美術の窓

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公募展便り(2012年12月号)

美術の窓 2012年12月

第58回一陽展

(10月3日~10月15日/国立新美術館)

文/高山淳・磯部靖

1室

 泉谷淑夫「日常の中の非日常」。昨年はアメリカの自由の女神を上から見下ろした構図であったが、今回は逆で、水たまりに映っている自由の女神を見ているので見上げた構図である。実際に見上げるのではなく、水たまりに映った自由の女神を見るという視点が面白い。立体的な存在感のあるフォルムだが、その上方に炎が立ちのぼっているから、しぜんと九・一一の事件を思い起こす。その像を眺めている十二頭の羊。茶色い頭の羊とベージュの頭の羊がイーブンに六頭ずついる。人間たちの象徴と思われる。それは九・一一の事件を情報によってその衝撃を感じたイメージが、水たまりの中のフォルムと重なる。実は羊たちは十三頭いて、一頭だけは頭が隠れている。十二頭というと、キリストと十二使徒のことを思い起こす。そうすると、九・一一の悲惨な出来事から立ち止まって考えて、人類を導く十二人の使徒が黙々とこの光景を眺めているといったイメージもあらわれる。しかし、キリストの姿は、あらわれてこない。思想をもった新しいリーダーが必要とされるのだが、それはまだ頭を隠していて、黙々とただこの人たちは主なくしてこの出来事を眺めているのみといった雰囲気もある。同時にまた、その十二頭は世界の各国家や民族の象徴であって、やはりそれを統合する主はいないといったイメージも伝わってくる。いずれにしても、九・一一の大事件をこのようなかたちで内面化し、黙ってそのシーンを見入る十二頭の羊という構想力に感銘を受ける。(高山淳)

 岡田彌生「スプライトの道」。室内にある椅子。後ろのシーツの敷かれたベッドが、そのまま高速道路につながっている。高速道路を猛スピードで走り、両側の景色は流れている。日常の中に不穏な時間が進入してくる。それはスリリングである。たとえば死につながるような、そんなものが襲ってきているような気配が感じられる。(高山淳)

 舘野弘「前線」。塗り込んだ油絵具のマチエールが実に魅力である。そのマチエールによって、この不思議なヴィジョンは支えられている。空中にレールが幾本もカーヴしながら通っていて、そのレールから伸びたフックに吊られた男。フックにハンガーが掛けられて、ハンガーに下着が吊るされ、その下着がそのまま男のランニングにつながって、そんなかたちでもって吊るされた男もいる。この男は青年のようで、運動している最中でズックをはいて走ろうとしている。ところが、そのかたちがそのまま吊るされたかたちになっているところが面白い。それに対して右側のフックによって吊るされた男はサラリーマンふうでネクタイが翻っている。その向こうにも影になって、ネクタイを結んで吊るされている男の横顔がある。人間の意識というものが人間を統合しているわけだが、実はもっと深い無意識によって引っ張られて、どこかに連れ去られていくといったイメージが面白くあらわれていると思う。同時に現代の社会のもつ終末観、不安な未来といったものもそこに重なる。通常のエゴの下にある、それを支えている無意識の力があらわれている。それは自分自身の無意識と、同時に時代全体の社会の無意識の力もそこに重ねられているところが、この作品の社会性と言ってよい。そして、上方のレールはカーヴしながらはるか向こうに続いているが、その上方に不思議な雲があって、斜光線の中に光っている。その斜光線の扱い方も面白い。それは夕方のノスタルジーを誘うような光であり、あらわれているものはそのような強い力に支配された無力な人間の存在と言ってよいのだが、その光の力によって郷愁ともいうべき深い感情があらわれてくる。一見矛盾しているが、そのようなイメージの広がりと深さがこの作品の魅力だろう。(高山淳)

 細川尚「醒めやらぬ夢」。下方に壊れた神殿の柱のようなものが幾本も立っていて、それがリングの岩を支えている。崩壊すると、リングの中の世界は消えるだろう。そのリングの中に水があらわれ、岩があらわれ、廃墟のような建物がその上に立ち、一艘の船が浮かんでいる。その船に乗る人は画家自身であるにちがいない。その船から離れて、画家はこの全体をイメージするところの位置にいる。その目の力がそのままこのリングと重なるようだ。そこには二人の女性が浮遊している。鳥の羽がそばに散っている。何か美しいものが去っていくようなイメージがある。いわば愛の離別のような、そんなイメージがこの女性のフォルムに感じられる。そこにあらわれてくるパッションの余韻のようなものが懐かしさをもって迫ってくる。(高山淳)

 茶畑顕子「青の幻想―2012―」。損保ジャパン美術財団賞。画面の中央に角張った氷山があり、そこに流氷が手前から続いている。さらに奥の方には険しい氷壁が見える。青みがかった画面全体の色彩の中で、氷の白が輝くようだ。上方は暗色も入れられていて、どこか静かな気配が漂っている。そういった中で、流氷や氷山のごつごつとしたフォルムが、小気味よいアクセントを作り出してもいる。幻想的な世界観の中に、確かな画面構成力や筆力が伺える。(磯部靖)

 市橋哲夫「アースダイバー  C─12」。地球の中心にはマントルという高熱の流動体があるそうだ。また、地球は四十億年の歴史をもっているという。そういった地球の中心にイメージとして潜入しようとする。そこには大気圏の外側に広がる宇宙と同じようなイメージが、もっと凝縮してあらわれてくるような雰囲気である。それは画家自身の内界とも重なるのだろう。今回、画面の中ほどに緑と白の楕円状のフォルムがあらわれて、不思議な存在感を放つ。そこから四つのフォルムが波打つようなかたちで浮遊している。画家のイメージを象徴した眼球のような存在と考えると面白い。それが浮遊しながら、この背景の中を動いていく。赤いエネルギーの塊のような球体、あるいは白いベージュの清潔な雰囲気の球体も移動し、それ全体を波打つようなフォルムが囲んでいる。赤は情熱といったイメージを感じさせるし、青からは深い海のイメージもあらわれてくる。いずれにしても、それはそのまま画家の年齢に現れてくるセルフと言ってよいスクリーンで、そのセルフの中に深く入り込むところからあらわれた不思議な時空間とも言うべきものが興味深い。(高山淳)

 高岡徹「夏の花」。色彩が魅力。ライトレッド系の色彩の中に朱色が入り、そんな空間の中に青いものや黄色いものが浮遊している。下方には二つの矩形があって、緑をベースにしたものとベージュをベースにしたもの、そして下方を大地とすれば、向こうは空で、オーレオリン系の色彩の中に月のようなフォルムが輝いている。「夏の花」という題名を見ると、花の美しさ、魅力を抽象形態の中に表しながら、その命を色彩によって表現する。そこに植物や建物や月などが引き寄せられて、オールオーバーふうなコンポジションの中に動きがあらわれる。その動きを統合する力がこの作品にあるところが、要になっている。その力は画家の詩的ヴィジョンと言ってよい。(高山淳)

 棚瀬修次「Black space in ―かたち―」。星が爆発しているような趣である。オレンジ色の炎が広がり、中心が白く輝いている。星の終末といったイメージが感じられる。下方にもう一つの新しい星が青白く光って、いま生まれつつある。星の終末と誕生といったイメージをダイナミックに表現する。その現在進行形のイメージが圧倒的な存在感をもって迫ってくる。(高山淳)

 鈴木力「ポンペイの壁(レリーフ)」。頭が獅子で尻尾が龍のような、スフィンクス的な生き物の上に天使が乗っている。そこに強い斜光線が差し込み、強い明暗をつくる。「ポンペイの壁(レリーフ)」というタイトルであるが、一瞬にして火山の噴火によって埋められたポンペイの街。当時の人々の生きていたイメージが、その光の中によみがえってくるようだ。面白いのは、そのそばに扉があり、人間のフォルムが線描きで描かれていることである。それはコの字形の幾重ものフォルムによって囲まれている。溶岩に埋められた当時の人々のイメージだろうか。下方にもう一人、矩形のようなフォルムの前に人間が立っている。絵画は一つのイメージの力によって成立した平面芸術であるが、そういった絵画の根幹を改めて思わせるところがある。再現的な意味での空間はここには描かれず、時間の中から画家がピックアップしたフォルムによって、時空を超えた一つの象徴的なものが表現されている。そうすると、ここに照らす光は時間というものの性質もそこに重なっているように感じられる。古代に思いを馳せながら、人間の信仰とか生存というものの意味を静かに問いかける。(高山淳)

 濵田清「遠い日(期待)」。裏返した大きな凧が穴から半分飛び出ている。穴の周囲は白い椅子が六脚囲んでいて、さらに鯉のぼりや積み木などの玩具がたくさん置かれている。かつて幼い頃に親しんだものが、深い記憶の底から蘇ってきたようだ。豊かな色彩感覚で画面を彩りながらも、細やかに描写していっている。モチーフに対する画家の深い想いがそうさせているような、興味深いイメージの世界が展開している。(磯部靖)

 大場吉美「予感」。坊主頭の七歳ぐらいの男の子が、おなかのあたりでは一つの瓶になっている。その瓶の底に刻々と砂が落ちて、ピラミッド形の集積があらわれている。きわめて微分的な世界。一刻一刻の時の音を視覚化しているような繊細なものがある。そばに円錐形を逆に立てたフォルムがグレーによって表現され、そこから細い針金のようなものが伸びている。一部にはその上に一枚の緑の葉が置かれ、もう一つは瑞々しい緑の葉をもつ松もあらわれている。再生のイメージだろう。背後にはデカルコマニーふうなトーンによって崩壊した大地の穴ぼこのようなイメージがあらわれている。しぜんと一年前に起きた津波による恐ろしい被害を連想する。そんなものを背景にしながら、刻々と新しい命があらわれ、希望が芽吹いていく。上方のガラスの上に置かれた卵も同じイメージの象徴と感じられる。ただ、それはこの少年の頭の上すこし上方に傾いて置かれたガラスの上にあって、その卵はいつ落ちてクラッシュするかわからない。そんな不安感もまた加わって、画面全体のイメージをつくる。微分的なものを集積しながら、全体で積分的な人間社会の絶望と希望といったイメージを静かに表現する。(高山淳)

2室

 尾島守「旧居留地の早朝(あなたの行先はどこか)」。会員賞。背の高い建物の間に立って、見上げるような構図で描いている。建物の外壁では、四人の少女がぶら下がったりよじ登ったりしている。その生き生きとした躍動感が印象的である。落ちたらどうなるのかなどという危うさが微塵も感じられないところが特におもしろい。明るい日差しが差し込み、早朝らしい爽やかな空気感もまた魅力である。大胆な画面構成が、そういった様々なことを背後から支えながら見応えのある画面として成り立たせている。(磯部靖)

 畑野昭子「幻想」。寒色系の色彩を、繊細にトーンを変化させている。シダなどの細長い葉を伸びやかに繰り返し描きながら、全体で、ある種の穏やかなリズムを刻んでいるようなところが興味深い。そういった中で、ゼンマイのような芽がいくつか伸びて曲線を描いているところが、作品の中で一つのポイントを造りだしているようで興味深い。(磯部靖)

 岡村順一「地の譜―兆し」。たくさんのアンモナイトが海を背景にして置かれている。その渦巻くクリアな形が面白い。まるで長い時間というものの謎がそのままそのフォルムにあらわれているような趣である。その上方の一つの巻貝に赤い目があらわれている。アンモナイトが再生してよみがえりつつあるようだ。時間というものの不思議さを面白く造形する。(高山淳)

 三阪雅彦「飛翔」。和服を着た日本人形のような少女が風に吹かれて宙に浮かんでいる。その左上に鳳凰が描かれていて、それがこの少女を見守っているようだ。十大弟子のシリーズも終わり、今回は独特の寓意性を感じる。全体的に落ち着いた色調で、淡々と描きながら、画面全体で旋回するような動きを見せているところもおもしろい。これまでとはまた違った視点で画家のイメージの豊かさを改めて感じさせられた。(磯部靖)

 幡谷フミコ「月の通り道」。シルエットになった裸木が手前に大きく立っていて、その背後に細やかに枝を広げた白い裸木が数本立っている。実に幻想的な風景である。画面の下方三分の一にカーヴするぼんやりとした光が伸びている。それは月の光の輪を想起させる輝きを見せている。月の光によって生命の力を得た木々が、今この時だけ枝を無数に伸ばしているようにも思える。また、一番手前のシルエットがまるでこの光景を見つめる画家自身のようで興味深い。(磯部靖)

 山口陽子「生命」。周囲の風景が映る水面を画面いっぱいに描いている。画面の左下から波紋が広がり、複雑な表情を見せている。その繊細な動きがしっかりとしぜんに捉えられている。特に、画面右側の樹木の枝のゆらゆらと揺れる様子に見応えがある。どこか抽象的な雰囲気もあり、印象的に残った。(磯部靖)

 吉田光雄「poesia di Venezia」。題名はヴェネチアの詩という意味である。ヴェネチアの大運河を前にして女性が座り、物思いにふけっている。リュートのような楽器を膝の上に置き、弦のところを左手で持っている。ゴンドラが二艘、布を掛けられて波に揺れている。幾本も杭が立っている。遠景には宮殿が見える。その丸いドームと鐘楼が斜光線に輝いている。斜光線はゴンドラの舳先にも当たり、一部を銀色に光らせる。この女性にも当たり、女性の顔や手を照らし出している。リュートの赤茶色の紡錘状のグラデーション。鳥が三羽、空に飛んでいる。その鳥も斜光線に照らされている。その斜光線は深い記憶の光と重なるようだ。しぜんと瞑想的なイメージがあらわれる。その感情世界が面白く表現される。空はほとんど闇だが、上方の空にはまだ光が残っている。夕暮れ方の時刻のイメージを深い奥行きのある空間の中に表現する。エキゾティズムとノスタルジーといった二つの心象が重なりながら、この作品のドラマをつくる。(高山淳)

 佐々木英夫「虚空の叫び」。人間をプレスして一枚の板にし、それをカーヴさせている。口と鼻はあけられて、叫んでいるようだ。よくサスペンスストーリーや犯罪ドラマなどで掘り起こされた死体があらわれてくるが、すこしそんなイメージもある。恨みを残して叫んだ激しい情動。それをそのまま彫刻につくる。そして、そこに加えて若干ユーモラスな雰囲気もつくる。そのブラックユーモア的なイメージが、この彫刻としての魅力と言ってよいかもしれない。(高山淳)

 神部修成「樹彩(じゅさい)」。樹木がピンクに染まっている。夕焼けの光線によって染められているのだろう。下方に赤茶色の草のようにも花のようにも見える植物があり、道が向こうに向かっているが、途中でカーヴして、それは消えている。その向こうには低い丘のようなものがあるようだが、柔らかな緑とピンクに染まりながら空と溶け合う。上方につがいの鳥が飛ぶ。懐かしいふるさとのイメージがしぜんと感じられる。(高山淳)

 平野昭子「深遠な息づかい」。連々と続く街の建物の様子を斜め上から見下ろすように描いている。明るい朱の色彩で屋根を描き、その瓦までも細やかに描ききっている。しかし、細部に入りすぎず、画面全体をうまく纏め上げている所がよいと思う。そこに暮らす人々の生活の息遣いと共に、この街そのものの歴史や日々の営みまでも描き出しているところに注目する。(磯部靖)

3室

 矢野真「銀河鉄道の夜―02403」。上方に細長い楕円形の先端が伸び、そこに南十字星を思わせる紋様が施してある。そのすぐ下に繫いだ手があり、下方には顔が見える。犠牲になった魂が天へと向かう物語の一場面を思わせる。そういったロマンティックな雰囲気を湛えながら、シャープな造形を見せているところがおもしろい。(磯部靖)

 神山茂樹「マハナ ・」。量感のある母子像である。膝を曲げて座った母の脚の間に子供が立っている。その包み込むような構図が、強い母性を感じさせる。ゆるやかにカーヴするフォルムが、そういった感情を背後から支えているようで興味深い。(磯部靖)

 中村義孝「影 2010・5・18」。点滴をつけている人物がまっすぐに立っている。股間にも器具を付けている。どこか生々しい様子に、強く惹き付けられる。ある意味不自然な人間としてのこの姿が、強いメッセージを訴えかけてくるようだ。昨年と比べて、今回は静のイメージで造りだしたところもまた興味深い。(磯部靖)

 登坂真澄「遊雲 ・《遥か超えゆけ・願》」。少女が一人雲の上に俯せに寝転がっている。丸みを帯びたカーヴを見せるフォルムが、幾つかの雲のフォルムと相俟って、独特の浮遊感を感じさせる。ピンクや水色などを淡く彩色しながら、周囲の風景までもイメージさせる。天に昇った魂を形象化したようも思えるところもまた印象深い。(磯部靖)

4室

 安田淳「もうひとつの現実」。赤茶色と黒と白のストライプである。中心に白いストライプがあって、その中にもう一つ、若干ベージュ系の白、つまりチタニウムホワイトの上にシルバーの白が置かれ、そのフォルムが波打つようなマチエールによってつくられている。両側の赤い中にも正方形のフォルムがいくつもつけられ、そこは布を当ててはがしたような、ざらざらとしたマチエールになっている。両側の黒い中にも同じような黒いストライプがあらわれて、これはもっとマチエールが泡立っている。そばに行くと、そのような変化があらわれるが、遠ざかるにつれて赤、茶色、白の大きなストライプに分けられた空間があらわれる。金沢の在住だが、漆などの色感、マチエールを思わせるところがあって懐かしい。作者によると、江戸時代に新潟から出てきたいわゆる越後獅子たちの芸の最大の見せ場は、一本歯の下駄をはいて足拍子で微妙にリズムを刻みながら、長い白布を振る布さらしというもので、それは軽快な中にもどこかひなびた哀愁を漂わせる舞踏で、そのイメージをこの白の中に託したということであるが、それはまた作者の言い分であって、実際の作品を見ると、和の世界の懐かしさ、空間のシンプルな強さといったものが感じられるところが魅力。(高山淳)

 山本安雄「田園・風」。画面を上下二つのパートに分けて風に揺れる草原を描いている。上方では見渡すような視点、下方では草にかなり接近した視点で描いている。特に下方では、うねうねと動くその草の様子が強い動勢を孕んでいる。上方では、繊細に揺れる表情が魅力的である。その二つのコントラストが、画面全体で大きな見応えを作り出していて注目した。(磯部靖)

 長谷川清晴「会議の後」。グレーのバックに二つの鉛筆が大きく上下に置かれている。ナイフで削った木の肌と鉛筆の黒い芯。下方は芯がギサギザになっている。「会議の後」という題名を見ると、ずいぶん会議が屈折し長引いたようなイメージもある。退屈で長い会議といったイメージが、この芯の階段状のフォルムから感じられる。バックのグレーが銀灰色に感じられる。独特の日本人の色彩感覚が背後にあるようだ。単なる鉛筆ではない。鉛筆と作者とは深い関係のなかにある。それによって鉛筆が強いイメージのなかに別のものに変わってくる。いわば精神が身体をつくるような、インカーネーション的な意味さえもこの鉛筆から感じられるところが面白い。鉛筆とかかわりをもった人の様々な思いなどもしぜんとこの鉛筆から感じられる。まるで時間というものの象徴のように二本の鉛筆が筆者の目の中に広がってくる。(高山淳)

 宇留野信章「秋声」。会員賞。どこか抽象的な要素を含む表現が独特である。茶系の色彩をバックに、緑やピンクの葉や花が見え隠れするような動きを見せて描かれている。どこか静かなメロディを奏でるような、心地よい雰囲気が漂っている。鑑賞者のイメージを緩やかに刺激するような魅力がある。(磯部靖)

 白井正浩「とおせん坊(ぼう)(黒(こく)白(びゃく))」。モノトーンの色彩で、何か得体の知れない生物を画面いっぱいに描いている。その強い存在感が鑑賞者を捉えて離さない。二本の足に尖った顔、後方には翼も見える。洞窟のような場所で、行く先を遮るように立つこの生物は、スフィンクスのように謎を問いかけているのだろうか。いずれにせよ、鑑賞者を作品世界に引き込み、対峙させるかのような構成力もまた見逃せない。(磯部靖)

 佐川文子「天上の華(祈り ・)」。曼珠沙華をいくつも大きく描いている。それは天へと浮遊していくかのようである。また、下方にも同じように小さくいくつもの曼珠沙華が咲いている。空は黄金に染まり、どこかこの世ではない、天上的な世界を感じさせる。ふと見ると下方に広がる丘には、風力発電の風車が立っている。それが曼珠沙華のフォルムと重って、不思議な対比を作り出しているところが特におもしろい。(磯部靖)

 吉村雅利「対話の可能性」。金色を思わせる画面に、沢山の手が描かれている。向かって左側は風、右側は炎という演出を向かい合わせて、お互いに対話を繰り返しているようだ。その画面構成が斬新である。手の一つひとつのポーズそれぞれにバリエーションがあって、見応えがある。デッサンもしっかりしている。(磯部靖)

5室

 木村保夫「邂逅(火焰土器)」。会員賞。右下に縄文時代の火焰土器が大きく立ち上がっている。そばにキトラ古墳の龍などのフォルムがあらわれている。その上方には星がまたたき、不思議な円が繰り返しあらわれているのは、プラネタリウムを見ているようで、星や太陽や月の軌道のイメージが感じられる。白い満月が出ている。キトラ古墳は弥生時代のものだが、弥生時代の前に縄文時代という一万年にわたる期間が日本にあったそうだ。その時代が日本のベースをつくっている。そこに画家の想像力は入ろうとする。面白いことに、その下方にステルス機が飛んでいる。これまでカッパドキアの洞窟と現代の最先端の戦闘機を組み合わせたユニークな作品を出品してきたが、そのステルス機は今回は不思議なことに時間を遡行する想像力の乗物のようなイメージであらわれてきている。同時に、現代の科学の果ての危機感に対して平和で豊かな縄文時代が対比される。上方のウルトラマリン系の空の深い広がりが、このイメージを支えている。それは単に空というより、時間というもののいっぱい詰まった空間といった趣である。したがって、そこにあらわれてくる白い星のような斑点は、そこに起きた様々な物語を凝縮して、点にして散りばめたような、そんな趣も感じられる。すこし塩辛いようなウルトラマリンやコバルト系のバックに対して、縄文土器の色彩は緑がかった色彩で、不思議な懐かしさと豊かさがしぜんとこの色彩から感じられる。(高山淳)

 水谷喜美子「謐(ひつ)」。ヨーロッパと思われる家並みを組み合わせながら、独特の情感をつくりだしている。不思議なことに背後の三つの山が奈良の三笠山などの山のような懐かしさであらわれている。グレーの壁が銀灰色に感じられて、ひんやりとした品のよさで広がっていく。ヨーロッパの街が、奈良三山のようなものを背後に置き、ヨーロッパと日本とのクロスする、心の中の街のように表現されているところが面白い。(高山淳)

 久保田正剛「いのちの讃歌―ふくしま11311」。縦長の画面の前面に青いたらし込みふうな空間があらわれている。その画面に接近すると、繊細な強いマチエールがつくられていることが分かる。その奥深い青の空間の中に斜線が入っている。その直線の動きの中間あたりがなくなっている。その青の中の黒いたらし込みは、中心が黒いたらし込みの中に溶けていく。まさに福島の原発の事故の悲惨な雰囲気が渾沌とした中に表現されているようだ。上下の黄色い線は、それに対してからくも立ち上がっていこうとする人間力のような趣である。一種の音楽性があって、交響楽が途中でクラッシュして無音になり、また音が聞こえてくるといった、断続的なイメージもこの抽象作品の中には感じられる。それも福島原発の事故を暗喩した表現と言ってよいかもしれない。(高山淳)

6室

 岩永勝彦「居酒屋宴会―野球拳―」。大広間の向こうには赤い絨毯が敷かれ、そこで男女が野球拳をやっている。女性はほとんどペチコートのみで裸になっている。男はアンダーシャツにステテコ姿。女はパーを出して、男はチョキを出している。それをそばで両手にお盆を持って囃している男。やかんを左手で持ち上げてスプーンで叩いている男もいる。手前にはテーブルがあって、そこには越前丸という名前で活け作りの刺身やビール、蟹、徳利などが散乱している。向かって右の二人は寝ころがっていて、左の男はあぐらをかいて煙草を吸っている。緑の色彩がしんしんとした不思議な色調をつくる。実際、ここには九谷焼の小鉢もあるが、画家のこの緑の中には越前の九谷焼のあの雅やかな独特の色彩があるように思う。それは緑にも赤にも感じられて、それが独特の懐かしさと洗練といった日本的な情緒をつくりだす。酔っぱらって通常の自意識がかなり消えた状態でそこにあらわれている人間の姿が面白く表現されている。その通常の自意識がかなり消えたことによってあらわれた心象が、そのままこの画面全体の独特の緑のトーンと呼応する。じっと見ていると、意識のすこし低下した状態の様子が、すこし水の中に潜っているような空気感をつくりだす。野球拳をしている背後も緑のトーンの中に、雲のような星のようなイメージがピンクの中に描かれているが、この部屋全体が緑に染められていて、深い意識下の海の中にあるような、そんな雰囲気が感じられる。目鼻はほとんど描かれておらず、いわば人形芝居のように、宴会がほとんど果てて、野球拳をする人もいれば、居眠りをしている人もいるような状態の、ある時間のなかのある物語性とも言うべきものがあらわれてくる。時間の性質はそのまま人間が生きていることとほとんど同じ意味になる。その時間がまた緑の独特の調子を呼ぶわけだし、画家が身近に使ってきたその風土性の古九谷のような色調とも重なりながら、いわば人形劇が行われている、その現在進行性の時間がそのまま捉えられているようだ。そして、この状態は終わらずに、永遠の中のいまといったようなイメージさえもあらわれる。そういった独特のよそいきの自意識を外したところにあらわれてくる人間性が、実に面白い空間をつくる。女中さんが座って野球拳を見ているが、その見ている姿をまた見ているという、全体を統合する演出家でもあり、物語作者でもあり、画家でもあるという、画家のイメージの豊かさが魅力である。(高山淳)

 溝下美代子「'12 流れ―爽(そう)気(き)―」。流れる川の情景を画面いっぱいに描いている。その流れの瑞々しい様子が気持ちよい。ゆっくりと流れる場所、勢いよく流れる場所など、部分部分によってその表情を細やかに変化させているところが特によいと思う。そういった複雑な様子を巧みに描き分けて、一つの画面に纏め上げている所にもまた注目する。(磯部靖)

 古曽成樹「山の雨」。画面全体が暗く、どこか静かな気配が漂っている。蕭々と降る雨がその気配と相俟って、自然の持つ厳かな雰囲気をじっくりと醸し出している。右下に大きく描かれた二本の杉がそういった画面に独特のアクセントを加えているところもおもしろい。(磯部靖)

 坂口かほる「夏のなごり」。様々な花が咲いている。一部は紅葉したような雰囲気である。また、ドライフラワーになりかかっているような花もある。緑の中に赤茶色が入れられ、空のグレーの中に紫色が入れられて、不思議な風情である。「夏のなごり」という題名だが、季節の分かれ目のなかに、その前の季節の花々が散りばめられているような雰囲気である。すこしドライなその感じが逆に花の美しさを表す。能でいえば、若々しい役者の美ではなく、老いのなかに残った花といったイメージもある。実際の花でありながら、そんな世阿弥の言う老練の花のようなイメージがこの作品に感じられる。(高山淳)

7室

 奥田暉子「追想」。ヨーロッパの古い町の路地裏を描いている。かなり細い道になっていて、鑑賞者自身がその路地に入り込んだかのように錯覚を覚えてしまうところが印象的である。奥にアーチ状になったところがあって、その下に二人の人物が見える。その部分で手前が影、奥は日が差しているようだ。そのやわらかなコントラストもまた魅力である。(磯部靖)

 川辺嘉章「アメノウズメ」。アメノウズメは古事記などに登場する芸能の女神である。天照大神が天岩戸に隠れた時に、外で踊った話が有名であるが、ちょうどその場面を描いているように思う。しかし、この作品では、後ろ姿のアメノウズメと思われる女性は切り株によじ登ろうとしている。これから踊るその手前なのだろうか。そのオリジナル的な描写が強く印象に残る。女性像を長く描いてきた画家が、こういった日本古来の神話をテーマに描いたところが実に興味深い。確かな描写力だからこそのリアリティがそのイメージを支えている。(磯部靖)

8室

 里地芳美「凍湖…煌(きらめ)き」。会友推挙。地面に接するまでに伸びた裸木の枝に、雪がたっぷりと積もっている。その量感の描写が確かである。左下には、凍結した水面が陽の光にキラキラと輝いている。周囲の地面や枝に積もった雪も、明るく照らされている。その清々しさに加えて、雪のしっとりとした質感もまた魅力である。(磯部靖)

 野中未知子「思い出る日」。パステル調の軽やかな色彩の扱いが気持ちよい。中央に大きな花のようなフォルムがうっすらと浮かび上がっていて、そこからイメージが広がっていっているようだ。細やかな部分、伸びやかな部分など、一つの画面の中で上手く抑揚を付けている。画家の美的センスのよさを感じさせる。(磯部靖)

 山口桂子「扉」。画面の中央やや右寄りに木製の扉がある。その家屋の外壁はグレーで、掠れたポスターが一枚貼ってある。繊細な扉の描写が、強く印象に残る。扉は少し開けられていて、中は暗い。そこに僅かに感じさせる住人の気配が、作品を印象的なものにしているようだ。色数の少ない中で、貼られているポスターの色彩が、ほどよいアクセントとなっているところも見逃せない。(磯部靖)

11室

 結城俊彌「月夜のそば畑」。花を一面に咲かせたそば畑が、連々と奥に続いて行っている。月の光に照らされた花々が点々と細やかに輝いているところが、実に幻想的である。そういった中で手前に描かれた青いそばの花が、五線譜の上の音符のように、たおやかなメロディを奏でているようで興味深い。(磯部靖)

12室

 榎本紀代文「河口」。水辺の情景を繊細に描き出している。右側に線の細い草が何本も生い茂り、左側では砂と水の入り交じった様子が丁寧に描かれている。水面には対岸の建物の影が映り込んでいる。縦と横の線を巧みに織り交ぜながら、その中で砂の不定型な表情が、もう一つの見応えを作り出している。(磯部靖)

14室

 瀬島茂紀「生(しょう)」。画面の下方に様々な人間模様を描いている。人間以外にも、牛や魚の頭、トカゲなどが描かれている。背後には炎が立ちこめ、上方では不動明王などが浮かんでいる。人間の業、他人、他生物との関係性を舞台のように画面構成して表現しているところが独特でおもしろい。左側に少し影が差しているところも、地球規模の自然界の不具合を表すように思えて興味深い。(磯部靖)

 小川京子「黄昏に迷ふ」。ヨーロッパ風の庭園の奥から続く石の道を、少女が一人こちらに向かって駆けて来ている。少女の衣装は周囲の地面の芝生と同じように緑がかっている。不思議の国のアリスを連想させる、寓話的な物語性が鑑賞者を惹き付ける。やわらかな描写でそういった画家の豊かなイメージの世界を展開している。(磯部靖)

16室

 梶原信男「仲間達 作品B」。木の上でトキが巣を作り、それをカラスが狙っている。二羽のカラスを警戒してか、仲間のトキも加わって計四羽になっている。しかし緊迫したような雰囲気がないところがおもしろい。弱肉強食の自然界の中で、しぜんと仲間同士で守り合う絆の確かさが、鑑賞者の心を打つ。鳥や樹木の独特のデフォルメもまた印象に残る。(磯部靖)

〈野外彫刻〉

 酒井恒太「IMAGE―crow―」。会友推挙。捨て材を組み合わせた上部に一羽のカラスが留まっている。捨て材は台座の役割を果たしているようでもあり、その素朴な存在感と、カラスの写実性が強く対比される。ユニークなイメージである。(磯部靖)

 伊藤正人「2:2:1」。三本の縦に長い四角柱を並べ、それに沿うように石の壁が置かれている。御影石であるが、外側は磨かれていて、内部は細やかに削った跡が残っている。その外と内のギャップが、作品そのものの強い存在感に、もう一つの心理的な奥行きを作りだしているようだ。世界のある概念、成り立ちの謎を一部切り取って持ってきたかのような、独特の神秘性も感じられる。(磯部靖)

第76回自由美術展

(10月3日~10月15日/国立新美術館)

文/高山淳・磯部靖

1室

 小作青史「繁みに向かって」。集団になって駆ける人々の群像を描いている。よく見ると、人ならざるものも紛れ込んでいるようだ。どこか地獄絵図のようにも見えるような恐ろしさもある。大挙して我も我もと押し寄せる群衆心理を、このように描き出す画家のイメージの豊かさに特に感心した。(磯部靖)

 村田知子「過ぐる時」。モノトーンで細やかに時間というものの不可思議さを描いている。ストップモーションのように軌跡を残す振り子の動きを中心に、線と曲線を巧みに組み合わせながら画面を構成している。細やかな線を繰り返しながら、綿密に構築する技量に感心する。世界の果てを覗き見るような、不思議な感覚に襲われる。(磯部靖)

 醍醐イサム「D-GIN」。深い暗色の画面の中に、ぼうっと浮かび上がるように明るい部分がある。刷毛などを使いながらも、細かに表情を付けていっている。深い海の底、あるいは宇宙の深淵を思わせる様な、深いイメージの奥行きを感じさせる。しばらく見ていると、少しずつ画面が変化していくような錯覚を覚えるところもまた魅力である。(磯部靖)

 福田篤「空相」。明るい黄土色のマス目を背景に、家屋が四つ並んで描かれている。それぞれの屋根の先端からは、煙が立ち上り、雲にとどいている。平面的でありながら、画面の奥へと風景の広がりを感じさせるおもしろさがある。画面の左側にはもう一つのパートがあって、下方に植物の姿が見える。独特の画面構成を形成しながら、自然と人間の調和と関係性を問いかけるようなところが印象に残る。(磯部靖)

 平澤重信「同じ風に吹かれてみたい」。横長の画面の真ん中あたりに白い二つの建物がある。キューブな形と言ってよいほど簡素なフォルムで、それぞれに煙突があり、煙が左右に出ている。その白い部分には平澤独特の汚しのようなトーンがつけられている。周りは黄土系の地の上に様々なものが描かれているが、具体的に再現的に描かれてはおらず、全体であるトーンの中に溶解する。そして、煙を出すということは、この二つの建物が生きているということのイメージを伝える。ある渾沌とした中に息づくもののイメージが生き生きと伝わってくる。バックの空間も様々な線が集まってくると、全体であるリズムとなって、独特の動きや奥行きがあらわれる。そして、周りの空間と建物とはお互いに関係をもちながら、イメージとしての詩的な空間があらわれる。(高山淳)

2室

 ミズテツオ「Tの水」。褐色の丘を思わせる色面が、画面の下方約三分の一ほどにあり、そこに上方からごく細い線が降りてきている。その線が、削って描かれているのではなく、左右の紺色の色面をギリギリまで寄せて作られているところがおもしろい。この線は少しカーヴを描きながらも、地面のある地点に到達している。ある一つの真理のような、避けられない因果を表現しているようにも思える。いずれにせよ、じっくりと描き込まれたシンプルな画面が、鑑賞者のイメージに直接刻み込まれるような魅力を持った作品である。(磯部靖)

 石田貞雄「埋む風景」。淡く黄みがかった色彩の扱いが豊かな表情を作品に与えている。強い抽象性を感じさせながらも、静謐な空気を漂わせた、岩の散らばる平原の風景のようにも思える。画家の深層心理から自然と泉のように湧き上がってきたイメージが、このような画面を描かせたのだろうか。これまで以上に活性化したイメージと表現力が鑑賞者を捉えて離さない。(磯部靖)

 小西煕「PAYSAGE-2012」。街の日常風景を独特の描写で描いている。茶系の色彩をベースにしながら、灰白色などを効果的に入れ込んでいる。どこか謎めいた雰囲気を漂わせつつも、過去に訪れた街の記憶を濾過、抽出するように描き出しているところが印象的である。(磯部靖)

 水出陽平「合唱」。こちらに背中を見せた指揮者を中心にして、たくさんの人々が合唱している。老若男女それぞれの口を大きく開けた表情とその連続した様子がおもしろい。画面全体は指揮者を軸にした扇形の構図で構成され、それが安定と広がりを画面にもたらしている。また、画面の上半分が空けられた間となっているところも、響き合う声の余韻を生かしているようで興味深い。(磯部靖)

 横尾茂「おてんば(かおり)」(遺作)。画家は一九三三年に新潟県に生まれたから、享年七十九歳である。人間を中心に描いてきたが、その人間の、たとえば頰や口や鼻などが田舎の丘や川などと重なった独特の風土性の強い人物表現であった。人間を描きながら、そのまま風景を描き、日本の国というもの、その農耕的な立場から見た日本というものの表現でもあった。とくに曲線を使いながら、曲線がエネルギーを持ちながら人体にもなり山にも丘にもなるというユニークな作品を毎年見るのが楽しみであった。惜しい作家を亡くした。合掌。(高山淳)

 竹内敏江「AUGUST II」。佳作賞。黄色がかった画面に線によって描いていっている。その自由な線の動きが印象的である。左側下方に広場があったり、その上方に鳥のようなくちばしを付けた円があったり、右側には建物がある。画家の様々なイメージの重なりが、このような画面となって現れてきたところがおもしろい。見ていて気持ちのよい作品である。(磯部靖)

5室

 沼倉篤太郎「乱 2012」。叫ぶ人、嘆く人、倒れている人など四人の人物が大きく描かれている。そのそれぞれの動きが感情豊かで強く印象に残る。背後の砂煙の向こうでは、馬が走り、両脇に車輪が見える。戦渦に巻き込まれた民衆だろうか、ドラマチックな情景である。赤みがかった茶系の色彩でまとめられているところも、不思議な臨場感を引き寄せている。(磯部靖)

 古田千鶴子「三美神(平和を)」。中心に背中を見せて向かって右側を見る女性。向かって右側の女性はこの女性と目と目を交わしながら、その肩に右手を置き、左手でその肱をもっている。向かって左側は中心の女性の左の腕に触れながら、やはり左手で肩を持っている。独特の三人の女性によってリズムが生まれる。そのリズムがこの作品の魅力だと思う。三美神という、ほぼ同形のパターンでありながら、微妙にそのつど変化のある作品を出品してきたが、今回は体の内側から命というもののリズムを伝えようとするかのような、独特の内的な力が感じられる。(高山淳)

6室

 竹越仁恵「風景」。細く背の高い樹木に囲まれた林道を抜けた向こうに川が流れていて、さらにその向こうに街並みが広がっている。樹木には青い葉が付いている。その青の風に揺れる様子が、細やかである。地面は画面の下方四分の一くらいのところまで下げられている。それによって空と樹木の上方を見上げるような構図になっている。それが現地の清々しい空気感をうまく作品内へと引き寄せているようだ。細やかに描写するも硬くならずに描き上げているところに特に注目する。(磯部靖)

 大石佳子「邂逅 A」。大きな壺などの入れ物をいくつか画面いっぱいに描いている。画面の両側は暗く、中央が最も明るくなっている。長い間人目に触れずにいたが、ついに扉が開けられて、外の光が差し込んだ、といったところだろうか。この壺たちにもどこか霊的な気配が漂っていて、それが長い時間の経過を感じさせるところが興味深い。じっくりと施されたマチエールによってそういったイメージが支えられてもいる。(磯部靖)

7室

 美島目炎光「夜空幻想」。透明感のある水色の色彩が気持ちよい。囲まれた空間の中に、僅かに片鱗を残した月があり、そこから僅かな光が放たれている。ふとその上を見ると小さな雲があり、それが人型をしている。幻想的な世界の中に入り込んだ画家自身なのだろうか。いずれにせよ、独特の空間表現を織り交ぜながら画面を構成しているところが特に印象に残る。(磯部靖)

 南久恵「そして、今」。暗色の空間の中に、白い線によって囲まれた明るい空間がある。深い記憶の底にある大切なものをそっと描き出したような雰囲気がある。人間にはそれぞれそういった大切なものがいくつかあって、その積み重ねによって現在がある。それが明日への希望となる。強い心象性を孕みながら、画家はその大切さをメッセージしているようだ。鑑賞者の心に直接響く魅力がある。(磯部靖)

9室

 立川広己「助けてください」。画面の中央に大きく裸婦が描かれ、向かって左に少し傾いで立っている。その左背後に小さく男性も描かれている。右上方には十字架にかけられたキリスト像が浮かび上がっている。悲痛な叫びが作品内にこだましているようだ。日本だけではなく、地球規模で虐げられている人々を代表したような、強いメッセージが発信されている。そういった中で、画面に十字に入れられた赤い線が血の刻印のように思えて印象深い。画家の深い想いが、そういった様々なモチーフから感じられてならない。(磯部靖)

11室

 河合キヨ子「旅路」。画面の下方に切り取られた樹木の幹が置かれている。その幹はどこか牛骨を思わせるような姿をしている。河の中なのだろうか、上方には二匹の細長い魚が浮かんでいる。魚の背後には板が張ってある。どこか飄々とした雰囲気が作品内に漂っているところがおもしろい。しっかりと描き込みながらも、そういった雰囲気を引き寄せているところに確かな実力を感じさせる。二匹の魚が連れ添って河を旅している微笑ましい様子もまた魅力である。(磯部靖)

12室

 田内徳重「記憶・四十にして惑う」。堅牢な壁を思わせる画面が、鑑賞者の前に立ちはだかる。誰しも経験する人生における壁が、この画家特有のマチエールと表現によってこのように描き出されたところが実に興味深い。鉄のようでもあるし、衝撃を吸収してしまうような素材のようにも感じさせる画面が、一筋縄ではいかない人生の複雑さをメッセージしてくるかのようだ。(磯部靖)

 平田寛子「それぞれの思い」。膝を抱えて丸くなった人物を三人描いている。どこか旋回するような構図が、わずかな動きを画面にもたらしている。三人の人物の関係性が、その動きの中で少しずつ変化しながらも保たれているようなところが、現代社会における繊細なそれを思わせるようで興味深い。(磯部靖)

15室

 大橋忠幸「或る不安」。独特のデフォルメで描かれた二人の女性像に強く惹き付けられる。線によって象(かたど)られたその姿が、遮るもののない人間の本性を露わにしているかのようだ。印象的な作品である。(磯部靖)

16室

 水野利詩恵「ひとり」。木の古い戸板を画面の真ん中に上下いっぱいに嵌めて、その下方に座った女性の姿を描いている。その周りにも古い杉戸のようなものを切り抜いてコラージュしている。さらにこの板の上に和紙に文字を書いたものを貼り、上から絵具をたらしこんでいる。念力のようなあやしいものが背後にあらわれている。この座っている女性の想念は、渾沌としたイメージのようだ。同時に、この女性がここに存在する前には前の先祖がいるわけで、連綿と続いてくる先祖というものの先端にこの女性はいて、そういった歴史というものの働きが背後のコラージュされた紙などにもあらわれているように感じられる。作者は女性で、女性特有の子供を生むという力から先祖に対するリアルな感覚を引き寄せて、この独特の背後の強いイメージをつくりだしたように感じられる。念力のような力を画面の中に表現することのできるところが魅力である。(高山淳)

 栗本浩二「陽光~溢れる気持ちの形~」。一つの細胞あるいは果実を思わせるものから勢いよく中身が溢れ出ている。強い生命のイメージを感じさせる。画面全体は明るい緑色の色彩を基調色にまとめられていて、そこに陽の光が差し込み、キラキラと輝いている。独特の浮遊感もまた印象的である。(磯部靖)

 小倉信一「'12イノチヲハコブ―十方―」。昨年の震災と津波を思わせる、災害地跡の情景である。一人の若者を主人公に、背後に様々な人間模様を描いている。確かなデッサン力もさることながら、目を離した後も続いていく人々の人生をイメージさせる筆力に特に注目する。(磯部靖)

 小川リヱ「シンフォニア」。天上世界、或いは海の底から海面を見上げるような構図の中に、沢山の人物像や天使の姿が見え隠れしている。画面全体で円弧を描くような動きを形成しながら、個々の人物それぞれの動きも実に豊かである。透明なブルーの中で、少し黄みがかった人体の伸びやかな動きが作品のなかで生き生きと描かれている。軽やかでありながら重厚な小川作品の魅力に鑑賞者は足を止める。(磯部靖)

 斎藤國靖「誕生」。生まれたばかりの子供を見守る家族の肖像である。昨年の作品と同じ画面構成にしながら、そこに後ろ向きの女性を一人入れている。実はこの家族はまさに画中画であって、それをこの後ろ向きの女性が見つめているようなイメージである。確かな写実力の中に、そういったもう一つの鑑賞者を惹き付ける要素を入れ込むところがこの画家らしい表現である。作品としての絵画に対する、様々な取り組みとその意欲が長くファンを惹き付ける大きな理由の一つだと思う。(磯部靖)

 森山誠「memory12-1」。椅子に座った初老の男がこちらを見つめている。どこかの病室だろうか。あまり生気を感じさせない。画面の右下方あたりには大きく空間が空けられていて、それが独特の間を作りだしているところもおもしろい。不思議なこの空間の中で、男はこちらを見つめ続けている。不思議な存在感をもったこの男性が強い余韻を残す。(磯部靖)

 亀井清明「万有引力」。三人の少年が肩車をして木の実を取ろうとしている。それと同じくらいの高さの樹木の上には実がたくさんなっている。不安定な三人の動きと安定した樹木の様子が対比されているところがおもしろい。深みのある色彩とマチエールもまた、見どころである。(磯部靖)

 佐々木正芳「踊る・東北」。「ガレキ」という文字を背後に、二人の僧が踊っている。この二人の僧の力強い動きに合わせて、赤や青、黄色に彩色された背後の文字たちも踊っているようだ。昨年の震災で被害にあった地が文字通りガレキで埋め尽くされるという、ユニークなイメージで描かれている。悲壮感を吹き飛ばすような、エネルギッシュなパワーが強い魅力を放っている。(磯部靖)

17室

 山口隆「○△□(天(てん)壌(じょう)の無(む)韻(いん)詩(し))」。宇宙空間に四角や三角形、円が漂っている。それらによって、画面の中に、独特の抑揚が生まれている。作品内の空間をうまく扱いながら、独特の印象を余韻を残すようで注目した。(磯部靖)

 竹下馨「ピエタ(汚染)」。下方にキリストを抱くマリアの像が描かれている。この作品の中では、それがそのまま今回の津波で亡くなった人間を抱きかかえる母親のイメージと重なる。その背後には、上方を見て絶望の表情の女性。そこに向かって黒い鳥が下りてくる。上方はピンクで、赤紫色のトーンの中に激しい火炎が煙と一緒に立ち上がってくるような趣である。それに対して下方は墨一色の表現になっている。中心に福島原発と思われる建物がある。面白いのは、そのそばに二頭の子供を連れた母の猪の姿が、白によって黒いバックの上に描かれていることだ。二頭の子供を後ろに連れた母親は、この危機から逃げようとしているのだろう。ほとんど人間的な価値観さえも失うような今回の大事故からあらわれた不思議なイメージである。しかし、その向きが中心の建物のほうに向かっているから、そういったアニミスティックなイメージを引き寄せながらこの原発の中に向かわせているような不思議なニュアンスも感じられる。いずれにしても十字形の構図の中にヨーロッパの伝統であるピエタのイメージを引き寄せながら、きわめてモニュメンタルなコンポジションになっている。落下する黒い鳥はそのまま死の象徴になっていて、そのシャドーのような黒いフォルムがこの画面の中に面白く扱われている。というのは、全体が十字形の静かな中に、動きというものはこの落下する黒い鳥の中にこめられていて、それがただちにこの危機とか死というイメージを担っているわけだ。それに対して白く線描の二頭の猪を引き連れて被災の中心に向かおうとするこの生き物は、人間の引き起こした人災に対してそれを眺めるもう一つの存在としてここにあらわれたような不思議な趣が感じられる。(高山淳)

19室

 宮西寛人「H市商店街~祭~」。斜め上から俯瞰したような構図で、雑多で賑わった商店街を描いている。やわらかな色彩を入り組むように扱って、その喧噪をうまく表現している。細やかに描写しながらも、画面全体の雰囲気を損なわずに描き出しているところが特に見どころだと思う。(磯部靖)

 下総しげお「記憶の風景(昭和)」。茶褐色の画面に、大地を俯瞰したようなイメージが描かれている。マチエールを堅牢に施しながら、コクのある画面に強く惹き付けられる。それは木製の塀に貼ってあるポスターのように演出されている。昔の写真などは、よくセピア色で表現されるが、自身の過去の記憶をまさにそのように表現したようで興味深い。どこか抽象的でもあるし、深いイメージをたぐり寄せたような印象を受けた。(磯部靖)

 佐々木厚子「イカロス ・」。靉光賞。独特の画面構成によって強く作品世界へと引き込まれる。イカロスと聞くと、太陽に近づきすぎて海に落ちたエピソードを想起するが、そういった人類の思い上がりを戒めるような逸話として有名である。その天へと近づこうとする深い業を、この作品から強く感じる。グレーのトーンの中に、僅かに黄金を思わせる色彩を入れながら、それを一つの不定形の塊として大きく描いている。重厚で深みのあるそういった画面が、前述したエピソードと重なって、強く惹き付けられた。(磯部靖)

 谷本重義「雨乞う舞」。画面の中心に、傘を頭につけて大きな団扇を持った三人の舞う人がいる。着物を着て踊って祈っているような雰囲気である。それをかなり上方から眺めている。七十度ぐらいの角度から眺めたこの三人の佇まいが生き生きとした力を発揮する。画面の下方はほとんど直角にまっすぐに下方を眺める視点から人が描かれて、右手の先に何かを持って左手の円盤を叩いているようなフォルムがあらわれる。そして、中心の人間の上方にピンクの靄のようなものがかかっている。その上方に女性と鎧兜の男と眼鏡をかけた現代人のような姿があらわれているところが実に不思議である。向かって左の女性は神道芸術のなかに出てくる女神のようなイメージであるし、右のほうの眼鏡をかけた人は笑っている。何か霊的なものがピンクの雲の向こうからあらわれてきているといった雰囲気である。色彩は柔らかなベージュをベースにしながら、赤やピンクが生き生きと扱われて、全体で密度のある霊気のようなものがあらわれているところが魅力。(高山淳)

〈立体〉

 長谷川由美「音と音の間」。細身の男性の肖像である。首から下には白い塗料がかけられていて、足首まで染め上げている。何気ないごく自然なポーズ、ふとしたその瞬間を切り取ったようなリアリティがある。(磯部靖)

 山本辰昭「不安定な個室」。金属のパイプの上に四つの立方体がつくられ、中は空洞で、そこに仮面をつけた子供のようなフォルムがあらわれ、下方をのぞいたり、隣を眺めていたり、といった様子である。そして、向かって右のボックスから鎖によってもう一つのボックスが吊るされている。そのボックスの中にも下方を見る子供がいる。まさにバランスを崩した瞬間に子供が墜落する。あるいはボックス自体が崩壊するようなスリリングなバランスのなかにつくられている。そして、子供がのぞいたり、相手を見たりする中に、独特の心理学があらわれる。ちょうど鏡を見ながら無限に自意識が反映し、増殖していくような、そんな深い無意識界まで含めた心理劇ともいうべきものが表現される。(高山淳)

 近藤鎰郎「ただよう」。魚のフォルムを実になめらかに象(かたど)っている。幅は極薄く、平らに近い。水の流れの間を縫って泳ぐそのイメージが、そのまま伝わってくるようだ。少し抽象性を匂わせているところも、また魅力である。(磯部靖)

 藤山深諦「12─再生」。白木を板にしたかたちで組み合わせ、お互いにそのあいだをほぞのように貫通させるフォルムを組み合わせながら、全体で人間と人間が連帯しながら命の歌をうたうといった表現になっている。作品を一周すると、この抽象形態が微妙に形を変えていくところが面白い。後ろから見ると、珍しく曲線によってつくられたフォルムが立ち上がってくる。この中から激しい息をするようなエネルギーがあらわれて、炎のように上方に向かうようなフォルムもあらわれた。白木という木のもつ触覚を大切にしながら、抽象形態でありながら人間のもつ群像的なイメージを表現する。(高山淳)

 西中良太「やわらかな都市」。鯱のように反り返ったフォルムの内側に、積み重なるように街並みを配置している。その積み重なるような重厚さが、強い存在感を醸し出している。そうでありながら、反り返ったその動きは柔らかい。その対比されるような二つのイメージが箱庭的な作品世界の中で、うまく馴染みあって一つの作品として成り立っているようだ。(磯部靖)

 竹本鉄夫「箱の男は這(は)う」。横になった長いハコの中に男の顔が見える。四肢は外側から突き出されていて、身体を支えている。独特のユニークなイメージである。強い閉塞感の中で生きる現代人を象徴するかのような造形の中に、どこかノンシャランとした雰囲気が漂っているところがおもしろい。(磯部靖)

〈立体屋外〉

 タナカシンタロウ「烈」。たくさんの矩形を組み合わせながら、一つのモニュメントを造りだしている。烈という作品名だが、激しくもあり、同時にどこか静かな佇まいを見せているところが魅力である。それらを支えるように伸びた二本の足が、そういった中で効果的なアクセントとしてよく効いている。(磯部靖)

 M・A・池田宗弘「殉教者・聖ドミニコ・エルキシア像」。両手を胸の前で合わせて、その指先を前に、体に直角に出したシンプルな彫刻である。一種のシンメトリーを中心にして内的なこの聖者の力を表現する。顔に対して手が大きい。とくにその手のフォルムがなまなましく力強い。この手自体の中にこの聖人の長い苦闘の歴史が表現されているように感じられる。目ははるか遠くを眺めている。意志の強そうな顎の形や唇に対して、目に不思議な哀愁が感じられるところも魅力。(高山淳)

 長嶋栄次「じっと手を見る」。木彫の家族の肖像である。三人と一匹の犬がそれぞれ自身の手を眺めている。それぞれ個別に思うこともあるだろうが、作品全体で、自身とは何か、生きて存在することの意義は何か、という問いを鑑賞者に投げかけてくるようで、強く印象に残った。(磯部靖)

 吉田光正「嵐の中で」。肉付きのよい女性が風に身を任せている。石彫であるが、身体的な柔らかさが魅力である。逞しい母性を感じさせながらも、涼やかな雰囲気がある気持ちのよい作品である。(磯部靖)

第47回一期展

(10月3日~10月15日/国立新美術館)

文/高山淳・磯部靖

1室

 飯村博「昨夜からの雪」。雪の降り積もった路地を描いている。その雪の量感が実にしっかりと捉えられている。両脇の家屋は少し斜めになっているが、それが逆に確かな臨場感を誘う。未だ雪はハラハラと降り続いているが、肌に迫るような寒さもまた強く発信されてくる。(磯部靖)

 新富正弘「至上の愛」。大きな面が縦半分に割れていて、そこから三体の文楽人形が旋回するような動きを見せて舞っている。下方には大きな葉っぱがあり、そこにカタツムリが乗っている。オレンジの色彩を基調色にしながら、不思議な浮遊感を感じさせる。三体の人形の関係性が、鑑賞者の好奇心を刺激する。(磯部靖)

2室

 髙瀨勝之「ベルゲンの風」。沖合から港街を眺めた風景である。やわらかな筆致が、現地の心地よい空気感を運んでくる。海と山の寒色系の色彩に挟まれるように建物が画面の中央やや上に描かれているところもおもしろい。揺れる水面と白い船の動きもまた、画面に気持ちの良い動きを作り出している。(磯部靖)

 斎藤敬一「仁王と子ども(夢)」。背中合わせに立つ仁王像の周囲に子どもたちの姿が描かれている。その子どもたちそれぞれの豊かな表情と仁王像の厳しい表情が対比されているところが印象的である。豊かな色彩感覚もまた魅力である。(磯部靖)

7室

 大野喜久男「夜のパリ(ソルボンヌの幻想)」。画面の中央に建つ宮殿が街灯に照らされてぼうっと光っている。背後の空は赤みがかっていて、画面全体で幻想的な雰囲気に包まれている。どこか物語の一場面を思わせるような趣が魅力である。小さく描かれた人々が数人いて、それぞれの人間模様もおもしろい。(磯部靖)

8室

 野呂博志「海風」。文部科学大臣賞。画面の右側に海を望む海岸風景である。海岸線は画面の中央へ向かってまっすぐに伸びていき、消失点の手前で大きく右にカーヴしていく。おだやかな雰囲気の中で、それが一つの動きを作り出して作品を活性化させている。左側には土手があり、その向こうに工場地帯が見える。煙突がすっと一段高く延びていて、縦の動きも作り出されている。透明感のある色彩の中にそういった細やかな動きがあって、鑑賞者はしぜんに作品世界へと誘(いざな)われる。(磯部靖)

9室

 永野志津香「日食のもと風神雷神が旅の蝶に道をあける」。ギリシャ悲劇を思わせるようなダイナミックな画面である。上方に青い円の周りが白くなった日食のフォルムがあらわれ、その周りは暗くなっている。しかし、その周りの空は青く、赤い風神雷神が落下しつつある。赤い雷神が太鼓と撥を両手で握りながら下方を向いて落下しつつある。そのもうすこし下方手前には風神が空中に浮遊し、すこし危なっかしく傾きながら、その下方にいる蝶を眺めている。いちばん下方は岩でできた山のようなフォルムで、紫と黒によって円環のような形をつくって独特である。激しく風が吹いているようだ。風神雷神は風や雷といった自然の象徴であって、彼らがその仕事をやめて無風状態にして、蝶といういわば魂が通り過ぎるのを眺めているといった趣である。日食のときの変異。そこに風神雷神が普段の働きをやめて、しーんとした中にただ魂のみがあらわれ、その通行を表現しているような不思議な雰囲気である。激しく風が吹いているようだと前述したが、それはそれによって起きた不穏な実に強いマイナスのエネルギーのようなものが風をしぜんと引き起こしたという意味になる。いわばそこにある霊気ともいうべきものがこの作品のテーマで、それを受けるのが下方の不思議な山のようなフォルムである。ケルトに石を円環状に並べた遺跡があるが、そのようなあやしい力が下方の大地に山となってあらわれていて、その中心にもなにか不思議な大きなひずみがあらわれている。そして、一羽の蝶が右から静かに渡っていく。そんな真空状態のような不思議な虚の空間にあらわれるものに対して、風神と雷神の動きが実にダイナミックで面白い。ダイナミックであればあるほど、恐ろしい青い非情の空を背景にして蝶のもつ魂のイメージがよりあらわれる。ただ、蝶は一羽、小さく描かれているために、しばらく画面を見ているうちに、その不思議な働きをこのようなかたちで構成した面白さがわかってくる。(高山淳)

 吉野敏子「ボリビア日記」。縦長の四つのパートで画面を構成している。左から一番目と三番目は空と大地の風景であり、二番目と四番目はそこに暮らす人々の日常風景である。生き生きとした線の描写が実に気持ちよい。大自然の雄大な動きと人物の伸びやかな動きが折り重なって、豊かな情感を引き寄せている。(磯部靖)

 佐々木大次郎「SUR LES RUES DU VIEUX PARIS」。画面の右上にガーゴイルのような妖しい彫像が描かれている。その像は眼下の街並みを見下ろしているかのようだ。人々が寝静まった夜の世界で、この像は生を得たかのような存在感を孕んでいる。上方に大きな満月、そしてその下方に街灯が一つ光っている。二つの光を響き合わせながら、独特のファンタジックな世界観を構築しているようで注目した。(磯部靖)

10室

 池田蒼「空を聴く」。堤防に一羽の青い鳥が留まっている。その右側には、花や水を入れた瓶などが置かれている。津波、あるいは海難事故で亡くなった人への追悼の意が静かに伝わって来る。灰白色を中心としながら、左上方の雲の切れ目からは青い空が覗く。悲しみと希望という二つの感情が、強い吸引力を醸し出している。海を見つめる鳥が画家自身の姿のように思えてならない。(磯部靖)

第36回新日美展

(10月4日~10月11日/東京都美術館)

文/磯部靖

1室

 石原修「オヴェール」。ぐいぐいと鑑賞者を画面に引き込む力が魅力である。手前から奥に向かって道が伸び、その両脇に家屋などの建物が立っている。それらの建物が左右に広がるように傾いているところがおもしろい。道の中央には分離帯があり、それが独特の存在感を持ちながら、アクセントを作品に与えている。激しいタッチの中に、丁寧に画面を構成しているところもまた魅力である。

 森屋治三「さくら さくら」。画面の右側、手前から奥に小川が流れている。その両岸には桜の樹が立ち並んでいて満開の様相である。桜の姿はそのまま水面に映り込み、画面全体で実に華やかで心地よい表情を作り出している。はらはらと散るたくさんの花びらが刻々と時間の経過を感じさせながら、どこか不思議な永遠性を帯びているところが印象的である。細やかさと大胆さをうまく織り交ぜながら、春の喜びを謳うように描いている。

 千木良宣行「おおいちょう」。画面の下方から三分の二が地面になっていて、そこに大きく樹木の影が広がっている。樹木はすぐ先の崖下から立ち上がっているようである。地面は明るいベージュの色彩を中心に細やかに彩色されていて、そこに落ちる樹木の影は、青みがかっている。そのやわらかな調子が、画面全体の穏やかな空気感、雰囲気をこちら側に運んでくる。そして、崖の向こうにはシルエットになった樹木やこんもりとした雑木林が見える。そのコントラストが、作品に強い見応えを作り出している。更に遠景にはうっすらと山影も見える。丹念に絵具を重ねてマチエールを作りながら、大胆な画面構成を作り出しているところが、特におもしろい。これまでの作品とはまた違った雰囲気があるところにも注目する。

 鈴木忠義「昇仙峡の錦秋は復興への応援歌」。力強い筆致とマチエールが、画家のメッセージを強く訴えかけてくる。昇仙峡は山梨県にある峡谷であるが、作品では秋の色づきを見せている。その豊かな生命の色彩が、昨年震災に見舞われた日本へのエールとして捉えられているようだ。暖色系の色彩の中に崖肌の白が輝くように使われているところもまた印象深い。

 中尾不二夫「空と山」。深みのある暖色系の色彩の中に、暗色で山のシルエットが浮かび上がっている。作品の前に立って眺めていると、徐々にその姿、存在感がじわじわと表れてくるかのようだ。それは、強い霊的な気配さえも感じさせる。画家は、大自然、特に山というものの雄大さ、存在そのものの偉大さを長くモチーフとして描いてきた。今回の作品は、そういった自然と静かに対話しながら描き出したかのようにも思える。深く広い精神的な奥行きが鑑賞者を強く惹き付ける。

 鳥沢むつみ「平穏な日常」。様々なモチーフが描かれている。スイカや猫、瓶、植物、街の風景。画家の日常の中に登場するものが、生き生きとしながら作品の中で存在している。茶系のトーンでまとめながら、落ち着いた雰囲気を醸し出しているところが魅力である。空間の使い方もうまくいっていて、じっくりと画家のイメージの世界を愉しめる作品となっている。

 岡田三郎「我が街 川越」。遠景に街並みを臨む夕暮れの風景である。二筋の川面は朱に染まり、それは空の色彩と響き合っている。その間に大地や街並みがシルエットになって挟まれている。そのやわらかなコントラストが、強く印象に残る。そのシルエットには、緑や青などがうっすらと入れられている。それによって生まれるもう一つの色彩的な深みもまた魅力である。そういったもの全てが、ひっそりと浮かぶ白い太陽に収斂していっているかのような、印象深い作品である。

2室

 前原専二「旅人(朝もやの瀬戸)」。高台からの視点でパノラマ的に描かれた風景である。右下にしゃがんだ少女が描かれていて、瀬戸内の入江を眺めている。風景全体にもやがかかって、どこか幻想的な雰囲気を醸し出している。まだ人気のない港町の情景が、しーんとした気配の中に静かに呼吸をしているかのようだ。強い余韻が残る作品である。

4室

 斉藤敏子「潮騒」。奨励賞。二点出品のうち、透明水彩による作品。少女が座って、向かって耳を澄ましている。しっかりとしたデッサン力がある。右側にある貝殻が、波が寄せては返すその潮騒を作品に引き寄せているようだ。画面全体はビリジャン系の色彩でまとめられているが、それが深い海の底を思わせて興味深い。

 竹林定夫「晩秋の里 ・」。奨励賞。強い生命力を持った樹木が、まるで動いているかのように描かれている。暗い茶系の色彩を基調色にしているが、それが実に味わい深い。確かな表現力を感じる。

9室

 前田重昭「純火レッド」。画面の中央に奥へと続く道がまっすぐに伸びている。その両脇では、子どもが落書きなどをして遊んでいる。どこかあの世とこの世の境目のような、不思議な感覚に襲われる。子どもたちの純粋な心が、そういった世界に鑑賞者を導くようで強く印象に残った。

第80回記念版画展

(10月5日~10月19日/東京都美術館)

文/高山淳・小池伊欧里

5室

 大久保美里「さようならの日―3」。リトグラフと木版の組合せによって自在に色彩を奏でている。可視化された魂のような人形に案内される、この世とあの世を結ぶかのようなほの暗い場所。カラーとモノクロの共存によって記憶の中の世界が暗示される。画面中に雪のように表されている粒は、生を終えた命が泡沫となって上昇していくような印象を受ける。縦の動きと横の動きが上手く合わさって画面に深みを与えている。(小池伊欧里)

 西村沙由里「山越え」。山口源新人賞・準会員推挙。六枚の銅版画によって巨大な画面にダイナミックな竜のイメージを乗せている。ニードルを使った細かい描写を連ね、水墨画を思わせる濃淡の妙で存在感を際立たせている。「八岐大蛇など巨大な竜は背中に木も生えまるで山の様」という逸話からその様な描写もなされているようだが、この竜全体が一つの自然現象であるかのように強い力が渦巻いている。(小池伊欧里)

7室

 天野純治「Field of water #12025」。アクリルや顔料を何層も重ね、釉薬を思わせる質感と輝きを生み出している。反射する光ではなく、作品自体から光が発せられるような瑞々しさがある。この繰り返される試行は、光線の蓄積とでも言えるような世界に向かっている。(小池伊欧里)

 小林敬生「陽はまた昇る―緑の星・2012 A―」。ほぼシンメトリーな構成で、ジャングルとそこに一体化する数々の動物を描いている。白く抜かれた部分には水の気配があり、墨の濃淡によってヴィヴィッドな遠近が生じている。繊細に彫り込まれた木口の版には、卓越した技術と造型センスが滲み出ている。(小池伊欧里)

 河内成幸「クリスタル北斎(・─B)」。十枚に分かれたパーツを分解して組み合わせると、二枚の独立した作品が現れると思われる。北斎の描いた波をモチーフにし、反転した波があしらわれた瓶にはヒマワリが挿されている。波の巻き込むような動きと、太陽やヒマワリの同心円が呼応して、クリスタル─プリズムを通した視界から複雑で広大な世界が表れている。シャープな線と色彩が沍える。時間を刻んだかのようにいくつもの瞬間が画面の中に封じ込められている。(小池伊欧里)

 高垣秀光「漂泊―571」。宇宙を漂う白い塊は、地球の一部が剝離したかのような雰囲気で、遺跡を乗せている。墓標のような突起には、どこか生命体を思わせる雰囲気がある。遺跡の崩れかけた建物は、紙の裏から刷ってインクを染み出させる独特の技法によって表現されている。その風合いによって、遠い記憶のように風化しかけた遺跡が表れている。(小池伊欧里)

 中山隆右「光譜(SPECTRUM)─ニケ」。光をはじめあらゆる情報を分解して形式的に配列するスペクトル。実際の視覚で捉えている事物を一旦分解してスペクトル図にし、無機的な配置から本当の存在というものを解き明かそうとするアプローチなのだろうか。紫一色で浮かび上がるサモトラケのニケ像が実像と虚像の狭間に立って問いかけてくる。(小池伊欧里)

 細川郁子「都市高速夕景」。高架の高速道路を中心に夜景が広がっている。様々な角度から捉えた風景を組み合わせることで、広がりが生まれている。一方で、車や船など細かいニュアンスで表現されている。リト特有のぼかしのような色彩で、水面や建物に反射する光が効果的に入れられ、画面全体が強く迫ってくる。(小池伊欧里)

 寺田一行「乙丸山鳥瞰図」。準会員最優秀賞・会員推挙。木版で大まかな背景の形を作った上に、エッチングの細い線書きによってリズミカルな光景を描き出している。予測のつかない線が、それぞれの形にオートマチックな繰り返しの動きを生じさせ、どこかユーモラスである。視界が弾むような感覚がある。(小池伊欧里)

 永吉友紀「光の夜・闇の朝」。準会員佳作賞(G賞)・会員推挙。戦時下の一場面をレトロな雰囲気で描いた対の作品。「光の夜」は、空襲による炎とサーチライトに照らされた救いとはほど遠い光の中、眼帯と包帯の女学生が痛々しい。立ち上る煙と包帯によるS字形によって奥行きが作られている。「闇の朝」はすっかり焼け落ちた町で軍服の少女が煙草をくゆらせている。煙草の煙の形と、胸から顎にかけてのラインが同調し画面に余韻が生まれている。どちらの作品にも不思議な気怠さとエロスがある。(小池伊欧里)

 三瓶光夫「空は青―NIBEA―無もない植物」。会員推挙。普通、版画を刷るには圧力が必要だが、圧力を使わず刷り取る「メディウムはがし刷り」という特殊な技法を追求している。盛り上がったいくつもの斑点が、有機的なイメージを作っていて、それは水滴であったり、雪であったり、葉の塊であったり細胞であったりする。波紋が広がるようにあらゆる世界がリンクしていくような印象である。(小池伊欧里)

8室

 小作青史「連鎖」。版を作っていく課程での偶然性を生かして、そこに現れた形からイメージを膨らませているのだろうか。パズルのように折り重なった形から様々な生き物が浮かび上がってくる。薄暗い洞窟の中に蠢く、愛らしさと不気味さを併せ持った魑魅魍魎のようなイメージである。(小池伊欧里)

 吹田文明「新らしき出発」。縦長の面の上方に大きなリングがつくられている。何層にもなって、中心はコバルト、その周りがセルリアンブルー、その周りが朱色、最後の黄色はこんじき色である。花火が大輪の花を開いた様子を象徴的に表現している。また、何層にもわたるそのフォルムは、一種の曼陀羅的なかたちで深い祈りのような感情も感じられる。下方に蝶のようなフォルムがいくつか群れをなして浮遊している。これまでしばしば戦争で亡くなった人に対するレクイエムを描くときに、その魂を蝶で表現してきたが、同じような意味だと思う。一年前の津波で亡くなった人々に対するレクイエムと再生への希望をこのような構図でまとめたのだろう。シンプルで元型的な構図が強い力と深い感情表現になっている。(高山淳)

 中林忠良「転位 '11―光―・」。光と影、地上と地中、生き生きと生い茂る樹木と伐採され束ねられた草花。転写という版画独特のフィルターの中に生死や存在の真理を見ているかのようだ。木々の間から放たれる光は眩しさすら覚え、逆さになった草木には天からの迎えのように一筋の柔らかな光が通っている。モノトーンによって光を自在に操りドラマチックな場面を演出している。(小池伊欧里)

 深澤幸雄「僕の中の中原中也」。かつて、ランボー、宮沢賢治、そして中原中也の作品をテーマにした版画を制作してきた作家であるが、今回はその版画制作を経ることによって自身に蓄積された中也像を描いたのだろうか。独特の造形によって表された肖像である。帽子や髪には航行する船のイメージがあり、メゾチント特有の風合いを持った赤褐色と静かに輝く青緑色からは、中原中也の持つ情動の激しさと繊細さの交錯を思わせる。(小池伊欧里)

 舩坂芳助「My Space and My Dimension, M942」。何かの信号のように五、二、三とカラフルなスリットが並ぶ。背景には十六個の赤いドットと、右側に黄色い色面。左の黒い建物のような色面からは黒い線が放射され、インクが飛び散っている。規律と意外性を組み合わせることで画面が動き出す。作家と鑑賞者の間に受信と発信の関係性を巧妙に作り上げている。(小池伊欧里)

 尾崎淳子「芒―黒」。シルエットで水墨的に描かれた芒(すすき)と、黒い窓のような宇宙の星の集積が呼応する。宇宙と地上を、正方形の箔がつなぐ。月光が降り注いでいるかのようだ。ススキの茂る丘のカーブが地球のカーブそのもののように感じる。ポップな感覚に洗練された和的な空間が心地よく広がっている。(小池伊欧里)

9室

 田中良平「すすき(No.2)」。崩れた土塀の隙間から雑草とススキが月光に照らされ覗いている。卓越した銅版の技法によってくっきりと表現され、またユニークな構図である。おそらく広大な屋敷であったこと、今は荒れ果ててしまったことなどが想像される。そして、頭を垂れたススキの慎ましい佇まいからは、夏草では無いがまさに兵どもが夢の跡といった情景である。(小池伊欧里)

 多賀新「持蓮華菩薩」。アジャンタの壁画を元にしていると思われるが、そこに女性的な要素を組み込み、コブラなどの蛇を装飾的に配して、不思議な艶めかしさのある多賀ワールドに仕上げている。虚空を見つめるような表情だが、上方にふわっと広がるような精気を帯びている。(小池伊欧里)

 河内美榮子「しぶき」。滝か噴水かわからないが、一筋の水流が上方から落ちてきて、周囲にしぶきを散らせている。傍らに佇む白い猫は、気持ちィ}さそうに首を水流の方に寄せて伸ばし、水の音に耳を傾け、ほとばしる冷気を感じているようだ。猫の表情が実に幸せそうである。水流を含めた背景はグレーのトーンによる微妙なニュアンスで表現されているが、大切な思い出の中にいるような温かさがある。(小池伊欧里)

 多胡宏「僕等の星」。目隠しをされ、渋い表情の少年の頭には、逆さになったゴブレットが乗せられている。液体の入ったゴブレットの中には、地球が閉じ込められている。水の惑星である地球が、水の中で酸欠状態になっていて、不安定である。視覚だけでなく、あらゆる感覚を使って、最も身近な星についての意識を研ぎ澄まさなければならないというメッセージではないだろうか。背景に垣間見える麦穂には希望が託されているようだ。(小池伊欧里)

11室

 池内幹之「Ricorrenza II」。巨大な樹木が根と幹を伸ばし、石垣や鉄柵を侵食している。枝の間や柵の間を魚が泳ぎ、夢幻的な世界が現れている。石垣、柵、木、魚、それぞれの物質感がよく表現されていると思う。特に、樹木の右側と左側の表現の違いが独特で、イメージの豊かさにつながっている。(小池伊欧里)

 榊原慶「it sinks in the forest II」。B部門奨励賞・準会員推挙。上下二つの場面によって構成されている。面白いのは、上の場面が木の幹の部分で、下の場面が森を上から眺望したようになっているところだ。細かい葉の形が集積し生い茂る森林、その一本をフォーカスすると、不思議な模様の葉に交じって猿のような姿も見られ、静かな暗がりの中に生命の気配が現れる。(小池伊欧里)

12室

 松下サトル「遠くからのメール」。細かいタイルを格子状に並べたような左右の色面が、それぞれメールの送信者と受信者の世界に置き換えられる。ぐるぐると渦巻いている形が電波に乗って送信されているメールだろうか。周囲にはあらゆる情報がシンボル化されて置かれている。ブリキのロボットやロケットのおもちゃに遊び心がある。ポップで鮮やかな色彩の中に木版のほっとするような心地よさがあって、言わば色の褪せない懐かしさといった感覚を覚える。(小池伊欧里)

13室

 鈴木良治「土手」。土手に巨大な子供の頭が出現し、左右六個の眼で窺っている。周りにはのっぺらぼうで三頭身の子供のような妖怪のような者が四人、釣りをしたりして腰掛けている。土手の草むらは水しぶきや煙となって後ろの入道雲へと消える。異形の者達がどこか身近だった幼少期の記憶が蘇る。鑑賞者を異界に引き込むことができる、高い描写力である。(小池伊欧里)

 水落啓「一寸法師  飛躍」。シルクスクリーンに箔を融合させ、一寸法師を題材にした雅やかな画面を作っている。樹影や徐々に大きくなる一寸法師の動きが楕円と呼応し、波形のフォルムが時間の流れや小槌の音を感じさせる。場面の切り替えとして水面から跳ねる魚がポイントとなり、飛躍する一寸法師をより動的なものにしている。(小池伊欧里)

14室

 宮井麻奈「千鶴 1」。これまでの作品とは少し変わったような印象を受けた。大人の一歩手前といった感じの少女が、宙を舞う折り鶴と戯れている。少女の感情は胸の奥底に格納されているようで、ただ、目の前の鶴をじっと見て手を伸ばそうとしている。顔彩によって柔らかな存在感が表れた少女に純粋な祈りが込められているようだ。(小池伊欧里)

15室

 日向野桂子「夢見がち」。コサージュのような花が空を舞っている。地上に落ちるとそこから様々なものが生まれるといったイメージがある。「S・E」と書かれた箱のハンドルを回すと上に乗った鳥が鳴き、上空から花を呼び寄せるのだろうか。セピア系の沈んだ背景とカラフルな花や卓上のコントラストが良く、墨版で入れられた影によっても、一つ一つのフォルムが際立たせられている。(小池伊欧里)

16室

 有年博行「山羊(やぎ)2012」。木版とデジタルプリントを組み合わせることで、独特な手触りのある写実的作品に仕上がっている。山羊の頭骨を乗せた木製の板は南瓜を入れた立方体の木枠に支えられている。静けさがある。背景はこれらと異なる遠近で描写されているようで、マチエールの違いも相俟って奇妙な関係性が表れているが、背景とモチーフそれぞれが活きるようなバランスがとられている。(小池伊欧里)

 高橋文子「憐れみの家 ・―アモス書より―」。旧約聖書の文書である「アモス書」が題材となっている。地中に埋もれた家の形をした空間には、文明の象徴としてか、器の数々が描かれている。その家を根として一本の若木が地上へ伸び、恵の雨を受けている。家とは民族、国家のことなのだろうが、その奢りによる滅亡と憐れみによる救済が表現されているように思う。全体的に抑えたトーンの中、ほのかに明るくなった部分が希望を予感させる。(小池伊欧里)

19室

 石川真衣「ハンドルがつかめない」。ハンドルとはプレス機のハンドルのことだろうか、また、今回モチーフとしている壊れたシーソーの持ち手のことなのだろうか。追いつめられたヒロインを軸に複数の画面で構成されている。人物は漫画のキャラクター風だが、独自の世界観と描写力によって視線を呼び込む。左翼には赤、右上には青、右下には黄色と、それぞれ象徴的な色が入れられているのも面白い。(小池伊欧里)

第55回記念新協展

(10月5日~10月11日/東京都美術館)

文/高山淳・磯部靖

1室

 大森英樹「真空管猫・充電中」。不思議な石の装置の上に白い猫が寝そべって乗っかっている。外は夜で、踊り場に白衣を着た女性が後ろ向きに立っている。よく見ると猫の背中には真空管と思われるものが三つ刺さっているようだ。猫の身体で充電しているのだろうか、不思議な光景である。シュールな光景でありながら、どこかノンシャランとした愉快な雰囲気が漂っているところがおもしろい。こちらを見つめる猫の眼差しに強い吸引力もある。(磯部靖)

 宮﨑曠代「2012.DNA.iPS」。東京都知事賞。iPSというと、最近iPS細胞によって山中教授がノーベル賞を受賞した。ちょうど新協展の会期中にそのようなニュースが流れたことは喜ばしい。巨大なリングが縦長の画面の中心に置かれている。そのリングの中には世界地図がいくつか角度を変えて置かれ、ところどころに人間の頭蓋骨が正面あるいは側面から捉えられて置かれている。そのあいだのリングはDNAを表すのだろう。いわば人間の長い歴史ともいうべきものが象徴される。そして、そのリングに対して水平にイタリアルネッサンスの頃のイメージや原子物理学のなかのフォルムなどが描かれ、世界地図も置かれる。それに対して垂直にオベリスクが伸びていき、その交差するところにミケランジェロの最後の審判の一部が描かれている。芸術家の力の象徴。後ろにあるのは科学の力。人間の文化というものの象徴としてルネッサンス期のミケランジェロやダ・ヴィンチの研究した機械の一部、あるいは原子物理学の図などが描かれている。現代の先端に立って未来を眺めながら、それまでの人類遺産を象徴して、伸びていくオベリスクのフォルムが清々しく清潔な雰囲気。背後に海が描かれ、水平線があらわれ、上方には空がある。空と海を背景にしたダイナミックな一種の曼陀羅構図になっている。海と空の青い背景に鉛筆によって描かれた図像が実にダイナミックで象徴的なイメージを表現する。(高山淳)

 加地守「風を待つ」。損保ジャパン美術財団賞。草原に立つ一人の女性を見上げるような視点で描いている。女性は厚手の服を着て、腕を組み、じっと遠くを見つめている。空は青と白、そして細やかな黄みがかった薄い緑で描かれている。それが緩やかな空気の流れ、風を思わせて興味深い。女性はもっと強い風を待っているようだ。時流といってよいだろう。自身がこれから進むべき道を判断する時に、そのタイミングを計っている。女性の強い意志が鑑賞者を強く惹き付ける。(磯部靖)

 坂本正義「2012 交遊録」。六人の高齢の男女が描かれている。面白いのは、外套のようなものを着せられて上方から糸のようなもので吊るされていることである。青いコートの女性は足が弱ったが、おしゃべりは止まらない。茶色いコートにくるまれているのは男性のようで、こちらは無言で耳が聞こえていない、意地も悪そうな狷介で孤独な雰囲気である。現代の老人のカリカチュアであるが、独特のそのディテールによって作品としての面白さが生まれる。男は何も聞きたくないといったような、頑迷で狷介な雰囲気であるのに対して、女性のおしゃべりは続くといった雰囲気も面白い。(高山淳)

 大中昇「黒い海」。55回記念賞。赤みがかった海をバックにした女性の顔がこちらを向いている。背後の空では、二人の天使がハシゴを登って行っている。幻想的なイメージの中で、シャープなフォルムによってキビキビとその世界観を構築していっているところが、この画家の筆力である。雲の連なりが画面を活性化させて独特のリズムを画面内に作りだしているところもおもしろい。(磯部靖)

 多田耕二「橋のある風景」。水道橋あたりの光景のように思われる。上方を見上げると総武線の電車が見える。下方には神田川の水が流れている。遠景には陸橋がある。直線によってつくられたダイナミックなコンポジションの中に斜光線が差し込む。朝の光のように感じられる。朝の光は物象を黄金色に染める。そして、空のしーんとした青いトーンは、まさに夜が後退して朝が始まる瞬間の色彩のように思われる。その時間のもつドラマ性とも言うべきものが、この幾何学的と言ってよい建物や電車の構成の中にあらわれているところが面白い。遠景の陸橋に三本の梯子のようなもの、棒のようなものが立っていて、それが白く輝いているのがイノセントな雰囲気で、希望を象徴するようだ。(高山淳)

 久保宏司「明日に向かって」。地震によって崩壊した建物を内部から描いている。ショベルカーなどが瓦礫を片付けているようだ。震災は甚大な被害を被災地にもたらしたが、以前のような日常を取り戻すには、まずその倒壊した建物などを片付けなければならない。大変な作業であるが、まさに明日へ向かう作業の第一歩である。グレーのコンクリートの壁とそこから覗く赤い鉄筋が淡々と描かれている。ただ現実を描写しながらも、画家の深い想いが作品の背後から感じられるようで印象に残った。(磯部靖)

 栗崎武成「ベネチア」。F型の作品の横にもっと細長い作品がつけられている。左のほうにそのもう一枚の作品が入ると、観音開きになるだろう。ヴェニスの宮殿とゴンドラ。窓には、様々な色彩が散りばめられている。中心は後退した位置にあるフォルムで、上方に丸い宮殿の屋根が見える。運河は緑で、周りの黄色や赤などの色彩が散りばめられている様子を静かに抑えているといった趣。建物は直線によってできているが、ゴンドラの曲線がそれに呼応する。右のほうはその一部を拡大したようなフォルムで、もっと抽象的なコンポジションになっている。それぞれのフォルムが集合して、ヴェニスの素晴らしさを歌う。そんな音楽性も感じられる。個々のフォルムを見ていると、カンディンスキーの抽象との共通性も思う。あの不思議な形を集めながら建物にしたりゴンドラにしたりするような、そんな造形が左にあり、右のほうはもっと直線によって小さな細胞が集合して歌いあげているような楽しさである。(高山淳)

 原三郎「東京大学」。東京大学にある銀杏並木の通りを正面から描いている。太くまっすぐ伸びる幹に点々と黄色の葉が織り重なるように付いている。その繰り返しが、画面全体で強い見応えを作り出している。さらに奥にある校舎もまた縦の線を中心にして描かれていて、そこに少しだけ風が吹いているようだ。そういった細やかな描写によって、秋の気配を作品に引き寄せているところに見応えがある。(磯部靖)

 星加哲男「ある風景・2012」。無数の植物の幹や枝、蔓が画面の中央で大きな塊を作りだしている。画面の下方には大地が見え、この塊の巨大さがよく分かる。大自然の雄大さ、畏怖すべき存在というものをこのように描き出しているところが独特でありおもしろい。また、上部に少しだけピンクの花が咲いている。それが僅かな希望のようなイメージを同時に添えているようで興味深い。(磯部靖)

 細貝惣児「紡ぐ(椿の頃)」。小紋を着た女性が立っている。ちょうど腰から上までが描かれている。緑の帯に大きな椿の花が一輪。バックに円状のフォルムがあらわれ、そこに横顔の女性たちの連続したフォルムが見える。大きな水晶球のようなイメージで、女性の母や祖母或いは娘というように世代の連続するイメージが置かれ、その前にこの女性は品よく立っている。長い時間のなかのいまの美しさを画家は描く。作品を見ていると、この一瞬はいまではなく、過去の一瞬のようなイメージもあらわれてくる。顔や手のすこし彫刻的と言ってよいようなシンプルな造形もまた魅力。(高山淳)

 吉田博子「幻風」。文部科学大臣賞。薄い白の布を僅かに纏った裸婦を二人描いている。裸婦は風に舞うように、軽やかな動きを見せている。画面全体は青みがかった色彩を基調に描かれているが、ところどころに赤が入れられている。さらに背後には細やかに小さな花々が入れられている。幻想的でありながら、女性の持つ美しさと妖艶さ、母性といった様々な要素が内包され、表現されている。確かなデッサン力もあり、賞に相応しい作品である。(磯部靖)

 田中愛子「愛華の樹木崇拝」。無数の花や草木が画面いっぱいに描き込まれている。その中央に太い幹の樹木が一本立っていて、それがそのまま作品の背骨となって画面を支えているようだ。まるで合唱するように描かれている様々な植物たちは、中心となるこの樹木を取り囲み、散華している。単純な華やかさではなく、目的を持って集まった凜とした美といっていいだろうか、そういった強い意志と存在感が、美しさに繫がっているようだ。樹木の枝に乗っている一羽のフクロウが、そういった様子を見つめている画家自身のようにも思える。(磯部靖)

 白坂介明「洞窟(カッパドキア)」。独特のフォルムを形成するカッパドキアの岩群が生き生きと描かれている。下方には広場があり、岩を削った住居も見える。そのぽっかりと空いた空間の作り方がおもしろい。点景で描かれたそこに暮らす人々がもう一つのリズムを作りだしているところもおもしろい。(磯部靖)

3室

 合田幸代「かくれんぼ」。クリアなフォルムを組み合わせながら、独特の物語性をつくりだす。どこか大正ロマンのような雰囲気で、アール・ヌーヴォーふうなくねくねとした曲線による構成になっているところが面白い。お洒落な衣装をつけた若い女性が、その上衣の裾をあけて、そこに子供を隠そうとしている。あるいは子供がそこに隠れそうな、そんな細やかな雰囲気が前面に描かれている。背景には左右に動いていく少年や少女、それを見ている少女の後ろ姿。そして、蔓のような樹木がうねうねと伸びていきながら、その葉によって背景を一部隠したりしている。日本画的な要素と洋画的な要素が絡みながら、独特の洗練された構図があらわれ、そこにほほえましい母と子の物語があらわれるのだが、画面をじっと見ているうちに、目が画面全体に描かれていることに気づく。とくに蔓のような植物の葉のあいだに目があるから、最初は気がつかないが、それを発見すると、あやしい雰囲気になる。運命というものの暗い渾沌とした謎が、この楽しい母と子の構図の中にあらわれているのが妖しい。(高山淳)

 舩山マヤ「時の位相(行く)」。三十代ぐらいの女性の立っている様子を横から描いている。一枚の布によってこの女性の体は覆われている。背景に呪術的な文様があらわれ、右上方には雲の上に天使がいる。左のほうには大きな羽を意匠化したようなフォルムがあらわれる。十字形の構図のなかに、白い伸びていくフォルムと、両翼に翼のようなフォルムがあらわれている。女性は過去と未来のあいだに立っているといったイメージが表現されている。下方には雨が降っているような様子で、海が氾濫しているようなイメージもあらわれている。それは一年前の津波のような困難な現実も人生の中にあるといった意味だろうか。牛骨が時の象徴のようにも、あるいはメメント・モリといったイメージも醸し出す。いわば時と空間とのクロスするような、そんなコンポジションになっているところに注目。(高山淳)

4室

 千歳龍弥「Zikon」。新人賞。大きな白い岩が立ち上がっている。そのフォルムが独特でおもしろい。そこでは人々が暮らしているようだ。遙か昔から暮らしてきた人間の気配がその岩の存在に跡を刻み、一体となって作品の中で立ち上がってきている。壁には風景などのイメージも入り込み、じっくりと見応えのある作品となっている。(磯部靖)

 飯塚詠一郎「雲―01」。雲の姿があやしい。様々なフォルムが絡み合っている。奥からまた次のフォルムがあらわれるといった様子で、一種有機的な構図になっている。柔らかな光線が差し込み、すこし銀色にも黄金色にも感じられるような色調である。影の部分は青みがかったグレーで、その影の向こうにもう一つの世界があるような、そんなシュールな気配も感じられる。人生の明るい部分と暗い部分、陰と陽とも言うべきものが絡み合いながら、画家は深い想念のなかに入っていくようだ。そんな想念のなかからこの不思議な雲のコンポジションが生まれたのだろうか。(高山淳)

 太田昭「港街の黒富士」。55回記念賞。画面の上方に黒い富士があり、強い存在感を放っている。下方には港があって、桟橋と船が独特のリズムを刻みながら配置されている。掲載写真では見にくいかもしれないが、この画家特有の装飾的な描写が、そういった画面構成の中にもう一つの華やかさを与え、画面全体で確かな魅力を放っているようだ。暗色の色彩を効果的に使い、画家自身のイメージの中にある富士をある種のモニュマンとして荘厳しているところが特に印象的である。(磯部靖)

 櫻井邦彦「Zone」。会員努力賞。モノトーンの色彩の中に、様々なイメージが浮かび上がり、交錯している。それはかつて見た風景であったり、感情であったりするようだ。その刻々と変化する空間の動きがおもしろく、見応えがある。(磯部靖)

5室

 桐林杉子「安曇野清流」。画面一杯に流れる小川の水面を描いている。上方には岸辺に咲く桜の姿が映り込んでいる。下方では、水中に繁る水草が見える。そのスピード感のある左から右への動きが、気持ちよい。シンプルな画面構成の中に、画家の美意識がみてとれるようで興味深い。(磯部靖)

 西村義冨「石仏と私」。無数に描かれた石仏が、一種の群像表現となっている。薄い茶系の色彩で描かれたそれらが、独特のリズムと存在感を刻んでいる。ふと見るとその中にグレーの石仏が一体紛れ込んでいる。また、右の方には眼鏡をかけた人物もみえる。そうやって一体一体見ていくと、それぞれが個性的でおもしろく、見応えがある。そういった中で、右下に白と赤の花が落ちているのが、一つのポイントとなっているようだ。じっくりと画家のイメージが描き込まれているところが特に強い余韻を残す。(磯部靖)

 伊藤善文「石の街 ~2012~」。奥に向かって積み重なるように描かれた街並みが重厚で、テンポのよいリズムを作っている。堅牢な石によって作られた家々が少し茶がかっている。長い歴史を持ったこの街の存在感とそこに暮らす人々の日常の気配が一体となって、印象的な画面を作り出している。(磯部靖)

7室

 越川初美「集う」。画面の両側にこんもりと花を咲かせた桜の樹が並んでいる。中央あたりは間が空けられていて、その間の取り方がおもしろい。夜のどこか妖しげな気配の中に、巧みに画面を構成しながら強い魅力を孕んでいる。(磯部靖)

9室

 亀井敏郎「徒の軌跡」。ある家屋の壁を、実にじっくりと描き込んでいる。暖色系と灰白色の色彩を感覚的に味わい深く扱いながら、長く存在してきたその時間というものを表現している。コクのある色彩とマチエールが、そういったものをしっかりと支えている。(磯部靖)

12室

 大森寿々子「それから ・」。まるで生き物のように蠢いた大地の生命力が鑑賞者を強く惹き付ける。遠景はすーっと地平線まで伸びていき、画面手前の動きと強く対比されている。大地の持つ強い生命力、恐ろしさなどを独特の表現で描き出しているところに注目した。(磯部靖)

第43回国画展

(10月12日~10月19日/東京都美術館)

文/磯部靖

1室

 田之上緋佐子「秩父にて」。淡墨でしっとりと描き出している。背の高い草木が所々に伸びていて心地よいリズムを作り出している画面の右側には木で組んだ長いすのようなものが置かれている。何気ない風景を情緒豊かに描いている。

 古城和明「怒り」。連なる山並みに、激しい稲光が落ちてきている。上空は墨を散らし、独特の表情を作りだしている。稲光が左右に連続しながら続く時間の瞬間性というものを上手くとらえて表現している。

2室

 入澤禎子「夏のおわり」。画面の下半分が草木によって覆われ、その向こうに家屋や山並みが見える。淡々と描きながら、しっとりとした雰囲気をうまく描き出している。

 辻谷和子「夕月」。ぼんやりと浮かぶ満月が印象的である。うっすらと淡い墨の扱いが、やさしく照らす月のあたたかさを感じさせる。心地よい情感が魅力である。

3室

 金子紀久雄「越後への桜道」。遠くにこんもりと山の姿が見える。その手前に枝垂れ桜がピンクの花をつけて咲き乱れている。激しい感情の中に、自然の生命力を歌うように描いていて注目した。

4室

 佐藤泉賀「過疎の残雪」。魏山人賞。流れるような筆の扱いが気持ちよい。鳥が数羽飛び、澄み切った空気感をより強調している。伸びやかな風景の広がりを感じさせる。

第29回近代水墨展

(10月12日~10月19日/東京都美術館)

文/磯部靖

1室

 清水昭子「積み重なる」。樹木の強い生命力が魅力である。雑草の細やかな描写と力強い樹木のそれが、作品の中で静かに対比されている。

 加川美哉子「山吹の郷」。近代水墨展大賞。点々と咲く花の黄の色彩が楽しげである。少し低い位置から中景の山小屋が見えるドラマチックな画面構成の中に、おおらかな魅力が溢れている。

4室

 古寺啓子「落照(1)」。近代水墨会会長賞。しみじみとした情感が強い魅力を放っている。ススキの繊細な姿がシルエットになって描かれ、夕日の輝きを強調させている。静かに流れる川や奥の草原など、抑揚をうまく効かせた構成にも注目した。

第7回21美術展

(10月12日~10月19日/東京都美術館)

文/磯部靖

1室

 野村順子「シャングリラ」。見渡す限り広がる大地が、繊細な起伏を作りだしている。その手前、画面の下方に黄や赤の花が咲き乱れている。大地の色彩も緑から紫へと繊細に変化して行っている。どこか楽園的な要素を含んだ、イメージの中の風景に強く惹き付けられた。

2室

 田沼汪次郎「夜のカフェテラス」。一人の男が、飲食店の前でマンドリンを持って立っている。青みがかった画面全体の色彩が、夜を思わせる。どこか不思議な情感が漂っている。それは男の弾くマンドリンの調べから広がってきているのかもしれない。豊かな人間模様を描きながら、少しの孤独感、人生の哀愁を感じさせるところがおもしろい。

7室

 仲林敏次「月、陽、星、」。縦長の三枚のパネルを組み合わせた作品。左右には枝葉、中央には白い花が描かれている。祭壇画のように、自然の持つ静かな美しさというものを賛美しているようだ。赤い背景をしっかりと描き込み、そこに繊細に花や枝葉を描き込んでいる。金粉やモンキチョウなども細やかに入れられた花鳥画を思わせながらも、独特の表現力で見応えのある画面を作り出していて注目した。

第65回記念立軌展

(10月13日~10月28日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 岡田菊惠「雨上る」。苔寺の庭を描いたものである。苔寺は枯山水でも有名だが、そちらのほうではなく、樹木が立ち、苔が生えている様子を生き生きと描く。地面の起伏するかたちの上に小さな葉をつけた灌木があり、石があり、苔が生え、裸木の幹が立ち上がっていく。その様子に独特のリズムがある。地面の向こうに紫色の色面がジグザグになっているが、それは塀なのだろうか。緑を中心とした中に柔らかな紫が入り、樹木が立ち上がり、緑の塊が動いていく。メロディがリズムを伴ってあらわれてきたような、そんなコンポジションである。優れたデッサン力は対象のフォルムの本質をつかみながら、それをこの平面空間の上に写し、構成する。前景のくの字形に伸びていくグレーの幹のフォルム、その地面と接するところが切られ、木の肌が白くむき出しになっている。このあたりの木のもつフォルムや命の姿などは実に象徴的だし、それが軽快なリズムのなかに表現されていて、独特の上品な雰囲気があらわれているところに感心する。

 笠井誠一「二つの卓上静物」。二点出品であるが、「ボトルとミルク缶のある卓上静物」は、白いテーブルの上にボトルやミルク缶、あるいはキューブなオレンジ色の形などが置かれているのだが、まるで雪山の中に垂直に立ち上がる不思議なフォルムが現れてくるといった新鮮な印象である。「二つの卓上静物」は、茶色い二つのテーブルを間隔をあけて置いて、小さいほうには手前に皿と鍋、右のほうには白い布の上に三つの梨を置いた構図である。洋梨の曲線によってできた三つの形は、お互いに響き合いながら不思議な動きをつくる。同じ曲線と言っても、幾何学的な白い皿と鍋とはもう一つの楕円をつくる。それに向かって逆遠近の茶色いテーブルの直線によるコンポジション。右側のほうは垂直にそのテーブルの端が切られている。縦横にそこに線が入り、空間が切られる。空間の中に或る切り込みを入れるところに、画家の表現の意思があるかのような不思議なコンポジションである。そこから強い詩情ともいうべき不思議な力があらわれる。茶系の色彩や青みがかったグレー、あるいは緑などの色彩によってハーモナイズする様子は、たとえばバッハなどの音楽を思わせる独特のものと言ってよい。

 五百住乙人「すがたみ」。四人の女性が立っている。向かって左の女性は後ろ向きで、そばに両手を頭の上にあげて前向きの女性がいる。この二人は裸婦である。すこし間隔をおいて二人の女性が着衣でこちらに向かっている。一人は頰に手を当て、もう一人は腕を組んでいる。微妙な独特の動きがあやしい雰囲気をつくる。バックは青みがかったトーンの中に黒などが入って、じんわりとした独特の陰影があらわれる。その中に柔らかなグレーの色彩で四人の人物が描かれている。内側からじわじわと光が発光するようなトーンである。画家が内界のなかに発見した人物像と言ってよい。画家の心の中には様々なイメージが揺曳しているのだろう。その深い井戸の中に画家は下りていく。そこにすむイメージを造形化するにあたって、しぜんと四人の人物があらわれたという趣である。そして、頬杖をついている人も腕を組んでいる女性も、あるいは両手を頭の上にあげて正面向きの裸婦も、何かを語りかけてくる。言葉では説明できない微妙な命の動揺、発信といったものが、そのフォルムからしぜんと感じられる。上下の暗いグレーのあいだに、女性に与えられた色彩とほぼ同色でありながら、すこし青みがかったトーンが静かに輝いているのも不思議な雰囲気である。深い井戸の中に輝いてあらわれてくるもの。画家の詩心の源のような、そんなものが人の姿を借りてあらわれてくる。

 赤堀尚「ミルクパンとコップ」。赤堀尚は「ミルクパンとコップ」と「栗とパンプルムス」の二点出品である。「栗とパンプルムス」は、黒いテーブルの上に左に赤い花の挿された花瓶を置き、右にエメラルドグリーンのいがのある栗を置いた強いコンポジションである。背後に黄色い窓のような矩形のフォルムが見える。もっともそれは、そのような布を貼ったのかもしれない。いずれにしても、暗紫色や暗褐色の中にその黄色い膨れ上がってくるような強い色面が必要となった。その色面に対して赤と緑とが見事なコントラストをなす。静謐でありながら力強い。止まっていながら、大きな動きを内部に秘めたようなコンポジションである。「ミルクパンとコップ」は、同じような暗青色のテーブルの上に、柄のあるミルクパンとその後ろに青いコップを置くのみの構成である。上方から赤い色面が下りてくる。下方のテーブルの足の白い色面がそこに向かう。ちょうどあらゆる動きがそのミルクパンとコップに集約するようなコンポジションになっている。色彩の輝きを見ると、まるでステンドグラスを思わせる。実際、静物を描きながら、そういったステンドグラスのある教会の宗教的な空間、そのようなある絶対的なものに対する強いイデーがこの画家の中にあるように感じられる。

 木村鐵雄「SONNET RED B」。褪せた赤の中に強い赤が輝くように入れられる。そこにグレーや黒のアンフォルメルな形が入る。直線が入り、W、K、Rなどの文字が入れられる。画家は詩人である。心の中に旅をする。この赤の輝きには日本の古代の装飾古墳などの朱色の壁画を思わせるものがある。古代人の魂がこの朱色を通してよみがえってくるような趣である。空の無限感が青みがかったグレーとして赤に取り囲まれて結晶する。夜が黒い色面としてあらわれる。命というものの輝きが朱色によって描かれる。それはまた太陽の色彩でもあるだろう。赤みがかったグレーのバックは画家の心の長い歴史を象徴するようだ。一つの音楽が鳴っている。その音楽がこのような造形として結晶する不思議さ。

 池口史子「始発駅・夜明け」。海岸のすぐそばに線路が幾本もあって、そこに貨車とおぼしきものが三列になってとまっている。海に突堤が突き出た様子がシャープな線によって表現される。とくに水面とその敷地、あるいは建物との接触面など、実に気持ちよいようなフォルムである。斜光線がこの駅や建物を染めている。斜光線に対して、斜めに湾に向かって突き出る地面や建物が気持ちのよいムーヴマンをつくる。それはそのまま夜明けの時間、あるいは旅立ちの気持ち、ノスタルジーなどの複雑な心情を喚起する。画家の作品には不思議なデジャヴ観がある。こんな場所に行ったことのない人も、こんなシーンを見たような記憶があらわれてくるような錯覚に陥る。また、遠景は低い山のようなフォルムになっていて、その部分と空との接触面、そこから空が大きく湾曲しながら上方に向かうという空間の大きさも感じられる。

 小川イチ「黎明」。青い空にピンクの花が咲き、鳥がさえずる。下方には水が流れている。現実の青よりもっと美しい青、現実の赤よりもっと美しい赤といったようすに色彩が散りばめられている。樹木や鳥や水と一体化しながら、イノセントな空間をつくる。

2室

 栗原一郎「たてもの」。すこし汚したバックに線によって建物が前方から後方に描かれている。生き物のようだ。線による陰影と同時に、それがそのまま何かの軌跡のような力を表す。四つの建物の線描きの落書きのような形が時間のしみ通ったような様子である。懐かしい、泣きたくなるような感情もそこにあらわれる。そういった力とバックも建物の壁もほぼ同色の、白い上に汚したようなそのトーンのニュアンス。まるで呼吸をしているような、そんな様子がお互いに呼応しながら、独特の心象世界を表現する。後方の入口のそばに赤や黄色の小さな可憐な花が咲いている。モノトーンの中にそこだけ鮮やかな色彩が点じられているのも、深いイメージである。

 久野和洋「地の風景・一本の坂道」。横長の画面の左に道が後方に伸びている。中景で道が二つに分かれ、左のほうに行くと二本の針葉樹が立っている。道のそばや近景の野原に白い花が可憐に咲いている。右のほうはうねうねとしたゆるやかな起伏をもつ地面である。遠景はなだらかな丘のようなかたちで、そのもうひとつ向こうにも丘が見える。左の道に対して、右のほうにも道がこの草原の中を延びているのだが、そこになると一転して細く小さくなっていて、手前の道の大きさに対して、右のほうの道はずいぶん小さい。イメージのなかにあらわれてきた風景だから、このようなことが起きる。再現的に風景を描くのではなく、記憶の中にある風景、描きながらしぜんとイメージがそこに加わって、心象世界があらわれてくる。あらわれてくるものは深い憧れのような感情である。と同時に、自然あるいは大地の呼吸するような命に耳を傾け、時には触ってみるような、そんなところからこの微妙で豊かなニュアンスが生まれる。空が丘に接するあたりに向かってだんだんと明るくなって、ほとんど柔らかな黄金色のような光を示しているのも面白い。

 山田嘉彦「白いボート」。点描による表現であり、色彩に透明感のあるところが魅力。近景に水面があり、そこに白いボートに白い衣装の人が乗っている。イノセントな雰囲気。両側は、水の中から樹木が立ち上がってくるような様子のフォルムが遠景に続いていく。上方は青いシルエットになって、二つの形があらわれ、そのトーンの変化によって距離感があらわれる。空気遠近法的な扱いである。柔らかなオレンジ色の空が下方の一種シルエットふうなフォルムと対照され、その空はそのままそっくり下方の水に映っている。シンメトリックな中に微妙な変化があらわれ、一艘の白いボートが静かに動いていく。静謐な中にある静かな動きがポイントとなっている。その静かな動きはボートを中心としてだんだんと波紋状に広がっていくような、そのような構図になっているところも優れている。

 志村節子「静物」。静物が風景的な空間を引き寄せる。洋梨や林檎や葡萄などの置かれている中にマンドリンが置かれ、白い花瓶にススキのようなものを含めた花が生けられ、糸車が回る。テーブルの上の茶色の上に緑が置かれ、それが草原や水を暗示する。壁の向こうから空の青が引き寄せられる。このキャンバスの中に手を入れると、この色彩の極度のテンションによって指が切れ、血があらわれてくるような、そういった強いハーモニーが感じられる。なによりも色彩を、といった趣で、その色彩がそれぞれの物象や空間や心を象徴しながら、お互いに雅やかでありながら高いハーモニーをつくる。

 遊馬賢一「ポプラの並ぶセーヌ」。セーヌ川がグレーの水で静かに描かれている。背後には緑のヴァリエーションで地面や樹木や山が描かれている。柔らかな緑のハーモニーが瑞々しい。そんな中に中景に赤い花が咲いている様子が描かれているのが、優雅なアクセントになっている。ソフトなハーモニーのなかにそのピンク色の色彩が輝く。

3室

 田屋幸男「晩秋の公園」。公園に子供たちが遊んでいる。乳母車を押す若い女性もいる。銅像が建っている。紅葉した樹木が柔らかなカーヴをつくる。あいだからくすんだ緑の針葉樹が立ち上がる。街灯が直線のフォルムをつくる。それぞれのフォルムがそれぞれの空間の中に位置しながら、全体で緊密なコンポジションをつくる。そして、秋を惜しむような、そんな深い情緒があらわれる。

 継岡リツ「特別な時間(忘却の河)」。下方にグレーの色面があり、その上に建物を思わせるフォルムが小さく左右に連続している。中にはグレーや赤、ビリジャン、ピンクマダー、朱色などの色彩が散りばめられている。電信柱が立ち、電線が張られているようなイメージ。上方は白い空間である。その上に三つの横長のキャンバスがのせられている。海を思わせるような青い色面があり、その上方に柔らかな発光するような蛍光色的な黄色やピンクが置かれ、その横に斜線の不思議なリズミカルな動きがある。強い音楽性を感じる。特別な時間、忘却の河といった言葉とともにこの作品を見ると、深い音楽性が感じられる。いずれにしても、矩形によってつくられた空間がお互いに静かなコントラストを見せ、そのあいだの白い空間が実に清潔で張り詰めて見事である。その白のもつある絶対性ともいうべきイメージが面白い。なにか無限なるものと人間とが相対しながら、しかもそれが硬くならずに、柔らかな心象のなかに表現されているところが面白い。

 三浦智子「古(いにしえ)に悠(おも)う―黯(くろ)き沼―」。「自生する植物たちに囲まれた名も知らぬ沼地を作品にしたく模索を続けていました」。その黒い沼が独特の手触りをもって描かれている。深く、まるで心の中の井戸をのぞきこんでいるように。手前はほとんど枯れた茶褐色の雑草によって円弧ができ、それに対して対岸は二つの直線によって囲まれている。その二つの直線が接しているところから下方に黒い垂直線が下りてきて、この沼がすこし暗い緑ともっと黒い色調とに分けられる。まるで水の中に切り込みを入れたような趣。いわば深い心の井戸の中に測鉛を垂らしているような。対岸のすこし緑がかった黄土系の色彩はいわば古色のような色彩で、絵巻にしても、日本の絵画にしても、ほっておくとだんだんとそのようなひなびた色彩になるが、そんな色彩が対岸に使われて懐かしい。実際、沼を描くというより、沼を通して心の歴史や人間の歴史、まさに古に思うといった深い時間を画家は眺めているようだ。そこからあらわれてくる独特のマチエールや、その肌触り、微妙なその調子が面白い。まるで古美術を眺めているときの心持ちに似たスタンスでこの沼に画家は接している。

 嶋田明子「季節 #4 季節 #3」。この作品はこれまでになく懐かしい雰囲気がある。自分自身のふるさとが、そのまま、日本人のふるさとのように普遍化され、光輝いているような趣である。下方にはビリジャン系の色彩があり、その上に風がわたっているが、その向こうに低い丘のようなフォルムが立ち上がり、その上方がピンクやオレンジ色に輝いている。その向こうには水が流れているようなものをはさみながら緑の丘が立ち上がる。それは右の画面だが、それは左の画面と基本的には一対になっている。左のほうは、沼などをあいだにはさみながら緑の野原が広がっていく。上下に不思議な風が吹いている。よく洛中洛外図などに、雲を置いて、そのあいだから見え隠れする風景があるが、その雲の代わりに風がわたり、霧があらわれ、この風景を見え隠れさせるような、そんな構図になっている。下方のビリジャン系の中をわたる風とその空間は謎めいていて、不思議である。そこには海も山も大地も様々なものが描かれながら、それを消して、その風のわたっていく力が画面の中に必要で、その上方にもうすこし具体的なフォルムがあらわれたようだ。画家は岐阜県不破郡杭瀬村、いまは分割され、大垣市と赤坂町に編入しているが、そこに生まれ、峠を越えると関ヶ原で、その峠の途中にある中学校に通っていたそうである。向こうには伊吹山が聳えている。伊吹山は、奈良時代から日本人の歌に詠まれてきたところである。そういった古代の様々な人々の思いもこの色彩の中に重なって、無数の人々の歌がこの色彩に重なりながら画家を通して発現し、この不思議な合唱するような風景があらわれたのだろうか。

 前川寿々子「楽器工房のある街」。楽器工房のある店が道路に面している。入口の横にチェロのようなフォルムがあらわれている。道に面した窓は実に透明な青で、そこに黄土色や山吹色の楽器のようなフォルムが置かれている。周りのコンクリートのグレーの色面や、その周りのだんだんと抽象化された緑やブルーの色面。右のほうには樹木を思わせるような茶色い色面が延びている。道の上にジョンブリヤンや褪せた茶、紫色、自転車の青、様々な色彩がフォルムを獲得し、ひとつの色面となり、朗々とした歌をうたうようだ。そんな中にこの中心のヴァイオリンなどの吊るされている窓の青が鑑賞者を引きつける。そこには無限なるもののイメージが結晶しているようだ。ヴェルレーヌは監獄の中から空の青を歌っているが、そのような敬虔でありながら深い、神の叡知ともいうべきようなイメージを背負ったこのブルーが画面の真ん中に入れられ、そのブルーに対して黄金色にも見えるような山吹色の楽器が輝いているところが、実に魅力である。このモダンな雰囲気のなかにある雅やかな空間に、筆のおつゆがきで円弧のようなものが左端に入れられたり、自転車の後ろに入れられているのがおもしろい。人が通るように時間が動いていくその表徴のようにあらわれているところが興味深い。

4室

 福島唯史「タンジェ、三月」。モロッコをテーマにした連作を発表している。ベージュや灰白色の中にウルトラマリンやコバルト、セルリアンブルーなどの色彩によってフォルムらしきものがシャープに勢いをもって描かれ、独特の心象空間があらわれる。地中海の光や空気感が画面からしぜんに放射してくる。

 松田環「窓辺の静物」。サボテンが面白い紡錘状の形をつくり、そこから茎が伸びて四つの花が咲いている。サボテンの花がこの作品の中心になっている。そばに古いコーヒーミルやポット、あるいは雑誌の上に置かれたレモン。右のほうには観葉植物らしいフォルムも見える。一つひとつのフォルムが呼吸をするようだ。一つひとつのフォルムを絵の中の形として画家は構成する。その構成によって独特のハーモニーが生まれ、詩情ともいうべきイメージがあらわれる。フォルムを発見し、空間を発見し、そこから構成が生まれるといった、そのときめきのような雰囲気が新鮮。

 山本治「赤いテーブルクロス」。赤いテーブルクロスの掛けられたガラスのテーブルの向こうに女性がリラックスして座っている。線によるフォルムとたらし込みふうな色彩の滲み合いによって、ロマンティックな空間が生まれる。

 加藤俊雄「遠い街」。中景に明るい赤い色彩が連続して輝きを見せる。背後は黄土色の線がいくつもあらわれ、巨大な円弧をつくる。下方は赤茶色のフォルムが円弧をつくっている。あいだに白がU字形に伸びたり、左右に動いていたりする。色彩が線となり、線がそのまま時間性や物語性を引き寄せ、ある秩序をつくる。画家はオペラをずいぶん愛好しているそうだが、オペラの中の様々な流れを音楽も文学性も含めて色彩に還元しながら表現すると、このような雰囲気になるかもしれない。命の輝きの背後に死の影がちらつくような、そんな陽と陰とが複雑に絡み合う独特の造形として注目した。

 坂口紀良「ベネチア」。運河を進むゴンドラを漕ぐ人が静中の動としてポイントとなっている。色彩は緑と茶系の色彩とブルー。とくに向かって左の建物の緑と運河の緑、建物に置かれたポスターの中の緑などがお洒落である。落ち着いた茶系の色彩がそれを支え、ほんのすこし窓の中に、右側だが、青が使われている。その下のテラスは左のテラスに比べるとはるかに明るい純粋な白で、そこにも青のラインが引かれている。ラインによってフォルムがつくられているが、そのラインに使われている色彩が微妙な隠し味のようになって、この香りのするようなモダンな造形のベースをつくる。向こうの橋の上に赤い洋服を着た女性が立っているのが、実に微妙なアクセントになっている。

5室

 田口貴久「樹」。地面は雪に覆われて白く、右のほうに不思議なダイナミックなフォルムがあり、その前面は暗いグレーの中に描かれ、樹木のようなあやしくうごめくものがある。風景の中にある気配のようなものを造形として引き寄せようとする。それによって、そこにあらわれてくる風景全体のもつエネルギーと気配といったものがあらわれているところが面白い。

 金子滇「立てる」。白いベージュのワンピースを着た女性が立っている。その全身像が描かれている。すこし斜めから描いている。不思議なことに、胸の下あたりにリングが浮いている。もっと不思議なのは、靴の周りに楕円状の青いものがあらわれ、まるでそこに月影がスポットライトのように当たっているようだ。その周りの床はその青に対して緑がかったトーンの中に表現されている。背後は墨をたらしこんだような闇のような雰囲気である。一人のこの女性にリングをつけることによって、不思議な親近感、あるいは聖性、様々なイメージが浮かぶ。よく聖者の頭にリングがつけられているが、この胸の周りのリングはこの女性と画家との深い関係を物語るような、そんな強い力があらわれている。そして、リアルな再現的な描写にもかかわらず、足元のまるで月の光を見るような様子がそこに加味されて、独特の心象性があらわれる。ロマンティックであると同時に、聖性とも言うべき大切なイメージがこの女性に与えられる。

 野上邦彦「思惑」。現代の寒山拾得とも言うべきような不思議な人間像を描く。油絵による水墨画と言ってよいかもしれない。木の切り株に老人が座り、左の足にはいていた靴を持ち上げ、底を眺めている。バックはオレンジ色で、樹木の幹が二つ、そこから伸び、右上方には松と思われる葉の陰影が描かれている。明るいオレンジ色の光があやしい。この男もなにかあやしい雰囲気で、靴の底を見るということは、靴の減り具合とか不具合を見るわけで、この靴が過ごしてきた長い時間というもののイメージがしぜんとあらわれる。つまり、自分の人生を眺めているような雰囲気がこの作品から感じられる。

 大庭英治「ある風景」。ずいぶん縦長の画面である。その中に青のグラデーションによってふかぶかとした空間が生まれる。あいだに灰白色やベージュ、黄色などの色彩が描かれ、風景のあいだに水が通っているようなイメージも感じられる。具体的な形ではなく、色のトーンを組み合わせながら、奥行きのある空間を表す。光というものが面白く引き寄せられている。

 髙木英章「丘の小径」。右に丘があり、左に小道が続いている。その先には大きな樹木が立っている。空はピンク色に染まって鱗雲のような雲が上方にあり、その下方には入道雲のような雲があらわれている。赤いチューリップのような花が咲いている。百合も咲いている。六月頃の景色だろうか。一つひとつの植物や樹木をクリアに描く。そのディテールの力によって自然というもののもつ命の普遍性ともいうべきものが表現される。

 大見伸「光と共に」。白い豪華船が画面の中景にある。青い海と青い空は一体化していて、二つの空間がお互いにそのまま連続するなかに上方から黄金色の光が下りてきている。近景には岩が描かれ、釣りをしているような人のシルエットが二つ。画面の中につくりだした荘厳な風景である。突き放された風景ではなく、人間と深い関係をもつ風景がそこに引き寄せられる。

 大和修治「アトリエの一隅」。壺やビール瓶やフラスコのようなものに入れられた緑の植物、透明なポットなどが薄塗りで描かれている。その繊細なトーンの中に、そのものというより、ものを包み込む空気感が表現される。

 藤田清孝「庭」。庭に切り株のようなフォルムがある。それが曲線の円弧が何重にも繰り返されて謎めいている。異界がそこに口をあらわしているような趣である。それを見ていると、そばに立つカーヴする樹木の幹も別の時間のなかに存在するようだ。向こうの床は緑色で、そこに黄金色の雲のようなものがあらわれているし、あけられた窓の向こうに一本の裸木が遠景に描かれている。床から見た庭やその向こうの床や窓の向こうの風景がそのまま異界に接し、異界の力が引き寄せられているようなあやしさである。日本はもともと縄文時代の七千年から一万年の歴史があって、アニミスティックな古神道的な世界の上に仏教や中国、様々な文化がのっかっているのだが、その縄文的な古神道的な自然とじかに接し、じかにそこから感覚を受け、そこにあらわれてくる存在を画面の中に描いているような独特の魅力である。

 島栄里子「人々 ─記憶─」。これまで死者のイメージを描いてきたが、今回の二十人近い群像は生の側に立った人間としての連帯感やヒューマニズムのイメージが感じられる。手前にはひざまずいて女の子を抱きかかえる若い母親があらわれ、そばに兄と思われる少年が立っている。夫がそばに立って遠くを眺めている。その周りに十人ほどの男女がいる。いずれも若い人のような雰囲気である。面白いことは、そのボディや間隙からピンクの炎のようなイメージがあらわれていることである。ここにいる人々もやがて死んでいくし、死んだ人もここにあらわれているような雰囲気があって、やはりしぜんと生と死という両極にまたがるところからあらわれた群像と言ってよいだろう。炎は仏画の中に繰り返し使われている。情念を表すときもあるし、煩悩を静める様子もあるし、あるいは存在の本質といった拝火教的なイメージも当然仏教には入ってきているが、そのような生々流転するものの力といったものが、このピンクの炎のようなフォルムに感じられるところが実に面白く思われる。

第56回日本表現派展

(10月13日~10月19日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 今岡紫雲英「天降川」。日本表現派賞。天降川とは障害者施設のあるところであるが、ここにあらわれている人間たちは実に不思議な表情をして、生き生きとしている。手がまた力強く、手が人間としての連帯感や深い感情やその命の様子を表すようだ。天降川は天の川と掛けられて、それをそのまま天空に置いたようなイメージである。人間の連帯感、その命の大切さを、このようなかたちで顔と手による連続によって表現する。墨色が魅力的で、独特の透明感がある。その透明感によって一種形而上的とも言うべきイメージがあらわれる。形而上的とは、つまり、イメージが画面の中で生きているということで、その空間が画面からリアリティをもってあらわれているところがこの作品の魅力だろう。この波のような動きを見ていると、やはり、その背後には一年前の津波で亡くなった人へのレクイエムの気持ちもあって、亡くなった人々を全部生かしながら、この空間の中に再生させているような、そんな豊かなイメージも感じられる。

 坂口放牛「7時29分(未完)」。淡墨によって空と雲と太陽のイメージがあらわれている。静かに瞑想しながら祈っているようなイメージ。日想観という行が仏教にはあるが、そういった心の中に捉えられた太陽のイメージが神秘的である。

 稲熊万栄「山中に嘶く」。画家は木曾の生まれである。子供の頃見た風景が繰り返し画面の中に呼び戻される。馬が上方を向いて嘶いている。その向こうにいる男。そばにこの馬の下腹部に顔を差し伸べる子馬。左のほうは斜面のようで、そこには馬を使って様々な労働をしている人々の姿が描かれる。柔らかな緑のトーンの中に青い空が浮かび、白い雲が浮かぶ。透明感のある色彩の中に記憶のなかにある情景が生き生きと表現される。

 小松欽「何処から来て 何処へ行く」。ピエロの群像である。立っているピエロもいれば、踊っているピエロもある。そんなピエロのフォルムが葦ペンによって生き生きと描かれる。このピエロたちは画家のイメージによって独特の表情を示す。シャンソンはしばしば人生の哀感を歌うが、思考するというより、深い感情によって謎をかけているようだ。そのピエロのダンスによって生きるとは何か、あるいはやがて来る死の世界に対するミステリアスなイメージもあらわれる。上下は暗く、中心が白く紙の地が生かされ、そこにピエロたちがいるわけだが、その白い部分が大きな波が立ち上がってくるような動きとしてあらわれているところが面白い。その波はまさに運命というものの象徴のようだ。そこに線描きによるピエロの様々なかたちが深いメッセージを発信する。

 前川聖牛「春の春日山」。四曲の屛風である。山が緑に染まり始めたその初々しい様子を、その起伏の中に表現する。あいだから針葉樹が立つ。山がまさに生きているといったイメージが、この風景からよく発信される。その緑の力に対して、淡いグレーの空に柔らかな黄金色に染まった雲があらわれ、その空との対照もいかにも春の景色である。

 米山郁生「焰」。海の向こうで炎が立っている。手前は一年前の津波を思わせて、流されて何も残っていない。こなごなになったものたちがそこに散乱している。それを象徴するように流木をそこにコラージュする。この作品は三枚の横長の画面の構成になっている。中心の画面の上に長方形の板にやはりこの被害を象徴するような、散乱した金属や板やネジや矩形の鉄のパイプ、あるいは糸などが置かれている。背後に星が見える。いちばん上は巨大な月のようなイメージである。その黄金色のリングの中にもあもあと様々なものがうごめいている様子は、亡くなった人々の魂が昇天し、そこに集まり、救われているようなイメージだと言ってよい。地の悲惨さに対して天がそれを癒すといった、壮大な思想を絵の中に表現する。現代の来迎図と言ってよい。平安時代のあの優しい来迎図と異なって、下方の津波の様子、その出来事の悲惨さがあまりにも激しく描かれていて、それによって月がまた変形しながら不思議なイメージを表す。黄金色のリングの外側に青から黄色、朱にわたるリングが取り囲んでいるのは、まさに一つの強い結界を作ろうとする画家の心の働きだろう。上方から斜めの銀色の線が下方に下りてきて、流木の先に向かっている。天と地を結ぶ銀色の光である。黄土色の炎の様子を見ていると、平安時代や鎌倉、室町の絵巻の中に出ている炎、あるいは不動明王の炎を思わせる。悲惨な火災が起きているわけだが、同時にその火災の中に入って一切の苦しみを焼き払いながら、もう一つの別の世界を引き寄せようとする強いポジティヴな力が、この炎に重ねられているところがこの一種異様なリアリティをつくる。繰り返すようだが、それに対する上方のリングの来迎する力が描かれているところが面白く感じられる。真ん中に大きな板が置かれ、その上に壊れた破片が置かれているが、それは壊れたものをそのまま抱きかかえるようにして、画家はそのものを持ちながら天空に上らんとするかのようでもある。

 上野千代子「結界」。子供を抱く母親。子供は死んでしまったようだ。それを癒すような深い緑。下方の水の様子。悲しみのモニュマンである。

 青木美弥子「Passacaglia」。題名は音楽用語である。樹木を思わせるようなフォルムが地面から立ち上がって、両手を伸ばすように動いていく。樹木がそれぞれ人間のように、生きているように描かれている。そして、その枝が腕のように感じられる。激しい命の歌、あるいは祈りのような、きわめて集中的な感情世界が表現される。一年前の津波の悲惨な出来事から新しく出発しなければいけない、あるいはレクイエムの気持ち、様々な思いのこめられた表現だと思う。

 阿部清「初茜(2012)」。山の上方に黄金色の太陽がいま昇り、空が茜色に染まっている。手前の川を背景に一本の松が近景に立つ。神々しい風景である。正月の初日の出を拝んでいるような、そんな清らかなイメージがよく表現されている。

 横山近子「痕跡」。水墨であるが、深いイメージがあらわれている。深い祈りの空間と言ってよいかもしれない。中心の円弧を見ていると、山口薫が自分の娘をそのようなフォルムで表現したことを連想するところがある。バックの黒い方形のフォルムの連続した様子は、建物などのイメージだろうか。そして、深い心の一つひとつの記憶のように、垂直に、あるいは斜めに黒い切り込みが入れられている。人間の記憶、その深さ、広さをこのスクリーンは表現する。

2室

 向原常「禊ぎ祓へ」。線による力強い仕事である。同時に、その仕事によって古事記の頃の神話の時代のイメージが生き生きと表現される。イザナギノミコトとイザナミノミコトの国生みの神話で、イザナミノミコトは亡くなって、それを恋しながら黄泉国に行ったイザナギノミコトは、変わりはてたイザナミノミコトを見て逃げる。それをイザナミが追い掛ける。イザナギは脱出して千引の岩をその上に置き、禊が池に入る。そして、左の目を洗うとアマテラスオオミカミが現れ、右目を洗うとツキヨミノミコトが現れる。この中心にいるのはイザナギノミコトで、左のアマテラスには太陽が、ツキヨミノミコトには月が描かれている。鼻を洗うとスサノオノミコトが現れる。その様子がすこし離れて池からのぞいている神で、泥を持っている。荒ぶる神の誕生である。そういった古事記のクライマックスともいうべきシーンを力強く描いた。空にすでに大きな太陽のようなイメージがあらわれているが、その太陽はアマテラスオオミカミとやがて重なる。

 岡川孔「湖国残雪」。日が昇り始めた頃の様子なのだろうか。あるいは日が落ちて間もない頃の景色だろうか。山々は黒く沈んでいる。稜線が朱色によって描かれていて、全体で懐かしくもあるし、神々しくもある風景があらわれる。下方には右側に湖らしきイメージもあらわれる。紺から茶色などの暗い色彩の中に朱色が鮮やかに置かれて、神韻たる表情を見せる。山稜に胡粉が白く輝く。

3室

 山本宣史「仏ヶ浦・鎮魂の舞」。仏ヶ浦は下北半島にある景勝地として知られているが、その断崖の下の水際で三人の女性が踊っている。朝鮮の服を着た三人の女性のフォルムがクリアで、独特の力がそこから発してくる。その背後の地面には金箔が貼られている。上方の断崖の白い紙の地を生かしながらの水墨の線による力と、その線がそのまま人間のかたちに凝縮する部分が面白く感じられる。

 伴操「一粒の聖地」。奨励賞。画面の中心よりやや右に赤い屋根をもつ神社が描かれている。その周りには樹木が重なって、大きな山のような形をなしている。手前に道があり、広場があり、鹿が走っている。上方から三羽の鳥が飛んで、このお宮のほうに向かっている。その後ろには満月が出ている。それぞれの形は大づかみなかたちで量感のなかに表現され、それを組み合わせながら大きな旋回する動きをつくりだす。その旋回する動きの中心は赤いお宮である。鳥も満月もお宮と深い関係をもっているようだ。いわゆる神道の世界は、森羅万象のなかにそれぞれ神と名付けて一体化するようなイメージの力であるが、そのような力が画面の中に一つの造形としてあらわれ、それによる強いコンポジションが生まれているところに注目。

 永名二委「四尾連湖の朝」。四尾連湖(しびれこ)は富士八海の一つで、江戸時代には富士講と言って、富士にお参りする講のコースとして知られている。霊気に満ちている。手前に静かな水面が描かれ、そこに樹木の影が映っている。岸辺に霧が立ち、その上方に針葉樹などの樹木が鬱蒼と茂っている様子が濃墨で描かれている。その後ろの山にも霧が立ち、山の向こうの山頂が淡墨で描かれている。まずそのようなそれぞれのフォルムの位置がしっかりしていて、その位置と位置とのあいだの空間の広がりが描かれている。その空間の中にもあもあと霧が立ち、動いていく様子があやしい。そういった動きに対して、あくまでも静寂な水の様子。水墨であるが、鏡面を見るような、そんな静かな、人の心をそのまま映しそうな神秘的な水の表現が対比される。空にはほとんど墨が入っていないが、このコンポジションで緊張感に満ちた広がりのある空間があらわれているところもよい。

 石井松琴「法隆寺・夢殿」。夢殿の有名な救世観音は聖徳太子の肖像の趣があり、日本彫刻史上の傑作である。その夢殿を画面のほぼ中心に置いて、鳳凰が現れ、夢殿を守っているかのようなイメージが、力強い水墨の線によって表現されている。下方からは雲のようなフォルムがあらわれ、黄金色に彩色されている。聖徳太子の時代から千四百年ほどたつが、大陸からの文化、あるいは仏教に対する姿勢、様々な日本人の精神の基礎を太子は築いた人であることは間違いないだろう。そういった太子の徳をしのぶような独特の精神性が画面に感じられる。

4室

 谷村祐美「むしばむ」。奨励賞。植物の命というものを人間の命のように画家は考えている。植物が盛んな時は生む力があらわれ、それが病気になると人間も病気になるようなイメージ。二人の裸の女性を描き、その後ろから葉の中がむしばまれているような、そんなフォルムを色彩で描き、女性の一人はその葉に口を当てている。裸婦の線描によるクリアなフォルムが優れているし、同時にそのデッサン力を使いながら、自然の葉をそのような寓意性の中に取り込むという表現に注目した。

5室

 難波江東次子「悠久の地トスカーナ(伊)」。奨励賞。中心に緩やかに蛇行する川を置き、そこに橋がかかり、両側に建物がある。橋の上方が建物になっている部分もある。そんなトスカーナの川を中心とした街並みのパノラマが、画面の下方約半分に描かれている。そして、その一部を拡大したようなフォルムが上方の円弧の中に入れられ、その背景にはこの街の外側に広がる田園風景が描かれている。トスカーナに感動した部分をピックアップして描くという姿勢が面白い。単に説明するのではなく、そのイメージに沿って画面が構成され、独特の動きをつくる。

 五辻節子「沫」。奨励賞。青い山の上方に太陽がきらきらと光っている。近景には海が渦をなして逆巻いている。逆巻く動きと太陽の放射する動きとが、青い山をあいだにして呼応する。アニミスティックな力を画面に引き寄せる。

7室

 油谷絵里子「まわってる?」。抽象形態であり、円弧の中に様々な色彩が入れこまれている。その全体のハーモニーが生き生きしているし、一つひとつの色のかたちが細胞のようになって、一種の強い生命感ともいうべきものがあらわれているところが面白い。

8室

 山田文行「富士浅間神社 火祭り」。富士山の上にコノハナサクヤヒメが浮いている。その手前の浅間神社に神主、そのもっと手前には人々が座っていたり、御神輿をたくさんの人が担いでいる様子が描かれている。最も下方には鳥居があり、そのそばから炎が上方に向かっている。様々なものが入れられている。それを墨の線によってクリアに描きながら、全体で強いエネルギーがあらわれる。富士を中心としたイメージの世界というと、富士曼陀羅が鎌倉時代、室町時代、江戸時代と続いてきたが、そのようなものもおそらく勉強しながら、この独特の旋回するような動きを集めながら、富士の山頂に向かう動きに収斂するようなコンポジションが生まれたのだと思う。明るい伸び伸びとしたエネルギッシュな表現に注目。

 中野大輔「十態図(駈ける・歩む・求める・めぐる)」。「駈ける」は馬、「歩む」はサイ、「求める」は孔雀、「めぐる」は蝶によって表現されている。クリアなフォルムが力強い。どこか足利時代末期から桃山時代にかけて障壁画などに使われているフォルムや装飾的な空間意識が感じられるところが面白い。古画をずいぶん勉強していると思う。中ではペガサスのような三頭の馬も面白いのだが、蝶を描いたものに心引かれた。のの字形に旋回する動きの中に様々な蝶が置かれている。一つひとつの蝶がそれぞれ違っていて、そのクリアなフォルムの連続性のなかにロマンが感じられる。その蝶は極彩色の蝶であるが、そばにモンシロチョウが同伴し、赤トンボや蜜蜂などが一緒に動いているところに微妙な味わいがある。とくにトンボというと、カゲロウという名前ではかない命の象徴のように古来、日本では使われてきた。そういった短い命をもつ昆虫たちが、このように連続して描かれると、その連続性によって長い時間や歴史、あるいは過去の記憶から未来に向かうような、ある連続した全体性に向かう心情があらわれてくる。そういった寓意性もこの「めぐる」という蝶に感じられるところが面白いし、独特の審美性ともいうべきものも表現されて、ユニークな花鳥画とも言ってよい世界になっている。

 吉村周子「時を越えて」。一〇〇号二枚であるが、一双といった趣で、真ん中に青い海を置いて、上方に黄金色の空が広がっている。ロマンティックなイメージである。「山のあなたの空遠く 幸住むと人のいふ」というカール・ブッセの詩が一時愛唱されたが、水平線の向こうにもう一つの国があるような、強い憧憬ともいうべきイメージが表現されている。空に広がる楕円状の光は様々な想念を入れて膨らんでいくようだ。なお面白いことは、海に見える部分がじっと見ていると田園を思わせるところである。青々と実った田んぼにカーヴする道が続いているような、そんな豊かなイメージが海に重なっているところが面白い。

 岩城大介「始まり」。様々な紙をコラージュして微妙なマチエールをつくる。そこに葉のような形を大きな隈取りふうな線によって、黒や黄土、茶色などによって散らす。上方に月のような円盤があらわれる。左右に不思議な形が立ち上がってくる。人間のようにも生き物のようにも樹木のようにも感じられる。自然のなかに深く入って観想し、真言密教を唱えているような、そんな不思議な空間の力に注目。

 田中浩之「夜景」。どっしりとした重厚な建物がいくつも描かれ、あいだから煙突状のものが上方に向かっている。そんな青に染まったフォルムを背景にして、女性が一人ベンチに座っている。バス停のようで、その手前の道が赤く染まっている。現代のなかに生きる孤独感ともいうべきものを歌い上げる。

第64回中美展

(10月13日~10月19日/東京都美術館)

文/高山淳・磯部靖

1室

 西川敬一「春雪湧水考」。中央美術協会賞。堅牢なマチエールが強い見応えを作り出している。灰白色の画面の中に、ぼんやりとした波紋がいくつか浮かび上がってきている。雪が溶けて水たまりになったところに上空の太陽の姿も見える。それらがどこか心象的なイメージの世界を繰り広げている。深い余韻を残す、独特の気配のようなものが特に魅力である。(磯部靖)

 千正博一「行旅死亡人」。木製の枠で作られた檻の中に、布で作られた人体が吊されている。強い死の気配が内包されている。画家は長く理不尽な死、戦禍の中の悲を激しい赤を使った大作でメッセージしてきた。今回はどこか内的な方向へと向かう趣がある。それを語弊があるかもしれないが、ショーケースとして一つの標識のようにモニュマン化して表現しているように思う。根幹の想いはそのままに、新しい方向性を見いだそうとする画家の今後の作品もまた期待させる。(磯部靖)

 後藤ムツオ「記憶の中で…」。北海道生まれの画家の故郷の風景である。こんもりとした山に積もった雪や空の白の透明感のある色彩が魅力である。そこに青や金をいれながら、自身のイメージを強い心象性を持って描き出している。過去の体験をイメージの中で再体験したような、確かなリアリティが感じられる。(磯部靖)

 堀岡正子「刻」。グレーの色彩を基調色にしながら、堅牢なマチエールで画面を支えている。画面の左側では、強い風がカーヴを描きながら描かれている。右側には壁や柱を思わせる形象を描き出している。瞬間的な風の動きと長い時間をかけて存在する壁などのそれぞれの時間というものを細やかに対比させている。力強くもあり繊細でもある風は、天地創造の時より地球に存在する現象である。そういった一瞬と永遠の狭間を行き来するような、強いイメージの力がこの堀岡作品の大きな魅力の一つである。(磯部靖)

 神宮司雅章「刻の記憶(・)(・)」。損保ジャパン美術財団賞。画面の手前に家屋などがシルエットになって描かれている。その向こうは海になっていて陽の光にキラキラと輝いているようだ。掲載写真では分かりにくいが、シルエットになった部分にはしっかりとマチエールで凹凸が施されていて、光の加減で細やかにそのフォルムが浮かび上がってくる。確かな造形力と作品全体に漂う自然の持つ呼吸のようなものが、鑑賞者の足を止める。(磯部靖)

 平沼邦子「WORK 2012」。会員賞。重厚なマチエールが、ドラマチックな画面を作りあげている。暗色と焦げ茶、赤といった色彩を効果的に扱いながら、そこに青を入れ込んでいる。深い海の底を思わせるような、心理的な奥行きが魅力の作品である。(磯部靖)

2室

 森信雄「外房御宿海岸眺望」。木版の作品。キビキビとした線によって、外房の風景をパノラマ的に描いている。手前下方に家屋の屋根瓦が見え、それが中景に連々と折り重なるように続いて行っている。さらに向こうには入江が見える。巧みに抑揚を付けながら、正方形の画面に広がりを作り出している。所々にある樹木や山の陰も効果的で、見応えのある作品として成り立っている。(磯部靖)

 黒羽根義浩「夕凪」。画面の左右にわたって架かっている橋を中心に描かれた風景である。その向こうには城や家屋が見え、下方には川が流れている。どこか孤独感もあり、透き通るような空気感もある。かすむような茶がかった色彩によって、そういった記憶の風景を呼び起こしたような印象も受ける。味わい深い余韻が残る作品である。(磯部靖)

 加藤賢亮「脱」。膝で立ってシャツを脱ごうとしている女性の姿を描いている。これまでとはまた変わって、女性の肌は赤や紫などの色彩をまだらに使いながら描かれている。女性のなめらかなフォルムとそういった独特の色彩の扱いが、強い存在感を引き寄せている。画面の左上方が少し明るくなっていて、うっすらと扉がみえる。それがもう一つの空間性を作り出しているようで興味深い。(磯部靖)

3室

 對馬文夫「灯る日(塩屋岬)」。会友賞・準会員推挙。塩屋岬の夜の風景である。遠くには灯台の光が見える。この灯台は震災後消灯していたが、昨年末頃に再び灯った。そういった何気ない復興の兆しとそれに対する喜びをしみじみと感じさせる。津波で流されてきた瓦礫がまだまだ残っているが、これもまたいずれ片付けられるだろう。対象をしっかりと描き分けながら、強い情感をじっくりと描ききっているところに注目した。(磯部靖)

 石川隆「お茶の郷」。茶畑を少し高い位置から眺めた風景である。まばらに家屋や樹木が点々と描き込まれてもいる。少し赤みがかった色彩が、この風景を実に味わい深いものにしている。誠実な描写が、そういった感情を喚起させる。(磯部靖)

6室

 酒井洋子「月」。いくつもの月を思わせる遠景のフォルムが画面の中に浮かび上がっている。そこに豊かな色彩感覚でアクセントが入れられている。それは日々の暮らしの中で出会う様々な出来事を視覚化したような印象で、昼も夜も昇る月との深い関係性を暗示しているかのようだ。激しさの中にそういった内向するような心情が垣間見られて印象に残った。(磯部靖)

7室

 今すみ子「渓谷」。画面の上方から水が流れてきている。両脇は崖になっていて、下方には滝壺ができている。垂直の瀧ではなく、急な坂になっているところを水は流れてきているようだ。なので、下に落ちた時もまた、独特の様相を見せているところがおもしろい。崖の重厚なマチエールがやわらかな水の表情と対比されてもう一つのおもしろさを作り出しているところも興味深い。(磯部靖)

 羽子岡爾朗「想」。オレンジの背景の中に一人の老人が横を向いて座っていて、その視線の先、画面の左側に二人の子どもの足が見える。微笑ましい情景である。背後のオレンジはしっかりとマチエールによって調子が付けられている。老人は水色の衣服を着ており、それが背後のオレンジと補色関係にあるが、作品の中でうまく馴染んでいるところが見所である。老人のフォルムや表情もまた強く印象に残る。(磯部靖)

 山本文代「響奏」。会員努力賞。画面の左側で一人の男がチェロを弾いていて、その曲に乗った猫が一匹おどっている。宮澤賢治の「セロ弾きのゴーシュ」を想起させる。狸や狐もいるようだ。ほのぼのとした光景である。パステルなどもうまく使いながら、作品の中のメロディをしっかりと伝えてくるところが見所である。空間の取り方もよい。(磯部靖)

9室

 竹内セイ子「真夏日のできごと」。横長の画面の真ん中上方に女の子の顔が大きく描かれている。そして、前に金魚鉢がある。たくさんの金魚が金魚鉢の中のみならず、宙にも泳いでいる。周りに十八人の女の子たちが円弧をなすように配置されている。それぞれの女の子がみんな金魚鉢を持って、中にいる金魚を眺めていたり、金魚がそこから飛び出て泳いでいるのにあわてふためいたりしている。まさにお祭りのような生命感に満ちたコンポジションである。面白いのは女の子も実は金魚かもしれないといったイメージが重なることだ。一つひとつの金魚が女の子であり、金魚鉢を持っているような、金魚と女の子が一体化したような独特のファンタジーの力が感じられる。この子供たちの白い肌と金魚色の服を着た様子、そして金魚の赤い一つひとつのフォルムそれぞれがまるで炎のようになっている。炎の形が定かでないように、金魚の形も定かでないといった趣で、ある命というものの発現がここに表現されているようだ。そう考えると、大きな金魚鉢の向こうに女の子の顔がのぞくのが、まるで中世の山越え阿弥陀のような強い力をもって迫ってくる。周りもトーンを落としたかたちで、様々な金魚の文様によって埋められているが、そこはなにか闇のような雰囲気である。そのスクリーンは定かでない人間の無意識の世界が広がっていて、その中から鮮やかに命をもったイメージがあらわれて、いまここに動き回っているといった趣で、命というもののもつ不思議な働きがこのコンポジションから感じられるところがとくによい。(高山淳)

 橋本勝「HANABI」。画面の上方からたくさんのケーブルがのびてきて、さらにその中身が飛び出ている。そして全体では扇形に構成されている。その細かな一つ一つの描写の連続が独特のテンポを作り出している。バックには青が施されていて、ケーブルを中心に放射状の効果線が入れられている。タイトル通りのまさに花火を思わせる構図である。自身の人生に長く関わってきたモチーフを、一瞬の煌めきとして花火に重ね合わせて打ち上げるというイメージが実にユニークで興味深い。これまでとはまた違った画家の幅広く、明るいイメージの広がりを感じさせる作品として注目した。(磯部靖)

10室

 深澤香世加「夏の花みずいろの風」。二人の女性を大きく開いた花々をバックに描いている。花には赤と青の鳥がとまっている。色面によって軽やかに画面を構成しながら、朗らかに歌うような魅力がある。清々しい風の中で、そういった画家の瑞々しいイメージを感じさせる作品である。(磯部靖) 

 鈴木賢一「『現実社会における対極』のアレゴリー」。準会員賞・会員推挙。蜘蛛の糸に群がるように、たくさんの人々が上方を目指そうとしている。それぞれの顔は描かれていないが、現代の競争社会に於いて、それは逆に誰にでも当てはまるということだろう。また下方には網が張られていて、落ちた人々が落下しないように護っている。それをまた天使が引き上げている。競争と救済というある種の対極的なイメージをこのように群像的に表現しているところが面白い。独特のイメージである。また、画面全体に不思議な空間性があって、画家のイメージが伸びやかに展開しているところも興味深い。(磯部靖)

11室

 リーサナエ「ブレイクダンス」。準会員推挙。ブレイクダンスを踊る若者を伸びやかに描いている。重心をしっかりと持たせていて、デッサン力もある。確かな描写力を感じさせる作品である。(磯部靖)

12室

 山神陽「滝に遊ぶ(昼の月)」。独特の世界観が魅力である。滝壺の周囲に二人、画面の左手前に一人の女性がいる。ゆったりとした時間の流れが、ぽっかりと浮かんだ月も相俟って鑑賞者を惹き付ける。画面全体に輝くような黄金の色彩を感じさせるところも、どこか神話的で印象深い。(磯部靖)

18室

 中田孝美「山ざくら」。画面の左側や下方から桜が枝を伸ばし、たくさんの花を見せている。その向こう側には水色の月が浮かんでいる。まるで月を隠すように、まだまだ伸びていきそうな勢いである。そういった強い生命の力が鑑賞者を捉えて放さない。絵具をじっくりと重ねた重厚な画面もまた魅力である。(磯部靖)

第39回創画展

(10月21日~10月28日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 植田一穂「水仙花」。柔らかな隈取り筆のような筆で太い輪郭線によって三つの花が浮かぶ。地上の花というより、宇宙の上に花の形を追い、その軌道をつくっているうちに花になったような、そんな不思議な印象がある。軌道の中から花びらが浮かんでくるような印象が面白い。バックの緑の空間も無限空間のようなイメージである。だから、これは花でなくとも星でもいいわけで、そういった宇宙の中に軌道をつくり、軌道の跡が形になるといった、そんな造形力に注目。

 平山英樹「凪の壁」。石を積んだブロックの向こうに白壁をもつ建物が見える。下方には低い樹木が並んでいて、近景に白い点々とした小さな花が咲き乱れている。中には青い花もある。そこから画面の上方に転ずると、崖のようなものがあり、その上方にもう一つの地面があり、木立がある。そうすると、左の建物はこの崖の中に彫り込んだようなかたちで造られているのだろうか。上方の空が明るく、壁が明るく、下方の花の咲く地面がほの明るい。それ以外は暗いトーンの中に置かれている。強い祈りのようなイメージがあらわれている。同時に、長い時間が刻みこまれた僧院のようなイメージと自然の姿が対比されているような趣もある。徹底的にディテールを追いながら、そのディテールが深い謎めいた時間を表すようだ。

 藤田志朗「月の雫」。花が咲き乱れている。空には巨大な満月が下りてきて、花が浮遊しながらそこに向かっている。そうすると、この満月は浄土といったもう一つの世界のイメージと言ってよいだろう。強いコンポジションに注目。

 柴田長俊「High Moon」。白い雪山が連なっているのが遠景で、上方に満月が現れている。月は板を白くしてコラージュされている。稲架木(はさぎ)のような裸木が中景、近景と立ち並んでいて、下方に雪が積もっている。その雪の部分は板を彫り込んだ溝が独特の文様をつくる。六本の杭のようなフォルムを風景の中にコラージュし、その上からフォルムを描く。風景の中にある手触りのようなものを強く画家は求めるところから、このような表現が生まれたのだろうか。独特のダイナミズムが魅力。

 宮城真「刻」。ヨーロッパの草原の中に点々と町があるといった雰囲気で、あいだを川が流れている。その大きなパノラマの上方に半円状の虹がかかり、その中に黒い雨のようなものが下りてきている。不吉な雰囲気である。チェルノブイリの原発事故のあとのイメージ、福島原発のイメージなどもそこに重なっているのだろうか。自然を壊す存在が不気味な黒い雨のようなフォルムになってあらわれている。にもかかわらず、その上方には虹がかかっているところが強い印象をつくりだす。虹はもう一つ、上方にかかっていて、その虹によってだんだんと浄化されていくような、そんな祈りのようなイメージが感じられる。

 津田一江「プラネットアース」。星としての地球、神秘の地球のイメージを独特の動きの中に表現する。光り溢れるものが下りてきて、地面を染めている。地面と水と光という原形的なものによってインスパイアされるもの自体を描こうとする。インカネーションという言葉がある。それはある思念とか精神が肉化することを言うのだが、肉化しているものから逆に神的なもののほうに向かおうとする。

 海老洋「烏トツノ」。ベンガラふうな色彩をまず置き、その上から黄土を置いて、ところどころ彫り出すことによって、ネットやフォルムなどをつくる。手のこんだ仕事になっている。ネットの中には白牛がいて、ネットの上にカラスが六羽ほどとまり、何か会話をしている。その黒い鳥が金平糖のようなものを口にくわえているのが三羽いて、面白い。その金平糖のようなものは牛の前の球体の中にも入れられている。それを眺めている線描の鳥が下方にいる。対象を突き放すのではなく、対象と自分自身とを重ねたいと画家は望んでいるようだ。対象と自分とが分離するところからあらわれた形象ではなく、その重なるところからイメージを引き寄せて空間をつくる。独特のアンティームな世界がそこに生まれる。金平糖が星であってもかまわないわけで、そういったものを引き寄せながら、牛も鳥も同一レベルのものとして表現するところから、この独特の詩情ともいうべきものが生まれる。

 神保千絵「ELECTRON TUBE JAN 5R4WGB」。奨励賞。マチエールに独特の手触りがある。テーブルの上に二つの輪をつくるしゃもじのようなものが立ち上がってくる。あいだに二つの円筒があり、折り尺のようなものがリズムをつくる。しっとりとしたテーブルの上の幾何学的な形に情感が生まれる。そのままテーブルの上が不思議な風景と化す。

 目黒祥元「潜思の峰」。崖の上によく教会などが造られているが、そういったヨーロッパの中世の風景のようだ。それを山々が囲んでいる。その表現は一種山水ふうな表現で、それに対して中心のフォルムは独特の立体性の表現である。そして、光の中に陰りが生まれて、この建物が心の中の存在のようなイメージを醸し出す。

 重政啓治「田の稲山」。稲を刈って、その藁を集める。それがこの黒い三角形の点々としたフォルムのようだ。そして、あいだに数字が入れられているのが独特のリズムをつくる。この数字は刈られた稲の株を表すと画家から聞いた。刈田の光景の中に一種の音楽を聴いているようなイメージの展開から、この独特の生気が生まれる。即興性があって、ジャズのスイングのような雰囲気もある。

 松谷千夏子「Flow- I」。創画会賞。足を上方に伸ばして仰向けになった女性のフォルムが、線によって表現されている。繊細な力強いフォルムである。バックは無地で、その中に描かれた線による勝負である。そこに独特の情感が生まれる。お洒落で上品なモダンな感覚に注目。

2室

 田尾憲司「濁点」。テトラポットを思わせるようなフォルムが並んで重ねられて奥行きをつくる。背後に線描きの樹木の幹と草を思わせるフォルムがあらわれる。線によってつくられた高い櫓のようなフォルムも浮かぶ。一年前の津波の大惨事に対する深いレクイエムの表現のように感じられる。線描きのバックの幹や枝や葉は希望の象徴のように描かれている。独特のモニュマン性の強いコンポジションに注目。

 佐藤豊「今日の悲しみが明日の空に ・」。女性を抱く恋人。そのそばで女性が花の茎のようなものを持って立っている。祈りのようなイメージが漂う。色彩に独特の純粋さがあって、そのハーモニーが魅力。

 加藤敬「飛行時代」。ベージュの正方形のフォルムが箔を置くように画面に繰り返し置かれて、独特の韻律をつくる。上方に舟形の黒いフォルムがあらわれる。深い陰影がそこに表現される。画面全体にあるリズム感と同時に、その黒のもつ奥行きが面白く対照される。

 河合幸子「啓蟄」。冬が終わり、春が来ると、地面の中に様々な生き物が蠢き始める。そんなイメージを、女性が手を大地に当ててしゃがんでいる様子によって表現する。緑やグレーの色斑によって上方に二頭の牛があらわれる。画面全体にもこもこと、たしかに啓蟄ふうに動くようなムーヴマンがあらわれているところが面白い。また、しゃがんだ女性の横から見たフォルムが生き生きとしているところも魅力。

4室

 本田郁實「チームワーク」。三つの椅子が描かれているが、生命感をもった椅子である。まるで人間のようだ。下の二つの椅子は踊っているようだし、元気が余って壁をよじ登っていくような左上方の椅子がある。椅子を人間のように扱ったコンポジションである。生命力に注目。

6室

 喜多祥泰「夜の杜」。逆三角形のようなフォルムがコラージュされ、その後ろには植物の葉がやはりコラージュされている。星のような手裏剣のようなフォルムもコラージュされている。上方のコラージュには孔雀の羽のようなフォルムがつけられていて、めでたいような光が溢れてくるような、そんなイメージを装飾的に表現する。

 近藤鋼一郎「花」(左隻)。水墨による激しい幹や枝のフォルムの中に可憐に白い花が咲いている。梅の木を思わせる。動きと同時に、そこに咲く可憐な花の様子が一種仏画ふうなイメージを引き寄せる。

 青木明日香「明ける道」。高速道路のようなものが上を走っているのだろう。その壁が向こうに続き、そばに道が並行している。道は上り坂になっている。空はいま明けそめて、明るい黄色い色彩などが溢れつつある。地面はまだ夜で、青黒い色彩が徐々に後退しつつある。このベースの中をくり抜くように向こうに行く道が左にある。なにか深い感情世界が表現されているように思われる。

 齋藤文孝「山水景 1」。薄い和紙に墨で線を入れ、上からまた胡粉のようなものを置いて、また線を置く。それによって空間に奥行きができる。自然のもつ気配のようなものが濃厚にあらわれている。見ていると、水や地面に生える雑草などのイメージも浮かぶ。独特の命の気配が強くあらわれ、光がそこに引き寄せられる。

7室

 松本祐子「春奏」。平安時代に、継紙といって紙を変えながら、その上に大和絵や書を描いたものがあるが、バックの空間がそんなふうになっている。長い樹齢をもつと思われる桜が枝を広げている。枝垂れ桜で、たくさんの花をつけている。ピンクや白などで、一つの木から二つの色の花がついている。柔らかなハーフトーンの中に彩色されたその様子は、優しく豊かな雰囲気である。樹木はシルエットふうになっていて、一見すると平板であるが、よく見ると、奥行きのあることがわかる。

 宮いつき「夏屛風」。ガマの穂やカンナの咲いている様子が近景にあり、遠景に睡蓮が水の上にその葉を広げ、花を咲かせている。あいだにカラスアゲハがゆるやかに飛ぶ。あいだの空間が大きく紙のままあけられている。夏の一刻をこのようなかたちでアレンジしながら、バックの紙のベージュが夏の日差しに輝いているような表現に注目。

 池田幹雄「北の海峡」。手前に教会があり、左に建物があって、白いアンテナが上方にのびている。中景に船が進んでいる。遠景にもっこりとした島のようなフォルムが見える。水平線近くに満月を思わせるフォルムが浮かぶ。全体に独特の韻律がある。強い音楽性を感じる。音楽のもつメロディがしぜんと教会や船、月などを引き寄せたような、そんなイメージの展開に注目。

 大森運夫「モロッコ回想」。ヨーロッパのロマネスク芸術から深い影響を受けた画家である。バックには石を積んだ城壁があり、中がアーチ状にくり抜かれている。手前に数人の人がいて、果実の入れられた籠に向かっている帽子をかぶった男や、そばにはニカーブをつけた女性が籠を持っている。それぞれのフォルムが簡潔で力強い。素朴な生活を営む人々の群像である。そして、後ろ姿を見せる人はこれから旅に出ようとするのだろうか。簡明な形が人間のもつ存在感をよく表現する。

 稗田一穗「入日迫る海峽」。遠景に墨により山が描かれている。手前左に断崖があって、松のような植物が見える。右のほう、近景も断崖で、そこにも樹木が立っている。その三つの山を見ていると、古代の日本の様子がそのままあらわれているようなあやしい雰囲気である。海はくすんだ銀色で、そこに一艘の白い船が進んでいる。その白い船のイメージはずいぶんモダンな様子。周りの古代の日本のようなものに囲まれた海を、いまのモダンな船が進んでいる。稗田の作品はそのような古典的なものとモダンなものとが微妙に組み合っているところが特色だろう。そして、上方に真っ赤な太陽が出ている。古代朱の色のようだ。なにか懐かしいものがそこに感じられる。手前に薊のような花が咲いているのが繊細で美しいアクセントになっている。

 石本正「薊」。地面から生えている薊。ピンクの花が点々と咲いている。尖った葉が伸びている。その全体を見事に画面の中に表現する。デッサンのたまものである。その茎から生える葉と花の様子を見ると、まるで地上に咲いた星のようなイメージさえも感じられる。数本の薊の全体を絵の中に描く力に感心する。現実は、そのまま不思議な画家のフィルターを通って絵画の中に生かされた不思議な存在となる。

 滝沢具幸「原野」。青や緑や紫色、茶色などをたらしこんだような雰囲気で、韻律のある空間が生まれる。真ん中あたりに黄色い色彩が広がっている。大地の中から静かに輝くものがあらわれたような雰囲気である。また、満月がこの地面の中に入りこんで、静かに光を放っているような印象もある。あるいは、なにか不思議な涅槃図のようで、そこに釈迦が寝そべっているような雰囲気もある。ほとんど具体的には何も描かれていない空間が、そのようなイメージを発信してくる。横の動きに対して斜めの線が入って、それが大地の表面にも地中深くにも広がる根のようなイメージを醸し出して、空間全体を統合し、息づかせる。

 烏頭尾精「京の景・西方」。緑がかったグレーの大地がはるか向こうまで広がっている。中景に建物のようなものが連続してあらわれ、地面の起伏がその手前にあるようだ。そして、斜めに道が走っている。その大地は画面全体の五分の二ぐらいで、上方は空である。ベージュのニュアンスのある空の中に白い円盤がある。太陽だと思うが、単に太陽という以上の象徴的なイメージが感じられる。時間や歴史というものをつかさどる存在のような、そんなあやしい雰囲気がある。そして、その上方に雲がぐんぐんと動いていて、その雲がよじれるところに鳥の影があらわれて、三羽の鳥が左方向に向かって動いている。その鳥は地上の歴史を眺める存在のようだ。あるいは、時間をさかのぼる心象がこの上方の鳥のようなシルエットに感じられて、それもまたあやしい。そして、その上方にほんのすこし青い空があらわれている。画家の独特の想念の力によって空も地面も不思議なひずみ方をしながら、歴史というものの不思議な味わいがあらわれる。芭蕉に「月日は百代の過客にして」という言葉があるが、そんなイメージが浮かぶ。

 圡手朋英「海道」。山が幾重にもつながってはるか向こうに続く。海がきらきらとした波をつくっている。一艘の白い船が進んでいる。近景には松のような樹木が並んでいる。風景を一種象徴的に図像化した面白さからくる詩情に注目。

 奥村美佳「夕風」。創画会賞。小さな湾が描かれている。そこに接するように瓦屋根の民家が集合している。背後は低い山である。水が静かに建物を映して、その水の波紋がだんだんと広がってくる。左のほうには竹林があり、風に揺れているような趣である。ひっそりとしながら、この集落と自然と水とが一体化しながら独特のメッセージを発信してくる。この堤防や石垣によって囲まれた水を眺めていると、だんだんとその中に引き込まれて、時間をさかのぼるような雰囲気もある。場所はわからないが、ある田舎にこのような集落がきっとあるのだろうという気持ちに誘われる。それは画家のイメージの強さによる。

 佐藤晨「青い月」。中国の桂林を思わせるような断崖の石でできた山が連なっている。遠景には白い滝が見える。崖の上に大きな鷲がいる。そして、青い月を背景にしてもう一羽の黄金色の鷲が飛んでいる。不思議なファンタジーである。青い月はそのまま青い星、地球のイメージと重なる。民家とか人間は姿を消して、崖から葉をつけていない樹木が屈曲しながら立ち上がってくる。山の奥深いところにある自然の姿を独特のファンタジックな空間の中に表現する。

 佐々木弘「慈界万緑」。地面が起伏しながら中景に向かい、そこは湖になっている。そして、その遠景に青い柔らかな山並みが見える。ところどころ植物のあいだから針葉樹が伸びている。左のほうに白い花をつけたような不思議な樹木がある。まるで星をそこにばらまいたような雰囲気である。上方に太陽がのぞく。緑を中心としながら、大地の広がりの中に湖や山があらわれ、豊かな自然の恵みのイメージがあらわれる。

 片柳勁「幻影(ろ)」。創画会賞・新会員。馬の上に人が乗って棒を持っている。そこから布が垂れているから、きっと旗なのだろう。それを眺めている上方の太陽の化身のような顔。そこから腕が伸び、不思議なものを先に持っている。その腕の中に円が無数にあらわれ、そこには祈る人のシルエットがある。なにか日本の古神道の世界を思わせるところがある。太陽は天照大神という名前になっているが、水にも風にも神が存在する日本の神道ときわめて深い関係の世界が、図像的なかたちで描かれているように感じられる。形而上的な空間が図像によって表現される。

 浅野均「片雲断処孤月輝」。緑の山が輝いている。その中に抱かれるように小さな三つの民家がある。いちばん近景は畑で、黒々とした地面が見える。長い弦月が山近くにあって、黄金色の雲が空に浮かぶ。自然も雲も月も画面の中に生きているような、そんなオーラの中に表現される。画面の奥底から光があらわれ、光がこの風景や空全体を染めているような不思議な輝きのある作品である。一種鎌倉時代の仏画にも通ずるような観法による自然が表現される。

 羽生輝「晩照(北岬)」。岬の上の灯台が遠景にある。黒い海。手前は草ひとつ生えていない大地で、その上方に不思議な船のマストを思わせるようなフォルムが立ち上がり、そばに民家があり、民家から伸びる煙突から煙が出ている。厳しい自然の中に独特のロマンが感じられる。空が残照の中に黄金色やオレンジ色に染まっている。茶系の色彩のヴァリエーションの中に独特の輝きがあらわれる。

8室

 松井周子「紫苑日記」。こんもりとした山、そのバックに黄土色と茶色を混ぜたような山があって、その二つの色彩の対比が鮮やかである。その上に浮いたかたちで星のような小さな青い花がいくつも咲いている。右上方には青い色面があって、それは地面を上から見ているような構図になり、そばに蔓のような植物が伸びている。大地を角度を変えながら画面に引き寄せ、そこに装飾的に花をあしらう。独特の審美性と同時に新しい花鳥画のような雰囲気がある。日本の花鳥画には、背後に神道的な宗教意識があるから、そのような信仰的なイメージも必然的にあらわれる。

9室

 森本政文「標」。上方にドーム形の教会のようなフォルムが見える。その前は地面で、ところどころ建物がある。その下方に様々な建物がモンタージュされるように繰り返されている。そして中心があけられて、白い建物がやはり重ねられている。その建物のクリアなフォルムをモンタージュするように重ねながら、独特のリズムをつくりだす。幻想性が反復される中に、あるリアリティをもってメロディのように立ち上がってくる。

10室

 田中彩乃「土の底」。裸木に囲まれた地面の中に枯れたような朽ちたような木が置いてある。それがまるで死体のようなイメージで、強い存在感を放つ。そばにほんのすこし水もあるようだ。大地というもののもつ力、その死と再生の両方を取り込んだ生命的な存在をこのようなかたちで表現する。そこに独特のマチエールも生まれる。

11室

 吉川弘「Bheraghat」。インドの一風景である。水が大きく広がっていく中に島のようなものがあったり、洲があったりする。対岸は低い地面が続いている。そのはるか向こうに明るい黄土の山が見える。大地の広がりをよく感じさせる。その広がりの中に水がある聖性をもって引き寄せられる。不思議なコンポジションで、左右にいくらでも伸びていく動きの中に、よく見ると、遠景のほうにも向かう動きがあって、その中心が水である。コバルト系の柔らかな水が独特の一種宗教的な気配さえも漂わせる。

 星野哲弘「散華追想」。板に彫り込んで上に彩色した、手のこんだ作品である。中心に蓮の花が咲いている。右上方には葉が黒く開いている。花のそばには花托になったものもある。死と再生の物語を象徴的に描いている。ところどころ大きな花びらが散って落ちている。蓮をテーマにして何十年にもなるが、一つひとつ彫り込みながら、それを行のようなかたちで繰り返す。いわばお経を唱える代わりに彫り込みながら、蓮を通して死と再生の物語を表現しようとするかのようだ。

 池田知嘉子「循環する日々」。しんとした雰囲気で、内的な世界のもつリアリティを感じる。近景にサリーを着た女性が立っているが、その後ろに乳飲み子を抱きかかえる母親がいる。もう一人の女性もその子供を眺めている。それが幻のように浮かび上がる。遠景には小さな家があり、煙突がある。手前の女性の周りに白い樹木が脇士のようにその枝を伸ばしている。手前の女性もなにか幻のようである。フィジカルなものというより、霊的な魂の存在を画面の中に表現する。

 佐藤光儀「さざ波の記憶 ・」。何層にもわたって水が動いている。水の動きがそれぞれ速さも違い、微妙に表情を変えている。渾沌とした雰囲気の中に動いていくものがある。水の流れは絶えないという言葉があるが、時間というものがそこに重ねられているような不思議な味わいに注目。

12室

 谷井俊英「旅の記憶(小長井の海)」。海岸沿いに線路が続いている。途中で線路が二つに分かれ、また一本道の線路になって続いていく。その向こうには海が見え、島が見える。左側は民家が立ったり、コンクリートによる山の補強になっていたりする。柔らかな緑のトーンの中に茶褐色の上の銀色のレールが続いていく。柔らかな緑が懐かしい。手前の樹木の緑もそうだし、それ以上に海の緑が憧れといった気持ちを起こさせる。俯瞰した構図であるが、どこか夢の国に誘うようなコンポジションである。

 梶岡百江「たそがれ」。それぞれの形が面白い。たとえば左のほうに二つの建物がある。手前は二階建ての民家で、その向こうは工場のような建物で、その向こうから太い煙突が伸びている。その太い煙突と手前の建物との大きさからすると、実際にはありえないことだと思うが、それが絵の中ではおさまって、あるイメージを発信する。手前の民家のベージュの壁と窓などは、独特の詩的なイメージを醸し出す。その右側が道になっているが、広場のように広くなっていて、そこに前掛けをした男が立っている。その後ろ姿が描かれている。すこし後ろに小さな子供用の三輪車がぽつんと置かれている。地面は赤茶色で、ほぼ同色の色彩を明るくした空が向こうに広がっている。道は向こうまで上り坂になって、その頂点で空と区切られている。その向こうにシルエットのように小さく山のようなものや樹木が見える。人もいて、犬もいる。電信柱が四本。右のほうは畑のようで、すでに夕闇に包まれている雰囲気で、柳のような木や瓦屋根の民家が小さく描かれている。空は前述した暖色から、上方に行くに従って水色に変わる。強いノスタルジックな心象を喚起する。煙突からすこし煙が上っているが、時が静止して、ある強い心情的な空間がそのまま永遠化しているような雰囲気であるところも面白い。

 小西通博「夏を追った日々」。両側に樹木が立ち、あいだに植物が繁茂し、その向こうに白い道が続いて下り坂になっている。中景は湖のような雰囲気である。緑の扱いが上手で、緑の様々な陰影がこの作品の魅力をなしていると思われる。また、もののつかみ方が洋画的で、面ではなくマッスとして捉えているところからくる空間表現にも注目。

 中尾壽男「緑韻」。崖をつたって二筋の滝が下りてきている。上から水をぶちまけたように白い水が手前に下りてきている。三つの水の動きが面白く対照されて、独特のムーヴマンが生まれる。

13室

 雲丹亀利彦「夏の終わり」。黄土色の様々なニュアンスが面白く扱われている。また、マチエールも地面のようなところとか、壁のようなところ、あるいはすこしつるつるとしたところなどの変化がある。画面のほぼ真ん中上方に不思議な窓のようなフォルムがある。その一つが黒ずんでいて、まさに夏の終わり、晩夏といったイメージがあらわれる。錆びた金の箔がところどころ入れられて、リズムをつくる。向日葵が頭を垂れてドライフラワーになりつつある。晩夏の音色をトランペットが歌う。そんな夏の終わり、しかしまだ秋は来ない季節の分かれ目のようなイメージを、ひっそりと表現する。華やかでありながら、もの寂しい気分が漂う。

 武田州左「光の采・ 802」。画面の四辺から直線に、あるいはカーヴしながら、中心に集まる動きがある。その動きは赤で表現されている。あいだに青や緑のストライプや色斑があって、ダイナミックである。絶対的に心が高揚しているようなイメージがあらわれている。放射するというより、凝縮して中心に集まる強い動きが、聖なるもののイメージを宿す。

 渡辺章雄「風景」。中心に夕靄の側面から見た建物の形があり、そのフォルムは大きさや比率が微妙に異なりながら点々と置かれ、あいだに矩形のフォルムが集積している。全体で不思議な韻律があらわれる。黄色、グレーなどの中に黄金色の矩形が入れられていて、それが独特のしっとりとしたイメージをつくりだす。背景は茶褐色で、宙吊りになった集落といった趣である。それぞれの建物が集まりながら、全体で合唱するようなイメージがあらわれる。

 久世直幸「流転─空」。五〇〇号ぐらいの大画面である。空がほとんどのスペースを占める。下方に丘と思わせるフォルムが見える。空の中に何かが動いている。大きな刷毛で筋をつけながら、カーヴする動きを入れて、中心の黄色く光る部分で絡み合っている。輪廻転生という言葉がある。輪廻していく動きのような、不思議な霊的なイメージが空にあらわれているところが面白い。

 松倉茂比古「LA VITA 『夕間暮れ』」。崖の上に教会のような建物が見える。崖にグラデーションや手触りのあるフォルムがつくられて、まるで何万年もの地層、時間の堆積を見るような思いに誘われる。そういった地中までも含めてざっくりと切り取って、上方に教会のある風景を画家は構成した。その地中に直線の光のようなものが幾本も入れられている。それは時間の中を貫通して生きている聖なるもののイメージだろうか。いずれにしても、崖の強い手触りのある表現が面白い。そこには生きて死ぬことを繰り返してきた人間の様々な思いが閉じ込められているようだ。それに対するように、教会を中心とした一つの集落が描かれ、上方には空のようなイメージもあらわれる。イタリアに学び、イタリアの歴史から深い影響を受けた画家である。日本の町は戦争でほとんど焼かれてしまったが、過去のものがそのまま残っているイタリアの街からインスパイアされたイメージを、だんだんと掘り下げていく。

 加藤覚「東京スカイツリー」。十四枚の横板を並べて画面にしている。スカイツリーが銀色の箔を置いた表現で、上辺を突き抜けて聳えている。下方は水のような雰囲気である。夜のスカイツリーと建物などを抽象的に扱いながら、華やかな雰囲気をつくる。地面が水に濡れて周りを映している。ファンタジックで華やかな空間を創造する。

14室

 玉野碧「エンテイ」。古いピラミッドのような、石を積んだような建物が遠景にある。地面にはたくさんの杭があり、その杭に布が巻き付けられている。その連続した遠近にわたる姿には、なにか異様なものがある。深いレクイエムのような雰囲気もあるし、孤独な人間が一人一人ぽつんと立ちながら、群衆として地面の上にあらわれているような趣もある。それを歴史の象徴のような遺跡が眺めている。

16室

 古賀友佳子「久遠」。はるかに山を望む風景である。空が一部黄金色に染まっている。近景には樹木が伸びている。そのあたりは水墨のたらし込みふうな表現になっている。下方に大地が鈍く黄土色に光っている。空の灰白色と金との組み合わせと樹木や道とが懐かしいロマンティックな雰囲気をつくる。装飾的な要素とドローイングの要素とノスタルジーの要素とが絡み合っているところが面白い。

 川原文「うつろいゆく」。手前に池があり、池から枯れた茎が伸びている。蓮池のような雰囲気である。上方に岸があり、枯れた雑草が生えている。水も地面も深い表情をしている。水や草、とくに水に自分の思いを重ねているような、そんな豊かな心象風景の広がりと深さに注目。

18室

 岩﨑大作「デブリの海」。アンフォルメルふうな勢いのある画面である。黒、グレー、そして上方に白の上に銀が置かれたようなフォルムが置かれていて、強いエネルギーを感じる。あいだに青が染料的な色彩で入れられている。いずれにしても、生命の輝きのようなイメージを面白く表現する。

19室

 村松詩絵「対話する夜」。二つの家が対称的に置かれて、後ろに白い樹木が枝を伸ばしている。そのあいだに様々な矩形の箔が貼られている。道もストライプのところに犬を連れた少女や座った人間や屋台の人などがいて、全体で独特のリズムが生まれる。ずいぶん音楽的な感興を覚える。それぞれのフォルムがそれぞれの音譜のように画面に配されて、楽しいアンティームな旋律が流れてくる。上品で、べとべとしていない。とくに灰白色の扱いが魅力である。それと背景のチャコール系の色彩のニュアンスとが響き合う。

 土方朋子「渡り」。ずいぶん縦長の軸のような比率の画面である。ベージュのバックに黒い絵具で円弧を繰り返し描いている。そのリズムが面白い。ベージュと黒とが微妙なハーモニーをつくって、お洒落と言ってよい雰囲気が生まれる。下方は密集しているが、上方になるとグレーの空間が大きくあけられて、そこにすこしの草が生えているような印象になっている。間の取り方も面白い。風が画面の中をわたっているような、そんな印象も魅力。

第63回一線美術会展

(10月21日~10月28日/東京都美術館)

文/磯部靖

1室

 湊圭子「仁智… 友干… 友諒」。東京都知事賞。正方形の画面に七人の人物の姿が描かれている。背後にはたくさんの時計をイメージさせる形象が浮かび上がってきている。強い絆によって結ばれた家族や友人、師弟でも、時の流れによって、その関係性は複雑に変化していく。変化しながらも、やはりその絆は失われたりはしない。時が過ぎれば生まれる命もあるし、失われる命もある。出会いもあるし別れもある。そうやって連々と続いていく絆が、この肖像によって描き出されているようで興味深い。青や茶、赤、黄などの色彩を重厚なマチエールで支えながら、画家の深い愛情を感じさせる作品として注目する。

 藤森千重子「日食の朝」。岩井賞。一人の女性がこちら向きに座っていて、その後ろにもう一人が後ろ向きに座っている。画面の上方右上には金環日食中の太陽が浮かんでいてその左には三日月がある。少しずつ少しずつ進んでいく日食が、緩やかな時の流れを感じさせる。また、その円が女性の手にある青リンゴと静かに響き合っているところがおもしろい。どこか心象的な要素を含みながらも、何十年に一度の日食と、日々変わらない日常の風景を対比させながらも調和をもって一つの画面の中に描き出されているところがおもしろい。女性の何食わぬ表情もまた強く印象に残る。

 髙木八重子「吉野山幻想」。大地いっぱいの桜の花のピンクが実に心地よく感じられる。左右のパートでは左に太陽、右に月が浮かんでいる。この日々を繰り返しながら、長い時間吉野の里は自然を育んできた。そういった自然賛歌を画家は幻想的に、そして朗らかに描き出している。うまく色面を使いながら、豊かな情緒を作品に引き寄せてもいる。

 岩田司「終着駅」。電車が入ってきたホームに一人の男がシルエットで描かれている。シルエットは黒ではなく少し茶がかっていて、どこか人間臭さを感じさせる。電車の窓からも男の顔が見える。二人は同一人物で自分自身の姿を見つめ合っているようだ。終着駅はよく人生の一区切りにたとえられるが、やはりこれは画家自身の深い想いが引き寄せたテーマなのだろう。しかしながら、終着したからといって、また出発すればよいのであるし、そういった前へと向かうイメージも込められているように思う。いずれにせよ、コクのあるオレンジ系の色彩を電車の外側やシルエットの輪郭などに効果的に使いながら、じっくりと画面を描いている。そういった深い心情が、鑑賞者に深い余韻を残す。

 長島美勝「世尊の弟子たち」。ブッダと十大弟子をモチーフに描いている。一つ背の高いブッダが、画面のやや右寄りに立っていて、目を閉じ心臓の部分に両手を寄せている。その手前には左右に五人ずつ弟子が並んで立っている。どれも細身で、光背を背負っている。それによる独特のテンポが印象的である。衣服やバックなどの色彩は抑えられていて、深い思念の世界へと繫がっていくような、不思議な気配が漂っているところが特に魅力である。そういった吸引力をもった群像表現として強く印象に残った。

 橋本光「風跡、―青雲忘我―」。港の風景に学生たちが入り込んでいる。それぞれが好き勝手なことをしている。絵を描いたり、手紙を渡そうとしたり、気球に乗ったり。一つのことに夢中になってしまう青春時代の様子が、生き生きと描写されている。横浜港にスケッチに行ったということだが、そこに自身の過去のイメージを重ね合わせて、どこかほろ苦い感情を含ませているところが特に見どころだと思う。また、じっくりと施したマチエールによってそういった豊かなイメージの世界を支え、強い臨場感を作品へと引き寄せている。

 外川攻「望郷」。深い海の底を思わせる紺色の色彩の中に一匹の鮭が描かれている。鮭は水槽のような矩形の枠の中に入れられている。上方には星が煌めき、月も小さく輝いている。どこかロマンチックでありながら、空を見上げる鮭の姿に一抹の悲しさを覚える。この鮭が自身の居た場所、ありし日の記憶をイメージしているように思えてならない。鮭の眼前には携帯電話が置かれていて、さらにその左の矩形の中には、震災とそれによる津波を象徴する一本松が小さく描かれている。戻るべき故郷がなくなった被災者たちに想いを馳せながら、それを生まれた場所に戻る鮭をメタファーに描く画家の豊かなイメージに強く惹き付けられる。他者との連絡手段である電話をポイントにしながら、深い情感を作品に引き寄せている。

 髙橋留三郎「見つめる」。横を向いて立っている女性を大きく描いている。女性の見つめる先には、小さく街が描かれている。周囲は茶がかったグレーで独特の空間が広がっている。確かなデッサン力によって描かれた女性は、想いのあるその街を見つめているのだろうか。どこか悲しげである。様々なイメージが鑑賞者の脳裏に浮かぶが、そういった刺激を知らず知らずのうちに受けてしまう。画面全体がそのような仕掛けになっているのかもしれない。いずれにせよ、その確かな描写力、表現力がそのイメージを支えているといっていいだろう。

 近藤弘子「想―西~東へ」。画面の左側の暗色の部分に、女性が一人描かれている。右側には太陽がその光を放っている。女性は目を閉じ、想いに耽っているようだ。女性のフォルムを象(かたど)っているなめらかな線の流れが気持ちよい。画面の中央あたりの暗色の部分に土地の翼も見え、女性のイメージの羽ばたきを暗示させるようで興味深い。

 髙橋克人「ある風景」。津波のイメージが含まれているのだろうか、船や街が海の中に沈んでいっている。全てのものを破壊し、飲み込んだ津波はとても悲しい出来事ではあったが、そこで失われた魂がせめてあの世で健常に過ごしていれば、という祈りのイメージを感じさせる。その中には鳩も描かれているが、それもまた祈りと希望の象徴のように思われる。モチーフはやわらかな様子で描かれていて、画家のやさしくあたたかい心情、強い情感を感じさせる。

 笠原久央「帰還=銀河の夢あるいは波紋=」。一線美術文化賞。大きな白菜が画面の中央に描かれて、それが澄んだ池に浸かっている。白菜の上方は切り取られていて、そこに小さな宇宙空間が見える。長い時間をかけて宇宙を探査し戻ってくる探査船は、世界的な事業でありニュースである。その情報は一瞬に世界を駆け巡る。探査船を白菜、上方の広がりを池の波紋にみたてているようで、ユニークなイメージである。水にはまたキラキラと星屑を思わせるものが光ってもいる。ロマンチックであり、長いモチーフである白菜を今回このように描き出しているところに特に注目した。

 小林貞子「Spirito du noir (黒い魂)」。損保ジャパン美術財団賞。地層に埋まったトロンボーンやサクソフォンが描かれている。今は使えなくなってしまったのだろうか。あるいは震災によって地面に埋まってしまったのだろうか。いずれにせよ、人の手から離れながらも、その気配、温もりを僅かながらも感じさせているところがおもしろい。じっくりとマチエールをつくりながら、そういった存在の確かさを追求しているところや、確かな描写力が鑑賞者を強く惹き付ける。

 大石久美江「園」。四枚の花弁を付けた花を二つ、大きく描いている。背後にはそれらに重なるように女性の姿が何人も描かれている。女性の持つ美しさというものを、強い神秘性とともに描き出している。深くコクのある色彩が、それらの女性たちの存在感を背後から支えているようだ。やわらかな線によってフォルムを描き出しているが、それが鑑賞者の意識に自然と女性たちの魅力を運んでくるようだ。画面のやや右寄りに大きな円があって、それが女性たちにスポットライトを当てたような効果を作りだしているところもまた興味深い。

2室

 長谷川肇「取り壊される工場」。上野山清貢賞。使われなくなった工場を少し離れたところから描いている。外壁が取り壊され、その支柱などが露(あら)わになっている。複雑に入り組んだその様子を、じっくりと描ききっている。役割を果たしたものの存在感がどこか寂しそうでもあり、誇らしくもある。そういった擬人化されたような、独特のイメージが感じられるところが特におもしろい。

 林部美知子「急がなくちゃあ」。クリティックN賞。太った裸の女性がこちらに背を向けて走り出している。そのむこうでは沢山の人々が並んでいる。行列があったら、とりあえず並ばなければ、という極めて日本人的な意識を、ユニークに描き出している。それ以外の部分をじっくりと作りながらも、生き生きとした魅力を感じて注目した。

 小林博「子安浜」。一線美術委員賞。浜の港の情景を海側から正面に描いている。掠れるような色彩で描き込みながら、そこで日々仕事をする人々の生活の匂いをじっくりと表現している。素朴でありながら、それぞれのモチーフはしっかりと捉えられ、確かにそこに存在している。強いリアリティを持った作品である。

 小島由美子「森羅万象」。一線美術会員賞・委員推挙。一人の裸婦を中心に画面が展開している。女性は腰のあたりまで描かれていて肌は黄みがかっている。どこか妖精的な気配を感じさせるところがおもしろい。周囲は森をイメージした花や草木が取り巻いていて、全体が緑がかった色彩でまとめられている。確かな描写力もさることながら、広い世界観を持ち、それを作品として凝縮させうまく纏め上げているところが見どころである。

 加藤幸代「R子のいち日」。画面の右側に胡座をかいて座っている女性、左側にはこちらを向いて顔を覗かせている女性が描かれている。その間の下方には、ダブルイメージによって三人の家族が仲良く卓を囲んでいる様子が小さく描かれている。華やかで楽しげな雰囲気が魅力である。こまやかに室内の様子を描きつつも、画面構成がしっかりとなされているところに特に注目する。

3室

 山本衞「猫の手も借りたいほどの…」。一線美術賞。大繁盛している飲食店の様子と、それを上から眺める二匹の猫といった情景である。その雰囲気のコントラストがおもしろい。お客や店のスタッフなど人物それぞれの描写も生き生きとして楽しい。密度のある画面をじっくりと描き切っている。

 浅見正一「ビンとキツネ面のある静物」。一つの台にビンやカンテラ、牛骨、キツネの面などが置かれている。手前には蔦や葉のからまった樹木が横に置かれている。静物画であるが、特にキツネの面が人間の気配を感じさせて興味深い。また、敷かれている青と白のストライプの布も、一つのアクセントとして効果を上げている。確かなデッサン力もある。

 丸山幸男「遥―2012」。一線美術会友賞・会員推挙。太い幹の樹木の前に三人の女性が描かれている。一人の女性の動きを捉えた表現なのかもしれない。特に左側の女性は少し掠れて描かれている。画面全体は少し霧がかったようで、不思議な時間感覚を感じさせる。それが、行きつ戻りつしながら過ごす若い時分を思わせるようだ。そういった独特の気配が印象的である。

5室

 小林弘子「午後」。左側に広告塔、右側にはカーヴする車道が走っている。じっくりと絵具を重ねながら、ベージュの色彩を基調色に、陽気な街の情景を描いているようだ。特に面白いのは、歩道に立っている街灯が、右に傾いでいるところである。それがポイントとなって独特の動きを作品に作りだしている。明るくポジティヴな画家のイメージが実景を内的なものに昇華し描き出させ、独特の作品世界を構築しているところに特に注目した。

6室

 菱沼紀昭「変遷」。会員推挙。長い時間を過ごしてきた街並みを描いている。堅牢な石造りの建物が強い存在感を放っている。背後には苔むしたような建物が続いていき、重厚な画面として成り立っている。細やかに様々な色彩を入れ込んでいるところもまた魅力である。

 川上直樹「国境地帯」。一線美術会友賞。壁に三枚のポスターのようなものが貼られている。そのすぐ下にはドライフラワーが置かれていて、さらに下方には葉を二枚付けた枝が置かれている。厚いマチエールの中に、シンプルな色彩と画面構成で描いている。心象的な要素も強い。どこか重厚な楽箏を奏でるような、深いイメージの世界へ誘う魅力がある。

9室

 根岸富夫「浅春」。やわらかな筆の扱いが魅力である。まだ雪の残る大地とその向こうに山が見える。ひんやりとした空気感が、そういった風景を包んでいるようだ。中景には川が流れ、その向こうに崖や橋も見える。何気ない日本の風景の中に、誰もが引き込まれる魅力をもった作品である。

 上野直雄「潮の香り」。港の風景である。画面の中央に並んで描かれた漁船が、独特のリズムを作り出していておもしろい。その様子がまた海面に映り込み、もう一つのリズムを作り出してもいる。横の動きを積み重ねるような構図の中に、そういった鑑賞者を惹き付ける確かな絵画性を感じさせる。

 紫藤康夫「早秋」。奥から手前、そして右下方へと続く道路の強い動きが特徴的である。左には木立が並び、遠景には田畑や家屋、そして山並みが見える。何気ない風景の中に、その道路の強い動勢が、鑑賞者をぐいぐいと作品世界へと引き寄せるようだ。どこか懐かしいノスタルジックな心情を喚起させるところも興味深い。

13室

 小峰千惠子「想」。一人の少女が横を向いて座っている。その背後にはイメージの中から現れたかのような二人の女性の姿が見える。目を閉じて座っているこの少女のイメージなのだろうか。いずれにせよ、繊細な透明水彩の扱いがうまくいっている。作品全体の雰囲気を大切にしながら、しっかりと描いているところに好感を持った。

第39回青枢展

(10月21日~10月28日/東京都美術館)

文/磯部靖

1室

 上田靖之「螺鈿の杜 ・」。東京都知事賞。細やかな描写によって幻想的な雰囲気を持った画面を描き出している。岩が次々と繫がっていき、画面全体で一つの生き物が蠢いているような印象も受ける。それが上方、奥に行くと大地に繫がっている。強い集中力によって生まれた、見応えのある作品として注目した。

 米谷和明「水の惑星 6」。画面の中央で水が旋回しながら大きな球体を作りだしている。その強い動勢が作品を活性化させている。下方には海があって高い波が寄せてきている。写実性豊かな描写の中に、独特のイメージの世界を構築している。時によっては恵みとなったり驚異となったりする水というものの偉大さを荘厳しているようだ。透明感のある色彩の扱いもまた、そういった無垢なエネルギーを感じさせて強く印象に残る。

 丹羽良勝「コバルトブルー的旋律」。青を中心に施した画面に白の絵具を幾筋も垂らし、それを九十度回転させている。その無作為な線の流れが、画題にあるようにある種の旋律を奏でているかのようで興味深い。高い青空のようでもあるし、たゆたう水面のようでもある。そういった鑑賞者のイメージを穏やかに刺激する作品である。

 平岡祥子「風の追憶」。画面の左にニューヨークだろうか、都市の風景が見える。背の高い建物群が逆光になってその姿を見せている。右側には大きな風の動きが現れている。かつて訪れた場所、眺めた風景をこの風は運んできているようだ。風は画家の長いテーマであるが、その風との強い親近感が、このような情景を描かせたのだろう。盛り上がるような幾つかのコラージュでテンポを作りながら、傾いたような構成でドラマチックに自身のイメージを表現しているところも印象的である。

2室

 此木三紅大は多数の大作を出品。その内の「キャット A」は、一対の作品で、線によって猫の姿を描き、点を効果的に使いながらその存在を浮き立たせている。シンプルな中に確かな造形力を感じさせる。掲出した「その時・人」も二対の内の一点である。痛々しく包帯を巻いた人物を鋭い線で描き出している。片方の手はちぎれてしまっているようだ。鋭い感覚でそういったモチーフを端的に描き出し、それを今回はある種ポップに表現している。純粋にモチーフの存在を追求し、余計なものを削いでいくというイメージの中の作業がこのように描き出されたところが実に興味深い。廃材によるガンダ彫刻や写実的な仕事を同時に進行させながらの幅の広い仕事に感心させられた。

 田中ゆみ「希望の種舞う」。文部科学大臣賞。三点を横に繫げた作品である。田中作品にはいつもどこかに音楽が流れ、それによって画面が活性化させられていたが、今回は特にそれが充実している。画面には太い輪郭を持った大きな円がいくつも連なるように浮かんでいる。一番右では茶系の色面を持った円となっている。つまりその円をストップモーションのように描き出している。それは画題では種とされているが、希望、喜び、未来といったポジティヴなイメージの源泉のように思われる。いずれにせよ、街並みを思わせる情景の中に、画家はそういったメッセージを発信している。それは鑑賞者の心にも直接響く希望のメロディである。

3室

 竹村敏「墨の表現 谷」。山奥深い渓谷の風景を描いている。そのコクのある色彩が強い印象を残す。幽玄という表現が相応しい、独特の気配がこの作品の魅力となっている。明暗のコントラストもまた、強い印象を残す。

 山口マオ「Hopi・Arizona」。海や大地といった様々な風景を各パートに描いている。ポップであり、明るい。画家が旅して見た風景が、このように表現されるところにイメージの豊かさを感じる。特に中段左に浮かんだ満月が、作品全体を照らすようで印象深い。

7室

 深沢紅爐「想─“ロードス”」。四点出品の内一点を掲出。ロードスは地中海の島だが、長く大国の戦禍に侵されてきた。版画によってその城塞を繰り返し描写し、そこに金や銀で豊かな表情を付けている。それは長い歴史の中の時間を思わせ、鑑賞者をこの地へと誘っているようだ。右下にはさらに小さく遠くから眺めた城壁と城が見える。シルエットになって描かれたそれらの城塞は、いわばそのキーワードであり、象徴と言ってもいいだろう。様々なイメージを思い巡らせながら、歴史のロマンへと思いを馳せるように作品を制作している。

第51回現水展

(10月21日~10月28日/東京都美術館)

文/磯部靖

1室

 紅梅美峰「靉(あい)」。画面の左から差す光に雲がキラキラと輝き、強い魅力を放っている。その少しずつ変化しながら動いていく雲は、ドラマチックな表情を湛えている。情感豊かな画家のイメージによる、ある種の心象表現といってよいだろう。

 川端豊次「Fish Bone」。骨だけになった魚が二匹泳いでいる。よく見ると周囲の暗色の部分にもその姿が見て取れる。肉は削がれ、いわば魂となったようなその姿からは、深い人生の趣が感じられて興味深い。また魚自体の姿が独特で、それが光に向かって泳ぐ姿は、鑑賞者に強い印象を残す。

 関沢智加子「星に願いを ~プラネタリウム~」。文部科学大臣賞。プラネタリウムで星空を写す機材をシャープに描き出している。曲線と直線を細やかに織り交ぜながら描き出したその機材の強い存在感に惹き付けられる。強い写実性と巧みな墨の扱いがそういった画面を支えている。

 小田柿寿郎「過ぎた日々」。現水展大賞。今は人の住まなくなった家屋を画面いっぱいに描いている。ぐいぐいとした伸びやかな筆の動きが魅力的である。それによって家屋をしっかりと描きながら、葦葺きの屋根はどこか軟らかな表現で描いている。そのこまやかな対比が特にうまくいっている。陽の光に照らされてわずかな影を忍ばせながら、かつてここに暮らした人々の気配というものをしっかりと作品に入れ込んでいる。見応えのある作品である。

 髙橋英男「廃(はい)棄(き)棒(ぼう)何処(いずこ)へ」。フクロウを腕に乗せ、蠟燭を持った少年が海岸に立っている。右側にはプルトニウムの廃棄棒が浮かんでいる。原発をどこに作るのか、廃棄棒はどこへ持って行くのか。今や他人事ではなくなった状況を、この画家特有のユニークな表現で鑑賞者にメッセージしている。豊かなイメージの世界が作品に展開していて鑑賞者をその世界へと引き寄せる。

 北村珠恵「蒼(そう)響(きょう)2012」。やわらかな水色の色彩が鑑賞者を強く惹き付ける。そこに墨を重ね、その二つの折り合いが即興的な音楽を奏でているようだ。純粋に作品の前に立って、画家のイメージを愉しむことができる。白い地の部分もまた間奏としてのイメージを思わせて、画面全体で心地よい印象を作りだしている。

 西野睦茜「解(げ)脱(だつ)」。東京都知事賞。床に座った五人の僧を奥に重なるように描いている。中央の一人の僧を中心に画面が展開しているが、その僧たちそれぞれが生き生きと描写されているところがよい。特に中央の僧侶の強い存在感が鑑賞者を惹き付ける。

2室

 武田庸子「回廊 Arch」。奨励賞。天井がアーチ状になった回廊を見上げるような視点で描いている。アーチの曲線の繰り返しが軽やかで独特のリズムを作り出している。下方の壁は堅牢に描写されていて、その二つの対比が特に印象的な作品として注目した。

 谷先静津湖「雨の旅情」。雨の降る池を情感豊かに描いている。遠景には霧がかった山並みがうっすらと見えているところも情緒深い。画面全体を丁寧に描き込みながら、そういったしっとりとした趣を大切に描いているところに注目した。

 福田佳明「世間」。大きな円とシャープな線や色面が独特の空間世界を創り出している。淡墨と濃墨を繊細に扱いながら、自由で何ものにも囚われない画家のイメージがますます活性化しているようだ。幽玄の世界へと鑑賞者を導くような、独特の魅力がある。

 根岸嘉一郎「霧(む)玄(げん)」。霧が立ちこめた湖畔の情景を描いている。手前の岸辺から石が点々と続き、その先に一羽の鳥が立っている。不思議な孤独感が漂っている。画面全体に漂うある気配が、鑑賞者を作品世界へと誘(いざな)うようだ。確かな描写力の中に、そういった肌に迫るような臨場感を感じさせる作品である。

 門紀美子「残(ざん)響(きょう)」。上野の森美術館賞。ダイナミックな画面展開がぐいぐいと鑑賞者を作品に惹き付ける。戦時中に空中戦となり、追撃された飛行機が海へと落下していく。その時の激しい様子を思わせる。轟音が鳴り響き、生き残った者も耳からその音が離れない。それを画家は強いイメージの力で作品として描き上げたようだ。いずれにせよ、強い抽象性の中にそういったドラマが展開されているところに注目する。

3室

 萩原彰広「春夏秋冬 ・」。裸婦を二人描いている。一人はこちらを向いて立っていて、もう一人は背中を向けて座っている。左上方には大きく百合の花が描かれている。女性の持つ美しさというものをこのように描き出しているところが興味深い。確かなデッサン力がそういった画面を支えてもいる。

 藤原青童「旧港オンフルール」。路地から眺めた港の風景である。路地には一人の老人が背中を向けて描かれている。その先には何艘かの船が浮かんでいる。かつて自身もこの港を出入りしていたのだろうか。そこはかとなく漂う哀愁が、そういった舞台設定の中で感じられる。手前から奥への陰翳のコントラストも上手く表現されている。

 秋澤美世子「旅情」。芸術賞。浮かび上がるように教会のような建物が立ち上がっている。その繊細な描写に惹き付けられる。明暗を付けながら、その建物の存在自体にかなり接近しているかのような臨場感があって注目した。

 永田みゆき「座礁」。波を被った瞬間の船が描かれている。座礁してしまったのだろう。どうすることもできない孤独感が印象的である。このような情景を実際に見ることは希であろうから、画家のイメージによって描かれたのかもしれない。しかしながら、波や船のしっかりとした描写が、確かなリアリティを引き寄せていて強く印象に残った。

 東野嵐水「宙(そら)・地(ち)・響(ひびき)」。強い動勢を孕んだ画面が、鑑賞者を強く惹き付ける。抽象性の強い画面が、独特の世界観を作りだしている。迫力や臨場感といった肌身に迫る大自然の強い存在感が、生き生きと描かれているところが、この画家らしい表現として印象深い。

4室

 橋本キヱ「崖のある風景」。現水展賞。何気ない崖の風景を味わい深く描き出している。特に影になった崖の壁が、豊かな表情を作りだしていて注目した。

7室

 佐藤雅治「祈り」。現水展賞。夜の街の上空に一人の女性の姿が浮かび上がっている。女性は左手を右肩に乗せている。どこか霊的な気配も引き寄せながら描かれているこの女性の強い存在感に惹き付けられる。

 向井五十代「おいでやす」。暖簾を上に上げた店員がこちらを向いて微笑んでいる。旅先でのほんの一瞬の光景、その時の感情を想い起こすように描き出している。暖簾の向こうはすぐ右にカーヴしていて、多くを見ることはできない。鑑賞者の僅かな好奇心も刺激しつつ、微笑ましい情景として印象に残った。

9室

 横溝晴花「採青遊行(さいちんゆうこう)」。秀作賞。上方に関帝廟と書かれた提灯が吊してある。三国志に登場する関羽の廟の内部だろうか。外から漏れ入る光がキラキラと輝いている。薄暗い内部とその光がある種の調和とコントラストを見せながら描かれているところが特におもしろい。周囲のモチーフもひっそりと描かれていて好感を持つ。

11室

 岩城茜須「木道(もくどう)」。木製の林道を中心に描いている。左右には桜の樹木が立ち、花が散っている。華やかでありながら、どこか寂しい。複雑な感情を想起させ、加えてどこかノスタルジックなイメージも感じさせる作品として注目した。

12室

 小村欣也「華の舞」。強い風に桜の枝が晒されている。花は今にも散ってしまいそうだ。その強い臨場感が、鑑賞者を強く惹き付ける。シンプルな画面構成の中に確かな描写力を感じさせる。

 川添早苗「沈黙 ・」。森の中の風景を描いている。音のない静かな画面の中に、独特の気配が漂っている。それは樹木の呼吸であったり、動物の存在であったりする。そういった、目には見えないが生きている生命の呼吸を強く感じさせる。大きく開けられた空間による間も効果的で、画面全体で奥行きのある風景として成り立ってもいる。

16室

 杉江美智子「ふぞろいな鮭たち」。軒先に鮭が吊してある。しんしんと降る雪に晒された鮭たちの連続して並べられている様子が強く印象に残る。味わい深くもありユニークな画家の視点に好感を持つ。

第41回日本文人画府展

(10月20日~10月28日/東京都美術館)

文/磯部靖

1室

 杉原阿都「どこへ?どこから?」。川岸に降り積もった雪の量感がしっかりと捉えられている。川にも石が顔を出していてそこにも雪が積もっている。淡々とリズム良く描いている。淡墨を中心に、影の部分を濃墨で描きながら、気持ちのよいリズム感を作りだしているところに注目した。

 石毛珠樹「千畳敷カール」。クリティック賞。山間に続く道が僅かに見える。その先はカーヴしていて見ることができない。斜面と斜面の合間の空間をうまく摑んで描いているところが特に見どころである。点々と描かれた石などもそういった画面に独特のアクセントを響かせている。

 北村洋子「'11、1月3日老い木は語り」。絡み合うように伸びた枝を持った樹木を数本描いている。そのうねうねとした動きが、強い生命力を感じさせる。長い時間生き続けてきたその存在感が、強く印象に残る。地面には雪が残っていて、その白がじっくりと描かれた樹木の存在感をさらに際立たせているようだ。これまで街の風景を多く描いてきた画家であるが、今回は生命力、存在感というものに深く踏み込んだ作品として注目する。

 皆川滋水「暮色蒼然(カサブランカ)」。大きな橋の上に沢山の人々が描かれている。そのそれぞれの様子が細やかで印象深い。中景には街並みが見え、街路樹がテンポ良く続いている。四曲屛風の画面の中に、街の情景を生き生きと描いていて印象に残った。

2室

 畑佐祝融「蒼風」。尖った山々が並び、その間に樹木が茂っている。そしてそこに強い風が吹き付けている。谷底の方は霞んで見えない。この画家特有の細やかで臨場感のある自然の風景の描写によってじっくりとこの情景が描かれている。ある種の恐ろしさと雄大さが織り交ぜられた印象深い作品である。

3室

 笹澤壽美子「この道の彼方」。大きく左にカーヴしながら続く道を一人の人物と一匹の犬が歩いて行っている。素朴な風景である。穏やかな空気と少しずつ進む人物の動きが相俟って、見ていて気持ちのよい情景となっている。

4室

 緒方桂泉「マイナスイオン」。大きな滝が画面いっぱいに描かれている。その激しい動きが強い動勢を孕んでいる。右下には観光客がいて、この滝の大きさがよく分かる。ダイナミックな画面に惹き付けられた。

5室

 加藤弥寿子「瀑布」。流れ落ちる滝の風景を少し離れた場所から眺めた光景である。周囲の草木や岩を濃墨で描いているが、その描写が実に味わい深い。滝の細やかな表情もまた魅力で、画面全体が鑑賞者を誘い込むような構成になっているところが印象的である。

 中里典子「初雪」。遠景に雪山を望む風景である。空は暗く、どこかしーんとした気配が漂っている。大地にも雪は積もり、空との強い対比が作られている。淡々と描いているようで、深い情感を引き寄せている。

第37回蒼樹展

(10月21日~10月28日/東京都美術館)

文/磯部靖

1室

 原紀久子「ある日」。黄金を思わせる背景に一人の少女が描かれている。少女は右手に紙風船を乗せて、それをじっと見つめている。何を思っているのだろうか。子供の時分でないと分からない何かすてきなイメージでもしているのだろうか。いずれにせよ、確かな写実力がこの少女の存在をしっかりと描き出しているところに、この画家の力を感じさせる。紙風船や衣服の質感などもまた同じである。どこかポートレートのように、後に残すように描いているところが特に興味深い。

 濱田節子「じぃじ 大丈夫だよ」。蒼樹会賞。石壁を上る少年を描いている。描かれてはいないが影だけが見える、それを心配そうに見つめる祖父の姿が目に浮かぶ。よじ登るこの少年の姿も愛らしく、画面全体で微笑ましい情景となっていて強く印象に残った。

第80回記念独立展

(10月17日~10月29日/国立新美術館)

文/高山淳・磯部靖

1階─1室

 向井隆豊「HATA hata」。日の丸やアメリカの国旗や、あるいは別の国旗も翻っていて、そのあいだに人々がいる。ロンドンオリンピックからインスパイアされたのだろうか。その祭典と八十回記念の独立展のイメージを重ねて、独特の強いムーヴマンをつくる。赤い色彩が燃えるようなパッションを示す。(高山淳)

 吉武研司「八百万の神々―太陽の祝祭」。楕円状のキャンバスに赤い色彩が塗られ、その上に黄色い絵具で線描きの様々なフォルムが入れられている。まさに天照大神が太陽神として誕生し、日本の神話が始まり、朗々とその誕生を合唱しているような趣である。(高山淳)

 井澤幸三「Fountain」。石でできた大きな井戸のようなもの。そこに水がいっぱいたまっている。その水の重量感とリアリティがこの作品の面白さをつくる。その向こうにタンクトップのような衣装の二人の若い女性。顔が水に映っている。斜光線が差し込み、きらきらとした光を二人に与える。遠景には低い山があり、木立もあり、広がっていく風景が背後にあるが、ほとんどが闇の中に沈んでいる。空がすこし黄色くなって、いま夜が明けそめる雰囲気で、その時間のもつ厳粛でイノセントな雰囲気がよくあらわれている。水が心の内部を照らすような、不思議な聖性をもって描かれる。(高山淳)

 乙丸哲延「セーヌは流れる」。画面の上方はセーヌ川で、島のような中に樹木が鬱蒼と茂っている様子が大きな塊として描かれている。下方には俯瞰したかたちで教会を中心とした赤茶色の屋根の民家が見える。そのゴシック様式の尖塔をもつ教会のフォルムが全体のへその緒のようになっている。ずっしりとした存在感があって、写実の力をまざまざと感じさせる。(高山淳)

 金井訓志「journey」。緑のクラシックカーに乗る青年。クラシックカーを正面から見て、それを大きな線によって表現する。ポップアートと言ってよい造形方法によって、クラシックカーの魅力を面白く表現する。(高山淳)

 伊藤清和「夢」。鶏が二羽、首を出している。赤い鶏冠が鮮やかである。体は分解されて、尾が赤、白、黄色と右のほうに円弧のかたちをつくる。金が背景に使われている。鶏をモチーフにしながら、生きることの生命感を面白くうたいあげる。(高山淳)

 石井武夫「堆積する風景」。床の煉瓦色が不思議な魅力をもっている。それを背景にしてサイボーグが立って、なにか瞑想にふけっている。床には女性と小さな子供と羽を持った若い女性のサイボーグが横になっている。そのカーヴする動きが重なりながら、その動きは手前の瞑想するサイボーグの首から肩にかけてのラインにつながっていく。四体でちょうど円運動が起きるようになっている。バックには飛行機のようなフォルム。そして、柱のような板のようなものが重なっている。床は地面に続いて、一筋の道を行くと、赤茶色のお洒落な建物に行く。地平線の間際の空が緑色である。その緑色のグラデーションもこの画面の作調を決定している。サイボーグは画家の娘が五歳の時に脳腫瘍を患って様々な管がつけられている様子から発想したという。だから、サイボーグのシリーズもずいぶん長くなってきた。画家はその長い歳月について静かに振り返っているようだ。この絵を見ると、サイボーグも人間も同じ性質のものとなっている。いずれも生というものの不安定ななかに生きているものの象徴と化している。面白いのは、この三体の横になった人間およびサイボーグの横に、兎の人形がやはり横になっていることである。画家はポップアートやジャズが好きで、人形のようなものもきっと身近にあるに違いない。様々な経験が集積し、その経験が全体でメロディと化して、この円運動を起こしているように感じられる。柔らかな光線が画面に差し込んでいて、色彩は柔らかい。そして、全体にノスタルジーのような深い感情世界があらわれる。(高山淳)

 馬越陽子「人間の大河―再生するいのち―」。画面の左上方から赤い大きな幅のあるフォルムが下りてきて一回転し、左下に行く。下方は青の世界で、その中に子供を抱く母親、あるいは俯せになった人間など、困難な状況が描かれている。大きな渦巻きの下方から立ち上がる人。そして、この青の領域から赤い境界を越えて黄色い世界にいま浮かび上がってくる人。再生する命と言ってよい。その黄色い色彩には透明感がある。独特の透明感と希望を象徴するように感じられる。しかし、その女性の体あたりにも黒い色彩がたらしこみふうに入れられていて、死の影はまだそこにしみ込んでいて、その死の影を後退させながら新しい命がよみがえってくる。左に朱色があらわれているのは、再生のイメージ、或いは昇る太陽のようなイメージだろう。自然のもつ強い神的な力を、画家は深い心の井戸の中に下りてつかもうとする。その内的な力がこの独特の動きと色彩を発現させる。(高山淳)

 本田希枝「ちいさきひと」。壊れた建物、あるいは飛行機のような残骸。空を鳥のようなものが飛んでいる。角材が宙に浮かぶ。亡くなった人が空中に浮遊している。そして、下方のこの壊れたコンクリートのような上に小さく影になった前屈みの人間がいる。やはり昨年の津波や原発の大事故が深く画家の心に浸透して、このような構図が浮かび上がったのだろう。とくに原発問題などを見ると、人間の無力さを思い知らされる。そういったイメージを、この独特の浮遊する構図の中に表現する。(高山淳)

 相田幸男「海潮音…津軽海峡」。ゆったりと波が寄せている。海を囲むように湾曲する左のほうの陸地。そして、右のほうの青い陸地が囲んで、その円周する動きが繰り返されるようだ。そして、それを補強するように赤い長い雲が二つの陸地のあいだをわたっている。鷗が三羽、空を舞う。やはり旋回運動である。そして、近景の砂浜に六羽の鷗がとまって、左のほうを向いている。海のフォルム、その波の様子が強い音楽的な効果をあげる。その深いリズムのうえに鳥たちが歌っているような、そんな象徴的な風景作品に注目。(高山淳)

 寺島穰「薔薇の門―マサッチオ幻視」。マサッチオの失楽園のアダムとイヴの姿が下方に描かれている。それをあいだにして左右に少年と少女が向かい合っている。上方には父親の像が現れる。そして、太い杭のようなパイプのようなフォルムがこの画面全体に打ちこまれて、強い印象である。背後には藪のような、ちょうどレオナルド・ダ・ヴィンチなどがよく描く絡まったフォルムのようなものがあらわれて、人間的存在の不思議さ、謎を表す。

 奥谷博「天空に舞う」。画面の中ほどに赤い棒が上下を突き抜けて、すこし傾きながら伸びている。その見えないところから下りてくる紐に吊るされて三つの鯉幟が泳いでいる。その丸い口のあいた鯉幟の頭から尻尾のひらひらの空洞のあるフォルムが実にリアルで、不思議な生命感をもって表現される。下方には画家自身と息子と娘と孫がいる。息子と画家はむかいあって上方を眺めている。画家は鯉幟の綱を握っている。幾たび五月五日が来たか。その五月五日の来る端午の節句ごとに息子も年をとり、自分も年をとってきた。そしてまた娘に孫が生まれて育ってきた。そんな時間というもの、歴史をしぜんと考えているような画面である。形態の強さがこの画家の特色である。背後に蓮の葉が不思議な形をして動いているように描かれている。雲が蓮の葉になってあらわれたような、そんな趣もある。とにかく画面を上下に貫通して伸びていくこの赤の柱が実に強く、この画家ならではの存在感を示す。鯉幟の形が面白く、鯉幟でありながら、生き物のような不思議なイメージをつくりだす。存在するものとイメージとの深い関係のなかからこのような作品が生まれるに違いない。また、独立展に今年はどんな作品が出てくるのか楽しみで、同じような作品を続ける作家が多い中に、毎回絵が変わってくるというその力量にも敬意を表する。(高山淳)

 絹谷幸二「緑に染まる想い出」。兄と弟が緑の草原から上体をのぞかせている。上方に戦闘機がいま壊れて落ちつつある。後ろにはオランダ人形のような兵隊と女性、そして太陽を思わせるような、あるいは日本の大日本帝国海軍のような旗。手前に二本のバット。ボールがこの少年の手を離れて、草原の中に向かっている。戦争の記憶、野球の記憶、あるいは家庭の中で躾けられた記憶、様々な記憶が呼び起こされながら、兄と弟がある希望の象徴のように浮かび上がる。まだ作品は未完のようだ。(高山淳)

 桜井寛「シュミーズの女」。黒いベッドにシュミーズの女が座っている。ベッドが人間のようにデフォルメされて、真ん中が絞りこまれている。生きるということの意味を画家は絵の中に問う。あるいは、存在することの意味を問う。そんな内向的な思索する姿勢から出てくる独特のトーンの深さに注目。(高山淳)

 平岡靖弘「風の旅暦」。背後に津波を思わせるようなフォルムがあり、茶色い一艘のボートがある。手前の板に女が座って、その全身像が描かれている。女は瞑想している。時間や風を思わせるようなフォルムが波のようなフォルムと重なりながら画面を動いていく。マチエールに工夫しながら津波と瞑想する女を組み合わせた不思議な画面である。女性の様子も実は画家のイメージがつくりだしたもので、その強いイメージの力が画面全体に不思議な光を与える。(高山淳)

 福島瑞穂「Love Me Tender Love Me Sweet」。プレスリーの歌から題名を取っている。キャンバスの積み重なった上方に仰向けになった女に男がキスをしている。背後に三人の男たちがいる。女は妊娠しているようだ。下方には描きかけの白いキャンバスの中から、十代の女性がその性器を前方に見せて頭蓋骨を抱えて赤いリボンをして笑っている。その隣のキャンバスには、猿がバナナを頭にしているが、それがそのまま画家の自画像のようにトリッキーに描かれている。というのは、そのキャンバスに対して直角にイーゼルが浮き、イーゼルのところから筆が立ち上がって、この猿の右手の部分に置かれているから、あたかも猿が絵を描いているように錯覚する。画家にとって自分が女であることはアイデンティティーのまず一歩である。画家であることもアイデンティティーの一つである。同時に人間は本能の動物で、セックスというものはその本能の象徴として強迫的にと言ってよいほど、必ず画面の中にあらわれる。お互いに抱き合いながら、実は二人ともどこかあらぬほうを眺めているといった様子である。うずたかく裏返しになったキャンバスの量にもまた不思議な独特のリアリティがある。十代の女のそのふしだらな能天気な、いわゆる教養とか思想というものを蹴飛ばすような、そんな強い生命力の女性が頭蓋骨を持っているのは、死を忘れるな、メメント・モリといったヨーロッパの伝統的な主題である。そばにショートケーキが皿に盛られて、毒々しい様子である。そういえば、テーブルの引き出しがあき、中に描きかけの絵具のチューブが置かれているのだが、その上から赤い絵具がいま垂れてきている。その垂れてきている様子の現在進行形ともいうべき時間の性質が、この作品の独特の魅力をつくる。完成したものではなく、描き続ける過程そのものが絵としてあらわれているといった面白さを感じる。上方の男と女の裸の図も描かれたものであり、独特の強いマチエールで太陽のごときものがそこからじんわりとあらわれてくるのだが、その上方のフォルムに対して下方のキャンバスから浮き出てきた赤い衣装のほとんど裸の女や猿、そして無人のイーゼルとパレットとペインティングナイフと筆のもつ時間というものは複雑で、絵の中の時間とそれを描いている時間、絵の中の人間とそれを描いている人間、二つのものが対置され、しかもそれが現在進行形で動き、現実なのか絵の中の話なのかわからなくなるような、錯綜する構図の中にすべてが生きているといった趣である。その現存感ともいうものが今回とくに強くあらわれていて、それが実にこの作品の魅力だと思う。(高山淳)

1階─2室

 久我修「カナウマデ マウナカ」。前から読んでも後ろから読んでも同じ、回文の題名になっている。三歳ぐらいの子供たちが宙に浮いている。そこに金魚が泳いでいる。中に小さな子を抱く若い母親も宙に浮いている。深い祈りの表現だろう。夢の中の像のような面白さがある。余分なものは削られて、遊びというイメージがあらわれ、その自由さによって命を回復しようとする。(高山淳)

 額田晃作「エチオピア南の人」。赤茶色の大地が画面のほとんどを占める。遠景には素朴な家が点々と見える。杖をついてこちらに歩いてくる人。その手前には、子供を抱いて、もう一人の子供を抱えている女性。それを見ている少年。左には二人の女性が歩いてきている。いちばん近景には袋を持ってこちらに来る女性。顔には白い化粧がされている。エチオピアの人々の日常生活が淡々と表現されているように思われる。それが独特のデフォルメとコンポジションによって一種のモニュマン性を獲得しているところが魅力である。(高山淳)

 山田修市「Life (2)」。仮面劇のような不思議な印象である。ソファに座っている男性とその妻と思われる女性。女性は立っているが、その手首が切れて先がない。日常を襲った一瞬の事故が起きたのだろうか。手前に犬が寝そべっている。その寝そべっているフォルムなどは実にこの画家らしい魅力をもつ。優れた形態感覚がこの犬の形を見事に造形している。赤、黄、青、緑などの原色が駆使されて、強いハーモニーが画面に起きているが、強い光がこの夫婦に当たって、そのまま画面の中に固着されたような雰囲気である。日常のなかに起きた危機がそのままある光と化して画面を襲い、人間たちをそのまま凍らせたような雰囲気があるなかに、犬だけがその事件と関係なくのびのびと寝そべっているような様子であるところが面白い。(高山淳)

 森本勇「画室」。黄土色、黒などの色彩が背景にたらしこみふうに置かれ、窓やパレットなどがそこに浮かび、赤い色彩や緑の色彩がドリッピングするようにつけられ、線による窓のようなもの、月のようなものがあらわれている。アトリエの中で瞑想し、イメージを紡ぐ。そこに、現在進行形の密度のある空間があらわれる。現実を再現するのではなく、その制作の時間のなかに入り、そのなかに浮かび上がってくる形象を画面に置く。詩情、画家をインスパイアするものの力が風のように画面をわたる。(高山淳)

 斎藤吾朗「モナ・リザ模写から」。画面の中には実にたくさんのものが描かれている。屋根の上には七五三の二人の子供を抱きかかえた祖父がいて、お祭りの図から、地球をおぶっている老婆、あるいはパリのムーラン・ルージュ、あるいは弥生時代の人々。数えるとキリがないが、それらのものを画面に配置しながら不思議な力を引き起こす。何千年もの歴史のなかにいる人々、空間的には地球のそれぞれの場所の人間たち、建物などを組み合わせながら、とくに背景に朱色が置かれているせいもあるが、強い輝くような、オーラのような力を画面から発信させている。一つひとつの形象の中に画家は入っていき、また次の形象に入っていくといった、そのイメージの密度がこの独特のエネルギーを呼ぶ。(高山淳)

 木津文哉「朱雀」。赤い木でできた門の後ろに樹木がある。下に塀があり、塀の上にキンチョールのマークが置かれている。右のほうには機関車や湿度計のようなものが置かれている。いずれもフェイクで、ちょうどこの形にフォルムを切り取って画面の上に置いて、そのフェイクなものたちの塊によって空間があらわれるといった不思議さである。朱色に彩られたこの塀の後ろのフェイクな樹木が、まるで手のように感じられるし、古びたキンチョールが昭和の時代のイメージを引き起こし、独り遊びをしているような雰囲気があらわれている。使い古されたもの、塀にしても赤い色彩がほとんど剝げかかっていて、そんなものを組み合わせながら、時間というものを超越した世界をつくろうとするかのようだ。(高山淳)

 金森良泰「東大寺」。東大寺の大仏が上方に描かれ、その下方に金の線によって釈迦とそれを取り囲む諸仏が描かれている。大仏の光背の中にも諸仏が描かれている。光背は黄金色で、下方の諸仏は赤みを帯びた金色(こんじき)の線による。左右に朱色が入れられている。東大寺は聖武天皇がつくったものだが、当時の強い信仰の力を画面の中に引き寄せようとするかのようだ。そんな強い表現になっている。また、阿弥陀如来と聖衆があらわれてくる山越え阿弥陀を思わせるような強いコンポジションになっているところも注目。(高山淳)

 入江一子「竹林(創立追想)」。独立展の八十周年を祝って、創立時代に思いを馳せる。竹林の七賢人という言葉があるが、志に燃えた同志たちが1930年協会から独立美術協会を結成した。その時の人々のイメージを竹林のあいだに輝かしく描く。中に赤い竹もあらわれてきて、強いパッションの表現になっている。背後のブルーや緑の色彩。深い海や広い空のような独立美術協会の歴史を祝う。黄金色の風が、あるいは軌道が画面の中を走り、独立の歴史に思いを馳せる。(高山淳)

 今井信吾「林太郎の城」。娘と孫を描いている。ジャングルジムのようなフォルムの中にたくさんの子供がいるが、それは孫の様々なポーズである。デッサンこそが命といったようすで、デッサンがそのままタブローになっている。独特の動きが魅力。(高山淳)

 大津英敏「画室の少女」。パリのセーヌ川の絵が描きかけでアトリエの中に置かれ、その前に三、四歳の少女が座っている。画家は娘の幼い頃の様子をずいぶん描いてきたが、これは孫なのだろうか。床に絵具や筆やパレットが置かれている。描きかけの絵を背景にして、画中画というものをバックにして、座る少女に不思議な光が差している。もともと色彩家である。色彩家の上に、きわめてアンティームな雰囲気が感じられる。それがこの光の性質と言ってよい。

 金子亨「岡の上の雲」。六人の女性が描かれている。一人は五人の女性に囲まれて、仰向けに寝ている。後ろに三人の女性が座っているが、だんだんと膝を立てたかたちで、右に行くに従って高くなっている。地面は枯れた草原である。それがそのままこんじきの雲のようなイメージをつくりだす。女性たちは華やかな花柄の衣装をつけている。その花がそれぞれの女性の名前と言って差し支えないような雰囲気。『源氏物語』が植物の名前を女性の名前につけて各章にしたような、そんなイメージも感じられる。クリアなフォルムとそのディテールがまた魅力。(高山淳)

 安達時彦「間の華」。女性のおもてをつけたシテが五人いる。四人が一つのグループで、もう一人とのあいだに間隙がある。能のもつ幽玄な力、その魅力をよく表現している。能では基本的に死んだ人々があらわれる。霊に語らせるようになっているのだが、霊的な力が画面に漲っている。(高山淳)

1階─3室

 輪島進一「モデラート・希望へ」。上向きの女性が左手を下方からだんだんと上方に伸ばしている。女性が横になっているところに海が寄せている。何本もの腕がその動きに沿ってそのポジションに描かれ、その手のひらには果実のようなものを持っている。最初はパイナップルのようなものが、だんだんと最後には柘榴のようなものになっている。葡萄などもその部分では房があらわれる。モデラートとは中くらいの速さという音楽用語だが、津波の悲惨な出来事から新しい希望を取り戻すという性質の内容をこのようなかたちで表現する。その手の動きの柔らかな、しかも凜としたドローイングの力がみものである。果実を支える手の形がそれぞれ異なっていて、それを見ていると、まさに静かな音楽が動いていくような気持ちに襲われる。下方には右手があって、伸ばされた右手がだんだんと屈曲して脇のほうに向かっていく。右手と左手の動きのそのコンポジションを見ると、独特のバロックふうな音楽をしぜんと感じることができる。バッハに「マタイ受難曲」という有名な音楽があるが、あの合唱のときのイメージなどもこの作品の背後にあるように感じられる。(高山淳)

 片岡伸介「家族の肖像」(遺作)。片岡伸介が亡くなった。戦前からの画家の気質をうけ継いでいた人でチェンバロの音色のような光を含んだ色彩を駆使した室内の人間像は魅力であった。穏やかで繊細な人柄であった。合掌。(高山淳)

 木村富秋「夢」。黄土系の色彩の上に黒いフォルムが横たわる。女性である。そのエレガントなラインに対して上下に垂直の線がいくつもあらわれる。よく見ると女性は宙に浮いているようで、その柔らかな姿に対して様々な出来事が反響しているような、そんな不思議なイメージの展開に注目。(高山淳)

 山本雄三「2012年の夏休み」。子供が床に俯せになって絵を描いている。そばにクレヨンがある。上方にはかじられた西瓜の破片や種。そんな様子を上から強い透視力で画面に定着するように表現する。バックの灰白色に強い手触りがある。鉛筆やクレヨンによってモノクロのトーンをつくり、リアリティを作る。時間というものの影のようなものが画面からあらわれているところが面白い。ものをリアルに描きながら、そこにある時間というものが画面に捺されるように表現されているところが魅力である。(高山淳)

 松樹路人「私を描く私」。画家本人の横顔が手前と向こうと重なるように遠近感のうちに描かれている。筆を持つ左手。パレットを持つ右手。下方にはテーブルがあり、梟や縄文の土偶や茸や木でできた左手などが置かれている。この白髪の画家を荘厳するように赤いカラスウリの蔓が伸びて実が色づいている。白いタイルのような壁。自画像を描いている自分を描いているといった不思議な雰囲気で、その自画像がエコーのようにこだましてくる。どこか寂しい雰囲気があるなかに、色づいたカラスウリが時間に結晶するイメージをつくっている。そして、カラスウリから外れて、一つ不思議な赤いフォルムが浮いているのがアクセントになっている。(高山淳)

 田伏勉「朝」。まるで映画のワンシーンのようだ。左のほうに古い建物があって、前に二つの線路が伸びて、向こうには駅がある。点々と人々がいる。いちばん近景には、両手を広げて、何か驚いている中年の男。その視線の先を見ると、道端に雑草が白い花をつけて輝いている。大きな物語の一つのシーンのように感じられる。時間がしみ通ったような雰囲気が面白いし、個々のディテールがしっかりしているから見飽きない。(高山淳)

 竹岡羊子「“まつり”に見る歓喜と祈りの“かたち”」。トランクのようなフォルムの上に二つの小さな人形が座っている。太鼓を持っていて、一人はジョーカーで、一人は赤い衣装をつけている。その両側に仮装した人間がやはり太鼓を叩いているし、もう一人の女性は横笛を吹いている。そのそばに緑の衣装をつけた女性がタンバリンを叩いている。それを見ている白馬に乗った赤い衣装の男。遠景にはお祭りがいま行われているようなシーンが見える。人間も人形も仮装も素顔の人も画家の自由なイメージの転換によってあらわれ、全体で深いハーモニーがあらわれる。緑というエキゾティックな色彩を中心にしながら、パッションの象徴のように赤い色彩が入れられ輝く。(高山淳)

 田端優「麗裕観音菩薩界」。観音がたっぷりとした量感をもって描かれている。まるで豊かな強い生命力をもった女性のようなイメージである。その周りに山吹色で様々な観音、仏の図像が描かれ、全体で強いハーモニーをつくる。観音のもつエロス的な要素が引き出されている。そして、龍の姿がそこにあらわれているのも面白い。全体で声明とか雅楽を思わせるような独特の音楽性が感じられる。(高山淳)

 森京子「アルプスの食卓」。ミステリアスなドラマが進行するような面白さがある。深く内界に入ったところからあらわれた表現である。テーブルに赤い布が掛けられていて、その向こうにナプキンを胸にした男性が座っている。フォークとナイフを持っている。テーブルの赤い矩形の色彩がそのまま夕日を象徴するようだ。そして、左右に入口があり、左から馬が上半身をのぞかせ、向かって右では後半身をのぞかせている。馬が移動した時間がしぜんと暗示される。遠景の壁に出入口があり、その向こうで釣りをしている姿があらわれる。ふと天井を見ると、そこを泳いでいる人がいる。パラシュートのようなものがそばに浮かび上がる。画家は独り遊びをする。独り遊びのなかでイメージを静かに深い無意識からくみだす。上方から下りてきたものに孔雀がのっているのも面白い。赤い夕日を象徴するような布の下に犬が横になっている。犬は眠っている。室内の錆びた黄金色を思わせるようなトーンの中に様々な色彩が入れられて、独特の密度が空間にあらわれる。食卓に座る男性と戸外で魚釣りをする人のあいだに光が差し込んで、一本の旗が翻っているのも不思議な印象である。中原中也に「旗は はたはた はためくばかり、空の 奥処に 舞ひ入る 如く。」という詩のフレーズがあるが、回想、希望、憧れ、様々な、言葉では説明できない深い感情をこのようなコンポジションの中に画家は表現したのだろう。(高山淳)

1階─4室

 松山敏彦「T氏の思考」。近景にネクタイを締めた男の上半身があるが、男の顔はその体から外れて宙に浮いている。それを赤い炎のようなものが包みこんでいる。背後に巨大な百合の花があり、その雌しべに白い糸を巻いて手で引っ張っている。花びらの先に赤い糸を結んでいる。花びらの上を蝸牛がゆっくりと動いている。葉の上で花を見ているバッタは交尾している。男は自然の力、その神秘に驚いている。生殖活動の一環として花が咲くのだが、その営みはあらゆるところで行われている。その生命に対する驚きをこんなかたちでユーモラスに表現したと理解してみたい気がする。左のほうには浮遊するジャガイモから芽が出ているのも、同様の生命のイメージだろうか。(高山淳)

1階─5室

 岡田忠明「淤能碁呂―1291」。淤能碁呂とは、『古事記』の中でイザナギノミコトとイザナミノミコトが矛で海を搔き回して、その雫によってできた島のことをいう。それを題名にして、何か生まれつつあるもののイメージを様々な角度から表現する。今回は横長の画面の下方三分の一あたりに大きなカーヴする輪郭線が置かれ、下方は黒く渾沌としているが、その黒よりすこし明るいグレーが置かれ、まさに島がいま生まれつつあるようだ。そばに黄金色の一滴がぽつんと置かれている。その黒いカーヴする色面の上方はキメ細かい灰白色の色面で、そのあいだに柔らかなたらしこんだような墨色が置かれている。その墨色がいわば地球の大気圏のような雰囲気で、漂いながら静かに動いているようだ。深い人間の無意識の世界からイメージが発生する様子をしぜんと連想する。心象世界がそのまま無意識の世界のもつ力と関係しているように思われるところが興味深い。(高山淳)

 堀井克代「玄の玄」。上方に楕円があり、それを二つの赤い円弧が囲んでいる。二つの赤く深い大きな円弧に囲まれて、グレーの楕円が置かれている。赤の周りはオレンジ色。下方に矩形の門を思わせるようなフォルムが置かれている。そばには空から見た陸地の姿のようなものが置かれている。赤が圧倒的な存在感を示す。赤がまさに命の始まりのようなイメージを感じさせる。楕円から上下に二本の伸びていく青い不思議な線。強い祈りの感情を思う。画家は奈良に住んでいる。飛鳥時代以降の日本の歴史が、その時の気宇壮大なイメージが、この抽象的な画面に感じられるところが面白い。(高山淳)

 大塚恵美「生命(いのち)の不思議」。画家は子宮の中で起きる生命の姿を眺める。顕微鏡によって細胞状態の様子を見る。それはまさに生命の神秘で、そんな深い経験からこの独特の画面が生まれた。画面の右下から左上方に向かって命がいま現れつつあるようだ。中心の赤の色彩などは強く、これは連想だが、まるで溶鉱炉の中で鉄が輝いているような、そんな印象さえもある。そして、その上方にツクシの先が拡大したような中にみっしりと細胞があり、緑の中にオレンジ色などが入れられながらだんだんと増殖していく様子が描かれていて、実に強い印象である。周りにはグレーの様々な細胞の様子が描かれ、左のほうではたくさんの細胞が揺れて動きつつあるようだ。生命の赤い輝きを中心にして、それら全体があたかも深い海の中にあって、独特の海の浮力と重力の中に動き、群がり、発生し、あるいは死滅していくといった様子で、そんなコスモスが実に興味深く表現されている。(高山淳)

1階─6室

 前畑省三「パーントゥ幻想・・」。画面の中央に祈るようなポーズの女性が描かれ、その手前に二人の裸婦が横たわっている。中央の女性の背後には二人のパーントゥ(鬼)が姿を表している。よく見ると女性の右脇にも仮面が一つ落ちている。この女性もかつてパーントゥだったのだろうか。自然に対する畏怖の象徴として宮古島でながく祭られている鬼が、女神となり澄んだ海の底で祈りを捧げている。それは現代社会における、これから先の未来への希望の象徴にも思えて興味深い。裸婦のなめらかな肌の質感と泥と葉で装った鬼の姿が強く対比されているところもおもしろい。三角形の安定した構図の中に、そういった画家の希望が込められているようで印象深い。(磯部靖)

 小久保裕「沈黙の森」。二人の人体を思わせるフォルムが並んでいて、そのそばに対の幹を思わせるフォルムが立ち上がっている。画家はヨーロッパに旅行してロマネスク美術に深い影響を受けた。日本に帰ってきて、その同じようなイメージを竹や樹木、あるいは田園の中から掘り起こしてきた。この二人の男女もいわば自然の中からよみがえってきた新しい命のような雰囲気である。そばに寄り添う樹木がそれに呼応する。下方にはたくさんの円弧の中に緑や朱色が入れられている。一年前の東北の津波や原発の大災害から深い影響を受け、その困難な中から立ち上がろうとするイメージをこの対の人間像によって表現したと思われる。強い韻律が画面の内側から響いてくる。(高山淳)

 原田丕「ONITA-2012  沈黙」。渾沌とした黒褐色の中から炎が燃えている。後ろには樹木が枝を広げているようなフォルムが見える。劫火という言葉がしぜんと浮かび上がる。きわめて困難な危険なことが起きている様子が、この放射状の力や炎から感じられる。(高山淳)

 前田さなみ「悠久の丘」。ギリシャの光景である。ヴィーナスの顔が手前の地面から大きく浮かび上がる。青い海の上方にはポセイドンと思われる像や青年のトルソが浮かび上がる。はるか向こうの神殿の上方には朝日が空を赤く染めている。まさにギリシャ讃歌といった趣である。同時に、神殿の柱などが壊れている。人類のギリシャ以来の長い歴史、すでにギリシャ文明は崩壊しているわけだが、歴史に対する深い感情も醸し出される。(高山淳)

 佃彰一郎「世界の中心」。地面に白い線で同心円をいくつも描く。中心の同心円にいるのは、鞄を持った六十歳ぐらいの男性である。周りには老若男女、様々な人が立っている。タバコを吸って眼鏡をかけている男。バッグを持った青年。バッグを肩に掛けた短いスカートの女性。ボストンバッグを持った男。上方には走っている二人の青年もいる。そこでは同心円がトラックのような様相をしている。だいたいが半袖で、一部上着なども着ているが、初夏の一刻のようである。それ以上に強い光がこの画面に差し込み、それぞれの人間にスポットライトを当てたようなかたちで浮かび上がらせているという構図が面白い。しかもそれぞれの人間は全く関係をもっていない。それぞれが孤立したかたちで画面に置かれているが、これほどの数が集まってくると、不思議なミステリアスな雰囲気がある。とはいっても、左のほうにセーラー服を着た高校生と思わせる少女が二人、地面にじかに座っている様子の背中から見たフォルム、もう一つ、トラックを走る二人の男性は関係性のなかに動いているわけだが、一つは座り無表情で、もう一つは運動しているといったことが、この全く無関係な人間たちのなかでの関係性で、そんな様子もまた現代というもののドライな性質をよく表すものと思われる。(高山淳)

 田井淳「月の舟に乗って」。独特の緑の色彩が神秘的な表情を表す。中心に深い湾が描かれている。陸が幾重にも稜線をもちながら、水に向かってその陸が進入していく。ちょうどリアス式海岸のように海が囲まれている。湾の中に二つの島がある。面白いのは、水平線にもっこりとした古墳のような島が見え、そこからたくさんの星のようなものが上方に向かって出現していることである。ほぼ真上に三日月がある。そして、現れた星は空に銀河のようなイメージをつくり、その星は近景のほうにもまるで雪のように下りてきている。不思議な安息感のなかに自然の神秘ともいうべきものが表現される。おとぎ話の世界と言ってよい。題名のように、月の船に乗って、現実と違ったもう一つの世界に連れて来られたのだろうか。岸辺に二艘の船が引きあげられて、一艘の船のそばにもう一艘の船が直立して置かれている。もう元の世界に戻ることができないのだろうか。ある意味で、ここに描かれた詩的なヴィジョンは人間的な立場を忘れさせて、まさに宇宙の世界の神秘ともいうべきものの表現のように感じられる。いずれにしても、そのようなファンタジーが説得力をもっている。大変な力わざだし、これまでの作品の中でも最もパッショネートで優れていると思う。(高山淳)

 伊藤弘之「マスカレード 2012」。マスカレードとは仮面舞踏会といった意味である。手前にあやしい仮面をつけた二人の女性。一人は紫色の衣装を着、一人は赤い衣装を着ている。紫色の衣装は鑑賞者のほうに向かって右手を出し、人差指を立てている。仮面から見える空洞の目があやしい。背後に大運河が流れ、ヴェニスの宮殿が見える。上方の空にも三つの仮面がある。いずれも女性の顔である。女性のもつ強い蠱惑的な力がこの画面の中に引き寄せられる。画家にとって女性はそれほど深い謎めいた存在なのだろう。紫の空もあやしくミステリアスである。この二人の女性を乗せたゴンドラは静かに鑑賞者のほうに向かってくる。ロマンティックな歌が聞こえてくる。運命の歌、謎めいた誘惑の歌、人生の謎がしぜんと画面から立ち上がってくる。(高山淳)

 阿部栄一「よこたわるもの―2012―」。画家は長く生と死について描いてきた。今回の作品では大きくカラスが中央やや上寄りに描かれている。その様子がまるで十字架を思わせる様で興味深い。その後ろには人物の姿が見える。顔は見えないが、どこか不思議な存在感を醸し出している。その両側、室内には虫やビン、バベルの塔のポスターなどといった様々なモチーフが散らばっているが、そのどれもが綿密に描き込まれている。青みがかった薄暗い画面の中で、死とは何か、生きるということの意味は、という問いを画家は繰り返し抱いているかのようだ。そういった深いイメージの奥底から湧き上がってきたものがこのような作品として描き出されたところが実に興味深い。(磯部靖)

 秋口悠子「刻」。ボロボロになった壁の建物に向かって斜光線が伸びている。地面と壁を染めて、あいだに樹木の影が映っている。オレンジ色の光が優しいし、人を癒す力がある。あいだの細々とした樹木の影は寂しい。この建物の中で過去、困難な出来事、つらいことがあったのだろうか。しぜんとそのような歴史を感じさせる。壁の内部で行われた悲惨な出来事をしぜんと思うような、そんな光と影のドラマだし、上のモルタルが朽ちて煉瓦の土台がむき出しになっているその様子には切ないものが感じられる。どっしりとした建物のもつ重量感、量感がなおさら、その内部にあったことを思い起こさせる。画面の左端で一部切れているが、樹木の黒いシルエットが伸びて、上方に葉などが固まって、なにか悲痛な動きのような身振りをそのシルエットがしているように感じられる。(高山淳)

 中嶋明「ペイルルバード」。ペイルルバードとはフランスの地名で、石灰の大地が連なっているところである。画家のルドンはそこで生まれた。父親はそこで葡萄を植えてワインをつくっていたそうである。荒涼としたその場所で、ルドンはしばしば幻想や空想に浸ったといわれている。そこからあのルドンのもつ黒の世界や色彩の世界があらわれたという。画家はそのペイルルバードをあえてこの画面の題名につけた。少年がスケッチブックを持って遠くを眺めている。正面向きである。そばに側面向きの帽子をかぶった老人が遠くを眺めている。二人の関係は父と子なのか、あるいは神父と少年なのか、定かではない。画家独特の手触りのあるマチエールによって塀や建物を描く。地面の明るい褐色系の色彩。太い幹をもつ樹木。深々とした気配が画面から漂ってくる。(高山淳)

 高橋伸「45°N」。北緯45度ということで、事典を調べてみると、温帯の北限という意味があるようだ。画家は札幌にアトリエを持っているが、もっと北のほうの位置を45度のラインが通過している。それはさておき、ソファの上にキャミソールを着た女性が足を組んで座っている。そばには裸の体に毛皮のようなコートを着た女性が立っている。大きく背後に窓があけられ、空には夕焼けが赤く輝いている。白い雲が飛んでいる。不思議な哀愁感があらわれている。これまでのように女性のもつ野性的な生命力を引き出した画面ではなく、女性たちも束の間の時間の裂け目のなかにいて、ぼんやりとしているような雰囲気である。どこか放心の様子である。とくに立っている女性はそのように思われる。座っている女性は腕を組んで、右方向を眺めているが、色調から来るのかムーヴマンから来るのか、不思議な安息感のなかにいて、それが背後の夕焼けと呼応している。白い雲がいくつも浮かび、その形を見ると静かに波紋が動いているような、そんなノンシャランな雰囲気もある。ノンシャランな中にある人生の真実といった、そんなイメージも感じられるところが面白い。(高山淳)

 塚本聰「光の誘い」。古いお城のような建物の内部が描かれている。柱は上方に伸びて、湾曲して梁をつくる。あいだに階段が続いて、だんだんと上方に上っていく。そこに光が差し込み、光と影をつくる。いちばん下層から上っていく階段の両側、その先のアーチ状の周りに蔦のような植物が生えている。階段の両側には雑草が生えている。石の建物のそこだけに植物が生えているのも不思議である。自然の命はあらゆるところでその生命活動を行っている。光がその手助けをしているのに違いない。同時に、その光は空から下りてきて、神という存在を暗示する。ヨーロッパの建築はそのようなものを常に暗示させる建築になっている。独特の形而上的な要素も取り込みながら、骨格のしっかりとした建物の繰り返されるアーチが一種の無限運動のようなムーヴマンをつくる。(高山淳)

 大場再生「第3の来訪者」。戸外にテーブルを出してお茶をしている女性たち。そばにはたくさんの薔薇の挿されたガラスの瓶を持った女性が立っている。その後ろに老夫婦と思われる二人が寄り添っている。麗しい初夏の一刻。老夫婦の背後には薔薇でできたアーチ状の門がある。それと対応するように右のほうにバスが一台。手前の薔薇を持つ若い女性の生命感に満ちた様子と老夫婦とが対比され、たとえば老夫婦と娘と孫が同居しているような、そんな穏やかな安らぎを感じる。的確に個々のフォルムに筆が届き、とくに花や植物の様子が生き生きとしている。(高山淳)

 松原潤「Solar eclipse~祈り」。古城のような場所にドレッシーな服を着た女性が立って上方を眺めている。そのシーンをすこし背中のほうから眺めた角度から、もうすこし小さく左に同じ女性が別のポーズをしている。バックに宮殿のような建物が見える。夕暮れで、空に雲が浮かんでいる。今年の金環食のときのシーンを思わせるところがある。にわかに曇り、それによって異界のようなイメージが生まれる。そんなイメージをこのクラシックなドレスを着せた女性の動き、一つは上方を眺めるということ、もう一つは下方を眺めながら踊っているポーズによって、そのあやしい雰囲気を描いた。(高山淳)

1階─7室

 半那裕子「散歩(Alice)」。『不思議の国のアリス』からヒントを得たシリーズである。川にかかった橋にチェシャ猫が座っているが、川に比べると、まるで何十倍もの大きさで、しかも頭に宝冠をもっている。川沿いの道に樹木が立ち、少女がいる。チェシャ猫の手前に巨大な卵が割れて、その中からトランプと不思議な布のようなものが現れ天上に向かっている。右のほうには関節人形の手が本を持っている。小さな川のそばの建物。その建物はヨーロッパの建物で、たとえばヴェニスの迷路のような街の一隅のようだ。画家は物語のラビリンスの中に鑑賞者を招く。不思議なことに、そこにあるものたちは自分自身に返りながら、よりイメージを膨らませるようだ。(高山淳)

 中前光雄「『共生 21』たんぽぽ」。タンポポの葉が下方に広がっている。そこから二本の茎が伸びている。先はすでに綿毛になっていて、そこからたくさんの綿毛が空中に飛んでいる。面白いのは、綿毛がはるかかなたの那智の滝の上方の太陽に向かっているように思えるところである。画家は和歌山の生まれで、那智の滝や高野山について熟知している。那智の滝は古来、霊場として知られて、日本の滝の中でも最も信仰を集めてきた。また、有名な国宝の「那智瀧図」はその神韻縹渺たる姿を描いて有名である。タンポポの背後に琥珀色のものがある。まるで中に光が入って、雪洞が灯っているような趣である。それはその中にたくさんの虫が死んでこの琥珀になっているわけで、いわば死者が集まった形象と言ってよい。そして、その手前に三羽の緑の大きなヤンマのような昆虫がその雪洞を見ている。生と死の様相が鮮やかに対比される。また、この雪洞の輝きは深い信仰心を思わせる。この若葉の向こうに高野山があるが、奥の院では万灯会といって、灯を絶やしたことはない。なぜならば、その地下に弘法大師が現在なお座禅を組んで生きて瞑想しているから。そんな万灯会のようなイメージもこの雪洞に感じられる。今年、金環食があったが、金環食のイメージが上方の太陽に感じられる。金環食によって改めて太陽の恵みを思う。そういった命の源に向かって綿毛が飛んでいるという内容になっているのも、画家の深い自然観、共生観のあらわれと言ってよい。いずれにしても、縦長の大画面の中心に大胆に置いたこの雪洞のような琥珀のもつ不思議な魅力について特筆しておく。(高山淳)

 石川和男「時航海―誰そ彼時―」。椰子の実がどこかに漂流してという歌があるが、海岸際に一つの大きな椰子の実があって、そこからいま芽吹いている。そこに向かって波が押し寄せている。上方の空は茜色である。戦争で亡くなった人々を迎える海岸などを描いてきた画家である。時間というものがテーマになってきたが、今回は同様のシーンを背後に置きながら、人間の運命の不思議さを静かに語るようだ。(高山淳)

 田口貴大「Jungle Forever」。巨大な椰子の樹木が茂っている。それを背景にして、裸の女性が立っている。その女性は髪は茶色に染めているが、明らかに日本人である。ジャングルのこの椰子の葉の様子は、エロスの人間性の迷路を暗示するように思われる。SMシーンなども描いてきた画家であるが、自然のもつそのような謎めいたものが、この現代の裸の女性を支えているように感じられる。そのようなイメージの展開が面白い。女性の姿自体はきわめてクリアで写実的で、画家のデッサン力を如実に見せるわけだが、それは外形であって、その内側にある世界が暗示されるようなコンポジションに注目。(高山淳)

 池末満「川辺」。中心に川を置いて、遠景に土手、手前は雑草が生えている。そのあいだから屈曲するように裸木が立っている。秋も終わりの頃の季節。その裸木の形がまるで生きている人間の神経のような趣である。同時に、クリアなフォルムの組み合わせに独特の美意識も感じられる。(高山淳)

 山本実「ペーパークラウン・1+1=(十二支)」。画面の真ん中よりすこし右にペーパークラウンをつけた少年がいる。その背後には巨大な樹木が枝を伸ばし、そのもうひとつ背後にはサボテン状のフォルムがある。手前には十二支をはじめ、様々な生き物、魚までが浮遊している。そして、最も下方に地球の姿が半分ほどのぞく。地球の中に生きているすべてのもののハートを画家は描こうとしているかのようだ。壮大な話であるが、それをおとぎ話的なフェイクなおもちゃのフォルムを使いながら表現する。ペーパークラウンをつけた少年は左手に猿を持ち、右手にハートを持っている。あいだをうねうねと蛇のようなフォルムが動いているのは、DNAの長い連鎖のように感じられる。(高山淳)

 張忠儀「コスモスの下」。茶褐色の箱の中からあやしいものがのぞいている。犬のような生き物が大地の匂いをかぐようにして、周りに何頭もいる。強い気配が感じられる。生のもつ表層の自我ではなく、もっと深いところにある命の渾沌とした力を画家は画面の上に引き寄せようとする。ちょうどこの会期に始弘画廊で二人展があって、そこに男性の顔が出品されていた。その作品も内面をいかに引き出すかといった雰囲気で、独特のマチエールが魅力であった。この作品もそのような気配をマチエールの力が支えている。(高山淳)

 日下部淑子「地に祈る」。落ち着いた朱の色彩の花弁を付けた花が大きく描かれている。その右側には蕾もある。そして下方には大きな岩が置かれている。岩は大地の象徴、そして花は祈りのメタファーとして描かれているようだ。昨年の震災も想起させるが、自然の大きな営みの中において、人間はただ祈ることしかできない。しかし、祈ることで希望が生まれ、明日への一歩を踏み出せる。そういった確かなメッセージを感じる。画面の左側には満月がうっすらと描かれている。それもまた地球と対比される一つの存在となっているようで興味深い。しっとりとした花の様相と岩のゴツゴツとしたフォルムが強く対比されるなど、シンプルながらも見応えのある画面を作り出している。(磯部靖)

 中村光幸「Quiet Friday」。モノトーンの色彩で画面をまとめている。手前で一人の少女が顔を伏せて泣いている。大きな布がその背後で十字架を思わせる様に交差して描かれている。そして下方には港街の風景が少し入れられている。時計の針は十四時四十六分を指しているが、これは昨年の東日本大震災が起こった時刻である。それによる津波などの一連の被害は、未だに被災地に大きな爪痕を残している。この少女の悲しみは被災者全員の象徴といってよいだろう。そういった細やかな暗示を散りばめながら、シャープな描写によって作品を描き出しているところが見どころである。これまでよりも画面をフラットに描いているところと、できるだけ感情を抑えて、淡々と事実だけを刻むようにメッセージしているところが実に興味深い。(磯部靖)

 髙橋雅史「Las Palomas de la Fábrica」。飲み屋街の裏通りのようだ。様々なものが集積して、道にまではみ出ている。そのあいだに細く道が続く。屋根に布が掛けられている。そんな様子を画家はじっと眺めている。左のほうの段ボールの上に一羽の鳩がいる。もののもつ存在感、そしてそれらが集まったことによって起きる気配や匂いというものが、よく表現されている。温度さえも感じられるようだ。このバラックのような建物の裏側の中で鳩が空を眺めている様子が新鮮だし、画家の発見した一つのささやかな命の真実と言ってよいかもしれない。(高山淳)

 権藤信隆「Le scelte future」。題名は未来の選択という意味である。若い裸の男女と歯をむき出したような馬の頭とが組み合いながら旋回している。旋回する下方には巨大な塔のようなものがあるし、その向こうには出入口の明かりのようなイメージも感じられる。そして、背後に海がある。ソクラテスの説によると、人間は死ぬと冥界に行き、そこで水を飲まされて記憶を失う。そして新しく生を選択するそうだが、そのような輪廻の車輪のようなイメージが感じられる。馬の頭は強い情動を表すのだろう。そして、若いアダムとイヴが浮遊している。ユニークなコンポジションである。(高山淳)

 山内和則「ノクターン」。中心に大きな窓があり、夜景の海が見える。豪華船がイルミネーションに輝き、対岸の建物にも宝石のような光が散りばめられている。部屋の中は暖色系で、ソファやテーブルが置かれているが、そのそばに大きな姿見があり、手紙を読む女性の横顔がシルエットふうに表現されている。まさにノクターンで、人と人とのコミュニケーション。この女性は恋人の手紙か、あるいは娘や息子の手紙か、あるいは知人であるか、そういった文学性が画面全体から漂う。(高山淳)

2階─8室

 関口聖子「疏水公園」。これまで種から芽が出るように、発生するものの神秘を描いてきた。そういったヴィジョンを描いているうちに、それらの芽が成熟して花をつけたり、樹木になったり、葉を広げたりといったように、春と夏が一緒に来たようなイメージである。壺の中に薔薇の花が咲き、壺から発生するものが樹木となって立ち上がる。そして、その樹間のなかに梟がすむ。梟は森の哲学者といわれているが、その梟こそは画家自身なのかもしれない。左のほうにはまた不思議な花が開き、その向こうには山が見え、橋があり、川が流れている。自然というものを現象的に眺めるのではなく、自然をかたちづくる、発生するその現場ともいうべきもののヴィジョンが成熟して、このような不思議な風景とも花鳥画とも命讃歌ともいうべき作品があらわれたのを喜びたい。画家独特の曲線によってつくられたフォルムは、それぞれの個的なものの形をつくりながら、その曲線は別の個と連続しながら、全体でいわば時間というものの連鎖ともいうべきコンポジションをつくる。また、色彩の豊饒さも魅力であることを付け加えておく。(高山淳)

 大泉佳広「AMA GUMO」。雨雲をつくる円筒形のボックスのようなものが回転している。その雨雲の上に太陽が擬人的に浮かび、いまは雨をつくる時間ということで、目を半ば閉じてぼんやりしている。そんな自然というものを寓意化する力が、この作品の魅力である。(高山淳)

 齋藤将「いきものぶっく」。三種類の熊が手をつないでいる。中心にパンダがいて、向かって左には北極の海を背景にした白熊、向かって右には樹木を背景にした茶色の熊がいる。そして、中心のパンダの向こうは動物園らしく、ケータイなどで写メールしているような人々、つまり観客が背後にいて、上には撮影禁止のマークが貼られている。おそらく日本の上野公園にもいるパンダをまず起点として、イメージが広がって三頭の熊が生まれた。そのようなしぜんなイメージの転換がしぜんなリズムをつくり、誰もが共感するコンポジションが生まれた。(高山淳)

 喜多万紀子「白いDoor(斜陽)」。画家はデッサン家である。そのシャープなドローイングの力が形をなし、イメージを引き寄せる。花や葉、建物、樹木、風景などが引き寄せられる。その上方に、繰り返し描かれてきたドローイングによる横たわる裸婦が描かれる。裸婦を描くということはドローイングのトレーニングとして最適で、そこから出発しながら、室内と室外のものたちを画面の中に引き寄せ、独特の生命感を表現する。(高山淳)

 張公「2012年の私」。人間が浮遊している。その手の先にチューブがある。どうもこのチューブから水を出して、周りに水を与えたいようだ。上方にはそれを見ているもう一人の逆様になった人間がいて、その人はチューブの中から上体をのぞかせている。下方のボックスを積み重ねたフォルムは建物を暗示する。葉が浮かび、茎が伸びている。まだ若木のような細い茎が伸びながら葉をつけようとしている。鬱屈した閉塞された空間、その中に命というものを新しく再生させようとする。内向的な画家らしく、独特の暗い緑系のバックの中に黄色や朱色やベージュなどのコクのある色彩が浮かび上がる。(高山淳)

 佐々木里加「HYPER BRAIN TECHNO SCAPE」。世界中がハイパーブレインでつながっている。そういった地球規模のダイナミズムがいまウェブの世界では生まれている。そのイメージを、脳の形を集め、浮かばせることによって表現する。下方にはレリーフ状に銀色の電子頭脳、パソコンの最もベーシックなフォルム、データベース的なもの、巨大なサーバーのごときものが描かれて、現代というものをダイナミックに表現する。(高山淳)

 瀬島匠「RUNNER.voyager」。明らかに一年前の津波の大惨事からインスパイアされた作品だと思う。海は黒く、下方に波がレリーフ状に描かれている。巨大な黒いフォルムが上方に立ち上がり、その黒いフォルムの上には建物が見える。黒いフォルムのバックから太陽がのぞく。モノトーンの世界である。この空中に浮く巨大な岩の上に建てられた建物のように不安定であった東北の町々。いまその町は流されてしまった。深い鎮魂のイメージが発信してくる。(高山淳)

 松村浩之「人間」。崩れかけた壁を背後に話し込んでいるのは男女である。右側の男は身振り手振りで話していて、左側の布を頭に被った女性がそれを聞いているようだ。どちらも筋肉質で強い存在感を孕んでいる。松村が描く人物像には常にアルカイックな力がある。人間が人間として存在する、その生きる力の源を表現しているように思う。先日開かれた紀伊國屋画廊での個展を拝見したが、それが今回の作品に繫がっているようだ。これからの展開を期待させる作品である。(磯部靖)

 大塚利典「花の変容―すべての始まり」。画面の中心に赤いワンピースをつけた女性がいるが、脱げかかって乳房が見える。薔薇の上に座っている。周りにモノトーンで様々な女性があらわれている。あやしいニンフたちである。女性のもつ様々な要素が文学や絵の中に描かれてきた。そういった女性たちのイメージがグレーの中からあらわれて立ち上がってくる。いわば石化された歴史の中にうずもれていたものたちが改めて立ち上がって、この中心の女性をイメージの中で支えている。中心の女性は髪を逆立てて、すこしメドゥーサ的な要素もある。いずれにしても、魅惑と甘美なもの、恐ろしさ、様々なものが一体となったイメージがあらわれてくる。そして下方に水があらわれる。海は女性名詞だが、津波を起こすような恐ろしい力もあるし、生物を育てる優しい母性的なイメージもある。そのような海のイメージが、その背後に暗喩的に置かれているところもユニークだと思う。(高山淳)

2階─9室

 米田和秀「星宿る地 ・」。奨励賞。水にすこし浸った若い女性が横向きに寝ている。水は緑で、様々なたくさんの波紋が起きている。水というより、なにか不思議な液体の中にいるようで、銀河に抱かれた女性のイメージも浮かぶ。そのようなロマンティックな内容とクリアな女性のフォルムとによって、この作品の魅力が生まれる。(高山淳)

 結城康太朗「magnetic field 12-II」。小島賞。アルミの支持体を使い、そこに絵具を織り交ぜるようにして描いている。深い赤の色彩が多く扱われているが、白や暗色もある。その様相は、天地創造の場面をも思わせる根源的なエネルギーに満ちているようだ。意識的に無意識を作り出すような画面作りもまた印象的である。(磯部靖)

 倉岡雅「女・鏡 KAZENOKEI-III-」。芝田米三賞。黒いシーツを置いたベッドにシュミーズ姿の女性が横になっている。しっとりとした質感がまず魅力である。形を追い詰めて、ある絵画の中の形になっている。面白いことに背後に大きな姿見があって、そこにこの女性の後ろ姿が映っているのだが、そこは彩色されている。実景がモノクロで鏡の中がカラーと、現実は色がついているということを鏡を通してメッセージしているような、そのようなレトリック的な要素がまたこの作品の面白さとなっている。(高山淳)

 村田英子「Baroque II」。中山賞。女神のような女性が立っている。顔にスポットライトが当たり、髪が下方に靡いている。聖なるイメージで、ミューズのようだ。赤やオレンジなどの色彩が散りばめられ、その手前からもう一つ羽のようなフォルムが立ち上がってくるし、その羽のようなフォルムは下方にもある。全体で循環するような動きがある。それは一種のメロディを思わせる。(高山淳)

 山根須磨子「光彩の溢るる中で」。芝田米三賞。蓮の池に二人の女性が立っている。手前の女性は蓮の葉を持っている。水に濡れて上衣からボディが見える。右手の形、左を向いたライン、その女性の形がクリアで、しかもある美的な情緒がしぜんと感じられる。京都生まれの画家である。しぜんと培われた美意識が優れたデッサン力を通してあらわれる。また、曲線が連続しながら茎から背後の葉に動いていきながら、後ろ姿の女性にまた戻ってくるというフォルムの連続性がまた柔らかなメロディともいうべきものをつくる。(高山淳)

 貴志紘美「ある風景(1)」。会員推薦。二つの大きなテトラポットがモチーフになっている。中心に向かって広がっていく円柱が組み合って三角形をなす。その様子は太った女性を想起する。それにもう一つのテトラポットの先がのっかるのは、人と人との連帯感を思わせる。津波という悲惨なことを経験しながら、再生のイメージをこのテトラポットを通して静かに訴える。温かな体温がこもっているような質感もまたそのイメージを支える。(高山淳)

 須藤美保「香華幻奏」。金箔をバックに、二人の女性が沢山の花に包まれている。女性の持つ美しさというものを花と対比させ、強くメッセージしてくる。二人の女性は和装である。その華やかな装飾が周囲の花々と相俟って、鑑賞者の目を惹き付ける。画面全体ではなく、周囲に余白を残す画面構成が、もう一つの奥ゆかしさに繫がる美を感じさせる。しっかりと描き込みながら、確かな存在感を作品に与えている。(磯部靖)

 島崎陽子「市のたつ日」。画面の真ん中に鍋で蛙を煮ている中年の女性を描いている。右手にお玉を持って左手にお椀を持っている。顔はずいぶん大きく描かれている。周りに荷物を持つ人や肉を料理する人、あるいは通行人、たすき掛けの女性や包丁を持つ人などが置かれて、素朴な生活のモニュマンともいうべきものが表現されている。それが料理をつくるというテーマによって力強く表現される。顔を強調し、体は小さくというデフォルメも作品のテーマにふさわしい。独特のシンメトリック性と同時に、中心の女性の周りを旋回するような動きをつくりながら、他の命を殺して、その肉を食べて命をもらうといった、他の生き物との関係性のなかで生きている人間のその姿が生き生きと表現される。(高山淳)

 目黒礼子「実験室」。会員推薦。この作品の面白いのは、ガラスの壊れた手前に骨になった蛇がいることだ。蛇は、からだ全体は骨でできているので、実に強い印象である。同時に、そのフォルムはDNAの螺旋の一つをここに置いたように感じられる。画家は人間に進化するまでの長い生命の歴史に思いを馳せるようだ。そんな中に骸骨の人間が笑っているところがほほえましい。実際の笑っている肉体も面白いが、骸骨が笑っているというところにかえって現代の乾いたドライなヒューマニティといったものが表現される。独特のエスプリである。(高山淳)

 木村小百合「どこから? ・」。会員推薦。独特の美意識がある。オートバイと若い女性のフォルムを組み合わせている。オートバイのもっているエロスの力をうまく引き寄せている。女性のマニキュアの指と足が画面の前面に迫って、その向こうにモナリザふうな顔が浮かび上がるという面白いコンポジションである。いずれにしても、若々しい動的な強い美意識によるコンポジションに注目。(高山淳)

 波田浩司「羽の舞う日」。独立賞。高層ビルを背景にして若い夫婦が宙に浮いている。女性は逆様になり、男性は印のようなものを結んでいる。日常の拘束された時間のなかから自由になること、それが浮遊するということだろう。そして、そのようなノンシャランな空間をつくりながら、切ないような人間の連帯の、あるいは愛の悲しみのイメージを画家は発信する。(高山淳)

 高松和樹「監視シニ来マシタ。」。独立賞・80回記念賞。ガラスによってつくられた少女の顔であったり、花であったり、鳥であったり、建物であったりといった、独特の美意識がこの作品の魅力である。実際の人間たちや鳥をそのようなかたちに結晶させることによって、独特のセンスが生まれる。そのセンスにこだわりながら平面造形を行ってきて、だんだんと成熟して独特のメロディのごときものが画面から生まれてきたことに注目。(高山淳)

 磯貝四郎「KOKU」。独立賞。金属に階段状の凹凸をつくり、歪ませ、画面にいくつもコラージュする。しぜんと長い歴史、たとえば岩をつくったりするような時間を思わせる。そして、そういう時間がいま下方にクロスしてクラッシュしている。そのフォルムは一年前の津波の大惨事を思う。津波のようなことは何十万年のうちに何回も起きたに違いない。そういった長い時間に想像力を延ばしながら、それを具象ではなく、このような抽象的なかたちでもって表現する。現代のもの派と言ってよい。(高山淳)

2階─10室

 堀一浩「天使」。セーラー服の二人の女性が、生クリームの中にいる。生クリームは座っている女性の頭にも垂れている。熊などのぬいぐるみも中に半ば漬かっている。上方のパンダの首の断面から苺のジャムが垂れてきているのが、血液に見える。過食と拒食の両方のベクトルがこの画面の中にあらわれているような面白さである。それがこの作品の現代性と思われる。(高山淳)

 広瀬晴美「私的風景 2012─・」。花が画面いっぱいに描かれていて、手前の花弁がまるで舌のように垂れて、中からしべがのぞく。写真でいう中心にフォーカスを当てて、周りはピンぼけのような雰囲気で、葉や花などが描かれている。写真のもつ力を絵の中に応用したような雰囲気があって、それが逆にヴィヴィッドな強さとなってあらわれている。(高山淳)

 宮地明人「paradox」。奨励賞。同一人物を思わせる、妊娠した女性を二人描いている。モノトーンの色彩の中に、僅かに肌の色が入れられている。二人は水辺に座り、あるいは寝そべって足を水に浸けている。独特の気配が漂っている。それはこれから子供を産むことへの不安と期待が入り交じったような感情から来ているのだろうか。いずれにせよ確かな描写力で描き込み、安定した作品として成り立たせているところに注目する。(磯部靖)

 芝田友司「月からの信号」。FC賞。赤い機関車と青い機関車が上下向きを反対側に向かって走っている。上方に月が描かれている。絵の中に月の月齢が描かれ、右上方に赤い色彩の点じられた月がある。蒸気機関車の重量感のもつ地上的な力と同時に、浮遊して浮き上がって天井を走っているような二つのイメージがこの作品の中にあらわれているところが、この作品の不思議な魅力を釀しだすゆえんだと思う。(高山淳)

2階─11室

 林美希「誘惑と強迫」。苺が盛られている。強烈な色彩でつやつやと輝いて照りがある。それだけで絵になっている。まさに誘惑と強迫。甘い苺は食べるとおいしいから誘惑だが、このぎらぎらとした赤い様子を見ると強迫される気持ちになる。この苺全体の盛られた形自体が女性性の誘惑の強烈な発信でもあるし、また、その強い女性性自体がきわめて強迫的というようにもとれる。(高山淳)

 藤井康子「別れ、旅立ち」。仰向けになった若い女性の全身が描かれている。周りに様々な紙や化粧道具などが散乱している。プライベートな自分の身近なところから、このような旅立ちのモニュマンともいうべきコンポジションをつくるところに共感をもつ。あまり感情的にならず、一種突き放しながら描いているその距離感が不思議な情感を釀し出す。(高山淳)

 川畑太「風のささやき」。手前に一人の女性、奥のベッドから窓の外を覗くもう一人の女性を描いている。室内の情景だが、これまでよりもしっかりと人物の周囲の風景を描き出しているところが印象的である。マチエールによって抑揚を付けながら、やわらかな色彩で女性の落ち着いた心情を描き出しているようだ。しっかりとしたデッサンの力の上に成り立った、どこか幻想的な雰囲気が特に魅力である。(磯部靖)

 津田光昭「生・・」。二人の女性が立っているが、向こう側の女性の頭は消えている。二つの女体が向かい合っている。下方から手が伸びてくる。一種彫刻的なマッスの力が魅力。(高山淳)

 九十九由紀「2年」。室内が棚を通して見られ、その矩形の空間の外側から描かれているわけだが、画面の下方約三分の一ほどは暗くなっている。そこがなにかあやしい。絵具の汁が下りてきたりし、混沌とした雰囲気で、「2年」という題名とあわせて見ると、ひょっとして津波から二年ということで、この光景もすでに変わってしまっているのだろうか。シルエットによる表現がなにか不穏なものと同時に貴重なものを表す、そのような若々しい感性に注目。(高山淳)

 黒坂梨乃「淡々と ・」。シンクの中に二つのフライパンやカップやガラス器などが洗うために置かれている。その様子を淡々とクリアに描く。目の質がよい。それによって清潔感と抽象的な雰囲気が生まれる。(高山淳)

 高橋美穂「止まってはならない」。地面の上を人々が歩いていく。その下半身だけによって画面にしている。動きによって形がダブって重なる。そんな工夫もしながら、黒によるフォルムとベージュの床。それがシックである。色彩に対する感性もよいし、時間というものをテーマにしているところが面白く感じられる。(高山淳)

 曽佳恵「ぐえっ」。魚が口をあけて、半ば死んでいる。暗い印象で不吉なものである。周りに紙があって、タイミングずれ不在票、あるいは春はあけぼの水不足大停電など、あまりよろしくない言葉が描かれている。巨大なこの魚は不安感や不吉感、あるいは飢餓感、様々なものの象徴と思われるが、それが巨大な魚の頭を描くことによってあらわれているところが、この作品の絵画性で面白い。(高山淳)

 坂田燦「横たわる(廃屋)」。木の台の上に馬が横になっている。屋根は壊れて、壁も一部壊されている。向こうに海がのぞくから、一年前の津波の悲惨さをこのようなかたちで表現したのだろうか。横たわった馬は死んでいず、なにか体全体で訴えてくるものがある。筆力のある画家である。(高山淳)

 後藤玉枝「孤独の砦 ・」。すこし暖色系のグレーによって構成されている。中心に鳩を思わせる鳥が顔をのぞかせている。そこがいちばんハイライトになっている。何か考えこんでいる様子で、そのかたち自体に緊張感がある。密閉されているために空間に密度があらわれ、それによって生きているなまなましいものが化石化する。骨やロープや仮面によって囲まれたこの鳥は石膏像のような石化したような趣であるが、実は生きていて、静かに心臓が拍動しているといった不思議なイメージの強さが感じられる。(高山淳)

 杖谷美彩「紋(しるし)」。柵の中に牛がいる。それを四頭ほど描くことによって強い遠近感が生まれる。手前の柵もそのパースペクティヴに従って置かれて、その強いパースペクティヴの力によってムーヴマンも起きる。また、その力がこのとらわれた牛の不安感も表す。(高山淳)

 黒沢典子「重なる 1」。テトラポットをモチーフにして描いている。そのある種の抽象的な画面構成が独特でおもしろい。手前から奥への複雑な距離感と立体感も確かに捉えている。強い存在感が作品に満ち溢れているようで注目した。(磯部靖)

2階─12室

 林晃司「偽り」。写実力のある画家である。ロープで吊るされた木の破片の上に様々な花が置かれている。床には古い壊れたカメラや牛骨や割れた卵や金属の瓶、紙などが置かれているが、それぞれの材質を的確に描きながら、クリアに独特のリアリティをもってそれを描く。カメラや金属の入れ物のような幾何形態もそうだし、花は花として、その瑞々しい質感を表現することができる。とくに対象を美化するわけではなく、そのものの素材やそのディテールにごくしぜんと入っていきながら、全体で空気感までも描く力に注目。(高山淳)

 土佐大吾「チームワーク」。女の子や老人がカナブンのように両手を広げて飛んでくる。ユーモラスな画面である。下方は廃墟になっている。青い空には飛行機が飛んでいる。それぞれが笑っているのだが、その人間の様子がきわめて卑小なものとして捉えられているところに、明るさの裏にあるブラックユーモアともいうべきものが表現される。(高山淳)

 當間菜奈子「空のほとり」。室内にシーツがしわとなって広がっている。毛布のようなものも見える。枕もあるようだ。粗末な壁と白いカーテン。窓があいて、そこからこのシーツに、輝かしく黄金色の光を与えている。その柔らかな光の様子がこの作品のポイントである。ちょうど光を掌の上に受けて、その不思議な存在をリアルに感じているかのごとき、そんなイメージがこの室内を聖なる世界に変換させる。(高山淳)

 手塚廣子「時 ・ 2012」。鉛筆やボールペンによって描かれたモノトーンのデッサンがそのままタブローとなっている。壊れた眼鏡をかけた女性。そばに涙を流している女性の横顔がある。それを花が包んでいる。下方では女性のシースルーの衣装が雨のようになって、そこに水たまりや山があらわれる。上方の樹木の中にも水滴があらわれている。室内でキャンバスの上に描きながらイメージがしぜんと展開し、展開するイメージの変化をそのまま構成することによって、自然と人間、時間、風景、気候といった日常を取り囲む要素があらわれてくる。ユニークな感性である。空間に密度が感じられる。(高山淳)

 阿藤和子「My way III」。椅子に座って本を読む若い母親を思わせるような女性像。遠景では男が上衣を翻しながら向こうに走っていく。画面のほぼ半ばに湾曲するバーがあり、バーのこちらは暗く、バーの向こうは明るい。室内と室外とが連結され、向こうに走っていくその男性のシルエットは、ちょうどポール・デルヴォーの中にあらわれてくる裸婦のようなシュールな味わいが感じられる。時間というものに対する独特の強い感覚があって、その感覚とクリアなフォルムが連結し、この謎めいた空間が生まれる。そこに注目。(高山淳)

 小川実「遊覧れっしゃ」。段ボールでつくった機関車、段ボールでつくった建物、線路、そういったシチュエーションを画面の上に描く。平面の上にもう一つの虚像を表現する。それは段ボールでつくったものたちの物語である。それが不思議な詩情を表す。ごく身近な段ボールという手触りのある粗末なものを組み立てることによって、逆に心の世界が広がっていくといった、そんなポジティヴな雰囲気が面白い。(高山淳)

 平松佳和「R.I.P-July 21,2012-」。大きな翼を付けた少女を中心に線によって細かく描写している。その下方両脇には二人の女性が描かれている。少女が立っている場所はどこか祭壇を思わせる。さらにその奥には髑髏が積み上げられている。死の概念が暗示的に入れ込まれながらも、それに対する救済もまた表現されているところが興味深い。死を眼前にしながらも残された者は生きていかなければならない。そういったメッセージと決意のようなものが、背後から感じられる。何れにせよ、確かなデッサン力で描き込み、少女を中心とした安定した構図で纏め上げている所に、確かな表現力を感じさせる。(磯部靖)

 羽賀文佳「スクナヒコナ」。大きな岩の上に子供たちが四人、座ったり立ったりしている。手前の草の上には二人の子供がいる。六人の子供が生き生きと描かれているが、とくに岩の表現に銀の箔を使っているところが工夫で面白い。(高山淳)

2階─13室

 村本千洲子「北の挽歌」。木でできたテーブルの上に肘をついて座っている女性。赤ワインの入ったグラスが一つ。背後には横になった女性がいて、海が寄せ、渦をつくりつつある。海に向かって背中を見せて飛ぶ大きな黒い鳥。一年前の津波のことを回想しながら、レクイエムの気持ちもしぜんとあらわれる。屈曲したフォルムを顔や手の中、衣装の中につくりながら、その屈曲した、あるいはカーヴする曲線の動きが全体で独特のリズムとなる。生きていることの心臓の拍動がそのまま画面全体のリズムとなってあらわれたような、そういった造形性に注目。(高山淳)

 増田典彦「チルドレン アンセム」。子供たちの歌といった意味の題名だが、渦巻きながら立ち上ってくる動きの上方に、ソフトクリームをなめている女の子がいる。古いプロペラ戦闘機が飛び、パチンコを持つ少年がいる。現代の社会の秩序に対する無関心でもあるし、それに対するアゲインストでもある少女たちのイメージを、面白い構成の中に表現する。(高山淳)

 杉本亜鈴「いのりのことば―果てなき途―」。三人の裸婦を旋回するような動きの中に配置して描いている。その肉感的な描写が確かである。背後の白い部分は厚手の紙などで表現されていて、それがどこか翼を思わせる様で興味深い。望めども不可能な天への道と現実との狭間で揺れ動くような、深い情動が静かに伝わってくるようだ。(磯部靖)

 佐藤俊貴「Slice-composition V」。七匹のカブトムシが円周上に配置されている。左回りで、最後のカブトムシは羽を出して、いま飛ぼうとしている。バックは板で、その板の渦があやしい面白い空間、あるいは時間の象徴としてあらわれている。テクニシャンである。一見するとベニヤの上に描いたと思われるが、キャンバスの上にこのようなシチュエーションをつくっている。一つひとつのカブトムシのフォルムもクリアである。飛べないカブトムシ、同じところをグルグル回るだけといった悲惨なイメージも感じられる。飛ぼうとしても飛べない。そのまま現代の若い人の、あるいは様々な階層の日本人の様子、国の様子もしぜんとそこから連想する。この年輪のような紋様が昨年の津波のような恐ろしい混沌とした内容を象徴し、それが日常性のそばに存在するかのごとくである。ガムテープを垂直に一本、水平に二本入れて、そのチープな様子がバックにつくった空間と対照されるのも辛辣と言ってよい。(高山淳)

 蔵野春生「共生」。柵の向こうに女性の大きな顔がある。柵の下から手が出ているが、女性の顔に比べるとすこし小さく、空間がひずんで見える。その前に立ってイーゼルに描く女性はごく小さく、左のほうには五人ほどの女性たちが小さく描かれている。マクロのものとミクロのものを組み合わせながら、日常のなかにある出来事、あるいは行為をあえて客観視して、それを掌の上に置いて眺めるといったイメージの展開が面白い。(高山淳)

2階─16室

 胡日査「時間の肖像 ・」。柵のある黒い窓。洗濯紐で吊るされた黒いズボンや上衣。そして、さりげない一枚の白いシャツ。バックはグレーだが、そこに接近すると、樹木の影が映り、田圃のようなフォルムがあらわれてくる。黒の扱いが輝いていて面白いが、樹木の伸びていく枝の様子やバックの田圃の様子などを見ると、田園が荒れた様子に対する深い感情がしぜんと感じられる。独特の象徴的な面白さである。(高山淳)

 林久人「潮 満るまで ・」。コンクリートのブロックの上に女性が座っている。そばにカラスがいて遠くを眺めている。水が流れて、波が寄せている。ブロックが壊れているから、一年前の津波のことがしぜんと思い起こされる。カラスがそのメッセージの役割として有効である。(高山淳)

 山下則子「平穏に潜む」。ワイングラスを持つ女性が宙に浮いている。後ろの女性も宙に浮いているし、グラス自体も宙に浮いたり、こぼれつつある。日常のなかのノンシャランな昼下がりのだるい感じを主婦感覚で面白く描く。(高山淳)

2階─17室

 池上亮「Complex-32」。猫の衣装を着たフェイクな女性のフォルムや蟹の頭をした少年。ライオンの頭をかぶった男。昆虫のようなフォルムを頭にかぶった豊満な女性。様々なものが寄せ集められて、アキバ系のオタク的なフォルムがクリアに表現される。劇画的なイメージだが、そのクリアなフォルムに注目。(高山淳)

 渡辺貞之「ノスタルジックな祭壇」。キューブな台の真ん中に階段がつけられている。そのボックスの向こう側に少年と少女が両側にいる。階段の前のスツールにアコーディオンを弾く女性が座っている。幼年時代のイメージを、この密度の高い空間の中に表現する。おもちゃなどの微細なものを道具立てとして面白く扱いながら、ノスタルジーを描く。(高山淳)

 國重幸子「Dream Dream II」。新人賞。すべてが宙に浮いている。木馬の背に片手を置いて倒立する女性。熊やアヒル、ピエロ、猿などの人形がそれを囲むように浮かび上がり、左下ではマジシャンがトランプをいじり、いまジョーカーを出した。それぞれの形が具体的でリアルで、それを浮遊するコンポジションの中に表現し、社会的な衣装を外した人間のもつ遊び感覚、夢を生き生きと表現する。(高山淳)

 川邊りえ「累」。新人賞。鋏を持つ幼女。そして、一枚の紙から人が腕を組んだ連続したフォルムを切り出している。しかし、同時にその人を切り出したあとには、もう一度ギザギザにするような、そんな危険な雰囲気がこの絵のイメージにあるところが面白い。(高山淳)

 宮本孝之「脱走する刻」。昔の達磨ストーブの向こうに、大きな猫が床から飛び出ている。床は傾き、壊れ、散乱している。窓があけられて、向こうに森がある。危機のなかに、たとえば地震のとき生き延びようとする、そんなイメージを猫によって表現する。猫による擬人化的なイメージとフォルムの面白さに注目。(高山淳)

 中野耕司「見えない雲」。新人賞。兄と妹。兄は立ち、妹は座る。それを一つのモニュマンのように描く。(高山淳)

 榎本悦明「8月(想い出の1球)・」。新人賞。モノトーンによって三人の老人の群像を描く。一人の人間の三体のポーズである。老人には老人の人生があり、野球との深い関係のなかからあらわれたミステリアスな話をパントマイムふうに描いて、ミステリアスな世界に鑑賞者を引き寄せる。(高山淳)

 西野恵理「イアル野を下る」。新人賞。バラックのような建物が両側にあり、それをほとんど覆うかのごとき自然の野原が繁殖を始め、そのあいだの道を不思議な怪物が歩いてくる。周りから手を上げるただれた顔の生き物たち。上方には不思議な球体のものが浮かんでいる。一種の終末的な世界。人間の世界の崩壊のイメージを、シャープなフォルムの連続によって表現する。(高山淳)

 松浦孝彦「PORTRAIT―都市の遠近」。佳作賞。一人の老人の顔が画面全体に大きく描かれ、その顔や頰をすかすようにビルがあらわれる。時代の変化が激しく、取り残された老人の悲哀感ともいうべきものがしぜんと想起される。(高山淳)

 山中俊明「景想―交差する間」。奨励賞。ロープの上にシートを置き、そこに座った若い女性。その不安定なフォルムをリアルに再現する。デッサン力および再現力というものを武器に、独特のスリリングなコンポジションが表現される。(高山淳)

 千葉光「sodom―啓示」。奨励賞。マリアの像が宙に浮かぶ。そばに壊れかかった関節人形が浮遊している。背後はビルが林立しているが、窓が壊れ、無人のようだ。崩壊した街。壊れた人間たち。(高山淳)

 鳥羽祐二「クレイジー・ドッグ ・」。損保ジャパン美術財団賞。デフォルメが面白い。ブルドッグのような犬が大口をあけて上方にいる。それを拡大鏡がさらに大きくしている。拡大鏡の手前からシャベルカーのシャベルが向かう。歯科医院に患者が座ってあのドリルの音を聞くときの恐怖感と似たような、そんな強いイメージを生き生きと表現する。それはまた現代というものの不安感の表徴でもあるだろう。クリアなフォルムがそれを可能にする。(高山淳)

 中村惠美子「風の記憶 ・」。奨励賞。ヨーロッパとアフリカの地図を背景に二つのボストンバッグが置かれ、シャツなどが置かれて、旅行のイメージがあらわれる。長い旅行のなかで使い古されたバッグは、それを見ることによってしぜんと旅の記憶がよみがえる。そんな手触りのある構成で、一つひとつ編み物をするようなかたちで、パッチワークをするような雰囲気で一つの心象世界を表現する。(高山淳)

 日置誠「ATLAS」。佳作賞。岩を抱いた人物を背後から描いている。人物には包帯が巻かれていて痛々しい。そして徐々に砂に埋まっていくような気配もある。不安や孤独、祈りといった様々な感情がこの岩を中心に交錯しているようだ。いずれにせよ、じっくりとマチエールを築き上げ、そこにこれまで以上に強い存在感を描き出している。深い心理的な奥行きが、鑑賞者を強く作品世界へと引き寄せる。(磯部靖)

 市川光鶴「Night sailing journey」。お人形さんのようなぽっちゃりとした少女の上半身が描かれている。シースルーで乳房やおへそのあたりまでも見える様子で、コケティッシュである。コケティッシュを女性の作家があえて徹底的に追求するところから、独特の魅力も生まれる。通俗的といえば通俗であるが、あえてその通俗の中に絵画としての面白さを求める。(高山淳)

 佐藤みちる「光あふれて」。佳作賞。ガラスのコップをたくさん集めて転がし、傾かせ、独特のリズムをつくる。あいだから光が発してくる。きわめて日常的なガラスのコップを使いながら、希望といったイメージを表す。(高山淳)

 河合規仁「風雲満天楼外伝」。瓦屋根の何層もの楼にたくさんの人々がいる。花見の宴会も行われているし、象が顔を出して、その鼻に日の丸を持っていたりする。中心から龍が上方に上ってきて、そこに少女と少年が乗っている。狐のお面をかぶった少年がこの運転手で、日の丸の扇を持ち龍の角を持って立ち上がってくる。独特のファンタジックな空間である。肉筆浮世絵とでもいうようなリアルさと同時に、日本の伝統的な風俗絵巻を思わせるところがある。庶民のもつヴァイタルなエネルギーを生き生きとした形象によって表現する。(高山淳)

 伊藤龍彦「亀山東町商店街 1」。ケーキ屋さんの前はアスファルトで、そこは雨に濡れて水たまりがある。そこに自転車などが映っているが、そんな光景を水たまりの手前からすっぽりと包み込むように表現している。質感を大事にしながら、夜のこのシチュエーションをリアルに再現する。(高山淳)

 児玉沙矢華「空事の境目」。金属の廃棄物が散乱する中に鏡があって、そこに少年が寝ている。うつ伏せになっている。鏡には校舎と空が映っている。平面の上にすべてのものを描くことができる。そういった描くという仕事自体を再確認しているような面白さが感じられる。すべてが虚像の中に、あえて鏡という、その中にもう一つの虚像を入れこむことによって、自分自身の仕事を考えてみる。そこに少年がうつ伏せになって、なにか瞑想にふけっている。少年は中で唯一生きた存在で、この少年と画家との親密な関係が独特のヒューマンな感情を引き起こす。(高山淳)

 木村節子「『ゆくえ』・」。海が傾いている。ずいぶん高い位置にある建物は散乱して、そこから伸びてくるチューブがなまなましく、煙突から煙が噴き出ている。その崩壊の危機のなかに猫が子猫をくわえて宙に浮いている。子供を守るという強いイメージ。曲線によってつくられたフォルムの強い遠近感のなかに、直線がその中に組み込まれて、独特の動的なコンポジションが生まれる。(高山淳)

3階─18室

 米冨裕子「景色(・)」。大地のもつ触感を工夫して表現している。そこから里芋の葉のような大きな葉が開いたり、すこししおれたりしている。それが大地が呼吸するごとに開いたり閉じたりするような、そんな優しい母性的なイメージであらわれている。触覚的な力と光の扱いに注目。(高山淳)

 村松元子「Night Sea(2)」。テーブルの上に三人の若い女性が横になっている。そのフォルムがしっかりしている。少女は半ば眠っていたり、ぼんやりと前を向いていたりするが、思春期の少女の体温のようなものが感じられるし、全体に肉体のもつ量感が表現され、三体の構成により、謎めいたイメージが発信される。(高山淳)

 小石川宥子「流風 ・」。画面の左下から右上方へとカーヴするように樹木が幹を伸ばしている。その根元のうろには卵がいくつか置かれている。左上方には親鳥の姿が見え、卵を一個摑んでいる。強い風に晒されながらも倒れまいとする樹木の強い生命力や、卵を見守る母鳥の愛情。そういった生きる上での根源的な力というものをじっくりと描き、表現しているようだ。灰白色を中心としながらも、随所に茶系の色彩で抑揚を付けて、画面全体で強いメッセージ性のある作品として描き出しているところに注目する。(磯部靖)

3階─19室

 森下よし子「暦日」。画面に大きく土壁が描かれている。そしてその崩れた僅かな隙間から、都市の風景が覗き見れる。過去と現在の時間軸を強く対比させながらも繫げることによって、独特の世界を構築している。壁もまた細やかにじっくりと描き込まれていて、画面全体で確かな見応えを獲得している。(磯部靖)

3階─20室

 桜井節子「わたしの遊び場はどこ? ・」。男の子のそばに女の子がいて、顔を手前に突き出している。画面からこぼれてくるようなその顔の大きさと手や足の小ささによって、強い動きができる。(高山淳)

3階─21室

 濵口真央「猫の居る部屋」。仰向けに寝た若い女性。右側には右のほうに傾いて背中を見せている女性。左のほうには左に向かって走っていく、右足だけがのぞいた女性を置き、背景はレースのカーテンで、その向こうに黄色く目の光った黒猫がいる。しっとりとした情感のなかにあやしいエロスの気配が漂う。モノトーンの中に繊細な色彩を感じる。(高山淳)

 久保紀子「サーカス ・」。左手にラッパを持ち右に笞を持った男のそばに、チェロを弾いている女性がいる。二人の人間は関節人形でできている。上方を飛ぶ二人の女性もそうである。そばにライオンが立っている。サーカスに鳴るエキゾティックな音楽やときめき感を面白く演劇的に表現する。(高山淳)

3階─22室

 川野千寿子「cross my mind II」。単純化された建物がところどころに置かれ、前に小川のようなものが流れ、空き地で子供たちがサッカーなどをして遊んでいる。その子供たちの運動している様子が、十人以上いて、それが絵の中の音符のような働きをする。針葉樹が尖った槍のようなフォルムで置かれているのがすこし怖く、破調のような雰囲気で、それも現代的と言える。(高山淳)

 栗岡和美「LA VITA1」。倉庫のような壁に入口がある。そこに様々なポスターや手紙のようなものが貼られている。ピカソの絵のようなものも貼られている。下方に車輪がある。どこかジャズが聞こえてくるような、そんな楽しさである。(高山淳)

 峰岸尚子「不安な日々」。室内の肘掛け椅子に座る男性。肘をついて遠くを眺めている。そばにトランクが蓋をあけている。窓の向こうにビルが見える。グレーを中心としてしっとりとした雰囲気で、この男性の内面を描こうとする。旅のあいだのホテルの一室のその流れていく時間を面白く描いている。空間に時間が重なった面白さと言える。(高山淳)

 松尾啓子「鏡の音」。建物がシルエットに描かれている。空も地面もグレーで、霧が流れているようだ。上方に月のようなフォルムが見える。この建物から余韻のようなものが響いてくる。生活のなかには様々な感情の起伏があらわれるが、その感情を面白く表現する。(高山淳)

3階─24室

 社家間美知子「2012・走る道 ・」。高速道路のような道が建物と建物のあいだを渡って、屋上にいくと普通の道になる。屋上にはたくさんの人々が立ったり歩いたりして、それがシルエットになっている。不思議なファンタジーである。夜の瞑想的な時間。心の中に様々なイメージが浮かぶ。赤いシルエットの人間が、階段を上ったり下りたりしていて、静かな象徴的な余韻が感じられる。言葉では言えない命の姿を描く。(高山淳)

 ふじいあさ「架空園(サーカス)」。独特のデフォルメで描かれた人々がサーカスを繰り広げている。この画家特有の豊かなイメージが、不思議な仮想空間を作り上げている。中央のハート型の灰白色を中心に、僅かに様々な色彩を入れ込みながら、画面全体で細やかな動きを見せているところが特におもしろい。(磯部靖)

3階─25室

 日下部弘子「フィエスタ」。オープンカーがフルートを吹く人々を乗せて走っている。その周りにはサクソフォーンやギターやトランペットを吹く人々が囲んでいる。花びらが散っている。お祭りという題名だが、レクイエムのようなイメージも感じられる。お祭りであると同時にレクイエムであるという厳粛な雰囲気が釀し出されるなかに、同じような人々が集合して、同じような動作を繰り返す連続性によって、不思議な生気があらわれる。現実の関節を外したところからくる面白さで、そのエスプリに注目。(高山淳)

 東さかえ「遠い日の記憶 ・」。ひび割れた地面の上に青年が横になっている。背後は丘で、その上に大きな穴がいくつもできた山のようなフォルムがあり、雲が浮かんでいる。点描による技法で、グラデーションによるハーモニーが魅力。干からびた現実の中から、ふるさとのイメージを引き寄せようとするかのようだ。(高山淳)

 金場利夫「生か死か」。上方では船が燃えて、分離した小さな島のようなところに馬がいたり、それが食卓になったり、寝た蛸がいたりする。下方には、海を前にして人々が茫然と眺め、そこを大きな壊れかかった船が動いていく。あいだにもう一つの川があり、牛や豚などが五頭ほどのんびりした雰囲気で、そこを泳ぐようなかたちで歩いている。津波によってたくさんの人が死んだ出来事を思い起こす。そんな中に、そういうものとは無関係なこの動物たちの様子が、その津波の悲惨さに対する救いのようにあらわれている。強いユニークなイメージの表現。(高山淳)

 野出員子「蟻の襲撃」。男の顔が地面に置かれている。そこにたくさんの蟻がいて、通過しつつある。下方では蟻が盛り上がっている。頭は輪切りになって、そこから煙が出、アンテナのようなものが飛び出ている。大きな目を見開いて、その蟻の襲撃に耐えている様子。強いイメージである。それをこのような単純な人の顔と蟻によって構成する。画面に近接すると、鉛筆によってたくさんの蟻が描かれているし、バックにも鉛筆による線によって、草のようなものが描かれている。ユニークな才能だと思う。イメージと表現とのあいだに乖離がなく、じかであるところがよい。(高山淳)

3階─26室

 加藤あ貴「絆」。船が手前に進んでくる。緑のお皿を両手で抱えた女性が乗っているが、そこから花が浮遊し、上方に散っている。後ろに竿を持つ男。女性の同伴者として犬が正面を向いている。周りは蓮池で、大きな蓮の葉と花が咲いている。鎮魂のイメージである。(高山淳)

 田島篤美「うたかた」。独特のマチエールの強さがある。ベッドに仰向けになった若い女性。裸だが、黒い手袋と白いパンツをはいて膝から下に布を巻いている。すこし違和感のある様子であるが、ベッドのグレーと女性の暖色系のグレーなどが響き合いながら、独特の絡みつくような、強い生命感を釀し出す。(高山淳)

 磯谷和子「昭和―大家族」。祖父と祖母、娘や息子夫婦、おじさん、その娘や息子の子供といった、おそらく三世代にわたる家族の写真からインスパイアされて描かれたものだと思う。くっきりとした不思議な力がある。写真的なセピア色のトーンの中に、人間たちの様子がプレスするような強い力で画面の中にじかに描かれたような面白さで、注目した。(高山淳)

 井川雅子「向こうとこちら」。上方に股を開いて座った裸の女性の正面と後ろ向きの姿がある。デッサンが優れていて、なまなましい女性の身体のもつリアリティが感じられるし、いかにも女性らしいエロスも漂う。手前には赤い布の置かれたテーブルのようなものがあり、そこに仰向けの男が横になっている。デッサンの力に注目。(高山淳)

3階─27室

 小畑健治「われわれは宇宙人ダマだ ・」。散乱する建物の屋根から電球がのぞいたり、不思議な放射するようなフォルムがあらわれたり、すこし大きな建物に煙突があり、黒い煙が出ている。グレーでつくられたこのキューブな形を集めたフォルムは一種独特の静物と風景を重ねたような表現になっている。じわじわとわきあがってくるようなエネルギーに注目。(高山淳)

3階─29室

 桑野幾子「'12 心の旅 ・」。二つのネットが組み合う、不思議なもあもあとした心象のスクリーン。下方にコの字形のフォルムがあり、それは上方で二つのフォルムが接続している様子。上方にはバケツのようなものが転がっている。現在進行形の様子で、刻々と動いていくといったイメージが、この絵の中から感じられる。内界のもつ心の触感ともいうべきものがよく表現される。(高山淳)

 池田純夫「記憶の構造2012─・」。佳作賞。白い盛り上げたフォルム。ほとんど正方形に近い画面である。その中にグレーの陰影ができて、独特の情感があらわれる。(高山淳)

 秋富浩藏「慟哭」。イモムシのようになって体を前に伸ばし、顔全体を両手で包みこんだ男が叫んでいる。まさに慟哭の図である。地面は赤く、向こうに海が見え、波が寄せている。何もない地面はまさに津波のあとの様子。強いコンポジションである。(高山淳)

 瀬戸一郎「WHERE(過ぎ去った現実への想い)」。地震によって犠牲になった人々に対して深く哀悼の意を表しますといった英語の文字が描かれている。人間の形がはめこまれ、眼鏡をつけている。その眼鏡がほうぼうに置かれて、その眼鏡が時間によって持ち上がると、その下にもう一つの眼鏡がある。その向こうは空洞のかたちになっていたり、目が現れたりして、人間のもつ悲しみのイメージが発信される。いくつかの穴があいて、その穴の向こうから魚が泳いでくる様子がのぞく。海のもつ豊穣さと海のもつ怖さ、二つのイメージをバックにして、エスプリのきいた深い感情表現を表現する。(高山淳)

第66回二紀展

(10月17日~10月29日/国立新美術館)

文/高山淳

1室

 鈴木良治「こぼれる」。準会員賞。バスルームの中にいる少年。頭にタオルをのっけて、桶を持っているが、桶から頭が花になった妖精が現れ、桶の縁に肘をついている。下方に水がたまっているが、そこにも同じ生き物がいる。不思議な幻視的光景である。自由な闊達なフォルムによってイメージを形として表現する。背後には本棚さえもあらわれてきて、瓶からは梯子が上り、赤いビルのような建物や小さな建物も現れ、盆栽のようなフォルムからはカビのような生き物が現れている。画家は瞑想しながら、命というものの働きを眺めているようだ。しばしば鈴木の作品を版画展で見て、版画展の中でもとくにデッサンのダイナミックな力に驚くのだが、これは油彩画としての表現である。ノンシャランな、ものの秩序の関節を外すことによって逆に命というものの不思議さを表現した作品として注目した。

 濵田尚吾「透明な軌道をすすむ」。野原の中を道が蛇行し、ガードレールのそばを通ると、馬の頭がその前を覆っている。馬の頭の上方は丘になって、石くれや植物が生えているのだが、その馬の頭のところをどう通ったかわからないが、左下では線路のような道になってあらわれてくる。リアルな再現力を武器にして自由にイメージを展開する。本来全く異質なものを合致させるというシュルレアリスムの規則に則っていて、ファンタジックな世界が表現される。

 今林明子「全てを満たし包み込む」。損保ジャパン美術財団賞。大きなグラスの中に植物が入れられている。その水が氾濫しつつある。水というもののもつ聖性ともいうべきものを面白く表現する。柔らかな光がそこに当たり、光と風と水がこのコップの周りを覆っているといった、独特の感覚的表現である。一種の墨絵を思わせるようなグレーの色彩の中に手触りが感じられる。夜の食卓の花の入れられたグラスがそのまま大きな風景に変容するような、詩人的なイメージの展開に注目。

 株田昌彦「Big Wall」。巨大なコンビナートのようなフォルムの前に金属の壁が打ちつけられている。その中から象が顔をのぞかせてる。象というのは瞑想的で、人間のもつ優しい叡知のようなものの象徴のように感じる存在であるが、その象とコンビナートとが一つの中からあらわれてきているところが面白い。日本の化学の工場とそこで生きる人間のイメージを象に託しながら表現しているところが面白い。

 原田圭「歩行フキ」。二紀賞。蕗が伸びて葉を広げている。その下に十歳ぐらいの女の子が裸でしゃがんでいる。三人の女の子は同じ一人の人間の三体である。蕗を眺めているうちに、その下に十歳ぐらいの女の子を幻視したといった趣である。どこか仏画を思わせるようなイメージの展開である。実際、表面がマットで、日本画的なマチエールによってつくられている。

 高橋勉「約束の地 ・」。準会員優賞。地面の端は断崖で、ブロックが積まれている。そこにアンモナイトのようなフォルムや蓮の蕾のようなフォルム、蜘蛛、そして上方には針葉樹などがあらわれ、刻々と動いていくもののイメージが表現されているところが面白い。 

 渡辺香奈「東風を背に受け西に舞う」。準会員推挙。椿の花が遠景では小さく、近景では大きく、遠近感のなかに重ねられて、だんだんと上方にせり上がってくるような雰囲気に描かれている。ちょうど塔の上から下を眺めているような視点が鮮やかで、ヴィヴィッドな強さを表す。面白いのは、その周辺に水があらわれていることである。水が風のようにあらわれて、命をこの椿に与えているといった寓意性。そんなコンセプチュアルなイメージが、この視覚の面白さに加えてこの作品の魅力だろう。

 青山博幸「DISCO」。グミが赤やピンクや緑の粒になって散乱している。そこに恐竜が踊り、熊が踊り、鹿が踊り、雪があらわれている。人工のもののフェイクを使いながら、彼らにディスコを踊らせるといったコンポジションであり、そのためのお膳立てとして雪やグミがあらわれる。見ていると、ガラス細工でできた繊細な壊れやすいイメージもあらわれてきて、面白く感じる。ダイナミックに見えて、きわめて繊細なもろい美ともいうべきイメージのあらわれているところが面白い。

 塩谷亮「聴」。会員推挙。ソファに若い女性が横になっている。ソファの上に褐色の布を敷き、そこに緑の布と白い中に模様のある布の二つを交差するように敷いて、その上に女性は横になっている。その布のしわが水の流れているような独特のイメージを表す。あるいは、題名のようにメロディのようなイメージをしぜんと与える。柔らかな光がこの女性の上半身を照らしている。女性はすこしほほえんだ雰囲気で、優しい表情である。柔らかな光とその女性の曲線や曲面でできたフォルムをそのまま見事にピックアップしながら、もうひとつプラスアルファの画家の深い感情によってフォルムをつくるところが魅力である。現実のように見えて、髪の毛のフォルム一つにしても、やはり画家がつくったものだと思う。自然体でありながら、ある審美性のうえに表現されているところが魅力である。

 星美加「忘れられた画室」。準会員推挙。ドアがあけられて、その向こうにはイーゼルがあり、六号ぐらいのキャンバスが置かれている。その向こうにベッドがあり、女性の腿から先がのぞく。上方の窓があけられ、柔らかな梢が伸びて、若木が伸びている。この室内の手前には揺れる木馬が置かれている。一つひとつのマチエールを丹念に画家はつくっていく。そのマチエールによって独特の存在感が生まれる。しかし、ドアをあけて、その向こうにまだ描いていないキャンバスがあり、寝ている足の先があり、窓の向こうに若木が見えるというのは、彼女の制作とか、生活の時間の断片をつなぎ合わせたような空間になっていて、そのあいだに時間と時間とのあいだの間(ま)のような存在が取り入れられているところが面白い。差し込む光が床を黄金色に染めているが、そこにもうひとつの自然というものの力が光として進入してきて、人間的な時間に対置される。

 美浪恵利「さくらさくら~PEAL RIVER~」。満開の桜の写真をもとにして、それを絵に描いて再構成したような技法である。そこに不思議な陰りがあらわれている。その陰りからもの寂しく、深いレクイエムのようなイメージがあらわれてくる。アメリカのポップアートとは違って、陰りのあるポップアートといった雰囲気で、昨年の津波に対する鎮魂歌となっている。

 戸田麻子「始まり、または終わり 2」。十字架にかけられているのは鶏である。鶏の胸のあたりが抉られていて、肉が見える。赤い鶏冠と首が垂れていて、その動きと両側に広がる羽のフォルムが面白く表現されている。鶏の羽が広げるとこれほど大きいとは、普通思わないだろう。柔らかな羽の質感に対して、内臓をむき出しにしたその身体。曇り空の中に深い感情に染められた光景と言ってよい。背景は墨絵のように白黒で、すこし雪の積もった樹木が連続している。そういった水墨的な表現に対して、十字の板に釘付けられた鶏はリアルな表現である。しかし、どこか不思議な柔らかさがあって、一種の官能的な要素もしぜんと感じられる。不思議な表現だと思う。リアルに描きながら、それがそのままエロスの象徴のような、そんなイメージの働きも感じられる。

2室

 宮田翁輔「隠岐回想」。隠岐島が地表に小さな植物を生やしている様子が面白く表現されている。大地のゆるやかな起伏が描かれていて、その起伏を見ていると、まるで地面が呼吸をしているような気持ちになる。イギリスの風景をずいぶん描いてきたと思ったのだが、今回は日本の隠岐島を回想したシーンとなっている。隆起した地面はその向こうで下降して、もう一つの小さな海に突き出るフォルムになっていくようで、その島の大きさが描かれていることと、その情感のなかに呼吸のようなムーヴマンがあらわれているところに注目。

 市野英樹「部屋」。アトリエの中の自画像のようだ。前方に画家らしき人がいて、後ろに横になったモデルらしい人があらわれている。黒白の中に独特の気配があらわれる。人間の表面的な姿ではなく、もっと内向した内側から眺めた室内風景ごときものがよく表現されている。

 遠藤彰子「我 大いなる舟に乗りてゆく」。五〇〇号の縦長の画面の中にほぼ全部にわたるような大きさで人間の骸骨が置かれている。頭蓋骨から肋骨、そして脊柱がうねるように曲がりながら骨盤に向かう。まずそのフォルムが実に力強く見事である。骨盤の中は空洞で青く、その中に落ちこんでいく人と、そこから新生児があらわれてくる、そんなフォルムが描かれている。加えて、そこに狼がいて騒いでいる。上方の頭蓋骨から肋骨のあたりには下方に水が押し寄せている。昨年の津波のことが深く画家のイメージのなかに浸透してきたものと思う。そばに杭があって、杭の上方に双頭の狼が吠えている。そのそばにたくさんの人々が集合して、手を伸ばして助けを求めている。向かって左のほうには肋骨の向こうに建物があり、建物には階段があり、そちらのほうにたくさん人々がいる。そして、その建物のさらに左側には階段があり、通常の駅の中のようなイメージがあらわれる。そこにも人々がいる。通常の世界のなかに侵入してきた津波は、たくさんの人々を死の淵に追いやった。しかしまた再生の希望もあるといった、壮大なテーマである。画家は常に人間の連鎖、原始人から今日までの歴史、さらに人間になる前の様々な生き物の進化を視野に入れてきた。いわば地球上の生の連鎖とその歴史のなかに思いを馳せてきた。そのような仕事をしてきたことが、この壮大なテーマを消化した見事なコンポジションをつくりだした。しらじらと輝くこの骨のもつ力は、造形的にもきわめて面白い。ヘンリー・ムーアが骨からインスパイアされて彫刻をつくったことはよく知られているが、同じような造形力を感じることができる。具体的な人骨を使いながら、そこに死と誕生、生と死、あるいは悲しみと喜び、苦悩と平和、日常と非日常といった対立するものを持ち込んで、間断ないコンポジションがつくられている。

 難波平人「エルサレム旧市街(イスラエル)」。アーチ状のトンネルのようなフォルムが画面の中につくられ、その向こうに燦々と差し込む光の中に白く輝く集落があらわれている。建物と建物が密集していて、強い生活感を表す。そして、地面はこのトンネルをくぐると下降していく。そこに影になった建物の入口が見える。上方には屋上があらわれ、その上にも何層にも建物が続いているから、一度下がっていた地面はもう一度隆起していくのだろう。そういった基本的な地面の高低の中にこの不思議な集落はつくられている。エルサレムは、イスラエルがそれを放棄して、三千年ののちにようやく返ってきて、いまはイスラエルの街になっている。しかし、エルサレムはその後はアラブ人の聖地であり、中にところどころドーム状のイスラムふうな建物が見える。中東の人種が混在してここに集合しているような、濃厚な雰囲気が感じられる。日本では感じられない、そのようなエルサレムの混合的な文化に画家は正面から向かい合って、この独特のエネルギッシュな集落を描いた。そのような歴史的現実ともいうべきものが画面から静かにあらわれてくるように感じられるところが面白い。

 北村真「ガートの念い(バナラシー)」。三人の少女が画面の真ん中にいて、そばに白い犬やたくさんの鷗が寄ってきている。それを見る、横になっているヨガ行者のような男性。燦々と光が溢れている。ベナレスのある風景。自然と一体化した人間のもつ生活を、見事なモニュマンの中に表現する。

 佐々木信平「天地」。繁茂する雑草の中に立って、それを刈ろうとしている農夫がいる。右から光が当たっていて、動きのあるフォルムが強い。背景は空一色だが、そばに一本の草が飛んでいる。その草も光の中に陰影がつくられている。手前の繁茂する雑草の葉と穂のようなもの、一つひとつクリアに描く。このように見ると、大地の生命力というものはすさまじいものだと感じられる。それほどクリアに草を描いて、独特の力を表す。同時に、両手で握っている力強いポーズにもかかわらず、なにかしーんとした気配がしみ通っているところが面白い。大病のあとに自然を静かに眺めているような、そんな眼差しも感じられる。

 山本貞「日本風景(栃木)」。初夏の樹木の色のようだ。鬱蒼とした緑の色彩が木々の生命を輝かせる。そこに斜めに滝が下りてきている。激しい勢いで下りてきている様子が、周りの樹木と対置される。水が上部から氾濫して下りてくる様子が実にダイナミックである。水という命の根幹を支えるものが、樹木のあいだを通って流れてくる。樹木の緑に光が点々と反射している。その光と水、そして、樹木。そのような自然の元型が表現される。

 藪野健「あなたはここで、こう語り始める」。面白い題名である。広場の中心にオベリスクが立っている。オベリスクはエジプトの神殿の広場につくられたモニュマンである。左のほうからは行進してくる行列が見え、オベリスクのそばには自動車が集まっていて、新婚夫婦が並んでいる様子が見えるし、もっと近景では大きなキャンバスがそこに立て掛けられて、絵を描いている人がいる。右のほうには鐘楼が立ち、時計が12時20分ほどを指している。恐ろしく青い空が画面の約半分を占め、下方に深い陰影をつくる。人間は様々な記念的な時間、あるいは結婚式のような祝祭的な行事を経験してきた。そういった要素が画面の中に集められて、画面全体がある祝祭の表情によって染められているようだ。その高揚した時間のなかに広場があらわれ、明るい部分と暗い部分とに捺される。まるで記憶に差し込む光と、まだ表面に出ない隠れた記憶があらわれてくるようだ。そうすると、キャンバスの前に立つ画家は本人というように思うかもしれないが、亡き父正夫なのかもしれない。時間は遡行して、そのような忘れられない人々がここに集まってきて、この不思議な空間をつくる構成の要素となっているような不思議な味わいが感じられる。現実と記憶、二つながらをもつ人間的な世界が強いコンポジションの中に表現されている。

 山本文彦「絆」。二人の若い女性が青いワンピースを着て前後に海岸を歩いている。手を握って歩いている。肌の色が輝くような色彩である。下方には化石化したような陸の様子があらわれ、そのはるか向こうにはこれまた異様な遺跡のような風景が広がる。よく見ると、その化石化したような地面に水が流れているようだ。昨年の津波に抵抗して復活する生命。画家のもっているシュールな性質は、そんな自然を描こうとしながら、何万年も何十万年もの地層が姿をあらわしたような、不思議なかたちがあらわれた。自然の年輪が地面にひだをつくり、あやしい文様をなしている。考えてみれば、今回の津波も貞観時代(平安時代)には同じような規模のものがあったと記録があるそうだ。そういった自然というもののもつ力、地球という星の有り様といったものが、このミューズのような女性たちの背後にあらわれてきているところが実に面白い。

 滝純一「凱・雪景」。手前に小さな山がいくつもおにぎりのように頭をのぞかせて、その背後にもっと大きな山が見える。その山の向こうにもう一つの峰が見える。三角形の山で、山というより、画家のつくりだしたフォルムのようだ。その向こうに煙が上がっていて、海がのぞき、対岸の陸地が白くなっている。上方に猛烈な風が吹いているようだ。透明なおつゆがけの緑の色彩が置かれている。ところがその空が、すこし視点を変えると、水が流れているように感じられるところが面白い。このおにぎりのような山の上にへこみができて、鳥影が飛んでいるが、深層心理の世界を思わせるところがある。外形にある自然ではなく、画家の内界にある自然がこのような異様なかたちであらわれてきて、そこに激しい時間が流れているような、そんなシュールな味わいが面白い。

 立見榮男「竜神・雷神あじさいを舞う」。植物の葉が大きく異様な形で伸びている。そこに小人のような竜神と雷神が走っている。一寸法師のようなその竜神、雷神は画家のつくりだしたファンタジーである。日本の宗教観には深いアニミズムがあることはよく知られている。そのアニミズムのもつ力、命が、この不思議な小さな妖精のような竜神、雷神に感じられるところが面白い。

 北久美子「それぞれの景色」。二羽の孔雀が地上にいる。そばに黄色い蘭が咲いて、蝶がとまっている。青い柔らかな広がりのある空間に縦長の濃紺の空があらわれ、そこに満月が浮かぶ。夜の空間と満月である。右のほうには縦長のフォルムの中に、ちょうど軸装したように睡蓮が咲いている。そばにはもうすこし柔らかなトーンの中に鶏頭が咲き、それが赤くリアルに描かれている背後にそのシルエットが表現される。手前は草原で、クロッカスが小さな花をつけ、小菊が花をつけ、大きな八重牡丹の花びらが落ちている。睡蓮の花が咲くのは六月で、鶏頭の花が咲くのは八月。仲秋の名月は九月である。そういった季節の違うものがコラージュされるように、そこにある花や月がこの孔雀の背後の空間に入れられている。八月から十二月へと季節の過ぎていくなかに孔雀は女王のような雰囲気で、その季節の音色を聴いているような趣である。つかさどるもののイメージが、この孔雀に感じられるところが面白い。背後の柔らかな白いグレーの空間からだんだんと上方に青くなっていくその空は、画家のつくりだした画面上の空間である。いわば画家の子宮が生み出した空間の中に孔雀はいるわけだが、そこ現象としての季節季節の月や鶏頭や睡蓮などがあらわれてきて、画家のもつ画面の中の子宮的な時間と現実の時間とがここにクロスし、まさにそれぞれの景色、それぞれのメロディが静かにお互いにハーモナイズする。

 秋山泉「時間の交差 ・」。川がはるか向こうに続いて、やがて海に流れ込むのだろうか。その河口のあたりの光景のようだ。手前に一艘の船があり、人が立っている。そして、川も地面もその空間の上に円弧をつなげたようなフォルムが充満している。その円弧のつながりの動きが面白い。河口に向かう動きがあると同時に陸のほうに向かう動きがある。そして、上方の白く光る海岸ではその円弧がお互いに逆方向に動きながら渾沌とした空間があらわれている。その向こうにおそらく水平線があって、空がすこしジョンブリヤン系の色彩に向かってあらわれている。そのあたりではまたあやしい別の動きがあらわれている。「時間の交差」という題名だが、平凡な河口の光景がもうひとつ別の時間の性質を帯びてあらわれることにより、空間自体の性質も変化するといった雰囲気である。時空間というが、時間のファクターが変われば、当然、方程式のように空間の性質も変わるだろう。そして、ここにあらわれたこの河口の風景は実景であるかというと、そのようにも思えない。深い人の心の意識のなかにある流れのような雰囲気である。船に乗る人は人間の無意識の世界のなかを旅する人であり、冒険家でもある。まさにその船に乗る人は画家自身であるだろう。神話的な世界の中に、この小舟に乗って入っていくような、そんな趣がある。なぜならば、ここにあらわれている自然の要素はきわめて原形的で、刻々として動いてやまない生命的な力の中にあらわれているからである。たとえば風にしても雨にしても、その恐ろしき姿に神の名前を命名したような日本人の宗教的態度からすると、この川も空もすべて神的な現実のあらわれであり、その一つひとつに命名するという人間の行為がそのままこの異様な空間、さらに言えば、円弧の連続したその置き方にあらわれているとさえ言えるような様子なのである。よく見ていると、とほうもなくこの空間は広がってきて、筆者自身もこの渾沌とした中に呑み込まれそうな危うさを覚える。

 加野尚志「白木蓮の頃」。近景に木蓮が満開で、優しい表情を見せる。その背後は山の尾根で、その尾根がはるか向こうまで続いていく向こうに、この島の突端ともいうべき場所があらわれ、その平地に集落があらわれる。大きな煙突がそこに立ち、煙を噴いている。そして、向こうに海がのぞき、その向こうにもまた平地があらわれ、工場が見える。その周りにただ緑の樹木に覆われた島が点々と続いていく。長崎の向こうには九十九島というようにたくさんの島が存在する。画家の郷里長崎の海に接するところの光景である。樹木の鬱蒼と茂った島の柔らかなマチエールが懐かしい。海は白く輝いて、空はグレーで、もう日が沈んだあとで、しばらくすると闇が来るに違いない。そういったふるさとの優しい表情と手前の満開の木蓮の柔らかな白い形が呼応する。郷里のモニュマンと言ってよい。

3室

 櫻田絢子「ふれあふ命」。桜が満開である。千年を生きてきた桜の幹が赤く描かれ、それがどこまでも枝を伸ばしている。枝垂れ桜の花が満開である。まるで花の洪水といった趣である。一種神的な力を表す桜の命の中に画家は想像力を伸ばして、この独特のコンポジションをつくった。

 西村榮悟「冬の音」。五人の人形によって不思議な構成が生まれている。いちばん近いところにいる二人はほぼ向かい合っていて、真ん中にアコーディオンがある。アコーディオンは誰も弾いていないけれども、静かに音楽が鳴っているようだ。それを向かいの人形は聴いている。手前の女性は、そのように描かれていないが、アコーディオンを弾いているかのごとく表現されている。鍵盤を右手が弾いているような雰囲気もある。向かいの女性の後ろ側の女性もその音色を聴いている。そして、手前と向こうとを底辺にして三角形になる頂点のところに仰向けの女性がいて、そばにその子供のような人形が向かい合っている。あいだに白い草のようなものがあらわれ、豆科の植物のようなものがあらわれている。柔らかなくすんだ緑の中に朱色が入れられている。地面には雪が積もっているようだ。背後に石段があって、石段の向こうに神社のようなイメージのものがあらわれている。樹木によって隠れているが、その背後にはヨーロッパの建物がのぞく。どうしてヨーロッパの建物の中に森のようなものがあらわれ、神社のようなイメージが出てくるのかは定かではないが、筆者にはそのように感じられる。懐かしきものが、あるいは美しきものが去っていくような、そんな哀愁に満ちたイメージがある。神社のような祠のようなイメージの両側の建物が静かに揺れているように感じられる。その揺れているものは教会だったり、がっしりとした石造りの建物だったりするのだが、なにか揺れているような雰囲気がある。オルゴールはほとんど壊れかかっている。しかし、たしかに旋律が聞こえてくる。

 菅久「階段のある街」。画面の右下に鳳雛会(青島日本中学校同窓会)と書いてある。画家は青島で中学校を過ごしたのだろう。懐かしいその光景が最近、繰り返し画面の中にあらわれてくる。近景に日の丸が宙に浮き、桜が満開である。階段を上っていくと、大きながっしりとした教会ふうな建物が見える。右のほうの階段を上っていくと、街の中の道につながっていくのだろう。そばに二つの高い建物がある。空に青い色彩、緑の色彩が入れられて、あいだに白いフォルムが動いている。白いフォルムはまるで稲光のような雰囲気で、この密度のある空間を活性化させている。左のほうに朝鮮ふうな建物があり、そのそばに人のシルエットがある。棒を持っているから、警官か憲兵なのかもしれない。手前にはイスラムふうな屋根をもった建物があり、その前にこの絵を描いている画家の手と筆が見える。画面全体が静かに振動しているようだ。そういえば、教会の向こうに高い石でできたような山が見える。階段を上っていくと市街の道に向かうと述べたが、この絵を熟視すると、もっとミステリアスな、ラビリンスといった言葉があるが、生と死の境界領域に向かうのかもしれない。画家の心の中にすむ街が不思議な親近感をもって鑑賞者を招く。

 北原悌二郎「邪宗門 沈黙の村」。画家のいま住んでいるところは北原白秋の生まれたところである。かつての懐かしい田園の風景が引き寄せられる。モダンな小さな洋館があらわれる。樹木が伸びていく。海の向こうに島が見える。透明な色彩が強いノスタルジックな心象を喚起する。

 中西勝「女神遊華」。ここに五人の女性がいるが、それぞれ花を持っている。花を持っていない人は花が生けられた壺を持っている。あいだの空はベージュで、そこに花が降っている。地面から双葉の植物が伸びている。大地と空が花によって荘厳されている。女性たちも実は花の化身なのかもしれない。地球を花の化身のように表現する画家のイメージの豊かさに注目。

 吉野純「聖家族」。いまキリストが厩で生まれた。ヨセフが考えこみ、マリアが仰向けに寝ている。そのV字形のフォルムの向こうに水平に横になった幼子キリストの姿がある。後ろに二頭の牛がいて、瞑想している。空に月が出ている。画家はヨーロッパのロマネスク美術から深い影響を受けた。素朴な民衆によってつくられた聖書物語、あるいは教会のタンパンなどの図像から強い影響を受けたという。キリスト誕生の様子をロマネスク的な骨太い造形の中に聖なるもののイメージとして見事に表現している。

 金原テル也「ひぐらし」。グレーに独特の感触がある。上方から樹木の枝が下りてきて、先に緑の葉をつけている。川が黒い淵のようなフォルムであらわれ、上方に太陽が見える。そんな背景に少女が靴を持って立っている。十代半ばの年齢を思わせる。ヒグラシは蟬のことで、激しい命の歌をうたって、あっと言う間に死んでしまう。そんな一瞬の輝きをこの少女に託しているのだろうか。あるいは、喪失した子供がここに現れてきたような、そんなあやしさも感じられる。

 高崎研一郎「陽・さす」。生まれたばかりの子供を膝に抱く母親はずいぶん大きく表現されている。そのそばに娘と思われる女性がそっと座って、白い六弁の花を持っている。その両脇に二人の女性が座っている。一人は横向きで一人は背中を向けている。向こうには海があるようだ。そして、このシーンから遠ざかっていくように、立っている女性が後ろ姿を見せて、はるか向こうを眺めている。空には図像的に星形のフォルムや花形のフォルムがあらわれ、鳩が飛んでいる。雲もあらわれている。海の上方に山のようなフォルムがあり、そこに湖のような青い色彩が入れられている。この聖母子像を鑽仰するように、上方に光があらわれている。現実と非現実の二つの世界がこの画面の中では実に自由に結ばれて、独特の心象的モニュマンとなっている。また、柔らかなジョンブリヤン系の色彩が背景に使われて、温かな優しい雰囲気がまた魅力である。背中を見せる女性は去り行く人のイメージのように感じられる。愛らしきものと別れていく。そんな切なさも画面の中に感じられる。

 副島孝治「空中飛行」。サーカスの空中アクロバットである。ブランコに乗った人がお互いに空中で手を組み合わせた、その瞬間が描かれている。スリリングな気配が満ちていて、その緊張感が切ない雰囲気をつくる。光が赤く、花束のようにいくつも灯り、背後の黄土系の色彩の中にしみじみとした情趣を表す。

 上田保隆「樹精」。赤が強い印象である。あいだに黒い翳りのようなものがあらわれている。赤が炎のように立ち上がってまるで劫火のような印象である。黒い中にカドミウムグリーン系の緑がところどころ置かれて、癒しのような雰囲気がある。上方に梟が目をつぶって樹木の中にいる。「心頭を滅却すれば火もまた涼し」と、武田に味方し織田信長に焼かれた禅僧快川は語ったそうだが、この劫火の中に瞑想する梟は人間的存在の象徴のように感じられる。しかも、その様子があるパッションの中でそのまま結晶したような不思議な雰囲気がある。下方から樹木が人生の軌道のように上に伸びていく。まわりは朱と黒の陰影豊かな表現で、その中に朱色が厚いマチエールで、強い力をもってあらわれている。そんな中に瞑目して考えこんだ一羽の梟。じっと見ていると、この炎の力に負けない人間の力が、この線描の梟、梟というより人間の顔に近い存在なのだが、そのフォルムにあらわれているようであり、実に強い印象を受ける。

4室

 松葉口忠雄「風の村(トルコ カッパドキア)」。カッパドキアのあの異様な建物がよくクリアに表現されている。そこに駱駝に乗ったアラブ人が進んでいる。まるでいくつもの不思議な茸が大きくなって建物となったようなその異様な形が、独特の強いエキゾティズムを生み出す。そのフォルムの面白さを見事に画面の中に生かしている。

 庄司剛「黄砂の大地―風吹く時―」。砂漠の中に風によって穴ぼこがあいたり、波打つようなフォルムがあらわれる。その何もないところの風景を画家は描く。下方に三つのストライプのフォルムがうねうねと動いているのは、時間というものの象徴だし、無常観が画面に漂う。無常のなかから花を咲かせようと深い瞑想のなかに入ろうとするかのようだ。

 松尾隆司「谺」。山の上にアルタミラの洞窟の壁画に出てくる牛たちが描かれている。悠久なる人類の歴史を空に見ているような、あやしい雰囲気である。川が蛇行しながら流れ、そばの丘にアルタミラの洞窟が内部にあるような光景が描かれている。人類の最初の頃の素朴なイメージが空に浮かぶ。

 神近昭「プロチダの夏」。地中海のプロチダに取材に行った結果だそうである。実際このような色彩を感じたそうだ。マティスはモロッコで色彩を発見したという。画家はプロチダでこの色彩の冒険に新しくチャレンジしている。いずれにしても、朗々たる色彩のハーモニーが鑑賞者を引きつける。青のグラデーション、ピンクのグラデーション、白のグラデーション。真っ赤な隈取りするようなフォルムで船が一艘、中心に置かれている。まるで太陽をここに引き寄せたかのようだ。そして、青い海の中に紫やピンクやオレンジが入れられている。右のほうには建物に暖色系の色彩が入れられているのだが、朝日の光線が地中海に差し込んだときの印象だろうか。すこし離れてみると、すべてのフォルムが色面と化して、全体でハーモナイズし、大きな空間があらわれる。一種壁画的な空間の強さを感じることができる。おそらくホテルなどにこの作品を置くと、この新美術館の空間よりもっとこの作品は生きてくるような陽気で明るく朗々たる力強さがあって、それが魅力だと思う。

 橘公俊「百日紅物語『愛猫が 颪見つめて 日和待つ』」。百日紅はピンク色の美しい花を咲かせるが、ここにあるのは満目ピンクといった様子で、しかも颪によって片一方に靡いていて強い動きをつくる。そんな百日紅が赤く咲いて靡いている様子を猫が眺めている。猫の後ろ姿は何か祈っているものの存在の象徴だろう。右のほうに、茎の上に赤い花の咲いたペアの植物がある。それも颪によって傾いて、弓形に曲がっている。強い祈りというものを画家はこの中で表現している。見ていると、この百日紅の花が大きな脳髄のような塊となって幾つもあらわれているが、中にたくさんの死者がぎっしりと詰まっているような思いに誘われる。ここに下ろす風は死を呼ぶ風で、まさにその三途の川の前でイメージしているような、あやしいものが感じられる。三途の川を前にして、ますます祈りは強くなる。そんな様子をユーモラスに画家は表現する。不思議な日本童話を油絵に描いたような世界と言ってよい。

 上瀧泰嗣「不安の胎動」。赤いイモムシのようなフォルムの先から手を上げた顔がのぞく。片一方のほうからは女性の顔がのぞいているが、頭が切られて、中に渦巻きがあらわれている。もう一つ上半身だけの人形のようなフォルムがあらわれている。上方から落下してくる女性。生きるということはイメージをつくることであるにちがいない。そんなイメージが徐々に進行しながら、最後には一本の紐を渡る曲芸師のような太鼓を叩く男があらわれてきているところが実に面白い。その後ろ姿の太鼓を叩く男などは、人生のなかの哀愁とも言うべきイメージを感じる。これまでの内向しすぎることによって、自分自身を責め苛むようなイメージが壊れて、新しい息吹が画面にあらわれてきたように感じられるところが面白いし、喜ばしい。

 瀧本周造「CIELO(2013)」。樹齢数百年の樹木が枝を広げている。その幹から枝、梢にわたるフォルムだけでこの作品はできている。背後は茜色の空で、雲が出ていて、どんどんと動いていくようだ。その動いていく空に対して、この樹木は静止したまま沈黙し、枝を広げている。空の映像的な表現に対して、樹木のもつしっかりとしたフォルムが際立つような印象を受ける。

 塚本裕志「夜の監視塔」。海岸のそばの二階建ての監視塔の下に、ビキニ姿の女性の後ろ姿が立っている。そばに犬がいる。女性の体にスポットライトが当たっている。アニマという男性の中に存在する女性像があらわれたような新鮮な印象を受ける。

 北誠一「風を想う」。青いテーブルの周りにモンゴルのような風俗の人々が取り巻いている。座っていたり、立ったりしている。そして、壁の両側は茫漠たる大地が広がっている。しーんとした気配のなかに人々が無言で集まっている様子が、緊張感を引き起こす。いちばん手前に一つの椅子があるが、そこには誰も座っていない。リーダーなき集団のような雰囲気もある。机の上の布が青く染まって、そこに空のようなイメージがあらわれる。人間というものの存在、その感触を独特の構図の中に表現する。

5室

 八木茉莉子「ある日」。阿波踊りを踊っているのだろうか。様々な人が集まって踊り、笛や太鼓を鳴らしている。それを見ている人々。屋台も出ている。夜の空間が青く表現される。人間は、むしろあるエネルギーをもった妖精のように入れられ、大きな群衆として画面の中に引き寄せられ、独特の物語性を表す。

 黒田冨紀子「長閑な午后」。成井賞。子供を抱える母親。川の向こうには大きな樹木の周りに子供たちが輪になって遊んでいる。木の上には梟がいる。田園と一体化した生活。子供を抱える母親が大きな存在として描かれているように、自然の母性的な側面が画面の中に引き寄せられ、その円弧のカーヴするフォルムが連続しながら、独特のメロディをつくる。

 津田仁子「毀(こわ)れた刻」。関節人形やランプや砂時計など、様々なものが置かれていて、引き出しの中には鍵などもある。それが時を失ったような不思議な光景の中に表現されている。時を失うことによって、ものの持つ質感とか実体がにわかに高まってきて、気配が濃厚になる。

 西村紘治「誘惑  盗視」。裸の女性が俯けになって寝ている。上方に大きな目が現れている。この目がこのエロティックな女性のヌードを盗視しているのだろう。下方に巣があり、三つの白い卵があり、逆様になった鳥がいる。愛というものがやがて起きてくるのだろうか。しかし、逆様になったカラスはなかなかそれが困難なことを暗示するようだ。上方に一頭の馬がうつむいた様子で立っているのは男性性の象徴で、この目の男性は物思いにふけっているようだ。

 竹内重行「天空」。たくさんの鳥が飛んで、はるか向こうの黄色く光る世界のほうに向かっている。向こうにあるのは希望の世界なのだろうか。あるいは、もう一つの天国のような、こちらの世界とは違う世界なのだろうか。ぐるぐると旋回する動きがあやしく、ノスタルジックなイメージが起きる。日本人の思想の中に「死を視ること帰するが如し」という言葉があるが、そんなイメージも思い起こす。

 谷田穎郎「追憶の街(其ノ幻想)」。イスラムふうの衣装をまとった女性が座って、そばには裸婦が横になっている。座っている女性の胸があけられ、十字架の首飾りをして、二つのたわわな乳房が見える。背後にはイスラムふうなドームの白い建物が広がっていて、独特のロマンティックな雰囲気があらわれる。彼女は右手に赤い花を持っているから、なおさらそんな雰囲気である。瞑想のなかにあらわれてきたアニマ的な女性のイメージだろう。

 松岡英明「冬枯れ」。冬枯れた畑が広がっているが、その中を一本の道がはるか向こうに続いて、遠景には雑木が立ち並んでいる。その道路に一羽のカラスが下りてきている。そばに数羽のカラスが飛んでいる。カラスの位置は近景と遠景とそれぞれであるが、もの寂しいような、切ないような、あるいは無常観のような、そんなイメージがしぜんとあらわれる。両側に低い山がシルエットふうに描かれている。この道はしぜんと人生といったもの、将来といったものを想起させる。それほど希望もない渾沌とした未来が感じられ、カラスがその道の周りに飛んでいるといった雰囲気である。道も畑もリアルに独特の手触りのなかに表現されていて、実景としての強い遠近感がある。そして、空が青く、道も畑も青く染まっている。夜明け前のような、あるいは日の落ちたあとの夕暮れのような、そんな時間帯のなかにあらわれてきたカラスは実にあやしい雰囲気で、運命というものの謎めいた力をしぜんと暗示させる。

 山形八郎「潮だまり」。潮だまりとは、波が寄せて引いたあとに出てくる存在で、そこに生き物などがよく残っている。その潮だまりの中に夢を見ているような雰囲気である。コバルトとセルリアンを混ぜたような青い色彩が、無限なるもののイメージを醸し出す。円弧を描く不定型のグレーや緑がかったフォルムは、波の動きでもあるし、そこにあらわれた砂地のイメージでもあるだろう。そして、その小さな潮だまりが空を映して輝く。大きな海ではなく、そこには小さな海がある。その海の中に画家は詩を感じるようだ。ほとんど抽象形態に還元されたフォルムの中に、動くものと静かにとどまって永遠なるものとの二つファクターが表現されているように感じられる。

6室

 德永芳子「行く水の流れ『無言の書』」。委員推挙。諸行無常といった響きがある。矩形の空間が中心で大きく膨らんでいる。そこから正方形の箔が離れ、左右には箔が束となって厚みを増しながら浮遊して、どこかに去っていくようだ。声明を聴くような思いにも誘われる。人生、無明長夜が長く、その無常のなかに深い祈りをイメージすると、このような造形になるだろうか。

7室

 佐藤幸代「日々」。三つの画面からできている。下方にはアルプスを思わせるような雪をかぶった峰が描かれている。そして、上方は九割までが空で、その空は左右に続いていって、そこに染料で描いたようなしっとりとした雲が浮かんでいる。右上方には、明確に言えないのだが、天球儀とか、そのようなフォルムがあらわれ、月が浮かんでいる。左には窓があり、その窓から入ってくる光の様子が一種神的である。画家はヨーロッパの知性、ヨーロッパの科学といったものに対して強い憧れと関心があるようだ。左のほうの窓から見える光は神性といったイメージだし、天球儀のようなイメージはたとえばガリレオのような、そんな科学のイメージをしぜんと感じさせる。そのあいだに曖昧な不思議なたらしこみふうな雲が続いていて、それが東洋というもう一つの世界の空間を暗示するのだろうか。

 日下部直起「光の蘇生」。クリアな乾燥した空気の中に光が煉瓦造りの建物を照らしている。そんな壁を背景にして、階段を下りて手前に伸びてくる廊下がある。それは煉瓦でできている。左右にアーティチョークのような植物、あるいはアザミの巨大な花のようなフォルムが置かれ、昔ながらの錠が浮かび、その錠の中に入れる鍵も宙に浮いている。画家は、ルネッサンスに対する強いあこがれと関心があるようだ。ヨーロッパの光、その思想といったもの、文化といったものに対する画家自身の問いかけを、このようなかたちでユーモラスに表現したように思われて楽しい。

 赤羽カオル「~自然へのオマージュ~」。樹木が倒れ、朽ちつつある。苔が生えて、やがて崩れていき、土に返るだろう。やがてそれはまた大地の栄養となって、新しい命がそこから芽生えていくだろう。そういったイメージをしっとりとしたトーンの中に、倒壊した朽ちていく樹木によって表現しているところが面白い。

 松田俊哉「夏に問ふ」。鉛筆による仕事である。これだけの仕事をするのにどの程度の時間がかかるのだろうか。一種のマニアックな仕事と言ってよいかもしれない。中心にバチカンのサンピエトロ寺院を思わせるような建物が左右に伸びている。龕に聖人たちや優れた人々の肖像や全身像が入れられている。広場はうねうねとした海のような形象になっている。不思議なことに、そこに左右と真ん中の四つの画面があらわれて、そこには日本のしっとりとした山水のようなイメージが描かれている。イタリアのサンピエトロ寺院と日本のしっとりとした山水のコントラストといった雰囲気で、イタリアの空は雲が出ているがカラッとしている雰囲気だが、日本では、入道雲が出ながら、いつ雨が降るかわからないような水蒸気のもうもうとした雰囲気がある。下方になってくると、もあもあとした蒸気の塊のような空間があらわれる。もちろんサンピエトロ寺院であるかどうかははっきりしないのだが、絵の印象を言葉に直すとそんな雰囲気であって、二つの世界がそのように対置されて、独特のヴィヴィッドな空間があらわれる。

 柏本龍太「counterpoint」。カウンターポイントとは対位法という意味である。エレキギターを弾く男性。後ろでは若い人がドラムを叩いている。巨大なシンバルが左右にある。ビートのきいた音楽を奏しているイメージ。この画面の面白いところはムーヴマンと言ってよい。淡々と若い二人のミュージシャンを描きながら、その動作が生きて動いているような臨場感がある。ボリューム感もあるし、動いている様子を描く筆力がこの作品の魅力と思われる。画面の中から巨大な振動してくるようなメロディが聞こえてくるようだ。

 松本邦夫「夏の旋律」。アフリカの大地のようなイメージもあるし、地球とは別の星に下りてきたような、そんなエキゾティックな雰囲気が面白い。大きな母親のような若い女性と後ろの小さな二人の女性。草の中にほとんど足首まで入っていて、不思議な植物が苔のように密集して、その向こうには海と地面が見えるが、海の下に地球があり、今、その上方にいるような、そんな変容するファンタジーも感じられる。真夏の幻想といった趣を生き生きと描く。

 北澤茂夫「駅のある街」。ドイツロマン派を思わせるような独特の形象である。岩を彫って神殿を造り、建物を造る。それを黄金色に彩色する。そういった巨大な神殿のようなものがバックにある。近景には民家のような集合住宅があり、モニュメントが翼のようなフォルムとなって立ち上がる。道が続き、道に囲まれた建物が駅なのだろうか。いずれにしても、無人の風景であるが、神殿や街や駅まで画面の中でつくって、それをいわばドイツロマン派的な神秘なる不可知的な光景と化す画家のイメージの展開に注目。

 中村智恵美「花のある静物」。会員優賞。右のほうに白い蘭とピンクの蘭が置かれて、黄色い蘭がおそらく植木鉢から伸びたかたちで咲いている。そばには葡萄や林檎が盛られている。左のほうには、赤いサテンのような布の上に小さな山葡萄のような植物が置かれている。布の質感、植物の質感、果物の質感を描く。存在していること自体が実は不思議なことで、それを徹底した写実を通してあぶりだすように、その不思議さを画家は表現する。ディテールもさることながら、質感までも追い求めるように筆が動いていく。存在するものの謎が画面にあらわれる。

8室

 朝倉雅子「オラトリオ天の舟」。雲の中にたくさんの人々がいる。力強い。人と人との連帯感。そのヴァイタルな力をこのようなかたちで表現する。オラトリオはオーケストラの小型版であるから、この強い波動のイメージの題名としてふさわしいだろう。そして、雲のところに船に乗っている人々があらわれる。中にはボートを漕いでいる人もいるし、雲の真ん中では助けを求めているような、そんな難民のイメージもあらわれている。しぜんと世界で起きるそんな出来事なども中に組み込みながら、青い空の中に白い雲が行く。雲は人々が連帯したことによって起きる大きなかたまりのことなのである。

 佐久間公憲「白のエチュード」。一人のバレリーナの三つのフォルムを描いて、このバレリーナを鑽仰しようとしている。武器はデッサンである。デッサンをこの大画面の上に確認しているような趣であるし、また、中心の女性は足を交差させているために、静かに三体が旋回しているような動きも感じられる。

 板倉美智子「頌歌」。四曲屛風のような構成になっている。それぞれに女性がいて、踊っている。赤と白の衣装で、神社の巫女のようなイメージが漂う。油彩画のリアルな写実によって、巫女のような衣装を着た女性の踊りがあらわれる。頭に不思議な球形のものがたくさん入った冠のようなものをかぶっているが、それは仏像の光背にたくさんの仏が置かれているのと同じようなイメージだと思う。神仏を習合しているような、日本独特の宗教的なイメージを踊りによって表現する。自在なフォルムの流れがあらわれる。左右は両手を組んで、すこし腰を落としたかたちで、中心の二人は、向かって右は左手を上げ、向かって左は手をくの字にして遠くを眺めている。日本舞踊ふうな踊りで、そこに起きる独特のムーヴマンが興味深い。

 佐田尚穂「位相」。委員推挙。自画像である。鏡に向かって自分の顔を見る。右手を前に出し、左手の人指し指を口に当てて、しーと、沈黙しなさいといったメッセージを与える。沈黙させて心の内部に想像力の触手を伸ばそうとする。そんな緊張感のある自画像である。近景に枯れたチューリップの花が置かれているのは、過ぎてしまった過去といったイメージであるし、あまり未来が明るくないといったイメージもあらわれる。いずれにしても、実際の顔の何倍もの大きさで顔や指を描きながら、いわばパントマイムふうな強い表現になっているところに注目。

 高取克次「浅いねむり」。グレーの色彩が生きている。中心にはテーブルがあって、その向こうに象が汗をかいている。不思議なことに、いちばん活躍するその鼻がそっくり容器に入れられて、身動きがとれない様子である。微妙に苦笑している感じ。同じようなヴァリエーションのものが背後にいて、それは壁のところから顔をのぞかせているが、もっとノンシャランでくたびれた雰囲気である。象の左右に人間がいる。カフェの内部のような雰囲気で、サービスをしているようなイメージが漂う。右のほうはずいぶん小さくなって、そばにお皿があって、料理のしたくをしているようだ。「浅いねむり」という題名のように、あまり整合性のない夢のなかでの出来事で、いずれにしても、拘束されて不自由になって、思わぬところでツボにはまってしまった。そのときの悶えるような心象が表現されていると思う。ほんのちょっとしたズレで鼻が動かなくなったときの慌てふためいた様子といった雰囲気で、そのまま現代のわれわれのコンディションを表すようだ。

 今井充俊「対・きいろい祈り」。黒田賞。板に穴があけられて、その下に人間がいる。右のほうは男性で、左のほうは女性。両方とも背を伸ばしている。棺桶に入っているように見えるが、どうもそうではないらしい。たくさんの人が昨年亡くなったが、そういったいちばん悲惨なところに自分の身を置いて、悲惨な事実について想像力を巡らせているような雰囲気である。画家自身があえてそのようなポーズをつくりながら、深いところから人間と人間の連帯感を求めているようだ。それがこの不思議な呼吸するようなムーヴマンをつくりだした。また、黄色と黒のコントラストも激しいが、黄色が昼間の世界とすれば、夜の世界のなかでしぜんと想像力は働くわけで、そういったイメージもしぜんと感じられる。

 小川巧「フェイス(念)」。鼻の上に両手を置いて目をつぶった様子が拡大されて描かれている。白茶けた画面の中に皺がまるで谷のように表現されている。あるいは、枯れた川の跡のようなイメージもある。八十歳、九十歳の長く生きた母親のもつイメージを、しわのある風景のように表現する。そして、強い念波のようなものが画面の内側から発するところが面白い。

 吉岡正人「通り過ぎる記憶」。イタリアの風景のようだ。イタリアと画家との関係は長い。右のほうにうねうねと蛇行しながら手前に来る小さな道がある。そして、その道を来て、この女性は犬と一緒に画面の左辺の向こうに通り過ぎていこうとするかのようだ。途中に建物の横に白馬がいる。白馬は見事なこんじきの布を背に掛けられて装飾されている。大切なもののイメージがそこにあらわれている。また、その向こうにはぽつんとした小さな納骨堂のようなものがあるし、もっと向こうには一軒の家がある。様々な旅の記憶の一部がそこに点在しているようだ。そしていま、この赤い壁をもつ建物の前を女性は過ぎようとしているが、その壁に木のしっかりとした扉がつくられている。この扉をあけると、もっと様々な人類の記憶のようなものがそこに入れられているような雰囲気である。そんな記憶のミステリアスなイメージを面白く表現していると思う。また、地面に雑草が点々と生えて、そこにごく小さな花が咲いているのが、まるで地上に咲く星のようなイメージで、画家独特のロマンティックなイメージを伝える。

 井上護「る・ろ・う」。瘦せた裸の女たちが草原に立っている。向かって左に六人、樹木のあいだから顔をのぞかせているもう一人、総計七人。そして、上方には水があって、そこに起きる漣(さざなみ)が哀愁の表情である。と思って見ていると、それは実は雲であることがわかる。真っ黒い空に白い雲がゆらゆらと水のように揺れている。画面全体が深い水の中に入っているような雰囲気である。その水圧のごときもの、この大気のもつ力が凝縮しながら、水圧に近いようなプレッシャーが画面全体に下りてきているところが、まさに現代というものの不安なイメージだろう。それに対して、向かって右の樹木の幹は太く大きくきわめて生命的である。同時に母性的でもある。この樹木の安心感ともいうべきものが、人間のこの瘦せこけた不安な頼りなげに立っている存在に対比されているところが面白い。一人、向かって右の女性はこの樹木の幹に隠れて顔をのぞかせている。樹木の力によってよみがえろうとするのだろうか。

 玉川信一「神の標本」。下方から巨大な白い花が開いて、ある強い献花のようなイメージである。ところが、この下には棺桶があって、そこに死体が横たわっている。棺桶は一部壊れている。その花の右側には、右手をなくして左手に筆を持った男が雲の上に乗っているし、向かって左には片翼のランナーのような人物が宙に浮いている。背後の建物は崩壊しつつある。そして、ハイウェイをひとり後ろ姿を見せながら遠ざかる男。神は死んだというニーチェの言葉があるが、まさに神が死んだ現代の不安感、荒廃をダイナミックに表現する。しかし、その中で絵を描かなければいけない。画家は筑波大学の教授として後身を指導しているが、なにか不自由なコンディションにあるらしく、それが片腕がなくなったというコンディションによって示されているのだろうか。いずれにしても、図像的な強さをもつダイナミズムに注目。

 南口清二「地図のない風景」。文部科学大臣賞。構図が面白い。様々なシーンを集めて一つの作品にする。どこかアラベスク的なイメージがある。画面の真ん中には七人の男女が立っている。お互いが会話をしているわけではなく、それぞれ孤立した七人の男女の群像のように感じられる。そういった群像は都会的と言ってよい。背景に入口や窓があり、その形にきびきびとしたリズムがあって、空間が複雑な回路のようなイメージをつくりだす。近景の左側には青年と女性の上半身がある。二人は深い関係にあるようだ。そして、その上方の建物の内部に三人の男女が柔らかなシルエットによって描かれている。その上方に天窓のようなフォルムが見える。そばにアーチ状の窓があって、窓からキャンバスらしきものがのぞいている。天窓のようなフォルム、三人の人間と下方の二人の人間のあいだに階段がある。階段のもつ図像的な音楽性とか、二つの関係を結びつけるもの、そういったイメージは画面全体にあって、たとえば群像の手前の横のストライプの繰り返しなども一つの階段的な効果を上げている。窓の中のフォルムにも同じようなイメージがあり、そういったフォルムが入れられることにより、時空間の異なる形象が関連づけられる。右のほうには大きな窓があって、二羽の鳩が飛んでいる。その下方にはいくつもの杭があり、朝顔のような蔓系の植物のシルエットが見える。画面全体は黄土から青みがかったグレーの色彩によって統一されているが、黄土系のグレーは錆びた金色だし、青みがかったグレーは銀灰色のような雰囲気である。銀箔や金箔を貼った日本の屛風のイメージを油絵の中に導入していると言って差し支えない。絵巻などにある時と空間が転移して変化していく形式を、一つの画面の中にまとめて表現したような面白さである。そして、どこか静かな余韻のようなものがあらわれて、それは、人間讃歌といったヒューマンな味わいとして感じられる。また、人間の視覚は見たいものしか見ないから、あるものをピックアップすると、周りは消える。そういった人間のナチュラルな視覚的な動きが画面に取り入れられて、画面を見るごとにシーンを新しく発見する。その発見する時間の推移によって、ひとつの自然な現代の物語が生まれるといったあんばいであるところも面白い。

 生駒泰充「アルカディアを望む」。画家のつくりだした不思議な集落である。丸い塔が立ち、塔の上に樹木が聳え、中に家があり、塔の周りに建物が立ち、といった不思議な図像である。まるで長い歴史のなかに壊れ、再生された集落をすべて呼び集めて二つの塔にし、そのツインタワーのあいだに建物のある橋をかけた趣。地面には緑の草が生え、針葉樹が点々と立っている。ノアの方舟がいまは崩れた廃墟になって、そばにいる。新しく樹木が立ち上がる。近景には動物の頭をした人間たちや女性がいて、いま牛を引っ張っているが、そばの女性が毒マスクをしているので、この赤い塀のこちら側には困難な現実が存在するようだ。そういった社会的な広がりや歴史を画家のつくりだした寓意的な世界の中に表現する。

 浜村博司「ナガサキ考・五番崩れ」。栗原賞。長崎には原爆が落ちた。そのときの強烈なイメージが繰り返しこの画家の画面の中に引き寄せられる。そこに自身の大病の経験が重ねられた。今回そこから新しくよみがえる命の輝きを描いた。女性が座っている。そばにコリー犬がいる。その女性の衣装や体に燦々と光が当たっている。ところがそばには原爆マリアのような顔が胸像のようにたくさん集積しているし、横には壊れたトルソーがある。しかし、その上方にはムカデが、あるいはミミズが新しく命をよみがえらせている。死と生の巨大な物語を十字形のコンポジションの中に表現する。

 伊藤光悦「祈りの海」。巨大な船が壊れて沈没している。上方の水を通してそんな様子が見える。圧倒的な存在感である。具象によって対象に迫りながら、強い寓意性をつくりだす。明らかに一年前の津波の大惨事からインスパイアされたものだろう。沈黙の海、たくさんの人々が亡くなった。その深いレクイエムがこの無言の巨大な壊れた船やそばの残骸からしぜんと感じられる。それを海の水をとおして描いているところに強いリアリティを感じる。

 小柳吉次「郷」。巨大な樹木がうねうねと幹から枝を伸ばしている。ところどころそこに穴があいている。しかし、小さな枝や梢の先に新芽を吹いている。傷ついた郷里の中に新しい命がよみがえる。そんなイメージを、こののたうつ大蛇のようなフォルムの幹や枝や、梢の伸びていくフォルムによって表現する。うねるようなこのカーヴする動きは、郷里の人が生まれ死んでいく、何百年、何千年と続いていく時間の連鎖も象徴するようだ。一羽のカラスがこちらに飛んできている。鑑賞者もカラスの目になってこの風景を眺めてほしいと画家は考えているのだろうか。ユニークなコンポジションである。

 木原正徳「ひとかたち《宙の水・地の光》」。中心に青い川を置いて、そこに横たわった裸婦のフォルムを面白く配置している。裸婦も自然の一部のようになっている。下方に花を置き、対岸に樹木を置き、浮遊する裸婦も植物の一部のような雰囲気で、独特の鮮やかな色彩をそこに点じ、ハーモナイズする。自然の恵みをユニークに表現する。

 山崎進「静風は流れて」。二十人ほどの大群像である。中心に子供を膝の上に立てた聖母子像があらわれている。左手の人指し指を立てているから、誕生仏のイメージが加わっている。キリスト教的な要素と仏教的要素が混在しながら、独特の楽しい大家族といった趣である。それぞれのフォルムがクリアで、緑の草原のなかに人間たちが輝くように表現されている。

 鬼澤和義「景」。都会の中の孤独な人間群像である。朝、通勤するために人々が歩く。夜、家に向かって帰っていく。そんな様子を四人の道を歩くフォルムによって表現する。建物や道や樹木、あるいは高層ビル群が抽象的に扱われ、線を駆使しながら、独特の韻律をつくる。上方の暗く青い空が朝方と夕方との重ねられたイメージをつくっているところも面白い。

9室

 藤原護「Otonomie〈燦々〉」。タイトルのオトノミーは日本語の音と英語のアノミー(無秩序)を合わせた造語で、私たちが日常の生活のなかで耳にする様々な音を色彩と形で表現したいという願いから生まれたものだそうだ。縦長の画面は二つのキャンバスによって成り立っている。上方は黄色いバックにブルーの塊があり、そこに白い線が縦横に引かれている。下方には階段があり、岩の上に一対の男女がいる。下方には花が咲き、樹木が伸びている。楽しい色彩豊かな画面であるが、その色彩のハーモニーは画家にとっては音を色彩に還元したものだそうである。下方の楽しい弾むようなリズムのなかの音と上方の悩ましいもあもあしたフォルムとが対照されて、自然の美しさと人間の心象の複雑さとが対比されているという言い方もできるかもしれない。

 仏山輝美「Monster」。宮本賞。異形の四つ足の動物が画面の中にいて、血みどろのような恐ろしい気配が感じられる。実際、最近では連続殺人事件が三十年にわたって起こったという記事があったが、現代の世相の凶悪な部分を寓意的に絵画として表現していると思う。

 福長弘志「ORADOUR」。オラドールとはフランスの町の名前で、一九四四年、ドイツ軍がその町のほぼ全員を虐殺して、一挙にその町は廃墟となったそうである。絵に描いているものは炭であり、湾曲した錆びた鉄線である。クリアな炭のフォルムが、この作品のみどころである。その焼いた炭の層や触感や輝きのようなものが実によく表現されている。その炭が虐殺というもののメタファーとなっているそうだが、作品を見る限りではそこまでは考えが及ばず、ただクリアな炭というもののもつ不思議なイメージ、時間性、炭化したそのものを実際に使用すると高温になるという、不思議な物質の性質が画面いっぱいに描かれていて、谷間や山を見るような不思議な瞑想的な雰囲気に誘われる。

 松本善造「我が里山」。会員賞。上方から俯瞰した構図である。森がいくつもあらわれている。あいだに地面があらわれているのだが、上方に行くに従ってすこし視点が水平に近づいてきて、山のようなフォルムがそこにあらわれる。里山の自然を上方から見たり、すこし視点を低くしたりしながら、あるトータルでもって画面の中に構築する。マチエールが強く、独特の触感がある。その触感が懐かしい感情にわれわれを誘う。視覚と触覚と二つの造形的要素をクロスするところにあらわれた独特の心象風景と言ってよい。

 岡野彰夫「キオク・キセツ」。白いクロスのつけられた長いテーブルの上にアオイのような花が咲き、そこから岩が出て、瑠璃色の羽をもった鳥がとまっている。そばには不思議なことに樹木も立ち上がっている。風景を静物化して、画面の真ん中に置いて眺めている。背後には幻想のように海と島の風景が広がり、その島から噴煙のようなもの、白い煙があらわれている。しぜんに一年前の東日本大震災のことを思い起こす。そのスリリングな気配をもつ自然に対して、テーブルの上の自然は優しく親密な雰囲気である。柔らかなグレーのトーンの中に描かれた花や鳥や樹木が危機的な自然と対置されることによって、よりその不吉なイメージが広がり深まっていく。右のほうの、白い布からツクシのような植物が伸びているところも、実に愛らしい。

 近藤慧子「神獣地」。山羊の上にコウノトリがいて、その上に妖精のような人間を乗せている。そばには少女が立っている。右のほうには駝鳥のような不思議な鳥がいて、その上に梟などを含めて二十人か三十人ほどの少女たちや生き物が置かれている。自然のもつ育む要素をこのようなかたちで寓意化しているのだろう。背後に巨大な妖精が帽子をかぶって現れている。イメージを形にする力が優れている。ぐいぐいとイメージをフォルムにして描きながら、一種の神話的な物語を表現する。その内容は自然というものの豊かな恵みだと思われるが、鳥にしても、羊にしても、その目の表情などがあどけなく、独特のイノセントな雰囲気がまた魅力。

 中島芳雄「好日」。落下傘が下方に下りている。その落下傘の上から地面を眺めているような、ヴィヴィッドな雰囲気がある。建物があり、樹木があり、途中には鳥が飛んでいるし、車も見えるが、その地上の風景を静かに描くというより、ある振動するような動きのなかに表現しているところが面白い。

 都丸直子「来~い、来い来い、福よ来い! !」。竹竿の上に鯛の人形をたくさんつけて、下にはしめ縄から稲穂が垂れている。それを鉢巻きをした少年が持って、揺すっている。背後にグレーの風景があらわれ、なにか困難なことが起きているというイメージである。一年前の津波のイメージが背景にあり、そこからもう一度福を呼び、新しい命をよみがえらせようとする画家の祈りが、このようなダイナミックな構図を呼んだのだろう。鯛のフォルムや稲穂や綱などの形も面白いが、それを持つ少年のデフォルメした形がもっと生き生きとしたイメージをつくりだす。

 田中宏治「Breeze in Water」。水の中につかった裸婦である。豊満なフォルムで、どこかミューズを思わせる。ヨーロッパに海とミューズのシリーズはずいぶん描かれているが、これはもっと日常的な風景の中に表現されている。いずれにしても、彫刻を思わせるような優れたマッス、量感をもつ女性の全身像に近い表現が優れている。そして、そこに水というキーワードで緑や青が使われ、泡が浮き、独特の生命の源に自分自身が浸っているような解放感と癒しが感じられる。

 井上展也「芙蓉咲く」。白い芙蓉が点々と花をつけている様子。その地面から伸びてくる幹と花、葉全体が表現されている。大きな量感があって、優れたデッサン力が感じられる。また、緑と白とのハーモニーが清潔で上品。

 田中定一「ビニールハウス考」。葱が伸びて、上に葱坊主がのっている。その様子を背景にして、若い女性の横顔が大きく描かれている。その向こうには三つのビニールハウス。ちょうど魚眼レンズで見たような構図になっていて、独特の球体が画面の中に置かれているように感じられる。そのような曼陀羅的な球体的な構図が面白い。ところが、ビニールハウスの向こうに黒い不思議な塊があらわれている。それはたとえば福島原発のような禍々しい出来事をしぜんと暗示させる。この平和なビニールハウスの農業の中に侵入してくる危険なものが暗示される。それによって、そのようなことに対抗するように葱の茎がいくつもいくつも立ち上がってきて、それが魚眼レンズ的な球体の中で強く輝く。

 岩永敬子「我々は何者か?」。田村賞。大きな船の上に、もう一艘のボートが宙に浮いている。下の大きな船には、三頭の牛と教師の周りに集まる子供たちやトラックに乗る人々、あるいは抱擁する男女、子供と遊ぶ母親などが描かれている。そして、その船はもう一つの傾いたボートを支えていて、そこではサラリーマンのような人々が輪になっている。浮いたボートの上には釣竿を持つ女性が傘を差していたり、ネクタイをしたサラリーマンが脅えた様子でいたり、ケータイを扱っているサラリーマンもいる。上方の海は荒れていて、一艘のボートに女性がいて、流されている様子や、沈没しかかった船も見える。一年前の津波を思わせるところもあるが、日本全体の農業をしている人、サラリーマンをしている人、学校の先生をしている人、様々な階級の人がここに集まって、自由に勝手なことをしているが、実はそれは船の上に乗っていて、危険な徴候があらわれているといった寓意性が感じられる。それをノンシャランな雰囲気で人々の姿を描くことによって表現する。とくに下方の海の様子などは実にリアリティがあるのだが、そこに飛び込んだ人の泳ぐひれをつけた足が出ているのは、どこかブラックユーモア的なほほえましさである。「我々は何者か?」という題名であるが、まさに日本はどうなっていくのか、町や村はどこに向かっていくのかといった寓意性もしぜんと感じられる。いずれにしても、百人を超える人々を集め、描き分けながら、全体でそのような大きなストーリーをつくる画家のイメージの力と描写力に敬服する。

10室

 八田喜美子「水辺にて」。画家は宮崎の西都原古墳群をテーマにしてきた。西都原古墳群は三世紀頃にできた大古墳群であり、いまだに発掘が終わってないところもあるが、豊かな自然と共生したことのわかる遺跡である。そんな大地の中にいま樹木が伸びて、古墳の跡のようなフォルムが点々とある。長い歴史を背負った風景である。それをバックにして、その中に太った女性が立っている。全身像である。母性的なイメージが感じられる。人間にとって必要なことは産むことや育てること、あるいは自然との共生。そういったイメージを背負った仏像のような女性の姿に鑑賞者は引き寄せられる。

 小林千枝「三つの林檎」。ソファに座って林檎を持つ女性。白いシャツを着ている。そばのテーブルには花瓶にたくさんの花が差されている。床の黄土色や女性の白い衣装に差す、すこし柔らかな暖色系の灰白色など、温かな雰囲気である。光が画面全体を柔らかく染めて、それによって起きる色彩の優しいハーモニーに注目。

11室

 木口昭太郎「受難と復活・時・人・旅―闇と光の刻(とき)」。十字架を背景にして羊を肩に担いだ男性がいる。羊は民衆であり、キリストはその牧者といわれる。そばの傾いた十字架にキリストの下半身が描かれ、足に釘が刺されている様子が見える。下方に四頭の羊。右のほうには嘆いている男。しかし、羊を担いでいる男の手と足にも釘を打った跡が見えるから、それは力強いキリストのイメージであるにちがいない。弱々しいキリストではなく、逞しいキリスト。そのイメージをV字形の構図の中に表現する。ヴィヴィッドなエネルギーと生命力が魅力。

12室

 辰巳明子「縄文土器の光景」。旋回するような構図になっているところが面白い。画面の上方に三つの縄文土器があり、その胴につくられた渦巻くような形が、それのみならず下方の二つの目をもつ梟のようなフォルムや、木の破片にも、あるいは中景にある道や二羽の鳥にも、向こうの海に突き出した岬にもあって、それら全体がお互いに関係をもちながら、ぐるぐると回るような、そんな構図に引かれる。その動きはそのまま長い時間というもの、歴史というものをしぜんと浮かび上がらせ、考えさせる。当時の集落が三つの素朴な建物によって表現されているが、そこに白い二羽のつがいの鳥が飛んでいるのがなにか懐かしく、ささやかな人間の故郷の原点のような趣に感じられるところも面白い。

 岸本凌幾「ジャズの刻」。サックス、ベース、ドラムを奏する三人の男。強い明暗の中にフォルムが浮かび上がる。その明暗のコントラストがそのままジャズのビートを思わせるユニークな構成。

 吉川花憂「生命の歓喜 No1」。長い樹齢をもつ桜の木が花を咲かせている。その前に赤いピエロのような衣装を着た女性が縦笛を持っている。笛を吹くと、そのメロディはこの自然に対する喜びの曲になるのだろう。下方に三本の若木が花をつけている。日本人が昔から歌に詠んできた桜をテーマにして、自然の力、その再生のイメージを静かにうたう。

 大久保真加子「至福のとき」。ぐるぐると回るような不思議な動きがある。強いマチエールの中に表現されている。布の上に猫が寝ていて、その周りにホオズキがあり、背後に巨大な赤い花が花弁を広げている。そばには紫陽花を思わせるような花が浮遊している。画面全体が画家の強い念力のような想念の力によって独特の生命感をつくりだす。

 永井龍子「渚の詩 ・」。海岸に波が寄せている。海岸には二艘のボートや錘のような球体や網などが置かれて、忘れ去られているような雰囲気である。突堤に鳥がとまっている。寂しいような懐かしいような気配が感じられる。寄せてくる波が繰り返す動きを表すわけだが、忘れられたものだが、実は懐かしいもの、そんな心象が画面全体に漂う。

13室

 井田孝子「宇宙星 ・」。日が落ちてしばらくすると空が青くなる。分厚い青いガラスをはめたような空になるが、その時刻の雰囲気がよくあらわれている。街灯が灯り、上方に樹木が覆いかぶさっている。中景に自転車を持つ人と犬とが静中の動としてあらわれる。地平線から雲がわいていて、雲と上方の樹木のあいだに星が輝いている。独特の密度のある空間が生まれる。平凡な光景の中に画家は詩を発見する。

 大嶋美樹絵「風が見た街」。準会員賞。街の十字路を上方から見下ろしている。地面が動いているような独特のムーヴマンがある。上から見た視点によって、角に立つ三つの建物の形、もう一つは昔の小さな火の見櫓のようなモニュマン的なものや、そこに点々といる人々が不思議に活性化して、強いエネルギーのようなものがその建物や人間、あるいは樹木から感じられる。しかもそこに黄金色の雲が伸びていて、ちょうど洛中洛外図に出てくる雲を思わせるところもあるのだが、地上のもつエネルギーが雲となって浮遊しているような、そんな面白さも感じられる。いずれにしても、おそらく平凡な光景であるはずのものが、この絵の中でファンタスティックな力を獲得している。

 阿部好江「薄暮(2)」。ハーフトーンの色彩のハーモニーに独特の魅力がある。白いテーブルの向こうに女性が座っている。テーブルには葡萄やコップや植木鉢などが置かれているのだが、幻想的な雰囲気があらわれている。机の下から猫の下半身が浮かび、尾が垂直に立ち上がっているのも面白い。また、窓の外の風景も茶系の中に様々な色彩が入れられて、独特のニュアンスがある。

14室

 薗まゆみ「遊」。神道の中に出てくる神のような女性が立っている。周りに様々な烏天狗が集まっている。彼等は、下方では独楽を回しているし、後方ではフラフープをしている。そばには御神輿が出ている。上方には、雲の中に太鼓を叩いている天狗もいる。日本の神道的な世界、さらに言えば、神道と仏教とが連結した垂迹美術的なイメージがよくあらわれている。日本人の心の中に生きるアニミズム的な力を画面に引き寄せて、独特のエネルギーをつくる。

 大石恵三「夜」。粗末なベッドの上に座った男が上方を見ている。そばにずいぶん使われてボロボロになった鍋がある。ごつごつとした屈曲するフォルムが連続しながら男性のフォルムをつくり、シーツのしわをつくる。そのフォルムの力によって独特の動きが生まれる。

 丹羽久美子「時の記憶 ・」。横笛を吹く日本髪を結った女性。触覚的な力がある。顔が大きく手が小さいというそのバランスも、いかにも伝統的な日本人の人間を描くときのスタイルだと思う。後ろに獅子頭が面白いユニークなアクセントとなって配置される。

 小松洋子「環―海月 ・」。クラゲが近景に大きくゆらゆらと揺れている様子が描かれている。その左右にもクラゲがいる。また頭の上方には、もっと遠方にあるようで、小さくなったクラゲがいる。透明感のある色彩が魅力である。海のもつ深い色調がよくあらわれている。その中にゆらゆらと泳ぐクラゲは、言ってみれば自由の象徴なのかもしれない。クラゲを描きながら画家は社会的な様々な制約から離れて、静かに想念の世界のなかに入っていく。そこにあらわれた海の魅力や、また画家独特の感情に染められたロマンティックな色彩に注目。

15室

 柴野純子「風の刻」。胸に右手を当ててじっと瞑想している若い女性。後ろに小さな教会が見える。そばにつがいの鳩が来ている。下方にオリーヴの葉があり、実が実っている。静かな中に強い緊張感がある。右のほうに古い宗教音楽と思われる楽譜が二つ置かれているのも、この女性がそのような宗教音楽を聴くような心持ちで、敬虔に信仰の世界の中に入っていることを表す。スタティックな中に独特の緊張感があり、画面の中から静かに滲み出てくるような深い感情世界が鑑賞者を引き寄せる。

 難波英子「バッハ追想」。黄色とピンクとが補色であって、強く響き合っている。黄色い中に紫が置かれ、バッハの楽譜がそばに置かれている。フーガの曲である。SEPTEMBER と書かれたカレンダーが、黒い中に白い文字でユニークなアクセントになっている。同じようなアクセントとして、白や黄色や青や紫の花の入れられた花瓶もそうである。朗々とした緊張感のある画面に注目。

 南和恵「風の詩 1」。女流画家奨励佐伯賞。遠景に建物があり、それから手前まで茫漠たる大地である。草が生え、ところどころピンクに染まっているのは花を暗示させる。面白いのは、建物にも地面にも金の箔が使われているところである。上品な空間のなかに色彩のハーモニーが輝いて、独特の音楽的な感興を感じさせる。

 苅田さかえ「晩夏」。観音開きふうな構成になっている。磯の上の岩に座るファッショナブルな衣装を着た女性。長い髪を伸ばしている。波が打ち寄せて、鷗がそばに下りて女性のほうを眺めている。あるいは、鷗は鳴き交わしながら空を飛んでいる。クリアなフォルムで、一見するとイラストのような雰囲気もあるのだが、余分なものを排除して、きわめてクリアな形と構成によって生き生きと迫ってくるものがある。絵画的才能ともいうべきものを感じる。

16室

 仲築間英人「礫・あそぶ」。遠景に廃墟になった城壁のようなものが見える。そして、手前まで建物の壊れたような跡が続き、近景に二人の少女がいる。モノトーンの中に強いデッサンによって、すこしぼかしながら、しかしクリアなフォルムが浮かび上がる。遠景には地平線が置かれ、そこから雲がわき出ている。とくにお城から近景の二人の人物までのディテールの力、その量感、空気感に注目。

 庄司健一「記憶にない風景」。右のほうには黒の中に金が使われて、シルエットの階段が見える。下方には風景があらわれている。左半分に太った女性のトルソのような上半身が描かれている。右の黒に対してグレーのドローイングの炭をなすりつけたような、独特のトーンのある裸婦である。実際の裸婦というより、妖精的なイメージがあり、その背後にやはり金の箔が使われ、背後に山や樹木が見える。画家のつくりだした自然の中から引き寄せた女神のイメージが面白い。

 遠矢秀三「虚空へ」。下方に卵があり、あやしいうねうねとした岩が上方に伸びて、その上方は岩がお皿のような形になって、その中が発光している。その光は天の力を受け止める容器のようだ。その天上的なイメージと下方の卵と思われるものの地上的なイメージが生き生きと呼応しながら、独特の宗教的なイメージがあらわれる。

 浜田良徳「LIFE」。かまどのような茶褐色の楕円状の量感のあるフォルムの前に、その本体から突き出たような棚のようなフォルムがあり、そこに麦の差された瓶や洋梨や小さな果実の入れられた白い容器やサクランボのようなフォルムが置かれている。たまごのような背後のフォルムは素朴なイメージをつくりだす。そして、その茶褐色の手触りのある表面は地面を思わせる。そういった自然と深い親和力のあるイメージの中に、素朴な洋梨や麦の穂などがある捧げ物のように置かれる。ナイーヴな表現で、風景と静物を重ねたようなイメージの力に注目。

17室

 六反田英一「風の音」。準会員賞。銀箔を画面全体に貼った上に二人の女性を置いている。イヴニングドレスふうなパール色のドレスを着た女性である。一人は上方に横になり、もう一人は上方を向いたかたちで、その横からの姿が描かれている。二つのフォルムが優雅に呼応する。フォルムがクリアであるために、このような仕事が可能になる。デッサンにもし間違いがあれば、それがすぐに目立つから、このような構図はとれない。優れたデッサン力をベースにして、女性のもつエレガントな魅力をユニークなコンポジションの中に表現する。

 定森満「膝を抱く女」。準会員賞。座って、両手を膝の前に置いた若い女性。後ろにエキゾティックな洋館が見える。前に猫が横になっている。女性は裸である。青い色に染まっている。この女性の想念のなかに出てくるものとして背後の洋館があり、飛んでいる紙飛行機などがあるのだろう。猫さえもそうかもわからない。そういったイメージの展開が静かなノクターンのような雰囲気をつくる。

 田家ハルミ「幻景 ・」。ブリッジをして足を宙に上げた姿勢。空を泳いでいるような浮遊している姿。シナ服のような衣装を着た二人の子供。そばに白鳥が飛んできている。花が靡いている。画家は独り遊びをするようにイメージの中に入っていき、自己を解放し、セルフともいうべきものを発見する。独特の優雅な動きがあらわれているところが面白い。

 川上久光「夜話 ・」。上に向けて、両手を開いたあいだに花があらわれて、花もまた開いているような雰囲気で、手の指と花弁とが一体化しながら、イメージの広がりをつくる。背後にシルエットになって夜の樹木が並んでいる。両手にも花にも月の光のようなものが当たっていて、きらきら輝いている。加えて、その周りを蛍のようなものが飛び、その軌跡が光る。ロマンティックな夜の夢想と言ってよい。

 佐々木秀樹「外海(そとうみ)」。準会員賞。土管の中に土が入れられ、すこし草の生えている上に少女は、立っている。少年は、机の上に置かれた箱の上に座っている。いずれも不安定な様子である。海がU字形のフォルムの連続によって表現される。一年前の津波のイメージも背後にあるのだろう。人間存在の不安定さ、あるいは自然の不安定さをこれらの形象によって表現する。独特の絵画的才能と言ってよい。

 水巻令子「廃校 ・」。少女が帽子をかぶって木製の椅子に座って、金魚鉢を前に差し出している。中に一匹の赤い金魚が泳いでいる。少女の目は不思議な表情で、遠くを眺めている。ある事件を思い起こしているのかもしれない。焦点が合ってないようなその目の表情が実に独特で、画家のリアルな表現に心惹かれる。背後は廃校で、東北を襲った津波のあとの校舎である。窓の向こうに三月頃のまだ雪の残っている山が見える。暗い中に光が一筋の帯となって伸びている。深い空間の中にこの少女を置いて、その少女を通して今回の津波の恐ろしさを画家は語る。これまでの母と子の聖母子像と言ってもよいような表現に対して、今回はそのような少女を通して見た光景を静かに語りかける。

 石田葉子「春一番」。何層にも洗濯物が風に翻っている。針金のハンガーを左手に持った女性が右手を上げて空を見ている。ゆらゆらと揺れる洗濯物は春一番の風のせいなのである。茶系の背景は階段や壁を表し、その矩形のフォルムがノンシャランな中に時間の流れを表現するようだ。水が出て、洗濯容器の上に流れている。日常の中に深く潜入することにより、そこから引き出された、軽快でありながら深いイメージに注目。

 吉川和美「午後の時空 ・」。会員推挙。ライオンの口から水が出ている。ライオンのあるこの扉の周りに水が氾濫している。画家の幻想である。画家の頭の中にイメージがあらわれる、その現在進行形の姿を絵にしたような面白さが感じられる。優れたデッサン力がうかがわれるし、水墨ふうな黒い線による水の表現も優れている。

 吉岡賢一「鳩の降りた日」。準会員賞。チューリップをあいだにして、姉と弟が立っている。姉はカップを持ち、弟は鳩の玩具を持っている。淡々と描きながら、深い心象的な空間があらわれている。

18室

 小原瑛子「この花をさがすとき ・」。面白い作品である。可憐な野の花が咲いているところの端に莵の格好をした少女がいて、顔を九十度回転させて上方を眺めているのだが、板の上に不思議な巨大な葉の塊とも花とも定かでないものが広がっている。そばで見ると、その花びらの周りは縫ったあとがあり、補修がされたりしていて、きわめて困難な人の力に余るものがそこに置かれているようだ。そういった象徴的な重量感のあるものが上方にあって、この可憐な野の花を圧しているような雰囲気で、その様子を眺めている繊細な女性の顔が強い印象で迫ってくる。

 玉尾慶子「午後 ・」。中性的な人がポケットに手を入れて立っている。そばに犬が寝転んでいる。その二つのフォルムがお互いに親密に関係している。簡潔に対象の表情を捉えて見事である。

19室

 執行安正「言はまくも悲しき」。五人の女性を寝かせたり座らせたりしながら、独特の形態の面白さをつくる。なにか悲しい、言葉では言えないイライラ感をこのようなパントマイムのような形態によって表現する。その優れた形態感覚に注目。

 吉本満雄「この街の片隅で(場末の女)」。階段がカーヴしながらだんだんと下方に下がっていく。階段の途中に、両手をポケットに入れてすこし肩を落として歩いていく人の後ろ姿。その下には飲屋があって、呼び込みの女が立っている。それを背景にして、顔が大きく足が小さく、ちょうど塔の上から塔の下を眺めるようなかたちで階段の一番上に女性のフォルムを置いている。そばに犬がいる。題名からすると、この女は場末の女で、後ろにあるバーなどに勤めているのだろう。底辺ともいうべきところで生きている女性の生命力とか悲しみといったイメージが強く立ち上がってくる。優れた螺旋形の構図に注目。

 原田次枝「旅の途中」。ソファに俯けに横になった女性。反対向きに床に白い犬が、やはり俯きになっている。それを右のほうの子供が眺めている。不思議な動きが感じられる。心理的な動きと言ってよいものを画面の中に引き寄せて表現する力がある。グレーを中心として、ところどころ色が使われているのだが、センスのよさを感じる。

20室

 竹内勝行「生きる」。巨大な樹木が生えている。樹齢千年を超えるようなアルカイックな姿である。近景に二本描かれていて、実にあやしい雰囲気である。左から光が当たり、ところどころ木漏れ日のように斑に染めている。深いうろのようなものが正面に見える。背後にも樹木が連続して立っているようだが、そのあいだに霧が立っていて、深いシルエットの緑色のトーンの中に表現される。その霧が立っているようなバックの湿度の高い緑がかったグレーのトーンの中にある樹木の羅列に対して、手前のスポットライトの当たったような樹木の形が対照される。ディテールを徹底して追うことによって、地面の上にあらわれる根の形、そして立ち上がる樹木の幹の形が生命感を宿して描かれている。自然のもつ神的な性質の表現と言ってよい。

 田窪理子「夏の午後」。横断歩道を自転車で渡る人々のあいだに歩いている人もいる。深い陰影がそこに捺されていて、面白い。それだけと言ってよいほど、そこに集中した作品であるが、独特の陰影があらわれていて、人間臭さと同時にイメージの広がり、展開が感じられる。

 米津文子「残された空間(・)」。一種日本画的なセンスがある。色彩家でもある。上方のハンモックのようなものに乗っている少女の衣装はコラージュされていて、周りのグレーと対比されているし、下方の植物の様子も装飾的な表現で面白い。

 山家利治「バラ(・)」。真っ赤な薔薇の中にサイボーグ、ダミーのような男たちが墜落している。薔薇の花の中がブラックホールで、その中にパソコンなどを持ちながら呑み込まれていくピープル。薔薇の陥穽に落ちてしまった物語が浮かぶ。面白いのは、背後の壁にこの植物のシルエットと同時に巨大な猫の横顔が浮かんでいるところである。都会の中に潜む悪のイメージもしぜんと感じられる。

 伊藤浩二「郊外の老人」。杖をついて立つ老人は、その帽子を見ると、イスラム教の人なのだろうか。あるいはインドの人なのだろうか。いずれにしても、中東あたりの孤独な老人の姿がよく表現されている。客観的に描きながら、深い感情がこめられた悲しみのモニュマンのように感じられる。地平線がほぼ画面の半分を横切り、空がオレンジ色に燃えているのは、夕映えと同時に戦火の反映だろうか。荒涼たる大地が広がる。

 松井敬二「旅が始まる時 ・」。石でできた花弁がすこし開いて、あいだから光があらわれている。ほとんどモノトーンの世界で、その巨大なモニュマンに向かって海が続いている。紙飛行機が飛ぶ。なにか新しいものが始まるときのイメージをこのような石の形象によって表現するエスプリに注目。

 榊原幹夫「冬の予感」。雑草が茂っている中にキャタツのようなものが置かれて、手前の杭に鷺がとまっている。植物の葉のクリアな形と鷺のクリアな形が対照され、そこに光が当たり、全体を独特の陰影のなかに染める。

23室

 染谷厚「忘却の地」。巨大な船が地上にあって、だんだんと崩壊しつつある。面白いことに、この船の上にはビルが立ち、煙突が立っている。この巨大な客船がそのまま都市のメタファーとなっている。そして、その先行きはどうもあまりいい方向に行かないようだ。それはそのまま現代日本の象徴と化す。そういったイメージを船の上に立つ建物、あるいは様々なディテールによって表現する。

 松原利之「水について」。白いバスタブに水が張られている。その水に手を差し伸べる少年。背景は黒い空間である。水に聖性が与えられている。命と同じような性質をもって、この白いバスタブの中に置かれている。その水に手を差し伸べる少年は命に触れているわけだが、少年は椅子の上に立って、おそるおそる手を伸べていて、命というものをこの少年が発見できるのがどうかといったスリリングな気配がある。そんなイメージはそのまま現代の少年のイメージであるにちがいない。クリアなモニュメンタルなコンポジションとフォルムが、この作品の絵画性と言ってよい。

 吉田晴夫「テニスの試合(ボール追う)」。ネットの両側でテニスの試合をする二人の女性を面白く構成している。走るという姿を斜めの動きのなかにシャープに表現する。動きを中心としたなかに色彩感覚がこの作品の魅力を支える。

24室

 榎本篤「細い橋脚」。この画家の作品は初出品から注目してきた。今回は馬の頭が画面いっぱいに描かれている。馬のもつ深い情動、優しさと同時に、たとえばペガサスのような神的なイメージがそこに重ねられている。ところが、今回はこの馬に木製の橋が三つかけられている。上方は頭すれすれに伸びていて、もう一つはたてがみの中を通って左右に行き、もう一つは鼻の下を通っていくのだが、その先が見えない。そこに人間が一人歩いている。神話的なイメージと実際の疎外された現代の人間とが対照されているように感じられる。馬のもつ強い豊かなイメージと、傾いた橋の上を歩く人間の寂しい様子とが対照される。切ない芸術家の肖像のようにも感じられる。

 原澤和彦「あしたの気配」。会員推挙。トラックやプロペラ機が手前に接近してくる。そのいちばん近景には娘を抱きかかえる母親の姿がある。強い風が吹いている。いつ戦場になるかわからない、そういった日常の中に入りこむ暴力の気配を見事に造形化する。

 持留亜矢乃「幸せの肖像」。奨励賞。がんで亡くなった亡き母の姿を描いたものだそうだ。頭が刈られて、斜めからその体を描いている。クリアな形がそのまま画家の深い愛情を表す。愛というものがこの作品のリアリティをつくる。

 清水節子「少年の刻 2」。奨励賞。学校の室内なのだろうか。壁の前に小学四年生ぐらいの少年が立っている。扉があけられて、その向こうの壁に龍の絵が描かれている。その壁にあけられた窓の向こうに樹木がある。無機的な校舎の中の少年と龍の図が響き合う。フォルムはクリアで、なかなかの色彩家である。少年を育てていこうという強い母性的なイメージがしぜんと感じられる。

 青木千賀子「SAGA」。優賞。花の下に葉脈のような血管が伸びている。そして、花は胎児をいま育てつつある。三つの胎児が花の影でだんだんと成長しつつある。それを柔らかな光を含んだようなピンクのトーンの中に表現する。栄養を与えているのは葉脈的な管である。植物と人間とが一体化しながら、静かに命を育てつつある。村上春樹の小説『1Q84』の中の繭のようなイメージを表現する。

 川口智美「scene・アマリリス」。白いアマリリスの葉が広がっている。ほとんどモノトーンである。幾つかの花が集合しているが右向きと左向きと上方向きとほとんど三百六十度カバーするかたちで花は開いている。そこに激しい風のようなものが当たっている。葉が強い円弧をもって繰り返しリフレインしていく。花を崩壊させようとする力に対して、花は花自身を守ろうとしているかのような、二つのベクトルが画面の上で拮抗する。そんなイメージをドローイングする力によってヴィヴィッドに表現する。

 桶田洋明「夏の輪廻」。準会員賞。樹木が鬱蒼と茂って枝を広げ葉を茂らせている。そこにたくさんの熱帯魚が色とりどりの様子できらきらした雰囲気で泳いでいる。その中にコウノトリのような鳥が飛んでいるのが面白いし、その鳥の下には巣の上の三つの卵が描かれている。暑い夏には誰もが水に潜りたいというイメージをもつだろう。夏の暑い最中ににわかに風景の中に水が押し寄せて、熱帯魚が泳ぐというシーンが引き寄せられた。そのインスピレーションをそのまま絵に表現するところに、この作品の面白さがあり、そんなヴィヴィッドなイメージの力に注目。

 渡辺愛子「日本人の物証―襤(らん)褸(る)(13)」。老人がぼろきれを縫っている。その部分を拡大して描く。同じような絵が二紀展に何回も出品され、水彩連盟にも何回も出品される。しわしわの手が針を動かしながら縫うという作業は、おそらくある意味でイメージの原形と言ってよいのだろう。だから説得力があるが、そろそろ作品の内容を変えたほうがよいと思う。

 山城道也「ゆびさきの」。シーツの上に一歳か二歳の子が座っている。後ろに巻貝のようなフォルムが見える。アンモナイトは化石化するまでの長い歳月の象徴で、DNAの連鎖の中からいま誕生をことほぐという構図なのだろうか。クリアなフォルムに説得力がある。

 柏木健祐「頭痛」。真ん中に下駄をはいた学生服の男が走っている。下方には女性の下半身がたくさんあって、そこにのめり込んでいる男の後ろ姿がある。上方に踏切があって、電車が通っているのだが、そこにいるのはこの学らん姿の男性の祖父の姿のように思われる。かつての男の歴史というものがこの男性を拘束しているが、この男は性欲の妄想のなかにいる。男性的な価値の歴史に対して性欲の現状が対置されるような、そんな若い男性の強いエネルギーを絵画に描いたように感じられるところが面白い。

 上原正治「祈る」。奨励賞。下方に女性の下半身があって、そのおなかのあたりから円弧があらわれ、炎が燃えている。その炎の上方には百合の花のようなフォルムがあらわれ、その上方に想念する男性の髭づらの顔があらわれる。どうもこの男性が顔の隠された女性に対して恋をしているように感じられる。その強いパッションが炎となって燃え上がっている。いわば強い恋の構図と言ってよい。「祈る」という題名から連想すると、下方の繊細な女性の手や足などのフォルムは、たとえば日本の繊細な風土で、東北を襲った津波によってそれが崩壊したことに対する再生の祈りという見方もできるかもしれない。

 山田和宏「紙芝居 第四話 ゆめでみるゆめで」。準会員賞。中学生ぐらいの男性がテーブルに頰をつけて、口をあけている。同じポーズが、後退するに従って縮小してリフレインしていく。背後には駅ビルの外観があり、上方に品川ステーションという文字が見える。現代というものに対する不信感を端的に表したコンポジションと言ってよい。コンテンポラリーアートの中に多い作風だが、公募展の中では珍しい。次の展開が期待される。

 舩岳紘行「生まれ変わる大地」。準会員推挙。満開の桜の様子が擬人化されていて太い幹の両側に大きな目がとびだしている。目の表情が実にユーモラスな雰囲気を醸しだす。強い生命感が感じられる。下方に小さな妖精のような生き物が上部を光らせて、桜のまわりを歩いている。大きな桜の木が母性的な性質をもって大地をよみがえらせようとするかのようだ。イメージの強さとそれを表現する造形力に注目。

 村上伸栄「流紋」。粘土でつくったような人間の顔が画面の中心に置かれている。様々な不安定な要素をすべて抱えこんだ現代の人間の像である。一度彫刻にして、それを絵に描いたような面白さが感じられる。

25室

 齋藤ナオ「little star~ユニ帽の少年~」。奨励賞。マットなテンペラふうなマチエールがしっとりとした空間を示す。周りは本棚で、そこに少年が紙飛行機を持って立っている。題名は少年だが、見ると、少女のような中性的な雰囲気である。人類の遺産ともいうべき本のあいだに佇む少年、その期待を背負ったイメージは、まさに現代の像と言っていいかもしれない。小さな手に対して顔が大きい。日本の浮世絵はだいたいそのようなフォルムによってできている。なにか渾沌とした形にならないミステリアスなイメージが、形となって定着されようとしているところが面白い。

 池谷真理子「毛皮を着た猿 ・」。奨励賞。白の中に黒いぶちのある厚い毛皮を着て、ブランドもののハンドバッグを持ち、赤いマニキュア、ペディキュアをした中年の女性と思われる姿が、実は猿であるというこの不思議さ。頭にサングラスがかけられている。皮肉な画面であるが、イメージとしてはきわめてリアルでヴィヴィッドな表現と言ってよい。

 木下真示「夜の駐車場?」。コンクリートの建物の上方は屋上であるが、そこにたくさんの若い人々がたむろしている。地面に行く階段のところにも人がいるし、下方はコの字形に駐車場のスペースになっていて、そこに車がとまっている。ノンシャランな雰囲気のなかの、人間と人間との関係をもたない現代の群像として説得力がある。作品が小さいので、次の展開がどうなるのか、注目したい。

 家村誠「RAIJIN」。モノトーンの作品である。バスを運転しているのは少女である。あるいは少年かもしれない。バスの前に角(つの)のある帽子をかぶった少年が叫んでいる。バスは鑑賞者のほうに向かっているわけだが、強い深い感情がこめられている。陰影のしっかりとしたトーンも面白いし、形がヴィヴィッドだし、構成も面白い。そう思って絵を見ていると、バスの上でピストルを持っている少年が叫んでいて、現代の社会に対する強いアゲインストの気持ちがこの作品のテーマになっていることがわかる。

 山元明「北物語―十勝の遥か―」。古い写真を見るような感じが一瞬するのだが、ほとんど壊れた建物に雪の積もっている様子や背後の樹木や手前の切り株に立つカラスなどは、やはり絵画としてリアルなものが感じられる。形に対する感覚の優れていることは作品からよくわかる。また、物語性もあるし、次の展開を期待したい。

 桑原博司「諦」。リアルな写実作品である。紫、赤、緑の布をテーブルの上に置いて、人工の手や秤や壺などをクリアに表現する。ねっとりとした質感と対象に迫る筆力に注目。

 佐藤美和子「unison 恵み深き母よ」。妊娠したおなかの膨らんだ女性をシンメトリックに描いて、不思議なユーモアを表現する。

 川瀬穂菜美「現代社会の象徴 ・~みえなくなる女~」。コンタクトレンズをはめている女性を中心として様々なものが周りに描かれている。それぞれがクリアで、形をつくる力がある。その力がこのように優れていると、様々な展開が今後可能になるだろう。絵画的才能と言ってよい。

26室

 大島辰子「春の声が聞こえる」。樹木が色彩を変えていくつも並んでいる中に、寝そべっている女の子がいる。マチエールによって独特の安心感が生まれる。ところどころ使われている金のような色彩の装飾性と女性の生き生きとしたフォルムが、この作品の魅力。

27室

 山田弘美「道(NO.3)」。ガード下の通路を両方にバッグを持って歩く女性の姿。淡々としたなかに陰影があらわれ、ガード下の道を行く中年の女性の後ろ姿が鮮やかに画面に切り取られる。

 長田栄美子「遠い日 ・」。正方形の画面の両側に、柔らかな緑色と柔らかな青みがかったグレーの樹木が立っている。その下に少年と犬がいる。樹木の中には鳥がとまっている。背後は田園で、樹木の上に鳥が飛んでいる。優しい緑を中心としたハーフトーンの中に樹木や少年や犬が、あるいは自然そのものの命が静かに歌われる。上品な色彩の中に静かに育むもののイメージが感じられる。

28室

 倉島芳子「扉―B」。準会員推挙。扉がすこしあけられた中にグレーのリングがあり、その上にグレーの猫が飛んでいる。しっとりとしたマチエールが魅力。あけられた扉の中にある陰影と飛ぶ猫の後ろ姿が、独特の親和力、それはエロスと言って差し支えない力なのだが、そのような力をもって鑑賞者を引き寄せる。

29室

 岩本望来「tutumu」。頭に大輪の黄色い菊の花を置いた少女の顔。周りに金魚が飛んでいる。少女の顔はすこし上から見た角度だが、睫毛が一本一本面白く描かれていて、そのクリアさが実に面白く感じられた。次の展開が期待される。

30室

 前野知恵子「気配 2」。奨励賞。大きな樹木の幹が両側に伸びている。それがシルエットとして表現される。囲まれた中心が明るく、まさに不思議な気配が感じられる。その囲まれた空間の向こうに何か期待できる世界が出現するような、そんなときめきが感じられる。

 片庭類「瞬映」。岸の両側に桜が満開である。中景で川がカーヴしているがその岸にも桜が咲いている。後方にはコンクリートのたてものがのぞく。遠近感の中に桜の魅力が呼応しながらひびいてくるようだ。水に桜が映っている様子はまるで星が集合しているようだ。

 丸川幸子「one day II(祝オリンピック)」。画面の下辺にチューリップや水仙など、様々な花が並んでいる。赤茶色の床にオーケストラがこれから始まろうとしている。黒い燕尾服を着た指揮者の後ろ姿が見える。上方には緑、白、赤、黄色などの花の盛られた大きなフォルムがある。それぞれのフォルムがいわば音譜のように画面の上に置かれて、全体で独特のハーモニーを表現するところが面白い。

31室

 木本良助「遊 ・」。昔の畳敷きの室内。縁側があるのも懐かしい。こたつに足を入れて、少年が本を読んでいる。こたつの上には蜜柑が入れられた籠があるようだ。ほかに少年少女が点々と中に存在している。少年たちはそれぞれが会話をするわけでもなく、ぽつんとしているが、深いノスタルジックな感情が画面からあらわれてくる。構成のもつ韻律も心地好い。

 田嶋香里「先生!画用紙が1枚たりません」。長いテーブルに向かい合って七匹の猫がお絵描きをしている。それは人間の寓意であるが、それぞれの猫を見ると、おとなしい性質、猛々しい性質、思慮深い性質、シャイな性質などの性格が描き分けられているところが面白く感じられる。

 石㟢道子「流星の使者 3・11(・)」。馬を背景にした少女がアニマ的なミステリアスな雰囲気で描かれている。向こうにはラッパを吹く人がいる。月が下りてきている。グレーの中に独特の黄金色ともいえる色彩が揺れるように描かれている。ロマンティックな感情が鑑賞者を引き寄せる。

32室

 松本央「WWW」。題名の「www」はメールなどでは笑いという意味を表すそうだ。ノースモーキングの部屋の中に金髪の男が自分の顔と向かい合っている。ところが、背後には木刀などを持った暴力団ふうな男がいて、何かを強制しているようだ。そういった状況自体をしゃれのめすような雰囲気もあるし、同時に暴力の危機感がじわじわと伝わってくるような怖さもある。そういったシチュエーションを六人の人間のフォルムによって表現する。対象の人間の心理や姿かたちすべてに接近する、そのような力がこの画家にあるところに注目。

 平野栄作「小さくて静かな惑星の様子―1、2、4、5/蛹化中」。十五、六の女性の魅力をよく表現している。画面には四つのキャンバスの中に女性像と同時に、押しピンで刺された蝶や題名の三つのパート。合計すると七つのパートによってできている。この作品の魅力は、女性のディテールをしっかりと描く素描力と同時に、ロリータ的な少女に対する強い関心にあるように思われる。

 二井澄子「鎮魂歌」。簞笥の中からピエロや達磨やマリアや福助や様々な人形が出てきて、みんな目をつぶって深い哀悼の意を表しているといった雰囲気である。日本人のもつ汎神論的な世界観がヴィヴィッドに表現される。

33室

 筒井美代子「行方 ・」。少年の後ろにサーカス小屋がある。後ろは丘になっていて、そこにジェットコースターや観覧車のある現代の遊園地が見える。大正時代のようなサーカス小屋と現代の遊園地が対比され、その前に少年が正面を向いて立っている。茶褐色のトーンにニュアンスがある。長い時間の中に温められたイメージが静かに画面から立ち上がってくるようなリアリティがある。いわば詩の世界を造形化する力に注目。

 堂前美枝子「Nにつながるセ・カ・イ(海の恵み 6)」。ブリの頭が切られて、お椀の中にある。そばにはタコやイカなども置かれて、亀がそばに接近してくる。引き出しからはイカがのぞいている。後ろに妖精のような少女がこの様子を眺めている。それぞれのフォルムがクリアで、それぞれのキャラクター的な特質をよく表現しながら、全体でファンタジックな物語が進行しているように感じられる。

〈彫刻室〉

 長谷川総一郎「ほこら 4」。男と女のトルソーが、何百年もの樹齢をもつ樹木の外縁部を切り取った円弧の中に置かれている。外側を一周すれば、この木の名前はわからないが、母性的な長い年輪の木肌がもつ独特の凹凸が生命感をもって立ち上がってくるのに気づく。黒く彩色された中に浮かぶ男女のこんじきに彩色されたフォルムは象徴的である。アダムとイヴは意識をもつことによって楽園から追放されたが、追放された人間をもう一度自然という楽園に作者は戻した、といったそんな強い印象をもつ。ヨーロッパの彫刻の影響から自由になった日本の道祖神的な力を感じる。

 日野宏紀「遥か…彼方へ」。すっきりとした若い女性の魅力がよく造形されている。塑像である。右足に重心を置き、左足をすこし横に置き、右手をすこし前に、左手をそのまま垂らして、顔を右に振った、そんなほんのすこしの動きがそのまま爽やかな彫刻としてのムーヴマンを獲得する。

 恩田静子「宇宙曼陀羅」。中心に円柱があり、その上に、その直径よりすこし後退した半球が置かれている。半球の中は赤く染まっている。また、円柱の中もU字形に染まったフォルムが見える。そして、それを囲むように前後に赤い球体がある。それが方形の台の上に置かれている。不思議な風景でもあるし、山水のようなイメージを感じる。このような山水を、たとえば中国の宋元時代に見たような、そんな錯覚に陥るのはなぜだろうか。范寛などの作品にも似たようものがありはしなかったか。ボリューム感があり、ある大きな空間が取り込まれているゆえだろう。そういえば、円柱の中に銀色のすこしゆがんだ球体が置かれていて、その球体が、鑑賞者が動くにつれて形を変えていくのも面白い。それはそこに入れられた赤い色彩や青い色彩も同様である。太陽というものが命の源であれば、太陽のあの光線を、朝日や夕日の色彩をそっくり造形化してここに置いて永遠化したような趣も感じられる。見ているうちに、さらに円柱の中にU字形に小さな金属の球がたくさん入れられていて、すこし大きな球の下に百ぐらいのものが数珠つなぎになっていることがわかる。それは浮遊する星座のような趣でもある。地球の中心にマントルという巨大な高熱の塊があるが、そんな中から塔のように火山のようなものが海底にも顔を出しているそうだ。そういった地球の中心にあるもののイメージを造形化して、作家独特のいわば五輪の塔のような象徴的なフォルムを創造したと言ってよいと思う。

 片瀬起一郎「旅の空から」。木彫である。ほとんどまだ樹皮が残っているような木材を切断して台にしている。そこから三本の幹が上方で一体化したフォルムが立ち上がり、上方に鳥がいる。独特の韻律があって、ところどころエッジがつけられて、その手触りのようなものが繰り返されて響いてくるものがある。そばに馬に乗った少女がいる。馬の様子は漢代の俑を思わせるところがある。裸足の少女が馬に乗っていて、そのそばの樹木の上方にいる鳥などがお互いに呼応し、内的な部分でお互いが深い関係のなかにあるように思われる。そういったリズムというか韻律が画面から静かに聞こえてくるような、素朴な空間に注目。

 細野稔人「風を待つ」。左足で立って、右足をすこし曲げ、右手を後方に、左手を横後方に伸ばして、頭を傾けている。この彫刻のポーズを自分でやってみると、きわめて不安定な様子になり、ヨガのポーズのような印象をもつ。その独特の微妙なバランスが実はこの作品の魅力と言える。そのようなバランスをとることによって、「風を待つ」という題名のように、普段感じない周りの空間がより強く感じられる。何かを待つということのなかにあるのは、眠っているわけではなく、鋭敏に体全身でその来るべきものを待ち続けているといった、そんな強い印象がこの作品の魅力だろう。

 矢形勇「静」。横座りをしている女性のフォルム。ヌードであるが、素朴な道祖神を思わせるところがある。石膏で出来ていて、そこにある手触りもまた魅力である。この作者のもっている詩魂ともいうべきものがそのままイノセントにあらわれたような不思議な雰囲気である。股の前あたりに両手を置いて横座りをして遠くを眺めている女性。表情はあどけない。ウェストがあまりなく、胸から腰に行く動きに沿う両腕。そんな素朴な様子が道祖神のような光を放つ。あどけない表情は少女のようでもあるし母性的でもあるし、大地的でもあり、道祖神的でもある。

 日原公大「雲を摑む様な話よりあまりに早く走り過ぎて目的を追越してしまった男あるいは自刻像」。目的を追い越してしまったということが、体の上にある頭が逆様になっているところによくあらわれている。その顎にクエスチョンマークがつけられている。ワラビのようなゼンマイのような黄金色のフォルムがあらわれていてユーモラスである。ユーモラスと言うと、彼が踏みしめている豚の形がまたユーモラスである。大地の中から日本の昔話や桃太郎などの話を引き寄せながら、不思議な独特のストーリーを彫る。

〈野外彫刻〉

 飯村直久「森の音 ・」。U氏賞。石の半球状の八つのフォルムを組み合わせたものである。一種のシンメトリックな中に微妙に変化する動きが感じられる。上部が磨かれていて、周りは鑿の跡でざらざらとしているのだが、楽しい椅子がこの野外展示場に置かれているといった雰囲気である。触れる彫刻だそうだから、座ってみると楽しいかもしれない。その人を乗せて、空中に高く飛んで、静かに支えながら浮遊していくような、そんな不思議な情感、あるいは、イノセントでありながら、母性的な要素も感じられる。

 松本健志「風の刻 '12」。三つの丸太をすこし彫り込んで、エッジをつけて、重ねた雄大なフォルムである。左右に無限に伸びていく力を感じさせる。量感とそのような大きな動きのあるところが魅力。木というもののもつ力をよく引き出している。

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