美術の窓

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公募展便り(2012年6月号)

美術の窓 2012年6月号

第62回記念モダンアート展

(4月1日~4月15日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 加藤勝久「白い影―旅路―」。F型の横の画面の真ん中下方に白い柱があり、そこに毛皮の上衣が掛けられている。両側には杖とナイフ、枯れた長い茎をもつ植物、鳥の羽、貝殻。上方には壊れたオールのような、あるいは流木のようなものにドライフラワーになった植物の茎と葉が置かれている。柔らかな茶褐色の色彩。右上方から光が差し込んでいる。中心の柱の下方にはすこしピンク色が入れられて、ミイラになったヤモリが一匹。時間というものを画家は描こうとする。ドライフラワーになるまでの時間。使われた木材のこのような状態になるまでの時間。毛皮の上衣にしても、動物の皮をはいで作るわけだから、そこにも時間がある。それぞれにしみ通った時間を、ものを配置しながら静かに探っていく。上方に紙が壁にとめられていて、鉛筆によるジグザグの斜めの線が幾本か引かれている。そのグラデーションを確かめながら、時間の様子を探っているような微妙な気配が感じられる。時間というもののいわば神殿のような、そんな不思議な気配が深い情感を引き寄せる。

 中井幸一「オフィーリアの恋」。シェークスピアに出てくるオフィーリアは最後は正気を失って溺死する。ハムレットの心が追えないためである。オフィーリアの不安定な心象を黄、緑、白、黒の矢印で表現し、その向こうに蹲った女性のヌードを描く。具象と抽象によって心の闇を追う。

 石川忠一「Requiem〈鎮魂の象(かたち)〉」。画面の下方に(2009.3.2&2011.3.11)とあるから、今回の津波に対するレクイエムとその二年前の個人的な悲しみ、別れのイメージが重なっているのだろう。その柱のようなフォルムの上方に蓮の蕾のようなフォルムが現れ、そこには百合のような花が咲いている。その白い百合のような花は両手を前に組んで口をあけた人間のイメージと重なる。その口の中はブラックホールで、言葉で言い表せない悲しみの表現のようだ。ところが、その上方にピンクの色がさしてあり、その口のフォルムがそのまま花の蕾のようなイメージ、希望や癒し、再生のイメージと重なる。上方の月を思わせるような半円形の外側にオレンジや黄色が置かれているのも、そういったイメージだろう。そして、この柱の上方には包帯を巻いたような白いフォルムが見え、柱の向かって左側から右手が現れ、向かって右側には翼のようなフォルムが現れている。悲しみのために翼が垂れ、自分の胸を抱きすくめているようなイメージ。ところが、その柱の背後の紫色の色彩とその両翼のオレンジと黄色は、なにか黄金色の翼が徐々にあらわれてくるようなイメージもある。深い悲しみと希望、絶望と再生、二つの要素が絡み合いながら、独特のレクイエムと癒しのモニュマンとなる。

 海老塚市太郎「風と水と」。色彩が魅力で、それぞれの色彩が輝いている。オレンジ色は朝日を思わせる。青は深い水の流れを、白は水が上方に向かって大きな球形のフォルムをなし、その上方に、白い朝のようなイメージがあらわれる。空の中に光が満ち、きょう一日が始まり、また、暗い色面が表すような夜が来る。そんな一日一日のなかの時間を尊いものとして敬虔に画家は受け止めて、この不思議なコンポジションをつくった。水の惑星と言われる地球のもつイメージをこのように表現したと理解すると興味深い。

 鈴木田俊二「カスバの朝」。横長の画面の左に窓が描かれ、つがいの鳩が向かい合っている。右のほうの上方に小さな窓がある。それは黒からグレーのグラデーションである。夜が後退し、いま朝が来つつある。そんな時間帯。背景の茶褐色の空間もそのようなイメージの中に、つがいの鳩がお互いに会話をしながら一日の始まりを告げる。深い宗教的な心持ちをシンプルなコンポジションの中に見事に表現する。

4室

 野口眞木雄「残骸(鬼が棲む)」。鉄が錆びて、その鉄と石とがお互いに結合したような独特のマチエールの中に、人間の髑髏を思わせるようなフォルムが浮かび上がる。死の巨大な強いモニュマンと言ってよい。造形力、形象力の強さに注目。

 山田展也「風の景〈ケーソンにて〉」。三つのボックスが向こうに向かっている。ケーソンとは巨大な金属のボックスで、それを組み合わせながら防波堤をつくったり、あるいは海の中に沈めて建造物の基盤をつくったり、海中ケーブルのもとをつくったりする。巨大なその銀灰色の箱がずっしりとした存在感をもって向こうに続いている。その真ん中の箱の右の断面がすこし見え、向こうでは左の断面がすこし見えるように微妙に傾いているところが実に面白い。なにかこの銀灰色には厳粛なイメージが感じられる。その向こうに暗い海を思わせるようなフォルム。わずかに両側が湾曲するようなカーヴをなしている。上方には空があり、月が出ている。雲が浮かび、星が光り、流星が走る。今回の東日本大震災の悲惨な出来事に対するレクイエムの心持ちもしぜんと感じられる。たとえば福島原発をこのようなケーソンを積み重ねて囲いこみ、お棺をつくり鎮めるような、そんなイメージも感じられる。いずれにしても、このケーソン(箱)は人間の様々な魂や感情を入れてずっしりとした存在感を表すようだ。静かにこの光景の中にケーソンが光っている様子は実に魅力的である。画家の大地に根ざした独特の感情、あるいは信仰心につながるような、そんな感情がこのケーソンに込められているように感じられる。月の光を反射しながら輝くケーソンの手触りのある表現に注目。

 古川秀昭「祝された静物 2011─・」。横長の画面の中心にカラスウリが描かれている。バックは墨のたらしこみふうな表現。白い布のようなフォルムがその下方に置かれている。細い茎とカラスウリの黄土色や赤い色彩は独特のリズムとメロディをつくりだす。上方のたらしこみふうな空間の左右に金箔が貼られているのも面白い。一種幽玄の気配のなかに日本人の心のメロディが季節の中に鳴るようだ。そんな審美性に注目。

8室

 吹田文明「春の音」。大きさとポジションの違う球体がいくつも浮遊している。その中にところどころ小さな蝶のようなフォルムが飛んでいる様子が描かれる。左側にはだんだんと広がっていく花のような透明なフォルムが見える。背後は深い青の中に黄色く光るものがある。花弁の集合したようなフォルムは一種曼荼羅ふうで、それは広がりながらまさに春の到来を告げるのだろうか。季節のなかを時間が動いていく様子を、蝶の飛ぶ様子で表す。それはそのままはかない人間や生物の命をも連想させる。無常観を深い宇宙的な青が包み込む。

9室

 中村啓子「もう一つの時間」。F型の縦サイズの画面の中に長方形と正方形をとり、正方形を九十度回転させる。整然たる秩序の中にグレーから深い青までのグラデーションが色面として置かれる。黄色と青と赤がほんのすこし画面の左右に置かれている。薪能を思わせるところがある。夜の中に炎が燃え、静かに能が演じられる。そんな幽玄の気配が、この抽象的な画面から感じられるところが面白い。

11室

 赤穂恵美子「光波」。染織作品である。青のグラデーションの中にネット状の柔らかく光るフォルムが捺されている。それがまるで宇宙の中を浮遊する不思議な発光するクラゲのようなイメージで描かれていて神秘的である。ところどころ星を思わせるような球形が置かれているのもミステリアスである。

18室

 阿蘇千鶴子「飛翔」。ダイナミックなフォルムの躍動感が面白い。中心に黒と白によって鳥の嘴を表すようなフォルムがシャープに置かれている。その両側に波打つようにカーヴするフォルムが、飛ぶときの周りの空気や空間の広がりを感じさせる。背景は青のグラデーションで、そのグラデーションの斜めに傾いたフォルムが飛翔し、空を飛ぶときの大地の傾きをしぜんと連想させる。そういう実感的なものをベースにしながら強いムーヴマンとモニュマン性を表現しているところに注目。

ギャラリーA

 村上保「机上と共鳴する円環の笛」。正方形の厚みのあるテーブルの一角に円形がとられ、その中にはもう一つの円が置かれ、その中が柔らかく膨らんでいて、六つの切り込みが入れられている。反対の方向には四つの切り込みが置かれ、そのほうの四辺形の隅は階段状に切り取られている。この机全体があるメロディを出す楽器のようなイメージでつくられているのだろうか。あるいは、この乾漆を思わせるようなマチエールをもつ彫刻は、大地のもつ歴史を表現し、古代の音色を静かに聞かせるようなイメージでつくられているようにも感じられる。手ざわりのある大きな方形のテーブルを思わせるようなフォルムが、そのまま大地や遺跡のイメージと重なるように感じられる。

 広井力「いのち・LIFE」。金属の円柱。その上の面にS字形の切り込みが入り、半円形のフォルムがすこし立ち上がる。球の中にS字形を切るとウロボロスという図像が生まれて、時間が静止し永遠が訪れるというが、それにすこし似たような形象である。不思議な強い動きと、時間が永遠化されたようなイメージが、ずっしりとした円柱の中に表現される。内側に充実したエネルギーが入り、それが二つの半円形として立ち上がりながら、お互いに拮抗しているような、独特の雰囲気である。

第16回日仏現代国際美術展

(4月1日~4月6日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 大成恵「燿萌」。植物の芽や花弁のように柔らかなカーヴするフォルムが連続しながら中心に向かい、はるか向こうまで続いている。柔らかな青緑色の空間の中にピンクを帯びた花のような色彩が連続し、優しいメロディをつくる。深く人の心を癒すような、そんなイメージを感じる。癒しの光が画面の中にたたえられているところが興味深い。

 干田晴美「連関と異次元の風1203」。東京都知事賞。斜めに様々な青のヴァリエーションが構成されそのなかに柔らかな緑、ところどころ黒や黄色の色面が入れられている。それがお互いに呼応しながら深い奥行きを表す。空は青いときもあれば、くすんでいるときもあるし、暴風雨のときもあるように、様々に変化するが心も同様である。そんな心の不思議さが空間に投影されてあらわれてくるようだ。

 白尾勇次「状況 3─11」。壁の裂け目から津波のあとの悲惨な陸の状況が見える。青い海がいまは静まり返って、水平線まで続いている。壁の横に墨で描いた視界の見通せない混乱したようなフォルムがあらわれている。原発事故の終わりのない情況などをしぜんと連想する。日本国民の不安な心象をそこに描く。その心象とコンクリートの壁にあけられた景色とがお互いに呼応しながら、強い深い感情世界を表現する。また、この壁は復興一つにしても、様々なそれを阻むものがあらわれてくるような、日本の困難な状況をも暗示する。詩人の素質をもつ画家らしいエスプリのきいた画面である。

2室

 安藤香子「In the moonlight」。奨励賞。植物のあいだから黒ヒョウのような生き物がこちらを眺めている。周りの丈の低い植物のディテールをしっかりと描いて、それを拡大しているような趣で、その中にこの黒ヒョウはいる。上方に大きな月が下りてきて、この光景を照らしている。あやしいロマンティックなイメージ。黒ヒョウは画家自身を投影した存在のように感じられる。墨と黄金色との扱いもすぐれている。

 塩崎淳子「早春歌」。会員優秀賞。結跏趺坐し、左手で印を結び、右手を動かしているバラモンの僧侶のような雰囲気である。仏教というよりヒンドゥー風なイメージが感じられる。あやしさの中に人を引き込むようなエロスの力が感じられる。線によるクリアなフォルムが、強いムーヴマンを呼ぶ。

 後藤陽子「山の上の楽園」。グレーのモノトーンの中に様々な女性たちを描いて楽しい。百人ぐらいの女性たちが描かれているようで、裸の人もいれば、衣装をつけている人もいる。中心に滝があり、その池の中につかっている人がいるから、滝は温かく、その水は温泉のような温度をもっているのだろうか。一瞬雪景色を思わせるような雰囲気なのだが、独特のそのグレーに温かみのあるところが、この楽園のテーマとよくフィットしている。それぞれの女性のフォルムが生き生きとしている。

3室

 岩松是親「3・11 祈り」。名誉総裁賞。下方に瓦礫になった地上の様子と青い海。上方に漆を思わせるような漆黒の中に銀の箔を置いて、一枚の葉。そのあいだは白く塗られている。上方の墨の部分はガラス絵。下方の風景はキャンバスに描かれている。そういった工夫もよく生かされて、新鮮な印象を覚える。上方の漆黒の中の一枚の銀色の葉はまさに祈りの象徴として、強いメッセージを発信する。日本人は植物との親和力が強く、植物を生かすことが、そのまま復興のイメージと重なる。

 ライネルト寿美子「AM4:00」。バックの紫やオレンジ、ピンクなどの色彩の中に異様な人間が立っている。首をぐっと長く下げて、悩ましい表情。午前四時、そろそろ夜明けも近いが、眠れない。そんな身悶えするような心象をしぜんと連想する。左下方に女の子のようなフォルムが立っている。その悩ましい心の中にある純粋なある感覚、詩人的な性質がその線描きのフォルムに感じられる。意識の内部に下りることによって悩ましい、あるピュアなものを引き出そうとする。

7室

 井山庄司「扉」。扉というのは不思議なものである。内と外を分ける。この扉は六つのパートによってできていて、左の下の二つのパートが重なってもう一つの小さな扉をなし、すこしあけられている。背景のグレーに対して、この黄土系の色彩がひんやりとした独特の柔らかな雰囲気をつくる。すこしあけられた扉ということだけで、微妙なイメージを喚起する。

 小林多恵子「大漁旗はためく」。はためく大漁旗の下に海に働く人々が集まっている。今回の津波に負けるなといったイメージ。深い青い調子の中に人間たちの肌が黄土色に彩色されている。上方の空の青は寒風が吹きすさぶような、そんな雰囲気だが、地上に行くに従ってだんだんと温かな雰囲気のあらわれているところも面白い。

8室

 久下奈利子「或る日の室内」。名誉総裁賞。テーブルの上に小さな房のある果実、あるいは花、ピンクの瓶のようなものも描かれている。台は紫で、バックはグレー。静物の向こうは白。それを黄金色の色彩が囲む。詩情の風が画面を吹く。

 橋本清一「夕日の帰り道」。パリの一隅だろうか。道がT字路になっている。その突き当たりの壁が柔らかな黄土色で、向かって左の側面の上方に黄金色の色彩が使われている。右上方から沈みつつある光が差し込んでいる。その光が懐かしく悩ましい。手触りのある壁や地面の様子。幾たびかこの道を歩いたことによって、建物も道も温かな独特の性質を帯びる。また、建物自体に、そこに住む人々の気配がしみ通っている。歴史のあるパリの一隅の夕日のすこし差し込む情景を、深い感情の中に表現する。道がすこしぬかるみのような雰囲気になっているところも、なにか悩ましい。

9室

 大久保岱影「開霽」。新作家賞。軸装の作品である。上方の津波が押し寄せてくるようなフォルムの中心が濃い黒で、その墨色があやしい。すべてを呑み込んでくるような、恐ろしい不気味なイメージが表現される。

第71回水彩連盟展

(4月4日~4月16日/国立新美術館)

文/高山淳・磯部靖

1室

 安達智行「道標(稜威)」。石の台座から湯気のようなものが立ち上り、上方には満月が浮かんでいる。台座と満月の間には空間が広がっている。深い闇から青みがかった色彩へのトーンの変化が実に繊細である。輝く月の持つ幻想的な気配が、死者の魂を導くように静かに画面に満ちている。そういった深い精神性が強い魅力を獲得している。(磯部靖)

 吉田勝美「生きる」。春日部たすく賞。籠(バッグ)を持って向かって右のほうに歩む女性。籠の中から大きなたくさんの花が顔を出している。左のほうには不思議な風が吹いている。そこに頬杖をついている女性がいる。その女性は線によって表現されている。線による右手の形や伏目がちな女性の顔の表情などは見事である。右の歩んでいく女性のその時間の流れ。過去から未来に向かう時間が左のほうのグレーの風として表現される。そこに物思いに沈む女性の姿が線描で描かれる。まさに題名のように生きるということの意味を静かに問う。水彩らしく紙を生かしながら薄く絵具を置く。それによって透明感があらわれる。その透明感をうまく利用しながら、時というものの不思議さを表現する。(高山淳)

 天野仁「車を停めて」。ふと車を止めて見えた風景を、心象的に描いている。透明感のある水色から灰白色、そして僅かな黄土系の色彩が、センス良く扱われている。爽やかな風が画面の中に吹いているような心地よさがあり、ふとその前で足を止めてしまう作品である。(磯部靖)

 忠隈宏子「兆」。渦のような形象が大きく広がっている。やや青みがかった灰色が、滲むように彩色されていて、その色面が深い奥行きを持っている。バックは明るく、太い線が伸びている。真下には黄緑の道が見える。どこか不穏な空気を孕みながらも、一縷の希望を託したようなイメージを感じる。強い抽象性の中にある忠隈作品特有の求心力に惹き付けられる。(磯部靖)

 中村英「からくり考 刻の過ぎゆくままに」。メリーゴーラウンドは、しぜんと追想に人を向かわせる。あるいは、未来に対する思いがしぜんと浮かんでくる。メリーゴーラウンドの回転する木馬はそういった時間というものの象徴のように考えられる。その馬を画家はこの画面の中に引き寄せた。深いイメージである。白馬が前に疾走してきているのだが、ゴール直前になって急に立ち止まったような雰囲気である。なぜならば、この世の中のゴールは死の意味なのだから。終着の線のところに一人の不思議な人間が立っている。グレーと白と茶褐色によって色分けされた不思議な存在である。画家はこの絵を描くにあたって、ふと自分の残り少ない人生や死というものを意識したのではないか。この絵はそういった説明をするのではなく、あるインスパイアされたイメージが描かれている。死というものがまるで雷鳴や稲光のように生を照射する。その稲光によって照らされた生の姿をまざまざと、ゴールに立つ人形のような人間の姿によって表現したというように考えられる。バックは深い闇である。白いストライプの線がいくつも上下にある。それぞれの人生がそこにあるわけだが、やがて終点がくる。そんなイメージを稲光の中に表現した。(高山淳)

 川村良紀「祈りの森」。紫を中心としてそこに緑や青の色彩が重ねられて、深い空間が生まれている。その中に白い小さな点々が可憐な花のように感じられる。地上の世界が天空と重なる。天空の空は曇っているが、その中にところどころ星がまたたく。そういった天と地と呼応するようなイメージを透明水彩の中に表現する。(高山淳)

 椎名捷子「明日へ」。画面いっぱいに画家の美に対する想いが溢れている。ハープを大きく描き、その周囲に色とりどりの花や蝶が描かれている。淡い色調でそれらを描きながら、ゆっくりとした動きを孕ませている。希望という言葉を思い浮かばせるような、優しい音楽とともに描かれたポジティヴなイメージが魅力である。(磯部靖)

 渡辺愛子「日本人の物証―端糸」。糸をボール状にまとめる老人の手を大きく描いている。現代ではあまり見ることがなくなった作業であるが、そのしっかりとした揺るぎない手つきが、確かな写実力で描かれている。背後には振り子が大きく揺れていて、長い時代の流れを感じさせるところも興味深い。(磯部靖)

 小沢一「幻想」。荒谷直之介賞。画面の手前にビルが建ち並び、背後にはさらに背の高い建物や船のようなフォルムが幾つか見える。手前はグレー系と奥は茶系と色彩を変えている。画題にあるように、どこか幻想的な作品である。無機質なモチーフを淡々と描いているようで、繰り返す直線の中に独特のリズムを作り出している。作品の中で経過する時間を現実のものと乖離させたような雰囲気が特に記憶に残る。(磯部靖)

 小櫃英子「晩夏」。損保ジャパン美術財団賞。やや斜め上からの視点で、化粧台を描いている。化粧台には和人形が置かれていて、その周囲にも化粧瓶や観葉植物、マガジンラック、椅子など様々なものが配置されている。画面全体は緑の色彩を基調にしながらまとめられていて、それぞれのモチーフのかたちや存在をしっかりと捉えている。窓から差し込む陽の光が画面全体を明るく照らし、室内のゆっくりとした時間の流れとともに鑑賞者を作品の中へと誘(いざな)うようだ。やわらかなフォルムの扱いもまた魅力である。(磯部靖)

 羽根田英世「甦る風景」。文部科学大臣賞。過去から甦った記憶の中の風景といった印象を持つ。すだれの向こう側に広がる茶畑のような風景、すぐ手前には向日葵やトウモロコシが見える。滲むような真夏の風景が鑑賞者のノスタルジーをそそる。遠くに見える入道雲が、そういったイメージを活性化させているようで印象的である。(磯部靖)

2室

 小林容子「きざし」。春を待つ草木の風景が繊細に描かれている。淡い調子で色彩を扱いながら、寒さの中に少しの温かさを感じさせているところが特に魅力的である。手前から奥へと続く距離感や枝の伸びやかな様子など、確かな絵画的センスも感じさせる。(磯部靖)

 岩堀紀美子「ロハス通り」。二つの背の高い建物に挟まれた場所に小さな露店がある。たくさんの品物が並べられていて、見ていて楽しい。露店の上方の空にはカゴの付いたパラシュートがゆっくりと飛んで行っている。まるで夢の中の出来事のような、イメージ豊かな作品である。主役である露店をビルの間に挟み、あえて小さく描く構図で画面を構成しているところも、おもしろい演出である。(磯部靖)

 中道文雄「脇本浜追憶(B)」。会員推挙。一人の少女がフラフープのような輪の中でジャンプしている。右脇には白い風船の付いたランドセルが置いてあり、左下には切り株に猫がこちらに背を向けて座っている。遠景の丘には家屋が数軒見え、空には満月が浮かんでいる。少女の跳ねるリズムによって、このしーんとした気配の漂う画面の中に独特の調子が生まれている。不思議な永遠性と幼い少女の躍動感が静かに対比されるところにおもしろさを感じた。(磯部靖)

 岡野亮介「Day」。大きな樹木を画面いっぱいに描いている。その根元に向かって横断歩道が手前から伸び、人々が歩いたり立ち止まったりしている。遙か遠景には街並みやまた人々の姿が見える。大なるものと小なるもの、人間の小ささがありありと描かれている。人類がどれだけ栄えようとも、数千年の時を経て生き続けている大樹の圧倒的な存在感がそれを凌駕する。そういった説得力を作品の中に引き寄せる画家の筆力に感心する。画面の下方手前にそっと描かれた百合の花が、しかし儚く小さいものにも美しさがあるという逆説的な意味を持っているようで興味深い。(磯部靖)

 太田昭「夕焼け黒富士」。富士を望む港の情景をこの画家特有のタッチで描いている。富士と海面は暗色であって、それ以外は赤く染まったような金で描かれている。その強いコントラストが印象的である。港の部分に様々な風景や人物が描き込まれているところも、どこか蒔絵を思わせる様でおもしろい。画家の自由なイメージが富士という日本のシンボルをこのように活性化させて描き出したところがおもしろい。(磯部靖)

 松林廣子「巣 ('11)」。無数の枝を幾重にも重ねて作られた鳥の巣が大きく描かれている。その中には鳥や卵はなく、空き缶などが入れられている。明るめのグレーの調子で整えた画面の中で、黄や朱の色彩が小気味良いアクセントを与えている。また、巣には白と黒の羽が一枚ずつ添えられている。この巣を世界が凝縮された一つの小宇宙と思わせるような、陰と陽の静かな対比を想起させる。鳥の巣をモチーフにしながら、生命の起源に還るようなイメージを感じさせる。(磯部靖)

 末永恵美子「ライにて(英)」。街角の風景を素朴に描いている。手前から奥にアーチを抜ける道が続き、その両脇には家屋がある。やや調子を落としたグレーを基調色にしながら、この風景に入り込んでじっくりと描ききっている。ここに暮らす人々の生活の匂いを感じさせるところが特によい。(磯部靖)

3室

 堀江優「十字架の救いにあずかった最初の人々」。画面の真ん中に青い柱があるが、その上方に三人が磔刑にされている。中心はキリストで、左右は罪人である。ルカ伝によると、その罪人の向かって左側の男はキリストに奇跡を見せろと叫んだそうである。向かって右のほうは、われわれは罪人なのだから、そんなことを言ってはいけないと言ったそうである。その二人の罪人がスポットライトの中に浮かび上がる。下方には十字架と共に歩むキリストに従った女性たちの姿が描かれている。その中から百人隊長の姿、キリストの奇跡を目の当たりにして改心した男の像が、朱色の色彩の中に浮かび上がる。驚きのなかに左手を胸に当て、右手を上にあげた姿である。面白いことは、その男の周りに青い暗い光があり、その横の女の人の中に黒い影が描かれていることである。キリストは十字架にかけられて、いわば人類の罪を償うように死んで人々を救済しようとするわけだが、そのキリストのもつ不思議な力がこの女性たちの中には深い黒々とした影のように描かれている。聖骸布というものがある。キリストの死体を覆った布にキリストの顔が浮かび上がる布のことであるが、中心に黒々とした聖骸布のようなイメージがあらわれていることに筆者は驚く。或いはその影はキリストと我々との深い断絶を表わすのだろうか。そのような底しれぬ味わいが感じられる。(高山淳)

 岩脇哲也「哀悼の像」。シチリアで見た彫刻からインスパイアされた。死んだ男を抱きかかえる天使の像である。脱力した人間を抱きかかえ、息を吹き込むような天使の像。まさに今回の津波によりたくさんの死者を日本人は経験して、画家はシチリアで見た像を画面に引き寄せた。その像をそのままクリアに再現すれば単なる彫刻の写生になる。その上をオブラートで包み、深い情感をつくりだした。天使の両翼が実に強い印象でこの画面の中に描かれているところが面白い。死者は脱力しているわけだが、その動きのないフォルムに対して、二つの翼は再生、不死といったもののイメージを激しく画面の中に表す。そのあたりが彫刻をテーマにしながら、画面の上に画家のつくりだした創造である。(高山淳)

 森治郎「古代感性の詩」。平安朝には継紙というものがあって、紙を継ぎながらそこに文字を描いたものである。そういった継紙ふうなフォルムと扇面ふうな形。そして帯のようなもの。それは時間というものの連鎖を表すようだが、そういったフォルムがあらわれている。そして、平安時代からだんだんと時間がたって琳派の時代があらわれる。琳派の波涛文がそこに捺される。上方に宗達や足利屛風にあらわれる月が大きく描かれる。このフォルムは横に動いていくが、月の背後の黄金色の光は上下を貫通している。日本の大和絵から始まり琳派で終わる独特の時空間が、画家独特のアレンジの中に表現される。今回の作品の面白いところは、そういったフォルムの上下に墨のたらし込みふうな色彩が置かれていることである。それは筆者には死のイメージだと思われる。たくさんの人々が生き死にを繰り返しながら歴史が続いてきたわけだが、今回の津波の衝撃がその歴史の中の死のイメージを浮かび上がらせた。死の中から喜びや生や美しさが生まれる。戦国時代は常にそのような死を間近に見ながら、生の輝きをうたった時代である。死は当たり前であったから、生のみが描かれていたわけだが、この平成の時代に津波という大災害を経験して、あえてこのフォルムの上下にたらし込みふうな死の世界を置き、それによってより輝くような黄金色、青、緑の色彩を画家はちりばめた。(高山淳)

 森相實「風の原っぱ」。雑木林がコンテによって表現されている。そこに風が渡っている。上方にカラスが群れている。カラスは地面の上にも十数羽いて、動いている。そばに枯れ木がある。コンテによる線が実にあやしい。そこに蠢いているものがある。画家は深い記憶の中に入っていくようだ。筆者はこの雑木の風景を見て、画家が生まれ育った日暮里の風景を思い起こした。筆者にとって日暮里から上野風景は実はたいへん親しいものであるから、なおさらそのような印象を受けたのかもしれない。空は紙の色彩を生かしながら淡彩である。地平線近く淡い朱が入れられている。深いノスタルジックな色彩である。この樹木や手前の倒れた枝にしてもすべてが記憶の中からあらわれてくる不思議な生き物のように思われる。その意味では、たとえばイヴ・タンギーなどを思わせるようなシュールな気配がある。空気を描きながら画家はイメージの中に深く入っていくかのようだ。その意味では空気を描きながら、きわめて濃い心象の中に仏画のようなイメージを引き寄せたと言うことができるかもしれない。そこには来迎してくる仏の代わりにカラスが空を飛び、地上を動いている。コンテの線が悩ましい。繰り返されるコンテの線がある時間というものの連鎖を表すように思われる。そして、風が静かに吹いている。その風は時間を背負った謎めいた存在として画面の上にあらわれる。(高山淳)

 越野邦夫「白い花のある情景」。お盆の時、迎え火を焚いて霊を迎え、送り火で霊を送るという古代から連綿と続いてきた日本のお盆のことを思い起こす。上方には、迎え火と送り火とが重なったような不思議な光がある。その光が花となって筒形の花瓶の上に輝いているようだ。あるいは白い花は魂が集合し輝いているようにも感じられる。上方に仏のフォルムと思われるものが浮かんでいる。曼荼羅の中にあらわれてくるあの仏のイメージが、上方に静かに浮かび上がる。下方にたくさんの死んだ人があらわれている。そして、上方の花の下方の翕(がん)と思われる矩形の黒い空間の中にも仏があらわれる。森羅万象がここに集い、生と死が合体し、人々の生を癒すようだ。親鸞を教祖とする浄土真宗的なイメージが、このしんしんとした青い空間の中にあらわれているように感じられる。(高山淳)

 柳田昭「胎動」。薄いカーテンが地面に降りてきていて、そこにズダ袋が一つ置いてある。この画家特有の繊細で精緻なタッチによって、強いリアリティが作品に引き寄せられている。色調を抑えめにしながら、自身のイメージを表現する確かな説得力がある。(磯部靖)

 坂田快三「郷愁」。雨後の田んぼから奥の民家を望む風景である。その向こうは山に立つ樹木で埋まっている。モノトーンに近い色彩の中で、田んぼの水面に映った青空が清々しい。奥の民家はじっくりと描き込まれていて、味わい深い佇まいを見せている。画面全体で深い情感を湛えた風景である。(磯部靖)

 白井洋子「'12 生」。画面の手前に木製のキャビネがある。その上にパンとワインを入れたグラスが置いてあり、白い花がそっと添えられている。背後は、箔を貼って調子を付けた暗色である。パンとワインはキリスト教的な思想を連想させるが、どちらかというと昨年の震災をはじめとする様々な悲しい出来事への鎮魂のように感じられる。画面の大半をとった大きな空間に、そういった画家の強い想いが漂っているようだ。じっくりと画面を描き込みながら、鑑賞者に強い余韻を残す作品として注目した。(磯部靖)

 古川みどり「卓上風景(・)」。黒いテーブルを大きく描き、その上に瓶やグラス、レモンを乗せている。背後は明るい灰白色をしっかりと塗り込んでいる。モノトーンの色彩の中で、レモンの明るい黄色が輝くようで印象深い。グラスや瓶などを淡々と描きながら作り出したリズムによって、軽快なテンポが生まれているところが興味深い。(磯部靖)

 飯田怜子「刻 ・」。準会員推挙。長い時間を経た煉瓦造りの壁を大きく描いている。右手前には一本の樋(とい)が上下に伸びている。シンプルな画面構成だが、その壁の持つ豊かな表情に惹き付けられた。下方は剝落し、右側の部分には苔が生えて少し緑がかっている。長い時間を作品の中に閉じ込め、煉瓦と樋の直線によって、その壁にいきいきとした存在感を与えているところが特に良いと思った。(磯部靖)

 阿部進「家路」。広い草原を蛇行しながら伸びる道が奥へと続いている。茶系の色彩で逆光になった画面をまとめ、どこか寂しげな雰囲気を作り出している。情感豊かな風景に強く引き込まれるようだ。(磯部靖)

 吉田政巳「雪解けの頃」。奨励賞。雪が溶けて水浸しになった地面に接近するように描いている。水面は奥に立つ雑木林や家屋を映して、実に豊かな表情を湛えている。丁寧に画面作りをしていっているところに好感を持つ。特に残雪の細やかでやわらかな描写に注目した。(磯部靖)

4室

 西原幹「日常生活」。画面の中央に緑色の車を描き、その手前にブルドッグ、右奥には廃屋が見える。バックは灰白色になっていて、画家がこの作品を描くにあたって様々なものを削ぎ落とし、感覚を研ぎ澄ませながら描いていっているような印象を持つ。車一つ見ても長く使われてきた時間や人の気配を感じさせるところがおもしろい。奥の廃屋もまたそうである。確かなデッサン力と余白をしっかりとった画面構成が、そういったイメージにリアリティを与えているところもまた見どころの一つである。(磯部靖)

 坂口かほる「春暁」。画面いっぱいに白い花を咲かせた樹木を大きく描いている。その根元には水芭蕉の花が咲いている。春のあたたかな陽の光を浴びて、周囲の雑木林に囲まれながら咲く花々は、神々しささえ湛えているようだ。やわらかな筆の運びによって描かれたモチーフの存在と、その生き生きとした輝くような色彩が特に魅力である。(磯部靖)

 小髙悦子「いすみの自然」。「いすみ」というのは画家の住んでいる土地の名前である。水の上に樹木が鬱蒼と茂っている。そして、下方の水の中にもうひとつ向こうの世界があらわれてくるようだ。自然の中に深く入りながら、不思議なもう一つの浄土的な世界を手前の画面の上に静かに浮かび上がらせる。それが下方の青い独特の不思議な空間のように感じられる。この作品も画家が自分の日常の中から創造した、今回の津波に対するレクイエムの表現のように思われる。(高山淳)

5室

 宮﨑礼子「吉野ヶ里幻想―レクイエム―」。深みのある青い色彩によって彩色された画面の中に一艘の舟とそれに乗っている横になった鷺が描かれている。周囲はキラキラと輝くような気泡が飛び交っている。鷺は横になって首を舟の縁にもたれかけている。鷺はすでに亡くなっていて、この舟に乗ってもう一つの世界へと運ばれていくかのようだ。そう思って見ると、周囲の気泡の一つひとつが魂のように感じられる。作品の中に漂う静謐な気配とともに、故人に対する画家自身の深い祈りをじっくりと描ききった作品として印象に残った。(磯部靖)

 田内康敬「希望への道」。力強いタッチで路地を中心にした街の一角を描いている。手前には自動販売機があり、その向こうが十字路、家屋と続いている。ぐいぐいと鑑賞者を惹き付けるような魅力がある。コクのある色彩の扱いもまた作品を印象的なものにしている。(磯部靖)

 鈴木新「朝市」。朝早い時間の市場の風景である。周囲は影になって薄暗く、画面の中央が最も明るくなっていて、そこに様々な青果が置かれている。鑑賞者の目を誘導するようなその画面構成である。描かれた人々はそれらの周囲で店員と売り買いのやりとりをしていて、賑やかな雰囲気を感じさせる。洗練された描写力によって描かれた安定感のある作品として注目した。(磯部靖)

 菊池満子「バランス」。高く積み上げられた古雑誌や新聞紙の束を、縦長の画面に描いている。画面のちょうど中央あたりに長い棒が挟まっているところがおもしろい。それによって、もともとの緊張感にさらにもう一つの不安定な要素を加えているようだ。暗色をバックにしたところもその緊張感に空間的、心理的な奥行きを作り出しているようで興味深い。(磯部靖)

 村田恭一「珊瑚の島で」。荒れ果てた廃屋をモチーフに描いている。茶褐色の色彩によって、少しずつトーンを変えながらじっくりと描ききっている。立体的な画面構成を違和感なく描き出す筆力に注目した。(磯部靖)

6室

 古田瑩子「秋の風」。画面の中央に一輪車に乗った二人の人形が浮かんでいる。周囲は木立に囲まれている。お互いに会話するかのように描かれた人形たちの浮遊感が、どこか妖精的な要素を感じさせる。落ち着いた茶系の色彩でまとめられた背景は、画題にあるように秋の様相を呈している。人間の目に見えることはないが確かに存在するこの二人の動きが、画家の確かな描写力によって生き生きと伝わってくる。(磯部靖)

 石橋美名子「ライツェ・ストリート」。活気のある大通りの様子が色彩豊かに描かれている。細やかなコラージュをうまく使っているところも効果的である。伸び伸びとした線の扱いも相俟って、見ていて気持ちの良い作品となっている。(磯部靖)

 夏川節子「集い」。気ままに動く四匹のシャム猫が描かれている。猫は丸テーブルや椅子の周囲で遊んでいるようだ。猫のシャープな線がテーブルや椅子の細い線とうまく響き合っている。そういったセンスの良さが今回特によく伝わってきた。(磯部靖)

 滝田一雄「室内にて」。椅子に座った女性を一人描いている。女性は朱の衣装を着ている。周囲には紫や黄、青、緑といった様々な色彩が溢れている。室内の様子をそういった色彩によって、鑑賞者にイメージとして伝えてくるところがこの画家特有の表現である。特に今回は、屋外の風景的な要素も多く入り込んでいるようだ。豊かなイメージの世界が鑑賞者を魅了する。(磯部靖)

7室

 小川小夜子「C₉H₁₃NO₃」。強い抽象性によって作品が描かれている。中央やや右の楕円を中心に、黄や青、白、茶の色彩が少しずつ入れられている。また、ところどころ小さな黒い点が見える。僅かに揺れるような動きがある。そういった中に人肌のようなぬくもりが感じられるところが興味深い。色彩的センスの良さを感じさせる。(磯部靖)

 冨家昭雄「創造都市計画図」。矩形の色面を組み合わせながら、街の風景を描いている。そのきびきびとした線の様子が気持ちよい。赤や青の原色を効果的に使いながら、それらが配置される密度に強弱を付けて、見応えのある画面を作り出している。(磯部靖)

 内村幸子「無韻の詩」。暗色の中にぼんやりとした灰白色の色面が浮かび上がってきている。その上にさらに暗い円がいくつか描かれている。その円それぞれがお互いに響き合うように浮遊しているようだ。どこか夜の静かな街を思わせる雰囲気が感じられるようで印象に残った。(磯部靖)

8室

 酒井敦彦「7月21日からの30日の間」。円形の画面に抽象性を強く孕んだイメージが描かれている。上方に朱の色彩が輝くように入れられていて、下方に行くほど掠れて淡くなっていっている。所々に入れられているにじみやぼかし、シャープな線が過去の記憶をたぐり寄せて描いているように感じさせる。どこか不安な要素も感じさせながら、確かな求心力を持った作品として注目した。(磯部靖)

 岸本恵美「ブルーの日」。ウルトラマリン系の青が深い色調を醸し出す。上方にビリジャン系の緑が入れられている。青い馬に乗った男が二体。それは下方にも描かれている。ドアがある。車が空に引き寄せられる。お皿から植物がいま伸びている。黒い窓の向こう、もう一つの、窓の外の風景が描かれる。室内に室外の風景を引き寄せる。画家は自分自身の心象空間の中により深い、いわばオゾンや酸素のような、そんな空気を引き寄せようとするかのようだ。つまり、一つの空間の中によりクオリティの高い心象としてのレベルを表そうとする。それによって色彩がより深く、より輝かしいものになる。人形が立っている。人形は暮らしていく人々の不特定多数の象徴のように感じられる。夢をもちながら過去と未来のあいだを過ごしていく。ほとんど周りには自然はなく、室内で瞑想せざるをえない現代の生活の中に画家は自然を引き寄せながら、その想念の中から一つの若葉を育てている。そのような深いイメージが鑑賞者を引き寄せる。(高山淳)

 黒田真由美「レクイエム」。津波に対するレクイエムのイメージだろう。上方からあふれてくる水のイメージであるが、それが不思議なことに女性の母性的なトルソのようなイメージと重なる。さらに言うと、それが不思議な月の光のようなイメージと重なっているところが面白く思われる。日本人にとって「死を視ること帰するが如し」という言葉がある。死は懐かしい国に帰る、母なる国に帰るという意味だが、そんなイメージなのである。それがベタついたものでなく、透明な色調の中に表現される。死を癒す、そんな深いイメージがこの不思議な作品に感じられる。あらわれてくる音楽は深い。すべてを抱えこんで癒す、いわば声明のような宗教音楽が画面から静かに聞こえてくるような雰囲気をもつ。筆者にはどういうわけか、ちょうど平等院の阿弥陀堂のもつ、あの不思議なイメージをこの抽象形態から感じる。(高山淳)

 小木曽文子「MY WAY」。深い暗色の画面の中に津波に流された被災地の様子が両側に浮かび上がってきている。それは記憶の断片といってもいいかもしれない。記憶は時間と共に薄れていくものではあるが、消したくても消えない記憶もある。そういった鑑賞者の記憶と深くリンクするような作品である。大胆な画面構成の中に、誠実な画家の心象が見え隠れして興味深い。(磯部靖)

 宇佐美眞弓「景(my memory10)」。会員賞。モザイク模様を思わせる独特の画面構成である。コラージュなどを巧みに使いながら、掠れるように細やかな矩形を散りばめている。赤、青、茶などが画家のイメージによって様々な風景的要素を獲得している。そのイメージの強さによって画面が成り立っているようで印象深い。(磯部靖)

 萩山信行「散歩するかたち White fusion」。永井保賞。グレーのトーンで画面をまとめている。どこか恐ろしい雰囲気を醸し出しつつも、画面全体をじっくりと練り上げてまとめている。細やかな筆遣いにも注目した。(磯部靖)

9室

 古谷幸明「グレーの壁・少女の行方」。会員推挙。何度も絵具を重ねながら、描いている。画面の大半は明るい灰白色を基調に、うっすらとピンクや黄が入れられていて、表情豊かである。画面の下方には、物語の一場面を思わせる様子が描かれているようだ。そういった画家のイメージの世界へ鑑賞者を誘(いざな)うような画面構成と、それを描き上げる情感豊かな筆遣いに注目する。(磯部靖)

10室

 宇野満寿美「月の雫(しずく)」。上方に大きな黄色い満月が見える。その前に電線が掛かっていて、母さんカラスと三羽の子供のカラスがシルエットとなってとまっている。とくにいちばん左側のカラスとお母さんとの会話は愛らしく、ほほえましい雰囲気である。下方には灌木がある。その中は月と同じように黄色く彩られている。大きな葉がそこにたくさん球体になるように置かれて、朱色や青やベージュなどの色彩に彩られている。一部その葉は下方に落ちている。まるでそれは満月の光を受けながら輝いているような雰囲気だし、満月そのものが地上に下りてきて、球体となって、この丈の低い樹木を内側から輝かせているようだ。鎌倉時代に来迎図という、仏が眷属を従えてお迎えにくる仏画がある。そのような神的な存在がこの地上に下りてきて、その眷属の代わりに葉を様々な色彩に彩らせているような、そんな雰囲気が感じられる。満月をバックにした上方のシルエットの三羽の子供と一羽の母カラスの雰囲気も、自分が幼少の頃の思い出が月を背景にして浮かび上がったような雰囲気がある。誕生と死と二つの世界がしぜんと描かれている。空海に「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで生の終わりに冥し」という言葉があるが、その両端の世界がこの日本独特の柔らかな月のイメージを伴ってあらわれてきたような、実に深い印象を受けた。(高山淳)

 山口洋子「道 ・」。犬を抱いた女性がこちらに向かって歩いてきている。背後に見えるのは津波の跡だろうか。物思いに耽りながら歩いているような女性の表情が強く印象に残る。悲しみを通り過ぎた後の無感動とさえ思う。いずれにせよ、瓦礫を背景にした大きな孤独感と犬を抱くことによる小さな、しかしそれでもあたたかな温もりがじわじわと伝わってくるようで印象深い作品である。(磯部靖)

 原田睦乃「Visitor」。楕円形の池を二つ俯瞰するような構図で描いている。手前の池には赤い鯉が泳いでいるようだ。その池の周囲には蓮の葉や石が見える。シンプルな画面構成の中に、独特の情緒がある。そこに白い鳥がやってきたようだ。日常の中のふとした出来事をこのように心象的に味わい深く描いているところがおもしろい。(磯部靖)

11室

 新藤千鶴「宙」。空に太陽が浮かび、雲が黄金色に輝いている。ピンク色に染まった空は朝焼けだろうか。太陽は満月とイメージが重なって、朝焼けの向こうに月がだんだんと沈んでいくような雰囲気もある。あるいは、日本の鎌倉時代の来迎図に出てくる月のような、観音の化身のようなイメージも感じられる。深い心象風景である。(高山淳)

 田辺伝「厳冬平野を行く」。男が一人そりに乗っていて、それを馬が引いている。辺りは雪原である。凍えそうな空気の中をただ無心にそりを引く馬の姿がたくましい。遠景には海が見える。少しずつ前に進んでいくその動きや重量感が、しっかりと描かれてもいて、見応えのある作品である。(磯部靖)

13室

 古根益生「海辺の被災地」。大きくカーヴする海岸を描いている。手前から道が左へ曲がり、その先は崩れてしまっている。画題にもあるように津波の爪痕のようだ。上空には少しだけ陽が当たって明るくなった雲が広がっている。その様子がどこか神々しい。海岸もまた同じように輝いている。被災者の魂を天上へと導くような、そういった画家のメッセージが込められているようで興味深く思った。(磯部靖)

 松永佳江「早春」。雑木林を画面いっぱいに描いている。細く伸びやかに立つ樹木の繰り返しが小気味良いリズムを作っている。茶系と緑の深い色彩を中心に描いているが、その中にあるあたたかみがこの作品の見どころである。まだ空気は冷たいものの、生命の胎動を孕んだ樹木たちの様子がじっくりと描き込まれている。(磯部靖)

14室

 いけだかずこ「パリの夜 ・」。賑やかな街の大通りを高いビルから眺めるように描いている。周囲の建物は青系の色彩でしっとりと描かれているが、その大通りは明るい赤や黄で描かれている。その強いコントラストが鑑賞者の目を惹くようだ。遠景までしっかりと描き込んでいて、ドラマチックな作品となっている。(磯部靖)

 樋口三千代「悠久の光」。たくさんのトマトが地面に置かれている。すでに腐食して潰れてしまっているものもある。赤やオレンジの色彩、それぞれのトマトの形などがよく捉えられている。陽の光が上方からそれらに当たり、さらに表情豊かな様相を作り出している。確かな描写力によって描かれた佳作である。(磯部靖)

15室

 河合謙臣「時を刻んできた街」。独特のフォルムを象(かたど)った建物が積み重なるように繰り返し描かれていておもしろい。茶やグレー、黄の色彩を少しトーンを落として扱っている。長い時間この場所にたち続けるそれらの存在感が鑑賞者に深い余韻を残すようだ。(磯部靖)

 平林幸子「マザーズ tree」。特徴的なデフォルメによって、裸婦を立体的に描いている。特に顔の左右に付けられた大きなバラの花の集まりが印象的である。女性の持つ母性というものを独特の解釈で印象的に造形したところに注目する。(磯部靖)

 髙野勝子「午後の嵐」。自転車に乗った金髪の女性は、籠の中にワインとフランスパンを入れている。その朱色の衣装に魅力がある。神話の中に出てくる神様のようなイメージを、画家はこの女性に与えている。背後の建物も面白く、その前に瓶やガラス器などを売っている店がある。その中の一部には写真がコラージュされていて、そのディテールが画面全体のアクセントとなっている。風が吹いている。その風は画家のイメージの風である。この画面はどこの場所でも、どの時間でもない光景となっているところが、とくに面白く思われる。背後の建物は時間というものの中から浮かび上がってきた、ある歴史を背負った存在。旅の記憶の中から画家はこの不思議な心象風景をつくりだした。(高山淳)

16室

 中島光榮「蝶の舞う丘」。近景に花が咲き乱れている。その一つひとつの花が蝶に変じて上方に浮遊していくような、ファンタジーが描かれている。中景は緑と川との色面による。そして、川の向こうの草原に色とりどりの屋根をもつ建物が描かれている。遠景には雪の積もった山。そして昼の月がいま半月となって浮かび上がっている。自然をテーマにした美しい表現である。とくに近景の花がそのまま蝶となって浮遊するという、その表現の面白さに引かれる。それに対して中景から遠景にわたるポジションのしっかりとした空間の組み立てが、手前の幻想を支えているところもよいと思う。(高山淳)

17室

 河村純正「この道」。手前から奥へと続く林道を爽やかに描いている。上方から差し込む陽の光が、キラキラと輝くようだ。細やかな筆遣いもさることながら、ポジティブな色彩もこの画家らしい扱いである。清々しい空気が鑑賞者の側にも流れてくるかのようだ。(磯部靖)

19室

 黒尾文「飛んでねしゃぼん玉」。四人の子供がシャボン玉をして遊んでいる。その愛らしい様子が印象的である。透明水彩をじっくりと重ねながら描いていて、その魅力を存分に発揮したような作品である。(磯部靖)

 平川二三男「失われた刻」。津波の後だろうか、右手前に崩壊した建物が大きく描かれている。壁や鉄筋などの様子は見ていて痛々しいが、その様子は力強くしっかりと描かれている。無機質なものが恰も生命を持ったような強い存在感が感じられるところが強く印象に残った。(磯部靖)

 木下由美子「静物(・)」。テーブルの上に花や人形、バイオリンなど様々なものが置いてある。明るい黄緑の色彩を中心にしながら、モチーフへの画家の愛情がしっかりと描き込まれているようだ。柔らかい線の扱いによって、密度のある画面の中でうまくそれらが描き分けられているところが特によい。(磯部靖)

第71回創元展

(4月4日~4月16日/国立新美術館)

文/高山淳

1室

 谷貝文恵「モンタージュ」。椅子に座っている女性。スケッチブックのようなものを持っている。柔らかなベージュの肌。二つの手の指の表情が面白い。背後に三人の女性が踊っている。それぞれがピエロのような雰囲気で、そのような仮面、あるいは衣装をつけて踊っている。画家にとって社会的現実というものは仮面をつけたピエロのような演技をすることになるのだろうか。日常に対して深い想念のなかに沈む一人の女性。いずれも画家の自画像と考えて差し支えない。テーブルの上にはワインボトルとワイングラスが置かれている。今回の作品には緑がたくさん使われていて、緑がオリエンタルな神秘的な調子を醸し出す。西洋と東洋との中間に画家はいる。そして、絵を描くということを考える。そんな自分自身をテーマにしながら、それを内向させずに、ある開いた空間の中に画家は表現する。最近行ったイタリアのイメージもあらわれているようだ。明るいベージュの色面から暗いインディゴふうな色彩までのヴァリエーションの中に、緑や黄土などの色彩がちりばめられて、いわば室内楽といったメロディが繊細だが力強く画面から聞こえてくる。

 沼田久雪「蒼いノクターン」。ホルンが逆様にテーブルに置かれている。その逆様になった音の出てくるラッパは音譜を押さえている。孤独なデコイが一つ立っている。背後にはグランドピアノのシルエット。ピアノとホルンとの協奏曲。そんなメロディの中にひとり静かな想念のなかに画家はいて、その自分自身をこの一本足のデコイに象徴しているようだ。明るい部分はベージュで、暗い部分はビリジャン系の色彩。二つの色彩のデュエットのなかに懐かしいメロディが聞こえてくるようだ。

 林田博子「鎮魂『友の家流る』」。東日本大震災で一つの町がすべて崩壊したところもある。漁船が浜の上に打ち上げられたところもある。そういった様子を背後に描きながら、一つの船を描く。帆船である。その帆の上に壊れた建物の家屋のイメージを画家は描く。切なく激しいイメージである。キリストの顔を写したと言われる聖骸布を思わせるような、この長方形のマストの布の上に浮かび上がるものは、悲惨な現実である。倒壊した家屋である。電信柱が傾き、その柱から電線が伸びていく。電線は心と心を結ぶ、そんな媒介として画面の中にあらわれている。様々な想念が錯綜する中に、悲しみが表現される。

 小柴悦子「解体 et 創造」。古いキャンバスを使ったのだろうか。画面のこの正方形の内側からしわがあらわれてくる。そのしわをつぶすように激しく暖色系の色彩が塗られている。ライトレッド、バーントシェンナ、カドミウムレッド、ブルー。立ち上がってくるフォルムの向こうに通路があり、窓があるようだ。窓と呼応するように、その近景に一つの大きな目が描かれる。その一つの目は何を見るのだろうか。向こうにある窓の上方は白く輝いて、そこに青い十字が捺されている。ステンドグラスの趣である。その十字のある窓は過去からくるものか、未来に向かうものか。過去と未来のせめぎあい、二つがクロスするところに巨大な目が現れ、画家自身を照らし出す。画家はその中間にいて、このような絵を描いた。何かを目的があって描くのではなく、もっと激しく深いところから、心の井戸から画家はイメージをくむ。そんな不思議な心象風景に注目。

 福島保典「沈黙」。三人の人物が描かれている。顔は白く、あるいは黒くつぶされて、表情は見えない。黒、褐色、ベージュ、灰白色。それらは深々と色彩を吸い込みながら、呼吸をするようだ。そういう意味では剝落した壁画を思わせるようなところがある。時間に晒されてなお立ち上がってくるイメージ。その沈黙のなかから画家は自分の詩魂というものをまさぐろうとする。

 石井洋子「或る情景」。損保ジャパン美術財団賞。頭のないマネキン。そばにデコイがあり、手が伸びている。棒が斜めに画面の上下を横断する。赤茶色の古い壁を思わせるような色彩が背後に塗られている。長く時間が経つことによって、立ち上がってくるイメージがある。フェイクなものが現実以上に鮮やかに画面に浮かび上がってくるという画家のイメージが興味深い。それらは時間に晒されたような灰白色の色彩で彩られている。それに対して赤茶色は時間と感情の密度を表すのだろうか。

 前田潤「想」。柔らかなベージュのハーフトーンのバックというか、すこしくすんだボックスの上に石膏の首が置かれ、それを黄土色の布が包んでいる。ドライフラワーの薔薇が一輪、上方に伸びていく。正方形の色面が壁に散らされて、そこに曖昧な人間のイメージがあらわれる。まるで能舞台で静かに演じられるような幽玄な気配があらわれる。時間というものの不思議さを画家は描く。

 倉林愛二郎「刻 12」。白いシーツの上に黒紫色の櫃のような箱がいくつか置かれている。白い壁に男性の背中を描いた絵が置かれているが、そのそばに兵隊の時の同期生のような写真が貼られている。手前に老婆が座って手紙を見ている。画家に取材すると、画家の父親は戦争に行って亡くなったそうである。母親は現在九十を超えて存命である。そのあいだに生まれた子供が敗戦後六十七年たって、このような、いわば歴史のモニュマンのようなコンポジションをつくりだしたことに感銘を受ける。シーツが白々と輝く。まるで敗戦後六十七年、戦争がなかったかのような現代の白々しい風潮を表すかのように。なによりも、画面全体に温かな雰囲気のあるところに惹かれる。とくに手拭いで頭を覆い、手紙を読む老婆の雰囲気は、懐かしい。

 小川尊一「東雲」。夜明け前の空を背景にして二人の女性が描かれる。これまでも繰り返し描かれた舞台である。古い発電所がバックになっている。それに対して若々しい二人の女性が対照される。正面向きの女性とすこし背中を見せた角度から描いた女性。背中を見せる女性は左手を上げて何か祈っているようだ。若い女性の未来に対する希望。それに呼応するようにいま朝日が上がってくる。それに対して発電所の古い、ほとんど朽ちつつある建物。未来に対する若い女性の夢のような雰囲気と朝日は同様のシチュエーションにあるわけだが、それを支えるこの発電所は古く、たとえばこの女性の祖父であったり、ひいおじいさんであったりするような雰囲気である。そんな時間のドラマを画家は表現する。

 古賀英治「水溜り」。地面の上に水がたまって電信柱を映している。そこに潜水用具を並べて描く。このシリーズも長くなった。水圧にも持ちこたえられるだけのずっしりとした堅牢な潜水具が、日常の地面の上に置かれることによって、独特のニュアンスを醸し出す。その潜水用具の重量感に対して、水たまりに映る電線や電信柱は軽やかである。軽やかな空の天気の移り変わりと深く水の中に潜っていくという二つのイメージが、濡れた地面の上に対照されて面白い。

 奥田敬介「ブーツを履いたトルソー」。文部科学大臣賞。白い壁に白いテーブル。そこに頭は除かれた女性のマネキンが紫の衣装、黒いブーツをはいている。そばに古いラッパが置かれ、古いミシンが置かれている。熊のような人形が座っている。座っているその台は古書である。白いバックが歴史を照らすようだ。この紫の黒いブーツをはいたトルソーの背後に舵輪が掛けられている。その舵輪は時間を航海する舵のようだ。

 西正則「時は遷り…ゴッタルディ商会」。ヴェニスの光景である。何年か前に行ったヴェニスをモチーフとして新しく構成した。運河の緑の水。白い壁。レストランか、赤い覆いのようなものにゴッタルディという文字が金字で置かれている。下方に鉄の柵のある窓がある。壁は白く輝く。丹念に塗りこまれたマチエールは手触りがある。その絵具の層はヴェニスの長い歴史の層を表す。二千年近い歴史をもつヴェニスという街の歴史を照らし出す光を描きながら、日本の京都を思わせるような懐かしい雰囲気を描く。

 松崎良夫「江ノ島」。海の上にかけられた橋の歩道を人々が歩いている。向こうには島があり、展望台があり、下方にはホテルがある。静かに波が寄せ、白い雲が空に浮かんでいる。空は徐々に曇ってくるのだろうか。ほの明るい光景の中にパースペクティヴを強調したシャープなコンポジション。すみずみまでクリアなディテールがこの作品の魅力である。

 島田六郎「刻」。コンテナの塗料がはげて、内側から鉄の赤錆が出ている。そばにスコップとバケツがある。いずれも古びている中にコーラのような缶が一つ、新しい。長く錆びるまでの時間、いまという時間が対比される。赤い缶が光を受けてキラキラと輝いているように感じられるところが面白い。

2室

 本村浩章「昇陽」。風景は茶褐色に、空はオレンジ色に彩られている。今太陽が昇りつつある。雲は茶褐色のシルエット。風景のバロックふうな表現と言ってよい。地上の水に朝日が映り輝いている。

 山岸忠彦「画室」。サザエ。ゆでられたマツバガニ。カニ。燻製になった干物。ランプ。テーブルが黄土色に染められて、砂浜を思わせるような色彩と空間の広がりが面白い。時間の謎を示すような車輪が背後に現れる。面白いのは、左に男の裸の後ろ姿が現れていることである。その姿はやはり今回の津波という災害に遭遇して、人々を励まそうとする画家の心持ちが引き寄せたものなのだろう。

 大橋義男「トレド」。トレドのパノラマである。茶褐色の色彩を大胆に激しく配置しながら、全体で独特の動きのある、広がりのある空間が生まれている。

 守屋順吉「行人(スバシ故城)」。シルクロードのキジルなどの壁画からインスパイアされて、画家はそのイメージを描いてきた。仏とその従者。壁にはカモシカや飛天、鶴、鳥、花、樹木などが描かれている。フォルムと色彩がまるで古代の壁画の残欠のように画面の上にあらわれる。悠久たるシルクロードのロマンを思う。

 工藤和男「朝凪」。漁師が、右手は手鉤をブリのような大きな魚の口元に当て、左手は尾を持って立っている。そばの青いバケツにはタイやサバなどの魚が入れられている。岸壁にはエイがいる。いま漁船が帰ってきて、網の中にたくさんの魚がいて、それを下ろそうとしている。それに作業をする三人の男。一人の漁師の全身像を画面の前景に立てて、背後に三人の漁師を置く。そして、水平線がすこし斜めに輝いている。白い雲が浮かぶ。労働する漁師のモニュマンを画家は力強く描く。個的な何々というわけではなく、労働讃歌といった普遍的な漁師の働く姿のモニュマンである。絵画的にはそれを描くためのそれぞれのディテールが生き生きとしているところが、この説得力を生む。三角構図になっているところも注目。三角構図によって労働讃歌が安定したコンポジションのなかに表現される。

 島﨑庸夫「アムステルダム」。アムステルダムの有名な飾り窓の女をテーマにしている。上方に白い肌の娼婦が右手を上げながら横目で客を引いている。上方に悲しい顔をした娼婦がいる。それを冷やかす男。帽子を見ると僧侶のようだ。カトリックの神父が遊びに来ている。日本も京都の祇園の最大の客は僧侶だといわれている。権威を身にまとった人間のその傲慢さ、いやらしさを画家は描く。それに対して常に弱い立場のほうに画家は立つ。女性たちの哀愁のある表情がそれを表す。僧侶はカメレオンのように舌を出して、舌の先が巻いている。シニカルでユーモラスな雰囲気である。顔がオレンジ色に染まって、アルコールが入っているようだ。そういった僧侶対娼婦との関係のあいだに、赤い色彩が炎のように塗りこまれている。僧侶の後ろ側に恨みがましい女性の顔が浮かび上がる。僧侶の妻かもしれないし、僧侶に虐げられた一般市民やあるいは家族なのかもわからない。独特の寓意性をダイナミックなフォルムを組み合わせることによって表現する。赤のバックが渾沌として、強い心象を表す。太い緑によって隈取りされたフォルムがあらわれる。上方の女性のイメージに引きつけられる。

 三村浩二「バロックの古街道」。直線によって画面を分割する。屋根、壁、柱、窓。そこに光線が差し込む。明暗の色面があらわれる。どこかステンドグラスを思わせる。右のほうに教会の正面が描かれている。教会をベースに置いた建物と道の様子はいかにもヨーロッパの街である。透明感が色面にあるところが魅力である。唯一、教会の扉がアーチ状に一部円弧になっているのが、アクセントとして優れた効果を上げる。

 黒田保臣「砕石場残雪」。断崖の下に工場がある。工場の下はまた断崖になって、そこは海が迫っている。垂直と水平のきびきびとした構図が繰り返される中に、作品のダイナミズムが生まれる。ベージュやグレーを主調色とした中に原色の赤や黄色、青などが輝くところも魅力。

 並河委佐子「河岸の家」。川のそばにいくつかの建物が面している。家は傾いている。あいだを階段が通っている。一階の部屋の外に洗濯物が干してある。白、青、赤の色彩が全体の暗いグレーのトーンの中に鮮やかである。生活のうたともいうべきイメージを画面に構成する。水彩であるにもかかわらず、マチエールが強い。繰り返し絵具を重ねることによって、コクのある色彩の輝きが生まれる。

 池上わかな「ツインズ」。アルバムのようなものを広げて座っている女性。そのそばに二羽の青い鳥が飛んでいる。二羽の鳥はつがいのようで、お互いにラブコールをしているようだ。それを眺めるこの女性は、やがてそのようなパートナーが来ることを予感して眺めているようだ。たとえば受胎告知というテーマはルネサンスで繰り返し描かれたが、同様のコンポジションだと思う。暖色系の色彩を駆使しながら、一人の座っている女性の存在感と空中に浮かぶ二羽の鳥の呼応する様子を描きながら、画家は静かにある寓意を表現する。

3室

 大島和芳「イブラの丘・朝」。俯瞰した構図である。赤い屋根に土壁のような建物が続いている。その方形の立体感のあるフォルムを組み合わせながら、強い力学的なコンポジションをつくりだす。遠景は山の樹木の中にのぞく建物が点々と続いている。近景に白いパンジーが花瓶に差されている。日差しを受けて周りを白く、中を紫色に輝かせている。上方の古い建物のもつ立体感と強いムーヴマンに対して、手前の静かに置かれたパンジーが対照されている。パンジーの様子を見ると、鎮魂のようなイメージも感じられる。人間の長い営為と歴史を感じさせる中世の街。様々な事件があったと思われるが、それに対してきょうの平和を祈っているような趣が興味深い。

 荒木栄喜「春望」。点描によるしっとりとした表現である。色彩が静かな輝きを放つ。茅葺きの二つの民家の周りに樹木がその枝を広げ、葉をつけている様子。手前の田圃はまだ田植えはされていない。野原のそばに小川が流れる。背後には山がある。それぞれの色彩が静かに呼応しながら、平和なイメージが永遠化される。

 柳沢千代見「工場」。工場が描きこまれている。絵具の層が厚い。それによって、このほとんど黒白の色彩が内側から静かに輝く。大きな工場の建物と二つの煙突。手前の黒い水はそれを映しているが、深く内面を眺めているような趣がある。外形がそのまま内景に重なるようなユニークな表現である。

 大木美智子「夢」。赤い球を持ったピエロ姿の女性。黒と白の市松状のズボンや腕の文様、そこに黒い上衣のようなものを着ていて、帽子を見ると、ジョーカーの姿をしている。謎めいている。人生や運命の不思議さをこのジョーカーは象徴しているようだ。何か不思議なことを語りかけてくるような、そんな雰囲気もある。大きな目を見開いて下方を眺めるその顔の表情が魅力的である。全体に女性らしい柔らかな曲線でできているところも独特である。このジョーカーは、鑑賞者を子供の頃に引き寄せるような力もあるように感じられる。

 松島明子「午後のおつかい」。籠に野菜を入れた若い女性が、赤茶色の髪をした子供の手を引いている。後ろはミニマーケットと看板があるように様々な食材が置かれている。白い上衣の男のそばの犬。あいだの道を犬が駆けている。暖色系の色彩を中心に置きながら緑や青を入れて、日常の中の詩、あるいは歌のようなイメージがあらわれる。シャンソンが聞こえてくるような雰囲気もある。

 高田宏「Wine's Counter」。カウンターの上にはワインボトルとワイングラス。カウンターの向こうには女性が立っていて、手前には赤ワインの入ったグラスを持つ女性が立っている。そばにぼうっと霞むような花籠が置かれている。ワインバーの室内の薄暗い光線の中に二人の女性が浮かび上がる。不思議な雰囲気で、独特のロマンティックなメロディが流れる。

 原田守啓「壁」。瓦屋根と白い漆喰の壁。壁の内側から基礎である煉瓦があらわれている。そばに水が流れている。中国の南部の水郷地帯の光景のように感じられる。一つひとつ手で触るように描きながら、ヒューマンなデフォルメがなされる。建物がそのまま全体で一人の人間のような表情を示す。

4室

 大田孝子「信じて(2012)」。青い上衣に青いスカートをつけた若い女性が座っている。足を組んでいる。それを縦長の画面の中に、すこし小さめに全身を入れている。マチエールが魅力である。画家はこの女性のそばに寄り添うように感情をこめて表現している。肌の色が独特で、内側から光が滲み出てくるような、そんな雰囲気になっている。震えるような線によって輪郭線をつくる。背後に海や建物のようなイメージがあらわれていて、津波によって困難な状況にある日本人のコンディションを、この一人の女性を通して表現したように感じられる。

 中島洋一「作品 ・~充満」。円弧が繰り返されて、独特の波動が生まれる。まさに題名のようにエネルギーが充満しながら画面の内側から膨れ上がってくるような、そんなエネルギーが興味深い。

 坂本ふみ「赤い屋根の町」。ピンクの屋根に白い建物が朗々たるハーモニーをつくる。あいだに植物の緑が置かれて、明るい日差しを受けながら色彩が歌うようだ。フォルムが線によってつくられていて、その線のお互いの関係のなかに独特のメロディがあらわれる。

 宮本悟「黒い海」。子供たちが海を眺めている。その背中の様子が二十人近くあって、独特の情感があらわれる。暗い海には合掌する人や破船して転倒しつつある船などが描かれている。幻のように上方に白い船が描かれているが、それは陸に上げられた船である。今回の津波に対する深いレクイエムをこのようなコンポジションに表現した。とくに下辺の後ろ姿の少女少年の姿が実に魅力的で、独特の絵画性を表す。亡くなった子供たちの霊もそこに引き寄せられているかのようだ。

 小林真由子「蒼い街」。準会員賞。しっとりとしたトーンに惹かれる。青みがかったグレーによって彩色されている。白いビルの下に低い建物があり、その建物はすこし傾いている。東日本大震災の恐ろしいイメージが、この背後にあるようだ。低い建物がまるで弱い人間のように感じられる。

5室

 田畑明美「港の休日 A」。赤い空。手前には花瓶や花。斜面。旗が靡く。岸壁の上に置かれた黒い船。今回の津波の大惨事から新しい町を、希望をつくろうとする、そんなイメージなのだろうか。赤が強く深い感情をあらわして使われている。その圧倒的な赤の存在感に対して、くすんだ緑や黄色が繊細なハーモニーをつくる。強調された遠近感が、希望とか憧れといった心象を表す。

 土佐マサ子「予感」。画面全体から弾むような心持ちがあらわれてくるようだ。周りのすこし黄土色を帯びたグレーからだんだんと明るい黄色のほうに、あるいは白く輝くほうに明度と彩度が上昇してくる。黄色に斜線の引っ搔きがつくられている。題名のように予感とか希望といったイメージを面白く抽象的に表現している。

 石村純「ひととき」。オレンジ色、あるいは赤茶色の大きな色面に独特の安心感がある。描きかけの絵や花瓶に差された花や西洋梨などが置かれている。そばに若い女性が座っている。それぞれのものを象徴的に扱いながら、全体を呼応させリズムをつくる。どこか室内楽を感じさせるような雰囲気がある。上品な色彩とフォルムのハーモニーのなかに音楽的な効果があらわれる。

 馬場豊「記憶」。壁に亀裂が走り、そこから目のようなものが浮かび上がってくる。亀裂は過去の記憶を徐々に浮かび上がらせるようだ。人間の記憶の古層から新しいものまでが炙り出しのように浮かび上がってくる。それに加えて、自分自身を超えた歴史的なイメージもあらわれてきているようで面白い。

 渡辺利恵「No.79」。黒い中に白でフォルムがつくられる。龍か鬼かわからないが、恐ろしいものが現れて、襲いかかってくる。それに対して抵抗する手。爪がブーメランのように手前に近づく。高層ビルやエレベーターの中で下を見ているような遠近感のなかに、恐ろしいものの襲来をダイナミックに表現する。

 中田博「CAFE」。コーヒーを入れる若い女性。そばにもう一人の女性がいる。衣装の赤と青とが鮮やかである。フォルムを色面として扱いながら、独特のデフォルメが行われている。その形態感覚に注目した。

6室

 佐藤セツ子「閑日」。古い教会のような建物の前にリヤカーが置かれている。教会の窓。石段を上がって入っていく入口。大きな茶褐色の花瓶の上に黄色い花が咲いている様子。深い敬虔な心象風景である。

 桜井孝子「背中合わせ」。ヴィーナスのトルソーが茶色いテーブルの上に置かれている。後ろのベージュの壁にこのトルソーの後ろ向きの木炭デッサンが貼られている。あいだに三角定規。台の上にも三角定規や円柱、球などの石膏が置かれている。あいだにマンリョウを思わせるような赤い小さな実のなった植物が置かれている。柔らかな光が画面全体から感じられるところが面白い。ほとんどベージュのモノトーンのようであるが、上品で、ある気配が静かに画面から伝わってくる。

 高木順子「刻」。コンパネのような壁。上方から縄によって吊るされたサケのような魚。右下方にはブロックのようなものが置かれて、そこにワインボトルと青いグラス、本などが置かれている。それぞれのフォルムのエッジが空間と接するところを強調することによって、フォルムのダイナミズムが生まれる。サケの周りの空間と下方のブロックの上の空間とのあいだに大きな空間が生まれ、その空間に独特の緊張感があらわれる。空間がある存在感をもってあらわれているところが、この作品の魅力である。

 坂本澄男「雪の里」。道があり、中景に雑木林があり、その向こうに棚田があり、集落があり、背後に向かって雑木が立ち並び、遠景に山が霞んで見える。そんな山里の風景をパノラマふうに表現している。近景の両側のすこし道より高くなったところの、おそらく田圃と思われるフォルムなどのディテールがとくに優れている。ディテールがお互いに組み合いハーモナイズする。中景のあたりにスポットライトのような光が当たって白く輝いているのも面白く、何か懐かしい気持ちに鑑賞者を誘う。

7室

 小野寺正光「矢切緑風」。江戸川の水が静かに流れている。白い船がそのあいだを人を乗せて渡っている。渡し舟であるが、ヨーロッパの一風景を見ているような、そんなモダンな雰囲気がある。両側の緑と静かな水とその船の様子とそこに乗る人々が大切に愛情深く貴重なものとして表現されている。風景によるポエジーと言ってよい。

 水野美智子「マテーラ(洞窟の街)」。朝の光線なのだろうか。すこし青みがかった光がこの街を照らしている。すみずみまで光が到達し、深い静かな陰影をつくる。マテーラの洞窟に穴居した頃は一万年ぐらい前で、その上に現代の建物も作られている。重層的な歴史をそのまま表すような街の雰囲気と光線がしっくりと組み合っているところが魅力である。いちばん上方のモダンな建物の斜面を光が黄金色に染めているのも魅力だし、憧憬といった心象を喚起させる。

 増田優子「街」。会員賞。一種フォーヴィックなタッチでぐいぐいと絵具をのせながら街をパノラマふうに表現し、暖色系の色彩を駆使しながら独特の音楽的雰囲気をつくる。

 服部譲司「安曇野緑風」。畦道と田植えを終えたばかりの田圃。その緑の玲瓏(れい ろう)たる変化が生き生きと描かれている。上方にはアルプス連峰が幻のように浮かび上がる。緑の優しい色彩の変化とほのかな光がそこに当たっているような雰囲気。また、ヴァルールが的確であることにプロの手腕を感じる。

 石川賢「レクイエム」。演奏会の風景である。チェロを弾く人がいちばん手前にいる。背後にはグランドピアノを弾く人。そばに喪服を着て座って、その音色を聴いている人がいる。レクイエムの不思議な画面を画家はつくりだした。近景には花束があり、そばに鳩がいる。茶褐色の暖色系の色彩が温かい。チェロ奏者の音色に沿って周りを鳩が歩いたり羽ばたいているような様子。チェロを弾く男性の後ろの三人の人は、亡くなった人の像なのだろうか。画家はそういった深い心象をこの群像の中に巧みに表現する。

8室

 多胡忠文「走 ・」。数頭の馬が騎手を乗せてこちらに走ってくる。ダイナミックな動きを心の中に温めて表現する。

 岡本竜之「caféのある漁港(伊勢志摩市)」。伊勢は水産物のおいしいところだが、その昔ながらの漁港の様子を色彩豊かに表現している。岸壁には船があり、あるいは船が動いていて、その向こうには素朴な民家があり、耕した畑などが見えるが、それを独特の色彩で表現している。

9室

 塩井俊介「つかの間の安息」。そばにリュックサックがあって、ドアの前の石に男が腰を下ろして居眠りをしている様子を、感情をこめて表現している。手の先、あるいは靴の様子、鼻や目の表情など、ディテールが強い。

 髙塚照恵「旅愁」。座蒲団の上に座って糸を巻いている女性。南米のアステカ文明のような絨毯を敷いている。後ろに白い壁がある。この六十歳ぐらいと思われる女性は、笑いながらこの糸巻きをしている。なにか懐かしい雰囲気で、戦前の日本にもあった光景のように感じられる。全体に大きなムーヴマンがあって、そのムーヴマンがこの仕事をする女性を活性化させている。衣装の青とそのあいだの前掛けのような赤、黒、グレーなどの色彩、あるいは絨毯の赤、黒の不思議な文様などが脇役としてよくきいている。襟に彩られた赤、白、緑、青などの様子は、美しい宝玉のようにさえ感じられる。素朴な伝統的な衣装をまといながら、糸巻きという作業をする女性の温かな肖像である。

 大竹綾乃「追想」。紙飛行機が飛んでいる。そばにブランコの影が映っている。それだけのシチュエーションによって一枚の絵を構成する。画家が光景の中に深く入って、一種念力のような力を発揮しているところが面白い。空間自体がある存在感をもって迫ってくるようだ。

11室

 山中さとゑ「カナダ・初秋」。緑の傘を立てて、楽譜を前に立ててヴァイオリンを演奏している男性。白い帽子をかぶっている。バックは、湖があり、その向こうはすこし斜面になっているところに紅葉した樹木が色とりどりに並び、あいだに白い建物が立っている。ヴァイオリンを弾く人間と周りの湖や風景とがイメージの中で一体化しているように感じられるところが面白い。独特の色彩家である。画家の夢のような想念、エキゾティックな旅愁とも言うべきイメージがあらわれているところが面白く感じられる。

 古賀登美子「椿」。ずいぶん塗りこまれて絵具の層が厚い。すこし離れてみると、椿が点々と咲いていて、強い印象である。比喩的に言うと、椿の赤い花々がまるで星座のように構成されているという言い方もできるだろう。

 東英司「雪里」。水彩の作品。川があり、田圃があり、家があり、山がある。家は色とりどりの屋根で彩られている。裸の低い樹木が立っている。雪が降っている。ふるさとの童謡がそのまま絵になってあらわれてくるようなナイーヴアートふうな表現に注目。

 小川原浄「高原待春」。斜面に雪が積もっている様子をしっかりと描いている。ところどころ樹木による柵や杭などが置かれているのがアクセントになっている。

 森本茂盛「船溜り風景」。断崖の下に建物がいくつかあり、船が引き揚げられている。浜辺である。そんな様子を独特のコクのある色彩によって表現する。

12室

 大窪久明「春爛漫」。木造の校舎の前に卒業写真のような学生服の写真が貼られている。一瞬見て、強く惹かれるものがある。桜が散っている。懐かしい同窓生たち。一緒に学んだ木造の校舎。イメージが結晶するようにあらわれてくるところが魅力。

13室

 矢澤順子「葦原」。葦が群生する向こうは、川というより、小さな入江のような雰囲気である。その向こうに建物や低い山が見える。全体、緑がかった青い調子で統一されている。しっとりとした調子のなかに静かに色彩が輝く。水墨画にふさわしいようなテーマであるが、油絵のもつ強いマチエールや粘着力がこの風景のイメージをつくるのに有効に役立っている。実景が深い心象風景に変ずる。

19室

 西崎正見「モン・パリ」。石段を下りていくと細い路地になり、両側に建物が立ち並んでいる。その階段の上から眺めるという視点が面白い。そして、建物のはるか向こうには白いサクレクール聖堂の屋根が見える。左から光が当たり、右は明るく、左は影になっていて、独特のミステリアスな雰囲気のあらわれているところも面白い。

20室

 児玉哲子「それぞれの猿達」。水彩作品である。子供をお尻の上にのせて四つ足で歩く猿が後方にいる。手前の猿の背後に母親らしい猿がいて、もの思わしげで、子供のほうは笑っている。その手前には三匹の猿が俯いて何か口に入れる動作をしている。そんな猿のそれぞれの様子を生き生きと力強く画家は表現する。この猿の群生するところに通いながらデッサンを重ねた結果だと思われるが、ユニークなテーマをよく表現している。

21室

 操田智也子「赤い大地」。アフリカの男女と思われる若い人間の肖像と言ってよい。地面に立ったその全身を描いて、独特の生命感をつくりだす。

22室

 遠藤正雄「孫娘」。木製の椅子に座った少女を画面上下いっぱいに入れている。オレンジ色などの色彩の扱いが面白く、生き生きとしている。その色彩によって少女の生命感を輝かせる。

24室

 品田稔昭「悠久の古代人」。エジプトの壁画からインスパイアされて、それを水墨ふうに表現しているところが面白い。

25室

 福間悦子「雪眩」。道に雪が積もっている。右はすこし地面が高くなって、その向こうに建物が見える。点々と樹木が立っている。そんな一光景をしっかりと表現する。樹木の影も作品のイメージをつくるうえで役に立っているし、すみずみまで見て、一つひとつディテールをおろそかにせず描き込もうとする姿勢に好感をもつ。

28室

 松浦藍「在りし日のゆくえ」。奨励賞。筆力がある。広場に若い女性が座っているが、そのフォルムが生き生きとしている。対象に接近する力が魅力である。広場には材木でつくった馬のような人形が二つあって、少女時代を思い出すようなノスタルジックな雰囲気がある。広場に伸びる樹木の影もなんとなくあやしい。

 田面木宣夫「希望(1)」。奨励賞。少年が立って、そばに蔓のような植物の巻きついた枯れかかった老木がある。手前にはケシのような花がある。ずいぶん内面的な作品である。気配が濃厚で、植物の命とこの人間の命と重ね合わせて、ともに相まって内側から生きていこうとする、そんなエネルギーを感じる。この人間のフォルムが面白く、少年のようにも老人のようにも思えるところがある。少年と老人の二つの時間に両足を置いたところからあらわれてくるイメージで、どことなく生命の切なさを感じる。

 喜舎場紀代子「暦日」。会友賞。荷車が描かれている。大きな車輪と板の台。それが逆さになったかたちで描かれている。背後には石畳の階段や石造りのヨーロッパの街がある。しっとりとした気配に吸引力がある。

 柴崎喜朗「滑車のある風景」。奨励賞。下方に滑車がぐるぐる回っている。上のほうには抽象化した楕円がある。独特の詩情を感じる。グレーのニュアンスに豊かなものがある。

 平野克巳「断崖の街」。奨励賞。グレーに暖色系の色彩が入れられている。その色彩によって断崖の上の建物が続くヨーロッパの集落が描かれている。ところどころ断崖が見えて、スリリングな気配が漂う。壁にあけられた窓が歴史の中からこちらをのぞきこむような目のように感じられるところも面白い。

65周年記念示現会展

(4月4日~4月16日/国立新美術館)

文/高山淳

1室

 小材啓治「赤い馬のいる古墳」。古墳の中の情景、石棺が正面に描かれている。画家はまさに埋葬者が中で眠っている石棺というものを描こうとしている。上方に朱色で馬が描かれている。左のほうには太陽のようなイメージが現れているが、それは実際にあるものというより、この長い歳月のなかの時間というものの象徴のように感じられる。朱色が一種呪術的な効果をもって画面に引き寄せられている。いわゆる丹色というもののもつその力が画面の中に引き寄せられる。そして、全体では赤褐色の不思議なハーフトーンのきらびやかな空間が生まれる。

 武敏夫「道化師の涙」。青い衣装を着て寄り掛かっている人形。そばには黒い衣装を着て座っている人形がいて、そのあいだに道化師が座っている。青い衣装の人形を抱きかかえている。もう一人の道化師が後ろ姿を見せて立っている。左手にはヴァイオリンらしきものを持っているが、そこには少女の人形が座っている。そばには兎の帽子をした人形もいる。背後に梯子のようなものが立ち上がり、空中ブランコが静かに揺れる。鳩が飛び、上方から雪のようなものが舞い落ちている。サーカスの舞台で活躍する人形たちがいま静かに安息のなかにいて、二人の道化師がそれを抱えこんだり、あるいは対話をしながらもの想いにふけっている。人生はひとつのドラマかもしれない。その舞台の一場面をつくるように画家はこれまで絵を描いてきた。ここには舞台の裏側にある人間の姿が描かれている。しかし、ピエロはその道化の化粧を落としていない。逆に、それによってピエロの思いがしぜんと伝わってくる。演技者にとって素顔とは何か? 難しい問題である。ヴァイオリンを持ち背中を見せて語りかけるピエロの向こうの、遠くを見る少女の人形は、画家にとってのロマンティシズムというものの象徴のように感じられる。この年頃の女性の心を繰り返し人間化して、絵の中に創造し描いてきた。それほど画家にとって絵画と文学とのクロスするところに制作の動機があるのだろう。

 大渕繁樹「ミモザのある部屋」。黄色いミモザや白やピンクの花の差された染付けの花瓶がテーブルの上に置かれている。窓がすこしあけられて夜景が見える。夜の一情景を一種瞑想ふうな中に表現する。無人であるが、その空間、その時間を彩るような花の表情に惹かれる。

 武田敏雄「霊峰月山」。月山が雪に覆われて、ずっしりとした雰囲気で描かれている。背後は暗い空である。月光によって輝くこの月山の様子は神秘的な美しさと言ってよい。そこから中景に向かう山の形。その中景の山にトンネルがあって、そこから線路が伸びている。そして近景の湖。暗緑色に描かれているが、澄んだ鏡のような面を見せる。動きというより、存在そのものの不思議さに画家は迫ろうとする。余分なものを削り落として、月山というまさに霊峰、山の中に神がいると信じてきた当時の人々の思いを受け止める姿を描き起こす。右手前の低い山の斜面の樹木が枝を伸ばし、その繊細な表情がところどころ浮かび上がるように描かれているのも、見事なアクセントとなっている。

 鈴木實「大聖堂への裏道」。ノートルダム寺院が上方に聳えている。そのパリの裏道は一階建ての納屋のような家があったり、二階建ての粗末なアパートのようなものがある。石垣が一部崩れている。道には雑草が茂っている。そんな生活臭に満ちた裏町の向こうにノートルダムの聖堂が白く輝くように聳えている。カトリックの宗教とそこに暮らした底辺の庶民の生活がしっかりと画面の中に描きこまれる。その対比こそがまさにヨーロッパというものの歴史であり、文化だろう。この風景は画家の着実な思想の表現といってよい。

 成田禎介「湖景」。瀬戸内海の島々を思う。青い地中海を思わせるような水の表情。いくつもいくつも島が見える。その島はかつて山脈であったところが埋没したその頂上である。その姿を画家は一挙にパノラマふうに表現する。空の繊細な表情。近景にはたくさんの緑の樹木が立っている。その緑の複雑なヴァラエティのある変化に対して、ピンク色を帯びたり黄土色を帯びたりした樹木がそこに描かれていて、やがて来る秋の気配も感じさせる。

 樋口洋「雪の永平寺」。永平寺の山門に向かう階段。いまは開門されていない。柵が置かれている。両側に立つ杉木立。杉木立の天まで伸びていくかのような姿。亭々とした韻律の向こうに、静まるような永平寺の山門。いま扉は閉まって、そこに菊の御紋が掛けられている。右上方から光が差し込み、この真っ白い雪に影を捺す。その雪はいま新雪が下りたばかりのような神々しさで表現される。永平寺のもつ霊的な空間を見事に描く。左のほうに丈の低い椿が赤い花をつけているのが微妙なアクセントとなっている。

 井上武「都市の景」。太い黒い線によってぐいぐいとフォルムをつくりだす。その線の集合によって独特の強い韻律が生まれる。一つひとつの線を見ていくと、一つひとつの線が歌ってくるような、そんな力強さが感じられる。下方に横断歩道があって、両側に人が立っている。左の人の背後に大きな女性のポスター。右の佇む三人の上方にもっと大きなドレスを着た女性の看板がダイナミックな動きをみせる。信号の三つのランプが静かに描かれる。今黄色で、赤と青がすこし沈んだ調子で置かれている。活気のある街がいま一瞬の無風のなかにある。その無風のようなものをつくりだしたのは画家のイメージの強さである。一度無風にすることによって、この一隅のパノラマふうな光景がにわかにフォルムと色彩をもって立ち上がってくるようだ。緑や黄色、あるいは黄土、朱などがいぶされたような色彩で置かれながら、深いステンドグラスのような輝きを見せる。

 佐藤祐治「丘の街」。城塞都市が描かれている。城塞の石を積んだフォルムが手前のたくさんの樹木と向こうの街との境界になっている。中にはたくさんの建物が集合する。上方に教会が聳える。背後には丘と山が霞むように描かれる。その城塞都市のそれぞれのフォルムをクリアに描く。おそらく現実から出発しながらかなり構成したかたちになっていると思う。その凝縮した建物の様子に圧倒的な存在感がある。個々の建物の窓がまた全体で不思議なアラベスクのような韻律をつくる。中世の街を一種のファンタジーの中に表現する。

 錦織重治「蓼科山光彩」。文部科学大臣賞。ゆったりと大きな川が流れ、斜面がだんだんと上っていくと、巨大な大きな山頂に向かう。一部雪をかぶっている。両側にこぶのような二つの山頂が見える。近景に大きな道が蛇行しながら続いている。遠景に山を見ながら、光が浸透してくるようなパノラマ風景である。茶褐色の樹木のあいだから新雪をかぶった山頂がのぞく。それに対して深い青い川の色彩。ゆったりとした空間のなかに陽光が差し込む。風景のもつ光というものの魅力を印象派的に分解せずに表現しながら、パノラマとしての奥行きをしっかりと表現する。

 山岡健造「夜明け」。示現会賞。タージマハルが背後に描かれているのだろうか。手前に母と息子と娘が描かれている。いま夜明けの光が差し込む。点描ふうなタッチによって独特の深いトーンが生まれる。そのトーンの中に朱色がところどころ入れられて、それが夜明けの朝の太陽の滴りを感じさせる。

 中西敦「騎士達の誓約」。お城がロマンティックに表現されている。手前に塀があって、門がある。大きな樹木と小さな樹木。いずれも葉を落として裸木である。お城の背後は鬱蒼とした森になっている。劇のワンシーンのようにスポットライトが当たっている。柔らかなベージュの肌を輝かせて、お城が聳える。ディズニーの物語に出てくるようなファンタジーのイメージをもったお城の表現に惹かれる。

 中井悦子「光陰」。黄金の扇子を持った盛装の女性。そばに果物を盛った高坏と花の咲いた植木鉢がある。右上方から光が当たる。いま青春の美しさを際立たせている女性が静かに描かれる。お嫁入り前の女性のような、そんな初々しい印象。女性のある時点を見事に絵画に表現している。

 我妻宏也「雪晴れの山里」。会員推挙。画面の上方三分の一あたりに建物が連続して描かれている。その背後は山の斜面である。そこに続く田舎の道と刈られた田圃。田圃には稲の株が残り、雪の中から顔を出している。そんな様子を柔らかなハーフトーンの中に表現する。

 百瀬太虚「三春の桜」。会員推挙。三春の桜は樹齢数百年を経たもので、その満開の桜が画面からはみ出るようなかたちで描かれている。まずそういった構図がユニークである。そして、まるで不思議な妖精のようなピンク色の花が上方から降ってくるように描かれている。それに対応する柔らかな緑の調子。深い暗い緑は桜の下方にあって、遠景の山には柔らかな緑が置かれ、澄んだうっすらとした青い空が浮かぶ。まさに桜の下に行くとすべてのことを忘れそうな、そんな夢幻的なイメージを見事に表現する。

 篠原裕輔「遊禽」。水の中を泳ぐ三十羽ほどの鴨が活写されている。鴨の様々な仕草がすべて描かれているような、そんな臨場感あふれる表現に注目。

 平野真司「開いていた扉」。損保ジャパン美術財団賞。倉庫の鉄の扉が錆びている。そこがすこし開かれて、黒い猫があいだに見える。扉の風化した時間といま生きている猫。さらに、猫というもの自体が無意識の人間界を示すようなところがあるから、よりミステリアスな雰囲気が生まれてユニーク。

 徳田則子「収穫」。手拭いを頭にかぶり、籠などを持っている若い女性が真ん中にいる。左右にすこし後ろ姿を見せる、角度を変えた二人の女性。中東とか南米などの素朴な土地で暮らす女性を、一種彫刻的なフォルムで表現して面白い。独特のモニュマンふうなイメージがあらわれている。加えて、この素朴な少女たちを使って三美神のような構成になっているところも面白い。

 阿戸猛子「晩夏」。黒いマネキン、グレーのマネキン、白いマネキン。そばにドライフラワーになった向日葵がある。マネキンによって女性の生活感情を表現する。さらに追想や未来への希望というイメージも託される。三体のマネキンは不思議な心のパントマイムのように表現されている。

 深津美南子「街の景」。楢原賞。高層ビルがスクランブル交差点の向こうに聳えている。ちょうど数寄屋橋の不二屋のビルが描かれている。その表面が外側の風景を映して不思議な存在感がある。その下に人々が歩む。街の一隅がドラマのように描かれるが、通行人以上にそのビルに映る空と建物が街のエネルギーを表現するところが面白い。

2室

 笹原弘子「森の子守歌」。倒れた樹木の幹の下に狐の親子がいる。ほほえましい。そのあいだを様々な緑の葉が覆っている。画家は一つひとつ丁寧にその葉を描く。その葉の様子を見ると、まるで呪文のようで、まさにこの一枚の葉を頭にのせて変身の術さえ使えそうな、そんな雰囲気もある。一つの画面を織物を織るようなかたちで表現する姿勢が興味深い。

 瀧井利子「父のいた作業場」。万力や電動鋸などが厚い台の上に置かれている。椅子には白い手袋。床にはサンダル。緑の扉のガラス窓から光が差し込む。二〇〇三年十二月のカレンダーが貼られている。二〇〇三年に父親が亡くなったのだろうか。残ったものがすべて父の匂いに満たされているような、そういった記憶と気配とものの存在感とがお互いにクロスしながら、このユニークな密度のある空間が生まれる。

 瀧口民男「里の春」。点描による風景表現である。道がはるか向こうに続いてT字路になって、その原っぱの中を歩道が上っていく。その果てに樹木のあいだから見える空がある。空に向かう遠近感を強調した構成がまず無限的なイメージをつくる。そして、様々な樹木が立つ中に一本の桜が満開の様子である。その桜のピンク色をすこし薄めたようなかたちで空に雲を浮かべて呼応させる。情感豊かな日本の自然の表現である。

 菱田直美「風雨遠のく」。切られて倒れた大きな樹木の幹。周りに立つ樹木。柔らかな光が差し込む。それぞれを丹念に描きながら、しみじみとした情趣を醸し出す。

 増田清子「風薫る」。内藤賞。藤が満開である。藤棚の下に小道がある。一つひとつ丁寧に描きながら、柔らかな光も表現する。落ち着いた平凡な風景の中に安息感と幸福感が漂う。

3室

 斉藤純子「路上の楽士 ・」。クラリネット、トランペット、アコーディオンを弾く三人の楽士を面白く構成している。色面構成的な造形思考によって、生き生きとした画面が生まれる。フォルムに対する感覚が優れている。

 小島兼一「ドイツのノエル」。メリーゴーラウンドがイルミネーションの中に動いている。周りにたくさんの人々がいる。群像である。回転木馬の後ろ側や両側には古い木を使った建物が描かれている。ドイツのある街の一隅に体験した光景をしっかりとした油彩の技法によって表現する。

 森田徳美「川沿いの工場群」。工場の中の煙突がとくにピックアップされて表現されている。大小の煙突が二十ぐらい密集した様子は壮観である。そして、下方には細いパイプが複雑な構成をつくる。そして、いちばん近景には水が流れている。垂直に立つ煙突のそのフォルムを集めながら、独特の叙情的空間を表現する。

 阿武屋克司「希望」。若い妊婦が壊れたような建物の礎石の上に腰を下ろしている。周りの壊された古い建物に対して、スポットライトを当てられた女性のおなかには新しい命が生まれつつある。今回の津波の悲惨さに対する希望の表現だろうか。いずれにしても、妊婦の姿態と顔の表情などが実にリアルに描かれている。しかも、愛情をこめて描かれていて、暖かなオーラを感じる。

 太田佳代子「afternoon9」。窓際に立って雑誌を見る青年。そばに白い犬が座っている。柔らかなグレーの空間の中にフォルムが際立って立ち上がってくる。そして、その情景自体が記憶の中から浮かび上がってくるような、独特の心象的な雰囲気を帯びているところが面白い。いずれにしても、優れた形態感覚に注目。

4室

 堤敏朗「朝陽の門前町」。スペインの一隅だろうか。石でできた建物の壁。そこにアーチ状の窓が穿たれ、小間物や人形などを売っている店が見える。そこに白い衣装をつけた尼僧が歩く。右上方から光が当たり、強い陰影をつくる。この古い建物の歴史的な時間さえも照射し浮かび上がらせるようだ。その中に店のなかの人形たちが集合しながらお互いに会話をしているようで楽しい。明暗のドラマの中に時間のドラマが組み込まれ、いまという時間が浮かび上がる。下方のペイヴメントのすこしカーヴするような、ねじれたようなフォルムが、上方の重量感のある建物と対比されて、面白い効果をあげている。

 玉谷明美「廃墟」。石を積んでつくった建物。手前にはその壁が崩壊した様子が描かれている。まるで時間というものが、歴史がそのまま姿をあらわしたような一隅を、感情をこめて丁寧に描く。無人である。「廃墟」という題名だから、背後の建物にも人は住んでいないのだろう。亡くなってしまった人々のことがしぜんとネガのように浮かび上がってくるようだ。厚い手触りのあるマチエールもそのイメージをよく支えている。

5室

 宇賀治徹男「堤外地(草紅葉)」。農村の中を道が続いているが、まるで中央分離帯のように雑草が生えているのが不思議である。自動車が通るためにこのようなかたちになるのだろう。一部水たまりになっていて、空を映す。空はベージュがかったグレーだが、それよりもっと明るい水の輝く様子が、この作品のポイントとなっている。よほど自然の気配に敏感な表現だと思う。周りの雑草も樹木も遠景の建物の屋根も淡々と描きながら、その水たまりの水が命あるもののようにも、宝石のようにも見えるように描かれているところが面白い。

 江本智美「たいくつダー」。ソファに座る若い女性が新聞を読んでいる。そばに少女が人形を持っている。手前には三つの人形がテーブルの上に置かれている。緑が独特のトーンを表す。エメラルドグリーン系の色彩がどこかあやしく、エキゾティックと言ってよい。この作品を見ていると、現実に見ているものと記憶の中にあるものとがお互いに立ち上がってきて、すこしシュールな味わいを見せているところが面白い。緑の様子が時間というものの謎めいた性質を表すようだ。今回画集を刊行されたために、これまで以上に過去の記憶が室内に侵入してきて、このような不思議な作品になったのだろうか。

 伊藤正春「河原一隅」。枯れた雑草や葦のようなものが複雑な動きをつくる。とくに近景にぽっかり空いたような部分があって、それが不思議な表情を見せる。自然というものは時々不思議なかたちを見せるものだ。向こうに川が流れていて、遠景に青く霞む山が見える。一つの河原を画家は凝視する。

 荒木泰「南の風」。椰子が聳え、赤茶色の瓦屋根が濃密な緑の樹木のあいだにのぞく。手前の下り坂の道がグレーで彩られる。上方にはエメラルドグリーンと言ってよいような深い南の海がその色彩を見せる。緑というもののヴァリエーションがこの濃密な空間を構成していて、独特である。

6室

 湯淺廸哉「潮騒の詩」。浜辺の小屋、いわば物置の中に実にたくさんのものが置かれている。ガラスの重しやタイヤ、ドラム缶、網、箱……。その様々なものが独特の生気をもって鑑賞者に迫ってくる。それは画家の筆力のたまものである。波が静かに背後から寄せてくる。曇り空の中から青い空がのぞいているのも、この手前のクリアなくっきりとした物置の中のものたちと呼応しなから、不思議なときめきのようなものを感じさせる。

 中川澄子「午後の回廊」。回廊にある大きな柱に聖人の像が浮き彫りされている。あいだから中庭が黄金色に見える。その向こうにまたアーチ状の出入口のある回廊が描かれ、上方に建物が見える。午後の光が静かに差し込む。その午後の光のぬくもりのある様子が実に魅力である。その光が石の中にしみ通っていくようだ。無人であるが、ヨーロッパの時間がよく表現されていると思う。いわばシエスタの時間で、全員が家に籠もって静かに眠っているような時間帯なのかもしれない。そんなことをあれこれ思わせるような不思議な光線の性質に惹かれる。無人の中に、いまはない浮き彫りの聖人の様子が、身近な存在として迫ってくるようだ。

7室

 高橋親志「里への雪道」。ずいぶん塗りこまれた絵具の層が色彩の輝きを表す。道の向こう、中景には赤や緑の屋根の建物がある。近景には雪道の両側に裸木が立っている。遠景は建物の後(うしろ)側の赤茶色のくすんだ雑木林で、その向こうに黒い松のようなフォルムが見える。鈍色の空。塗りこまれているけれども、硬くなく、別荘にいて夢想しているような、そんなファンタジックな雰囲気が感じられるところが面白い。

 細川勝「刻の移ろい」。中景に青い深い水がある。その向こうに地面があって、そこに水がすこし浸食している。忘れ去られたような白い石や岩、流木。そして手前から白い裸木が伸びている。その裸木がなにか謎めいている。時間のなかに忘れ去られた浜辺。その周りの水は時間という無常のものの存在で、時間がその浜辺を浸食し、やがて記憶を消すような、そんな雰囲気がある。下方の裸木はそんな無常の時間の風を形象化したようだ。そして踊っている。シュールな味わいに注目。

8室

 松本佐恵美「レ・ボーの城塞」。デッサン家であるし、色彩家である。見上げる角度にある城塞と下方の暖色系の建物。光の中に生き生きと表現する。上方の城塞が白く輝くように描かれている。そのあたりの雰囲気は心のときめきを感じさせる。淡々と描きながら、この頂上にある城塞が歴史を背負った神秘的な雰囲気に描かれているところに注目。

 世古治「裏通り冬の詩」。雪が積もっている。スコップを持って雪搔きをする父親と、そばにいる女の子。赤いブーツをはいて白い帽子をかぶっている。その佇んでいるあたりに、日が差している。父と娘の情景が優しく愛情深く描かれていて、周りのしっとりとした街並みと合わせて、一片の詩と言ってよい。人生の中のあるひとときの情景をすくいとるように画家はこの絵の中に構成する。

 田村則昭「無常の風」。岩盤の上に白い鷗が三羽、空を一羽の鷗が飛んでいる。断崖の下はクラッシュした車やつぶされた建物の一部など。あるいは壊れた階段。そんなものがずっしりとした存在感のなかに表現されている。今回の津波の災害をテーマにしたと思うが、画家の描く視線は強く、塗りこめられた色彩には独特の輝きがあって、一つの絵画としての魅力をつくりだしている。手前の水も、そこにとまる一羽の鳥も面白く表現されている。

9室

 藤田充孝「渓」。緑色の渓流が流れている。右のほうのすこし高くなった地面から伸びる樹木。水が切り通しのように上方で切れている。不思議なシチュエーションであるが、独特のリズム感と色彩の深さと輝きに注目。

14室

 村上富子「冬日の中に」。佳作賞。野原の雑草を描いている。様々な植物を淡々と描きなから、全体で強く発信してくるものがある。中心の白い房が連続しているような植物の名前はわからないが、独特の雰囲気でよく表現したと思う。あいだからちらちらと紅葉した赤い葉がのぞく。一種黄金色にも見えるような黄土系の周りの野原の色彩の中に丹念に植物の姿を追う。

16室

 森薫「緑陰の賦」。渓流が向こうから手前に流れてくる。周りに小さな岩や大きな岩がごろんごろんと存在する。両側から樹木の枝が伸びて緑の葉を茂らせている。遠景では靄が出て霞んでいる。一瞬雲間から光が差し込んだようで、ところどころをスポットライトを当てるように輝かせている。そんな一瞬の情景を活写する。水の動きと岩の存在感、樹木の柔らかなしなるようなフォルムを総合しながら、生き生きとした風景表現にしている。

 宮城慶子「舞台裏」。フラメンコの衣装をつけ、両手を裾に回して、軽やかに運動しているように感じられる女性の全身像である。肌の色、衣装の白、周りのグレーなどが静かに響き合う。とくに肌の色と衣装の白のハーモニーは独特で、エロスの香りが漂うようだ。

 尾形たき子「白夜のハーモニー」。会員推挙。水が画面の約四分の三ほどを占めている。太い樹木の幹はシルエットになって、向こうに太陽が沈もうとしている。その低い位置の太陽の光が水に反射して手前まで伝わってくる。その光の動きのようなものがよく捉えられていることと、色彩が魅力である。いかにも白夜らしい北欧の色彩のハーモニーを表現する。

17室

 大地財治「暮色」。大平原である。そこを川が流れ、いま夕日が沈む。残照を受けて川が黄金色に輝いている。それ以外はすっぽりと紫色のトーンの中に沈みこんでいる。北海道ならではの大草原の夕日をドラマティックに色彩豊かに表現する。

 上西茂「マテーラ」。道の両側に古い建物が続いている。そこに子供の手を引いた母親の後ろ姿がある。だんだんと近景になるにつれて大きくなり、瓦を置いた屋根と漆喰のような壁、古い窓などが表現される。時間の深い謎の中に引き込むような味わいが感じられる。

 砂子精一「朝市」。朝市に並ぶ野菜や果物。それを売る年取った女性や若い女性。買物客。十数人の人々が線描きによってまずピックアップされるように描かれ、そこに淡彩が置かれている。デッサンが優れている。奇をてらわずに、描くべきものを描いていることによって、この画面の強さが生まれる。右向こうは霞んで、ごく自然な空気遠近法になっているが、それぞれのフォルムが浮かび上がり、お互いが呼応しながら画面から筆者に語りかけてくるような力を感じる。

18室

 石川孝司「駅」。木造の駅舎に雪が積もり、煙突から煙が出ている。向こうに濃紺の海がのぞく。入口に行くところが雪搔きがされ、両側に赤いポストや何か入れ物がある。モノトーンの色彩だが、新鮮な色彩感覚。クリアにフォルムが立ち上がり、リズム感が感じられる。電信柱、ポスト、駅舎の文字、それぞれが画面の中の役割として必要十分な機能を果たし、童話のような物語性が画面から感じられる。

20室

 稲垣道子「高原に水芭蕉咲く頃」。亭々と樹木が立つあいだを水が流れ、そばに水芭蕉が咲いている。まるで地上に咲く星のようなイメージをぐいぐいと描きこんで表現する。その素朴で強いじかな表現に注目。

22室

 岩橋章二「春爛漫」。太い桜の幹と霞のような爛漫の花。三つのポジションにある桜が描かれながら、その奥行きと量感がよく表現されている。

23室

 小林年子「晩夏」。向日葵が画面上下を突き抜けて描かれている。ほとんどドライフラワーになっている。下方に川と街並みが小さく見える。大胆なコンポジションが鑑賞者を引きつける。

 髙橋正則「厳寒八海山」。準会員推挙。八海山の山肌、その様子をリアルに表現して面白い。下方に小さく家が立っているが、家のほうが遠くにあって、上方の山のほうが手前にあるぐらいの迫力である。八海山の山肌の様子が生き生きと表現されている。

第60回記念光陽展

(4月8日~4月15日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 鈴木幸夫「巻絹」。会員奨励賞。「巻絹」は能の演目で、熊野大社に絹を巻いたものを奉納するべく天皇の命によって向かった人が遅れて、それを咎められるのだが、その男の歌の見事さにそれを許しながら、日本の和歌を褒め称えるといった演目である。神仏習合の思想の根底に歌というものがあるということを、朗々と舞いながら歌い上げる。巫女が神がかりとなって舞う。そんなダイナミックなことほぎの深いイメージを、この若い女性の面をかぶったシテによって表現する。両腕を上にあげて御幣を右手に持ったそのフォルムは力強い。すこし膝を曲げながら両足を揃えた姿。静かな中に強い動きが感じられる。手前にはかがり火が燃えているから、薪能のようだ。上方には鼓を打つ男の姿が静かに微かに暗示的に表現される。青いバックの中にこのシテの衣装の赤や黄金色の色彩が映え、そこに白い衣装が掛けられていて、独特の神々しさが表現される。

 京田徹夫「桜島(城山より)」。画面の上方約半分は桜島である。黄金色に染まった山。山の向こう側から噴煙が立ち上がっている。錦江湾が静かにその前に横たわり、船が動いていく。手前は鹿児島の街並みである。すこし左に傾いた形の連続したフォルム。その不安定な動きに対して、桜島はどっしりとして重量感がある。人間の実存的な姿の不安感が、この街の密集したフォルムに感じられる。それに対して、変わらないものとしての桜島が対置される。画家の老齢の心境がこの建物の中に悲しみのように捺されているようにも思われる。そういった中に毅然とした白い灯台のようなフォルムが立ち上がる。おそらくこの灯台のようなフォルムは画家がこの画面の中につくり出したものと思われる。画家自身の一生を貫く詩魂とも言うべきものが、その白い灯台に感じられ、建物と桜島とのあいだに屹立するように感じられるところが面白い。その白い灯台は桜島の向こうから立ち上がる噴煙と静かに呼応する。

 石井節子「明日へ」。文部科学大臣賞。下方に水があり建物がある。建物の上に朱色の色彩が入れられ、その上方に太陽と満月の重なったようなイメージがあらわれている。下方の海には破船したフォルムが見える。東日本大震災からの再生を願う。その希望のイメージが深い赤い色彩に感じられる。祈りの気持ちが満月のようなイメージを引き寄せる。そしてまた生命のシンボルである太陽のイメージをそこに重ねる。グレーを中心としたなかにベージュや赤の暖色系の色彩が入れられて、そのそばには虹も入れられ、ハーフトーンの調子のなかに静かに力強く、祈るような心持ちを表現する。

 佐藤好子「家路」。二匹の猫。赤い猫と白い猫。赤が男で白が女だろうか。背後に街が描かれている。猫のもつ逞しい野性的な自由なイメージが感じられる。その雑草のような生命力を画面の中に画家は表現しようとする。

 齋藤満子「無音」。青に柔らかで心の中にふれてくるようなトーンがある。下方に風車のようにも大観覧車のようにも見えるフォルムがいくつかあって、それが回転している。上方には正面向きの女性の顔があり、あいだにギターがある。今回の東北を襲った津波の災害に対する深い祈りのイメージを感じる。観覧車と女性とのあいだに高坏があり、そこに豊かに実った桃の実が置かれている。再生に対する思いがしぜんと感じられる。そのそばに白い花が小さく咲いて、風に揺れ、散っているようだ。上方には岸壁と海のイメージがあって、福島の原発の様子をしぜんと感じさせる。ゆるやかなカーヴするような動きが画面全体にある。そのカーヴするような動きは深いメロディのように感じられる。上方の女性も再生を祈る神話の中にいる女神のような趣がある。首飾りはどこか勾玉を思わせる。

3室

 吉實昭子「リセット」。戸外の椅子に座り、レースの掛けられた丸いテーブルに肱をついて考えている女性。なにか妖精的な雰囲気が感じられる。周りの緑とグレー、女性の暖色系の肌の色彩とが静かにハーモナイズする。独特の洗練された美意識があって、画面全体から静かに香りが漂ってくるような、そんな雰囲気があらわれているところが面白い。戸外であるが、どこか女性の密室に誘われるような、そんな思いに誘われる。

 岩立寛「神田川春化粧」。画家の住まいからすこし歩いたところにある風景だそうである。静かな中に強い気配が生まれている。ゆるやかに神田川が蛇行しながら向こうに消える。桜が満開で、その枝を川の上に差し延べている。いちばん近景の桜の枝は、ほんの目の前一メートルあたりにあるような雰囲気。そして、その梢が風で静かに揺れるような柔軟な表現。上方から下方にくの字形に垂れてくる枝の先につく花。中景から遠景には花が密集しながら、まるで雲のような雰囲気である。現実からあっという間に非現実に引き寄せるような、桜の雰囲気が画面に満ちて、静かに香りが漂ってくるように感じられる。いわば一種の浄土のような世界を描いたわけだが、よく見ると、淡々とした写実によってこのコンポジションがつくられているところがとくに魅力である。

 木村順子「失われた明日へ」。損保ジャパン美術財団賞。海が深い静かな趣で描かれている。その水平線近く、青い球体が置かれている。それは太陽であると同時に、おそらく青い惑星、地球のイメージなのだろう。この津波のあとの再生を願う心持ちが地球のイメージを引き寄せたものと思われる。青を中心とした複雑な深いトーンと手触りのあるマチエールが深い感情を表す。

 大野起生「工場」。鷲田新太賞。これまで画家は工場を描いてきたが、今回の作品が最もよいものと思われる。ずいぶん塗りこまれていて、その分色彩に輝きが生まれている。茶褐色のモノトーンであるが、その中に微妙なトーンの変化がある。斜光線を受けて、この工場はまるで宮殿のように輝く。よほどこの工場と画家との関係には身近なものがあるように感じられる。シルエットと輝いている部分。あるいは側面の陰影の中に消えていくようなトーンの変化。トーンというものを使いこなしながら、一種の精神性ともいうべきものを画面の上に表出する。

 杉原孝芳「神在月風景」。会員奨励賞。出雲の風景である。十月には日本中から神様が集合して、出雲は神在月になるが、ほかのところは神無月になる。その出雲の懐かしい風景を茶褐色のくすんだ調子の中に表現する。手前の蛇行する道。刈り取った田圃のあと。段々畑の様子、低い丘。丘の上に立つ雑木林。空の柔らかな銀灰色を思わせるようなグレーの光。地面の内側からチラチラと光が輝くような、そんな調子である。遠近感のある構成の中にじんわりと地面の匂いや息づかいを描き起こしたような力が、この作品の魅力だと思う。

 糸本政昭「早春」。ダイナミックな画面である。桜が枝を広げて花をつけているが、満開の様子である。セルリアン系のブルーを背景にして、透明感のある桜の花が装飾的に表現される。内側から漲るような力が感じられるところが面白い。接近してみると、ずいぶんマチエールに工夫がされ、厚く塗られ、その上に小さな桜の花びらが点々と無数に描かれていて、その集合によってこのエネルギーがあらわれるところが興味深い。

4室

 岡本邦治「語らい『浜・希望』」。左のほうには陸まで上げられた船の残骸。散乱する破損したものたち。そんなものを背景にして、孫の肩に手を置く老漁夫が描かれている。背後には網を持つ息子と思われる男のシルエットが描かれる。まさに震災に対する励ましを画面の上に群像として表現した。肩に手を置く老人のすこし曲がったフォルムや、遠くを見る目の表情などにヒューマンな味わいが感じられる。

 高岡美也子「復興の街へ」。「絆」、「がんばれ日本」。カレンダーには平成23年3月11日。周りには倒れた人や困難な様子の人々が描かれているが、中心に青い空と青い海、日の丸、白い十字架を持つ白衣の天使。この天使はマリアのイメージで、子供を抱いて空中に浮遊している。テーマは暗いが、希望が色彩によって輝くような、そんな雰囲気が魅力である。

5室

 小田久美子「Space Cowboys2」。五匹の犬を人間のように表現して面白い。二匹の犬がお互いに喧嘩をしている。口をあけて、後ろ足で立って、前足でヘッドロックのようなポーズをした犬など、実にユーモラスである。その周りを徘徊する犬や、こちらを見ている犬。まるで人間の喧嘩する姿に茶々を入れる子分たちや関心をもたずそっぽを向く様子などが彷彿とする。

 加藤正男「刻」。簞笥のようなフォルムの上に段ボールが置かれ、そこにドライフラワーや乾いた瓢簞など、様々なものが置かれている。すべて時間のなかに水分をなくして黄金色になったものたちである。独特のディテールの面白さがあって、そのディテールが集合するなかに一種祝祭的なイメージがあらわれる。

 市谷實「いずこへ」。二枚の画面を重ねていて、いわば日本画で言う二曲屛風といった趣。独特の波打つようなフォルムが画面全体を覆っている。それは画面に接近するとわかるが、マチエールをつくった上から彫り込んだ仕事による。右上方には太陽がいま現れた様子。左下方にはいま月が沈んでいる様子。いわば日月屛風という室町時代に盛んであった様式を踏襲しながら、画家独特の心象風景をつくりだした。それは日本がんばれ、日本再生、といった、そんな深いところからあらわれた表現のように思われる。画面全体から深い韻律があらわれてくる。

 加藤瑞恵「仏伝図」。リズミカルなコンポジションである。傘を差す下に馬に乗る母と子。そばの従者。釈迦の誕生の時の様子だろうか。敦煌などの壁画からインスパイアされたようなコンポジションになっている。古代の壁画なども画面に引き寄せながら、それに加えて画家の瑞々しい独特の感性でコンポジションをつくる。全体に単純化されたフォルムが、お互いに呼応するような響き、韻律をつくりだしているところに注目。

 北川悦子「レクイエム」。静かな中にあやしい雰囲気がある。静物で、レースの上に様々なものが置かれているが、時計が二時四十七分ほどを指していて、その後ろ側に三本の蠟燭が灯っているところが、深いレクイエムの感情をしぜんと感じさせる。この時刻は東日本大震災が起きた時刻である。それを追悼する。実際に起きたのは昼だが、画家はそれを夜の時間に変え、静かに瞑想し、祈る。

 山下久枝「都会の休日」。ビルが立ち並ぶ様子。その背後には高速道路が伸びている。斜光線が当たって、ところどころ静かに輝いている。トーンの変化がしっとりとして情感を醸し出す。直方体のビルの集合と色調の変化によって、このような叙情性をつくる画家の感性に注目。

6室

 富田徹「運河の朝(ベネェチェア)」。ヴェネチアの運河の水が下方に緑で表現され、上方に煉瓦を積んだ壁が描かれ、窓はすこしあけられて、たくさんの植木鉢に花が咲いている。運河には一艘の船があり、野菜や果物が入れられた箱がある。その緑の野菜と赤い果物が隠し味のようにきいているし、それが窓に置かれた植木鉢の赤い花などと響き合う。また、強い斜光線が差しているところが希望の光のように感じられる。画家は大病して、昨年は不出品であったが、その回復感、あるいは死に接近したあとの生の希望といったイメージを、この運河と壁の光景によって生き生きと表現したものと思われる。その意味では深い心象風景と言ってよいだろう。とくに筆者には船の上に置かれた籠の中の野菜や果物が、そのようなことほぎのイメージとして静かに語りかけてくるように表現されているところに注目した。

 柴田信行「街」。街を上方から見たり横から見たりしながら、いわば街を人間のように扱い、独特の哀愁の表情をつくりだす。その叙情性ともいうべきものが、メロディを伴って画面の上に構成されているところに注目。

 花岡寿一「あたたかい日」。会員記念賞。子供を背中におんぶする若い母親。畳の上に母親が座っていて、子供たちが座卓の下を眺めている。懐かしい日本の昔の風景である。縁側には二匹の子猫がいる。両側には花が咲いている。縁側の下にも少女が横になっているのが面白い。画家は現在と過去との間を行ったり来たりしているようだ。その意味では縁側の木の年輪、節目のようなものが時間の渦のように感じられる。黄金色とも言えるような黄色を畳の上に置いて、周りに緑や赤、青などの色彩を置いて、華やかな雰囲気である。華やぎの裏側に喪失した時間の寂しさといったものも添えられて、独特の音楽性ともいうべき世界があらわれる。音楽のもつ時間軸によって語られるメロディが一挙に視覚化されたような面白さである。

 平野博子「天の川と踊り明かそう」。上方の空に天の川が描かれ、下方には朝顔が旋回するように配置され、その周りに七人の若い男女が配置され、それぞれ踊っている。描きたいものを描くといった姿勢が、この独特の韻律をつくりだす。イメージの強さに共感をもつ。

7室

 金愛子「グレーの風景 ・」。油絵具のもつねっとりとした触感が効果的に生きている。そのためには筆で繰り返し絵具を置くということが必要となる。そのストロークの積み重ねによって厚みと動きがあらわれる。建物が点々とあり、樹木が立ち、稲の穂が吊るされているから、秋の風景のようだ。昔から変わらない日本の農耕を中心とした集落の美しさを静かに表現する。柔らかな光が画面の奥から滲み出てくるように感じられる。その光が微妙な色彩にそれぞれの固有のフォルムを染める。

 吉田高行「夜の灯火」。この大きな建物は新宿の伊勢丹を描いたものである。ちょうど新宿通りとそれと直角の道の直交する角を中心として、いわばY字路ふうに表現している。しーんとした気配のなかにこの建物がシルエットの中に立ち上がり、一部光を受けて輝く。面白いのは下方のショーウインドーのようなところに点々と立つ人である。右のほうに歩く人。鞄を背負って立つ人。左のほうに歩く人。二十人ほどの人間たちがシルエットの中に描かれているが、そのフォルムが実に的確に表現されている。そこには、都会の中の孤独ともいうべきイメージがあらわれる。一人ひとりが運命を背負いながら勝手な方向に歩いていく。大きな道に車が一切描かれていないために、ここが人間の実存的なフォルムを浮かび上がらせる舞台装置のようになる。車を一切排除すると、あっという間に普遍的な街と人間との姿があらわれるわけだ。そういったコンポジションをつくる画家の精神に敬意を表したい。上方から下方に向かうタッチが繰り返されて人間たちの群像たちがそのまま宙吊りにされてあらわれているような、そんな雰囲気もある。この絵の奥には天上的なものと、いま眼前にある地上的存在とのお互いの呼応といった深いイメージがあるにちがいない。手前の大きな道は黒、紫、黄土などの色彩が入れこまれて、深い川のようなイメージがあらわれているところも面白い。

 松本肇「優しさに包まれて」。会員秀作賞。母親と子供。子供は捕虫網を持っている。ジーパンと白いタンクトップの母親。微笑みを浮かべた二人の様子は聖母子像といった趣である。周りのグレーの中に彫刻的ともいえるようなフォルムが強い。塑像をつくるように二つの母と子の像をつくっている。そのフォルムに対する柔らかな感性がとくに魅力と思われる。一匹の蝶が切ない雰囲気で浮かんでいる。

 山田敬三「翳りゆく街」。左は神宮の森で、右のほうに代々木から新宿の風景が広がる。空を見ると、日が落ちたばかりで残照に染まっている。黒々とした建物にオレンジ色や黄色の光が点々と灯される。ハイウェイを車が走っている。上りと下りの二つの車線が、まるで都会の川のように感じられる。車が船のようだ。それに対してずっしりとした存在感をもつ家並み。今回の作品はそのずっしりとした存在感と同時に、ビートのきいたリズム感が感じられるところがよいと思う。一挙に作品が出来上がったような、そんな韻律が画面全体から聞こえてくる。その韻律は残照の柔らかなピンクの空に消えていくようだ。時間というものがこの画面の隠された味のように感じられるところも面白い。

 関島雄一郎「復興の願い」。ショベルカーが動いている。そばの二つのドラム缶。ドラム缶にとまるカラスと、飛んで空中にいるカラス。カラスはいつも画家の自画像のような雰囲気で現れてくる。そして、もう一人の自画像的雰囲気はこのショベルカーである。ぐいぐいと動きながら作業を続けて復興に向かおうとしている。背後のねじ曲がったフォルムや屋根の抜かれた梁や柱などが寂しいが、下方の動きが、それと対照される。単に再現的に震災のあとの家を描写するのではなく、そこにイメージを吹き込んで、もう一度立ち上がろうとする雰囲気。そのねじくれた梁や柱の中に血が通り、静脈が動脈に変わっていくような、そんなリズム感が静かに画面から聞こえてくる。画面の内側で静かに画家はそのような生命的なリズムをつくりだし、歌い上げる。

 川嶌照代「帰路」。驢馬に引かれたファミリーたち。母親と息子とじいさま。道の端には座って荷物をおろしている女性たちがいるようだ。道は人生そのものを思わせるように深いトーンで描かれ、はるか向こうでは周りの空間に溶解する。その時間のなかからいま現れてきた驢馬に乗る五人の群像。そこに光が当たる。人の生活を聖なるものとして画家は表現する。そこにはまた運命といったイメージも静かにあらわれる。

8室

 斎藤辰悟「輪廻の桜」。若い女性の能面。下方に樹木がタコの足のように伸び、桜が花びらを無数につけている。深いエロス、生命感が感じられる。

11室

 くしださちこ「サーカスのファンタジー」。下方にピエロたち。男のピエロもいれば、女性のピエロもいる。両側からキリンが二頭、首を伸ばしているのがユーモラスで、構成の軸として面白い。上方に象がいる。重量感のある象を上方に置くという発想が面白く、そのそばに青い鳩が飛んで、象と対照される。鳩の背後にはサーカスのテントが描かれ、三日月が浮かんでいる。下方のピエロたちと象や鳩のあいだに柔らかで明るいジョンブリヤンやバーミリオン、カドミウムレッドの色彩が置かれている。独特の音楽性を感ずる。このピエロの弾くマンドリンと象とそばの驢馬とのあいだから光が漏れて、様々な音楽が集まって、一種の白色光線のようにあらわれてくる。サーカスという実生活とは異なるフィクションの世界。その世界がそのまま芸術というものの象徴となる。マンドリンを弾くピエロは画家自身と言ってよい。表現する楽しさを画面の中に再構成しているような、そんな趣も感じられる。

 和登直「塔」。新人秀作賞。旋回する塔に樹木が伸びて、あいだを道が螺旋状につながり、上方に廃墟となった建物がある。そんな中を歩いていく人の姿が見える。独特のファンタジーである。人間の営為というものと自然というものの関係を面白く表現していると思う。また、自らのイメージで一つの塔のような街をつくるといった姿勢にも好感をもつ。

 小林晋一「柳都橋梁」。会員奨励賞。新潟は大きな川が流れ、そこに掛かる萬代橋は有名である。今回は画家の視線はずいぶん低い。橋の下から上方を見て二本の橋を描いている様子で、橋のモニュマン的なフォルムに対して、左右に広がって静かに流れる川が実に魅力的に表現されている。空の広がりと水の流れ、それを感じさせる巨大な建造物である橋を上方に置くといった大胆な力強いコンポジションである。残照と思われるオレンジ色の空が川を染めているのだが、橋の下は当然影ができて黒ずんで、そこに複雑な陰影ができる。二つの橋と橋とのあいだの光がはるか向こうに続いている様子が、一つの希望といったイメージを感じさせる。ずっしりとしたこの橋という建造物のもつプレッシャーは、たとえば今回の東日本大震災に抵抗して、もう一度鑿(のみ)の音を高らかに立ち上げるといった、そんな寓意性もしぜんと浮かぶ。空のジョンブリヤン系の色彩はよほど慎重に色彩を置いたようで、澄んだ明るさを感じさせて独特である。

 石原一二「イスラム街の回廊」。歴史に対する深い思いがしぜんと感じられる。十段ほどの階段を上っていくと、回廊がすこし曲がりながらつながり、その向こうは光を受けた建物に向かう。そこには戸外の光があるようだが、その光がアクセントとなりながら、周りのグレーのトーンは長い歴史というものをしぜんと想起させる。手前の散乱する壊れた柱などは、遺跡のイメージであると同時に今回の津波のイメージも重なっているようだ。

第98回光風会展

(4月18日~4月30日/国立新美術館)

文/高山淳

1室

 青栁泰生「醸成の間」。光風会会友賞。直方体のボックス。その側面は柔らかな紫色。上方の面は白く、そこにポンプのようなものがつけられている。フローリングの床と壁。室内に伸びていく蔓科の植物。オウムガイ。白い葉。壁に掛けられた風景。古い時間と新しい時間が交錯する中にミステリアスなボックスが謎めいたイメージを与える。現実を通して詩人的なヴィジョンを画面に展開する。

 河内八重子「ハニワの棚」。光風会会友賞。横長のF型のキャンバスを直線で区切る。それは一つひとつの棚になる。その中にトルソや兵士、頭部、壺などの様々な埴輪を配置する。古墳時代の素朴な日本人のイメージを画家は辿ろうとする。点描によって柔らかで複雑なトーンが生まれる。いま目の前にあるこの兵士の埴輪のフォルムを通して古墳時代の歴史に思いを馳せる。いわば時間と向かい合っている心のたゆたうような揺れるような様子を点描によって表現する。

 児島新太郎「優しい記憶」。損保ジャパン美術財団賞。黒に近い茶褐色のワンピースを着た女性が座っている。両手、首、顔の肌がくっきりと浮かび上がる。しかも、睫毛の様子までも描くようなディテールが追求される。いわば彫刻をするように、あるいはモデリングするように、女性のディテールを追求しながら平面の上にそれを強く造形化する。女性が呼吸をしているような、そんな微妙な動きもそのディテールからあらわれる。人体のかたちを、描写するのではなく画面の上につくろうとする試みに注目。

 渡邊裕公「月華清灑・グァテマラ」。辻永記念賞。様々な色彩のボールペンでハッチングしながら、このフォルムが生まれている。グァテマラの衣装をつけた若い女性が立っている。上方に月が描かれている。どこか日本の仏画を思わせるようなイメージが興味深い。仏画もディテールがきわめてクリアに描かれているが、この作品もそれぞれのディテールが魅力である。また、柔らかな光が画面全体に差しているように感じられるところも魅力である。

 山田一郎「果樹の詩」。田村一男記念賞。地面に雪が積もっている。それがずっと向こうまで続いているが、不思議なことに、山には雪が積もっていない。その黒ずんだ山の様子と柔らかな、しっとりとした雪の積もった地面の様子が面白く対照される。そこに雑草が生え、裸木が伸びている。中景では、その裸木が連なって、果樹の林のように見える。畦道と思われるところに水が一部流れているように描かれている。北国の風土が奥行きの中に表現される。北国のこの平凡な風景を、いわば一片の詩の世界に変ずるような画家のヴィジョンに注目。

 高山博子「昇華」。インドの女性が二人。手前の女性は座って子供を抱いている。背後の女性は立っている。周りにヒンドゥーふうな彫刻などが置かれている。金がたくさん使われて、いわば荘厳するような画面になっている。聖母子像と言ってよい。床に落ちた赤い花。法華経の中には繰り返し花が空から降ってくるような仏の世界のイメージが語られている。濃密な気配がこの空間に満ちているところが魅力である。何かを説明するのではなく、あるイメージを求めて、それを構成しているところに注目。

 中土居正記「再生・sakura」。桜のそばに女性が座っている。フラットに平面的に処理されている。鮮やかな色彩を色面として扱いながらハーモナイズさせる。足の先が水につかっているというシチュエーションも面白い。水と花とに囲まれた女性がショールをまとって座っている。独特の美意識の表現と言ってよい。和風なものと洋風なものとの折衷のスタイルが新鮮。

 石田宗之「樹下思惟」。地面の上に曼荼羅を描いて、その上に若い女性が座っている。白い球体を持っている。後方に若い樹木の幹と葉がのぞく。曼荼羅という強い図像的コンポジションを駆使しながら、女性の生命力を鑽仰する。

 迫田嘉弘「白い町」。マテーラだろうか。斜面に建物が立っていて、後方に行くに従って高くなる。下方は古い建物で、上方は新しい建物のようだ。そんな中に崩壊した崖の一部があり、その中にも古い住居があり、それに囲まれてお城のような建物も見える。光が差し、明暗のドラマをつくる。無人であるが、濃厚な歴史が感じられる。歴史的な時間と今という時間とが画面の中に交錯し、それを造形的ドラマとして表現する。

 本山二郎「ルベウスの煌めき」。赤いイヴニングドレスを着た女性が黒いブーツをはいて室内に立っている。コーナーで、両側に壁がある。そこに白いカーテンが吊るされている。そのカーテンが光を含んで輝いている。いわば自然光の雪洞(ぼんぼり)のような印象である。すっきりとした強いフォルムも魅力であるが、その光の扱い、光によって静かにこの女性を荘厳するようなコンポジションに注目。

 西房浩二「Moret・新緑」。画面の真ん中に大きな川の色面がある。そして、手前のほうに緑の岸があり、向こうに点々と新緑の葉をつけた樹木がある。そして、その向こうに教会が聳える。水の大きな面積の中にさざなみが立っているところと暗く静かに鏡面のようになっているところと大きく分けられている。その鏡面になっているところが実はこの構成の中で大きな役目をしているようだ。さざなみの部分は新緑の、光を受けた輝きや建物の輝きと呼応していく。そして、教会の内部に静まるような窓の向こうの暗い部分のその深い印象とこの水の黒い部分の深い印象とが呼応する。そんなモレの歴史のある風景を淡々と深く絵画化する。ベージュの空にほんのうっすらと青い色が入れられているのも爽やかであると同時に、無限なるイメージが醸し出される。クリアなメロディがこのモレの風景から聞こえてくるような思いに誘われる。

 大谷喜男「路」。白い馬が堂々たる体軀を見せる。その馬にまたがるのではなく、宙に浮いたようなかたちでピエロがいる。すこし右足を後ろに曲げて顔を仰向けたピエロである。馬はその大きな体でなにか物思いに沈んでいるようだ。人間の無意識の世界、あるいは運命といったものの象徴として、この白馬があらわれているように感じられる。ピエロの衣装は社会との関係のなかで生きる人間の有様の象徴のように感じられる。背後のライトレッドふうな茶褐色から濃いウルトラマリンなどの色彩。それらの色彩はこのピエロの衣装にも使われているのだが、そのバックのもつ渾沌とした雰囲気も面白い。人間の人生は意志があって成り立つわけだが、必ずしも成就するとは限らない。いわば一種の悲劇というもの、矛盾というものを前提としたものが人生だろう。そういった渾沌が背後にあって、その前にこの宙吊りのピエロと白馬がいるというコンポジションに強い共感を覚える。

 遠藤原三「流離」。妖精のような女性が座って弾いているマンドリンは朽ちた木でできている。そのスカートにたくさんのバッタがいる。周りに花や魚などが蠢いているが、すべて化石化されたものがもう一度画家の強いイメージによって呼び戻され、ファンタジーをつくろうとするかのようだ。長い時間軸の中に様々なものは死滅し交代していく。そういう死滅し交代していったものたちを集めながら、自然というものの不思議さを画家は描こうとする。そこに時間のミューズのようなイメージの女性が、不思議な魔法のようなマンドリンを弾いているといった想定も面白い。

 西田陽二「屛風の前で」。これまで白一色の画面であったが、今回その白い壁や白い床に対して朝鮮のものと思われる漆の木製の屛風が背後に置かれていて、新鮮である。そこに螺鈿と思われる紫色の草花の文様が、アクセントとして小気味よいリズムをつくる。女性は中国の染付けのような壺を膝の上に抱きかかえている。黒紫色の屛風の前に白衣の女性が坐り強いコントラストのなかにこの女性のクリアなフォルムを強調する。これまで以上に白が落ち着いて、それぞれの物質感のなかにピタッと収まってきたことも進境である。また手の表情や二つの足の指先の表情などのディテールがクリアであるところも、この作品の絵画性と言ってよい。首飾りや耳飾り、帽子の飾り。そんな装身具もよく生かされて、この女性のもつ落ち着きのある容貌を強調している。

 卜部俊孝「画室のアンティーク」。黒褐色のトーンの中に静物が描かれている。望遠鏡やガスランプ、あるいはワインボトル、あるいはパンや果物も置かれている。ねちっこい油絵らしいマチエールの中にある微妙な気配のなかに表現されている。それは周りの空間の密度による。

 西田伸一「風の季節に」。文部科学大臣賞。黒い帽子、黒いワンピース、黒いブーツをはいた女性が右上方を眺めている。それは階段の途中のようだ。そして、バックがすりガラスのような窓になっている。そのすりガラスの中に微妙な陰影がつくられている。両側には蔓科のような植物が描かれている。彼女がいるのは戸外のようだが、また室内のようにも感じられる。女性は遠い未来を眺めているようだ。その未来に対して過去がすりガラスの中に入っているような、そんな雰囲気もある。中心はこのほとんど白黒のモノトーンの明暗のなかに表現されている。それは水墨の豊かな墨色の広がりを思わせる。その意味では肌のしっとりとした色彩が逆に高い色彩効果を上げている。手や足の爪先の表情、あるいは目や唇、そんなディテールがクリアに表現されている。そのクリアさがそのまま時間の深いニュアンスを思わせてこの空間の落ち着きのなかに表現される。階段というシチュエーションもそんな人生の途中という意味で了解するとわかりやすい。また、左足のかかとがすこし持ち上げられているのも、この女性の微妙なムーヴマンをつくるのに有効である。

 日野功「川沿いの家」。川に接した道から一メートルぐらい後退したところに、この建物がある。屋根はトタン屋根で物干し竿があり、洗濯物が干してある。植木鉢も地面に置かれていたり、盥やガスボンベも見える。二階の窓のそばには衛星放送のアンテナものぞく。この典型的な貧しい下町の建物の様子を画家は感情をこめて表現する。その深い感情がこの厚いマチエールをつくる。それによって色彩が内側から輝くような、そんな性質を獲得する。植木鉢から見える花の朱色や洗濯物の白や青が、まるで宝石のようなイメージとして画面の中に与えられているところが興味深い。生活の歌、いわば画家のつくりだしたシャンソンと言ってよい。

 堀研一「小休止(エドワード)」。鞄とコートの前に人形が座っている。そばにアコーディオンがある。腹話術師が連れて歩く人形のように感じられる。腹話術師はここにはいない。腹話術師が休んでいる時に、彼が着ているコートやバッグや人形が別のなまなましさでもってこの画面の中にあらわれているところが面白い。キングという呼称をもつエドワードという魔術師のものがここに置かれているようだ。この扉のあるボックスの緑がかった色彩が、哀愁を漂わせる。その扉があくと、腹話術師の長い過去の出来事があらわれてくるかもしれない。そんなミステリアスな雰囲気を漂わせているところが魅力。

2室

 守長雄喜「かき打ち場」。入江に白い漁船があり、そこからベルトコンベヤーでカキが上に運ばれる。男が作業をしている。向かって左側には、その奥にも背中を見せて作業している男がいる。その背後には工場の建物がいくつも白い壁を見せて立ち並んでいる。くの字形のベルトコンベヤーの形。男の作業する様子。入江にうずたかく積まれたカキの殻。斜線の動きの中に男の働いている様子が人間の心の奥底、いわゆる無意識の世界の働きを象徴しているように感じられる。筆者がしばしば指摘してきたことだが、単なるカキ打ち場の働いている男と風景というように思えない。その風景と人間がそのまま内景と化して、人間の内部での働きを象徴しているように感じられるところが興味深い。フォルムが上方に行くにしたがって後退していくそのリズムとベルトコンベヤーの動きとが深いところでお互いに呼応しているように感じられるところも魅力である。

 町田博文「モントロ 光耀」。モントロとはスペインのコルドバ地方の町である。その中世の街並みを背景にして、テラスに女性が座っている。そばにワイングラスがあり、赤ワインが入れられている。スペインの青い空、白い建物。そんな無限感のある空間をバックにして座っている女性の雰囲気は、どこか謎めいている。町とこの女性とを結びつけるものは光線の力と思われる。

 橋本一貫「時」。壊れた遺跡。積まれた石が崩壊して、一部が残っている。柱もそうである。その一つひとつの石を淡々と描く。その石が集合し、強いリズム感がそこから醸し出される。いわば壊れたモニュマンと言ってよいイメージ。そこに現代の時間が入ってき、歴史の時間が引き寄せられる。グレーの中に緑や黄土、あるいはすこし茶褐色などの色彩を入れながら、複雑なグレーのニュアンスがまたこのイメージを支える。

 福田あさ子「瞬く」。和人形が畳の上に立っている。背後の屛風が面白い。真っ赤なバックに枯れた蓮の葉と、いま飛ぼうとして羽を広げている鷺のような鳥が描かれている。日常のなかにある感情の揺れ。ときめき。そういった瞬時のイメージを捉えて構成すると、このような作品になるだろうか。すこしシュールな味わいも醸し出される。

 橋浦尚美「Contact」。うつ伏せに寝て、右手の先に木の手が触れている。上方から光が差し込んで、この若い女性と手を染めている。それは太陽光線であると同時になにか形而上的な性質を暗示させる。心の奥深いところにあるものにふれようとしているかのようだし、あるいは、キリスト教の文化の中では手はしばしば神を象徴するものとして表現されるが、そういった信仰のイメージもしぜんと感じられる。うつ伏せの女性のクリアなフォルムもまた魅力的である。

 吉引邦子「ぼくの空」。テーブルの上に両肱をついて子供がお絵描きのようなことをしている。飛行機や様々なものがテーブルの上に置かれている。暖色系の色彩を使いこなしながら、柔らかな雰囲気のなかに色彩のハーモニーをつくる。ボナールを思わせるような独特の色彩感覚だと思う。また、周りの空気感のようなものが色彩の調子によって表現されているところもよい。

 森康夫「緑風」。雪景である。杉がいくつも立ち上がって大きな塊をなしている。手前にもっと小さな丈の低い樹木が立って、雪の白と樹木の緑と空のすこし緑がかったグレーとが静かにハーモナイズする。「憧れ」のような深い情感が醸し出される。

3室

 池山阿有「休けい」。頭に手拭いで鉢巻きをした年老いた女性。どっこいしょといった感じで坐っている。強い存在感がある。顔や手に黄金色の光が差し込んでいる。そばに火鉢があって、薬罐がかけられている。その手前には鍬が置かれている。上方には障子があり、柔らかな光を映している。黄金色の柔らかな光と寒色の青の独特のニュアンス。その中にこの女性は聖なる存在のように描かれている。また、屈んだ全体のフォルムの大づかみな表現。強い存在感。手の一部や顔の一部のディテールがそこから浮かび上がるのが、独特の絵画的魅力をなす。

 杉山吉伸「白の記憶(裂)」。打ちっ放しのコンクリートの壁に棚がつけられている。その棚に左肱をついて座っている女性は謎めいている。右足をすこし前に、左足をすこし後ろに置いたポーズ。両手は膝の上で組まれている。白い肌が独特で、それがこの白い衣装と呼応する。ビロードを思わせるようなすこし緑がかった黒いチョッキもまた独特の触覚と色彩効果をなす。そばに人形が横向きに座り、白い花が挿された花瓶がある。矩形の窓が頭の後方にあり、その窓の向こうに山が見える。室内であるにもかかわらず、戸外の空気感が室内に浸透してきて、独特である。マチエールに手触りがあり、一つひとつ触りながら画面を構成している。その強い触覚的要素が強い気配を引き寄せる。視覚的に対象を眺めるのではなく、視覚がそのまま触覚と化すような感覚の働きによって、この室内の女性の心臓の鼓動が聞こえてくるような不思議ななまなましさが感じられる。女性があるミステリアスな存在と化す。絵画ならではの力である。

 金山桂子「光さす刻」。七つの形の違う瓶が置かれている。一つ、青い瓶がすこし離れて奥のほうにある。台はあわあわと表現され、バックと溶け込む。バックには空のようなイメージがあらわれている。手前のベージュの色彩も優しい。瀬戸内海の島に生まれた画家が育った美しい砂浜のイメージが、この色彩にあらわれているように思われる。昨年の大津波の悲惨な出来事の余韻というのか、深い祈りのような心持ちがこの瓶の周りの空間から感じられる。

 藤森兼明「サンタマリア デル アミラージリオ」。サンタマリア・デル・アミラージリオはシチリアのパレルモの教会である。そのビザンチン様式の教会の内陣を背景にして、黒髪の日本女性が座っている。バックには金が厚く塗られている。その金の醸し出す独特の厳粛で豪華な雰囲気。信仰のなかに続いてきた長い時間に照射されるように、いま生きる若い女性が表現される。そのフォルムは力強く、ゆったりとして、足を組んでいる。床に何重もの青と金との文様が描かれているのが一種曼荼羅を思わせる。その床の円弧と壁のアーチ状の円弧、あるいは円の中に描かれた聖人の顔などがお互いに共鳴しハーモナイズする。空間自体の強い精神的性質が今という時間を静かに照らす。

 寺坂公雄「やまづら紅葉」。一本の樹木が画面の中心よりすこし左側にある。赤く紅葉している。その紅葉した樹木は点々と背後にもある。白い樹木の幹が伸びていく。一本の大きな樹木の幹がいちばん近景にある。その樹木の幹の形を見ると、須田国太郎のあの塔の作品のだんだんと奥に向かう韻律のある構図を筆者は連想する。須田国太郎同様にこの作品には幽玄の気配が漂う。掌の上に置いて命の姿を見るような、そんな紅葉した一本の樹木が中心にある。グレーの中に朱色が命が燃えるように表現される。

 伊牟田經正「旅人」。上方にブランド店のショーウインドーのようなイメージがあらわれている。ショーメも宝飾ブランドとして有名である。海外を旅行したときのイメージ。旅のイメージを舵で表し、木馬でも表す。下方にはバイブルと赤ワインとパンと剣がある。常にクリスチャンの信仰を保ちながら旅をし日常生活を過ごす。時の移るなかに変わらない信仰というものがより強調される。信仰と時間というものをテーマにし、画家は繰り返し複雑なコンポジションをつくる。ショーウインドーのあいだに十字架が描かれている。そのオレンジ色の色彩で淡々と描かれたキリストの像が深い感情を醸し出す。

 根岸右司「望来」。地面は雪をかぶっている。手前の斜面に樹木が立っている。向こうには岬がもっこりとした姿を見せる。ほんの小さな家が一つ。右のほうの斜面にはくねくねとした、すこし丈の高い樹木が立っている。樹木や草はフォーヴィックにぐいぐいと表現する。まるで画面の上でタクトを振るように、植物の生命感を一種フォーヴィックに表現する。そのフォーヴィックな線の扱いは一種優れた水墨の筆の動きを連想させる。それに対してどっしりとした岬と建物。はるか向こうまで伸びていく水の広がりと水平線。柔らかなピンクの光が差し込んでいる。朝方の光景のようだ。

 長谷川仂「初夏の光」。断崖の上に立つ建物。下方の岩のもつフォルム。その不定型な形の中にこびりつくように樹木が生えている。それに対して上方の建物の秩序ある構成。広場に自転車に乗る青年と一匹の犬。右端には車と人がいる。石でできた白い集落。それを支える岩盤と自然の恐ろしいフォルム。長い歴史のあるこの集落の中にいま光が差し込み、人間が存在する。見ていると、その人間たちは生死を繰り返して、いまここにあるような、そんな長い時間の連鎖といまという一刻の、その対比を思わせる。

 西山松生「二子玉川」。力強い。水墨で言えば文人画的な、そんな強いエネルギーとリズムを感じる。伸びていく樹木。そのそばに座る女性と立っている女性。遠景に、散歩している二人の女性がいる。自由にイメージを引き寄せながら、色彩豊かにフォルムを構成する。題名を見て驚くのだが、これは二子玉川のある情景なのである。その情景が絵の中ではたとえばヨーロッパの街の一隅のような雰囲気で表現されるのである。

 佐藤淳「ボデゴン」。ボデゴンとはスペイン語で静物という意味らしい。すみずみまでクリアなフォルムが心地好い。とくに白い棚の中に置かれた卵などは出色である。白いお皿に茶色い卵と白い卵が盛られているが、その紡錘形の形といい、手触りといい、触感といい、フォルムといい、きわめて一片の詩のようなイメージを感じる。同じようなイメージをカリフラワーや赤いニンジンやニンニクにも感じるのだが、棚の上に置かれたものたちのクリアなフォルムに対して、その棚の奥のほうに置かれた卵が隠し味のようにきいている。そして、この野菜などを中心とした静物や赤ワインなどのキッチンの様子を内側から祝祭しているような雰囲気が、この卵にあるように感じられる。日常の中に発見した敬虔なもののもつ不思議な魅力が、画面のすみずみまで隈なく目配りされた画家の透明な強い視線によって捉えられる。

 稲邑嘉敏「水辺の木」。小川のような小さな川が手前に流れている。その向こうに樹木が立ち、可憐な白い花が咲いている。そんな日本のありふれた田舎の一角を生き生きと表現する。植物のもつ動き、樹木のもつ動き、その繊細なディテールを捉えながら、しっとりとした日本の田園の光景を表現する。

 髙橋恭子「花を持つ」。白い花を膝に置いて、その茎を持っている若い女性。右手を顔のそばに置いている。この作品は緑が主調色となっている。そして、この女性には神的なイメージが漂う。それはこの画家の独特のユニークな感性で、だいたいそのような印象を彼女のどの作品からも受ける。背後には白い壁のヨーロッパふうな建物が見える。女性の体全体もすこし緑によって染められている。植物的な感性。動物を主体としたヨーロッパの文化に対して、日本の文化は植物を主体としたものであるに違いない。そのようなものの象徴としての女性像で、その彫刻的な彫りの深い顔はヨーロッパふうだが、植物的な世界のシンボルのように表現されている。この女性は西洋と日本の中間的な性質をもつようだ。

 篠田ますい「映」。若い女性が床に座っている。クリアなフォルムで、その人体のディテールのもつ不思議な生命感をよく表現する。

4室

 坂手得二「牛窓・瀬戸の秋」。色彩が実に魅力である。紅葉したピンクやオレンジなどの色彩がそれぞれ微妙に異なって繰り広げられている。そのあいだにオリーヴの独特の緑の色彩が置かれている。向こうに見える瀬戸内の海は明るいコバルトで、その向こうに島や対岸の陸地、山が見える。斜光線が差し込み、それぞれの物象を美しく染め上げる。透明感があって、美しいステンドグラスからあらわれてくる、そんな色彩の魅力を感じる。

 庄司栄吉「坐る男」。画面の内側から強い波動があらわれてくる。緑、赤、ベージュ、青、様々な色彩が塗りこめられている。画家は、音楽を愛し、文学を愛し、映画を愛し多彩な才能の人である。そのベースにある詩人のイメージがこの人間に感じられる。画面の中心から放射状に広がる強い気配やムーヴマンが魅力。

 福島隆壽「瀬戸内海」。三人の裸婦が横になっている。仰向き、横向き、後ろ向き。そして、その緑や青のシルエットの裸婦の周りに赤や黄色や白い色彩が置かれている。まるで全体でステンドグラスを見るような思いに誘われる。瀬戸内海の朝日や夕日、あるいは昼の光。様々な光がこの絵の中に入っているようだ。すべてが入ると白色光線となり、朝や夕方には赤い光線となる。そして、そこには島がたくさんある。その島のイメージがこの女性の横になったフォルムと重なる。瀬戸内讃歌と言ってよい。

 大附晋「ノルマンディーの港」。岸壁のすこし手前からこの光景を眺めている。その画家の目の位置というものがよく感じられるところが、この風景に独特のリアリティを与えている。岸壁には切り込みが入って、向こうに続いている。二つの街灯がそこから伸びている。そばには船が繫留されている。マストのある帆船である。そして、遠景には建物が横に並び、そのラインに岸壁があり、そこに白い船がたくさん繫留されている。艫のほうを見せたそのフォルムの連続した雰囲気と、手前の大きな近景の船の形とが、独特の視覚的現実ともいうべきものをつくる。頭でつくった風景ではなく、やはり知覚というもののもつ強さがこの作品のリアリティをつくる。すこし紫がかったグレーの空を水が映している。手前の水は遠景の空より明るい。そこに船の影が映っている。ベージュの岸壁、遠景の青みがかったグレーの屋根と黄色い壁。そしてその下方の白い船。手前の緑がかった船の船腹から伸びる茶色いマストと白い船室。黄土系から黄色系の色彩に対して、寒色系の色彩の配分。そして、その中間色の紫の導入。緊密な構成の中にほんのすこしのマストの傾きの連続した様子が、視覚による静かな歌のようなイメージを与える。

 酒井英安「雪を待つ秋元湖」。湖を背景に葉の落ちた樹木がその枝を伸ばしている。その形が複雑で力強い。一本の根本から幹が三つに分かれ、うねうねと広がっていく。そのフォルムをよく表現している。視界を阻むように梢の先まで伸びていくその形は、アルカイックと言ってよい。また、悩み多い人間の姿のようにも感じられる。枝というより、なにか触手が蠢いているような、そんななまなましさが感じられる。写実がそのまま深い心象風景と化す。

5室

 林可耕「雪風」。丸い椅子に腰を下ろした若い女性。後ろ姿に近い角度から眺められている。顔はすこし左にひねって、その横顔がのぞく。バックの緑や朱色、黄色などの入れられた色彩がロマンティックである。まだ成熟しきれない少女の肢体を生き生きと表現する。

 上垣和子「時のあわい(兆し)」。若い女性の白い肌が妖精のようなイメージである。花模様のワンピースを着て、帽子には薔薇の花がつけられている。バックに湖がある。女性の向かって右は緑で、向かって左は淡いグレーになっている。「時のあわい(兆し)」という題名のように、夜と朝方といった時間帯の変化、それによってあらわれる反省的な気持ちと未来を望むような気持ち。そんな心象が醸し出される。湖に波紋が描かれていて、それが心のときめきのようなイメージを与える。右のほうにはカワセミがとまっていて、それも心の変化や揺らぎの象徴のよう。寓意性を考えたうえでの繊細なコンポジションとなっている。

 大澤弘叔「エネルギー考(平常心)」。タンクの上がサーカスの場となっている。一輪車に乗る二人の女性。それを眺めるピエロ。そして、手前のタンクには工事の人がヘルメットを脱いで頰杖をついて横になって、それを眺めている。タンクという圧倒的な現実感のある存在を引き寄せながら、不思議なファンタジックな空間を描く。

 武田佐吉「白い敎会」。教会や民家のあいだに小さな広場のようなところがあり、そこに犬を連れた少年やお坊さんや子供と母親などが点々と描かれている。一本の木は黄色く紅葉している。俯瞰したところからヨーロッパの街というもののもつ性格、とくに広場を中心とした独特の雰囲気をよく表現している。そして、一つひとつの建物の中に何か物語が入っているような、そんな雰囲気であるところも面白い。

 池岡信「里華の人形」。里華の人形が白い衣装を着て、いちばん手前に座っている。なにか憂鬱なメランコリックな表情である。後ろに様々なもので貼り合わされた、たとえば映画のポスターなどで貼り合わされたボックスがある。その背後の棚の上の天使の像や薔薇の花、そして女性の横向きのデッサン。画家のアトリエの中の一隅と思われる。その中で画家は過去を追想しながら静かにイメージを紡ぐ。過去の追想の同伴者として里華と名付けられた人形が引き寄せられる。

 鈴木英子「NOT ALONE」。真ん中に木の椅子に座る裸の女性はまるで妖精のようだ。その仲間のようにライオンやヒョウ、兎、キリン、象、駱駝、猿などが集まっている。みんなだいたい正面から描かれて、よく卒業写真などで椅子に座った写真があるが、この少女と動物たちの集合写真のような、そんなユニークな雰囲気である。左上方の木の梢から蛇が顔をのぞかせているのもほほえましい。蛇と対照的に爬虫類のワニが手前にいて、その前には不思議な花がまるで大きな目のように花弁を広げている。森羅万象、自然の生き物たちがすべて友達で、それを画家の自画像と思われる女性が統合しているといったユニークな構図である。アンリ・ルソーを思わせるような強いイメージの中にあらわれている。対象の大小は自由に変化させられて、現実の生き物というより、いわば夢の中にあらわれてくる生き物たちの集合といった、そんなイメージの力に注目。

 工藤眞詞「啓蟄」。上半身はグレーでスカートは赤や緑の色彩が入れられている。バックは暗く、夜の女性像のようだ。独特のロマンティックな華やぎがある。とくに上方のグレーによって描かれた女性の顔や上衣は、月光が女性の顔に変じたような味わいが感じられる。ポエティックな女性像である。

 早崎和代「ジゼル・翔韻」。白い壁にポスターが貼られている。そこには男女がバレエをする様子が描かれている。女性が体をしならせながら両手を上げて、背後から男性が抱きかかえる激しいフォルムである。その前に台があり、ヴァイオリン、時計、青い羽、インクなどが置かれている。白い床にはピンクのバレエシューズ。クラシックバレエの人体の鮮やかな表現とその音楽に魅せられて、それを平面の上に視覚化しようとする強いヴィジョンを感じる。テーブルの脚が二つの円弧によってできているのも面白い。また白の中にある清潔感や無限感といったイメージが醸し出されているところに注目。

6室

 中垣貴子「春風」。浴衣のような衣装を着た女性が跪いて立っている。背後に椿の花がある。独特の触覚的な力と温かな雰囲気がある。女性の体温さえも感じるような、そんな存在感が魅力。

 青木貴次「銅山回想」。いくつもの建物が集合して、だんだんと中心の高い建物に向かう。その左端には白い長い煙突が立っている。銅山の建物があるモニュマンのように表現されている。油絵のもつ質感が、この歳月のたった建物のイメージをよく支えている。

 瀧澤德「山里新雪」。構図が面白い。手前のカーヴする丘。その向こうの黒い樹木。そして、遠景の山の斜面に囲まれるように立つ集落。雪をかぶっていて独特のしっとりとした雰囲気のなかに建物群が描かれている。雪国の詩情ともいうべきイメージがあらわれる。

 阿部香「過ぎゆく夏に…」。白い丸いテーブル。白い貝。青い衣装を着た白っぽい女性の球体関節人形。背後に海がのぞく。基本的には清潔な白と青とによって構成されている画面で、あいだに黄色がある。追想の中からあらわれてくるシーンのように感じられる。追想によって余分なものは洗われて脱落し、イメージの純粋さだけが画面にあらわれる。夏と秋との境には不思議な空虚な時間があり、季節の分かれ目のような、そんなすき間に風が吹くような、独特のロマンティックな雰囲気が画面からあらわれてくる。

 田中基之「浜のおばあちゃん」。籠を背負った、白い杖を持った老いた女性。籠の中には魚がいる。背後に浜があり、廃船があり、海があり、人々が働く姿がある。いまはもう漁も不振で、盛んだった頃の時代を懐かしみながら心の中のモニュマンのようなイメージをつくりだしたように思われる。そういった象徴として、この年老いた女性の籠を背負った姿が描かれている。そこには聖なる存在といったイメージも入っているようだ。絵具を塗り重ねた表情に、独特の親近感と懐かしさと敬虔な思いがこめられている。

8室

 西村満「廃墟の階段」。踊り場が二つある階段が上方に向かう。右のほうの断面は黒い空間の中に溶け込んでいる。時間というものの象徴のような不思議な雰囲気があらわれている。

 渡部かよこ「おだやかな街」。茶色い屋根瓦。白やベージュの壁。たくさんの建物が道に沿って建てられている。そんな様子を上方から俯瞰的に表現する。その建物の集積をはるか彼方まで画家は追っていく。それによってこの建物の密集した街がまるで生きて呼吸するような、そんなリズムが生まれる。そして、壁に窓が見える建物には、歳月の重みが塗りこめられている。生活する人々の息吹のようなものがしぜんとそれぞれの建物から発してきて、全体で力強い命の合唱のような、そんな音楽が聞こえてくるようだ。

9室

 松岡冨士則「残雪」。浜の向こうに海が見える。右の端のほうに点々と黒褐色の葉をつけた樹木がある。それだけの茫漠たる風景であるが、なにか心にふれてくるものがある。

 鈴木義伸「醬油蔵」。一度コンクリートを流したような土間の上に大きな木の醬油樽が置かれて、向こうまで続いている。土間の向こうに行くと外になって、明るくなっているが、途中は暗い。そこに蛍光灯が二つ灯っている。手前のあたりはすこし明るくなっていて、道具が掛けられたり吊るされたりしている。陰影がしっとりとして魅力だし、遠近感の中にものの大小が強調されて、それがシャープな動きをつくりだしている。また、色みは単一だが、トーンの変化がよく捉えられて、しっとりとした味わいが感じられるところが魅力。

 平原義二郎「鎚起する」。右手に金槌を持って、左手に抱えたピンクの球体のようなものをそれで打っている。そんな職人の姿。目の前には様々な道具があるが、独特の色彩家のように感じられる。配置に独特のリズム感と動きのあるところがよい。

 筒井博「蟹売り」。台の向こうに手袋をして立っている男。台の上にはケガニのようなものが幾つも置かれている。独特のボリューム感と手触りがある。また、ひんやりとした空気感のようなものが魅力。

11室

 中澤知子「一隅  一刻」。煉瓦造りの竈。大きな鍋や瓶があり、裸電球がぶら下がっている。一つひとつ触るような触覚的な力が画面に独特の強い気配を与える。この竈は無機物であるが、生きているような味わいがあるし、そんな温かな血が流れているような表現に注目。

13室

 菅井隆吉「春」。林檎畑なのだろうか。葉を落とした低い裸木が点々と地面に立っている。そのくねくねとしたフォルムが面白い。それぞれが手を広げ、触手を伸ばしながら立っているような雰囲気で、まるで人間の群像を見るような思いに誘われる。そばに一輪車が逆様になって倒れているのは、どういうわけか。春を待つ樹木の息吹と転倒した脇役の一輪車が面白く対照される。いずれにしても、樹木の生命力の表現がこの作品のみどころである。

 山本宣子「ペルシャ遙か」。ペルセポリスの浮き彫りを描いている。貢ぎ物をしている兵士たちの像。そばに羊がいる。古代の強い生命力のある人間のイメージが画面の中に引き寄せられる。

15室

 大久保佳代子「ひととき」。ソファに右肱をついて、床に座る若い女性。透明水彩の技法を生かしている。透明感のある中に対象をしっかりと描いている。少女のフォルムが力強い。

16室

 菊岡政明「登り窯」。窯の外側の土でできたところが白い厚いマチエールで描かれている。独特の色彩感覚のよさをその灰白色から感じることができる。

 入江康子「街角」。ショーウインドーの前に立つ若い女性。その横から見た姿が描かれている。ショーウインドーの中には衣装がマネキンに着せられていたり、ブーツやハンドバッグが見える。同時に後ろ側の横断歩道と街並みが見える。そんな様子がグレーの中に蜃気楼のように浮かび上がる。この女性のポケットに手を入れて立つフォルムをしっかりと温かく表現している。それに対して蜃気楼や霧を思わせるような後ろのガラスの中の世界。都会の一隅に一つの詩を画家は発見する。

17室

 河野とみ子「Forever」。テーブルの上にクロスが掛けられ、白い人形やランプや樽、ホオズキ、洋梨、ドライフラワーの向日葵などが置かれている。布が垂れている中に鳥の形がくっきりと線描で描かれていて、それが微妙なアクセントとなっている。左上方から光が入り、それぞれのフォルムをくっきりと浮かび上がらせる。特に白い人形が強い印象を漂わせる。細密描写ではないのだけれども、すこし離れるとフォルムが浮かび上がってくるように強い。

 長谷川満智子「私の場所」。フローリングの廊下の向こうにアトリエがある。キャンバスを前にして若い女性が頭の下に手を置いて立っている。廊下の向こうにアトリエが輝くようなかたちで描かれている。それぞれのフォルムがその光の中に静かに浮かび上がる。敬虔な雰囲気と繊細な味わいが魅力。

18室

 大上敏男「メトロ」。老人がヴァイオリンを抱えている。譜面台には何も置かれていない。後ろに頭蓋骨が置かれている。生と死。ヨーロッパにはヴァニタス画と言って、死を思うと人生は虚栄に満ちたものだというテーマを繰り返し描いたものがあるが、同じような性質を感じる。しかし、老人のフォルムは全体を塊として捉えて、存在感がある。骸骨もまた同様の存在感をもつ。タロットカードが散っているが、死に神のようなものも中にいるようだ。独特のドラマティックな表現である。

 住吉由佳子「月夜に徊す」。光風会会員賞。大きな杉の木が画面を縦断している。その背後に二列になってだんだんと遠ざかる杉林が、だんだんと淡くなるように描かれている。月光が差し込み、近景の樹木を染めている。ロマンティックで神秘的な日本の風景の表現である。しっとりとしたトーンの中に華やぎが感じられる。満月にかぐや姫が去っていったが、そのような日本の民話のような物語も、この作品を見ているとしぜんと思い浮かぶようだ。

 小林理恵「横浜夕景17・返照」。上方に大きな帆船が描かれている。下方四分の三ぐらいが海で、その海の水面がきらきらと光っている。まずほとんどインディゴに近い暗いブルーに青い色彩で光を入れ、その上からすこし黄色みを帯びたベージュの明るい色彩で光を描いている。その光が節度のなかに、しかも豪華に表現される。まるで光が夢の象徴のようだ。光を見ているうちに船に乗ってもう一つ別の世界へいざなわれそうな思いに誘われる。

 細川郁子「異国雪景色」。教会や宮殿のあるヨーロッパの街並み。あいだを川が蛇行している。白黒による表現であるが、正確に対象のフォルムを力強く描いている。力強いドローイングの力に注目。

19室

 山崎伸子「光韻」。振袖姿の女性が黄金色の扇子を持って立っている。バックが面白い。グレーの中に黄金色の色彩が散りばめられている。それがまるで黄金色の蝶が群舞するような華やかな印象である。そんな印象にふさわしいような豪華な衣装をつけた若い女性の美的な姿が印象深く表現される。

 佐々木節子「夏の午後」。袖のないワンピースを着た女性が椅子に座っている。その全身のフォルムをのびのびとした雰囲気の中に描いて、独特の生命感を表現する。20室

 尾関静枝「雪の奥利根」。遠景の二つの駱駝のこぶのような山が懐かしい。手前を川が流れている。そして、近景の斜面に立つ樹木。セルリアンブルーの空と白い雪。二つの山の頂上あたりに光が当たっている。憧れといったイメージを喚起する懐かしい風景である。

 野末光子「私の部屋『春雷』」。黒いテーブルの上に和人形。白い花の入れられた花束。果物の置かれた白い花器。背後には応接や暖炉のある部屋の写真がコラージュされている。あるいはヨーロッパの芝生のある庭や時計などもコラージュされている。詩的なイメージがあって、空間の中からメロディやリズムが流れてくるようだ。小さな花の集合が雪とダブルイメージになっている。

 松本信子「夢の行方」。道路がダイナミックに描かれ、その向こうに高いビルがその幾何学的な形を見せる。風船がいくつもいくつも、大小飛んでいる。赤や白、黄色、青、緑。都会の無機的なこの表情のなかに風船が人間の一つひとつの夢のシンボルのように表現される。それらが集積する中に哀愁が漂う。

26室

 後藤婦久子「雪の朝」。雑草が生えている草原。段差があって、そのあいだに黒褐色の色彩があらわれる。雪が降っている。ほとんど抽象的な味わいの中に独特のメロディとリズムが表現される。

31室

 立木雅子「冬の村」。独特のファンタジックな空間が懐かしい。雪が降っていて、建物の屋根に一部雪が積もっている。三角形や急斜面の屋根をもつ建物はヨーロッパの北国の集落を連想させる。その建物の集落を取り巻くように川が流れ、雪が降る。全体に柔らかな情緒豊かなメロディが画面から聞こえてくるようだ。

 諏佐英和「聖書を持つ人」。聖書を持つ白髪の男性は神父なのだろうか。後ろに柱があり、その向こうにキリスト降下図、いわゆるピエタ像が描かれている。柱は十字架の柱のようだ。今回の東日本大震災に対する深い思いから生まれた構図のようだ。ひび割れた柱がそのまま津波や原発のイメージを象徴する。

 太田稔「残映」。下方に高層ビル、上方にたくさんの花火が描かれている。火が散って大輪の花がいくつもいくつも現れている。そしていまシュルシュルと上方に向かう五本の打ち上げたばかりの花火。夜空のドラマが面白く表現される。

 柳沢利光「自画像」。武道家を思わせるような佇まいの全身像である。独特のムーヴマンがこの人体から発してくる。

 高井将行「行人」。青年の像である。膝から上の全身が入れられている。人間の運命といったものを考えながら、内面的なところから対象を把握しようとする姿勢に好感をもつ。

32室

 林敏政「5月の回覧板」。光風会奨励賞。回覧板を持つ五、六歳の女の子。アスファルトの地面の上に立っている。くっきりと日差しが差し、影が捺される。しーんとした気配の中に時が止まったような独特の緊張感が漂う。

 髙澤皓「河と枝」。雪の積もっている地面のあいだを水が流れている。裸木の枝がそこに伸びている。そんな一隅をきわめてクリアに表現する。遠近感を強調しながら厚みのある空間が生まれる。水の中に夕日のような日差しが入れられていて、不思議な味わいを醸し出す。

 坂口正弥「静かに在る音」。ギターを弾く青年を誠実に表現している。音を聴く。そんな人間の気配がよく表現されている。

33室

 岩野禎文「北の駅」。操車場のような場所がテーマになっている。それを建物が囲んでいる。雪が積もっている。しっとりとした中に渾沌とした不思議な雰囲気があらわれている。電車と線路というもののもつエキゾティックなイメージとノスタルジックなイメージがクロスする。

 坂井邦広「八曽自然休養林」。小川の周りに鬱蒼とした植物が茂っている。その濃密な自然をよく表現している。一つひとつのフォルムを丹念に追いながら全体で厚みのある空間を表現する。

34室

 中野日和「晩夏 たまゆら」。二羽の鷺が水の中にいる。手前は一本足で、それを向こうの二本足で立つ鷺が眺めている。上方に水紋が同心円の弧を描いている。しーんとした中にまるで仲間を見守る鷺のような、鷺と鷺との関係がまるで人間関係を見るような、そんななまなましさで立ち上がってくる。

36室

 栁下義一「夢見月」。青みがかったグレーの壁をバックにして女性が立っている。両手をポケットに入れている。細かいメッシュ状のグレーの上衣を着て、スカーフを巻いている。そのグレーのトーンの中に光が吸い取られていくような独特の集中力のある画面である。黒い髪に柔らかなキメ細かい肌をした女性が遠くを眺めている。壁に窓の影が映っている。イスラムのアラベスク模様を見るような、そんな集中力が作品から感じられるところが興味深い。

第89回春陽展

(4月18日~4月30日/国立新美術館)

文/高山淳・小池伊欧里

1室

 有吉宏朗「雨あがり」。倉庫の手前に水溜まりのできた空き地という何の変哲もない風景が、画家によって特別な世界に生まれ変わる。不思議なほど人の気配が感じられない代わりに、色彩の存在感が迫ってくる。丁寧に描写された建物や木々が、水や土の幻想的な色を現実の中に引き込んでいるようだ。近付いてみると赤、青、黄色、緑、ピンクなどの小さな点がスパッタリングしたように散らばっていて微妙なニュアンスを生み出している。(小池伊欧里)

 小池悟「臨海」。モザイク状に正方形が連なり、異なる時空の境界のような雰囲気である。手前にはテーブルと椅子のようなフォルム、明るいベージュの空間には蓮の葉が表れ、遠くには一本の木と四つ足の動物が在るようだ。浮遊する動物の頭骨。生と死の境にある空間なのだろうか。重厚なマチエールと温かみのある色彩が妙な郷愁を誘う。(小池伊欧里)

 鈴木善晴「廃園鉄道」。灰白色の画面が上下に分割されている。上の画面は、廃園となった遊園地を走る古い電車。誰も乗らないメリーゴーランドの馬が幻のように上下動を繰り返す。下の画面は使われなくなった駅舎の中だろうか。面白いのは、上下それぞれに型抜きされたシルエットで小さな人間の姿が描かれているところだ。上はサラリーマン風の男たち、下は放牧された動物を見つめる人。様々な人間の記憶の中を彷徨(さまよ)うように無人の古い電車が走っている。(小池伊欧里)

 すずきくみこ「半ズボン」。巨大な少年の頭から半ズボンをはいた足がくっついている。少年の目は純真だが、表情は少し物憂げである。モノトーンであるが、ストロークの一つ一つに念が込められているような強さがある。思春期の少年が持つ複雑な意識が、つぶらな瞳の大きな頭と真っ直ぐ伸びた半ズボンの足によって表現されているように思う。(小池伊欧里)

 下工垣優江「小さなあしおと」。西日に染まった公園のような印象を受ける。下方の地面に点々と置かれた青が足あとなのだろうか。遊具や自転車、樹木などが長閑な光景の中に浮かんでくる。絵具の上にパステルで描かれた線による動きがアクセントとして効いている。(小池伊欧里)

2室

 松宮直子「卓上の風景」。卓上に植物や木の実、貝殻、試験管、本などが置かれている。緑を基調とした清潔な画面なのだが、よく見ると奇妙な物が存在する。レタスのような葉には胎児のようなフォルムが現れ、壊れた筒に包まれた粘菌は、臓器のように脈を打っていそうだ。画面の左から右に向かって緑の色彩は枯れていく。途中には実りの頃もある。生から死へ向かい、また新しい生が始まる、そんなイメージがこの卓上に繰り広げられている。(小池伊欧里)

 山口愛美「王様の居る国」。下地に赤や青が入れられているが、描画は全て鉛筆による仕事である。巨大な深海魚のような魚が複雑に幹の入り組んだ樹と一体化している。その皮は幌のように樹に結びつけられている。養分を与え一体化することで樹と共に長い命を得たのだろうか。そこに発現する生命力の源泉を求めて小さな魚たちが群がっている。深海には宇宙と同じくらい解らないことがあるというが、そんな神秘性が黒鉛の繊細なニュアンスから感じられる。(小池伊欧里)

 山本睦「クジラノ上ガル日」。一頭のクジラが仰向けに浮かび上がっている。その浮力によって渦ができ、魚やタコが巻き上げられている。堤防の向こうにいる人々はそれに気付かない。どこか植田正治に設定された世界のようだ。堤防には海洋生物の化石が現れているがこれも気付かれることはないのだろう。夕焼け空がグレーに濁った水と対比されてより現実感の無い不思議な世界が堤防の向こうに表されている。(小池伊欧里)

 野口俊文「蒼い日」。企画で展示されていたこの画家のドローイングに「蒼い月は地球でなく月から見た地球なのです、でも、本当なのでしょうか、月からは地球は蒼く見えるのですか」と読める英字が書かれていた。不安定な場所に置かれた女性のトルソが右側から光に照らされて白く発光している。青い空間の中で不思議な重量感と存在感を持つトルソである。月の化身として遠い地球に思いを馳せているのだろうか。(小池伊欧里)

 舘寿弥「相」。正方形の画面に和紙のような薄紙を貼って墨をたらしこんでいる。独特の韻律が生まれる。いわば「般若心経」を読むような雰囲気。声明のようなイメージもあらわれる。独特の音楽的な感興を覚える。効果が面白い。(高山淳)

3室

 飯田顕「家」。青を基調とした画面に三角屋根の黒い家と白い家。寄り添う二人のような家だ。それぞれの窓から住人たちが顔を覗かせ、独特なリズムが生じている。それぞれの色面が優しく調和している。黒でさえも青の一部のように馴染んでいる。(小池伊欧里)

 野口宏文「Glass」。これまで、独特な十字のフォルムや矩形的な色面を組み合わせて抽象世界を描いてきたが、今回、そこにワインボトルとワイングラスが描かれた。この具体的な物の出現によって、このスクエアが卓上に変じる。そして、にわかに人の気配も帯び始める。また、窓の外に夜を感じながら飲み交わすゆったりとした時間も感じられる。解釈の幅は狭まるかもしれないが、次々と新しいイメージを鑑賞者に投げかける構成センスに注目する。(小池伊欧里)

 進藤妙子「白秋」。月の光が波状に広がっている。粗いハッチングのように線が交錯して描かれたススキが白く輝き、シンプルながらも奥行きのある幽玄的な光景である。半生を静かに振り返りながら風と語らうような趣きが印象的だ。(小池伊欧里)

5室

 石川茂「Golden earth 大地に吠える」。一匹のライオンが降りかかる津波や困難のイメージに向かって吠えている。その咆哮の一閃によって、水しぶきは花や宝石のようなものに変換される。造形のユニークさに加えて実に細かく多彩な描写がなされていて、色彩のエネルギーを感じさせる作品である。(小池伊欧里)

 金井順子「ランドスケープ」。抽象、具象、どちらの表現センスも併せ持った画家である。ベージュの階調によって、石造りの建物の間を通る階段に差し込む光の変化が良く表現されている。ハレーションのように明るい最奥部では植物の葉と茶色い扉が画面を引き締めていて視線が誘い出される。(小池伊欧里)

6室

 笠木實「きのふの雪」。薄く雪の積もった散歩道が淡い色彩で描かれている。引きで捉えられた犬と飼い主が映画のワンシーンのようだ。少し溶けかかった雪が地面の色と溶け合い複雑な色合いを帯びる。少し霞むような画面から空気の冷えた感じが伝わってくる。(小池伊欧里)

 岸葉子「裸婦のいる風景」。白い肌の足を組んだ裸婦が右手を体に巻き付けるようにして座っている。顔の左半分は強い意志を持った表情である。右半分は背景に同化されて意識が帯状に広がっているかのようだ。頭上に広がる帯の色彩の変化は女性の心理の動きなのだろうか。肉体の生々しさと意識の曖昧さが対比される。右の方には内面世界と現実世界をつなぐように階段が描かれていて絵画ならではの心象世界が表れている。(小池伊欧里)

 丹羽晧夫「LIFE」。三人の男女がグランドピアノの前で楽譜を囲んでいる。三人が三角形を形成し、旋回するような構図である。左側の二人はバイオリニストとピアニストだろうか。演奏家としての高揚した気持ちが赤い衣裳に宿っている。右の女性はタクトを持ち、冷静に譜面を辿っている。人物の線がしっかりとしているので、同系色の背景の中でもフォルムがくっきりと立ち上がっている。(小池伊欧里)

7室

 山中眞寿子「アーティーチョークと横臥像」。中川一政賞。画面の真ん中よりすこし下方に、横たわった女性の裸が描かれている。上下にアーティチョークと思われる植物が描かれている。上方のそのフォルムはお面のようなイメージであらわれている。自然のもつ強い姿がそのまま人間の顔に少し変容するようだ。その中に白や赤や青や黄色やオレンジ、紫、様々な色彩が入れられている。アーティチョークにはとげとげがあるから、そこに裸の人が横になるとチクチクするだろう。自然はときにそのような脅迫感をもって迫ってくる。女性は母性的で、満月を思わせるようなイメージがあらわれている。それがこの黄色い色彩を呼んだのだろう。画家は芸術家独特の柔らかな感性ですべてを受容しようとする。受容したことが溢れてくると、作品が生まれる。結果、自然というものの不思議な、しかも圧倒的であると同時に柔らかで美しいイメージがあらわれる。いわば裸婦はそのような自然を引き寄せる媒介としてここに描かれているようだ。太陽の光を月が受容して黄金色に輝くように、自然の森羅万象の力を受けて静かに輝きながら、しかし女性の目は大きく見開いて、自然の鼓動や韻律やその暴力性やその優しさをすべて認識しようとしているかのようだ。独特の表現であって、まさに文人であった中川一政賞にふさわしい。(高山淳)

佐藤勤「水の誕生・復活物語」。全体で一つの装置のような塔が建ち、最上部のプールから一輪の巨大な花が咲いている。塔にはハッチングによって細やかなニュアンスが付けられ、青い色面の重なった大胆な背景と面白いバランスが保たれている。津波や豪雨などによって水の驚異を再認識させられているが、それでも水は全ての源であり、汚染された水が浄化されることが復活への大きな一歩である。そんなメッセージを受け取る。(小池伊欧里)

 東直樹「春立つ」。とげとげのあるような鋭角的な裸の木の枝が両側から立ち上がってきて、その両側の枝が骸骨化した女のフォルムを支えている。鳥がそばに来て、この女性に何か告げようとしている。鳥葬と言って鳥に死体を食べさせる風習がインドの高山地帯にあるが、この作品はそうではなく、ミイラ化した女に春が来たと鳥が告げに来ているようだ。そして、自然がよみがえり、枝が伸び、葉が茂り、花が咲く。そういった季節の再生のイメージを面白く寓意化している。(高山淳)

 三浦明範「VERITAS」。古典技法でもあるシルバーポイントを使った描写である。題名はラテン語で真理を意味する。描かれているのは現代舞踏家だというが、絵の前に立つと、漂う緊張感で息を飲むほどだった。体を反らし、すっと呼吸を止めた瞬間の筋肉の緊張、横隔膜の動き、血管の膨張が美を伴って再現されている。この画家の描く白黒の画面からはどうしても死の気配を感じる。死を意識することでしか理解できない生が真理ということなのだろうか。(小池伊欧里)

 沓間宏「よき知らせ(星降る夜)」。繰り返しモチーフとして描かれてきたシナイ山であるが、そこに様々な人間ドラマが映し出されるようになった。山の頂上へと登っていく男女。視線の拓けた先には宝石箱のような星空が広がっていた。二人はこの神秘的な天からのプレゼントを目の当たりにして、今抱える困難はすぐに克服できるということを確信したのではないだろうか。今まさに手をつなごうかという瞬間である。支持体としてドンゴロスのような麻布を切り貼りし、その上に彩色している。そのマチエールによって山の岩肌や星の瞬きが効果的に表現されている。(小池伊欧里)

 藤沼多門「果樹」。神々しさすらあるような独特な黄色の背景が目を引くが、赤い葡萄と白い葡萄が絡み合って立つ密度の濃い果樹の描写はやはり秀逸である。樹の精が潜んでいるような気配がある。量感を持って描かれた2種類の葡萄と葉っぱの表裏、ツルの跳ね具合などよく考えられている。下方の空間にクロスして伸びる幹も面白いアクセントである。(小池伊欧里)

 宮井健年「黄昏」。空を反映する水溜まりを描き続けている。コンクリートの地面にできた水溜まりは黄昏時のあかね雲を映す。今回は海というもう一つの巨大な水溜まりが対比されている。水溜まりは徐々に収縮し、消えてしまう。空をきれいに映し出す時間も限られているだろう。そんな限定的な幻想の世界に画家は魅了されているのだと思う。水や地面の色の変化も繊細で魅力がある。(小池伊欧里)

 髙橋好子「2012 地の景『道』」。田園のパノラマが広がっている。中央やや右に一本の道を描いたことによって、風景の中の起伏と奥行きが強調されている。道を中心に僅かに凹型で描かれた地平線や手前の茂みの効果でより景色のダイナミズムが生まれていると思う。多様な緑の色面によるコンポジションが強弱をもって迫り、音楽的なイメージが表れている。(小池伊欧里)

8室

 濱實「海岸風景 A」。画面の右角から長い土手が海に向かって伸びている。左のほうには突堤のようなものが、やはり向こうに向かって伸びている。それに対して水平にもう一つの突堤らしきものが伸びているようにも見えるが、そのへんは風景に溶け込んで曖昧になっている。はるか向こうに島がある。右のほうの海の波の様子を面白いカーヴの中に表現している。そのカーヴするフォルムは上方の雲のカーヴと響き合う。土手と突堤に囲まれた空間にはほとんど水がないようだ。干上がったような寂しい雰囲気である。そこに脚立のようなもの、小さな塔のようなものがある。右のほうの水の寄せてくる雰囲気はたっぷりとして、深い無意識の世界に存在する世界のようだ。右の土手の先に人影らしきものがある。その土手の先は消えているところがなにか不安感を起こさせる。内田百閒の作品の中に繰り返しあらわれてくる、あの土手。そして、土手の上を歩いていくと異界に入っていく、あの不安と懐かしさの雰囲気と共通したものを感じる。風景がそのまま内景と化している。上方の雲は水と呼応し、いちばん水平線に近い雲は曖昧な中に、そのメランコリックな雰囲気のなかに僅かに淡い朱色が置かれているところが切ない。それは画家の深いコンディションをそのまま投影するようだ。(高山淳)

 佐藤淳子「さざんかの頃」。最近、海岸のサーファーなどの人影を描いてきたが、今回は室内から見た秋の風景である。部屋の中には山茶花の花が置かれている。そのピンク色の豊かな雰囲気は、秋の花であるが、春が来たようだ。大きな窓から見える茶褐色の野原や裸の梢は秋だが、部屋の中には春が来て、秋と春が室外と室内で呼応しているような、そんなある充実感が感じられるところが面白い。また、空の淡いベージュがかったグレーのひんやりとした独特の純粋な雰囲気も、この画家らしい表現だと思う。(高山淳)

 横山了平「寛ぐ」。画室に大型のキャンバスが架けられ、十頭ほどの馬と騎乗する人々が描かれている。キャンバスの前にはモデルの女性が座り、画家本人と思われる男がキャンバスの裏から鏡越しに様子を窺うという少し不思議な様相を呈す。優れたデッサン家である画家らしい構成であるが、ポイントポイントで効いている強い色の色彩のバランスも面白い。(小池伊欧里)

 入江観「双稜冠雪」。圭角の強い山が雪をかぶっている。画家の郷里、日光の山だという。その尖った鋭角的な山の形に対して、下方にはもうすこしなだらかになった茶褐色の、あまり雪はかぶっていないと思われる山がある。その山の下には緑の樹木が生えている。その下方には紅葉したような、くすんだ黄金色ともいえる雑木が生えている。そして中心に滝らしきものが見える。華厳滝だろうか。実に不思議な風景画である。フランスの山と日本の山との二つが重なったような不思議な雰囲気なのである。画家は実は、いまは円満な顔をしているが、もともとは狷介不羈で、圭角の多い孤独な人である。その志のようなものがこの郷里の山を変形させた。下方の紅葉したような樹木はまさに日本の優しい自然である。日本の自然の上方に画家がつくりだした尖った山が聳えている。そして、空はコバルト系の色彩であるが、画家独特のでこぼこができている。画家はセザンヌを尊敬している。空は空間であり、空間があれば色面があるわけで、空の中に色面を発見するだけのコンディションが自分には必要であるということを伺った記憶がある。そのでこぼこの空もまた二つに分かれている。柔らかな明るい青い空ともっとコバルトが強い空である。いわばこの風景はある分裂した心象を統合しようとする試みのように感じられる。それだけ郷里の風景をテーマにした場合に強い詩情が起こり、画家の運命とか画家の人生観、様々な思いが交錯する。そして、この不思議な風景ができたように感じられる。風景というより画家独特の山水の趣が感じられる。同じこのテーマを水墨で見てみたい気がする。(高山淳)

 松島治基「紙面のある卓上」。朝の卓上風景を描いている。画面左下から差し込む光が朝刊を読む女性を照らす。卓上に生じた光の筋や植物の影がゆったりとした韻律を刻んでいる。くっきりと描かれた手前の黄色い花を挿した花瓶や硬質のポットに対して、女性はハーフトーンの光の中に溶け込んでいる。新聞の右上に黄色と赤の花びらのようなものが舞っている。紙面に集中して、女性の周囲だけ現実の世界と幻想の世界が交錯するような趣きがあるのが面白い。(小池伊欧里)

 奥田良悦「蟻の世態」。特殊な顕微鏡を使って蟻を観察し、様々な蟻の表情を描いてきた。今回は、上方に四匹の蟻の頭、下方に二匹の蟻の上半身が細かなディテールで描かれている。ラシュモア山に彫刻された四人の大統領のような威厳と迫力を持った上方の頭部は、にび色の味わい深い輝きを持つ。よく見ると下地に箔を貼ることでこの微妙な色相を作っている。下方の二匹は青白い光を放ちながら躍動する。触覚の動きが画面に勢いをもたらす。蟻を通して王族と臣民、使役する者と抗う者、そんな社会的メタファーも感じられる。(小池伊欧里)

10室

 生駒幸子「個人の時間」。四角い部屋の中に球体が現れ、ありとあらゆる物が女性の周囲に集約されていく。この部屋の存在する建物でさえ飲み込まれていくようだ。女性の背後にはスケッチブックが浮かぶ。この女性は画家本人なのだろうか。様々な思索を巡らせ、ありふれた事象を頭の中で解体し再構築するようなイメージがある。想像の中で空間が自在に歪み、宇宙が作り出される。白と黒のせめぎ合いの中、青と赤、そしてコラージュが効果的に入れられている。(小池伊欧里)

 坂田和之「Souffle-12」。茶畑から発想された緑のストライプがうねり、立ち上り、大きく両手を広げるように雲のような塊を上空に集積させている。「ジャックと豆の木」に出てくる巨大な豆のツタを連想させるようなこの立ち上るフォルムには生命感があり、背景の鮮やかな黄色と相まって気持ちの良い空間が出来上がっている。一つ一つの色彩に清潔感があり、自由に茶畑の動きを構成して遊ぶ画家の高いセンスを感じる。(小池伊欧里)

 小林裕児「夜行」。画面の上方にすこし赤みがかった満月がある。馬に乗った人や女性や船に乗った男女、オールを持った男などが、その月に向かって浮遊しているようだ。かぐや姫は満月に帰ったという。そのような懐かしい物語がこの作品から感じられる。十数人の人や馬などがいるが、みんな浮遊している。その浮遊感はそれぞれが楽器を奏しているように、音楽を聴くときの浮遊感に重なるものがある。自由に画家はイメージをつくっていく。下方に森があり、その森を背景にして莵をくわえた猫が静かに歩みながら鑑賞者のほうを見ているのも、奇妙な現実感が感じられる。かつて来迎図と言って、月を大日如来に見立てて、そこから管弦楽を鳴らしながらお迎えに来る図が鎌倉時代に描かれたが、これはまた逆の意味での来迎図だと思うと面白い。(高山淳)

 平井誠一「総生る樹」。林檎の実が画面全体に満ちて圧倒的である。これまでは林檎の幹を描き、林檎の幹が地面と接する部分も描いていたが、これは画面の九割までが林檎の実によって占められている。「総生る」という題名のように、ほとんど抽象的でさえある。見ていると、林檎の命のある絶対的な力というものが画面に表現されているように思われる。その絶対的な力はイスラムのアラベスク模様を思わせるところがある。アラベスク模様の代わりに林檎の赤い実が点々と、おそらく千ぐらい、あるいはもっと数が多いかもしれないが、それが画面にちりばめられ、その中に陰影がつけられている。よく見ると、それを受ける緑の中に複雑な陰影があらわれている。林檎のこの生命の力は太陽に匹敵するものである。太陽の力というものを本当に実感するのは、たとえば日蝕である。月がはまって皆既蝕のようなかたちで周りに炎が見えるときなどは、圧倒的な太陽の存在感を示す。実を支えている樹木の緑が皆既蝕のように陰って、その林檎がきらきらとルビー色に輝く。林檎の一つひとつにも陰影がつけられている。画家のイメージは林檎を描きながらより本質的に、より根源的に、より抽象的になり、前述したアラベスク模様的な、いわば生命そのものの発現のような神的なイメージを獲得するに至ったのだろうか。あるいは、その林檎とバックとが深い陰影の中にあらわれ、ちょうどステンドグラスの中にいて光と雲が動くとステンドグラスが陰影の中で呼吸するように、画面全体がそんなかたちで呼吸するような、不思議な印象も感じることができる。(高山淳)

11室

 吉沢陽子「飛べなかったタテハ蝶」。蝶をモチーフにした作品を発表してきたが、今回は特に羽の傷ついたタテハ蝶の表情が人間くさく、ストーリー性を感じるような作品となっている。木にしがみついたまま、上空を飛び遠ざかっていく蝶たちの姿を切ない表情で見守るタテハ蝶。銀色がかったグレーとピンクの空や建物によって、より一層悲しい雰囲気が醸し出されている。(小池伊欧里)

 田中俊行「早春」。数本の裸木がどんよりとした空の下に立っている。背後には学校の校舎や体育館が見える。滑らかな幹と、先端に向かうにつれて細分化された枝が強調されている。一本一本の木に存在感があって動きが面白い。この曇り空が晴れたら一斉に芽吹くのだろうか。この木々には、春に向けての生命のポテンシャルを蓄積したような、内側から発信する力がある。(小池伊欧里)

 花房このみ「変わらずにあるのは」。草原に群生するタケニグサが間もなく枯れていこうかという黄色を帯び始めている。大きな雑草ではあるが、実際以上にクローズアップして描写しているような印象を受ける。日本のどこにでもあるような色彩の風景だが、それだけに草の匂いや土の感触が呼び覚まされる。やや下から見上げるような視点で、大空に草が映えるような構図である。(小池伊欧里)

12室

 平阪弘「風景・断片」。パネルや段ボール、キャンバス生地などが散乱するアトリエ。それぞれが見えない力によって歪められ、どこかへ引きずり込まれていくようにうごめいている。支えていたものが無くなり何かが瓦解し始めたのだろうか。よく見ると、二羽の鳩と二個の卵が確認できる。鳩はこの異様な空間にあって慌てる素振りは一切無い。本能に従って、この場に安定がまたもたらされることを知っているかのようだ。しっかりと塗り込まれたマチエールによって、変型した物の本来の質感を保たせている。(小池伊欧里)

 西川光三「視」。ペンによるハッチングだけでもこれだけ量感を持った作品を描くことができる。坊主頭の子供が抱える大きな卵の殻を破って、鳥が顔を覗かせている。卵は縄で縛ってあり、上方の二羽の鳥にも縄が巻き付いている。ここでは、生まれながらに鳥たちはこの子供の支配下にあるのだ。左上方にはうごめく怪しい管が何かを狙っている。息の詰まる現代社会の姿を表しているのだろうか。(小池伊欧里)

14室

 乃村豊和「創(アダムとエヴァ)」。達者なデッサン力によって二人の人物が描かれている。手前の果実を持った裸婦がエヴァなのだろう。しっかりと塗り込まれた下地の色に溶け込むように、エヴァの肌が透き通った色彩で描かれている。頭部にはくっきりとした線が入れられ、アンニュイな表情が作られている。グレーや黄色が強調されたアダムはうずくまりエヴァの影のようである。悲しげな目が印象に残った。(小池伊欧里)

15室

 久家三夫「彼等に憩を」。内陸ではあるが福島にアトリエを構え、水をテーマに神話的世界を描いてきた画家にとって、この一年は特に様々な思いを抱きながら筆を取ったことだろう。図像的に配された草木や川、牛、鳥。木の上方の裂け目から宇宙空間が現れ、そこからやって来た女神が傷つき舟に乗って流れて来た者を癒しているように見える。この川はこの世とあの世の境なのだろうか。黄金の光の中に三人の巡礼者も見える。平穏な日々を取り戻すための祈りの世界である。(小池伊欧里)

 浦野吉人「船は何処へ」。壁画を思う。中世の人が様々な経験を壁画に描いたような、そんな強いイメージが感じられる。明らかにこれは東日本大震災のイメージである。たくさんの人が亡くなったが、死んだ人の魂も含めて、生きている人もまさにいずこへ行くのかといったことになる。この船はささやかな日本丸と言ってよい。日本人はどこに行くのかといった、そういう普遍的なイメージもあらわれる。グレーが独特の強い印象である。柔らかで手触りがある。こちらの世界と向こうの世界との境界の領域に壁があって、壁は向こうの世界とこちらの世界とを映すようだ。そのようなスクリーンとして、このキャンバスが置かれている。黒い太陽が空に浮かび、雨が降り、雲が浮かぶ。不思議な抽象的な図形が浮遊している。それはもう一つのイメージの世界が引き寄せられているかのようだ。波は騒いでいる。男たちは様々な表情をして並んでいる。ふかぶかとした空間である。ところが、雲の向こうに黄色い星が浮かんでいるところが面白い。この海の中に街のイメージが、点々とした明るい色彩で建物の窓を思わせるものが描かれている。画家は深い無意識の中に下降して、そこからこの絵を描いたと感じられる。まさにわれわれはどこへ行くのだろうか。(高山淳)

 髙橋政子「はじまり」。雪を被り、日光を強く反射する樹木が枝を複雑に絡ませている。左下から右上に向かって段々と明るくなり、冬でありながらも潑溂とした自然の生命力を感じずにはいられない。「はじまり」というタイトルだが、岩手在住である画家なので、気持を切りかえてまた新しい一歩を踏み出そうという意思が込められているのだとしたら何とも勇気づけられる。雪深く長い冬を知っているからこそ春を待つ穏やかな気持ちが持て、春の到来の喜びを強く感じることができる。この、命をいっぱいに使って枝を伸ばし雪に耐える木々を見ているとそんな気持ちが湧いてくる。(小池伊欧里)

 長沼巧「街灯のある町」。画室を絡めた風景を描いてきたが、昨年の作品に描かれた外の世界が取り出されて新しい表現が熟成しつつあるようだ。上空から見下ろした夜の町が記号のような建物や道路、同心円状の光を発する街灯などによって構成されている。よく見ると点々と人が立ち、犬も一匹いる。町曼陀羅とでも言えそうな不思議な惹きつける力がある。一見フラットに見えて、明暗の変化に富んだ画面である。(小池伊欧里)

 棚橋隆「作品」。何層もの面が重ねられ、矩形の組み合わせが作られている。グレーのバリエーションを基本としながら、下層の黄色や緑が光の深みを与えている。抽象表現であるが、コンクリートの道路や大きな建物の入口、あるいはショーウィンドーのようなイメージがあるのが面白い。(小池伊欧里)

16室

 沢修一「KAWARA(1)」。春陽会賞・会員推挙。線描に近いタッチで丁寧に筆が置かれている。僅かな水が流れる雪原と化した河原を青みがかったグレーで描く。雪に埋まった地面の色に影響される微妙な色合いの変化も良く出ている。遠景には林立する木立と連なる家が見える。一定のリズムでストロークを刻みながら、淡々と細部まで描ききっているところに好感を持つ。(小池伊欧里)

 小田亜美「莉小説―Mrs. Jasmine―」。奨励賞。手漉きの紙にアクリルで描くことによって優しい印象となり、背景を省略することで、逆光の中に臨月へ向かう女性の神秘性が強調されて表れている。髪、膝の上、足下に配された小さなジャスミンの花が生命のイメージを引き寄せる。(小池伊欧里)

 古川昌弘「鉱土露天掘風景(3)」。巨大な露天掘りを眼前にした体験から始まったシリーズだが、その印象はどんどん画家の内面世界と交わって理想的な形へと変化していっているのではないだろうか。すり鉢の底に描かれた人間や重機、画面手前のトラックや右奥に見える小屋などから、この露天掘り現場の巨大さを思い知る。同心円状に拡声器のように拡がるこの窪みは、何かを吸い寄せるのではなく、地底のエネルギーを上空に放出し続けているようで、異様な力を感じる。ふと、ブリューゲルの描いたバベルの塔を思い起こした。人間の力で作る天に向かう巨大な塔に対して、人間の力で掘る地中へ向かう巨大な露天掘り。掘り続けた先には何が待っているのだろうか。様々なイメージが呼び寄せられる。(小池伊欧里)

 松原津惠子「gate かげのかたち」。ヨーロッパの公園の門や柱、木などを光の移ろいと融和させながら描いてきた。今回はそれらの影のみよって構成されている。昼下がりから夕方にかけての乳白色の光が夢幻的な輝きを帯びる。中央の門によるシャープな影と、やや暗くなった上方の木の影が異なる味わいを見せている。(小池伊欧里)

20室

 松井恵子「表れ」。七匹の猫が木の周りに集まっている。木に登る猫、地面に寝転ぶ猫。一部風景に同化しながらそれぞれの個性を発揮している。全体に丁寧で細かい描写がなされており、メインの木をはじめ、生け垣、低木、草など複数の緑がうまく配置されている。葉と木の陰影の付け方なども面白い。(小池伊欧里)

21室

 奥山久美子「さぼてんとガラス器 ・」。奨励賞。黄色いガラス器を中心にサボテンや葡萄の房などが配されている。ガラス器やサボテンの影のように印刷物がコラージュされているところにもセンスがある。画面の三分の二にまとめられた灰白色の卓上だが、静物それぞれの色彩や配置がまとまっている。手触りのある画面が生まれている。(小池伊欧里)

 寺崎慶子「不思議な道」。丘の上から俯瞰するように小さな町が描かれている。全体的に柔らかな色彩で、木々も風に揺らぐように描かれている。画面中央に、道の真ん中を歩く人の後ろ姿が見えるのだが、どこか人外な雰囲気がある。この存在によって、町全体の雰囲気が少し妖気を帯びてくるのが不思議だ。(小池伊欧里)

24室

 田中佳子「すやすや」。100号の画面いっぱいに小さな子どもの寝顔が描かれている。ちょうど左目の端、下唇の際でトリミングされるなどダイナミックな構成にはいつも感心するが、それ以上にこの子どもを見つめる視線の優しさと、体温が感じられるような色使いに魅力を感じる。(小池伊欧里)

 野口秋「静物 1」。ガラステーブルの上に頭蓋骨やガラス瓶、バケツ、かごなどが置かれている。左上にはランプが見える。パステル調の柔らかな光が部屋を包み込んでいる。右手に大きな鏡のようなものがあり、部屋を映している。急に異なる世界が現れているような感覚だ。鏡の世界では頭蓋骨の周囲が青く暗く、少し不気味である。光の扱いが上手く、謎めいた気配を感じる作品である。(小池伊欧里)

 中西実保「ある風景 ・」。室内の椅子に腰掛け神妙な顔で手紙を読む男。いつしか部屋の壁はスクリーンとなって過去の光景を映し出す。そんな風景だろうか。よく見ると、調理台や茶色い鍋、手前の柵なども透けている。記憶と現実の境界が曖昧になり、様々な物語が想像される。密度のある黄色を基調にユニークな世界観で描かれた作品である。(小池伊欧里)

27室

 草柳公三「空蝉」。黒いマットな背景の中に赤い衣装の西洋人形が佇み、背後にいくつもの古びた瓶を従えている。台の上には蟬の抜け殻や貝殻、ビー玉などが散らばっている。人形の青い眼が強く光る。強い情念が発現しているようだ。(小池伊欧里)

 川野美華「夜行性の庭」。春陽会賞・会員推挙。夢が現実に降りてきたような強烈な幻想世界が広がっている。アリス・リデルがもう少し大人だったらこんな不思議の国が待っていたのかもしれない。少女の手足は鮮血のようにヴィヴィッドな赤に染まっている。その赤に覆われた地面には巨大な化け物。小さな尺取り虫のような男や蝶のような女、目のような植物も生えている。思春期に直面する性的な意識の葛藤だろうか。グロテスクなものが綺麗な色彩で描かれ奇妙なバランスが生じている。(小池伊欧里)

 江口美幸「小さな願い」。春陽会賞。遺跡のような建物の窓から二本の枝が伸び、葉や実をつけている。左に見える建物の窓には上下とも人物のシルエットが見られる。男女だろうか。細かい色面の集積によって構成された植物はまた、様々な時間や季節の光を集積し、落ち着いてはいるが豊かな色のハーモニーを奏でている。空間の取り方も秀逸である。(小池伊欧里)

32室

 中瀬千恵子「もうひとつの空(祈り)」。上空に白い月が浮かび、辺りの闇を銀色に照らしている。地上に向かって金色のシャワーが降り注ぐ。抽象表現の印象が強い作家であるが、この作品の中景には建物や丘、樹木が描かれている。アッシジの風景のようにも見える。下方には赤い目をした鳥のような生き物も見える。星の瞬く音まで聞こえてきそうな静かな夜に瞑想し祈りを捧げている。(小池伊欧里)

33室

 奥山哲三「そらをとぶ日・・」。奨励賞。堅牢なマチエールで描かれている。ぼってりとしたフォルムの男が羽を付け空を飛んでいる。帽子の上には猫、背中には住宅を背負う。浮遊の気持ち良さもさることながら、じっとしている猫を見ていると、陽の当たる気持ち良さも想像できる。自らが家族の理想の居所でありたいという男の思いが込められているのだろうか。(小池伊欧里)

34室

 菊川恵子「イーハトーヴ '12 ・」。白、グレー、緑、紫、それぞれの色彩が旋回するように混ざり合い、強い波動を生じさせている。草木や花や水などを風が巻き上げて一緒くたにしてしまい、新しい秩序が構築されていくように思われる。画家の理想郷はどこにあるのだろうか。これからの展開も楽しみだ。(小池伊欧里)

 鈴木孝子「悠久」。ゆっくりと流れる川辺の日なたに犬が寝そべっている。その表情はなんとも情けなくて愛らしい。ユニークなのは、木が画面上方に根本しか描かれておらず、先の部分は水面に青い影となって映っているところだ。緑と紫の落ち着いた色彩でまとめられ、この時間が永遠に続いて欲しいと思わせるような場面である。(小池伊欧里)

35室

 後藤キミ子「道(1)」。油絵具を使うことの魅力を実感しながら描いているような印象を受ける。丁寧に筆を入れながら、濃厚なマチエールで夕陽の光が移ろう秋の道を表現している。上方の夕焼けのオレンジがかなり強いのだが、すぐ下のグレーと木々の緑が緩衝材となって良い塩梅に奥行きをもたらす効果となっている。(小池伊欧里)

36室

 赤堀悦子「卓上の詩・・」。卓上に立てかけられた弦楽器、そばには洋梨やレモン、パイナップルなども置かれている。赤を基調にベージュや黄色の光、またコラージュされた英字新聞などが音楽を奏でるように広がり、音楽を抽象化したようなコンポジションが形成されている。イマジネーションの豊かさが感じられる。(小池伊欧里)

38室

 澤岻盛勇「ポーズ休み」。ソファーの上で膝をかかえて座る女性。白いドレスを着け、肌も発光するように白く輝いている。モノトーンに近い画面だが、陰影を上手く引き出しながら繊細なタッチで女性のボリュームを描き出している。(小池伊欧里)

41室

 大久保澄子「森への扉"A Door to the Forest"」。正方形の画面の後ろ側にビリジャンの色彩が置かれている。その手前にベージュやピンク、紫、黄色などの色彩が、こすれるような感じでトーンの中に置かれている。そして、中心よりやや上方に尖ったものがある。この尖った円錐形のものは道標を表すのだろう。赤や青などのフォルムが中を浮遊している。それは鳥のようでもあるし、一部は落下する葉のようにも感じられる。不思議な飛行機のようにも、サメのようにも、船のようにも見えるフォルムが、右下の版画からはみ出てマージンに及んでいる。森の中には水がある。水は太古の海のイメージをいまだにもっているに違いない。森の中のその生き物ははるか太古のDNAを背負って、いまだに森の中に息づいている。同じようなDNAを人間は自分の中にももっている。したがって、森とふれあうことは自分の中のはるか深い記憶を呼び戻すことにほかならないだろう。おそらく、そのような二つのイメージが交錯するところにこの作品のロマンティックな深い味わいがあらわれてきているように感じられる。DNAの不思議な連鎖のように、円弧がいくつも描かれて、この三角錐の周りを取り巻いているし、周辺にもその線は伸びていく。そして、人生が旅であるように、絵を描くことも一つのイメージの旅であるし、様々なそのようなイメージの中に鳥影や木の葉や、あるいは太古の海の中の生き物のようなもの(筆者には右下のフォルムがそのように思えるのだが)が動いていく。加えて、紫やピンク、ビリジャンなどのハーモニーが懐かしく、優しく、雅やかである。筆者が述べたような長い歴史のイメージを引き寄せるのに、女性らしい感性で画家は作品を展開し、その作品の内容を深化していく。(高山淳)

42室

 幸田美枝子「いたずらっこ」。子ども絵画教室の一隅だろうか。卓上の静物を真面目に描く三人の子どもに対して、長椅子の背もたれから覗き込む子どもと、石膏像に筆を押しつけている子どもがいる。いつものことなのだろう、座っている三人は我関せずといった面持ちで無表情に絵を描き続けている。これだけの画面でありながら、五人の個性がきちんと描き分けられている。また、メゾチントならではの繊細な花と花瓶の描写もさすがである。(小池伊欧里)

 竹田智美「その瞬間」。エングレーヴィングによって紡がれた画室からの風景。作業机の上には星座のような十字型が描かれている。よく見ると窓に隣接する二本の木の小枝がクロスし、画室の十字型と呼応している。この十字型はもう一点の出品作「13月」にも現れ、作家の内的宇宙を呼び寄せている。画室の中は不思議な気配に満ちている。胸像の目線の先に、右を向いた人影が動く。空気の揺らめきであったり、光の加減であったり、ふと神々しさや霊的な気配を感じることがある。そんな一瞬を画面に閉じ込めている。(小池伊欧里)

46室

 川井一光「きざし」。無数の柔らかそうな突起が密集している。様々な角度を向いて、海中に揺らいでいる雰囲気だ。銅版による仕事であるが、青系から赤系へ紫の階調によって深々とした光の変化が表現されている。作品を見る角度によっても随分と輝きが変わり、動的な画面に引き込まれる。(小池伊欧里)

47室

 日髙裕「暮れの秋」。木版を重ねて裸木の密集する山野が表現されている。一本一本の木の動きが面白く、多様な色調と、木の縦の動き、空、山、野原の横の動きによって奥行きが生まれている。点々と入れられた葉の黄色や緑の明るい色彩にイルミネーションのような雰囲気もあって、この童話的な風景世界を彩っている。(小池伊欧里)

48室

 市川有子「My garden '12-35」。鮮やかな色彩によって二本の木と赤い花が表現されている。一見シンプルな造形であるが、木の枝の広がっていく様子や左側の水色の色面に入れられた白い蔓のフォルム、花の茎や葉など、多様な動きがある。鳥の歌声が聞こえてきそうだ。木版の醍醐味を存分に引き出している。(小池伊欧里)

 石尾健「風が止むとき」。葦の生えた水辺を霧が覆い、雪が降っているイメージである。グレーの色面を重ね、モノトーンの中に詩情を呼び起こすような画面が作り出されている。(小池伊欧里)

第51回日本現代工芸美術展

(4月18日~4月23日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 山岸大成「神々の座」。内閣総理大臣賞。白磁によってシャープな倉のようなフォルムが作られている。その倉は神々の贈り物が入れられているのだろうか。詩的なイメージ、その造形に注目。

 大樋年雄「尊崇祭器『What on Earth』」。地球および大地の上にある何物かといったタイトルであるが、縄文土器を思わせる。縄文土器のもつ生命感や素朴な力がこの陶器に表されているように思われる。祭器と書いてあるが、この内部を見ると、山あり谷あり沢ありといった、いわば自然そのもののイメージをこの陶器の中に小さな宇宙として形象化しているように感じられる。

 青木清高「渚を渡る風」。たっぷりとした緑釉が豊かな感情を与える。その中に釉薬の凹凸ができていて、それがゆったりとした海の流れや、あるいは海の上をわたる風を思わせる。そんな緩やかな力強いムーヴマンがあらわれている。大きな円形の口。その内側の豊かな空間。外側のすこし溝が彫り込まれたかたち。全体で海のもつ量感や生命感を感じさせる。

 吉賀將夫「萩釉陶壺『春・2012』」。ろくろであるが、手びねりを思わせるような素朴な力が魅力。また、胴に萩釉独特の白釉が置かれているが、その中にピンクがほんのり差されているのが面白い。満開の桜の花の透明な色合いやその香り、風情をしぜんと連想する。そのあいだに手触りのある黒褐釉が置かれている。黒褐釉の上に白い萩釉が置かれているわけだが、その黒褐釉は大地や桜の幹などのイメージもある。いずれにしても、日本の風土から生まれた優しく力強い壺である。

 春山文典「風の座」。アルミによる作品。アルミの銀色で柔らかな質感がよく生かされている。円形のフォルムに波打つようなフォルムが何枚かその中に切り込むように入っている。また、素朴なカーヴするフォルムが立ち上がってくる。円形の上にはカーヴして彫り込まれたフォルムがある。風紋のようなイメージがあらわれている。砂丘が風の中にかたちをつくる。そこに古い遺跡のようなものや山があらわれる。山の向こうには雲がたなびく。その山も強い風と地面の質によって徐々に変化していく。そして、そこに斜光線が差し込む。そんなイメージをこの作品から連想する。抽象形態でありながら、自然からインスパイアされたかたちを象徴的に表現しているように感じられる。

 武腰一憲「花器・遠来」。口縁は正方形で、そこに向かってカーヴする独特の形。緑やグレー、茶色などが彩色されて、砂漠の上を驢馬にまたがって歩く老人がオアシスのそばに佇んで、オアシスに影が映っているような、そんな絵柄が描かれている。飾り壺と言ってよい。もちろん中に花などを挿しても使えるのだろうが、飾り壺としての性質が見事に表現されている。

 奥田小由女「愛の萌春」。オレンジ色のワンピースの中にケシのような赤い花や青い小さな星のような花が咲いている。繊勁な茎から葉が伸びてくる。そんな様子が一面に彩られている。それが春の柔らかな日差しの中に咲く野の花のように感じられる。聖母子像と言ってよい。小さな少女を右手に抱きかかえている。女性は左の人差指に蝶をとまらせている。春の女神のようだ。春という季節を到来させる存在。冬の厳しいモノクロームの世界が、春になるとにわかに生命が兆し、植物が伸び、花が咲き、生き物が動き出す。そういった生命を司る女神のようなイメージを、しぜんとこの人形から感じることができる。そのような一種神的なイメージが柔らかな肌と前述した衣装、そしてカーヴする独特のフォルムの連続性によって感じることができる。

 宮田亮平「シュプリンゲン『結』」。三十頭ぐらいのイルカによって構成されている。もっとたくさんいるのかもしれない。大半は右向きの旋回する動きがあらわれている。大小のイルカが集まって海の底に潜り、海の上方にジャンプする様子。その全体の円環の三割ぐらいは左のほうに旋回するフォルムとなって、そのイルカの先端はねじれの位置にあるが、お互いにその口先で呼応しエールの交換をしているような、そんな雰囲気。完全な存在、幸福感というものが円によって象徴される。結ぶというイメージ。集団のもつ信頼感。あるいは、お互いの連帯感。そして、幸せなひとつの円環的なイメージが、このイルカという生き物を象徴的に扱い、それを集合させながらつくるフォルムによって表現される。

 大樋年朗「金銀彩『丸龍』飾壺」。素朴な壺である。胴をへこませて、そこに金で龍のフォルムが彫られている。茶褐色の素焼きの壺の上に白い化粧土を入れ、焼いて、その上からへこませて金の龍のフォルムをつくる。どこか李朝ふうな素朴さと同時に、王者を思わせるような豪奢なイメージが連結されているところが面白い。

 相原健作「吉兆」。現代工芸本会員賞。鎖の一部が切れたようなフォルムが百ぐらい集められて、そのフォルムが立ち上がっていく。そのフォルムはよく見ると、ハートの形に見える。その上に金属によってつくられた鍛金のトンボがとまっている。トンボが空中にふわっと浮いて、一瞬とまったような雰囲気が、下方のハート形のフォルムの連続した形によって支えられている。下方の連続した形は空気というもののイメージや植物の柔軟なフォルムなどのイメージの象徴のように感じられて、独特の季節感もあらわれる。

 伊藤裕司「煌彩の盤」。漆の作品である。盤の上に色漆が置かれ、青貝なとが象嵌されている。抽象的なフォルム、直線的な色面の中にその三つのストライプの象嵌がきらきらと輝く。エキゾティックであると同時に日本的な要素が加味された独特の表現である。

 厚東孝治「弥生―秋稟」。瀬戸の青磁と中国の越州窯とが連結されたような独特の青みがかった黄土系の釉薬が懐かしい。ふっくらと膨らんだ胴を円筒形の黒褐色の素焼きの高台が支えている。それに相応するように円の広い口縁があけられている。釉薬が垂れている風情が面白い。まさに様々な実のなる秋の季節の透明な空間。そんなイメージがこの円形の壺から静かに響いてくる。秋の音色が静かに鳴るようだ。

 三田村有純「生命をはこぶ・ふね」。船が満月のようなフォルムを運んでいるが、その中にアンモナイトが彫られている。そうすると、この船は時間を運ぶ船のようだ。地球に四十億年の歴史がある。遺伝子は時間というものの連鎖を科学的に証明するが、それを悠久たるロマンの中に歌う。

 北村鶴代「暁月」。暁に日が昇った時の新鮮な雰囲気がよくこの壺の胴に表現されていると思う。そして、その柔らかな光がそのまま月のだんだんと後退していく光と重なるようだ。飾壺としてユニークな作品である。上方から見ると舟形に見えるが、横から見ると台形に見える、その造形も見事である。

 友定聖雄「NOAH」。半円形の厚みのあるフォルムが、ガラスによって組み立てられている。黒い部分、透明な部分、グレーの部分がお互いに錯綜しながら典雅なメロディをつくりだす。

 関原範子「道」。プラスティックと思われるが、方形の柱の中に黄金色の七宝が入れこまれていて、雅やかな雰囲気を醸し出す。透明な角柱の中に光るものがクラゲのようなフォルムによって包みこまれているような、シュールな味わいと装飾性に惹かれる。

 並木恒延「深深 ・」。池のそばに裸木が何本も立っていて、その枝に雪が積もっている。夜空に点々と下りてくる雪が大小表現されている。そんな様子がそばの池に映っている。もっこりと積もった雪のカーヴ。正面性を重視しながら、独特の装飾性と象徴性と現実感とをクロスさせる。漆による作品だが、深い黒の輝きと白とグレーとが静かに響き合い、まさに題名のようにしんしんとした雰囲気をつくりだす。フォルムがクリアなところがよい。水墨作品などを見ると、たらし込みふうに流れていくようなケースが多いが、この作品は一つひとつのフォルムが立ち上がってくる。戦後、加山又造が日本美術の世界を深く探究したが、その延長にある作品と言ってよい。そういった意味でも好感をもつ。

 永井鐵太郎「うつわ2012─1」。アルミをシャープにカットして組み合わせる。中に赤く彩色されたフォルムの三角形があらわれる。うつわとは神に捧げるものといったイメージで、その神的なイメージが光を受けるうつわとして表現される。

 中井貞次「風景」。青い山、緑の林。水が雲を映して白く輝く。日本の風景を静かに染めによって歌い上げる。

 三谷吾一「はばたく」。数羽の鳥が空を飛んでいる。日本の歴史をさかのぼって、古墳時代や弥生時代に向かっているような、そんなイメージも感じられる。色彩は王朝ふうな雅やかな雰囲気で、ところどころ金や銀、その他色漆が使われていて、典雅なハーモニーをかたちづくる。ひとがたの中に太陽や空や月のイメージがあらわれているところも面白い。

 赤堀郁彦「風伯」。赤漆をバックにしながら円柱やねじれた板のようなフォルム、あるいは光などを構成して、宇宙的なダイナミックな空間を表現する。強いムーヴマンがこの作品の魅力。

 猪俣伊治郎「埴輪(八十二)―神楽」。トルソと思われるフォルムが組み合わされて、独特の神的なイメージがあらわれる。上方には様式化された雲、山、海、あるいは田園のイメージもあらわれる。神楽は神事の祭りであるが、そのイメージを革造形の上に引き寄せる。金彩が効果的に使われている。

 角康二「浮」。黒い漆の中に金によってフォルムがつくられる。筍や月、あるいは球体、木の葉などが象徴的に扱われ、長谷川潔の黒白の版画の詩的造形を連想するようなコンポジションがあらわれる。

 松木光治「映」。金属の作品で、鍛金あるいは彫金の技術が使われている。弧状にカーヴする円弧の断片のフォルムがコラージュされている。向かって左のほうにリングがある。それはいまここにある太陽の位置で、やがて循環すると、右下の円のストライプの入ったフォルムになり、日は沈んでいくのだろう。日輪が地上を動き、やがて地球の裏側を動いていくイメージを、生き生きと象徴的に表現している。金属のもつ輝きがこの作品のポイントとなっている。また、簡潔な抽象形態を組み合わせるコンポジションの力も優れている。

 山崎輝子「Seeds―慈雨を待って」。革造形である。種は地面の中にいて、雨や光を待ち受けて地上に芽を出す。その地上に芽を出す前の、種が地面の中で静かに瞑想し、その希望を膨らませているようなイメージを、抽象的なコンポジションの中に豊かに表現する。

 松岡理香「Run」。現代工芸本会員賞。二人の女性が走っている。そのデフォルメされたフォルム。お尻が大きく、足の先が小さい。肩が大きく、指が小さく、髪が波打っている。そんなフォルムの中に市松状の装飾的な扱いがされ、青貝や銀彩、箔などが散りばめられている。黒いバックに青貝が銀河のようなイメージをつくりだす。目の中にも使われている。この二人の妖精は自然の象徴であり、夜空を静かに動いていく月や雲、あるいはその中を跳ねる生き物たちを象徴するのだろう。簡潔にして豊かな詩的イメージを醸し出す。

 本郷真也「盤―浮月―」。円形の鉄の中に金属による黄金色の円形の皿のようなフォルムが入れられて、その黄金色のフォルムがそのまま水の中に浮かぶ月のイメージと重なる。若々しい力強い造形である。また、自然と深く交感するところからあらわれた詩的なヴィジョンは日本の山水と重なるようだ。

4室

 永見文人「春風のシンフォニー」。水がぬるんで、カエルが顔を出す。つららが溶ける。そして、柔らかな雲があらわれる。そんな春の息吹。啓蟄という言葉があるような、生き物が胎動する、そんなイメージをこのコンポジションの中によく表現している。ダリの作品を思わせるようなシュールな気配もある。自然というものがそのようなシュールな神秘的なものとして表現されている。また、液体と固体との中間のようなフォルム、ゾルとゲルのそんな質感もこの春の陽気にふさわしい。

 田中貴司「兆し」。日本の女神を思わせるようなフォルムが右のほうにいて、上方を向いている。上方からそれに呼応するような不思議な兆しを表すフォルムがあらわれてくる。具象を使いながら独特の豊かなイメージを表現する。

5室

 佐藤伊智郎「秋津」。木の台座の上にトンボが金属によってつくられている。オニヤンマを思わせるような豊かで王者のような風格をもったトンボの表現である。金彩が効果的にこのテーマにふさわしく扱われている。

第45回日本水墨画展

(4月18日~4月23日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 小澤正生「花ぐもり」。満開の桜である。桜のもつ透明感のある雰囲気。下に入ると、花の傘の中に入ったような恍惚感に襲われるが、そのイメージをよく表現している。花びらは白であるが、中にオレンジ色が点々と差されていて、それも、離れて見ると、柔らかなアクセントとなっている。塀の向こうから伸びてくる桜を一種写実的に扱いながら、それを水墨らしい抽象性の中によく表現している。

 鈴木南枝「不空過」。蘭のような植物が上方いっぱいに描かれている。そして、画面全体に白い点々があって、それが不思議な光る存在としてシュールなイメージを与える。花の中に一つの天空を見ているようなイメージもある。白い点々は星のようにも見えるし、あるいは雪のようにも感じられる。ユニークなコンポジションである。

 鯉渕久於「雨余」。黄山のような高い尖った山に松が生えている。そんなところに霧が出ている。そんないかにも水墨らしい情景を、紙の白、淡墨、濃墨を使いこなしながら独特の韻律のなか表現する。自然のもつ刻々と動いていくそんな神秘的な高山の様子を、動きと不動なるものの二つの要素によってよく表現している。

第42回日彫展

(4月19日~4月30日/東京都美術館)

文/高山淳

ギャラリーA

 田中昭「遊びごころ」。たらいの中の少女。髪を結わえたようすは、二つの芽が頭から出ているよう。若々しい芽のような少女のイメージ。このたらいの中に入れられた水につかっている少女は、蓮台の上に座る太子像を思わせる。そのような仏画的なイメージが少女像の中にクロスされているところに注目。

 瀬戸剛「遊子」。遊子とは旅人といった意味である。作者は飯田の出身であるが、伊那谷には約三十年間放浪生活をした俳人、井上井月という人がいる。その人の肖像である。長岡藩の出身といわれているが、流浪のうちに俳句をつくりながら亡くなった。その亡くなったあとを山頭火が訪ねて、「お墓したしくお酒をそゝぐ」といった句を読んでいる。瓢簞の中にはお酒が入っていて、そばに矢立が見える。開いた目の向こうには何が見えるのだろうか。放浪の文人という日本の芸術家の伝統を象徴するような肖像彫刻である。虚空から風が吹いてくるような、そんなイメージをこの彫刻から感じる。

 能島征二「夏の日」。ビキニ姿の女性が立っている。帽子の上に左手を置き、右手は腰の後ろに、右足に重心を置き左足を伸ばしている。健康な肉体の上に燦々と太陽の光が差し込むようだ。画家は常にモデルを使うそうだが、モデルを使いながらつくるものは画家のヴィジョンである。夏の日のもとに立つ女性。帽子の下にある陰りがロマンティックな雰囲気をたたえる。健康な肢体と帽子の下のすこし謎を含んだような表情。すこし開いた唇。官能性と健康性とミステリアスな三つのイメージがクロスする。

 川崎普照「風韻」。右足に重心を置き左足を前に置いた裸婦像。右手を前に置いて、その方向を見ている。強く主張してくるものがある。マチエールも面白い。

 雨宮敬子「思索自省」。タイツ姿の女性が座って物思いに沈んでいる。左足はくの字に曲げ、右足はすこし立てて、そこに右肱をつき、左手は床の下の台座を持っている。その直線、曲線の構成が思索の迷路を見るような思いに誘われる。女性は下方を眺めている。どこか仏像を見ているような雰囲気。半跏思惟像という仏像のフォルムがあるが、その仏像を連想するような精神性を感じた。

 中村晋也「芝翫丈」。「中村芝翫先生が逝かれた。その訃報に絶句した。先生は私の心の友と言える数少ない一人だった。日本藝術院会員になるのが一緒で、それ以来ご親交いただいた。あの美しい舞台のお姿を制作したいと、お邪魔を顧みず楽屋に押し掛け、いろいろなお話をさせていただいたものだった。そのような思い出が次から次へと瞼に浮かび、いまは感謝と懐かしさが心の中を占めている。ただただご冥福を祈るしかない」。作者の想う芝翫の肖像である。和服の胸像。柔らかな優しい目をしてぐっと口を引き締めた像は、温かく滋味あふれる。

 市村緑郎「雨のち晴」。カーヴするフォルムの上に座った若い女性。足はあぐらをかいている。上体を前に倒しながら顔は右上方を向いている。その後ろに両手がある。ダイナミックなポーズである。雨のち晴れというように、様々な人生のドラマをこの若い女性のフォルムによって象徴している。ロダンを思わせるようなモデリングである。ロダンのもつ文学性、たとえば「考える人」であるとか、「接吻」であるとか、そういったヒューマニスティックなドラマを市村もまた追求する。現在の具象の中で随一とも言える力量のもとにつくられた、不安と希望のモニュマンと言ってよい。

 橋本堅太郎「早春」。両手を後ろに回して立っている像である。立つというその様子が、気品のなかに表現される。若々しい生命力が一本の若木のように感じられる。

 蛭田二郎「Y子立像」。タンクトップの衣装。両手を胸の上で合わせている。ふっくらとした手の甲。顔もそうで、そのふっくらとした感じが独特で、それは髪もそうであるし、衣装もそうである。それが豊かな想いを彫刻の中に包み込んでいるような存在感として感じられる。石膏の清潔な色合い、キメ細かなマチエールが、この初々しいイメージとフィットする。胸に手を当てて、はるかな未来を夢見ているような雰囲気もある。ヨーロッパでは受胎告知のテーマが繰り返し表現されているが、体の膨らみを見ると、そのようなイメージもあるのかもしれない。

 山本眞輔「草原の記憶―蒼―」。左足に重心を置いて、すこし右足を開く。顔を右に向けて上体から足に向かって弓なりのフォルムがあらわれる。右手は手の平を上に、左手は手の平を下に。それによってこの女性の体を吹いてくるもの、あるいはそこに寄せてくるイメージを静かにすくっているような、受け止めているような雰囲気があらわれる。右から左に風が吹いているようで、スカートが靡いている。その右から受ける自然の風の動きに対して、逆に左のほうから深い大地のイメージを受け止めている。風とイデーというものが彫刻の中にクロスする。風は過去のもので、イデーは未来から来るものかもしれない。その二つがクロスするところに、この彫刻の魅力が生まれる。

 中村宏「潮騒」。両手を頭の後ろに置いて立つ女性像である。大地と一体化したような素朴な生命力が表現される。奇をてらうことなく静かに女性の運命、存在といったものを彫刻する。

 稲垣克次「調べ」。イヴニングドレスを着てヴァイオリンを弾く女性。メロディが聞こえてくるような繊細なものがある。メロディがそのままスカートの模様となって下りてくるような雰囲気。また、夢見がちな顔の表情も魅力。

 伊庭照実「静」。左足に重心を置いて、右足をすこし前に出して曲げている。静かに両腕を下ろしている。上体をすこし右にひねっている。静かな中に緊張感のあるムーヴマンが生まれる。円柱として女性のフォルムを捉え、モデリングしていく。その円柱が微妙にひねったかたちであらわれて、静かなムーヴマンが生まれる。自然体のなかに女性というもののもつ生命感がよく表現される。誠実な彫刻であると同時に、深い思いのこめられた作品である。

 吉居寛子「抱」。両腕で胸を抱いている若い女性の裸の像である。柔らかなフォルムの中に一本の芯が通っている。静かに息づくような肉体の表現である。あえて腿で切って、トルソーふうな扱いの中に頭がのっている。伏目がちの顔の様子も魅力である。どこか聖女を思わせるような雰囲気もある。若い女性がやがて子供を生み育てていくといった未来に対する思いも、このトルソーの中にはこめられているように感じられる。余分なものを削りながら、ある深いイメージを追求する作品として注目。

 鈴木徹男「嶺」。日彫賞・正会員推挙。右足に重心を置き、左足をすこし後ろに置き、右手を頭の後ろに置いた裸婦像である。誠実に表現している。裸婦のもつ厚み、量感がよく表現されている。

 阿部鉄太郎「ライアーガール ~下弦の月~」。猫を頭上に掲げた女性の形が面白い。両足は下方で交差している。猫の背のカーヴと左手を上げたフォルムによって月のイメージがあらわれる。その題名のように、下弦の月を思わせるようなフォルムは女性のもつ猫的な性質、その自由でノンシャランなイメージも重なってくる。しっかりとした腰がつくられているところが造形性である。その動きと猫のシャープな動きとが鮮やかに対照される。

 長谷川倫子「ダンスの前に ・」。日彫賞。右足に重心を置き、左足を前に置き、右手は腰に、左手は後ろに回している。腰から首にわたる豊かなフォルム。とくに伸ばした下半身の左足と右足が力強い。独特の生命感とゆるやかな力強い動きに注目。

 野原昌代「Like a Flower」。題名のように素朴な野の花が咲いたような作品である。まだ少女の骨格を残す女性がバレリーナの衣装を着て座っている。細い腕と足。繊細な表情。テラコッタのオレンジの色彩が初々しく、この彫刻のイメージとフィットする。

 福本重喜「立つ」。裸婦が立っている。太った女性であるが、独特の存在感がある。また、彫刻のもつ量がよく表現されている。偏平な作品が多い中に厚みが感じられるところがまず魅力である。同時に、女性のもつ一種野性的な太古的な力も感じられる。

 村山哲「鹿島の要石伝説」。両手を前に合わせて印のようなものを結んだ仏像である。漆の作品。童子の姿を借りて現れた神的なイメージが鑑賞者を引き寄せる。

 勝野眞言「久木野 ・」。テラコッタで、立つ若い女性。胸から下までは布に巻かれて、いちばん下の足はない。まるでエジプトのミイラを立てて置いたような雰囲気。伏目がちの目。優しい雰囲気であるが、全身は平べったく、イメージの中に生きている存在が表現される。

 早川髙師「ねこも飛ぶ」。木彫である。不思議な、両手を伸ばして、その先に葉をつけた樹木。人間のようだ。その上にまたもう一つの蛇がとぐろを巻いているような、そんな植物的なフォルムがあり、その上に猫がいる。猫は両足、両手を伸ばしてグライダーのような雰囲気である。ほほえましい。日彫展の作品には珍しく、まずイメージがあって、イメージが形をなしたといった趣が興味深い。

 宇津孝志「夫婦の家路」。夫は大きなトランクの上に立ち、妻は座っている。そのトランクは夫婦の記憶のいっぱい詰まったものだろう。五十歳前後と思われる夫婦のイメージを、その歳月という目に見えないものをテーマにしながら木彫する。鑿(のみ)の集積がその思いを表現する。

 神戸峰男「そして―。」。ブロンズによって半球状のフォルムをつくり、それを台座にする。そこに女性が立っている。それはブロンズである。女性の立っている様子は、日本に古来ある飛鳥時代とか天平時代につくられた鋳造の仏を思わせるところがある。長い人生、過去と未来のなかに生きる一人の女性像。満々とその過去と未来とがこの半球のボリューム感の中に満たされているようだ。

 石黒光二「風の旋律」。ハープを鳴らす女性像。クリアな優れた造形力による表現。座る二つのラインは二つのメロディを表す。

 田丸稔「叙事詩の男と馬」。馬の頭は猛々しく、運命といったものを感じさせるが、その馬の飾りの中に頭を入れた男の全身像が座って表現されている。田丸独特のバロック的な性質が感じられる。馬に乗って様々な戦争が行われてきた時代があるが、そういった時代に対する思いもあると同時に、馬のもつ深層心理学的なイメージ、その象徴もこの像の中に引き寄せられる。

 嶋畑貢「虹の向こう」。六、七歳の子供が立って、両腕を下方に伸ばして両手の平を開いている像。愛らしい。パスカルは子供を子供らしく語る作家は少ないと述べているが、同様のイメージをもつ。子供をつくっても大人を変形したような作品が多い中に、これはまことに子供そのもののイメージが彫刻としてあらわれている。五等身ぐらいのこの幼児の時の体型。膝小僧の下には小さなブーツがはかせられている。目を見開いて遠くを眺めている。この子の未来に対する画家の思いがうかがわれる。

 銭亀賢治「想い」。若い女性が立っている。右足に重心を置いて左足を後ろに、そして両腕を胸の前で交差させて、何か考え事をしている。その手のポーズは実生活では不自然であるけれども、彫刻のなかではリアリティがある。その中に抱かれた目に見えないが心のリアリティのあるもの。しっかりとした女性のフォルムを組み立てながら、その不思議なイデーを画家は表現する。

 堀内有子「The fairy tales―青い鳥」。石膏であるが、テラコッタを思わせる。十歳前後の女性が丸い台座に立って首を左にひねって上方を見ている。青い鳥が手の平にのっている。あどけない無邪気な雰囲気がよく表現されている。同時に、作者の祈りのような気持ちが青い鳥に託される。

 青山三郎「流れ雲」。西望賞。木彫である。両腕はない。立ったその像は観音像を思わせる。風化するなかに、時間のなかに残るもの。そういったイメージを表すようだ。したがって、この作品は物質感というより、イデーがテーマになっている。昔の仏像に残欠が残っている。そんな彫刻があるが、そういった彫刻に対するイメージも感じられる。

ギャラリーB

 岩谷誠久「祈り」。両手を脇からさらに広げて手の平を上にして静かに息を吸い込んでいる。そんなポーズの男性像である。等身より大きくつくられていて、迫力がある。周りの空気を静かに吸い込む。そのときの動き。左右のバランス、シンメトリックな動き。しかし、右足のほうに重心があるようで、ほんのすこし左足が前に出ているという微妙な変化。その中に大きく息を吸う男の静かな動き。モニュメンタルな雰囲気をもつ男性彫刻である。

 一鍬田徹「ある修道院のための聖母子像」。生まれたばかりの赤ん坊をくるんで左手に抱えている。右手を下方に伸ばして、手の平を前に向けている。足から胸、首と弓なりのフォルムが頭部では前に倒れて、ぐっと深い感情のなかに前方を見つめている像である。感情やイメージというものがこの小さな石膏像にシャープにあらわれている。柔らかな青色の布をショールのようにまとっている白い衣装の聖母子。頭に金色の光背。オーラが感じられる。

ギャラリーC

 伊庭靖二「月夜に想う ・」。二体の裸婦によってできている。後方の裸婦は膝の下で切られていて、前にいる裸婦は腿で切られている。後ろの女性は両手をくの字形に曲げているが、前の腿で切られた女性は両手をすこし下方に置いている。右手が印を結んでいるような雰囲気もある。そのパントマイムのような二つのフォルムの変化によって、独特の柔らかなメロディのようなイメージがあらわれる。その韻律が月と呼応しながら、女性のもつ神秘感を表すようだ。

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