが具体的な形として画面に集められ、悠久たる自然と共生し生活する人の生活が描かれる。フリーハンドの線が微妙に歪んでいるのもヒューマンな味わいを醸し出す。

14室

 古田瑩子「秋の風(Ⅱ)」。樹木は秋の茶褐色の色彩によって染められているが、そこに三体の関節人形が一輪車に乗っている。長い髪。不思議な妖精のような雰囲気。柿の実のようなオレンジ色のフォルムが周りに漂う。季節をつかさどる妖精たち。そしていま秋だが、冬もそばまで来ているのだろう。そういった季節の寓意性を面白く生き生きと表現する。

15室

 宮﨑禮子「吉野ヶ里幻想―東雲―」。茶褐色の繊細なトーンをもつ地面に黒によって樹木や陰影がつくられる。道の上に二つの黒こげになった樹木が見える。そこには黒い百合が咲いている。吉野ヶ里は弥生時代の巨大な遺跡として有名だが、この作品を見ると、東日本大震災に対する深いレクイエムの気持ちがあるようだ。それがこの倒れた黒こげになった樹木によって表現された。それを受ける道が黄金色に輝いている。そばで白鳥が死んでいる。死んだ白鳥は『古事記』にあるヤマトタケルノミコトの死を思い起こす。ミコトは死んだのち白鳥となって飛んでいったということになっている。不思議なふかぶかとした、人を癒すような空間が画面全体に広がり、そこに陰影があらわれ、その上に祭壇のように二つの倒木。それは死の象徴であり、それを悼みながら白鳥も共に死んだ。そんな深いイメージが感じられる。

17室

 奈良峰博「遠い記憶」。恐竜とシーラカンスを背景にして、裸の土地の未開人のような男がいる。人間の歴史を寓意する。垂直に立つ人間のフォルムが強い。

 木下由美子「卓上の物たち(Ⅱ)」。卓上で人形たちが踊っている。踊り子や女王や楽器を奏する人。そして、そばに花が咲き乱れている。楽しい画面。音楽が高らかに鳴る。そのメロディに沿ってフォルムが次々とあらわれてくるような生気ある表現である。

18室

 加藤伸「潮 Ⅱ」。波が寄せる浜辺に女性が裸で仰向けに寝ている。両手を後ろに上げている。長い髪の毛。その優雅なカーヴするかたちのもつ官能性。まるで波が体に触る様子が愛撫するかのごときイメージである。その波のマチエールも面白い。波の泡から、今、ヴィーナスが生まれているようなイメージも感じられる。

19室

 中道文雄「脇本浜追憶」。場所は鹿児島にあるそうだ。三人の女の子が踊っている。丸い玉の上にカラスがのっている。それを眺める子供を抱く母親。空間を大きくとって、親子や子供のフォルムを愛らしく表現する。上方に昼の月が浮かんでいるのもロマンティックである。

第73回創元展

(4月2日〜4月14日/国立新美術館)

文/高山淳

1室

 髙比良昭光「かたち Ⅵ」。赤と黒とグレーとが強い力をもって構成されている。赤のもつヴァイタルな力を画面の中によく引き出していて面白く思う。

 沼田久雪「水音」。縦長の画面のほぼ真ん中に大きな波紋が描かれている。ゆるやかに周りに波紋が展開していく様子だが、最初の波紋ではなく、そろそろ終わりかかっているようなゆったりした波紋である。その波紋の中が柔らかな淡いピンク色に染まっている。下方はだんだんとグラデーションが濃くなって緑がかってくる。上方ではほとんどインディゴ系の暗いトーンに染められている。夜が後退して朝が来て、朝日が輝くときのイメージを、こんな水の波紋をモチーフにして表現したような優雅な感じがある。日が出るということを静かに喜び鑽仰しているようなイメージである。日本には見立てというものがあるが、水の波紋をそのようなものに見立てた表現のように感じるがどうだろうか。

 福島保典「仮面を付けた訪問者」。段ボールの上に地塗りをして描いている。以前の大きな白い顔を一つ描いたようなしっとりとした質感をもつ表現に対して、また違ったテクスチャーとなっている。上方にマントを持った仮面をつけた男が浮かんでいる。それとほぼ直角に胴体を下にし首を九十度曲げた男が、上方を眺めながら落下しつつある。その男を左側の女性が眺めている。ノクターンといった印象である。メロディを聞きながら浮かんでくる映像を画面の中に置いたような、そんな動きが感じられる。上方に浮かぶ人間と落下する人間の無重力的なイメージ、動きがそのような不思議な音楽的効果をつくりだす。

 小柴悦子「恋の旋律」。ほぼ正方形の画面である。すこし左側中心に円が重ねられて旋回しているようなイメージがあらわれる。そこに二つのL字形の棒が組み合っている。そのペアの棒はクロスしながらその回転する中に入っていく。まさに恋の旋律と言ってよい。背景は黄色い独特の調子で、右下にはハートの形。左の緑の細長い矩形にも同じような黄色い色面が置かれている。旋律が画面から聞こえてくるようだ。そのような動きを柔らかな黄色い色面が支えている。この恋はまだ初期段階のようで、二人が出会い、心の中に恋情が芽生え、それが育ちつつあるときの、そんな初々しいような感情を生き生きと抽象的に表現する。

 米澤光治「ある市庁舎からの眺め」。高いところから眺めていて、各ビルの屋上がのぞくような視点。あるいはほぼ同じような高さの水平方向の建物がシルエットに置かれながら、はるか遠景まで続いている。近景はクリアで、中景、遠景となるにしたがって霞んでいく。空気遠近法を使いながら、近景のもつ写真と見紛うようなクリアな細部の表現。それらがお互いに響き合いながら独特の韻律をつくる。

 林田博子「AFTERNOON」。丸いテーブルの上に筆の置かれた壺や香水瓶のようなものが器の中に入れられている。その下に白、グレー、赤のストライプの布があって、この色彩が画面の中に強い効果をつくりだす。背後の化粧簞笥の上の様々な瓶や彫刻の顔などの線描き。しっとりとしたグレーの中の線描き、あるいは鏡の様子が脇役として生きている。テラスの向こうには黄色い芝生に緑の樹木。床には赤紫の色彩。強い色彩、弱い色彩、そのニュアンスを使い分けながら、よい香りが画面から漂ってくるような不思議なコンポジションをつくりだす。線によるフォルムが連続し呼応しながら、その中に、微妙なハーモニーがあらわれる。テーブルの上にはもう一つ、描きかけのスケッチのようなものが置かれていて、その紙の白が画面全体を統合する役目をしているところも見逃せない。

 前田潤「存在の領域―気配」。空間は紫を帯びた褐色系のトーンに染まっている。下方に左右に伸びる棚があり、そこに天使と思われる像が置かれているが、背中から上方が壊れている。上方から鳥の羽が落下しつつある。壊れたものが存在するというより、いま壊した瞬間の気配のようなものが画面に引き寄せられる。その気配を上方から下りてくる鳥の羽がトレースしているようだ。能などで使われる大きな鼓を打ったあとの余韻のような、そんな不思議なムーヴマンが表現されている。その意味ではきわめて日本的な感性の表現と言える。

 小川尊一「日溜まり」。煉瓦を組んだ塀が壊れかかっている。その上に若い女性が一人座っているが、その目線の先にもう一人の女性が立って話しかけている。背後は地面に雑草が生え灌木が茂り、その遠景にはもう一つの壊れかかった建物が見える。画家はある島の発電所の跡を舞台にして連作を続けている。的確な人体のフォルム。会話する二人。その動作。体をひねったようなそのフォルムを画面に的確に描きながら、パントマイムのような強さが感じられる。会話していると述べたが、背中を見せる女性は背を曲げて座っている女性の背中の向こう、右方向を眺めているようだ。そこにねじれのような空間が生まれる。友達の中にあるひとつの断絶のようなものも連想させる。そういった心理的な要素が画面に入れられているところも面白い。

 古賀英治「刻」。潜水するための帽子やカンテラなどがコンクリートと思われる床に置かれている。重量のある存在感を示す。海の中に潜っていくと、水圧が上がっていく。それに耐えるだけのものたちであり、そのまま静物をこのようなかたちに置くと、画面の中の気圧が高まってくるような、そんな気配が感じられる。実際、コンクリートもバックの壁もすこし水を思わせるような青みがかったグレーのトーンで描かれているから、なおさらそのような雰囲気が漂う。

 松崎良夫「山麓の里」。武甲山を遠景に置いて、近景に煉瓦造りの洋館がある。武甲山は石灰岩でできていて、建築資材のためにずいぶん削り取られている。そんな様子と静まり返ったような古い大正時代にできたような洋館とが面白く対比される。あいだには鬱蒼と樹木が茂っている。クリアに対象を再現し、組み合わせ、構成していくうちに、時間を超越したようなシュールな気配が生まれる。

 倉林愛二郎「刻  2014」。モダンな建築空間の中に古い地図や錆びた缶、石、グラスなどが置かれている。燦々と日が当たっている中に、それぞれの物たちがそれぞれの時間を背負ってここに置かれている。そういった時間というものを描くための静物表現として興味深い。

 奥田敬介「カラーを持つ人形」。白い一本のカラーを持った球体関節人形が木箱の上に腰掛けている。赤いマントを着、長い髪をしている。強い印象である。背後にはアーチ状の暗い洞のような窓がある。様々な解釈ができると思うが、この対象の強い再現力ともいうべきものが魅力でもあるし、また、バックの黒に対してマントの赤、衣装の白というように簡潔な色面による組み合わせも強い印象を醸し出す。

 谷貝文恵「プロローグ」。箱を持って動いている女性。五人のポーズが描かれているが、一人の女性の五態と言ってよい。椅子に座る。立つ。腰を屈めて黒いボックスを置く。あるいはボックスを上方に放り投げた瞬間。あるいは持ちながら歩いて運ぶ。それぞれの位置、動作によってボックスの重みが違っているように感じられるところが面白い。黒い袖なしの衣裳によって女性のフォルムがよりクリアに立ち上がってくる。ボックスは彼女の背負っている大切なもの、あるいは重荷、様々な意味合いがあるだろう。その背負ったもの、あるいは大切なものをボックスという矩形のかたちに造形化する。それを前述したように運んだり、膝に置いたり、放り上げたりするということに、人間のもつ喜怒哀楽の独特の表現が生まれる。柔らかな光が画面に当たっている。朝日のようだ。その光のために重いテーマにもかかわらずにあまり深刻な雰囲気にならない。そのすこし軽い調子が逆に深いニュアンスや寓意性を引き寄せる。

2室

 樫村良江「清秋」鈴木千久馬賞。えび茶色のワンピース、ピンク色のカーディガンを羽織った女性が椅子に座っている。両手を膝の上で組んでいる。そういったしぜんなポーズを淡々と描きながら、上品でしっとりとした味わいが生まれる。

 黒田保臣「砕石場残雪」。採石場の高い崖。縦横にわたった道路。あるいはベルトコンベヤー。建物。そういったものを色面として扱いながら、独特の強い韻律をつくる。

 柳沢千代見「キューポラのある風景」。キューポラとは鋳物工場のことであるが、そのような建物がグレーの中にしっかりと描かれる。手前に水が流れていて、空のグレーを映しながら、空以上に明るく輝いているのが面白い。存在するもの、そして長く使われてきた人間との接触のなかにあるものを独特のリアリティのなかに描く。黒が色彩としてこなれて画面の中に生かされている。

 本村浩章「朝日」。川の向こうにシルエットになった樹木や林。山吹色の光が差している。それは上方の部分で、その中に朱色も入れられ、水色も入れられて、壮大な交響楽を思わせるような色彩。下方に雲がそれを隠し、その下に茶褐色のシルエットのフォルムがあり、水が空を映して静かに輝いている。この朝日の風景にはじみじみとした情趣が感じられる。

 山岸忠彦「ブロンズ像のある景」。これは高岡城にある斎藤素巌という人のつくった彫刻からヒントを得たものである。群像であるが、人生の道行きの困難さにもかかわらず希望をもって進んでいこうといったモニュマンである。それを絵画的に画家は表現する。実際の彫刻より強い表現になっているのかもわからない。ドストエフスキーは苦悩こそは人間の最も尊重しなければいけない精神活動だという内容のことを述べている。彫刻に黄土系の色彩が塗られている。それが黄金色に輝いて見える。俯いた顔。抱き合ったお互いの体。その中から力がわき上がってくるように画家は表現する。台座が画面下方から三十センチほど上方にあり、すこし見上げる角度から描いている。独特の文学的と言ってよい強さをもつところに注目。

 守屋順吉「行」。これまでシルクロードの千仏洞、キジルなどの壁画から受けた感動をもとにして仏画のシリーズが続いてきた。今回はそれを背景にして、合掌する一人の僧を描いた。赤い僧衣を着たこの僧は高い位の人なのだろうか。平和を祈っている。背後の飛天や仏の描かれている、セルリアンブルーやコバルトブルーなどの鮮やかな壁画の色彩が、赤というよりオレンジに近い僧衣と高く響き合う。まるで壁画の中から抜き出てきたような人物像であるところが興味深い。

 工藤和男「魚と人」。漁をする人、海で働く人の労働の喜びともいうべきものを生き生きと描く。最近、画家は郷里大分に帰った。大分は魚がおいしいところだし、空気もいいためだろうか、色彩が明るくなってきたように感じられる。手前の台に大きな鯛や巨大な鯖のようなもの、鰺、鰯などが水揚げされ、作業している男女が前後に六人ほどいる。大きな鯖か鰹のようなものを持っている男の顔はどこか画家本人に似ている。後ろにはクレーンで吊るされた魚のいっぱい入った網を持つ人、あるいはかがみ込んで何か作業をしている人がいる。それほど大きな作品ではないが、斜線を縦横に利用しながら、ジグザグの動きのなかに人々を配し労働のもつ喜びをうたいあげる。

 島﨑庸夫「憑く」。首を下方に曲げて左手を前に突き出している女性。その首から鎖骨にわたる大胆なデフォルメが素晴らしい。衣装は赤と青のストライプで、激しい感情を表す。右手前にそれを眺めている年とった女性の横顔。面白いことは、左の女性が左手を突き出していると述べたが、その後方に帽子をかぶった不思議な謎めいたマジシャンのような男の顔がのぞいていることである。「憑く」という題名だが、激しい感情表現をするこの若い女性は何かに憑かれているのだろう。それを眺めている右の女性は母親、あるいは姑といった位置にあるのだろうか。子育てや教育も大変な時代である。その他もろもろの社会の抑圧のなかに若い女性は生きていかなくてはいけない。画家自身もそのような娘を持っているから、なおさらイメージが深まる。その悩んでいる状況を憑くという現象のなかに取り入れて、この不思議なフォルムをつくりだした。フォルム自体の強さは一種結晶するようなところがあって、右腕をくの字に曲げ、左手を前に突き出した、この首から肩の上半身のフォルム、そしてそこのグレーの独特の調子。背景は深い青い色彩で、様々なフォルムがある。鯉のぼりのようなものさえも見えるし、津波のあとを思わせるような荒涼としたイメージも表れている。現代の日本人のある普遍的な不安感ともいうべきものを、この女性を通して画家は語りかける。手の向こうにあるマジシャンのような人間はおそらく画家自身の投影と思われる。

 大木美智子「百合一花」。赤毛の白いワンピースを着た女性がブーツをはいて立っている。目を見開いて遠くを眺めている。後ろの壁と思われるところにカーテンのようなものが吊るされているのだろうか。百合の花がそこに描かれている。実際に咲いているというより、絵の柄のような雰囲気。全体のベージュ系の中にすこし赤みが入ったようなトーン。それは肌の色にも連結していくのだが、そのトーンのもつ独特の味わいが魅力である。舞台の上に立っているような雰囲気もある。単なる肖像画というより、深い心理的ニュアンスを託された女性像と言ってよい。

 池上わかな「包光」。巨大な樹木の幹のあいだに座っている若い女性。まるでこの幹に守られているかのようだ。女性のフォルムから類推すると、ずいぶん大きな木になる。絵の中につくられたかたちの面白さである。その木の大きさからすると、まるで女性が妖精のように感じられる。それほど木のもつダイナミックな激しい力がよく描かれているところがこの作品の魅力である。

 佐久間陽子「鮭のある一隅」文部科学大臣賞。厚い板の上に新聞や唐草模様の布が置かれ、そこに巨大な一尾の鮭やサザエなどが置かれている。おおづかみに対象のフォルムを捉えながら、生き生きとしたコンポジションをつくる。

 三村浩二「イブラを臨む」。俯瞰した位置からこの海際の街を眺めている。手前に鐘楼のあるドーム形の塔がある。その周りにある建物を直線によって表現しながら、遠景までその連続したかたちが独特のリズムをつくる。右後ろから光が当たり、白く壁を染め上げる。ところが、遠く上方に巨大な庭園が浮かび上がっているところが面白い。そこはすこし影になっていて、樹木が生えている。その大きさを手前の建物から類推すると、よほど巨大な空中庭園のごときものになる。周りの建物の白く光に染められたような輝く様子と対象的に、深い翳りの中にその巨大な建物が存在する。一種の破調のようなものが画面にあらわれている。あえて画家はそれに挑戦したのだろう。独特の風景表現である。

 深井米勝「郊外」。野原が画面の約七割を占める。その向こうには家が並んでいて、背後は丘になっているのだが、丘の上に団地と思われる巨大な建物が蜃気楼のように浮かび上がる。残照の空である。面白いのは野原に水が見えることである。小さな沼のようで、ドライな都会の生活を潤すようにここに置かれている。その水によって、単なる風景が風景以上のある聖性ともいうべきものを獲得する。

3室

 松島明子「民族音楽のある夜」。三人の楽士と一人のウェイトレス。それに向かい合う背中姿の客。三つのブロックを画面の中に面白く配置している。とくに奏者のヴァイオリンやチェロを弾くそのフォルム、ウェイトレスの緑の衣装など、実に的確な効果を画面にもたらす。

 高田宏「Flower's Counter」。たくさん花の盛られた壺がカウンターに置かれている。こちらを向いたティーンエイジャーのような女性の雰囲気。黄色い花を持っている。そばに赤ワインの入れられたグラス。柔らかな光線が差し込む。しっとりとしたトーンの中に優しく包みこむような空間が生まれる。この女性も花もすべてが貴重な存在として空間の中に生かされる。

 原田守啓「壁」。漆喰が剝げて基礎の煉瓦が下方ではむきだしになっている。上方に三つの窓があり、茶褐色の煉瓦を置いた屋根が見える。その窓がまるで人間の目と口のようだ。そのように建物を描く画家のイメージの力が面白い。

 大島和芳「マテーラの聖母」。幼子イエス・キリストを抱く聖母マリア。それがアーチ状の龕のようなものを背景にして置かれている。彫刻なのかレリーフ状のものなのかわからないが、マテーラのそのものを見てインスパイアされ活性化し、このような表現になったものと思われる。金が効果的に使われている。強い表現である。背後に緑やグレーなどの色彩で街並みが描かれている。コバルト系の空が金色や茶系の色彩とよく響き合う。

4室

 村田千恭「だっこ」。少女を抱く若い母親。若い父親は手を伸ばして、もう一人の女の子と向かい合っている。青みがかったトーンの中にこの二人の子供と若い両親とを心をこめて描く。光がそこに当たり陰翳をつくる。一種彫刻的な強いフォルムによる表現である。

 髙塚照恵「あなたを信じる」。有名なヴィーナス誕生の浮き彫りが背後の壁に掛けられている。細長いテーブルには白いクロスが掛けられ、青い涼しい湾曲する大きなガラス瓶が一つ置かれている。まるでこのヴィーナスのために置かれているようだ。それと対応するように向かって左側に黒い顔をした女性の彫刻が置かれている。両耳からガラス状の透明な二つの筒が出ているのが面白い。上衣に金の彩色がされている。この女性のもつ瞑想的で敬虔なイメージも右側の青い鉢と響き合う。後ろの高い燭台、あるいは枯れた向日葵。しーんとした気配のなかに祈りの空間が生まれる。

 石井洋子「或る情景」。爽やかで楽しい幸福な雰囲気が画面から感じられる。首と足のないマネキン的なトルソが横向きに置かれ、左手がくの字形に伸び、その後ろに右手の指が添えられている。バックにポンペイ赤が置かれ、金の箔やコバルト系のブルーが塗られている。下方から大きな葉をもつ植物が伸びている。光を象徴するように金の箔が使われている。太陽の瑞々しい光線が室内に満ちて黄金色に染めるとき、何か希望に向かって静かに考えているような、そんな心的状態が表現されているようだ。また、黒い太い線による輪郭線が断定的に画面に入り、その線のもつ力ともいうべきものが、この画面の基本の力をつくる。横向きのトルソと言ったが、向かって右のほうに後ろ向きのトルソのようなものが現われて、その背中に金の箔が貼られていて、それもまたきらびやかなイメージを画面に与える。手前の水鳥のようなデコイが、まわりと関係なくとぼけたような表情を見せるのも面白い。

 宮本悟「大丈夫だよ…」。上方に電車があり、その窓に家族や二人の女性と黒人、あるいは老人と少女など、不思議な映像がそこに描かれている。ホームには人が満ち溢れている中に少年と少女が手をつないで、少年はボストンバッグを持って立っている。家出をした二人のようなイメージが表れる。その周りの人間たちはホームの中にいるというより、雑踏の中にいる人々の表情である。映画からインスパイアされ触発されてこのような不思議なコンポジションが生まれたのだろうか。旅というもののイメージを面白く群像の中に表現する。

 中島洋一「沈黙 Ⅱ」。巻貝や二枚貝などを思わせるような曲線の連続によって、強いエネルギーが生まれる。しっとりとしたグレーの感触。黒々としたその上方のフォルムのもつ動きとボリューム感。海というもののもつ圧倒的な存在感を象徴するかのように、このカーヴの連続による有機的なフォルムが鑑賞者を引き寄せる。

 新田由紀子「古代への想い」。兵士の埴輪が画面上下いっぱいに描かれている。古代のロマンに対する思いが感じられる。周りにすりガラスを通して入ってくるような柔らかな光が満ちている。

5室

 塩谷充代「夢魔」。大きな唇。うねうねとカーヴする蛇のようなフォルム。口の中に大小様々な球体のものの入れられたフォルム。巨大な見開いた目。「夢魔」という題名のように人体の一部が強調され、呪術的な世界があらわれる。うねうねとした蛇のようなフォルムは、あるいは腸を象徴して腸の中に消化されたものが動いているようなイメージもある。強い表現である。

 馬場豊「刻の記憶」。壁の上にあみだくじをつくって、そのあとを追う。あるいはその亀裂の中に追いながら記憶をまさぐる。そんな不思議な味わいが感じられる。壁が壁でなくなって、そこに奥行きがあらわれる。渾沌とした中に手探りで何かフォルムを探そうとする。

 渋谷葉子「歩む人」。頰杖をついた若い女性の顔が強い。その後ろに七十代と思われる女性の着衣の、すこし足が悪いのか引きずりながら歩くような女性のフォルムがあらわれる。介護が必要な女性と若い女性との対照、あるいはそんな親子関係を画面の中に表現しようとするのだろうか。いずれにしても、線によるフォルムのクリアな生き生きとしたかたちがこの作品の魅力である。

 横森秀彦「始まりの時」。赤いワンピースを着た女性が腕を後ろに置いて立っている。床は黒白の市松状のものである。周りは青いトーンの中に実に様々なフォルムが置かれ、一部ネットがコラージュされドリッピングしたようなフォルムがあらわれている。宇宙からイメージを引き寄せて出発しようとするかのようなダイナミズムが感じられる。上方に満月が現れ、雲が浮かび、満月のそばにキューブな形が浮遊しているのも面白い。渾沌としたなかからイメージを引き寄せ、新しく開始しようとする。そんなイメージを生き生きと表現する。

 伊藤田鶴子「いさば」会友賞。いさばという意味はわからないが、魚を左手に持つ女性の全身像が強い。詩人の描いた像と言ってよいような、アルカイックでプリミティヴな強さがある。

6室

 坂本澄男「雪の里」。雪の積もったぬかるみの道に轍の跡が見える。中景には刈った田圃があり、山の麓には雪をかぶった茅葺きの民家が二つほどある横には瓦葺きの小さな民家もある。背後は山である。近景と中景は、本来違った空間から引き寄せ、つないだような不思議な感じがある。いずれにしても、優れた筆力である。

 浅野静江「レッスン(或る日)」。レコードジャケットのようなものを持った若い女性が立っている。両脇から結わえた髪が面白く飛び出している。そばにピアノの鍵盤がある。楽譜台がある。緑や青い空間の中にそれぞれの色彩が浮かび上がる。画面から感じられる韻律がこの作品の魅力だし、また色彩のハーモニーが心地よい。

7室

 森本茂盛「漁村」。湾に船が係留され、斜面になった先が道になり、その周りに赤や青い屋根をもった民家が建てられている。そしてすこし高いところにも民家がある。そんなしっかりとしたコンポジションの中にそれぞれのものの存在とその位置が決められ、全体で骨格のしっかりとした建物を中心とした風景作品が生まれる。構図が優れていると思う。

 小野寺正光「江戸川風景」。江戸川の河川敷、土手、係留された白い船。五月頃の光景だろうか。新緑がきらきらとした色彩を表す頃の江戸川の情景を、まるで貴重な宝石のように表現する。遠景にある白いマンションのような建物が、画面の中では白い宮殿のように描かれている。澄んだ空気のなかに様々な緑の色彩。とくに中心の広葉樹は、何の木かわからないが、濃い緑でシンボリックに表現されている。

 小林麗「古都の広場」。建物と窓。一階のショーウインドー。そしてレストラン。その前の広場にパラソルがあり、椅子やテーブルがある。古都、ヨーロッパのある街の情景を色彩豊かに表現する。ベージュ系の色彩が中心になっていて、温かで安息感のある空間が生まれる。

 中矢眞人「街の漁港」。岸壁と船。背後のビル。それぞれを色面によって画面に構成する。それによってひとつの詩の世界が生まれる。

 両角澄子「開店前」。カウンターの向こうに色とりどりのお酒が置かれている。カウンターの上にもまた瓶が置かれ、フランスパンが紙のバッグから顔を出している。手前の三つの椅子。それぞれのものを描き、そこに色彩を置く。結果的に面白いリズムが生まれ、色彩のハーモニーが起きる。このバーカウンターのようなポジションが魅力を帯びた空間に変ずる。

 服部譲司「白馬夏霞」。瑞々しい緑の畑がはるか向こうに続いている。上方を見ると、すでに山に雪が下りている。山の淡いシルエットの部分と濃い部分などが独特のハーモニーをつくる。空の柔らかな光。絵具がよく画面について、この緑の畑を中心とした空間の広がりがあらわれる。

8室

 太田時子「村の教会」。色彩が面白い。下方の広場にいる人間たちの動きにリズムがある。一段高くなったところにある建物の入口や、緑の葉にオレンジ色の花など、お洒落な空間が生まれている。

 堂野前良子「初秋の高原」。対象をよく見つめている。このような野原に咲く植物をしっかり描くことはなかなか難しい。一日のなかでも日が動いていくから、なおさら難しいのだが、そんな野原の中に咲く自生するピンクや白い花をよく描いている。その中にある秩序、塊、背後の灌木、そして植物の草のもつ動きなどもしぜんと画面の中に引き寄せられている。白い花、ピンクの花、青い可憐な花。それを支える茎、茂る葉。全体で命のみなぎる野原となっている。中景に木の柵があって、それがこの混沌とした、と言ってよいような植物のエネルギッシュな姿の中のアクセントとなっている。

 川端正「三之丸跡」。三之丸跡というから、お城のあとにできた公園なのだろう。そこにある樹木が紅葉している。その紅葉している様子をフォーヴィックに激しく表現する。炎が燃えているかのようだ。

9室

 平野武「想」。外側が赤で内側が白の衣装を縫っている母親。何かお祝いのときに着る衣装で、花嫁衣装のようにも思えるのだが定かではない。淡い緑の床、そばの様々な色をした糸の集められた箱。戸外の青い色彩。不思議な色彩効果があって、夢の中でこんな行為を行っているような、そんなファンタジーが生まれている。

10室

 森忠郎「追憶(足尾銅山)」会員賞。足尾銅山のこの工場はもうすでに存在しない。まさに記憶のなかの追憶の足尾銅山である。しっとりとしたトーンの中に淡々と描きながら、切ないような繊細な感情がそこに漂う。とくに工場の手前の円筒状のフォルムの上の赤茶色の色彩による梯子や何か組んだ形などには、そのような感情がよく表現されているように思う。

 石川賢「オストーニ讃」会員賞。オストーニとはイタリアのある街の名前である。

 チェロやヴァイオリンを演奏し、指揮者は激しく指揮を行う。指揮者の連続したフォルムが手前に重ねられ繰り返されている。鳩が飛ぶ。背景には白く輝く街並みが見える。力強くフォルムをつくり、内側から鑑賞者を元気にさせるようなエネルギーが画面から感じられる。とくに指揮者のもつダイナミックな動きは、たとえば病の人をも慰める力を与えるような、そんな動きとエネルギーが表現されている。

 山口クスエ「源氏物語 宇治十帖…部分」。姉妹が荒れた建物に住んでいる。そこに匂宮と薫が求婚することにより物語が展開していく。そのプロローグともいうべきシーンで、二人の姫がゆったりとしたかたちで会話をしている様子。その手前にはピンクの桜を思わせるようなイメージが霧のようにかかり、下方には山菜がかわいいその頭を持ち上げている。宇治十帖の序章ともいうべきシーンを、柔らかな雰囲気のなかによく表現する。

 安川修子「灯(アカリ)がついて」。右は海のようで突堤が伸びている。左にはマンションのような建物があり、その海際の舗道を二人の人が歩いてくる。緑や朱色、ブルー、黄色などの色彩がそこに置かれて、雅やかなハーモニーをつくる。気持ちのよい音楽が流れてくるような、そんな色彩感覚のよさがある。

 安部太一郎「AIRPORT」。そばで見る飛行機は巨大である。その大きさがよく表現されている。そばに整備のためのものや車などが置かれている。フォルムの表現力に注目。

11室

 秋山良子「障子のある部屋」。五匹の猫が障子の前の縁にいる。それぞれの猫のフォルムがなまなましい。様々な動作をしているが、画家自身がその中に入りこんでいるような面白さであり、それがリアルな感覚を画面に与える。

 水野美智子「塔のある街」。左上方に教会の尖塔が見える。それが画面でいちばん高いところで、地面は後方に行くにしたがって高くなっていて、それに沿って建物がつくられている。そこに右から光が当たり、時に白く、時にオレンジに壁を染める。それがまるで音階のような効果を画面にもたらす。右のほうには低いところに道がカーヴしながら続いていく。キューブな建物のフォルムのせり上がっていく様子と光が、心を希望に向かわせるような独特の構成になっている。

 山中さとゑ「噴水のある中庭」。四つ足の動物が十数体あって、この噴水を支えている。アルハンブラ宮殿の有名な回廊に囲まれた広場である。回廊の前に低い植物が植えられそこに花が咲いている。その青みがかった緑の調子はまさにこの作者の色彩である。上方のオレンジ色っぽい調子もそうである。この緑の植物が入ることにより、夢想的な夢のような世界、一つの結果としての空間があらわれる。

12室

 大山好美「雨後の阿蘇」。ナイフで絵具を繰り返し置き重ね、削り重ねることによって色彩のコクと輝きが生まれる。はるか向こうに阿蘇連山が描かれ、雲が浮かんでいる。その麓の田園風景が独特の輝きのなかに表現される。手前のシルエットふうな部分の雑木のような表現は、あの須田国太郎の構図を思わせるところがある。

13室

 松永佳江「森への道」。秋の景色である。樹木が小道の両側に立っている。オレンジ色、黄色、朱色などの色彩によって彩られている。ほのかな光がそこに差し込んでいる。色彩によって和歌の世界にもつながるような情緒を表す。

 小田昇「片岩(二)」準会員賞。暗いグレーのトーンで岩と水を描いている。フォルムはクリアで、地層がそのまま現われているようなそのボリューム感を表現する。黄色いおなかをもった鳥が来て、一羽は水から出た岩にとまり、それに向かって羽を広げて飛んでいる鳥。求愛の表現のような親密な関係が二羽の鳥に感じられる。それに対して千年、万年、億年の年の積み重ねを思わせるような岩がモノクロームで表現される。二つの時間がダイナミックに対照される。そんなコンポジションに注目。

 あんね・さんじゃがーな「紅の谷のパヴァーヌ」奨励賞。瓦屋根の五、六階建ての建物。木造建築であるが、そこに雪が降っている。それを上方から眺めている。しっとりとした情緒が漂う。建物の中には灯がともっていて、歓楽のシーン、宴会などが中で行われているのだろうか。ユニークな視点から見た建物の表現だし、そのディテールが生き生きとして深い情緒の表現になっている。

 吉田迪子「秩父の古民家」。コンテや鉛筆、水彩、あるいはペン書きなどの材料を駆使して、この茅葺きの民家を人間のように描いている。障子の前には濡れ縁がある。敷石があり、植物が植わっている。昔の田舎によくあった建物であるが、それを正面から描いて独特のリアルな力をつくりだす。

 松田和子「家族の肖像・宇宙」損保ジャパン美術財団賞。七五三の時のような子供三人と若い両親。それを線描きで描き、子供が描いたようなエジプトの女神やカバのような顔をした人間や恐竜などを周りに描く。周りにはエジプトのあの不死の神話の壁画のようなフォルムを置く。祈りのような空間が生まれる。

 並河委佐子「河岸の家」。水のそばのほとんど傾いているような木製の建物。洗濯物が干してあって、白や赤や朱色の色彩がそこに置かれる。その方には階段がある。それぞれのフォルムに強い動きが感じられる。その動きがお互いに組み合いながら画面の奥からとよめくような振動するような動きがあらわれる。この粗末な下町の川沿いの建物の集合体の中から歌が聞こえてくるようだ。それはシャンソンのような音楽だろうか。

15室

 近藤悳志「停泊」。三艘の白いヨットを画面の上方に置いている。そのフォルムがクリアで際立つような印象。下方は水で、水の反射が下方まで続いているのもコンポジションとして面白い。

16室

 筑紫冨美子「寂、聖観音像」。大分在住の画家である。臼杵の石仏などとは親しいのだろう。石仏が三体描かれている。紫や茶色の翳りのある部分と黄金色を思わせるような光っている様子。敬虔な雰囲気で色彩豊かに石仏を描いている。深い祈りのような心情がしぜんとそこに重なる。

17室

 小川景士「襌寺」。柱の下にホームレスのような人間がしゃがみこんでいる。それが不思議な生気をもって表現される。いわゆる寒山拾得の一人のような人物のイメージをこの人間から筆者は感じるのだが、どうだろうか。

18室

 後藤成子「彩光」。建物がいくつも前後して重なっていて、その壁に窓があき、下方は道に看板が立てられて、飲食店が入っているようだ。そんな情景をグレーを中心に赤やオレンジなどの色彩を散りばめながら楽しく表現する。陽気な音楽が聞こえてきそうなリズミカルで人なつこい構成である。

 宇都木成恵「寂」。李朝ふうな花瓶に枯れかかった紫陽花のような花がたくさん差されている。ホオズキもぶら下がっている。グレーや紫、緑、オレンジなどがしっとりと輝く。月光に照らされたような寂々たる雰囲気が興味深い。

20室

 太田利正「春風の香り」。両手を上にあげた黒髪の女性の全身像である。反ったポーズのもつ動きと同時に、この女性の健康なエロスともいうべきものをよく表現する。

 高木千恵子「情景」。竹馬をしている男の子と女の子。空は真っ赤な色彩で、下方に緑が使われている。背後の風景と思われる建物のようなものは、色のトーンの中に溶解する。独特の色彩家である。また、その竹馬や自転車などのフォルムを見ると、繊細で鋭敏な詩人的な感性を感じる。

22室

 西江広之「温泉と狼」。三つの緑の楕円状のフォルムがあり、そこに渦が巻いている様子が描かれている。間に狼が吠えている。その三つが温泉ということがわかるのだが、呪術的な力が画面から感じられるところが面白い。

23室

 山崎和夫「街の灯(2014)」。建物を組み合わせながら、上方はマンションになっている。それが濃い緑や紫の中に描かれて、窓が緑や黄色によって表現され、光が朱色や黄色によって描かれ、空には月が出ている。ほとんど音楽と言ってよい。メロディやリズムをそのまま造形化し、色彩によって歌い上げる。

24室

 久住敏之「祈りの日々」。隠れ切支丹をテーマにするところから出発したと聞く。敬虔な若い夫婦と思われる二人の背後に海が広がり、一つの燭台がある。宗教的なイメージを二人の人物によって表現する。

25室

 藤村英夫「マテーラ」。上方から俯瞰した構図で瓦屋根のある建物はお互いに連携しながら階段があり、独特の有機的なかたちをつくる。マテーラ独特の光景をまるでエッシャーの作品のように有機的な結合の中に表現して楽しい。

 矢代ちとせ「想」。布のようにも木のようにも見えるアーチ状のフォルム。手前には流木のようなものがあり、巨大な花が咲いている。オレンジ色の大地がはるか向こうまで続く。描写力のある画家だと思う。それを駆使しながらシュールな味わいをつくる。津波に対するレクイエムのような気持ちも感じる。

 西村静美「黙す」準会員賞。座る女性。立つ女性。きびきびとしたアウトラインによってフォルムをつくり、そこに色彩をはめこむ。色面構成的に表現する力に注目した。

 高木康夫「東漸」会友賞。仏教は西から東に渡ってきた。中心に左足を上げている仏は釈迦なのだろうか。背後にキジルなどの壁画から取られたと思われる仏画が描かれている。柔らかなハーフトーンの中に優しい仏の像が浮かび上がる。

 喜舎場紀代子「通り過ぎる日」。石を積み上げた壁。木枠のある窓。そばに藁で編んだ籠がぶら下がっている。樹木のあいだから光が差し込む。何十年も何百年もの時間のしみ通ったような光景が、深い感情の中に表現される。

 奈良輝男「記憶のピース」奨励賞。ポップふうな感覚が、この会の中では新鮮な印象を与える。帽子をかぶった女性や子供の顔や牛骨などを、フラットな中にきびきびと構成する。

 齋藤均「清明」会友賞。枯れた茎や葉が堆積するあいだに水たまりがあり、空や周りの光景を映している。ある一隅を徹底して描くことによって強い気配が生まれる。

 伏見秀明「アトリエにて」準会員賞。青い大きな花模様のシャーリングのワンピースを着た女性。肩から肱まではグレーの別の衣装がつけられている。お洒落な感覚である。画面全体もそのような感覚に満ちていて、そこが魅力と思われる。写実の力がある。

 平野克巳「刻の街」会友賞。石造りの建物を組み合わせて、ファンタジックな空間をつくる。石畳の道がアーチを通り抜けて向こうに行くと、壁に突き当たる。そのアーチの上にある塔のような形も面白いし、その後ろには時計のあるような建物が浮かび上がる。グレーを中心としたくすんだ調子の中に、マチエールを重視しながら独特の詩的なイメージを表現する。

第67回示現会展

(4月2日〜4月14日/国立新美術館)

文/高山淳

1室

 渡邉良一「雪解けの頃」大内田賞。遠景の山が雪をかぶって白くなっている。近景の山には斑雪の中に雑木が生えて、紫色の色彩を見せる。黒々とした針葉樹が点々と伸び、近景には青い水が流れている。そこにも雪がかぶさっている。雪というものの清浄な雰囲気をまるで夢の国の中の情景のように表現する。そこにあらわれてくるロマンティックで温かな童話的な世界が鑑賞者を引き寄せる。

 武敏夫「明日を夢みて」。木製の箱に座るジーパン姿の女性。そばにトゥーシューズがあるから、バレリーナなのだろう。後ろにピアノがあり、そのそばの鏡にダンスの練習をしている女性たちの姿がシルエットふうに浮かぶ。そばに螺旋階段があって、この女性の向上心を表すようだ。中心にあるこの女性の白いシャツ。ブロンドの髪。その二つの腕に差し込む光は床の上のトゥーシューズを照らし、未来に向かう希望のイメージを喚起する。

 武田敏雄「鳥海山」。ずっしりとした存在感のある鳥海山の表現である。これまでより一段と進境して、ダイレクトに対象に向かおうとする姿勢がうかがえる。空が約半分を占めているが、それは錆びた黄金色のような空で、その中に紫や青、様々な色が入れられている。この鳥海山を荘厳するような空の様子。そして、近景の黄土系の刈ったあとの田を思わせるような広がり。あるいは雑草。そこにところどころ水と刈られた稲の株が浮かぶ。その刈られた稲の株を近景に置いているのは実にしぜんであり、的確な脇役としてこの画面の中で機能している。鳥海山とこの手前の地面とのあいだに紫や暗い緑などの色彩が置かれて、二つをつなげると同時にまた二つを違ったものとして画面の中に位置づける。そして、神々しいような白い山が上方にありありと浮かんでくるようなヴィヴィッドな筆力である。

 佐藤祐治「山間の村」。瓦を置いた民家が点々と近景に置かれている。それを一つひとつ画面の中につくるように画家は表現する。あいだに一本一本木を植えるように樹木を描く。背後は山の斜面になり、その向こうは山と山との重なりが続いて、遠景に雪をかぶった高い山がのぞく。ディテールを的確に何一つおろそかにせずフォルムとして表現する。遠景も中景も近景もクリアで、そうでありながら、全体に一種ファンタジックな夢見るような空間があらわれる。

 井上武「都市の景」。以前よりもう一歩踏み込んだかたちで画面の中にムーヴマンをつくろうとする。コンポジションも三つの橋が交差するところを選んでいる。下方はこの川を渡る橋で、その向こうにはもっと湾曲したもう一本の橋があり、背後には高速道路を思わせる橋が川と水平にその上に渡っている。そして、その後ろには高いビルがいくつも立っている。その画面を横切る三つの橋の斜め、あるいは水平の方向に対して、垂直に立ち上がる建物がここでお互いに響き合うように画家は工夫する。その存在感のあるフォルムの上からなすりつけるようにジョンブリヤンやグレーなどの色彩を置き、黒いストライプの線によってフォルムをつくり、お互いのリズムを響き合わせようとする。空などはとくにそうで、チタニウムホワイトを塗り重ねている。それに対して空の上方の左右には黄緑、緑、グレー、紫などの色彩を、ちょうど平安時代の継紙のように置いて白の響きを弱めるように置き、その色彩とビルの色彩とが呼応する。白い色彩が雲というより、空そのもののように立ち上がってくるところも面白い。白が明るく、雲ではなく青い空がそこに浮かんでいるような、そんな錯覚を起こさせるような白の扱いになっているところも面白い。下方の川岸に何人かの人々が立ったり自転車に乗ったりしているのが、よいアクセントになっている。

 成田禎介「原野」。はるか向こうにはおむすびのような山がシルエットに幾重にも並んでいるが、そこに向かう若干の起伏をもつ地面の上に広葉樹がたくさん伸びている。その緑の複雑なヴァリエーションとフォルムには人を夢想に誘うものがある。近景には木立のあいだから水がのぞいているのもミステリアスな雰囲気。そして、遠景の山に呼応するように右の下の近景に、こちらに向かってくる隆起する斜面になったフォルムを置いているのも構成上優れている。

 樋口洋「古都の宵」。八坂の五重塔が中心に描かれている。中心から五重塔が伸び、水煙が立ち上がる。そばに月が浮かんでいる。背後に山がシルエットに浮かぶのは東山三十六峰だろうか。雪の積もったこの塔やその周辺の建物の屋根の形が独特の幾何学的な美をつくる。はるか向こうの建物群とのあいだに賀茂川が流れているような雰囲気である。場所は実際にそのようなところにあるのかどうかわからないが、絵の中では、その向こうに賀茂川が流れて近景と中景とのあいだに距離があらわれ、そのぽっかりあいた空間がこの塔の向こうにあることによって塔が引き立つといったコンポジションになっている。京都を東山魁夷が描いた名作があるが、油彩画で表現した京都の街並みの造形美と言ってよい。夕暮れで、ところどころあかりが灯っているのが人懐かしい。やがて夜になると音曲が聞こえてくるかのような人懐かしい味わいが感じられる。

 鈴木實「白い流れ」。奥入瀬の風景である。清流の左右に岩があり、樹木が立ち、草が生えている。紅葉している。その上方の紅葉している朱色のあたりの奥行のある表現は、いかにもこの画家らしい。くわえて独特の夢想的な空間があらわれている。それに対して海で鍛えた腕が、この水のもつ量感を表現する。急流で波しぶきを上げながら近景にわたってきた水が、そこですこしたゆたっているような雰囲気であるところも面白い。

 錦織重治「春兆」。雪の積もった山や平地。その大きな量感を描いている。スポットライトのように雲間から光が当たっている。面白いのは、空が暗くほとんど夜のようなトーンに抑えらされていることである。逆にそれによって山の白い輝きが表現される。絵画としてのトリッキーな表現と言ってよい。そういったコンポジションをつくりながら、右上方の雲は刻々と変わる雪国の山の様子を表現する。

 波多野雅子「葦枯れの刻」示現会賞。葦が枯れて、粗末な木造の建物がほとんど壊れかかっている。そばには廃船が陸に挙げられている。時間のなかに崩壊していくもののかたちが感情を込めて描かれている。下方にすこし海がのぞき、波が寄せている。時の中に失われていくものを惜しむように画家は丹念に対象を表現する。

 小材啓治「歴史」。古墳の玄室の中を画家は繰り返し描いてきた。埴輪と思われるのだが、大きなもので首の取れた馬の一部や兵士の一部と思われるものが置かれている。背後の壁には装飾古墳を思わせるような色彩が置かれている。塗りこまれた絵具のあいだから赤系統の色彩が輝く。祈りの重い表現のようだ。

 渡邊正博「すすき」示現会奨励賞。森の中に帽子をかぶった若い女性が立っている。右に一本のススキを持っている。グレーを中心とした中に優しくこの情景を描いている。ススキのカーヴする形がこの女性の若木のようなフォルムと呼応する。柔らかな緑を生かしながら青春の初々しい女性像を表現する。

 瀧口民男「冬晴れ」損保ジャパン美術財団賞。点描による表現である。杉か檜か、亭々と立つ樹木の後ろに雪をかぶったもっと小さな樹木。太陽が白く捉えられているところも面白く、空の青以外はほとんどモノトーンのような無地の色彩になっている。逆にそこに森閑とした森の中の自然の様子があらわれる。雪の扱いが独特で、雪を置くことによって凛冽と言ってよいような冬のイメージがあらわれる。

 中井悦子「朝の祈り」。ソファに座った女性。タイシルクのような衣装をつけて、右手に五弁の白い花を持っている。左の鉢には一見すると色とりどりの花が盛られているようだが、二本の箸がそこからのぞいているから食べ物なのかもわからない。いずれにしても、朝のひとときの大事な祈りの時間をこのようなシチュエーションのなかに表現する。静かなポーズのなかに内側からにじみ出てくるような緊張感があらわれる。暖色系の衣装と周りの大きな葉をもつ緑の色調とが静かに響き合う。

 百瀬太虚「水のささやき」会員賞。これまでは桜をよく描いてきたが、今回は一転して渓流である。水の動いていく様子をよく表現している。周りの岩が苔むしていて、その緑が鮮やかな印象。遠景には樹木に新緑のような葉がつけられて、木漏れ日がそこからちらちらと差し込む。新緑のもつ緑の美しさを十全に画面の中に表現する。その緑と水との響き合いがこの作品の魅力である。そのあいだに流れてくる水の性質は清冽と言ってよいような性質を感じる。

 瀧井利子「父のいた作業場 片隅」。分厚い一枚板の作業場。眼鏡がぽつんと置かれている。そばの緑の椅子には上着と手袋。壁にはスコップや綱や斧、あるいは道具入れ、麦わら帽子。それぞれのものがここの場で作業をした父親の息吹のように感じられる。そのように画家は一つひとつ丹念に描きながら、それによって囲まれた空間をつくる。そこには深い感情がこめられている。そこからあらわれてくる深い感情がしぜんと鑑賞者を引き寄せる。

 阿戸猛子「アン・ドウ・トロワ」。三体のマネキン人形。黒いマネキン人形の向こうに左右を向いた白いマネキン人形。黒いマネキン人形には赤い帽子がつけられている。背後にステンドグラスのような衝立。都会の中の一隅に発見した面白さを画家は描く。

 中西敦「礼拝の朝」。教会に向かって犬を連れた男が歩いていく。道に雪が積もって、轍の跡が見える。寒そうに腰を屈めながら歩く男と犬。教会に一部光が当たって輝いている。裸木に積もった雪。ヨーロッパのある朝の光景を画家は物語を織り込むように表現する。

2室

 増田清子「水辺の花」。後方に池があって、そこに睡蓮が咲いている。近景には菖蒲や水仙のような花やその他の花が咲き乱れている。紫、黄色、青、ピンク。それが前後して全体で一つの空間の中に占める量を画家は描きながら、そこに輝く花の色彩を表現する。空間のもつ奥行と色彩の輝きがともにこの画面の中に描かれているところがよい。五月から六月頃の季節のようだ。最も植物がその命を発現するときの季節だが、それを色彩によって表現しているところに惹かれる。

 柴田百合子「想い」会友推挙。若い少女が壁に寄り掛かっている。繊細な陰影がつけられている。スポットライトのように胸や顔や手に光が当たっている。そばにイーゼルらしきものがある。自画像の趣があって、制作のあいまに考え事をする自分自身をこのように表現したのだろうか。グレーの中に青やピンクや黄色などの色彩が入れられている。その複雑なトーンによる空間の表現と、壁に寄り掛かる女性のすこし脱力したようなフォルムを的確に表現する力に注目した。

 林勝彦「時の思い」。木造の建物の窓にフランス人形の上半身が見える。面白いことは、その帽子にも一部触れているが、背後にネットが張られていることだ。そのネットの一部が切れている。ネットは記憶や時間の象徴のようで、切れている様子はある記憶の喪失を暗示する。過去の時間と向かい合ったところから生まれた独特の表現だと思う。

 渥美澄子「いつか」。画面の中心に女性が足を組んで座っている。若々しい雰囲気なのは、上衣はタンクトップふうで、それがそのままパンツとつながっているような衣装のせいもあるし、その健康な肌の輝きにもあるだろう。つまり、それは色彩感覚がよいということになる。

 大岩充子「糸を縒る」。糸車の向こうに若い女性が座っている。ジーパンに黒いTシャツ、スカーフ。そのフォルムが毅然としている。凛とした女性のもつ美しさ、魅力を柔らかな光線の中に生き生きと表現する。

 太田陽子「工房」。逆遠近の作業台。その上には穴をあける機械や万力、フレスコ、ピンセットなどが置かれている。後ろにはハンドル式の万力のようなもの、その後ろの窓際の棚には壺や工具などが置かれている。作業をするための仕事場の中に人は不在である。ものだけが光の中に輝くように描かれている。使いこまれた物によってここに不在の人間を表現するといったイメージの展開の仕方が面白い。

 山岡健造「聖流ガンジス」。ガンジス川に母と子供がその足を入れて立っている。少年は遠くを眺め、母親はすこし俯きかげんで頭のあたりに右手を置いている。左には杖を持っている。後ろには階段があり、建物が淡いシルエットとして表現される。ガンジス川はインドの聖地であり、ヒンドゥー教の輪廻転生をそのまま具現化したような場所である。それを背景にして母と子という最も近い関係の二人を置く。そこには画家のヒューマンな心持ち、あるいは人間讃歌といったイメージもしぜんと感じられる。それはこの母親につけられた激しい輝くような衣装の黄色によくあらわれていると思う。

3室

 藤瀬晃子「日々のくらし」佳作賞・準会員推挙。グレーの大きなテーブルの上に大きなお皿があり、四尾の干した鰺が置かれている。鰺の背の青い色彩が全体のグレーの中に独特の効果をつくる。手前の黒いフライパンもまた同様である。日常のキッチンの一隅に発見した生命感ともいうべきものを面白く表現する。

 堤敏朗「たまゆらのくつろぎ」。スペインや南仏をテーマにして描いてきた。石造りの壁に接着するように右のベンチができていて、そこに一組の男女が座っている。向かって右のサングラスをつけた女性はサンドイッチを食べている。男のほうは屈みこんで何か仕草をしている。光が強く当たり、明暗のコントラストをつくる。背後にあるのは千年、二千年と続いてきた歴史的な建造物である。それに対して今という時間のなかにこのカップルはいる。その二つの時間の対比が鮮やかな印象を受ける。上方の壁が一部剝落してその内部の構造が見えているのも、全体の構成の中に優れた効果を上げる。それはまた死というもののイメージを、この輝くような生の背後にたゆたわせる。

 笹原弘子「森の子守歌」。倒壊した樹木の幹の下方から三匹の狐が顔をのぞかせている。真ん中の狐が父親のようだ。周りに様々な植物の葉が描かれている。自然と深い関係をもったところからあらわれてくるイメージである。それぞれのフォルムがしっかりと描かれているところが、この作品のもう一つの魅力である。

 玉谷明美「栄華を偲ぶ」。石でできた塀や舗道、壁。お城の跡のようだ。アーチの中を回廊は通り抜けていく。その向こうが見える視点からこの建物を描く。右後方には民家らしきものが見える。がっちりとした遠近感のある骨格がまず目を引く。その構築の上に対象のもつ物質感や長い時間によって風化した様子を描き、歴史的な時間といったものをしぜんと漂わせる。

4室

 渡邉とめ子「窓辺」。それほど大きな作品ではないが、お洒落な雰囲気が漂う。丸いテーブルに花瓶があり、色とりどりの花が差されている。窓の向こうにはヴェニスを思わせるような風景が見える。紫の上衣に縞のパンツをはいた人形がそばにいる。もちろん人形は画家自身を仮託した存在である。柔らかな風が画面を動いていくような雰囲気。時間と時間の境目にぼんやりと回想しながら花を眺めながら、自分自身にふと返ったときのような時間帯からあらわれてくるイメージがしぜんと展開される。

 太田佳代子「afternoon6」準会員推挙。新鮮な感覚であり、若い人の作品だろうか。近景に白いゴールデン・レトリーバーのような犬が立って、優しい表情で前を見つめている。後ろには少年がいて、膝に両手を置いてまた違った方向を眺めている。人間と犬との目の表情、その視線の違いが、この絵に独特のニュアンスをもたらす。地面の草の様子や靴など、それぞれのディテールを描きながら、午後の安息した時間のなかに何か不思議な雰囲気が漂う。その心理学的な空間ともいうべきものがこの作品の面白さだと思う。

 神谷昭美「5分の休憩」。H型イーゼルには座っている女性の描きかけの絵。手前には帽子をかぶってお洒落な格好をした女性がこちらを眺めている。モデルさんだろうか。モデルと同時に画家自身のイメージもそこに重なっているような不思議な人物像が、いちばん近景に描かれている。

 山村早苗「曙光(しょこう)」。湾に橋がかかり、そこに人々がいる。両岸には船が係留されている。すぐ後ろは山で、それに沿って建物が続いている。昔の香港や上海を思わせるようなエキゾティックなイメージが漂う。斜光線が差し、壁をベージュに染めている様子。近景は逆光になって、すこしダークな中に沈む。活気があり、物語が生まれてくるような港の風景である。

5室

 松宮昂「秋日」。久しぶりに松宮さんの作品を見て面白かった。もう百歳にも届くような年齢ではないだろうか。瓦屋根の上の二匹の猫。地面の上の植物のあいだにいる猫や向こうのほうを歩いている猫。猫が遠近感を無視するようにこの民家のある光景の中に描かれ、不思議な力を画面にもたらしている。いわゆる文人画のもつ力、そのイメージの力を油彩画によって表現したような雰囲気。猫はそのまま画家を投影した存在として自由に思うところに描かれ、独特の生気を画面にもたらす。

 宇賀治徹男「堤外地残照」。雪がまだらに積もっている。雪解けの水たまりが空を映して輝く。枯れたような雑草がそのあいだから顔を出している。中景に裸木が黒く枝を広げている。遠景には林があり、そのはるか向こうには、もっと丈の高い林のようなフォルム。あるいは小高い山のようなフォルムが見える。斜光線が差し込む。透明水彩を使いながら光のもつ性質をよく表現する。その光を受ける地面の様子をリアルに描きながら、奥行と情感をつくりだす。

 江本智美「思いでの海」。この女性は自画像であると同時に妖精のような趣である。海のそばに立って貝を手に持っている。風が吹いている。波は上方ではそのまま空になり、空には赤い色彩が入れられ、夕焼けに画面全体が染まっている。ノスタルジー、回想のなかのイメージに画家は入りこんでいく。記憶のなかにある存在、そこに生まれる海であり空であり貝殻であり人物である。そうすると、そこに描かれている波にしても風にしても空にしても、それは画家の詩情がつくりだした心の象徴と言ってよいかもしれない。独特の動きのなかに色彩が輝く。

 石山実「山裾の里冬構え」。しっかりとした表現である。それぞれのものがそれぞれのポジションに描かれている。点々と合掌造りのような瓦葺きのような民家が置かれている。そのポジションがしっかりしているためにしぜんと空間が生まれる。背後の山の渋い暗い調子の中に立つ針葉樹の群れ。静かに川が手前に流れてくる。いちばんの近景は手前の川に沿った地面で、雑草が生えている。この里山の光景をよく知っていて、その中から取捨選択しながら一つの心のモニュマンのように風景を構成する。

 森本まり子「川沿い」。ブルーを中心としたしっとりとした味わいがある。川に面した町工場などの建物。その幾何学的なフォルムが、人間がそこで暮らし働くことによって独特の風合いを帯びる。それがそのまま一種の抒情性を獲得する。

 真中房子「窓辺」。紫のレースのようなテーブルクロスや白いクロス。そんなものが置かれている中にレモンや葡萄の房が高杯の上に輝く。青い細長い瓶に差された薔薇。背後のレースを思わせるような背景。繊細な画家の美意識がクリアなフォルムから立ち上がってくる。

 髙橋正則「魚沼・冬」。背景の雪を抱いた山並み。中景には川が流れ、点々と民家が立っている。近景の林と丘。それぞれのものをきわめてクリアに描いている。その一種の透徹した力に注目。

6室

 桜井淑子「ことりと少年」文部科学大臣賞。白い逆遠近のテーブルに肱をついた青年。小鳥が五羽ほどいて水を飲んでいる。そばの鳥籠。小鳥と会話をするこの人物。後ろには椅子が三つ置かれているのも人間のようで面白い。しっかりとした構成の中に色彩が輝く。とくに手前の白いテーブルの上の小鳥を眺める人物。そのいわば心理的な関係も含めて、そのあたりの表現はとくに面白く、それを背後の椅子の象徴的なイメージが支えている。

 中川澄子「風跡」。フランスのロマネスクのある教会の廃墟を描いている。近景には三本の柱。遠景には壊れた壁塀。壁にあけられたアーチの向こうに続く道と樹木。中景に、本来室内の床であったところが壊れて地面がむきだしになったり、壊れたものがそのまま散乱している様子が描かれている。扇を広げたような大きな蓮の葉をそこに何枚も置いたような不思議な形が生まれて、そこには茶色や緑の色彩、あるいは青が置かれている。グレーの中に、それは風化する中になにかしぜんに結晶しているようなあやしい雰囲気があらわれている。手前の床は磨かれて、建物などを映しているが、その空き地はぽっかりとあいた不思議な空虚な空間になっている。逆にそれによって画家のイメージが活性化した。そこにある結界のようなものがあらわれ、時間のひずみがあらわれる。過去の記憶などがたゆたうようだ。そんな深い味わいが感じられる。画面全体、ほとんどグレーを中心とした色彩であるが、そこに赤や緑、青などの色彩が散りばめられて、全体である心象空間ともいうべきものがあらわれる。

 畠山新治「村雨」。夏の景色。山は青く染まり、霧が立っている。手前に小川が流れている。そばに植物が伸び、花を咲かせている。いま驟雨がやってきた。そんな情景を深い色彩の中に表現する。

 湯淺廸哉「港町夕景」。画面の約四分の一は海で、その向こうに岩壁があり、車や人が描かれている。それぞれの古い建物の形が生き生きしている。空が約半分を占める。ジョンブリヤンから緑、黄色などの色彩が散りばめられて、そこに光を含んだような独特の色彩である。それに対して素朴な建物と、そこに描かれた人間の生き生きとした姿。手前の鷗さえも人間たちと呼応しながら、生活のリズムをつくるようだ。それぞれのものがそのようなリズムの中に描かれ、独特のイメージの活性化をもたらす。アンティームな中に楽しい空間が生まれる。

8室

 深井佐恵美「Village」会員推挙。フランスにはこのように山の中に集落がある場所がある。画家は上方から俯瞰するようにこの光景を眺めている。周りの緑と建物の白や屋根のオレンジがハーフトーンの中に響く。クリアにディテールを追わず、光の中にこの光景を捉えながら、一種の音楽性ともいうべきものを表現する。

 加古博美「アルバイシン」。白い漆喰の壁の建物を独特の手触りのなかに表現する。裏の狭い路地を画面の真ん中に置いて、両側のそのような壁や窓や地面の様子、あるいは小さな石でできた上にコンクリートを置いた塀のようなものなどによって構成されている。時間により風化した様子を表現しながら、人間の生活感ともいうべきものをよく表現する。

 紙上繁男「日の出」。大きな川に橋がかかって、そこを車が走っている。それは中景で、遠景には高架の新幹線のようなものが走っているような建物があり、その向こうの煙突から煙が出ている。朝の一刻で、空が茜色に染まっている。水がそれを映して白く輝いている。そんな様子を独特の動きのなかに描く。止まった風景ではなく、車も煙も太陽も水も刻々と動いているような、そんな雰囲気が面白い。

 佐藤守弘「待春・八海山」会員推挙。雪の積もった八海山がダイナミックに表現されている。その山が画面の約七割以上占めて、下方に麓の樹木や民家が点々と描かれているが、その上に襲いかかるような八海山の峰やその大きな塊とディテールが描かれる。近景、中景、遠景というようになっているが、遠景の八海山が画面の前に出てくるような力をもって描かれているところが面白い。

12室

 鈴木修「運河の落日」。ヴェニスのゴンドラを操る人がテーマになっていて、それは画面の中ほどにシルエットに表現されている。船も人物もそうで、それが前後二艘ある。その表情が面白い。また、紫系統のグレーをうまく使いながら、深い陰影の中に表現しているところも面白い。

14室

 石川孝司「駅」。山の中の小さな木造の駅を後ろ側から眺めている。煙突から湯気が立っているのが、この中に人のいる証拠。そばに単線の線路が通り、向こうでカーヴしている。褐色の山が遠景に見えるが、手前には雪が三十センチほど積もっている。そういった情景の中にあるディテールを生き生きと捉えている。煙突もそうだが、手前の枯れたような草の一本一本のフォルムも、画家と何か会話をしているような楽しい雰囲気である。

 川本美都子「赤いバックの静物」。ライトレッド系の色彩を画面全体に置いて、床と壁をそれによってつくる。その隅に花瓶を置き、赤い花やピンク、青い花がそこにいけられて、鮮やかな雰囲気である。大きく空間をとっているために色彩があるリズムの中にあらわれてくるような独特の雰囲気が感じられる。

17室

 山本里枝「蓮池の詩」。蓮の花がしおれて茎から頭を垂れている様子と、それを受ける水面や蓮の葉。小さなあずまやのような建物がそばにあり、トンボや蛾がとまっている。画家のつくりだした空間が生まれている。泉鏡花の文学にあるあのロマンを思わせるような不思議な味わいが感じられる。現実というより夢想的な、つくられたイメージの世界がこの一隅に繰り広げられる。

18室

 佐藤恒次「寧日」。眼鏡をかけた六十五、六歳と思われる男性の全身像が描かれている。この男性の個性ともいうべきものが、つまり肖像画としての面白さがよく画面から感じられる。

 増川美一「残り柿」会友推挙。トタン葺きの木造の建物のそばに小さな花が咲いている。そばには柿の木がオレンジ色の実をつけている。斜光線が当たる。なにか懐かしい雰囲気が漂う。それぞれのディテールがクリアで、それぞれのものが鑑賞者に語りかけてくる。

 坂井たかし「水の音」会友推挙。川が流れている。樹木の影になっている部分と光がきらきらと輝いている部分とが半々になって、その二つが呼応しながら一種抽象美ともいうべき感覚を表す。また、緑の扱いがよい。近景の明るいエメラルド系の緑に対して、水の上はビリジャン系の緑になり、その向こうはしっとりとしたカドミウムグリーン系の色彩が使われ、それと空や水のグレーとが生き生きと響き合う。

 砂子精一「長谷寺」佳作賞・準会員推挙。小さな川が流れてきている。両側に建物が立ち、川は堰のように途中で段差の中を水しぶきを上げて手前に向かっている。その背後は山の斜面で点々とお寺のようなものが立っている。線によってトーンの中にそれぞれの表情をもったディテールがあらわれる。

 奥田潔「春を待つ草原」準会員推挙。近景に川があり、中景に枯れた草原が広がっている。水際にはススキや葦などが伸び、灌木がほとんど葉を落として一本描かれている。その黄土から茶系の色彩を中心とした河原から手前の水までのたっぷりとした雰囲気の空間に、深い叙情ともいうべきイメージがあらわれる。

20室

 鳥越由樹「留学生 あの時 3月」。左の机の上に柔道着姿の上半身と日本武道館という文字の入れられた空手の上衣があるから、海外の女性が日本に来ていた時のことを思い出して描いたのだろうか。高層ビルを背景に窓際に青い上衣、ジーパン姿の金髪の女性が立っている。エアメールを持っている。その上体に光が当たっている。遠くから見ても輝いて浮き上がってくるような、独特の明暗のコントラストになっている。

21室

 佐藤弘史「放課後」。裏の路地から見るという視点が面白い。その向こうの路地を二人の少年が歩いている。ランドセルを前に背負って楽しそうな会話が聞こえてくる。背後の瓦屋根と手前の電信柱。空の雲。独特の構成力によって物語を画面の上に紡ぐ。発見したことを描いているところに共感をもつ。

24室

 石田麗佳「私とわたし」。テーブルに向かい、その上に両手を置いた自分と、立って後ろを見ているゆったりとした衣装の自分。モダンな雰囲気がある。優れた形態感覚に注目した。

29室

 小泉幸雄「夕映え」。雪かきのためのスコップを持って立つ男のそばに犬がいる。周りの雪の積もった建物がファンタジックに表現されている。その向こうは雪山で、空が夕映えの色彩で赤く輝く。屋根の上とか雪の中に点々とその赤が入れられていて、温かな雰囲気が漂う。

 原田一成「自画像」佳作賞。パレットを持ち筆を持つ男の上半身。塗りこまれた絵具によって強いマチエールがつくられる。上衣が黒く、背景も暗く、その中に顔や手が浮かび上がる。

 小西敏子「少年の空」。机の向こうの窓があけられて風が中に吹いてきている。戸外に向かって紙飛行機が机の上に一つ。風で翻る本。戸外には初夏の樹木と青い空が見え、燦々と光が降り注いでいる。希望に向かうようなイメージを静物と風景の組み合わせによって面白く表現する。光の扱いが面白い。

第62回光陽展

(4月9日〜4月16日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 くしださちこ「路」。若い夫婦と子供。いずれもピエロ姿である。遠景に三角のサーカスのテントが二つ見える。空に白い道が伸びて、空中ブランコが動き、宮殿のような建物があらわれる。旅をする芸人たちのイメージが、しぜんと人生というものを強く暗示させるものとして捉えられ、このような画面があらわれる。繊細で懐かしく、またスリリングな気配もある。下方に三人の人間を置いて、全体にオレンジ色で染まっているその様子にはまた深いノスタルジーの感情も表れる。

 岩井美枝子「SCRAP MACHINES」会友秀作賞・会員推挙。廃棄された機械の一部。それぞれ錆びている。重量感がある。後ろには幻影のように煙突やドームのような建物が見える。それらもすでに廃棄されたのだろうか。廃棄されながらなお脈打っているような生命感を、画家はこの画面に引き出す。

 吉田高行「早暁の峠道」。画面の中心にだんだんと上っていく勾配をもつ道が向こうまで続いている。石がごろごろとあるような昔からの道である。両側に杉のような木がずっと立ち並んでいる。道にほのかな光が当たって、道の触感ともいうべきものが表現されている。それはまた左右の木もそうで、触りながら眺めているような気配がある。はるか向こうでその道は左にカーヴし、そこに光が当たっている。樹木にもすこし明るいテールベルトのような緑が置かれる。いま日が昇ったのだろうか空が、すこし赤く染まっている。林の周りは暗く、だんだんと明るくなるグラデーション。そのグラデーションの繊細な表情が樹木の形に、あるいは岩の形に沿いながら描かれているところが実に魅力である。夜が後退して夜明けがくる。夜と朝の境界のわずか五分か十分のあいだのイノセントな感覚のなかに発見された光景と言ってよい。そこには希望のようなイメージもしぜんとあらわれる。また、道が中景でもうひとつ右のほうに上っていく斜面がすこし描かれているところも、この作品の全体のイメージを複雑にして深くしている。じっと眺めていると、この道を歩いている人の姿が見えてくるような臨場感に誘われる。

 山田敬三「代々木風景」。平凡といえば平凡な風景である。代々木風景という題名だが、日本の至るところにこのような風景があるだろう。そんな様子を淡々と描く。青い空に雲が出ている。その見上げるところに電線が通っているが、そのあたりの表情が地面のあたりの表情とまた違った雰囲気で表れているところが面白く感じられる。

 小田柿寿郎「回想」。ボストンバッグの上に帽子、そばにフランス人形。上方の緑がかったグレーの空間に模型飛行機が飛んでいる。旅に出ることは通常の時間とは違った時間帯に入ることである。回想という題名だから、旅行のときの思い出、その心象がしぜんとこのようなロマンティックな空間を呼んだのだろう。穏やかな人形の緑の色彩が上品で、独特の味わいが感じられる。

 松本肇「遠い日の記憶」今井繁三郎賞。捕虫網を持つ少年は六、七歳のようだ。ランニングシャツを着ている。後ろに虫籠を持つ割烹着姿の若い女性の上半身が浮かび上がる。若い母親である。後ろに縁台のある農家。そばにポンプ式の水道。柔らかなベージュの空間に記憶の光景がよみがえるようにあらわれる。その優しい雰囲気とそれぞれのフォルムのディテールに注目。とくに母親にはマリアを思わせるような優しい雰囲気が感じられる。

 関島雄一郎「東北のレジェンド」。ドーム状の建物の上方に鐘楼のようなものが置かれている。危機のときには鐘を鳴らすのだろうか。しかし今回の津波は鐘を鳴らす暇もなく、大変な被害を受けた。それに対する痛みの気持ちをこのようなモニュメンタルな建物とカラスによって表現する。カラスが鳴きながら、空に向かっている。その羽ばたきながら動く様子はいかにもこの画家らしいリアルで力強い表現である。この建物から一本の太いコの字形のフォルムが手前に伸びているが、そこは歩道橋のようになっているのだろうか。そこを渡るということの危機感のようなもの、渡れなくて死んだ人、渡って助かった人といった寓意性が、この太い柱のようなフォルムにしぜんと感じられる。そばに裸木が枝を広げている。黒々としたトーンの中に光が当たり、空にはオレンジ色の光が見える。鳥が羽ばたく。強いドラマのエピローグといった趣である。

 野﨑雪夫「残光」。空が画面の約九割以上を占めている。その夕焼けに染まった空の変化。地平線近くでは赤く、だんだんと暗くなりながら青い空が見えて紫色の雲になる。その空の力いっぱいの表現がこの作品の力となっている。斜めに立っている一本の樹木が脇役として描かれる。

2室

 加藤瑞恵「東方遥か」会員奨励賞。シルクロードにキジル、あるいは莫高窟などの洞窟寺院がある。その中に描かれた壁画にインスパイアされたのだろうか。青い背景に馬車に乗る人や人間たちのイメージが幻想のようにあらわれる。とくに上方に兵士のような男の上半身とその背後のリングなどには、鮮やかな印象がある。構成が面白い。シルクロードを行き交いした人々のロマンが時を超えて表れる。

3室

 加藤紘一「工事始まる」新人奨励賞・会友推挙。高いところから工事現場を眺めている。そのあいだの距離感ともいうべきものが表現されているところが面白い。クレーン車にしてもドラム缶にしても普段と違った視点から眺められ、強い印象を放つ。

 川﨑みどり「若葉の頃」。糸車を回して糸を紡ぐ女性。その女性のすこし斜め後ろから見た姿が描かれている。戸外には緑の野原があり、光で満ちている。影と光によってこの画面はできているのだが、女性の動作するフォルムが魅力。画家の美意識の繊細で上品なところがしぜんと画面から感じられる。

4室

 佐藤好子「漆黒の街」多々羅義雄賞。水墨でいうたらし込みふうな効果を油絵によって表現している。マテーラを思わせるような街が深い陰影の中に表現される。

5室

 宇野三枝子「明日に向って」。五頭の馬が走っている。その前後する馬の形が生き生きとしている。ベージュと栗毛の馬。周りのすこし秋の気配の花と樹木などが一体化しながら、穏やかで強い表現が生まれる。

 川嶌照代「ガンジスに生きる」。ガンジス川で花を売っている男の姿。右上方を眺めている男の強い表情。半ズボンに、白い布を頭に巻いている。そばの籠にオレンジや赤い花が盛られている。献花のための花。その後ろに後ろ姿や横向きで腰を下げて合掌して頭を垂れている人の姿がある。五段の階段が画面を横断する。それが画面構成の重要な役割をしている。いずれにしても、生と死が同一次元にある。そして、輪廻していくあのインドの思想を間近に見ることのできるガンジス川。そこを旅行して、強い印象をもったところからこの構図が生まれたのだろう。人の一生というもの、生まれた人間と死体が一緒にあるガンジス川。その聖地で花を売る一人の人間を強く表現して、鑑賞者を引きつける。

 金愛子「工場  3」。工場の内部を画家独特のベージュの色彩によって描いている。強いストロークする力。筆による仕事である。柱や椅子、扇風機、窓などが独特の光の中に描かれる。物質というより、そこにあらわれてくる光というものがテーマになって、それが魅力である。

 井本宏子「分け入っても」。「分け入っても分け入っても青い山」というのは山頭火の歌である。六人の青年の像であるが、二人は後ろを向いて、二人は前向き、二人は座っているが、その姿を見ると、ヨガのポーズ、腹式呼吸をやっているような不思議なニュアンスがある。吐いたり吸ったりする息によってヨガはできるが、そのような息のような動きを画面の人間たちにとらせているところが面白い。また、フォルムにも独特の魅力がある。

 浜野洋一「鏡ヶ成秋彩」会友秀作賞・会員推挙。白樺のような木がたくさん生えている。葉が紅葉して、オレンジ色、赤と実に鮮やかな印象である。この中に入ると手が染まってくるような、そんな生き生きとした写実の作品である。自然体で鑑賞者を画面の中に引き寄せる。

6室

 北川悦子「刻への想い」会員秀作賞。テーブルにえび茶色のクロスを敷き、その上に開いた本や壺などが置かれている。中心の古い革表紙のような本の後ろにあるものは燭台だろうか。ぐるぐると円弧を描きながら上方に向かう動きが中心になっている。精神的なものに対する希求ともいうべきものが、この燭台に感じられる。片光線で対象のフォルムをクリアに描きながら、祈りのイメージを表す。

 齋藤満子「想」。白い帽子をかぶった女性が中景に立っている。その白い帽子が結婚式のときの角隠しを思わせる。お洒落な白い帽子である。胸飾りがピンクや黄色の石でできていて、まるで小さな貝殻を繫ぎ合わせたような優しい雰囲気。周りに緑や青のガラスのオモリのような球体がたくさんこの女性を囲んで近景まで置かれている。そのオモリの間にギターの一部が見える。その一部も白く輝いていて帽子と呼応する。左右に白いブラインドのようなものの一部が見える。画家は海と強い親和関係にある。繰り返し海のイメージと音楽のイメージが画面に表れる。画面を見ていると、オモリは女性の帽子の左右にも積み上がっているのだが、そこにセルリアンブルーの空がのぞき、細い弦月の一部が下りてきていることがわかる。海はまたフランス語では女性名詞である。海が画家の心のふるさとのような雰囲気であらわれながら、静かにロマンティックなメロディが聞こえてくるようだ。

 木村順子「高野の風に擁かれて」。上方に伸びていくのは杉や檜のような木のイメージだろうか。そばにも斜めにカーヴしながら立ち上がっていく幹がある。木の葉が散っている。上方に満月が現れて、中心の垂直の月と重なっている。背後には杉林のようなイメージがある。高野というのは高野山のことだろうか。山深く寺院の中に入って静かに瞑想しているような雰囲気である。時が移り人生が過ぎていくなかに、きわめて大切なもの、変わらないものに対する深い祈りのイメージ。

 杉原孝芳「出雲冬田」。トラクターで代搔きをするそうだ。そのあとに近景のこのカーヴするような段差ができて、そこに雪が積もっている。その向こうは整然とした平行した直線の田があり、だんだんと両側にわたって棚田が高くなっていく。その上には針葉樹の林や雑木林が見える。冷気が画面から伝わってくる。中景の枯れ田に鈍色の光が見えるのは、太陽を映しているのだろう。曇り空で、雲がどんどん動いているようだ。雪のもつ触感がよく表現されている。両側から中景の直線による棚田や枯れ田の表現に対して、近景のカーヴしてこちらに来るその様子に強い臨場感があり、そこから伸びる雑草などもリアルに描かれていて、このテーマと画家との関係の近さを思う。

 花岡寿一「少女とオムライス」東京都知事賞。丸い食卓に向かって、若い女性がスプーンの先にオムライスを置き、口に運ぼうとしている。目の前にケチャップのかかったオムライスがある。あやしい。毛糸のような上衣を着た女性はしかし、食べるというより、焦点の定まらない目つきである。その上衣の毛糸の模様やテーブルクロスの模様までも描き起こすことによって、そのディテールが呪文のような効果を表す。後ろに窓がある。窓の中のレストランの一部が浮かび上がる。夕暮れで暗い青い空が窓に映っている。ここはテラスの場であるが、そこにスポットライトを当てて、もう一つの室内のような空間をつくる。そのような内向的なイメージ。外部からこの光景を見ながらそれは実は心の内部にあるような、そんな強いイメージが面白い。

7室

 廣安芳子「北の國の幻想」。下方にトナカイの群れ。中景に家に光が灯り、空を大きくとって星が光り、オーロラのような光が大きな緑の円弧をつくりだしている。大きな動きを捉えたロマンティックなイメージである。

 岩立寛「夏の渓流」。右上方からジグザグに光が流れて左辺を突き抜ける。あいだに岩があって、そのずっしりとした重量感を表現している。その石はほとんどモノトーンで、白く輝く部分と影になっている部分によってできている。その影の黒々とした様子には、単なる風景を超えて人間の生死といったイメージにつながるものがある。そうすると、流れてくる水は時というものの象徴と言ってよい。そういったことをしぜんと感じさせる骨格のしっかりとした風景画である。近景に黄色い花が咲いているのが優しい表情で、画面はほとんどぶっきらぼうと言ってよいような装飾性のない強い空間。

 大野起生「静寂・発電所」。この発電所はいまも使われているのだろうか。階段や塔などの壊れている様子を見ると、廃屋のようだ。そこにスポットライトのように光が当たる。ベージュの壁と赤茶色の屋根。影の部分。なにか寂しいような懐かしいような不思議な安息感のなかに建物が表現されている。そのいわば感情表現ともいうべきものが作品の魅力となっている。

 白石安利「祈り」。突堤が向こうに続いている。海の水平線にいま日が落ちようとしている。その向こうには西方浄土があるような強い感情表現になっている。二年前の三・一一の津波によって亡くなった人々へのレクイエムの表現だと思う。

 石井節子「遊」。海の中を泳ぐ魚やクラゲ、そして海底を動く蟹などにイメージを託して、無重力のような空間の中に独特の音楽的な色彩のハーモニーをつくりだす。中心に法螺貝が浮いている。そこから海の響きが聞こえてくるようだ。「私の耳は貝のから 海の響をなつかしむ」というコクトーの詩を連想する。

9室

 吉實昭子「早春」。青いイヴニングドレスを着た若い女性がスツールのようなものに座っている。髪に白い花が差されて、若い女性のもつ官能性ともいうべきものがしぜんと漂う。テラスのようで、その向こうには向かい合ったテーブルと椅子があり、その向こうは池のようだ。若緑色の樹木の影が見える。画家の強い美意識に従って構成されつくられたフォルムであるところがとくに魅力。

11室

 渡辺敏子「ひまわり」会員奨励賞。地面が揺れている。明るい光が燦々とそこに照っている。向日葵が近景に、あるいは中景にゆらりと大きな花をつけている。マチエールが面白い。マチエールのもつ凹凸と、そこに差された暖色の色彩がそのまま揺れるような風のような光を表す。そこに向日葵を置くというコンポジションに注目。

 岡本邦治「語らい『街角』」。パリの風景だろうか。背後にカフェが見え、明かりが灯り、人々が内部にも外部にもたむろしている。向かって左のほうにはセーヌ川らしきものが流れている。そこに二人の日本の若い女性を立たせる。旅の途中のイメージ。これまでの寂しい未来に不安な漁師の像から一転した。しかしこの作品も、時が若い人の未来に向かって流れていくというより、画家の回想のなかにあらわれてくるシーンのような、逆ベクトルの時間を感じるところも面白い。

 加藤正男「刻」。ミカン箱のようなものを二つ並べて、その上に段ボールを置く。そこに枯れた向日葵や瓢簞、トウモロコシなどのものを置いて、アゲハチョウを飛ばしている。スポットライトが当てられて、褐色に輝いている。それが黄金色に見える。自然の実りを集めたものだが、たとえば瓢簞だと蔓まで描かれていて、持続した時ともいうべきものが描かれているように感じる。玉葱からいま芽が伸びてきて、緑のその先がゆらゆらと揺れているような様子。そんな農作物を静物として描きながら、過ぎていく時間というものがまた一つのテーマになっているところが面白い。

12室

 森泉「収穫」鷲田新太賞。籠に玉葱がいくつか入れられ、そばには南瓜がずっしりとした存在感を示す。バケツの中にはトウモロコシ。後ろにドンゴロスのような袋。しっかりと対象を描いている。黄土系の大地的な色彩に安心感がある。もののもつ存在を描くために絵具を重ねているうちに、色彩がじんわりとした輝きを示す。

 小野美聡「森」新人奨励賞。森の中に一羽のモンシロチョウが飛んでいる。手前の柔らかな緑の草の向こうに樹木が立って葉を茂らせている。そういった中に奥に行くに従って暗い空間があらわれる。その空間を背景にして白い蝶が一羽飛んでいる。下方に樹木の影が一本伸びている。若々しいロマンティックなイメージである。現実の空間というより、画家のつくりだした心の中の空間に一匹の蝶を飛ばしている。絵画として空間が面白い。イメージの強さがある。

 佐伯詠美「霧雲かかる冬の日」。中景にキューブな建物がいくつも描かれ、温室栽培のための設備も見える。上方に霧がかかっていて、その上に山がすこし雪を置いて聳えている。手前は冬枯れの雑草や水の様子。ひんやりとした中に対象のもつフォルムをしっかりとつかまえて構成している。そこにあらわれる臨場感が魅力。

 富田徹「ヴェネチアの追憶」。近景に八艘ほどのゴンドラが波に揺れている。ゴンドラをつなぎとめるための杭もまたねじ曲がりながら上方に伸びて、独特のリズムをつくる。はるか遠景、水平線のあたりに宮殿が見える。そういったヴェネチアのゴンドラのつながれた岸壁からの光景に対して、上方には飛行機の上から眺めたような、このヴェニス全体の街の様子が描かれている。背後には地球の丸みを思わせるような水平線のカーヴ。そして白い船が曳航し、鴎が飛んでいる。それに対して右のほうは、その一部をすこしズームアップしたかたちで赤い屋根の建物が集合した間に道が伸びて、車が進んでいる様子が描かれる。飛行機の上方からヴェネチアを眺め、だんだんと下降していき、着地して、ヴェニスの岸壁から眺めた光景が下方に描かれるという視点の移動によって、ヴェニスというものの魅力をさらに表しているといった趣。また、丸い水平線というもの自体が画家の脳裏の中にある地球というもののもつイメージをしぜんと感じさせて、空の青い淡い表情に哀愁ともいうべきものが感じられる。

 柴田信行「里山の春」。水墨を思わせるような柔らかなタッチのなかに桜の花を描いて優雅な雰囲気である。もともと色彩家である。その力を十全に発揮して繊細な儚い花の様子を柔らかな風の吹くような動きの中に表現した。

 鈴木幸夫「小鍛冶」。「小鍛冶」は能の演目である。名工三条小鍛冶宗近の伝説による。一条帝から頼まれた宝剣を稲荷明神の協力で打ったという伝説による。このつるぎを打つためには相鍛冶が大切で、その相鍛冶を宗近の氏神である稲荷明神が務めてめでたく宝剣が生まれたという。手前に宗近、後ろに稲荷明神が人間の姿をして現れ、相槌を務めるその姿。赤い髪に右手に槌を持った幻のようなその相方の様子。表はオレンジ色の光を背景にして槌を打つ小鍛冶の背後に、浮き上がるような大きさで稲荷明神からつかわされた相方が立つ。独特の幻想感をクリアなフォルムの組み合わせによって表現する。

 小林晋一「飛躍」。新潟の大通りを真ん中に描いている。そばに新聞社の新しい社屋の、カーヴする近代建築が聳えている。そのフォルムが画面全体を活性化させている。三車線の通りには車がたくさん走っている。遠景に白いビルが聳え、そこに光が当たる。そのあたりの空は柔らかく、すこしオレンジ色に染まって夕焼けの様子。だんだんと暮れてくる中になにか懐かしい雰囲気があらわれる。今回は車の周りにも横断歩道にも人を点々と配して、親密感を感じさせる。色彩もグレーを中心に赤や黄色、オレンジ、緑、青など様々な色彩が使われて、人懐かしいヒューマンな味わいが感じられるところが魅力である。

第100回記念光風会展

(4月16日〜4月29日/国立新美術館)

文/高山淳

1室

 高山博子「蓮華」。インドの赤いサリーを着た女性が立って、中に睡蓮の花の咲いたものを持っている。そばには腰を屈めて青や、紫や、赤の睡蓮を持っているもう一人の女性がいる。いずれも赤いサリーを着ている。立っている女性の背後には巨大な月を思わせる金色の光背がある。その周りにも様々な睡蓮のヴァリエーションが描かれている。蓮華は仏の台座である。したがって、蓮華を持つということは仏教に対する信仰心のあらわれとなる。その仏の代わりに満月が置かれていることは、それは阿弥陀如来の象徴なのだろうか。もっとも、ここに描かれているのはインド人であるから、いま言った日本の神仏習合とは無縁なはずだが、画面の中ではそのようなイメージがあらわれているように感じられて面白い。いずれにしても、強いコンポジションである。金というものが実に見事に使われているところも注目。

 福本弥生「times on the table」光風会会員賞。椅子の上のボストンバッグ。その上の白い布。緑の衣装の人形。大きなガラス瓶。背後の古びた白く塗られたテーブル。その上のマンドリン。さらに背後の棚に置かれた黒い布。一枚の絵があって、落ち葉がそこに描かれている。渋いグレーや黄土、褐色、黒などの色彩によって表現されている。上方に向かって組み立てているわけだが、その複雑なニュアンスには秩序が感じられる。テーブルの上の時間という題名もなんとなく頷ける。古いものには古いものの時間があるし、人形だって、つくられて何を眺めてきたのかわからないだろう。そんな様子をグレーと黒を主調色としながら、内的な感覚にさわるように表現して、そこが面白いと思う。

 因幡誠「不確かな記憶」光風会会員賞。女性が立って頰に手を当てて左を眺めている。それをクリアな輪郭線によって表現する。一種彫刻家のデッサンのような強さがある。

 山田一郎「残雪風光」光風会会員賞。墨絵のニュアンスがある。遠景の山までの雪のつもった大地の広がりがよく描かれている。黒ずんで、その斜面にある形があいだの残雪の情景も描いているのだが、その部分から近景までの距離感がよく表現されているところがよい。近景には、暗い針葉樹を背景にして白い樹木が上方に立ち上がっているのが、客観的な風景の中の主観的な画家の演奏のあとのような、そんな面白さが感じられる。

 鴨脚えり子「花街を語る」辻永記念賞。若い半玉のような女性と話をしている女将さん。女将さんの座ったその全体の様子は、いかにもこの花街のベテランの女将といった雰囲気である。この女将の個性的な全身の様子を見事に描いている。

 永山秀男「プルーダンス」第100回記念光風会展会員記念賞。柱にある四体の彫刻である。いずれも聖人なのだろう。プルーダンスという意味はよくわからないけれども、エキゾティックな独特のオーラを表現する。

 小林理恵「横浜夕景21・花火」損保ジャパン美術財団賞。大きな版画の作品である。黒いバックに三つの大輪の花火を表現した。ピンク、オレンジ、ブルーの花火が華やかに描かれている。下方にも花火がいくつも発光している。それを背景にして大観覧車が静かに回る。時間に沿いながら花火がどんどん打ち上げられて、このような情景になる。その連続した時間ともいうべきものが一挙に見られるように表現されているところが面白く感じられる。一望に見える光景の中にある時間、その華やかな時間が終わると、きっと寂しくなるだろう。そんな心持ちさえもしぜんと思う。また、手前の横浜の海の花火を映してピンク色に輝いている部分とグレーの部分との組み合わせも、複雑で繊細なニュアンスである。

 待井恭子「回想」光風会会員賞。黒いテーブルに瓶があり、花瓶から蔓のような植物が伸び、緑の葉が茂っている。しっとりとした中に優雅で上品な雰囲気が漂う。

 越谷なつみ「春光」田村一男記念賞。ソファに座った若い女性。白いワンピースを着ている。その全体の大きな量感をよく捉えているし、女性の佇まい、そのニュアンスをよく表現している。

 本山二郎「旅立ちの季節」。襟まきをつけたハーフコートを着て、いま外出しようとする女性。タイツに編み上げの靴。靴の上方は白い装飾がされている。まさに現代の若者のファッションであるが、その衣装のクリアな再現力と同時に、これから出かけようとするときの心のコンディションもまた表現しているところが面白い。明るい豊かなのんびりとした表現のなかに微妙なニュアンスを描く。

 伊藤寿雄「母の像」。車椅子の老女を実にクリアに再現的に表現している。描写力に注目した。

 西田陽二「blanc et noir」文部科学大臣賞。「白と黒」という題名だが、背後の朝鮮簞笥を思わせるような螺鈿の家具。手前に肘掛け椅子に座る白衣の女性。レースの飾りが装飾的な魅力的な意匠であり、それを丹念に描いている。白い布の置かれた床。そばの大輪の牡丹の花。すべてのものをおろそかにせずに描きながら、きわめて求心的な世界をつくる。その中心にあるのはこの女性のもつ魅力である。大きなターコイズブルーの首飾りをつけている。黒目がちの目と花弁を思わせるような唇。いずれにしても、女性というものの魅力をこのようなかたちで描き、いわば通俗的なコンポジションが絵画として逆に強い力となって迫ってくるところがよさである。

 青栁敏夫「西の彼方」。西方浄土に極楽があるといわれているが、この鳥はそんな彼方を眺めているのだろうか。赤い背景が独特の力強い魅力を放つ。そこにヤツデのような植物や朝顔が咲いている。中心の鳥は自画像と言ってよい。フラットな平面的な処理によってフォルムを扱いながら、独特の魅力をつくる。上方の葡萄の房が黄金色で、なにか貴重なものの象徴となっている。すべて見立てのような感じで、鳥は画家自身に、葡萄の房は貴重なものに、そばの朝顔は儚いものの象徴のように表現され、独特の心象表現となっているところが面白い。

 西房浩二「Lourmarin」。題名は仏。南部の街の名前である。中景に鐘楼と時計台を中心とした赤い瓦を置いた建物が描かれている。それぞれの建物の様々な方向を向いたフォルムと二つの塔との関係は見事である。ゆるやかに円弧を描く。それが小さな円弧とすれば、その外側にもう一つの円弧があり、針葉樹が上方に伸びていく様子。手前の小さな針葉樹と中景の大きな針葉樹、あるいは左の隅にある針葉樹などが響きあいながら、大きな円弧をもって動いていく。一つのメロディがだんだんとクレッシェンドふうに大きな円弧になり、大きなリズムをつくるといった、一種音楽的な効果ともいうべきコンポジションになっているところがこの作品の魅力だろう。手前の約四分の一が野原になっていて、その柔らかな草の触覚と可憐な黄色い花の様子が、上方の青い空に浮かぶ白い雲のイメージと呼応する。

 大谷喜男「路」。白い馬とピエロ。サーカスの一隅である。後方に梯子がぶら下がっている。サーカスという危険な芸は人生にたとえることもできるだろう。ニーチェは綱渡りの芸人を人生そのものに讃えている。そういったサーカスを通して深い文学性ともいうべきものがしぜんと感じられる。また、馬の存在は深い人間の情動の寓意と言ってよいだろう。すこし伏目がちのピエロの姿は画家の心象の託された存在と言ってよい。構図も優れている。

 遠藤原三「みづうみ」。妖精のような女性が真ん中に座っている。黒い衣装がその白い顔を際立たせる。周りの不思議な花々。上方の青い空間は空であると同時に水の象徴でもあるだろう。

 桑原富一「部屋の中」。椅子に身を投げ出したようにして座る女性の姿が面白い。なにか不安な面持ちで左のほうを向いているが、周りの暖色と黒の色面との対比も面白いし、生きている女性の表情を捉えてヴィヴィッドな印象を与える。

 児島新太郎「春苑」。白いイヴニングドレスを着た女性が窓枠に浅く腰掛けた様子で立っている。その壁はコンクリートのようで、窓の向こうに植物が見える。微細な生きものが飛んでいる。雪が降っているような印象でもある。雪のもつ気配が画面の中に感じられる。このイヴニングドレスを着た女性は不思議なイメージで、洋装であるが、雪女のイメージさえも感じられる。すくすくと伸びたその骨格のしっかりとした女性は現世のものであるが、周りの空間はイメージの世界に化しているようだ。

 福田あさ子「瞬く」。和人形の背後の屛風が実景に化したような面白さである。鷺が獲物を狙うように立っている。イメージの広がり、その発展が面白い。

 中土居正記「再生・Pray」。これまでより色彩が柔らかくなってきた。強い色彩のコントラストではなく、ほぼ明度も近く、その同じ色相の中で微妙な変化があらわれてきた。赤系の色彩と緑の色彩。その赤の中に金が入れられている。そんな色彩に囲まれた中に椅子に座った白衣の女性がいる。可憐な少女の魅力を語るように背後に芥子の花がゆらりと揺れている。平面的な造形の中に繊細なフォルムと色彩が表現される。

 渡邊裕公「生々流転(豊国祭礼)」第100回記念光風会展特別記念賞。有名な豊国屛風を背後に置いて洋装の女性を描いている。ピンクのワンピースを着、その上に和洋折衷の大きなコートのようなものをまとった様子は、戦国時代の南蛮絵に出てくる人物を思わせるところがある。豊国絵巻を背景にして、しぜんとあらわれてきたイメージの表現だろう。いずれにしても、豊国絵巻にあらわれてくる人間たちの激しい生命力、そのエネルギーは実に圧倒的と言ってよい。そんなエネルギーにインスパイアされて、この現代の若い女性に画家はもうひとつ新しいエネルギーを与えようとするかのようだ。それによって背後の屛風と手前の肖像とが深いところでお互いに共鳴し合う。そういったコンポジションが面白く感じられる。

 西田伸一「想想」。黒いセーターに黒いスカート、黒いストッキングに黒いブーツ。そんな衣装の女性がすこし斜めから描かれている。台の上に立っていて、左足のブーツが台よりすこしはみ出ている。背後はコンクリートのような質感をもった塀であるが、その下方の両側にアーチ状の穴があいていて、そこに萩のような植物がのぞく。上方にも両脇にその塀の向こうの空間が見え、やはり同じような植物がのぞいている。秋の七草という言葉があるが、萩やフジバカマといった、いかにも日本の花のイメージがそこに描かれている。もう秋も闌け冬が近いのだろうか。しんしんとした気配を画家はつくる。スカーフの文様も萩の葉のようである。この女性をテーマにして、画家は季節の移ろいに深い思いをもち、それを表現しているように感じられる。その心の鼓動を女性の体を通して表現する。これまでは女性が主体になっていたものが女性は単なる媒介であって、それをとおして季節に対する想いが色濃く画面にあらわれてきているといった印象をもつ。それはそれとして、不思議なニュアンスの広がりともいうべきものがそのまま空間をなしているところが面白く感じられる。

 山田喜代子「ポスターのある画室」光風会会友賞。木箱に白と黒のストライプの布が置かれ、そこに人形が座っている。そばにガラスの空き瓶。目覚し時計は九時二十七分頃を指している。ボーグのポスター。ファッショナブルな女性が膝を抱えて座っている。グレーのニュアンスの中にお洒落な感覚が感じられる。モダンなものというより、レトロなもののもつ味わい。その中から趣味のよい洗練された香りのようなもの、美意識が漂ってくるところがユニーク。

 青栁泰生「望郷の祭壇」。不思議なボックスにポンプのようなものがつけられている。後ろにはくるくると回る手品の道具のようなものが置かれ、背後に風景があらわれ、丘の上に白い建物が見える。マジシャンの道具のようなものと丘の上の建物とが激しく呼応する。グレーの中に赤が強い力をもって使われている。それは望郷の強い感をあらわす。

2室

 河内八重子「祭祀の刻」。戸棚の中に大きな兵隊の埴輪がいる。馬の埴輪や鳥の埴輪、壺の埴輪。埴輪というかつてつくられた存在と会話をしながら原日本人のイメージを煮詰めていく。それによってこの手触りのあるマチエールが生まれ、独特の色彩の輝きがあらわれる。

 合田定子「大江の浜小屋」第100回記念光風会展会友記念賞。浜小屋の中に錘や網などが置かれている様子を誠実に表現する。小屋の向こうに船が見える。グレーのトーンに独特の味わいがある。

 橋本一貫「時」。遺跡が描かれている。倒れた石。壊れた柱。丘の上に立つ途中欠落した数本の柱。独特の韻律がある。グレーとすこし緑がかった黄土系の色彩の対比。石と草との対比。柔らかなグレーの空にある微妙なニュアンス。深い歴史的な遺跡の中に立ち、霊的な世界のなかに入っていく。

 木下昭夫「暮なずむ街」光風会会友賞。花屋とその前の舗道を描いている。一種点描ふうな味わいのなかに、柔らかでしっとりとした色彩のハーモニーが生まれる。舗道にいる人も配しながら街の鼓動をしずかに表現する。

 卜部俊孝「画室(2014)」。黒褐色の色彩を中心としてシックにまとめている。古い鎧や古い瓶などが置かれているのだが、今回、左の戸棚のような細長いボックスのようなフォルムの上の花やそのボックスの白、あるいはそこに置かれたピンクや緑の色彩などが、これまでより華やいだ印象を与える。鎧の中に不思議な顔が見える。新しくイメージが活性化し、この古いものたちの中から命が生まれつつあるような、ときめきのようなものが画面から感じられるところが面白い。

 吉引邦子「小さな出航」。窓際に玩具の船を置いて、それを眺めている少年。手前の大きなテーブルには色とりどりのおもちゃがある。窓の向こうには樹木がある。そんな情景をハーフトーンの色彩を繰り返し置くことによって表現する。ふかぶかとした柔らかな空間が生まれる。その空間に包まれた少年のイメージは船とともに遊び、まさに出航しようとしているのだろうか。

 米澤玲子「人形劇」。背景に不思議な手触りがある。すこし岩絵具を思わせるような青の感触である。その中に操り人形を持った女性が遠くを眺めている。その向かって左後ろに数体の操り人形がぶら下がっている。ピエロもいれば、王様もいる。少女もいる。人生を舞台と考えた場合に、その小休止といった趣もしぜんと感じられる。放心した時間のなかにあらわれてくる空間を生き生きと表現する。

 堀研一「小休止(ZONE)」。トランクと脱いだコートを背景にして、腹話術に使う人形が座っている。腹話術師はいない。その小休止の時間が流れるなかに物たちが、不思議な哀愁を放つ。

 佐藤淳「復活祭」。白い棚の上に木製の箱があり、その中に生卵が器に盛られている。そばに割れた卵の殻がある。反対側には赤ワインの入れられたグラス。この木製の箱の上には剝製のフクロウがいて、大きな目玉を光らせている。その上の円形の鏡には、このモチーフと向かい合う画家自身の肖像が描かれている。クリアな視覚によって静物を再現するのだが、今回はそれから一歩進んで、何かが割れて新しいものが生まれつつある予感。そんな様子があらわれているところが面白い。開いた楽譜の上に蝶が描かれているのも、そのようなイメージの象徴なのだろう。

 田所雅子「海を聴く」。白いワンピースを着た女性が二人座り、一人は頭をソファの背に置いて居眠りしている。座っている女性の中心の女性は前に出ているから、逆三角形のポジションに三人はいるわけで、その空間の奥行きと同時にロマンティックな味わいが画面から醸し出される。それは白い衣装からも来るだろうし、それを取り巻く壁の不思議な輝きからも来る。白い衣装の下方の裾のあたりにレース状のフォルムがその衣装と重なり、一部は下方に落ちている様子が、まるで雪の結晶が下りてくるようだ。いわば乙女の純潔とそのロマンティックな夢想ともいうべきものを生き生きと表現した。

 橋浦尚美「春雷」。面白い群像である。円弧を描く壁の柱のそばに若い女性がいる。鑑賞者のほう、あるいは鑑賞者の頭上のあたりを眺めている。そばに赤いシャツの青年がいて、浜のほうを眺めている。戸外は浜と寄せてくる海によって構成されている。画家独特の緑がミステリアスな雰囲気を醸し出す。この女性と青年とはどのような関係なのか。母と息子であれば、お互いのコミュニケーションがすこしうまくいかないそんな関係を連想するし、恋愛関係にあるとすれば、それもまたそのようなねじれの位置にあるお互いの心の持ちあい、しかも二人は深い関係のなかに結ばれているといった心理。深い関係に結ばれていながら、なにか食い違った、そんな心理的状態を見事にこの構図の中に表現する。寄せてくる白い波は二人の心の中にある深い感情の象徴のように思われる。そして、海の向こうの空の様子を見ると、曇っていて、雨が降っているような雰囲気である。それもまたいわば心理的象徴として感じられる。だいたい人物を一人描いたり何人描いても、関係性が希薄な作品はあまり面白くないだろう。このような深い関係性のなかにある心理的ドラマというものを表現できるところが、この作者の優れたところである。

 早崎和代「ジゼル・春に」。木製のテーブルの上にバイオリンが立っている。そばにメトロノームが動いている。青い花瓶には白と黄色の薔薇の花が差されている。鏡がある。鏡には階段とアーチ状の空間、窓などが映っていて、その優雅なリズムはまさに題名のようにバレーの曲目を連想させる。春が来た心持ちを静物を使いながら表現する。

3室

 森康夫「時の流れ」。雪景である。針葉樹の林を背景にして、二本の不思議な木がまるで門のように立っている。あいだに向かって樹木が伸びている。両側に向かって枝を伸ばしている樹木は、まるで向かい合ってバレーでも踊っている二人の人間のような趣である。不思議な寓意性をこの自然の樹木の中に画家は描いた。

 守長雄喜「かき打ち場」。中景にベルトコンベヤーがあって、そこで作業している男がいる。そのベルトコンベヤーはもう一つのベルトコンベヤーに接続されて、その下方に二人の男がカキ打ちをやっている。それを眺めている右側のもう一人の男。そばにコンクリートの塀があり、階段があり、水には一艘の船がとまっている。海岸のカキ打ち工場である。そう思って見ていると、左のほうの黒褐色の建物のそばにもベルトコンベヤーがあり、そこに青い上衣を着た男のいることがわかる。背後の赤茶色の空間、その上の白い壁。不思議な妖精のような人間たちといったイメージが感じられる。実際のカキ打ちの作業が画家の強いイメージによって内界の中の存在と化して、心の中で刻一刻と働いている小人のようなイメージに化す。そんな印象を筆者はもつ。そういった印象をもたせるほどのイメージが純化され形をなしている。とくに中景の背後の赤茶色の空間の手前で働いている人間には、そのような面白さがよく感じられる。

 町田博文「モクリン煌めく」。モクリンとはスペインの街の名前である。肘掛け椅子に座った女性の背後にほとんどはげ山のようなフォルムがあり、その上に茶褐色の建物が遺跡として残っている。城塞の残りだろう。スペインはカトリックとイスラムと激しい抗争を起こした歴史をもっている。いわばそのような歴史を背景にしていま女性が座っているわけだが、今回は赤系の色彩が背後の花や衣装に使われていて、これまで以上にカラフルな印象である。扇子を持って座った女性の背後の前述した丘の上方の空が青く、いかにもスペインの空のもつ存在感をよく表現している。これまで以上に風景と人物とが連結されていて、画家の作品の中での一つのモニュマンといった印象をもった。

 日野功「川沿いの家」。画家は徳島に住んでいるが、徳島にこのような古い建物があるそうだ。川沿いの建物で、下部は川と接している。川から梯子がかけられている。その粗末な、テラスともいえないような外に張り出したところに植木鉢が置かれている。上方の物干し竿に白いシャツが干されている。その上方の錆びた赤茶色のトタンの屋根。手触りのある古い壁。建物の長く風化する時間がそのまま視覚的にあらわれているこのモチーフには、人懐かしい生活の感触がある。とくに今回はそこに白い肌着のようなものが干されているのが強い印象で、その白がこの建物全体を荘厳しているような気高い雰囲気で描かれているところが面白く思われる。

 長谷川仂「初夏・古い港」。イタリアの長靴の底の位置にあるバーリンの街を描いたものである。この街からかつては鉄道が通っていて、マテーラに向かった。画家のマテーラの連作はよく知られている。そのバーリンの街を今回、淡々と画家は描いた。湾は鋪装されていて、たくさんの船が係留されている。その円弧を描く湾の様子、その奥行きのある空間の表現がまずこの作品のみどころの一つだろう。そして、それに沿って背後に鋪装された道があり、その道に接して建物がある。ピンクや黄色や茶褐色、あるいは白い建物で、イタリア特有の階段がそこにつけられている。だんだんと奥に行くに従って地面が高くなっていく。その方向に向かうカーヴする道も建物のあいだにのぞく。臨場感がある。ペインティングナイフを使いこなしながら、この一刻が画面の中に定着されると、永遠化されるような表現力である。おかしいことに、上のほうには使える船が何艘も係留されているのだが、この斜面に置かれている大きな船は廃船で、ほとんど壊れかかっている。そんなものが片づけられずに置いてあるのも、この古い街の一つの性格なのだろう。少年が犬と一緒に水を眺めている。後ろには会話をしている男女がいる。イタリアという街の独特の気配を淡々と描きながら、その背後にある歴史の堆積といまという時間を対比させる。

 杉山吉伸「忍冬雪嶺女人譜」。椅子に女性がすこし斜めに座っている。横顔を見せながら、右手が胸のあたりにある。白い衣装とその白い肌とがぞくっとするような雰囲気である。コンパネの壁が、画家のイマージュによって結露しているような趣である。空気の密度が濃くなるにしたがって、空気中の水分が床、壁をつたって流れ出してくるようだ。あるいは戸外の気配が窓に見える雪山が、壁を通して浸透してきているといった言い方もできるだろう。女性の向きと逆向きに背後の棚の上に人形がいる。そばにドライフラワーのようなものが差された花瓶がある。夜の空に雪山が聳えている。雪女という伝説がある。それと出会うと死んでしまうというほど蠱惑に満ちた女人であるが、そんなイメージもこの女性に重ねられるようだ。室内の密度が高まり、一人の女性の存在が静かに立ち上がってくる。そういったイメージがそのままこの女性の手の表情のなかにあらわれ、しぜんとこの女性は自分の胸のあたりに手を置いたといった趣もある。画家のイメージの強さのなかに女性と画家は一体化し、不思議な動きをあらわすようだ。横向きの女性の棚のあたりにスイカズラと思われる植物が置かれている。

 藤森兼明「アドレーション  サン  ジョルジオ」。サン・ジョルジオが剣を持って立っている。ビザンチン様式の壁画を背景にして白いワンピースを着た日本女性が軽く椅子に座っている。背景は黄金色である。アーチ状の天井のフォルムが独特のアクセントになっている。聖ジョルジオをまるで守り神のように背後に置いたこの白衣の現代の女性は、独特の輝きをもって表現されている。フラットな背景に対してボリューム感のあるこの女性の表現は強烈である。それが平面の中にしっくりと収まっているところは画家の筆力である。

 寺坂公雄「山麓朝日和」。しっとりとした雰囲気で、山麓の空気の性質までも描かれている。近景には微妙なカーヴをもちながら樹木の幹が描かれ、それは画面の上辺を突き抜けている。あいだに小道のようなものが向こうに続く。輝くような草のそばに灌木があり、その向こうに山が見える。山と灌木とのあいだの空気の密度がそのまま積み重なって、グレーの独特の色調に表現される。空は明るく、朝が来て、きらきらと光が満ちている。その光に沿うように手前の樹木が伸びていく。一つひとつの樹木や光に画家はその心象を託して表現している。その意味ではどこか胸中山水の趣があると言ってよいのではないか。画家の山荘の近くの自然をテーマにして、自然体の中に爽やかでありながら密度のある空間を表現した。

 金山桂子「移りゆくとき・2014」。六つの瓶の置かれている空間は夜の時間帯のようだ。そして朝が来て、光がどんどん満ちてくる。二つの時間帯の中に、ひっそりとこのガラス器は画家の思いを受けて佇んでいる。透明で楕円状の帽子のような栓のある花瓶もあれば、青いガラスもある。あるいは上方がポットのようになっているものもある。それぞれの質感や表情と親しく画家は会話をする。その内省的な時間に朝の光があらわれると、もう一つの気持ちの変化が起きるだろう。日常性の中にあるささやかな生活感情ともいうべきものを、静物を通して静かに歌いあげる。紫や緑、ベージュなどの色彩が独特の輝きをもって迫ってくる。

 根岸右司「国後遙か」。海をはさんではるか向こうに国後島が見える。近景には一階建て、あるいは二階建ての木造と思われる建物ががっしりとした骨組みを見せる。そばに丘のような小高いところがあり、その低いところに裸木が枝を広げている。それぞれのもののポジションをしっかりと描くことによって遠近感が生まれる。家一つとってもゆるがせにしないような、そういった強い断定的なフォルムは画家のいわば精神の佇まいを感じさせる。雪をかぶった大地の上に斜光線の柔らかな黄金色の光が当たっているようすが魅力である。

 池山阿有「かつぐ」。野菜や果物などを担いで行商する人々がかつてはたくさんいた。そういった女性の姿が聖なる人のように描かれている。杖を両手で握って、重い籠を背負った女性。髪は日本タオルで包み、もんぺをはいている。その全身像にちらちらと金色の光がまたたいている。向かって右後方の暗いバックの中に白い線で二つの家が描かれているのは、この女性のホームなのだろうか。水墨でいうたらし込みふうな豊かなニュアンスを油彩画でつくりだした、一人の女性のイコン的な肖像画である。

 渡辺晋「木馬館」。木馬に子供を抱いた母親が乗っている。乗る母と子。後ろの木馬には姉と思わしき女性が乗り反対側にはもう一人の姉妹が乗っている。四人の女性はグレーの中に表現されている。周りの黄土系の色彩や黄色などの中に、そのグレーが繊細なニュアンスを醸し出す。この中に黄色が不思議な輝きをもって入れられているのが面白い。いわばこの作品はピアニシモで演奏される音楽に似ている。その中にある強いメロディのように黄色が置かれている。黄色は希望の光である同時に、深い回想のなかにあらわれてくる色彩のように感じられる。

 西山松生「小春日和」。椅子に座った中年の女性の前にたくさんの植木鉢があり、色とりどりの花が咲いている。その後ろには樹木が枝を伸ばし、花を咲かせている。秋の穏やかな一日。すみずみまで透明な光線が差し込み、植物が輝いて見える。この画面には十二色環のすべての色彩が使われている。その色彩を抑揚のあるタッチのなかに律動的に表現する。

 鈴木義伸「朝宮(木もれびの小道)」。樹木の根がすこし地面より浮いた様子。その地面には小石や葉や様々なものが存在するのだが、その一隅を拡大してクリアに描いた面白さである。一種写真的な効果があらわれる。実際、上方はぼかされてソフトフォーカスになっている。ピントは手前のこの一隅に合わされていて、その緻密な微細なものがこのように描かれると、不思議な世界に入りこむような感覚に陥る。モノトーンのものたりなさがあるが、また逆にモノトーンであるがゆえのしっとりした落ち着いた空間が生まれている。

 池岡信「里華の人形」。画家の画面の中に繰り返しこの人形があらわれる。今回はその人形の周りにもっと小さな人形やクマの顔をした女の子の人形などがあらわれ、タンバリンの上に足を載せる少女のあどけないしぐさ。後ろにフランス語のポスターが大きく貼られているのだが、よく文字は見えず、ポスターの中ではパイ生地のようなものをつくっている様子が描かれている。いずれにしても、里華人形を中心として憧れといったイメージが表現されていると思う。画家の心の中に里華人形は存在して、それはいまだに少女の面影を保っているようだ。

 谷晶子「視つめるマリオネット」。操り人形が四体吊るされている。赤、緑、紫。独特の色彩の輝きが感じられる。

4室

 坂手得二「夕陽影・牛窓」。瀬戸内海が背後に描かれている。島々がだんだんと遠景に行くにしたがって霞んでいる。近景にはオリーヴの林とその背後には広葉樹が葉を茂らせているのだが、その広葉樹がオレンジ色に染まっている。海にもすこしピンク色の色彩が入れられている。夕焼けの赤い光がこの風景に浸透してきている。オレンジ色に燃えている樹木が手前の塩辛いようなオリーヴ色や背後の海とのあいだに挟まれて、不思議な雰囲気である。一日の終わりの充実した時間、あるいは何かもっと深い感情がこの自然の現象の中に重ねられているのだろうか。いずれにしても海は凪いだような様子で、白く光る中にピンクの色彩が入れられ、それを背景にして赤くオレンジ色に燃える樹木には、風景の中のドラマともいうべきものがしぜんと感じられる。

 福島隆壽「瀬戸内海 '14・MARCH」。椅子に座った男が両手を前に出して、何か不思議な動作をしている。逆光で、その目鼻かたちがよく見えない。もっとも背後の柵もそうだが、そばの緑の植物や花などはごくしぜんとそこに色彩を置いている。周りは黄色く赤く輝いている。太陽に日食ということがあるが、日食になった瞬間に慌てふためいているようなイメージだと形容することもできるかもしれない。いわばシャドーになった男のパントマイムのような動作に独特のドラマが感じられる。

 庄司栄吉「演奏」。チェロを弾く人を描いている。その音楽の中に入り、音を聴きながら、演奏するという動き自体を描いているところがある。チェロの形とか弓の形などより、その動いている精神そのものに集中するところから、このような気品のある画面が生まれるのだろう。画家はもともと色彩家である。茶系からオーレオリン、イエローにわたる色彩の中に、ところどころエメラルドグリーンが入れられている。

 酒井英安「新雪の朝.  八海山」。遠景に八海山。中景に新幹線と思われる線路と脚立。近景に傘を差して歩く女性。あいだに雪の積もった畑がある。客観的な風景の表現でありながら、惻々と胸に迫ってくるものが感じられる。客観的でありながら、懐かしさ、やるせなさ、人恋しさのようなイメージが画面から発信してくる。

 大附晋「古城のある集落」。中景に古城があり、近景に街の建物が連続している。その前に道が伸びている。遠景は丘のようで、その丘の上にも遺跡のようなものが描かれている。緑と紫、黄色のヴァリエーションによる表現である。ノーブルで気高い雰囲気。光がこの風景に浸透していく。それによって色彩があらわれる。キュービックなフォルムと光を含んだ透明な色彩によって、独特の詩情ともいうべきものが表現される。

5室

 篠田ますい「風を聴く」。緑と白のストライプの衣装を着た女性が床に座っている。それを側面から眺めている。そばに小さなデコイがある。女性のアウトライン、あるいはその奥行のあるフォルムが優れて、生き生きとした表現となっている。

 髙橋恭子「帰郷」。椅子に座った金髪の女性。後ろに洋館があるが、そのもっと向こうにはお城のようなものが描かれていて、白い壁に朱色の色彩が入れられている。左向こうには教会を中心にした街のようなイメージもあらわれる。地面と樹木が不思議な緑によって描かれている。その緑にはオリエンタルであると同時にエキゾティックなイメージも感じられる。この座っている女性の故郷の風物が背後に描かれていると思われるのだが、そのあいだの空間の中に占める緑の割合はずいぶん多く、その緑の微妙なニュアンス、またはその中に朱色なども点じられて、それ自体が不思議な心理的な空間を表現する。もともと画家はミステリアスな心象、あるいは心理的な存在に対して独特の感性をもつ人である。今回は人の記憶をテーマに独特のコンポジションによる表現である。

 上垣和子「時のあわい(兆し)」。スカーフを頭に巻いた女性にはどこか中東ふうな雰囲気が重なる。向かって右のほうは砂漠で、満月が出ている。左のほうは室内で、廊下の向こうに窓がある。満月が昇るのは午後四時半ぐらいだが、夕暮れの光景と、日の落ちたあとの光景。二つの時間を背後に描いて、祈りのような気持ちをそのそばにある一輪の白い薔薇で表したのだろうか。そんな文学性、あるいは叙情性ともいうべきものが魅力である。

 小出賀子「遠い日」。近景にトランクがあり、トランクの上には蠟燭立てやおもちゃの機関車がある。画家は過去の時間に向かおうとしているかのようだ。その時間の裂け目のようなものが、白いバックの中の剝落したような黒い空間に浮かび上がってくるようだ。上方に空を飛ぶ天使と飛行船があらわれる。はるか昔の子供の頃の時代のイメージが引き寄せられ、二つの時間のあいだを雲が動いていく。

 鈴木英子「旅立ち」。妖精のような女性が両手を広げて何か語りかけようとしている。周りにはヒョウやサル、ウサギ、へビ、コウモリ、カエルなどがいる。この女性の仲間と思われるが、この女性とそれぞれそっぽを向いた雰囲気で画面に配置されている。それぞれがそれぞれの様子でぼんやりした中に花が咲いている。プロローグといった趣で、この少女の指令によって次の物語が展開するのだろうか。それほど少女と周りの植物や生き物は近い関係にあるようだ。そういった言葉がしぜんと出るような強いイメージがフォルムになって画面の中に描かれている。アンリ・ルソーに共通するような独特の絵画的な力を感じる作品。

 木村のり子「枯れ葉の賦」。切断された枝と枯れ葉やガスランプなどが置かれているところに二羽の鳩が下りてきている。後ろのボックスには脱がれた上衣と帽子がある。ここに存在しないものは樹木の生えていた夏の季節であり、不在の人間のイメージである。描かれたものはリアルな表現だが、それを通して失われた季節とここにいない人間をしぜんと表現するといった面白いトリックになっている。

6室

 松岡冨士則「残雪」。近景から中景には川が流れている様子。その向こうに雪の積もった地面があり、すこし小高くなったところに民家がある。周りには雑木が生えている。雑木の部分、民家の部分、川の部分、川のそばの洲の部分というようにパートを分けながら、大きな意味では雪の白と暗い色彩とのコントラストのなかにこの寂しいような風景を表現する。同時に、そこにはなにか人懐かしさともいうべきものがあらわれる。

 安藤嘉一「待春」。この画家の土手に向かう道を描いた作品は繰り返し見てきた。独特のリズムがあって面白いと思う。今回はその土手に向かう道の右にもう一つの道があらわれ、そばに粗末なバラックの建物が描かれている。周りの緑やグレーの空間に対して、バラックの錆びたトタン状の赤茶けた色彩がもう一つの世界のかたちづくる。画面全体にあらわれるムーヴマンによって何か起きるべきドラマを予感させる。

 松本信子「谷間みち」。三つの高速道路が上方で交差している。その下には横断歩道があって、そこを渡る人の黒いシルエットが描かれる。影が長く尾を引いているから、斜光線の夕方の時間帯だろうか。この広い道の向こうには一階建てのような昔ながらの民家が描かれているが、その背後は高層のビルになっている。なにか寂しい風景である。どんどん街が変容する。その中に取り残されたような一階建ての住居。その住居はダイナミックな高速道路と高層ビルに取り巻かれて、取り残されている。それがそのままこの横断歩道を歩く人影に投影されているようだ。そういったいわば心象風景ともいうべきものを表現する。現代の不安という言葉も浮かぶ。それに対してカーヴしながらダイナミックに強い遠近感のなかに表現される高速道路の非情さともいうべきものが対照される。

 川村隆夫「シベニク旧市街」。クロアチアの街である。ドアが木製で、そこにポスターの一部のようなものが貼られている。あけられたドアの向こうに杖をついた老女がいる。漆喰のような壁のあいだから土台の煉瓦のようなものの積んだ様子が見える。オレンジの色彩、朱の色彩が主調色となって、温かい雰囲気のなかに歴史や老婆の時間といったイメージがしぜんと浮かび上がる。

 石田むつ子「果樹園」。林檎がたくさん実った木の下に白い犬が座っている。ほほえましい。密な空間と空いた空間との関係も生き生きとしている。その空いた空間の中にいる白い犬が構図を締めている。

 阿部香「秋思」。いわば一つの詩の世界、物語の世界を画面に構築する。花の盛られた籠を持つ人形は、青いスカーフを巻き、白のワンピースをつけている。そばには柘榴のような果実やカラスウリのようなものも見える。ランプがあり、上方に枝が差し伸べられて、紅葉した葉が点々と残っている。秋も過ぎ、冬がそばまで来ているときのイメージを、物語として歌うように表現する。人間のもつ雑駁なもの、脂っこいものを退けて、ひとつの詩の世界を表現する。

 白木啓嗣「午後の光の中に」。ベッドの上に座った若い女性のモデル。後ろ姿から見たフォルムが生き生きと健康なエロスを発散させるように表現されている。そのフォルムが面白い。

 筒井博「魚市場」。カニやヒラメやボラやサザエなどの入った箱を前にした漁夫。後ろでは、そのかみさんらしき人が魚を切ろうとしている。しーんとした気配のなかにそれぞれのものや人間の存在感が静かに画面から立ち上がってくる。

 河野とみ子「今年のひまわり」。大きな向日葵の花が花瓶に差されている。そばに白い衣装をつけた人形がいて、窓の向こうを眺めている。窓の向こうには道がカーヴしながら続いている向こうに、大きなポプラらしき樹木がある。白い雲が空にかかっている。夏の季節の輝きともいうべきものを表現する。不思議なことに夏のあの暑さは取り除かれて、風が吹いているような雰囲気で表現されているところが面白い。そばにヴァイオリンが置かれているように、絵によってつくられた一つの時空間の魅力と言ってよい。

 長谷川満智子「旅の空」。ショルダーバッグを持ち、帽子をかぶって道を歩いている女性。後ろにはススキが風に靡いている。川の水が静かに流れている。護岸工事をした様子の土手の向こうに建物が見える。そういった様子を淡々と描きながら、現実とは違った、この絵画の中の時間の流れを表現しようとするかのようだ。構図的には水平線を繰り返し使いながら、そのたびに空間が後退していくといった構図になっているところも面白い。

 瀧澤德「残り柿」。近景に一本の柿の木があって、点々とオレンジ色の残っている柿が、不思議なリズムをつくる。背景は街で、道があり、建物が集まり、背後には小高い山がある。雪が積もっているのだが、冷たい雪ではなく、暖色系の色彩が入れられているような温かさである。不思議な抑揚がある。それがそのままリズムとなり、人懐かしさといった心持ちを表現する。

 林可耕「みつめる」。犬の前に少女がいる。犬の上方に少女は手を差し伸べていて、それを犬が眺めている。犬と少女は会話をしている。その独特の心の空間ともいうべきものをフォルムによって表現する。

7室

 知久正義「胡桃の木がある池」。冬枯れの情景である。水は静かな様子で、風ひとつ吹いていないのだろうか。そばに一本の裸木が立っているが、それが胡桃の木のようだ。地面や水、風景のもつ重量感ともいうべきものをよく表現する。

 渡部かよこ「おだやかな街」。ヨーロッパの南のある街を上方から眺めている。眼下に広がるのは屋根の連なりである。一つひとつの屋根の形が違うし、天窓のようなものや小さな突き出た形のあるものもある。また、瓦屋根のために微妙にそれぞれの色彩が異なる。それを画家は丹念に追いながら、いわば生き物のように有機的なかたちでお互いに連携したフォルムをつくりだす。中心がすこし空いている。その下には広場と道があるのだろうか。暖色の色彩を微妙に駆使しながら、全体で交響楽的な力をつくりだす。

 山本宣子「ペルシャ遙か」。ペルセポリスの遺跡をテーマにして連作を続けている。下方には有名な貢ぎ物をもった行列の図が描かれている。背後には高い階段があり、階段の向こうには五本の柱が立っている。見ていると、古代の人々の霊がこの画家のコンポジションの中に動き始めるかのようだ。時空を超えて遺跡の魂に参入しようとする画家のスタンスが興味深い。

8室

 入江康子「街角」。ショーウインドーの前に立つ若い女性。少女と言ってもよいかもしれない。青い帽子をかぶっているが、後ろから髪がのぞいている。アパレル系のショーウインドーでコートや上衣とパンツを合わせたものなどが陳列されているが、その窓ガラスに後方の横断歩道やそこを渡ろうとする女性などのフォルムが見える。二つの実体と映っているものが絡み合いながら、それが手前の女性の背景になっているといった面白い構成である。同時に、今回とくにそう思うのだが、背景の建物や道やショーウインドーの中などが蜃気楼のように感じられて、それがそのままこの女性の未来を眺める心持ちにふれているような、そんな面白い味わいが感じられる。

 長岡吾郎「M市郊外」。建物を上下にいくつか置いて、そこに樹木、裸木などがあるが、それを線描きに表現する。明暗の中に浮かび上がるようにフォルムを置き、あるいはフォルムを暗部の中に後退させる。線と色面とによって空間をつくり、そこに詩的イメージを表現する。

 坂本直「茂み」。雑木林をすこし見上げる角度から眺めている。小高い丘とまでいかないが、高くなっているその地面の起伏とそこに生える雑木林を見る画家の視点はもっと低い。光が当たっている様子をしっかりと描き起こす。木のもつボリューム感を捉えながら、それの集合する様子とそこにあらわれる明暗の対比が絵画的によく表現されている。

9室

 渡辺嘉子「薫る」。少女が室内に立っている。そばのテーブルの上に飴のようなものが入っている瓶がある。色彩が独特である。対象を外から眺めるというより内側から眺めているようだ。内向しながらフォルムを捉え、色彩をつくりだす。そんな表現に注目。

 吉岡美智子「藪椿」。大きな椿の木に赤い花が咲いている。下方は小さな道の周りに緑の草が生えている。そんな一隅を表現しているのだが、緑のもつヴァリエーションを追って、それを表現するところからあらわれてくる魅力だろう。

 菅井隆吉「樹」。林檎の木だろうか。あるいは桑の木なのだろうか。丈の低い木だが、枝を左右に屈曲させながら伸ばしている。そんな木が近景から左に向かって三本あり、三本目は若木である。右後ろにも若木が枝を伸ばしている。柔らかなベージュの地面に草が萌えはじめている。早春だろう。この作品の魅力はこの木の枝の形だと思う。複雑な形であるが、勝手につくったものではなく、有機的なものがある。いわば木の命のかたちを追って、梢はその先端といった趣である。そこには人間の手の指のようなイメージさえも感じる。地面と接触する部分の幹のそれぞれの形の複雑な味わい。鈍色の空にうっすらと光があらわれている背景の中に、画家は木という命を眺めている。それは自分自身の命を眺めていることと同一の意味になるのだろう。

 岩本佳子「草思」。地面から生えている太い笹を描いている。複雑なその形が織りなす遠近感を描き起こす。不思議な力が画面から感じられる。ビリジャン系の緑からカドミウム系の緑までの笹の葉の色彩と背後の赤褐色の地面の色彩とが深く絡みあっている。自然の一隅を画家は追う。そこに実に豊かなニュアンスが生まれる。

10室

 稲邑嘉敏「水辺の木」。画面の下方五分の一ほどが水で、背後は土手と野原になっているが、その水際にたくさんの雑木が立っている。その混乱したようなシチュエーションを目が追って、リアルなかたちをつくりだす。一部は水から生えているような木の表現であるが、その複雑な形とそれを受け止めるような緑の水とによって不思議な世界があらわれる。

11室

 工藤眞詞「無常」。若い女性が立っている。左手を後ろに、右手を側面に垂らしている。お洒落な雰囲気で、その着ている衣装を見ていると楽しい。髪にも飾りがつけられ、その女性のフォルムが背後の根から伸びてくる幹のフォルムに連結する。装飾的な平面的な扱いのなかに審美性のある空間があらわれる。

12室

 岡田真佐子「PLAN」。色彩が魅力である。ヴィヨンという画家が光を解析した独特の表現をしたが、同じようなところから捉えられた光の性質を感じる。模型の船がテーマになっているのだが、その色彩の魅力に注目。

13室

 井口啓「光と幻想」。祈る母親。子供を抱いて立つ母親。野原は植物が生え、花も咲いている。月のようなフォルムが空にあらわれている。激しい感情によって背景の世界、たとえば地面が立ち上がり、空と一体化する。その中に囲まれるように月があらわれ、この二人の心のメタファーとなる。

15室

 大久保佳代子「Green」。野球帽をかぶった少年が立っている。森の中の空き地のような雰囲気。太い幹が背後にあり、緑の植物や葉が茂っている。光が当たり、この光景を照らしている。クリアなフォルムによって一つひとつを丹念に描きながら、全体で爽やかなリズムをつくる。

 坂田快三「冬田」。水彩作品である。枯れた田に水がたまっている。背景は民家で、松のような樹木が生えている。空はブルーコンポーゼのような色彩と塩辛いような水の表現とが響き合う。そのあいだに雑草や土のもつ触感があらわれて、日本の典型的な農村の姿があらわれる。

16室

 小口雅子「清海」。海のもつ神秘的な雰囲気がよくあらわれている。とくに青の色彩感覚に独特のものがある。一種点描的な技法である。空に太陽があるが、雲によってすこし隠れている。全体に波のゆるやかな動きと同時に奥行があらわれ、無人の中にそれを照らす太陽が引き寄せられ、一種の神話的なイメージがあらわれる。

17室

 野末光子「私の部屋・桜」。黒いテーブルに和人形が立っている。そばに花が咲き乱れている。招き猫のようなフォルムやカレンダーや建物やメカニックなもののコラージュ。手鞠。そばの花の中には枝垂れてくる桜も置かれているようだ。春の幻想といった趣。黒をうまく使って、その中に余情ともいうべきものがあらわれる。瞑想的な空間の中に少女が語り始める。

 山下英夫「酔いどれ」。ワインのボトルを持ち、片手にはグラスを持った、酔いどれの男の全身像である。すこし弛緩した人間の様子を生き生きと描く。優れたデッサン力である。

18室

 住吉由佳子「記憶の森」。木版画であるが、ずいぶん大きな作品である。空が柔らかな光に満ちている。朝焼けのような黄金色の光が感じられる。シルエットの樹木の幹や葉もその光の余韻のように、シルエットでありながら輝いて見える。そういった色彩感覚と空間の奥行に注目。

 大上敏男「メトロ」。アコーディオンを弾く男。その音色を聴きながら、もう一人の男はヴァイオリンを下げて目をつぶっている。二人の男は一人の人間を二つに分けたような雰囲気もある。その聞こえてくるメロディはどんなものだろうか。ベージュがかったグレーの背景の中に二人の男は霜枯れた山のようなボリューム感のなかに表現されて、不思議な雰囲気である。二人とも、眺めるというより音楽を全身で聴いている雰囲気。そんな人間の姿かたちを視覚的に触覚的に生き生きと表現する。

19室

 佐々木節子「ひととき」。籐椅子にゆったりと座った若い女性。緑のワンピースに落ち着きがある。後ろに猫が寝て後方を眺めている。窓の向こうには街が広がり、遠景に山が見える。自然体のなかに呼吸をするような息づかいのある空間が生まれる。

 小越京子「室内の一隅」。伊万里ふうな花瓶にたくさんの黄色い薔薇が差されている。背景には一角獣に乗った女性のタペストリーが置かれている。一つひとつ形を画面の中につくりながら、独特の力強い装飾的空間をつくる。

 渡邉靜子「私空間」。H型のイーゼルに描きかけのキャンバスがある。そばにイーゼルや絵具箱、簞笥の上の筆。そういったものを緊密な画面構成の中に表現している。絵具がよく画面についている。

 山崎伸子「舞扇」。扇子を持って踊っている舞妓の姿。片方の手は袖の中に隠されて口のそばに持ち上げられている。裾回しのゆるやかなカーヴのあいだから白足袋の一部が見える。背景は屛風なのだろう。金の砂子なども蒔かれた屛風が抽象的な雰囲気のある空間を醸し出す。柔らかな風もその中に渡っているような様子である。黒い地に鶴や松などを配した吉兆図の着物を着たこの女性の姿かたちは、一つの日本の美の典型と言ってよい。その伝統の美しさを油絵の画面の中によく表現している。とくに砂子や箔を散らしたような背景の味わいが面白い。

 堀木達也「漁港風景」。ブルーのヴァリエーションによって繊細な画調が生まれている。そこに独特の海際の雰囲気があらわれる。その中に一匹の犬がいて、それが係留されたボートを眺めている。空に鳶が飛んでいる。鳶と犬とドラム缶のみ茶系の色彩で(ボートの後ろにもすこし使われている)といった色調の変化も面白い。また、光がその建物や岸壁全体に浸透しているように感じられるところも面白い。

 高木満智「瀬戸早春」。南画による理想郷を思わせる空間を油彩によって表現している。背景には瀬戸内の海が描かれ、岸辺には船がある。手前は畑の中に瓦屋根の民家がいくつも並んでいる。暖色の色彩を中心として安心感があるし、海に朝焼けのようなピンクの色彩が使われて、全体で豊かな色彩のハーモニーを起こす。

20室

 前川朋枝「白い花」。舞台女優だろうか。白い花束を抱いてこちらを見ている。強い印象である。背景にあるドラマを思わせる。

 藤澤正子「夏休み」。椅子に腰掛ける少女と後ろの向日葵やテーブルを画面の中で連結し、のびのびとした動きをつくる。

21室

 藤田勢都子「游」。振り袖を着た女性が座っている。すこし目がつり上がった、おちょぼ口の黒髪で、典型的な日本女性の美形というか、魅力的な肢体と言ってよい。黒い地に花が咲き乱れるように描かれているのだが、その背後も黒いバックに牡丹の大きな花が描かれている。手前には貝合わせの図や蒔絵箱などが置かれ、和の美をここに集めながら、若い女性のもつエロスを表現する。

 尾関静枝「雪の宝川べり」。画面の約三分の一強が地面で、そこは雪が積もっている。あいだに細い水が流れているようだが、よく見ると、そこは雪解けで水たまりになっているのかもわからない。なにか繊細な雰囲気がある。裸木が幾本も立っている。小さな木、大きな木。ポジションによって画面の中の大きさも変化する。背後の雑木の茂る低い山は斑に雪が積もっているが、その後ろに聳える高い山は真っ白な積雪の様子。空は黄色にすこし緑が入ったような朝焼けのような雰囲気で、上方にうっすらとセルリアンブルーの空がのぞく。朝の山間の冷気や樹木の生きているような枝ぶりなどを画面によく生かして表現している。下方の水の柔らかな様子には幽玄と言ってよいような気配がある。

23室

 中野日和「春陽の宴」。大きなお寺の階段が十段ほどあって、そこに向かう和装の二人の女性の後ろ姿。階段の上には太い柱があり、そのあいだから柔らかな緑の葉と白い花が咲いている様子が描かれている。周りの黒々とした色調に対して明るく輝いて、まるで別世界のような雰囲気である。よく見ると、これは大きなお寺の山門のようだ。その重厚感のある大きな建築物と比例して、小さな二人の女性。そして、そのあいだから見える春の自然の輝き。そういったコントラストを見事に画面の中に表現して、独特の気配ともいうべきものを漂わせている。

 仲田洋平「すべての答えは愛だったんだ…」。白いイヴニングドレスを着た女性が立って、スカートの裾をつまみながら後ろを向いている。白鳥の羽のようなものが舞っている。ゼウスが白鳥に変身してレダを襲った神話のイメージを連想する。余韻の中の女性を魅力的に描いているところが面白い。

27室

 熊倉幹子「新しい朝」。窓際に座る女性。座っているポーズの中に生きている人間の気配とか動きがよく捉えられているところが魅力である。

28室

 大沼正志「白い壁とバラ」。白い壁に調子をつけて、それを背景にして、自生する地面から生える薔薇の茎、葉、花を描いている。それだけの表現だが、新鮮で生き生きとしている。

30室

 太田稔「復興の華」。大輪の花火。空に向かっていま打ち上げられた三つの花火が上方に向かっている。下方には火の粉がしずくのように無数に垂れて落下しつつある。落下しつつあるものと、上方に上っていくもの。そして、開いた瞬間の花のようなフォルム。それがそのまま儚い人生を思わせるところがある。下方は水面で、遠景に灯がまたたいている。やはり、津波で亡くなった人への鎮魂の思いがベースにあるのだろう。しぜんとこの画面から物語が生まれる。

 山本知司「雪の道」。近景のグレーの道を心をこめて描いている。両側の雑草や灌木、裸木などに強い臨場感がある。道のもつ独特の強さはマチエールから来るのかもしれないが、トーンのもつ強さにも注目した。

 伊藤博「造り酒屋の裏口」。木造の二階建ての建物の下方に入り口があり、その内部に一升瓶らしきものを持った赤い服の女性がいる。そばの手前の入り口近くには洗濯をしている女性。大きなタンク。車。煉瓦でつくられた煙突。まさに古い造り酒屋の裏口の情景であるが、一つひとつ丁寧にフォルムを拾っていき、それを組み合わせることによってしぜんと物語が生まれる。

 山地あずさ「秋日」。トーンによって対象を表現している。公園の中の樹木の遠近感。近景には少女が立つ。そういったポジションを表現しながら、光を画面に表現する。

31室

 鵜飼雅美「ノクターン」。グランドピアノを横から眺めている。その上に黒い細長い花瓶があり、薔薇を中心とした花が生けられている。そばにはワインボトルとグラス、葡萄。青みがかったグレーのバックと紫系の花やグランドピアノが深いところで響き合う。まさに「ノクターン」という題名にふさわしい。

 白石美佐子「想い」。十歳ぐらいの少女のもつ愛らしさをよく画面の上に表現している。柔らかな日差しが当たる中に、その指の先までのディテールがクリアに描かれる。

 藤田和章「夏の日」。バレリーナを前後に置いて描いている。よく見ると、一人の女性の二体のようでもある。独特の美意識とデッサン力が感じられる。

 川村寿一郎「望郷」。黒い二頭の大きな犬。犬の吐く息を間近で聞くような臨場感がある。

32室

 鈴木千壽「扉」。高いヒールの靴をはいて立つシックな装いの女性。凛然としたものが画面から感じられるところが面白い。

 坂口正弥「自画像」光風奨励賞。ボックスに座る青年の像である。ベージュの床や壁を背景にして、ほとんどモノトーンであるが、対象を描く筆力に注目。

 飯田由賀里「駝鳥―出で立つ―」光風奨励賞。三羽の駝鳥を画面いっぱいに描いて力強い。大きな足。伸びた首の上にある頭がそれぞれ別方向を見ていて、独特のリズムをつくる。

 堀越哲也「土の匂い」光風奨励賞。籠と切り株と切られた幹、剝落した壁。そんな様子をグレーを中心とした色調の中にしっかりと描く。時の感触ともいうべきものを表現する。

 下光康洋「発電所跡 追憶」光風奨励賞。もう使われていない高い天井をもつ発電所の内部を描く。不思議な気配があらわれる。

 半田豊和「陽だまりの中で」光風奨励賞。籐の椅子に座る白衣の女性。柘榴のようなものを両手に持って膝を組んでいるが、正面から描いて独特の緊張感のあるコンポジションをつくる。

 藤井あかね「記憶の海」光風奨励賞。少女が砂の上に寝ている。そばにシーラカンスのような生き物が線描きで描かれている。しっとりとしたマチエールと海岸のもつあやしい雰囲気。そこに寝る少女が面白く表現される。

 立木雅子「雪が降る」光風奨励賞。カーヴする川の向こうは斜面になって、樹木や家がそこに立ち、手前にはもっと密に建った建物群。そこに雪が降り、メルヘンのような世界が表現される。物語を紡ぐような感性と集落のコンポジションが面白い。

 野口裕「街の一隅 2014」光風奨励賞。板塀の建物を描いて、その繊細なトーンが表現されている。ベージュの中に赤い色彩がアクセントとして効果的である。

33室

 永楽敦子「静物(106)」。印象の強い作品。白足袋、和装の人形のような少女。そばに伊万里ふうの鉢があるが、下方に朝顔のような植物が伸びていて、上方には外国の建物が雑木の向こうに描かれている。海外の旅行の思い出やそばに伸びてくる植物などを自由にアレンジしながら、ときめきのようなものを表現して鑑賞者を引き寄せる。

 粷谷直美「不思議の刻」。「不思議の国のアリス」の連作を続けている。今回は文字盤のなくなった時計の上にアリスが座っているが、下方にはウサギやボートを漕いでいる様子、あるいは鏡の前でウサギが何か不思議なしぐさをしている様子などを描きながら、文字盤の周りにそれらを旋回するように置き、ファンタジーの世界への導入といった内容を生き生きと表現する。

 石井浩「水温む頃」。冬に近い晩秋の季節だろう。水のそばの雑木の立っている様子を心をこめて描く。一本一本の木のカーヴする形が全体で命のリズムをつくる。

34室

 佐々木和子「郷愁 Ⅱ」。緑が神秘的な色彩として使われている。テーブルに頰杖をつく少女と会話をするようなその前の黒い猫。開かれた白い手紙と封筒。妖精的な女性のイメージをよく表現する。

 肥田暎子「曲想」。チェロとマンドリンの音色が聞こえてくるような暖色系の色彩を使いこなしながら、しっかりとしたコンポジションである。

36室

 菅幸子「不屈 Ⅱ」。バケツとお風呂の椅子のようなものを持って、背の曲がった人が廃屋に向かって歩いている。地震でつぶれた家のようだ。そのつらい現実を、人間を手前に置き、クリアに描く。

37室

 倉鋪悠「嵐が来る」。海岸に波が寄せている。海岸に削げたような岩がたくさん転がっている。岸壁が黒々としている。先だっての津波の跡を思わせるような雰囲気。フォルムが強い。画家の発見した海の表現。

第91回春陽展

(4月16日〜4月29日/国立新美術館)

文/高山淳・小池伊欧里

1室

 大石洋次郎「こわれたがんぐ」。女の子たちは椅子の上に立って、その間に大きな犬がいる。それを眺めている絵筆とパレットを持つ女性。あいだに壊れた三輪車がある。記憶の中の光景を描いているような趣もある。大きな葉をもった植物が立ち上がり、低い幹にも葉がぎっしりついているが、そういった小さなフォルムを、あるいはタッチを集積しながら、独特の動きが画面に生気をもたらす。(高山淳)

 三浦明範「ICARUS」。イカルスはあまりに高く飛びすぎて翼をつけていた蠟が太陽の熱で溶け墜落した。逆様になった男のほとんど裸の像が不思議な印象を醸し出す。この男はしかし、墜落せず、床からすこし浮いている。浮遊するというコンディションが実に面白い。それによって物質を描きながら、物質でないもの、魂とかのイメージが表れる。ほとんど鉛筆による仕事である。相当の時間がかかったものと思われる。背景の黒いバックにも鉛筆がやはり使われているようだ。光がこの裸体の男に当たり、実に不思議な印象である。白黒の世界にもかかわらず、色彩を感じる。それはこの光のもつ心理的な性質によるものだろう。イカルスという言葉からもう一つ連想するのだが、そういった心理的なものとの対話といった意味で、その性質はこの光の中にもあらわれているようにも感じる。(高山淳)

 沓間宏「よき知らせ(希望)」。旧約聖書から取ったものである。アブラハムと妻サラが道を昇っていく。そのヤハウェが上方の丸い太陽とも月とも定かならぬフォルムによって示され、周りに強い波動が感じられる。主は言う、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み全き者であれ。わたしはあなたと契約を結び大いにあなたの子孫を増すであろう。」ドンゴロスを貼った上から描いている。それによって強いマチエールをつくりながら、旧約聖書のアブラハムのエホバとの対話の場面を描く。(高山淳)

 小林裕児「よみがえりの木」。直線と円弧をなす動きによる構成になっている。500号はあると思われる大画面だが、円弧の動きにしたがって、祈る人、天使、フクロウ、白馬にまたがる男、女の子といったように配置されている。その向こうに出雲大社を思わせるような柱がコンクリートでつくられて、上方に屈曲しながら伸びていく。その合間に蔓のような植物が繁茂しつつある。「よみがえりの木」という題名だが、津波が終わって、日本再生といったイメージで、そのためにコンストラクションしていくといった意味だろうか。伸びていく動きに対して、浮遊する様子は魂の癒しのような雰囲気である。円弧に配置されたフォルムはそれぞれ浮遊して、無重力的な様子になっているのが面白い。そして、その合間に黄色い満月のようなフォルムがあらわれ、その光が画面全体を照らしている。月は癒す力の象徴だろう。下方にそれと関係ないように猫が通っているのが、実に心憎いアクセントになっている。(高山淳)

 有吉宏朗「中庭」。校舎から手前に拡がる中庭。遠景の建物と中景から近景に大きく取られた地面という構成を繰り返し描いてきた画家は、その空間に何かを見出そうとしているようだ。まるで廃校であるかのようながらんとした雰囲気だが、何年前か数時間前か、人々の存在した記憶が褐色でグレーズされた画面に漂っている。単純な写実表現ではなく、近づいて見ると赤、青、黄の細かいドットがちりばめられ、ところどころ金や銀の色彩によってニュアンスが付けられている。気配が立ち込めている中庭に対して空の透明感が際だっている。(小池伊欧里)

 下工垣優江「新しい風」。緑の人の心を癒すような深々とした調子がまず魅力である。そこに足跡を思わせるようなグレイの細長い斑点が人間のイメージをあらわす。上品ななかに空間のクオリティの高さと詩情が感じられる。(高山淳)

 岩井千佳「Shelter」中川一政賞。少女のフォルムが的確である。周りの花もそうである。動きの中にあるストップモーション的なイメージを表す。植物に囲まれた女の子のイメージが、肉体をもつと同時に妖精的なイメージがそこに重ねられているところも面白い。(高山淳)

 四谷明子「DESTINATION」。デスティネーションとは目的地とか行き先といった意味である。岩をむきだしにしたような激しい、不毛のような地面が描かれている。屈曲し、隆起し、落ち込んだ荒涼とした風景であるが、そこにコの字形の大きな箱のようなもの、建物のようなものが置かれ、その一部は矩形の画面からはみ出ている。大切な荷物をこの困難の現実の中で運ばなくてはいけないといった寓意性が筆者には感じられる。そういった寓意というものと造形というものの性質、その組み合わせが面白い。(高山淳)

2室

 髙橋政子「雪垂」。ふかぶかと雪が下りた地面。一部もっこりと隆起し、全体は斜面になっている。そこに樹木が立ち、植物が生えている。植物や樹木の葉に雪が積もって、表面はすこし溶けかかって落ちようとしている。その影の部分。その複雑なフォルムを画家は丹念に追う。追いながら全体で神秘的な空間をつくる。画面に接近すると、線や茎が縦横に引かれ、何が何かわからないが、すこし離れてみると、それがこのようなふかぶかとした雪の斜面の光景に変わる。後ろには杉木立のようなフォルムが繰り返しあらわれる。春も近い頃の雪のもつ柔らかなしっとりとした雰囲気。しかもそれが固定されたものではなく、静止せずにだんだんと溶けたり落ちたりしているような、そんな時間の流れさえも表現されているところに注目。(高山淳)

 久家三夫「寓意の門」。西洋の神話的なイメージが印象づけられるが、描かれた人物はガンダーラ仏のような佇まいであったり、琳派を思わせる意匠があったりと、独特の世界観に引き込まれる。アクリルによる画面であるが、フレスコなど壁画のようなマチエールで、作品世界をより説得力のあるものにしている。福島の画家として、浄化のイメージと復興の火を点し続けるイメージを託しているような作品である。(小池伊欧里)

 横山了平「画室の二人」。作家自身とモデルが、作家を近く、モデルを後ろに描いて表現される。後ろの大画面の中に馬に乗る人間たちが構成されている。この作品は絵であるが、絵の中にもう一枚の絵が描かれて、絵の中の現実と呼応しながら、全体で絵としての面白さをつくるといったことになる。優れたデッサン力と構成力のたまものである。(高山淳)

 堀内貞明「遺されし家族」。全体に使われている緑の色調にしっとりとした味わいがある。手前には肘掛け椅子に座って携帯電話を持つ女性の俯いた顔。後ろにはその女性の母親と思われる杖をついた老人の座ったようすがシルエットに描かれている。その手前に壁があるが、その壁の手前に揺れる木馬がやはりシルエットに描かれ、目だけ光らせているのが不思議なイメージで、それとこの老婆の向こうの床に寝そべった犬とが言葉にならないメッセージを伝えてくる。その手前の金魚鉢の中の一尾の金魚もそうかもしれない。長く両親を介護してきた歴史。その経験のうえにあらわれた人物像である。介護はつらいとかつらくないといった問題ではなく、共に過ごした歳月というものの謎めいた性質が、前述した木馬や犬や金魚の表情からしぜんと浮かび上がるように思われる。(高山淳)

 岩浪弘「語り部 北を訪ねる」。三味線の音色が聞こえてくる。笠をかぶって門付けをする三人の三味線を弾く女性。その間に不思議な女性の上半身の像が浮かび上がる。門付け女性は顔の前に布を垂らして三味線を弾くのが風俗なのだろうか。いずれにしても、シャープな独特の動きのあるフォルムが組み合いながら東北の深い門付けの歴史があらわれる。中心の女性はどこか聖なるものとしての女性のイメージのように思われる。代々このようなかたちで門付けをしてきた女性の最もよき理想的な美しく優しいイメージのように、顔がイコン的に現わされているところも面白い。(高山淳)

 入江観「翆嵐白韻」。翆嵐という言葉のように、緑の葉が重層的に連なっているあいだに滝が白く降りてきている。ところどころでひっかかりながら、そのつど飛沫を上げながら水が斜めに下りてくる。小さな葉の集積したものと手のような広がりのある葉が重なったような植物の二つが両側に並び、複雑な形を表す。見ていると、客観的に描いているというより、イメージのなかでこの樹木の葉の内部に入ろうとしているかのようだ。お互いに葉と葉は遊び、語り、光の中に影の中に独特の表情を見せる。つまり、樹木や葉を人間と同じように生きた存在として画家は捉えようとする。それはこの滝も同様だろう。それによって不思議な活気が生まれる。客観的な描写からはこのような活気は生まれない。その動きというか、リズムがこの作品の最も面白いところだと思われる。セザンヌを尊敬する画家が西洋絵画の造形の修練のうえに立った、一種の文人画的な表現水墨の写意の表現をおこなった。独特である。昨年以上に絵画として面白さが、一層の進境である。(高山淳)

 松島治基「生生」。生々流転という言葉がある。五人の男女の上半身が描かれている。空はオレンジ色に染まっている。五人の男女の手前に黄色い花のような小さな雲のようなフォルムがあらわれているのが面白い。五人の男女が風景のように捉えられているところが、この作品の実に面白いところだと思う。したがって、手前に雲が飛んでいてもおかしくはないのである。現実の時間を超えた、ある象徴としての五人の男女像になっている。(高山淳)

 浦野吉人「北の窓」。F型の横長の画面。ほぼ真ん中あたりに大きく窓がつけられて、その中は群青の色彩が輝く。雪が降っているようだ。グレーの室内。裸電球。棚には様々な瓶が置かれている。ワインだろうか。目覚まし時計とメトロノームもある。左下には二つの椅子が寄り添っている。手前に牛骨が置かれている。顎のほうのない上だけの牛骨。空洞の眼窩と歯。そのフォルムを見ていると、画家自身の顔をそこに見ているような思いに誘われる。そして、この牛骨は静かにほほえんでいる。ところどころ赤い円や赤い輪郭、あるいは黄色いフォルムなどが置かれている。画面に接近するとわかるのだが、連続した三角や連続した小さな丸などを最初に置いてマチエールをつくって、その上からグレーをかけて削り出しているのではないか。そういった制作の過程が空間に独特の時間性を与える。室内の明度、彩度を抑えているために、本来夜空であるはずの窓の向こうが群青色に輝き、夜でもなく朝でもなく昼でもない不思議な空間が引き寄せられ、そこに霏々と降る雪が白く点々と鮮やかに表現される。その雪の様子を見ていると、それは天空に広がる星座のイメージと重なるだろう。(高山淳)

 佐藤淳子「献花」。波が寄せている浜の光景である。サーフボードを持った男が立っている姿がシルエットに描かれる。近景に花の入れられた花瓶がある。その花のもつ優しい表情。寄せる波。シルエットの男。花は献花であると画家は語る。三年前の東日本大震災に対するレクイエムの心持ちであるに違いない。はるか浜の遠景に人家が点々と描かれているのも悲しい。しっとりとした緑がかったトーンと影のような紫の浜の二色によってこの独特の心象風景が生まれている。(高山淳)

 前田舜敏「ティレニア」。ティレニアはイタリアの街である。画家は長くイタリアで過ごしてきた経験がある。回想シーンのように建物が見える。心の悶えのように女性の白いシルエットがあらわれ、頭はなくなっている。繊月が空に浮かぶ。組み立てると一つのボックスになるような展開図的な中に、それぞれの風景があらわれているところも画家のこの作品の面白いところである。展開図を合わせると、記憶の箱になるのだろうか。(高山淳)

3室

 平井誠一「輝く果実」。ドイツに発見した数百年を経た林檎の木がこの連作の出発であるが、どんどんと発展していくうちに、このような赤い林檎がオールオーバーに氾濫するようにあらわれる画面に到達した。そのあいだには葉が黄色い色彩で描かれている。そのあいだに青が入れられている。充実した気配がある。林檎が実るということの時間の重み。林檎自体を描くのではなく、その林檎がなったということ。林檎がなるまでの様々な人間の努力。そういったものが実を結んで、ルビーのような色彩で艶やかに輝く様子が画面いっぱいに描かれている。日本画だと平面的に処理するところが、一つひとつタッチを置いて、あるボリューム感のなかに表現されている。そうでありながら、どこか室町屛風を思わせるような平面性も獲得している。日本と西洋の面白くクロスするところにあらわれた空間が引き寄せられている。それにしても、この黄金色にも見える葉の上に鈴なりに置いた林檎のもつ不思議な力は面白い。ちょうどビザンチンの時代のモザイク(モザイクは宝石などによってできている)の画面を見たときの感興に近いような感動を覚えた。(高山淳)

 松宮直子「はじまりはいつも静かに」。淡い緑色の画面に植物や静物が描かれ、立体的な空間が作られている。忘れ去られた研究所で、培養された幹細胞がじわじわと生命としての活動を始めつつあるのだろうか。右下に死を暗示させるような朽ちたものが描かれ、その上には卵のような生命の光を帯びた殻が置かれている。科学的事象を超えた生命の発現が、どこか異世界とも思えない画面に描かれている。(小池伊欧里)

 藤沼多門「実り」。葡萄の房が実っている様子を面白く描いている。地面から伸びてきた幹から枝、梢にわたるフォルムを見事に表現する。その曲線によるフォルムが優雅なアウトラインをつくり、メロディのような雰囲気で、そこにもちろん葉も茂っているが、葡萄の房がぶら下がり、その重量によって静かに揺れているような趣である。下方はオレンジ、中心は紫、上方は黄色という空間も面白い。とくに下方には陰影があり、上方の黄色はフラットな様子。葡萄棚をテーマにしながら、過去から未来に向かう、そんな時間の推移のようなイメージもしぜんと感じられる。(高山淳)

 髙岸まなぶ「静動歳月」。横になっているフォルムは女性のようで、すこし人形のような雰囲気。座っているフォルムは少年のようである。その垂直と水平がクロスする空間。シーツのようなフォルムが浮かび上がり、三角形の紙飛行機のようなものが散りばめられ、きらきらとしたイメージを放つ。(高山淳)

 東直樹「崩れる」。崩れる直前に発光し、命を輝かせているような不思議な雰囲気である。結合しているものが分離した瞬間に光を放つ。原子爆弾もその論理によって成り立っている。質量は巨大なエネルギーに変換される。エネルギーをそのようなかたちで面白く表現したと考えると楽しい。(高山淳)

 山中眞寿子「頰杖をつく人」。力強い作品である。両手を頰に当てて立っている女性。座って頰杖をついているのではなく、立っている動きのなかに手が頰に触っている様子。上方を眺めている。周りに白い花が咲いている。後ろにはたくさんの鳥が集合している。月が浮かんでいる。グレーの空。画家にとってフクロウも花も自分自身も同じ存在なのだろう。小さな自我を捨てて自然のもつ命を無私に引き寄せるところから、この力強い動きや色彩が生まれる。黄色く染まった女性自体がそのまま植物に変容して花をつけていてもおかしくないような、そんな強いヴィジョンが感じられる。(高山淳)

 鈴木善晴「驢馬」。線路の上に驢馬がいる。首輪をつけて、鎖でそれを引っ張る男。点々とある民家。一両電車が線路の上を走っている。後ろには鉱山のようなフォルムが見え、山があり、その山の中にも線路が伸びていく。記憶の中にある光景。あるいは物語で読んだ光景が重ねられ、一つの文学的な時空間が生まれる。(高山淳)

 奥田良悦「蟻 '14─Ⅰ・Ⅱ」。蟻の上半身を左右につなげている。蟻について調べてみると、蟻はほとんどが雌である。よく働いて動いている蟻も雌で、女王も雌である。雄の蟻はだいたいが生まれてもすぐ死ぬようで、たまに生きていても数が少ない。雄の蟻は羽をもつそうだ。ここにあるのは女性の蟻だが、拡大して描かれているために蟻には見えない。触手をもった不思議な生き物である。両側の緑あるいは緑がかった膨らんだフォルムは蟻の目であり、いわゆる複眼である。茶褐色のフォルム。前面から出ているその触手。不思議な力が画面にみなぎっている。複眼に映る世界の映像とはどんなものかわからないが、それほどクリアなものではないのではないか。渾沌とした現代に生きる人間の姿とこの蟻の姿とは重なるものがある。言葉にならないから絵を描くのだろうけれども、まさに人間的存在の奇妙な現実を蟻を通して表現しているように思う。(高山淳)

4室

 八代美紀「想」。手と手を組み合わせ、足をその下に置いて、二十本近い手足の指が面白いかたちをつくる。その渾沌としたお互いの関係性がそのまま家族あるいは現代社会の人間関係の複雑さの暗喩になっている。クリアな指のフォルムによってそのような世界をつくりだす画家のイメージに注目。(高山淳)

 舘寿弥「相」。薄い和紙を貼り、絵具を垂らしながら独特の韻律をつくる。「諸行無常 色即是空 空即是色」といった声明のようなメロディが聞こえてくるようだ。(高山淳)

 木村梨枝子「場所 2014─4」。黄土と黒との渾沌とした空間が生き生きとしている。画面に接近すると、黄土には土を混ぜていることがわかる。巨大な津波のあとにあらわれた渾沌とした光景のような雰囲気もある。あるいは津波に近いような、画家の詩情がつくりだした風景だろうか。(高山淳)

 野口宏文「4つのスペース」。紫色がかった黒い色面のボックス二つと、乳白色のボックス二つ。下の箱にはポットやカップ、上には人を記号化したような図形が配置されている。色面でもあり蓋を開いた箱でもあり様々なストーリーを想像させる。ウォーホルが興味のあるものを段ボール箱に入れてはタイムカプセルのように封じていたことが頭をよぎる。記憶の箱が画面に封じられているようだ。(小池伊欧里)

 川野美華「Nacht」。女が座って何かを頼んでいる。その前には不思議な人間の体が立ち上がっているが、頭から胸まで裂けて、暗黒のものが噴き出ている。柱の向こうでこれをのぞき見する人の顔。白い衣装をつけた女性の後ろには、角と口だけで顔のないろくろ首の人が、体を前に投げ出して懇願している。あっと驚くろくろ首ではないのだけれども、不安定な人間の心持ち、太宰治の恥多き生涯を送りましたといった、そんなイメージを面白く戯画化して表現する。(高山淳)

5室

 生駒幸子「個人の時間」。円弧を描くコンポジションの中心に女性の顔がある。そばにはダイナミックな道のようなフォルム。その左後ろには円があり、その中には宇宙を象徴するようなイメージも表れている。円弧の先には建物が幾棟かあり、窓があり階段がある。円弧の外縁には、押すと、病室からナースセンターにつながり緊急をしらせるボタンのようなフォルムもある。「個人の時間」という題名のように、独特の色濃い心象の投影した空間があらわれている。いずれにしても、「我思うゆえに我あり」といった感じで、自我というものとその生活というもののもつ中身とが画面の中に面白くアレンジされ、強い構成によって鑑賞者に発信してくる。(高山淳)

 堀込はやお「私の居場所」。青い朝顔がたくさん咲いている棚の前に少女が立っている。上方にはつがいの黒い鳥が飛ぶ。夏の朝の清々しい時間帯のイメージを一種装飾的な空間の中に生き生きと表現する。(高山淳)

6室

 山口愛美「僕の家」。紙の上に鉛筆および着彩である。魚の中にイソギンチャクや海草、サンゴなどのようなイメージのものが描かれている。地上の樹木のようなものもそこに描かれている。「僕の家」という題名を見ると、僕は魚の男性で、男性の内部に女性的な要素が詰まっているという意味だろうか。画家は女性である。男女の両性の中から紡がれるイメージのようにも思われる。深読みに過ぎるだろうか。また、そのユニークな形態の集合体。後ろ側に影絵のように黒い樹木の木立が描かれているのも面白い。(高山淳)

 峰丘「パプアの聖人」。メキシコに長く在住してきた画家である。ポップな強い波動の空間をつくりだす。今回もぐるぐると回ったような目をした仮面的な顔とその翼とが、自然と深い関係をもった聖人のイメージを伝える。上方にアンコウが光を灯して空を飛んでいるのも面白い。(高山淳)

8室

 伊藤昭二「晩冬畦道」。畦道というにはすこし広い道が画面の下辺からはるか向こうに続いている。中景には、針葉樹と思われる木立が横に連続していて、その向こうに空が見える。朝日か夕日か、斜光線に染められた田圃の光景だろう。光が黄金色で、宗教的な敬虔な感情がしぜんとそこから感じられる。十字形の構図が強い。(高山淳)

9室

 長谷川光一「聖域」。球形の金属的な物体に様々なパイプが接続され、薄暗い中で不気味な光沢を帯びている。下方には水が張られているようで、鏡のように映り込む。微妙な色彩がしっかりと塗り込まれ、無機的な物質としての質感がよく描かれているが、どこか胎動し、鼓動が聞こえてくる有機的なもののように感じられるのが不思議だ。創造主の姿は実はこのようなものなのかもしれない。(小池伊欧里)

 坂田和之「Souffle-140330-A・B」。茶畑から発想された緑色のストライプは心地良い透明感で、伸びやかなリズムを刻みながら画面の輪郭を形成している。この作品では、メインとなる緑のストライプが上方に入れられていて、それによって地面に寝転がって空を眺めているような解放感や、浮遊感が生まれている。空の黄色には下地のオレンジが見え隠れして、その風合いが郷愁を呼び寄せる。少数に絞られたパーツながら、空間の広がりと記憶の広がりが表現されている。(小池伊欧里)

 長沼巧「三日月」。地面が地平線まで続いている。上方に三日月が出ている。ぽつんぽつんと家や水たまりがある。そんな風景を掌の上に置いて眺めるように、手前に逆遠近のシーツの掛かった台があり、その上に赤い屋根の積木のような家が置かれている。そばには枝あるいは実のついた小枝と枯れた葉。家のある風景をイメージの中に表現する。それを風景という空間の中にも置いてみるし、それを静物のように引き寄せて描き、二つを構成する。独特の詩人の感性による仕事である。(高山淳)

 濱實「海岸風景 A」。この画家の作品に繰り返し出てくるのは突堤である。海に突き出たその突堤は陸と海との境界領域である。境界というものの中に浮かび上がってくるイメージが繰り返し表現される。今回も画面の下方から突堤が向こうに伸びていて、不思議なコの字型のまるで壊れた鳥居のような形がその向こうに浮かび上がる。左は湾になっていて、二艘のヨットが浮かんでいる。向こう側には塔のようなものが見え、そのそばにはボートが係留されているようだ。もう一つの岸壁が左辺から内部に動いていき、街灯が立っている。空と海との境界が定かでない。石のほうは、激しい雨が降っているようで波が揺れている。突堤の右と突堤の左とは異なる。いずれにしても、内界に発見された風景である。天候が変わるように心の中の状態も変わっていくだろう。それをこのような一つの風景的な表現の空間の中に表現する。しかし、描かれている者は内界の空間である。そのいわば純粋さともいうべきものが独特の色調を呼び、鑑賞者を引き寄せる。その淡いような複雑なトーンの変化の中にあらわれてくる空間には、なにか人を癒すものがある。「B」は、もっと渾沌とした激しさで、大きな塔が倒れたような趣で、その台座の内部の構造が見えるような雰囲気のものが、画面の中ほど右に描かれている。左にはやはり突堤が向こうに続く。左の海は静かだが、右は倒壊した嵐のあとの雰囲気で、手前はその余波のように波が荒れている。上方には鳥らしきものが飛んでいる。津波のあとのような渾沌とした静寂ともいうべきものが描かれている。そして、うっすらと上方に明るい青い空が描かれているのが希望の象徴のようだ。いずれにしても、心象というものの不思議な変化とその奥行を見事に造形化する。(高山淳)

10室

 羽田裕「Ponte Vecchio」。ポンティ・ベッキオはフィレンツェで最も有名な橋の一つと言ってよい。ダンテとベアトリーチェがここで出会ったという話は有名である。アルノ川が静かに流れている。両側にある建物。手前の鐘楼。それぞれのフォルムをクリアに描きながら、独特の情感をつくる。客観的なものと主観的なものとがクロスする。画家はイタリアに留学中に、画家のもつトーンは西洋人とは違って半音階的であるという指摘を先生からされたそうだが、そんな半音階的な色調によって繰り広げられるパノラマがユニークである。(高山淳)

 石川茂「Golden Earth 平和を願うバードマン―飛翔編―」。極彩色とでもいえるような色彩で、激しく力強い画面である。暗闇を払い、光を呼び込み、好機や幸運を招く神の遣いとされる鶏を、画家はこの作品の主人公バードマンとして登場させた。時代が大きく動く中で、止まない争いごとや予期せぬ災害など、世界には様々な問題がある。そんな問題の数々に、バードマンが空から、陸から、時には卵を使って挑み、解決へと奮闘する。水しぶきと一体化するように尾をなびかせ、赤々とした噴煙をバックにした鶏には、鳳凰と見紛えるような凜々しさがあり、当たっては砕け、諦めずに立ち向かう鶏の姿は、ユーモラスながらも勇気を与えてくれる。(小池伊欧里)

12室

 田中岑「陽と生命の光」(遺作)。田中岑が亡くなった。九十三歳である。小林裕児さんがパーティの席上で、向ヶ丘遊園の高台に家があって、ぎりぎりまでその急斜面を犬とともに散歩されていたという話をされた。この二点の作品を見ていると、月とも太陽とも感じられるフォルムが二つあって、日月の田中屛風のような雰囲気である。自分の死を予感し、自分自身で来迎図を描いた趣のあるところが、いかにも田中さんらしい。優れた画家であったが、大往生を遂げられた。合掌。(高山淳)

 進藤妙子「秘密の花園」。女性らしい独特の甘い香りが画面から漂ってくるようだ。右上方に緑のつがいの小鳥。近景には白いタチアオイのような花の下に青い桔梗が咲いている。そのそばには濃い赤紫の花が見える。ひっそりとしている。それぞれの花はそれぞれの香りを漂わせる。その中に二羽の小鳥が語り合っている様子が擬人化されている。グレーのふかぶかとした空間。上方には建物のようなものもうっすらと見える。淡々とモチーフを描きながら、深い心象を表現する。(高山淳)

 濱圭「室内」。それほど大きな作品ではないが、密度がある。木製のテーブルの上に瓶や林檎や玉葱のようなものが置かれている。そばに低い椅子があり、描きかけの裏返しのキャンバスがある。ほとんどモノトーンの中に褐色の色彩がすこし入る。我々の住む通常の世界は一気圧とすれば、二気圧も三気圧もあるような、そんな室内のもつ空間の力によって静物が独特の詩情を放つ。(高山淳)

 北原宏太郎「野末秋色」。秋の七草が下方に描かれている。和紙の上に顔彩による表現と思われる。上方には二十四日ぐらいの月が地上近く出ている。だんだんと月の出る時間は遅くなってくるから、この月齢だと朝方に出る月のようだ。そんな時間帯の中にしっとりと露を含みながら野の花が立っている様子が描かれている。オミナエシや桔梗、あるいは萩の花など、とくに萩の花などのしだれてくる様子は右の集合体と別の動きで、画面の構成をより複雑に、より魅力的にしている。それぞれの茎のしなるようなフォルムが優雅なラインをつくり、そこにつけられた花がお互いに響き合い、合唱するようだ。(高山淳)

14室

 乃村豊和「舞台袖のバレリーナ」。椅子に座って前に上体を倒している様子のバレリーナのそばに、横向きのバレリーナの顔が見える。オレンジや朱色をベースにしてバレリーナの生命感をよく表現する。また、この画家の描くフォルムには強いボリューム感のあるところが魅力である。(高山淳)

 田中俊行「樹12─Ⅱ」。一本の大木を描いている。五月頃の葉の茂り方のようだ。地上に接するところから何株にも幹が分かれながら枝が伸びていく様子が、新緑の草を背景にして描かれている。木の肖像と言ってよいようなニュアンスで、独特の感性だと思う。(高山淳)

15室

 西川光三「視」。紙にペンでハッチングしながらフォルムをつくっていく。幼児が頭の上に綱で縛られた卵を持っているが、一部割れてヒヨコが顔を出している。周りにもたくさんの卵がある。ひび割れていたり死んでしまった卵もあるようだ。蛾のようなものが飛び、上方にはカエルがいる。二匹いるが、交尾の前の姿のようだ。もう一点は、カエルがやはり頭の上に縛られた卵を持ち、そこからヒヨコが顔を出している。手に林檎を持っている。瓶が水に浮いているといった作品だが、絵の中では人間もカエルも変わらない存在の中で何かを刻々と生んでいくような、そういった時の流れの中に生き物の様子を表現しているようだ。決して幸せな未来ではなく、不吉なものもそこに混在しながら、刻々と自然の中の生殖活動が動いていくといった様子なのだが、いずれにしてもクリアなフォルムの構成による絵としての強い力が感じられる。(高山淳)

16室

 宮下聡「ハクサンフウロ咲く丘」奨励賞。画面に接近すると紙に水彩のように思われる。雑草が向こうまで生えていて、中景には杭と鉄条網。そのさらに地平線間際には樹木が立っている。近景にはピンクの花が咲いている。そんな様子をよくここまで描いたというほどのリアルさで一本一本の茎までも描きながら、全体の集合体としての塊や動勢をよく表現する。(高山淳)

 相羽あつ子「Life・Work II」。秋の季節を思う。黄色や赤の色彩に独特の輝きがある。また、その輝きがそのまま空間となっている。直線や円弧、曲線などのフォルムがそこに入れられるのは植物的なイメージで、実のようなものが濃紺やカーマイン、あるいはブルーの色彩で入れられている。自然の実り、充実した感触がしぜんと感じられる。(高山淳)

17室

 田中由子「'14 時の外に在る Ⅲ」。シルエットのタイツのようなものに囲まれた腿のフォルム。あいだに手が三つほど、それぞれのポジションに描かれている。そのストライプの腿は旋回するような雰囲気で、自由に画面に配置されて不思議な動きを見せる。黒い矩形のフォルムと明るい淡い青い空間の中にグレーの矩形のフォルムが入り込んで、その内部にも外部にも、あるいはその二つの空間を渡るように腿のストライプのフォルムがある。不思議な生命力のようなものが画面から感じられる。(高山淳)

 國友雄一「広場の記憶」。縦長の画面。下方には同心円に拡大していくような石によるペイヴメントができている。その上方、階段の手前に幼児とそれを支える母親、その後ろに父親と思われるシルエットのフォルムがあり、その周りが光に照らされている。階段の向こうは広場で、広場は三方向に石を積んだ壁になっている。遺跡である。手前の広場で何か事件が起きたようだ。上方の遺跡と比べてみると、たとえば暴動を鎮圧するためにたくさんの人々が殺されたとか、そんな歴史的な事件があって、それをこの三人のシルエットのいまは亡き人によって犠牲者を荘厳しているような雰囲気である。画面からそのような強い波動が迫ってくる。とくに下方の、前述した石を張り詰めた同心円的あるいは渦巻き的な動きには、実に強い力が感じられる。(高山淳)

 高橋かずこ「レインツリー Ⅰ」奨励賞。しなやかにカーヴしながら伸びていき、その先に不思議な線香花火のような花をつけた植物が右の上方に描かれている。そのあいだからトカゲのようなフォルムが顔をのぞかせている。下方は水のようで、向こうまで続いている。グレーや紫あるいは緑のハーフトーンを中心にして、自然のもつ神秘感を生き生きとおおらかに表現する。(高山淳)

18室

 長谷川克己「テナーサックス」。演奏家が体を後ろに倒しながらサックスを吹いている。ほとんどモノトーンで、ドローイングの力によって成立する画面である。その力に注目した。(高山淳)

20室

 吉村敬子「朝のひかり」。赤茶色の大きなジャングルジムが描かれている。斜光線が当たり、地面に複雑な影を捺す。左上方に、はるか遠景に、都会の高層ビルやマンションなどのフォルムがシルエットで浮かび上がる。子供の頃を回想しているようなイメージである。ジャングルジムがまるで宝石のように描かれている。ここで遊んだ楽しい記憶がしぜんと画面から感じられる。幼年時代をこのようなかたちで表現する力に注目。(高山淳)

 安田祐子「記憶をたたく音」。女性が椅子に座り、あるいは寝転がっている。同じ女性の二つのポーズで、そばに猫がいる。空に金魚が浮いている。そんな様子をクリアなフォルムによって生き生きと描く。フォルムに対する優れた感覚に注目した。(高山淳)

21室

 伊藤竹子「ひととき Ⅰ」。赤いバックの前に若い女性が座っている。白い百合の花を膝に置いている。そばにコーヒーカップが一つ。背後は幾何学的なフォルムを組み合わせている。それらの形が構図上赤の中に染められ、手前の座る女性を支えている。(高山淳)

 木村勲「こころ旅 Ⅱ」。杖をついて歩く老人の後ろ姿を、心をこめて描いている。塗り重ねた絵具によって静かに輝くように描かれている。(高山淳)

22室

 加藤順子「スクランブル Ⅰ」。スクランブル交差点を歩く男女を生き生きと描いている。後ろ姿の人、こちらに向かってくる前向きの人。そのそれぞれのファッションも含めて淡々とクリアに描くことによって、しぜんとそこに引き寄せられる時間というものがあらわれる。フォルムも面白いし、そこに引き寄せられた時間のもつ独特の性質がこの画面の魅力だろう。(高山淳)

 草柳公三「微睡」奨励賞。俯せになって眠る裸婦。足の部分を隠すように植物の塊が置かれている。面白いのはこの裸婦を取り囲むように様々な動物たちが集まって見つめていて、さながら涅槃図のような光景となっているところだ。動物たちのディテールは豊かで、特に霊長類たちの、擬人化されたのではなく動物としての少し不気味な表情がただならぬ気配を漂わせている。(小池伊欧里)

 唐沢弥生「嵐をきく Ⅲ」春陽会賞・会員推挙。立っている女性のフォルムのもつ動きを面白く表現している。一種彫刻的な強さが感じられる。(高山淳)

25室

 八島儒子「ある日(1)」。黒いイヴニングふうなドレスを着た金髪の女性が入口のそばに立っている。そばに大きな窓があって、そこに不思議な陰影がつけられている。その陰影がヒューマンな味わいを醸し出す。画面全体に柔らかな不思議な光が感じられる。その光が人間のもつインスピレーションのような力を画面に与える。そういった一種の文学性ともいうべきものが魅力である。(高山淳)

26室

 坪田達義「少年のクラウンと裸婦」。近景に女性の上半身のヌードが描かれている。その後ろに妹と兄といった趣の二人の子供がいる。あいだに巨大な花瓶があり、たくさんの花が輝いている。二羽の蛾が飛ぶ。男性にとって母のもつエロスと恋人のもつエロスが合体すると、強烈な力を発揮する。そういった性質を手前の裸の女性に感じる。静かに光り輝いているような女性像である。夜の空間に夢想しながらフォルムがあらわれてくるといった、しぜんな力が画面から感じられるところも面白い。(高山淳)

 小木曽順代「ある日」。中心に青いベンチがある。そばにバス停のような標識が見える。手前は広場で、薄い階段状に旋回してこのベンチの向こうの道に続いている。それに面してグレーの壁をもつ建物がいくつも描かれている。そのグレーに複雑なニュアンスがある。ある意味で道も暗いグレーのような調子になっていて、ベンチの青い色彩が不思議な輝きを放つ。無人であるが、人懐かしさと同時にフォルム全体で歌ってくるような力が感じられる。(高山淳)

27室

 鵜飼冴子「時・空間 Ⅱ」。骨格のしっかりとしたフォルムによる構成である。手前にピアノ、その向こうに二段の階段、その向こうは大きなガラス窓で、高層ビルが窓を通してのぞく。直線によって区切られたフォルムがそれぞれのポジションをもってお互いにハーモナイズする。(高山淳)

28室

 鈴木朋子「植物」奨励賞・会員推挙。枯れかけた草地をクローズアップして描いている。瑞々しさの残る緑と、乾燥した茶色、陽の当たる部分と陰になった部分、それぞれが複雑に入り組んで奥行きのある画面が構築されていると同時に、葉のひとつひとつに動きがあって表現力が豊かである。季節が移ろうなかで、生と死の境にある限られた瞬間が切り取られている。(小池伊欧里)

 今尾啓吾「Medusa」春陽会賞。画家の新たな解釈によって描かれたメデューサなのだろうか、それとも画家が描く中で創造されたこの者をメデューサとしたのだろうか。何れにしても、得体の知れない蛇に頭部を覆われた女が暗闇に立ちはだかっている。その肌は柔らさを感じさせるものの、血の通っていないような質感で妖艶さを湛えている。幻想絵画とも少し異なる画家独自の世界に今後も注目したい。(小池伊欧里)

 奥山哲三「トキ ヲ  カナデル」奨励賞。巨大な粘土の像のような男がアコーディオンを奏で、右肩には白い建物を挟んで笛を持った少年と猫が乗っかっている。アコーディオンの男の遠い記憶が肩の上に現れているのだろうか。懐かしさが漂う。粘土のような質感をはじめ、全体的に優しい雰囲気の作品で、アコーディオンのあたりに陰影として入れられている青が幻想的である。(小池伊欧里)

 常松淳子「こども 1」。母親と子供。すこし離れてしゃがんでいる子供がいる。デッサン力が優れている。淡々と対象をイメージの中に描きながら、生き生きとした空間をつくりだす。(高山淳)

29室

 福島徹「世界」。一種の曼陀羅になっている。中心は島の上に立つ象で、象は化粧されている。その上に白い猿が乗って横顔を見せる。この島の周りには無数の蝶が取り巻いて、色とりどりに羽ばたいている。そして、近景にはまるで脇士のように二尾の鯉が泳いでいる。鯉には入れ墨されたように波濤文のようなものが描かれている。そして、それらを雲が取り巻いている。東西南北といった趣で、四か所に雲がいるのだが、それは孫悟空が乗ったという金斗雲のような複雑な力強い波紋でできた雲である。どことなく象の上に乗る猿も孫悟空的な雰囲気のあるところが面白い。いずれにしても、自然のもつリビドーを雲や鯉や象、猿といったもので表現する。それを一つの結界のように表現して楽しい。造形の装飾性というものを楽々と使いこなしているところもよい。(高山淳)

30室

 清水直史郎「こんぶ漁」。明暗がくっきりしていて、まるで木版画のような世界である。ボートに乗って漁をする人。手前の岩の上にのって遠くを眺める人。太陽が水平線近く出て、この光景を染めている。山の不思議な積木のようなかたち。それぞれのフォルムを単純化し図像化することによって、時が止まったようなコンポジションが生まれる。(高山淳)

 瀧上伸子「鎮 '13」。海岸で岩の上にのった男が赤い花を献花している。男は黒い布にくるまれて顔も覆われている。そのフォルムが力強く堂々としている。下方の海や岩のフォルムもそうで、優れた描写力およびドローイングをする力がある。足のあいだに一輪のオレンジの花が浮いて、献花された花が浮いているのだが、そのあたりの水の表情は透明感があって、水という物質感と同時に霊的な力を引き寄せているように感じられる。(高山淳)

32室

 香取恭三「夏木立」。木製のベンチに座る女性はタンクトップ姿である。そばにクジャクバトのようなものがとまっている。背後の樹木の茂った葉。それぞれを青みがかったグレーの中に表現し、衣装の白や鳩の紫、あるいはベンチ後方の白い花などを点綴させ、しーんとしたイメージをつくる。夏であるにもかかわらず、清爽でひんやりとした雰囲気があらわれるところが面白いが、それ以上にクリアに単純化したディテールのニュアンスを失わないフォルムに注目した。(高山淳)

33室

 岩瀬治美「ゆうゆう」。回転式ジャングルジムに取りついている少年。逆光の中にシルエットが前方に伸びる。空はピンク色で、空と地面とが一体化しているから、回想シーンのようだ。余分なものは消え、回転式ジャングルジムと遊ぶ子供の姿が親密にピュアに表現される。(高山淳)

 辻早苗「内観 Ⅲ」。裸の女性が座っている。寒々とした雰囲気である。地面はひび割れて、その上にガラスの板が置かれ、そこに座っているのだが、壁ももともとガラスの板でできていたようだが、壊れて破片が鋭角的な様子でこの女性を脅かす。思春期のもつ世界との不協和を表現する。(高山淳)

 久保敬子「ひねもす」奨励賞。山羊の頭が大きく描かれ、その口の中でいま葉が食べられている。ひねもす葉を食べていて、幸せな山羊といった趣である。いずれにしても、食べている山羊の口や目や耳、背後の植物のフォルムが力強く、そのディテールが迫ってくるような表現力がある。(高山淳)

 岡本優「チェス」。チェス盤が傾いている。チェスの中のナイト、馬が上方に浮かび上がっている。光が弧を描いてこの周りを取り囲んでいる。チェスを媒介としたノクターンといった雰囲気で、振子のようにフォルムが左右に振れながら、独特のメロディを表す。(高山淳)

 近藤二美「りんごの木」。りんごの木の後ろに七色の光線があらわれている。太陽の光がプリズム化され、この木の周りに光り輝いている。それがこの木を聖なるものとしている。背後の小高い山も赤く染まっている。色彩の力を存分に発揮した佳作。(高山淳)

34室

 島田隆「街の一角」。東京のすこし古い通りにはこのような建物がたくさんある。そんな印象をもつ。枝の切られた街路樹もそうだし、右のほうには信号灯が立てられている。そんな様子がひんやりとした雰囲気のなかに、モダンで、いま発見したような瑞々しさで表現される。形の面白さと同時に緑やピンクなどの発色のよい色彩によるものもあるのだろう。下方の引き戸の向こうに積まれた商品と思われるものなどが、ガラス戸を通して見えるが、そんなディテールも謎をかけてくるような面白さである。(高山淳)

35室

 花香陽子「旅の朝」。ヴェニスの店の内部から外を眺めている。内部にはたくさんの仮面が置かれている。窓の向こうは緑一色によって表現され、雨でも降っているようだ。あやしいヴェニスの仮面が古都の歴史を伝える。そのミステリアスな、わくわくするような心持ちを、クリアなフォルムによるコンポジションによって表現する。(高山淳)

37室

 小口敏「2014、厨房」。ガス台の上に載せられた鍋や中華鍋。様々なキッチンのものたち。前面に窓があり、上方に煙を吸い込む覆いが掛けられているが、全体に窓に向かって円弧を描くように描かれている。ある一隅を魚眼レンズで眺め、そこに集約させたような趣もある。構図の面白さとフォルムのそれぞれのディテールが発揮する力に注目した。(高山淳)

39室

 新城龍刀「教室」。緑のボード。マイクの置かれた演台。手前にくるにしたがって高くなってくる机。二人の生徒が腰かけていて、上体を前に傾けたり、よそ見している。ボードの前に横から見た女性が立っている。デジタル映像を眺めるようなクリアさがある。そのフォルムによってすこしシュールな空間が生まれる。(高山淳)

 古川昌弘「露天鉱土(1)」。繰り返しモチーフとして描いている露天掘りの現場であるが、次第に画家の意識が強く反映される抽象に近い表現となってきた。最深部の楕円、中景の道が周回する楕円、そしてそこから上方にそびえる岩壁。地上の面が描かれず、この異様な世界に引きずり込まれる。濃厚な色彩によってじっくりと塗り込まれている壁面と、やや青みがかった底の楕円から、全体が古代魚の目のようも思えてくる。上方に向かって明るくなる壁面に希望のイメージが浮かぶ。そこに誘うように白い建物が幻のように描き入れられている。(小池伊欧里)

40室(これより版画)

 三浦やほ子「瓶の風景―富士の輝跡 Ⅱ」。香水瓶のような瓶の中に花が入れられている。周りに花が散っている。そんな様子を豊かなマチエールを通して表現する。黒と光との関係。また、香りが漂うような不思議な女性性の魅力。(高山淳)

41室

 舩坂芳助「My Space and My Dimension MM50」。抽象作品であるが、朗々とした色彩によって無限な空のイメージもあらわれるし、そこに育つ樹木や花などのイメージも感じられる。今回、左の赤と青の矩形の中に浮遊する不思議な抽象形態の外側に、屈曲した黒いフォルムがあらわれているのが楽しい。結晶していたものが分離し、楽しく踊っているような趣である。(高山淳)

 大久保澄子「森への誘い Ⅱ A Temptation to the Forest II」。大久保澄子は「森への誘いⅡ」と「Ⅲ」を出品。いずれも瓶のようなフォルムの中に森の蠱惑を入れたような不思議なイメージである。周りはそのまま紙の地になっている。それがまた鮮やかな印象を与える。構図的には「Ⅲ」の、瓶の外側に船のようなイメージを置いたフォルムに動きが感じられる。大きな緑の茎をこの瓶の上に置いている。内部は果実が実り、紫の色彩が入れられ、風が吹いている様子。三角の不思議な細長い瓶は大事なものを次の季節に渡すのだろうか。この「Ⅲ」は筆者には秋の森のように感じられ、「Ⅱ」は春の森のように感じられる。ついそこまで冬が来ているときのもの寂しい雰囲気と同時に豊かな実りの秋の二つのイメージが描かれていると思う。ブーメランのように不思議なフォルムがこの瓶のようなフォルムの三か所に置かれている。それは季節を渡る風のようなイメージに筆者には思われる。それが褐色の色彩で描かれているところに秋のイメージを感じる。そして、時のなかを過ぎていくイメージが緑と紫の手前の船に思う。

 「Ⅱ」は、この瓶にすこし厚みをつけたような雰囲気である。いちばん上方に封印するように植物の葉のようなフォルムがつけられている。春の生気ある豊かな命を、この瓶の中に閉じ込めたようなイメージもある。光に輝いている。黄色と明るい紫がコラボレーションし、下方には水を思わせる矩形の色面があらわれ、その中に弓形のフォルムがあらわれ、その上方にルビーのような色彩のフォルムが浮遊している。その中は濃い赤で、その外側の面に行くともっと濃くなって浮遊し、勾玉のようなフォルムも見える。それぞれのフォルムが茎であったり果実であったりしながら、それをもう一つ転換させて勾玉やルビーのような図像的なものに変容させながら、この瓶のような不思議な空間をつくった。アラジンのランプのように呪文によってこの中の世界は一挙に広がって、この新美術館の室内全体を覆うかもしれない。そのような凝縮された力が感じられる。また、下方の黄色い色面には満月の光を思わせるような、そんな光線さえもこの作品の中に封じこめられているようだ。そして、一か所、緑のブーメランのようなフォルムがあり、季節が変化していくことを語るようだ。いずれにしても、何か幸せなものに満たされた不思議な器である。二点ともそうであるが、春の夏に向かう季節と秋の冬に向かう季節の二つの器が版画的手法、ミクスメディアで表現される。(高山淳)

 小島道子「記憶―影 Ⅲ」。煉瓦を積んでいる。煉瓦はベネシャンレッド、銀灰色、グレーなどの色彩で、一部金を貼ったように感じられる。雲が浮かんでいる。その積んだ煉瓦のようにも積木にも見える抽象形態が、そのまま一つひとつ記憶の内容のようだ。そういった記憶という深い存在をこのように造形化する画家のヴィジョンが興味深い。(高山淳)

42室

 幸田美枝子「8月15日の焚火」。敗戦記念日の焚き火だから、鎮魂の焚き火だろう。中心から炎が立ち上がっている。本のようなものを焼いているようだ。とすると、これは敗戦の日にそれまでの教科書を全部焼いたり墨を塗ったりしたことを表現している。手前の女生徒は涙を流している。なにか沈鬱な雰囲気の中に炎だけ強く立ち上がってくる。白黒の画面であるが、不思議な色彩を感じさせる。(高山淳)

43室

 中島白翔「びっくり箱」。京劇ふうなメイクをした女性がびっくり箱を持っている。周りに花が散乱し、宝石も浮かぶ。CGの技法を使いこなした生気ある画面である。(高山淳)

44室

 若狭陽子「凜」。植物が密集するように描かれる中、数匹の猫や鳥が隠れるように入れられている。重層的なコンポジションが面白く、ひとつひとつのモチーフが柔らかく表現され、白い部分も黒い部分もどちらも強調されて力のある画面を作っている。(小池伊欧里)

46室

 北田友美子「ねこじゃらし」。ネコジャラシのフォルムを下方には具象的に描き、上方には抽象的にそのリズムを描く。独特の韻律と色彩に注目。(高山淳)

 高志領一「くれない競う新疆伊寧の春」。新疆というとウイグルなのだろうか。不思議な白い花が一面に咲いている。その植物の枝を見ると、屈曲した老梅のような雰囲気である。その緑の枝と白い花のあいだに女の子が後ろ姿を見せて、現代的な衣装を着て立っている。左のほうには驢馬が俯いて物思いにふけっている。右上方にはシンボリックな建物の塔が見える。独特の生気がある。画面の内側からあらわれてくるエネルギーが独特の動きをつくりだす。(高山淳)

47室

 伊佐信子「Cactus and new moon-a」。題名はサボテンと新月という意味になる。色彩家である。色彩が膨張していく。そんな雰囲気の中に寒色系の空がそれを引き締めて、月が浮かぶ。緑やピンク、黄色、ブルーなどの柔らかな色彩のハーモニーに実に豊かな雰囲気がある。(高山淳)

48室

 中山岳美「夜桜(目黒川)」。明かりに照らされて、透き通ったピンク色の輝きを見せる夜桜が強く印象に残る。そして、少し淡く青と混ざり合い川に映る桜の色彩が穏やかな余韻を残す。星空や桜や川面に引っ搔いたような線が無数に入れられているが、それは光跡のように思われて、まるで歩きながら対岸の夜桜を眺めているように感じられた。(小池伊欧里)

49室

 本田耕一「COSMIC ATLAS-1401」。宇宙のイメージやオーロラのようなイメージ、あるいは不思議な光を形象化したような面白さである。内側から発光し輝いてくるような、そんな光線を捉えているところが魅力。(高山淳)

 海老塚耕一「風が伝える水のかたち Ⅰ」。感覚のよい作品である。この上方には雪を思わせるようなフォルムがあり、下方は黒い球体のフォルムがあり、その二つが呼応しながら水の変化するかたちの面白さを描く。しっとりとした陰影のある色調は、この作者独特のものである。動いていくもの。世界には静止しているものはないといった、そんなイメージの強さと翳りのあるトーンが魅力である。(高山淳)

 渡辺達正「Blue Beans」。白くあけられたかたちは、長い時間のなかにつくられた風洞のようだ。背後には不思議な、樹木的でもあるし水のようでもあるフォルムが、うっすらと濃紺の中に描かれる。具象と抽象の境界領域のような仕事として力強い。(高山淳)

第53回日本現代工芸美術展

(4月18日〜4月23日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 大樋年雄「New Ancient Vessel-2014『革故鼎新』」。「革故鼎新」は古きを除き新しきを立てるという熟語である。鼎は中国のはるか昔からつくられたものである。殷代から存在する鼎を陶器によってつくり、新しい造形として提出する。茶褐色の色彩に対して内側が青く染められていて、その青い色彩は不思議な広がりと奥行きを示す。そこに空や海などのイメージが表れてくるようだ。 

 吉賀將夫「萩釉陶壺『春・2014』」。白とピンクのこの釉薬は萩釉独特のものである。手びねりでできているのだろうか。あるいはロクロのあとに歪めたのだろうか。上方の口は柔らかな三角形をなして胴に向かって膨らみ、そのまま締まりながら底になる。高台はとくにつくられていない。春の風。あるいは雪解けのイメージ。穏やかな中にゆったりとした手触り。また、一部斜めに筋が深く入っている様子のあいだに白やピンクの釉薬がかかり、冬から春にわたる季節感もしぜんと感じられる。

 春山文典「四つ星」。アルミに自由に切り込みを入れて、そのフォルムが踊っているような楽しさである。四つの小さな円を穿ち、そのあいだにまるで音譜のように直線を入れる。上方から見ると中心が厚く左右は薄くなっていて、その柔らかに中心に向かって厚くなる様子も面白いし、上下左右から四つの切り込みが入り、そこに切り取られた空間もまた作品の中で独特の魅力を放つ。

 伊藤裕司「煌彩の箱」。長方形の蓋物である。螺鈿や色漆によって彩色されている。そこにあらわれる抽象文様が優雅である。

 奥田小由女「慈愛の苑」。赤い衣装をまとった女神のような女性が少女を抱いている。右手は掌を上に置き、そこに大きな真珠のようなものがあり、その上に黄金色の鶏冠をもった小鳥がとまっている。小さな少女も小さな真珠のようなものが両手のあいだに浮かび上がる。深い悲しみ、つまり涙がそのまま真珠に変化し、その真珠が温かな慈愛のイメージを表すといった、不思議な心理学がここに隠されているようだ。よほど豊かな感情をこの作者はもっているのだろう。赤を中心とした中に様々な花や茎の彩色されている衣装なども面白いが、今回はその真珠のもつ不思議な力に引き寄せられた。

 宮田亮平「遊泳」。三体のイルカが泳いでいる。一体は三つのフォルムを組み合わせている。そこにあらわれる曲線の繰り返しによってメロディがあらわれる。口の先に向かう動きと尾鰭のもつ広がっていく力とを面白くデザイン化している。大人と子供が、あるいは父母と子供のイルカが楽しく泳いでいるといったイメージもしぜんとそこからあらわれる。

 大樋年朗「黒陶銀彩『駿馬走千里』」。輪積のような仕事で、ロクロではないのだろう。厚い外郭は黒く塗られ、そこにマリーニを思わせるような馬のフォルムがあらわれる。黒と胡粉のような色彩が一種絵画的な力を表すと同時に、フォルム自体はぐいぐいとした力がみなぎって、独特のエネルギーを発する。彫刻的な力と絵画的な力が陶芸の上に結合したところからあらわれてくる魅力と言ってよい。

 三田村有純「宙を支える」。船の上から二つの帆のようなフォルムがあらわれ、そこに宇宙的なイメージを円形の黒いたらし込みふうな空間の中に引き寄せる。三日月が出ている。下方の船の黒と朱の漆の色彩がシックな中に雅やかなイメージを与える。また、船の小さな繰り返されるカーヴによってできた形は、しぜんと波を思わせて楽しい。

 永井鐵太郎「やってきた風鎮  万蔵院・願」。風鎮とは軸の下方にある細い円柱の錘のことである。そのようなフォルムが水平に七つ置かれ、左右の長さもまちまちで、いちばん上方は上方に沿った円弧になっている。それを紫の台が支えている。中には紫の風鎮もあるし、ステンレスと思われる中に紫の色彩の塗られたものもあって、実に不思議なリズムをつくりだす。エキゾティックであると同時に和風でもあるようなイメージ。また、きらきらと輝く銀色のパイプは光り輝く朝のようなイメージを醸し出す。

 青木清高「黄昏」。たっぷりとした緑の釉薬が海を思わせる。壺の口縁の二か所がすこしつままれているようになっているところも独特の装飾性である。外側の釉薬に黄色や紫色の色彩が入れられて、まさにそこには日が暮れていくときのイメージもあらわれる。海というものの不思議な力を壺というフォルムに造形化しようと作者は試みる。

 手銭吾郎「Squeeze」現代工芸副理事長賞。関節人形のようなものを金属によってつくっている。両手を前にして不思議なパントマイムの表情である。体のもつゆるやかなカーヴの円弧の繰り返しの上にのった銅と思われる顔のもつ不思議なオーラに注目。

 山岸大成「序」。直線によるコンポジションである。キメ細かな白磁の肌にしっとりとした味わいがある。白磁と言ってもすこし緑がかった色調が入れられているのも魅力。ところどころ矩形の窪みや穴があけられている。その矩形の窪みや穴が周りの空間との関係をつくる。毅然とした雰囲気のなかにまさにプロローグといったイメージも浮かび上がる。

 喜多浩介「渇きの殻跡」現代工芸理事長賞。三つの円弧によって画面の上部はつくられて、船底のように窪んでいる。ダイナミックな作品。そこに亀裂を思わせるような形象が入れられていて、まさに乾いた大地を思わせる。そこには穀物の跡というイメージも表れる。農作物のできる地面が乾いて亀裂の入った様子。自然と人間との営為の跡のようなものもしぜんとこの器から浮かび上がる。

 武腰一憲「月輪の器」文部科学大臣賞。上方から見ると菱形になるが、そのような角柱の稜線のそばに驢馬に乗った人がいる。陶器自体は青く染まっていて、そこに驢馬に乗る人と影が描かれている。また、この直方体の上方と左右に黄色い円盤が重ねられていて、上方と左右から三つの円弧が黄金色に輝いてあらわれている。いわゆる装飾壺であって、ロマン豊かな佳作と言ってよい。

 並木恒延「雪の後」。上方からつららが下りてきている。下方には赤い実がなっているような雑木林が描かれている。その細勁な枝や幹の形と赤いリングとが見事なかたちをつくる。秋が終わり、冬の近い頃の林のイメージがあらわれる。上方にはつららが垂れて、もうすでに冬になっている。卵殻を貼り合わせながら淡い複雑なニュアンスをつくっている。それが雪の表現であり、そこから垂れるつららのそれぞれ違う形には画家の絵心がよく感じられる。黒漆が深い無限空間をつくる。漆の黒を空間の中の色彩として扱いながら、つららと樹木がお互いで二重奏のような響きをつくる。

 三谷吾一「春風」。カラフルな色漆を組み合わせながら童話的な空間をつくる。家、樹木、鳥、風。そういった要素がこの小さな平面の中に見事に表現されている。とくに今回は金や銀による樹木の表現も面白いが、青い葉と青い鳥がお互いに呼応するようにあらわれていて、不思議な風のイメージがそこにあらわれる。風が鳥となってこの家の周りを旋回するようだ。

 中井貞次「森の律動」。濃紺、緑、淡い青みがかったグレーなどのフォルムを色面として扱いながら、森のもつ奥深い悠遠なイメージをつくりだす。朝と夜の二つの時間帯を一つの平面の中に染めこんだようだ。静かに樹木が立ち上がり呼吸をする。あいだから木漏れ日が見える。そして、深い夜の闇が木立のあいだに存在するような空間。森をテーマにした一片の詩のようだ。

 赤堀郁彦「輪の連鎖─Ⅱ」。えび茶色の漆の上に金属の円弧を繰り返し組み込む。それらがお互いに響き合う。空の星のイメージがしぜんと感じられる。宇宙空間を一つの遊びの場のように手元に引き寄せながら、円弧によるメロディをつくる。下方の直線によるフォルムは宇宙船から見た地上のイメージのようだ。

 田中紀子「シンフォニー」。赤く染められた布がお互いがジグザグになるように組み合わされて、その赤から黒にわたるグラデーションが鮮やかな印象を与える。なにか神々しく、祭りのイメージをしぜんと感じさせる。そこには神道的な力もあらわれてくるようだ。清潔な中に古代詩を思わせるような赤が不思議な命をもって輝く。

 角康二「静味」。漆の作品である。下方に黒漆の中に同心円のものがいくつもつけられ、波紋を表す。上方に月を思わせるような円が重なり、あいだに球体がある。その二つのあいだを白菜のようなフォルムや葉がつなぐ。白菜のもつ葉脈のフォルムが繊細に浮かび上がる。寂々としたなかに静かに能舞台のシテのような動きがあらわれる。洋風なイメージと日本のイメージがクロスするところにあらわれた独特の詩情に注目。

3室

 村上慶子「祭典・Festival」。雲を眺めていると、それが大きな鳥のイメージと重なったようだ。そんなダブルイメージを、革をベージュに染めながら繰り返されるカーヴの連続によって面白く表現した。左に嘴があらわれ、雲が鳥に変容する。

 荒井仁一「MACHINEの譜」。金属。鍍金された色彩や銀や銅、アルミなどの素材を使い、抽象的なフォルムをコラージュしながら、お互いが響き合い、お互いが関係をもちながら動いていくといったイメージを面白く表現している。動きというものに対する作者のパッションが面白く感じられる。また、金系の色彩と銀系の色彩をうまく絡み合わせることによる、贅沢で豪華な雰囲気もまたこの作品の魅力だろう。

4室

 厚東孝治「弥生─緑壁」。大きな口縁からすっと首が下りてきて、まるで袴をはいたように左右に広がり、ゆったりとしたカーヴを描いて無高台の底辺に向かう。緑釉がそこに彩色されて、しっとりとした味わいを醸し出す。チブサンの装飾古墳を思わせるような三角や丸い装飾がされているから、弥生というタイトルがつけられているのだろう。安定感のあるゆったりとしたフォルムと、緑のいかにも日本らしい釉薬の取り合わせが魅力である。この緑の釉薬はこれにすこし加味すると織部ふうな味わいを醸し出すのだろう。

 友定聖雄「ORIGIN」。ガラスの作品である。ガラスの板を貼り合わせながら透明感の中に色彩の韻律をつくる。緑とグレーの二色のガラスを使っている。そこにあらわれてくる直線のもつ文様、あるいは円弧の中に切り込みが入って、それぞれがすべてあるメロディとなってこのフォルムから静かに楽しく雅やかに聞こえてくるようだ。グレーのすこし曇ったような味わいと淡い緑の不思議な人を癒すような色彩の二色による構成である。幾何学的な抽象美に対するセンシティヴな力に注目。

 永見文人「春の水景」。まるでダリの絵の中からピックアップして造形化しているような面白さである。上方に雲があり、雲の中には目玉のようなものも入れられているのだが、その雲から水が垂れてきて、しずくとなっている。それに対して下方の黄金色の三重の雲のようなものはゲル状のものによって連携され、その下方からステンレスふうなしずくが重力に反して上方に向かうといった雰囲気で、二つのしずくが中心で呼応し語り合っているようなシュールな味わいがこの作品の魅力だろう。また、銀と金、ステンレスといった素材感、その輝きを造形の中にうまく使っているところも面白い。

 猪俣伊治郎「埴輪(87)─鷹」。波と島と空が背景につくられている。それをバックにして古代の女性が踊っているような雰囲気があらわれる。その肩に黄金色の鷹がとまっている。空には褐色の色彩で雲のようなフォルムがつくられ、それは同色の島と響き合う。古事記の物語などからもインスパイアされたのだろうか。古代の悠遠たるロマンを革工芸に引き寄せる。

5室

 田中貴司「ひとやすみ」。豆のようなふっくらとした蓋物である。黒漆がベースになっている。そこに螺鈿や金彩などによって、まるでカンディンスキーの絵画を見るような楽しい文様がつけられている。下方には二つの蓋物の重ねに円形の月のようなものがぽっかりと黒い中に浮かんでいるのだが、その中にはアコヤガイや金の粒、様々な螺鈿の技法が駆使されているところも面白い。

 沈廷輔「真昼の夢」。楽しい作品である。白い艶のあるエナメル質の肌をもつフォルムが中心になっている。それが地面をつくり、家をつくっている。そこに銀色の雲がのり、大きな黄金色の星が下りてきている。屋根の上には馬がいるし、その家とのあいだには三日月もある。魚、ハリネズミ、鳥、亀、ヒトデ、蛇などの生き物が点々と散りばめられて、まさにそれぞれが調和しながらある幸福感を醸し出す。星が歌い、鳥が語るといった、幸せなイメージが生き物や星や月によって構成される。

 原田武「certain scenery」。ブロックにとまるオニヤンマ。そばから萌えるタンポポ。微細なものを金属によって生き生きと表現している。とくにオニヤンマは羽の文様を細勁な線によって表現し、頭を緑に彩色して、その尾の微妙なカーヴといい、見事だと思う。

第44回日彫展

(4月19日〜4月30日/東京都美術館)

文/高山淳

ギャラリーA室

 吉居寛子「wish」。両足にほぼ均等に重心をかけて、二つの足は四センチほど開かれて立つ女性のヌードである。ストールのようなものを両腕にかけている。初々しい女性のもつ肉体の輝き。豊かに実った果実を思わせるようなその丸みや量感。細い首の上に丸い顔がのっているが、その顔は清浄である。女性のもつ処女性ともいうべきものが豊かな肉体の上に生き生きと表現されている。

 山田朝彦「清明」。しゃがんで首を左にひねり、左手をしぜんに下方に垂らして指の先が地面についている。右の膝が左の膝より高く、その高い膝の上に右手が置かれている。強い緊張感のある作品。女性のこの姿には、若々しい生命感がみなぎる。一瞬の動きのなかにこの女性のもつ美しさと同時に、一種の健康のなかにある輝きともいうべきものがよく表現されている。

 横山豊介「双祷」。二人の頭巾をかぶった人物。木彫である。二つはツインのように重ねられている。なにか守り神といった趣である。一種の宗教性を背後に秘めた作品と思われる。

 圓鍔元規「春の夢」。すっくと立つ若木のようなムーヴマンをよく造形している。ジーパン姿であるが、上衣を前で結んでいるためにおなかが出ている。それがまた不思議な魅力を放つ。また、長い首と大きな目というように、上半身から首を通って頭に向かう初々しい力もまたこの造形の面白さである。

 市村緑郎「青年」(遺作)。体を右に強くひねって両手を組んだ男の像である。頭を下方に向けている。その激しい、一種バロック的と言ってよい力動感がこの彫刻の魅力である。日本の彫刻界でも抜群の手腕をもつ作者ならではの表現である。ロダンとかブルーデルといった二十世紀初期の彫刻家のもつ力がしぜんと漂う。両腕を強く組んで右にひねり下方を向いた男性の像には、なにか悩ましいものがある。ドストエフスキーは苦悩こそが人生で大切であると述べているが、そういった文学性も感じられる。また、右足の指がぐっと折れ曲がっているのも、上体の動きと呼応していて、さすがと思う。

 蛭田二郎「木菟少女」。少女の首であるが、向かって左の大きなふさふさとした髪の中からミミズクの姿が見える。ミミズクは森の哲学者、あるいは知恵の象徴といわれている。作者がこの女性の中に見るものは、穏やかなふっくらとした愛らしい雰囲気であると同時にまた知性というものの大切さということになるだろう。作者は岡山在住で坪田譲治賞の彫刻もつくっている。いわゆる児童文学者として有名な坪田譲治のもつファンタジックな雰囲気が、しぜんとこの彫刻の中にも引き寄せられているようにも感じられる。穏やかなふっくらとした頰や唇と一重瞼の目の表情などは、日本の若い女性の像であるが、同時にその豊かな雰囲気は平安仏にもつながるものがあるだろう。平安時代には樹木の中に仏を見るということで、立木観音というものがあらわれてきたが、そんな樹木の高いところに住んでいるフクロウのイメージは聖のイメージであると同時に、神道的な日本人のもつ感性のなかにも親しいものがあるように感じられる。

 橋本堅太郎「華」。女性の首である。丸い顔の中にしっかりと目を開いた若い女性の顔。顎のフォルムや小さな唇を見ると、意志の強い、しっかりとした若い女性の性格を思う。静かに笑っている。そのほほえみはどこか仏像につながる。いわゆるアルカイックスマイルと共通するような独特の魅力をなす。髪は上方で結わえられているが、その頭のフォルムにもどこか菩薩のイメージが漂う。

 山本眞輔「日曜日の午後」。二人の女性が立っている。前の女性は白衣のワンピースで、後ろの女性はすこしベージュっぽいツーピースである。肌は黄金色に彩色されている。手前の女性はローヒールであるが、後ろの女性はハイヒールをはいている。手前の女性の全体の丸い、調和のとれた穏やかな雰囲気に対して、後ろの女性は鋭角的な雰囲気で、きびきびとした性格を表すようだ。二人の女性の性格。そのまろやかな様子ときびきびとした一種の鋭角的なものをもったそのキャラクターが前後して表現され、しかもお互いがハーモナイズしながら不思議な雰囲気を漂わせる。作者のつくる女性はいずれもすこし妖精的な雰囲気が感じられる。この彫刻は日曜日の午後という題名のように、日常のある瞬間を捉えたものと思われるが、彫刻家の手腕は二人の性格の差を見事に造形化しながら、しかも二人がデュエットするような不思議な親密な様子と同時に毅然としたものを表現する。

 中村晋也「持律第一(優波離)」。釈迦十大弟子を一貫してつくってきた。優波離は持律第一というあだ名のように戒律をいちばん守った人だといわれている。長い眉が伸びて、目の上方に覆いかぶさってくるようだ。高い鼻に、しっかりとした意志を思わせる結ばれた唇。切れ長の目。その奥行きのある眼窩からあらわれてくる目の表情は厳しい。厳格な持律第一の僧の面影が彷彿とする。二つの深く刻まれた額のしわ。頭はそられて頭蓋骨の様子がそのままあらわれている。白髪と思われるのだが、覆いかぶさるようなその眉の長い毛がその表情を和らげている。

 雨宮敬子「靜想」。女性が座っている。左足はコの字形に、その上を通って右足が前に出ている。ゆったりとした雰囲気。右手は腰の後ろで軽く体を支えて、左手は左の膝に添えられている。面白いポーズである。だんだんと手前の足から奥のほうに視線が動いていく。やがてすこし傾いた顔の下、胸のあたりに焦点を結ぶのではないか。裸婦を構成する様々なカーヴ、曲面がお互いにハーモナイズする。頭は左にすこしひねって、目は下方を向いている。焦点を結んでいるのではなく、何も見ずにぼんやりと考えこんでいる。すべての筋肉は独特の弛緩状態にある。弛緩状態にありながら、なにか毅然としたものが内側から感じられるところが面白い。その毅然とした部分は目のもつ独特の表情のようだ。頭をすこし左に傾けて、焦点を結ばない目の大きく開いたかたち。目を通してこの女性の頭蓋骨の内部に引き込まれていくような、そんな不思議なオーラが感じられる。

 能島征二「明日へ」。女性が両手を下方に置いて布を持っている。その布の上に女性はいる。その布の内部が現在で、いま現在から外側に足を踏み出そうとする。そんな寓意性をしぜんと感じる。胸をすこし反った、誇り豊かな女性像である。ふくよかな女性の身体がそのまま聖性ともいうべきものを獲得している。正中線をきわめて大事にしている。それによって彫刻としての品格あるいはディグニティーが表れている。

 神戸峰男「そよ風」。若い女性がすこし高い石のようなものの上に座り、遠くを眺めている。下方で足を組み、胸の上で両手を合わせている。胸の前にフォルムが集まるという凝縮する動きのなかに、目は遠くを眺めて希望の光を眺めているといった初々しい雰囲気。身体の動きと目の動きという二つの動きを彫刻の中にうまく表現している。

 近藤哲夫「ぬくもり」日彫賞。猫を抱いた少女。あどけない少女の顔が魅力的である。その顔には日本の埴輪、あるいは初期の仏画を思わせる。しぜんなしぐさのなかにあらわれてくるそのようなヴィジョンが造形されているところに注目。

 宇津孝志「旅路」。大きな木製のボックスの中にトランクを持った男が立っている。その両側には家を思わせる木製の形がたくさん置かれ、上の棚には丘の上の家や家の様子、下方もそのようで、いわば家といったフォルムを表す積木がたくさん置かれている。その中にしっかりとつくられた外套を着、ボストンバッグをかたわらに鞄を手にした帽子をかぶった男が置かれて、不思議なドラマを表す。文学性というか、物語性というものがこの作品の面白さである。そして、この家のある簞笥のようなものの上方にも家があり、そこに把手が置かれていて、カーヴする形が不思議な太い虹のようなイメージを表す。ヒューマンな表情をもつ作品である。

 伊庭照実「道」。青年像である。すこし体を左にひねって、右手を前に出して、何かをつかまえようとしているかのようだ。しっかりとした骨格の青年像。その中には肉体を通してこの青年のもつ精神力ともいうべきものがしぜんと表現される。

 廣川政和「不思議の国へ」。幼女が座っている上方に牛の頭があらわれ、その上にはフクロウが。フクロウの上には逆様になった三歳ぐらいの少女の姿が浮かび上がる。少女を中心とした夢のトーテムポールといった雰囲気で、そのイマジネーションの力に注目した。

 元田木山「春の兆し」日彫賞。ハーフコートのような上衣をつけて短パンをはいてブーツをはいている少女。若々しい。とくに顔や上衣の鑿の跡、そのリズムが初々しく清潔な印象をつくりだす。一木のようだ。だんだんと周りのフォルムを削り取りながら浮かび上がってくる形。そのリズム感とか周りの空間との親和感といったものが、この彫刻の魅力をなす。

 阿部鉄太郎「56億7千万年後の君に」西望賞。一種レリーフ的な表現になっている。背後は向かって左、つまり女性の右側には翼があらわれ、反対側はすこし凹面になっている。そこに女性の上半身があり、下方は台の上に座って膝小僧を重ね、両足はすこし開いている。シャープなエッジのきいたフォルムである。石膏という材質の上に土佐漆喰が、たとえば右手の手のひらとか左の親指の腹、あるいは膝の一部に使われて、そこはまろやかにきめ細かく周りの光線を反射して輝く。石膏のもつ手触りのあるマチエールは、たとえば翼の部分には効果的に使われている。通常の女性というより、一種のイメージの中の神性というものを与えられたヴィーナス的な女性像のように思われる。

 岡本和弘「夜の鳥」日彫賞。右足を左の足の上に置いて、その前に両手を置いて俯いた青年の像である。着衣の人物像である。鑿の跡が独特の韻律をつくる。見慣れた日常のなかからテーマを引き出しているところが興味深い。木のもつ触感とその鑿の韻律が若々しい青年の息吹を伝える。

 堀内有子「今はとて―かぐやひめ」。かぐや姫は月に帰っていくのだが、その月を光背にして雲の上に乗ったかぐや姫は少女の姿で表現されている。石膏であるが、テラコッタを思わせるような質感とすこしオレンジ色に彩色された色彩も、このテーマにふさわしい。かぐや姫は美女であったそうだが、ここにあるのは子供のもつ不思議な魅力とその美しさと言ってよく、その子供が雲の上に乗り、満月を背後にするというその発想がまた面白い。

 稲垣克次「おでかけ」。いま靴をはこうとして座っている女性。その姿を魅力的につくっている。服のしわなども、対象のもつリアル感を出すために、そのしわを生かしている。ブルーデル的に強いマチエールをつくりながら、この若い女性のもつ聖性ともいうべきイメージを捉える。

 石黒光二「夢空間 Ⅲ」。楕円状の輪の中に女性がすっぽりと入っている。背中はその楕円に沿って、そこを支えにして右足が静かに垂れている。独特の彫刻家の美意識の表現である。楕円がいわば一つのカノンとしてこの彫刻に機能している。そのシンプルな楕円のフォルムの内部に複雑な女性のもつ肉体の起伏が生き生きと表現され、しかも女性は目をつぶってまどろんでいるようである。そのまどろみは、その楕円という円弧と深い関係をもつ。

 嶋畑貢「天使の詩 Ⅴ」。幼い少女のようだ。タオルを腰に巻いて両手を開いて頭を俯けている。その頭に大きな鳥の羽がのっている。天使のイメージは通常翼をつくるが、羽をのせているあどけない表情、そのポーズによって天使をイメージさせる。洒脱な優れた造形力がそれを支える。

 德安和博「カフェの給仕」。編み上げのすこしヒールの高い靴をはいたウェートレス。スカートの前で両手を重ねて立っている。下方からだんだんと上方に向かっていく動きをしっかりとつくり、そこにしぜんとした韻律があらわれる。その清潔な韻律はこの少女のもつ魅力をそのまま伝えるかのようだ。

 伊庭靖二「まなざし Ⅲ ~月明かりの中で~」。台座から女性の姿があらわれてくるのだが、それは膝の上で切られている。台座は板でできている。その前には自然の枝が置かれている。この女性は水の中にいるのだろうか。あるいはあふれてくる月光が水のようなイメージとしてこの女性を取り巻いているということの寓意だろうか。両手を大きく広げて下方を見る女性のしっかりとした量感のあるボディが、生き生きとした表情をもつ。

ギャラリーB室

 一鍬田徹「標本箱〝永遠の夫妻〟」。黒いボックスの中に夫婦の姿がテラコッタでつくられている。上方を向いて寝ているのは死体であるかと思うと死体ではなく、一つの土偶的な不思議なイメージの力でその二体はつくられている。日本の古い宗教性も捉えながら、自由にデフォルメされた男女の像が生き生きとしたイメージを発信する。いわゆる通常の時間軸を排除してあらわれてきた一対の土偶の不思議な力に注目した。

ギャラリーC室

 田丸稔「叙事詩の男と馬」。馬の頭と裸の男の全身を組み合わせながら、バロック的な力を引き寄せる。馬は心理学的にある情念といったものの象徴として使われるが、激しいドラマを予感させるようなイメージである。量というものがよじれ、絡み合いながら、彫刻としてのドラマを醸し出す。

 古井光二「マッド ハッター」。この会では珍しく鍛金の作品である。鉄を叩き、あるいは溶かし、溶接する。それによって強い独特の波動ともいうべきものがあらわれる。山高帽子をかぶった芸人。蝶ネクタイをし、肩から不思議なチェーンのようなものをつけている。左手を帽子に右手は体から大きく右に振り、右足を前に出して歩きながら、芸をこのあと行おうとするその一瞬の様子。裸体彫刻が多い中に、衣装というものがある劇の役割として重要な要素を示す。そこから発想した彫刻であるし、また、前述したマチエールのもつ力や動き、その波動に注目した。

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