美術の窓

無料ニュースレターの購読

公募展便り(2015年11月号)

「美術の窓」2015年11月号

第61回モダンアート展

(5月10日〜5月15日/愛知県美術館ギャラリー・5月24日〜5月29日/京都市美術館・9月5日〜9月10日/横浜市民ギャラリー)

文/高山淳・小池伊欧里

〈愛知県美術館ギャラリー〉

1室

 石川忠一「Contact by yarn〈糸交信〉」。上方にオレンジの半円形のフォルムがあって、その中は緑、そして白いフォルムをもつ生き物が顔をのぞかせている。右手の二つの指から線が引かれて、下方のそれを見上げる人の小指に結ばれている。二つの空間の境界を渡るときはその線は破線になり、緑の中では白い線になり、下方のグレーのバックの上では黒い線になる。下方にいるのはこっちのほうの人間で、朱色のリングに囲まれた中に生きる人は向こうの世界にいるのだろう。二人は小指が糸で結ばれているように、深いえにしのなかに過去同様、現在も結ばれ交信している。上を見上げる人の顔の不定型のフォルム。その白いフォルムの中に鳥影のような大きな口が穿たれている。上方を眺めている雰囲気には切ないものが感じられる。そこには一種の心の飢えのようなものもしぜんと感じられる。それに対してオレンジのリングの中の人はどこかノンシャランで、むしろ、充足しているようにも感じられる。両腕を水平にして、その上に顎をのせているような雰囲気で、窓から上半身をのぞかせて手の先に糸をつけるといったフォルムから感じるものである。いずれにしても、その上下のフォルムは白く発光している。その白く発光するイメージのなかにしぜんと形而上的なものの存在感、リアリティが感じられる。緑が独特の癒しのようなイメージであらわれているところも面白い。(高山淳)

 山田展也「風の景〈月光〉」。縦長の画面の上方三分の一あたりに水平線とも地平線ともつかぬものが置かれている。上方に大きな月があり、そこから光が発している。雲があり、流星のようなものが動いている。下方はマットな手触りのあるグレーの空間で、そこに月光に照らされたコンクリートの打ちっ放しのブロックのようなものが浮遊している。遠景から近景まで五つの矩形のフォルムであるが、それぞれは同一平面上にはなく、微妙に傾いたり位置を変えている。その浮遊する地上の光景は不安定である。月光が差して柔らかな緑っぽいグレーに染められているのが、ロマンティックなしみじみとした雰囲気である。同時に、浮いているその五つのフォルムにはなんともいえぬ不安定さが感じられる。下方の黒いバックは、画家が北海道の最北に生まれたという経験のせいか、黒い海のようなイメージと空のイメージと大地のイメージと三つのイメージがクロスするように感じられる。その浮遊する打ちっ放しのブロックの塊は、今回の大震災のイメージとも深く共通するものがあるだろう。画家はそのように人間生活の不安定さ、そして希望、過去の時間、記憶と現在といった対立するイメージを常に絵の中で表現してきた。そのベーシックな表現が様々な豊かな深いイメージを引き寄せる。今回はこの無音とも思われるような無言のグレーのバックの上に、緑色がかった銀灰色の表面をもつブロックの塊、直方体のひずんだ形に不思議なものを感じ、画面に見入ったのである。(高山淳)

2室

 加藤勝久「白い影―歳月・森へ Ⅱ―」。流木のようにも、使い古された家具の一部のようにも見える木の板に、毛皮のコートが吊るされている。下方におそらく皮と思われるブーツ。左には台の上に皮製の鞍が置かれている。上方から乾燥したカラスウリや植物の蔓のようなものが吊るされている。右のほうには赤唐辛子がとめられている。全体に柔らかな褐色の色調に染まっている。ベージュの壁の中に柔らかな褐色の影が差す。中にある皮の製品もどこか赤みを帯びている。板もそうである。そして、この影の向こうにもう一つの世界が幻視されるようだ。たしかにそこには歳月が積もっていて、様々な光景が集積している。しっとりとした彩調による、もののディテールの表現がクリアで、そこには人間と長く付き合ってきた触覚がある。そのもの自体にも長い時間が堆積されている。そして、そこに差す光によって照らされて、壁に影ができる。その影に不思議なニュアンスがあって、そこに徐々に見えてくるもの、その向こうに見えるものに、記憶という時間の堆積した中にあらわれる様々なイメージが存在するのだろう。そういう意味では物質を描きながら、一種形而上的な世界を画面に引き寄せようとする。そこがまたこの作品の静かなドラマである。(高山淳)

 鈴木田俊二「カスバの光 2011」。横長の画面に茶褐色の壁が七割がたを占めている。左には向こうに建物があり、空がのぞく。建物の中の一部を拡大して右の二つの色面をつくった趣。窓がそこに置かれている。右のほうの窓に二羽の白い鳩がとまって、お互いに会話をしているようだ。その印象は、魂の風景のような神聖さである。壁に独特の手触りがある。シンプルなコンポジションに人間の生活と信仰、魂のイメージが表れる。(高山淳)

 古川秀昭「祝された静物 2011─Ⅱ」。横長の画面の左上方に赤く熟れたカラスウリ、右はまだ緑色のカラスウリが吊るされている。二つのあいだの空間が渺茫としている。箔のような方形のようなフォルムが置かれているのがアクセントとなっている。右下方に枯葉のような不思議なフォルムが見える。それは時間のなかで変身しつつあるもののイメージのようだ。あいだに時の川が静かに流れていく。時間をテーマにした深い空間の表現。雅やかなグレーを調子としたなかにまとめて注目。(高山淳)

 山口秀太郎「芽吹く雲」。不思議な生き物のようなフォルムが立ち上がってくる。四つの突起があって、それは小さな手のようにも感じられる。自然の現象を擬人化して、生き物のように彫刻する。木による手触りのあるフォルムに親近感がある。後ろから見ると、植物の茎から芽が出ているようなフォルムが刻されている。ナイーヴで懐かしさを感じさせる作品。(高山淳)

3室

 吹田文明「僕はN‌Oネクタイ」。針金のハンガーに銀と黒の市松状のネクタイが下げられている。上方は緑、下方はグレーのマーブル状のフォルムになっている。お洒落な感覚。時間の海を背景にしてネクタイが吊るされている。しぜんと画家のこれまでの人生の長い道程を感じさせる。四つの球体のフォルムが浮遊しているのも、ユニークなアクセントである。(高山淳)

 片岡眞幸「風廻」。テープのようなフォルムがいくつも蠢くように画面に集合していて、中に赤い円が置かれている。動きをテーマにして独特のエスプリを感じさせる。(高山淳)

4室

 渡辺靖隆「思考の形態―L」。グレーのたらし込みふうな空間のなかに何本かの直線が立ち上がる。それが時のなかの軌跡のようなイメージである。同じような造形を繰り返し発表してきた。渾沌とした中に人間の営為がひとつの軌跡をつくるといったイメージが鑑賞者を引きつける。(高山淳)

 海老塚市太郎「水の伝言」。雲に窓がつけられて、空にぽっかりと浮かんでいるようなイメージ。その上方には水が地下深く流れているようなフォルムがつくられている。ところどころ矩形の赤やオレンジや黄色の色彩が描かれて、テンションの高い色彩のハーモニーをつくる。水は地中から地上、空へと循環していく。水の変容する性質。人体の中にも流れていて、なくてはならない存在。そんな水の中にイメージを深く潜入させて、ユニークな造形をつくってきた。清らかでピュアな雰囲気が感じられる。雲にあけられた窓は天国への門のような、形而上的なイメージも感じられる。(高山淳)

 長屋けい子「SOU-2011」。黒いボードの上にまたボードを置き、その上にコルクを置いて、水平の層をつくったり、切り込みを入れて窪みをつくる。あるいは、二つの紡錘状のフォルムを置いたりしている。砂漠の風紋を上方から眺めているような趣。そして、昼と夜と二つの時間が対置される。しっとりとして、心のひだに入ってくるような、繊細で広がりのある空間があらわれている。(高山淳)

〈京都市美術館〉

1室

 野口眞木雄「崩壊(無重力)」。地上には建物の基礎だけが残っている。崩壊した断片が宙に浮遊している。その鉄とコンクリートによってできたようなフォルムは、そのまま人間の巨大な頭蓋骨に変身している。遠景には高層ビルが見える。まさに今回の津波の跡のイメージを思わせる。クリアな形象に独特の現実感がある。ディテールというもののもつ力を引き寄せながら、それによってファンタジックな未来都市図ともいうべきイメージを表現してきた。画家のこのような崩壊した絵をずっと見てきて、それが今回、現実化することによって、なにか深い自虐的な印象があらわれる。(高山淳)

 鵜木かおる「私の温室」。大きな巻貝と地上から出てきた芽のフォルムとが組み合わさってファンタジーが生まれる。巻貝は時間のメタファーのようだ。芽吹いたばかりのフォルムは初々しく、不思議な形をしている。自然の神秘を目の当たりにするようなフォルムを引き寄せる。命のファンタジーとも言うべきイメージが表れる。(高山淳)

 平松生夫「風の層―事象の地平―」。娘たちの成長をテーマにした連作の一つだと思う。グレーのモノトーンのフォルムと彩色したフォルムとが入れ違いに組み合わされ、過去と現在とが錯綜するなかに成長した子供たちのイメージが表れる。アンティームなものとクールなものとを織りまぜながら、独特の心象風景があらわれる。(高山淳)

 中井幸一「ロレンスの黒い薔薇」。アラビアのロレンスのイメージだろうか。ストライプのターバンを巻いたロレンスの映画を見たことがある。黄色と茶褐色のストライプも砂漠を思わせる。そのあいだからロレンスの目が強くあらわれてくる。黒い薔薇は時間のなかに風化してしまったロレンスの情熱だろうか。様々な物語性を含みながら、強いコンポジションによってイメージを発信する。(高山淳)

 広井力「光の当たらない所・SHADE」。月を思わせるところがある。月の一部が欠けたフォルム。月の満ち欠けの影の部分をこのようなかたちで表現したのだろうか。不思議な色彩を感じる。周りを柔らかに反射しながら、独特の蜃気楼のような、幻想的でありながら、光がひとつのフォルムをなしたような不思議な印象がある。彫刻という立体性を重んじながら空間との関係のなかで仕事をしてきた作家の造形思考のユニークな成果だと思う。(高山淳)

6室

 赤穂恵美子「光の音」。緑、紫、朱などに彩色した布を重ねて、波打つようなフォルムをつくる。柔らかなしっとりとした色彩。「はんなり」という京言葉があるが、そういう形容が相応しい。品がよく雅やかな雰囲気でありながら、海のもつ広がりと深さをしぜんと想起させる。(高山淳)

〈横浜市民ギャラリー〉

 瀬川明子「月光」。協会賞・損保ジャパン美術財団奨励賞・会員推挙。三つの耳を持ち、擬人化されたウサギが手を合わせ祈っている。不思議な存在感のあるフォルムで、花模様をあしらった布が体表を覆い静かに輝いている。通常の潮の満ち引きは月の引力と関係しているが、その力を遥かに凌駕した津波に見舞われた地球の惨状に月のウサギが鎮魂の祈りを捧げているかのようだ。(小池伊欧里)

 阿蘇千鶴子「海からの伝言」。抽象表現だが、湾のイメージや帆船のイメージが伝わってくる。曲線を組み合わせた構成が様々な動きを演出している。夜のベイサイドを車で走ると流れる風景のようにも思えるが、左に目線を向けるにしたがって徐々に迫る深い青を見ていると、辺りが空も海も分からなくなりそうな夜の世界に染まる不安な気持ちも呼び起こされる。(小池伊欧里)

 小泉里美「から騒ぎ」。優秀賞・損保ジャパン美術財団奨励賞・会員推挙。無数のパンダが鉛筆によって描かれている。そのパンダの塊は弥勒菩薩の半跏思惟像のような形に見える。簡素な線で描かれた矩形で画面に立体的な空間を生み出し、円は光背を暗示する。一匹一匹を取り払っていくと菩薩像の実体が現れるのかもしれない。癒しの象徴のような存在のパンダ。震災後の明るいニュースの一つに上野動物園のパンダがあった。神も仏も無くてもパンダがいる。作家ならではの癒しのメッセージだと思う。(小池伊欧里)

第43回新院展

(8月28日〜9月3日/東京交通会館)

文/高山淳

 Nobu Syo「盛夏」。外国の中庭のようなところにいる人間たちの姿が生き生きと描かれている。また、光線を画面の中によく引き寄せている。海外の街のある一隅にいる人々の様子と街全体のこの場の様子を生き生きと表現する。人間のもつ動き、光の扱い、ともに優れている。

 岡崎由美子「2011 ある夏の朝(Ⅰ)めざめ」。文部科学大臣賞。ネグリジェ姿の女性が座って腕を髪の下から持ち上げている。伸び伸びとしたフォルムが、この女性の健康な肉体を生き生きと表現する。

 石井宝山「(望春2011・3・11)もくれん」。墨によって木蓮の枝や花びらの輪郭線をとり、そこに彩色する。闊達な動きが画面に生まれる。余白がよく生きている。

 丹羽俊夫「すてがたし」。白い舟に細長い板や棒のようなものが散乱している。題名からすると、長く使われてきた舟で、そろそろ廃棄状態になっているのだろう。こんじきのバックの中に白い舟が尊いものとして表現されている。人間と深くかかわってきたこのボートを、そのような存在として慈しみながら表現する。

第47回白士会展

(8月30日〜9月4日/愛知県美術館ギャラリー)

文/高山淳

A室

 大島千恵「上海・裏通り Ⅲ」。白士会賞・準会員推挙。アーチ状の門をくぐると路地があって、両側に建物があり、その上方に洗濯物が干されている。濃厚な生活感の感じられる風景を独特の強いマチエールとフォルムによって描く。道の両側下方の黒ずんだトーンに対して、上方の明るい色彩が対比されて、独特である。触覚的な強さが魅力。

 稲垣恭子「色彩の砦」。白士会賞・準会員推挙。抽象的表現である。線を縦横に引きモザイクふうなフォルムの上方に月を思わせるフォルムがあらわれている。都市をテーマにした音楽のような雰囲気である。エキゾティックで、すこしミステリアスで、しかもまた親しいような世界。独特のメロディが感じられる。

 河村明美「宏村古民居」。古い中国の街の一隅である。下方に三人の人間がいる。そばの衣服や笊の中に入れられた植物の種のようなものなどに独特の存在感が感じられる。

 加藤眞惠「風にまどろむ(Ⅱ)」。着物を着て横になった女性。輝くような白い肌。むっちりとした肉体。エロスの力が画面全体を統合する。上方には花のようなイメージ。「春宵一刻直千金」という言葉があるが、そんなイメージを女性を中心として、自由な奔放なフォルムの中に表現する。一種装飾的な感覚も魅力である。額を黒くして、そこに銀灰色で呪術的なフォルムを置いているところも面白く感じられる。

 柴田晃伸「冬の葦」。名古屋市長賞。葦だけで絵にしている。画家の視点は低く、この葦を見上げるような角度から描いている。ちょうど小さくなった人がこの葦の中に入って、上方を見上げるように。そのコンポジションが独特のリアリティをつくりだす。黒による上方にカーヴする動きが連続する中に、穂が現れる。独特の音楽性もあらわれる。

 島田万亀子「つながっている Ⅰ」。柔らかな調子の中に色彩が生き生きと輝き、歌うようだ。二人の若い女性が立っている。周りに花のようなイメージや青い空などがあらわれる。今回の震災の被害に対して画家はこのような絵を描いて、生の素晴らしさを描き、癒しと祈りのイメージを伝えようとする。画家には独特の触覚的な感覚があって、色彩のみならず、女性の肌一つとっても独特の柔らかな手触りがある。それはバックも同様で、その柔らかな手触りがいわば肉感性や絹の光沢のような雰囲気を引き寄せて、豪華なイメージが表れる。

 鈴木由紀子「祭」。どこかシルクロードを経由してきた奈良時代の伎楽や舞楽のイメージが感じられる。龍と獅子のイメージのなかに刀や武器を持った、ターバンのようなものを身にまとった三人の男が激しくダイナミックな踊りを行っている。無彩色の中に金と朱が力強い色彩効果を表す。動的なコンポジションに注目。

 加藤哲男「ミャンマーの落日」。山の端に太陽がいま落ちようとしている。風景を黄金色に照らしている。懐かしい雰囲気があらわれている。ストゥーパが点々と立っている。手前の緑の色彩と朱色の色彩とが静かに響き合う。ミャンマーは仏教国であるが、合掌し、心のふるさとのようなイメージが、このゆったりとした奥行きのある空間のなかに感じられる。

 伊丹靖夫「STORY TELLER」。四人の不思議な人物が立っている。あいだから牛が顔をのぞかせている。人物の顔はなにかあやしく、ご先祖さまが姿を現したような雰囲気である。顔だけを見ると、フランシス・ベーコンの顔を思わせるようなところがあるが、あのベーコンの異様な物的な、人間が単なる肉塊としてあらわれてくるような雰囲気とは違って、これは時間の中を通過してきた顔で、前述したご先祖さまのような霊的なイメージが表れている。そして、そこにはなにか懐かしさが感じられる。その懐かしさのなかに、たとえば畑を耕すのに牛が仲間として使われていた時代のイメージ、農耕民族としての日本人のDNAがしぜんとこの中に漂ってくるようだ。緑を中心とした色彩に不思議な落着きが感じられる。その中にすこし柔らかな緑や黄色やピンクなどの衣装をまとった四人の人物。男性もいれば女性もいる。まるで大地から茸が生えるように、このご先祖さまは大地と深い関係のなかから現れてきた存在のようだ。どちからというと、ヨーロッパ的なアニマなどのイメージを描いてきた画家であるが、最近の自選展を契機にして、もう一度日本人の心の風景、心の人物を引き寄せたように感じられる。そこにあらわれてくる奥行きと存在感に注目。

 鈴木三枝子「造船場」。準会員努力賞。木造の船がいまできつつある。それを支える木による支柱のようなもの。あるいは足場のようなもの。銀の箔を背景にして、黄土色のこの船には希望というもの、人間の営為というものの象徴的イメージが感じられる。上方に二人の小さな人間。下方の砂浜に一人の小さな人間。震災に対する抵抗。震災に負けずにもう一度街をつくろうといった、そんなイメージの力に注目。

 蒲野美智子「若狭の船小屋」。白士会賞・準会員推挙。船小屋の中にある白い船。水のグレーとそこに浮かぶ白い船が純潔なイメージを伝える。黒々とした船小屋の存在感のある表現と、海の上に浮かぶ純潔な白い船とが不思議な対照を見せる。

 池田順子「追憶」。愛知県知事賞。メリーゴーラウンドの木馬が画面の下方に描かれている。上方には機関車が進む。時計があり、ゴンドラが動く。まさに題名のように美しきもの、懐かしきもののイメージを一種音楽的な構成の中に表現している。それぞれのものは存在感というより、イメージをつくるための要素として画面に扱われている。そして、オリーヴの葉を持った白い鳥が旗の中の図から生きて動きだし、飛ぼうとする。

B室

 白井富子「祈り」。柔らかなベージュと白の色彩が静かにハーモナイズする。上方に聖母子像が描かれている。それは窓のような位置に置かれている。じっと見ていると、長崎のあの原爆のあとの母子像を思わせるような不思議な輝きが感じられる。下方に日常を象徴するような一つの自転車が置かれている。今回の津波や原発事故の起きた大震災に対する祈りのイメージから生まれた構図だろうか。上方から下りてくる白い光が実にわれわれを癒すような、聖なるものとして表現されているところに注目。

 武田昭「憶」。中国服を着た女性が椅子に座っている。金の箔を置いて、上から絵具をたらしこんでいる。床も壁もそうである。壁には上衣が二つ掛けられている。女性の雰囲気が妖精的である。衣装の中から首と顔がのぞき、五本の指が袖からのぞいている。たっぷりとした衣装の重量感をもつ豪華な雰囲気のなかに、この女性は座っている。中国の文化のなかに深く入るところから、この女性のイメージが浮かび上がってくる。実際にいま存在している女性であると同時に、千数百年昔の美しい魅力的な女性のイメージが引き寄せられているような雰囲気。妙恵上人は女性の善妙という土偶を生身の人間に還元させたという話があるが、そういったイメージも感じられる。今日の魅力的な女性と過去の歴史の中の女性、二つがクロスするところから生まれたような不思議な雰囲気が、この作品のあやしさをつくりだすものと思う。

 飯田史朗「黄土色の館」。激しいストロークがしぜんと画面にリズムをつくる。イタリア風景である。三階建ての建物。瓦屋根から煙突がいくつか突き出ている。手前に階段があり、白い細い手摺りが優雅につけられている。同じような彩色で、この中庭の色彩が置かれる。夜と日中との中間の領域の時間。夜の世界の中に入るとダンスが始まったり、あるいは妖精のような存在がこの建物の中に現れてくるような、独特の文学性が感じられる。後景の洋館はすこし左が下になって傾いている。その不安定な様子がなにかドラマを予兆させる。黄土色や茶色の色彩とブルーや緑が不思議なハーモニーを奏でる。とくに窓につけられた緑やブルーが独特のロマンティックな雰囲気を表す。丸い電球が点じられて、その光がこの夕闇のなかに白く輝く。無人の風景だが、次のドラマの序章のような独特のイメージが魅力である。右近景の階段の水平、垂直のジグザグの動きが、そのドラマの造形上の音楽性ともいうべき働きを画面に与えているところも興味深い。

 畔栁赫「春日」。黄土色や緑、朱色、オレンジ、それぞれの色彩に透明感がある。枝を広げる樹木のフォルム。この林の向こうにある柔らかな日差しをたたえた空はすこし青みがかり、あるいは緑がかった不思議な調子で描かれる。いわば樹木を使った仏画のような雰囲気である。自然というもののもつ美しさを画家はそのまま受け止めて、シンプルな構図の中に豊かな雰囲気のなかに表現する。同時に、樹木や林を通してもうひとつ向こうの世界に対する憧れのようなイメージも表れているところが興味深い。ところどころに入れられた朱色が実に命そのもののように感じられる。

 鵜飼千佐子「恂・Ⅱ」。青年が右足を上げて、腰を浅く下ろしたポーズ。線による全身像の表現。たらしこんだような色彩。フラットなようでボリューム感のある、一種彫刻的と言ってよいようなフォルムの強さが魅力。青年のもつ健康な生命感が、そのフォルムの中によく捉えられている。

 鈴木喜家「地韻―樹心―」。地面から樹木がカーヴしながら、ムニョムニョと数十本立ち上がってくる。上方に緑の葉を茂らせている。樹木のもつ生命感、あるいは地中から栄養を取って上方にその栄養を吸い上げていくようなイメージを、正方形の画面の中に面白く構成している。

 中山和子「刻(ツェルマット)」。木造の建物の入口があけられて、そこに赤い帽子をかぶった女性が立っている。それを側面から描いている。物思いに沈んだ女性のイメージからロマンティックな雰囲気が表れる。建物の壁のマチエールの強さが、この作品のもう一つの魅力だと思う。暖色系の中に女性の色彩がくっきりと入って静かに響いてくるものが感じられる。

 坂倉由一「拘泥」。正方形の画面の中に正方形がつくられて、その透明なドアの向こうにもう一つの楽園のような世界があるようだ。手前の屋内では床を掃除する人や立っている人がいて、たいへん困難な雰囲気があらわれている。そこに緑やピンクや白の発光するフォルムが浮遊する。自由に筆が動いて、絵具をのせる。その繰り返しによって、ゆったりとしたなかに強い動きが表れる。額にまで絵が伸びている。ちょうど同時期に棟方志功の展覧会が開催されていたが、志功的な生命力を画面の中に引き寄せようとするかのようだ。現実と理想、この世と天国といった二つの世界を面白く表現しているように感じられる。

 道家珍彦「帆船ナイル」。水の上を五艘の帆船が動いている。帆はオレンジ色で、水の青と激しいコントラストをつくる。ところが、船は黒ずんでいて、人間も黒いシルエットのなかに描かれている。じっと見ていると、エジプト美術の中に船を漕ぐ人間がいて、舳先にそれを支配している男のいる冥界に向かう船のイメージをしぜんとこの作品から感じる。そうすると、この上方の恐ろしいような青い色彩は死というものの冷厳なるイメージに深く関係しているようだ。下方の水も、水というよりなにかあやしく奥行きが感じられる。実体としての水というより、イメージとしての水で、よく見るとモザイク状の表現になっていて、波が立たず、しんしんとした奥行きのみが感じられるのである。そこを赤い帆をかけて進むシルエットの船。帆はところどころ破けているのも、不思議である。下方の水のようなスクリーンは上方の船をかすかに映している。この不思議なスクリーンはまさに生と死の境界領域のイメージだろうか。五艘の帆船を使いながら、そのようなあやしい人間の深い心象風景を表現する。

C室

 原田由己「明日の雫」。二人の髪型の異なる少女が両側に立っている。正面を向いている。向かって左の少女は両掌を前に向けている。向かって右の女性は両掌を上向きにして下方に置き、そこに薔薇の花束が浮いている。フォルムが力強い。また、フラットなフォルムのようで、重量感が感じられるところが面白い。上方に太陽や月をイメージするような円弧があり、下方に金のモザイクふうなフォルムが入れられる。二人の少女をイコンふうなコンポジションの中に表現していて、注目。

 石川輝雄「橋」。橋という題名からすると、この連続するアーチの上方に橋がかかっているのだろうか。四つの連続するアーチ状のフォルムがだんだんと小さくなっていく様子。その三つ目のアーチの向こうに傘を差した二人の観光客らしき人がいる。煉瓦を重ねた側面にピンクや緑などの色彩が垂らしこまれていて、不思議な雰囲気である。古い歴史が内部からこだましてくるような面白さである。

第96回二科展

(8月31日〜9月12日/国立新美術館)

文/高山淳

1階─1室

 平権「残された二人に」。ここのところずっと天女などの幻想の世界をリアルに描いてきたが、今回は窓の向こうに横浜市開港記念館が見える。手前にレストランの中の若い母親と子供を描いた。ずっしりとしたクラシックなその様子が窓の向こうに再現された。カンテラや街灯に灯がともっている。雪が降っている。上方に、このレストランの中の人間を慈しむように天女が飛んでいる。夫が旅立ったのだろうか。若い妻と無心に遊ぶ男の子。テーブルの上にはワイングラスや食べ残しのものやケーキ。そういったドラマのワンシーンとも言うべきものが強い現実感を伴って表現されている。落ちついた色調が独特の安息感を醸し出す。

 西健吉「浜の娘」。上方の空間に網を持って立つ女性。近景にはそれを見ている座っている女性が後ろに手をついている。その二人のあいだを結ぶ網の茶褐色のフォルムの連続したかたち。そこに残照の光のように黄色い色彩が入れられている。それが神々しく、なにかロマンティックで、この女性を荘厳しているように感じられる。俯いた男の背中がその脇役となっている。三角構図によるモニュメンタルな表現である。

 山岸光代「ひとりの部屋」。二曲屛風ふうな構成になっている。左のほうがより横幅が広く、右はすこし幅が狭い。光が画面の中に満ちている。色面が張り詰めて空間を表す。ピンクの部屋に青いワンピースを着た女性が座っている。そばに白い大きな花。右のほうには鳥籠があって、中に一羽の鳥がいる。窓の向こうはグレーの空間で、植物が描かれているようだ。このグレーと手前の白い花とが響き合う。ピンクと青とグレー。そこに黄色い花とか、ベージュの肌色を入れる。強烈な光が画面の中から感じられる。その明度の高さのなかに独特の緊張感があらわれる。昼の光であると同時に朝の光も引き寄せられているようだ。色面のお互いの関係性によって空間が生まれている。女性の胸に差された黄色い花が実に輝かしい。濃紺の衣装は夜の空間を表すような雰囲気もあるところが興味深い。左に一人の女性。右に鳥籠の一羽の鳥を置き、二つを対比し、光によって二つを輝かせている。その光は聖なるものとしての存在を暗示する。その光の性質に、この作品の魅力があると思う。

 伊庭新太郎「黒い椿」。オレンジ色の階段状のトーンのあるラインによって椿の花のフォルムがつくられている。バックは透明なメディウムをたっぷりと入れた紫がかったトーンである。その矩形の集積するフォルムは、福島の、あるいは津波の民家を上方から見たフォルムのようにも見えるし、砂地のようにも見える。この花は目に見えない花である。現実の花のもうひとつその底にある花である。植物は光を取り入れ、水を取り入れ、二酸化炭素を取り入れて光合成をしている。そういった命の働きが、このオレンジ色のストライプの輪郭線の中に表現されているように感じる。そのような生きたひとつの証のようなフォルムがバックの無地のグレーの前述した集積するフォルムの上にあって、何かを深く癒しているように感じられる。画家のイメージの中ではおそらく一つの椿が、今回の津波や福島原発の人々との連帯感のなかで癒すべきイメージとして、命のひとつの発現としてここに強調されているように感じられる。発光するようなオレンジ色の色彩がまるで血管のようにも感じられるし、実に不思議な有機的な力をもたらす。

 織田廣喜「古里の思ひで」。三〇〇号の大作の下方に少女たちが描かれている。その集合した様子はまるで可憐な花束のようだ。バックの光を含んだようなベージュ系の空間。そこに霊的なものが蠢くような、不思議な波動の中に表現される。そのバックと相まって、下方の女性たちの雰囲気は画家自身のロマンティシズムの発現である。おそらく亡きリラさんを中心とした優しい女性たちの集団がこちらを眺めている。不思議な気配をもった作品である。

 生方純一「交感」。埴輪や中国の俑などのイメージを想起するフォルムが上方宙に、両側に浮いている。下方には水を囲む陸が描かれている。そして、その水から不思議な光り輝くものが発光し、上方に向かっている。やはりこの作品も三・一一の深い衝撃の中から生まれたものと推測する。亡くなった人が埴輪的なフォルムとして現われ、それを画家は静かに見つめている。そのあたりの黄金色の色彩のニュアンスは切ないものがあるし、また、神秘的でさえある。深い、これまでの画家のイメージのベーシックな追求の試みのなかから、このような秀作が生まれた。

 川内悟「レクイエム(海潮音)」。悲しみの海潮音と言ってよい。女性のフォルムが深い愛のなかに表現される。ほとんど抽象形態だが、女性のトルソや足や胸などが連結して、それが黄金色に緑に朱色に彩られて、曼陀羅の構図をつくる。その無限循環するフォルムはまさに海の響き、海潮音の懐かしいイメージであると同時に、それは悲しみの無限旋律と言ってよいだろう。黒いバックにそのような旋律が永遠に繰り返される。今回の三・一一の災害に対するレクイエムである。

 中島敏明「elegy-3.11『蹲る』」。膝を両手で抱えた人。目鼻がない。今回の三・一一の深い悲しみをこのフォルムがそのまま表すようだ。画家は亡くなった妻を冥界からまるで引き戻すかのようなイメージを繰り返し描いてきた。そんな仕事を続けてきた画家にとって、今回の津波の災害は衝撃だったと推察する。しかも、郷里福島は原発の事故が起きた。それを全身で受け止めるところから、このうずくまったフォルムがあらわれたのだろう。そんな悲しみが不思議な文様をつくりだす。まるで血管がだんだんと生まれてくるような、そんなフォルムがこの人体のフォルムにあらわれている。ところどころ窪んだりしている。まるで妻を再生させるように、亡くなった人々を癒し、もう一度再生させようとするかの如き強いイメージが、この画面から深い感情をもって強い気のように放射してくる。カーヴするフォルムが、この女性を取り巻いている。それは現実にはない時空感がこのフォルムを覆っているようだ。生と死の境界を超えたところから生まれたイメージと言ってよい。じっと見ていると、懐かしさの如き感情に襲われる。大きな両足の指のすこし肌色がかった調子は、まさに大地との接点で、大地は生きているといったメッセージで、その上部の青ざめたフォルムとは別の、もう一つの普遍的な生の連鎖、まさに土から生まれ、土に返った人間のそのしぶとい長い歴史をしぜんと想起させるものがあるところが面白い。

 月舘れい「鳥の居る空間」。青森の出身の画家は今回の津波や福島原発について心を痛めているようだ。そんな雰囲気がこの独特の雰囲気をつくる。三羽の鳥がお互いに会話をしている。その手前に果実を持った人間が立っているが、顔は暗く、見えない。背後の暗い緑の中から立ち上がる小さな茂みの様子もそうである。黒い花が伸びている様子もそうである。胸像もグレーに染められている。室内のソファに座り瞑想しながら、青森や東北の風景を引き寄せて、深い悲しみの表情のなかにそれらを配置する。鳥が活性化して、まるで心の奥の深い表情をその鳥が見せているところが、この作品の魅力だと思う。

 石附進「叢」。矩形の中に馬や牛や鳥や花。そして子供のようでもあるし、鳥のようでもあるフォルム。自然のもつ愛らしくささやかな現実が、抑えた色調のなかに静かに歌われる。

 山中宣明「An anonym」。題名は名づけようのない概念とも言うべき意味合いになる。広大な空。広大な海。その夜と昼との時間に分けられたイメージが表れているように感じられる。左は明るく、右は青く染まっているが、それを結ぶ二つの大きなフォルム。下方は大地や海を表し、上方は空を表すようだ。深い混沌としたなかに強い韻律が生まれる。「易経」にあるように、天地の始まり、乾坤、といった時空感が表現されているように感じられる。それがそのまま不思議な二つの時間帯に分けられ、抽象でありながら、この懐かしい地球という星の美しいイメージがここにあらわれているように感じられる。

 永井忠雄「神への貢ぎもの」。若い女性が仰向けに死んでいる。顔は髑髏とのダブルイメージになり、髑髏が点々と手前にある。上方にロールシャッハ・テストのような三つの髑髏が組み合わされた図像が現われる。今回の津波に対する画家独特の哀悼の表情である。水平線がはるか向こうに見えるのが、無限の悲しみを想起させる。

 香川猛「うねり」。線が実に生き生きとしている。線によって、両手を広げた女性のイメージや、寝ているところから手をついて体を起こしたイメージ、あるいは座って合掌したフォルム、あるいは立って足を上げたフォルムなどが現われる。そのフォルムの上に透明な色彩で赤や黄色、緑、青などの色面が入れられ、その色面が命の鼓動や海や風や樹木を表すようだ。透明感のある色彩のハーモニーもテンションが高いが、カーヴするフォルムのラインを追っていくと、悲しみのメロディとも言うべきものがあらわれてくるようだ。はるか向こうに二つの小さな建物がのぞく。ジョンブリヤン系の空と白い大地。悲しみの風景がまさに心の中に抱いたようなイメージのなかにあらわれる。今回の津波災害を外的な問題として画家は捉えずに、内側に抱き込んで、内界のスクリーンの中に表現しているところに打たれる。

 中原史雄「東風彩景 11─17」。内閣総理大臣賞。明るい部分が緑で、暗い部分が紫。そんな男女が点々と広場に立っている。桜の花びらがふぶいている。向こうには植物の中にうずもれた人間の体の一部がのぞく。植物は椿の赤い花をつけている。上方には壊れた地図のようなフォルムが見え、カーヴするフォルムによって波のようなイメージが生まれる。明らかに今回の津波によって亡くなった方々に対する鎮魂歌、黙禱と言ってよい。それが強い緊張感のなかに構成されている。しかも、すべてが動きながら静止している。動きと静止という二つが拮抗するようなコンポジションになっている。それがこのレクイエムという感情のリアリティといってよい。

 五味祥子「羽化する人」。うつ伏せ、あるいは仰向けに寝た女性。その女性はその眠りのなかからもう一度生命の強いイメージを取り戻し、再生し、立ち上がろうとするかのようだ。その息吹が旋回するようなフォルムになってあらわれる。透明感のあるイメージは風であるし、水であるし、その女性を活性化するための存在のようだ。旋回するムーヴマンが興味深い。

1階─2室

 佐野明子「バラード」。題名のように深い感情をこの画面は表現する。小さな三角形と逆三角形の大きな三角形によってできたフォルム。中心から上方に向かって光の束が立ち上がってくるような雰囲気。そこにグレーや黒のストライプや線によって波打つようなフォルムがあらわれる。それに対して下方の深い赤、心の中をわたる悲しみの風。しかし、希望の光もある。清冽な感情をダイナミックなコンポジションの中に表現する。

 倉橋寛「画室の片隅」。中年の女性がモデルとして座ってポーズをしている。ほほえみを浮かべていて、ひっそりとしたなかに妖しい雰囲気がある。とくに右手や左手の指の先を見ると、そのような印象を深くする。後ろの木製のテーブルの上に布が敷かれ、猫が寝ている。そばに古いランプが伸びている。ランプと猫、この手の表情、あるいはスカートの文様などを見ると、心の深いところからあらわれた人物や猫や室内の情景のように感じられる。ひっそりと人の心の奥にふれてくるような、そんなイメージが実に魅力である。それを可能にするコンポジションとディテールの力に注目。

 加覧裕子「海へ」。海の中を大きなクラゲがゆらりと立ち上がって動いていく。魂のようなものを抱きかかえた存在である。霊的なものを運ぶ存在としてクラゲが描かれている。下方の緑の、まるで樹木や畑などを思わせるような不思議な広がり。上方の紫がかった青い様子。柔らかな光が入ってきて、網目状に緑の中を染めている。精神の奥底のスクリーンと対話しながらあらわれた世界が鑑賞者を癒す。

 荻原寬子「チベットの宙に舞うタルチョ(祈禱旗)」。色彩が魅力である。星空に向かってたくさんの旗がたなびきながらはためいている。黄色、オレンジ、赤などの旗と濃紺からセルリアンブルーまでの空とその星座のイメージが、実に魅力的である。現実を超えた世界が空を通してあらわれてくるようだ。

 田中良「春めく」。雪が解け始めて大地がその姿を現しつつある。茫漠と広がる地面の上に深い空が覆い、まだ寒気が感じられる。雪解けの近い季節のイメージを、ゆったりとした動きのなかに表現する。

 松室重親「悠景」。駱駝と若い女性、そして羊、サボテンなどがベージュ系の色彩の中に上品に表現される。背後のシルエットの歩む駱駝の隊列。日本画を学んだ画家らしい油彩の表現と言ってよい。

 大隈武夫「沙漠に甦る」。籠を持って立つ若い母親に対して左下には子羊を遊ばせる少年。そのあいだに巨大な薔薇がたくさん描かれている。百万本の薔薇のようなイメージである。柔らかくピンクに燃え輝きながら、渦巻くようなイメージで、しかも安息感があり、優しい。まさによみがえることを祈願する画家の心がつくりだした形象である。よく見ると、柔らかな風が画面をわたっているような思いに誘われる。グレーの中に複雑なニュアンスがある。女性の髪や衣装に青が使われていて、その透明感のある青と薔薇の花のピンクとが豊かに響き合う。

 杉浦正美「厄除祈願」。ファンタジーである。わらべ歌のような純粋な旋律が流れてくる。白い三日月が母親のように見守る下に、大きな鯛を持つ少年とそれを見守る雛祭りの女性のようなフォルムがあらわれ、星さえも引き寄せられる。グレーのスクリーンの上に現れたこのめでたきイメージを運ぶのは、暗い不吉な緊張感をもった空や稲妻のようなフォルムである。画家の祈りの独特の表現と言ってよい。

1階─3室

 髙藤博行「故里―共存―」。会員賞。樹木の幹から枝にわたる屈曲したフォルムが面白い。まるで龍が身悶えしているような趣である。下方に可憐なコスモスのような花が咲き、その向こうにビルが立っている。激しく渦巻く動きは津波のときや台風のときの激しい自然の動きのようだ。それに呼応して立ち上がる樹木の形が、まるでしぶとい地上の生命の象徴のように感じられる。擬人化されて人間の力をも象徴するようだ。油彩による文人画ふうな趣のなかに独特の風景表現となっている。

 武藤挺一「判官殿よと怪しめらるるは」。弁慶が安宅の関で見えを切っているときのシーンの画家独特の造形表現である。弁慶が三方向を睨んでいる。棒を握り締めて、足踏みしながら見えを切る。黒いバックの中にそのポイント、ポイントがピックアップされて構成される。力強い韻律が画面から聞こえてくる。また、黒に幽玄な雰囲気のあるところも興味深い。

 石﨑琇子「組曲 B」。黒いテーブルに白い花瓶。そこに白い花がたくさん挿されている。白い巻貝やアコヤ貝のようなフォルム。バックにカーヴする紫やグレーのフォルム。光の中に静まりかえってキラキラと輝くもの。下方の大きな葉はフラットな色面として中心を支えている。独特の陰影の中に希望の光のようなイメージが表れる。

 岩田博「希望」。五体の関節人形のような女性が描かれている。倒れかかっていたり、座っていたりする。重力に抗して立ち上がろうとする。そんな拮抗する動きが、この作品の独特のリズムをつくる。左から二番目のほとんどグレーの淡いフォルムとその横のフォルムは、立ち上がって上方を眺めている。しかし、ともすれば重力によって倒れかかっている。下方の赤や濃いブルーの重い地上的な色彩に対して光の色彩があらわれて、それに向かおうとする。赤い色彩は一部壊れて崩落して、ちょうど津波のあとに壊れた建物を思わせるところがある。人間の運動というベーシックな力を使いながら、人間力を画面につくりだしているところが面白い。

 森岡謙二「ヴォールドな空間」。ヴォールドとは穹窿の建築様式のことであるが、その柱が赤い強いカーヴするストライプによってできている。左のほうは、そこにステンドグラスが嵌められた様子が描かれている。じっと見ていると、それは傾いていて、教会の内部が左右に振り子のように揺れているような不思議な印象がある。それに対して、柱が繰り返しながら暗い調子のなかに続き、その向こうにアーチ状のもう一つの空間が垣間見える。その暗い回廊のような緑の空間の向こうにもう一つの不思議な存在があらわれている。上方に飛ぶ蛾のような三つのフォルムは魂の象徴のように感じられる。今回の津波や福島の原発事故に対する深い思いからこのような空間があらわれたのだと思う。この奥深い紫や緑の繰り返しながら向こうの世界に向かう印象には、実に痛切なイメージが感じられる。言ってしまえば、現世とあの世の中間、それをつなぐ回廊のようなイメージもある。それに対して揺れるような赤い柱とステンドグラスやその中に嵌めこまれた色彩、あるいはその周りのピンクや黄色や赤の色彩は、生命というものに対する画家の深い感情からあらわれたように思われる。独特の心象空間が教会をテーマにした中から生まれる。

 深見まさ子「静思奏でる」。会員賞。題名の静思には生死の意味もあるのだろう。たらし込みふうな茶褐色のトーンがふかぶかとした雰囲気で、月光のなかのレクイエムといった趣も感じられる。

 友政光雄「家路」。会員賞。落書きをするような雰囲気でベージュの空間に線路や自転車、建物、電信柱などが描かれている。上方のジグザグのフォルムは、激しい雷とか激しい自然現象を表すのだろうか。上方から雪が下りてきているような白いドリッピングがある。惻々として人恋しい懐かしい雰囲気が画面から寄せてくる。ところどころ描かれている電信柱が、そのあいだに巡らされた電線を通して心のコミュニケーションのシンボルのように現れているところも興味深い。

 阿部正明「望郷」。会員賞。三つの顔が組み合っている。中心の顔は深い悲しみをたたえているようだ。両側の顔は希望とか遠くのほうを眺めているような雰囲気である。今回の津波や福島原発の事故に対する深い思いからこのようなイメージが表われたものと推測する。考えてみれば、たとえば阿修羅像の三面六臂のフォルムも戦乱の中から生まれたものだろう。仏教美術の伝統なども背後に感じさせるところがまたこの油彩画の面白さである。人間の顔の表情を突き詰めていくと、能面のようになる可能性もあるが、そういった要素も組み込みながら、独特の心象的な人物像として注目した。

 塙珠世「天使からの架け橋」。大作で、上方に女性が足を伸ばして、腕を広げて、何かを包み込むような雰囲気である。下方では少女が地面の上に立って両手を水平に伸ばしながら何か踊っている。建物と上方の黒い衣装をまとった女性の天使のようなイメージに対して背後の赤。赤が圧倒的な強さでこの下方の女性を守っているようだ。守るというイメージが独特のダイナミックな構成のなかによく表現されていると思う。

1階─4室

 寺田眞「絆」。グレーのベージュの空間に独特の、この画家ならではの深さと手触りがある。上方に七匹の鼠が集まって、お互いに会話をしている。なにか不安そうな趣である。それに対して右側に頭を低くした鼠の上半身。左端にはその下半身が長い尾をもって描かれている。下方の壁に亀裂が走っている。十字がずれたかたちである。地震によるずれを表すように感じられる。天災のときは鼠はすぐに逃げ出すという。それほど自然のことに敏感な鼠たちが、今回の津波や原発についてお互いに会話しているといった趣である。画家は動物に託しながら様々な微妙な心象を表現する。上方のかわいい鼠たちのそのフォルムに対して、下方の堅牢な石でできたような肌触りのなかの深い亀裂。その黒い亀裂の向こうにある何か。深い地中の世界や死の世界なども暗示されて、独特のモニュマン的なコンポジションになっている。とくに下方の壁では、無言のなかにおれた十字のフォルムによって静かにその恐ろしさを語ってくるような、独特のニュアンスが感じられる。

 金澤英亮「INNER SPACE」。一〇〇号の正方形を二枚横に重ねて、独特の余韻をつくる。抽象形態であるが、時間が入れられた空間になっているように感じられる。左のほうの柔らかな光。それに対して暗い三つのボックス。右下のグレーの矩形。明と暗とのコントラストのなかに日々の時間が静かに流れていくといった趣。

1階─5室

 木脇秀子「ひととき」。夜に女性は手帳を広げて様々な思いにふける。そんな様子が優しく歌うように表現されている。すこしピンクを帯びた顔の表情。右手はワイングラスを持ち、左手は花を持っている。バックの椅子の背が面白く、そこに様々な野の花のイメージが置かれ、その背には白い鳥が来てとまっている。月は線描きで表現されているが、その月の黄色い色彩が下方のテーブルの上のレモンのようなフォルムになって置かれているのも、面白いイメージの変換である。その意味では黒いテーブルはそのまま夜の空間、その密度を表すようだ。白い鳥がそばに来て何事かを囁く。画面全体に鳴る静かなノクターンのような旋律が優しく鑑賞者を癒す。

 鬼頭恭子「風の刻 2011」。ゆるやかに画面の中に風がわたる。フォルムは静かに回転しながら、様々な記憶のなかに鑑賞者を誘い込むようだ。黄土や黄色、茶色、青などの色彩が散りばめられている。両側に二つの顔が見える。足と手が何本も現われ、回転しながら宙を過ぎていく。茶褐色の色彩に落ち着いたトーンがあって、安心感がある。ここへ吹く風はメモリアルな夢想のなかにあるようで、開放感を人に与え、様々な想念のなかに人を引き寄せる力がある。

 中村佳阿瓔「TIME TRAVEL-Ⅲ」。見ていて楽しい。優雅にゆるやかに踊るような動きがある。上方から朱色の色彩が大きく入ってくる。それに対して右のほうの暗い緑の中に明るいエメラルドグリーン系の緑の丸い不定形のフォルムが連続して七つ。それがまるで光合成のなかの植物のイメージを表すようだ。存分に戸外の空気を吸って静かに立ち上がり、息をする。そんなイメージが独特のこの抽象形態のなかに感じられる。すべてのフォルムに独特の浮遊感が感じられ、お互いにハーモナイズするところが魅力である。

1階─7室

 水谷正「回帰」。円弧がたくさん集まって不思議な力があらわれる。独特のスリリングと言ってよいような均衡のなかに配置されている。下方には三人の男の顔。中心には上半身。機械を思わせるようなメカニックな雰囲気。たとえば旋盤工などが緊張して仕事をしているような。曼陀羅状の構成の中心に黒い円形のフォルムがそれらを統合するように置かれているのも面白い。

 米田安希「みち」。太った男女が自転車に乗って、こちらに進んでくる。そのフォルムがユーモラスで面白い。独特のバランス感覚のなかに色面構成的にフォルムが扱われていて楽しい。

 井上裕義「311」。機械でできたような二羽の梟。木のバーにとまっている。胸から下げた時計には三時前の地震の起きたときの時刻が置かれている。もう一羽の鳥はホイッスルを胸に吊るしている。下方に洋館が円状に配されている。レクイエムのように黒い紫のチューリップと枯れた向日葵が両側に脇侍のように立っている。グレーのトーンの中にこの悲しみと驚きの表情をした機械でできた梟。王様のような冠をかぶせられた梟は画家自身の自画像と言ってよい。悩ましい表情と驚き。まさに誰もが今回の津波に感じるイメージを、一種ユーモラスななかに表現して面白い。

 渡邉丞「チムニーのある景」。独特の強いマチエールのなかに煙突が立ち上がってくる。その煙突はすこし壊れかかった雰囲気である。煙突の上に三角錐のようなフォルムが置かれて、そこに黒い調子で描かれているのが、まるで人の顔のように感じられる。下方の丸いごつごつとした組んだ石の塊。上方には黒いバックに煙突のある建物群があるが、廃墟のようなイメージがある。画家は煙突を建物の息をするところ、あるいは空気を吐き出すところ、建物の生命の象徴のように描いてきたが、今回はそれの壊れた様子が、独特の哀愁のなかに表現されている。

 大野哲司「希望の門」。緑の中に赤い色彩が強く輝く。赤は太陽を思わせる。また、命そのものの輝きを表すようだ。と同時に、なにか哀切なものが緑とのハーモニーのなかに感じられる。地震のなかに画家は日想観というか、太陽を観想しながら深い癒しの表現を与えたように感じられる。二つの円弧があらわれ、その向こうに橋や建物の風景のイメージが表れているところも興味深い。

 柳田邦男「時の中で―共に生きる―」。女性たちのヌードの群像である。キュービックな処理で、下方からV字形にたくさんの女性たちが座ったり立ったりしている様子を構成して、全体で柔らかで温かいハーモニーが生まれる。この連続したかたちの中にお互いの響き合いが生まれる。

 楯岡和子「夜の森」。蝶やイモムシや花や樹木などが画家独特の感覚のなかにデフォルメされ、ぐるぐると回るような動きのなかに表現される。家や扉も同じようなかたちで表現されているようだ。そして、それら全体でもって独特の生命感と色彩のハーモニーがあらわれる。

1階─8室

 益子佳苗「空」。重い赤が画面の相当の量を占める。そこに月のようなフォルムがあらわれ、上方を見る女性が下方にいる。深沈とした沈んだ雰囲気のなかに深い感情があらわれる。フォルムは力強く、独特の重量感がある。全体で一種ステンドグラス的な色彩の輝きのあらわれているところが興味深い。

 藤橋秀安「晩秋譜」。上方にチェロを弾く男がいる。そばにはサックスを吹く男のシルエット。その音色に沿うように幾重もの水平のラインがあり、そこに樹木のフォルムが繰り返されるように入れられている。秋の音色を思わせるような旋律が画面から流れてくる。すこし寂しいなかに緑の月が浮かび上がる。グレーの空間もしんみりとしている。

 阿美代子「誘われて」。中心に新月があり、右上に満月があるようだ。その新月の周りに小袖が舞っている。あいだには長襦袢も舞っている。そして、黄金色の花びらが散っている。その中には来迎する仏の姿がある。日本人にとって「死を視ること帰するが如し」という言葉があるが、それは懐かしいから帰るという意味である。そんな死のイメージが明るいものとして絢爛とした雰囲気のなかに描かれていて、感銘を受ける。満月と新月とのあいだ、その時間がはかない人の一生かもしれない。そんな一種童話的なイメージも、この踊るような、小袖の動きのなかには感じられる。そして、紐あるいはリボンのようなものが二つ揺れながら、人の縁とか運命といったもののイメージを引き寄せる。

 尾崎ゆき子「エンド ファイト」。正面向きの顔、横向きの顔などが組み合わされて、独特である。正面向きの顔は悲しみのなかにいて、そこから立ち上がっていく顔が横向きに描かれているようだ。じっと見ていると、笑っているイメージもあるし、歯をくいしばっているイメージもあって、刻々と顔が変わっていくような印象を受ける。そのようなムーヴマンが画面の中にあって、それが人間のヴァイタルな力を引き寄せる。

 鎌田道夫「幕間」。三人のピエロ。ヴァイオリン、アコーディオン、トランペットを持っている。建物の向こうにいま日が沈みつつある。幕間というイメージが夜と午後との中間のイメージと重なりながら、独特の哀愁感の漂う時間が画面の中に引き寄せられている。放心の中にいる三人のピエロは悲しみのなかにいるようだ。

 小出和枝「では何を話したいのか」。シーソーのようなフォルムが画面の中心に傾いて置かれている。きわめて不安定ななかにバランスをとった雰囲気のあるところが面白い。空や雲と思って見ているところに人間の顔が現れる。左上の白い顔。右の端の高い鼻をした男。その胸の中にもう一つの顔が現れ、煙を出している。と思えば、左下には仰向けの緑のフォルムが顔で、そこからも煙を吐き出している。黒い太陽が上方にのぞく。お互いに勝手気ままに話をしながら、そこにバランスができているが、実は真実の声らしきものは聞こえてこない。地震の後の国会の議員たちの会話のような雰囲気もある。それをヌーボーとした空の中にはめこんで表現するところが画家のエスプリである。奇妙なユーモアと不安感とが相まった独特の表現である。

1階─9室

 縄井かつみ「沈黙の時」。厚い手触りのあるマチエールの中に女性の肌がしっとりと描かれる。頭に手を置き、左手が黒い敷布の中にくっきりと浮かび上がるポーズ。その左側に逆立ちをした女性のフォルムが、柔らかな水墨調のなかに浮かび上がる。津波によって被害を受けた人々の心に寄り添うような表現だと思う。しっとりとしたこのマチエールは北国のマチエールと言ってよい。

 田中節子「スピリット、躍(やく)Ⅰ」。F形の画面の中にたくさんの矩形が置かれ、それがだんだんと小さくなっていく。きわめて求心的なコンポジションである。その上下に球と稲妻のようなジグザグの赤いフォルム、線があらわれる。画家のつくりだした曼陀羅と言ってよい。内側から一つの種が芽を出すようにフォルムが伸び、それが光を引き寄せ、稲光のような空間のダイナミズムを引き寄せる。刻々と動いていく時間。非常に小さな、ささやかな自分自身の感性と途方もない広がりをもつ宇宙ともいうべき空間とのあいだに、橋をかけるようなかたちで一つひとつ丹念にフォルムをつくりながらフォルムが広がっていく。放射していく方向と求心的に中心に向かう方向とは基本的には同じムーヴマンである。いわば呪文的な力、ムーヴマンがしぜんと鑑賞者を惹き寄せる。

 竹内幸子「無音の光(樋野氏に寄せる)」。無音の光とは面白い言葉である。不思議な少年を思わせるような生き物が手探りで歩いているような趣。強いマチエールのなかに、ちょうど炭鉱の中などの人力によって掘り進める坑道などの先がわからなくなったような雰囲気。あるいはほら穴の中を微かな光を頼りに歩くような雰囲気。そういった道に迷ったような中にあらわれてくる強い想念やエネルギーが、作品から感じられるところが面白い。下方には傾いた建物が見える。福島原発のイメージだろうか。上方の人の顔と思われるなかに亀裂が入り、地図のようになったフォルムもまた面白い。

 藤田由明「激湍に優曇華の花」。優曇華の花は梵語から来ているが、三千年に一度花が咲くときに仏が現われるという意味もある。激しい津波のイメージが大きなストロークのなかに描かれているが、それらに挟まれて黄金色の光をもった存在がいま現れつつある。悲しみを癒す神々しい存在。その激しい抽象的なイメージを画家はこのようなコンポジションの中に表現する。

 古野紀征「村の朝」。メキシコの人々と大地と教会が描かれているようだ。大きな樹木も切り株もそれぞれが踊っているような楽しさである。朝という題名で、山の向こうからいま日が昇りそめているような雰囲気。そんな時間帯に教会に松明を持って朝のミサに人々が行っているのだろうか。それぞれのフォルムが有機的につながっている。そして、大地とともに教会が存在し、樹木もそうだし、人間もそのように生きている様子が楽しく、そのまま全体が同調する鼓動のように表現される。アンティームでナイーヴな表現に注目。

1階─10室

 井上知枝「三角山のこいのぼりたち Ⅰ」。植物も山も太陽も星もみんなが子供のようになって潑剌と踊り、輝き、お互いに合唱しているようなきらきらとした雰囲気に惹かれる。生命というものの最も純粋なイメージ。宮沢賢治の説話に出てくるようなイメージが絵画的に表現される。

 川井幸久「氷瀑(袋田の滝)」。上方から高い段差のなかを水が下りてくる。いくつもの滝になって、近景下方に向かう。流れてやまないその激しい水の流れが氷結し、静止した様子がヴィヴィッドに描かれる。まるで時間がそのまま凍った水の上に浮かび上がったような雰囲気である。近景の量感のある滝の表情。滝を見ていると、時間を眺めている気持ちになる。時間が止まった瞬間にそのときの水のポジションがあらわれる。量感をもって凹凸のある水というものの不思議な姿が現前化される。おそらく滝の流れが止まるときは瞬間的に止まるのではなく、時間の推移のなかで徐々に凍っていくのではないだろうか。そうすると、この中にはたくさんの時間の推移が、それぞれの時間の層が積み重なっているように感じられる。ストップモーションだと一瞬の切り口だが、ある部分から徐々に凍りながらこの状態に達したその時間の推移、時間の層というものが、空間に重なるようにあらわれる。それは時空間の不思議な謎をわれわれに投げかけるようだ。

 鶴岡義詮「流」。両手を頭に置いてひねった女性の裸。豊満なフォルムがゆるやかなカーヴと量感をつくる。バックは青い空間である。そこに緑のラインがところどころあらわれる。ミステリアスなオリエントのイメージ。これまで顔にヴェールをかぶせてきたケースが多かったが、ヴェールが外されると、よりミステリアスな雰囲気が漂う。ところどころスポットライトが当たり、膝の一部や顔や髪の毛の一部は暗くなる。そんな陰影の強いコントラストが、よりミステリアスな表情をつくる。月のように、夜のなかにゆるやかに踊るようなイメージが表れる。そんなイメージは天空を動く月のイメージとも重なる。女性のもつ強い生命感と母性的な要素と恋人ふうなエロティックなイメージ。様々なイメージが重なるなかにこの妖しい女性の姿がクロスする。

 戸狩公久「津軽海峡」。岸壁の上に四艘の船が揚げられている。雪が積もって、そのしっとりとした白のニュアンスが独特のロマンティックな輝きを見せる。暗い海の向こうに陸地が見える。民家が小さく点々と見える。津軽海峡というポジション、その歌にもうたわれた言葉を通して、イメージのなかの本土と北海道の光景が表現される。雪がしっとりとしたなかに、冷気が漂うなかに人恋しいイメージが表現される。懐かしいメロディが聞こえてくるようだ。

1階─11室

 工藤孝城「人物」。椅子の上に座る女性。右足を椅子の上に置いたポーズ。独特のムーヴマンがあらわれる。画家の鋭敏な運動神経ともいうべきものが、この女性の若々しい生命感を追求する。左に赤いフォルム、右に雪のようなしっとりとした不定形のかたちがあらわれる。パッションと純潔。若い女性のシンボリックな姿。デッサンによってできたかたちが鑑賞者を惹き寄せる。

 館礼子「'011 東方のみやげ Ⅳ」。テーブルの上にコンポート、その上に林檎や葡萄、壺。白い晒したような白々とした空間に線描によって果物や本のフォルムがあらわれる。その周りの赤のグラデーション。静物の上に画家は記憶の軌跡をたどるように線を引く。上品でエレガントな美意識が全体を統合する。

 毛利弘子「風そよぐ大山千枚田」。柔らかな空の下に緑の斜面がある。そこに木立が黒々と表現される。ところどころに深い影があらわれる。柔らかな斜面をもつこの山の頂上に向かうフォルムのなかに、深い陰影があらわれる。それに対して白い雲が無垢な動きをあらわす。

 相澤道子「天空の舞」。フラメンコを踊る女性をクリアなフォルムのなかに表現する。プロの仕事である。周りに胡蝶蘭が蝶のように舞う。

1階─12室

 佐々木里華「それぞれの空へ」。赤いワンピースを着た女性。その後ろに腰を屈めている二つの後ろ姿のシルエットが振り子のように揺れている。夏が終わり、秋が来る。季節の分かれ目の歌のようなイメージが、独特のコンポジションのなかに表現される。

 加藤ひとみ「刻―秋韻」。暗いグレーの中に三つのスクリーンがある。裸木が柔らかなオレンジ色の光の中に立っている風景である。それを背景にしてほうろう引きのポットとピンク色の布、その下方からも葉のない枝が伸びている。秋韻という題名のように、冬に向かう季節のもの寂しさと、夏に比べてくっきりとものの見えるそんな感覚を感じる晩秋の季節を象徴的に画家は表現する。いわばグレーとベージュ色のポエジーともいうべき世界があらわれる。

 有水基雄「競う」。画家は剣道の達人である。鹿児島は示現流で有名だが、二組の剣道の試合を独特の強いムーヴマンのなかに生き生きと表現している。黒いグループと白いグループとが対照され、あいだにオレンジや赤のバックを入れて、まさに「日本人、立ち上がれ」といった、そんな励ましのようなイメージも感じられる。円弧の連続したなかに独特の激しい韻律が生れる。

 江﨑榮彦「まわり燈籠の絵のように」。細長い画面の中に横断歩道を上下に配し、周りを翼のように暗い調子で彩色し、十五人の傘を差している男女を上から俯瞰したかたちで描く。中に子供もいるから、トータルでは十六人になる。思い思いの方向に傘を差して歩く人。ビニール傘に外のイルミネーションなどの環境が反映する。動くたびにその光の当たり方が異なる。また、変化によってビニール傘の向こうに人の姿が現われる。いわばビニール傘はその人の日常あるいはコンディションで、それを通して回り灯籠のように様々な人のイメージが浮かび上がる。それが十字路のなかにあらわれる。それを独特の明暗のなかに表現し、独特のメロディを表す。

1階─13室

 大松峯雄「消えた町 3・11」。強い画面である。円形あるいは同心円のものがお互いに関係をもちながら、実に強い動きをあらわす。上方の黒い中の黄金色の球は祈りのようだし、赤はパッションを表すし、紫は苦しみを、青は天空の虚無のようなイメージを表す。津波によって亡くなった人々に対する鎮魂歌が画家にこのような生命的な世界をつくりだした。まさに色即是空、空即是色の世界。東洋的なその感性の抽象的表現と言ってよい。

 入佐美南子「existence 2011」。存在しているものが命を胚胎し、徐々に体温をもちながら広がっていくようなイメージがよく表現されている。ボーッとした中に色彩が静かに輝く。

 冨士谷隆「ラブレター」。上方のノンシャランな黄色みがかったフォルムや青みがかったグレー。それに対して黒い空間がたらし込みふうに大きく広がり、中に赤い糸のようなフォルムが伸びていく。恋文は赤い糸を結ぶのだろうか。文学性を面白く造形化する。

 前田芳和「鎮魂と再生」。ストライプのフォルムの中に抽象的な様々なフォルムがあらわれる。左のほうには帽子をかぶった一人の人間。その周りは不思議な青い蛍光色のような色彩で彩られている。様々な人の思いがレクイエムを奏でるなかに、生きていこうとする意思が画面に刻印するように表現される。両側の黄色いフォルムはその象徴のようだ。

 木戸征郎「春秋」。庭の石。石が人間のような表情をたたえる。その石が羅漢さまのようなフォルムをイメージさせる。長い時間のなかに風雨に晒されながら存在する羅漢。きわめて日本的な自然と人間とのクロスする世界。はるか向こうに樹木が立ち、この石を斜光線が染める。白々とした雰囲気はまさに風雨に晒された姿である。その中にもこもことして動き出すような不思議なエネルギーが感じられる。禅的な空間と言ってよいかもしれない。一つの公案を鑑賞者に突きつけるような趣である。

1階─14室

 須藤愛子「Le Vent(風)―胎動」。キース・ジャレットの即興的ジャズを思わせるところがある。下方に左右に動くうねうねとした黒いフォルム。すこし斜めに上方に立ち上がってくる黒いフォルム。ジョンブリヤン系の色彩。灰白色。まるで稲妻が画面の中を下りて縦横に走り回るような様子。まさに胎動という題名のように激しいイメージが立ち上がり、あらわれ、衝突し、もう一つの動きをつくりだしながら、その命を孕み再生するピュアな力を画家は画面の中に描いたようだ。一つのセッションは次のセッションを呼ぶ。黒とベージュ。その中に白が清潔に純潔に上方から下方に下りてくる。ベージュは画家の優しいスクリーンの色彩のようだ。そこに強いムーヴマンをもって立ち上がってくる決意。命の力。その深いビートのきいた音色が筆者にじかに働きかける。黒が実に深いニュアンスをもつ。動きと同時にそのうねうねとするフォルム自体の中に、ある人間的な空間が表現される。

 本間千恵子「刻音 '96」。様々な歯車の断片のようなものが配置されている。それが時を刻む。歯車の形が画面の構成上の要素として面白く扱われている。そこに広場がある。向こうには建物がある。鳥が飛ぶ。一本の傘。空間と時間。時間のほうを空間より強調するようなコンポジションである。それによって通常の空間がデフォルメされる。暗いグレーの深い空間のなかに白いフォルムが浮かび上がる。時間によって浮かび上がった空間の表情は、なにか不思議な歴史性ともいうべきイメージを獲得する。そして、そのなかに歯車が回る。社会の時間、一人の個人のなかにある時間。様々な時間がお互いに合唱するなかに、白々と晒された広場が広がっていく。

 今村幸子「白い午後」。白が不思議なニュアンスをもつ。その中に線と点々によってほとんど抽象的なフォルムがつくられる。それが建物を表し、一個のグラスを表し、時間そのものの時の刻むようなイメージを表す。上下のベージュのしっかりとしたボディのある色面。そのあいだの黒い、まるで命の無意識の流れのような横長の大きなライン。その上に光のなかに輝くような灰白色のマチエールをもったフォルムの中に前述した抽象的なフォルムが浮かび上がる。イメージが客体化され、目の前に掌にのせるように浮かび上がる。詩的な感性のユニークな造形表現である。

 大塚章子「主よ人の望みの喜びよ」。赤が熱をもって鼓動するような性質で使われている。それに対して緑が天空を思わせるような深い色彩であらわれる。黄金色が神を荘厳する光背のようだ。上方に赤い衣装を着た女性が不思議な印を結びながら大きな瞳で現れる。下方に何人もの人が頭を下げ、五体投地をするような雰囲気。あるいは何かに触るように手を伸ばす。祈るような群像が現われる。画家は人々の希望を肯定する。希望から世界が成り立っている。悩みや苦しみを超える人々の願いや望みを神は肯定すると大断言するようなダイナミックな動きと強い色彩のハーモニーが鑑賞者を惹き寄せる。画家自身のつくりだしたユニークな祭壇画の趣がある。繰り返すようだが、とくに赤と緑の二つの色彩の深く強い性質に注目。

 浅賀昌子「レクイエム」。上方からフォルムが溶けて流れ落ちてくる様子。それに対して矩形の額のようなフォルム。市松状の千切れた形。まさに今回の津波のイメージ。家族や都市や連帯した有機的な秩序が崩壊した恐ろしさ。暗い空間。画家は静かな祈りを描く。

1階─15室

 中川功「早春賦 (Ⅰ)」。会員推挙。様々な女性のフォルムを組み合わせている。おもに寝ているポーズや座っているポーズ、横向きのポーズ。そのアウトラインによって独特のリズムが生まれる。

 餅原宣久「時感 11─Ⅹ」。二科賞。三人の立つ女性。背後に抱き合う男女の後ろ姿。その向こうに手をつなぐ四人の少女。歩く一人の女性。ぽつんと立つ前向きと後ろ向きの二人の女性。いずれも細長く引き伸ばされた女性のフォルムである。女性がそのまま地球の悲しみのようなイメージと交感しているように感じられるところがロマンティックに思われる。孤独のなかに懐かしさと人との連帯感を求める。暖色の温かさのなかにひんやりとした味わいが感じられる。ユニークなコンポジションである。

 石関和夫「はじまりの日 Ⅱ」。会員推挙。

両手を組んだ若い女性は強い決意のなかに立っている。背後に娘と思われる少女が横たわっている。藤田嗣治のフォルムなどに尊敬の念をもっているのだろうか。ディテールが生き生きとしている。また、しんしんと雪の降っているような、そんな静寂感も魅力。

1階─16室

 浅井泰雄「街角で(人形つかい)」。操り人形をする老人。そばに孫娘のような存在がバンドネオンを鳴らしている。背後に建物が並んだ街が見える。一つひとつのフォルムがクリアで、それによって独特の韻律が生まれる。

 高橋秀「家のある風景 Ⅰ」。裸木と白い家。独特の遍満する光を組み合わせながら、風景の中に精神性というものを表現した作品として注目。

1階─18室

 野口睦幸「丘の家 1」。白やグレーの建物。ピンクや赤い屋根。道。川。丘。自然の要素と家や広場をピックアップしながら、独特の音楽的なコンポジションをつくる。グレーのバックの中に色彩が置かれ、その手触りのあるマチエールと相まって、独特の生命的な雰囲気が創造される。何層にもわたって繰り広げられる自然と建物のフォルムから、独特のリズムとメロディがあらわれる。それを支えるしっかりとしたマチエールも魅力。

 會澤佐智子「ランプの詩」。ランプがたくさん描かれている。木の枝に吊るされているランプもある。まるで灯籠のようなイメージのランプもあるし、テーブルの上に置かれた存在感のあるランプもある。青い大きなグラスのような花瓶にアネモネのような花が生けられている。青が主調色となっている。青とグレーの中にピンクや紫、黄色の色彩が散りばめられて、独特のロマンティックな雰囲気があらわれる。中心から伸びる一本の樹木の幹から枝にわたるフォルムとランプの配置によって、日常のなかに発見した詩が優しいメロディを伴ってあらわれる。

 織田清子「生る Ⅱ」。会友賞。裸婦が仰向けに横たわっている。そこにベージュやオレンジ、緑、ピンクなどの色彩が散りばめられている。右のほうのピンクのバックは空を思わせるような空間を感じさせる。この仰向けの女性は夜のなかにいるようだが、昼の光もそこに入れられ、朝の光も、夕方の光も入れられて、複雑なニュアンスを醸し出している。独特の存在感をもつフォルムと一日の様々な光を寄せられた独特の象徴的な表現で、まさに生きるという題名にふさわしい。

2階─1室

 水野興三「風の街(3)」。会友賞。ビルと民家、山、道、雲などが自由に集められ、ゆるやかな動きのなかに構成される。ゆっくりとした時間がなかを流れる。交通標識が浮かんでいるのも、面白いアクセントである。

 竹淵直美「二元論」。損保ジャパン美術財団奨励賞・会友推挙。二人の少女。一人は大きな本を広げてひざまづいてそれを見ている。もう一人は屈んで反対方向を向いている。顔が見えない。斜光線が差し込む。陰影をつくる。人間というものの心や魂が、ある不在感のなかにあらわれるような不思議な雰囲気。ある怖さが感じられる。人間の心の深い闇がこの斜光線の中にあぶりだされるように立ち上がってくるようだ。書物を読んでも、それは変わらない。そんな独特の形而上的なイメージを二人の女性を構成しながら、光の明暗のなかに表現してユニーク。

 北村美佳「RAIL WAY Ⅰ」。パリ賞。たくさんの線路がまるで心の中のスクリーンのような空間に描かれる。街並みが現れ、電車が進む。信号標識はいま緑。フリーハンドの円弧が詩情の軌跡のようなイメージとして表れてくるところがユニーク。

 富永穆「創造」。カーヴするフォルムがいくつもいくつも現れ、螺旋状に渦巻くように展開していく。三つの球が浮かんでいるのが、まるで水晶球のようだ。その中に強く念じてイメージをあぶりだす。雪山。胎児。津波のあとの地球。海。背景では運河が円弧を描き、ビルを映しながら流れる。そこからカーヴする橋が立ち上がり、それは虹のようなフォルムにつながっていく。目の前にある現実がミステリアスな世界に変ずる。強い想念の力がそのまま絵画として結実した面白さと言える。

 星野敦郎「SHELL」。巻貝と二枚貝。二枚貝はアコヤ貝のように大きく波打っている。カーヴや渦巻き状のフォルムが、裸の女性の屈んだフォルムに相似の動きをつくりだす。女性は頭に巻貝をかぶり、耳にも巻貝がつけられている。「私の耳は貝の殻 海の響きを懐かしむ」というコクトーの詩も思い出される。気球が空に飛び、スピーカーから優美なメロディが流れる。

2階─2室

 狩谷昌孝「See you again」。バッグを持って訪問先から別れて戸外に出ようとする女性。犬がそばで笑っている。それぞれのフォルムがすこし漫画的に変形され、独特のユーモラスな表情をたたえる。物語性も存在して、独特である。

 大森由紀子「harmony Ⅲ」。若い女性が両手を前に伸ばして、すこし屈み込んでいる。フォルムが力強い。長く伸びた腕から手にわたるフォルムなどは独特のなまなましさで、鑑賞者にその手が迫ってくるところがある。

 杉山茂子「牛と共に Ⅰ」。重い存在感を放つ作品。背後に牛がシルエットに浮かび上がり、悲しみの男の顔が浮かび上がる。育てた牛を口蹄疫であるとか、あるいは今回の原発事故で殺さざるをえない牧畜者の顔。深い悲しみをたたえた表現である。

 渡辺美加「にちようび」。若い母親と女の子が向かい合っている。若い母親はテーブルをクロスごと両手で移動させ、椅子を持って少女がついていっている。背景に桜が咲いている。一つひとつのフォルムが実に緻密で、独特の強い力をもつ。その稠密なフォルムが全体で相まって、ゆったりとした平和なハーモニーを奏でる。

 太田京子「ハイデルベルクの月」。座る女性。箒にまたがった魔女。窓の向こうの月。雑誌。紫がかった茶褐色やベージュの落ち着いた色彩の中に、線によって楽々とフォルムがつくられる。生き生きとしたイメージの展開である。絵画の中ではハイデルベルクで見た月もごくしぜんに引き寄せられて、女性のそばに存在する。イメージの自由な展開を魔女の箒のように表現する。

2階─3室

 伊藤よし子「想―みつめる―」。人の顔が風景に変じている。目は空となって裂け、星のような瞳が二つのぞく。花は巨大な煙突のようだ。頰のあたりは大地のようなイメージになる。顔が分解し、風景となってあらわれ、近くなったり遠くなったりする。その不思議な存在が面白い。

2階─4室

 大田幹一「電車を待つ風景 A」。向かいのホームに立つ四人の男。近景には、上半身だけ六体の男性の顔が描かれている。しっかりと表現されている。独特の存在感が魅力。

 髙橋徳子「里の保育園―1」。色彩が温かく、しぜんと画面に引き寄せられる。樹木の周りのベージュのフォルムは桜が満開に咲いているイメージを表すようだ。ブランコ、ジャングル・ジム、樹木。一部は線描によるフォルムである。フォルムがお互いに絡み合いながら、独特の豊かで安息感のある平和な情景が生まれる。

 中村久子「海の華」。青と黄色、緑との色彩が輝く。お互いにテンションの高いハーモニーを奏でている。海のもつ生命を養う力とその豊かさがよく表現されていると思う。おそらく岩絵具を使っていると思うのだが、独特の色彩感覚である。

 田口正子「ピエロ」。赤い帽子をかぶったピエロ。黒い衣装に緑や黄色の紋様がつけられている。この役者は悩ましく、なにか人間の内面の底にある苦悩を表すようだ。下方に男女の面のようなものが現れて、このピエロを眺めているのも象徴的である。

2階─5室

 田口郁子「何処へ(いずこえ)」。イスラムふうな衣装をまとった女性。ヴェールに包まれた横顔。目を閉じて深く祈っている。右手が胸に当てられて、左手が前にすこし出されているが、神の恩寵を祈ろうとしているかのようだ。背後は、頭に籠を持っていたり、あるいはやはり胸に手を置いていたりする女性たちの群像である。深い悲しみのなかに彼女たちは歩いている。そんな行列のように感じられる。その悲しみの行列の人々を、手前の女性は祈りによって癒そうとするかのようだ。行列の向こうに巨大な満月と思われるフォルムが現れてきているのは、手前の女性のイメージと深くかかわっているのだろう。想念は風のようにこの行列の人々を包み込んで、黄金色の光の中に囲み込もうとする。信仰というものの力がしぜんと画面から感じられる。

2階─7室

 森山修「群鶏立像 Ⅱ」。四羽の軍鶏が立っている。まるで猛々しい誇り高い戦士のようなイメージ。その毅然としたフォルムが魅力である。中心の赤い鶏冠の軍鶏が王様で、それを三人の幹部が取り巻いているような雰囲気。「立ち上がれ日本」という言葉が氾濫しているが、今回の津波などの被害に対して、まさに立ち上がって、その困難を見据えながら解決しなければいけないといった気概が、この軍鶏に感じられると言うと、深読みに過ぎるだろうか。いずれにしても、擬人的な表現による面白さである。

 浅野はま江「時空の風」。たくさんの茶褐色の花に囲まれた女性。女性は白いイヴニングドレスを着て、二つの翼をもっている。今回の津波の不幸な人々を、もし羽があるならば飛んで行って癒したいといったイメージなのだろうか。優しいエレガントな表現。地味な色調であるが、その純粋で優しいイメージに注目。

 谷美津子「あの歌をもう一度(Ⅰ)」。明暗のグラデーションの中に赤い色彩が激しく立ち上がってくる。希望や命の象徴のような赤が強い印象である。人の住む生活感のある街の中から、その希望が空を彩るようなイメージ。

2階─8室

 上原さつき「天蚕 No.1」。繭のイメージ。繭の中で瞑想しながら、だんだんと新しい命を獲得する。そのゆるやかな動きのようなもの、時間性のなかの想念が、面白い抽象形態のなかに表現される。

2階─9室

 端山操「マヤ文字の世界」。真ん中にたくさんの花の入れられた大きな籠を背負った女性が立っている。マヤの精霊の中から現れてきた象徴的存在のようだ。その周りにマヤ文明の彫刻やレリーフから現れたフォルムが立っている。おそらく自然と深く共生しながらかかわりあったと思われるマヤの世界に対する賛歌の気持ちが、このような不思議な像をつくりだしたのだろう。

 松嶋美保子「浮遊(青)」。紫の中に黄色が不思議な力をもって立ち上がっている。命が芽吹き、連続しながら伸びていく。肯定的な希望を表す色彩にも注目。

 稲本玲子「椿姫オペラ」。指揮者と団員が弦楽器や管楽器を奏でているのを背景にして、歌手が朗々とした歌声を響かせる。一輪の花を手に持って。それが独特のデフォルメのなかに表現されて、楽しい。

 汐待和子「想定外シリーズ(2) 折れた心」。ある混乱のなかの表現である。今回の地震や津波から触発された表現だと思う。建物があり、壊れた柱があり、破れた心がある。女性のボディの胸のあたりが空洞になり、青く抜かれて、その向こうに波が騒いでいる。下方では魚を握り締める女性。福島原発の海の汚染もそのバックにあるのだろう。怯え戸惑う女性の顔。あるいは祈るイメージ。様々なイメージを引き寄せながら、V字形に斜めに立ち上がる動き。倒れずに立ち上がろうとする。そんなバランスが独特の心象風景をつくりあげる。

 上村伊佐子「テンション・ノート」。コントラバスを思わせるようなフォルム。その曲線が繰り返される。そして、グランドピアノのようなフォルムがあらわれる。白と黒の鍵盤がデフォルメされる。まさにインスパイアされたエスプリともいうべきものがつくりだすフォルムがお互いに呼応しながら、テンションの高いメロディをつくる。

 五反田邦夫「画室にて」。テーブルの上に衣装が置かれ、コーヒーカップがあり、花瓶があり、そこに花が挿されている。その下方に幻影のようにヨーロッパの街並みが浮かび上がる。画室の中で描きながら瞑想し、そのイメージを純化しながら色彩を散りばめる。

2階─10室

 佐久川圀「久遠」。暗いバックに囲まれて矩形のフォルムがある。その中には水が氾濫しているようだ。ブルーに対して黄色やピンクの色彩がまた弾けるように対抗している。小さな葉、花。たとえば大きな津波のあとの祈り、あるいはレクイエムといったイメージが筆者にはしぜんと感じられる。

 白水美智子「燃える(Ⅰ)」。劫火という言葉がある。そのような炎が描かれている。すべてを焼き尽くす炎が圧倒的な存在感のなかに表現される。その炎のエネルギーと奥行き、深さ。下方の黒いフォルムは焼かれ、黒こげになった建物のように感じられる。赤の深い輝きに感銘を受ける。

2階─11室

 鈴木旭「ムーラン・ルージュ 曼陀羅」。画面全体が赤く染められている。その赤に懐かしいニュアンスがある。近景の若い女性の横顔。シルエットになって寄り添うカップル。ムーラン・ルージュの風車。イルミネーション。まるで、シャンソンが聞こえてくるような懐かしい画面である。

2階─12室

 中野紀三郎「陽は又沈む」。病院の点滴用のベッドは無人で、山桜の花が一枝。夕日がいま大地に沈もうとしている。亡き人を偲びながら、その不在感が強調される。

2階─13室

 高谷ひろ子「la vie」。特選。茶褐色のしっとりとしたトーンの中に不思議な華やぎがある。お洒落な衣装を着た年のいった女性が横断歩道を背景にして立っている。イヤリングやボタンがコラージュしてあるのも面白い。そばにいる猫があやしい生命の象徴のように感じられる。遠景に街並みがかすれたようなトーンの中に入れられる。人生という題名だが、パリでも通用するようなお洒落なセンス、あるいはエスプリの輝きが画面から感じられる。

 安藤恒子「オアシスの風(B)」。水のそばに体を屈めるようにして母と子がいる。手前には壺がある。水は命にとって最も大切な存在として表現されている。この母子を鑽仰するように、ヤツデのような葉が花のように上方にいくつも描かれている。手前には可憐な野の草が描かれているのも、画面の内容を深くしている。緑を中心とした人を癒す色彩が鑑賞者を惹き寄せる。

 遠山恵子「暮色」。赤茶色のバックの空間が懐かしい。古墳時代の壁画の朱色を思わせるような色彩が空に使われている。そこに魂を象徴するように鳥が飛び、女性が小さな花の咲いた小枝を持っている。この赤には独特の感情表現が感じられる。

3階─1室

 渋谷良子「豊饒 Ⅲ」。会友推挙。座って仰向けの女性のフォルムがシャープでヴィヴィッドである。左手に持っている葡萄もアクセントとしてよくきいている。シャープな形態感覚に注目。

 田辺幸子「卓上の譜(Ⅱ)」。会友推挙。干した魚を配して、一種ロマンティックで生命的なイメージを表現する。上下のブルーがよくきいている。

 世古明子「共存 Ⅰ」。フォルムが強い。サボテンのようなフォルムに鳥の雛やイグアナなどを自由に配しながら、独特の生命的な波動を表現する。左側の梟と雛との会話するような構成が実に愛らしい。

 清水尚子「都市空間」。コンクリートの壁を大胆に配してダイナミックな空間をつくる。マチエールも強いし、画面からあらわれる韻律が面白い。

 伊藤須美「holiday」。色彩家である。紫、ピンク、黄色、緑などが温かで、輝くようなハーモニーをつくっている。また、しみじみとした味わいもその色彩から感じられる。

3階─2室

 古谷和子「夕焼け小やけ」。会友推挙。少女が地面に座って星形の落書きをしている。背景に建物がいくつも描かれている。その中にオレンジや緑の色彩がしっくりとはまっている。少女のフォルムが力強く、そのあどけない雰囲気がよく表現されている。そばにイモムシがのんびりとした様子で触手を伸ばしているのも、面白いアクセントになっている。

 磯貝文利「満月の夜」。会友推挙。下方に鯖のような魚や鰊のような魚などがキラキラとした光の中に配置されている。太刀魚のような魚の上方に大きな目が現れ、黒目の中に両手を前に突き出してサインをしている若い女性のフォルムと地球が描かれる。地球と共生するイメージをキラキラとしたシャープな色彩と動きのなかに表現する。

 蒲田宏「冬来」。岬が上方から見られている。海に突き出した地面と断崖。地面の上には雪が下りているのか、グレーがところどころ使われている。シャープな動きと大きな空間の張り詰めた雰囲気が魅力。

 片岡素子「人の居る空間 Ⅳ」。会友推挙。立って絵を眺めている後ろ姿の女性。量感があるし、動きがよく表現されている。光を含んだバックの空間も心地よい。

3階─3室

 氏家孝「薄暮」。フィレンツェの街並みと大きな聖堂を背景にして、不思議な衣装と帽子を身にまとった女性が宙に浮いている。あやしい雰囲気である。独特の密度があって、一種念力のような力が画面から感じられるところが面白い。 

 佐藤淑子「山里の家(中国)」。瓦屋根の低い民家。軒先にもう一つの家があって、そのあいだの道を女性が歩いている。周りの草や樹木の表現。何よりも建物に強い存在感があり、奥行きのあるところが魅力。

3階─4室

 手倉森美智子「象が街に来た」。正面向きの象の大きなフォルムの前に、宙に浮いたピエロと横向きの顔を後ろに捻った女性とが描かれている。どちらのフォルムも生き生きとしている。暖色を中心とした表現。とくに朱色がよくきいている。楽しい雰囲気とエキゾティックで謎めいた雰囲気とがクロスするようだ。サーカスのメロディが聞こえてくるようだ。

 城戸佐和子「Be alive―森」。チンパンジーが木の枝にぶら下がっている。周りに大きな葉が描かれている。その葉が母性的で優しい雰囲気で、上方のチンパンジーを支えている。ベージュ系の色彩を中心としながら面白くまとめている。無心なチンパンジーの姿がほほえましい。

3階─5室

 江本一彦「裏通り(B)」。白い壁の建物が続いている中に裏通りの道が続く。階段、手摺り、窓、街灯などが独特の抽象的な面白い形となって現れている。どこかひっそりとしたなかに謎めいた雰囲気が興味深い。

 藤田典子「守りたいもの」。様々な矩形。それは心の一つひとつの窓のようだ。中に葉、星、人の顔、月などの具象的なフォルムが入れられる。内界の扉をあけて、独特の音楽的世界を詩的な構成の中に表現する。

 新井千鶴子「楽しい空間 Ⅱ」。右下にいくつかの絵具のチューブや瓶などが置かれていて、周りに温かな心象空間ができている。中に建物の窓を思わせるようなフォルムが表れ、絵を描くということを中心とした夢想的な世界が広がって、ロマンティックな旋律を響かせる。

3階─6室

 安新治「影―D」。たくさんの民家が密集する背後にビルも並んでいる。その建物のあいだに道らしきものがあり、そこがピンク色に染まっている。逆光の街を背景に一匹の犬がこちらを見ている。まるでその犬が画家の自画像のように親密に感じられる。

 阿佐美豊「4号ガード」。レンガ造りのガード下の情景。あいだにコンクリートのブロックも嵌めこまれている。そこに独特の抽象美を発見する。

 茂野勝信「やってられないよー」。十五匹ほどの猫たちがいて、様々なポーズをしている。猫のそのフォルムを活写する画家の筆力に注目。

 岩下百合「明日を奏でる Ⅰ」。ギターを真ん中に置いて、ピアノの鍵盤や音符のようなフォルムが入れられる。そばに瓶や街の風景が表れる。ギターをキーワードにして、心の音色を風景を引き寄せなから表現する。

3階─7室

 工藤絵里子「晩餐 Ⅰ」。会友推挙。テーブルに向かい合う十三人の女性たち。上方から見下ろす視点でそれぞれのフォルムを活写する。優れたデッサン力と構成の面白さに注目。

3階─8室

 田上俊一「干し大根 1」。三列になって大根が干されている。その干された大根の連続した形が実に面白く表現される。フォルムの力である。

 平塚公子「そこにいること(C)」。黒いバックとグレーのバック。そこに不思議なフォルムが浮遊するように存在する。不思議なリアリティがある。

3階─11室

 山田美代子「道 A」。特選。色感がよい。また、直線とカーヴするフォルムを組み合わせながら、心象世界にリアリティをつくりだす。黒い部分が川に見えるのも面白い。

3階─12室(新人室)

 津田佐千子「時の薫り―Ⅱ」。新人奨励賞。両手を曲げて俯いている女性。頰杖をついている女性。青いバックの中に茶褐色を入れながら、しーんとした気配が表れる。瞑想的空間を具象的に表現する姿勢が興味深い。

 吉井愛「○15」。新人奨励賞。若い女性が仰向けに寝ているが、そこはたくさんの苺のつけられたショートケーキである。その下方にはもう一人の女の子が立って踊っていたり、苺の中にも女性が見える。若々しいイメージの展開である。激しいムーヴマンにも注目。

 宇都木裕子「夜明けの町を行く」。特選。キュービックな方法で驢馬に乗る男や麦を持つ女性を描いている。背後に魚眼レンズで眺めたように丘や建物を集めて、モニュメンタルな構成をつくりだしている。優れた形態感覚とコンポジションである。

 西夏希「樹 Ⅲ」。新人奨励賞。太い木が枝を広げている。紅葉した葉をつけている。まるで根っこの世界が逆に地上に出てきたような生命感がある。

 堀谷莉恵「neco Ⅲ」。特選。お碗を高台から見たフォルムに対して、三匹の黒白の猫が様々なポーズをしている。シャープなフォルムである。強いデッサン力に注目。

 吉田紗知「SUNDAY」。横向きに座る女性。青とベージュの輝くような色彩のハーモニー。線と色面を利用した独特のコンポジション。

 髙見愛「爺の大鋸」。新人奨励賞。二つの大鋸がぶら下がっている。バックは粗壁である。その鋸の形が手触りがあって、実に面白いリアリティをつくりだしている。長く使われたもののもつ存在感。しかも、鋸のもつ歯とカーヴする形などがよく描かれて、まるでそこに実際にぶら下がっているような強さがある。

 西眞紀子「刻を超えて Ⅲ」。会友推挙。フォルムが強い。座って髪を靡かせている女性のフォルムが力強く表現されている。

 永井勝「過ぎし日からの風 Ⅰ」。会友推挙。機関車が斜めに描かれている。ゲートがあるから、このような機関車を陳列する博物館のようなものだろうか。線を生かしながらシュールな気配を漂わせる。機関車から独特の強いイメージを引き寄せる。

 髙木陽「黒い森」。画面に接近するとわかるのだが、独特のマチエールがつくられている。すこし離れて見ると、黄金色の池とそれを囲む密集する樹木があやしい雰囲気である。赤茶の土がそれを象徴するようだ。

3階─16室

 田中和子「月とエントツと」。詩的造形である。赤い色面がふかぶかとした空間をつくりだす。そばに黒い色面、黄色い色面がある。建物と煙突と月。三つのフォルムがお互いに呼応しながら、独特の強い詩的世界をつくりだす。独特の造形言語をもつ人だと思う。ユニークな才能である。

3階─17室

 すぎもと和「被災地の鯉のぼりとその仲間たち(B)」。会友推挙。空にたなびく鯉のぼりが怒った魚やほほえむような魚に変じ、それが元気の源で、たくさんの人間たちを運んで勇気づけている。ユニークなコンポジションである。

 佐治登茂子「共生 Ⅵ」。緑と茶褐色とが深い響きをつくる。中に緑の小さなフォルムと茶褐色の小さなフォルムがまるで生き物のように浮遊する。すこし離れて見ると、巨大なカップのようなイメージも表れている。水と命といった深いイメージを感じる。

3階─18室

 若松由利子「午後のひととき ③」。四匹の猫と横になった女性。クリアなフォルムが生き生きとしている。

 髙橋悦子「ジャズ・ライブ Ⅲ」。ピアノを弾く奏者。周りにいる人々。向こうでは指揮をする人、チェロを弾く人が見える。青い深い空間のなかに演奏家とそれを聴く人々の静かなハーモニーが表現される。中心のシルエットのピアノ奏者のフォルムが面白い。

3階─19室

 中村美子「ジャズ A」。ピアノを弾く女性。歌う女性。楽譜。集合する人。ジャズというものをテーマにしながら、独特の人間力ともいうべき力強いフォルムがあらわれる。それが集合し、一種の幻想感をつくりだす。地味だが、輝きのある色彩も好ましい。

 長谷川千恵「睡蓮」。緑の複雑なヴァリエーション。そのハーモニーが独特の神秘的な輝きをあらわす。

 田村忠男「道の物語 Ⅰ」。一種の曼陀羅構図が出来上がっている。ぐるぐると囲い込むようなフォルムの中に建物が集合する。それを上方の満月が照らす。ノクターンとも言うべき世界が絵画詩として表現される。

3階─20室

 木原三千代「カーニバルの日・2011(Ⅱ)」。ヴェニスのカーニバルだろうか。仮面をつけた二人の人間が前景にいる。いちばん近景の花を持つ女性。ヴェニスの古都のもつあやしい雰囲気がよく表現されている。

〈彫刻室〉

 大塚邦博「スパイラル」。膝を屈曲させて横になったフォルム。ゆったりとした量感が魅力。石膏像で、そのゆるやかなカーヴのなかに光が引き寄せられる。内側から発光するような雰囲気のなかに、女性のギリシャふうな彫りの深い顔や足や腰、胸のゆるやかな起伏があらわれる。まるで夢のなかで出会ったような輝かしいイメージがつくられる。

 野路育子「はぐくむ」。銅板を打ち出したものである。臨月に近い雰囲気で、おなかが出ている。内側から張り出してくる力が、そのまま命を育む妊婦のフォルムになる。目鼻口もくっきりとして、オーソドックスに迫りながら、独特の生命感が漂う。

 嶋崎達哉「Donna Sciarpa(ドンナ シャルパ)」。ローマ賞・会員賞。木彫である。巻貝のようなフォルムの上に女性が座っている。奥行きがあって、細部がすぼめられた独特のデフォルメ。正中線が微妙に変化しながら、柔らかなラインをつくる。彩色されたスカートから足がのぞき、タンクトップの肩から腕、指にわたるフォルムがあらわれる。首に巻いたスカーフ。髪の毛の前に垂らした様子。ポニーテールふうな髪形。白木が女性の肌を表す。白木のもつ匂うような雰囲気がそのまま女性の香り、あるいはエロスを表現する。ディテールにわたる力が、その女性の命の息吹のようなものを感じさせ、呼吸しているようなリアルなイメージが表れる。

 下山直紀「serendipity」。会員賞。柱に犬が絡まって上方を向いている。一部はこの柱に一体化している。下方から炎のようなくねくねとしたフォルムが立ち上がってきて、そのフォルムがそのまま犬のフォルムに変じている。不思議なイメージである。最近の震災の津波によってたくさんの人命が失われたことなども思い起こすのだが、地の底から絡まりついてくるものがこの犬を引き止めて、死に至らしめているようだ。そのフォルムを見ると、生きている存在のようではない。生のかたちを残したまま、そのまま静止したイメージ。そして、それに絡まる不思議な炎のようなフォルム。柱も垂直ではなく、すこし曲がりながら上方に向かう。きわめて今日の日本の状況を比喩的にフォルムによって表現したような趣があって、足を止めさせられる。

 市川明廣「ふわり~川~」。大理石の大きな板が宙に浮いているようだ。くり抜かれたその形は紙飛行機のような雰囲気で、空を飛ぶ存在のように感じられる。大理石の文様をうまく使いながら、そこに彫り込んだ川のようなイメージもある。起伏の中に樹木や大地があらわれるが、そのような大地や川を背負いながら、それを空に浮かべて白い雲のようなイメージのなかに、あるいは飛行機のようなイメージのなかに表現しているところが実に詩的な雰囲気を漂わせる。

 綿引道郎「未来への夢 Ⅱ」。椅子の上に少年が立っている。キャンディを両手に持っている。少年は笑っている。シャツと小さなズボンと靴。そのしわのあたりの雰囲気を見ると、強い風圧のようなものがそこに感じられる。少年の笑顔は強く明るく天真であるが、その強さを出すために周りの空間を逆にひずませるようなヴィジョンが、この作品を面白いものにしている。直線的な椅子の形が静かに少年を守るようなイメージである。空間のなかに直線によって区切っていくもの。マッスとして周りの空間との抵抗のなかでフォルムの存在を主張するところといったように、この彫刻の面白さは空間とフォルムとのせめぎ合いのなかから生まれてくることがわかる。その中心に天真な少年の笑いというイメージのあるところが興味深い。

 中畑良孝「深夜徘徊」。ウイスキーの瓶を右手に持って、首を前に突き出して、くわえ煙草をした少年。もくもくと煙が出ている。つくりたいものが明確にあってつくっているところから、ヴィヴィッドなイメージが生まれる。

 小田信夫「百日紅(さるすべり)」。一木から彫り出された子供を背負う男の像。一木から彫り出すというところに、作家のヴィジョンがより鮮明にあらわれる。一本の大木に観音を見たのは立木信仰ともいうべき平安仏の姿であったが、そこに父子像を画家は幻視し、それを彫り起こす。うねるような力が樹木の命と絡まるようにして表現される。樹木のもつ生命力を引き起こしながら、父親と子供との一体化した強いフォルムがあらわれる。

 秋山隆「思い出と共に」。会友賞。四つの皮のトランクが積み重なって、四番目のトランクがあけられると、そこに膝を抱えた女性が現われる。トリッキーな作品であるが、リアルで、その再現能力の強さに驚く。彫刻のもつ具象性。端的にいうと、その再現的な力を縦横に使いこなした佳作である。皮の色彩に彩色され、女性も白いシャツ、青いスカートといったように彩色され、眉毛もつくられ、紅も塗られている。まるでマジシャンの鞄の中から現われてきたような、そんなヴィヴィッドな印象が面白い。

 前田忠一「OTROK『生きている輝き』」。少年の首。左右の二つの手首からのフォルム。金属の盤から三つのフォルムが切断されて置かれる。いわば地面から三つのフォルムが現われて出た趣だから、強いムーヴマンがあらわれる。量感もあって、生命の力と大地の力がお互いに響き合っているような面白さが魅力。

 竹田光幸「天地の回廊『春』」。「冬」と「春」の二点を出品である。四分一円、あるいは半円、あるいはその一部をカットしたようなフォルム。「春」は三つのフォルムによって組み合わされ、「冬」は二つのフォルムによって組み合わされている。あいだが透かし彫りのように削り取られ、向こうの空間が見える。あいだに球体が入れられている。それは種のようなイメージで、命を胚胎した存在のようだ。その一つの種が命を胚胎し、植物になり、あるいは大木になり、やがて枯れていくわけだが、そういった日本人の農耕的なところからあらわれてくるイメージが、この透かし彫りのなかの球体の中によく感じられる。ゆらゆらと揺れながら透かし彫りにされたフォルムは、まるでアラベスク模様のように緻密で激しい。しかも静謐でもある。それはまた光というものの表現と言ってよい。作家は命を表現するのに、光を重要なファクターとして引き寄せている。そして、それに対して植物のもつ独特の性質。そして、大地を流れる水。水と光は一体化しながら、作家のつくりだした和風アラベスクともいうべき抽象形態を表現する。中心から九十度、あるいは百二十度といったように傾きながら、あらゆる方向からの光を受け止め、光をそこからまた放射するような独特の、いわば作家のつくりだしたアラベスクによるレーダーのようなイメージが、柔らかな木彫の抽象形態から感じられるところに驚く。

 津田裕子「浮遊―2011―」。雲と空とが女性のヌードとなって、空を浮遊している。そして、そのシルエットが壁に捺され、あるいはシルエットの一部が吊るされていて、不思議なイメージをつくる。インスタレーションとして空と雲と裸婦とが一体化しながら、ロマンティックで夢想的なイメージを醸し出す。

 工藤直「時の旅人」。太った女性のもつ母性的な力がよく引き出されている。木彫である。胸の部分や足の部分、腕の部分などをパーツとしてつくり、それを組み合わせながら、独特の動きと量感があらわれる。目の表情を見ると、エジプトの女神のイメージが表れているところも面白い。

 吉野毅「夏の終り '11」。左足に重心を置き、右足をすこし曲げて、足先を後方に置く。右手を前に出して、左手が後ろ。微妙な体の動きがあらわれるポーズである。石膏がキラキラと清潔にその柔らかな陰影をつくりだす。その微妙な哀愁をたたえた表情がまさに夏の終わり、夏と秋との時間の間隙のようなイメージを表す。

 日高頼子「あかね雲」。立っている女性の背後に雲がある。雲と女性とは一体化している。黄金色に彩色されている。垂直に立ち上がるフォルムがそのまま雲を背負う。地上と天上とがこの彫刻の中では一体化される。そのようなダイナミズムのあるところが面白い。

 池川敏幸「流れ星のメッセージ」。黒御影がまるで柔らかな餅のように折り畳まれている。そのフォルムには清々しく、純潔なものが感じられる。その正面の二つにU字形に彫り込まれた大小二つのフォルム。通過する流れ星の痕跡がもしあるとすれば、こんな形になるといった雰囲気でこのへこみが入れられている。磨かれた黒御影の柔らかで強い黒く輝くようなフォルムの中に、この柔らかなU字形の痕跡が見事な詩的イメージを発する。

 三宅一樹「YOGA-the Earth」。YOGA-the Earth はヨガのファイナルポーズである。地球と一体化するポーズをすることによって、ヨガの一つの動作が終わる。黒いプラスティックの板の上に木彫によって、見事なカーヴがつくられたヨギの全身像が仰向けに表現されている。そのデコボコの中に、生きている、呼吸をする気のようなものが込められていて、強いメッセージを発信する。

 工藤健「レッスン・再起」。爪先立ちの女性。一度アクシデントがあって離れていた女性が、もう一度新しくよみがえってレッスンを始めたといったイメージだろうか。そんな毅然とした雰囲気が、爪先立ちのフォルムの姿勢の正しいかたちから感じられる。大胆な面によるカットが清新な生命の輝きをあらわす。大きく張り出した胸と乳房。その下の肋骨から下に窪んだ凹面があらわれる。そんな激しい面と面とのせめぎ合いのなかに、輝くような、まさに命がもう一度誕生したようなイメージが表れる。すこし首を右に捻って遠くを眺めているような視線の方向も、人間の希望といったヴィジョンの表現としてふさわしい。すらっと伸びた足。その爪先までのイメージが、生命と同時に清冽な流れのようなイメージを醸し出しているところが興味深い。

 北彩子「静寂」。黒いベッドに白いシーツ。少女がそこに腰掛けている。少女の胸からスカートにかけて透明な樹脂によってつくられている。そこに透明人間のような現代の女性のリアリティのない、あるイメージが表れる。黒髪とパッチリとした目。長いソックス。木彫による少女の雰囲気と、そのプラスティックによる腕や胸や腰の一部が現代の日本の少女のイメージを発信する。

 中山憲雄「森の貴婦人」。雌の鹿の頭を女性に見立てる。鹿の代わりに牛のような耳をつけて帽子をかぶせる。長い睫毛をつけ、ネクタイを締める。それを鍛金によって表現する。鍛金の荒々しいマチエールとそのカーヴする優雅なフォルムとがクロスするなかに、独特のユーモラスな像があらわれる。大づかみでありながら、繊細なかたちのアウトラインが魅力である。

 島田紘一呂「ILLUSORY SHADOW-CRAWL」。銀座の画廊でちょうど島田さんの個展が開催されていた。猫を何十匹もつくって、実に面白いものであった。自在に猫の様々な肢体、ポーズ、表情をつくりだす。この作品はそのような修練から猫のもつ動き、その骨格の造形的本質のみをピックアップして強いフォルムによって構成したものである。要素に分解して、足にしても、首にしても、尻尾にしても、そのフォルムをボルトでとめてある。そこに抵抗力を置くこと。その屈曲感によって、逆に彫刻的ダイナミズムが表れる。ユニークである。そして、影がまた面白く、虚像でありながら、もわもわと立ち上がって動き出すようなヴィヴィッドな表情を示す。頭を低くして様子をうかがっているようなポーズもまた面白い。

 金巻芳俊「終日コントラスト」。若い男が腕を組んで立っている。後頭部からもう一つの顔が現われ、倒立するこの男の白いシャツとパンツを着た像が現われる。下方は黒やベージュの服装で、上方は白い。ユーモラスで実に不思議な雰囲気があらわれる。下方は重力に従って両手を組んで立っているのが、上方では逆に無重力状態で、上方にゆらゆらと立ち上がって浮遊しているような雰囲気である。二つのフォルムの重力の違いが、独特の、ユーモラスで彫刻的な面白さをつくる。

 松田重仁「はな・は」。カーヴしながら上方に伸びていく茎は金属でできて、その上に薄く木を削りながら花や双葉をつくる。光に向かって伸びていく植物の様子を、メロディのような動きのなかに表現してユニーク。

 山中洋明「羅漢錬挙像~共栄~」。右足を軸心にして、左足を大きく上げて、右拳を握り、左掌を突き出した少林寺拳法のポーズのようだ。まるで現代の仁王像を思わせるようなダイナミックな力強い作品である。鍛金の技法で叩き出しながらフォルムをつくる。それを溶接する。そのような困難なハードな技法が、この雄渾な動きと内側から張り出すような力を表現するのにふさわしい。圧倒的な存在感を見せる。

〈野外彫刻〉

 小林亮介「実 11─3 漂流」。文部科学大臣賞。三・一一の津波が題名になっているが、十七個のフォルムが連続して、十七個目は小さな教会、あるいはストゥーパのようなイメージが表われている。そのあいだに南瓜や冬瓜などのフォルムが大小点々と置かれている。筆者がこの作品を見たときに、斜光線で長く影を引いていた。影のないときの初々しいような、楽しい、一つひとつの南瓜や冬瓜などのフォルムを面白く見ていたのだが、長い影が捺されたときに、なにか深い悲しみの表情を見せて、彫刻の表情が変わっていることに驚いたのである。

 宮澤光造「ホーム」。重い旅行鞄を両手で抱えた女性。女性のフォルムはふっくらとして、ワンピースのスカートがそのまま懐かしい母性的なフォルムをつくる。両腕も太く、顔も丸い。その女性が体を傾けてこの大きな旅行鞄を持っている。旅行鞄は黒く磨かれていて、ずっしりとした存在感がある。女性のフォルムはざらざらとしたかたちで彫られている。旅行というもの、あるいは駅のホーム、人生の生きている途上にある一つの存在。重荷を背負いながら誰もが生きている。そういったものがロマネスクふうな安心感というか、安息感というか、柔らかな量感のあるフォルムのなかに造形される。人生のモニュマンと言ってよいイメージが表れる。

 豊田晴彦「光る海」。左膝を立てて、その足首を両手でもって、左を向いた女性のフォルム。すこしイタリアふうな雰囲気がある。柔らかな曲面がそのままいわばミューズのようなイメージを表す。ラテン語では、女性は海と同じような内容をもっているが、女性と海とが一体化して一つのかたちをなしたような趣のあるところが興味深い。

 吉野ヨシ子「水面の詩(みなものうた)」。特選。木の葉状の金属の表面のカーヴを集積しながら、だんだんと中心に向かって立ち上がっていくかたちがつくられる。そこから伸びていくフォルムの中心からカーヴするかたちがあらわれる。光が集まって一つの光のモニュマンとなったような、そんなイメージが面白く表現される。

 戸部晴朗「風の記憶」。会友賞。大きな石が切り出されて、側面は荒々しい。表面が磨かれて、不思議なカーヴをしている。近くで見ると砂漠の一部が作家の見事な手際で切り取られて、ここに置かれて見せられているような趣がある。それほど表面のカーヴには魅力がある。見ている人間が小さくなって、その中に入っていきたくなるようなイメージ。また、そのフォルムは繰り返す波の一部を切り取った海の肉体のような雰囲気もある。ざらざらとした断面の中に石英などの成分が入っていて、キラキラと輝いているのもまた魅力である。材質のもつ魅力を生かしながら、ユニークな抽象形態が鑑賞者を魅惑する。

 

第71回日本画院展

(9月1日〜9月6日/上野の森美術館)

文/高山淳

1階1─A室

 盧柱延「森森森」。会員推挙。白い枝と葉の緑、あるいは葉、雑草などが生き生きとしたかたちで表現されている。ドローイングがそのままタブローとなったような新鮮な雰囲気と明るい色彩のハーモニーに注目。

1階2─A室

 石渡雅江「春昼」。佳作賞。三頭の羊。白い顔。黒い顔。たくさんの毛が体全体を覆っている。そんな三頭の春の一刻の様子を、穏やかな中に独特の量感を表現して、注目。

 石川満「野焼き」。葦が手前に群生していて、その一部は地面に倒れている。あるいは水の中かもしれないが。それを手前から眺めて、向こうの地面の野焼きの様子を面白く表現している。煙が上方にゆらゆらと立ちのぼっている。繊細な葦の表情と煙の様子などが相まって、幽玄ともいうべき景観をつくりだす。目に見えているもの以上、耳に聞こえているもの以上のものを繊細に画面に表現しようとする画家の姿勢に共感をもつ。

1階2─B室

 岩本美代子「重なるかたち」。焦茶色、黄土、茶褐色、ベージュなどの色彩を組み合わせながら、独特の強い波動をつくりだす。中心の黒のふかぶかとした調子がとくに魅力。

 鈴木美江「明日へ」。三人の女性による構成。背後の青が実に深い調子をたたえている。真ん中の女性は黒いイヴニングドレスを着て、左手を上げ、右手を斜め下に垂らしている。その手の動きのなかに独特のメッセージが伝わってくる。それを受け止めるかのような向かって右側のグレーの女性。左側の女性は真ん中の女性とお互いに手によって会話をするように両手をくの字形に曲げて、真ん中の女性を眺めている。そんな女性を横向きから捉えている。髪が靡いている。とくに真ん中の女性の赤い髪の色彩は心の中の強い感情が炎のようなイメージとして感じられる。金泥を紺色の空に散らしている。悩む人を癒し勇気づけるイメージが、中心の女性から静かに伝わってくる。ブルーと肌色と赤茶色、黒などの単純な色彩ではあるが、それぞれの色彩が深い意味をもっていて、単純化された女性の柔らかな優しいフォルムがそれに加わって、独特の絵画世界をつくる。

 髙橋淑子「Harmony『ウコッケイの春』」。五羽の烏骨鶏。白い柔らかな毛に包まれた烏骨鶏。顔の表情、嘴の方向によって独特のムーヴマンがあらわれる。手前の二羽の烏骨鶏は左が男性で、右が女性のような雰囲気。その背後にカーヴするような配置で三羽の烏骨鶏が配されている。柔らかな緑のバック。そこにタンポポのような花が咲いている。その丸い球体のフォルムと青い空間とが、この白い烏骨鶏を取り巻いている。そこになんともいえず優しい夢幻的な雰囲気があらわれる。まるで夢のなかで出会ったような鳥のイメージ。画家のもつ純粋な詩心ともいうべきものが、無心ともいうべきこの独特の空間のクオリティをつくりだす。

 髙澤かなえ「麗」。審査員特別賞。白鷺が向かい合っている。一羽は木の枝にとまっている。その足の様子や首の様子などが生き生きとシャープに表現されている。両方ともとまっているが、独特の動きが感じられる。下方の枝や葉のディテールが白鷺のフォルムと相まって、絵画としての魅力をつくる。クリアなディテールの表現が魅力。

 新井唯一「白馬の朝」。手前の黒ずんだ近景の雑木林。その上方に靄がかかり、うしろに遠景の高い山が聳える。そこは雪に覆われていて、朝の斜光線によってピンク色に染まっている。その峰の様子が霧の上方にのぞく。神々しく純潔な朝の山容。両手を合わせて合掌して眺めているような神々しさが画面から感じられる。上方は何か動いているようで、そこに時間の推移のようなイメージも表れる。それに対して近景のずっしりとした雑木のもつ地上的なイメージ、そのリアリティが、上方の理想世界のようなイメージと対置されて、面白い絵画空間があらわれる。

1階2─C室

 三森千惠子「想」。百合の花やチューリップの花、あるいは紫の小さな花を集めて、花束をつくりだす。ちょうどキスリングの花の絵を思わせるような優しさとロマンティックな雰囲気がある。一つひとつの花の様子をおろそかにせず、クリアに描きながら、全体で独特の詩の世界のようなイメージが表れる。

 松岡聖子「祈り」。水が手前に流れてくる。上辺ですこし滝になり、下辺のあたりでもう一度滝になって、白く波立っている。しーんとした強い緊張感のある雰囲気のなかに水が流れてくる様子に、独特の精神性が感じられる。周りの茶褐色の濃い調子に対して、水の白い雰囲気、その様子にはきわめて精神的なものが感じられる。

1階2─F室

 木曽諦子「何処へ」。砂浜の中が津波の跡をとどめている。その向こうにかつてあった街が蜃気楼のように浮かび上がる。はるか向こうはこんじきの海で、鳥が飛んでいる。そんな様子を少女が眺めている。一つひとつのフォルムがクリアで、そのクリアなフォルムを組み合わせながら、震災に対する静かなレクイエムを表現する。手前の椿の花の様子が、希望の象徴のように赤く、ピンクに咲いている。

1階3─B室

 百々茂貫「金剛吼菩薩」。墨による白描である。三つの目をもった菩薩の顔。左手に輪宝を載せ、右手で印を結んでいる。体の中から強い気が吹き寄せてくるように感じられる。恐ろしいエネルギーがこの菩薩の体全体の奥のほうから伝わってくるようだ。それを一本の線によって表現する画家の力量に脱帽。

 佐藤三樹「想」。若い女性が着物を着て座っている。ふっくらとしたフォルムが愛らしい。ぽっちゃりとした丸い顔もそうだし、小さな手の指の表情なども、この作品の魅力のポイントだと思う。掌に小さな女の子の人形を置いているのも、全体の雰囲気のなかでフィットしている。背景は金箔であるが、そこに墨による陰影がつけられ、金箔自体も揉んだような雰囲気があって、余韻のある空間表現である。いずれにしても、画家の視線の確かさとも言うべき雰囲気が、着物を着た女性の美を清潔ななかに凜とした雰囲気で表現する。

 望月昇「ポルトガル街路」。両側に建物が並んでいる。赤や黄色などの色彩とあいだに使われる黒い輪郭線が重厚な雰囲気をつくりだす。道は銀灰色である。清潔ななかに力強い韻律が伝わってくる。

2階1室

 北尾君光「神々の手の中で」。上方を見上げる二人の子供。まるで植物の実がはじけたような雰囲気。黄金色の光が取り巻いている。上方にこの二人の母親のような若い女性の姿が現れる。青い花がそれを取り巻いている。白い葉が波のように表れ、独特の動きをつくる。光に満ちた空間。ムーヴマンときらきらとした生命のイメージに注目。

2階5室

 山田京子「はぼたん」。準会員推挙。子供の小さな掌のようなフォルムが集まっている。オレンジ色に紅葉しているような様子のなかに、灰白色に、あるいはピンク色に染まった葉が点々と置かれている。その灰白色とピンク色の重なったような葉の様子を葉牡丹と言うのだろうか。周りのオレンジ色や緑色と柔らかなハーモニーがあらわれる。葉のあいだにうずもれている中から伸びてくる黒い枝の屈曲したフォルムも、この作品のアクセントとしてよく生かされている。装飾性と植物のもつ生命感とがマッチしたユニークな作品。

第40回日本文人画府展

(9月5日〜9月11日/北とぴあ 展示ホール)

文/小池伊欧里

1室

 北村洋子「回帰」。クリティック賞(小島一郎賞)。中国の古い石造りの町だろうか、坂になった路地が画面の中央を走る。墨の濃淡の扱いもさることながら、筆の痕跡や紙の繊維の流れを活かして壁や道のマチエールを上手く表現している。路地の右手に暗い入り口が空いていて、対比されるように先へと続く路地の上方は明るい。この作品から受けるイメージは、手前の方から人が右手の入り口や路地の先へ向かうのではなく、側溝を流れる水のように向こう側から人が同じ路地へ下って戻ってくるかのようで、実際の人物は描かれていないが、そんな気配を感じさせる作品である。

2室

 畑佐祝融「富岳」。強い輪郭線を持った山と、点描のような筆致で柔らかく表現された樹林。木々は高々と生え、山を両の掌で包み込むような形である。山の背後に差す二筋の光によって、視点が山の頂の方へと誘われ、もこもことした稜線に向かう。その光にはまた、山の持つ神秘性が表されているような印象も受ける。

 加藤弥寿子「漁村」。人気が無く、舟が放置され雑草も伸びる漁村。石を積んだ壁にうずくまるような小屋が、独特の雰囲気でもの寂しさを醸し出している。一見さり気なく塗られたような空だが、奥行きのある空間を感じさせ、画家の力量を窺わせる。

 中里典子「残雪」。山間に雪が積もり裸木が覗く。辺りは霞がかかったようで怪しい雰囲気である。厚く塗られた胡粉の間から遠景の山が見え隠れしている。絵具の上に蠟を重ねたような不思議な立体感を持った画面で、空間を演出する白の微妙なニュアンスが面白い。

 岡野美蒼「約束」。日本文人画府賞。桜の古木が花びらを散らしている。木の幹と余白が画面を左右に分割しているが、濃淡のコントラストで力強く表現された幹は量感を持ち、余白部分が幽玄に響く。敢えて花や葉をつけた枝の部分を描かないところなど「約束」というタイトルと相まって何か暗示的な雰囲気である。

5室

 杉原阿都「野中の薔薇清らに」。篩雪賞。満開の野ばら(ノイバラ)の回りを小さな八匹ほどの蜂が飛んでいる。葉の作る暗部によって、陽光に当たった花の輝きが強調される。所々ピンクがかった白の花と黒の葉をマッスで捉えながらも、細部の描写が丁寧である。ゲーテの「野ばら」の詩は花を折ろうとする少年と抵抗して棘を刺そうとするバラを愛憎劇の暗喩としていたが、この作品には蜜蜂と野ばらが助け合い、共存しているようなイメージがあって気持ちが良い。

再興第96回院展

(9月7日〜9月19日/三越日本橋本店)

文/高山淳・磯部靖

A─1室

 浦上義昭「停車場(STATION)Ⅱ」。奨励賞。上から見下ろしている。線路が集まって電車が一つとまっているが、柔らかな雪に覆われている。その雪の柔らかな雰囲気と全体のロマンティックな音色ともいうべきものに注目。(高山淳)

 岩永てるみ「パルメンハウス」。パルメンハウスはウィーンに建つヨーロッパ最大規模の温室である。それがグレーの重層的なフォルムの中に表現されている。大きな葉をもつ緑の植物。椰子のような葉。ほかは無地で、むしろこの建物のもつ独特の天井の高い不思議な幾何学的な形が、建物のまた向こうにも、その向こうにも見えるといった雰囲気で重層的に描かれている。そのグレーの中に二つの緑の葉。そこに三羽の蝶とも蛾とも見えるものが置かれている。この温室の中から蒸気や様々なものを吸い取りながら育った不思議な存在のようで、周りの幾何学的なフォルムに対して生命のもつあやしい雰囲気、いわば毒のようなものがあらわれているところが面白く感じられる。(高山淳)

 小田原千佳子「陽音」。朱から黄の色彩を繊細に扱いながら描いている。その色彩が輝く黄金を思わせて、強く印象に残る。シダなどの植物の上に横になった女性が、左腕を下方に伸ばし、その指先に視線を合わせている。どこかアンニュイな表情に魅入ってしまう。(磯部靖)

 劉煐杲「翠陰」。蓮の葉が面白く装飾的に表現されている。山水屛風という安土桃山時代の前の風景表現に近いイメージを感じる。翠とピンク色の色彩に分けられた水の様子。そこに茎が伸び、大きな蓮の葉が描かれる。ところどころ花が咲いている。深い信仰心のようなものが感じられる。また、蓮は蓮台と言って、その上の仏を支える存在であるが、そのようなイメージもまたこの作品に感じることができる。一種の抽象美と具象美の境界を探っているような作品として注目。(高山淳)

 谷善徳「砂漠の船」。奨励賞。廃船が一艘、上方に描かれている。ところが、それは砂漠の上にいて、風紋が表れている。あいだから細い樹木の枝がヒョロヒョロと伸びている。今回の津波によって破壊された浜がこのようなイメージの中にあらわれたのだろうか。なにか霊的で幽霊のような不思議な雰囲気がある。異様な作品と言える。(高山淳)

 王培「春の隣り」。奨励賞。荷物を両手で抱え、こちらへ向かって歩いてくる三人の少女を描いている。素朴で無垢な少女たちの様子がよく捉えられている。暗色をバックにして、寒色・暖色を服に施しているが、その落ち着いた色彩の扱いもよい。(磯部靖)

 中村譲「広場」。噴水が画面の中央に置かれていて、背後には建物の柱、その奥には市場が見える。淡い青のしっとりとした使い方が魅力的である。そこに市場の果物などがぼうっと光るように置いてあるのが見える。不思議な幻想性が鑑賞者を魅了する。(磯部靖)

 齋藤勝正「破船のある海辺(兆し)」。奨励賞。海辺の破船が大きく描かれている。かなりの年月、雨風に晒されたようで、ほとんどその形を留めていない。カラスが何羽もそこに降り立っていて、寂しい光景である。遠景では波が飛沫を上げながら浜辺に寄せている。今現在の時間と過去から続く時間。二つの時間の流れを誠実に描き出しているところに注目する。(磯部靖)

 村岡貴美男「深海魚」。赤茶色の色彩が実に強い輝きを放つ。深い奥行きの中に底光りするような輝き。とくに上方の波の文様のような連続した形は強い装飾性をしぜんと連想させる。シーラカンスやタチウオやエイ、イカなどが静かに泳いでいる様子。そのいちばん下方に女性が仰向けに寝ている。女性を深海の底に置くという発想はきわめてロマンティックで、いわばドイツのロマン文学を思わせるところがある。しかも、海は地球上に命を産んだ母と言ってよい存在である。何十億年か昔、海から初めての生命が誕生したという。そのような豊穰な海のイメージ。その肯定的な力が上方の波の装飾的な文様に感じられる。育み生かす海がこのような深い心の奥にある存在のように表現できる画家の才筆に注目。(高山淳)

 岸野香「水精」。深い霧の漂う水辺を背景にペンギンが描かれている。画面の左下に一羽のペンギンがしっかりと描かれているが、その上方にも霞むように何羽か描かれている。それらのペンギンは、泳いでいるようでもあり、飛んでいるようでもある。その透けるような描写が、実にうまくいっている。画家の持つイメージの強さとそれを表現する力に惹き付けられる。(磯部靖)

A─2室

 山田伸「遙」。草木の陰に隠れるように数頭の鹿が描かれている。画面右下の色彩は代赭色だが、そこから徐々に寒色、ベージュへと変化していっている。鹿は前方へと進んでいるようで、その速度が速い鹿ほど色彩が淡くなっているようだ。画家と鹿の一瞬の邂逅を、このように描き出す表現力に注目した。(磯部靖)

 髙島圭史「ある納屋の出来事」。奨励賞。正方形の画面に描かれた納屋の中の風景。雑然と描かれているようで、丁寧にモチーフが描き分けられている。七面鳥や猫、兎などの動物、農具や籠、サボテンや果物など様々なものにじっくりと魅入ってしまう。グレーから緑の色彩もまた独特の気配を醸し出している。(磯部靖)

 大久保智睦「far world」。奨励賞・天心記念茨城賞。バルコニーから望む街並みの風景と、交差点のような人々の行き交う場所の群像がダブルイメージで描かれているようでおもしろい。そしてそれは青の色彩で統一されている。中央やや右から大きく枝葉を広げながら伸びる樹木を中心に、複雑な画面構成をしっかりと纏め上げている。(磯部靖)

 藁谷実「彼岸のことづて」。日本美術院賞・大観賞。インドの寺院のようだ。扉の向こうとこちらとは世界が異なっている。それを阻む門と塀。中心の門は赤く染まっている。背後にドームの屋根が見える。上方のこんじきの空とこの朱色の門、そして手前のグレーの敷石のある広場。三つの空間がそれぞれ静かに主張し、その三つが不思議なハーモニーを奏でる。(高山淳)

 武部雅子「雨滴」。奨励賞。座っている女性のフォルムが強い。周りの色面構成的なバックに対して、線による力が強く浮かび上がる。(高山淳)

 鈴木恵麻「無花果」。無花果の木と実。地面に落ちた葉と実。それを握り締めているような強さがある。体温のようなもの、掌に汗ばむ汗のような、そんな雰囲気でこの無花果に相対している。画家は全身的に無花果の中に入りながら描いていて、それがこのオールオーバーな力を表すようだ。特異な感性だと思う。(高山淳)

 清水操「六月二十三日」。青い海へと野道が続いている。少し背の高い草木の間を轍がややカーヴしながら奥へと伸びていっている。画家特有の爽やかでポジティヴな色彩の扱い、空気感が、観ていて心地よい。近景から遠景への距離感もまた、しっかりと捉えられている。それらが鑑賞者の好奇心、冒険心を搔き立てる。(磯部靖)

B室

 並木秀俊「しらべ」。オーケストラの演奏風景を俯瞰するような構図で描いている。画面上方にある指揮者の立っている赤い台を中心に、全ての色彩が音となって画面の四方に広がっていっているようだ。実際には指揮者は演奏しているわけではないので、それはオーケストラというもののイメージの表現だと思う。そういった独特の描き方が印象的な作品である。(磯部靖)

 井手康人「甦る夢」。画面の中央に指を組んで正面を見つめる女性を描いている。背後には大きく白や薄い水色、赤などの花が大きく描かれている。女性の少し微笑んだ表情が鑑賞者を捉えて放さない。落ち着いた色彩の中で、金の長い耳飾りがどこか不思議な存在感を放っている。(磯部靖)

 永井健志「白炎」。白い大きな花が上方に咲いている。まさに白い炎のようなフォルムである。周りに葉や茎が金色に描かれ、いちばん近景にはシルエットの中に向日葵のこうべを垂れたフォルムが描かれている。夏は終わり、秋が来た。その季節の別れの象徴のように白い花が上方に咲いている。そういった独特の耽美性が画面から感じられる。日本人が風景を見ながら和歌を歌ってきたような、そのような文学性とクリアなフォルム、コンポジションとが連結するところにこの作品の魅力があるようだ。(高山淳)

 木村和男「貴賓の木陰」。窓に渦巻き状のフォルムがつくられている。その渦巻き状のフォルムが周りの木陰のシルエットのようなフォルムに対して異様な力を発揮している。いわば呪文のような力がこのフォルムに感じられるところが面白い。柔らかな木漏れ日のような雰囲気の壁や窓に対して、中国の殷時代の青銅器のもつ力のようなエネルギーが引き寄せられている。(高山淳)

 番場三雄「気配」。冬だから鹿の毛がずいぶん伸びている。それがこちらを見ている。それを正方形の中にほぼ全体的に入れて表現する。鹿にごく接近しているような強さがある。それを取り囲む植物の葉。グレーに塗り込めた中から黒い線によるフォルム。独特の強い密度がバックにある。一見無地に見えるバックに、そのような充満する強い気配があるところも面白い。いずれにしても、対象と正面切ってたたかうところから表れてくる強い波動が魅力。(高山淳)

 染谷香理「wipe」。奨励賞。装飾的な草花を背景に、腕を伸ばした女性が大きく描かれている。女性は右手をワイパーのように左右に動かしているようで、その動かした跡は背景の色味が変わっている。刻々と変化していく若い女性の時間のありようが窺えて興味深い。(磯部靖)

 廣瀨貴洋「太古の銀河」。画面の上下に銀河のように輝く光が走っている。それに沿うようにワニの全身像や恐竜のような大きな骨が描かれている。ワニも爬虫類であり、恐竜も爬虫類である。つまり太古より脈々と受け継がれてきた進化の歴史がこの銀河なのであろう。そういった太古へのロマンが精緻な描写で描かれ、鑑賞者を惹き付ける魅力を獲得している。(磯部靖)

C室

 西田俊英「夢」。駱駝がまどろんでいる。砂漠ではなく、水のたっぷりある場所を夢見ているとイメージして描いたそうだ。駱駝の心の中に画家は入り込んでいる。駱駝の首から頭、口の先にわたるフォルムが実に愛らしい。生き生きとしている。目をつぶってまどろんでいる様子。しかも、夢のなかでは幸福境にある駱駝の表情が見事に描かれている。そのあたりのカーヴする毛の連続する形も夢に沿ってメロディをつくるようだ。二つのこぶがその夢の中の幸せ感でもこもこと動いているようだ。背後の小さな三角の波を立てた広大な湖の広がり。そして、いま水平線近くに満月が昇っている。その満月の大きさ、輝きもまた全体の構成のポイントとして見事と言ってよい。黄金色の満月の周りは墨色の白黒の世界であるが、それに対して駱駝はモノトーンに見えて茶褐色の色彩が入れられていて、それもまた魅力である。また、この夢を荘厳するように駱駝の鼻の周りからおなかの前あたりに金の砂子が散らしてあるのも、イメージの展開としてよく頷けるし、まるで上方の星空を手前のこの駱駝の前に下ろしたようにイメージが発展していっているところも面白い。とくに背後の波の形、その連続したフォルムがそのまま造形化されたメロディとしてあらわれているところもよい。前回の個展で海岸の松を描いたときのあの仕事からあらわれてきた平安な安らぎの表現である。(高山淳)

 手塚雄二「奥入瀬翔流」。昨年の院展の出品作「奥入瀬飛流」の右側となる作品である。箔を千切った樹木の背景の表現。その明るい陰影のある奥行きに対して、近景は激しく飛沫を上げながら水が流れている。いちばん近景に枝にとまる一羽の鳥がシルエットに表現されている。この激流に向かい飛び立とうとする鳥の見ているものは、希望の光だと画家は語る。岩の丸いかたちが前後に連続している。そこから樹木が斜めに幾本も立ち上がる。岩の円弧と樹木の直線との対比。カーヴする樹木の枝が風で揺れるような趣。そこにとまる一羽の鳥のシルエット。決意を秘めて、いま飛び立とうとする緊張感。動と静が交互に繰り返される見事なコンポジションである。同時に、優しく包み込むような優雅な趣のあるところがまた魅力である。(高山淳)

 倉島重友「道標」。スペインの巡礼の道で出会った光景である。木にマリア像が掛けられていて、その下に花が献花されている様子に出会って、実に感動したという。ルネサンスふうな初々しいイメージが画面に満ちていて、清浄な光が画面の中に捉えられている。遠景の丘に向かうゆるやかなカーヴする空間。その中ほどに一つの家と白馬が描かれているのも、手前のマリアと花とを背後から支えているような優しい表現である。木の根本の点々と黄色い花が咲いている様子も、野の花の美しさはソロモンの栄華に勝るという聖書の言葉がしぜんと思い浮かぶ。(高山淳)

 那波多目功一「驟雨」。七尾ほどの鯉が描かれている。ずっしりとした存在感がある。鯉をこのように写実的に描きながら、手元に引き寄せて、しかも一種のイメージとしての空間をつくりだしているところに感銘を受ける。中心は白と赤と黒のぶちのある鯉である。その周りに黒や沈んだ赤などの鯉が方向を変え動いている。水のもつ量感ともいうべきもの、あるいはその奥行きがこの鯉の重量を支えている。その水が目の前にあるように画家は描く。そのリアリティは再現的なものというより、絵画という平面の空間のなかに、それぞれのポジションをもつように創造されている。独特の抽象性がある。つまり、なまなものではなく、絵として存在する世界。そのリアリティが見事だというのである。雨が降り、また、鯉の動きによって泡がいくつも現れている。その鯉の重量感とは違ったもう一つのリズムがまた面白い。余分なものは一切描かれず、水と鯉だけによってこの深い空間が生まれていることに感銘を受ける。(高山淳)

 鎌倉秀雄「雪色金閣」。雪の中の金閣がキラキラと清浄に美しく表現されている。雪の日の金閣でデートした話を画家はある女性から聞いて、それもまた画家をインスパイアして、この金閣を描こうと思ったという。(高山淳)

 松尾敏男「日野原先生百壽像」。今年秋に百歳になった聖路加病院の名誉院長である日野原重明さんを描いたもの。いわゆる肖像画である。赤子のような雰囲気と老成した知恵。英知の頂点と子供のような無邪気な心とが合体したような、実に不思議なイメージを画家は追っている。画家自身、自分のうつわでこの茫洋たる大人物にどこまで迫れるかと思った、というコメントがある。白衣を着て聴診器を垂らした日野原先生の顔の表情、すこし背中の曲がった様子、むっちりとし手の指、すべてに不思議なオーラのごときものが表れている。いわば仏のもっている慈愛のようなもの。きわめて童心のものと深い英知とが連結したイメージを実によく表現している。上方の黄色のバックがこの先生の頭の後ろあたりですこし柔らかく光っているのが、まるで後光が射すような雰囲気である。白衣が聖者の衣装のような雰囲気で表れているところも興味深い。(高山淳)

 郷倉和子「薫春躍兎」。下方に兎が飛び跳ねている。老梅が枝を広げて白い花をつけている。面白いのは、向こうに伸びている枝で、実際の枝にもかかわらず、それが影と一体化しているような趣のあるところである。影が立ち上がってきて枝になっているような、そんなあやしい雰囲気がある。そのように画家の強いイメージの力がこの画面の生命を支えている。屈曲して伸びていく枝に大きな白い梅の花が咲いている様子は、モノトーンの世界でありながら豪華で、香りが匂うようである。長い時間を経てきた老梅に対して、生まれてまだ数年もたってないと思われる兎が無邪気に飛び跳ねている様子が対照されて、ほほえましい。(高山淳)

 後藤純男「新雪大和」。奈良の古寺。塀と三重塔、あるいは様々な建物。中に松が生えていて、それが降りしきる雪の中に白く染まっている。密度がある。アトリエの中でこの光景を目に見えるがごとく全身で感受しながら筆を運んでいる。その緊迫した制作から強いリズムが生まれる。その波動がこの作品にいわば画格とも言うべき高さを与えている。古寺のもつ強い力が描かれている。山間に抱かれたお寺の佇まいはいいものですねと画家はコメントを述べているが、風景と一体化したような、その内部に入って描いているような強さが魅力。(高山淳)

 小山硬「三保の松原」。家康の命令で伊豆の神津島に流されたキリシタンのおたあジュリアは、洋上より見える富士山を拝み一生を終わったと画家は述べている。三保の松原が、ここに実に美しく、生き生きと描かれていることに驚く。上方に富士が頂上を白く染めて浮かび上がっている。その富士の画面上の位置が見事である。まさに画家の語るように富士が神々しくばっと一度に姿を現して、「見えたっ」といった印象とときめきがこの絵の中に感じられるところが魅力である。(高山淳)

 田渕俊夫「午後の輝き」。「吉野の桜の取材を終えて熊野方面に行く途中に突然出合った光景」だという。上方に杉の森がある。もっこりとした山の斜面。そして、下方に細長い民家があって、竹が揺れている。光の中で明るい緑色に揺れている竹の下方に、黒いシルエットとなった竹が揺れている。その二つのコントラストが実に新鮮である。しかも、二つの明るい竹と暗い竹は風の向きが違うのか、同時に動いていず、時間のずれがあって、ところどころ互い違いになっている。そこに自然がつくりだした、あるいは画家の造形がつくりだした独特のニュアンスとリズムが生まれる。一種の抽象性と言ってよい世界があらわれている。それをしっかりと支える上方の杉の連続したフォルム。風の動きと同時に光の複雑なきらめきが画面の中に描かれているところに注目。(高山淳)

 福井爽人「フロッテの灯」。右下にトランペットを持つ少女。左に馬が立ち上がっている。中景に二頭の木馬がシルエットになり、その向こうにはサーカスのテント小屋がある。全体で大きな楕円状の空間ができて、その中に大事なものが置かれているような雰囲気。青い空には大観覧車が静かに回り、飛行機も飛び、星がまたたく。下方の、定かならないが、密度のある独特の空間の性質が、この作品の見どころだと思う。(高山淳)

 吉村誠司「陽光」。足立美術館賞。ギリシャの鳩舎のイメージだそうである。上方に変形の五角形の柔らかい明るい陽溜まりがある。周りはだんだんと暗くなっていく。いちばん下方は画面の下方五分の二あたりに水平線を引いて、その下は暗く、中からたくさんの鳩が顔をのぞかせている。明るいところにもグレーのところにも丸い、あるいは矩形の穴があけられて、そこから一羽あるいは二羽の鳩が顔を出している。見ていると、鳩がこの窓から顔を出す時間は同時ではなく、不連続で、ある窓から顔を出すと、次に引っ込めて、よその窓から顔をのぞかせる。また引っ込む。そういった連続した時間をそのまま一挙に捉えたような趣がある。その時間の連続したかたちというものが、音楽的な世界を引き寄せる。チェンバロの懐かしい響きが聞こえてくるようなシックな雰囲気がある。いわばバロックのフーガの曲のように、あるメロディを次のメロディが追いかける。そのようなかたちで鳩が交互にあらゆるところから顔を出しながら、それをリズムとして追いかけていって、一望のもとに描いたような趣が感じられるところが面白い。これまでの作品の中でもとくに造形的でモダンで生き生きとした雰囲気を感じる。(高山淳)

D─1室

 河合重政「生(遠州灘)」。卵を産みにウミガメが泳いできた。その疲労のなかにいるウミガメをまるで人間のようにリアルに描いている。独特のマチエールである。その手触りとも言うべきものがこの存在感をつくる。一頭のウミガメを大きく描いて絵にしている。(高山淳)

 高田裕子「緑萌ゆ」。少し小高い丘に、緑の葉をつけた樹木が数本立っている。手前からその樹木のそばを通って、奥の方に小道が続いている。地面にも草が生え、画面はほぼ緑の色彩で一色になっている。その緑の繊細な扱いがよい。自然の持つ豊かな生命力と瑞々しさが、大きな魅力となって鑑賞者を惹き付ける。(磯部靖)

 中神敬子「時の丘」。建物を組み合わせて、奥行きの中に表現する。鐘楼のある教会が上方に立つ。建物のクリアなフォルムの角度を変えながら描いた形は、そのまま透明なメロディのような音楽性を醸し出す。斜光線による壁や屋根の明暗の調子は、そのままリズムのような働きをする。(高山淳)

 重里香「光影」。灰白色の色彩の中、漁師が小さな船で網を引いている。その作業によって揺れる水面の表現に説得力がある。つまり、水面が手前から奥へとしっかりと距離感を持って描かれている。そしてゆらゆらと動きながら変化していくイメージを鑑賞者に違和感なく伝えてくる。その筆力に感心した。(磯部靖)

D─2室

 下川辰彦「歴(西安の詩)」。西安にまつわるイメージを描いている。少女の石像を中心に過去からのイメージを画面の中に引き寄せている。一度描いてベージュ系を施し、再度削り出すように描きながら、重量感のある作品としての見応えが魅力である。(磯部靖)

 伊藤みさと「季節の中で」。緑輝く森林の風景である。中景に小屋が見え隠れしている。上方からの陽の光を実に大切に扱いながら、その場の清々しい空気までも作品に引き寄せている。(磯部靖)

 小林路子「悠久」。長い年月を経た桜のような樹木を独特の装飾的な表現で描いている。その強い生命力が蠢くようである。そしてその周囲に白い花が散りばめられている。静かでありながら華やかな印象に好感を持つ。(磯部靖)

E室

 松村公太「夫婦舟」。小さな舟に乗った夫婦を描いている。その素朴な様子がじっくりと捉えられている。自然と共に生きる人間の持つ魅力がおおらかに表現されている。すこしベージュに染まった水面の色彩もまた繊細で、少しの寂寥感と共に後味のよい作品となっている。(磯部靖)

 小川国亜起「清晨」。特待推挙。雪の積もった葦にたくさんの雀がとまっている。二十羽ぐらいの雀のそれぞれのフォルムが生き生きとしている。若冲の世界に通じるような、雀の世界に接近したところからあらわれてきたフォルムである。正面からその認識力とイメージの強さによって仕事をしているところに好感をもつ。(高山淳)

F室

 白井進「晴れゆく」。点を打ちながら、この朦々たる気の満ちた自然を描いている。下方に道があり、密集する樹木の群れ。この丘の向こうは霧が立っていて、もう一つの山が見える。水墨に通じるような表現方法であるが、自然のもつ生気をよく捉えている。(高山淳)

 齋藤ゆりあ「便り」。家屋の入り口へと続く小道の風景である。淡い色彩をうまく扱いながら清潔に描いている。特に画面手前は白いシルエットによって草木が象られているところが新鮮である。(磯部靖)

 斉藤博康「歴―小茂内浜―」。階段を上る道を行くと、ほとんど廃屋のような建物がある。空はピンク色に染まっている。この手前の植物と建物がシルエットの中に描かれている。深い感情世界があらわれる。(高山淳)

 赤田美砂緒「道の向こう」。父親と子供とが乾いた道を向こうに歩いている。そばに線路。トタンでできた建物。雑草と樹木。白い光に照らされた光景は、長く晒されてきたような独特のマチエールをつくる。この時間は実ははるか昔の時間のある一刻のような、独特の雰囲気が魅力。(高山淳)

 狩俣公介「風影」。奨励賞。柳が水の上に伸びている。その影が水の波紋の上に捺されている。虚と実とが対照されて、独特の情緒があらわれる。ユニークな美意識の表現だと思う。(高山淳)

 廣田晴彦「痕跡、過ぎる頃には」。道路を横切る黒猫の姿が印象的である。丸い滑り止めがいくつもあるから、坂道なのだろう。そこに掠れるように白線があり、雨で濡れたような部分もある。シンプルではあるが、細部まで注意を払いながら、見応えのある画面として仕立て上げているところに注目する。(磯部靖)

 荒木恵信「Wing」。空港の屋内の天井をダイナミックに描いている。交差する直線の織りなす幾何学的な様子の中に、飛行機の影が印象的に浮かんでいる。大胆な画面構成であるが、しっかりとした安定感がある。(磯部靖)

G室

 岡田眞治「輪舞曲」。西洋の墓が描かれている。たくさんの墓が題名のように静かに動きながら、あるメロディをつくりだすようだ。墓にこのようなロマンティックな雰囲気を与えるところに、この画家の独特の才能が感じられる。また、一つひとつの墓にリアリティがあり存在感があり重みがあるというように描かれているところが、この作品の絵画性である。その重みと左右に揺れるような不思議なイメージ感とが相まって、この作品の魅力がつくられる。(高山淳)

 大野逸男「柳生道(二)」。雨が上がって霧がわき薄日が射した風景を、逆光のなかに描いている。正方形の画面の中心が薄日が射した様子で、その光が周りに浸透していくような独特の雰囲気。そのじんわりしたなかに空気のもつ物質感や霧や光のもつ物質感までもたなごころの上に置いて表現しているような、繊細で、しかも強い雰囲気がこの作品の魅力だと思う。周りの樹木や下方の道の石などの表現も面白いが、取り囲まれたこの柔らかな空間の、ある実質感ともいうべきものが描かれているところに注目。(高山淳)

 北田克己「夏の翼」。女性が両手を体から離して、すこし膝を曲げて宙に浮いている。その両側に上方から大きな花の咲いたような羽衣のようなフォルムが下りてきている。日本が平和で幸せであれと祈りをしているような雰囲気である。クリアな女性のフォルムがきびきびとして、静かな中に強い韻律が感じられるところが面白い。その韻律が祈りという深い心象とリンクする。(高山淳)

 小田野尚之「向島遠望」。尾道市にある浄土寺の山門から尾道水道と対岸の向島を描いている。ほとんど無彩色の中に海が青く、そこを行く一艘の船が彩色されている。手前の白い晒されたような二本の電信柱、あるいは周りの樹木の葉。対岸の建物の屋根などがほんのすこし赤や青で柔らかく彩色されている。幻想の中にあらわれてきたような風景である。現実の光景でありながら、それがそのまま深い記憶の中からよみがえってきたような雰囲気。現実とイメージが深くクロスするところに、この作品の不思議な魅力が感じられる。(高山淳)

 大矢紀「日本海(明日も陽は昇る)」。両側の断崖とその中に逆巻く波。遠景の海は夕日に染まっている。いま日が海に沈もうとしている。向こうには浄土があり、手前には逆巻く困難なこの世があるような、そんなイメージが面白く描かれている。とくに津波という大災害が起きたために、この手前の波が上方までしぶきを上げて立ち上がってくる海の恐ろしい様子には、そのような怖さが感じられる。対して、静かに日が沈む向こうは西方浄土といった趣である。単に風景を描くだけでなく、そのような強い寓意性をはらんでいるところが魅力。(高山淳)

 吉原慎介「出遭いの道」。奨励賞。左右のシルエットの樹木。道がT字路になっていて、黄金色に光っている。そこに二人の少年が立っていて会話をしているようだが、その少年たちは柔らかなシルエットのなかに描かれている。この少年を慈しむような雰囲気と光が複雑に扱われて、独特である。両側のシルエットの樹木に挟まれた山のほうも道と同じように輝いていて、山の緑と手前のT字路の黄金色とで十字架ができ、そこに二人の少年が立つというコンポジション。人生のこの一刻というものをしみじみと感じさせる佳作である。(高山淳)

 荒井孝「只管」。老人がショールを身にまとい、左手で、それを固く引き寄せて、右手に杖を持って立っている。相当の高齢で、寒い季節のようだが、素足にサンダルをはいている。後ろには石段がある。緑がかったグレーで、その石段が聳え立っているような雰囲気で、ある困難な人生の現実をしぜんと想起させる。そのなかに立つ孤独なこの老人の毅然とした雰囲気。遠くを眺めている目の表情。悲しんでいるようでもあるし、笑っているようでもある不思議な顔。人生のある象徴というものを、この老人を通して画家は表現した。その背後にはやはり津波や福島原発の事故に対する画家の深い思いが浸透しているようだ。杖を持つ右手や顔の表情、ショールの中の手、素足の形など、それぞれのディテールが生きているように思う。(高山淳)

H室

 平林貴宏「エレンの錯覚」。白い和服の女性を正面から描いている。女性は右手に縄を持ち、帯に紙を挟んで、まるでこれから自殺するような、あるいは自殺して霊として蘇ったような、妖しい雰囲気を醸し出している。なめらかな線による強い描写と、気配を追うような描き方に惹き付けられる。(磯部靖)

 三浦愛子「神様」。初老の男性の背後に様々なイメージが浮かんでいる。カラスや馬、ライオンの他、町の風景、月、雲、紙吹雪。男性は、手に刺青があるなど、どこか現実から離れたような雰囲気を醸し出している。独創的な世界観と描写力に注目した。(磯部靖)

I─2室

 山岡忠曠「花降る日」。手前にぼんやりと光る淡いピンクの百合がいくつも描かれ、木の壁の向こうに少女が見える。右上には鳥籠があり、そこから出た二羽の小鳥が壁に止まっている。幸せを誘うような、心地よい雰囲気が魅力の作品である。(磯部靖)

J─1室

 松岡歩「悠々」。院友推挙。向かって左上を向いたマンボウを画面いっぱいに描いている。ゆっくりと泳ぐその姿がどこかユーモラスで魅力的である。様々な色彩を織り交ぜて彩色されたマンボウの肌も表情豊かである。画面右上の小さなタツノオトシゴが、もう一つの奥行きを画面に作り出しているようで興味深い。(磯部靖)

 藤谷實「煌めいて」。薄暗い草に囲まれた水辺の情景である。画面の右寄りに一羽の鷺が描かれている。左上方からは、陽の光が少しだけ漏れている。深みのある暗色の扱いが特に印象的である。(磯部靖)

J─2室

 繭山桃子「rain gate」。観覧車の見える工事現場をおもしろい画面構成で描き出している。青みがかった灰白色を基調にしながら、連続する黄、黒、赤の色彩で抑揚を付けている。画面全体の間の取り方もうまくいっている。(磯部靖)

 齋藤竜太「染」。青から朱へと徐々に変化していくグラデーションが気持ちよい。浮かび上がるような樹木の影も繊細に描かれている。(磯部靖)

 岩田隆「リビング」。寝そべって何か書いている少女を下方に配置し、その背後に大きな観葉植物をいくつもシルエットで描いている。画家の温かい眼差しがモチーフのやわらかいフォルムとなって表れているようで好感を持つ。(磯部靖)

 安井彩子「愉しいとき」。クッキーの型を抜いている若い女性をモチーフにしている。女性のデッサンやテーブルの木目、生地のしっとりとした質感など、それぞれをよく描き分けている。シャツの緑の色彩もまたうまく画面になじんでいる。(磯部靖)

K─1室

 永吉秀司「内包」。大きなコンクリートの土管に沿うように青年が立っている。その土管の向こうに月が浮かび、手前に雑草が見える。クリアなフォルムを駆使しながら、そのディテールの力によってひとつの詩を表現する。(高山淳)

 山本浩之「夏」。パラソルを差す少女がカーテンを持っている。カーテンは茜色に染まっている。背後に無人のテーブルがいくつも見え、上方に入道雲が浮かぶ。夏のある一刻の詩と言ってよい。柔らかなピンク色やブルーや紫などがハーモナイズする。独特の色彩感覚で、この少女のいる空間を夢の中に連れていく。(高山淳)

 川瀬伊人「白い沼」。画面下方手前に蓮の花托や葦が伸びている。上方はうまく箔を使いながら、大きく花のデッサンを入れるなどして、独特の空間を作り出している。重厚な画面でありながら、しっとりとした雰囲気を失わずに描いているところが、特に見どころだと思う。(磯部靖)

 ⻆島直樹「祈炎」。山伏姿の人々が集まって祈りを捧げている。真ん中に炎が大きく燃えている。シルエットの背中を見せる五人の山伏。あるいは、火によって照らされた山伏たち。十数人の山伏たちのフォルムがそれぞれ異なりながら、全体で統合され、生き生きとしている。また、フォルムの連続によって、強い波動が生まれている。気というものが具体的な群像表現のなかから静かに感じられる。(高山淳)

 才木康平「さみだれ」。雨の降る庭の情景を描いている。雑然としているが、それぞれをしっかりと描写し、存在感を与えている。上方の青い傘や、下方の水の流れなどが、作品に広がりを持たせている。(磯部靖)

L室

 奥山たか子「祈り」。竹の前に立って、七夕の竹を持つ女性。シャープな独特のムーヴマンが感じられるところが面白い。(高山淳)

 野地美樹子「薄紅薫」。枝を広げ果実をいくつも実らせたリンゴの樹木を、画面いっぱいに描いている。薄く淡い緑の中に、ぽつぽつと点在するリンゴの朱が可愛らしく印象的である。(磯部靖)

 加藤史応「灯」。白い衣服に身を包んだ女性をしっかりと描いている。ヒトデを星に見立てながら、独特のファンタジーを表現していて注目した。(磯部靖)

 近藤仁「生活の柄」。いくつもいくつもアパートが描かれている。そのアパートの中には電灯がともり、衣装や人間などがシルエットで浮かび上がる。下方の道を歩く人々もシルエットである。白と黒の中に様々なフォルムが現れ、室内の光がそれらを荘厳しているような不思議な雰囲気である。繰り返されるフォルムが遠近感のなかに表現され、全体で統合され、ハーモナイズする交響楽的なイメージが表れる。(高山淳)

 井田昌明「鎮魂歌」。ほとんど白黒の作品である。犬を連れた少女が踏切の前を走る電車を眺めている。電車の中には男女様々な人々が見える。それが銀河鉄道の夜の中に走る向こう側の人のような、不思議なイメージのなかに描かれている。独特の詩人のもつ感性だと思う。(高山淳)

M室

 宮北千織「地の衣」。最近、日光での取材が増えているそうだが、ある時、木に不思議な形でくっついている苔のようなものに目がとまり、その地衣類という生き物の魅力につかれたそうだ。小さな宇宙を見ているようだという。地衣類が花のように樹木に付着し、生き、蠢き、咲いているような雰囲気が面白く表現されている。下方は線描でシダのようなものや猿のようなものも描かれている。画家の優しい詩人的な感性はこの地衣類の中にいわば宇宙を眺めていて、そこにはビッグバンもあるし、生まれたばかりの幼女のような美しさもあるし、あるいは不定形の増殖していく独特の生命感もあるしといったような雰囲気で、それがこの横顔の女性を包み込んでいる。柔らかなオレンジ色の色彩に対して地衣類の緑が、まるで華が開いたような不思議な雰囲気で一つの世界をかたちづくる。取り巻かれた女性の歩いているような雰囲気。まさに大地の鼓動や大地そのものの表情にインスパイアされてあらわれた、ローマン的な性質が魅力。(高山淳)

 清水達三「瀞峡」。瀞峡は熊野川の支流にある。水が青く独特の神秘的な雰囲気がよく表現されている。切り立った断崖とその上に生える樹木。画面上方の山頂の向こうに金色の光が見える。それに対して下方はこの水自体が内側から発光しているようなあやしい雰囲気である。その水は生命そのものの象徴のように流れている。そういった水のもつ神秘的な雰囲気がよく表現されている。水が御神体になるような日本の古神道のもつ深い敬虔な神秘的な世界が表現されているところに注目。(高山淳)

 清水由朗「始動」。文部科学大臣賞。関西空港朝六時の情景だという。いまエンジンを回して飛び立とうとする、そんなジェット機。乗客を運ぶためのブリッジはしかしまだつけられている。左から光が斜めに当たる。一つの飛行機を正面から見ながら、心のときめきがそこに描かれているところが、この作品の面白さである。そのときめきが静止しているこの飛行機に強いムーヴマンを与える。(高山淳)

 今井珠泉「暉」。カラスが逆光の中を動いている。画家は福島の出身だから、福島の事故に心を痛めているそうだ。カラスはかつて八咫烏と言って神武天皇を先導した故事もある。日本復活を願ってのカラスの力強い表現である。(高山淳)

 梅原幸雄「せせらぎ」。せせらぎを描いたもの。作品から受ける印象は強い煩悩、あるいは無明の世界を流れる川のような趣である。小石も賽の河原のような趣である。死体さえも川の底に沈んでいるかもしれない。その無明のなかを流れる時間の象徴のような川の表情に注目した。(高山淳)

 菊川三織子「天の浮き橋」。天の浮橋から矛を垂らして島をつくったと『古事記』の中でいわれているが、そういった伝説をバックにして、あやしい二人の妖精のような女性が立っている。とくに肌の色が独特である。神的な存在が命あるもののごとく表現されているところに感銘を受ける。(高山淳)

 宮廽正明「山水山」。香川県高松市から瀬戸内海を見下ろした風景である。夕暮れのある時間帯になってくると、瀬戸内海の海が輝き、陸がこのようなかたちで染まり、はるか向こうの山がシルエットになってもこもこと浮かび上がってくるそうだ。山が人体のように見えたり、瀬戸内海の光っている様子が山に見えたりすると画家はコメントしているが、斜光線の中に浮かび上がるこの光景は、光を含みながら徐々に移動し動いているような不思議なムーヴマンが描かれていると思う。そこがこの作品の独特の魅力だと思う。くっきりと描きながら、そのような幻想的な雰囲気がこの作品の独特の魅力をつくる。(高山淳)

 松村公嗣「晨朝」。朝顔は月の入りと同じ頃に咲き始めるそうだ。そして、一回限り咲いて終わりである。上方にその落ちつつある満月が銀色に静かに光っている。その月の光をそのままたなごころに受けているような、朝顔の真ん中がぼんやりと明るく輝いた様子。青い朝顔が朝が来るすこし前の夜の空間のなかに咲いている。いま生まれたばかりのような初々しい純潔な無垢な美しさ。実景から感動を受けたことをどのようにして絵の中に描くか。画家のもつ一種天馬空を行くようなデザイン的才能ともいうべきものが見事にあらわれた作品だと思う。朝顔の中の光っているようなフォルムの点々とある後ろ側に、じっと見ていると、夜のなかにうずくまっているような植物の葉のフォルムが徐々に現れてくる。なお、じっと見ていると、やがて夜明けが来るだろうといった時間の推移までも感じられるようだ。夜と朝との境界領域に独特の仏画的な世界を表現した。(高山淳)

 篠﨑美保子「地の祈り」。奨励賞。バリ島のシリーズである。背中合わせに立つ二人の女性。肩からバッグのようなものを持ち、そこに丸めた布を持っている。背後の背中を見せる女性は布でできた籠のようなものを頭に置いている。その二つのフォルムがお互いに連続しながら独特の生命的なイメージをつくりだす。花柄の衣装を着ているが、手前のグレーの衣装に対して背後の背中を見せる女性の、胸のあたりの赤と黒の色彩が輝く。まるで朝日をそこに置いたような若々しい雰囲気である。バックの茶系の色彩の中に寺院の一部の様子などを描く。背中合わせの二人の女性のフォルムを構成しながら、バリのもつ素朴な宗教感情と、そこで生活する人々を力強く、優雅に表現する。(高山淳)

N室

 高橋天山「弟橘媛」。オトタチバナヒメはヤマトタケルノミコトの妻で、浦賀水道に至ったとき、荒れ狂う海で船があわや沈没というときに、自ら入水し、それによって穏やかになった海路をヤマトタケルノミコトたちが進むことのできたことが『古事記』に書かれている。その入水の瞬間の姿である。画家の強いイメージがつくりだした世界。逆巻く波の様子も独特である。そこにフワッと、いま宙に浮かんだ、合掌する姫の姿。柔らかな曲線によって描かれて、まるで夢の国のような雰囲気である。画家独特の才能のよくあらわれた作品である。(高山淳)

 松本高明「浄池」。日本美術院賞・大観賞・招待推挙。それほど大きな作品ではなく、水面が描かれている。静かに波紋が立っている。そこに樹木の様子がかすかに映っている。その中心にいちばんのハイライトを置いて、四方に向かってだんだんと暗くなっていく様子。あの平等院の池を思わせるような独特の雰囲気。池の奥から声明が聞こえてくるようなイメージが実にこの作品の魅力だと思う。(高山淳)

 大野百樹「初冬」。内閣総理大臣賞。佐渡の北端の地で歴史を刻んだ老松を描いたそうである。手前の屈曲するフォルムがそうである。背後に聳える断崖が描かれている。モザイクで描いたような独特の技法である。視点の面白さ。目がくらむような不思議なあやしい雰囲気が魅力。(高山淳)

 松本哲男「我譜(マヤ・神聖文字階段)」。中心にあやしいマヤのスフィンクスのような像がある。象のような不思議な生き物の密集した上に立っている。背後に神聖文字の捺された階段が続いている。その階段の四ヶ所に同じようなフォルムが見える。実にあやしい世界である。歴史の魂ともいうべきものが忽然として現われたような趣である。それほどこのマヤ文明のこの場所には画家に深く感応させるものがあるにちがいない。階段の左右は石が積んであって、その石は崩壊しているようにも見えるし、密集して集まってこのフォルムをつくっているようにも見える。中心から発光して輝くものがある。煩悩の中から生まれた独特の英知のような不思議な世界が面白く表現されている。(高山淳)

 福王寺一彦「三日月」。「晩秋の三日月の光の中で/梢から葉が地面に降りてゆく/青い鳥の記憶に/月と樹の対話は/消えることはない」というポエティックな文章が添えられている。枝と葉と夜空は墨による表現である。一羽の鳥が青く彩色されて枝にとまり、月の向こうを眺めている。青い鳥は実はそばにあったというメーテルリンクの話などもきっとこの中には入っているのだろう。上方の枝と月と葉とのこのコンポジションが生き生きとした詩的世界をかたちづくる。(高山淳)

 村上裕二「カナリアチューリップのハートにのせて」。白いシャツに白い半ズボンをはいた少年少女が、笛を吹きながら集まっている。その様子が全体で二重のハート形になっている。百人か二百人かの子供たちを集合させて、ダイナミックでありながら、温かで不思議なコンポジションをつくりだした。バックの金が実によくきいている。金のもつ、場所を変えることによって光が異なるような強い象徴的な空間がこの子供たちの背景に使われて、それがこの作品の魅力のベースをつくっているところを特筆しておく。白い衣装とこの子供たちの愛らしい顔。いわば天使たちがここに集合して、ハート形のマークをつくったといった趣である。無垢な強いイメージの表れた佳作である。(高山淳)

 齋藤満栄「耀」。「私たち生き物にとって太陽と水は一番大切なもののひとつです。その二つから生れる雲、それらをテーマにこの絵を描いてみました」。筆者には那智の滝の水の落ちる、いちばんてっぺんのようなイメージを感じる。また、切り通しの道の部分を描いているようにも感じられる。きわめて曖昧模糊として表現されている。その切り通しの向こうに光があって、静かに輝いている。周りの樹木のようなシルエット。そして、水あるいは地面を思わせるような光っている場所。残照が風景を染め上げるといった趣である。フォルムが曖昧で、ただ光と空気感が、あるいは水が輝きながら、尊いものとして臨在しているようなイメージを、独特の構成の中に描いている。(高山淳)

 芝康弘「六月の詩」。早苗の頃。田植えの終わった水田のそばの地面にうずくまる少年ともう一人の屈み込む少年を、柔らかなハーフトーンの中に表現する。早苗のフォルムもそうだし、二人の少年の姿が繊細で、生き生きとしている。写実を基調としながら、空気感さえも感じさせる表現に注目。(高山淳)

 西藤哲夫「やまめ」。黄金色一色の中に水に映る樹木の影が、独特のアラベスク模様のような抽象性のなかに表現される。そこを八尾のヤマメが静かに泳ぐ。静中の動である。水のもつ奥行きともいうべきものが描かれているところに注目。(高山淳)

 木下千春「夏休み」。夏休みに円形のプールで遊ぶ子供たち。それを見守る大人。ゆらゆらと揺れる水面のフォルムを一種抽象的に表現しながら、そこに子供たちのフォルムが生き生きと配される。(高山淳)

O室

 丸山國生「刻の風」。煉瓦造りの建物が甍を並べる街並みを高台から臨むような構図である。細やかな部分まで気を配りながら、ある種のリズム感を大切に描いている。(磯部靖)

 杉山紀美子「煌く」。特待推挙。二人の若い女性が立っている。フォルムが強い。上方から巨大な花がぶら下がっている。人間の頭ほどある花の大きさが、この作品の中では不思議と思わない。そのような幻想性がこの絵のなかに取り入れられている。それはフォルムのクリアで強い表現の連続性による。(高山淳)

 中井香奈子「巡礼」。清潔感のある画面が強く印象に残る。曲線を複雑に絡み合わせて作られた空間がうまく機能し、作品に奥行きを作り出している。(磯部靖)

 八谷真弓「信疑」。腰掛けるようなポーズで何かを指差している女性を大きく描いている。背後の色彩と女性の衣服が微妙に混ざり合っているところがおもしろい。女性もどこか彫像的な表情で、それもまた印象的である。(磯部靖)

P室

 村田林藏「絆」。牛の親子をモチーフにしている。二頭のフォルムや重量感がよく捉えられている。誠実に牛の親子の親密さ、愛情を描き出しながら、それだけに引っ張られることなく、作品として仕立て上げているところに注目した。(磯部靖)

 新生加奈「永遠の詩」。聖母子像と言ってよい。幼児を抱く若い母親。それが暗いバックの中にぼんやりと光り輝くように表現されている。母子のもつぬくもりやオーラが内側から滲み出てくるような強さがある。(高山淳)

Q室

 高橋裕子「一人旅」。山間にある駅舎が寂しげに描かれている。薄暗い中にぼうっと光る窓の明かりが、何とも言えない旅情を引き寄せている。画面右手前や、中心にたつ裸木のうねうねとしたフォルムがそれらとは別に見応えのある作品として、画面を支えているようでおもしろい。(磯部靖)

 山口貴士「陽溜まり」。水路に浮かぶゴンドラをしっとりと描いている。夕刻時だろうか、画面は朱から黄の色彩で染まっている。水面のたゆたう曲線もおもしろいが、そういった中で、船頭の青いストライプのシャツが一つのアクセントとなっていて印象的である。(磯部靖)

 松浦主税「時を移さず」。古い家屋の窓に鳩が一羽。もう一羽は空を飛んでいる。見上げる角度から描いている。独特の臨場感がある。フォルムに集中する画家のその感覚のよさからあらわれてくるムーヴマンに注目。(高山淳)

R室

 石谷雅詩「常光」。印象の強い作品である。うらぶれたような建物。そこの縁台に座る老人と犬。強い陰影の中にぐいぐいと描きながら、生活感とか人生の匂うような作品であるが、水墨表現であるところに驚く。(高山淳)

 金澤尚武「あいの風」。大地に立つ若い女性が横向きに描かれている。背後の青い色彩は、海のようでもあり、空のようでもある。いずれにせよ画面右側から吹く風がイメージとして感覚的に鑑賞者に伝わってくるところがおもしろいと思う。(磯部靖)

 桐原いずみ「河原」。院友推挙。無数に描かれた石が重厚な画面を作り出している。その石一つひとつの形がよく捉えられている。上方にはごく浅い川辺が見える。それも白で彩色されていて、画面全体の抑揚がしっかりと表現されている。(磯部靖)

 本地裕輔「夏行く」。院友推挙。水辺の風景である。繫がれた二艘の舟、伸びる樹木、遠景の舟に乗った人物などが、繊細なシルエットとなって描かれている。水面のキラキラと輝く白の色彩も清潔感がある。(磯部靖)

S室

 山田美知男「見守る」。院友推挙。親子の牛を描いている。親牛は立っていて、仔牛は首を伸ばして座っている。モノトーンの色彩の中に、しっかりとモチーフを捉え、描き出している。(磯部靖)

 江藤紀世「朔風」。桟橋の見える川岸の風景である。無数に生えるススキの中に、横に続く木造の桟橋の様子が強く印象に残る。爽やかな空気感が特に魅力である。(磯部靖)

第75回記念新制作展

(9月14日〜9月26日/国立新美術館)

文/高山淳・小森佳代子

2階─2室

 小島隆三「破壊と創造“悩める賢者たち”」。光琳の紅白梅図屛風に描かれている水の文様のようなフォルムが、画面の中を動いていく。それに囲まれるように三人の女性と一人の少年、一匹の犬。四つのパーツからできていて、両側のパーツには羽をもつ天使のようなフォルムが置かれている。今回の津波の破壊を癒しもう一度新しく創造しようとする、そんな画家の強いイメージがこの不思議なコンポジションをつくりだした。左右の金による処理と中心の金、そして琳派状の波紋のフォルム、人間たちとが不思議なハーモニーのなかに表現されている。(高山淳)

 山口都「記憶の都市」。イタリアの建物のようだ。光がよく捉えられている。その光がアラベスク状のフォルムを画面に与えている。上方から眺める視点のコンポジションの中に捉えられた光の力に注目。その光がある神聖さと権威、ディグニティといったものを引き寄せる。(高山淳)

 矢澤健太郎「悲しい女神」。白いワンピースの女性が立っている。『古事記』の頃の女性のようだ。大地は渾沌として亀裂が走り、溶け、津波の海と重なるようだ。中に泣く女や生き埋めになった人間、あるいは倒れた人、壊れた牛。その中に花が咲く。上方に不思議な、八咫烏のような鳥が飛んでいる。今回の津波の、あるいは福島の原発事故などの経験を、画家はこのように内面化するなかに表現する。その思いを一人の泣く女神に託しながら、周りの渾沌とした動きのなかに恐ろしい経験を血肉化しようとする。(高山淳)

 太田國廣「日照垂迹桜滝図」。真ん中と両側に滝が描かれている。上方に大きな円があって、赤い線に囲まれる中に金による曼陀羅状のフォルムがあらわれている。それは生命を司るすべての源のような趣である。太陽でもあり月でもある存在。その上方や両側、左右、あるいは下方に、太陽や月の重なったようなフォルムが入れられているのも面白い。黄金色の雲が浮かび、下方にはカエルや蟹、あるいは鯉のような魚が描かれている。クリアな強いフォルムである。自然というこの不思議なものを形象化する力が画家にある。その形象化する力は、一種図像的な強さとしてあらわれている。複雑な動きがそのフォルムの中にからめとられる。まさに垂迹美術としての新しいよみがえりを感じさせる作品。(高山淳)

 佐藤泰生「海と潮騒(しおさい)」。海岸に母親と男の子と女の子と犬がいる。母親はこちらを見て、兄弟は海のほうを眺めている。犬はこちらを見ている。波が寄せている。波の表現が実に斬新で、面白く感じる。時が刻々と移っていく。その時間のなかに起きる現象、動きをそのまま描いたようだ。したがって、十分なら十分のあいだに起きたことがすべて一枚の静止した絵の中に描かれているという様子。卓抜したデッサン力の賜物である。奔放に筆が動き、人間や自然が描かれる。風があるようで、その風の抵抗を受けながら、上方に白い鳥が飛んでいるのも面白い。母親の顔は正面向きと横向きで、その二つの動きがそのまま絵の中のフォルムとして定着される。ビリジャン系の緑の海に白い波が豪放で、かつ大胆、繊細な趣で描かれている。一種琳派ふうな造形意識も感じられる。(高山淳)

 明山應義「早春・白い道」。濁流の水の中に一つの岩があって、その小さな岩の上に祖母が孫娘を抱き、その兄が前に立っている。その三人のフォルムはモニュメンタルで、力強く、人間力の塊として、いわば仏画的に表現されていると言ってよい。面白いことに、祖母の足は水の中に立っている。孫と一緒に津波に呑み込まれたのかもしれない。背後の水墨ふうな山の表現。あいだを白い道が続いていく。希望のような空の黄金色。震災復興のモニュマンと言ってよい。(高山淳)

 樺山祐和「森にうつるもうひとつの森へ―物について―」。樹木が生命的に表現されている。あいだの葉の緑が独特の動きのなかに密集して描かれている。その樹木の森の奥にもう一つの神秘なるものが存在するように画家は表現する。ドローイングふうな筆のストロークの重なりによって、独特のムーヴマンがあらわれる。(高山淳)

2階─3室

 田澤茂「北の祈り 1」。今回の東北の津波のことがあって、一気呵成にこの作品は出来上がったように感じられる。上方に赤い絵具で暴れ回る動きが表現される。それは三十メートルを超える津波でもあるし、風でもあるし、自然の恐ろしい力の画家による表現である。そして、それによってクラッシュしていくイメージが赤や黄色、緑などのフォルムでがちゃがちゃと置かれている。そこから何か不思議な音色が聞こえてくる。画家は天性の芸術家で、運動神経もよいし、音楽にも深い造詣がある。体全体が運動する、その画家独特の内的なリズムに従ってこの作品が生まれたようだ。下方には白い野仏がカーヴしながら続いている。その下には赤いおべべを着せられた白い顔の笑う野仏がつながっている。すべてそれは亡くなった人を癒すための存在である。あるいは、三途の河原にある石が笑いながら立ち上がってきたような、不思議な趣もある。その二列のあいだを飛ぶ白い鳥は、亡くなった人の魂のようだ。しかし、下方の葬送行進曲は青森生まれの画家らしく、棟方志功のあの精神性と共通したものがあって、それをわらべ歌のように表現する。それほどシンプルで強く、じかな感覚が発現した作品と言ってよい。抽象であると同時に具象でもある世界。その深い心の底のところからあらわれた天賦の画家の才による表現と言ってよい。(高山淳)

2階─4室

 金森宰司「ライフ『くつろぎの時間』」。ベッドに肱をついて、ゆったりと寝るように座った女性。自由にデフォルメされて、その膝の上に猫が寝ている。周りにクッションやバッグが置かれて、それが色彩のハーモニーのなかに重要な役割をしている。体が大きく、顔が小さく、独特の大地そのもののようなイメージがこの女性から感じられる。下方の市松状の床のフォルム。全体で、お互いにハーモナイズしながらゆったりとしたメロディが流れてくるようなコンポジションに注目。(高山淳)

 石阪春生「木馬に掛けた一枚の衣〈女のいる風景〉」。木馬に緑と赤の花模様の布が掛けられている。その上にグレーのエレガントなドレスが掛けられている。そばに若い女性があやしい表情で座っている。そのひらひらのロングスカートのドレスとそばの木馬に掛けられたドレスとが響き合う。黒と白のしわのある上衣もまた不思議な感じで、両側の椅子の緑の背もあやしい。そばで人形が遠くを見ている。下方には青い植物を背にした人形が座っている。ここにあるのは、生花ではなくドライフラワー。それが画家の空間の中で画家のイメージという水を吸収しながら増殖を始める。そのパッショネートな力は無から有をつくるような強さである。見ていると、目が回ってくる。眩暈を起こすような、そんな不思議なぐるぐると旋回する動きがある。遠景にはイギリスふうな建物があって、そこに赤煉瓦の煙突がつけられている。右のほうには青い大きな壺。赤、橙、黄色、紫、青、十二色環すべての色彩がちりばめられている。その色彩は固有色となって、画面の中に置かれる。中心のひらひらの木馬に掛けられたひだのあるグレーと黒の、かすかに朱の入ったドレスはあやしく、まるで呪文のような雰囲気である。ピンクの蕾、白い花、ピンクの種子、カラスウリのようなもの、そんなものも渦巻くような動きの上に置かれて、不思議である。この渦巻くようなこのひらひらの呪文的な動きを見ていると、脳髄の動きを見るような思いに誘われる。そういえば、そばに座る若い女性の顔も、生きている女性というより、人形に近い存在で、人形と女性との境界にあるイメージのようだ。人工から人間へ、人間から人工へ、その二つのあいだを画家は密室の中で行き来をする。人形が命を吹き返して人間になり、美しい女性が人形のように固定化される。そんな画家のダイナミックな魔術的空間が、一つの絵として画面の前に存在することの不思議。そして、その中に鑑賞者は招かれる。招かれると、筆者自身も葉か人形となってぽつんと置かれるかもしれない。そういった独特のダイナミズムがこの作品の生気そのものと言ってよい。(高山淳)

 佐野ぬい「青と白と赤の移動日」。題名のように青いフォルムが静かに動いている。赤はその後ろ側にあって、伸びたり縮んだりしている。黄色は光として、この画面の中に降り注いでいる。白は間のような空間としてあらわれている。それぞれの色面が生きている存在のようにイメージの中を動いていく。強い詩情のベースにある画家の健康なインスピレーションともいうべきものに注目。(高山淳)

 張替眞宏「無常迅速」。太い柱が両側に立ち、奥のほうにもある。その手前に屋根のようなフォルムがあらわれている。マンションや美術館などの一隅だろうか。周りをグレーの色面が占めている。円柱に光が当たり、中心と右のほうにも光が当たっている。その光は時間がたつとどんどん動いていくだろう。刻々と移る光と影。印象派は光そのものを描いたわけだが、ここに描かれているものは、刻々と移っていく光と影のその変化である。日が沈めば闇が来る。まさに無常迅速という題名のような世界。いま光があることの大切さ、そのいとおしさが、この柱の明るいグレーと紺色の調子によく感じられる。光は左のほうにも一部入れられている。正方形の画面を九〇度回転させて菱形にして、周りのグレーの中はまるで無明の空間のように仕上げている。そんな周りの空間の中刻々と移ろうなかの今の時間が、一部を照らす日の光となって捺される。実に切ない世界があらわれる。(高山淳)

 松浦安弘「アイト・ベン・ハドウのみえる丘」。モロッコにある城壁集落のある丘である。丘全体の量感、存在感が見事に表現されている。手前に城壁がある。さらに、その手前にすこしオアシスのような水があり、椰子のような植物が密生している。シンプルな風景であるが、気配に満ちている。城壁の部分をもう一点描いたものが「アイト・ベン・ハドウ」で、拡大されているために様子がよくわかる。下方にはアラブの青い衣装を着た二人の女性がいるのが、構成のアクセントになっている。門のあたりにももう一人、青衣の女性がいて、この青は周りの黄土や茶褐色に対して、実に宝石のような美しさである。

 全体を捉えた「アイト・ベン・ハドウのみえる丘」は、建物と城壁と集落と大地とが渾然と一体化しているように感じられるところが面白い。頂上には大きな建物が見える。朝焼けのような空の色彩と大地とが響き合う。手前の椰子のような植物の密生している様子。全体で卵形のフォルムができて、その歪んだ卵形のようなフォルムの奥行き、そしてそこに光を引き寄せたような独特の色彩、ほんのささやかな水。人間が生きる最小限のものによって構成されたこの光景には、実に鑑賞者を引き寄せる力がある。椰子の手前の地面の色彩は丘の色彩と一緒であるが、その地面は永久に延々と続いていくような趣である。マティスはモロッコで色彩を発見したと言っているが、画家の描くモロッコ風景は、黄土系の色彩一色に見えて、複雑なニュアンスがちりばめられている。大地でつくられた不思議な紡錘形のレンズのような、そんな謎めいた色調と空間に感銘を受ける。(高山淳)

2階─5室

 木下和「遺されしものへ―月・星明り '11―」。斜面の右上にムハンマド・アリーモスクの建物がある。ドーム状の屋根と伸びていく尖塔が独特の調和をつくりだす。そこに月光が当たり、黄金色に輝く。そのムハンマド・アリーモスクをそばから眺めて拡大したようなフォルムが左下に拡大されて、シルエット状に表現されている。空は天の川がたくさんの星をきらめかせながら伸びている。そして、大きな満月が浮かび上がる。その満月に雲がかかっている様子だが、その姿は水の惑星といわれる地球のイメージと重なるようだ。視点を変化させながら、イメージも変換していき、広大な宇宙、空とムハンマド・アリーモスクとがロマンティックなコラボレーションをつくる。斜面の緑の大地も神秘的である。宗教もまた人間のつくりだしたロマンと言ってよいかもしれない。シンドバッドの時代さえもしぜんと引き寄せる力のあるような画面である。いま流星が画面の中心に走っているのが、一つのはかない人間の命が飛んだような思いに誘われる。(高山淳)

 宮田保史「伊太利亜日記 '11(羅馬の松)」。一三〇号を二枚、横に並べたと思われる大きさの中に、まるでそれぞれのフォルムが歌い出すような趣である。ブカブカとジャズのメロディが流れてくるようだ。ローマでの記憶をもとにしながら、フォルムを自在に扱い、独特の強い生命的な有機的な構成をつくっている。色彩と同時に強いマチエールがこの全体の統合感をつくっている。(高山淳)

 蛭田均「花気の香る丘」。イタリアの教会がバックにある。サン・フランチェスコ教会だろうか。手前は赤い床の室内で、四人の女性が座っている。赤は柱にも使われていて、残照と言うにはあまりにも強く、独特の感情を喚起する。赤とロンバルディア平原の緑とが独特のハーモニーをつくるなかに、妖精のような少女たちが座る。ロマンティックでありながら、何か激しく訴えてくるものがある。ステンドグラス的な色面の効果を、画家は狙ったのだろうか。(高山淳)

 鍋島正一「ステレオとしての青い鳥のオマージュ(交差法による立体視)」。二つの画面をステレオスコープで眺めると、空洞の外套の奥にこちらを眺める青年の顔が現れる。そして、左下に林檎に手を伸ばす手。そして、外套の向こうからのぞく犬のような動物。壁の周りに雲がゆったりと浮かぶといった、不思議なイリュージョンがあらわれる。とくに中心のこちらを眺める青年の顔が面白く、独特のファンタジーの表現として、あるいはシュールな表現として面白く感じた。(高山淳)

2階─6室

 伊藤康夫「ARCADIA(光芒の時)」。座ったまま女性が午後の斜光線の中にうたた寝をしている。その下方に木馬の頭に寄り添った少年がやはりまどろんでいる。その少年のお尻のあたりに頭を置いて若い母親が横向きでまどろんでいる。窓が斜めになって、そこから柔らかな午後の光線が差し込む。その光線に安息感がある。柔らかな円弧の中にこれらのフォルムは構成されている。白い木馬に顔を寄せる少年は、この馬に乗せられて夢の国に行っているのだろう。そんな午後のまどろみが深いイメージのなかに描かれていて、実に魅力的だと思う。(高山淳)

 有田守成「時間(変動 '11)」。画家はかつて機関車の運転手であった。レールがはるか地平線まで続いている。こんな視覚のなかを画家は機関車を動かしていたのだろう。その機関車を降りた画家が、地平線から空に向けての世界に禍々しい不思議な形象を見る。ざらざらと竜巻のようなフォルムが現れている。右上方にはそれが怪異な化け物のようなフォルムに見える。そのフォルムは今回の津波や福島原発によって触発されたイメージだと思う。画家は広島在住である。広島の原爆の悲惨さを経験した人である。それから六十六年たって、福島の原子力発電所が事故を起こした。そのイメージの禍々しさは深く画家の脳髄に浸透して、広島に落ちた原爆のキノコ雲は新しく別に変容して、このような不気味な形として現れたようだ。一つの目と唇、変形した頭。ギロリとむいた目はわれわれに謎をかける。いわく言い難い、その恐ろしいイメージが、幾何学的な線路の上方に浮かび上がる。そして、われわれの中をのぞきこんでくるようだ。(高山淳)

 藤原眸「遊化―山(桜島)」。桜島、錦江湾、建物、椰子の木、ススキといったように、上下遠近法的にだんだんと上方に行くに従って遠景になる。こんじきの空に白い雲が浮かぶ。日本画的あるいは琳派的な装飾様式と油彩画とのクロスするところの表現として注目。(高山淳)

2階─7室

 郡桂子「砂漠のスーク」。白いモスクが画面の上方にある。明るい黄金色の空とすこし暗い黄土色の色面によって空と大地が描かれる。傘を差して難民と思われる人々が集団で動いているように筆者には感じられる。顔かたちは描かれず、中東ふうの衣装にすっぽり覆われた後ろ姿を中心とした群像である。静かな信仰心ともいうべきものが画面の内側から輝くようにあらわれてくるように感じられる。今回の中東の様々な政変により、流動していく人々の姿が哀切である。(高山淳)

2階─8室

 辻井久子「栖の静物 Ⅱ」。新会員。ほとんど抽象的なところにまで具象が解体され構成された力強い作品。画面全体に光が引き寄せられている。その強い光によって物象が一種シルエット化され浮かび上がってくる。右手前に筆者には水槽と思われるフォルムがあって、そこは水を通してものが見えるために、独特のまた違った存在感を見せる。左のほうに立ち上がる植物的なフォルムの下方に鳥のようなイメージも表れる。上方の真っ青な空から光が差し込む。光は室内でキラキラと散乱しながら独特の輝きを示す。その意味では白がこの作品の中で強い存在感をもって発現している。明暗の力というものを動きのあるコンポジションの中に入れこんだところが、この作品の絵画性と言ってよい。(高山淳)

 田中直子「アコウ ―Rising on―」。新作家賞。巨大な樹木が枝を広げている様子を下方から上方を見るようにして描いている。木に宿っているもう一つの木が、太い血管のように縦横に走っている。まるで巨大なタコが四方八方に足を広げている様子を、下方から眺めているようなダイナミズムである。(高山淳)

 鈴木幸子「月華」。新会員。赤い小紋の着物。蝶々の形をした簪。金の葉の文様のある漆の箱。そういったものを組み合わせながら、独特の夢想的空間を表現している。黄金色ともいうべき光が画面に満ちているところが面白い。(高山淳)

 滝田一雄「室内風景(記憶)」。画面の真ん中に背中合わせの二人の女性がソファに座っている。そばに後ろ姿を見せて立つ女性。女性が、花が開いたように扱われている。ベージュ系の色彩に様々なほかの色相が入れられて、甘美なハーモニーがあらわれる。女性のもつ現実感とファンタジー性と、その二つの境界領域のイメージをつくりだしているところが面白く感じられる。大づかみでありながら繊細な動きをもつディテールを捉えながら周りに静物が配置されていて、それも面白い。(高山淳)

2階─9室

 井本心一「雪の直江津駅構内」。絵画部賞。このたくさんの線路が集合する構内を眺める視点が面白い。横につながっていくラインよりすこし上から眺めていて、遠景に民家が立ち並んでいる様子が、その向こうに見えてくる。下を見下ろすと、一部雪がかき分けられた線路。独特の量感のある表現である。誠実に対象を見て、そこから組み立てたコンポジションが力強い。(高山淳)

 河島鏡子「雨の部屋」。「巷に雨の降る如く われの心に涙ふる」というヴェルレーヌの詩があるが、そんな室内の様子である。そして、窓をあけると、白い百合の花がきらきらと輝く緑なす草原がのぞく。その二つのコントラストが新鮮である。室内に雨の降っているこの暗い様子もしっとりとして、独特の味わいがある。ある意味でナチュラルと言ってよい。自分の感性がある人で、それをベースにして組み立てたコンポジションに惹かれる。(高山淳)

2階─14室

 仲田道子「フィールド イフ」。脚立にのるエプロン姿の少女。砂時計が宙に浮き、下方にトランクがあけられ、時計やトランプのカードが浮遊している。一つひとつのフォルムがクリアで、独特のメッセージ性をもっているところがこの作品の魅力である。また、謎めいた世界、いわゆる通常の時間軸を失ったところにあらわれてくるイメージの展開に注目した。(高山淳)

2階─15室

 小熊直美「Feeling IV」。色彩感覚のよさと独特のリズム感に注目。(高山淳)

2階─17室

 鈴木喜美子「足尾の今・2011―残された煙突―」。今回、津波や福島原発の事故、東日本大震災によって画家は深く心を揺すぶられたと思う。足尾銅山を三十年近く描いてきた画家である。今回の足尾銅山の絵には不思議な気配が漂う。中心に本来地下にあった建物が描かれ、その上方の建物はすでに消えている。右のほうにはぽつんと一つ、残された煙突の一部がある。その地面の下方には坑道のようなものが現れている。そして、その下は断崖で、渡良瀬川が流れている。ずっしりとした存在感がありながら、蜃気楼を見ているような危うい雰囲気が感じられる。地下から何層にもわたって上方に組み立てられた建物が取り払われて、その一部だけがのぞいていると、なにかちぐはぐな感じがあらわれる。幾層もの大地の面が階段状にいくつも下方にあるわけだが、その途絶えたところにあいた、ぽっかりとした空間がなにかなまなましく、切ない気分になる。中景のざらざらとした地面の露出した岩のような部分の日に照らされた陰影などは、画家独特の強い表現であるが、その下の建物や坑道などを見ると、その下の断崖の中にもう一つ山でも現れてきそうな雰囲気で、建物が宙に浮いているような気持ちになる。悲しみの歴史。しかし、その前はずいぶん賑わった足尾銅山であった。その賑わったものが崩壊した。その崩壊のあたりに画家は自分の心象を託する存在として足尾銅山をテーマにしたわけだが、その足尾銅山の歴史と画家自身の心の中のすきま風のようなもの、悲しみのようなものが重なって、それに今回津波の災害などもあって、なおさらひとつの悲しみの肖像のような雰囲気のあらわれているところが興味深い。(高山淳)

2階─18室

 中井英夫「somewhere」。才能のある人である。黄土系の色彩をバックにして、茶色い木造船に日常のアトリエの中にあるものをたくさん積んで、その舟が動いていく。一つひとつの形象がクリアで、独特の画家の美意識がうかがわれるところが興味深い。そして、どこからともなく光がこの一つひとつのものに当たり、一つひとつのフォルムをクリアに立ち上げる。その光に画家の精神ともいうべきものをしぜんと感じることができる。(高山淳)

 阿曽沼明「Wa Shoi !!」。四曲の屛風形式で、金箔を貼った祭りの群像である。これまで工事現場の部屋の入口と出口をトリッキーに使いながら、現代人の肖像画のようなものを描いてきた作風から一転した。伝統的な神輿を担ぐ人々。ただ、視点のずれを各面に置くことによって動きを出しているというのは、従来の方法の延長だろう。次の展開が期待される。(高山淳)

2階─19室

 島橋宗文「田園譜―丘の形象」。丘の中に画家は形を発見している。強い構造をその丘の中に探しているようだ。その中からこのフォルムが立ちあらわれた。黄色や緑の輝くような色彩に対して、黒が強い力をもってあらわれている。下方には水を思わせるような青い調子が、深い調子をたたえている。もう一点の「田園譜―丘のある風景」という細長い作品とおそらく対になるものと思われる。「丘のある風景」は海の中にある島のような陸地のようなイメージが表れていて、ここが昼であれば、左のほうは夜のような存在。光が落ちてくることによって、逆にフォルムが立ちあらわれてくる。残照の空の中に丘にフォルムを発見した画家の独特の造形的感性が、今回のように一種のモニュメンタルな表情をつくりだしたことはかつてなかったと思う。それに対して昼の燦々たる光線の中に水が空を映しながらステンドグラスのように輝き、陸地を囲む。その幸せな雰囲気と、ものの造形の骨格に迫った左の丘の形象とが対になって、二つを緑の細い陸地がつないでいるようである。自然というもののもつ有機的な関係がよく表現されていると思う。(高山淳)

 加藤鉦次「生生流転  ―祭り Ⅱ―」。中心にある高い建物は、中はからくり人形が置かれている。玉屋庄兵衛のつくったものである。それを中心にお祭りの行列が歩いていく。衣装は江戸時代の衣装である。名古屋には玉屋庄兵衛という名高いからくり人形師がいて、それを見るところから画家のシリーズが始まったと聞いたことがある。そんな昔の時代のイメージが幻のように画面にあらわれた。不思議な印象である。傾斜しながら立ち上がる大きな屋根のようなフォルム。青い空。人々の列。強いドローイングするようなストロークの中からあらわれてくる過去からこだましてくるイメージに注目。(高山淳)

 間中敏子「想 Ⅰ」。四体のマネキン。一体は立っているマネキンに座って寄り掛かっている。しーんとした気配のなかに密度のある空間が生まれる。右のほうは円筒形の、まだマネキンのできていないフォルムの上にオレンジ色の帽子がかぶせられている。そのオレンジ色は茜雲のようなイメージを引き起こす。左右には小さな若木や魚の絵や横文字が入れられていて、ヨーロッパを旅したときの思い出が静かに立ち上ってくるようだ。画家の内界には寂しい、純粋な、少女のような人が存在しているようだ。その少女は画家の年齢とはまた別の存在として、画家の心の中にあるようだ。そんな少女のイメージがしぜんと画面の中心から漂ってくる。(高山淳)

2階─20室

 村山容子「風の詩 2011─Ⅰ」。下方に白い雪に覆われた大地があり、その向こうに夜の海があるという設定だろうか。ところが、画面を見ていると、夜の海は夜の空に変じて、大地も宙吊りに浮かび上がってくる。そして、はるか向こうから赤い光が手前に差し込んでくる。その赤い光は実に不思議な優しい雰囲気で、あいだの絵具のすこし固まった部分などは、赤い鳥が飛んでいるようにさえ見える。優しい菩薩的な性質の光が、深く人々の心を癒すためにはるか彼方からあらわれて、手前に伝わって放射してきているように感じられる。夜の空は、無明の空と言い換えた方がよいかもしれない。下方の壊れた地面のようなフォルムと対照的な独特のリズムとメロディをもつ赤い優しい不思議な懐かしい光に感銘を受ける。(高山淳)

 四宮敏行「輪舞曲」。円盤を六分割すると、六〇度ずつになる。その一つひとつに女性が乗って、お互いに手をつないでいる。完全に足が車になった人形もいれば、人形と人間の中間のものもいるし、人間そのものもいるようだ。そして、その上方にセルリアン系の空が柔らかく広がっていて、地平線のあたりにはすこし柔らかなピンクがかった白い光線が感じられる。希望の光のように思われる。下方の円盤の青紫や衣装の青、茶、黒などの色彩、とくに青が実に不思議な印象をもってあらわれている。青が憧れといった透明な切なさのようなイメージのなかにあらわれている。とくに向かって右方向を向いた女性の衣装がそうである。題名のように、三拍子のメロディが流れて、ゆるやかにこの円盤を回転するのだろうか。この六人の女性のあいだを柔らかな風がわたっているような雰囲気がある。装飾的な要素は削ぎ落されて、茫漠たる大地と円盤と六人の人間と人形の中間のものたち。それだけで希望といったもののイメージを引き寄せる。それは六体のフォルムのお互いの有機的な関係によるものだろう。そのフォルムの連続性によって、一種のメロディのようなものがあらわれる。キリコの若い時代のシュールな気配を形而上的絵画と言うが、同様の形而上的なもののイメージが深くこの作品の中に引き寄せられているところに注目する。(高山淳)

2階─21室

 熊沢淑「2011・風―菩薩」。麻布による作品で、中間はしわしわのカーヴしたフォルムがあり、上方にはシャープな骨格のようなフォルムがあらわれる。何か文字を思わせるところがある。下方も同様である。梵字が衣装を着ているような雰囲気である。「風・菩薩」という題名も面白い。無明の一陣の風がフォルムとなって立ちあらわれたような新鮮な雰囲気がある。今回の東日本大震災の経験からこのようなイメージが生まれたのだと思う。形あるものはすべて滅びる。まさに色即是空である。空即是色で、空の中からまた形があらわれたといった趣で、画家の詩的なイマジネーションからつくられたフォルムのようだ。いわば空の中からあらわれた優しい不思議な形。真ん中のしわしわはそのような森羅万象すべてを包み込む存在で、画家のつくりだした袋のようなものと言ってよいかもしれない。そこに包まれたものを上下の真言が癒しているといった趣である。空間がそこでひずむ。空間のなかに強い詩情がひずみをつくり、そこにフォルムがあらわれたように感じられるところも、この作品の独特の魅力である。(高山淳)

 杉野和子「潜」。樹木の根が人間がお互いに連続したフォルムのように見える。そして、ふかぶかとそれはつながっていき、静寂のなかに新しく変質しようとするかのようだ。鉛筆によるドローイングふうなフォルム。そして、その根のあいだに歯車が見えて、刻々と歯車は動きながら生というものの時間の流れをかたちづくるようだ。(高山淳)

 馬緤紀子「いのち 2011」。ひび割れた大地がよみがえり、若葉が地面から生えてくる。衰えていた樹木も生き生きとその枝を伸ばし始める。そういった自然の再生のイメージをナチュラルに見事に表現している。目をつぶった女性の顔の目鼻唇がそのまま大地と重なる。左手は樹木のイメージと重なりながら伸びている。その左手の肉厚のフォルムはまるで仏の手のようにさえ感じられる。白い雲と青い空と緑の若葉、緑がかった地面の黄土色、そして、その中にあらわれる地層。静かに刻々と大地の変化するその様子をナイーヴな雰囲気のなかに繊細に、しかも力強く表現する。時間そのものがこの大地のイメージと重なりながら、渾然としてひとつの時空感が生まれる。その大地全体がひとつの仏の表情になっているところが、理屈抜きのイメージのしぜんな展開の結果と感じられる。(高山淳)

 松尾萬里「椅子・M・2011」。十人ほどの人が立っている。左のほうに三人ほどの人が椅子に腰掛けている。不思議なアウトラインによってあらわれる人間たち。密集しなから、しかし、お互いに関係をもってないようで、孤独な雰囲気である。そういった人々が集合しながら、強い気配があらわれる。それほど厚塗りではないのだけれども、強いマチエールと存在感がこの群像の魅力である。(高山淳)

3階─1室

 成尾勝己「ハカセのプロジェクト・なんとか」。三枚の屛風形式の作品で、センスのよさがある。黄色いバックに地球を思わせるような球体が三つ。右のほうではその上に青年が横になっていて、犬が眺めている。中心ではその地球をいじっている青年。左はその中に手を入れているのが中景に描かれ、そばに犬がいる。犬とこの青年博士は地球を相手にしながら、様々な動作をしている。時間軸が変化している。だから、同じ犬が何回も画面の中に出てくる。そんなノンシャランな時間の動きのなかに、地球というものについて考える一人の青年の姿が、面白く軽いタッチであるが、独特の雰囲気のなかに表現される。(高山淳)

 眞野眞理子「いつくしみは とこしえに」。十人の聖者と思われる人々の群像である。モザイクによってつくられたように描かれている。周りに鳩がいて、丈の低い樹木が図像的に表現されている。静かな中に祈りの波動が、十人の聖者の人々から発するようだ。(高山淳)

3階─2室

 松木義三「子供の時間」。十五人の少年少女が逆立ちをしている。それが集合すると、不思議なメッセージ性をつくりだす。通常のポーズだと足に大変な重力がかかっているのだが、とくに不自然とは思わない。それが両手によって全身を支えるとなると、ずっしりとした重みを二つの腕が支えていることがよくわかる。人間は重力のなかで地球の上で生きているということが、この少年たちの逆立ちによってごく素直に伝わってくる。そういうところにある人間的な存在、そして十五人の子供たちのコミュニケーションの問題もしぜんと想起される。人間というものの限界条件をユニークな倒立の表現によって表現する。(高山淳)

 新保甚平「せせらぎの春」。静かに水が流れている。向こうのほうでは滝のようになって、水位の差があるようだ。水は溢れているから、これは人工のプールのようなものなのだろう。そこに枝や緑の葉が映って、敬虔で慎ましい表情を見せる。水という波紋の中の鏡に映った自然の光景が、合掌したくなるような雰囲気で表現されている。色彩もナチュラルな輝きをもつ。(高山淳)

 菅沼光児「HOPE」。植物が猛々しく生えている向こうは砂浜で、その向こうは海。海の向こうには島がある。そんな様子を明暗のなかに静かに描き起こす。筆力に注目。(高山淳)

 手嶋醇子「或る日のテーブル」。手前に樹木の幹がある。その向こうに逆遠近のテーブルがあって、青いポットや玉葱、黄色いピーマン、ワインボトル、グラス、白い花瓶に花などが置かれている。ものの形が自由で独特のデフォルメがされている。それが配置されて、重力というより、メロディのなかに、リズムをつくるように配置されているのが楽しい。テーブルの向こうの三重の円弧の椅子の背なども、そのようなイメージを強調し、増幅するようだ。それは手前の樹木の幹も同様である。幹の向こうに葱が左右に自由に動くように置かれているのも面白い。イメージの展開と物象とがうまくリンクするところからあらわれた造形表現である。(高山淳)

 岸宏士「橋と街並」。パリの光景だろうか。七階建てぐらいの建物。屋根裏もあるのだろう。そんな建物が微妙な色面の変化によって表現されている。一階にはカフェがあるようで、電気がついている。夕方の光景のようだ。葉を落とした樹木がそのそばといちばん近景の画面の下辺から伸びている。アーチ状の橋。カフェのそばにトラックがひっそりと止まっている。青いグレーの空。しーんとしたなかに人懐かしいものがある。緑や青、茶色などが微妙に変化しながら、その色彩のハーモニーには、視覚だけでなく、筆者の聴覚を刺激してくるものがある。きわめて音楽的な要素がこの色彩の組み合わせの中にある。ピアノの曲が聞こえてくるような雰囲気である。空の部分と接する屋根の茶褐色の暗い調子に対して、手前の橋の上のカフェや何かものを売っている店。あるいは抽象的に左のほうに黄色いラインがあって、それは明かりを示すわけだが、そういった明暗の微妙な変化、色相の変化によって、独特のハーモニーが生まれる。画面の右上方の屋根から尖塔が立ち上っているのも、全体の構成のアクセントとして微妙な表情を見せる。その尖塔と左側の、中心の建物より一段低くなった屋根の形、その屋根裏の小さな明かりなどもなおざりにされず、それらがこの画面全体を引き締める隠し味のようにきいている。(高山淳)

 中崎眞佐子「瞬刻 Ⅱ」。新作家賞。バショウのような葉の大きな植物を見事に表現している。全体のトーン、ボリューム感、ディテール、申し分ないと思う。それに対して、周りの草は線による表現である。線による表現の中心に上方から光が降りてき、その光の束の中にこの植物が描かれているといった雰囲気が、実に魅力的に表現されている。(高山淳)

3階─5室

 渡辺有葵「ardent room」。色彩感覚がよい。静物と思われるが、赤や黄色が独特の輝きをもって、一種抽象的ではあるが、存在感をもって置かれ、キラキラとした輝きを見せる。バックのしっとりとした緑もよいし、黄色も輝くように入れられている。フォーヴィックなリズム感のなかに色彩が輝く。(高山淳)

3階─7室

 奥村真美「生死一如」。バックは満開の桜である。花がふぶいている。そこに回転するように上下に着物姿の若い女性。一人は生きているが、一人は骨がむきだしになって、死につつあるようだ。満開の桜とその桜の花が落ちることが生と死の寓意として女性のフォルムを引き寄せる。伸び伸びとした線によるドローイングの力が魅力である。(高山淳)

3階─11室

 増田偕子「緑風」。山水図と言ってよい風景である。水が流れ、あいだに地面がもっこりと存在する。まるで小さな島のようだ。遠景には灯台のようなフォルムと煙突と家の屋根と樹木。手前の樹木のそばに花が咲き、二匹の猫がいる。遠近を狂わすように、ものの大きさを遠くに行くに従って小さくするわけではなく、画家独特の感性のなかにその大小を置く。それによって特異な山水のような風景が生まれる。そんな山水のもつ気というものの象徴のように、二匹の猫が描かれる。あやしい不思議な存在感を猫がもつ。同様に樹木も水もそのように描かれている。(高山淳)

3階─12室

 矢吹幸子「海・小さな灯台跡」。絵画部賞。灯台の跡がへこんで五角形になっていて、そこに水がたまっている。そばに葉を落とした樹木が屈曲した枝を伸ばしている。蔓のような植物がその上を這っている。あやしい自然の光景である。自然というもののもつ生命力が、不思議な植物の形となってあらわれている。水はいま落ちつつある夕日を映して白く輝き、一羽の鳥が飛んでいる。海は黒々として、しかし一部、残照を受けて輝く。本来あったものが不在であるがゆえの、そのイメージ。ここにはない灯台、あるいはここにはないふるさとが、画面の奥のほうからあらわれてくるような雰囲気。そういった懐かしさ、ノスタルジーが画面に満ちているところが興味深い。(高山淳)

 田代青山「手品師」。新作家賞。白黒の画面である。白いシャツが伸ばされ、釘で打ちつけられている。戦闘機と黒眼鏡。鳥の羽。白いビニール傘が有刺鉄線で巻かれている。そこにコードが巻きついている。なにか痛々しい雰囲気である。それをクリアに表現する。白いシャツが人間の象徴で、有刺鉄線が象徴するような社会のある強迫的なものがそこに対峙される。そこから人間的存在という柔らかなものが発信される。白黒のくっきりとした画面がそれを強調する。(高山淳)

3階─14室

 高橋正樹「終焉と誕生」。絵画部賞。様々なネットを黒い画面の上に置く。そこに蝶のようなフォルムを入れることによって、曼陀羅ふうな表現が生まれる。いわばネットは集落や建物の象徴であり、蝶は魂の象徴として入れられている。それが夜のなかに配置される。(高山淳)

 肥後勉「光の朝に」。駅のホームの様子を面白く表現している。黒をうまく使いこなしながら、ドローイングの力によって群衆をまとめている。その筆力に注目。(高山淳)

 豊澤めぐみ「マジックミラー」。絵画部賞。透明なアルミ板やガラスのようなものがたくさんコラージュされている。そこに女の子同士が抱き合うフォルムが現れる。不安な現代の思春期の女性像のイメージである。美しさともろさとが渾然として溶け合うように表現されている。(高山淳)

 津國康弘「未明の告知」。ソファに横向きに寝た女性。クリアなフォルムが力強い。上方から黄金色の金粉が下りてきていて、それが告知の表現だろう。そのような寓意性より、このソファの形とそこに入れこまれた女性のフォルムの独特の強さに注目。(高山淳)

3階─15室

 渡辺幸子「影 Ⅰ」。高層ビルが立ち並ぶところに飛行機の影が三つ、捺されている。戦争、あるいは暴力の不安な雰囲気がこの大都会に捺される。スリリングな表現に注目。(高山淳)

 星ゆみ「遅れてきた青年…波の旗 2」。太った青年たちがお互いに絡み合いながら浮遊している。そこに北斎の描く波のようなフォルムがあらわれて、混沌としたなかにユーモラスでありながら不思議な連帯感とうっとうしさが生まれる。現代の若い青年たちの群像として、ユニークだと思う。(高山淳)

 窪田沙織「白い壁」。石畳の向こうに大きなアーチ状の入口がある。そこに座る男。立つ男。自転車と窓。異境のある街で見た、気配のある雰囲気。黒いアーチを通ると、もう一つの異界に通じるようなあやしさが魅力。(高山淳)

 大澤一二三「異分子のファミリー」。若い少女を抱く黒眼鏡の青年。そばに子供がいるから、ヤンママとヤンパパということになるだろうか。犬が後ろ足で立ち上がって、そばにいる。背後に建物が縦横に宮殿のごとき様子で線描で表現される。満月が現れる。都会のある若いファミリーをきらきらとした線を駆使した表現で、イコン風にモニュマンふうに表現して興味深い。(高山淳)

3階─16室

 藤田憲一「輪タク」。絵画部賞。輪タクをこぐ三人の青年。向かって右端に輪の一部が離れて転がりそうな女性が叫んでいる。階段と丘と裸木が点々と向こうに見える。青年たちの顔がいくつも描かれる。左下にはトンネルの向こうに建物がある。壊れた鎖や連結器。斜めに傾く動きのなかに輪タクという言葉で、誰かを運ぶというある意味がつくられ、それを都会の光景と自然が支える。画家は都会のある人工的なものをどこかで壊そうとするかのようだ。壊して、新しく自然を引き寄せようとする。そんな力がこの作品のダイナミズムを生むのだろう。独特のデフォルメされた人体のフォルムが面白い。左右に揺れるような動きのなかに、ペダルをこぐ青年たちの運動が生き生きとしたムーヴマンをつくる。(高山淳)

3階─17室

 森愛子「太陽の車輪 Ⅱ」。太陽の波動のように建物が密集して描かれている。光の波動のようなかたちで建物が円弧を描きながら連続して描かれてくる。そのフォルムが圧倒的な力を見せる。画家のつくりだした神話的な集落図である。(高山淳)

 立畠裕子「眠られぬ夜のために Ⅰ」。ラッパを持つ若い女性。小さなヴァイオリンを持つキューピッドのような少年。梟のそばの少女。縦笛を持つ少年。眠そうな目をした犬。法螺貝。山羊。赤い服の花を持った少女。はるか向こうを眺めるシルエットの男女。川があり、橋があり、山がある。そういったギリシャふうな神話的な画家のつくりだした風景が広がる。この手前の人間たちのもつお互いのあやしい関係から外れて、遠景から中景にわたる自然の中に憧れのごときものが潜む。それを残照の空が照らしている。まだ見ぬ世界に憧れているような中景のシルエットの人物。まさに眠られぬ夜のためにつくりだした画家の絵の中の世界と言ってよい。(高山淳)

 今崎順生「Operator II」。風景を画家は線によって表現する。独特の柔らかな感性のなかに自分自身の無人の街をつくる。(高山淳)

3階─18室

 松本直子「ねこの衿巻き」。若い女性を面白く表現している。テーブルに頰杖をつく二人の少女のような女性。手前には犬の頭に手をやる女性がいる。そばには猫を衿巻きにした少女が立って紐を持っている。紐の先は犬の首輪につながる。バックの黄色い広がりのある空間。そこにピンクや緑の衣装を着た女性。妖精的な雰囲気が漂う。若い女性のもつ妖精的、かつ本能的、かつ奔放な独特の雰囲気を、つり上がった目、あるいは細い指、独特の体のニュアンスによって表現する。中心のテーブルが傾いて、その傾いた面に猫の衿巻きの女性が肱をついているのも面白い。この不安定な、倒れそうで倒れない雰囲気がまさに現代の女性のイメージだろう。(高山淳)

3階─19室

 岡本冨有子「証言(3)」。巨大な木造の船。水が出て、街を覆ってしまって、分離した建物。そこに大人の着物を着た少年が立って考え込んでいる。そばに母親が死んで、蓑虫のように包まれている。そんな光景を静かに表現して、独特のモニュマンのようなかたちをつくる。独特の感性だと思う。(高山淳)

 小野仁良「オトノキオクⅢ・クラヅクリ」。新作家賞。昔の木造の家屋の空間を生き生きと表現している。そこに七歳ぐらいの少女がいて、上方を見上げている。リアルな再現的な力に注目。(高山淳)

3階─20室

 河村雅文「理科室・1」。新会員。三つのクワガタが標本として刺されて、それを上から見ている。下方にはひきだしがあって、ひきだしがあけられて、そこには土が入れられ、若葉やほかの植物、樹木のようなフォルムも見えるが、それが伸びている。その空間の中をまるで海の中を泳ぐように魚が浮遊している。三角定規や鉛筆。まさに理科室の中のイメージの展開。現にあるものと頭の中にあるものとがクロスしながら、独特の世界があらわれる。いわば現実と非現実とがスクリーンの中に併置されながら、それがそのままナチュラルな雰囲気で表現される。(高山淳)

 竹本義子「キッチンの詩 Ⅰ」。上方に黒い蛸がある。そこに手を伸ばしている少年。三人の子供たちは上から眺められているが、その下に横から見たシルエットの女性の胸像がある。左には母親が鯛のような魚を摑んでいる。キッチンのテーブルの上にいる海のものと母親、子供たちとの関係。キッチンのテーブルの上から強い生命の力が漲るようにあらわれてくる。画面を活性化させるそのエネルギッシュな力を引き出すところに注目。(高山淳)

 手嶋和子「ある日(Ⅲ)」。黒いテーブルの上にシャツやズボン、あるいはペンチ、コーヒーカップなどを置いて、伸び伸びとした動きをつくりだしている。それぞれのフォルムがお互いに関係しながら、生き生きと動くような気配である。(高山淳)

3階─21室

 近藤オリガ「ざくろ」。新作家賞。石榴を割って立てる。それが山のようなイメージで描かれている。赤い実はクリアに描くが、それ以外はすこしぼかして陰影をつけているから、奇妙な山が立ち上がってくるような趣で、それ自体がひとつの幻想と化す。地面はぼかして、その中に溶け込むように石榴を置いているために、なおさらそんな雰囲気で、あのダリのもつ幻想性さえも引き寄せるようだ。(高山淳)

3階─22室(75回記念合同展示室)

 高堀正俊「環」。裸の少年が横になって寝ている。それは地面の上である。少年の周りに土がすこし盛られて、そこに枯れた木やまだ生きている木などがうずめられている。その灰白色のマチエールのあいだにいる少年のなまなましい裸の姿。初々しい純潔な傷つきやすい存在と傷つけられた大地のようなイメージ。土から生まれて土に帰るということが聖書にあるが、そのような母性的な、すべてを生み出す大地が、どこか白けて荒廃した趣であり、その土の輪の中にいる少年を上から見下ろすというコンポジションは、きわめて強い。大地と人間との関係の断絶さえも感じさせるところがある。強いヴィジョンと同時に画家の優れたテクニックに注目した。(高山淳)

 竹内一「想いの場に―拡がる刻」。木をカットして支持体として、その上に描いている。中心にこの矩形の上下を突き出した黒い柱があり、そこから左右に同じ人体が現れ、一人は口をあけて音声を発し、一人は沈黙して瞑目している。面白いのは、そのあうんの像の中心の木が削られて、白木が露出し、それが光り輝く存在として現れていることである。魂あるいは霊的なものの存在をそこに示す。強い二つのフォルムはいわばハート形をなして、その中心に白木という依代のようなものが現れて、それが神の存在を示すというコンポジションになっている。自然体のように見えて、独特の工夫したコンポジションであり、リアリティを感じる。(高山淳)

 上岡真志「Aqua-C.T」。柔らかな青みがかったグレーをバックに七つの楕円形。一つは線描きである。水と樹木とが重なったようなフォルムが白くその背後に置かれて、伸び伸びと展開していく。その白いフォルムは両側にある。水が樹木の中を流れ、人体の中を流れ、花を咲かせたり、人を生かす。そういった優しい水の雰囲気が、ある充実した伸び伸びとしたコンポジションの中に表現されている。また、カーヴするフォルムがつくりだす形が初々しく、独特の輝きを感じる。(高山淳)

 藤田邦統「『量子』―質について―」。大画面である。マチエールが強く、オールオーバー的に塗られた画面から独特の強い力が漲るように立ち上がってくる。(高山淳)

 田村研一「プラスチックファンタジー」。パノラマふうに街の光景が下方に描かれている。左のほうには三十年ほど前のアパートのようなフォルムが現れる。空に少年たちが浮いている。自分たちでつくった飛行機の上に乗っている。洗濯物をぶら下げるものが上方に浮かび上がり、それに摑まっている少年もいる。画家の筆力によってつくられた都会の上の幻想的な世界。まさにプラスティックでできたファンタジーのような、現代の日本の社会から生まれた幻想である。いずれにしても、独特のパッションが画家のなかにあって、クリアなフォルムを次々と空中に打ち出しながら、シニカルな少年像を描く。少年の関係しているものはまさにプラスティックでできた街なのである。その空しさに立ち止まることなく、繰り返し描かれるフォルムが何かを爆破しようとするかのようだ。(高山淳)

 奥田真澄「暁の夢」。3部合同室での展示。横たわる女性の存在感が印象的である。両手をぴったりと体につけ、上半身には青、赤、黄、緑といった色とりどりの花が施されている。静かに夢想し、心の声が表現されているようである。テラコッタによる温かみのある表現で、人間の内面性、花の儚さも作品全体から醸し出している。(小森佳代子)

〈彫刻室1室〉

 古谷野まり恵「Stade du miroir」。階段状にモチーフを配置する作品を発表してきたが、これまでより整理されてきたように思う。今回は鉄による階段の上に双子のような女性がすっくと立っている表現で、そのコントラストが面白い。その足元から階段の下まで水が流れた跡のような表現がうっすら見える。時を刻み未来を見据えるような清新な表現である。(小森佳代子)

 照井榮「山上の雪の神」。山がそのまま神様になった。それは側面から見るとよくわかる。そして、耳から赤い直方体のフォルムが突き出ている。肩にも赤く彩色されたフォルムが見える。神様の印である。その朱色は護符のように呪術的な力をもつ。山がそのまま神になるという垂迹美術の伝統を引いたユニークな彫刻と言える。(高山淳)

 五十嵐芳三「クロスするメビウスの環」。メビウスの環にすこし切れ込みが入って、そこにもう一つのメビウスの環が入れられている。中心から左右に広がる流麗と言って差し支えないような曲面。それは伸びやかで、無限に循環するようなムーヴマンがある。しかも、一センチぐらいの厚さの石膏によるものだから、なおさらしっとりと輝くような存在感をもつ。本来、水は方円の器に従うという荀子の言葉がある。荀子の理想としたものは、水のもつその柔軟性とその力である。無私で自在な力というものを水が象徴しているわけだが、そういった働き、エネルギーもこの作品に感じることができる。或いは光が収束して、光のカーヴする曲面のようなイメージもある。或いは、空間というより、二つの時間がクロスして、奔放に流れていく。一つは過去に向かって流れる時間で、一つは未来に希望をもつ時間がメビウスの環としてあらわれ、そのクロスするところに現在という時間があるといった比喩も言えるかもしれない。メビウスの環というものを画家はつかまえて、制作しているうちにそのヴィジョンがどんどん広がって、中心から左右に不思議なカーヴをもつ流麗な花のような造形があらわれた。(高山淳)

 具怜圻「冬の風」。塑造による素朴な表現である。どこかあどけない女性の姿で、左手を握ったポーズから、この女性に仮託する作家の心持ちが表れている。やわらかな冬のひだまりの中でたたずんでいるような表現に好感を持つ。今後を期待したい。(小森佳代子)

 小川原隆太「lasting night」。新作家賞。圧倒的な存在感のある男性の姿である。人生の足音を聞く趣である。黒づくめの出で立ちで、首の真っ赤なマフラー、髭をたくわえた白い顔、と対照的な色彩が重厚感を湛えている。木彫によるノミ跡が、強さだけでなくやわらかさをも湛えている。(小森佳代子)

 杉本準一郎「何も持たずに」。木という素材、そして穴のあいたかたちを活かし、自由に削り、有機的な表現が生まれている。その大きさとシンプルなフォルムは、雄大な大地のエネルギーを感じさせる。(小森佳代子)

 一色邦彦「星燐」。ブロンズによる清冽な作品である。地球の上に女性が載って、星雲を支えているような姿は無駄がなく美しい仕上がりである。それぞれの先に煌めく星にもリズムがある。広い宇宙の中での自然と地球を思わせ、具象表現にこだわり、人間と自然をテーマにしてきた一色の進境だと思う。(小森佳代子)

 橋本裕臣「昔の人が11─Ⅱ」。テラコッタにより雲と女性を取り巻く空間を表現してきた橋本の今回の作品は、地山の下方まで長い雲が伸びている。その雲にぴったりと寄り添うように女性は思索しているようである。女性の下方には新たな空間が生まれ、重力とは無関係に存在し、時間を自由に表現している。過去の上に立っている自分を見つめ、未来を思うイメージが現出している。(小森佳代子)

 喜名盛勝「散歩道」。三頭の豚をつくったものである。一頭は母親で、二頭は子供かもわからない。母親は黒ずんだグレーの石で、子供の豚は白い。いずれにしても、自然石の中に形を見つめるようなものがある。つまり、描写的なものではなく、石の中にある形を彫り起こしていくと豚になったといったナチュラルさが、この彫刻の強さをつくるように思う。つくれといってもなかなかこのようなフォルムはできるものではない。中国の西安近郊に有名な自然石を彫った動物の彫刻があるが、それに共通した造形意識を感じる。(高山淳)

 臼井佳夫「不確実のかたち」。人体が荒削りの木によって表現され、横たわった姿のところどころに黒色がデッサンのように施されている。その存在感がこれまでより普遍性を獲得している。デフォルメされた大きな手の先には薔薇が一輪表現されていて、鎮魂のイメージも受ける。(小森佳代子)

 平山隆也「我は空なり.」。ネットでできた人間の上衣と下半身。腕はない。頭もないが、帽子がある。それが二つの大きな円弧の上に座っている。下方には色大理石がムニュムニュと立ち上がって、水の中の生き物を思わせる。画家は目黒川のそばに生まれて、目黒川が再生されるイメージを描いてきたが、今回は大きな津波の災害があって、もう一度人間的存在のはかなさを感じたのではないだろうか。それが津波やそういった大きな運動を思わせる二つの円弧の上にこのネットの人間を置くというイメージを与えたように感じられる。色即是空、空即是色という言葉があるが、東洋的な感性のユニークな彫刻的表現と言える。(高山淳)

〈彫刻室2室〉

 松本弘司「大地」。新作家賞。この作品もまた視覚のみならず聴覚も刺激する作品である。一本の木の中に母親があらわれて、その下方に娘が立っている様子があらわれる。母は娘の肩に手をかけている。まるで、守り神のように樹木の一部が女性の顔の後ろ側にまだ存在している。一木の中に仏を見た立木信仰というものが平安時代にあったが、そのような伝統を深く引いた彫刻だと思う。それに加えて、一種ヨーロッパ的なメロディがその神道的な彫刻の中に流れて聞こえてくるところが面白く感じられる。(高山淳)

 田中実「起き上がり小法師」。不思議な生命の木のようなフォルムが立ち上がる。そこに五つの空洞の箱があって、起き上がり小法師が中に存在する。中心の起き上がり小法師は上辺に頭をつけて、左右では頭のなくなった胴だけの起き上がり小法師が下方について、その横は頭も胴体もある起き上がり小法師が置かれている。ムニュムニュとしたアナログ的なヒューマンな手触りのあるボックスと樹木。その中に画家は一つのフォルムによってリズムをつくる。この彫刻もまた視覚と同時に聴覚を強く刺激してくるものがある。いわば、天地開闢の音といったイメージを感じる。中心の樹木のもつ強い形。『古事記』の中に、矛から落ちた液体によって日本の国ができたという、国づくりの神話があるが、そのような矛の先からこぼれた液体がこの樹木になったような、そんな強いイメージがある。そんなフォルムが左右の起き上がり小法師を支えているところが面白く感じられる。(高山淳)

 細谷泰茲「風の中の母子像」。柱をバックに、そこから浮かび上がるように母子が表現されている。母の髪は風を受けてたなびいていて、その母の眼差しは両手を広げて無垢な表情をしている子供に注がれているが逞しさと優しさの両面が見られる。様々な母子像の表現がある中で、個性ある表現として確立している。(小森佳代子)

 加藤昭男「何処へ」。馬の頭部にV字にまたがるように男性の姿が表現され、その男性は仰け反り、馬から落ちそうな表現である。その動勢もさることながら、アルカイックな表現が興味深い。右手は誇張されて肘から先だけの造形である。その手のまわりの空間が見事に表現されていることに気づく。(小森佳代子)

 澄川喜一「そりのあるかたち・2011」。上方に向かって伸びるフォルムが力強い作品である。緊張感を湛えていることはこれまで同様であるが、それだけでなく木の持っている力を活かしてほんの少しカーヴする姿が美しくたおやかに表現されている。これまで以上にシンプルな仕上がりで、やや上方に二ヶ所入れられている切り込みのフォルムも効果的で野武士のような日本人のアイデンティティを表現しているようで壮快である。(小森佳代子)

〈彫刻室3室〉

 石松豊秋「瞑想曲」。穏やかな表情の女性の手にはバイオリンが表現されている。今回はマスネの有名な「タイスの瞑想曲」のイメージから作品を制作したという。寄せ木と金箔のリズムを活かしながら、流麗なラインが美しく表現されていて穏やかな感情が見て取れる。バイオリンの透明感のある繊細で伸びやかなメロディが聴こえてくるようである。上方の隅々まで、旋律そのもののようであり、作品全体はロマンティックな趣である。一番上部に手が添えられているのは天上からの声を暗示しているようである。(小森佳代子)

 岩間弘「住処」。板に凹状のフォルムをつくってカーヴさせ立てる。九〇度動くと、二つはそのそれぞれの板が内側にカーヴして、三角形をなして、お互いがその力を傾けながら存在していることがわかる。見た瞬間、強い韻律がこの抽象彫刻からあらわれていることに気づく。いわば光の束のようなもの。空間を排除して立ち上がってくる強いエネルギーをもった形が清潔にあらわれるといった趣である。空間のなかに無限に動いていく、いわば宇宙的な力の一部を切り取って、ここに置いた。それぞれの面は空間を活性化させる。そこにものがあっても、何も感じないような存在もあるが、この「住処」というフォルムは、立ち上がり、叫び、悶え、しかも安息感というべきものもあって、実に独特である。これまでの岩間の作品の中でとくに優れたものと思う。(高山淳)

 上松和夫「風景『門』」。新会員。自然の情景を単純化したフォルムで表現して、どこか絵画的空間をも思わせる作品である。上方に向かう力強さと、丁寧に着色されたマット感のあるマチエールも健在で、牧歌的でありながら、内在する強さも感じさせる。室内楽を聴いているような趣もあるところが興味深い。(小森佳代子)

 杉山惣二「『女』お '11─2」。赤いシャツを脱ぐ女。柔らかなフォルムがエロティックで、生命的である。テラコッタによる彩色が、それをより支えている。生きた女性というフォルムを見事に造形している。(高山淳)

 日比野知三「Promethews―火を盗んだ男―」。プロメテウスはギリシャの神の一人で、人間たちのために火を盗んで与えた。その罰としてゼウスに囚えられ、罰として大鷲に毎日その肝臓を食われた。しかし、神であるから、食われた肝臓はまた再生する。そういったプロメテウスを画家はきわめて幽玄な不思議な雰囲気のなかに表現した。両腕で頭をカバーする。その上に大鷲が乗っている。何回もつつかれた。食われた肝臓のあるおなかが膨らんでいる。それ以上に、上に銀の箔が捺されていて、夜の闇の中にいる存在のような雰囲気。夜の闇のなかにヌエのようなものが現れて、この人類のためのプロメテウスをついばんでいるような趣があらわれているところが面白い。それを月光が照らしている。太陽暦のギリシャと月を中心とした陰暦の日本神話とのイメージの違いだろうか。火を盗んだ男はあぐらをかいて、ついばんでくる鳥を避けているが、そのあぐらをかいたイメージは様々な困難な中にあるパイオニアのイメージと言ってよい。それが冥界の中に置かれたようなイメージとして表れているところが面白い。(高山淳)

〈企画展示〉

 Juan Bustillos「La unión es la fuerza 『結束は力だ』」。「小さなものは大きいかもしれない」「結束は力だ」という二つの魚を彫刻した作品が実に面白く感じられた。たとえば「結束は力だ」の場合には、大きな魚の周りに小さな魚がいるわけだが、見た瞬間には、波というなかなかつくれないものをそのまま抱きかかえて彫刻にされたようなパワーとフォルムの強さを感じた。しかも、それが実にナイーヴな形なのである。魚ではあるが、それは波の形と言って差し支えないような、日本で言うと、神道美術に匹敵するようなイメージの力とその存在感に注目した。「小さなものは大きいかもしれない」は、尻尾を呑み込んだ魚がだんだんと大きくなっているといったユーモラスなもので、それも、魚というより、水のかたちが魚となったような、そんな不思議な趣なのである。(高山淳)

〈彫刻室4室〉

 下平知明「動物」。皮製の椅子の上に大理石の座布団のようなフォルムが置かれている。「動物」という題名はよくわからないが、内側から張り出した充実したフォルムが魅力だと思う。(高山淳)

 吉良幸弘「MR」。青年の像である。どこかデスピオを思わせるような、くっきりとしてアンティームで人間の精神性と身体とが合致した、理想像のようなフォルムがつくられている。(高山淳)

 笹戸千津子「耀」。両手の表現が力強い女性立像である。右手を見つめる女性の眼差しが強く、生命感を湛えていてる。左足に重心を置いてしっかりと立つ姿はリアリティがあり、見る者は自然と自分の思いを重ねる。(小森佳代子)

 片伯部平「オルガン 16」。黒御影の上方が微妙なカーヴをしている。それに対して垂直に下りる側面。そのカーヴと曲面とが微妙なバランスの上に成り立っている。いわば丘がそのまま結晶して、ここに存在するような雰囲気である。ピタッと吸いつくような感触のなかに、このフォルムは鎮まり返っている。正面から見ると、上方に矩形があいて、トンネルのように向こうに向かうのだが、側面にも大小二つの正方形の窓があけられて、それはそのままこの中を通過して、片面に出口がある。のぞくと、不思議な万華鏡を見るような思いに誘われる。どのようなテクニックか知らないが、よくこのようなかたちで中をくりこんで磨いたものだと思う。じっと見ていると、視覚と同時に筆者の聴覚を刺激するものが感じられる。これは彫刻なのか、あるいはイメージによってつくられた箱なのか。御影石という磨いた強い存在感のある物質を使いながら、物質とイメージとの両方にまたがるフォルムを画家はつくりだした。秋の夜空にしぜんと鳴り出す澄明な箱のような存在が、そのまま小さな一つの丘となって目の前に存在する不思議。(高山淳)

 上野良隆「l・o・v・e」。女性のトルソに長い火星人のような足をつけて、男性的なフォルムが翼をもって緩やかに動いていく。男と女の微妙な関係。女性から栄養を吸収し、女性に頼りながら空を飛ぶ男のイメージ。地が女性で、天は男といった、易経にあるようなイメージを、アルミによって実に見事に表現している。二つの男女の関係のなかは一種の無重力に近い。重力によって生まれる世界ではないから。二つは一体化した存在として、実に不思議なエロスのイメージをつくる。(高山淳)

 大国丈夫「尻あがりのかたち」。大国さんの作品の中では、今回の作品が最もよいと思う。真鍮による。大地を圧縮してカーヴして、また立ち上がっていくような動き。あるいは、海の波を肉体ごと取り出してミニマルアートのような単純なかたちにしたような趣である。津波によってインスパイアされたのだろうか。画家は津波の悲惨さというより、三十メートルの波を起こす自然の力にそのイメージが働いて、海からこのようなフォルムを引き出した趣である。鉄板の上に、この厚い曲がった板がのっていて、実に燦然と輝くようだ。(高山淳)

 雨宮透「遙(ヨウ)」。石膏塑造による女性の顔と掲出の「漣」シリーズの2点を出品。今回は耳に両手を添えて何かを聴こうとするかのような風情の表現をしている。その手や顔に呼応するように女性の衣裳の襞が音楽の諧調のように語りかけてくるようなリズムがある。そこには時間性も湛えられていて、より空間の広がりを見せている。(小森佳代子)

 東山秀誠「再生」。アフリカ彫刻を思わせるような力強さがある。船のように彫り込まれたフォルム。一つは寝て、一つは立てられている。そのへその緒のようなところから、新しい芽のようなフォルムが突き出している。いわば船のへその緒から現れた二つの芽が交差するようなイメージ。そして、お互いが交感し合う。プリミティヴな純粋な力の発現である。(高山淳)

 北郷悟「Announcement」。女性が横たわっているような緩やかなフォルム、そして衣裳のドレープのように隆起が表現されている。北郷のふるさとである阿武隈山地を表現したという。この山並みは山のようでもあり、森、あるいは海の波のようにも見える。水が流れる時間性を表すように施されたブルー系の色は説明的にならずに実にデリケートであり呼吸をしていて、心の襞を表現しているようである。女性が上部から降りてきて口づけしようとしている姿も、北郷にとってはしぜんなことであろう。北郷の「受胎告知」の誕生といえるであろう。(小森佳代子)

 中島幹夫「渚(なぎさ)2011.」。レンズ用のガラスを5本、白波に見立て、海の表現としている。そのガラスの透明感と、削られた部分との対照が美しい。御影石のゴツゴツとした表現とガラスとの呼応は空間の広がりを見せ、穏やかな静けさの中に潜むものの予感を暗示しているようである。(小森佳代子)

〈野外・彫刻〉

 青木三四郎「MEMORY-2011」。幼い男女が見つめている先には巨大化した有機的なフォルムがいくつも置かれている。作家によれば発芽した米だというが、何かの実あるいは豆のようにも見える。子供達はその先の何かを見ているのかもしれない。丁寧に手彫りで表現され、豊穣の産物を願うかのように、素朴に表現しているところに共感する。(小森佳代子)

 鈴木武右衛門「ローマ酔夢紀行―浮揚―」。柱と天使、そして馬。この白御影石の中から馬は彫り出されて、そばに天使の像が置かれている。エンタシスの柱が立ちあがる。ローマは建築で有名であるが、その造形意識と光に満ちたイメージとが面白くアレンジされている。この彫刻は斜光線の中で見ると、よりその面白さがわかる。独特の斜光線によって長い影ができ、まさにロマン溢るるローマといったイメージが立ちあらわれる。しかも、その斜光線の中には、かつての帝国がいまは滅びているといったイメージも浮かびあがる。(高山淳)

 新美正樹「響」。新会員・シード作家。黒御影石。座って両手を頭の上方に伸ばしたフォルム。スカートのなかで膝を組んでいる。伸び伸びとした独特の動きのなかに、もっこりとした曲面があらわれる。その曲面は人体でありながら、ところどころ丘であったり、川であったりといった、自然の造形を思わせるところがある。そのようなナチュラルな強さと豊かさが魅力。(高山淳)

 渡辺隆根「宙・供物」。今回も宮城県産の珍しい伊達冠石を使っての作品であるが、ひと目見てなんともいえないアルカイックな強いフォルムが印象的である。タイトルにあるように神に供えるお供え餅をイメージしたという。360度どこから見ても、同じ風景であり、よく磨かれて黒褐色に輝く色彩とこのシンプルなフォルムは、石との対話を超えて神的なイメージが現出している。(小森佳代子)

 渡辺尋志「命の莢・硲そして悼む」。六つの黒御影の石が独特のカーヴのなかにつくられて、白い御影石の上に置かれている。今回の津波に対するレクイエムのような雰囲気である。激しい情動をこのようなかたちで人間は収めて、祈るしかない。情動を収めるためには、これだけのシンプルで、強い、静かな、結晶したようなかたちが必要になる。六つの魂の入れられた箱が並ぶ。(高山淳)

〈野外・スペースデザイン〉

 伊藤哲郎「sanaru VIII」。袋をひしゃげさせて、そこにコンクリートを詰めたようなかたちで、ユーモラスで独特の響きがある。金属の台の上に間隔をあけながら七つの袋詰めのフォルムのようなものが置かれている。周りはキメ細かく、断面はざらざらして、その断面がそれぞれ楕円状で、形は異なりながら、外部の空間との接点をなす。その段差のある大きさの違うリズムが面白いし、左に一つ、中間に三つ、三つの分け方。そして一つが地面に置かれている。いっぱい詰めた袋を曲げたりする。そういった日常のことが、この作者の感性によってすくい取られて、独特の造形の面白さに変じている。(高山淳)

〈スペースデザイン室〉

 加賀谷健至「時の刻みかた~森人の小径より~」。五センチほどの厚みのある長い板がすこし反っている。その表面に水平に近い刻みを入れて、上方からまるで水が流れてくるような趣をつくりだす。幽玄にして力強い造形表現である。(高山淳)

 上田実里「ぐるぐるチェア」。色のついた布を巻き込んで、それが円形の椅子の中に入れられている。ぐるぐると円が様々な色彩の中に輝きながら構成されて、曼陀羅や宇宙的なイメージを醸し出す。(高山淳)

第66回行動展

(9月14日〜9月26日/国立新美術館)

文/高山淳・小池伊欧里

1室

 汐月顕「Termini」。「termini」とはターミナルという意味である。様々な横文字と数字が配置され、フリーハンドの線が引かれる。その線は線路のような雰囲気である。旅の途中の線路と駅。そこで見た様々なメッセージ。記憶の中から浮かび上がってくるそんな心象を、独特の抽象のような具象のような中に数字と文字を使いながら表現する。(高山淳)

 斎藤幸子「☆1109☆again☆」。炎が華麗に燃えている。その炎に向かって流星のごときものが軌道をつくりながら入り、その炎をさらに燃やす。宇宙で行われている様々な出来事を画家は詩的なイメージのなかに表現する。(高山淳)

 土屋豊「TENSION-11」。二つの円状のフォルムの中に、長方形の穴があけられている。そこに針金でできた鍵形のフォルムが縦横無尽にあり、そこに円弧のフォルムが大小つけられている。なにかドライなメカニックな都市の人間関係や体制を連想する。その高いテンションはやがて自殺者や精神異常者を生み出す。この絵は一見、そんな雰囲気もあるのだが、その円弧にはもう一つの有機的な、虹を見るようなイメージもあるところが、実に面白く感じられる。実際この円弧は稲の穂の実った傾きから発想され展開したと聞く。このモノトーンの世界のなかにある無機的なものと、その奥にある有機的なものとが、不思議なかたちでお互いに連携して、筆者に謎をかけてくるように思えるところが興味深い。(高山淳)

 根本忠緒「WORK 1170 AUTUMN」。上方からフリーハンドのストライプがすこし傾きをもちながらたくさん降りてくる。オレンジ、黄色、グレー。バックは茶褐色で、その光の束のようなストライプに菱形のフォルムが大小散らされている。それは落ち葉が散るイメージと重なるだろう。巨大な満月と三日月のようなフォルムが上方に重なっている。日本人のもつ深い情趣を感じる。仲秋の名月にはお団子を食べてススキを手向ける。やがて、秋の七草も枯れていく。月がより輝きを増す。二つの月の形から旧暦、月によって一日、一年の暦をつくった時代の日本人の感性をしぜんと思わせる。月との関係のなかで一年の暦をつくっていた時の人々の心持ち、その深い瞑想的な世界から、世界に冠たる和歌も生まれた。明治になって太陽暦が採用され、ローとかラブとか、太陽のもとでの人間のイメージがどんどん増殖してきたが、ここに描かれているのはひっそりとした陰暦の情趣のように感じられる。時が移ろい、木の葉が散るが、そのことがそのまま永遠化されたような趣のあるところが面白い。西洋の思想の中にも時が止まるという言葉があるが、ここにもまた深い感情のなかに時が止まったような趣が感じられる。落ち葉がそのまま桜の花と重なるのは、そのような情趣のゆえだろう。(高山淳)

 柳原雅「乾いた風」。グレーのバックに独特のニュアンスがある。フリーハンドの白い曲線のフォルムが連続し、静かに動いていく。中に葉や芽、種のようなフォルムがある。植物が芽を出し、種になるまでの時間が描かれているようだ。独特の人間的な味わいがある。バックとフォルムとがお互いに深い関係のなかに描かれ、時間の移ろいのなかに形象が発展していく。(高山淳)

 戸田あや子「ひろがりの空間」。ひんやりとした空間。冬の時間のなかを馬蹄形のフォルムが下方から上方に動いていく。春が間近いのだろうか。磁石が小さな鉄の粉を引き寄せるように、この馬蹄形のフォルムは強い人間臭い存在として冬のなかを動いていく。孤独な存在が眺める風景が、温かでヒューマンな味わいを見せる。背後の黒い広がりと周りの白い輝きとが不思議なコントラストを見せる。(高山淳)

 髙井道夫「海の空―春遠からじ―」。海を見下ろしていると、それがそのまま見上げる空になって、二つの空間がクロスするなかを鳥が飛び、風が吹き、雪が降ってくるような、そんな雰囲気である。独特のスケールの大きな深い心象空間のなかを、イメージの象徴のように鳥が飛んでいく。形象が記号化される。それによってより普遍的な時空間のイメージが表れる。(高山淳)

5室

 黒田恵子「希求11─07」。柔らかな蔓のようにぐるぐると巻かれた不思議な物体。男女が抱き合っているようなイメージがしぜんと感じられる。同じようなものが後方にも浮遊している。マチエールがきめ細かく、絹のような触感を感じる。浮遊しながら、孤独な二人はどこへ行こうとするのか。そういった現代の男女の肖像画の趣が感じられる。(高山淳)

 大鷹進「知の喪失」。細かい網の目の葉脈のような中に本がいま燃やされて、炎を上げている。燃えたグレーの灰が浮遊している。それは荒涼とした地面の上に置かれている。地面には倒壊した建物が点々と見え、裸木が立っている。そんな中に人が点々と建物の上に、まるで小さな蚊のようにいる。黙示録的な光景と言ってよい。安全な筈の原発が実は恐ろしいもので、止めても止めることができないものをわれわれは扱っていて、それを妄信していた。それが今回の原発事故でよくわかった。まさに知の喪失と言ってよい。原子力発電、原爆というもの自体がきわめて黙示録的なものであるが、それを画家はもう一つの黙示録的な表現でもって絵画の上に表現する。(高山淳)

 吉井寿美子「刻を積む―抽斗―」。塔にたくさんのひきだしが詰め込まれているが、不安定で、いつ落ちるかわからない。その中に人間たちが存在する。しがみついていたり、遊んでいたり。あるいは、ひきだしから二本の足を突き出して、バタバタしている人もいる。中にラビリンス的なフォルムが入れられているところもある。現代の津波や福島原発の事故に見られるように、いつ崩壊するかわからないなかに日常生活を送る人間たちのイメージを、面白く比喩的に表現する。(高山淳)

6室

 赤穂多恵子「空の鳥・地の花」。聖書に、思い煩うな、空を飛ぶ鳥、地に咲く花、それぞれがとくに悩むことなく生きている、野の花の装飾はソロモンより素晴らしい、思い煩うな、まず第一に人間がやるべきことは神の国とそこで行われている義であるという言葉があるが、それを画家はこのおおらかなこの色面構成のフォルムの中に表現する。空を黒く、その空から取ってきたような衣装を女性に着せている。地面のバーントシェンナ、あるいはライトレッドの茶色が、大きな花となって開いている。鳥は女性の肌の色と等しく白く、切り抜かれるように飛んでいる。背後に金によって彩色された場面があって、そこに巨大な神殿の一部のようなフォルムが見える。聖書の肯定的な言葉を大胆な色面構成によって、一種日本画的なフラットな色面のなかに表現して、深い安息感ともいうべきものを醸し出す。緑と白の文様のある三角錐から煙が出ているのは、人の住処のようだ。(高山淳)

 呑山政子「ものがたりものがたれ 2」。独特の世界観である。カラスの化身のようなものに追われる少女には二つの顔が表れ、現実と非現実の狭間に立っているようだ。左の顔は異形の相をしている。下方に大きな顔が浮かぶ。この大きな顔が現実で、真ん中の少女はその空想の世界なのかもしれない。赤、黄、緑の色彩で形をとり、白をグレーズるすように重ねて全体の深みを出し、非現実の世界を表出させている。(小池伊欧里)

 石原佑一「人間模様11─1」。塗られた絵具の層が強い輝きを示す。木造の家である。フローリングの床に木でできた長い机。木でできた椅子。そこに若い夫婦が座り、五人の子供たちがいる。閉塞された空間の中に人間たちの気配が充満している。生きるということ、人間とは何かという問いを絵の中で画家はつくる。答えはおそらくないのだろう。この目が回るような緑や青と赤褐色のフォルムによってつくられたものの中には、いわば人生は誕生から死まではひとつの牢獄であって、その牢獄の中でどのように生きるかといった、そんな問い掛けも入っているようだ。独特の強い表現として注目。(高山淳)

 脇田啓子「女達」。シャワーを浴びるかのようにスポットライトを頭上に受ける水商売風の女3人。女たちの周囲は明るい色彩で赤から青へ変化する光の流れが輝いている。スポットを浴びている間彼女たちは夢の世界の住人である。対して円弧を描くように描かれた外側の暗がりは、俗的な現実世界を表すかのようだ。女たちの表情が独特で、画家は優れた人物造形力を持った色彩家であると思う。(小池伊欧里)

7室

 守末利宏「記憶のありか」。壊れた二階建ての廃屋のような民家が描かれている。それを緑がかったグレーの空と地面が上下から包み込んでいる。曲がった煙突。この廃屋近くになるまでの長い歳月。まるで、時間というものがそのまま亡霊のように現れてくる趣。しんしんとした気配のなかに、しかし、この中にまだ住んでいる人がいるような気配がある。記憶と、あるいは過去。そういったものの入れられた小さな粗末な箱。それがこの家である。しんしんと静かに語りかけてくるものに耳を傾ける。(高山淳)

 中村喜吉「ロマネスクの影」。祭壇画的な表現である。畳むことができる。上方の三角形、両翼の四辺形を畳むと、真ん中の一つの長方形のものになる。あけると、黄金色の中に聖書らしきものに手を添えるマリアのような女性がいる。両翼に若い女性が階段の上に立っている。真ん中の女性の下には薔薇と椿に囲まれた女性がいる。若い女性のもつ無垢なもの、純潔な雰囲気、そして輝かしい生命力、そういったものを金をバックに荘厳するように描いている。それぞれ頭に光背がつけられているから、聖なる人間というイメージが伝わってくる。優れたテクニックによってつくりだした祭壇画である。(高山淳)

8室

 國嶋陽子「いつもの秋」。茫漠たる大地に雑草が生えている。焚き火をしたあとのようで、煙がまだ出ている。草の中から濃いクリムソンレーキふうな赤い花や柔らかなピンクの花が咲いている。暖色系の色彩。大地と一体化するような野の表現。大地が生きているということを、この独特の花鳥画によって画家は表現する。(高山淳)

 新美晳也「転生のHAZAMA」。下方に砂浜と静かに寄せてくる波が描かれている。穏やかであるが、見事な表現である。そして、水平線がぼかされ、それが空になり、空の上に茜色の空があらわれ、そのそばに暗い海があらわれる。海から円弧が立ち上がってくるのは、今回の津波のような動きを示すのだろうか。海と浜と空によって、ダイナミックでありながら静かな世界が強く表現される。空間というものの魅力がこの作品のみどころだろう。(高山淳)

 佐藤定「スサノオ(備中神楽)」。それほど大きな作品ではないけれども、独特の造形性を感じる。スサノオの仮面をかぶった男。そこに浮かび上がる二つの手。一つは棒の先に御幣をつけ、もう一つの右手は扇子を持っている。黒と白、茶褐色の中にスサノオという神楽の、見えを切ったような強いインパクトのある動きがあらわれる。コンポジションが面白い。(高山淳)

 高橋三加子「刻―2011」。七人の男女が構成されている。パントマイムのように人々が動いている。いちばん手前では、両手を斜めにつけて首を傾けた女性がいる。その視線の先に水槽のようなものがあって、魚が泳いでいる。魚はキリストの象徴なのだろうか。深い内界のなかで刻々と行われている仕事。そんな心の奥底の働きを絵にすると、このような表現になるだろうか。垂直と水平のコンポジションの中に独特の気配がある。つらいことがあっても、人はやがて癒されるだろう。そんな深い癒しの世界が表現されているようにも感じられる。(高山淳)

9室

 堀研「流転」。大地に横たわって死んでいる人。立ち上がっている人。座っている人。あるいは、立ち上がろうとする人。様々な人間たちが、この茶褐色の中に描かれている。ほとんど裸に近い表現になっている。男も女もその身体のもつ肉感性ともいうべきものが、なまなましく立ち上がってくる。大地も死んだものというより、生きた皮膚のような雰囲気で描かれている。この密集した人間くさいドラマは今回の津波からインスパイアされたものであるにちがいない。強いデッサンがイメージに触発されて使われ、働く。そのデッサンによって、人間たちが浮かび上がってくる。一つ浮かび上がれば、連鎖的に次のフォルムが呼び込まれる。そういった画家のインスピレーションの働きが、なまなましく息づくように感じられるところが魅力。(高山淳)

 辻司「星宙と菩薩達」。三人の菩薩たちの背後は壁画で、そこには自由に星や天女や太陽が描かれている。シルクロードに触発された仏画である。大きな目は静かに鑑賞者を見つめる。茶褐色の色彩に深い安息感がある。(高山淳)

 石原恒人「赤い目をした君」。顔がない三体の人間。頭から電気のコードのようなものが現れている。手前の男の顔の頭が壊れて、そこから配線のようなものがむきだしになっている。二つの目が見開かれて、硬直したような雰囲気。大きな目、小さな目、しかし眼球が抜き取られて空洞になっている。眼球がなくなるほど驚愕した事件を、この男は目撃したのだろうか。見ることの恐怖感。恐ろしい状況が、ヴィヴィッドに伝わってくる。(高山淳)

 髙田光治「桂山」。三途の川らしきものが中景に描かれている。向こうには山が幾重にもつながって、その白い道にぽつんと一人の男がいる。向こうの世界に行って、この道を上っていくとどうなるのか。三途の川には葬列のようにシルエットの人間たちがたくさんいる。渡し船が三艘。いま黒い帽子をかぶったシルエットの男が、白い衣装に赤い花柄模様のコートを着た女性を三途の川の船に案内しようとしている。近景には柵があり、枯れた蓮の花托のようなものが置かれ、そばで僧侶が猿の面をかぶって祈って、お経らしきものを唱えている。不思議なドラマである。神仏習合した日本人のもつ宗教観。どちらかというと、浄土宗的な仏教を感じるのだが、それが謡のようなメロディとともに聞こえてくるようだ。死と生の境界領域を描く画家のイメージの力と筆力に注目せざるをえない。(高山淳)

 畑中優「逃げて来た道―その時、1950・10・30―」。一九五〇年十月三十日は画家の誕生日だろうか。満州のような大陸で画家は生まれたのだろうか。外人たちがいる。背後にはさまようような人々のシルエットがある。フランス語の手紙が描かれているが、読めないので意味がよくわからない。流浪の始まりのようなイメージが、この絵の雰囲気のなかにある。また、一九五〇年は朝鮮戦争の始まりの年である。南北が分断される始まりの戦争。そんな戦争のイメージもしぜんと浮かび上がってくる。(高山淳)

 中田幸夫「もりのおと」。水と水辺の道、立ち上がる樹木。花。樹木のあいだを通る道。道の果てにある茫漠たるもの。光り輝くもの。そんな自然の様々なイメージをコラージュするように画家は画面に集める。ロマンティックな音色がそこからあらわれる。下方に三つの赤く輝くものが現れているのが面白い。森のもつ命の音を画家は聴く。(高山淳)

 下平武敏「薄れゆく絵馬」。長崎のお祭りが描かれている。龍をたくさんの人が棒で担いで行うお祭り。二段目には、神輿行列という名札のとおり、たくさんの仮装した人間たちがいる。いちばん上方には、長崎おくんち図、被爆大クスノキ、傘鉾、諏訪神社、浦上天主堂。板の木目をあえて絵の中に描く。それによって時間を表現する。絵馬という仮想空間を絵として描くことによって、人間の記憶と歴史とそこから感じられる未来に対する思いを表現する。独特のコンポジションである。(高山淳)

 山口実「3×3の卓上」。逆遠近のテーブルの上に二つの梨と二つのケーキ、フォークとナイフ。そばの丸いテーブルに秤があって、秤のそばにもう一つの梨。秤の上には五つの梨。秤の文字面の円と皿の円。両側にヴァイオリンとチェロ。窓がすこしあけられて、湾曲した埠頭の向こうに灯台らしきものが見える。しーんとした室内。しーんとした戸外。深いレクイエムの気持ち。菓子も果物も死者への手向けといったイメージがある。皿もケーキの上も秤の上も白い布も白々として、なにか漂白されたような白の色彩が使われている。画家は室内で静かに瞑想する。やがてチェロが鳴り出すときが来るのだろうか。(高山淳)

 神田一明「狂女(C)」。ブルーの小さな椅子に座る女。目は左を向きながら、全体でなにか異様なものがある。宙に浮かぶサクソフォーン。黄色いバックが汚れている。敷布の市松模様が混乱しかかっている。五時五分で止まった時計。二輪車に乗るシルクハットをかぶった男。仰向けの人形。見開いた二つの目をもつ男。狂気のような人間社会と関係なく、丸まって眠る猫。輝くようなオレンジ色。オレンジ色がこの絵の性質を決定している。ゴッホはどうしても黄色が必要だと書簡に書いているが、この不安定で渾沌とした、しかもエネルギーに満ちた空間を表すためには、どうしてもこのオレンジ色に近い黄色が必要になった。(高山淳)

 角護「遥かなる…。」。遠くを眺める女性。後ろにマットに横たわる男。望遠鏡を見る女性がその後ろにいる。砂漠を駱駝と人が歩む。そんな光景の背後にビリジャン系の深い空間があらわれている。それはたくさんの星のちりばめられた空のようだ。しかし、じっと眺めていると、マットの男のそばにヒトデがあるせいかもしれないが、また、空の色が緑であることもあって、空が深い海のイメージと重なるように感じられる。砂漠を癒すものは水だろう。砂漠に発見したオアシスはどんなに砂漠の民を喜ばせたか。そして、澄んだ空にある星と太陽と月。そこから太陽神を信仰する一神教も生まれた。人の乾きを癒す水のイメージが、海を伴って空と重なってこの女性の背後にあらわれたようだ。遠くを眺める女性もそのようなはるか古代の時代を眺めているのかもしれない。ストレッチをする男は現代のサラリーマン社会で働く人間の象徴のようだ。今回、バックのビリジャンの深い色彩にあらためて驚いたのである。(高山淳)

 猪爪彦一「夜の道標」。下方の地面は赤く、そこに大小様々な円柱が立っている。壊れたフォルムやキューブなものもある。湯気が出て、点々と花びらと女性たちがいる。上方の黒い空間に流星のようなフォルムがいくつも現れる。中心は矩形の立方体の神殿のような雰囲気で、そこに鳥のような幾何学的なフォルムが、着地しようとしているのか、あるいは、下方のフォルムと距離をおいて、浮遊したまま静止している。これが題名にある道標だろうか。いずれにしても、夜、様々なイメージが立ち上がってくるときの心象風景と言ってよい。(高山淳)

 松原政祐「生きるものたち『慈』」。画家は壁を画面の中につくって、その壁の中に様々なイメージが浮き上がってくることを描いてきた。まるでそれは宗教者の行に似ていると思う。今回は、その壁に女性の顔やはるか昔の古代人の弓を持っている姿や、あるいは兎や鹿や現代の女性たち、あるいは裸の女、様々なフォルムが入れられている。この壁全体が、すこし離れて見ると、上方を向いた仏の顔になっている。つまり、様々な歴史、そして現代、空間軸だけではなく、時間軸も含めて、この地球上のすべてのものを癒すというイメージが、そこに感じられる。それと相応するように黒い空間にたくさんの星がまたたき、満月が昇っている。(高山淳)

 富田知子「渇いた領域」。お棺を立ち上げたようなフォルム。黒い十字架がある。その前に一人の人間が立っている。周りに樹木。上方に圧倒的な円弧の中の黒い空間。手前の人の持っているキューブな箱の中には赤い液体があり、そこから赤い羽のようなフォルムが立ち上がっている。不吉な雰囲気。大事件が、起きたあとのレクイエムのようなイメージ。その緊密でスリリングで圧倒的な密度が、この作品の魅力。(高山淳)

 大平和朗「地のうた '11 イカロス」。曲がったフォルム。まるで太い管を変形させて上方に立ち上げたようなフォルムが、画面の中心にある。その上方から煙が立ち上がっている。そのフォルムの中に集落のような形もあるし、バックには茶褐色の何も生えていない空間が広がり、はるか向こうに建物がぼんやりと現れる。上方には不思議な飛行物体がある。全体が黄土系の色彩で染められているために、独特の大地的な安息感があるが、なにかスリリングな気配が漂う。題名のイカロスは、上に上にと向かい過ぎたために、蠟でできたその羽が溶けて墜落した。上に上に向かう。そのようなことの危険は、イカロスはギリシャ神話だが、バベルの塔という旧約聖書の物語にもある。人間のおごりを戒めるといったイメージが、この作品にあるのだろうか。不思議な大きなフォルムが煙を吐きながら曲がって、黄金色の空と大地をバックにして立ち上がってくるが、そのフォルム自体は大きく傷ついている。現代人の家庭、あるいは集落、そういったものの壊れた象徴のような存在として、中心にそのフォルムが描かれているところが興味深い。(高山淳)

10室

 阿部直昭「大地からの恵み」。黒いバックに巨大な津波の跡のようなフォルムが置かれる。それに対して麦の穂が垂直に立ち上がる。麦は踏まれることによって丈夫に育つと言われている。そういった麦をメタファーとして、今回の日本の国難ともいうべき大災害から立ち上がることを祈る。そんな祈りのモニュマンと言ってよい表現である。背後の横のブルーは海の象徴だろう。恵みの海であると同時に、狂気の、あるいは悪夢のような暴力的な性質をもつ、両面性をもつ海。その神秘のイメージを、この青いストライプで表現した。(高山淳)

 吉松陽子「千回の夢:花待つ夜」。ほとんど半身裸の女性が座って、不思議なポーズをしている。印を結んでいるような様子。背後にロングドレスをまとった女性が何体か描かれている。まるで幽体のようである。昔のこの女性の姿かもしれない。愛を求めて、あるいは愛に傷つきながら、いままた新しい愛を求める。花は愛というものの象徴のようだ。自分自身の投影のような満月。その下に蜃気楼のような花の群れ。そして、水が流れる。無常観のなかに画家独特のロマンの歌がうたわれる。(高山淳)

 矢元政行「記憶の中の風景」。建物。工場。巨大な煙突。塔。煙突から立ちのぼる煙。タンク。そういったものがまるで巨大なステーションの線路の上に置かれた車のように描かれている。そして、それはパースペクティヴによって統一されている。水平線は曲線を描いていて、地球の果てを思わせる。無人である。無人の中に建物の壁、側面が白く輝いている。まるで記憶の中に、あるいは海や川や風に晒されたようなそんな色調でもって白く輝いている。野分のあとの風景のような不思議な詩情が画面に吹いている。(高山淳)

 森下良一「記憶の舟」。板の壁。木製の竜骨。木製のドア。木製の竜骨は川沿いの地面に置かれている。川はカーヴしながら向こうに消える。白い百合の花。一枚の鳥の羽。黒い手袋。包帯が上方から垂れ下がり、丸い黒縁眼鏡が竜骨の上に置かれている。何か大きな事件が終わったあとの静謐な雰囲気。深い喪失の感情が独特の騙し絵ふうな空間の中に表現される。(高山淳)

 前田香織「夜の入口」。花を衣装として身にまとった女性たち。一人、裸で立つ長い髪の女。それを猫になった女が眺めている。上方に花に包まれて眠っている女性。夜と昼とが逆転して、夜が進行するに従って花が開き、女性たちは活性化するのだろう。その序曲のセレナーデと言ってよい雰囲気に注目。(高山淳)

 上川伸「流布」。今回、東日本大震災で津波のあと、原発事故のあと、風評被害が起こった。その風評被害が伝わっていくありさまを描くと、このような螺旋のカーヴした不思議なフォルムになるかもしれない。そんな、いわば人間の闇の部分を画家は黙って見つめている。そこからあらわれた緊張したフォルムが鑑賞者を引き寄せる。(高山淳)

11室

 中川義秋「つぶれた缶1~3号機」。奨励賞。全面に広がる凸凹とした沈んだグレーは、新聞紙を溶かして一種の紙粘土のようにし、固着させたものである。黒煙のようにグレーが変化を見せている。そこに突如として3つのつぶれた空き缶が浮遊するように描かれる。タイトルは飛行物体とも福島原発ともとれる。今回の震災では原発事故によってエコロジーとテクノロジーのことも考えさせられた。原発を、ケミカルな飲料のつぶれた空き缶で表現するアプローチだとしたら面白い。(小池伊欧里)

 有賀綾女「赤のコンポジション  Ⅲ」。新人賞。赤を基調とした色面で構成された画面からは、色彩感覚の良さが窺える。所々英字新聞などがコラージュされている。夕陽のダンスとでも言えるような豊かな動きがある。下方の淡い黄色や水色は、斜めから降り注ぐ夕方の光が水面に反射しているようで、色彩が心地よく響いてくる。(小池伊欧里)

12室

 冲田進「…の女 Ⅱ 2011」。ビル群の中を走る幹線道路、その道路に呼応するかのように裸婦の後ろ姿が浮かび上がる。モノトーンに近いが、しっかりとしたマチエールでビル群を描き出している。上方は霧がかかっていて、女の頭部も定かではない。顔の見えない都会の暮らしなどと言うとありきたりな表現だが、そんな都会の内包する不安さが表れている。(小池伊欧里)

 左海阿津子「シュプルングへの旅 Ⅱ」。深見隆賞・会員推挙。海底に沈んだ遺跡のような石造物。ルアーが生きた魚の様に画面上方を進む。青やベージュを上手く点描やドリッピングでちりばめ、独自の描画スタイルを編み出している。幼い頃の記憶を辿り、忘れかけたピュアな心との出会いを求める旅だが、その過去は未来の自分を磨くための踏み切り板である。昔の記憶が水中にあることで、崩壊してもどこか周りと溶け合って永遠に存在し続けるイメージとなる。(小池伊欧里)

 中田純子「闇を孕む風」。黒や、様々なトーンのグレーが交錯しながら画面を包み、奥の方に茶褐色の色面が見え隠れする。重々しい風が触手を伸ばし、どこか異界へと連れて行かれそうになる。全貌が奥に隠され、ねじ曲げられた空間がなんとも不安な心持ちにさせる。ライトグレーを大胆に配しているが、それでも奥に見える茶褐色の存在感が印象に残る。(小池伊欧里)

13室

 細井美奈子「生まれ出づる時」。赤いワンピースに毛皮の襟巻きを巻いた婦人が、巨大なクラッカーから子供のようにデフォルメされた夫と思われる男を発射させている。タイトルからすると、還暦を迎えた夫の第二の人生幕開けといった見方もできる。背景の湖に浮かぶ舟には女と犬が別の時間の流れにいるようだ。そんな環状の地層が連なる茶色いシュールな世界に、白いバラが飛び散り祝福する。しかし主人公はあくまで女性。「まだまだ頑張りなさいよ」と夫を叱咤する強い女性を象徴しているようでもある。(小池伊欧里)

14室

 金田德藏「港の片隅 Ⅰ」。赤く統一された色調で港の一隅を描いた作品を続けている。淡々とした港で働く生活、その哀愁のようなものがこの赤の色から滲み出る。微妙な色調の変化を繰り返して描き、作業道具や酒瓶の置かれた港の片隅を、生活のリアリズムを醸し出しながら表現している。(小池伊欧里)

16室

 小笠原実好「復活 B」。黒い画面にドンゴロスや金属のプレートなどが貼られ、堅牢なマチエールが作られている。複雑に色が重なり合う中、暗闇の靄の中から僅かに光が現れ、黎明という言葉を当てはめるとしっくりくる。それは、崩壊しひび割れた大地からふつふつと新しい宇宙が再生されてくる前兆のイメージである。(小池伊欧里)

17室

 張延汀「白と影とエネルギー・脱 Ⅰ」。奨励賞。白いパネルにスチロール製の球や帯状の立体が接着されている。チューブから絵具を絞り出すかのように立体造形を扱い、勢いのある画面を作っている。水流によってできる渦と泡、あるいは海中の生物が卵を放出したり抱え込んだりするイメージがあり、自然や生命のダイナミズムを感じる。(小池伊欧里)

〈彫刻室〉

 田中正巳「連」。近年行動展で発表しているインスタレーション作品がまた新しい展開を見せた。四、五本の白い帯を一本に繫げ、それを縦横十五本ずつ並べて吊している。結び目は赤で着色され、その一つ一つが十字架あるいは鳥のようにも見える。そして、祈りとともに天上へ上っていく曼珠沙華のようなイメージも浮かんでくる。(小池伊欧里)

 西村潤「廃墟2011」。錆びた鉄板と鎖によって廃墟が表されている。ポッカリと空洞の空いたビルのような中心の四角は弓なりに歪んでいる。ピンと張られた支えを失い、今にも崩壊しそうだ。千切れた鎖は命を持っているかのようで、救いを求めて上方へ手を伸ばしているように見える。安定と不安定の混在した独特の佇まいである。(小池伊欧里)

 常松大純「風景」。六枚のアルミの板を重ねた台の上に三つの円状のフォルムがある。一つは円で、二つはそれよりだんだんと小さくなる。その四分の一ぐらいをカットして、それを逆方向につけたものである。円とは何ぞやといった問いかけ。まるで禅問答のようなコンセプチュアルな世界が展開される。それぞれの向きが異なる。円というものは世界にない。人間がつくったものである。そのつくったものを外して、もう一度現象に戻そうとするのだろうか。不思議な大きな空間があらわれているところが面白い。荀子に、水は方円の器に随う、そして、その力はとどまるところを知らないという言葉があるが、そのような世界観も感じることができるが、うまく言葉にならない。(高山淳)

 多田千明「SPECIES II」。「species」とは種という意味である。茎の先に花が咲き、花の中から蘂が立ち上がっている。そんなフォルムである。もともと樹木は植物の一つである。その白木を使いながら、植物の幹と花を拡大化して表現しているわけだから、強い親和力があるのは当たり前である。円弧というものが、この造形の中に面白く使われている。(高山淳)

第15回記念日仏現代国際美術展

(9月14日〜9月19日/大森ベルポートアトリウム)

文/高山淳

 儘田静枝「一ねんの夜明け」。国際文化功労賞。ピアノの鍵盤がデフォルメされて、大きく左右に広がっている。それに向かう赤い服の女性。白い楽譜が大きく前に置かれている。独特のファンタジーである。白と周りの黒、そして衣装の赤によって、詩的なハーモニーが生まれる。夜が明ける前の瞑想的な雰囲気もある。ノクターンといった優しい空間が生まれて、中心から波紋のようにその波動が広がる。

 橋本清一「夕陽の小路」。道路が突き当たって右に曲がる。右のほうから夕日の斜光線が差し込んでいて、突き当たりのほんのすこしの道と左の壁にくっきりと光が当たっている。その反射が正面の建物の壁にある。手前の道や両側の建物の壁は暗い。とくに手前の道のクリムソンレーキの入ったような深い調子。しかし、その夕日の反映のようなものが残響のように周りの壁や道にあるのが面白い。日が斜めに差し込んで、そのいわば黄金色の光にはなにか懐かしいものがある。かつて中世の絵画はすべて黄金色が使われていた。朝日の輝き、夕日の輝きが壁につくる色彩がそのまま使われていたと思う。画家はパリにアトリエを借りていて、一年の四分の一ぐらいはそこで暮らす生活も長い。パリの一隅に発見した詩的情景である。西洋、東洋を問わず、人の心の懐かしさともいうべきものが静かに歌い上げられる。

 野田信子「ノミの市で」。委員優秀賞。ここにはキャンバスやイーゼルなどがところ狭しと並んでいる。お皿や瓶もある。向こうで座って商談をしているように思われるおかみさんとお客。物のなかに時間の浸食した様子ともいうべきものが独特のヒューマンな表情をつくりだす。グレーを中心とした中に青や黄色が静かに輝く。

 笹沼恭欣「楽土残照」。名誉総裁賞。東南アジアのお寺を描いたものだろう。高い建物。龕があって、そこに仏伝が彫られているようだ。下方の階段を上って一人の僧侶が入口を入っていく。墨を中心とした中にほんのすこしの朱色やこんじきの色彩が入れられて、敬虔で精神的な雰囲気をつくる。垂直に立ち上がるこの寺院の様子と一部壊れたような歴史性を感じさせる雰囲気が、独特の空間をつくりだす。斜光線が静かに差し込むのも独特のロマンティックな雰囲気をつくりだす。

 小沢一雅「青の記憶」。建物の下方に二人の女性が手をつないでいる。建物は鋭角的な線による構成によって、上方に向かうロマンティックな動きが生まれる。それに対して女性の赤とオレンジの衣装。青春時代を回想するような心象風景である。

 白尾勇次「状況 11─F」。これまでの作品とすこし表情が異なる。静まり返ったような重苦しい雰囲気がある。画面は左右、白と黒のパートに分かれ、左は白い下に堤防の決壊したあとのような雰囲気のフォルムが表れている。右の黒い空間には三つの鋭角のエッジをもつストライプが伸びていて、その中はマットな銀色と光る銀色のものがコラージュされている。上方には赤や青、黒、白などによって、風景的に深い感情的要素が込められている。白の空間がどこか白々として、茫漠たる時の止まったような雰囲気をつくりだす。黒をバックにした銀色の三つのフォルムには光や運動がそのまま静止したような独特のイメージがある。日本の震災に対する鎮魂の気持ちや、そのあとのもうひとつ速やかに展開がされない政治的な状況などが、この銀色のフォルムにも感じられる。日本の社会の状況を背後に背負いながら、画家は独特の強いコンポジションをつくる。サロンブランは十五周年記念だから、お祝いの回であるが、やはり今回の東日本大震災のショックが、このような時の止まったような不思議なイメージをつくりだしたのだと思う。

 野村康子「鳥よ!」。赤いバックに駱駝のようなフォルムが見えるが、月や太陽もあるようだ。そんなものを背景にして、コンドルのような不思議な鳥がとまっている。赤がいわば昔の丹色といった呪術的な強い効果をあげる。それを背景にして、不死鳥を思わせるような鳥のイメージが表れる。

 久下奈利子「室内」。ベージュのもあもあとした霊体のようなものが動いている。上下のブルーと不思議な響き合いを醸し出す。瞑想する心の状態が、そのまま絵として現れたような面白さである。

 ライネルト寿美子「コンクリートオアシス」。下方にコンクリートのマチエールや色彩を思わせる塊がある。上方は黒褐色の空間で、そこにグレーによって三角形や円弧などのフォルムが描かれる。下方のグレーの空間は黒い大きな線によって囲まれているのだが、ずっしりとした存在感がある。それ全体でもって巨大なうつわのような趣。あるいは、題名のように広場のような趣も感じられる。都市空間を画家はそのままそっくりスクリーンの中に入れこんで、その中にひとつの安息的な空間をつくりだした。そこに弾むような気持ち、あるいは祈るような気持ち、あるいは音楽性などのあるフォルムが徐々にあらわれて、黒褐色の上に静かに動く。アンティームななかに生命の底から発するイメージの強さが感じられるところがよい。

 林敏郎「裸婦」。鉛筆によるドローイングである。座る横向きの豊満な裸婦のフォルムがくっきりと描かれる。

第47回主体展

(9月15日〜9月21日/上野の森美術館)

文/高山淳・磯部靖

1室

 浅野修「虚と実(はがれる構造)」。剝がされた裏地がグレーで、その下にプラスティックでできたグレーのすこし半透明なフォルムがあり、その奥にキャンバスの地があらわれた空間がある。独特のメディウムによって、見通しのきかない不透明な膜がその上方や右を覆っている。剝がれた向こうからあらわれてくるもの。虚と実という問題に加えて、悲しみの表情のようなものがあらわれている。それが不透明な見通せない空間のあいだからあらわれてくる。現代の渾沌とした心象風景がしぜんと象徴されるようだ。(高山淳)

 齋藤典久「2011 field」。損保ジャパン美術財団奨励賞。深沈とした空間があらわれている。白い遺跡のような塔がいくつも立ち並んで、あいだに長方形の空間が生まれる。そこはひとつの結界のような雰囲気になる。剝落しかかった不安定なその直立する塔によって囲まれた空間は、レクイエムのような感情を引き寄せる。それに対してところどころ斜線が入り、上方では水平線が入れられている。赤は張り詰めた感情の色彩として、その感情は千切ったように上下に対角線上に置かれている。今回の震災に対する深い感情からあらわれたコンポジションのようだ。(高山淳)

 佐野たいし「夜と王様」。上方ではフラットな黒い色面がマットな手触りで置かれる。それはバックのグレーの上に置かれるのだが、右端では、その黒い色面の上にグレーの色面が置かれていて、ちょうどこの抽象的な色面を前後挟むようになっている。その手前のグレーの色面の上方に王冠がある。それに対して下方はもっとトーンによってできた空間で、コップのような、細長い矩形などが浮遊している。夜の戸外の宇宙まで続くような空間のイメージを、ざっくりと色面として上方に捉える。それに対して下方には、室内で人々が笑い、あるいは酒を飲み、あるいは本を読んだりするヒューマンな空間があらわれ、二つが対置されるという趣である。その二つをつなぐものとして冠が置かれる。冠は魂とか、あるいは気高さとか、あるいは鎮魂といったイメージにつながる。ジャズのセッションのようにフォルム、あるいは色彩が、お互いにある動きのなかに組み合いながら展開して、独特の心象的空間があらわれる。(高山淳)

 榎本香菜子「その日、コウノトリは舞って…」。無音の世界である。水の中に一本の裸木が枝を伸ばしていて、それが水に映っている。水の中のこの静かに細い枝を伸ばしている様子は、実に悲しみの象徴のようだ。手前の岸に赤ん坊のいない揺り籠が置かれ、その先が赤い紐に結ばれ、紐は画面の左辺で切れている。上方にはコウノトリが舞っている。コウノトリは新しい命を運ぶ存在であるが、舞うだけで、命は運ばれず、実際にいた赤ん坊も消えてしまっている。今回の東日本大震災の不幸な現実に対する深いレクイエムのような表情が画面からあらわれる。水の中の一本の樹木というコンポジションには痛切なものが感じられる。(高山淳)

 中城芳裕「出現」。手前に二人の兄弟がいる。虎のような衣装をつけて尻尾を生やしているが、頭には鶏冠のようにも、あるいはイソギンチャクのようにも見える不思議な帽子をかぶっている。陸のものと海のものの二つのイメージの衣装を身にまとっている。後ろに恐竜が出現しているが、それは若い父親のようだ。父親と少年時代の回想が画面からあらわれてくる。バックの犬を連れた若き母親は、その回想のなかでは不思議なシルエットのような雰囲気の中にいる。男同士の遊びの世界、イメージの変換の世界が生き生きと画面に表現されているように感じられるところが面白い。バックの石段や車輪のようなフォルムは、その過去に向かう通路のように感じられる。(高山淳)

 グェン・ディン・ダン「DREAM BY DAY(白昼夢)」。自画像と思われる男性がこちらを向いて座っている。背後には大地が広がり、耳の長い大山猫のような動物が一頭と細い支柱の時計が描かれている。男の手前にはライチ、壁の上方は一部剝落している。それぞれの小道具が強く印象に残る。シュールな世界観の中に確かな筆致で、リアリティを引き寄せている。(磯部靖)

 斉藤望「8月の葡萄」。画面の左半分に、赤、青、黄に彩色された葡萄が大きく描かれている。その葡萄の大きなたくさんの葉に、小さく描かれた女子高生が数人乗っている。若い女性の生命力が葡萄のそれと重なり、画面が瑞々しさで満たされている。背後の流れるような強い動きも、過ぎていく時の流れを思わせるようで興味深い。(磯部靖)

 石井晴子「白い記憶」。高層ビルの立ち並ぶ風景を背景にして、若い女性が座って物思いにふけっている。あいだに白い道のような、線路のようなフォルムが続いている。上方にピンクの花がいくつも咲いた蔓のような植物が降りてきている。それがはかない蝶のようにも感じられる。人間の命のはかなさをこの女性は考えているのだろうか。艶やかなマチエールが魅力で、そこから品のよさともいうべき雰囲気があらわれる。白の中の線や影がロマンティックな雰囲気と同時に、静かな瞑想のイメージを与える。(高山淳)

 松田豪「r─'11」。傘を大きく広げ、足を組んで座っている人物を中心に画面が展開している。じっくりと施された厚いマチエールとモノトーンの色彩が、強く印象に残る。(磯部靖)

2室

 續橋守「タンクのある風景」。手前に巨大なタンクのある建物があり、背後の白く晒されたような丘に幾本もの錆びたようなパイプが絡まって、手前に続いている。山の上には壊れた廃屋のようなイメージが蜃気楼のように浮かぶ。その背後にも山の斜面があるようだが、そこは暗くつぶされている。光に当たって晒されたようなこの山の様子は何か。画家は足尾銅山をテーマにするところから独特の風景を描いてきたが、この錆びた光景は足尾銅山のいわばシュールな表現と言ってよいだろう。足尾銅山は公害であり、人災と言ってよいのだが、今回の津波による原発事故にも同じような部分が感じられて、これまでのテーマがまた一挙に再把握されてこのような不思議なコンポジションが生まれたようだ。赤茶けた大蛇のような管は長い歳月と同時に、悲しみのイメージのようだ。(高山淳)

 福田玲子「繫ぐ」。雑草のあいだに削られた窪地が左右に続いて、そこを水が流れている。ほんの小さな水路のような趣である。それを上から見下ろしている。その水の様子や地面の様子、枯れた下方の植物に対して、上方では黄色い花や白い花がついている。大地のもつ命の姿が実によく描かれている。それがそのまま深くわれわれを癒す。実に平凡な身近なところにある自然の表現である。その自然との深い接触から生まれた作品で、強いリアリティを醸し出す。下方は冬で、上方は春のイメージ。そして、その二つの季節をこの命の象徴のような水がつないでいると言ってよいかもしれない。そうすると、この水は水と同時に時間というもののメタファーとしてここに描かれていることが分る。地面のもつ独特の柔らかな触感がこの作品のイメージを支えている。(高山淳)

 河内一「しけ Ⅰ(雪の笹口浜)」。激しい雨風の吹き荒れる海辺の風景である。画面の下方手前にある家屋にはうっすらと雪が残り、その灰白色が激しい波の飛沫と呼応しながら輝いているようだ。厳しい自然の姿の中に、凜とした美しさを感じさせるところがこの作品の見どころだと思う。(磯部靖)

 中村輝行「長いテーブル」。逆遠近の長方形の紺色のテーブルに左右、人々が向かい合っている。議論しているようだ。左に四人、右に七人。なかなか結論に至らずに永遠にこの会議は続けられるようだ。上方に一本のペットボトルが静かに置かれているのがあやしい。逆遠近のコンポジションもまた独特である。今回の災害に対して政府や国会は議論するばかりで空転し、何も実際の措置が行われず、ひたすら時間が過ぎていく現代日本の様子を見事に象徴するような表現である。長いテーブルは長い時間そのもののような象徴性を帯びて置かれている。上方のペットボトルは清潔で、不思議なイメージを放射する。それは命そのものの象徴的な表現のようだ。それをペットボトルで表現する画家のエスプリに驚く。キリストは自分は命であるということを聖書で述べているが、そのような命そのものの存在が手前の会議と対照されるようにそっと置かれていて、実に強い印象をつくりだす。(高山淳)

 山本靖久「水に還る涙」。船の上にいる人々。亡くなった人を抱きかかえている女性。馬が静かに川にいて、水を飲んでいる。セレナーデ、あるいはノクターンといった趣。背後に山があり、夜空に満月が浮かぶ。下方には三日月が山の端にある。真ん中の風景の左右に自然と母と子供が黄金色の中に線描で表現されている。自然と人間とがお互いに共生し、お互いに深く交感しながら生きている時代のイメージが、静かに引き寄せられる。(高山淳)

 中島佳子「地の符・2011」。ヘリコプターの上から大地を眺めているような趣がある。今回の津波や福島原発の衝撃が、このような不思議な空間をつくりだした。地面が揺れているような趣がある。地面の形を描こうと思いながら、しぜんとその津波の動きが画家の体の中に浸透してきて、不思議なブレのようなものをつくりだした。それによって、今回の津波の大地の変化が定着される。緑の色面、あるいはストライプの空間、円弧、あるいは窪み、そして、何か不思議な影のようなものがその色面の上に捺されている。見ていると、その大地を眺める距離も変化しながら、静かに浮かび上がってくるような空間が中心にあらわれてくるようだ。そこに人間の心の不安感を投影するように不思議な影が捺されている。揺れる地面を引き寄せながら、深い祈りのような感情もそこに捺されてあらわれてくるようだ。斜めと円弧によって切り取られた風景が静かに上方に浮かび上がってくる。大地というもののもつ、その不安定さとその地層のようなものが丸ごと引き寄せられて、それがそのまま一つの深い祈りの表情になるようだ。(高山淳)

 山﨑弘「全山を覆う」。なだらかに続く平野の向こうに山脈が見え、それを大きな積雲が覆っている。気持ちのよい風景である。若々しい緑の色彩が繊細に変化していきながら、大自然の生命を謳歌しているようだ。また、積雲の動勢を孕んだヴォリューム感に、鑑賞者に迫ってくるような臨場感がある。清々しい空気感もまた魅力である。(磯部靖)

 水戸部千鶴「時を越える」。身体に包帯を巻かれた人体が弓なりに背を反らして描かれている。背後には銀箔が敷かれ、人体の周囲は腐蝕して暗くなっている。実にうまく空間を活かして画面を構成している。人体の持つ微かな生命力が、霧のようにじわじわと放出され広がっていくようである。神妙な気配の中に、生命の神秘をじっくりと描ききっている。(磯部靖)

 見藤瞬治「続く道」。丘の上から白い道が続いて、もこもことした地面の起伏のなかを通過しながら手前に向かっている。そのもこもことした地面の中に跪いた男のフォルムがある。画家は自然の中に様々な人間のフォルムを見ている。自然は生きているということの画家の表現である。このような表現は関西大震災の深い経験から始まったわけだが、それを超す津波が東北を襲った。それでも人は生きて、次の世代にバトンタッチをしていく。その歴史感情ともいうべきものが白い道の中から感じられる。跪く男の姿には深い悲しみが感じられる。(高山淳)

 手塚國彦「峠の棚田」。棚田を望む風景である。画家特有の繊細な色遣いが、この風景を表情豊かなものにしている。中景の最も明るい棚田では、田植えをする幾人かの人々が点景で描かれていて、その青や黄の色彩は、周囲の木や水、雲などにも少しずつ入れられている。そういったこの風景に対する、画家の愛情ある眼差しが観ていて気持ちよい。(磯部靖)

 高橋宣子「災」。廃墟をバックにして、三頭の牛を力強く大きく描いている。牛の身体の立体的なフォルムや量感がしっかりと捉えられている。手触りのあるマチエールもまた、牛の存在感を強く印象づけている。(磯部靖)

3室

 有馬久二「鎮魂」。一本の赤い紐が上下をたゆたうように伸びていて、そこに二つの悲しみのお面が吊るされている。その後ろには、白い布の置かれた台の上に大きな石が置かれている。真っ赤な残照が空を照らしている。「鎮魂」という題名のとおりの、まさに鎮魂のモニュマンと言ってよいコンポジションがつくられている。赤は悲しみの色彩のようだ。(高山淳)

 森脇ヒデ「'11 梼」。大木の根元を大きく描いている。灰白色を基調にしながら、樹木の複雑に入り組んだ立体感をしっかりと捉えている。画面の中心やや右に小さな雑草がそっと生えている。その控えめながらも伸びやかなフォルムが強く印象に残る。誠実に樹木の姿形を描きながら、生命の喜びを讃えるように描いている。(磯部靖)

 吉田正「The ellipse ─AKARI─」。少女がこちらを向いて本を開いている。テーブルにはリンゴとグラスに入ったお茶がある。足下には犬が一匹寝そべっている。茶系の色彩で画面をまとめ、少女の現在を留めようと描いているようだ。抑揚をうまくつけた明暗の扱いと精緻な筆致もまた魅力である。(磯部靖)

 森慎司「ANDANTE TRÈS EXPRESSIF」。こちらを向いて横になった少女が宙に浮いている。周囲にも球体や立方体などが浮かんでいて、それがどこか音楽的なリズムを奏でている。背後の暗色の空間では楽譜や月が浮かんでいる。静かなモノトーンの世界の中で、緩やかなテンポが独特のメロディを引き寄せている。(磯部靖)

 坪井健一「Train」。満員電車の車内の様子を、俯瞰する視点で描いている。画面の中央では乗客がいざこざを起こしている。上方では、閉まりかけたドアから無理に乗ろうとしている人がいる。人物それぞれの動きが豊かである。吊り輪を下げた白い支柱を一つの枠としながら、そこに見える様々なヒューマンドラマを描いていておもしろい。(磯部靖)

4室

 水村喜一郎「路地にて(旧玉の井)」。玉の井は画家が生まれ育った懐かしい街である。その街がここに描かれているが、記憶のなかにある街が引き寄せられているのだろう。二階建てや一階建ての建物が続き、電信柱が立つ。左のほうに傾いているのが妙な気持ちになる。茶色、青、煉瓦色、グレーなどによって建物が彩色されている。ところどころ朱色が置かれているのが不思議な雰囲気である。左側の郵便受け。そのそばの電信柱の一部。その遠景のすこし斜めになった部分の赤。右のほうの列のT字路に向かう曲がり角にあるポストの赤。その赤が不思議な命の火のような性質をもって使われている。曇った空に黄土色の道が続き、はるか向こうで左に隠れる。目に見えない世界を視覚化しているような雰囲気がある。それほど画家の強いイメージは徐々に対象の中に入っていき、この風景の中からそのような目に見えないものを視覚化するような努力が、この独特のトーンを呼ぶようだ。道は消えているが、果てしなく道は向こうに続いていき、そのもっと向こうに何かあるような気持ちになる。中原中也に電線をうたった詩があるが、そんなイメージを発信してくるところが面白い。(高山淳)

 田中淳「月代(つきしろ)」。満月に照らされて白く輝く岩。その岩の向こうに一羽の海鳥のようなものがとまって空を眺めている。岩のV字形の向こうにはわずかに海がのぞき、水平線が白く輝いている。大自然と向かい合う人間の姿が、この小さな可憐な一羽の鳥に託されているようだ。それはそのまま画家の自然観を表す。海の向こうには母の国があると言うそうだ。しかし、手前の岩の白く輝く様子は自然というものの不思議な姿。今回の津波の見せた恐ろしさと同時に神秘的なものがしぜんと感じられる。「月代」という題名だが、それは月が単に白く輝くという意味だそうであるが、月に願をかけているような、そんな意味合いもあるのではないか。上方に輝く満月がはるか向こうの母の国から現れてきて、いま一刻ここを照らしているような存在として描かれている。日本人にとって月は阿弥陀仏の象徴のように仏画に描かれているが、そのようなイメージもあるに違いない。深く人を癒す存在として月が上方に引き寄せられている。その月のイメージと海の向こうにある母の国のイメージが重なり、連結され、人間的存在が鳥に象徴される無言の劇が語られる。(高山淳)

 井上俊郎「〈真っ直ぐな道〉にて(ダマスカス、シリア)」。太った堂々たる男性と黒衣をまとって顔を覆った女性が歩いている。強い日差しが降り注いでいる。地面も建物も白く輝いている。二人は歩いているわけだが、強い人間力ともいうべきものが感じられる。長い歴史のなかに人間の生きてきたその姿が、歩むというかたちのなかにしぜんと表現される。淡々とした写実のなかに悠久たる歴史と人間の力が静かに浮かび上がる。(高山淳)

 岩見健二「創る」。縦長の画面に工場の一部のようなものが置かれる。たくさんのチューブが丸められて掛けられている。そんな中から垂直に立ち上がる円筒のもの。赤い矩形のコの字形のフォルムが立ち上がる。そこにもまたチューブが輪になって掛けられている。コンプレッサーやガスバーナーなどを使うためのチューブのようにも感じられる。人間が金属を溶かしたり、強い空気を吹きつけたり、そのようなことをするための道具。そのチューブがそのまま深い人間の情念やこんがらがるコンプレックスのようなイメージを醸し出す。右のほうから明かりが差し、鎖のシルエットが浮かび上がる。その人間力とも言うべきものの姿が、絡まりあった中にあらわれて、複雑なコンプレックスの状況を表現する。縦長の画面の中に強い密度があらわれ、強い波動が生まれる。(高山淳)

 中川奈哥子「卒業写真」。卒業写真をモチーフに描いている。F型の画面から左下に少しずらし、そこに多数の学生と教師たちが並んでいる。それぞれの表情がよく捉えられている。よく見ると、男女で一人ずつ顔が描かれていない学生がいる。奇妙ではあるが、ある種記号的に並んだ生徒たちの中で一つのアクセントとなっている。清潔感のある筆致とシンプルな画面構成が鑑賞者を惹き付ける。(磯部靖)

 紺野修司「黒いsunion岬」。スニオン岬はギリシャの中東部にあり、そこにあるポセイドン神殿が描かれている。画家が少し前から取り組んでいるモノクロームの世界を発展させたような雰囲気で、背後の空が暗色で彩色されている。淡々と描いているようで、無駄なものを省きながら、意識を神殿に集約させていっているように思う。時間や空間を超えた存在感が、この神殿にはある。(磯部靖)

 矢野利隆「記憶の断片」。独特のリズムがある。下方に三本の道のような、線のような、亀裂のあるフォルム。三本はかみ合わず左右に揺れ、上下にも揺れている。そばに立つ女性。手前に逆様のお尻と足の裏を上方に向けたフォルム。その向こうには逆様になって浮遊する女性と女性を後ろから見たトルソが置かれているが、一部壊れている。破片のようなものが浮遊している。このリズムは画家ならではの今回の津波や原発事故に対する表現と思われる。地面に亀裂が走る。画家の深い内界の世界のなかにもそれは静かに浸透してきて、独特の亀裂が生まれた。その心の揺れが実にヴィヴィッドにこのスクリーンの中に表現されているようだ。下方に立つ女性の横顔に光が当たって肩から白く輝いている様子は、実に不思議な印象で、衝撃を受けて、その衝撃がそのまま白い輝きのなかに停止まっているように感じられる。(高山淳)

 小菅光夫「崩壊の日」。この画家特有の朱の色彩が強く鑑賞者を惹き付ける。五人の人物が歌舞伎を演じているが、そのそれぞれの表情、動きなどの表現が実に豊かである。特に朱で彩色された手前の三人が強い存在感を孕んでいる。朱の色彩の後ろに寒色を使うことによって、劇中の静と動、観客の視線など、いくつもの要素を簡潔に訴えかけてくる。鑑賞者のイメージを強く刺激する作品である。(磯部靖)

 佐藤善勇「リスボンの朝」。画家のリスボンのシリーズも長い。今回は、縦長のキャンバスを活かして、積み重なるように街並みを描いている。朝の新鮮な光に照らされた家々の壁が黄色く輝き、そこで暮らす人々の一日が始まる。そういったポジティヴなイメージが、作品の中に満ちている。この街をよく知る画家ならではの作品である。(磯部靖)

  町勝治「寺野大樟」。見上げるような構図で大きな樟を描いている。そのうねうねとした樹木のフォルムが強い生命力を感じさせる。その根本の方のちょうど画面の中央あたりのフォルムが、牛などの頭骨のように見えるところもおもしろい。細密的描写でモチーフに迫っていきながら、その存在、過去からの時間を克明に画面に刻んでいっているようだ。地面が左下から右上に斜めに上がっていき、樹木は左上方向に伸びているという複雑な構図の中に、画家の自然に対する好奇心や親愛などの様々な感情が見え隠れして印象的である。(磯部靖)

5室

 野辺田紀子「水の大地―祈り」。画面の下方から上方へ、暗色から徐々に明るい灰白色へとトーンが変わっていっている。湿原か田んぼが続く風景のようであるが、画面の中心からやや上方に地平線がある。その地平線の際の描写が特によい。光や雲、大地の色彩が霞むように混じり合っている。画家がこの風景に感動し、その印象をじっくりと描ききったことで、鑑賞者は作品の前で同様に感動を覚える。(磯部靖)

 木村正恒「洛東・大和大路」。街の中を汽車がこちらに向かって煙をあげながら向かってきている。空もそうだが、画面全体が黄からオレンジに染まっているためか、どこか非現実的な雰囲気がある。画面の手前右下には、犬が寝そべっている。その犬が、この絵の中に入り込んだ画家自身のように思えて興味深い。強いパースペクティヴと独特の色彩感覚で、強く印象に残る作品となっている。(磯部靖)

 石崎哲男「コスモス(ひびき)」。画面の中央に青く丸い水場があって、その周囲に八人の男女がいる。男女はそれぞれ楽器を演奏していて、一人花束を持っている人物もいる。バックは、モザイク的に矩形の色彩で装飾されている。画面全体が旋回するような広がりを見せ、そこに音楽的なリズムを感じさせる色彩の配置がある。感情豊かな群像表現であり、人物それぞれの動きが特に面白いと思う。(磯部靖)

6室

 三浦順子「けもの道」。飲み屋街の一隅の情景である。酔っ払った男女が抱き合っていたり、画面の奥では裸の女性がいたりする。それら人物たちの強いフォルムが特に印象的である。素朴な、しかし人間味の溢れる作品だと思う。(磯部靖)

7室

 戸田れいこ「明日」。いくつもの線路が手前から地平線へと伸びていっている。そのカーヴしながら伸びていく様が強いムーヴマンを作り出している。画面下方には三羽のフクロウが後ろ向きに枝にとまっていて、何か相談しているように見える。地平線は山なりに大きく弧を描き、空には二十七日くらいの月が小さく浮かんでいる。不思議な寓話的世界が鑑賞者を魅了する。(磯部靖)

 池田正子「TUGUMI II」。打ちっ放しのコンクリートの壁に段差があり、そこに鳥の巣が置かれている。巣には二個の卵がそっと入っている。下方には絡み合いながら二本の電線が横に伸びている。淡々と描かれているようで、実に味わい深い作品である。有機的なものと無機的なものを組み合わせながら、そこに過去から現在、未来へと移りゆく時間の流れを感じさせるところもよい。(磯部靖)

8室

 柿崎覚「光のさす場所」。明るい陽の光が上方から降りてきている。手前から奥の森へと小道が続いているが、その画家の描いている視点が少し低くなっているところがおもしろい。それは子供の視点なのかもしれない。未来への希望、期待を清々しい自然の風景を借りながら描き出しているようで興味深い。(磯部靖)

 河内裕子「26年の記念碑的な作品」。画面全体を赤紫の色彩でまとめながら、小高い山頂にある街を望む風景を描いている。下方から盛り上がっていく山肌の様子や、上空の様子などを、繊細に、丁寧に捉えている。そこに独特の色彩でトーンを作り出すことによって、画家のこの風景に対する強い思い、イメージが損なわれることなく表現されている。(磯部靖)

〈企画室〉

 新野安紀子「踏みしだく道」。佳作作家。カーヴしながら続く林道をじっくりと描いている。塗ったり削ったりしながらできあがったマチエールが、その道を一歩一歩歩く画家自身の歩調を感じさせて印象深い。(磯部靖)

 中村陽子「明日へ Ⅰ」。秀作作家。夜のロータリーを描いた情景。街灯や車のライトなど、所々に灯る明かりが適度な抑揚を作品に与えている。奥から手前、あるいは手前から奥へと旋回する動きもまた力強い。(磯部靖)

 柏内敏子「学校のアトリエ Ⅰ」。佳作作家。中央に空けられた空間の取り方が効果的である。周囲には机や石膏像、イーゼルにかけられた作品などが置いてある。その空間で生徒たちは制作活動をするのだろう。そういった不在に潜む存在感のような、豊かなイメージを喚起させるようで注目した。(磯部靖)

 小林宏至「いつか視る夢―QUEEN」。新人賞。市松模様の床に人物が横になっていて、その周囲にトランプやリンゴ、ダイスが散らばっている。薄暗い部屋の中に独特のリズムのようなものがある。それが少し幻想性を引き寄せているようだ。そういった画面構成がうまくいっていると思う。(磯部靖)

 髙谷映理子「Conveyor belt sushi」。佳作作家。回転寿司屋のカウンターを描いている。描かれているネタや生物はどれも奇妙である。小人のような人物も幾人かいる。妖しいながらもそこに感じられるユーモラスな感性が面白い。(磯部靖)

第41回双樹展

(9月20日〜9月25日/埼玉県立近代美術館)

文/磯部靖

1室

 伊勢正史「舟小屋(姫崎)」。浜辺の風景である。雨風に晒された小屋に、一艘ずつ小舟が置かれている。そこから二本の、おそらく舟を繫留するための堤が伸びている。実に味わいのある情景である。油絵具を塗っては削ってを繰り返すことによる堅牢なマチエールと、この風景にしっくりとなじむように調整された色彩が、この画家の感性の豊かさを感じさせる。漁によって生計を立てる人々の日々の暮らし、生活の匂いのようなものが閉じ込められている。そういった人間の営みが残す素朴な魅力が、油彩画ならではの表現で描き出された作品として注目する。

 岡田一忠「霧」。青から緑の色彩を繊細に扱いながら、山間の風景を描いている。しっとりとした色彩の扱いが魅力である。上方やや左に、樹木の影に隠れながら、満月がひっそりと顔を覗かせている。それが、この風景を見つめる画家自身の姿を思わせて興味深い。作品全体に漂う空気のようなものを大切にしながら、水墨的な要素も滲ませる作品として印象的である。

2室

 前之園千賀子「母と子」。シリアの大地を背景にして、そこに暮らす母子の肖像を描いている。画面の下方から五分の四くらいまで大地が続き、上方には澄んだ青空が広がっている。母はどこか憂いを帯びた表情を見せながらも、子供に対する愛情も覗かせている。子供もまた、同じような二つの感情を覗かせている。政情不安のこの地に暮らす厳しい現実がそういった表情を母子に作らせ、また画家はそれを繊細に感じ取り、作品として描き出した。左上方に街並み、右下方に草木と対称に置き、母子を中心やや左にずらして大地の空間を大きく取るなど、画面構成もじっくりと練られている。この母子に対する画家の深い心情が鑑賞者を強く作品に惹き付ける。

4室

 小浜喜平治「天山月韻」。天を突き上げるような峰を持った天山山脈と、その上空に昇る月を描いている。月に照らされた山肌は、散らされた金箔による効果もあってキラキラと輝やき、鑑賞者を魅了する。左側の峰は影になって、やや暗くなっている。シンプルな画面構成の中に、大自然の持つ壮大な気配、霊気のようなものを、画家は描いている。

5室

 根岸嘉一郎「瀬音」。画面の奥から手前に向かって流れてくる渓流を水墨で描いている。ダイナミックな水の流れと、堅牢な岩肌、細く繊細な枝葉。そういったそれぞれの描写を巧みに描き分け、一つの画面に纏め上げる画家の技倆に感心する。そして個々の描写にとらわれることなく、全体を生きた風景としてまとめ上げているところが、この作品の見どころだと思う。

お問い合わせ
  • 株式会社 生活の友社
  • 〒104-0061
  • 東京都中央区銀座1-13-12 銀友ビル4F
  • Tel. 03-3564-6900
  • Fax. 03-3564-6901
[ 美術の窓 ]
[ アートコレクターズ ]
[ ARTcollectors' in Asia ]
[ 書籍 ]
[ オンラインショップ ]