美術の窓

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公募展便り(2015年12月号)

「美術の窓」2015年12月号

第61回一陽展

(9月30日〜10月12日/国立新美術館)

文/高山淳

1室

 永倉一徳「風化」会員賞。海の錘が積み重ねられている。背後に四段の階段と倉庫のような立方体。津波のあとの現実を思わせるような、うっとうしい抑圧してくるような不思議なイメージをこの球体群によって描く。

 泉谷淑夫「WANDER」。石の柱に厚みのある巨大な石の板をつなげて円弧をつくる。そこを羊が歩いている。数えると十三頭いて、いちばん手前の羊は巨大で威厳がある。しぜんとキリストと十二使徒のことを連想する。そばにはロケットが宇宙に向かって飛んでいる。宇宙飛行士が宇宙服を着て宙に浮いている。その宇宙飛行士は木の棒を持っている。現代の科学の先端で宇宙時代の混沌とした未来に向かっている指導者。いわば現代のキリストのようなイメージ。鳥がピンク色に黄金色に染まってそばを飛んで、この宇宙時代を祝福しようとする。この時代にもキリストが説いた信仰とか人間の可能性と限界性の問題はきっと消えないのだろう。キリストの時代から変わらないその問題と科学の先端の宇宙時代のイメージを同一画面に置きながら、未来を荘厳するように不思議な鳥を飛ばしたユニークなコンポジション。強い寓意性をはらんでいる。

 三阪雅彦「風雅」。二人の女の子。赤い衣装をつけている。背後には水が流れ、空は金箔の雲。雉がそばにいたり、笹が見えたり、白い牡丹の花のようなものが咲いている。鳩もとまっている。等伯の頃の室町屛風の造形理論を油彩画に転用しながら、独特の空間をつくる。二人の童子は笑っているが、聖なる存在のようにもとらえながら、風景の中で遊んでいる。その風景の解釈が再現的なものでなく、装飾的な独特の空間になっているところが面白い。それによって二人の子供が妖精のようなイメージをつくりだす。

 大場吉美「月・ゆらぎ」。月が揺らいでいる。流し目をする女性の表情と激しく怒りを表す般若のような顔。二つの顔が一つの女性の顔に捺されている。月は女性を投影する象徴的な存在として画面の中に入れられている。右上方にはいま生まれて三日ばかりの月が輝いているが、その月に対する文学的なイメージを作者は、女性の中に表現した。柔らかなパール色の背景の空間の中に光り輝く粒子のようなものが漂っている。仏像彫刻を思わせるところがある。仏像彫刻には阿修羅のように三面の顔に六本の腕といったものもあるし、いくつもの顔が頭上にあったりする(十一面観音)。いずれにしても、われわれを誘う顔と、叫び、時に拒食症のように拒んで嘔吐するような顔。その中心にわれわれを癒やす仏の顔が浮かび上がってくることを期待したいのだが、そこは空洞で、背景に突き抜けた茫漠たる空間があらわれているのみ。そこには樹木の梢の先のような繊細なフォルムがつくられて、無常の風が吹いている。

 鈴木力「コルトーナ幻視」。コルトーナはイタリアのトスカーナ地方にある町であるが、修道院にフラ・アンジェリコの有名な作品「受胎告知」がある。その光の輝きにたいへん感動したところから、作者の独特の絵画世界が出発した。前回は昼の光線の中に輝く受胎告知からインスパイアされた空間であったが、今回はそれが夜になって、にもかかわらず輝きを失わず、また違った光を放つイメージをつくりだした。プラチナふうな銀色に光るフォルムが円で描かれ、それに対して金の光が三十ほどの大小の円によって描かれている。そこには筋が入れられて、回転しながら光というものの反射角の光によって、より光のもつ神性ともいうべき性質を描く。グレーやベージュの空間のあいだに夜というものの深いイメージが、太い独特の屈曲する線や面によって表現される。そこには大地のイメージが大きく捺される。最初に光ありきという言葉が聖書にあるが、まさにそのような強いヴィジョンを大胆に強く表現した。よく見ると、光が実に繊細な表情をもって空間の中に浮かび上がる。光というもの自体をテーマにした実にユニークな見事な表現である。

 棚瀬修次「Black space in─かたち─」。上方で星が最後の輝きを放って消滅しつつある。それに対して下方に、いま新星が生まれつつある。滅びていくものと誕生するものが垂直に対置されて、不思議な強い印象を醸し出す。永遠というものに向かいながら、その中に崩壊するものと新しく生まれるもののイメージを描く。

 高岡徹「月の出」。黄、赤、緑、青。それぞれが純色という言葉を使いたくなる。原色ではなく純色で、澄んで、宝石のような輝きを示す。十三日ぐらいの月を思わせる色面。その周りの赤や茶色、あるいは緑などの色彩も宙に浮いて、それは太陽であったり、あるいは細胞のようなものが光っていたり、植物であったりと、森羅万象から鳥や水や昆虫もひとつの色彩の輝きの中に収斂するように表現する。それらが散らばって構成されて、お互いが引き合い、輝き合いながら、不思議な空間をつくる。

 古野恵美子「そして形而上的地平へ」鈴木信太郎賞。何千人もの人間たち、老若男女がここに集まっている。地面は濡れているようだ。そこから五本の高い柱が聳えている。曇り空の中に人々はどこに向かうのだろうか。群衆というもののもつ圧倒的なパワーを画面の中に引き寄せているところが面白い。

 舘野弘「不条理スタジアム」。ネクタイをしたサラリーマンが吊るされて、回転しつつある。ランニング姿の男もシャツが衣紋掛けに掛けられて、鉤で吊るされている。遠景にも吊るされている人がいる。巨大な社会構造、曼陀羅の中に一度入っていくと抜け出せない。現代の日本の社会のペシミスティックなイメージを、この吊るされた旋回する人間たちの群像の中に表現する。スタジアムの広場と観客席。このリングの上方に雲が浮かんでいる。その雲の中には人間たちを支配する何者かが存在するのかもわからない。作品は柔らかな強いマチエールによってできている。油絵ならではの絵具を重ねることによってつくられるマチエールが、ふかぶかとした空間をつくる。そのマチエールによって、この悲惨な現実が緩和され、しぜんと鑑賞者をこの空間に引き寄せる力がある。そして、まるで夢から覚めたように自分自身を振り返るような気持ちにさせる力がこの作品にはある。旋回する強いコンポジションの優れた効果を指摘しておく。

 杉山司「構想(騎手と馬)」。競馬は集中力の要るゲームで、騎手と馬が一体化して走るが、その緊張感のあるイメージを独特のコンポジションの中に表現する。馬の目と人間の目が一体化したような不思議な顔が画面の左側に浮かび上がる。下方には馬のシルエット。上方には不思議な楯のようなイメージ。赤い背景に強いコンポジション。

 川辺嘉章「JINMU」会員賞。神武天皇は八咫烏によって紀州を進軍するわけだが、そんな記憶を現代のこの風景の中に作者は見出す。杭の上にのるカラス。山を背景に飛ぶカラス。手前には石がごろごろと転がっているが、遺跡のあとのようだ。魂の象徴のように緑の蝶々が飛んでいる。そんな様子を眺める人間の姿は、顔は描かれず下半身のみ。一つのミステリーに対するいざないといった趣で、不思議な気配が画面から感じられる。

 小川京子「明日を拓く人」会員賞。一輪車に乗る少女。望遠鏡で遠くを眺めている少女の後ろ姿。二つの道の分かれ目でそれぞれの動作をしているが、下方にはパノラマふうにヨーロッパふうな都市や田園風景が広がって、はるか向こうには海が見える。二人の未来を占うかのようなイメージを独特の寓意的なコンポジションの中に表現する。『指輪物語』などといったストーリーが人気だが、そのような旅立ちの序章のコンポジションと言ってよいかもしれない。

 中本邦夫「刻の庭─2015」会員賞。樹木の梢のようなフォルムが何か所も集積して、それが無言で語りかけてくる。諸行無常の響きのなかに、無明の世界が広がっていくようだ。

 細川尚「ブルー ハロウィン」。市松状の床に五つの南瓜が転がっている。大きく、ふしくれだって、独特の男性性ともいえる雰囲気を醸し出す。その上に一人少女が立っている。別の少女は大理石のテーブルの上に座ったり、その膝に横に座ったり、宙に浮いたりしている。女性は生き生きとして自由な存在。窓の向こうには星座が見え、樹木が風に靡いているようだ。仮面が木の葉によって囲まれ、あるいは三日月をしたフォルムの中にはピエロの像があらわれる。ハロウィンは仮装するお祭りであり、この作品の中では仮装することは行われず、いちばん手前のしっかりと描かれた女性のボディがだんだんと奥に行くにしたがって軽くなり、最後には宙に浮いて空の向こうに消えていくような、不思議な空間があらわれている。やがて夢の世界がよりリアルに顕著にあらわれてくるのかもしれない。夢の世界に導入する序章といったイメージが鑑賞者を引き寄せる。

 濵田清「遠い日〈風まつ日〉」。奴凧や武者絵の描かれた凧。鯉のぼりが、草の上に置かれたり、バーに掛けられているのだが、風がないので、みんなだらんとしている。風が吹いてくると凧は空中に上がり、鯉のぼりは威勢よく泳ぐだろう。風を待っている状況のなかでの凧や鯉のぼりを表現する。そばに白い椅子が五つほど重ねられているのも、不安定な印象である。白く塗られた漂白されたようなその椅子もまた無人で、何かを待つ存在なのだろう。ある風、あるいは事件が起きると、がらっと違った現実が発生するはずなのだが、それを待っているなかでのコンポジション。奴凧が鑑賞者のほうをじっと眺めている。眺めながら目が中心に寄っていくようなユーモラスな雰囲気も面白い。

 吉村雅利「夢の終わる時」。画面は上下の二つの空間。下方にはレオナルド・ダ・ヴィンチの「岩窟の聖母子像」(ルーヴル美術館蔵)の中の女性像が引き寄せられている。大きな左手の人指し指が伸びて、何かを指している。上方には四人の女性(ルネサンスふう)がいるのだが、紡錘状の空間の中に左の手が浮かび上がり、人指し指が突き出ている。その紡錘状の空間から接触し、二か所は一部、それの外側に出ている。出た瞬間に亀裂が走り、一つは泡になって消えていくようだ。閉塞された空間から現実、その外に出るということはいかに難しいことか。この夢の中に閉じ込められた空間から客観的な外界に出ようとした瞬間に崩壊する現実。そういった心理学を具体的な指とか胸像などを使いながら、モノトーンの中に表現して、ヴィヴィッドな印象を醸し出す。

 田中知佳子「シンクロナイズドスイミング」。両手をあげて、足を九十度上に伸ばす。水面から三つの足が花のように突き出ている。シンクロナイズド・スイミングのイメージを、青い空間の中に女性の足や全身像を置きながら生き生きと表現する。独特のオーラが画面に漂う。

2室

 福田利明「時間の旅─ARARAT─」。下方に木でできた巨大な建物のようなものの屋根が見える。そばには点々と小さな集落的な建物も見える。それを見下ろしながら日の丸を掲げた双葉機が空を飛んで、その影が砂地のような地面に映っている。もう一つ、レオナルド・ダ・ヴィンチが考えたような鳥の翼に似た飛行機も飛んでいる。まさに過去の遺跡の上を飛ぶこれらの乗り物は、時間の乗り物のようなイメージと言ってよい。大きな建物や小さな建物、あるいはしわのような地面の起伏は、まるで時間の砂粒でできた存在のようだ。

 岡村順一「地の譜 '15─Ⅲ」。いくつもアンモナイトが大地の中から浮かび上がる。そこに一つの小さな白い卵。かつて存在したものに対して、これから生まれようとする存在。二つのものが対置され、生命のロマンが表現される。

 久保田正剛「果てしなき道 2015」。明るい青から暗い青まで様々な青がお互いに絡み合い浸透し合う中に、直線によるフォルムが入れられる。それは白や黄色などで入れられ、あいだに緑の複雑なニュアンスのものが置かれ、きびきびとした韻律があらわれる。奥行に対して立ち上がっていくもの。そして、それぞれの空間は透明なボックスのようにも見え、それらが組み合いながら重層的な空間が生まれる。「果てしなき道」という題名のように、相似形のものが繰り返されることによって、永遠にたどりつかないイメージ。繰り返しエコーのように反響する空間。その抽象的な空間によって、いわば音楽によって表現される世界。たとえばバッハの音楽のように、繰り返されるメロディがだんだんと深くなって動いていく、そんなイメージもあるかもわからない。じって見ていると、この奥行のある空間の中に白や明るい黄色、オレンジ色などが放射的に、あるいは垂直に立ち上がって、緊密な空間構成があらわれる。

 岩永勝彦「とんぼり新成人」スカラベ賞。「とんぼり新成人」とは、道頓堀にいる新成人という意味だろうか。「大阪たこ焼」という看板。「千日前」という看板。「元祖 元禄寿司」という旗。歩道には袴や着物を着た女性たちがいて、Vサインをしている。そばに青年がうずくまるように腰を低くして前方を眺めている。そりあげた頭に大人という文字をのっけたヤンキーふうな新成人。中景にも様々な新成人が歩いている中に老若男女がいる。緑を中心としたトーンに安息感がある。そこに赤で看板やタコの模様や衣装の色彩が置かれる。筆者が繰り返して述べることだが、浄瑠璃を思わせるところがある。浄瑠璃という人形芝居を絵の中でつくって、独特のメロディを聞かせる。静かな中に独特の動きがある。新成人という二十歳の若者たちを、画家は愛情をもって肯定的に描いている。その姿と道頓堀の庶民的な大阪の街とがしっくりとリンクしながら、ヒューマンな旋律が画面から聞こえてくるようだ。

 小木曽雅子「思惟」スカラベ賞。地面の上の舗装した表面を取ると、中に地層が横たわっている。地面と地層によって独特の空間をつくる。そこに光が当たり、陰影があらわれ、樹木などのシルエットが捺される。空のような空間もあらわれてくる。今という現実の時間の現象と垂直に切った歴史的な時間とが絡み合いながら、世界があらわれる。グレーを中心としたほとんど無彩色の中にそのような深い詩情ともいうべきものが浮かび上がる。

 山口陽子「生命」。水の上に様々な波紋が広がっている。その上方の右のほうでは波紋が強く波立っている。水の中に生き物がいて、その生き物が動くことによって波紋ができる。それに対して上方から雨のようなものが落ちてきて波紋ができる。二つの波紋がこの水面に描かれて、対照を見せながら、混沌とした中に命というものの気配があらわれてくる。

 市橋哲夫「海の宙  15─3」。海の中にもう一つの宇宙がある。そんな空間をマンタやエイのような生き物が浮遊している。ひらひらと海草がそのフォルムを翻す。赤い球体がいくつもあらわれ、ベージュの球体もそのそばにあって、不思議な雰囲気である。水の中に星が存在するもう一つの空間があらわれてくるようだ。その海の世界はいわば画家の無意識の世界のようだ。現実の宇宙とは違った無意識の世界の中には、はるか向こうに死の世界がブラックホールのようにあらわれ、不可思議な謎めいた暗黒物質も存在する中に様々な星が浮かんでいる。その星をつくりだすのは深い無意識のなかの働きで、そこには記憶という作用もあるのかもしれない。だから、ここにはノスタルジックな性質をもつものもあらわれてきている。それに対して明るい希望のようなものが右のほうに、ベージュや柔らかな黄色い空間の中に表現される。

 岡田彌生「加速する時空のなかで」。室内の椅子の座っている部分まで外部から風景が侵入してきた。高速道路を走っていくような強いスピード感のなかに、両側のビルがシルエットふうに表現される。ライトが灯っている。上方を見ると、朝を思わせる。朝の光線が差し込み、夜が後退してくるときの、あの独特の純粋な感覚が上方の風景にあらわれているようだ。新しい未来の希望のようなイメージがそこにしぜんと感じられる。

 吉田光雄「ゆるやかな刻」。右のほうに二人の女性が座っている。一人は床に腰を下ろしている。床の上に白い薔薇の花が置かれ、花弁が散っているのがロマンティック。壁の向こうは窓のあるはずが、全部取り払われて、イタリアのトスカーナ地方を思わせるような大地が広がっている。シエナの街を思わせるような教会も聳え、はるか向こうは空気遠近法のように霞んで山が見える。そのあたりの光景は日本の山水のようだ。大きな鳥が一羽飛んでいる。「ゆるやかな刻」という題名だが、スローテンポの音楽が画面から聞こえてくるような気持ちになる。人間の未来に対する憧れや過去に対する追想のイメージを静かにうたいあげるように表現する。

 野中未知子「去来今…」。ほとんど抽象作品である。青い空間の上にグレーの空間が重なって、その青やグレーは大きな波のようにも感じられる。そんな中から球体のフォルムが画面下方に浮かび上がって、その周りにカトレアのような花のイメージがあらわれる。上方の空間にも同じような黄金色の色彩やピンクの色彩があらわれて、希望を思わせる。混沌とした時間のなかから新しい未来の時間があらわれ、過去の時間がだんだんと遠ざかっていく。そんな時間というものの謎を独特の青を中心とした中に虹のような色彩を置いて表現する。

 古曽成樹「里山」。山に広葉樹が生えているが、近景には広葉樹の中に針葉樹が一本、高く聳えている。霧がかかっているが、その向こうにも山が見える。さらにその向こうにも山。山の中に深く入ったその現実を、独特のリアルなディテールによって描く。山の中に入っていくと、樹木のもつ独特の気配が感じられるのだが、そんな気配が画面からよく感じられるところが面白い。

 平野昭子「静謐の刻」。俯瞰した構図で、薄赤い瓦ののった屋根とベージュの壁をもつ建物の集積した様子を描いている。家と家のあいだの距離のあるところは道になっている。そこは下方が暗くなっていて、壁にグラデーションができる。屋根には煙突がのび、小さな天窓のある小さな建物もところどころあるし、一つひとつの窓も丁寧に描かれていて、強いリズムが感じられる。画面ほぼ真ん中より少し右にドームのような屋根が上方に突き出ているのがアクセントになっている。さらに画面の上辺すれすれのあたりでは、建物がカーヴしながらつながっている。直線やカーヴする形を丁寧に追いながら、おそらくイタリアと思われるのだが、古い街のもつ雰囲気とニュアンスが浮かび上がってくる。一つひとつの窓の中にはきっと人間がいるのだろう。リズムに加えて生活感がそこに重なり、それが作品の音色となって聞こえてくる。

 佐々木英夫「たかい  たかい.バ~ァ」スカラベ賞。小さなフォルムを大きなフォルムが抱きかかえている。そして、そのフォルムは大きくよじれて、その先に足がある。自由な空間造形の中に対話をするイメージがあらわれる。

3室

 清水紀子「異邦人─翼をもつ人─」一陽賞。若い女性が立っている。そのマフラーが後ろに靡いて、それが翼のように広がっている。若々しい初々しい少女の命をモデリングする。

 神山茂樹「インドラ Ⅱ」。インドラとはヒンドゥー教の神。母が座って、その上体を前に倒して両肘をついて前を向いている。その大きな背中に一歳ぐらいの男の子が座っている。母親も男の子もふっくらとした様子。とくに男の子の様子は、いわゆる太子像を思わせるところがある。釈迦は生まれて七歩歩いて、「天上天下唯我独尊」と述べたそうだが、聖徳太子の太子像なども日本の仏画の中には存在する。そのような神々しいイメージがこの子供につくられているところが、この作品の魅力だと思う。そんな子供を生みながら、支える存在としての母が、小山のようなボリューム感のなかに表現されている。

 矢野真「銀河鉄道の夜─02711」会員賞。『銀河鉄道の夜』は、カムパネルラとジョバンニが銀河鉄道という死の世界を旅する汽車に乗る話である。カムパネルラが亡くなった。ボディが壊れて、背中に翼がつけられている。右手に魂が炎となって燃え上がっている。後ろの窓につけられた銀河鉄道。台座に彫られた建物。宮澤賢治の詩の世界を生き生きと造形化する。リズムの中に奥行があらわれる。壊れたブラックホールのような内部の空間のなかに、もう一つの世界が新しく生まれる。

 中村義孝「木枯らしの吹く中」。ブーツをはいてコートを着た女性が頭を前に傾けて、右手で帽子のひさしを覆っている。左手は頭の後ろにある。静かな中に強い緊張感が感じられる。なにか悩みがある様子。そんな顔の表情が肱と指とのあいだにのぞく。隠された顔のもつ微妙な表情がしっかりとつくられている。この若い女性のもつ柔らかで繊細な雰囲気が、コートによって包みこまれているのだが、そのコートを通しても心臓の鼓動が聞こえてくるかのように表現されているところが実によいと思う。

 大鍬英治「希望をのせて」。板の上にブーメランのような不思議なフォルムがつくられている。端がこの台座に接着し、それ以外は宙に浮いているのも、微妙な空間のなかの存在感を示す。

 深谷直之「大地の循環・春の峰」。ヒマラヤの突端のような高い峰のフォルムがつくられている。それがくっきりとこの小さな石彫の中に収まっている様子。峰と峰とのあいだには雪が積もっている様子。山の盆栽のような不思議な趣が感じられる。盆栽彫刻とでも名付けたくなるような、不思議なスケール感をもつ彫刻である。

 安田操「束なる」。大理石による作品。五つの不思議な先の尖ったカーヴするフォルムがあらわれて、上方でそれらが収束している。柔らかなマチエールとそのカーヴする形が実に生き生きとしている。大理石とは思えないような息づくような、植物的であると同時にもう一つの命あるものの触手のようなイメージをつくっているところが興味深い。

4室

 石井悦夫「ヴィーナス」。俯いて背中をみせるヴィーナスはローマやギリシャの彫刻を思わせる。上向きに立ち上がっているヴィーナスの像もあるし、下方には両側にミロのヴィーナスのシルエットが見える。石像がだんだんと人間の柔らかなボディを獲得して立ち上がってくるようだ。それはまさにエロスが静かに立ち上がるイメージと言ってよい。そんな空間を生き生きと描く。

 安孫子百合「ねこやまの街」。様々な建物がダブルイメージのように、重なりながら世界をつくる。ぽっかり空いた広場にシルエットの人間が二人。猫もそばにいる。少年が棒を持って走ってくる。その棒の中には青い不思議な生き物が生け捕りにされている。遠景にはもう一つの建物が並び、梯子のようなものが立ち上がる。朝が来たようで、夜が白く輝いて見える。下方は夕闇の世界。その中間領域の空間に人間を配しながら、独特の情感をつくりだす。建物の中に横に向かって歩く人にはドッペルゲンガー的な、自分自身をそこに見ているようなイメージもあらわれる。

 小倉正之「窓辺」。フローリングの床に椅子を置いて座る袖無しのワンピース姿の少女。後ろにはキャスターつきのテーブルに花柄の布が掛けられ、オレンジ色の花やオウム貝の貝殻や百合の花などが差されている。大きな姿見が女性の姿を横から映している。ディテールをクリアに描いているところが作品の面白さである。隅から隅までクリアにそのフォルムを追うところに独特の絵画性があらわれる。

5室

 丸山光子「命あるもの」。二つの籠に入れられた玉葱。地面に置かれている。不思議な生命の光が内部に一つひとつの玉葱に灯っているように描かれているところが面白いし、魅力である。

 木村保夫「ステルス変容・風」。ステルス機とはレーダーでも捕捉できない戦闘機である。その戦闘機が飛んでいる様子を、独特の幾何形態でシャドーのように表現する。下方にはステルス機が手前に向かって進んでくる様子を立体的に描いている。その周りに茶色い枯葉。上方のステルス機の後ろには青い葉を置いている。不思議なことに、このようなステルス機というメカの最先端のものを描いている画家の心象のなかにも不思議な季節の感覚があらわれている。抽象的な思考の中にも季節感があらわれてくるところが、日本人だと思う。夏と秋の二つの時刻。そして、その秋の時刻の中に夏のぎらぎらするようなイメージもあらわれているところが独特である。画家の心の中を、このレーダーにも捕捉されないステルス機は動いていく。その中に不思議な季節感、無常のような風が吹いているように感じられる。以前、万里の長城の上に物を置いて、万里の長城の歴史と自分の時間とを対比させたユニークな作品を描かれたことがあるが、そんなかつての作品もこの絵を見ながら思い起こしたのである。

6室

 坂口かほる「移ろいゆく季節の中で」。湿原を背景にして不思議な植物が描かれている。紫陽花のような細かな花が密集する花が一部欠けながらドライフラワー化して、黄色く、あるいは緑に白く輝いている。まるで結晶したような花々。それは時間がつくった花と言ってよいかもしれない。通常の時間から外れて、一種の永遠性を獲得しているかのようだ。柔らかな緑の中に紫や黄色、白などの色彩が静かに輝く。

 仙田清「薄氷」会友賞。蓮が枯れて、折れ曲がって、その葉を水につけている。たくさんの蓮が遠近感の中に描かれている。その形も面白いが、水の表面が一部凍った様子を描いているところがなお面白い。そこに薄日が差して、柔らかなグラデーションをつくっている。空間の詩と言ってよいような世界が繰り広げられる。

 孫鵬「見ざる、聞かざる、言わざる」。耳、目、口に手を当てた三人の少年。立っている場所にはスクラップの山。背後は空で、地平線は丸くなり、その中にもスクラップがたくさん入れられている。荒廃したメカニックな社会の終末の中に、黙って、それを見ないようにして生きているわれわれに対する鋭い文明批評ともいうべきテーマを、三人の少年を使って表現する。リアルな具象的な力がそれを支える。

 生田裕人「眠る公園 1」一陽賞。ジャングルジムの手前の直方体のフォルムの上に少女が座って考えこんでいる。樹木の一部にスポットライトが当たっていてあやしい。宮部みゆきの小説などのワンシーンを思わせるような現象をリアルに生き生きと描く。公園が人の心の闇を受けて、むしろ森のような気配が醸し出される。

 千野清和「大曲り」。棚田が広がっていく様子をパノラマふうに表現している。手前の植物の葉の形もリアルだし、一つひとつの棚田の様子もリアルで、はるか向こうまで続いている様子をよくクリアに描いている。上方の雲のかかった峰の向こうにはもう一つ別の世界が存在するような、そんな強いイメージの力もあらわれている。

7室

 平田慎一「黄昏の地」。太い幹に苔がついている。遠景はえぐれたような山で、採石したあとのようだ。茜の雲が空に浮かんでいるから、夕方なのだろう。懐かしさの中にこの太い樹木の巨大化された表現が懐かしい。リアルな感覚とノスタルジックな感覚とのミックスしたようなイメージをつくる。

 白﨑榮子「夏の日」会友賞。金属のボールに大小のトマトが七つ入れられている。それをおおらかに大胆に表現する。トマトの赤が輝くように描かれている。水滴がすこしついているところも面白い。ポップふうな若々しい感覚に注目した。

 髙橋章子「秋宴(こもれび)」特待賞・会友推挙。枯葉にドングリ、カタツムリ、枝などが集積する空間を、静物画のように描く。それぞれのクリアなフォルムが生き生きと語りかけてくる。

 川上弘子「『ソウゾウ』への招待状」。木製の矩形のテーブルの上にお皿やコップ、筆、本などが置かれている。そばに椅子があり、壁にグレーのキャンバスが掛けられている。褐色系の色彩で統一されているこの静物には、独特の上品な味わいがある。柔らかな光が差し込んで、その光を聖なるもののように表現する。

 楠森道剛「viable」。ヴァイアブルとは「新生児が生育できる」という意味である。上方の月から新生児がへその緒の先に逆さまになってぶら下がっている。下方は大地で、一本の巨大な木が描かれている。新生児のイメージを月が生んだ子供のように表現する。ペン画で、その線の重ねによってこのようなモノクロームの空間が生まれる。描写力に注目した。

 竹田明男「2015 おとのふね」。渦巻き状のフォルムやラビリンスのような文様を大きく配して、そこに不思議な鳥のようなものが飛んでいる。鳥の本体は壺のような形の竪琴になっているところがユーモラス。上方から濃紺、オレンジ、緑の柔らかな三つの色面によって空間がつくられている中に、生き物が不思議な音色を響かせながら飛んで、お互いに呼応する様子を面白く造形している。

 安田淳「もうひとつの現実」。白と黒と赤茶色。漆の色彩。石川県在住の画家である。金沢の漆の世界の感覚を平面の上に持ち込んだ。中心の白いフォルムが不思議な輝きを見せる。茶色い空間の中に六つの矩形の正方形のフォルムをコラージュしている。シンメトリックな空間の中に日本の美の特質を探る。

 長谷川清晴「通り雨」。サッポロドラフト生ビールが五本。一本はキャップがあけられている。温かいところに置いたために水滴がつたって下りてくる。その水滴を通り雨という名前で表現する。デュシャンが便器を泉と名付けたと同じような発想である。巨大化したビールビンの様子がポップふうな面白さで描かれている。一部ラベルのところがむけていたりするのがなにか人間くさい表情で、通り雨も汗のような雰囲気であらわれているところも、独特の寓意性を醸し出す。

 福山歩由美「ソファー」特待賞。革張りと思われるソファーにジャンパーを着て、ゆったりと腰を下ろした青年。この巨大な画面を鉛筆によってリアルに表現する。優れた再現力。同時に光の扱いがユニークで、光によって夜明けのようなイメージがあらわれているところも面白い。

11室

 渡辺とし子「静寂 '15」。葉の落ちた細い枝と蔓のような植物と枯れたような葉。タイヤ。直線や曲線によるフォルムが詩情を醸し出す。感覚が優れている。

 赤川雅俊「或る夜の思い出に」会友賞。青によって染められている。広場にシルエットの人間たち。母と子。父親と子供。風船を持つ少年。帽子をかぶって自転車をこぐお父さん。遠景にはサーカスのようなフォルムなど、いくつもテントが見え、三日月が浮かんでいる。ファンタジックな世界を生き生きとしたコンポジションの中に表現する。

12室

 山内敏史「石造の部屋の中」。石でできた部屋の中にニケの女神が置かれている。そばに頭と両腕のなくなったヴィーナスの像。それを眺めている裸の女性。古代の世界の中にいま生きている女性があらわれ、二つが対置され、あやしいエロスの世界にわれわれを導く。

13室

 磨井静子「無音の刻('15中国)」。中国の客家の家が描かれている。その下方に祠のようなフォルムがあって、仏像などが置かれている。そんな中国の歴史をリアルに感じさせるようなコンポジション。強い動きのある空間構成。

 大黒郁代「Hakobune '15」。オリーヴのような木が砂丘のような地面の上に幾本も立っている。その上に木製の船が浮かんで、そこに梯子が掛けられている。この船は浮遊しながらわれわれを乗せて、どこに連れていくのだろうか。上方に虹がかかっている。無意識の世界の中にあらわれてくる存在。とくに目的はないが、われわれをイメージの深い領域に連れていってくれるそんな箱船が、独特のセンスのなかに表現される。空中に浮くというより、むしろ深く無意識の世界に下降していく乗り物のようなイメージも感じられるところが面白い。

 緒方かおる「散漫と混沌と充実と」会友賞。色彩感覚がよい。色彩が弾けて爆発しているようなイメージ。裸の女性と魚と猫などが渾然とした中に、太陽が花のように描かれてそばに置かれているところも面白い。

〈彫刻室〉

 伊藤正人「風刻」。すこし歪んだリングの上に、さらに上下の高低差のあるリングをのっける。それによって、なにか不思議な動きがあらわれる。抵抗感のあるなだらかなカーヴが「風刻」という題名のように、砂丘のようなイメージも表すところがある。抽象彫刻のもつ象徴的な力をよく使いこなした佳作。

 清水啓一郎「マンタの飛行機に乗って海を渡る」青麦賞。マンタが両翼を広げて、上に猫がちょこんと乗っている。すごいスピードで飛行するために、下方の海が激しく波立っている様子が台座となっている。ユーモラスで力強い。飼っている猫と遊んでいるうちに、こんなユーモラスなイメージが浮かんだのだろうか。頭で勝手につくったのではなく、想像力の中にリアルなものが感じられるところが面白い。

第79回自由美術展

(9月30日〜10月12日/国立新美術館)

文/高山淳

1室

 平澤重信「風の言質」。緑がかったグレーの中にさまざまな形象が描かれている。建物と煙突。そんなものがいくつも描かれ、中心には石舞台のような巨大な岩。船がのっている。滝が下りてくる。水が流れる。下方には自転車や親子、人々が遊んでいたりする。上方に船が描かれている。線によって、あるいはちょっとした筆によってイメージが形象化され、それらが集まると不思議な画家のつくりだす森羅万象の世界があらわれる。それぞれの森羅万象の世界の存在物が、まるで呼吸をするように動きはじめる。

 醍醐イサム「D-GIN」。黒の墨による世界。二つの空間が中心で連結されている。激しいエネルギーが輝くように描かれている。その強い力と動きの表現に注目。

 ミズテツオ「B. B. B」。褐色の漆のような独特の色彩。それに対して黒い色面が置かれる。黒の中に線によって広角の角がつけられる。黒は大地で、そこに道が引かれ、茶褐色の空が浮かび上がる。そんな言葉を勝手に使いたくなるような不思議な空間があらわれる。褐色にしても黒にしても、根来の漆の色彩や黒漆の色彩を思わせるところが日本的と言ってよい。日本の伝統的なマチエールや色彩を絵画の中に引用しながら、独特の緊密な抽象空間をつくる。

 澤田弘子「風音」新会員。紫がかった紺色の色彩によって崖のようなものがつくられ、下方には道が左右にあらわれ、さらに下方には水が流れている。上方には、山のようなものが遠景に幾重にも伸びている。このほとんど黒に近いようなグレーに近い青みがかった色彩によって描かれた空間には、密度と奥行が感じられる。

 伊藤朝彦「誕生日」。ずいぶん年とった老夫婦。女性は生まれたばかりの子供をおくるみの中に抱えている。孫と老夫婦を青い無地の空間の中に浮かび上がらせて、まるで仏画のような趣。

 水出陽平「ガンバレ リハビリ(或る病棟にて)」。十五人のリハビリする男女をここに集めて、記念写真のように構成している。それぞれの顔かたちに個性のあるところが面白く、全体で集まるとユーモラスな生命感があらわれる。

2室

 竹越仁恵「木々のカタチ Ⅰ」新人賞。幹から枝、梢にわたる樹木のフォルムを生き生きと描いている。それはほとんどシルエットで、フォルムが響いてくる。互いに呼応しハーモナイズするように描かれている。その向こうは透明な青と雲の白によってできている。憧れといった心象を喚起する空間があらわれる。

3室

 奥田營子「展」。紫色の暗い水の手前に道が続いて、家が見える。湖の向こうは低い丘のような山で、雲が長く浮かんでいる。そんなあいだに赤褐色の橋のようなフォルムが画面を横断している。強いコンポジションである。色彩にコクと輝きが感じられる。

6室

 十時良「空の叫び・2015」。たくさんの腕と指が重なって空に浮かんでいる。そのあいだに口のようなものがあらわれ、全体で激しい叫びのようなイメージがあらわれているところが面白い。それに対して背景はコバルト系の柔らかなブルーで、白い雲がゆったりと浮かんでいる。その平和な空とこの混沌とした人間臭い手の集積したフォルムとが異様なコントラストを見せる。

 平田寛子「before daybreak」。坊主頭の少年が裸になって膝を抱えて座っている。それがまるで空の上に浮かんでいるかのように表現されている。瞑想的な世界。その曲線によってできた有機的な人間のかたちが、静かなオーラのように輝くように描かれている。その体を通過するように雲や緑の色彩やブルーの色彩があらわれ、空間と合体した想念の世界が面白く表現されている。

7室

 佐藤榮美子「mid Night」。ずいぶん横長の空間で、一対二ぐらいの比率があるだろうか。そこに塗り重ねられた黒、といっても、グレーにも濃紺にも、褐色も紫も入っているように見える空間が深沈とした表情を見せる。引っかいたような線によって、塗り込められた下からすこし赤みがかった色彩が浮かび上がる。その線は落書きのようであるが、また、道のようなイメージもあらわれる。「Bottle 116 of 752…… SK 6695」。白い引っかけたような線もあらわれるし、たくさんの横文字がそこに描かれている。あるいは、「for you」といった横文字も見える。この中に塗りこまれた空間は作者が夜の中に生きていることの証拠と言ってよいだろう。それが重ねられて、いわば一つの壁が不思議な呼吸をあらわし、空間をつくりだす。壁がそのように生きて呼吸するような、そんな様子にこの空間が描かれているところが、この作品の面白さだと思う。

8室

 竹中稔量「記憶─3・11  忘れまじ」。三月十一日、大津波が東北や関東を襲った。いまも福島原発は収束していない。そんな恐ろしい現実を、この無機的な機械の部品のようなフォルムを組み合わせながら表現する。あいだから炎のように立ち上がっていく赤茶色のフォルム。強いコンポジションで、すべてのディテールが動いてやまない生きた存在として画面の中に表現されているところが、この画家独特の表現である。

 小作青史「コントンのまま終息」。奇怪な生き物が両側に広がっている。右のほうは緑の色彩で、左は赤やオレンジの色彩。まるで細胞がそのまま生命として立ち上がってきて、うごめいてくるような存在。たくさんの無数のものの要素はすべて生きた存在として画面の中に引き寄せられ、それらが動きながら世界の森羅万象をつくるといった趣であるが、このエネルギッシュな動くフォルムは、作者の創造したものである。詩人の強い造形感覚である。

9室

 立川広己「終美」。両腕が切断された豊満な女性のボディが横になっている。乳房の下あたりが大きく切られて、内部が空洞になっている。困難な現実のなかを生きてきたこの女性は、いま終末を迎えた。しかし、不思議な力が感じられる。豊満なボディからはエロスや母性的な力さえも感じられる。「終美」という題名のように、不思議な美しさのなかに息絶えた存在。左のほうには黒い床のようなボードのようなものが立ち上がり、上から綱が下りてきている。一本の綱は命綱であったのか。あるいは、その綱は自殺をするための綱であったのか。なにか強い象徴性をもって綱が下りてくる。左から男の手と思われるものが伸びて、この女性のほうに向かおうとしている。愛と悲しみといった言葉も浮かぶ。愛するがゆえに困難な現実のなかにたたかいながら終末を迎えた人間のイメージ。周りの赤い色彩は激しいパッションを表すようだ。ドリッピングされた白い点は、この女性にかけられる聖水のようなイメージを感じる。

 山岸修次「あたりまえではなき平和Ⅴ」。工場のような建物が地平線に六つ並んでいる。手前に三輪車が一つ。上方には戦闘機のようなものが飛んでいる。平和と戦争。二つの世界がグレーや草原を思わせる緑の無地の空間の中に浮かび上がる。線が造形的な要素として強く使われている。

10室

 古田千鶴子「三美神(平和を)」。中心に背中を見せる女性が両手を左右に広げている。左右にこちらを向いて踊っているような二人の女性。お互いの腰の動きを見ると、この三美神は左右に踊って静かにダンスをしているような趣である。そして、向かって左の女性は右手に黄色と黒の蝶のようなものを持っている。女性たちは円弧にくり抜かれた空間のなかにいて、そのはるか向こうに低い山が見える。草原が下方に広がっている。その円弧の外側は洞窟を思わせるような緑の色彩で覆われている。ディテールが魅力。後ろ姿の女性の右手と、その横にいる女性の左手の指の形など、実に生きたディテールの形として、まるで仏像の手が強い存在感を示するように不思議なオーラを発信してくる。画家のつくりだした強いヴィジョンが隅々まで行き渡った表現。

11室

 竹下馨「母子像『あの日から70年』」。敗戦の時の日本の姿が下方に描かれている。ヘルメットをかぶった兵隊。母と子。若い女性。みんなうなだれている。敗戦の玉音放送を聞いたときの様子なのだろうか。この人々は鬼籍に入って、今は生きていないだろう。上方に巨大な母親の姿が浮かび上がる。左手に幼児を抱き、右のほうにはもうすこし大きな子供が手を母に差し伸べている。上方に鳩が飛び、平和な飛行機が飛んでいる。ビルが立ち並ぶ。それは現代の日本であるが、その日本の下層に敗戦の歴史がある。戦争と平和という一貫した作者のイメージの表現である。三角構図によって祭壇画ふうなコンポジションの中にまとめている。若い母親の像を見ていると、原爆マリアという長崎で亡くなった少女のイメージも筆者には浮かんでくる。そのようなネガティヴなものとポジティヴなものが共存するなかに、この作者の世界がつくられている。

12室

 田内徳重「100%安全なんてないんだよ」新会員。十三夜の月が中心にある。それは膨れ上がったフォルムであるが、下方にいくと、向こうのほうに窪んだような空間があらわれる。周りに矩形の線が引かれ、まるで雪が流れ、その雪が花吹雪のようなイメージと重なっている。そうすると、そのあいだの紡錘状のフォルムは虚の空間としてブラックホールのように、そのあいだにもう一つ別の空間があらわれてきているようにも錯覚される。月のもつ不思議なイメージ。われわれ日本人を引きつけてやまないイメージとブラックホールのようなイメージ。そして、雪月花という言葉があるように、雪と月と花がその周りに重なった、美意識の空間がここにあらわれてきたというようにも考えられて興味深い。トリッキーで幽玄な空間。

 奥野佳守子「黄泉の使者」。昔、子供の時に鉄粉を鉄の上に置いて、下に磁石を置き、動かすと、鉄粉が様々な形をつくった。そんないわば鉄粉のあぶり出しのようなイメージを、この平面空間に感じた。鷹の頭部やフクロウの頭部のようなフォルムが黒いトーンの中に描かれて、それがまるで鉄粉が集まったような不思議なマチエールの中に表現される。「黄泉の死者」という題名を見て、なるほどと思う。不吉なあの世の世界がじわじわとあぶり出しのようにあらわれてくる。そんなイメージをヴィヴィッドに描いている。

 一ノ澤文夫「形象」。縦長の画面の中に、支持体は緑の柔らかなトーン。その中に白と黄色、ブルー。あるいは曲線が入って、不思議な形があらわれる。大きな沼のような色面の中に建物やコートのようなものがあらわれ、水が空を映して輝いているような、詩的なイメージの表現と言ってよい。色彩が柔らかくロマンティックに輝くように響いてくる。

13室

 八木博子「川のシーン・映画『うつせみ』から」。逆U字形の馬蹄形のフォルムが繰り返し重なって遠景に行く。そのあいだを水が流れていって、何か白いものが映って手前に来ている。向こうには土手があって、白い雲が三つ浮かんでいる。あやしい世界。水の手前の岸辺には可憐なキキョウのような花が、あるいは赤い小さな花が咲いている。イマジネーションのなかに咲く花や水、あるいは境界領域を超えた存在を生き生きと表現する。

14室

 下総しげお「記憶の風景」。支持体に紙を貼り、コラージュし、そこに褐色の絵具で線をかいていく。まるで革の支持体の上に入れ墨をしているような、あやしい強い生命感があらわれている。呪文的な図像が力強く表現されている。

 大倉いづみ「予感─午後」。色彩が純粋で、強い感覚が感じられる。青い室内に赤い紐で首吊りをした少女。時計は三時を示す。窓の向こうに広場があり、バスケットボールのコートのようなものや家が見える。右のほうには瓶がいくつも立っているのか、あるいは高層ビルか。イメージがそのまま空間のなかに形をなし、色彩を獲得し、強く立ち上がり、発信してくる。

 儘田静枝「あざみ草」。女性の横顔。頭に青い花がつけられている。大きな目には哀愁が漂っている。詩人の肖像と言ってよい。

16室

 水野利詩恵「惑う」。古い日本の板の引き戸を横に倒して支持体にしている。腰板や上の板に、タンポポの羽毛に触ろうとするかのような両手、あるいは裸の足の一部が足の裏から描かれている。格子状の部分があって、そこは紙が貼られているのだが、そこは黒い曲線がドローイングふうに表現されて、混沌とした惑いの世界が表現される。上方の黄金色の引手の部分がさん然と輝くあやしいアクセントになっている。そばに両掌を上に向けた手があらわれ、サクランボが六つ、その下には点々と落下するサクランボが描かれている。左のほうにもサクランボが描かれている。古い日本の民家の板戸を背景にして、霊的な世界、家につく家霊ともいうべき存在が浮かび上がってくるように描かれている。不思議な子守歌のような音色が聞こえてくるようでもある。板戸の波打つような年輪のカーヴする形が、さざなみのように波動を引き起こす。そういった支持体を十分に利用しながら、しぜんとそこから浮かび上がってくるイメージを追求して、独特の気配のある空間をつくる。

 佐々木正芳「風のある日」。三人の男性が宇宙服のようなものを着て、何か考えこんでいる。空には強い風が吹いて、洗濯物のようなものが靡いている。街灯が斜めにかしぎ、夕日が空にチラついている。不思議な力が画面の中に引き寄せられる。

 斎藤國靖「仮説としての絵画」。木製のテーブルの上に、李朝ふうな丸い壺と把手のあるすこし小さな壺が並んで置かれている。その把手のある小さな壺には白い百合の花が差されている。そばには大きな切り株。それが背後の鏡に映っている。鏡には切り株や壺の後ろ側の面が映る。そして、壺の向こうに百合の花が浮かび上がっている。百合の花のある壺は手前にあるのだから。そして、その存在を線によって手前に描く。ちょうど浮世絵の彫り師が墨版を起こすようにそこに表現する。そして、東洋の造形空間が生まれる。中心にあるのはヨーロッパの陰影によるボリューム表現である。それに対して東洋の日本の線の世界があらわれて、二つが対置される。まさに二つの世界が対置されながら、造形とは何かといった問いかけが、まるで禅問答のようにあらわれる。

 小倉信一「イノチニツイテ─冥利─」。右のほうに「2015 イノチニツイテ─冥利─S.Ogura」という署名の下に、「権律師賢信」という名前が置かれている。権律師は僧綱(僧尼や法務を統轄する僧官)の中では最も低い階級だが、きっと画家の名付けた謙虚な画名なのだろう。昔は僧と画家とは一体化していることがよくあった。右のほうには「物の冥利という事、最後まで大切に使う事で十分に役目を果たしておわりました、という物の心を感じる。そして自らもまた自分の身を始末していく感覚で毎日をすごすこと」という文字が見える。右のほうの椅子に座って絵を描いている眼鏡をかけている男がきっと作者自身、信一権律師賢信なのだろう。周りには医者や街を歩く人などの姿が描かれている。落下する鳩は死を表す。病院の晒されたような空間を背景にして、命というもののもつ切ない様子を描く。画家独特の強い具象性、ディテールを武器にしながら、死を前に据えた人間的存在、その実存的姿を描いて強く発信してくる。

 谷本重義「妖神」。朝鮮の踊りを思わせるところがある。女性の神と男性の神が向かい合いながら踊っている。男性の神は左足を上げて、見得を切ろうとしているようだ。それに対して女性の神は右手を後方に置いて、静かにほほえんでいる。背後は黄色い空間。たらしこみふうな色彩の中に浮かび上がってくる二つの男女の神像。形而上的な存在が地上に姿を現したかのようなヴィヴィッドな感覚がある。不思議な世界を作者は透視するように描いた。現実のボディをもつ存在というより、そのような霊的なものの存在が交流して動いているように感じられるところが興味深い。

 小川リヱ「風謡」。激しい動きをするなかに、口から不思議なものを吐き出したり舌を出したりして、ざわめくような人間群像。それらの人間に取り囲まれてぽっかり空いた空間のなかに、密度のある力のある空間が生まれる。「風謡」というように、うたうような激しいダンスのなかからあらわれてくるヴァイタルな力を、画面に引き寄せようとする。

 星功「家族」。十二人の老若男女の群像である。モノクロームで、まるでアウシュビッツに引かれていくユダヤ人の家族のような不思議な雰囲気である。未来は決して明るくない。そんな中に逆に人間のもつリアリティともいうべきものが立ち上がってくる。人間の運命や力というもの、生命力を画面に引き出した群像表現として興味深い。

17室

 川添正次郎「勝負」。赤いテーブルに、中にサイコロを入れたお椀のようなものが伏せられている。そばにその小さなものが七つ。両側にヘルメット姿の昔の革マル派のような人々が向かい合っている。強い鮮烈な印象である。この勝負はどのような結果を生むのか。強いリズム感が聞こえてくるようなコンポジション。

 吉見博「PLAY THE GUITAR AGAIN」。ドンゴロスの麻を支持体に貼って、そこに風景的な世界を描く。オレンジ色と緑とのせめぎ合いの中に道ができ、建物が見える。上方に大きな目のようなフォルムが浮かび上がる。すこしクレーを思わせるような詩的な表現である。

〈彫刻室〉

 長谷川由美「闘いの後」。会員のミズテツオの肖像画を思わせるところがある。タバコを吸って考えこんでいる芸術家の肖像。独特の人間臭いヒューマンなその表情に注目。

 竹永亜矢「2015・立つ」平和賞。漆でつくられたような王の像。エジプト彫刻を思わせるようなシンメトリックでシンプルな彫刻である。その強いモニュマン性に注目した。

 山崎史「5つの林檎と書籍」新人賞・新会員。矩形のボックスの上方に五つの林檎が置かれている。木でつくられて、燃やされたようなイメージ。下方のボックスの中には、下方に百科事典のような本が重なり、上は灰になっている。聖書によると、人類の最初は神がつくり、エデンの園にいたのだが、林檎を食べて人間が意識をもったために追放された。その意識の集積は本と言ってよい。その本がいまたくさんの灰になって目の前に存在する。つまり、創世記からこんにちまでの歴史をアイロニカルにここに表現したと言ってよいだろう。明確なコンセプトのもとにつくられたモニュメンタルな彫刻表現である。

 藤山深諦「不安定な門」。二本の足が向かい合ってこの彫刻を立たせているのだが、それに対して直角の面にぶら下がった二つの木のフォルム。下方に重ねられた二つの木。二人の人間によって支えられたフォルムが、もう限界になって揺らいでいるような雰囲気である。まさに不安定な門で、木彫によってそのような人間的存在のお互いの関係性を表現している。木という柔らかな材質がこの人間的な表情をつくりだすのに実に有効だと思うが、今回はそのようなスリリングでペシミスティックな世界観が表現されているところが興味深い。

 渡部一重「何処まで行くの」。鉄の台座から屈曲しながら木の板がつくられ、上方にとび箱をいま飛んでいるような若い女性の姿が彫られて、強いイメージを発信する。

 山本辰昭「かたぐるま」遺作(1978年作)。山本辰昭が六月に亡くなった。享年七十六歳。筆者は、この仮面をつけた子供たちの群像が現代を象徴するようで面白く感じて、短評を綴ったことがある。略歴を見ると、伊藤鈞との出会いから彫刻に進んだそうだ。伊藤鈞はこの自由美術の先輩の彫刻家である。作品を見ると、穏やかな中に生き生きとした造形感覚の持ち主であったことがわかる。イメージ豊かな作者の柔軟な表現に感心していたので、亡くなられたことが残念である。合掌。

 竹本鉄夫「もう一人の覗く男」。窓から男がのぞいているが、その顔が切られて、顔の表面はマスクとなって窓にぶら下がっている。まさに社会的な関係のなかで仮面をかぶっている人間の姿。いわばそのペルソナの問題を追求した作品として面白い。哀愁ともいうべき雰囲気が鑑賞者を引き寄せる。

 杉英行「方舟─天空へ(戦禍で命を奪われた子供たちの魂を天に運ぶために)」。木の本来の持味を生かしている。地上に置かれた柱から、中のくりぬかれたフォルムが160度くらいの角度で立ちあがる。そこにすくいとられ包まれた空間が、一種形而上的な存在にリンクするようだ。シンプルで強い表現である。

 吉田光正「生命の讃歌」。石の板を斜めに立て掛けて、そこに三人の少女を滑らせている。逆さまになって滑る少女を中心に、上方には足を上げて滑ってくる少女を赤茶色の石によってつくる。左下には、なにか考えこんでいるような服を着た少女の姿を描いているところもほほえましい。この若い命をまるで神々しいものとして、美しいものとして、可能性のある未来をつくるものとして作者は表現している。希望のイメージが独特のオーラをこの作品に与える。

 池田宗弘「旅人(やまぬ雨はない)」。樹木の下に巡礼するような僧が棒を持って立っている。そばに大きな犬のような猫がたたずんでいる。マントを着たこの巡礼僧。昔、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼の旅を経験した作者のスケッチなどを見た記憶がある。カトリックの世界観をこの彫刻作品にもよく感じることができる。後ろの樹木の枝や葉もブロンズでつくられているが、その植物の姿に神が宿っているといった、そんな強いヴィジョンを感じることができる。それがこの僧の上に差し伸べられているところに、神の恩寵ともいうべきイメージがあらわれる。ブロンズによる黄金色のくすんだような輝きがまたこの彫刻の色彩感覚として効果的である。

第50回記念一期展

(9月30日〜10月12日/国立新美術館)

文/高山淳・紺世邦章

1室

 石川幸子「日曜日」内閣総理大臣賞。赤いワンピースを着た女性が庭仕事をしている。そばに如露が置かれ、鋏が前にあり、籠の中に花が二輪ほど切り取られている。ネット状の台の上に花が咲いている様子。そこに手を差し伸べる女性のフォルムが生き生きとしている。また、暖色系を駆使した色彩感覚も優れている。(高山淳)

 戸室佐代子「ある刻(とき)」。五人の若い女性がファッショナブルな衣装を着て並んでいる。女性らしい繊細な、すこしアンニュイな表現。感覚がよい。(高山淳)

2室

 新冨正弘「至上の愛」。文楽のテーマは心中。上方に二人の男女が横になって描かれている。下方に女性のかしらが一部分解されて、ジグソーパズルのように描かれ、それを紅葉した葉が受けている。鮭のような魚が口をあけてパッションを見せる。悲しい、まさに至上の愛をテーマにしたユニークなコンポジション。(高山淳)

 田端啓子「時を刻む(春)」。たくさんの円弧が集積して、リズミカルで楽しい。背後にジグソーパズルのように街が描かれているようだ。そんな街にそれぞれの人がそれぞれ生きて、それぞれの時を刻む様子を、ハーモナイズする空間の中に表現する。(高山淳)

 高瀬勝之「blue love(マンハッタン)」。マンハッタンの俗にいう摩天楼の聳える様子をハドソン川を隔てて眺めている。夕闇に二十四日ほどの月が浮かんでいる。青を中心とした色彩のグラデーション。そのメリハリのきいたモザイク状のフォルムの中に黄色やオレンジが輝き、一種ステンドグラスのような効果をあげている。(高山淳)

 森田哲隆「曙(ベトナム・メコンデルタ)」大衆賞。メコン川は大河である。湖のように広い。その中を一艘の船が進んでいく。いま太陽が向こうから昇ってきて、この川をオレンジ色に染めている。悠久なる自然の広がりのある空間。聖なるイメージを描く。(高山淳)

5室

 津田則子「静寂」奨励賞。湖畔にある集落の様子。背後の山は霞みつつも丁寧に描かれ、確かな存在感がある。それとは対照に林や湖がクリアに描かれることで、樹木の生命感や湖の透明感が表れ、間の白い洋館が清潔な抒情を醸しだす。(紺世邦章)

8室

 池田蒼「青灰色の星のはなし」。不思議な人面を思わせるような表情をした鳥が立っている。そばにテーブルがあって、それを帽子をかぶった小さな人形が眺めている。後ろに小さなおもちゃの家。矩形の花瓶に植物が差されている。上方に窓が穿たれ、その中は青い空間。微妙なグラデーションの中にそれぞれの存在が息づくように描かれて、柔らかな詩情が感じられる。(高山淳)

9室

 永野志津香「二つの太陽」。縦長の大画面。マッターホルンのような峰が画面の上方に聳えている。そこの頂上に接するように白い太陽が浮かんでいる。それに対して緑の球体が、その山腹の手前に巨大に浮かんでいる。下方は、黒々とした山のシルエットが緑の円弧の湖を抱きかかえているような趣。そんな中にこの緑の球体は何を表すのか。まだ作品が完成していず、未完のように思われるが、完成が楽しみである。(高山淳)

 笠野建司「聖バルトロメオ教会」。石造りの教会の石段と建物と緑のドーム。高い塔にある大きな時計の針は十二時前を指している。ぐいぐいと描きこんだ男性的な筆致の中に物の存在感やボリューム感が表現される。(高山淳)

 佐々木大次郎「古きパリの下で」。ノートルダムは林武や鳥海青児なども描いた。同じノートルダムを画家は優しい雰囲気で表現している。茜色に染まったノートルダム。とくに中心の窓の文様がアクセントになっている。(高山淳)

10室

 中村一郎「案山子も  秋悠悠」。三重県の棚田を描いたものである。田植えをしたばかりの棚田が瑞々しく表現されている。畦道の緑の植物と水を張った棚田の様子。それは近景に描かれているのだが、中景にそれを遠くから眺めたような様子で、棚田の段差とほぼ平行な視点から眺めている。段差はシルエットになって、畦道が緑に輝いている。そんな棚田のいちばん後方は階段状の田になっているのだが、その上方に子供と手をつなぐ父親と捕虫網を持つ少年がいるのが不思議な雰囲気である。実はこの三体が案山子なのである。その背後は深い山の斜面になっている。明暗のコントラストの配分が優れている。棚田の端整な品のよい表現の中に、案山子が不思議なアクセントになっている。(高山淳)

16室

 池上貢「遊歩道」。バイク進入禁止という看板が前面に置かれて、手前には橋があり、橋に帽子をかぶった老女が立っている。看板の向こうには犬を連れた女性がこちらに歩いてくる。反対を向いて、後ろ姿を見せる女性。男性が手前に走ってくる。川の向こうには三人の女性たちが立っている。すこし紅葉した樹木。秋の一刻。空がオレンジ色に染まっている。それぞれの人々はそれぞれの時間を背負っているようで、時間がモザイクのように組み合いながら不思議な時空間があらわれている。それが独特の魅力で、一種シュールな気配を漂わせる。(高山淳)

第39回新日美展

(10月4日〜10月11日/東京都美術館)

文/磯部靖

1室

 河野みち子「白いカーテンに憩う光のなかで」文部科学大臣賞。三人の裸婦を画面の中心に描いている。一人の裸婦は向かって右向きに膝を抱えて座っている。その背後に立った二人の裸婦が配置されている。背景は灰白色のカーテンで区切られた室内と屋外のダブルイメージで、遠景には丘の上に街が見える。カーテンは風に揺れているが、その風がどこか時間や空間を超越した特別な風のように思われるところが興味深い。イメージを遠く離れた異国に飛ばし、その地とこの部屋を直接繫げるような、画面構成である。いずれにせよ、ヴォリューム感のある女性のフォルムで画面を安定させ、そこに心地よいロマンを引き寄せた作品として注目した。

 永野信「シエナの街はシエンナ色」。画面の両側を高い建物に挟まれた路地が手前から奥へと続いている。数人の人物が歩いているが、どこかミステリアスな雰囲気を醸し出している。パースペクティヴの効いた構図と落ち着いた色彩の扱いが、独特の吸引力をもって鑑賞者を作品世界へと引き込むようだ。

 四方公子「記憶の中の旅物語」。手触りのあるマチエールに支えられながら、ロマンチックな世界が描かれている。手前には背の高い樹木が立ち並び、その中に建物がいくつか覗き見える。どこか物語の中の一場面のような世界観が独特である。パステル調の色彩がそういったイメージをより魅力的にしている。

 鈴木忠義「悠久に緑風の爛漫」。風に吹かれて咲き乱れる桜が画面いっぱいに描かれている。幹はその強い生命力を思わせる力強い描写であり、花は繊細に、しかし揺れ動くその様子を強い動勢を持って描かれている。背後は青みがかった深い緑の色彩で、しっとりとした情感を引き寄せている。触感的なマチエールでそういった情感を支えながら、桜の儚い美しさに永遠性を持たせて描いている。

 千木良宣行「岬の夜明け」。画面の中央にこんもりとしたフォルムの岬が大きく描かれている。下方には建物などの姿が見え、そこから手前までは海面が広がっている。上方の空は、水平線に近づくに連れて少しオレンジがかっている。徐々に夜が明けて、陽の光がこの風景を染めていく様子が、実に叙情的に表現されている。手前から岬まではある程度の距離があって、それを満たす空気にある種の透明なひんやりとした感覚を覚える。北方の島を取材しているそうだが、その土地特有のどこか寂寥とした孤独感が、作品の前に立つ鑑賞者の心にしみわたるようだ。

 前原専二「老いる(鞆の街並み)」。古い景観を残す街並みを通る路地を描いている。左右には木造の家屋が並んでいて、中景には一人の老人が杖をついて歩いているのが描かれている。画面全体には薄い灰白色のトーンがかかっていて、それが不思議な幻想感を誘う。長く年月を経た街が老人の姿を引き寄せたようなイメージである。鑑賞者の強い情感を誘う。

2室

 片桐金治郎「手賀沼(冬)」中尾賞。深くコクのある色彩の扱いで、手賀沼の情景を描き出している。中景には水面が見え、その向こうには鉄塔や工場のような建物がいくつか見える。手前の芦は風に揺れ、どこか寂しげな印象を受ける。そして向かって右の方から、夕陽のわずかなオレンジの光が湖面や芦、建物などを照らしている。静かな気配の中に、そういった自然の微細な様子がしっかりと捉えられている。

 青山絹江「シマフクロウ(アイヌの神)」。羽根を広げた大きなフクロウがこちらに向かって飛んできている。周囲は闇に包まれている。向かって右下ではアイヌの衣服を着た二人の人物が、フクロウと同じように腕を広げている。神格化されたフクロウを鑽仰する踊りだろうか。何れにせよ、大胆な画面構成を使いながら、鑑賞者に迫るような迫力を見せているところが強く印象に残った。

 森屋治三「浜の夜明け」。朝日の昇る浜辺の風景である。手前に小舟がたくさん並び、家屋がいくつか建っている。水平線の向こうでは、今まさに太陽が昇ろうとしている。その光によって水面はキラキラとした輝きを見せている。向かって左側では、焚き火が煙を上げている。画面全体の清々しい空気感が気持ちよい。緩やかな明暗を作り出しながら、メリハリの効いた画面構成によって現地の情感をしっかりと作品に引き寄せている。

 早田美智子「早春のころ」新日美大賞。手前からこちらに向かって細い川が流れてきている。手前には大小の岩が並び、奥では川に沿って樹木が立ち並んでいる。冬が終わり春を迎える中で、茶系の色彩を中心にしたこの情景が、ささやかな温もりを醸し出しているようだ。何気ない風景の中に、自然の持つ深い情感が込められている。

4室

 高木登「追憶のマテーラ」。手前から重なるように家屋が建ち並んでいる。向かって右奥には尖塔が見える。画面全体は輝くような光に照らされていて、どこか神々しい。建物は随所に深い影を湛えていて、右手前が最も暗い。そうやって明暗に抑揚を付けながら、見応えのある画面を構築している。

 万年山えつ子「楽しく生きよう」。幹の大きくカーヴした樹木を画面一杯に配置している。葉や花はコラージュされていて、下方ではシルエットになった人々がたくさん描かれている。枝にぶら下がったり、手を繫いだりしている。ふと見ると、左側には手を顔に当てて座って泣いている人もいる。生きていると様々な不幸も訪れるが、だからこそ楽しく生きようというメッセージが強く伝わってくる。それはこの樹木の持つ強い生命力から発信されてくるようだ。いずれにせよ、地面の下の根や幹のフォルムなどが独特で印象深いし、画面全体のポジティヴなイメージが、鑑賞者を強く捉え、作品に惹き付ける。

 清水泉州「春爛漫」東京都知事賞。満月に咲く大きな桜の樹木を描いている。そのヴォリューム感のある花の様子が、気持ちのよい魅力を作り出している。コントラストを繊細に扱いながら、雅な気配を湛えた画面が強く印象に残った。

6室

 前田重昭「東京時」。スカイツリーを望む隅田川に架かる橋から見た風景である。川の向かって右側は現代の風景だが、左側は一昔前の時代を思わせる情景である。刻々と変化する東京の様子を、独特の画面構成で描き出したイメージがおもしろい。昼と夜という時間軸をずらしているところもまた、もう一つの時間の流れを感じさせて興味深い。

8室

 佐藤輝美「陲の歌音」。幻想的な世界観が独特である。川で沐浴する女性たちを描いているが、どこか童話や神話の一場面のように感じられる。丹念に筆を扱いながら、自身のイメージをしっかりと画面に展開させて、強い臨場感を作り出しているところがおもしろい。

 平田太美雄「冬日」新人賞。手前から奥に蛇行しながら川が流れている。川は静かに流れながら、樹木の枝を水面に映している。画面全体にしーんとした気配が漂っていて、それは透明な空気感を引き寄せている。やわらかな色彩の扱いも相俟って、心地よい魅力を作り出している。

第83回版画展

(10月6日〜10月18日/東京都美術館)

文/紺世邦章

1室

 呉窮「Noah's Boat」山口源新人賞。舟の中に男が寝そべっている。前景から中景に向かって舟が伸びる構図で、舟の先には男がいて、虚ろな眼で自らの死体を見ている。その周りには水牛、鳥、サイなど沢山の動物が群れている。それぞれの毛や骨などの質感を丹念に表現しているが、特に眼には鑑賞者を睨んでくるような、あるいは何かを訴えかけてくるような力がある。

3室

 佐藤真奈美「edge」。繊細な線で二人の少女が描かれている。陰翳は点描によって作られている。点滴のチューブがあるので、病床のようだ。植物のつると点滴のチューブを重ねている点が面白く、病に伏している少女が次第に植物に取り込まれていくようなイメージによって、少女の儚さを表現する。

 小川悠「今日の発見」。大きな樹のある部屋に、少女やドラゴンなど、空想の生き物が描かれている。少女の覗く壺の中身が発光して、それによって淡く照らされた空間に、微妙な濃淡でモチーフが描き込まれている。空想の生き物や、瓶入りの植物や鉱物から窺える少女の博物趣味など、つぶさにモチーフを見ていくとわかる独自の世界観が魅力的である。

5室

 永吉友紀「カミカゼヲトメ」。戦闘機を見送る少女は憂いを帯びた表情で、左手に旭日旗を、右手には桜の枝を握りしめている。旗棒と戦闘機の飛行機雲が交差する構図は、乗員と少女とが離れていく情感を強め、肩を上げて力一杯に旗を振る様子には再会を願う少女の切実さが表れている。

6室

 小川正明「天地玄黄─迷宮空間Ⅱ」。二点一組の作品。うねるような地形の中に、古代か未来か、現代とは異なった建築による迷路のような都市が描かれる。その色が反転したもう一枚の作品と組み合わされているが、上の作品の地面の形は、下の作品の空にぴったりとはまる。「天は玄く地は黄色い」を意味する題名と合わせて、世界の陰陽を表現したような仕掛けが面白い。

 小林敬生「陽はまた昇る─宙(そら)へ・2015D─」。木口木版によって、陸海空の動物たちと都市を細密に描く。対称になるようにモチーフを組み合わせ、左右の動物が呼応しているように表現される。自然のなかに都市を築いた様子や、雛が卵から誕生する場面が描かれているなど、破壊と再生、自然と人の共生といったテーマが感じられる。

 吹田文明「旅(ひる)」。空間には幾つもの球体が描かれている。この空間は宇宙で、球体は月と太陽、星々のようだ。鮮やかな色彩を用いながら、グラデーションや背景のストライプなど、ところどころマチエールのある表現がなされている。星々の煌びやかさ。白と赤の蝶、舟が描かれている。ダイナミックな宇宙空間を、小さな蝶が優雅に舞っているイメージである。これは、魂の輪廻転生の旅のようでもある。その旅路は想像もつかなかないものであったが、この作品からは、それはゆったりとしていて、また道すがら何らかの出会いがあるものなのかも知れないと想像をかき立てられる。そしてこの宇宙空間は中心あたりからまっすぐに割れている。蝶は今また、割れ目から覗く別の世界に行くようであるが、そこもまた宇宙のようである。途方もない広さの宇宙空間の中で、行く先の果てしなさを意に介さない蝶の優雅さが際立って感じられる。

 中林忠良「転移 '15―光―Ⅱ」。モノトーンで3つの花束が描かれている。上の花束から下の花束までで、花が枯れていく姿を捉えている。それぞれの花束に線の太さやインクの溜まり具合に微妙な変化があって、花が枯れていく時間の経過と、版を腐食させる時間の経過とを重ねているようである。

 河内成幸「雷鳴不二(Ⅷ)」。雷鳴にも動じず佇む富士。雷鳴の轟きを激しい描線で描く。赤紫の富士など、個々のモチーフの色遣いも鮮烈なものになっていて、浮世絵の世界に動きや鮮烈さを持たせたような表現である。富士の麓には集中線が描かれて、雷のエネルギーが、一度地上に降り、地面を伝わって富士に集まって来ているようなダイナミズムがある。

 高垣秀光「Holy Place-617」。古代遺跡のような建物群が、白い空間に浮かび上がる。紙の裏からインクを滲ませたような表現で、ぼんやりとしつつも立体感を伴ってそこにある。黒い棒状のものは、この建物に住む生きものだろうか。少数ながらこの建物を守っているような雰囲気で、寂寥感のある中にも強い存在感を持っている。

8室

 利渉重雄「夏の夜会」。いくつかの建物がくの字型に並んでいて、その間から光があふれている。建物は複数の様式のもので、光のあたり方で様々な表情に見える。これらの建物は生き物のような雰囲気で集まっていて、この夜会を楽しんでいるようだ。

 鈴木良治「今夜は牛肉が食べたい気分」。空の下地には赤系の色を引いてあるように見受けられる。人物は買い物途中の主婦らしい。渦を巻くような髪は線が立体になっている。手をもみ、下唇を嚙んで歯を出す。牛肉を食べることは特別なことのようで、それを思いついた時の興奮が感情豊かに表現されている。

12室

 山本桂右「Light Time Silence m-D」。陽の射し込む教室を、直線を用いてきびきびと描いている。窓から見える雲の曲線、また陽射しによってできる室内の明暗の表現によって柔らかな印象が作られ、直線による緊張感が和らいでいる。昔使われていたような木造校舎の教室に椅子が一つしかない不思議な心象風景に、この教室に現在とは違った過去の時間が流れているようなノスタルジーが感じられる。

13室

 小飯塚祐八「朝やけの公園」。キャンバスに、平板などの技法を駆使して作られているという。公園に黄色い自転車に乗る女の子がいる。遊具同士の間が広く描かれている。小さな女の子が早朝の公園に出かけると誰もおらず、いつもより広く感じられて呆然としているといったような、そんな場面が黄色と水色の微妙な色合いの中に表現されている。

 木島隆夫「静謐の精祈・諸法実相 15─7B」会員推挙。八つに区切られた画面の中に鳥が描かれる。都市や荒野の風景もある。中心の画面は空のようで、軌道らしき線も描かれている。写実的な風景のなかに抽象的な表現を組み合わせながら、動きや目線など鳥の体感する世界を表現しているようにも見ることができる。

16室

 鈴木朝潮「僕らは夢見てるか、未来を信じているか。」。デジタル版画による表現で、クモが他の虫を捕食している場面。一本一本緻密に描かれた毛や青く発光している体が醸し出す妖しさや生々しさは、デジタル版画ならではの表現だろう。クモに殺され食べられるという絶望的な場面を描いているこの作品の題名が「僕らは夢見てるか、未来を信じているか。」とはシニカルであり、同時にアイドルのポップソングからの引用であることもおもしろい。

第58回新協展

(10月6日〜10月11日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 宮﨑曠代「2015・DNA/多元空間」。海が波打っている。その量感のある波の表現が、この一種観念的な空間に対して圧倒的な存在感と同時にその観念をサポートする。下方に円弧があって、その中心は北極から見た地球の図面で、その周りの小さなリングに北米、南米、オーストラリア、あるいはユーラシア大陸などが描かれている。そして、その外側の円弧。円弧は三つの円弧があって、真ん中の円弧にはDNAの螺旋のようなものがつくられている。上方には、それは対極の円弧が上方に向かっている。そこにもDNAらしきフォルム。そして、三つの垂直の線が左右に置かれ、先の尖ったシンボリックなフォルムが上方に立ち上がる。中心には地球の北極から一本の白い筋が垂直に立ち上がっている。斜めに存在する線は流星のようだ。海から地球の生き物は生まれたといわれている。原初の海のイメージ。そして、それから四十億年のあいだにつくられたDNAの記憶の連鎖。気の遠くなるような時空間をイメージしながら、縦横にそのDNAを画面に配して生命という不思議な世界を画面の中に引き寄せようとする。それは垂直に、あるいは角錐状に立ち上がるフォルムの力にもよるし、円弧の組み合わせによる大きな空間の波動のような力からもあらわれる。それを下方のゆったりとした量感のある寄せてくる波をもつ海が支えている。

 星加哲男「明光」。トマトの木がぐるぐると旋回しながらトンネルのような形をつくっている。そこに熟して腐りかかったトマトがついている。あやしい不思議なトマトの森のようなイメージが、強い存在感のなかに表現される。

 大中昇「帰り道Ⅰ」。左の画面にネクタイを締めた青年。右の画面に赤いバッグを持ってカーディガンを肩に掛けた若い女性。下方の道に黒々と影が差しているから、斜光線が差しこんでいる。中心に巨大な樹木が枝を広げている。オレンジ色にピンクに染まった雲。道のそばに生える雑草などの様子がクリアに描かれ、白い花が点々とついている。遠景の林のそばの建物。そして、いま電車が動いている。遠景までクリアに描きながら、そのパノラマの中に青年と若い女性が向かい合うようにいる。二人はどういう関係なのだろうか。出会いなのか、あるいは別れようとしているのか。シンメトリックなバランスの中に二人の人間を置いて、シーソーのような雰囲気でバランスをとらせている。ユニークなコンポジション。

 木下正博「楽しい風景」。ピエロが風船を持っている。それは近景で、遠景は広場でたくさんの人々が楽しく遊んでいる。キノコのような建物が上方に向かい、その上に赤い屋根をもった建物が集合している。後ろには湖があらわれ、はるか向こうの遠景の丘にも建物が見える。自由にイメージを画面に置き、本来異なる時空間を統合しながら、一種ノクターンといったメロディを画面の中に響かせるような、そんな独特の空間に注目した。

 田谷行平「花は唯咲くだけ」。板の上に黒い色彩で引っかいたようなマチエールをつくる。上から鉛筆のようなものでこすっているのか、銀色に光っている。その中心に上方が突起する木を削ってコラージュしている。黒の中の黒いレリーフのようなフォルム。「花は唯咲くだけ」という題名を見ると、禅でいう公案のような気持ちになるが、シンプルな凝縮するような力が画面の中心につくられていて、それが独特の作者の美意識のなかに輝く。

 舩山マヤ「時の位相」。水を入れたコップを両手の掌に置いて遠くを眺めるイヴニングドレスの女性。後ろに街が描かれている。中心は深くえぐれて水があって、そばに裸木が広がっている。その周りに巨大なタンクのような円筒形の建物が傾いて、いつ崩壊するかといった雰囲気。マンションもそうである。二つの大きな牛骨。崩壊しつつあるその街の現実がそこに表現され、それについて女性は深い思いのなかに聖なる癒しの水をもって遠くを眺めている。そんな図像的な寓意的なコンポジションが生き生きと語りかけてくる。下方の地面を切り下ろしたような地層の中に計器のようなものが置かれて動いているのも、アクセントとして効果的である。

 原三郎「ピエロとノラ(2)」都議会議長賞。二匹の母と子と思われる猫とピエロ姿の少年。少年のその姿はしっかりと描かれている。手は大きく、その大きな手と猫のフォルムとがお互いに呼応するようだ。一種点描的な技法も使いながら、しっとりとした明暗をつくりだす。考えこんだ少年の心と猫とが通じ合っているようなユニークなコンポジション。

 多田耕二「眼鏡橋」。眼鏡橋を下方の川が映している。その向こうには水門が見える。橋を歩く若い女性。両側の建物。そして、川の両側は石垣になっている。モザイク的に一つひとつのものを画面の中にはめこむように積むように表現して、それによって静かなリズムが生まれる。ディテールが面白く、トリックアートを思わせるような眼鏡橋の形。

 菅原平治「風化のまま語らず」文部科学大臣賞。建物がほとんど崩壊して、柱も傾き、屋根の一部が落ちている。その内側から外を見ていると、樹木がカーヴしながらその枝を広げ、山の斜面はオレンジ色に染まっている。変わらない自然と崩壊していく家屋。二つの時間、二つの空間が対置されて、時の表情を語る。

 大森英樹「月の光」。不思議なモダンな建築。いちばん上方は二つの半球体になっていて、中心が分かれて望遠鏡のようなものがのぞいている。飛行船が空に浮かび、月が輝いている。この建物の後ろに恐竜の骨が立っている。手前の道路を歩く犬と少女。メカニックな眼球のようなものが宙に浮いている。サイエンス・フィクションといった空間を、リアルに作者の想像力によって表現する。

2室

 細貝惣児「送還 2015」。和服を着た女性が頭にかぶりものをしている。四本のリングによって囲まれている。そのリングの上に帯のような布のようなものが掛けられている。上方に青い空間があらわれ、赤い糸のようなものがこの少女の頭に下りてきている。下方には黒いシルエットになった建物の影が見える。能を演じているような幽玄な気配が感じられる。光がこの空間を照らしている。背後の青い空間は他界をあらわすのだろうか。背後のシルエットの建物から霊のようなものがあらわれゆらゆらしているようだ。謡が聞こえてくるような心象空間が鑑賞者をひきよせる。

 栗崎武成「ベネチア(Ⅰ)」委員優秀賞。ベネチアの宮殿とゴンドラ。それを不思議な色彩の入れ墨のように表現する。たとえばカンディンスキーの抽象的な図像を建物の表面に使ったような不思議な雰囲気で、一種の強い音楽性が感じられるところが面白い。

 田平その「'15─某日 『花を描く』」。スケッチブックに鉛筆をすべらせている若い女性。上方に巨大な花のようなフォルムが浮かんでいる。ベージュや黄土の色彩に対して、一部黒や女性の衣装の濃紺の色彩がしっとりとしたコントラストを見せる。静かに瞑想するような空間のなかに時が静かに過ぎていく。

 窪田千寛「対話」。ホームレスが横になっている。それをカラスが空から眺めている。カラスとホームレスとは親しい関係のなかにある。背後のグレーの空間のなかに不思議な明暗があらわれて、そのスクリーンに何かが映ってきそうな気配が感じられる。下方の横になった倒れたホームレスのゲートルを巻いたようなフォルムに対して(顔は見えない)、それを見守るカラスのフォルムが実に生き生きと魅力的に描かれている。

3室

 越川初美「愛でる」。巨大な桜の木が満開の様子で花をつけている。その下にゲートボールをする十数人の男女。そして建物。しっとりとした雰囲気のなかに静かに人々と桜を描きながら、ゆったりとした情感をつくりだしている。

4室

 飯塚詠一郎「花の雲」。雲がモチーフになっている。静かに動いていくようだが、中心は紫色を帯びて、重く暗い雰囲気。その上方に花が開いたような雲がいくつもあって、その様子と青い空とのハーモニーとが不思議な雰囲気を醸し出す。下方にはまた雲があるのだが、それは角度が異なる。静かに雲が動いていく。そこに独特の時間も表現される。雲の中に入ると、別の世界があらわれるような不思議な気配も感じられる。

5室

 武田幹雄「干潟」。干潟に水鳥が来て水を飲んだり餌をついばんだりしている。カニが赤い爪を立て、壺からのんびりとタコが顔をのぞかせている。水鳥のフォルムがとくに生き生きとしている。数えると八羽のそれぞれの姿を表現する。しっとりとした情感が全体に漂っている。

8室

 合田幸代「道草ばかり」。ファッショナブルな衣装をつけた若い女性が立って、前で指を組んでいる。赤と白の市松模様の帽子。後ろの空間に道がつくられ、そこに猫や、花が咲いて、鷺のような鳥も来て、とまっている。背後の日本的な装飾的な空間に対して、手前の人物は西洋的な描き方。二つがマッチするところが、作品としての面白さである。手前の簡潔でありながら魅力的な少女の顔や指の表情などが、とくに生き生きと訴えてくる。

 新島初子「共生」。三人の女性が立っている。全身像である。衣装が異なり髪形も異なる若い三人の女性。不思議な存在感が感じられる。ミステリアスな肖像が三体集まって、独特の空間が生まれる。

 久保宏司「サクレ・クール寺院を望む」。モンマルトルの丘の頂上に白いサクレクール寺院が立っている。それが画面の上方に描かれ、下方には街並みがかなり省略化され、簡潔に一つの集合体として描かれている。その細胞の連続したような街並みに対して、クリアなサクレクール寺院が空に向かってドームを高く伸ばしている。青い空に白い雲。ゆったりとした雰囲気のなかに、幾何学的なコンポジションが強い印象を醸し出す。

13室

 壷内健晶「心の広場」会員優秀賞。中心に噴水があり、その周りをドイツふうな木を中心とした建物と石を中心とした建物が囲んでいる。それを鉛筆であたって、ペンで描き起こしている。相当の時間がかかるのだろう。そのフォルムがクリアで、密度のある空間が生まれる。そして、無人であるが、謎めいた雰囲気があらわれる。一種の迷宮といった趣の空間があらわれる。

第46回国画展

(10月12日〜10月18日/東京都美術館)

文/紺世邦章

1室

 田之上緋佐子「まきば」。牧場風景が軽快な線で表現される。前景の柵は緩やかなカーブで描かれているが、それが山の麓や稜線と対称になるように描かれている。空から牧場まで薄く細やかな筆致によって草が風に踊る様子などが表現され、その様子は夕陽に照らされた牧場が空と共に燃え上がるようである。

 古城和明「幻影」。幾重にも重なる山の姿は雲と重なって、空まで続いているかのように表現されている。空には満月が、雲に隠されることなく白抜きで描かれている。雲の幻影によって巨大化した山々の持つ力学的な崇高性と、満月の強さが魅力的な作品である。

 金子紀久雄「漂壁山水」。満開の桜が前景いっぱいに描かれている。背景には月が描かれて、画面に変化を持たせるアクセントになっている。桜の花を一つ一つ丹念に描き込んでいる。背後にある岩壁の淡墨による骨格のある表現に対して、桜の木の複雑な筆致が華やかな生命感を表現する。

2室

 奈良重利「天神社  梅」。横に向かって伸びる大きな梅の木。その幹が大きくなった枝をしっかりと支えている姿である。樹は太く流れるような線で描きながら、花の部分は繊細に描写していくことで心地よい緩急をつけている。

5室

 木村泰子「風情」。雨の降る湖だろうか。微妙な濃淡や白く残す部分の抑揚によって深い奥行きが作られている。それによって遠景の草原と空とが自然と一体化していくような表現がおもしろい。鋭く長い線で表現される雨は、ぐっと首をすぼめた鳥のすがたと共に空気の冷たさを感じさせる。

第32回近代水墨展

(10月12日〜10月18日/東京都美術館)

文/紺世邦章

1室

 小林東雲「祈り」。一人の僧が、画面奥に向かって手を合わせる。前景には崩れた建物の残骸のようなものが描かれている。雪が降っている中切々と祈り続ける僧の姿は、災害や苦難に遭った人々に対する癒やし、鎮魂のイメージのようである。そのように見ると、僧に向かって降り注ぐ雪の一粒一粒が、魂を表しているようにも見えてくる。

 清水昭子「春」。水辺に植物が茂っている。白い花の間から草木がぐっと立ち上がってくる。その後ろにある水辺に映った雲の表現や、水面と地面との切り替わりの濃淡など、込みいったモチーフを的確に描き分けていく筆力が感じられる。

 中野美代子「五月の高原」。水芭蕉のある林があり、その中には小屋も見える。草が前景から奥へと列を成していて、行進しているような動きも感じられる。草の葉の下には濃墨が使われている一方水面に映った木々は軽やかな一本の薄い線で表現されるなど、描画の強弱にも注目した。

 福田順子「深雪」。食堂に向かう親子を描いている。左側に樹を配置することで右側に奥行き感を出し、鑑賞者の視線が向くように構図の工夫がなされている。積もった雪の量感や、染み渡るように空全体に広がっている雲など、薄墨による表現がおもしろい。

3室

 中鉢東鳳「銀鱗の揺」。鯉の群れが画面左上から右下へ泳いでいく。重なっている鯉、その上に水面、そしてその上に松があるといった位置関係を、墨の濃淡で作り出していく。最前面の松によって、水の奥行だけなく空間的な広がりをも作り出している。

4室

 小松康恵「南禅寺の庭」。南禅寺の庭に落ちる紅葉が表現されている。樹によって作られた道の向こうに、斜めの線で描かれたトンネルの天井が視覚的なアクセントになっている。画面奥に人物が描かれている。閑寂とした雰囲気や参拝者同士の距離感などが伝わってくる作品。

6室

 三井省三「恋慕」銀賞・会員推挙。ゴリラの筋骨隆々とした肉体を、墨の濃淡で量感豊かに表現する。ゴリラはお互いに意識し合っていて、左のゴリラから次第に距離を詰めているようだ。右のゴリラはメスのようで、手の甲を表に向けて、何かコケットリーが感じられる。仕種や豊かな表情の中に、彼等の感情を表現していておもしろい。

第59回日本表現派展

(10月13日〜10月18日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 井原光子「LAST PEONY」。赤いシャクヤクの花が絢爛と咲き誇っている。その花びらの落下する様子は線描きの表現。日本的な象徴的な空間表現。

 青木美弥子「森は美しく暗く深い」。葉を落とした数百年の樹齢をもつと思われる古木が立ち並んでいる。そのフォルムがあやしい。うねうねと動いているようだ。青い背景にすこし青みがかったそのグレーのフォルムが、まるで生命の炎を燃やしているように表現されている。

 米山郁生「壊空無常」。三つのパネルによって表現されている。いちばん上方はこの美術館の天井近い。その三つのパネルを貫通するように板をコラージュしたものがある。まるで『古事記』冒頭に出てくる天之御中主の神のようだ。「天地初めて発りし時、高天の原に成りませる神の名は天之御中主の神。」あるいは、出雲大社の心柱のような雰囲気で上方に伸びていく。そのようなフォルムがこの作者の作品に現れたことは初めてだと思うし、実にユニークだと思う。下方には、土色の人間たちとグレーの人間たちがダンスしているような動きを示す。きっと、土色の人間が死の世界の住人で、グレーが現実の人間なのだろう。それも『古事記』に出てくる黄泉の国でイザナギとイザナミの会話が生じ、イザナギが逃げてきて千引の岩を黄泉との境に置くといった神話を連想するものがある。あるいは、生と死の混在する地上の世界。このシリーズの最初は二〇一一年の津波に対する画家の深いレクイエムの表現であった。それがこの作品になると、そのような現実は昇華されて、生と死とそれを救うものという、より普遍的な問題がテーマとなり表現されている。上方にはコロナのようなフォルム。ブラックホールの周りに黄金色の光を発している。そこには、無数の星が散りばめられているようだ。三枚のパネルの真中は様々な星が魂のイメージと重なって宙に浮いている。それがさらに天上に行くと星となるようだ。対して地上の現実、その無常なる世界を天の世界が救うといったイメージなのだろうか。いずれにしても、天の世界と地の世界を貫く柱というものが存在するように描いている。作者は強い集中力のなかに生と死の世界を描きながら、日本の伝統的な、『古事記』的な世界を引き寄せたコンポジションになっているところが実に面白いと思う。

 陣内里美「よみがえりの月」。赤い振り袖を着た舞妓。背中を見せる十二単のような衣装をつけた古代の王女のようなイメージ。そばにはおかめのお面をかぶった女性が座っている。そんな三人の女性。現代から過去に存在する女性を背景にして、白髪の老齢の女性が何か考えこんでいる。壊れた船は津波を連想させる。月の満ち欠け。その月齢が上方に暦のように浮いている。日本の古代と現代に思いを馳せながら、祈りの心持ちを表現したのだろうか。

 真野尚文「くつろぎ」。若い女性が座っている。その背中のあたりに石でできた塀があって、その塀を中心にして、高さが違うが、左右逆向きの二人の女性。その食い違っている様子が、青春の思春期のイメージをしぜんと感じさせるところが面白い。同時に、線によってつくられた簡潔なフォルムが生き生きとしている。

 上野千代子「野火」。炎が燃えている中心に矩形のフォルムがあって、そこに白いアンフォルメルの形。そばには褐色のボックスの中に褐色の円形のフォルム。野火というより、野原で死体を火で燃やす、いわゆる荼毘のイメージが感じられる。そのための火が燃えているようだ。死という世界を深く見つめた表現のように感じられて興味深い。

 桑原清水子「戦い終わった夜空」。瓦礫の山。そこに若い女性が立っている。もんぺ姿で下駄をはいている。右上方に弓なりの月が出ている。二十四日あたりの月だろうか。あいだに星がまたたいている。七十年前の敗戦の時の世界を表現したようだ。七十年前の自分を、思い出のなかに引き寄せた不思議な表現。

 五辻節子「火山幻想」。ハワイの火山からこんなイメージがあらわれた。火口が上方から眺められていて、その中の赤い樣子が明るく屈託ない。そばに花が咲いている。周りにはうねうねと燃え上がる溶岩を図像化したフォルムが伸びている。面白いのは、右上方に銀色に光る不思議な物体である。火山や花の赤に対して、この銀色のフォルムが必要であったそうだ。なにかファンタジックで夢のような物体で、画家のもつロマンティックな性質がそこによくあらわれていると思う。全体の印象は明るく生命的で、火山をテーマにしながら、不思議な活力を表す。

 大林亨子「色即是空」。磯の様子。岩が崖になって立ち上がっているところに、鵜のような鳥がたくさんとまっている。一部は泳いでいる。海が寄せて白い波を立てる。その屈曲した岩のもつエネルギッシュな形と鵜の集合した様子とが生き生きとしたコントラストの中に表現されて、強いロマンを漂わせる。

2室

 中野大輔「花様今生『花昏てなほ』」。巨大な牡丹を中心に白いインコが描かれ、その周りには柘榴や菊などの秋の気配。左は「月日に戯る」。菊と朝顔と鳥、月、蝶とトンボ。右は秋で、左は夏。独特の強い花鳥画の表現。若冲などを尊敬しているだろうか。クリアなディテールがこの作品の魅力になっている。それと、エネルギッシュな幻想感ともいうべき生命の象徴的な表現が好ましい。

 稲熊万栄「歓び」。犬がはしゃいでいる。それにもんぺ姿の若い母親のような女性が向かい合って、両手でその前足を受け止めている。上方には夕日のような赤い色彩。数十年前の画家の少年時代に経験した木曾の生家での記憶が画面の中によみがえる。

 小松欽「溶けてゆけピレネーの山脈に」。画家がスペインに留学していた頃のイメージ。その時のスケッチをもとにして描いたのだろう。たくさんの牛が集合している。のどかな雰囲気であるが、山の上で植物が生えていない。厳しい現実のようだが、のんびりとした牛のもつ生命的なフォルムが集合して、独特のリズムをつくりだす。中景には山上都市ともいうべきものがあらわれる。葦ペンによる消すことのできない仕事。その連続の中に独特の生気ある空間があらわれる。

 前川聖牛「台杉」。千年ぐらいたつような杉である。何本もの幹が下方から分かれて上方に伸びていく。上方に杉の葉が描かれているが、その緑の様子、かたちは、永遠ともいうべき色彩を感じさせる。独特の魅力をもったその緑の色彩によって表現された杉の葉。それを支える怪異な幹の形。画面からあふれてこちらに向かってくるような強い動きと量感。

 岡川孔「梅雨のころ」。紫陽花が咲いている。青い色彩で、雨の中にしっとりと輝いている。右のほうには二つの水溜まり。対象の存在に接近するように描く。それによって独特の手触りが生まれ、それが画面のリアリティをつくる。

 今岡紫雲英「奄美幻想」。中心に屋久島の杉を思わせるような樹木が伸びている。その上方には果実が実って、両側に青年。樹木のあいだにも子供がこちらを見ている。下方は、上方が三角形になった山が描かれ、その両側にも二人の少年。身体障害者の世界を画家は描いてきたが、それを奄美の自然に配することによって、彼ら、彼女たちから生命感を、その自然の生命感と合一させるように引き寄せた独特の表現になっている。ぐいぐいと引かれた黒い線が樹木のかたちになり、山のかたちになり、あるいは人間のかたちになる。その線の力を十全に生かした生命的な表現と、様々な時空間を同じ画面に入れたコンポジションに注目した。

3室

 吉村周子「オリーブの島(あの日)」。水はすこし緑がかった青い色彩で、水平線まで続いている。ゆったりと大きな波が寄せている。手前は褐色の色彩で、大きな葉をもつ樹木が見える。ヤシのようなイメージ。そんな下に若い女性が立っている。横顔がフードからのぞく。寄せる波が記憶を呼び戻す動きのように感じられる。あるオリーブの島で起きた出来事を懐かしく回想する。それは、心のときめくような時間だったにちがいない。そういったものを引き寄せるときの胸の痛みのような雰囲気が、全体の動きのなかに感じられるところが面白い。

 飛弾三枝子「闇の中から」。トンネルの中に犬が一匹。茶色い色彩で、柔らかなカーヴをもった日本犬のようだ。周りのトンネルが緑や青、オレンジ、紫などに彩られて、独特の輝きを表す。トンネルというより古いワイン蔵のような中に犬がいるような、安息感が感じられるところが面白い。色彩に独特の輝きがあって、それが魅力。

5室

 三宅玲子「耀う季節」。畑と民家。手前の道と中景の斜面。そして遠景の山の端や樹木の集積した林。その三つのパートによってできている。それぞれの墨色が独特で、全体でハーモナイズしながら懐かしい里山の風景を描く。

 稲葉一枝「屍に躓き逃げし夏の月  一枝」。上方から焼夷弾が落ちてくる。飛行機が編隊をなして飛んでくる。下方は炎が燃えて、まるで地獄のようだ。たくさんの死体につまずきながら空襲から逃げた時の記憶が画面の中にあらわれる。死体は描かれず、焼夷弾と炎と飛行機の編隊。その上方に飛行機も囲むような円形のフォルムがあらわれている。その円形のフォルムは記憶によってつくられた空間のような不思議なものになっている。周りの空間はある現象の中の空間だが、囲まれた円形の世界は優しい不思議なノスタルジックなものを感じさせる。その中に飛行機の編隊などもあるのだが、そのさらに奥のほうにそのような空間が存在するように表現されているところが面白い。

 永名二委「室堂6月」。上方に雪を抱いた山脈が聳えている。下方は黒々としたシルエットのような空間で、地平線が見える。そのすぐ際に雑木のようなフォルム。地上の風景からふと上方を見ると、高い山脈が浮かび上がり、そこは雪をかぶった別天地。そういった二つの空間が対置され、そこに独特の動きが感じられるし、いわば山脈を発見したときのときめきのような心持ちが感じられるコンポジションになっている。また、空が左のほうは明るく、右のほうは黒々としているところも、時間によってどんどん変化する空の様子を表すようだ。時の変化のなかに動いていくものと動かないものとが対置されたコンポジション。

6室

 佐々内豊「落日」。砂漠を駱駝が三頭。手前に二頭、後ろに一頭。そんな砂漠に太陽がいま沈もうとしている。その黄金色の光が砂漠を染めている。空は緑のグラデーションで、いちばん上方は緑になっている。独特の色彩家である。同時に、ロマンが感じられる世界。

7室

 吉田清隆「廃墟」。建物はH形鋼を組み合わせたような堅牢なコンポジションであるが、その中の建具のようなものが下方に落ちている。それは川の上に渡っていて、向こうから低い滝のように落下してくる水が手前に流れてきている。強い構成。その中に流れてやまない水が、独特のイメージを背負ってあらわれてくる。

 岩城大介「愛」。グレーや、濃い墨色、あるいは胡粉を混ぜたグレーの色彩。そんなものが刷毛のようなもので太く、一気に画面に描かれ、それが集積して不思議なリズムをつくる。その左の上方から下方に向かうカラス。下方から上方に向かうカラス。上下のカラスは呼び交わしている。それが愛の会話、あるいは、そんなイメージを発信する。直線のストライプの、刷毛でつくられたフォルムの集積に、画家独特の柔らかな感性が感じられる。強いようで、よく見ていると奥行もあるし、柔らかな不思議な空間があらわれている。侵入することを拒否しているような空間にも見えるし、混沌とした社会的な現実の象徴のようにも感じられる。そんな中に黒く、画家独特の一種デザイン化されたような二羽の鳥が鳴き交わす様子が面白い。俳句でも生まれてきそうな空間表現。冬の薄日に鳴き交わす雄鳥と雌鳥といった感じ。

第68回立軌展

(10月13日〜10月28日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 小川イチ「次の世界に」。三点出品。「夜あけを求めて」は、小鳥を描いている。赤い小鳥。白い花が咲いている。「次の世界に」という作品は、さらに面白い。犬が後ろ足で立っているのが、まるで人間のよう。犬は人間でいうと一歳半ぐらいの段階で止まっているそうだが、そのような幼児のような趣。後ろに二羽の小鳥。二つの木に点々と赤い花が咲いている。後ろの白い空間。現実と非現実との中間にある境界領域のような白い空間。そんな中に鑑賞者のほうを眺めてほほえんでいるかのような犬の表情。

 赤堀尚「椅子の風景」。肘掛け椅子が画面の中心に置かれている。手前に丸いテーブル。その赤い色面に青が置かれて、上方を映している。後ろに、額なのか窓なのか、黒い色面。激しい動きによる線。輪郭線が外側に、あるいは内側に行き来しながら、空間を遠ざけさせるような動きがある。室内にある肘掛け椅子とテーブルだけでこのような波動のある空間が生まれてくるところが面白い。どこか水墨による山水の空間に近いものがある。周りの空間と描かれているものとの関係であるが、激しい波動によって空間とものとがぶつかり合っているその世界。客観的に表現するのではなく、主客合一ともいうべき世界の表現。それは「新大橋夜景」と表されたダイナミックな吊り橋においても変わらない。巨大な橋という構築物を赤や青や緑の色面によって表現する。巨大なそのような構築物も室内の肘掛け椅子と机を描いても、作者のもつ空間意識は変わらないところが、当たり前であるが面白い。気韻生動という東洋の言葉が浮かぶ。

 五百住乙人「靴下をはく裸婦」。二五号のF型。画面の右下に矩形のフォルムがつくられ、そこに左足を置いて、上体を屈めて右手をそこに添えている。「靴下をはく裸婦」という題名だが、靴下は描かれていない。左手は見えない。右手の指のかたちと左の足の踵から指先までのラインとが微妙な関係をつくる。豊かな髪は頭の後ろまでふさふさと量があって、横顔がその下にあるのだが、斜め上方を静かに眺めているような雰囲気。この動作をしながら、この裸婦は瞑想というよりほとんど放心のような雰囲気である。裸なので、そのラインがこの画家独特の簡潔にしてエレガントでありながら、どこか強さをもったものになっている。ジョンブリヤンなどの様々な肌色が入れられ、削られて、その繰り返しによって深いトーンが生まれる。そのトーンの内側から柔らかな光が外側に滲み出てくるような趣である。ほとんど緑と茶色、様々な色彩を混色した暗い空間のなかに、この裸婦は静かに輝いている。いわゆる目的をもった動作をしているのではなく、画家のお気に入りのこのポーズをとらせただけで、そのまま静かに輝いているような存在として描かれているところが魅力である。画家の強いイメージがしぜんと一つのかたちをなしたといった感想をもつ。

 笠井誠一「チューリップのある卓上静物 2015」。黄土色の円形のテーブルに黄色い筒のような花瓶。大きなチューリップが幾本も入れられている。その紫色が映える後ろにグレーのバケツのフォルム。手前に二つの洋梨と一つの梨のようなフォルム。壁の柔らかなベージュ。上品な中に光を静かに引き寄せ光を含む。札幌時計台ギャラリーの荒巻氏が札幌の芸術の森美術館での作者の回顧展のレセプションで笠井作品の魅力として「セレニテ」という言葉を使われたが、まさにそのような印象。空間というもののもつ質量ともいうべきものが表現されている。後ろのバケツのグレーのフォルムが、この全体の空間のなかの隠れた支軸のような役割をしているところも見逃せない。

 池口史子「城下町」。中心に広い道がカーヴして、右のほうに消える。両側に建物が立っている。カーヴする道に沿うように建物の立っている連続した形もまたカーヴしている。その中にオレンジ、黄土、緑、あるいはブルー、赤、マゼンタなどの色彩が壁に使われたり窓に使われたりしている。屋根は暖色系の中に切妻の青い色彩も見える。空は青であるが、建物の背後にある樹木との際は黄色が使われている。左から光が差し込み、影が伸びていく。二つの、あるいは四つの円弧によって道と歩道とのフォルムができていて、そこに影が差し、建物に赤や緑、サップグリーン、ジョンブリヤン、ブルーなどの色彩が置かれているのを見ていると、キリコの形而上絵画を思わせるところがある。キリコは影の中を少女が輪を転がしながら歩いている姿を描いたが、ここには人影はない。しかし、不思議なデジャヴ感があらわれていて、初めて見た風景でありながら、親和的な気配を漂わせているところがミステリアスと言ってよいかもしれない。

 坂口紀良「ベレー帽とトロンボーン」。トロンボーンを持つ白いベレー帽の女性。水兵服のような白に青い縞、あるいは青いスカート。背後のピンクや椅子の黄土。色彩のハーモニーに品があって、しかも澄明な雰囲気。そこに線によるフォルムが入れられて、旋律のようなものを画面が発しているところがこの人らしい。

 遊馬賢一「快晴富士」。ヨーロッパを描いていたと思うと、一転して富士を描いたので驚いた。画面の上方約三分の一が富士山。広い裾野。手前に冬枯れのようなグレーの樹木の間に白やベージュの壁を見せる民家が点々と立っている。コバルト系の柔らかな明るい空。ひっそりとした色彩のハーモニーの中にしっかりとした奥行を表現する。

 藤田清孝「けしき(No.1)」。三点出品。いずれもあやしい雰囲気が漂う。「けしき(No.1)」。は、二つの時空間の異なるものを同一画面に置く。左に木の太い幹が画面の上辺、その絵の外側の額を越えて伸びている。それに対して右下に女性が背を向けて歩く。あいだが青い空間で、白い線で樹木が描かれている。葉はついていず、巨大な幹と枝があやしい生き物のように人間のように、あるいは巨大な神経細胞のように立っている。後ろに吹き抜け屋台のような平安時代の頃の家屋を思わせるようなフォルムがあり、あいだに照という文字の入った大きな紫の八角形のものが吊るされている。平安時代とこんにちに生きる人を同一画面に置きながら、時空を超えた不思議な魂の働きを表現しようとするかのようだ。

2室

 志村節子「静物(薔薇と木馬)」。青い瓶に色とりどりの薔薇の花。後ろに車輪が置かれている。そばに青く彩色された木馬に真珠貝のようなもの。白い器には果物や洋梨などの果実。マンドリンや蝶の標本もある。静物としてテーブルの上に置かれたものたちが、画家独特の純粋と言ってよいような色彩によって彩られている。テーブルが大地や水のようなイメージに変化し、地平線にまで伸びていくようなイリュージョンを表現する。青い空には雲が出て、すこし夕焼けのような趣。静物が風景的な広がりの中に表現されているところが面白い。

 栗原一郎「エレジー Ⅱ」。女性の裸を線によって描く。アンニュイな雰囲気のなかに、その体温を感じさせるような独特のトーンによる表現。

 久野和洋「地の風景」。画面の下方三分の一くらいに地面と小高い丘のような山が描かれている。左右に二つのこんもりとした、まるで古墳を思わせるような山のあいだにもう一つ、向こうに山がある。道が手前の地面のあいだを畦道のように通っている。そのあいだに畑があり、近景には点々と雑草が白く咲いている。しっとりとした気配。さらに面白いのは空で、丘との際はほとんど明るいグレーであるが、だんだん上方にいくにしたがって暗くなり、いちばん上方は青と黒との混色したようなトーンになっている。いま地平線から光があらわれてきたかのような趣も感じられる。また、画家独特のこの緑の扱い。緑とオレンジ系のジョンブリヤンや褐色のような色彩との静かな響き合い。こんもりとした樹木。手前には灌木のようなものが茂っているが、そのあいだの地面の色彩と雑草の中に咲く白や赤の花が実に可憐に表現されている。また、中心よりすこし右のほうに針葉樹のような樹木が一本、中景に立っているのが実にあやしい雰囲気で、全体の構成の焦点のような位置を表している。二つの前述した丘のような古墳のような山が両側にあるあいだに、もっと小さなもっこりとした樹木の茂ったところがあるが、それはいわゆる鎮守の森のようなものなのだろうか。日本の風景のもつ歴史的な時間、過去の記憶が、この平凡な風景からよみがえってくるようだ。

 山田嘉彦「秋色」。画家独特の色斑によって空間をつくる。水面が画面の約半分あたりをとっているだが、すこし光の当たっている遠景と陰っている中景とのあいだは距離の変化によって水平線の位置が微妙に食い違っている。その明るさの変化を水が映していて、リフレインする。白い一艘の船に二人の人物が乗っている。後ろの人物はすこし腰を屈めている。しーんとした気配のなかに紅葉の景色が描かれている。織物を思わせるような触覚がある。それ以上に、本来印象派のように光を色斑によって分解してキャンバスの上に置いているはずなのだが、この作品は逆に、光というより陰りのほうから攻めていって、陰りの中に光が入ってくるといったトーンがつくられているところが面白いと思う。いわば陰翳礼讃ともいうべき紅葉図になっているところに親近感を覚える。

 三浦智子「古に悠う─苔の径─」。左には褐色を帯びた雑草が伸びて、そのそばを緑の道が通っている。右のほうは暗く、上方からすこし光が差し込んでいるようで、そこに緑の道も暗い部分にも柔らかな光が差し込んでいる。手触りのあるマットなマチエール。「苔の径」という題名だから、この道には苔が生えているのだろうか。苔は実に神秘的な存在であるが、その苔の上を人が歩くことはまず考えられない。その幽玄と言ってよいような光の中に伸びる道と苔のあの色合いとが重なったところのイメージを題名にしたのだろう。上方の光は月を思わせる。そしてこの道は、たとえば万葉の頃からこんにちまで続いている日本の歌を日本人にうたわせるその動機となっているような美意識や言語活動などを貫通する道のように感じられるところが面白い。その緑の中に複雑なトーンがつくられていて、そのトーンの中から言葉が静かに紡がれてくるような趣がある。

3室

 嶋田明子「3月#2」。「#1」は、緑の樹木や草が生えているあいだに水があるようだ。空はオレンジ色で、ピンクの花が空と緑の樹木のあいだに咲いている。水の中を通る道に初々しい緑の草。色彩に透明感があり、色彩が歌っているよう。アンズのような花のイメージがピンクの部分だろうか。その一部をピックアップすると、「#2」になるようだ。緑の部分が拡大され、その左右上下にオレンジやピンクの色彩が入れられている。やはり下方には水のようなものがあって、上部の風景を映しているように思われる。透明感が色彩にあり、繰り返される筆触が深いムーヴマンを呼ぶ。あいだにピンクの色彩がまるで静かに燃えているように輝く。そういったものをオレンジの空間が包みこむ。作品のコンポジションでは「#2」のほうがより面白いと思われる。色彩やフォルムがうたって、自然というもののもつ神的な性質が画面に引き寄せられ、それぞれが合唱しているような趣である。それは力強い交響曲を聴くかのような感想を持つ。とくにピンク、オレンジ、緑の色彩のあいだにオーレオリンのような色彩が埋めこまれている。繰り返し絵具を重ねることによってあらわれた色彩の力といってよい。

4室

 髙木英章「まきばの小径(バイブリー)」。野原にはタンポポのような花が咲いている。そのあいだを小道が通っていて、途中でカーヴして向こうに続いている。右のほうにはコテージのような建物と丈の高い樹木が葉を茂らせている。空を見ると、入道雲が出ている。イギリスの気候はわからないが、夏に近い頃なのだろう。燦々とした太陽の光を浴びて、植物が生き生きと伸び、花を咲かせたりしている様子をしっかりと描く。緑の微妙な変化の中に草や樹木が描き分けられ、あいだに人が歩くことによってできた道が続いている様子が、懐かしく輝かしいものとして描かれている。

 前川寿々子「広場の中にて」。様々な緑と様々な青のあいだにジョンブリヤンや黄色、黄土色、オーレオリンなどの色彩が入れられている。そういった色彩をグレーがつないでいる。すべて色面化されて、そのハーモニーがしっとりとして、しかも上品。上品であるが弱くない。右のほうに建物のようなフォルムがあり、その建物の下方のドアが開かれ、中に植物園のようなものがあるように暗示されている。そんな中にジョンブリヤンのような明度の高い色彩が置かれていて、まるで夕日のような色彩をそこに結晶させて置いたようなアクセントになっている。その色彩をもうすこし暗くすると、手前のベンチのようなフォルムの色面になり、そこにも同時に緑や青が入れられてハーモナイズする。上方には空のようなものも見えるし、そこにある樹木などを色面化してカーテンのように画面の中に置いている。左のほうにはグレーの色面。そして、明るい看板を思わせるような斜めの矩形。じっと見ていると、一つひとつの色面を慎重に使っていることがわかる。一つひとつの色面を作者の繊細な鋭敏な計量器の上に置いて、そのヴァルールを測りながら画面の中に置いていく。それによってしぜんと空間があらわれる。その中にいま何か動くものがある。それを円弧の中にたらしこみふうに表現する。画面は上下にも左右にも広がっていくが、本質的な動きは遠近感だと思う。その遠近感の厚い立体の中に光線を差し込んで、その光線の輝く様子を試験管の中で眺めているような、そんな深い味わいも感じられる。

5室

 継岡リツ「特別な時間─神話のゆくえⒶ」。ずいぶん横長のキャンバスの上にさらに横長のキャンバスが重ねられている。それを木の枠がとめているのだが、上方のキャンバスの左右は縦長の空間としてあけられたものになっている。白い空間のなかに、下方には斜めに入ってくる小さなストライプのものがいくつもあったり、線が伸びたりしている。白い空間にその抽象的な欠片のようなものが映っている。その中に一つ、マッチの軸を三本に折ったようなフォルムが立ち上がり、先が赤い。同じようなフォルムが左にカーヴするかたちで三本の軸が連結して、逆に下方が赤くなっている。右上方に青いウルトラマリンの羽。下方から羽の一部がのぞいている。さらにその左には梯子が見え、Tという文字が見える。T、H、Y、M、上方にK、X。MYTHIC(神話)の意味だろうか上方の空間にも下方から上方に伸びるものと上方から下方に伸びる梯子があって、右のほうには赤白の煙突のようなフォルムが伸びている。この下方の青は画面の上辺にも途中の下方のキャンバスの上辺の下方にも置かれている。極力筆を惜しむように最小のフォルムを置きながら、背後の白い空間が輝いてくるようにつくられている。なにもない空間に微細なものを置いたイヴ・タンギーという画家がいるが、そんな画家のイメージも思い起こすところがある。いずれにしても、空間というもののもつ不思議さ。それは、たとえば星を見ていると、夜空と自分の心の中にあらわれてくる空間とが重なって客観と主観がどちらなのかわからなくなることがある。見ていると、頭がしーんとしてくるような世界が目の前に広がっている面白さである。

 島栄里子「ALBARRACIN ─'15─」。スペインのアルバラシンは古い歴史をもつ街である。鉄器時代にはケルト系のロベタノ族が定住していた。彼らは洞窟壁画を残している。その後ローマがロベトゥムという町をそばにつくった。のちにアラブが支配して、現在のアルバラシン、アル・バヌ・ラジン(アラブ人)の名前をとって名付けられた。また、別の説ではアルバラシンとはアルブがケルト語の山、ラジンは葡萄畑を意味するという。そういった歴史がこの街から立ち上がってくる様子に画家は興味をもったものと思われる。赤や茶系の色彩で道や建物が描かれている。左に尖塔に鐘楼をもつ教会と思われる建物。もう一つ、右のほうのしっかりとした建物の後方にやはり鐘楼のような建物が伸びている。二つの教会を思わせる建物のあいだの塀や建物、手前の民家などが土地の起伏の中に表現されて、それ自体で緩やかなムーヴマンを起こす。周りは葡萄やオリーヴなどの茂っているような山や樹木の生えている様子で、ほとんどそこには人家はない。それほど畑ができない荒涼たる風土のようだ。そんな起伏のある山や丘、あるいはあいだに川が流れているような様子の土地に囲まれたこの建物には、不思議な気配が漂っている。加えて、空がピンク色になっているところも歴史というもののプレッシャーを感じさせる。隆起する山のあいだの樹木や、何も生えていないその後方の山の中のかたちや、そのあいだに黒ずんだ窪地のようなもの、全体に独特の動きがあって、歴史的な時間というものが画面の中に漂い、うごめいているかのごとき様子である。そういったところを狙うように作者は最近、繰り返し風景を描いてきた。下方の手前の一階や二階の民家の地面にこびりついたような建物の形もまた面白く、背後の教会のようなしっかりとした建物と対置されるし、その後ろには砦のあとのような建物が遺跡のように残っている。いずれにしても、不思議な動きは時間や歴史というものが引き起こすようで、そんな時間軸の中にある風景を描いているところが興味深い。

 杉山優子「昼下がり」。黄土に赤く、彩色された壁をもつ建物が右のほうに描かれている。煉瓦を積んだアーチ状にあけられた入り口の中に光が灯っている。昼間の光線が上方から差し込んで、下方に樹木の影などを映しているのだが、その日の中に灯された人工の光が不思議な雰囲気で画面の中に引き寄せられている。左の向こうの集合住宅のような四階建ての建物に洗濯物が干してあったり、それと接する褐色の壁の窓に映る光など、あるいは窓の外の囲いに花が咲いていたりといったディテールがきわめて慎重に一つひとつゆるがせにせずに描かれていて、それが人間の気配を醸し出すところが面白い。

 野上邦彦「土と水と私たち」。白い敷布の上に夫婦と思われる男女。左右に坊主頭の男が外向きに立っている。上方のグレーは水なのだろうか。黄色いバックに黒によってフォルムをつくる。水墨的な自由な発想で人間をドローイングする。人間が思い悩んでいるような雰囲気で、その鬱屈した心持ちを生き生きと描く。

6室

 福島唯史「港の入り口」。岸壁、船、灯台、空などを色面として描く。静的なものではなく、筆をぐいぐいとストロークしながら、いわば張りつめた均衡を表現する。その中に白が輝くような空間が生まれる。

 松田環「窓辺の風景」。透明な水差しのようなものに花が生けられている。太い茎をもっている。手前にウクレレや貝や青いポット。フォルムはかなりキュービックに扱われている。背後は緑や紫、茶、グレーなどの光のトーンのように表現される。フォルムに対する感覚のよさがあってこそできる構成だと思う。

 田口貴久「赤い風景」。風景を色面としてキュービックに解釈して、大きな空間を表現する。フォルムとフォルムががっちりと組み合いながら、強いコンストラクションをつくる。そのあいだにグレーが叙情的な性質を帯びている。

 金子滇「翳りゆく夏」。木製の椅子の上に少年が座って、その上に右足を置いている。下方に一匹のトカゲがいる。花が宙に浮いている。光が差し込んでいる。夏の一刻の時間のなかに少年を捉えている。トカゲというものは冬にはいず、夏にいて、独特の気配を発するのだが、そのトカゲがキーワードのようになって、この青春の中にいる少年を照らしているかのような趣である。やがて夏が終わるように青春も去っていくはずなのだが、いまそのきらめきの中にいる少年を一つの肖像のように描いているところが面白い。

 大見伸「薔薇と光の中で」。薔薇のアーチ状の門になっている、その中に男女が立っている。まるで結婚式のような装い。そばに一頭の犬がいる。その周りにも紫や白い薔薇があり、樹木が枝を広げている。中心のこの二人の愛のハートから黄金色の光が発し、左右のフォルムを活性化しているような趣。

第67回中美展

(10月13日〜10月18日/東京都美術館)

文/高山淳・磯部靖

1室

 羽子岡爾朗「わたしたち」。画面の手前に座ったり立ったりしている三人の若い女性を描いている。バックは朱の色彩が施されていて、そこにもう三人の女性が、バックに溶け込むように描かれている。それぞれの人物のフォルムが独特でおもしろい。着飾ることのない、女性のプライベートな様子を表現力豊かに描いているところにオリジナリティがある。(磯部靖)

 對馬文夫「海峡を渡るアサギマダラ~仏ケ浦~」会員推挙。突出するようなフォルムの岩の周囲にたくさんの蝶が飛んでいる。その様子をモノトーンの色彩で描き出している。遠景の山の向こうには、太陽とも月とも思われるフォルムが浮かんでいる。どこか魂の化身のような蝶たちが、霊的な気配を漂わせているところが興味深い。独特の画面構成もまた印象的である。(磯部靖)

 川杉雅江「北国物語(おしらさま)」。おしらさまとは東北地方で信仰されている家の神であり、男女の顔や馬の顔を描いたり彫ったりした棒に布の服を重ねて着せたものをご神体としている。画面の中央の開けられた障子の間には、そのご神体が描かれている。その奥は暗くなっていて、それがミステリアスな雰囲気を作品に引き寄せている。そして、障子には女性の長い髪が乱れるようにシルエットで映っている。画面の周囲もまた暗くなっている。どこか妖しく描き出した画面が鑑賞者を強く惹き付ける。強い余韻が残る作品である。(磯部靖)

 杉田君子「爽風(そうふう)」。小高い山を抜ける山道とその周囲に生えるたくさんのススキを丹念に描き出している。青みがかったススキは、どこか黄金に輝くような様子もある。爽やかな風の流れを湛えながら、自然の持つ豊かな表情に強い魅力を持たせている。(磯部靖)

 吉岡幾哉「碧瀾景図」。画面に三つの矩形の窓を空けて、その向こうに広い海を望む画面を描いている。左右には裸木が吊されていて、そこにはインコなどの鳥がとまっている。鑑賞者の側と海は、暗色の壁で遮られている。美しい海に近付けず、ただ眺めるだけという、切ない状況である。そう考えると、空と海の美しさが、より一層増してくるようだ。いずれにせよ繊細な描写の中に、自然に対する敬愛と恐れの念が込められているようで強く印象に残る。(磯部靖)

 加藤賢亮「歴史を満たす人々・Ⅱ」。近年、群像表現を大作で描いている。今回は、画面一杯に老若男女をたくさん描いている。向かって右側の画面の外で何か起こっているのだろうか、半分くらいの人がそちらを向いている。時間が経過すると、気付かない人々も順次その出来事に向かって顔を向けるのだろうか。そういった動きを孕んだ画面がおもしろい。画面全体には、窓ガラスを雨水が覆うように、茶系の色彩が薄く流れ落ちてきている。それが、もう一つの時間の流れ、時代というものを感じさせるところがまた興味深い。(磯部靖)

 黒羽根義浩「天空の村」。山上に作られた集落を、少し離れた場所から眺めるように描いている。向かって左から陽の光が差し、建物の右側に深い影を作り出している。建物は寄り添うように並び立っていて、それが一つの塊のようなフォルムを形成しているようだ。黒羽根作品特有の深くコクのある色彩の扱いが、独特の気配と時間の流れを作品に引き寄せる。(磯部靖)

 森信雄「外房勝浦部原屋並」。小高い場所から、瓦屋根の続く街並みを眺める風景である。それぞれの屋根の向きによって瓦の様子が異なっていているが、それを丹念に彫り表しているところが特に見どころである。陽の当たっている部分、影になっている部分が交錯することで、豊かな表情が生まれている。右手前には大きな樹木があって、遠景では盛り上がった峰が見える。その二つの暗色によって街は挟まれている。それがまたもう一つの空間を作り出し、鑑賞者の視線をより屋根に惹き付ける。そういった確かな構図の作り方も画家の絵画的センスの良さを感じさせる。(磯部靖)

 富永静子「蓮華」。蓮の花と葉を画面一杯に大きく描いている。手前の一際大きな葉の中心には、左上から花弁と花心がこぼれ落ちている。緑の色彩の中でその花弁が艶やかな魅力を放っている。静謐な雰囲気の中に、美というものの一つの表現をしっとりと描き出している。(磯部靖)

 神宮司雅章「刻の記憶」。海に近い場所に立っている家屋を、高い位置から見下ろすように描いている。中央にある家屋の屋根は明るく輝いているようで、周囲の家屋は逆に暗い。また、奥の海面は静かに繊細に波立っていて、またキラキラと輝いているようだ。強いコントラストを画面に作り出しながら、強い心象性を獲得している。(磯部靖)

2室

 千正博一作品。赤く塗装した木材を組み立てた作品。どこか燃えさかる炎をイメージさせるものがある。それを独特の造形表現で表したところに作家のイメージの強さがある。戦争や人間の性をテーマにこれまで制作してきたが、今回は特にモダンな表現であるところに注目する。会場にはタイトルが掲示されていなかったが、その強いフォルムとイメージが鑑賞者を強く捉える。(磯部靖)

 西川敬一「雷光湧水 '15─2」。漂うような画面がゆらゆらと動くような気配を湛えている。画面の向かって中央左に丸いフォルムがあって、それが水面に映り込んだ月のように思える。そのさらに左上には金色の部分があって、それはまた画題にあるように、雷の一瞬の光が映り込んでいるようだ。そういった自然のドラマを、独特の抽象性の高い画面に入れ込んでいる。画家の強いイメージの力が、鑑賞者をその作品世界へと引き込むような演出と共に、深い精神性を作品に与えている。(磯部靖)

 川喜多和子「怒・光明」。赤い画面を背景に、中央に青、そして向かって右に稲妻のような光が降りてきているのが見える。強い動勢を孕んだ心象表現である。それぞれの色彩がお互いに反発し合い、また混じり合いながら画面を構成しているような、独特の世界が強く印象に残る。(磯部靖)

5室

 吉田忠生「小雨の銀座みゆき通」。雨の降る街の通りをしっとりとした情感を持って描き出している。その雰囲気をよく表した色彩の扱いが特によい。銀座で画廊まわりをする人にとっては見慣れた光景だが、そういった強い臨場感が確かに作品に引き寄せられている。(磯部靖)

6室

 橋本勝「誕生の予感」。緑あるいは黄、青といった色の南国を思わせる植物が画面一杯にたくさん重なるように描かれている。その重なりがある種の密度を持っていて、それが強い生命力を孕んでいる。鋭利な葉のフォルムが画面に独特のリズム感を刻んでいるところも印象的で、どこかミステリアスな雰囲気を醸し出していて強く印象に残る。(磯部靖)

7室

 川上比佐子「レクイエム」会員賞。揺れ動く海面を上空の大きな満月が静かに照らしている。そしていくつもの泡が上方へ昇って行っている。どこか先の震災などで亡くなった人々の魂を思わせるところが実に興味深い。画面全体の白銀に輝く色彩が、そういった魂を荘厳するイメージを発信してくるようだ。(磯部靖)

 竹内セイ子「私のお気に入り」。人形を持ったり、金魚を持ったりして五、六歳の女の子が踊っている。紐で吊るされた大きな金魚も踊っているし、アヒルのような人形も踊っている。右のほうには袋の中の金魚が空間に飛び散って、たくさんの赤い身を翻している。独特のリズムがあるし、フォルムが面白い。少女のイノセントな世界に想像力が入り込んで、その少女の心と一体化して、作者も一緒に踊っているようなところからあらわれてくる独特のリズム感。絵によって表現することのできる、そのようなフォルムと少女の体全体の、顔も含めてその表情の生き生きとしたところがよい。赤という色彩が実にうまく使われていると思う。赤からオレンジにわたる微妙な抑揚のある色彩が、その全体のリズムと相まってこの画面構成の軸となっているところも面白い。(高山淳)

9室

 平沼邦子「WORK」。画面に布などを貼ってマチエールを作りながら描いている。深くコクのある青の色彩が印象的である。どこか宇宙から地球を見たような雰囲気を湛えているところが興味深い。いずれにせよ、緩急をうまくつけ、見応えのある画面を作り出している。(磯部靖)

 遠藤千代子「湧」郡山賞。暗色の画面の中で下方の左右がぼうっと明るくなっている。例えば、刻々と変化する湧水のように画面がたゆたいながら変化して行っている。そこに周囲の影の部分と光の部分ができて、自然の呼吸のようなものを反映している。そういった様々な変化を感じさせるゆったりとした時間の流れもまた魅力である。(磯部靖)

 堀岡正子「刻」。画面に大きく二本の樹木が立っている。その周囲にはたくさんの草木が生えているようだ。そしてその描写は、ゆらぐような動きを孕んでいる。時間というものを描く時、画家は近年このような独特の表現で描く。それはとどまることのない変化であり、生命の動き、空気やそこに吹く風の流れである。自然と一体になるかのような、奥行きのある作品である。(磯部靖)

 後藤ムツオ「景 67」。氷山あるいは雪に覆われた大地が海や空に囲まれているような情景である。余分なものを削ぎ落としたような、強いイメージの世界である。故郷である北海道の美しい風景が、明るい色彩と共にポジティヴに描かれた作品である。(磯部靖)

11室

 山根淑子「光の変移 Ⅰ」大樹賞。クロスが掛けられたテーブルの上にたくさんのモチーフが置いてある。暗い室内で、それらが月の光のような明かりに照らされている。時間と共にその光は角度を変え、それによって影も変化していく。そういった中で、どこか神聖な気配が作品に漂っているところが興味深い。しっとりとした描写もまた魅力的である。(磯部靖)

 大野岳「雪催」。吹きすさぶ雪の中で、数本の樹木が立っている。その様子が肌に迫るような臨場感をもっている。画面全体を覆うようなグレーのトーンがそういったイメージをより強く訴えかけてくるようだ。(磯部靖)

12室

 大阿久定男「永遠の記憶」。画面全体が黄土から茶系の色彩で纏められている。山並みを背後に一人の男を描いている。どこか古い写真のような、過去から引き寄せられたイメージがある。力強い筆の扱いもまた印象深い。(磯部靖)

14室

 北山由美子「愛しむ夏」。横長の画面に海辺の風景が描かれている。空には雲が横に長く伸びていて、その向こうに太陽があるようだ。深い情感を画面の中に込めながら、広がりのある風景を描き出している。(磯部靖)

17室

 山神陽「滝に愛されて」。流れる滝を背景に一人の女性を描いている。画面全体は神々しいような輝きに満ちている。生命の源泉のような神話的なイメージが、物語の一場面のような要素を孕んでいる。手触りのあるマチエールとともに、独特の世界観を展開して、強く印象に残る。(磯部靖)

第37回一創会展

(10月13日〜10月18日/東京都美術館)

文/磯部靖

1室

 財津美奈子「浴衣デビュー」。白地に花の模様を施した浴衣を着た一人の女性の全身を描いている。少女は向かって右を見つめている。そのあどけない表情が自然で印象深い。暗がりの背後には賑やかな祭りの様子が見える。やわらかな筆致で、ある夏の情景を微笑ましく描いていて好感を持つ。

 西山英二「2015年アトリエの私」。一人の画家と二人のモデルが室内に描かれている。雑多な室内の中で、画面の中央に大きく間が取られているところがおもしろい。それが、モデルと画家の不思議な関係性を表しているようで興味深い。味わいのあるタッチと共に、強く印象に残る作品である。

 鮎貝周三「手賀沼  たそがれ」。やわらかな水色と紫の色彩の中に小さく夕陽が描かれている。シンプルな画面構成であるが、そこにしっとりとした深い情感を感じさせる。緩やかな時間の流れが画面を満たし、鑑賞後の心地よさを引き寄せている。

 佐野久子「聖堂のある港町」。高く上方にマストを伸ばした二艘のヨットが画面の中央に描かれている。その背後には大きな樹木、さらにその後ろには建物が見える。細やかな描写でそれらを描きながら、重厚で奥行きのある構図を形成している。水面は少しだけ波立ってヨットを揺らし、画面に自然な臨場感を引き寄せている。淡い朱の色彩を効果的に扱い、見応えのある作品として描ききっている。

 上野光子「丘の街」。画面の下方手前から上方奥へ向かって、建物が積み重なるように描かれている。それぞれの建物はパステル調の落ち着いた色彩によって描かれていて、矩形のフォルムに象られたそれらが連続することで、独特の韻律を作品に引き寄せているところが見どころであり、魅力の作品である。

2室

 狩野裕子「闌春(らんしゅん)」。画面の向かって左に一人の裸婦が描かれている。その向こうの水辺には一羽の鷺のような白い鳥が左を向いて描かれている。その様子が女性と重なるように描かれているところがおもしろい。特に、どこか精霊的要素を孕んだ女性の存在感が鑑賞者を作品世界へと強く惹き付ける。

第39回大翔展

(10月12日〜10月18日/東京都美術館)

文/紺世邦章

2室

 原口美代子「梅雨の晴間」。青やピンクの紫陽花が描かれている。右側から陽の光が射し込んできて、背の高い紫陽花は照らされている。背景の水色の中にも溶け込むように紫陽花が描かれていて、紫陽花の列が絶え間なく続いていくような、幻想的な雰囲気を作り出している。

 中村好志「海辺の記憶(うみべのきおく)」。海辺の夜景である。海沿いには白い一本道があり、赤紫の屋根の小屋まで続いている。小屋に目が行くように工夫された構図と色遣いに加え、道のうねりや波を表現する細かな筆致が、鑑賞者を小屋まで誘っているようである。

 須川みつ子「秋の陽ざし」。ヨーロッパと思われる石造りの町に陽が当たる風景。日向と日影との対比を意識して壁面が塗り分けられることで、密集する建物にしっかりとした立体感が生まれている。前景の石畳には青が加わることで画面が単調にならず、また道にも奥行が作られていて、町のディテールがよく捉えられている作品である。

3室

 加藤祥子「葡萄畑を中世と同じ風が吹きぬけていく」。ペンによって葡萄畑を緻密に描き込んでいく。山の麓付近の木々を濃い色で描くなど、濃淡の調整で奥行きを強く出している。麓の木々が作る柔らかな曲線や筆致が、この畑に吹く風を軽やかに表現している。

第83回独立展

(10月14日〜10月26日/国立新美術館)

文/高山淳・磯部靖

1室

 松村浩之「格闘者」。空手着を着た二人の男。巨大で、足を伸ばし、こぶしを握っている。強い存在感が感じられる。具象的な力。スポーツのもつ強い波動を生かすコンポジションが面白い。(高山淳)

 山本雄三「Black rain」。黒い雨というと、原爆を描いた井伏鱒二の小説で有名である。下方の両側にきのこ雲が描かれ、二人の胎児が裸の包帯をした女性の両側にある。奇形児などが原爆で生まれた。包帯をしたこの女性の姿は、いわば反核運動の象徴のように表現されている。有刺鉄線が痛々しい。紙を貼ったマチエール。圧倒的な存在である原爆とか水爆、核の問題を身近に引き寄せて、静かに抗議をする。黒白のドローイングふうな空間の汚れたようなマチエールがテーマにふさわしい。(高山淳)

 奥谷太一「形それぞれ」。六人の男女の群像である。三角形になるように上半身が集められている。アイフォンやカメラで撮影している。構図が面白い。六人の人間たちを集め、その動き、顔の表情、視線、手の形。強い造形空間が生まれている。また、最近難民騒動でヨーロッパは揺れているが、そういった人種を超えた人間たちを集合させるところに、作者としての一つの問題提起もあるように感じられる。(高山淳)

 齋藤将「わたしはわたしのすずをならす」。熊が肘枕をして鐘を鳴らしている。作者のアトリエの光景なのだろう。パレットやパソコンや筆。壁にかけられた様々な小物。描きかけの絵。いま青いバックに宇宙船を描いている。明るい瑞々しい色彩の中に、アトリエの中の現在進行形の姿を描く。(高山淳)

 額田晃作「牛を飼う人達」。二頭の牛とその乳を搾る人。座って話をする二人の人間。食事をあいだにはさんで対話する二人。手前には老人と三人の人々が会話をしている。独特のマットなマチエール。油絵具から油を抜いて、大地のようなマチエールをつくる。素朴な大地や動物と暮らす人々の姿を描く。緑がかった黄土系の色彩に独特の安心感がある。(高山淳)

 斎藤吾朗「出雲大社に集ふ」。最近、古代の出雲大社本殿は高さが四十八メートルもあった巨大な建物であることがわかった。その建物のまわりに『古事記』の時代からこんにちまでのいわば歴史上のキャラクターを集積して、日本讃歌といったイメージをつくる。一つひとつは具体的な歴史上の人物になっていて、実に楽しい。(高山淳)

 石井武夫「アトリエの午後」。作者の娘は五歳の時、病気になり、たくさんの管を巻かれていた。やがて彼女は亡くなるのだが、そこからダミーのシリーズが始まったから、もう半世紀になるのではないか。そういったダミーと実際の若い女性が一緒になってうずくまって床に寝ている。それらのフォルムはほとんど回転するような動きのなかに描かれている。ラッパを吹くネコ男と長いラッパを吹く天使のようなフォルム。ゆるやかなジャズのメロディが画面から聞こえてくるようだ。柔らかな光線が差し込んでいる。かつての危機的な状況は過ぎて、すべてが追憶のなかにあらわれてくる。その中にのびのびとした穏やかな音楽が鳴る。その音楽の内容と呼応するように、柔らかな斜光線が差し込む。そんな光のもつクオリティがそれぞれの色彩からあらわれてくるところがこの作品の魅力だと思う。(高山淳)

 馬越陽子「人間の大河─生命の樹につどう─」。画面のすこし右側に赤いフォルムがY字形に描かれている。それが強い存在感を示す。赤い生命の木。腰を屈めた男。その頭のあたりに足を置いて、手を上方に伸ばしている女性。その女性の右手に手を伸ばして触れているもう一人の男。額に包帯のようなものが見える。この二人の男女はなにか運命的な存在のようだ。生命の木に癒やされている。生命の木と一体化しているような不思議な存在感を示す。背後の下方の群青、つまり紺色の色彩の向こうから巨大な太陽がいま顔を出している。その光が手前に射しこんでくる。その光を受けている仰向きの男。背後は黒をたらし込んだような混沌とした空間の中に緑の山のようなフォルムがあらわれている。キリスト教的な西洋的な空間でありながら、来迎図を思わせるような不思議なイメージがあらわれている。この赤い命の木は悩める人々を癒やす存在。作者の中ではやはりキリストではなく、東洋的な木というものが癒やしの存在としてあらわれているところが実に興味深いと思う。また、この赤のもつ不思議な圧倒的な存在感がこの作品の魅力だろう。(高山淳)

 桜井寛「捨てた村」。捨てられた村の建物は無人である。そんな存在を黒々とした色調や緑の中に描く。グレーによって輪郭線をつくる。面白いのは、そんな廃墟の建物にまるで裸電球のようなものが描かれて、この光景を照らしていること。廃棄された建物が命をもってまだ生きていると作者は語りかけてくるようだ。細長い塔の上に十字架が見える。捨てた村とは、捨てた記憶なのかもしれない。しかし、記憶は決して捨てることはできないし、その人間に背後霊のようにつきまとうだろう。(高山淳)

 奥谷博「バイヨン─クメールの微笑─」。クメールというと、アンコール遺跡が有名であるが、アンコール・トムにこの不思議なバイヨンの像のある寺院址がある。NHKでクメールの特集を組んでいたが、十二世紀頃、クメール王朝はきわめて栄えて、百万人ぐらいの人々が住んでいたという。そして、インドから中国にわたるシルクロードの中継地点の港にも道が続き、王侯は象に乗り、きわめて高い農耕を中心とした文化をもっていた。ヒンドゥー教が宗教の中心であった。そんな時代の名残が、このバイヨンのフォルムによく感じられる。フランスの文化相であったマルローはこのバイヨンの女神を国外に持ち出そうとして捕まったそうだ。石を積んだフォルムの奥行のある立体的な形の四面にバイヨンの顔が彫られている。中心の顔と左向きの顔が向こうにある。右のほうにはもう一つの塔があって、そこにも顔が置かれている。緑を中心とした彩色。空は、下方は赤く、朝日とも夕日ともとれるような輝きの中に、上方に行くに従ってエメラルドグリーンになり、コバルトブルーになる。その色彩もまた神秘的な感じを表す。作者の筆は、淡々と描きながら、対象のもつディテールを通して本質ともいうべきものを摘出する。磨耗したフォルムの内側から当時の盛んな力が徐々にあらわれてくるかのようだ。また、目の中にコバルトブルーなどの色彩が入れられていて、その目の中に青い空が広がってくるかのような不思議な幻想感さえも感じられる。対象の形を描きながら、深い歴史の中に作者の想像力は向かい、それを画面に引き寄せようとするところが魅力である。(高山淳)

 絹谷幸二「喝破」。降三世明王が剣や金剛杵などを持ち、印を結び、足で化け物を蹴飛ばしながら、こちらに進んでくる。後ろには爆発するような炎があらわれている。先だって池田二十世紀美術館で回顧展を開催されたが、そのときに「竜と戦うゲオルギウス パオロ・ウッチェロへのオマージュ」が出品されて、実に面白かった。そのゲオルギウスの背後の爆発するようなフォルムが、この降三世明王像の背後のフォルムと重なる。いわばイタリアの美術と日本の平安仏との合体と言ってよい。そして、この仏は様々なものを蹴飛ばしてこちらに来る。「色即是空」「空即是色」「菩薩行深」「般若波羅蜜多」などという文字が見える。われわれがいいと思っていることもほとんど煩悩のことで、世界の本質を邪魔する存在であることが多いだろう。そういったイメージも感じられるし、人間というもののもつ世界の本質は変わっていないということになるかもしれない。そんな強いパワーをこの作品から感じられるし、実際見ていると、こちらが蹴飛ばされるような気持ちになるほどの具体的な力が作品から放射してくる。また、光というものが中心から発光するような構成になっているところも優れていると思う。物事の説明ではなく、世界の本質。そういえば、最近ノーベル賞を取った梶田隆章氏はニュートリノに質量があることを発見したわけだが、世界は光あるいはクォークによって成り立っているというように科学がいま進んでいるところも、考えてみると実に面白いことである。(高山淳)

 入江一子「雲南ジンポー族  まつりの日」。女性たちが集まっている中に刀を持つ二人の女性。様々な幟が立てられている。そばに花が咲いている。たくさんの人々が集まってほほえんでいる。黄金色の光線がこの広場に差し込んでいる。二人の子供のあどけない姿。画家の雲南やシルクロードなどを旅行した画囊の中からあらわれてきた不思議な世界である。すべての人間たちを肯定し、祝福するかのようなイメージの力。それにふさわしいコンポジションと神秘的な色彩の表現。(高山淳)

 金森良泰「法隆寺」。いまはなき法隆寺の壁画が画面の中心に描かれている。このようにして見ても、実に優れた壁画であったことが回想される。それを中心とした仏や欄干などを描いたコンポジション。しっとりとした赤のトーンの中に、阿弥陀如来と脇侍の菩薩あるいは天女たちが、消失した壁画からよみがえったかのように画面の中に描かれている。(高山淳)

 福島瑞穂「ゴッホと同じイーゼルを背負った。」。脚立の上にゴッホと同じイーゼルを背負った女性が裸で絵を描いている。イーゼルには鶏が吊り下げられている。その前には十字架の上に横たわる、おそらくキリストの像。キリストは死んでいなく、なにか物思いにふけっている。その後ろには黒いマントを着た七人の骸骨たちがいて、嘆いている。キリストのそばにはマリアがよくいるが、ここにもマリアがあらわれている。その衣装はオレンジ色で、衣装というより、オレンジ色に輝いている様子。顔は、肌は白く深い瞑想のなかに存在する。詩的で精神的な表情。そのオレンジ色がこの裸の女性のもつパレットの上につけられている。朱色はいわば聖性ともいうべきイメージ。その朱色の同色の赤がこの裸の画家の筆先につけられ、絵具が垂れている。作者は繰り返し、死あるいは業、悪というものを錘のように描き、その錘を増やせば増やすほど、それを跳ね返すような力を画面の中にまさぐろうとする。世界となれあったところに芸術はないと信じている。徹底してネガティヴなもの、聖性に対して襲いかかってくるもの、生に対しては死を、善に対しては悪を描くことによって、善や生というものの力が試されるといったことになる。ゴッホと同じイーゼルを背負った女性は作者自身と言っていいが、その姿はどこか白痴的で頭の狂った人のようだ。そんな自分を描きながら、この横たわったキリストのもつ姿とそのそばに座る女性のもつ力には、実に強いものがある。女性のかたちはヨーロッパの宗教絵画の中に置いてもおかしくないぐらいのスピリチュアルなものである。作者は繰り返しインカーネーションというもののもつ力を描こうとするかのようだ。今回、このオレンジ色の光線によって囲まれた(光背と言ってよいかもしれない)女性の顔の表情と悩ましい青黒い裸のキリストの姿には、実に深い力があると思う。背後の山水ふうな表現は絵画の構図上、きわめてユニークだと思う。(高山淳)

2室

 田中茂「金と銀」。山の向こうからいま月が昇ってきた。いわば来迎図である。昼は金で、夜は銀色。その下方にまるでタヒチでゴーギャンが描いたような裸の女性が座っているところが面白い。日本の自然。その深い人間との親和性。いわゆる神仏習合の世界の中に官能的な女性を配したユニークな表現である。女性もまたこの恵み豊かな自然の一部、その代表のように描かれている。(高山淳)

 向井隆豊「place・TOKI」。パリの広場だろうか。右手を上げた銅像の周りに炎が立ち上がっている。赤や黒、青などで、実に激しい。スピリチュアルな世界を描く。強いモニュマン性をもつ。精神というものの実在をコンポジションの中に表現する。ダイナミックで力強い。(高山淳)

 松原潤「Beyond the sunset ~祈り」。日没の前にドレッシーな服をつけた女性は扇を持って静かに舞っている。中景に水が静かにさざなみを立てている。背後にはドームのある宮殿。柱が崩壊しつつある。時が移ろい、一つの時代が変わっていくなかに、女性の魅力は変わらないと画家は語りかけてくる。(高山淳)

 佐原光「吉野風景 15」。吉野は桜で有名である。満開の桜を俯瞰する中に描いている。つやつやとした溶液をたっぷり含んだ油絵具の色彩。満開の桜があやしいような、輝くような、照るような色調の中に描かれている。(高山淳)

 木津文哉「看板建築」。昭和の看板が古びて、ここに集められている。「たばこ」「まるいし 学生服」「蜂ブドー酒」「家庭染料みやこ染」「東芝リンクストア」などの看板。それが時間のなかに風化しながら、配置されると、なにか妙な力を発揮する。まるで画家がこの看板に変身しているかのような雰囲気である。画家にとって時というものは実に不思議な存在なのだろう。看板の中に時間というものがたまって単なる看板を超えた存在となっているのだろう。そういった看板を集めることによって、時が集積し、通常の時空間と異なった絵画ならではの空間が生まれる。時はそのままたゆたっていて、未来にも過去にもいかず、それ独自の存在と化して画面の中に永遠化される。(高山淳)

 平岡靖弘「僕は見ている。Ⅲ」。巨大な顔が画面の上方にある。仏の顔のようだ。そばに母と子供、あるいは若い女性。あるいは船。船の前に屈む人間のシルエット。俯いた女性の横顔も見える。津波が東北、関東を襲ってたくさんの人が亡くなった。そういった人々に対するレクイエムの心持ちがあるのだろうか。画家にとって、その出来事は消えていない。巨大な仏の顔をそこに引き寄せながら、亡くなった人々を悼み、彼女たちの魂を救おうとするかのようだ。柔らかなトーンの中に重力を失ったような浮遊するような人間たちの姿。ユニークなコンポジション。(高山淳)

 大津英敏「母の帽子」。江ノ島あたりの海岸にこの少女を立たせて、向こうに富士を見る構図。先だっての個展で似たようなコンポジションの小さな作品を拝見した。この画家はこれだけの大画面を描くのに、筆一つで繰り返しタッチを重ねながら表現する。そのタッチの重なりによって画面の内側から充実してくるようなエネルギーや動きが生まれてくる。また、海のコバルト系に対して、すこし緑がかった空。そして、手前の黄土系のしっとりとした砂地。花柄の少女の衣装。富士のどっしりとした量感のあるフォルムが遠景に存在することの力。それぞれのものを大切にして、しっかりと描いている。それによって堅牢な空間が生まれる。それを淡々とした筆の、平凡ともいえる積み重ねによって描いているところに共感をもつ。(高山淳)

 今井信吾「林太郎・翼のある室内」。作者の孫と娘を画面の中に描く。ドローイングするその線の力が、そのままタブローとして活性化して、生き生きとした力を発揮する。(高山淳)

 本田希枝「漕ぐ」。ボートを漕ぐ男。混沌とした現実。さらにいえば、混沌とした内界。その内界のなかを人は漕がなければいけない。画家にとって具体的な社会とのかかわり方というものは消えて、もっと深い内界のなかで起きるドラマがテーマとなっている。それを表徴するような深い色彩。たしかにボートはこの混沌とした水の中をゆるやかに進んでいる。希望の象徴のように双葉が水から芽を出している。(高山淳)

 乙丸哲延「SURUGADAI」。ドイツやフランスの風景を描いてきた画家が一転して日本の駿河台という、すこし高台から見たビル群を描いた。残照に赤く空が染まっている。風景といっても、みんな直方体のビルである。そのビルのあいだに道をエメラルドで彩る。淡々と対象を描きながら、奥行と哀愁を漂わせる。(高山淳)

 金子亨「陰りの中の光」。五人の花柄の衣装を着た若い女性が座っているそのあいだに、もう一人の女性が横になっている。衣装のそれぞれの花が違うから、女性の名前をその花で指摘することもできるのかもしれない。フロッタージュふうな地面のマチエールに点々と牡丹のような花が散っている。背後の藪のような中に斜光線が差し込んで、一部を黄金色に光らせている。女性の姿が浮き上がるように画家は表現する。「陰りの中の光」という題名は、谷崎のいう「陰翳礼讃」の中の光という意味に理解してよいのではないか。そういった陰影豊かな中に女性の魅力を際立たせるように画家は光を扱い、構成する。(高山淳)

3室

 佐々木里加「HYPER BRAIN CYBERSPACE」。ネット上の仮想空間のなかを巨大な情報が行き交っている。そんな現代をダイナミックに描く。コンピュータ・グラフィックスによってプリントアウトした空間のなかに銀色に光るレリーフを入れることによって、手応えをつくる。強い臨場感が魅力。(高山淳)

 瀬島匠「RUNNER 2015」。「RUNNER POWERED BY BENIBANA」という文字が見えるから、ベニバナの赤によって強調されたランナーということになる。ベニバナの赤をこの支持体の紙の上に散らしている。海から波が寄せてくる。その上にクロスする直方体が浮かんでいる。テトラポッドのようなフォルムで、何か強く語りかけてくるものがある。いわばロック的な音楽的な効果が画面にあらわれてくる。画家のもつ、いわばアナーキスト的なイメージをうたうように描く。(高山淳)

 木村富秋「別れ歌」。独特の柔らかな色彩感覚である。まるで埴輪のようなフォルムが立てられていて、そのドローイングふうな形、明るいベージュふうな色彩、倒立するフォルム、オレンジ色、深い暗い緑。色彩感覚が優しく、柔らかな詩情を醸し出す。(高山淳)

 森京子「背中って真夜中みたい」。人間は様々なものを背負っている。それを絵画的に描くと、どうなるか。わかりやすく背中に帽子のようなものを置く。あるいは、頭からもう一つの顔を出す。ぱっかりと顔が瓶の口のようにあけられて、中からネクタイ姿の男が出てくる。階段から下りてくる寝間着姿の男。午後の斜光線が差し込む。机の引き出しの中に六人の男たちが現われてくる。コーラスでもするのだろうか。椅子の中に体をはめた男が逆さまに頭を向けている。椅子にもテーブルにも壁にも記憶がある。そんな記憶というものの不思議さを画面の中に引き寄せながら、ドラマをつくる。首尾一貫した現実のドラマとは違った心理の陰影の濃いドラマを画家は描く。そのために光線が独特な性質を帯びる。黄金色と言ってもよいような光線の中に、室内の空間、人々などが不思議な表情を帯びながら集合する。しぜんとノスタルジックなイメージがあらわれる。(高山淳)

 福満正志郎「少女の予感─Yellow Dreams─」。少女が座っている。力強い。その両側から強い光が矢になって差し込んでいる。後ろに道があり、民家が見える。恐竜のようなゴジラのようなフォルム。戦闘機。逆さまになった熊のぬいぐるみ。現代という混沌とした社会を救う存在のように女性を中心に置いて、まるで巫女のように鑽仰する。色彩のコントラストのなかに独特の生命感を引き寄せる。(高山淳)

 山田修市「散歩(公園)」。小高い公園に散歩する男性。手前は犬を抱く女性で、帽子をかぶっている。ジャージーを着て歩いている人もいる。遠景には青い海がのぞき、その公園とのあいだに建物が見える。五月の頃の季節だろうか。燦々と降り注ぐ太陽のなかに新緑が瑞々しい。色彩家である。色彩を色面的に組み合わせながら、そこにフォルムを入れて、優雅な絵画としての空間をつくる。(高山淳)

 吉武研司「八百万の神々─元始女性は生命の森であった」。楕円形のキャンバス。中にパワフルなエネルギーがこめられている。曲線のフォルムを組み合わせながら、まさに元始女性は生命の森であった、そんな生命の森のイメージを描く。(高山淳)

 金井訓志「Route→(私の美術館探訪)」。階段が下方に向かう。そんな無機的な空間を背景にして、帽子をかぶった女性の顔。しっかりとした輪郭線のなかにしーんとした気配。まるで水の中にすこし潜ったかのような空間のクオリティ。(高山淳)

 吉田宏太郎「眩しさの中に・花」。下着姿の女性が横になっている。それは実は上向きの茶髪の男の上である。二人は相思相愛の雰囲気で、何かメッセージする。落ちてくる鳥。日常のなかにあらわれてきたイメージを面白く描く。色彩も面白いし、ノンシャランな中にある不思議な生命感をたたえた動きが、パントマイムのように語りかけてくる。(高山淳)

 多見谷恭子「タダ  ヒトリ」。女性が立っているフォルムを下方から見上げる角度から描いている。そばに一角獣と思われるフォルムがあるのが面白い。反対側には空を跳躍する人間のボディ。絵具をドリッピングしたような青や緑。人間の孤立と栄光を描いたモニュマン。(高山淳)

4室

 大塚恵美「生命(いのち)の不思議」。作者の家は病院で、顕微鏡などで人間の細胞レベルの姿を見ることができるそうだ。そういったところからインスパイアされた表現。オレンジと黄色い塊が画面の中心にある。そのあいだにピンクの不思議なフォルムがいくつも動いていく。絵に接近するとわかるが、小さな色斑を重ねることによって、この重厚な密度のある空間が生まれている。フォルムが動いている。動きながら変化していく様子をヴィヴィッドに表現する。それぞれのフォルムはあやしく、現実に出てくるとびっくりするような形であるが、不思議な生命感をたたえている。作者がこの存在と対峙しなが繰り返し描くことによって、われわれもこの世界に親和性をもってきたようだ。中心の黄色い月を思わせるような色彩と下方の赤い力強いフォルムのあいだを、赤紫の、いってみればアメーバのような形が動いていく様子は、見飽きない力が感じられる。見ているうち、ふと勾玉などのフォルムをこのアメーバのような形の上に連想したのであるから、不思議である。(高山淳)

 岡田忠明「淤能碁呂─1591」。淤能碁呂島とはイザナギとイザナミが矛を垂らすことによってできた淡路島のことである。つまり、『古事記』をテーマにした連作。グレーのベージュのしっとりとしたキメ細かな空間のなかに、墨を思わせるような色彩によって塀のようなフォルムがあらわれ、その下方にグレーの断崖のようなフォルムが見える。そこに白い線によって亀裂のようなもの、稲光のようなものがあらわれている。それは数か所あって、新しく生まれてくるその予感ともいうべきものが、この繊細とも言ってよい稲光の中に表現されているところが面白い。上方の線によってつくられたリズミカルな動きのあるフォルムに対して、下方の混沌とした中にあらわれてくる稲光るような亀裂とのコントラストが、生成していく不思議な力の表現として感じられる。(高山淳)

 白野文敏「内と外(間)」。不思議なフォルムをレリーフ状に横長の画面に構成する。背景はダークグレーで、それよりもうすこし明るいグレー。地面のかたちでもあるし、船のようなイメージもあらわれている。夜のずっしりとした充実した空間をそのままつかんで、切り取って、画面の中にピックアップしたかのような、不思議な気配が感じられる。画家のもつそのような幽玄とも言ってよい美意識の実にユニークな表現である。(高山淳)

 堀井克代「古の蕾」。赤い背景に黒白の市松状のフォルムが上下に置かれ、そこに同心円のフォルムやあるいは何色も色彩をたらし込んだようなフォルムが描かれる。そういったものを背景にして、ヌーボーとした蕾のような曲線をもつ形があらわれる。そのヌーボーとしたフォルムの中になにかあやしいものがたくさん存在しているようだ。画家は奈良の生まれで、旧家だと聞いている。奈良のもついわば歴史的な感覚、その力ともいうべきものが、この黒白、赤のいわば幔幕的なポップ的な空間のなかにあらわれて、実にあやしい雰囲気をつくりだす。(高山淳)

5室

 髙橋正敏「地上─パンドラの棲家で─」。パンドラが箱をあけると様々な害をなすものが地上にあらわれ、最後に希望というものが出てきたと神話は語っている。そのばらまかれた禍々しいものが地球を覆っているこんにちの世界。中心に目を見開いた顔が大きく描かれている。左目は見開かれて、右は暗く、顔もなくなっている。かたわらには包帯をした男の上半身。反対側には羽をもった天使のような女性。傷ついたこの天使が希望のイメージなのだろうか。上方の赤い空間。世界を焦がすような禍々しい赤の力。画面全体に地熱のようなエネルギーがあらわれ、それを認識する目を見開いた人間のマスクが実にヴィヴィッドに表現される。(高山淳)

 田井淳「はじまりの場所」。広い湖のような存在が下方にあって、上方は空である。空が八割ぐらいを占めるのだが、そこに巨大なフェニックスのようなかたちがあらわれている。全体に白い点々が置かれているのは、星のようだ。星が下方の水の中の小さな島に集積して、そこから星が上方に向かい、それが集積するとフェニックスになる。空にはその星が集合して、星雲のようなイメージをつくりだしている。いわば神話的な世界で、イメージとしての初源的な存在が描かれているように感じられる。緑が柔らかで奥行をもっている。そこにカーヴするフォルムがいくつもあらわれ、まさに神秘的なものの誕生シーンといった様子で、実にロマンティックな世界である。(高山淳)

 田端優「紅如意輪観音之図」。如意輪観音の片膝を立てたフォルムがあやしく濃厚なエロスを感じさせる。周りにたくさんの仏が集積している。緑を背景にして朱や金による線や点々とした形によって、いわば真言密教的なあやしい世界が表現される。この如意輪観音の座る龍の目を開いたフォルムも生き生きとしている。(高山淳)

 前畑省三「いのちの誕生 Ⅲ」。海の中に珊瑚のようなフォルムが集まっている。黄金色に銀色に光るそのフォルムのあいだに、紫色や赤の花のようなフォルム。あるいは孔雀の羽のような不思議な形もあらわれている。周りは暗く、上方にエメラルドグリーンの光を思わせるような円形のフォルムがちらちらと見える。この下方のフォルムの周りに黒い三つのフォルムがあらわれている。そのフォルムは女性のマントをかぶった顔のような雰囲気である。海の底にあらわれたこの命の誕生しつつあるイメージは、そのまま人間の内界のなかに起きる不思議な生成しつつある存在を暗示するようだ。下方のフォルムは実は目に見える存在ではなく、触覚的に感覚的に捉えられる存在のように感じられる。視覚化されているのだが、じっと見ていると、視覚化されたのは仮の姿で、もっと深いところにうごめいている不思議な力、生成しつつあるエネルギーともいうべきものがしぜんと感じられ、それを三人の巫女のようなフォルムが囲んでいる。シェークスピアの『マクベス』の冒頭に三人の魔女が現われてくるが、そのようなあやしい存在のように感じられる。暗い空間のなかの上方の緑の同心円状の色彩が神秘的。(高山淳)

6室

 輪島進一「プレスト」。ヴァイオリンを弾く演奏家を、そのヴァイオリンの動きに沿って描く。したがって、手や顔がいくつも描かれて、いわば運動の軌跡が画面にあらわれる。それほどヴァイオリンを弾く人間の姿は魅力的なのだろう。しかし、このように描くと、現象の説明になってしまう危険性も感じられる。そういったものを踏まえての象徴的なかたちを発見するという方法もあるに違いない。いずれにしても、そんな動きを追いながらのパッショネートなコンポジション。(高山淳)

 田伏勉「それぞれの刻」。広場の手前に六人ほどの男女が集まっている。何か不穏なものが広場を中心とした周りの光景にあらわれている。その不穏さとあまり変わらない平凡な人間たちの表情とが面白く対置される。このあと起きる事件ともいうべきものが強く予感される。(高山淳)

 加藤啓治「青春二態」。巨大な樹木が中心にある。現在はもう死んでいるような雰囲気で、化石化しているようだ。そこに動物の骨のようなフォルムが絡まったり、蟬の脱け殻が絡まっている。蔓のようなものが上下に伸びている。上方には横座りの女性。下方にはその幹に座った女性。人間の奥底にある混沌とした世界を、この樹木のかたちが表すようだ。そして、蟬脱するように青春という時期が来る。その二人の女性の姿もしっかり描かれているが、それを支えるこの混沌とした存在の絵画的表現が面白い。(高山淳)

 井澤幸三「Field」。いま空が明けてきた。夜が後退して、新しい光、あの悩ましい夜は消えて、理性が目覚める。そんな空間のなかにドレッシーな衣装をつけた横顔の若い女性を立たせている。そんな心象的な風景の動きを表現するために、風景をダブらせて描いている。夜明けというもののもつ神秘的な不思議な力を画面の中に取り込む画家の表現力に注目した。(高山淳)

 山内和則「オテル・デュ・ケ・ヴォルテール」。ヴォルテール・ホテルの室内にいる女性。窓の向こうの建物や緑の樹木。ゆったりとした光の中にそれぞれのものを描きながら、柔らかくハーモナイズさせる空間。(高山淳)

 大場再生「ロンドンの青い空」。街の前に三人の少年少女。二人の少女と一人の少年。顔は見えないが、その姿は謎めいて、独特のパントマイムふうな表現になっている。バルテュスの若い頃の街路にいる人々を思わせるところがある。手前に若い夫婦が立っている。背景には道と建物。ロンドンという街のもつ独特の雰囲気を画面に引き寄せながら、人間という存在の不思議さを群像的に表現する。(高山淳)

 中嶋明「路上の人々」。五人の群像である。小さな建物の前の道に彼らはいる。老人と子供と二人の青年と一人の女性。五人はどういう関係なのだろうか。夫婦や子供、グランパといった関係なのか。あるいは、単にここに集合した人間たちなのだろうか。全身像が描かれている。フレスコふうな独特の手触りのあるマチエール。背後の山や湖。オリーブのような樹木。その背後の小さな建物は、小さな倉庫のようだし、小さな教会のようでもある。存在するものが鼓動を打ちながら生きたものとして動いていく。人形芝居のようでありながら、時間というもののもつ力が画面に引き寄せられているところが魅力。(高山淳)

 塚本聰「静寂の中で」。中心に階段があって、上方に、空の見える天窓が大きく広がっている。手前には水があって、倒壊した柱が突き出ている。階段の横には二頭の象。彫刻のように見えるが、生きているようにも感じられる。通常の現実が消えて、イメージのなかの現実があらわれる。静かに止まっているようであるが、実は刻々とこの象たちは生きてイメージを発信しているように感じられる。それらを受け止める不思議な水の力が手前に表現されている。(高山淳)

 半那裕子「壁紙を飛び出して」。「不思議の国のアリス」がテーマの連作の一つ。今回は、壁紙からウサギや鳥やアヒル、様々な動物が飛び出て、この室内空間に浮かんでいる。アリスと椅子と本とキングやクイーンのトランプ、豚や猫。それぞれのフォルムはきわめてフラットで、画面の中にコラージュするように表現されている。それらが集まると、一つの無秩序があらわれる。その無秩序の中にアリスのもつ不思議なイメージを画家は引き寄せる。(高山淳)

 伊藤弘之「キルメスのカルーセル」。キルメスはドイツの移動遊園地、カルーセル(メリーゴーラウンド)や観覧車などの乗り物や出店でにぎわう。

 下方にメリーゴーラウンドが描かれている。上方には桜が咲いている。そのしだれてくる枝の伸びやかな優雅な曲線の形と、満開に近い花のしっとりとした様子は豪華な雰囲気である。すこしイルミネーションされているが、寂しいようなメリーゴーラウンド。その中から一頭の白馬を上方にピックアップした。メリーゴーラウンドが回るように桜の季節のなかに時間が過ぎていく。それをセレナーデといった雰囲気で画面に構成する。画家の京都の美意識が、このキルメスのカルーセルをテーマにしながら生き生きと立ち上がってくる。(高山淳)

 竹岡羊子「佇む朱」。ヴェニスのカーニバルがテーマ。様々なお面をつけた数人の男女の手前に全身赤い衣装の人があらわれている。後ろには噴水。小さな水飲み場。舗道のかたち。ヴェニスの海の緑色。宮殿。作者のヴェニスのシリーズは長いが、その中からしぜんと画面に、浮かぶままにピックアップしたイメージの集合する中にこの不思議な赤の空間があらわれた。赤はパッションでもあるし、ノスタルジーでもあるし、心臓でもある。タイトルの「佇む朱」という言葉も面白い。ここに佇んでいるのは、きっと作者自身なのだろう。(高山淳)

 小久保裕「森の三美神」。作者はヨーロッパに行き、ロマネスクの美術に強く引かれたという。やがて日本に帰ってきて、日本の田園にもそのようなロマネスク的な美神、女神を発見したという。そんな日本の画家の発見した三美神が立ち上がってくる。以前、竹を切った中に切り込みを入れたフォルムを描いたこともある。懐かしい素朴な三人の立っている美神。頭を横にしたり、俯いたり、上方を向いたりしながら、独特のリズムをつくる。周りの樹木の立ち上がっている様子、仮面のようなフォルムが山を背景にしてあらわれる。画家のもつ気韻ともいうべきもの。風景にそれを発見し、構成する。生き生きとしたリズムが鑑賞者を招く。下方の雪の積もったような建物や地面の様子も新鮮である。季節を描くのではなく、季節のなかから思い思いの画家の好きなイメージを立ち上げることによってあらわれてくるフォルムの空間の波動が心地よい。(高山淳)

7室

 池末満「映」。川なのか池なのか、水が画面の半分近くを占めている。その向こうに一、二メートルの高さのところに草が生え、樹木が枝を広げている。左のほうには広葉樹、右のほうには裸木。その様子が水に映る。きわめてクリアでセンシティヴ。水がこの風景を映している様子をそのまま、作者がそっくり生け捕りにするように画面に写している。作者によると、あまり時間をかけずに描いたそうだが、逆にそれによって目の力、その感覚、息づかいがヴィヴィッドにあらわれているように感じられる。対象のもつ物質感をそのまま再現するのではなく、感性の段階でとどめることによって、生きた風景というか、作者の感性の息づかいが感じられるところが面白い。(高山淳)

 佃彰一郎「上り下り」。円形の階段を老若男女が降りたり、上がったりしている。数えていないけれども、百人は超えるのだろう。それが日本人のサンプルのように表現されている。そのディテールを失わず描くことによって、不思議な力が画面からあらわれる。(高山淳)

 大塚利典「エウリディーチェ─月の雫」。水の中にいる女性たちのようだ。中心に女神のような女性が立っている。後ろに十人ほどの群像。その手前にも七、八人の女性たちが侍女のように様々なポーズをしている。グレーのトーンの中にディテールがしっかりとつくられ、そのディテールが総合されて、集積されて、不思議な力があらわれる。いわば想念の中にある人間のもつエネルギーともいうべきものが描かれる。そのために、地上でなく、水の中という圧力のある空間が選ばれたのだろう。(高山淳)

 松井通央「追憶」。椅子に座った青年。そばに窓があって、戸外の樹木が見える。不思議な幻想感で、太刀魚と金魚がそばに浮かんでいる。午後の光線。だるいような時間のなかにイメージが広がって、このような魚を浮かび上がらせた。それはこのシーンのもつ時間のユニークな性質を表す。それぞれのフォルムのディテールの扱い。とくにシャツの中に手を入れた男のそのあたりのディテールの優れた表現に注目した。(高山淳)

 小林正「君と見た夢」。淡いピンクの地の上に黒を墨のように流す。その中に都会の様々な混沌としたシーンが一部ディテールとしてあらわれる。その中に点々と若い女性のかたちがあらわれる。まさに君と見た夢で、この女性は作者にとって君、ユーという存在なのだろう。心の中にある空間。そのスクリーンは場所も時も選ばず、様々なものが集まっている。そんな時空間をそのまま画面の中に生かしながら表現する。そして、そこにあらわれてくる女性のフォルムをピックアップして描く。そこにあらわれてくる空間の深さ。だからこそ、より魅力的に感じられる女性の姿。きわめて内向しながら、完全に内向ではなく、そこに外的な世界を引き寄せる力が面白い。(高山淳)

 高橋伸「北緯50度」。北緯五十度というと、カナダや樺太、イギリスの南端などを通っている。ここに描かれている街はどこの街なのだろうか。ソファに座る二人の女性。黒い下着姿の金髪の女性とストッキングに黒い帽子をかぶった裸の女性。ソファがオレンジ、紫、黄色などの明るい輝きを見せる。戸外は夜景で、夕方の中に建物がシルエットになり、点々と光が窓に灯っている。手前にはイルミネーションされた劇場のような建物も見えるし、道路をたくさんの車が通っている。劇場のワンシーンのように、カーテンが風景の見える窓の前の女性たちの周りに垂れている。画家のつくりだした絵の中の芝居の序章のようなイメージが漂う。女性の色彩はグレーを帯びた中にすこし暖色の入った調子で、ひんやりとした雰囲気。色彩が独特で、クールな詩情ともいうべきものが感じられる。(高山淳)

 田口貴大「亜芽里の祈り…君を想う」。大きな湖のような空間が中心にあって、周りに鬱蒼と樹木が茂り、中には倒れた裸木もある。そんな中に女性が立っている。菊のような花を抱えている。作者のイマジネーションがつくりだしたシーンである。リアルに再現的に描かれているのだが、作者がバーチャルな中につくりだした空間であるところが面白い。その焦点は、このイヴニングふうなドレスを着た女性である。その女性の心の内を表すように、さざなみが立っている。一つひとつのディテールをゆるがせにせずに、大きな動きのなかに繊細な動きも組み合わせながらそれらの動きが女性に向かうという、優れたコンポジションである。(高山淳)

 髙橋雅史「Perro Callejero」。題名は野良犬という意味である。路地を黒い犬が向こうに向かって歩いていく。そばにいくつか水溜まりがある。また、水の流れたあとが白く光っている。両側の古い壁やシートなどが独特の気配を表す。とくに、中景から遠景のクリアなフォルムより、近景の手触りのある水の表情とこの舗装された地面の様子と犬のもつ触覚的な力が実に面白いと思う。作者は犬になることによって、この風景を描こうとしている。そこには想像力という大切な力があらわれる。(高山淳)

8室

 倉岡雅「2015 KAZENOKEI─翔」。大きな姿見の前に若い女性が立っている。ドローイングの力によって描かれている空間。黒がしっとりとした華やぎを感じさせる。(高山淳)

 山根須磨子「光彩の溢るる中で」。優れたデッサン家である。蓮の池に膝までつかっている若い女性。蓮の花を持っている。水に濡れて、Tシャツの内部のボディが透けて見える。周りには大きな蓮の葉がたくさん描かれている。写実的に見えて、蓮の葉の大きさと女性の大きさを比べると、妖精的な雰囲気でこの女性を捉えていることがわかる。それをリアルな写実的な再現力によって表現する。独特のヴィヴィッドな画面の中の動きが面白いし、水に金を使った装飾的な効果にも注目。(高山淳)

 松山敏彦「T氏の思考」。エプロン姿の主婦がうたたねをしているそばに、猫もやはり丸まって居眠りをしている。女性と二匹の猫が宙に浮いている様子は、夢見ている雰囲気。その室内の情景がそのまま外部世界とリンクする。黄昏で、残照の中に建物が黒いシルエットになっている。一日が終わる。安息した時間の流れがしぜんと感じられる。頭を垂れたドライフラワー化した向日葵に対して、いま実をつけて弾けんばかりの無花果。二つの時のなかの位相が対照される。(高山淳)

 早矢仕素子「風の記憶─壊すためでなく造り上げるために─」。古い建物が傾いている。崩壊に向かっている。それはスリリングな雰囲気。その危ういバランスが何かをメッセージする。壊れた壁の内部がのぞく。黄金色に縁取られた中に聖人の姿や天使の姿が描かれている。崩壊する中に信仰の永遠性を感じさせる。そんなコンポジションが新鮮。また、空が白から淡いブルーまでのグラデーションになっているところも、周りのグレーと強いコントラストを示す。(高山淳)

 目黒礼子「実験室」。円筒形のガラスの入れ物が壊れて、中に骨となった人間が座っている。本が開かれている。動物の骨や球体、昆虫、蝶などの標本が置かれて、床には骨になった蛇がうごめいている。骨になることによって、逆にその命の本質ともいうべきものが浮かび上がる。ポップ的な感覚でそれらを明るく組み合わせ、哄笑するような動きを表す。(高山淳)

 高松和樹「世論ニ従エバ私ハ報ワレマスヨネ?」。ガラスでできた女の子。左右シンメトリックな中に中心にもう一人の女の子がいる。もろい思春期の女の子は社会に迎合しているのか。あるいは孤立しているのか。世論に従っても従わなくても、このもろさは変わらない。そんな少女の心の中に深く入るところからつくられたコンポジション。紫がかった灰白色のトーンが新鮮であるし、いつ壊れるかわからないような質感も強い表現力をもつ。(高山淳)

 木村小百合「どこから?」。オートバイのダイナミックなフォルム。その形は官能的である。ゴルゴ13のキャラクターがそこに引き寄せられ、指やこぶしなどが大きく描かれ、そばのマフラーやタイヤ、ハンドルなどのあいだにアーティチョークが大きく浮かび上がる。ドライな感覚的な運動的な世界の中に、アーティチョークがひっそりとした捧げ物のように置かれている。花ではウェットだし、もっとクールで、しかもこの男性的な美学に対して鑽仰するものとしてアーティチョークが選ばれたのだろう。遠近感のある強い動きのある優れたコンポジション。(高山淳)

 石川和男「時航海─小さな記憶」。砂浜に白いパラソルを持った若い母親と小さな子供。空には入道雲が浮かび、静かに波が寄せている。夏の季節である。作者は南方で死んだ兵士たちが海を渡って故国に帰ってくる図を繰り返し描いてきた。今回は敗戦後七十年の年に当たる。そんな作者の思いが、この母と子と海辺の光景に結晶するように描かれている。母と子供は戦争で亡くなった人の孫の世代になるだろうか。かつての悲惨な現実を語らずに、黙々と海と空が広がっている光景。それが切ないような白を中心とした色彩の中に表現される。(高山淳)

 須藤美保「月華笙遥」。巨大な銀色の月の下で着物姿の二人の女性が静かに踊っている。月は銀色で、その周りは黒く縁取られ、さらに金箔という装飾的な空間の中に、和の美を表現する。(高山淳)

 米田和秀「星宿る地─2015─」。イヴニングドレスを着ている金髪の女性が宙に浮いている。下方は池で、緑色をして波紋が広がっている。周りにはキューピッドがたくさん飛んだり水の中にいたりする。神秘的なイメージを面白く表現する。水は聖なる存在としてここに描かれている。洗礼のときも水で溺れさせて新しく神との契約を結ぶわけだが、そういったキリスト教的な世界も背後にあるのだろう。いずれにしても、イメージを表現する構成力、そしてその再現的な力に注目した。(高山淳)

9室

 芝田友司「前進の詩」。蒸気機関車が中心に大きく描かれて、手前に向かっている。石炭が焚かれ、窓の中は赤く染まっている。その横には赤い機関車。そしてその左には、それをデザイン化したようなステンドグラス化されたようなフォルムが置かれている。蒸気機関車は十八世紀にできるが、十九世紀の頃のアールヌーヴォーふうな時代のもつ美意識、そのロマンを感じさせるところが面白い。機関車を描きながら、そのような時代の抒情ともいうべきものを表現する。(高山淳)

 張公「2015年の私」。三人の青年が宙に浮いている。人形のように描いてある。周りに木の葉や鳥が飛んでいる。緑を主調色として、朱色やブルー、茶色などの色彩が使われて、全体で独特のハーモニーをつくる。生きている心の鼓動のようなものが感じられる。独特の詩人的な感性による表現。(高山淳)

 鳥羽祐二「クレイジードッグ」。大きなミラーの中に犬が歯をむき出している。その口に鎖が掛けられ、その先は鍵になっている。そばにショベルカーが直立して、転倒しそうな様子。歯医者の椅子に座ってドリルなどで歯の中を掘られるときの、あの恐怖感を思い起こす。周りにロボットやデコイのようなものが飛んでいる。日常の中の恐怖のイメージを面白く構成する。(高山淳)

 島崎陽子「市のたつ日」。中国の山の中の道や集落を描いたのだろうか。逆さまに吊るされた豚の体。吊るされた鶏。荷物を背負う人々。そんな中に鶏を逆さまにぶら下げた中年の女性が大きく浮かび上がる。自然とそのようなかたちで接触しながら生活する人々の群像である。そこにあらわれる手触りやリアリティ、匂いといったものが、この作品の魅力をなす。(高山淳)

 関口聖子「異なる形で現れる幼芽」。たとえばジャガイモから芽が出てくるときの形は面白く、だれでも出会うとびっくりする。そんな新芽が出たときの不思議な形にインスパイアされたようなフォルムが画面に構成されて、命の不思議さを表現する。曲線によってつくられた様々な形。ささやかな命の発現が、この画面の中では巨大な樹木のようにあらわれている。しかも、その芽はどんどん変化していく。いわば最も創造的な動きをしているときの姿を通して、作者の想像力は広がっていく。その神秘的であやしいフォルムはまた懐かしく有機的なイメージを表す。グレーを中心とした柔らかなグラデーションに対して、緑や紫、青などの寒色系の色彩が入れられて、その芽の形が花のように感じられるように表現する。(高山淳)

 中前光雄「共生21”少年」。岩の上に五、六歳の少年が座っている。綿毛のタンポポの茎に右手を添えて、左手を高く上げて人指し指を出している。その人指し指の先に赤トンボがとまっている。その後ろを見ると、満月が浮かび、無数のトンボが飛んでいることがわかる。背後には作者の住んでいる紀州の風景が見える。周りにも黄色や透明な色、あるいは青いトンボが飛んでいる。一見してこの少年の姿が面白く、いわゆる仏画でいう太子像を思わせるところがある。少年の表情が独特で、少年というより、むしろ妖精的でもあるし、優れた聖人の子供の時の姿もまた感じさせる。同時に、この少年は死と生とをつなぐ存在としてあらわれている。少年の座る岩はたくさんの死んだ生き物たちが集まって化石化したような存在のように思う。そしていま、左手の指にとまらせている赤トンボは生というものの中にいるが、やがてその絶頂が過ぎると、あっという間に死んでしまうだろう。そういった無常なる生き物を手にとまらせている存在。やはり、作者の作品の背後には高野山があり、空海という恐ろしく深い存在があるのだろう。淡々と少年とトンボと月を描くことによって、そのような死と生の深い思想を表現するところが実に面白い。いずれにしても、この少年の顔には聖徳太子の幼少の像や、山田寺の仏頭をはじめとした、たくさんの日本人がつくった仏像や太子の姿がしぜんと感じられるところが興味深い。(高山淳)

 秋口悠子「刻」。煉瓦を積んだ壁に小さな窓。黄金色の枝がそこに影を捺している。この建物は歴史的な建造物で、中で悲惨なことが起きた。そして、時が過ぎてもその恐ろしい歴史の気配は消えない。そこに樹木の影が静かに映っている様子が、しみじみとしたトーンの中に表現される。(高山淳)

 中村光幸「Future」。「世界の果てまであなたは行かなければならない」という英語が額に書かれている。上方には浜に波が寄せ、手前には三人の少女。二人の少女は手で顔を覆い、もう一人の少女は立って遠くを眺めている。紙でつくられたサイコロには3・4・4・3という文字が見える。時計は五時五十五分すこし前。絵だけでなく、額の英文の文字が相まって、思春期のもつ可能性と限界性ともいうべきイメージが立ち上がってくる。また、寄せては返す波には一種無限旋律ともいうべきイメージが漂う。永遠に続く時間の繰り返しに対して、一生のなかでも特異な思春期の時間が、そこにあぶりだしのように浮かび上がってくる。(高山淳)

 阿部栄一「地・水・空」。大きな蓮の葉が画面の中ほどに描かれ、後ろに蓮の花の蕾や開いた様子がうっすらと描かれている。大地の上に水が池としてあり、そこから蓮が伸びている。花が咲き、やがてまた落下する。蓮を通して、いわば諸行無常といったイメージが浮かび上がってくる。蓮台という言葉があるように、蓮のもつそのような仏教的な性質を効果的に画面に使う。しっとりとしたトーンの微妙な変化が魅力である。(高山淳)

10室

 小石川宥子「流風 Ⅰ」佳作賞。樹木が画面の中央に大きく描かれている。樹木の根元には大きなうろがあって、そこには卵が三個見える。左上方では一羽の鳥がやはり卵を摑んで飛んでいる。実に繊細に樹木の姿を描きながら、強い生命の力もそこに孕んでいるようだ。それは、生命そのもののメタファーである卵と画面の中で響き合い、背後の水面の波紋のように、こちら側へと静かに発信されてくる。時と共に変化しながら続いていく生命というものの危うさ、貴重さ、大切さを鑑賞者に語りかけるように描き出している。(磯部靖)

 福井満「JAPAN-Ⅰ(予感)」新人賞。津波に流された跡のような港町の風景である。画面全体は暗く、青みがかっている。寒々しい雰囲気の中に深い情感が見え隠れしている。部分部分の建物などを細やかに描きながら、画面全体のイメージをしっかりと纏め上げている作品である。(磯部靖)

 千葉光「廃都・背徳・hide」独立賞。頭をこちらに向けて上を向いた女性像の首が大きく描かれている。また、そのすぐ向こうに切り離された上半身が浮かんでいる。そしてそれを大きな手が摑もうとしている。どこか恐ろしい情景である。石像でありながら不思議な生命感を感じさせる女性像が特に印象深く、画面全体の不思議な物語性もおもしろい。これまでに無かった千葉作品の新しい展開に注目した。(磯部靖)

 中村惠美子「風のいたずら」独立賞。大きく描かれたいくつかの旅行用のバッグと背後の地球儀。それぞれが確かな質感を持っている。見知らぬ土地へ旅行するロマンが、じっくりと描き込まれている。背後にかろやかな青の色彩を使いながら、そういったイメージを生き生きと発信してくる。(磯部靖)

 橋本大輔「標」独立賞。今は使われなくなった廃屋の内部を描いている。画面の右から陽の光が差し込んで、内部の雑多なものたちを照らし、それによる光と影のやわらかな明暗を生み出している。じっくりと画面を描き込みながら、それによって生まれる気配、人間の存在の残り香のようなものを感じさせるところが印象深い。(磯部靖)

 村田英子「Dark Salome Ⅱ」会員推薦。サロメは女性のナルシシズムの象徴的存在として画面に引き寄せられている。大きな目をしたサロメ。頭に様々を飾りをつけた姿。背景は赤く、サロメのなにも考えていないような不思議な姿が浮かび上がる。衣装にも胸にも緑やブルーなどの宝石類がつけられているようだ。いわば放心したサロメのイメージ。だからこそ、鑑賞者はこのようなサロメに自分自身のイメージを重ね合わせることができる。(高山淳)

 大原修一「『genomics』15─4」会員推薦。地面に亀裂が走り、コンクリートのような土台が浮かび上がってくる。恐ろしいエネルギーがここにかけられて、地面が変形していくような、そんな動的なイメージを面白くヴィヴィッドに表現する。(高山淳)

 宮腰敏一「あしたはきっとはれる Ⅱ」独立賞。風に吹かれる一人の女性を描いている。背後には飛来する戦闘機が大きく描かれ、下方では激しい波が寄せている。戦争という恐ろしく悲惨な出来事があった事実を肯定しながら、明日へ託す希望というものがこの女性の複雑な表情から発信されてくる。クリアに画面を描写しながら、そういった深い想いが作品に強く込められている。(磯部靖)

 山中俊明「景想―境界を支えるもの」独立賞。複雑に映し合う鏡面の世界の中で、一人の女性の姿を描いている。女性は逆さまになって浮遊しているようだが、その上方や左下奥にも小さく同一人物の姿が見える。虚と実が混じり合い、どれが実物なのか。存在というものの不確かさを、独特の画面構成で問いかける。(磯部靖)

11室

 佐藤仁敬「都市と人と黒い鳥」。上下に繫がるように男女を配置し、左右には消失点を置いて風景を描いている。その十字型の強い構図の中で、深い暗色の鳥が飛び交う。不穏な気配、理想と現実。そういったイメージが、強く鑑賞者を惹き付ける作品である。(磯部靖)

 棚澤寛「融合」。遥か下方に大地を見ながら、両手を広げて大空を舞う二人の女子高生が描かれている。奥に描かれている方の女性は、背景と溶け合っているようだ。未来への希望と不安を抱えながらも、自由に自身の将来に向かって飛び立つ若い少女たちが大胆に構成されている。透明感の在る空の色彩や雲の動きも相俟って、スリリングな気配を抱えているところもまた印象深い。(磯部靖)

 渡辺貞之「大きな楡の木の下で『埋葬ごっこ』」。三人の子供たちが大きな樹木のある庭の片隅で遊んでいる。地面には人形が埋められようとしている。子供たちの顔はモノトーンで描かれている。死というものにリアリティを持たない無垢な子供たちによる残虐な行為は、大人たちを何とも言えない気持ちにさせる。そういった画面が、現代の戦争やテロといったものを強く想起させ、鑑賞者に強い余韻を残す。(磯部靖)

 河合規仁「春の夜の夢」奨励賞。キツネのお面を被った少年が鳥居の上で寝ている。下方ではたくさんの人たちがこの神社にお参りしようと詰めかけている。山の向こうに昇る満月がそれらを照らし、独特の幻想的な世界を作り出している。大胆な画面構成も相俟って、強い物語性を作品に引き寄せている。(磯部靖)

 榎本悦明「ヘルベチカとの対話(Ⅰ)」。ヘルベチカとは20世紀半ばに開発されたローマ字の書体で、現在では広く使用されている。そのアルファベットが、一人の男が向かうテーブルにたくさん立体となって置かれている。そのうちのいくつかは浮かび上がってもいる。文章を書く場合の試行錯誤を文字そのものとの対話として取り上げているところがおもしろい。それが色彩のないモノトーンの世界の中で、独特のリズム感を作り出しているところもおもしろい。(磯部靖)

 蔵野春生「終わりの季節 Ⅰ」。右肘で身体を支えながら脚を伸ばしている若い女性を中心に描いている。向かって右背後にももう一人の女性の姿が見える。周囲にはたくさんの果物や開かれた画集が置かれている。どこか妖しく、ミステリアスな雰囲気が印象深い。デッサン力もさることながら、しっとりとしたその描写や女性のどこか色気のある雰囲気が魅力の作品である。(磯部靖)

 宮谷順子「斜光 Ⅰ」小島賞。シーツに仰向けに寝そべった二人の裸婦の上に、透明なビニールシートが掛けられている。そのなめらかに起伏する女性のフォルムに重ねられ、そこに光が差し込むことによって、複雑な表情を見せている。その様子が強い見応えを感じさせる。そういった様子を描き出すことのできる画家の描写力が確かに分かる作品である。(磯部靖)

 岡林まち子「果ての果てへⅡ」奨励賞。長い時間を掛けて形成された氷山の内部のような場所を描いている。鋭く透明な氷、あるいは水晶のようなものが、光に照らされてキラキラと反射し輝いている。どこか神聖な雰囲気、人の踏み込むことのない場所でのドラマが、クリアな描写で表現された作品である。(磯部靖)

 森本貞代「華の景」。一人の裸婦、あるいはトルソのイメージが重なったような姿が画面の中央に大きく描かれている。その顔のあたりには大きな花が咲いている。画面全体は落ち着いた茶から赤の色彩で纏められている。女性の持つ美というものの本質が、作品の背後から浮かび上がってくるようだ。刻々流れていく時の中で、永遠に変わらない美と変化していく身体の対比が、静かな見応えを作り出している。(磯部靖)

 平育子「古代魚〈保護区〉」佳作賞。塔のような高い建物の上に大きな魚が乗っている。今は生息していない、古代の魚のようだ。おもしろいことに魚の胴体に穴があって、そこから骨が見えている。塔にはいくつかの建物が見えるが、人の姿はない。例えば地上では洪水などで人類は息絶えていて、この場所だけ残されているような、不思議なイメージが呼び起こされる。画面全体は明るい色彩で描かれているが、現代文明に対する強い警告のようなものがメッセージされてくるようで印象深い。(磯部靖)

12室

 松浦孝彦「都市の遠近─伝言」。画面に大きくこちらを見つめる老婆の顔が描かれている。老婆は眼鏡をかけていて、向かって右側のレンズに、街の風景が映り込んでいる。その右側にはこちらに背を向けて椅子に座った若い女性の姿が見える。髪は長く顔は見えない。そしてそれらと重なるようにビルの姿がいくつもうっすらと描かれている。よく見るとレンズに映りこんだ風景は、少し昔の街の情景のようだ。過去と現在、老人と若者。時間の変化とその対比を暗示させながら、どこか現代よりも過去に対する憧れのようなイメージが感じられる。いずれにせよ細やかな筆遣いと画面構成が、そういったイメージ世界をしっかりと支えている。(磯部靖)

 片山紘子「生 Ⅰ」。画面の下方から上方に向かって花心のようなフォルムが立ち上がってきている。そこからいくつもの胞子が放たれて、浮遊している。背後には強い赤の色彩が大きく施されていて、画面全体で強い生命の力を発信してくる。画面全体は旋回するような構図で、どこか内向するような動きも感じられる。生命の強い力を静かな気配と共に描き出しているところに注目する。(磯部靖)

 日置誠「空へ」。包帯を巻かれた男の下半身が地面に埋まっていて、それをもう一人の男が引っ張り出そうとしている。その上下に向かった力が、画面に独特の緊張感を作り出している。背後には瓦礫が散らばっていて、どこか震災などの被害跡を思わせる。現実世界の悲惨さと、天上へと向かう希望。そういった救済のイメージが生まれてきているところがおもしろい。左上には地面に埋まった仏像のような頭と手が少し見える。それもまた祈りのイメージを感じさせる。じっくりと構成された画面が、画家の作品に対する想いを確かに鑑賞者側に発信してくる。(磯部靖)

 井上伸久「Ithu─對、152─730」。こちらを向いて並んで立つ二人の女性の上半身が大きく描かれている。そして重なるように海を望む風景が描かれていて、木製の椅子がそこに二つ置いてある。その椅子には誰も座ってはいないが、もともとこの二人が使っていた椅子だろうか。自然の中にある人間の気配というものが、独特の感性で描き出されている。今回は特に強い臨場感と人間の存在感を孕んだ作品として注目した。(磯部靖)

 犬童二郎「回想  海峽のある街」。自画像を大きく画面に描きながら、その背後にたくさんの人が行き交う都市の風景を描いている。また、向かってすぐ左後ろには赤ん坊が二人描かれている。ビルや人物は画面の上方中央に向かって集約するように伸びて描かれている。無機質になっていく都会の様子を不安定に描き、これから育っていく子供たちの心配を感じさせる。いずれにせよ、独特の群像表現と画面構成が強く印象に残る作品である。(磯部靖)

 上林一「SPACE-TIME.1」。茶褐色の暗い画面の下方に矩形の台があって、そこに卵と蛇のような細長くカーヴしたフォルムが描かれている。向かって左の方に雨、あるいは光のすじがいくつか見える。独特のイメージ世界である。空間を意識しながら間を作り出し、そこに強い余韻を持たせている。そういったものを堅牢なマチエールがしっかりと支えている。(磯部靖)

13室

 小川実「街 Ⅰ」。段ボールによって組み立てられた都会の街を、同じく段ボールによって象られた汽車が走っている。左には広島の原爆ドームを思わせる建物が見える。あっというまに破壊され、また再生される都市というものを段ボールによって表現しているところがおもしろい。ユニークなイメージ世界として注目した。(磯部靖)

 手塚廣子「風の時 Ⅱ」。モノトーンの画面をペンによって実に繊細に描き出している。上品な様子の女性の肩に雄鳥が顔を出し、その眼鏡のレンズをつついて壊している。雄鳥の顔は赤くうっすらと彩色されている。女性を描きながらも、雄鳥の強い存在感が際立つ。どこか危機感を孕みながらも凜々しくこちらを見つめる女性の眼差しが、鑑賞者の足を止める。(磯部靖)

 増田典彦「クロソイドの夢」。クロソイドは簡単に言うと螺旋状の曲線のことであるが、このソフトクリームの渦巻きがそれに当たるのだろうか。大きな顔の子供がソフトクリームにかぶりついているが、どこか恐ろしい表情をしている。青みがかった画面の中で、子供のピンクの顔が強く印象に残る。大胆な画面構成の中で、独特のイメージ世界が展開している作品である。(磯部靖)

 北村倫子「パーティーに行くの!」。遠景に城塞のような建物が立っていて、そちらを向いてこちらに背を見せた少女を描いている。周囲には豚やフラミンゴ、白頭鷲などが集まってきている。少女は手に花束を持っていて、これからその建物に向かうようだ。物語の一場面のようなストーリー性を丹念な描き込みによって生き生きと表現しているところが見どころの作品である。(磯部靖)

 村田秀彦「Xcity 1503」。陸地に近い浅瀬に大きなタンカーが描かれている。浜辺には少しの建物があるだけで、それ以外は何もない。画面の上三分の二くらいは淡い色彩の扱いで、その下は深い青の色彩と暗色によって描かれている。茫漠たる世界に漂う孤独感が強く感じられる。どこか終末的な世界観も合わせて感じられる印象深い作品である。(磯部靖)

 志津田禮子「その先にあるもの Ⅱ ─attitude─」。青みがかった色彩で描かれた石像が画面の中央に大きく描かれている。ある部分は深い影になっていて、その立体的なフォルムを強く感じさせる。背後にもまた石像、下方では都市の遺跡の姿が見える。流れていく時間の中で、全てのものは風化していく。再生の前の破壊、というような大きな時間の流れの中にある存在そのもの。そういった一つの象徴のようなものとしてこの石像が描かれているようで興味深い。質感、量感に注意を払い、スリリングな臨場感も引き寄せている。(磯部靖)

 原田淳美「decoration」。若い女性の髪の毛が上方に向かって伸びている。髪は三つ編みのようで、ピンクのリボンが結ばれている。そしてその周りにはピンクや緑、オレンジの洗濯挟みがくっついている。ポップな造形感覚が瑞々しい。眼鏡のずれた女性の表情もおもしろく、豊かな感性を感じさせる作品である。(磯部靖)

14室

 東さかえ「『想う』Ⅱ」。大きな瞳の中に、一人の男性の姿が見える。この男性について、この瞳の人物が深く思っているのだろう。家族か、あるいは恋人か。いずれにせよ深い愛情がこのように表現されたのだと思う。細やかに筆を置いていきながら、どこかこの男性との微妙な距離感も感じさせるところが興味深い。人と人との関係性というものを独特の構成で表現しているところにオリジナリティがある。(磯部靖)

 小川佳奈子「けろりを」。銭湯での情景をあっけらかんとした様子で描いているところがおもしろい。横になった裸婦と手前と奥の猫、向かって右に積み上げられた黄色い桶。シンプルな構成ながら、それぞれのモチーフがクリアに描かれ、密度のある画面を作り出している。明るいイメージが鑑賞者を作品の中へと引き寄せるような魅力を放っている。(磯部靖)

 小畑健治「我々は宇宙人ダマだ Ⅰ」。三角形に盛り上がった台地にたくさんの家屋が積み重なるように描かれている。画面はモノトーンの色彩で纏められている。テトラポッドが積み上げられているところもある。不思議な光景である。ノンシャランとした雰囲気もさることながら、ゆっくりと流れる時間、ゆったりとした雰囲気が魅力の作品である。(磯部靖)

 井阪文紀「my phimosis」。上着で顔を隠した男を斜め上方から描いている。室内はロッカールームのような雰囲気で、様々な道具が散らばっている。若者独特の懊悩が、不安定な構図も相俟ってじわじわと伝わってくるようだ。(磯部靖)

 井川雅子「Carpe diem-2」。三人の女性がそれぞれポーズをしながら描かれている。赤、暗色、青、黄土色といったコクのある色彩を使って、女性の持つアルカイックな美的魅力を強く発信してくる。また、旋回するような構図も相俟って、ぐいぐいと鑑賞者を画面に惹き付けるような吸引力を持った作品として成り立っている。(磯部靖)

 黒沢典子「重なる Ⅱ」。積み重ねられたテトラポッドが画面に大きく描かれている。その直線の繰り返しが、テンポのよいリズム感を作り出している。ピンクや黄、青、緑などの色彩が淡く彩色されているが、画面の中央が最も明度が高い。そこにスポットをあてながらやわらかなコントラストを作り出してもいる。テトラポッドの重量感をしっかりと捉えながらも軽やかに気持ちよく描いているところが特に見どころである。(磯部靖)

15室

 日下部弘子「フィエスタ Ⅱ」。パレードの一場面のような楽しい画面が魅力である。一台のオープンカーにたくさんの奏者が乗り込んで演奏している。また、一人は道路に立って横笛を吹いている。そのすぐ左にはピエロがいる。グレーのスーツで揃えた奏者たちそのものが画面の中でリズムを作り出し、豊かな情感を運んでくる。そういった中でピエロの存在が作品の中のもう一つのアクセントとして効いていて印象深い。(磯部靖)

 ふじいあさ「架空園(バオバブの選択)」。ふじい作品特有の仮想空間が奥行きを持って展開している。後ろ足をこちらに向けて奥に向かって歩いていく不思議な動物の後ろ姿が描かれていて、その周囲にはたくさんのバオバブの樹が立っている。そのカーブする丸みを帯びた曲線が、この動物のフォルムと重なるような響き合いを持っている。また地面は市松模様になっていて、そのシャープな様子が、樹木の曲線と静かに対比され画面を活性化している。そう思って見ていると、この動物が無機物と生物の両方のイメージを孕んでいるようで興味深い。命というものの新しい形のような、そういった強いイメージの展開を感じさせる。(磯部靖)

 酒井佳津子「The day after tomorrow」。透明水彩による鮮やかな色彩がキラキラと輝くような魅力を放っている。国会議事堂のような、あるいは古代の神殿のようなフォルムの建物が立っている。いずれも人間が建てたものである。それが過去と現在を繫ぐようなキーとして扱われ、その強い存在感で画面を支えているようで興味深い。いずれにせよ、独特の幻想感をはらんだ画面が、繊細に表現されている作品として注目した。(磯部靖)

 木村節子「『ゆくえ』Ⅱ」。大きく太いパイプが画面の上下を蛇行しながら伸びていて、そこからたくさんの細いパイプが周囲に伸びていっている。それを、向かって右から黒猫が飛び越えようとしている。地面は緑がかっていて、どこか毒々しい。人工的な世界で逞しく生きる動物の強さが強く発信されてくる。また、飛び上がろうとする猫のしなやかな肢体がしっかりと捉えられている。木村作品の新しい展開に注目する。(磯部靖)

16室

 松山美生「境界の静止画」。広いロビーが大きな空間を作り出している。向かって左側にはテーブルがいくつかあって、人々がそこに座っている。ガラス張りのため、明るい外光が入り、爽やかな雰囲気を作り出している。どこか無機質な近代的建物の中で、ゆっくりとした時間の流れを空間的意識と共に巧みに表現しているところがおもしろい。(磯部靖)

 野村紀子「となりの果実151001」。リンゴやバナナ、ブドウなどがたくさんのスプーンとともにヨーグルトの中に散らばっている。その触感がリアルに表現されている。また、ヨーグルトの白の中で、果実のさまざまな色彩が豊かな表情を作り出している。そういったものが密度のある画面の中で強い見応えを作り出した作品である。(磯部靖)

 山本優里「帰路につく」。たくさんの落ち葉に包まれた地面にかなり接近して描いている。向かって右上方には樹木の根元が見える。シンプルな画面構成の中で、自然というものの持つ気配、これを見つめる画家の心持ちが静かに伝わってくる。葉一枚一枚の描写などを丁寧に扱い、やわらかな手触りを感じさせもする。独特の視点で描いた画面の中に、深い情感が込められている。(磯部靖)

 桜井節子「記念日 Ⅰ」。たくさんの子供たちが集まっている。画面下方のテーブルにはケーキが置かれている。何かのお祝いのままごとだろうか。それぞれの子供の描写が独特であり、豊かな存在感を獲得している。やわらかな色彩の扱いの中で、微笑ましくもどこか妖しい雰囲気を感じさせて強く印象に残った。(磯部靖)

 川畑太「風のささやき」。椅子に座るようなポーズをして下を向いた女性を正面から描いている。いくつかの矩形によって区切りながら、背後には屋外の情景が広がっている。刻々と変化する自然の情景をこのように表現しているところがおもしろい。川畑作品特有のやわらかで明るい色彩の扱いとそれによる心地よい雰囲気が、この女性の内面と響き合いながら、鑑賞者に伝わってくるようだ。(磯部靖)

17室

 桑野幾子「'15 心の旅 Ⅲ」。実に細やかに描き込まれた網目が画面を満たしている。上方中央には大きな暗色の空間があって、その下方では、うねるような動きを見せるもう一つの網目がある。暗色の空間には灰白色と紫の色面が浮かんでいる。それが画面の中で独特の間を作り出しているようだ。ドラマチックな部分と凪のような部分、そういった抑揚を画面の中で効果的に構成しながら、画題にあるように自身のイメージの中を旅するように描き出した作品である。(磯部靖)

 田口緒里砂「時を想う」新人賞。厚手のコートを着た子供を中心に描いている。背景には庭や家屋、樹木などが見える。そしてそれらを色面を繊細に扱いながら描き出している。手前から子供、奥の家屋までの距離感がしっかりと捉えられているし、その途中にある白い椅子の存在も画面の中で一つのポイントとなって効いている。(磯部靖)

 村松元子「天地の中に」。薄いインナーを着た少女が一人目を閉じて寝ている。それを上方から見た視点で描いている。画面全体はグレーの色彩を主に扱っていて、少女のフォルムはかなり繊細に描かれている。周囲にはドリッピングによって抑揚が付けられていて、それが画題にあるような自然の気配の様なものを感じさせる。そして少女はその自然と溶け込むような、透明な存在感を孕んでいるようである。そういったイノセントなイメージを丹念に描き出し、表現した作品である。(磯部靖)

 宮地明人「そこに在るということ」佳作賞。一人の女性を画面の中央に置き、その手前をラズベリーのような実が点々といくつも浮遊しながら横切っている。女性の右手からもその実はこぼれ落ちつつあり、また足元には無数の実が山になって積まれている。ベージュの色彩で纏められた画面の中で、果実の朱の色彩がかすれるような儚い存在感を獲得している。また、それが積み重なった下方では、どこか血肉のような生命の胎動を感じさせる部分もある。存在というものにリアルに迫る臨場感がある。(磯部靖)

 堀一浩「game」山田文子賞。大きなケーキの生クリームに顔を横に付けた女子高生とその視線の先に、いくつかの兵隊と戦車のフィギュアが置かれている。それらはピンク色で、この女子高生を攻撃しようとしているようだ。一見可愛らしい画面の中に、どこかスリリングな気配がある。そのイメージのギャップがおもしろい。クリアにモチーフを描く描写力に支えられながらそういったイメージが画面に展開しているところに注目する。(磯部靖)

 伊藤裕貴「想─転生 '15─Ⅱ」芝田米三賞。かなりの年月の間放置された廃屋の内部をモノトーンの色彩で描いている。無数の廃材とその重なりをじっくりと違和感なく描ききっている。ふと見ると中央に、膝を抱えた女性の姿が浮かび上がってくる。破壊と再生、命の循環といった輪廻的なイメージがじわじわと伝わってくるような、強い発信力がある作品である。(磯部靖)

 市川光鶴「night sailing journey」芝田米三賞。一人の少女が頭を向かって右に向けて横になり、こちらを見つめている。周囲は花や鳥に囲まれ、遠景には街の夜景が見える。夢と現を行き来するような感覚がある。線の細い少女のフォルムやその他の細やかな描写と共に、独特のイメージ世界が説得力を持って描き出されているところが特に見どころだと思う。(磯部靖)

 児玉沙矢華「青窓の空隙」奨励賞。地面に置かれたヒビの入ったガラスに空が映り込んでいる。それを二人の少女が覗き込んでいる。ガラスには明るい空が映ってはいるが、少女の周りは暗闇に包まれているようだ。また、ひび割れた部分の向こう側も暗い。ガラスの向こう側、手の届かない場所にある希望とそれを見つめるだけの少女たちという設定が、切ない。そういった深い情感がじっくりとリアリティを持って描き出されている。(磯部靖)

 前田充代「想花 Ⅰ」。後頭部に両手を当てた女性の後ろ姿を描いている。周囲には百合のような花に囲まれていて、全体は金色を思わせる色彩で彩られている。女性のなめらかなフォルムの曲線が、周囲の花の動きと相俟って画面全体に緩やかな動勢を作り出している。女性の持つ美しさを正面からではなく、後ろ姿といういわばイメージの裏側から描き出すような、鑑賞者の好奇心を刺激するような作品として印象に残った。(磯部靖)

 土井久幸「刻(とき)の大地」奨励賞。大きな塔のような建物が途中まで建設されている。中身は空洞である。あるいは崩壊していく途中なのかもしれない。周囲には同じく風車が右手前にあり、左奥には柱がいくつか立っている。そして背後にはうっすらと街を俯瞰するような情景が広がっている。どこかうつろな空虚感が漂っている。淡々とした描写の中に、時間というものの不思議さを形象化したようなところがあるのが興味深い。(磯部靖)

18室

 河村香帆子「燃えて逝く天の川 Ⅱ」損保ジャパン日本興亜美術財団賞。例えば大きな天災によって破壊されたものが燃やされて、その煙が天に昇っていくようなイメージである。そこには家具などの他に、無くなった人々の魂も含まれているようだ。立体的に画面を構築しながら、赤や青の色彩によって激しい感情を入れ込んでいる。強く鑑賞者の記憶に残る作品である。(磯部靖)

 遠山隆義「黒い誘い B」奨励賞。上方に暗色に漂う雲のようなものがあって、それを下方の男が恐れているようだ。左下にはガイコツの集合体のようなものも浮かんでいて、やはり男に接近しようとしている。恐ろしい光景である。そのイメージがメリハリのあるマチエールで力強く表現されている。背後はシャープな直線で室内の様子が描かれてもいる。逆三角形の不安定な構図の中で、鑑賞者を不安にさせるような強いイメージの発信力がある作品である。(磯部靖)

 河合正勝「玉響・tamayura・Ⅱ」。画面の下方で細身のガイコツが手を広げて浮かんでいる。左上の灰白色は、どうやら教会などの建物のようで、それもまた津波のようなものに飲み込まれようとしている。救済のない恐ろしい世界が展開している。それらは教会を中心とした旋回するような構図で描かれていて、強い臨場感を孕んでいる。迫力のある画面の中で、逃れられない死のイメージをぐいぐいと鑑賞者を引き寄せるようにして描いていて印象深い。(磯部靖)

 西海谷真由美「僕らはみんな生きている」。白い大きな花とその下に唇。花弁の一部は唇にかかっていて、少し朱に染まっている。そして左に六つ、右に四つのパネルがあり、目あるいは花がそれぞれに描かれている。純潔と色欲それぞれのメタファーがお互いに関係しながら一つの画面にあることで、生きるということの本質的なものを自然と浮かび上がらせ、鑑賞者を強く惹き付ける。(磯部靖)

 川合銀河「飛ぶこと Ⅰ」。飛行機の飛び交う画面を細やかな点描で描いている。壊れている飛行機もある。遠景には太陽が見え、飛行機に青い影を作り出している。割けた台地の上方を飛ぶ飛行機は、どこか行き場のない魂のようにも思われて興味深い。滲むような色彩の扱いもまた、そういったイメージをしっとりと引き寄せている。(磯部靖)

 後藤玉枝「My Garden Ⅱ」。大きな足の指が画面一杯に描かれていて、そこに植物の葉などが散りばめられている。モノトーンの色彩の中で、人間の上半身のフォルムも少し見えたりするなどどこか妖しい雰囲気があるところがおもしろい。そういったさまざまなモチーフを組み合わせながら構築された密度のある画面が、強い見応えを感じさせる。(磯部靖)

19室

 長谷祥子「光の記憶─遥」。周囲を高い崖に囲まれた大きな河が流れている。水面は静かで、わずかに波が立っているようだ。それらは明るい陽の光を細やかに照らしキラキラと輝いている。透明な空気感もまた魅力で、どこか太古の台地を思わせるようなアルカイックなイメージも感じられて印象に残った。(磯部靖)

 竹鶴昭子「幻影」。かなり樹齢のある大木を大きく描き、そこにフクロウがたくさん集まってきている。下方のうろにも三羽いる。ふと見ると、向かって左下には女性の顔が浮かび上がっている。強い生命力を孕んだ大樹は、例えばこの女性の命も吸い取ってしまったのかもしれない。恐ろしくもあるが、樹木の動きのあるフォルムと明るい色彩の扱いが、その生命力を強く感じさせる。不思議なイメージの漂う作品として注目した。(磯部靖)

20室

 直井美穂「Shutting From The Sky Ⅱ」。窓の向こう、室内に大きな目をした少年がいてこちらを見つめている。手前には赤い雲が湧き出ていて小さな飛行機が飛び交っている。独特の幻想世界であるが、戦時中の空襲をイメージさせる。どこか童話的な雰囲気もあり、そういった感性の良さに注目した。(磯部靖)

22室

 吉田守「シェービング(A)」。床屋が顔を剃っている。ただそれだけの様子を描いているが、どこかユーモアの溢れる作品である。明るい色彩とクリアなフォルムによって見ていて飽きさせない魅力を携えた作品である。(磯部靖)

 森下よし子「暦日~マタ イツカ。発ツ日ニ~」。鑑賞者の視線を遮るように土壁が描かれている。壁は崩れかけていて、いくつかの穴から向こう側が見える。その右下に一人の女性とそれに背を向けて去る男性、左上には飛行機が見える。長い時間存在したこの壁は、様々なそういった人々のドラマを見てきたのだろう。淡々とその情景を描きながら、静かなドラマ性を鑑賞者と分かち合うように描いているところにおもしろさがある。(磯部靖)

 波多野香里「窮屈」。五人の女子高生を正面から描いている。左右の二人ずつはそれぞれ親しい関係のようだが、中央の一人はそれになじめていないようだ。そういった様子が露骨に現れている。緑がかった顔と暗めの色彩の扱いが、そういったネガティヴな現実を強く訴えかけてくる。女子高生たちのどこか人形的な雰囲気もまたそういったイメージを活性化させ、強く印象に残る。(磯部靖)

23室

 中畔千嘉「人形」。一体の人形の顔が画面の中央上方に描かれている。そこから人形の髪の毛がカールしながら画面一杯に広がっている。曲線を丹念に繰り返しながら濃密に描くことで、独特の韻律が生まれている。茶から黄土の色彩の中に明暗を付けながら、画面全体でドラマチックな見応えを作り出している。(磯部靖)

24室

 土佐大吾「笑」。三人の裸婦が手を組みながら踊っている。顔は満面の笑みで、いかにも楽しそうだ。裸婦といっても色気というものは無く、どちらかというと自身を解放するようなイメージである。そのパワーはとても強く、鑑賞者までも巻き込んでくるような発信力がある。逆三角形の構図がそういったリズム感をより躍動的に見せていて、記憶に残る作品となっている。(磯部靖)

25室

 上杉さなゑ「憧憬護る─生きる・ノーウォー」。小さな船に若い男女と幼子が乗っている。どこかから逃げ出したのだろうか、荷物などはあまりない。男性の方には平和の象徴とも取れる白い鳩がとまっている。戦禍を逃れてきたのかもしれない。いずれにせよ、どこか危うく寂しげな雰囲気が鑑賞者の心を刺激する。重なるように描かれた三人が、愛情というものの強さ、尊さを強く発信してくる。(磯部靖)

 亀井政子「けんだま」。民族衣装を着た一人の子供がけん玉で遊んでいる。周りにいる動物もいっしょに遊んでいるようだ。微笑ましい光景がどこか童話の一場面のようで、その物語性が印象的である。画面全体の色彩のトーンをうまく調整しながら、どこか懐かしい、魅力的な作品として成り立っている。(磯部靖)

26室

 西野恵理「柿落し─Ⅱ」。柿落としの柿とは材木の削り屑のことだが、その屑がどこか妖怪のような姿を成して強い生命力を孕んでいる。赤を主に使いながら、そういった捨てられたものたちを活性化させ、生き生きと描写しているようだ。いずれにせよ、独特の動勢の中に強いイメージが行き交い、印象深い作品として成り立っている。(磯部靖)

27室

 栗岡和美「LA VITA1」。何か所も剝落した壁が画面一杯に描かれている。茶系と灰白色の色彩が鬩ぎ合うように使われている。長い時間を掛けて様子を変えてきた壁の表情が、淡々としかし豊かに描き出されている。左の扉や右上の窓などが暗く、少しミステリアスな雰囲気もあっておもしろい。(磯部靖)

 松尾啓子「鏡の音 Ⅱ」。手触りのあるマチエールで街の情景を描いている。画面全体は朱の色彩が施されている。ぐいぐいと描くその筆のストロークが、強い心象性を生み出しているようだ。どこか音楽的なイメージも重なりながら、確かな叙情を作り出している。(磯部靖)

 

第69回二紀展

(10月14日〜10月26日/国立新美術館)

文/高山淳・紺世邦章・農頭美穂

1室

 平野良光「ネリヤカナヤ」宮永賞。ネリヤカナヤとは屋久島あたりの方言で、海のかなたの楽園という意味になるそうだ。樹木が伸びている様子を下方から眺めている。その地面に近いあたりは樹木の中が空洞になっていて、そこに向かう木の道がつくられている。つまり、木の中にもう一つの世界があるように表現されている。しかも、その周りにはクジラが泳いでいたり、クラゲが浮遊していたりする。そして、樹木の上方のあたりはすこし霞んで、それもまた海の中にいるようだ。そんな水に囲まれた空間のなかにリアルに見えるのは下方の部分で、そこにはまた光が点々と灯っていて、独特の幻想感を醸し出す。緑を中心としたほぼモノトーンの中に、自然というもののもつ神秘的な世界。しかも、現実とその向こうにある世界を画家の想像力によって組み立てたユニークなコンポジションである。(高山淳)

 舩岳紘行「そうして成る」損保ジャパン日本興亜美術財団賞。天空に地面が雲のように広がっている。そこに巨大な猪がいて、それを男たちが捕まえようとしている。おなかがあけられて、そこから巨大な蒸気が上方に出ている。まるで日本昔話といった趣で、そんなストーリーを絵本の一シーンのように表現する。そのストーリー性と独特のデフォルメされた画面構成の力に注目した。(高山淳)

 美浪恵利「風の音~ふりさけみれば~」。桜の花がしだれている様子。それを下方ではポイントを拡大して表現している。いわばツーショットの写真を油彩で描いたような構成になっている。感覚的な表現である。(高山淳)

 立石真希子「陽のあたる場所」。フローリングの床に白いソファと白い丸いテーブル。三十個ぐらいの林檎がテーブルにもソファにも床にも置かれている。現実よりすこし大きな林檎が艶やかに輝いている。そんな林檎の配置も面白いし、林檎というものが実りのイメージを鮮やかに発信しながら、不思議な空間をつくりだしている。現実がそのままシュールな世界にリンクするようだ。(高山淳)

 小牟禮雄一「月光蝶 Ⅵ」。雑草が生えている中に魚が泳いでいる。そんな魚の姿が方形のボックスの中に映っている。植物を描きながら、すこしイラストふうな力で淡々とイメージの世界を表現する。(高山淳)

 渡辺香奈「錨」。背中を見せた髪の長い人間はどうも女性らしい。その下に横になった女性の背中がある。錨が浮遊し、薔薇の花がやはり浮かんでいる。バロック的な明暗の対比の中に激しい動きのあるコンポジションである。運動ということをテーマにしながら、その中にエネルギーが一つの絵画としてのかたちをなす。そんなイメージを追求してユニーク。とくに錨が浮いているという発想は斬新。(高山淳)

 星美加「追想」。床に裸足で立った三歳ぐらいの少女。ぬいぐるみを持っている。手前の丸いテーブルには牡丹の花が挿された花瓶。窓から斜光線が差し込んでいる。一つひとつの対象物を手で触るように描いていく。それによってしっとりとした材質感と空間の奥行が生まれる。とくに室内の柔らかな少女の姿が有機的で、周りの空間と対比させながら人間の温もりが鮮やかに浮かび上がってくる。(高山淳)

 福長弘志「ORADOUR」。墨を描いたものであるが、圧倒的な存在感を示す。タイトルのオラドゥールとはフランスのある街の名前で、そこでナチスがユダヤ人を全員虐殺したことで有名である。そんな虐殺の激しいイメージが、この墨のディテールによって暗喩的に表現される。墨のシリーズも長いが、現実に群像を描いてみるとどうなるのか。そんな絵も見てみたい気がする。(高山淳)

 株田昌彦「周回飛行」。ピサの斜塔のような円筒形の建物が傾いている。巨大な建物で、中に窓が見える。そんなものが二つ、位置を変えて描かれ、不思議なことに浮遊する船に白いクジラの置かれたフォルムが四つ。下方は海岸になって波が寄せている。荒唐無稽な空間であるが、現代という時代の危機を表す。科学文明の、あるいは人類の未来の崩壊の予感。そんな中に、船に乗せられたクジラがもう一つの命の系統を発信してくるということになるだろうか。(高山淳)

 今林明子「陽炎は揺らめいて」。花瓶に挿された花。そばに置かれた白い牡丹のような花。実物より何倍も大きく描かれて、それらが光の中にお互いにリンクしながら柔らかな力でハーモナイズする。静物が、ものというより空間を支配するような不思議な力を発揮する。(高山淳)

 鈴木良治「幸せな人」準会員優賞。金髪の子供が花柄の衣装をつけている。背後に風景が広がっている。頭から松のような木が伸びている。優れたデッサン力の持ち主で、対象のもつ心理的な姿を造形化する力がある。この作品は淡々とそこに色彩を加えた作品であるが、実に優れた感覚と同時に造形力をもつ作者の仕事である。(高山淳)

 柏木健佑「失敗」。中心に緑の計器のようなものがあって、そこから管が十数本伸びて、気球のようなものにつながっている。手前に黄色い衣装で体全体をくるみ、頭に額のようなものを綱で縛った人間がいる。この人間の内部を透視する機械なのだろうか。失敗というから、そのメカの実験を描いているわけだが、そんな謎めいたストーリー性のある画面を構成する独特の群像構成に注目。(高山淳)

 湯澤美麻「呼応」。大地が地平線まで広がっている。そこに水のあとが道のように続いている。中心には巨大な湖が見える。飛行機から見たような空間の広がりを、きわめて日本的な繊細なトーンの変化のなかに表現し、そこにフォルムを刻み込む。(高山淳)

 塩月悠「drip」準会員推挙。女性がワンピースを着て立っている。それを短時間で描いたかのようなスピーディなフォルム。そこにあらわれてくる一種霊的な力の表現力に注目。(高山淳)

 星川菜々美「少女とかたまり」。少女のような人形が指の上にのっている。しかし、よく見ると、人形ではなく実際の少女のようでもある。その中間領域の世界を表現することによって、強いインパクトが生まれる。(高山淳)

2室

 北村真「ガテーガテー」文部科学大臣賞。ガンジス川のそばを歩む大家族。夫婦や子供、あるいは兄弟。六人の群像で、カラスがそこに来ている。波が寄せてくる。ガテーガテーとは諸行無常といった意味や色即是空といった意味になるが、いま生きている姿を作者は活写する。活写しながら、激しい波が寄せてくるように、やがて襲いかかってくる運命の予感ともいうべきものも捉える。いずれにしても、それぞれの個性的な六人の人間を配置した強い群像表現である。現在というものが過去と未来のまさに中間にあるということが、作品から説得力をもって語りかけてくる。(高山淳)

 難波平人「グァテマラシティ」。画家の描いた中南米の街グァテマラのこの地域は下層社会で、犯罪がたくさんあって、中に踏み込むと恐ろしいことが起きるそうだ。そんな街を画面いっぱいに描く。画家は世界中の遺跡や危険なところにあえて赴いてきた。白い屋根や建物の壁が集積した様子。その白のハーモニーともいうべきものは不思議な雰囲気である。白の中にももちろん微妙なニュアンスが変化している。洗濯物も干されたりしているのも生活感がある。しかし、その壁の白や屋根の白のどこか晒されたような力には、独特のダイナミズムが感じられる。日本だと陰翳礼讃でわび、さびの世界、建物と自然とが同化するわけだが、ここにあらわれてくる建物はそんななれあいを拒否しながら、それぞれの個として立ち上がってくる。グァテマラの風土がこの集落によく感じられると思うのだが、どうだろうか。深読みに過ぎるかもしれないが、そういった街の容貌を描いて、エネルギッシュな力が画面から発信してくる。(高山淳)

 佐々木信平「京丸牡丹」。題名の京丸牡丹はこの絵の中をいくら探しても見つからない。ヤツデのような葉がオレンジ色に紅葉している。その大きな塊の中心に蔓が伸びて、小さな葉をつけている。その中心の奥深くには何が潜んでいるのだろうか。その植物の葉の集積した周りを激しく旋回する動きが感じられる。季節が移っていくなかに切ないイメージが表現される。(高山淳)

 山本貞「風のままに」。新緑の季節。緑が瑞々しい。そんな中に二人の少女がしゃぼん玉を吹いて遊んでいる。しゃぼん玉は大小、奥行、位置を変えながら浮かんでいる。明るい青い空。燦々と差し込む光の中に透明なしゃぼん玉が、まるで不思議な生き物のように動いていく。このしゃぼん玉があらわれることによって、風景にしぜんと時間というものが表現されているところが面白い。(高山淳)

 藪野健「プラドに立つと人々が語り始める」。中心に巨大な銅像があって、その後ろにある建物がプラド美術館なのだろうか。周りに大きなキャンバスが掛けられ、画家らしき人やフォーマルな衣装をつけた人々が立っている。両側には巨大な広葉樹が立ち、中景には高層ビルが並び、遠景には山がある。手前の銅像はヴェラスケスなのだろう。イーゼルに筆を持っている。空間の深いところがまず見どころなのだが、それは上方の空のもつヴァルール、その色彩の力によるものが大きいのではないか。上方の空の圧倒的な奥行と広がりが、この下方の建物の上に広がっているというように表現されているところが、この作品の造形上のポイントとなっていると思う。作者の水彩は実に見事なものだが、実はこの作品も接近してみると、あまり塗りこんだものではなく、一つひとつの色彩を丁寧に置きながら形をつくっている。それによって優れた発色があらわれている。また、近景の両側の褐色の建物も隠れた構図のアクセントとなっている。その中に、左下には巨大な果実の中に朱色が入れられていて、それもこの青や緑の落ち着いた広がりに対して不思議な輝きを見せる。作者の心境が進んできて、ひとつ前進といった感じなのだが、加えていうと、その朱色が左上方の窓の中の明かりのように入れられているのも面白く、実はそこは夜の時間帯で、昼と夜とがこの空間のなかに二つが併置されているように感じられる。空間のみならず、時間というものの奥行が表現され、それがプラドの、あるいはマドリッドの歴史をしぜんと引き寄せる。(高山淳)

 山本文彦「捧」。二人の若い女性が座っているが、一人は花を両手に持っている。後ろに二人の女性の顔ともう一人の女性の胸像。数えると五人の女性群像になっているのだが、右のほうにはギリシャのコレを思わせるような石像が人間化したかたちで置かれている。その二つのあいだの苔むした岩。岩の下方のほら穴。深い数千年の時間がそのほら穴にたゆたっているようだ。横顔を見せるリスがかわいい。歴史と自然というもののもつ神秘を画家は語ろうとする。そんな中で文明の曙ともいうべきギリシャのコレは、画家にとって理想的な女性像なのであるにちがいない。(高山淳)

 滝純一「聖山羊譚」。石でできた塔の上に山羊が立っている。背後には雲が激しく動いている。下方はブリューゲルの描くヨーロッパの風景のような雰囲気で、いわば山水が表現されている。面白いのは、山羊の後方手前のほうにカレイのような大きな魚が飛んでいることである。伝説的な物語を画家は語ろうとするがその序章のような雰囲気である。塔の中に正方形にくり抜かれた赤い色面の中の鳥のイメージも、強いドラマ性をはらむ。(高山淳)

 立見榮男「河童遠望」。日本昔話の中に出てくる妖精のような人間や羊などを面白く画面に配置して、日本の民話的世界を絵画として空間化する。絵巻物の一部のような面白さ。(高山淳)

 北久美子「微風…LA」。白孔雀が草原に座っている。首をすこし後ろにひねって羽を後方に伸ばして座っている姿は実に優雅である。とくにその白がまぶしいようなイノセントな魅力をつくりだす。周りにはピンクや紫や黄色い花が咲き誇っている。この孔雀の羽なのか、あるいは別の鳩のような鳥の羽なのだろうか、羽がまるで花のように落下している。その後ろには石などがあるが、月見草やピンクの小菊や黄色い小さな花が咲き乱れて、その向こうには瀬戸内のような海が広がっている。空には虹が立っている。画家のつくりだした空間はまるで巨大な子宮のような雰囲気で、全く充足している。そこに外部のものが侵入してくる余地はない。この空間に栄養を与えているのは作者のイメージの力と言ってよい。その力がどんどん進んで、画家のつくりだした人工の風景や花が自然以上に美しく咲き誇り輝いているかのように感じられる。背後のウルトラマリン系の空や海の広がりは、花とはまた違った不思議な奥行をもっている。その透明な厚い膜のような広がりのある空間と手前の初々しい植物の様子。そして、静かに佇む輝かしい白い孔雀。画家の吐息によって植物は静かに揺れるようだ。(高山淳)

 宮田翁輔「大地に生きる」。イギリスの丘。その中に煙突のある煉瓦作りの建物が中景に描かれている。農夫が一人作業している。羊がいる。点々と広がるビロードのような畑の緑の色彩。白い雲と地平線の広がり。画家独特の落ち着いたマットなマチエールで、この大地の息づかいまでも描こうとする。絨毯のようなしっとりとした緑の草原が魅力的に表現されている。(高山淳)

 松尾隆司「洞窟から 犀と馬のいる風景」。洞窟壁画に犀と馬がいて、それを背景にして四人の男女の群像である。ラスコーの壁画などは数万年前といわれているが、そういった人類の最初の頃につくった絵と現代の人間たちを組み合わせながら、人間のもつ永遠性ともいうべきものを表現する。(高山淳)

 市野英樹「寝る人」。横になる人。座る人。十字形のコンポジション。手触りで対象をつかむ。対象を描くというより、その生きている気配を表現しようとする。そこにあらわれたマチエールと色彩のもつトーンの深さが面白い。(高山淳)

 遠藤彰子「その時ゆくりなき雲」。「ゆくりなき」とは突然といった意味であるが、金色の雲がこの光景を覆って、そのあいだから建物や駅や階段などがのぞく。日本の都会の光景がのぞいて、たくさんの人々がそこにあらわれる。階段で演奏している若い人々もいる。金色の雲は桃山時代の洛中洛外図に使われた雲を彷彿とする。しかし、あそこには雲の手前にはフォルムは存在しなかったが、この絵の中では、雲の手前にたくさんの煙突をもったコンビナートのような建物や階段などがまるで巨大な船のように浮び上がり、そこに虹がかかっている。遠景にはまた様々な都市空間のかたちがあらわれる。都市全体を一つの絵画的な要素として、その全体を表現しようとする。そして、そこに時が移ろっていく様子をこのようなコンポジションの中に描く。穏やかでありながら力強い。鼓動するような時の刻む様子を、一つひとつ人間を描きながら表現する。穏やかな中に実に安息感があり、人々を癒すような空間が表現された。これまでの様々なドラマティックなテーマに比べると、ピースフルであるが、それだけまた深い内容をもっていると言えるかもしれない。(高山淳)

 秋山泉「刻の交差 Ⅲ」。下方の空間は三層になっている。そこに光が差し込み、水が流れ、樹木の一部のようなフォルムが波のようにあらわれている。上方は空で、強い波動が表現されている。カーヴしながら動いていくかたち。その中心には巨大な大日如来のような、月のような太陽とも思えるようなフォルムがあらわれている。筆者は最近の作者の作品を見ながら、相対性理論を思う。相対性理論の空間は高速で動いていく中に、その目撃者ともいうべきものが点々とそこに置かれているといったかたちになるわけだが、この光の動いていく中にそれぞれの証人がいて、その証人から見た光景を画面の中に統一したかのごときイメージがある。そして、中心に自然のもつ光の集まったその本体ともいうべきものがあらわれてくる。最近梶田隆章氏がニュートリノを観測しノーベル賞を受賞したわけだが、世界を構成する光や量子論的なイメージを作品から筆者は感じるのである。(高山淳)

3室

 朝倉雅子「オラトリオ鐘楼の響き」。雲の上に笠を頭の上に置いた日本の女性たちの踊っている群像が描かれている。その上方に天狗の顔とガンダーラ仏のような仏の顔。さらにその上方にはイタリアふうな、あるいはヨーロッパふうな人々の顔が浮かび上がってくる。いわば日本とアジア、ヨーロッパの様々な人々が集合しながらオラトリオを歌っているといった明るいコンポジションである。ブルーの空を背景にして雲の中の群像。それは、たとえばシルクロードの洞窟壁画を思わせるところもある。ユニークなイメージを表現できる画家のフォルムに対する優れた感覚を特筆しておく。(高山淳)

 吉野純「聖書物語・ヨセフの夢」。ヨセフはマリアに神の子が宿るという夢を見る。天使がヨセフにお告げに来ている。そんなフォルムをロマネスクふうな力強いフォルムの中に表現する。(高山淳)

 米津福祐「ユカイ・ライデン」。雷電為右衛門のシリーズである。がっちりと四つに組んだ雷電と相手の力士。黄色く彩られたフォルムが画面からはみ出るように描かれている。背後には青い空に雲が浮かぶ。この黄色いフォルムも天空の雲のような感覚で表現されている。イメージがコンポジションとしてより生きてきたようだ。(高山淳)

 高崎研一郎「海路」。作者はすこし体調を崩しておられたそうだが、回復されたと思われる。絵を見ると、そのことがよくわかる。海も空も青く澄んでいて、そこに白い鳥が飛んできている。海には白い船が二艘。それを背景にして赤い上衣をつけた女性が腕を組んで立っている。それに対して自転車に乗った人形のそばに座るもう一人の女性。薔薇の花が生けられている。青や赤、緑などの原色系の色彩が生き生きとハーモナイズする。透明なこの青や緑のもつ魅力。澄んだ秋の季節を思わせる。右のほうには、横になった男女や街角に立つ子供を連れたカップルや塔などの描きかけの絵が縦に積まれている。それぞれのフォルムと色彩が深い親和力をもって表現された絵画空間である。(高山淳)

 橘公俊「百日紅物語『愛猫が颪見つめて日和待つ』」。白い百日紅の木に雲のような花がつけられた不思議な形。その曲がったフォルムは巨大な雲のような花。それを後ろ姿の白い猫が眺めている。人生には何が起きるかわからない。まさに無明の世界、諸行無常であるが、そんな困難な中に合掌するような感謝の心持ち。しかし、颪は激しく吹いているようだ。作者の私小説的空間を絵画としてユニークに表現する。(高山淳)

 黒田冨紀子「Hula Girl」。三人の少女が踊っている。明るいダンス。そのそばの道には夫婦がシルエットとなって海へ向かって歩いている。手前には乳飲み子を抱く母親。少女と老齢の二人。そんな世代の異なる人間たちを画面に構成しながら、日本讃歌、家族讃歌といったイメージをうたいあげる。(高山淳)

 加野尚志「皐月・穏やかな日常」栗原賞。作品がずいぶん変わった。色彩がより顕著にあらわれてきた。籠に挿された牡丹のような花。赤と白のまだらや黄色と赤の花。縦長の三つの窓には百合が上方に咲き、海の向こうに島が見える。静かに花が咲いている様子がかぐわしい。穏やかな時間が流れていくなかに花にそれぞれの色彩が輝くのだが、それに対して窓の向こうのグレーの静かなモノトーンの世界が、まるで月明かりに照らされているように引き寄せられている。そのコントラストも面白い。(高山淳)

4室

 北誠一「人と風景」。モンゴル人を思わせるところがある。八人の男女がそんな衣装をつけて、立ったり座ったりしている。それに対して緑の布の掛けられたテーブルの上に座った金髪の女性の後ろ姿があやしい雰囲気。その対極には集落が描かれている。これまで作者の作品は室内のものが多かったが、壁が取り払われて風景があらわれた。それによって密度が拡散するところもあるだろう。逆にまた風景のもつ息づくような独特の呼吸が画面に引き寄せられた。テーブルに青い布がかけられている。そのテーブルは何を映そうとしているのだろうか。人と風景の序章といった強いイメージに注目。(高山淳)

 松葉口忠雄「祈りの修道院(賛美歌が聞える)」。カッパドキアを描いているのだろう。褐色に染められている。この岩の中に部屋がつくられ、壁画がつくられ、僧院となったり民家となったりしている。そんな風景が黄土系の色彩の中に表現され、穴が褐色に黒々と表現される。その明暗のコントラストの様子に強いイメージがあらわれる。このカッパドキアはいわば歴史というもののもつ不思議さ、それがまるでお化けのようにかたちをあらわしているという言い方もできるかもしれない。そんな強い幻想性の表現に注目した。(高山淳)

 神近昭「レ・イリュミナシオン」。円弧を描く丘のような空間の向こうから赤紫、青紫、エメラルドグリーン、黄色、オレンジなどの色彩が上方に立ち上がってくる。まるで地面の向こうで色彩の爆弾が炸裂しているかのような強いイメージである。澄んでピュアで絢爛なイメージが色彩と空間によって表現される。(高山淳)

 庄司剛「甦る大地」。砂漠の真ん中がブラックホールのようにあけられて、その手前からツクシのような植物が伸びている。巨大な太陽が黄色い同心円に描かれ、地平線に四つの遺跡が立つ。画家のつくりだした幻想的な砂漠の風景。その砂漠に穴をうがつという発想が面白いし、その穴の中に夜が引き寄せられ、夜の大気の中から新しい命があらわれるという独特の幻想感を、一種抽象的なコンポジションの中に表現する。(高山淳)

 上瀧泰嗣「過去よりのメッセージ」黒田賞。左のほうには複雑に絡み合った世界が描かれ、右のほうには、球に乗ったり倒立したりしながら、そのもやもやが解消された動きのあるフォルムが置かれている。その中心にひとがたの形が開かれて、中は赤く彩られ、小鳥や、花が咲いている。悩みが解消して新しい命があらわれたといった趣。全体のモノトーンの複雑な独特のコンポジションの中に、赤を背景にしたひとがたの中の花々といった構想が実にヴィヴィッドである。(高山淳)

 小柳吉次「悠」成井賞。水の中から樹木が立ち上がっている。葉が落ちた裸木である。しかも、幹や枝に穴がいくつもうがたれていて、不思議な印象である。その枝にまでわたるかたちが伸びていく様子は、実にあやしい。その前にカラスのような黒い鳥が飛んでいる。このボツボツ穴のあいた樹木は何かの住まいのようなイメージも漂う。水も樹木もグレーで、すこしベージュがかって、その中に青みがかった空間が広がっていく。葉という現象的なものが脱落する中に命の骨格がまるで骨のようにあらわれている。樹木を骨のようなかたちで捉えながら、そこには温かな命というものの予感、それを内側に包みこんだような不思議な気配が感じられる。いわばノスタルジックなそのようなイメージとこの家に帰っていくような黒い鳥のイメージが静かに響き合う。(高山淳)

5室

 中井喜美子「涅槃で待つ」。船の中には老若男女様々な人がいるが、いちばん大きな姿は不動明王のお姿である。近景にはたくさんの子供たちがいるが、それを守る鬼子母神のようなフォルム。そして、右のほうには鬼が叫びながら動き回っている。中心には横になって死を待つかのような老女の姿。「涅槃で待つ」という題名だが、死に瀕している人々もいるし、生まれたばかりの子供たちもいる。そういった人間の様々な姿を絵巻ふう、草紙ふうに表現している。絵巻だと数十メートルにわたってそのシーンが描かれているが、その絵巻の部分をこの一ヶ所に集めて表現したかのような、そんな空間のなかの時間性や人々の姿が面白い。(高山淳)

 八木茉莉子「ある日」。新郎新婦。和服に打ち掛け。金屛風に両親と思われる夫婦。カメラを持つ白髪の男性や女性。親戚の人が幼児を抱いている。和風の建物の大きな窓の向こうに樹木が茂っている。そんな日本の昔からの和風の宴会場の中にいる人間たちを、自由に大きさを変えながら描いて懐かしい。同時に、庶民のもつ活力ともいうべきものが画面に引き寄せられる。そのエネルギーが淡々としたコンポジションの中にあらわれているところが面白い。(高山淳)

 山形八郎「待春」。こんもりと茂ったこの植物は椿なのだろうか。緑の中に赤い花が点々と咲いている。周りは褐色の色面に影が映っている。破墨山水のように一挙にスピーディに仕上げたかのような雰囲気がある。それによって強い動きや気韻が生まれる。藪のようなこんもりとした椿の樹木の中に赤い花が咲いている様子が、不思議なリズムをつくる。(高山淳)

 松岡英明「寒鴉」。日が暮れかかっている。茫漠たる広がりのある大地。遠景には山が青くシルエットに見える。そこにカラスが幾羽も飛んでいる。見ていると、カラスと作者とのあいだの距離は近く、カラスの体温さえも感じることができるようだ。そういったカラスの表現がこの作品の面白さである。また、中心のこんもりと茂った樹木のまとまっている様子も、強いリアル感が感じられる。この風景の中を動きながらカラスと呼応しながら、深い心情を伝えてくるようだ。(高山淳)

 上田保隆「諸行無常」会員賞。作者は大病をしたあとにこの赤い背景の中のフクロウを描き始めたと記憶している。鑑賞者のほうを眺める大きなフクロウが画面の真ん中上方に描かれている。周りには位置を変え角度を変えた様々なフクロウがいて、その目玉が赤い空間の中からあらわれている。この赤は不動明王の背後に燃える赤のようなイメージ。「諸行無常」という題名だが、人間の業を焼き尽くすような炎のイメージ。そんな中に逆に安心立命のイメージを作者は探ろうとする。そんな繰り返される画家の跳躍の力によって画面が構成されるところが面白い。いわば作者のつくりだした私的な仏画の趣である。(高山淳)

 吉川花憂「生命の歓喜NO1」。巨大な樹木の前に立っている女神のような女性。長いラッパを持っている。巨大な葉が枝についている。その枝の左右に二つの花が咲いた樹木があるが、桜のようだ。背後の深いブルーの空間。樹木が優しくこの女性とリンクしながら語りかけてくる。優しい、人を癒すような空間があらわれる。(高山淳)

6室

 德永芳子「須弥山への道・レクイエム」。三枚のキャンバスを合わせた観音開きふうな構成になっている。ピンク、銀色などの色彩。画面全体から声明の音楽が聞こえてくるような様子。ほとんど抽象作品であり、視覚的であると同時に聴覚を刺激してくるような空間が表現されているところが面白い。(高山淳)

 岩永敬子「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ」。巨大な船の中にたくさんの人々がいる。大家族が何人も集まっている様子。そんな中に牛や豚や馬、子供たちなども集められて、空中を進んでいく。下方には近代化された都市の景観が見える。そんな都会化された空間の上に浮かぶこの船の中の像は、いわば現代の箱船といった趣で、素朴な大地との関係を失わない人々である。上方に翼を広げた鳥がいる。それが梟なのだろう。現代と相対する、むしろアゲインストにある自然と深い関係をもった人間たちの群像。それは家族とのつながりもそうだし、豚や牛との関係もそうだし、そんな人々の像が集合した大群像が、ハーフトーンのシルエットの中に生き生きと表現される。(高山淳)

 櫻田絢子「千年の土」。桜が満開である。千年ぐらいの樹齢をもつ桜が何本も集まって、画面全体にしだれ桜が描かれているといった様子。桜自体は不思議な木で、物質感がなく、その花が空中に浮かんでいる様子がきわめて霊的な雰囲気なのだが、それがこのように集合して画家のパッショネートな表現にかかると、一種異様な強い力を表すようだ。(高山淳)

7室

 佐藤幸代「残映」。コンピューター・グラフィックスの力を借りたような空間。両側に大きな窓が見える。描かれているのは室内であるが、その室内に雪をかぶった集落、宮殿などがあらわれる。雲のあいまに月が浮かんでいるが、地球のイメージと重なる。後ろに天球儀のような形があらわれている。まさに残映という言葉のようにイメージを残映的に画面の中にコラージュする。そのコラージュを重ねることによって、いわば風景のモンタージュのようなものがあらわれる。そこにあらわれてくる独特の気配。つまり、空と地上との関係が表現されているところが面白い。(高山淳)

 瀧本周造「Camino de Cielo」委員推挙。題名は風の道という意味になる。中心に画面の上下を突き抜けている黒い裸木が描かれている。その裸木の屈曲する形によって、この作品の画調が決まる。それに相応するように背後にシルエットの摩天楼が上方を突き抜けているが、曇りガラスをとおしてみているように翳っている。その近代的な建築に対して、古い中世の教会を思わせるような建物が下方にあって、それらのコントラストが面白い。風景の中にそのような入れ子状の謎を表現するコンポジション。(高山淳)

 松本邦夫「天馬の鐘が聞こえる」。ピンクのターバンのようなものを頭に置いて赤いスカートやストッキングをはいた女性が立っている。後ろに不思議な岬があらわれ、岬の向こうには紙でつくったようなフラットなシルエットの天馬に乗る人のいる鐘が見える。右のほうには海に一つの小さな島。まるで紙芝居のようにディテールがしっかりしていながら、遠近感を失ったようなイメージだけの空間があらわれる。それによって逆にシュールな気配があらわれる。ヨーロッパ的な造形というより、浮世絵的な空間のもつ面白さ。そのトリックによって、花が咲いたり、あるいは不思議な扉が現れたり、木馬が見えたり、旗の上に鳥がとまっていたり、世界の果てに存在する女性といったイメージがあらわれているところが面白い。(高山淳)

 塚本裕志「Summertime」会員賞。倉庫の前に立つタンクトップ姿の女性。その横に後ろ姿のもう一人のおかっぱ頭の女性があらわれる。空を見ると、夕刻。斜光線がこの光景を差して、シュールな気配が漂う。現実でありながら、無意識の世界に想像力の触手が届いているような空間。(高山淳)

 柏本龍太「jam」。エレキギター、ベース、サックス、ドラムの奏者をV字形に配置して強い動きをつくる。まさに音楽が鳴っているような臨場感がある。動いているかたちを画面の中に描く。そのドローイングの中に入っていくうちに、ドリッピングしたような絵具の動きもしぜんとあらわれたのだろう。運動するかたちというものの表現として優れているし、そのパンチのきいた造形力に注目。(高山淳)

 松田俊哉「門」。翼をもった龍が対になって柱の上に立っている。そのあいだに空気遠近法で濃淡の中に表現された山の風景が広がっている。水墨によって表現されたような風景に対して、ドローイングによってリアルに再現された不思議な想像上の二つの阿吽の龍ともいうべきフォルムが、ヴィヴィッドに鉛筆によって表現される。白黒の独特の空間をリアルに、あるいはたらしこみふうに表現する。(高山淳)

 伊藤光悦「蝦夷・神威」。海に突き出た岬を上方から描いている。ヘリコプターにでも乗って見たような映像。そのディテールがこの作品の魅力である。ああでもないこうでもないという高い位置から見たこの岬の形。その尾根の位置。そして、突端近くに白い灯台が見える。右のほうに影が差しているのは、雲の影か。あるいはヘリコプターの影か。ちらちらと光と影が動いていく中に、まるで竜骨のような岬のフォルムが浮かび上がる。(高山淳)

 北澤茂夫「白昼夢─再生─」宮本賞。仰向きの若い女性の顔のそばに色とりどりの花が置かれている。両手を上にあげた女性の上半身が浮かぶ。マジックによって死んだ人間が生き返ってきつつあるような、そんな物語性のある世界があらわれる。シンメトリックなコンポジションの中に一つひとつのディテールを丹念に積み重ねながら、独特の空間をつくる。ドイツロマン派のロマンティックな文学世界を思わせるような世界。女性の後ろにある宮殿のようなフォルムがパイプオルガンのようなイメージと重なる。(高山淳)

 中村智恵美「薔薇と百合のある静物」。サテンのような質感のある青い布がテーブルの上に置かれている。そこに林檎や大きな葉をもつ植物。白とピンクの百合の花。すこし柔らかなピンク色の薔薇の花などが置かれている。薔薇の花はテーブルの上にじかに置かれている部分とギリシャの女性たちの全身が軸となった高杯の上にも置かれている。それぞれのもののもつ存在感がしっかりと描かれている。固有色も同様である。柔らかな光がそこに差し込んでいる。目の前にある現実が、強い作者の視力と想像力によってその最もよきものが引き出されて構成される。それによって現実がそのままイリュージョンと化すような、そんな静物の空間があらわれる。(高山淳)

8室

 赤羽カオル「森のシンフォニー」。樹木が逆光の中に描かれ、その内部の空洞の部分から黄金色の光が入ってきている。右のほうにはピンクの花が咲いている様子。樹木と花と空をかなり装飾的に明暗のコントラストの中に表現する。幽玄という言葉を使いたくなるような美意識も感じられる。(高山淳)

 今井充俊「ときのすみか」。夫婦と思われる。あるいはカップルか。若い女性は横になって、男は俯きに、それが宙に浮いた雰囲気で画面に構成されている。後ろは矩形のブラックホールになって、そこに植物や円形の抽象的なフォルムなどが構成されて、独特の空間をつくる。代赭色の赤い色彩が強いイメージを表す。男と女の暮らす時間の謎のようなものが画面から立ち上がってくる。(高山淳)

 高取克次「ポケット  ラジオ」。モノトーンであるが、黒、白、グレーの配分がよく、色彩を使っている以上に色彩を感じるところがある。様々な目的を失って、それによっていわば夢のような世界があらわれる。のんびりした中にイメージが生きた世界。真ん中に広場があって、そこに人間のような犬が歩いている後ろには、女性たちが裸になって宙に浮いている。それを右のほうの中年の男がやはり空中から眺めている。手前にはポケットラジオを聴いている青年とすこし距離をおいた少女。あいだに犬人間がいたり象が顔を出していたりする。遠景には団地のようなマンションも見えるし、空に鳥が飛んでいる。不思議な光線が差し込んでいる。月の光がこの光景を照らしているよう。クリアであるけれども、目的を失った行為というものは人間の心のより深い部分の領域を表すようだ。そんな不思議な群像でもあり風景でもあるユニークな表現。(高山淳)

 日下部直起「夢の跡」委員推挙。一昔前のずっしりとしたミシンが重量感をもって描かれている。そこに西洋の鎧兜に楯を持った兵隊人形が座っている。上方には海岸があらわれて、岸壁に揚げられた廃船と入江とヨットのようなフォルム。ヨーロッパの古層には中世があって、中世の上にルネサンスや近代があり現代がある。そういった歴史を踏まえながら、作者の考えるヨーロッパの夢のような、まさに「つわものどもが夢の跡」と芭蕉が平泉で詠んだが、そんなイメージをしっかりとしたコンポジションの中に表現する。とくに下方のミシンの回転する把手や針のディテールなどのしっかりとしたフォルムが強い存在感を放つ。(高山淳)

 玉川信一「月を喰う空」。男が椅子に座っているそばに白い犬が現われて、頭を垂れて何か考えこんでいる。後ろに高速道路が伸びている。男は室内にいる。獣の皮をはいだようなものが吊り下げられていたり、コートが人間のようにぶら下がっている。倉庫を思わせるような構造のしっかりとした壁や柱。上方には満月が浮かんでいる。満月の前に滑空している男の姿。黒、銀の箔を焼いたような空の空間。エッジのきいたフォルムと陰影のコントラストのあるフォルム。作者はカラヴァッジオが好きだと聞いたことがある。カラヴァッジオのあの動的なバロックの力が画面の奥に存在しているように感じられる。現代の人間はみんな孤独である。むき出しになって存在しているような、そんなイメージの力。家の中にいても決してアットホームではなく、そこに様々な風景も現実も侵入してきて、部屋の中がまるで倉庫のような空間に変わるなかに、考えこんでいる男と同伴者の犬。雲の代わりにはりつけになったように空を滑空する人間の姿と巨大な白い月。見ていると、その満月がやがてブラックホールのように黒い円盤になるような、そんな思いに襲われる。(高山淳)

 井上護「黄の図」。三人の裸の女性。立っていたり、腰を曲げていたりするが、後ろの黄色い空間が独特である。そこに亀裂が走っているようにも見えるし、石を積んだようにも見えるし、影が人間の業のようなニュアンスを醸し出す。上方に、そんな影の中に鳥の姿が現われて、中心に向かって飛んでいる。内界のなかでうごめく像。パントマイムのようなかたちでしか表せないそのドラマ。この繊細な動きを見せる三人のフォルムは、画家の心の中であらわれては消え、進行していく心理的現実の表徴のように感じられる。すこし離れると、それが一種の山水のような表情を帯びる。心象風景の中にあらわれた山水とそこに生きる三人の女性。その女性の妖精的な不思議ななまなましい姿は、作者のイメージの生きている証拠と言ってよい。(高山淳)

 生駒泰充「月ホテル」。赤いホテルの壁が壊れて、そこに月がはまっている。その後ろに月らしき球体のフォルムが二つほど位置を異にして描かれていて、はるか向こうは山が霞んでいる。左側には屋根にロケットの置かれた不思議な建物があって、中に巨大な恐竜の子供のようなものが見える。庭には雑草が生えて、ぶちの犬が立っている。空を見ると満月が浮かんでいる。画家のつくりだした風景。ミステリーのカバーにでもなりそうな独特の幻想感。荒唐無稽なようで、それぞれと作者との関係は近いところにあって、荒唐無稽とも言えず、何か語りかけてくるものがある。実際、月も恐竜も犬も建物も画家のイメージのなかにあらわれてくる存在だから、ある意味で人間化されていると言ってもよいわけで、そんなイメージがこの茫漠たる大地の上に集められて、物語の幕開けのようなイメージを語りかけてくる。(高山淳)

 南口清二「あの風が聞こえる」。右下にテーブルを囲んだ老人と二人の少女。そのそばに旅をしている男のようなコート姿があらわれる。背後にはホテルを思わせるような建物と海がのぞく。そばには素朴なコテージのような建物。柔らかなグレーのトーンが霧のように画面にたちこめて、場面の違う空間を連結する。面白いのは、男と三人の群像のあいだに白いフォルムがあって、そこに矩形の窓があけられていること。その中はウルトラマリンのような色彩になっている。もう一つの壁の向こうの空間がそこにあらわれている。たとえばこの部屋の中の三人にしても旅をする男にしても、その空間を通して違った世界と連結されて、いわば旅のなかのイメージ。そんな中にこだましてくる、はっきりと言葉では捉えられないイメージが引き寄せられる。視覚というより、聴覚を刺激してくるような微妙で繊細でリアルな、なにか内的なイメージが表現されている。(高山淳)

 吉岡正人「満月の夜」。樹木のそばに立つ若い女性。イタリアのルネサンス時代のような衣装をつけている。そばに赤い壁をもつ建物。下方にドアがあって、すこしあけられている。犬が何かを静かに聴いている雰囲気。樹木の上に大きな月が昇ってきた。犬も木も女性も、この月に照らされている。月がこのような力を示すのは、やはり日本人だからだと思う。イタリアだと月の代わりにゴッドが、あるいはミューズが現われるだろう。月というものは日本では神仏習合の象徴として、時に仏の姿になるだろう。イタリアにそのような月が上がって、この風景を照らしているところが実に面白い。(高山淳)

 鬼澤和義「景」。建物のそばの道を男が歩いている。そばに階段がある。東京の誰もが知っているような街の一角。そのために固有名詞を失って普通名詞となっている街の様子。それを直線の集合によって表現して、静かに叙情空間が生まれる。その線には一つひとつの色彩が入っていて、音楽的なハーモナイズするような世界。音色やメロディがそこから流れてくるようだ。(高山淳)

 小川巧「フェイス」。イバラの冠をかぶったキリストの顔が画面いっぱいに描かれている。目と鼻、イバラ。イバラの一部は額に突き刺さっている。キリストは汗をかき泣いている。強い表現である。磔刑のキリスト。このキリストは死んでしまっているようにも思えずに、深い絶望のなかに描かれているようだ。そんなコンポジションをつくりだした画家の思想とその筆力に注目した。(高山淳)

 佐田尚穂「県境の南」。停留所にスーツケースをそばに置いた女性。周りの道や樹木がリアルに再現的に描かれている。写真とはまた違った印象で、時間というものがこの空間のなかにわだかまっているように表現されているところが面白いし、この作品の絵画性。(高山淳)

 塩谷亮「一の滝」。那智の滝を描いたもの。正面から落下する滝を描いている。水しぶきを上げる滝の様子が神々しい。その崖の形。手前の石。よほどこの滝に感動したものと思われる。那智の滝のもつあの気配や存在感というものは実に独特で、それに正面から挑戦した風景作品として、通常の風景とはまた異なった強い印象を受けた。(高山淳)

 木原正徳「野のかたち人のかたち《光を宿す》」。V字形に二人の女性が座っている姿。手前には植物が伸びている。植物のフォルムと女性のフォルムとが重なって描かれている。背後のブルーの空間のなかにジョンブリヤン系の女性の肌が輝く。ブルーは星や空の空間を思わせる。まるで野の草が星のように、女性の姿が花のように画面に表現される。そんなイメージを簡潔なデフォルメされたフォルムによってリズミカルにメロディアスに表現する。(高山淳)

 山崎進「風日の幻影」。二十人ぐらいの男女が室内にいる。外は青い空間で道が海岸沿いに伸びていて、そこに人々がいる。夏が過ぎて秋が立つころの季節なのだろうか。それぞれ思い思いの人間たちが生きているように表現されている。かつて紙芝居をたくさんの人々が見て、いまはアニメや動画になっているが、画家のつくりだした紙芝居的な不思議な物語性を含んだ空間が鑑賞者を引き寄せる。また、オレンジや赤の暖色系の色彩と青の寒色系の色彩、その中間の緑といった、色彩のもつ強い力もよく引き出されている。(高山淳)

9室

 川上久光「月光」。不思議な取り合わせ。画面いっぱいにカトレアのような花を大きく描いて、その後ろは流星が流れているような雰囲気だし、手前のツクシのような植物や葉を、それに勝らぬ大きさで描き、その横に右手を置いている。その手の様子を見ると、仏の手のようなイメージをもつ。背後は田圃で、山が黒ずんで遠景に見える。日本の自然に作者は接近して、そのよさをこんな構図にまとめてみた。仏教的な包容力のある世界を表現したように感じられる。ユニークなコンポジションである。(高山淳)

 田中宏治「Breeze in Water」。裸の女性が水の中で浮遊している。まるでウェディングドレスのような衣装がそこに掛かっている。ロマンティックな瞑想的な空間の中に浮遊する体が丸みを帯びて柔らかくリアルに表現される。そして、全体が夢のようなイメージになっているところが面白い。(高山淳)

 藤原護「Otonomie〈夢森〉」。グレーの模様のようなフォルムが広がっていると思って見ていると、そこには鳩やチューリップや馬やトンボ、カトレアのような花、小鳥、蝶などのフォルムがじわじわと見えてくる。そんな自然のディテールの中に入っていく人。自転車に乗った姿が画面の真ん中下方に描かれている。後ろに犬のようなものを背負っている。その前を歩いていくのは馬と思ったが、犬のようなものかもわからない。この人が探検して見聞きしたフォルムや声を画面の中にゆっくりと描いていく。そして、それによってしぜんとハーモナイズしてくるものがあらわれてくる。ユニークなコンポジションである。じっと見ていると、まさに散歩しているような気持ちになる。(高山淳)

 濵田尚吾「轍の唄」。北海道の昔の開拓の時代を思わせるところがある。レールが左右に伸びている。ずんぐりとした驢馬のような馬の背中から植物が生えている。下方の石ころのそばにも馬がいる。素朴な図像的な表現であるが、図像であるがゆえの強さがある。(高山淳)

 岡野彰夫「それは突然現れた」委員推挙。四年前の津波の時に福島原発が事故を起こし、いまだそれは収束していない。津波とか地震は日本人は慣れているが、原発の事故は実に突然、恐ろしい出来事としてあらわれた。そのイメージを海の向こうの原発のような建物が煙を上げているシーンで表現する。岸辺には平和な子供たちの姿。上方には歩きながら逃げていく人々。紫陽花の花や別のピンクの花などが周りに置かれ、落下する二羽の鳥。平和の中に突然あらわれた禍々しいものがじわじわと浸透してくる様子を表現したコンポジションである。(高山淳)

 六反田英一「夢鏡」。浮遊する金髪の少女や猫たち。フローリングの床にあぐらをかいた女の子が鏡を持っているが、その鏡によってその向こうの世界は透明になる。マジックミラー。そんなコンディションをリアルに再現的に表現する。一つの舞台のように描く。(高山淳)

 石田葉子「春風に吹かれて」。木蓮の花が咲いている様子が大きく描かれている。その向こうに若い母親が洗濯物を干そうとしているようだ。同じ女性が室内で何か作業をしている。蛇口から水が出て、オレンジ色のバケツに洗濯物が入れられている。そんな日常生活のなかのシーンを組み合わせながら、エレガントな動きをつくりだす。同時に、強い生活感情ともいうべきものが、画面の根底のリズムを支えている。デフォルメしたフォルムが生き生きとしている。(高山淳)

 都丸直子「ケムリが目にしみるぅ…」会員賞。七輪に炭を入れてサンマを焼いている。団扇であおいでいる女の子。後ろには庶民的な下町の木造の建物が続いている。昭和のイメージで、現実にこのような生活がいま日本でされているのだろうか。このイメージの強さは回想的な世界の強さかもしれない。ぐいぐいと描きこむ筆力と自由に変形したフォルムによって、ヴィヴィッドに表現された世界。(高山淳)

 田中定一「歳月」委員推挙。四つのカラフルな気球。二つは宙に浮かんでいるが、中心のものはいま飛び立とうとしている。右はいま火を燃やしながら、これからといった趣。気球に栃木という文字が見える。お祭り気分で、下方の積み藁のブロックも気球と呼応して楽しい雰囲気。それを背景にして、麦藁帽子をかぶった八十歳を超えたような老婆が乳母車に手を添えてこちらに歩いてくる。現代の繁栄をつくったのはこの女性たちの労働の結果なのだが、もう腰が曲がっている様子で、この乳母車に手を添えることによってかろうじて歩いている。しかし、それが悲惨なものではなく、それに感謝しながら全体で祝っているようなイメージが感じられる。また、この老婆のフォルムに見える歴史や歳月というものの重みもしぜんと感じられる。そんな地に足のついたユニークなコンポジション。(高山淳)

 松本善造「朝日村」。大地がオレンジ色に染まっている。空はあくまでも青く、黄色い雲が出ている。秋の季節の頃の朝日村の自然を描いたのだろう。その赤やオレンジの色彩が強いノスタルジックな心象を喚起する。しかも、水平に見ている視点が急に直角に下方を眺める視点に変化する。ヘリコプターの上から眺めているような視点の変化。それによって風景に独特の動きが生まれる。(高山淳)

 緒方俊明「望郷」。少年の顔が車輪の上に大きく描かれている。そばには少女の顔。緑の背景。故郷を思うという心持ちの表現であるが、構成力が優れている。また、青年の顔の表情に魅力がある。(高山淳)

10室

 小林千枝「仮眠」委員推挙。緑のソファに女性が横になっている。白いブラウスに花柄のスカート。周りのベージュの壁や床の色調。ハーフトーンの色彩が穏やかに響き合う。温もりのある空間のなかに白い花瓶に挿された花や果物が静かに輝く。(高山淳)

 渡辺記世「風想空華」。二つの旋回する動きが中心になって、周りにも同じようなフォルムがあらわれ、旋回は転移していく。そんな中に銀色の流木のようなフォルムがコラージュされたりして楽しい。ドリッピングしたような黒い線の動き。抽象的でありながら、ハートを感じさせるところがよく、有機的な空間があらわれている。また、独特の色彩家で、画面から感じられるオーラに惹かれる。(高山淳)

 佐々木秀樹「サイレン」。三角形の山や角度がワイドになったおむすびのような山。そんなあいだを道がカーヴしている。左の小高いところに拡声器が二つつけられている。ベージュの空に雲の影が動いていく。手前の水に一艘のボート。静寂でありながら、なにか危機感が感じられる。そんな静寂のなかの緊張感ともいうべきものを実にうまく表現する。画家のコンポジションとクリアなフォルムによる力である。やがて激しいサイレンが鳴り始めるにちがいない。危機が近づけば近づくほどより静寂感が深まるような、そんな空間のクオリティの表現である。(高山淳)

 井上展也「水辺の風景」。水のそばに樹木が立ち、草が伸び、池はそれらを映して空が見える。そんなコンディションをしっかりと描いて、奥行のある空間をつくる。(高山淳)

 向吉文男「牛を放つ」。この前の震災の時には馬や牛や生き物をそこから逃さなくてはいけなかったのだが、その時のことを描いているようだ。ヘルメットをかぶった男が棒を持っている後ろに二頭の牛が歩んでくる。時間は三時四十何分で、まさに東北、関東を襲った津波の時刻である。ぐいぐいと描きこんだ絵具の層の内側からコクのある色彩が輝く。独特のモニュメンタルな空間。(高山淳)

 八田喜美子「ヒムカ」。九州の弥生時代の吉野ヶ里遺跡をテーマにした作品を一貫して発表している。この作品もそういった中からイメージされた女神のような女性が画面の中心に立っている。縄文時代に続く弥生時代は日本の原点と言ってよい。左右の深い池や海。そして、左の空に一羽の白い鳥が飛んでいる。透明な色彩で、固有色というより、それがそのまま空間というもののもつ深さを表現するような色彩である。そんな中に堂々たる体躯をもつ金色の髪をした女性が立っている様子には、懐かしく神話性も感じられるのだが、威厳がしぜんと感じられる。(高山淳)

 平松春夫「環境(原生林)」。左側に大樹の幹があり、手前には朽ちて倒れた木が横たわる。その奥にも木々が見える。幹の周りには他の樹木が纏わり付いて一体化し、アメーバ様の緑の苔が生えている。原生林の静かな奥深くのところまで入っていき、それが出来るまでの時間の経過を感じて立っているような気持ちになる。(農頭美穂)

11室

 坂田芳孝「私は夢を見た・夏」。大きな二匹のナマズが上下している。下方に小さな魚が泳ぎ、トンボが飛んでいる。そばに蓮の花が開いたり、蕾がある。仏教的な彼岸と此岸の中間の世界。この赤い水はそのあいだを流れている川のようだ。このナマズにしても、かつて人間であったかもしれないといった、そんな気配が漂う。(高山淳)

 小松洋子「海月 ─Ⅱ」。大きなクラゲが泳いでいる。その後ろ側に大きな満月が金色の光を照らしている。その下方にはシンボリックな塔が聳えている。その塔の向こうに建物が円弧を描きながら遠景に向かう。また、塔の周りには紫色の花が咲いている。このクラゲは画家にとって魂の象徴のようだ。その魂の様子をいわば月を光背にして画面に描くことによって、深い安らぎや安息感、さらにいえば鎮魂のイメージを醸し出す。周りにはもっと小さな透明なクラゲが泳いでいる。海のかなたには極楽のような世界があるのかもしれない。あるいは下方の建物のように心のモニュマンのようなイメージもあらわれてくる。メロディーが聞こえてくるような空間が背後に広がっているのだが、それは海であると同時に空と一体化した世界と言ってよい。仏教の世界とキリスト教的な世界とが和合したような、独特の宗教空間のようなものが表現されている。(高山淳)

12室

 柴野純子「風の歌」。自分でつくった変形キャンバスの上に大きな百合の花。そして、下方には鍵。ペテロの持っている天国の鍵のようだ。あいだに小さな素朴な教会と中世音楽の楽譜。百合の花言葉は清純。罪を清めて、天国の門に向かう。天国の門は金持ちよりむしろ貧乏人のほうにあいていると聖書は言う。(高山淳)

 阿部達也「Water Gate」。東京の河川敷の風景だろうか。本流から分かれて分岐した水流に橋が架かり、行き止まりに水門がある。左側の岸には霞がかった街の様子が見える。灯りが建物に点きはじめた夕方の風景のようで、空と雲の表情の描写が優れている。無人の風景だが、郷愁を感じさせる現代の情景となっている。(農頭美穂)

 野中伊久枝「『好日』 2」。カバが気持ちよく水の中にいる。三頭のカバに斜光線が差し込む。波の揺らぎとカバのフォルムが生き生きと構成されている。(高山淳)

13室

 吉川和美「水のかたち」。ライオンが浮き彫りされた噴水。水が湧き出ている。周りは崩壊しつつあるようで、鋼材が落下している。ライオンのあるこの噴水はローマ時代のもののような感じ。画家はそんな噴水を繰り返し描いてきた。すべての現代文明が不安に満ちているが、そういったなかに水のもつ癒す力、聖性ともいうべきものを画面の中に引き寄せる。強いユニークなコンポジション。(高山淳)

 定森満「カカシのいる私風景」。ベニヤ板を組み合わせて作ったような片腕のカカシが中央に立っている。その後ろにはブロンズのような、大きな人面の像がある。左右にはこれもカカシなのか人体なのか、倒れ込んだり、地面に埋まって上半身だけ出ていたりする人型のものがある。これらは大きな色面によって、また太い縞を入れたりして描かれていて、地面に寝そべる莵と猫はブロックの組み合わせによる造形のようになっている。空には月が浮かび、この人間社会から離れたところにあるような風景を照らしている。カカシのような人型と動物には顔がないが、大きな人面像には目鼻立ちがあり、何か考え込んでいるように見えるのが印象的。(農頭美穂)

 原澤和彦「それでも明日はやってくる」。若い夫婦と二人の子供。車できょうは遠出してピクニック。その平和な若いファミリーの希望に燃えた雰囲気に対して、この戸外のテーブルのそばにいる男女は不倫でもしているようだ。水商売ふうな赤いハイヒールをはいた女はくわえタバコをしている。そばにズボンを脱いだ男が立って鞄を落とそうとしている。赤いネクタイにパンツ姿。これから性行為でも始まるのだろう。そんな男女にもニューファミリーにも、何が起きても明日はやってくる。明と暗の二つの出来事を画面に置いているところが面白い。そしていま桜が満開のようで、あいだに青い空が見える。季節は春。一種小説ふうな展開を生き生きと画面の中に構成する。(高山淳)

 阿部好江「追憶ノ窓」。座って立て膝をした女性。金髪に髪を染めて、グレーの衣装に黒いマフラー。お洒落な雰囲気。テーブルの上にはカップや花や植木鉢などが置かれている。白い猫がそうっと手前に歩んでくるそのかたちが面白い。大きくあけられた窓の向こうには建物や樹木が見える。自然体で描く。室内と室外を連結しながら、秋が深まってくる頃のイメージのようだ。グレーのトーンに独特の触覚があり、繊細なその色調には日本の自然のもつわび、さびともいうべきしっとりとした感触がある。独特の色彩家。(高山淳)

14室

 大久保真加子「夏のある日」準会員賞。庭園の中に木の柵による道があって、大小の猫が背中を見せて奥へと歩んでいく。母子の猫なのか、黒猫と縞猫の相棒なのか、小さい猫が安心して後ろについて行く様子が可愛らしい。柵には紅白のバラがほころび、蝶々が舞う。木々も夏の日差しを受け、誇らしげな枝振り。黄緑を基調とした厚い筆触で、全体があたたかいイメージとなっている。(農頭美穂)

 植松祥之「想」。痩せぎすの少女がノースリーブの黒いワンピースを纏い横たわっている。彼女は膝を抱えるポーズを取り、不信感を表したような、強い光を宿したまなざしを見せる。乱れた髪、荒く力強い筆致による皺だらけのシーツも彼女の心情に呼応しているようだ。背景は黄土色と黒の混沌としたイメージで、左上に半月を潰したようなものが浮かんでいる。胎盤の形のようにも見えるが、彼女の想いを具現化して表したものなのだろうか。(農頭美穂)

15室

 田口正子「早春譜 Ⅰ」会員推挙。樹木のあいだに家が見える。グレーの余韻のあるトーンと川の黒みがかったブルーの調子。陰影豊かな風景。トーンによってあらわれてくる空間の広がりが懐かしい。(高山淳)

 難波英子「フーガ Ⅱ」。紫と黄色は補色関係だが、それを大胆に画面に構成している。あいだにブルーが入れられ、無彩色のグレー、黒。額まで彩色化されて、その色面が広がっていく。上方にカレンダーと黒い地に五線譜があり、フーガの譜面が置かれている。朗々とした秋の一刻の心持ちのようなものが画面から感じられる。(高山淳)

16室

 上野明美「内なるひと(2)」会員推挙。黒い人間のフォルム。顔もお面のようだが、そばに三つのお面のようなものが浮遊している。そのお面は黒人彫刻にも通じるような強さがある。同時に、原始的なお面というより、むしろ能面にもつながるような幽玄な気配があらわれているところが面白い。(高山淳)

17室

 児玉一丈「春を待つ丘」。手前に雪が積もった原が描かれ、向こうに一本の道と街灯、民家が見える。その奥にはさらに木々が道をつくる丘がなだらかに広がり、やはり雪が積もっている。グレーのトーンによって雪が降り終わった後の静かな空がよく描写されている。その雲から光が漏れ始めていて、もうすぐ来る春への希望が込められている。(農頭美穂)

 岩澤誠一「日暮れの肖像 2015─4」。四角いコンクリートビルディングに挟まれた道路と夕方の空に黒く映る電柱と電線。そんな町中の夕暮れの風景の中に、女性の重複したポートレイトが表れている。ほとんど裸のような、布を巻いただけのようなドレスを着たポニーテールの女性が正面を向いてこちらを見据える。右手を首筋に添え、左手を腹に当てたポーズは、その視線に隠された彼女の恭しさを見せるようでもある。その肖像は色彩によって空と同化しているが、その上に歪んだ円形の集合体が抜き出しになった形で、カラーの肖像が重ねられている。同一の女性だが、こちらは手を組んで横を向き、物思いに耽るようなまなざしを下に落としている。この女性に接近するところからつくられたコンポジションがユニーク。(農頭美穂)

 伊藤浩二「ウイグルの老人」。ウイグルの民族衣装だろうか、丸帽を被って杖を持った男の老人が椅子に座っている。その大きく厚みのある手、無表情に近くしかし柔らかい雰囲気を見せるその顔は、彼の生きてきた歳月とその深みを感じさせる。背景は部屋の床と壁の境界線のみでシンプルにまとめられた作品だが、ベージュや黄土色の筆触による色面があたたかい。(農頭美穂)

 鈴記順子「私的アリス考」。百人を超える老若男女が左に向かって歩いていく。リュックを背負ったり、バッグを持ったり、何も持たない手ぶらの人もいる。中心に大きなウサギが座っていて、その見開かれた目の様子がミステリアスで暗示的。上方にチェス盤とチェスの駒があり、左にはコンビナートから出る煙、煙突、右のほうではコンビナートの向こうの火山が火を噴いている。煙がもうもうと立ち上がっている。何か危機的なものが迫っているようだ。その正体はわからないが、本能的に人々は逃げようと思い、歩いているといったイメージを感じる。ユニークな才能で、定かならないその不安感とも言うべきものを生き生きと造形化する。具体的な人間の姿によって表現するのだから、独特の才能だと思う。(高山淳)

 下斗米大作「イコン(白い鳥)」。黄金を貼った背景に木箱、その中に白い鳩と水が半分より少なく入ったコップ、オリーブの葉、釘が描かれる。切り出したような変型の板が支持体で、それがまた木枠に入った入れ子のような構造になっている。一本の釘は、イエスが大工の子であったことを思わせる。(農頭美穂)

 玉尾慶子「ぼくの記憶 Ⅱ」。白と赤のボタンが交互になったような面白い模様のジャケットに黄色いスカーフ、紺のズボンを履いた少年が中央に佇む。彼は少年でありながら、その沈黙に雰囲気のある表情を見せる。洋服の賑やかさとのコントラストが道化師のようで面白い。背後には壁、工場やガスタンクのようなものが見える。西欧の国の寂れた郊外のような趣がある。(農頭美穂)

 井上正「午後の眺望」。冬の季節だろうか。うねうねと起伏をもった大地がはるか向こうまで続いているが、雑草は枯れかかっているようだ。そして、こんもりとした遠景の丘に建物が集まっている。グレーのトーンの中の微妙な変化に深い味わいが感じられる。風景からしぜんと日本人なら誰もが感じられる季節の情感が感じられる。(高山淳)

 山家利治「人間図鑑2015─Ⅰ」。中心に案山子が両手を左右に広げていて、肩や麦藁帽子に雀がとまっている。周りは作者独特のロボットふうな人間たちで、みんな携帯を持っている。そして、案山子の周りでは逆さまになった人間たちが青い色彩で描かれて、ブラックホールのように下方に下りていく。現代の人間たちの行動を見ていると、まるで案山子のような、あるいはロボットのような、そんなふうに作者は感じているようだ。しかし、そうは言っても案山子は人間臭い様子で、周りのサイボーグのようなイメージよりはるかに人間臭い。その案山子が画面の中心に置かれているところも象徴的と言ってよいかもしれない。クールな中での不思議な情感ともいうべきものが画面から感じられる。(高山淳)

 清水節子「秋の日」。地面に腰を下ろした少年が棒を持っている。そばに黒い犬がいる。上方の窓はあけられて、子供を抱く母親。中東とか、あるいは中国の田舎、あるいは南米といった地域に住む人々だと思うが、その素朴なところで生きる人間の姿を生き生きと表現している。優れた筆力を感じる。(高山淳)

18室

 岩本敬子「気配 Ⅰ」準会員賞。水面の上にしなった木材が置かれ、その上に黒猫が座り、黒い振袖、紫のオーガンジーの布が掛けられている。後ろの白いコンクリートのブロックには赤い着物が、また画面上方からも黒と青緑の美しい打掛、ピンクと白のストライプの布が掛けられている。それぞれが非常にリアルな眼で描かれている。対して背景は厚い平塗りで「無」を表したような空間になっており、そこに分厚いマチエールで動きのあるかたちが挿入されているのが、粋な雰囲気を生む。(農頭美穂)

 水巻令子「断郷 Ⅰ」。金網に右手を触れて振り向いた少女。鑑賞者のほうを眺めているようだが、鑑賞者よりはるか後方に視線が向かっているようだ。金網の向こうには廃屋が見える。福島原発の事故によって、その周りに住んでいた人々は土地を引き払って、もうそこに戻ることはできない。金網はその境界線である。まさに郷里に帰ることを絶たれている状況である。そんなコンディションの中に、金網のそばに小学生ぐらいの少女を立たせた。少女のこの全身の姿によって、いわくいいがたい事故のあとの作者の心持ちを表現する。とくに振り向いた少女の顔が実に魅力的である。知的であるが、柔らかな感じで、感性と感情と認識力のようなものが渾然とした不思議な顔で、一種神々しいようなイメージさえも顔から漂ってくるようだ。顔というものは描くのがなかなか難しく、近代の造形理論では顔の表情などはおいてフォルムを追求するといわれているが、素朴に考えて、人間を描いて、その顔をどうするかということは大きな問題だろう。そういった顔に、あるいは体全体の表情に焦点を当てて徹底して描いているところが、この作品のよさだと思う。(高山淳)

 飯田則子「蟹がおやつであった頃」。大きな赤い蟹が背後に控えるなか、子供たちが遊んでいる。蟹の手足の間にも子供が遊び、下から甲羅を持ち上げようとしている子供たちもいる。笹のような葉が舞い、子供たちもそれを手に持って舞うように踊っている。笛を吹いて風を起こす者もいる。蟹の甲羅の桜紋も可愛らしい。題名もユニークで、童心を感じさせる作品になっている。(農頭美穂)

 辰巳明子「海辺の遺跡」。縄文時代の社会は自然と深く関係をもった時代で、約一万年続いたという。世界でもそのように続いた歴史をもつ国はない。それが日本人の精神の奥底をつくっているという。そんな縄文ふうな壺が二つ。ボックスの中には土偶のようなものが入れられている。後ろには人間の背骨。緑の草原の向こうに海が見える。力強い動きが画面に感じられる。どこどこの風景というより、うねるような力強いそのフォルムがお互いに呼応しているところが面白い。それに対して遠景の穏やかな海が対照される。(高山淳)

 石﨑道子「流星の使者 Ⅱ」。赤い帽子をかぶった女性の上半身。遠景には塔の見える宮殿と海。空には星が流れている。馬や長い笛を演奏する人。曲線を繰り返しながら、ほとんどベージュ系の色彩の中に優雅なメロディを表現する。(高山淳)

19室

 岸本凌幾「JAZZの刻」。ベース、サックス、ドラム、ピアノの演奏家たち。明暗の強いコントラストのなかに演奏家を構成する。光というものが生き生きと画面の中に取り入れられ、それが音楽を伴って発信してくるようだ。(高山淳)

 永井龍子「渚の詩 Ⅱ」。浜にサンダルやドア、レールのある器具などが置かれている。ボートも引き揚げられている。カラスが何羽も下りてたたずんでいる。黒い犬を連れた男が散歩する。海の向こうに富士が見える。マットなマチエールの中に強い気配が漂う。平和な穏やかな時間のなかに人間の歴史とか痕跡といったものの姿が浮かび上がってくるようだ。(高山淳)

 薗まゆみ「不思議の国」。烏天狗がテーマになっている。大天狗ではなく、烏天狗は庶民的で悪戯もののようだし、祭りが好きである。そんな烏天狗を大きく小さく描き、ボックスの中に花火を入れたりしながら、独特の日本の神道的な庶民的なヴァイタリズムともいうべきものを表現する。赤の扱いがうまい。(高山淳)

 コスゲカズコ「Voyage・いにしえの帰着 Ⅱ」。地面から不思議な山や胞子のような形をした紫や水色の植物が生え、百合のような大輪の花も咲いている。上から二本の大きな根のようなものが下りている。それは丸い芋状の塊の集合体だ。手前にはそんな不思議な惑星に着陸した宇宙船のようなものが描かれる。よく見ると宇宙船は向こうの丘の上にもあり、宙から続々と降ってきてもいる。下船してくる者たちはこの近未来的世界でどんな冒険を繰り広げるのか。イマジネーションをくすぐられる。(農頭美穂)

 竹内勝行「共生(Ⅰ)」。樹齢数百年といった樹木が枝を広げている。その様子はまるで巨大な蛇や恐竜のような趣である。その根は画面の近景まで数百メートル伸びているようだ。その根の上に野の花が咲いている。可憐な白い百合の花や紫のツユクサのような花々。その可憐な花はまさに日本の花と言ってよい。遠景に松のような樹木の伸びている様子も懐かしい。一本の巨大な樹木の幹や根を描き、その上にある世界、あるいは背後の空の世界を表現して、一種汎神論的な神仏習合的な世界を表現する。絵画のベースにある思想の力ともいうべきものが鑑賞者に訴えかけてくる。(高山淳)

20室

 峯村敏「帰路の情景」。左から買い物の紙袋を抱えた女性とバットを肩に担いだ少年が歩いてくる。右からは路面電車と犬がやって来る。二本の道はちょうど画面中央で合流するようになっていて、その三角のコーナーに下町的な焼鳥の酒場がある。パースペクティヴが歪められることで、昭和の郷愁ある情景がシュールな気配のなかに描かれる。(農頭美穂)

 大嶋美樹絵「兆し・2015」。俯瞰した構図。十字路に横断歩道があって、周りに人々がいる。紫色の雲が浮かんでいるのがあやしい。黄昏の頃のすこしノスタルジックな雰囲気も漂う。(高山淳)

 吉本満雄「私の街が暮れていく(ドスコイ母ちゃん)」。少年の後ろにそれを守るように母が両手を広げて立っている。少年の前には猫も同じようなポーズをしているのがほほえましい。背景は魚眼レンズで見たような建物群で、中心から旋回するように、あるいは曼陀羅状のコンポジションになっている。母と子の心のつながりを生き生きと表現する。(高山淳)

 片庭類「藤ロマン」。ドレスを着た少女とコーギーが藤の花の下に腰かけている。藤の花とドレスの装飾のマチエールが、画面全体を一層賑やかにしている。左下の二輪の赤い花にはどこか親密な雰囲気があって、少女と犬との関係を象徴しているようだ。(紺世邦章)

22室

 冨田儀孝「心象の景『倭』Ⅱ」。水墨でいえばたらしこみふうな色彩の表現になっている。左右に龍が立ち上がって、気を吐いている。周りの黄土や赤い色などの滲みに余情がある。また、大きな鷲が翼を広げているのも面白く、日本人の生み出した生き物をテーマにして、いわば和の奥にある気とか精神といったもののエネルギーを表現する。(高山淳)

23室

 山元明「北物語『最果ての晩歌』」。海岸にある原に木材が積まれ、また漂着した木材が堆積している。奥に見える船はまた新たな木材を運んで来たのか、それともやはり流れ着いて来たのか。木材の合間から生える細い草に少し雪が降り積もっていっている。向こうの岸も見えるが、ずっとそこに辿り着くことはないような気のする、そんな最果ての情景を描いた作品。枯れ野に灯る火の色があたたかい。(農頭美穂)

 渡辺愛子「アラウ Ⅰ」。古い木綿の布を継ぎ接ぎして洗濯する。その布と手のフォルムによって画面がつくられている。手の上には年配者らしいしわなども描きこまれ、布もそうである。そこにあらわれてくる過去の記憶のようなもの、いわば歴史というものがテーマになっているところが面白い。(高山淳)

 白石顕子「言葉が眠る日」。二十階近いような集合住宅が二つ並んでいる。一つには日が当たり、一つは陰っている。樹木を思わせるような植物的なフォルムが下方から這い上がってくる。面白いのは屋上で、そこに柵のようなものがつくられて、上が歩けるような雰囲気。ベージュや褐色の色調によって彩られた風景の中に、窓の部分などに緑の色彩が使われている。「眠る日」という言葉が使われているが、この風景を見ているうちに、ボンヤリとしてくるような不思議な雰囲気が漂う。現実というより、このかたちをとりながら、より無意識の世界にその触手を伸ばそうとしているかのように感じられる。マチエールや色彩に人を引きつけるものがある。不思議ななつかしさが漂う。造形として今後どのように展開していくのだろうか。(高山淳)

 川口智美「アマリリス・花時」会員推挙。アマリリスの花が輝かしくピンクに咲いている。背後はオレンジや緑の色彩。なにか官能的な世界が描かれている。花が単に花ではなく、太陽を思わせたり、周りの緑が月光を思わせたりするような、そんな寓意性もしぜんと感じられるところが面白い。(高山淳)

24室

 馬場洋「虚月」。クロスのかかったテーブルに着座した女性が双眼鏡を覗いている。彼女に語りかけるようなポーズのフリルブラウスの女性は実はマネキンで顔が無く、手も失われている。代わりに、右方にその手が浮かんで登場し、水色のドアノブのフックに手を伸ばしているようだ。手前に積まれた旅行鞄の中には赤ん坊ほどの大きさの球体関節人形の胴体が押し込められ、紐で縛られている。その横には洋梨が一つ置かれている。後ろの曇り空のグリーンの色調も、作品のアンニュイなイメージをよく表している。(農頭美穂)

 山本直司「深層へ」。キャンバスに描かれたDNA図が現実の空間に糸のように伸びてきていて、それを井戸の中に垂らす青年がいる。彼はガスマスクをして、口からは不気味な嘴状のものが生えている。その腕も左手先は骸骨の標本になっている。床面には緑の水が張り、青年の座る不思議な動物の骸骨からは奇妙な赤い果実と植物が覗き出る。脇の切り株には椰子の実から触手のようなものが生え出て、そこに針がささって血が流れている。DNAという生命のデータベースが明るみになると、人間には自由があるのだろうか。現代人の不安な深層心理が寓意的に表現されているようだ。(農頭美穂)

 桶田洋明「輪廻─願い─」。端正な大人びた顔立ちの少年が腰を掛け、右方を見据えている。その奥には青のワンピースの女性が目を開いて横になっている。彼らは地面の上やフェンスの間にいるようにも見えるが、不思議な空間構成となっている。その空間で自由に動くように、トカゲ、蝶、亀、魚たちが往来する。盛り上がった細かいカラフルな筆触で、幻想的な情景を描き出している。(農頭美穂)

 山田和宏「紙芝居第漆話かえすがえすも」。同一のポートレートが二つ並ぶ。どちらも目線のところに細い線が引かれ、瑞々しい少女の肖像でありながら匿名的になっている。片方は白シャツの制服に赤いしつらえの日本刀を持ち、もう一方はセーラー服にピストルを持っている。秋葉原のネオンの街頭に彼女たちが大きく浮かび、思春期の危険な心象が表現される。(農頭美穂)

 林隆一「夢」。真ん中にはピエロの服装をしたトナカイの像の頭部、白猫と、鳥頭の被り物を外そうとする男のいるボート。それを丸く囲むように学校の校舎が伸び、屋上で鼓笛隊が行進する。紙の切れ端を外へと飛ばす少女、赤帽で膝を抱える少年、梟など様々なモチーフが集められて、ダークでロマンティックな夢の世界を絵画化している。東西の古典など様々な言語を写した紙がコラージュされた画面も面白い。(農頭美穂)

25室

 三村紗瑛子「できもしない約束を」。地面の上にミニチュアの煙突が立ち、煙を出している。二つの建物の間から道が奥に伸び、そこに椅子が置かれている。その先には絨毯のような雲と空。ここは雲の上の世界なのだろうか。しかし地面の右下には波が打ち寄せ、晴天の空が映り込んでいる。黄色いスリッパや壁の小さな穴から伸びる梯子など、様々な意味を背負ったモチーフが空間の中に巧妙に配置されている。(農頭美穂)

 平薮健「ようこそ希望の島─B」。岩山に建物が密集して建ち、ひとつの生命的な力のある島と化している。下部は中国の地方にあるような、崖の側面に雑多なビルが集合して建つ風景となっている。上方では一本の高層ビルが天へと伸びている。そのビルからはジェットコースターのレールが伸び、観覧車も見える。岩山の至る所から滝が流れていて、生き生きとした楽しい島のように思える。一方で無人の静けさの不気味さもあり、題名がアイロニックに活きている。(農頭美穂)

 窪田正典「風に乗って」。二輪の花とアザミを持つ赤いワンピースの少女が振り向いていく様を追ったような、異時同図の手法で四つの人物像が描かれている。彼女の髪がなびく様子が、風が通る様を捉えている。両脇には白衣の少女が二人、祈るような横顔と板に体を乗せる正面の向きで描かれる。鳥が赤い果実をついばむ様子や蝶の舞う様子が挿入的に描かれている。左上にはモノクロームの花が歪んで伸びた形で空に浮かぶ。テンペラ風のマチエールで、彼女たちが神や自然に祈っている様子が演出されている。(農頭美穂)

 木下真示「終焉の地」。巨石で出来たテーブルのような、展望台のような建造物の上に白い獅子像が鎮座する。しかしその首は落ち、動脈に当たる部分から水が流れ出している。その水の筋の行く先に顔の部分が落ちていて、その開いた口に半裸の女性が自殺志願者のように頭を差し出している。他にもメリーゴーランドの馬や、どれも希望を失っているように見える人物たちがそこかしこに配置されている。絶望的なランドマークのような気配の作品。(農頭美穂)

 齋藤ナオ「世界の秘密はミツバチのスプーン」。二人のそっくりな姉妹が森の奥の魔方陣の上にダンスするように立っている。下からふわりと風が起こって、姉のペンダントにしているスプーンが浮かび上がる。その様子を妖精のように光って照らし出しているのが実はミツバチで、蜂の巣も見える。蜂蜜の味わいのような、甘美で可愛らしいイメージの作品。(農頭美穂)

 菅澤薫「眩暈」。バスタブの水の中にうつ伏せに入り、顔を半分出す若い娘。ロングヘアを眉上で揃えた彼女は魅力的な顔立ちだが、どこか神経質で物憂げな顔貌でもある。彼女のそうした内面を表すように水中の髪がうねり漂い、また身体を隠すような白い水中の布あるいは水流も、非常に大きなうねりを見せて身体の輪郭すら乱している。大胆な筆致によって不穏な気配を描く。(農頭美穂)

 佐古淳子「応答 Ⅰ」。二人の若い人物が、横に伏して眠っている。下の人物は頭を枕に乗せており、画面左端から転がってくる赤い玉を床の上に置いた手で止めている。上の人物はうつ伏せで、頭を反対に向け、白い紙に包まれてやはり深く眠っている。長方形のモチーフがその身体の上から画面中央、下部へと転落していくように描かれており、二人の間の隔たりを破って繫げるような役割を持っている。中央に置かれた少しだけ口の開いた箱も、思春期の青年たちの緊張とその緩和をはらんだ物語を感じさせるような、象徴的なイメージになっている。(農頭美穂)

26室

 唯井直美「約束の場所 Ⅱ」。コンクリートの倉庫の中のような空間に、セーラー服のおかっぱ髪の少女があぐらで座り、こちらを真っ直ぐに見据えている。彼女は赤いリードを持ち、首輪が落ちている。こちらに歩いてくる三毛猫のものだろうか。彼もその飼い主と同じような鋭い眼光をしている。床には傘が落ち、五つの穴が口を開けている。奥の小さな出入り口につながる通路には立ち入り禁止のマークが置かれている。天井は無く、月と曇り空が見え、そこからこちらへ学校机が足を向けて飛んでくるように描かれている。そのアニメーション的なタッチと他のリアルな表現のコントラストもあり、強い波動が引き寄せられる。(農頭美穂)

 菊池宮子「百年目の春」。庶民的な古い日本家屋。瓦は落ちて屋根は歪み、木材は朽ちている。しかし人はなお住んでいるのか、昔の思い出が出現しているのか、洗濯物が竿に干されている。庭先には二歳位のデニムのジャンパースカートに黄色い長靴姿の少女と、彼女が青いリードを引いて散歩に連れていこうとする小型犬がいて、どちらも実に可愛らしい。古い家と若い命の対照と共に、長年そこに住んできた人々の歴史も感じさせる。(農頭美穂)

27室

 谷繁淳子「寂雨」。しとしとと雨が降り続いたようだ。砂利道に、ほぼ川のように水が貯まっている。その水面に色とりどりの折り鶴が置かれている。羽を広げたり、横に倒れたりする姿は雛人形のように愛らしいが、同時に作者の祈る心持ちを感じさせる。銀色が水面の反射を表すのに使われいる。それがしっとりとした中にモダンな感覚を感じさせる。(農頭美穂)

28室

 仲村美代子「月の光 1」。月夜に緑の樹木がつくる道の真ん中に、母子像が描かれている。西洋風の人物で、母親はまとめ髪に深緑のふわりと広がるワンピースを着ており、彼女が手を取る娘はピンクのフリルがついた子供服を着て頭にリボンを付けて、一輪の紫の花を持っている。木の枝に留まるカラスは不吉でもあるが、手前に、そして左から顔を覗かせるように孔雀が登場している。素朴派ルソーの人物画を思わせる、神秘的であたたかな雰囲気が趣深い。(農頭美穂)

29室

 池谷真理子「平成の見ざる・言わざる・着飾る」。題名から示唆される通り、日光の三猿で有名な「見ざる、言わざる、聞かざる」を当世風にアレンジしたユニークな作品。「見ざる」はグリーンの太縁に金の飾りがあしらわれた流行のサングラスをして気取っている。「言わざる」はマスクで半分顔を隠している。若い女性の間ではマスクで鼻から下を隠すことで美人に見せようとする向きもあるようだが、両者とも最近街中でよく見かける姿であり、また自分の一部を隠すことでプライバシー社会を表しているようにも取れるのではないか。中央の「着飾る」はそれとは異なり、ファーのコートに派手なジュエリー、赤のブランドバッグを身につけて、自己顕示欲を存分に発揮してニカッと笑っている。現代社会の複雑な人間心理を三猿に描いて面白い。(農頭美穂)

 柏貴夫「予兆」。モノクロームで描かれた森林の中に、紅白の縞が鮮やかな魚が漂っている。中央部にはもう一枚のパネルが重ねて張られていて、そこには苔蒸した大木の幹がクローズアップして描かれ、二つの蛇口が幹に付く形で出ており、奥の空間にもさらに二つの蛇口が浮いている。蛇口からは一滴の水が垂れ出ている。互いに異世界の存在である樹木と魚を同一の空間の中に描くことで、謎を秘めた世界観を生み出している。(農頭美穂)

 小田島正恵「迷路日和」。コンクリートの壁で出来た迷路の一角がズームアップして描かれている。迷路の中には大きな白と黒の猫が丸まって座り、外から白茶の猫がしがみつく形で覗いている。迷路の中には白に紫のリボンのワンピースの少女たちが大勢いて、猫の大きなしっぽと戯れたり、お菓子を食べたり、思い思いの様子で冒険している。地面にはクローバーが絨毯のように敷き詰められている。構成が面白く、子供と猫の生き生きとした表現に惹かれる。(農頭美穂)

31室

 斉藤順子「箱舟〝終わりのない旅 Ⅱ”」。向こうに海の見える崖のある丘で、少女が二人、木で出来た箱舟の中にいる。青い服の少女は糸に人参と林檎をぶら下げて、跳ねていく莵に見せようとしている。山羊の頭のようなフードの付いた服を被った少女は、石板に描かれた地図のようなものを見ている。舟の前にはチューリップ柄の赤い服の少女が動物を抱いて座り、赤鼻をこすりながらこちらを見ている。他にもサーカスや遊園地のようなモチーフ、ピクニックをする人々、タンゴを踊る男女など、様々なイメージが絵本のようなタッチで背景に描かれる。彼らはこれから旅に出るのか、ここに到着したのか、それとも旅の途中の風景なのだろうか。多彩なモチーフを巧みに組み合わせて、続く物語を想像させる構成になっている。(農頭美穂)

 市村妙子「山脈」。遠くに山脈が見える丘の上で、白ブラウスの清純な少女が左腕を前方に伸ばしている。その先には黄色い薔薇の花が四輪、宙に浮いて舞っている。モノクロームの作品世界の中で薔薇が唯一色をもっていて、華やかさを添え、また希みの象徴のように思える。晴れ渡った昼間の風景だが、はらはらと雪のようなものが舞い降りてきている。鉛筆で非常に繊細に描かれた作品で、優れたデッサン力を見せている。(農頭美穂)

 堀佐和子「あたらしい暮らし Ⅰ」。白いシャツを着た老婆が、右手を頰に当て、その手首を左手で摑んでいる。そのポーズはどこか自分を無意識に守ろうとしているような、自衛の気持ちを感じさせる。そのまなざしにも憂いがあり、作品のダークブルーの色調もそういった雰囲気を演出している。「あたらしい暮らし」という題は希望を予期させるべきものであるが、この作品は新生活に纏わり付く彼女の不安を表しているのかもしれない。(農頭美穂)

 上原正治「遠い夢」。抑制された緑と黄金の色調が美しい。中央前には細く白い百合が花を付け、左に二本の樹が生えている。奥には白い壁に赤い屋根の西洋風の建物が集まる集落が見える。青い蝶が舞い、流れ星から黄金の粉が舞い降ってきている。手前に置かれたオイル瓶と絵筆は画家の化身だろうか。蝶がそこに留まり、優しく見守っているかのようだ。(農頭美穂)

 家村誠「秘密基地 Ⅰ」。大きな旧型のバスが中央に描かれる。やんちゃな子供たちの秘密基地になっているのだろう。手前には楕円形の輪郭をした少年が大きく歯を見せて笑う。周りを明るく照らすような笑顔である。その後ろには木の棒を大きく振りかぶってこちらにジャンプしてくる少年、バスの中にはラッパを空に向かって吹く少年がいる。白と茶を基調にした色彩は懐かしい。デフォルメした構成が強いムーヴマンをつくり出す。(農頭美穂)

 佐々木健美「コンビナート Ⅰ」。黒いVネックのTシャツ、深緑の革ジャンパーにデニム姿のハンサムな女性が、髪を束ねるように手を後ろに回して、右の方を真っ直ぐに見つめている。彼女のまなざしには潔さがあり、強い決意を見せているようだ。後ろに描かれたコンビナートが彼女のハードボイルドな雰囲気と合っている。左後ろの煙突から濛々と出る黒と白の煙は、彼女の生気や内面の鬱屈と呼応するようだ。(農頭美穂)

32室

 山本育子「春の雪─花見─」。大振りな桜の枝が満開の花をたたえ、その花吹雪が河へと落ちて、水の流れに渦模様をつくる。そんな春の情景を描いた河岸に、男女が寄り添って立っている。三島由紀夫の同題小説の主人公なのであろう。学生服の若い男が黄緑の着物の清楚な女性の肩に手を回す。彼女は目を閉じて、相手の胸にそっと手を置いている。花を散らす風に吹かれて彼女の髪がほつれて流れる様子が、清顕と聡子の悲恋の結末を予兆しているようだ。大きな運命に翻弄される若い男女の悲劇的な行く末を、桜と河の流れ、乱れる髪で象徴的に表している。(農頭美穂)

 丸川幸子「one day Ⅱ (白鳥の湖)」。オーケストラをモチーフにしてユニークな発想で描いている。ナイーヴアート的なイメージの表現。今回も、下方に赤い背景のオーケストラの演奏家たち。そして、後ろ姿の指揮者は四倍ほどの大きさで描き、上方に「白鳥の湖」を踊っているダンサーたちを、その中間ぐらいの大きさに表現した。イメージによってフォルムの大小を変化させながら、優雅な「白鳥の湖」の曲と踊りを構成して面白い。とくに上方の手を上にあげた踊り子たちの連続したフォルムがリズミカルで生き生きとしている。(高山淳)

〈彫刻室〉

 日野宏紀「訪れ」。葡萄を持つ若い女性がすっと立った様子。エレガントな動作で、右足を軸にして左足をすこし左に開いている。作者のつくりだした美というもののもつ表現である。(高山淳)

 小島弘「月夜」。ロマネスク彫刻に深く傾倒した作者の木彫。塔と思われるものは教会なのだろう。その上にフクロウのようなフォルムがあらわれ、満月がそこに置かれている。素朴でありながら、信仰と自然との深く親和した空間。(高山淳)

 遠藤幹彦「調べ」。フルートを女性が吹いている。すこし反ったフォルムがつくられているのだが、胸に向かって隆起したフォルムが腰でとまり、ゆるやかに足に流れていく。その雅びやかな動き。体全体のカーヴするかたちからメロディが聞こえてくるようだ。(高山淳)

 長谷川総一郎「ほこら 16」。樹木の幹を中を空洞にして開いている。黒く彩色されている。そこに男と女のトルソがコラージュされている。金に彩色されている。樹木に守られた男女の姿。いわば神道的な世界の中に人間が捉えられている。はるか昔、イザナギ、イザナミの時代にさかのぼるわけではないが、この樹木の内部のもつ不思議な霊的な力に守られた男女の像が崇高だし、輝かしいし、日本人にはわかりやすいものがある。あるいは、画家のつくりだした現代の男女の土偶と言ってもよいかもしれない。(高山淳)

 長谷川敏嗣「墜ちゆく予感」。宙吊りになった裸婦彫刻である。両手を上方に伸ばして宙に浮いている。スリリングな気配で、まさにその墜落感を生き生きと形象化する。(高山淳)

 恩田静子「宇宙曼荼羅」。クラゲのような三つのアクリルの透明なフォルム。その中に、金属の球体や黒で入れ墨のように描かれた人の顔や山水のようなもの、あるいは赤いエネルギーに満ちた波のようなもの、あるいは表面に緑や赤の透明なストロークによる色彩。三つがそれぞれ一つの空間になっている。宇宙曼荼羅というが、それぞれが作者のつくりだした須弥山のようなイメージと言ってよいかもしれない。オリジナルな楽しい不思議な生命体のような三つの空間。(高山淳)

 細野稔人「夏の終わり」。女性の胸像である。大きな二重まぶたの瞳と束ねられた髪。目を見開きながらしかし瞑想するような不思議なニュアンスをもつ女性像の表現。(高山淳)

 日原公大「雲を摑むような話より─蛙男或いは息を止めて遣らなければならないこと─」。裸の男が空中を飛翔している。大きな手がヴィヴィッドにつくられ、脚がすこし開かれて、足の形も面白い。いわば神話的な人間像を彫刻によって表現する。そのヴィジョンの力が生き生きと発信してくる。(高山淳)

 片瀬起一郎「森の響」。樹木が集まった上に埴輪のような顔が浮かんでいる。鳥を思わせるところがある。その前に、楽器を胸に持って上向きに横になった人間の姿。ロマネスク彫刻を思わせるような素朴な木彫である。樹木と人間と鳥とがお互いに響き合いながら、親和的な空間を表現する。(高山淳)

 梶滋「1/fゆらぎはα波に導くか」。カーヴするリングになった手すりのような彫刻である。触ることを前提として制作しているとあるので、たくさんの鑑賞者が触っているが、その微妙な木の質感とカーヴするかたちの揺らぎがしぜんと体にしみてくる。いかにも日本的な独特の触覚彫刻の面白さ。(高山淳)

第44回日本文人画府展

(10月20日〜10月28日/東京都美術館)

文/磯部靖

1室

 北村洋子「毀(南伊 クラコ)」日本文人画府大賞。イタリアにある廃墟の街をモチーフに描いている。地震によって崩れかけた台地の上に、いくつもの家屋が建っている。画面の中央には上へと昇る階段があるのだが、それもまた崩壊していて不安定な様子である。向かって左の方では大きな岩がいくつも散らばっていて、その揺れの激しさを物語っているようだ。画面の上方、建物の背後は明るいが、さらに上方は暗くなっている。それが人の住まなくなった街の寂しくも不穏な気配を作品に引き寄せているようだ。明暗をじっくりと描き出すことで画面に抑揚が生まれ、作品に見応えを作り出す。かつてあった地震の様子を鑑賞者にイメージさせながら、そこから生まれる深い心理的な奥行きに引き込まれるようだ。

 杉原阿都「風の記憶……花筏」準日本文人画府賞。画面の上方から桜が花弁をたくさん散らせ、下方に流れる川にそれらがたくさん浮かんでいる。静かにはらはらと散るその様子が繊細に描き出されている。その花びらたちがどこか旋回するような動きも見せ、作品を生き生きとしたものにしているところが特に印象深い。

2室

 中里典子「山気」。手前から奥、画面の下方から上方に向かって山の嶺が連なっていっている。上方の最も高い部分は綿密に描き込まれているが、その周囲は霧がかかったようにぼやかされている。それがこの山々の持つ神聖な気配を感じさせるようでおもしろい。ゆっくりと流れる時間もまたもう一つの動きを作品に作り出してもいる。

 畑佐祝融「泉声咽危石」。奥に隆起する険しい峰から、勢いよく滝が流れ落ちていっている。下方の滝壺には霧が濛々と立ち昇っている。その濃密な自然の様子が、強く鑑賞者を惹き付ける。コクのある濃墨によって山の姿を描き出しながら、ドラマチックな画面を作り出している。

 渡辺芙美恵「樹陰」。川を挟んだ向こう側に家屋が並び立っている。向かって右側には大きな樹木が枝葉を広げていて、視界を遮っている。その樹木のヴォリューム感が強い存在感を放っている。じっくりと描き込みながら、深い情感を作品に引き寄せている。

第42回創画展

(10月21日〜10月28日/東京都美術館)

文/高山淳・大澤景

1室

 藤田志朗「月になる花」。たくさんの色鮮やかな花が開き、舞い、ゆるやかに昇っていく。そこは雲の上、宇宙にちかい空のようだ。バックには大きな月がうっすらと点描で描かれ、花と溶け合い、それらは空に映る天体のようでもある。静かな祝祭のような、祈りのイメージである。(大澤景)

 津田一江「洋・驟雨」。ほの白いトーンを基調にした鳥瞰図。港のような構造物が画面下方から中程にかけて描かれている。中程には緑が広がり、その奥は海。光が空の雲間からさしている。そうした景色が、シンプルなフォルムで構成される。静寂なリズムの中に聖性を引き寄せる。(大澤景)

 植田一穂「待宵」。書を思わせる、一気呵成に描きだされたような花のかたち。神秘的なかたちと色彩は、グラフィティ・アートのような現代的なおもむきも醸すが、筆の扱い、滲みなど、日本画ならではの味がある。平面的なデフォルメされた表現ながら、この花がすっと立つ空間性が感じられる。(大澤景)

 柴田長俊「White cliffの月」。板をコラージュして構成される、崖と月の図。深いブルーの空間に、木目を絵肌に生かし描かれる、緑豊かな白い崖。円い月が、上空ではなく、その下に浮かぶ。これから昇るところだろうか。武骨とも言えるダイナミックな表現の中に、その構成の妙に、あっけらかんとした面白みを感じる。(大澤景)

 宮城真「彩雲」。北欧で作家が出会った景色だという。静かな昼どきの、遠くまで広がる原っぱ。ふわりと雲が広がり、白い陽の周りに虹色の彩雲がうっすらと現れる。決して派手ではないのだが、その静謐な一刻の壮大な安らぎのようなものが、やわらかな色彩で描きだされる。(大澤景)

 重政啓治「鍬か稲か」。画家は田の仕事にイメージをたくした抽象表現を多く描いているが、鍬か稲かと言われると具象的にも見える気がする。しかし考えると、結局のところこのかたちが何を表すのか、謎が残るのが面白い。太く大胆に引かれた黒い線はかすかな、華やかな色彩をひく。雷光が闇夜にひらめく場面を反転させたようでもある。潔いものを感じる。(大澤景)

 大沢拓也「rectangle」。題名は長方形の意。漆と箔による描写は、どこか古い工芸作品を思わせる力強い存在感を醸す。画中では矩形が連なり、やわらかなリズムが、譜面のように横長の画面に流れる。樹々のシルエットがそのなかにかたどられる。硬質な音楽を思わせる構成。(大澤景)

 加藤良造「山水境」創画会賞。躍動感をもって表現される岩山。奥の方には小さな滝が流れ落ち、小さな湖をつくる。それは澄んだ空や、前景の鮮やかな繁みと呼応する。そうして、画面全体で螺旋状の動きがあらわれている。深く、力強いパノラマである。(大澤景)

 藤井智美「そらみつ」創画会賞。ほの赤く色づいた、岩山のようなごつごつした山と、それが囲む湖。前景には秋の様々な草木が生い茂る。空から光がさしこんでいて爽やかである。上品な色感がそう思わせるのだろうか、何かジオラマのような、人工的な雰囲気があるのが面白い。そうした景色をいつくしむ、何か絵本の冒頭のような味のある画である。(大澤景)

 長澤耕平「夏草生イ繁ル」。銀箔を全面にほどこし、それを削ったり色を置いたりして草のかたちを作りだす。色とりどりの草の生い茂る様子はそう静かなものではなく、葉のひとつひとつが躍動するような、生き生きとした濃密なリズムがある。(大澤景)

 滝村彩子「浸透」奨励賞。ブルーを基調にした、淡いタッチの重なりで構成された図。不思議なフォルムは、水中の人体のようでもあり、太い木の枝のようでもあるし、細胞の連なる様子のようでもあり、波のゆらぎでもあるようで、つまり有機的な肉体、根源的な生命のように思える。(大澤景)

 松倉茂比古「沈黙の夕」。夜と昼の狭間のような、たらし込みで表現された闇、止まったような時空間の空に、円く白い月が浮かぶ。その下の丘には建物が並ぶが、途中から抽象的に構成されていく。そこに線描されうすく射し込む光。レクイエムのような、哀しみをはらんだ重厚な音楽を想起させる。コンポジションの力である。(大澤景)

 海老洋「波ヲ知ル」。絹本に薄塗りで描かれていて、波がゆるやかなリズムで連なる様は、山脈のようでもある。その上空を舞う二羽の蝶。そうしたフォルムが面白い。波の淵をよく見ていると、右上に並ぶアルファベットに通じるのだろうか、小さな字で、舞う蝶についての言葉が何か書いてある。その意味を考えようとしても、細かくは読み解けない。子どもがいたずらにうたった詩のようでもある。まさに何とも言えない、シュルレアリスティックな光景である。(大澤景)

 阿部千鶴「オルゴール」。公園の遊具、レースの織物といったモチーフが、ブルーを基調とした縦長の画面に構成される。地面に散らばる赤い果実、それで本を読むうちに寝てしまったのか、横たわる女の子。そうしたレイヤーが織り重なり、やさしいハーモニーが生まれている。(大澤景)

 目黒祥元「時の棲む」。厚紙のコラージュで表現されるマチエールは、有機的なリズムを感じさせる。描かれるのは、画家の作品に多くモチーフとしてあらわれる、卓上風景。白黒のモノクロームで表現されたものたちは、淡々と息づいているようでもあるし、哀しい表情も感じさせる。籠のなかの小鳥、植木鉢や建物、額縁のなかに映る街、時が止まった時計。あるいは、時が死んだのかもしれないし、異なる時が流れているのかもしれない。鎮魂の意が込められたような、力強い表現である。(大澤景)

2室

 加藤敬「天空世界」。厚塗りの、モノクロームを基調にした、幻想的な大地と空。地上には雲がたなびき、竹とんぼのようなものがゆっくりと回転する。宙には、白いTシャツのようなかたちが沢山浮き上がっている。それらは魂のようでもある。心の奥深いところに秘められた世界のようだ。強いイマジネーションを感じる。(大澤景)

 猪又智子「秋」。西洋の公園か、秋の草木の色にネオンサインのようなカラフルな色彩が挿され、細やかに織り成される。樹々はたなびき、ゆるやかに風が吹いているようである。奥には洋館。見ていると段々不思議で、電動車椅子に乗った人物や灯りが、樹々に対してとても小さい。あるいは木はとても大きいのかもしれない。それらがアンバランスななかに調和している。それが面白く、メルヘンの世界に迷い込んでしまうような味わいがある。(大澤景)

 河合幸子「愛しい日々」。二頭の牛がいる。その前に花を持った少女が立っている。メランコリックな、過ぎ去ったものを愛おしむようなおもむき。グレーと緑を基調に、ひとつのタペストリーのように後景が構成されていく。折々に挿れられた木目の模様や植物の様子の、細やかなディテールがそれを支えている。(大澤景)

3室

 長谷川誠「史跡」。岩の表現に通じる、岩絵具の粗い粒子を生かした描写。黄や茶の暖色の中に白い描線で描かれる遺跡の姿や山の様子。力強いビートの中に、着実な構成力と、史跡をいつくしむような落ち着いたおもむきも感じる。(大澤景)

4室

 加藤丈史「こころばへ」。ライトグレーを基調に、どこかアンビエント・ミュージックを思わせる安らかな海原。繊細にトーンをかえる、柔らかな海の表情と雲の様子。堅牢なマチエールをもって表現された、和やかで、じんわりと吸い込まれるような空間である。(大澤景)

 太田圭「夏を行く」。ぱあっとはじけるようなイメージ。大きなオーム貝とヒトデは、星を思わせる。それを中心に、散らばるヒトデや花。やわらかな躍動感がある。(大澤景)

5室

 白田誉主也「The blooming mountain」。中心に居るのは、沼に潜むワニだろうか。ワニは山に見立てられ、樹々が立っている。と思えば、その上には大きな花々が咲き開き蝶が舞い、左右にはまたワニのようなものがいる。いくつかのイメージが同時に重ねられている、不思議な祝祭的なシーンである。地上は光で、沼は闇であるようでもあり、そこに何か強烈なコントラストがあるのも面白い。(大澤景)

 蓬田阿哉「MARCH」。赤紫の、夢を思わせる夕暮れと闇のはざまのような空間に、虹のような色彩の大きな象の遊具、あるいは遊具のような象が、足を挙げて、まさに行進を始めようとしている。遠景では花火があがっている。そうした空間の広がりも面白く、哀切な雰囲気と、からりとした明るさが同居している。(大澤景)

 程塚敏明「Sky Cage」。幾何学的なフォルムのかごに飛行機がつり下げられている。和紙だろうか、支持体の表情を生かし、染めるように表現された空のトーンが澄んで心地よく、かごの鋼鉄のようすとコントラストをつくる。そこに雲をたなびく飛行機が、小さなシルエットをのこす。リリカルな余韻がある。(大澤景)

 村松詩絵「つながる場所」。ひそやかな夜の情景。森が連なり、背の高い木が連なり、家が一軒。子連れのカップルや、ペットを連れた人たちがその前を行き交う。湖面なのか、上の景色が下に鏡合わせに映る。木のかたちは根のようにも見え、それで下の方には円い月が浮ぶ。独特にデフォルメされた、人びとと樹々の営み。豊かな詩情と、あたたかなリズムがある。(大澤景)

6室

 青木明日香「明けゆく風」。何か通路のようなところ、風が闇を移ろわせる。そこに、光がさす壁のようなフォルム。樹影を映しているのかもしれない。夜がゆっくりと明けようとしているのか、生き物のように感じられる光と闇が、やんわりとせめぎ合う。そうした質感を感じさせる、深い味わいを持った闇である。(大澤景)

 近藤鋼一郎「夜の庭」。キャンバスのような目の粗い布に描かれている。そこに滲み込ますように色彩をほどこす。茶系の、土を思わせるあたたかなトーン。椅子にすわり、目をつむる女性。周りには植物が立ち並ぶ。箔で表現され静かに輝くワンピース。安らかな情感がある。(大澤景)

 石原孟「道」。グレーがかった、土色の肌のような色面。たての線の動きの中に、都市の路上を思わせる様々なモチーフが、コラージュするように配される。その中を疾走するような、勢いのこめられた表現である。(大澤景)

 喜多祥泰「猿たちの杜」。額そのものが表現となっていて、バックには模様のある布をコラージュした彩りがあり、下部には板。そしてメインとなる不思議なかたちの支持体が貼られる。抽象化されたジャングルのような空間に、黒い猿のような可愛らしい生きものたちがいる。心象風景的でもあり、実景のようでもある、そうしたどこか聖性を帯びたジャングルの様子が、やわらかな色彩の中に生き生きと描きだされている。(大澤景)

 佐藤豊「地上のかなしみ」。風の中、天に召されようとしている人を中心に、人びとが集まる。ある家族のようなつながりが感じられる。人のかたちが、面白い。たしかなかたちなのだが、魂の共鳴に惹かれ集まってきた霊体のような感じもある。ブルーやクリーム色といった色彩が上品にハーモナイズし、哀切な情感を醸す。(大澤景)

7室

 浅野均「春夜の記憶と幻想」。山が幾重にも続いて、はるか向こうに空と接しているあたりに三日月が出ている。空は暗い。夜のなかに月光に照らされた樹木が黄金色に光っている。右のほうには滝のような水の気配がある。画面のいちばん下辺に民家が墨によって描かれ、ぽつんと二つ、窓に光が灯っている。そこに向かって階段を上っていく人のシルエット。山のもつ気配が実によく表現されているところが面白い。それらをどうやって画面の中に表現するのか。もちろん一つの視点からだけでは描くことはできない。三百六十度眺めた光景と画家の胸中にあるイメージをどう画面に表現するのか。そういったチャレンジのなかにあらわれてきた作品。とくに下辺の樹木と建物のあたりのかたちは面白いと思う。(高山淳)

 烏頭尾精「南都」。南都とは奈良のことであるが、緑が瑞々しい。平凡と言うと語弊があるかもしれないが、淡々とこの緑に包まれた建物や道や並木を描いている。すこし俯瞰した構図になっているが、それぞれの緑、つまり樹木が生き生きと描かれている。魔術と言ってよいのではないか。微妙な陰影がそこにつくられているわけだが、青々として、しかも深沈とした気配。モダンなようで、長くここに存在するような、いってみれば長い歳月をけみしたような雰囲気が感じられる。道はグレーというのか独特の色合いのもので、二つの敷地のあいだを向こうに向かっている。興福寺のあたりの光景なのだろうか。手前にもっとベージュの道がすこしゆるやかに上下しながら、左右に動いていく。上方にはグレーの山らしきものが広がっていて、空はすこしピンクを帯びた色彩の雲が浮かんでいる。この奈良という街が存在していること自体が不思議といった趣である。空を飛ぶ鳥の姿を描いたり、鳥の目で風景を描いたりしてきた作者であるが、こんなかたちで淡々と客観的に対象を描きながら、それがそのまま深い心象風景となっていることに感心する。(高山淳)

 石本正「舞妓座像」(未完)遺作。石本正が亡くなった。未完と書いてあるから、絶作なのだろう。椅子に座った舞妓の姿を執拗に追っている。見ていると、ドローイングのような趣で、本画ではないようだ。着物の模様一つでも、繰り返しそこに形をつくっていく執拗な仕事のあとが残っている。顔もそうである。対象に迫るということの力が実に徹底していたことが、改めてこの絶作を見ながら感じられる。実に優れた画家であった。大往生とも言ってよい死を遂げられた。合掌。(高山淳)

 稗田一穗「微風」。犬を連れた洋装の女性。大きな帽子をかぶっている。白いワンピース。満月が出ている。下方には海が見え、白い船が三艘。岸には巨大な樹木が枝を広げている。月も枝も女性も船もお互いが響き合いながらこの風景をつくっている。いわば画家の詩心がつくりだした光景と言ってよい。すべてのものがイメージのなかで生きている。月光を受けて白く輝く船、あるいは白い衣装。月と深い関係のなかにあらわれてきた空間。(高山淳)

 滝沢具幸「月沼」。月が地平線近くに出ている。満月である。六時ぐらいだろうか。沼に月光が差し込み、水が輝いている。その中に、田舟というのか、舟の形がすこし現れてくる。周りの雑草の一種抽象的な緑の表現。お互いが連結しながら不思議な生命感をたたえている。水はここだけではなく、遠景にもぽつんぽつんと置かれているから、このような小さな沼がある光景なのだろう。作者は飯田に帰ってアトリエをつくったと聞いているが、飯田の風景が実に身近に作者のそばに存在するところからあらわれてくる風景と思われる。頭で描いたものではなく、全身的に引き寄せられた風景がとっぷりとした情感をたたえる。とくに銀というグレーの色彩が精妙に画面の中に扱われている。(高山淳)

 大森運夫「仲秋」。ロマネスク的なフォルムで表現された、畑仕事をする二人の女性。土色のバックには、すすきの穂が立ち並ぶ。一瞬の交感をする二人。女性の健康的な生命感やエロスが、その佇まいから力強く醸される。(大澤景)

 平山英樹「這う街」。岩が上方に立ち上っている。その岩の上辺や右肩あたりにまるで髪の毛のように雑草のようなものが生えている。下方に道が上り調子で伸びていくところに緑の葉を茂らせた樹木が一つ。その周りは緑一つない裸木のような雰囲気。裸木ではなく葉があっても、影になって黒々としている。そんな中にその緑の葉だけがあらわれている樹木は、イメージによるものだろうか。聖なるものの存在をそこに暗示する。その黒々とした山や道や建物は、紀元前からここに存在してくるような、そんなあやしい雰囲気であるが、その向こうに現代の近代的な建物が立ち並び、遠くに海が見える。向こうの時代と手前の時代とは異なりながら、二つは対峙される。不思議な風景があらわれた。(高山淳)

 松本祐子「月の宴」。丘に秋の草花、すすきが立ち並び、背後には大きな、下弦に近いふくらんだ月。箔で表現された空は光輝き、安らかなリズムを奏でる。女性らしいやわらかな表現の、確かな構成力による花鳥画である。(大澤景)

 渡辺章雄「風景」。すっ、すっ、と線が引かれ、色々な色彩と模様をもった矩形が形作られる。そんな、上空から街を見るような構成のうえに、やわらかなコンクリートのような、グレーの色面がかぶさっていく。そうした、ゆっくりとした動きを感じる。心象風景のさらに奥の、無意識下の景色のようなおもむきである。(大澤景)

 羽生輝「冬日(悠々釧路湿原)」。力強い厚塗りで表現された、釧路平原。陽は落ちようとしていて、雲や大地は深い階調をもった赤に染まっていて、どこか哀愁を醸す。シンプルな中に、たしかな肌触りと遥かな奥行きを感じさせる。(大澤景)

 片柳勁「穹」。ある種の天上の世界なのだろう。仏教的な祈りのイメージを、独特の形象を組合せ描く。エネルギーの動きをあらわすような螺旋状の構成が面白く、確かな世界観を感じる。(大澤景)

 三木登「春泥」。雪解けのあとなのだろう。春のやわらかな色彩を隙間無く置き連ね構成された野原。ほのかに草のようなかたちがあったり、ところどころの水面が空を映す。確かな構成力でやわらかなハーモニーを紡ぐ。(大澤景)

 池田知嘉子「千年の営」創画会賞。動物のようにも見える、深い色彩をもって激しい生命力を醸す樹木のフォルム。木の霊魂を抽象的に直接に表現したような力強さに注目した。(大澤景)

 北條正「風を待つ日々」。キックボードで駆ける少女と犬、鳥たちを中心に、様々な人びとの情景をシュルレアリスティックに構成する。ひとつひとつのフォルムがリズミカルである。どこか旧い映画のようなミステリアスさもある中に、少女の未来に思いを馳せるような、明るく生き生きとした感があり、爽やかである。(大澤景)

8室

 多賀竜一「日々」。クリーム色の空間は、広い大地のようである。黒い葉をもった樹々、緑青色の太陽、箔でかたどられた波紋のような線、面白くデフォルメされたモチーフが調和し、生き生きとしたビートを奏でる。(大澤景)

9室

 足立絵美「utopia soup」。神秘的でダークな世界観が、色彩豊かに、堅牢なマチエールに時に色面を盛り上げながら構成される。哀しいメルヘンである。にぎにぎしい中に、色彩のまとまりや、少年と少女のようなふたり、犬や木のかたちが面白く、力強い表現となっている。(大澤景)

11室

 竹田和子「Land×Sky」。抽象化された大地と山と空。赤と、さらされたような灰白色、青や緑のやわらかなトーンが、流れるように、溶け合うように構成される。やわらかなグルーヴが醸される。(大澤景)

 宮本聡「群~セレンゲティを往く~Ⅲ」。赤いサバンナ。バッファローやシマウマといった動物たちが、あっちを向いたり、こっちを向いたりしながら、荒っぽいマチエールの画面を埋める。パワフルな生命感が跋扈している。(大澤景)

12室

 西久松吉雄「淵の風景」。細やかに表現され、生き物のようにうごめく岩のフォルム、その表情が何とも言えず目をひく。輝くような色彩の水が岩間に流れる。それらがタペストリーのように、ある種の彼岸のような世界観を構成する。(大澤景)

 圡手朋英「初夏の池」。デフォルメされたフォルムによる構成。静謐な池に、魚影が見える。やわらかな風が吹いて芦がなびく。茶褐色のトーンの中に、すみれ色の花。落ち着く一景である。(大澤景)

 吉川弘「Kirat Sagar」。手前は、水面に降りる階段だろうか。水のひいた川面のような景色が、はるか奥まで続いている。そこにちりばめられた緑や黒い粒子はきっと地面の草や石なのだが、ひとつひとつがひとや生き物のようでもあり、不思議な遠近感を感じさせる。緑を基調とした清らかなトーンが聖性を引き寄せる。(大澤景)

 谷井俊英「海の路・残光」。暮れようとする空の赤色に染まる入江。風に揺らぐ樹々、和やかな田園。船が長く跡をひいて進む。たしかな構成力をもって描かれるダイナミズムの中に郷愁がある。(大澤景)

 奥村美佳「映」。低い山の麓に民家が見える。その前は竹林になっている。針葉樹が生えているそばに広葉樹が見える。柔らかな緑はまさに緑青のような色彩。うっすらと桜が咲いているような雰囲気。手前に大きな川でもあるのだろうか。あるいは湖か。深い静かな水のもつ様子が墨によって表現されている。そこに建物と杉のような木が逆さまに映っている。あやしい。心の中をのぞきこんであらわれてくるような世界。単なる上方の建物を映しているとは思えない。自分自身の姿を中に映して見入っているようなあやしさが感じられる。そんなあやしさは時には妖怪のような世界を呼ぶかもしれないが、おそらくこの作者の中にある深い詩心ともいうべきもののあらわれと思われる。竹の中に白骨化したような葉を落とした木が白くその枝を広げている様子なども面白い。そのように見ていくと、この一見淡々と描かれたような風景は、実はそのような小さなディテールをゆるがせにしないところから出来ていることがわかる。ディテールが全体にリンクしながら、一種の気韻ともいうべき力として画面にあらわれているところが面白い。作品を見ているうちに、この会の先達である山本丘人の世界のことがしきりに思われた。(高山淳)

 桝谷友子「進む」。内的な風景なのか、あるいは通り行く車窓からの景色なのだろうか。空の階調が心地いい。水墨と薄塗りによる、映画のワンシーンを思わせるようなパノラマである。夜明け前のような薄暗い中に、ノスタルジーを醸す。(大澤景)

13室

 齋藤文孝「風景との対話─滝─」。墨と胡粉による、モノクロームのダイナミックな表現。ごうごうと落ちる滝を前にした、心象風景的な空間。激しいタッチを繰り返し、内界のそうしたイメージを描き出す。一本一本の線が、すべて生きているような躍動感があり、それらがまた像を生むような面白さがある。(大澤景)

 梶岡百江「静かな日」。横の画面を活かした構成。やわらかな、静かな雰囲気のなかに、少しかたむいたような家。力強いフォルムに、深いトーンの色彩。暮れようとしている空のやわらかなグラデーション。雲がひとつ、すっと線をひく。幻想味のなかに、郷愁がさそわれる。(大澤景)

 雲丹亀利彦「昨日のつづき」。繊細に構成され、秋を思わせるあたたかな色面を織り成す厚いマチエール。ホルンやランプ、花立て、トランペット、机だろうか、線描で描かれ静物が並ぶ。静謐な中に、静かな躍動感が感じられる。(大澤景)

 宮いつき「Liberty」。本を読む女。隣では何か書きつける女。樹々や犬といったものが、線描され、華やかな色彩で構成される。映像的な、タペストリーのような面白みがある。(大澤景)

 武田州左「天光る」。青、赤、緑、黄、白、独特の虹を思わせる色彩の光の束が、天から螺旋状に降りてくる。奥で輝くのは太陽か。じつにパワフルで、根源的な生命感に満ちた表現である。(大澤景)

 小西通博「ランタナの咲く道辺」。緑色を基調にした色彩。その中に蝶やランタナ、さまざまな草。奥深い闇のなかに草のシルエットがある。雨の降ったあとなのか、靄の中のような、安らかな情景である。(大澤景)

 伴戸玲伊子「喪失と忘却のはざまに」。闇の中、奥に見える樹木から、こちらに向って抽象的に構成された空間。空虚ななかに、疾走するような力強いダイミズムがある。(大澤景)

 久世直幸「空」。青や緑、白といった色彩がうねり、幻想的ななかに、すこし切なさを感じさせる空が構成される。詩情に満ちた、豊かな色彩である。(大澤景)

 松谷千夏子「Breath─息」。二つの画面に分かれていて、上方は、ソファにもたれかかるような女性。下方は、横向けに寝そべる猫。二つのシーンである。あとは余白なのだが、不思議な余韻がある。線描で表現された女性のからだのかたち、髪の毛の動き、手や顔の表情が繊細で、やわらかな色香がかもされている。(大澤景)

 土方朋子「流るる」奨励賞。鳥たち、あるいはある魂のような黒いものたちが、跋扈している。群舞しているバックは雲の上のようでもあるし、大きな河のようなイメージもある。かすかに入れられた金泥が、空間に広がりを与えている。ダンスを踊るように描いているような豊かな躍動感が画面に満ちていて、独特の、力強いモノクロームの表現である。(大澤景)

14室

 井口広大「造られた景観」。美術館を思わせる、現代的な建築。奥には樹がそびえ、その後ろには丘。樹の周りはオブジェのようになっているのだろうか。画面全体で、遠近感の中に抽象的とも思える、幾何学的なパターンを構成しながら、有機的なつながりを感じさせる。静かなひと時である。不思議と、枯山水の石庭を見るようなおもむきもある。(大澤景)

16室

 小山大地「忘らるる日」。鳥瞰で描かれる、夕空のもと、長く影をひく家々と原っぱ。風が吹いて、樹々がうごめく。ファンタジックな感じなのだが、何か生々しい実体感がある。構成の力と色彩の深さ、フォルムの面白さがそうさせるのだろう。(大澤景)

18室

 加藤覚「夜景」。道路のようにも、あるいは河のようにも見える夜の景色。粗っぽい板を支持体に、灼いた箔で建物のフォルムをかたどる。色とりどりの色彩が、安らかな詩情を紡ぐ。動きの中で生まれた色彩が、細やかなかたちをつくり、様々な印象を見るものに与える。静かなダイナミズムである。(大澤景)

 斎藤優子「37億年ぶり」。紙を継ぎ合わせ、箱のようにして、線をつくり、フォルムをかたどる。大きな帯とふたりのひとのかたちが画面一杯にあらわれ、手を組みあわせ、頭をつけ合っている。古代の象形文字のような不思議なインパクトがあり、味わい深い。(大澤景)

 吉岡順一「夜のことば」。サーカスのテントなのだろうか。くじらがはみ出ていたり、ゾウが鼻を出したりしている。それらが置かれている塔のような建物は、窓の感じが面白く臨場感がある。秘められたようなユーモアと幻想味が、胡粉による堅牢なマチエールの中に表現される。(大澤景)

第66回一線美術会展

(10月21日〜10月28日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 髙橋克人「遠い風」。馬の埴輪を前に置いて、後ろの大地の上にも様々な埴輪が置かれている。笛やオカリナのようなものも見える。群馬は古墳が多く、埴輪で有名である。馬のそばには円形の装飾古墳の文様。郷里の風土をこのようなかたちで作者はうたいあげるようだ。そして、それを囲むベージュの大地とはるかなる山々。

 髙橋留三郎「見つめる」。前を向いた四人の老人。上半身裸である。病人のような雰囲気もある。画面の下辺からパイプが伸びて、先端が曲がっている。壁からまた先端の曲がったパイプが突き出ている。壁には少女や木から伸びる枝、あるいは左のほうには裸の女性の群像がのぞく。パイプの上で一羽の鳩が遠くを眺めている。老齢という時間のなかにあらわれてくるイメージを描いたのだろうか。若い孫のような少女がその老人の癒しのようにあらわれてくるのも面白いし、女たちが裸になってかたまっているものが落書きふうにあらわれているのも面白い。下方から伸びていくパイプの曲がった様子は、そこで切られて、切断された人生の終末をイメージするのだろうか。そんな中にあって、生きることとはつまりイメージをつくることであるというように、画家はこの壁の上に図像を描いていく。不思議な生気がそこにあらわれる。

 髙木八重子「彼方」。蓮の葉が伸びて、その合間に小さな花が咲いたあとのような趣。三日月が出て、勾玉のようなフォルムが動いていく。秋もたけて冬に近い頃の季節だろうか。雪も降ってくるような気配がある。日本の自然の中に深く入り込んで、その繊細な表情をうたうように画面に表現する。

 長島美勝「世尊の弟子たち」。三角構図の中に八つのお面をかぶった男たち。いちばん背後には仏らしい人がいて、光背を背負っている。世界中の人々が仲間のような、そんなイメージを一種ファンタジックな童話的な空間のなかに表現する。平面的に処理されたフォルムの中の、たとえば手などのディテールが生き生きと扱われているところも注目。

 橋本光「風跡─石切山脈─ '15」。山から石を切り出して、長い歴史があるのだろう。そういった様子を回想的に表現している。手前の三人のヘルメットをかぶった労働者。後ろには石の上に二十人近い人が立っていて、まるで記念写真のようだ。そんな石が前後しながら背後の山に続いていく。しっかりとした手触りのある強いコンポジションの中に、石切りとそこに関わる人々のいわばメモリアル・モニュマンと言ってよいコンポジションに注目した。

 藤森千重子「五月の窓」文部科学大臣賞。テーブルの上には壺や桃やサクランボ。後ろに二人の女性が、一人は座り、一人は立っている。グレーを中心とした中に柔らかな色彩が点じられて、ハーフトーンの色調がハーモナイズする。

 外川攻「望郷」。画家は墨田区に生まれ育った東京の下町の人である。この作品も墨田川をはさんだ街並みが描かれていると思うが、遠景は黒ずんで、塔があいだから立ち上り、右のほうはちらちらと輝いているような光が暗い色調の中にあらわれている。見ていると、手前の建物が墓のように思われる。昭和二十年三月の大空襲で下町の人がたくさん亡くなった。その前には関東大震災があった。そんな記憶が今年、敗戦後七十年のなかによみがえってくるようなあやしい気配が感じられる。上方は空が七割以上占めて、そこに影のようなものが大きく動いている。親子の魂のようなイメージで、それを巨大な鳥が守るように同伴して動いていくようなイメージも感じられる。

 大石久美江「温」。母と娘が寄り添っている。正面を向いた母の胸像。娘はその横顔を見せながら、すこし上向いて、なにか匂いをかいでいる。周りに十頭ぐらいの犬が集まって楽しくはしゃいでいる。その後ろが青い水の惑星。地球のイメージと重なっている。周りの赤い空間や暗い空間、夕焼けや夜の世界、そして昼の世界。作者はそんな身近なものをここに集めながら、いわば地球讃歌、母と子、あるいは犬も含めた家族に対する讃歌のコンポジションをつくった。円形の形が背後にいくつか組み合わされていて、それが豊かで複雑な動きをつくる。青い空に雲に水に光。そして、地上から空を飛ぶかのような犬の姿。母と子の衣装のオレンジと赤の色彩が温かく、大地的なイメージをつくりだす。

 近藤弘子「想」。蓮の葉に囲まれた三人の若い女性。瞑目して寄り添ったイメージ。それに蓮の大きな葉が同じように寄り添いながら語りかけてくる。

 河瀬陽子「マリオネット─66」東京都知事賞。マリオネットが肘掛け椅子の上に座っている。そばにダンサーと思われる女性が後ろ向きで横座りに座っている。そして、その向こうにたくさんの足があるのは、ダンサーたちのものだろう。マリオネットはこの手前に座る孤独な女性の伴侶のようだ。優しい表情をして、右手を前に差し伸べている。それに対して、なにか悩みのあるような女性の背中。下方にマリオネットの糸を操る十字形のフォルムがあるが、それは単に操るものではなく、十字のイメージもそこにあるのだろう。静かな中に若い女性の心の悩みを表現する。

 浅見正一「不揃いの静物(奏でる)」岩井賞。ドンゴロスを敷いたテーブルの上にガラスのようなものが置かれて、牛骨やトランペット、瓶、カンテラ、タマネギ、花托などが置かれている。上方から一枚の羽が下りてきている。南無妙法蓮華経といった文字も見える。しんしんとした夜の気配のなかに、祈りのようなイメージを静物を通して表現する。室内の空気が密度をもって重くこの静物の上にのしかかってくる。それに対抗するように、静物はよりその個的な力を発揮しながら深い力を発信してくるようだ。

 笠原久央「生命力(闘根)」。樹木の根が地下に下りている様子を生き生きと描く。ごろごろと石ころがあって、そのあいだを根が下方に下りていく。上方は樹木のある森のイメージを淡々と描いているが、その下方のこの根の様子が実にヴァイタルなものとして表現されている。

 冨稚阿紀「イキタココチB+ゼロ(ミエナイハシゴ)」。梯子の上にのっかった男の横顔。口から煙を吐いている。その梯子に上ろうとしている人。下方から植物のようにたくさんの手が伸びている。男の後頭部で自転車に乗る男。鬱屈して激しく発言したい心持ちを絵として表現すると、こんなかたちになるだろうか。はっきりとクリアな言葉で言えないけれども、生きていることから様々なイメージがわき、そのことを根源的に表現したところからあらわれたコンポジション。ディテールを失わないデフォルメされたフォルムが生き生きとしている。

2室

 山口まり子「まつりの唄が聞こえる」。着物姿の二人の女の子。そのそばの三人目の女の子は大きな狐の仮面をかぶっている。雪が降っていると思って見ていると、後ろになまはげが数十人、列をなしている。懐かしい東北の風習。きっと作者は子供の時に見た記憶をここに呼び戻して童話的にファンタジックに表現したのだろう。東北独特のメロディが聞こえてくるようだ。

 平野雅子「宙(どこへ)」。下方に五人の少女たちが集まっている。いちばん中心のすこし大きめの少女は両手の上に光る玉を持っている。後ろにはたくさんの蠟燭が灯されている。火炎がその周りを覆っている。深いレクイエムの表現である。津波で亡くなった人々に対する鎮魂の思いがつくりだした強いコンポジション。赤とピンクなどの色彩が実にそのような感情表現にふさわしく扱われている。

 小林弘子「旧い街」。ヨーロッパのラテン系の街のようだ。漆喰のような壁に窓がつけられていて、洗濯物なども干されている。懐かしい雰囲気。面白いのは、その前に電線が伸びて裸電球がぶら下がっているところ。グレーのアーチ状の窓の上には横文字のものがコラージュされている。シャンソンでも聞こえてきそうなコンポジションだし、色彩。

 小林博「残したい風景」一線美術委員賞。巨大な樹木の前に少年がいて、捕虫網を持っている。その向こう側には青年と女性のカップルが歩いていく。樹木の反対側には昭和を思わせるしもたや。猫が少年の後ろで眺めている。身近なものをモチーフとして懐かしい光景を描く。淡々と描いているが、フォルムは的確で、それによってお互いが呼応する。

 小川桂子「奏風」。枯葉が舞っている中に小人たちが現れた。笛を吹いたり、ラッパを吹いたり、トライアングルを鳴らしたりしている。その様子が実際にこの空間のなかに見えてきたように描かれているところがリアルで面白い。

3室

 佐藤芳江「深秋の卓上」会員推挙。テーブルの上に本が積まれたり、ハンドバッグや瓶が置かれている。壁に吊るされた新巻鮭。新巻鮭のフォルムや本のフォルムが面白い。一つひとつ確認しながら描いているうちにしぜんと形をなしたような強い力がある。

4室

 丸山幸男「遥─2015」。地面に腰を下ろした女性の背中。その向こうには男性たちの足が見える。あいだに裸の女たちが横たわっている。津波で亡くなった人々なのだろうか。あるいは、はるか昔、七十年前の敗戦のときの光景か。しみじみとした調子のなかに赤が深い感情を表す。

9室

 根岸富夫「映」。水が静かに流れている。手前にも、水の中にも、向こうの岸辺にも、大きな石がたくさん置かれている。山深い中を流れる水のようだ。秋がたけて草が黄金色になっている。斜面の雑木にもそのような気配がある。しかしまだ緑の葉が茂っている。石がグレーの独特のニュアンスをもつ色彩で塊として描かれて、それぞれのポジションに置かれている。石の形が面白く、作者はおそらく写生をもとにしながら、自分で庭をつくるかのごとき入念な様子で石を置いているかのように感じられるところが面白い。水は緑やグレーや茶褐色の色彩で、その周りを映して静かに流れている。しっかりとしたコンポジションの中に動かないものと動くものとの対照が鮮やかに表現される。

 紫藤康夫「田舎の風景」。近景には裸木が幾本もその枝を伸ばしている。黒い色彩でぐいぐいと描く。そのそばにはその黒い幹の上に松が葉を茂らせている。中景は田圃で、民家が点々と立つ。背景は山で、褐色に緑がかった色彩の低い山が左右に伸びている。コバルトの空。気韻生動といった言葉を彷彿とするような風景である。強いリズムのなかにそれぞれのフォルムが捉えられて、生き生きとした表情をつくる。

13室

 仲西豊「栄枯」委員推挙。地面の上に樹木が切り倒されて転がっている。それを描写すると、まるで山のようなものがそこにあらわれる。不思議なイリュージョンが表現される。

 久下りえ「6月の樹々」一線美術委員賞。パステルによって若葉が茂っている様子とそこに咲く可憐な白い花を描いて優しい表情を醸し出す。

第42回青枢展

(10月21日〜10月28日/東京都美術館)

文/磯部靖

1室

 滝澤照茂「日の出前」文部科学大臣賞。夜明け前の暗がりの中で、数人の男たちが網を引いている。高い波が押し寄せ、そこに足を入れることで激しい飛沫が生まれる。それらの強い臨場感が大きな魅力となっている。遠景では太陽が少しだけ顔を出しているが、そこに至るまでの海面の様子がコクのある豊かな表情を見せているのもまた見逃せない。

 此木三紅大「さかさま B」。四点出品のうち、掲出のものが最もおもしろいと思った。画題のように逆立ちするように逆さまになった猫を思わせる動物が大きく描かれている。赤あるいは黄の色彩で彩色しているが、その描写が強い躍動感を生み出している。直線を巧みに使った独特のデフォルメによってその動きをより強く表現しながら、あっけらかんとした明るく楽しいイメージを発信してくる。

 平岡祥子「風化する記憶」。サーカスのピエロを中心に画面が展開している。ピエロは右を向いて一輪車に乗っている。その先、画面の向かって右側には象の姿が見える。上方にはサーカス小屋の屋根があり、そこから仰向けに顔を出したもう一人のピエロの姿が見える。そして左側には少し間を空けてもう一つのパネルがある。そこにはサーカスを見る観客の姿がある。その間が、演者と観客の程よい距離感を表しているようで興味深い。画面に登場する人間や動物たちそれぞれの関係性が鑑賞者の好奇心を強く刺激する。

 斎藤敏文「碧い日のララバイ」。ふくよかなフォルムの裸婦が身体を曲げて眠っている。裸婦はカラスのような黒い鳥を抱いているようだ。画面全体は深い暗色と青の色彩で纏められていて、それが夜の静かな気配を作品に引き寄せている。緩やかにカーヴする裸婦のフォルムとカラスの鋭いそれが不思議と重なり合い、周囲の草木と共に、上方の満月へと収斂していくような動きを見せているところが特に見どころだと思う。

 森博美「曼荼羅夢想」。壁一面にたくさんのパネルを並べている。一枚一枚のパネルにはクラゲのような浮遊するものが色彩豊かに描かれている。暗色をバックにした色鮮やかなそれらが縦に六枚、横に九枚、計五十四枚並ぶことで、強い発信力を獲得している。生まれては消えていくような、儚い命のイメージもそこから感じられ、独特の曼荼羅的世界が展開されている。

 高谷優「どっちが本当?」青枢大賞。一組の男女が大きく描かれている。男性は女性に花束を渡しているが、その二人の背後には横になって倒れたようなポーズのもう一人の女性が描かれている。一人の男性と二人の女性。本当にこの男は手前の女性を選んでいるのか、そういった恋愛劇の様である。いずれにせよ、どこかノンシャランとした雰囲気が画面全体にあって、楽しく見ることのできる作品である。そういったドラマが花束を中心に展開しているような画面構成もまた見どころである。

 米谷和明「宇宙かぼちゃの静物」。白いシーツの敷かれた台の上にトマトやカボチャ、建物や人物のフィギュア、すり鉢などが置かれている。それを向こう側から顔を覗かせた若い女性が愛でているようだ。背後はコンクリートの壁になっているが、そこに惑星と左上に地球を思わせる星が浮き上がるように描かれている。現実とイメージ世界を行き来するような世界観がこの画家らしいおもしろさを生み出している。清潔感のあるクリアな描写によって、そういったイメージがより強く伝わってくる。

 田中ゆみ「風の詩」。横長の画面を二つ繫げて画面を構成している。青みがかった暗色が画面の左右に広がるように施されていて、その周囲に街の風景が輝くような灰白色で描かれている。画面には線や点、あるいはコラージュによって様々なアクセントが付けられている。それらが田中作品特有の心地よいメロディをそこに吹く風と共にこちら側に運んでくるようだ。夜から朝、朝から昼、そしてまた夜へと変化していく時間の流れが、そういった豊かなイメージによって表現されているところもまたおもしろい。

2室

 丹羽良勝「遊気景 Ⅲ」。明るい白の画面の中で、浮かび上がるように、また消えゆくようにイメージが展開している。裸婦のフォルムを思わせるものがいくつか描かれているが、どこか幻想感漂うところが印象的である。しっとりとした情感もまた感じられる。

 山口マオ「檸檬の月」。擬人化した猫が画面の中央で立って右手を挙げている。周囲は夜で、夜空には魚や鳥などの姿が浮かんでいる。月は画題にあるようにレモンの形状に欠けている。見ていて楽しい作品である。幻想的な世界の中で、どこか童話の世界観のようなイメージが楽しく展開している。

 深沢紅爐「想“ロードス”」。望遠鏡を覗いたような円の中に砦がいくつか見える。それは転写するように描かれていて、どこか心象的な要素を孕んでいるところが興味深い。三つの円があってそれぞれに砦を含めた風景が見える。かつて戦場であった場所に想いを馳せるような想いを重ね合わせながら、それぞれの風景で展開するドラマが鑑賞者のイメージを刺激する。

 高田恵美子「暮秋 Ⅱ」。繊細に色彩を重ねながら、軽やかで奥行きのある画面を描き出している。灰白色をうまく扱い、移ろいゆく季節とその風景を、強い心象性を孕みながら表現しているようだ。冬が近づき、秋の色彩が冬の色彩へと染められていくように、静かに変化していくような画面が強く印象に残った。

6室

 小松嘉門「過ぎゆく時」。版画の作品であるが、実に細やかに大きく枝葉を広げる様子を描き出している。それが深い影を作り出し、確かな見応えを作り出している。迫力のある画面が鑑賞者の足を止める。

第54回現水展

(10月21日〜10月28日/東京都美術館)

文/高山淳・磯部靖

1室

 田原凰光「伊勢の御神木」文部科学大臣賞。長い年月を経た樹木を下から見上げるような構図で描いている。樹木の幹のうねるような表情が、強い動きを作品に作り出している。上方の枝葉はどちらかと言えば繊細に表現されている。そういった一つの画面の中での印象の対比が、強い見応えを作り出している。(磯部靖)

 根岸嘉一郎「霧玄・兆」。画面の中で広がり、また収斂していくような動きが、独特の気配を作り出している。画面の下方では沸き立つような動きが見える。その部分は白く明るく、上方の動きとはまた異なった動きがある。それらが一つの画面の中で相互に関係し合いながら、鑑賞者を作品に誘い込むような魅力を放っている。特に上方の動きは、羽根を広げて飛び立とうとする鳳凰を思わせるようなイメージも喚起させ、どこか天上的で神聖な世界観を引き寄せてもいるようだ。いずれにせよ、確かな絵画的センスによって描き出された作品と言ってよいだろう。(磯部靖)

 紅梅美峰「氣」。余分なものを削ぎ落としながら繊細に画面を描き出している。向かって左側には空気の流れのような動きが渦を巻きながら描き出されている。右側には何もない。その余白による独特の間というか空間が実に効果的で、鑑賞後に深い余韻を残す。(磯部靖)

 北村珠恵「旅にひろう」。画面の下方手前に大きな湖面が見える。その向こうには山が連なっていて、さらにその背後に雪の被った高い峰が見える。手前から高い峰までかなりの距離があるが、それに至るまでの空気に透明で清々しい魅力がある。画面の中央の部分が最も深い濃墨で描かれていて、上下は明るい。そういったやわらかな抑揚の付け方がまた魅力だと思う。素朴に、この風景に対する画家の好感がしっとりと伝わってくる作品である。(磯部靖)

 高橋英男「散核  死角  魔留」。矩形あるいは円によって作品に独特のリズムを作りながら、画面を構成している。福島の原発問題を想起させる作品であるが、高橋作品特有の幻想感が強い魅力を作り出している。どこか抽象性を孕んだような画面が、そういったイメージをしっかりと訴えかけてくるようだ。(磯部靖)

 日下部宏義「霧韻」東京都知事賞。細い幹の樹木が立ち並ぶ雑木林に霧がかかっている。霧によって樹木のフォルムはやわらかくぼやけているようだ。どこか異世界へと誘うようなミステリアスな雰囲気が特に印象に残る作品である。(磯部靖)

 松尾恵生「カトマンズ  それから…」。収穫したものを大きな束にして背負う女性を描いている。女性は右手前に向かって歩いてきている。日々の仕事を淡々とこなすその様子が印象的である。左奥には赤子を背負う子供の姿も見える。人間としての素朴な生活の営みとその日常が、丹念に、誠実に描き出されているのがこの作品の大きな見どころの一つと言ってよいだろう。(磯部靖)

 小村欣也「陶酔境」。画面の上方に連なるように咲く花が繊細に描かれている。下方には幹が繫がっていて、その左右は余白になっている。淡々と美というものを描きながら、そのどこか艶やかな魅力を放っているところが特に印象に残った。(磯部靖)

 川端豊次「峡谷」。両側を高く険しい岩壁に挟まれた渓谷を正面から描いている。下方には川が流れ、上方では細い橋が渡っている。ドラマチックな構図の中にスリリングな気配が生まれ、鑑賞者を強く作品へと惹き付ける。(磯部靖)

2室

 塚田喜久枝「人中」。横断歩道を大きく描き、そこでたくさんの人々が行き交っている。そのそれぞれの様子が丹念に描かれていておもしろい。都会の中のどこか劇場的な様子が、豊かなイメージと描写力でしっかりと表現されていて注目した。(磯部靖)

 関田佳秀「つどい」。三角形の構図になってたくさんの植物が集約されて描かれている。それがある種の密度を作り出している。直線と曲線、円をテンポよく扱って、それをやわらかに描き出しているところが特に見どころの作品である。(磯部靖)

 鈴木昇岳「異迷時・界限」。強い心象性を孕んだ作品である。時間の流れ、季節の移ろい、そこで生活する人々の様々な感情や日常が、濾過・抽出されて浮かび上がってきたようなイメージを感じさせる。特に右上方から流れ落ちるものが、現代社会における痛みの象徴のようで特に興味深く思った。(磯部靖)

 吉田綾子「知識の海へ」上野の森美術館賞。画面の右下に座っている若い男性が本を手にしている。画面の左上方ではリュウグウノツカイがその長いフォルムを揺らしながら泳いで行っている。膨大な知識を海に例え、そこに泳ぐリュウグウノツカイが、どこか先人の賢者のような存在感を持っているところがおもしろい。オリジナリティの高いイメージが、しっかりとした構成で描き出されている作品である。(磯部靖)

 門紀美子「環」。画面の中でゆっくりと旋回するような動きが生まれている。そこには雲や光、風といった自然の中にある要素が集約されているようだ。あるいは、夢の中を漂う画家自身の内面の現れなのかもしれない。何れにせよ、前述したその動きが緩やかに鑑賞者を作品世界へと誘うような吸引力を持っているところに特に注目した。(磯部靖)

 井原優山「厳風」。冷たく激しい風が画面の中に吹いている。波を荒立たせ、雲を足早に動かす。月は見えては隠れを繰り返す。そういった中にある孤独感、不安感が鑑賞者に迫るような魅力を放っている。(磯部靖)

3室

 向井五十代「打たれても」。荒々しい画面がどこか痛々しい。画面に濃淡を繊細に、じっくりと描きながら、上方へと向かう動きを感じさせる。破壊された樹木ではあるが、それでも新しい枝を伸ばそうとする生命の力が強く発信されてくるようだ。(磯部靖)

 瀬戸洋子「渓谷」。渓谷を流れる川をじっくりと描き込んでいる。川面は少し波立っているが、それが両側の崖の表情と静かに対比されているようだ。明暗をクリアに付けながら、心地よい空気感をこちら側に運んでくる。(磯部靖)

 小田柿寿郎「胎動」。例えば火山が爆発する前の大地のような、画面の向こう側にある気配が強く鑑賞者を惹き付ける。画面の中央にエネルギーが収斂していき、何れ解放されるような予感、そういったものが鑑賞者のイメージを刺激する。淡々と、しかしドラマチックにそういった様子を描き出しているところが特におもしろい。(磯部靖)

 川添早苗「追憶」。淡い光の差し込む湿原のような場所が、実に情感深く描かれている。やわらかな筆の扱いによってそういったイメージが引き寄せられている。そしてまたそこに漂う静謐な気配のようなものが、もう一つの魅力を作り出しているようだ。(磯部靖)

4室

 横溝晴花「不夜城」現水展賞。画面の中心に横浜大世界という文字の見える中華楼が見える。その下方に香炉があって、そこから煙が立ち上がっている。そばには狛犬も口を広げている。お寺の庇や吊るされたものなどが明暗のコントラストの中に描かれている。横溝の作品の中で香炉は重要な役目をする。そこから立ち上る煙や炎が画面を活性化させる。この作品もそんな様子で、炎のような動きが煙を通してあらわれて、平凡な中華街の光景を活性化させる。独特の生気を帯びる。また、濃墨から淡墨にわたる墨色の扱いが優れている。(高山淳)

 横山円「天と地と~未来への架け橋~」。画面の下方に塔のような建物、上方には太陽を思わせる大きな球体が浮かんでいる。そこから雫が落ちてきていて、塔と繫がっている。生命のエネルギーの一部が地上に降りてきているようなイメージを感じる。大胆な画面構成の中に、画家の強いイメージの力が内包され、また強く発信されてくる。(磯部靖)

5室

 朝倉勝「濤雷」新人賞。岸壁に押し寄せる波が激しく描かれている。その荒々しい様子が、強い迫力を生み出している。じっくりと誠実に描きながら、自然の持つ力のすさまじさを確かに作品に引き寄せている。(磯部靖)

 清水佳芳「萌芽」現水展賞。高い建物の見える街を繊細に描き出している。特に画面下方の様子が綿密で、そこで暮らす人々の生活の気配の様なものが感じられる。深い味わいを持った画面が強く印象に残った。(磯部靖)

7室

 小川夕星「無機質な空間」。送電の鉄塔を内部から見上げたような視点で描いている。それが強い抽象性を孕んでいるところがおもしろい。直線をいくつも重ねることで独特のリズム感が生まれ、またその重なりが濃密な画面を作り出しているようだ。いずれにせよ、独特の感性によって描かれた作品として注目する。(磯部靖)

 蜂須賀文悠「Noël de Strasbourg」。時計塔の上部を描いている。その周囲には天使が飛んでいるような装飾がある。幻想的であり、ロマンチックでもある。そういった画家の気持ちが、やわらかに描き出され、心地よい雰囲気を作り出している。(磯部靖)

12室

 関沢智加子「風よふけふけ」。流れるような画面の中で鯉のぼりが泳いでいる。その様子が実に自由で清々しい。鯉のぼりの量感をしっかりと捉えながら、爽やかに描きだした画面が印象深い。(磯部靖)

 谷先静津湖「薪ひろい」。薪の束を頭に乗せた女性と、その左側に少女が寄り添うように立っている。二人の親密な関係性が、画家の優しい眼差しによって心地よく描かれているようだ。それがしっかりとしたストロークによって力強く支えられ、確かなリアリティを獲得している。(磯部靖)

第51回蒼樹展

(10月21日〜10月28日/東京都美術館)

文/磯部靖

 原紀久子「ある日」。ベランダのような場所に立つ少女の全身が描かれている。かなり高い場所のようで、背後には街の風景が眺め下ろすように描かれている。少女は前で手を重ねていて、落ち着いた様子である。高い場所ならではの不安感というか不安定さを少し感じさせているのが、どこかこの少女の未来に対する希望の中のわずかな不安のようで興味深い。いずれにせよ確かな描写力によって描き出された画面が鑑賞者を強く惹き付ける。

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