美術の窓

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公募展便り(2015年7月号)

「美術の窓」2015年7月号

第81回東光展

(4月25日〜5月10日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 岡本猛「生命(刻)」。ユニークなコンポジション。中心に少女の顔が大きく浮かぶ。その姿と白い時計とが重なって、雪が降っている。シダのような植物の葉も下方に描かれている。時間は五時を差している。まだ人生の入口に立つ少女は、朝の五時ぐらいの存在だろうか。いずれにしても、少女のあどけない顔と季節とが重なりながら独特のロマンティックなイメージをうたいあげる。無彩色のグレーが色彩をつなぐ役割をしていて、しんとした気配の中に少ない色相がそれぞれハーモナイズするところも魅力。

 松井亨「1960年代のパリ」。建物が傾いている。六〇年代のパリというと、半世紀以上前。その頃のパリに対する感情を、画家はぐいぐいとしたコンテの線によって表現する。

 北本雅己「クアトロ」。四人の若い男女の全身像が入れられている。衣料店のそばにファッショナブルな服装の四人の姿をさりげなく表現する。現代の若者の一断面を画面の中に切り取る。明暗のコントラストの中に使われている色彩もモダンで、生き生きと響いてくる。

 野口稔「無明秘抄2015、石、月、花」。石は何万年、何億年もの時間を過ごしてきた。いわば長い歴史の象徴としてここにあらわれている。上方の月はそういった存在を照らすものであるし、また太陰暦のイメージもあるだろう。花はその中で生きているはかない生命の象徴のようだ。人間の象徴。三つの存在がお互いに呼応しながら、禅的な世界を表現する。

 平野行雄「T嬢」文部科学大臣賞。肘掛け椅子に女性が座っている。緑のワンピースに白い上衣。背景は茶や緑、紫色などの点描ふうな色彩で、穏やかで親密な雰囲気である。対象を誠実に描写する姿勢に共感をもつ。

 難波滋「逍遥・出雲崎」。文楽人形の心中のシリーズが続いたが、ここに描かれているのは実際の女性と月である。女性は肩からすこし着物がずれている様子で、しどけない雰囲気。背景のマチエールの強い緑一色の色彩。月は十三日ぐらい。月がこの女性の心を照らす存在で、月と女性が一体化しながらシンボリックなコンポジションをつくる。

 佐藤哲「帰り道」。カラリストである。片足を地面についた黒人の若い女性が赤い自転車に乗って、全身で外気を感じている様子。後ろの白いガードレールが構成の要になっている。その向こうの建物群。そこから高く立ち上がる鉄塔と電線が強いメッセージを伝えてくる。空は赤く、夕焼けの様子である。オレンジから朱色の色彩が独特のパッショネートなイメージを伝えるし、また郷愁ともいうべき感情を誘う。鉄塔や電信柱や電線の曲線が心と心をつなぐメディアのような役割をしているところも面白い。人間の生活しているその深い感情やエネルギーを画面の中に引き寄せる。

 菊池元男「MOSSMANの森」。オーストラリアの北東部の熱帯雨林、モスマン川周辺をテーマにして描いている。鬱蒼たる樹木の存在。芭蕉のような大きな葉。あいだに赤い葉が伸びて、顔の赤い大きな鳥が歩いている。上方を見ると、小さな房のようになった果実がある。緑の系統と赤の系統を使いこなしながら、独特の密度のある自然の姿を表現する。

 佐藤龍人「画室」。キャンバスに向かう画家。その横顔が左の楕円形の鏡に映っている。キャンバスには立っている裸婦が描かれている。現在進行中のアトリエの時間をこの大きな画面の中に再現する。しーんとした気配のなかに静かに筆が動いていく。

 前原喜好「集落(MATERA)」。マテーラは紀元前の洞穴時代から今日までの約一万年近い人間の歴史が、その各場所に見ることのできる不思議なイタリアの街である。この建物はいまここで生活している人の建物だろう。ベージュや白い漆喰の跡が時間のなかに独特の色調を醸し出している。そこに太陽の光が当たり、強い明暗のコントラストをつくる。左のほうの影になっている部分。そこに向かう階段。フラットな壁の窓のオーレオリンやすこし緑やオレンジがかった色面。瓦屋根のグレーのヴァリエーション。様々な色彩がこの光の中にお互いに響き合いハーモナイズする。一つの色面が一つの音階を表すような、そんな音楽的な効果を上げる。画面からメロディが聞こえてくるような魅力が感じられる。

 高田啓介「冬の海」。波が寄せてきている。日が沈んで、残照に空が燃えている。低い一階建ての建物が近景に、上から見下ろす角度から描かれている。その存在感。まるで人間たちがわだかまってここに屈んでいるようなイメージが醸し出される。みすぼらしいこの建物の中に暮らしている人々の歴史。そんな人間の生活に対する深い感情を、画家は独特のフォーヴィックな動きのなかに表現する。寄せてくる波、あるいは地面の雪の表現など、全体の激しいタッチの中にそんな画家のパッションが感じられる。また、屋根には、黒ずんでいるが、中に赤などが入れられていて、そんな様子と空の暗い空間の中の残照の赤とが静かに響き合うところも、構成上の面白さである。

 瀬戸秀彦「箱崎JCT」東光賞・会友推挙。箱崎ジャンクションの高速道路の様子を上方に置いたダイナミックなコンポジションである。下の道路をバスと乗用車が走っている。このジャンクションのもつ構造を面白く絵画に生かしている。

 田中里奈「眼差し」森田賞。ゾウとヒョウがこちらを向いている。大胆なデフォルメされたフォルムがお互いに響き合いながら、ユーモラスで力強い生命感を表現する。

 本田年男「いにしえの刻」。手回しの蓄音機。大きなラッパがカーヴした先につけられている。蛇腹のカメラ。送話器と受話器がセパレートになった古い電話機。柱時計。そんな四つのものが櫃のようなものの上に置かれている。壁にポスターが貼られている。歯車の上にチャップリンが座っている。「モダン・タイムス」の頃のチャップリンの姿。大正の時代から戦前の昭和にかけてのイメージが画面から醸し出される。右の蓄音機の胴体が赤く、手回しの先にオレンジ色が置かれている。古い時代の人々の心の様子を、ともしびのようにそこに象徴しているかのようだ。深い、暗い、渋い緑のトーンが人を癒す。

 河本昭政「女」。肘掛け椅子に女性が座って、膝の上で両手を組んでいる。横からその姿を眺めている。彫刻を思わせるようなシャープなフォルムが魅力である。存在の要諦ともいうべきものを静かに追求する。

 西美奈子「一隅」上野の森美術館賞。ドライフラワーになった向日葵が、透明なガラスの筒のような瓶に差されている。その周りにガラス器や赤ワインの入ったグラス、あるいは、手動のコーヒミルなどが置かれている。向日葵の存在感が際立つ。マチエールも強いし、色彩のコクがある。

2室

 木下博寧「レザンドリーの夏」。フランスのノルマンディー地域で、セーヌ川を見下ろすところからこの作品を描いている。真ん中よりすこし右に尖塔のある教会を置き、背後はオレンジ色の丘で、手前にセーヌ川が流れている。そんな様子をタッチを生かしながら軽やかなムーヴマンのなかに表現する。

 福田次子「冬山」損保ジャパン日本興亜美術財団賞。石でできた山なのだろうか。樹木の生えていない山のようだ。その山の肌を一つひとつ確認するように上方に積み上げていく。そこにダイナミックな動きがあらわれる。下方の地面にへばりつくように民家が並んでいる。そのグレーを中心とした中に茶色や朱色やブルーなどが入れられて、全体で独特の色彩の輝きとハーモニーをつくる。パッショネートな山水的表現である。

 上野豊「時を経て」。窯場のある建物の手前に川があって、白い一艘の船。全体にベージュ系の色彩が使われ、背後はもっと暗い紫やインディゴふうな色彩。建物と地面とがベージュ系の色彩で、柔らかなハーフトーンの色彩がハーモナイズする。背後の雑木とあわせてみると、日本のしっとりとした山間のトーンがあらわれるのだが、建物や地面などを見ると、明るくモダンで、紫やピンクなどの色彩が使われている。そばに大きな煙突のような建物。淡い色彩にもかかわらず、筆のストロークも自由に伸びて、それぞれのもののフォルムはしっかりと描かれている。焼き物場がなにかモダンな雰囲気を醸し出していて、画家独特の表現になっている。

 吉田定「遠い日」。板塀の前に軍鶏のような鳥が一羽。板塀には酒蔵という文字のある紙が貼られて、一部はがれている。板塀が渦を巻くようで、それが長い時間の象徴のようだ。かつて酒蔵であった建物はいまは使われていない廃棄されたものになる。その長い歳月をその板塀の渦のようなフォルムが表す。ぽつんと一羽立つ軍鶏は本来力強い存在であるが、なにか頼りなげに悩ましげに見えるのが面白い。

 入江英子「納屋」。納屋の前にたくさんの花が生けられた缶がある。備前の大きな壺のようにも錆びたドラム缶のようにも見える容器に入れられたドライフラワーやホオズキなどの花。それぞれのものがその存在感を示し、お互いに明るい色彩で響き合っている。上から唐辛子の束が吊るされている。暖色を中心とした色彩のお互いの響き合いをみると、優れたカラリストであると思う。

 高橋信子「時空」。深い青い色彩を背景に白いワンピースを着た女性が座っている。巫女のような、あるいはミューズのようなイメージ。膝の上に置いた右手の掌に青い球を持ち、左手はそっと髪に触っている。背後に時計の文字盤が見えるが、かなり壊れている。そこには人間とはもうひとつ別の世界。柔らかな風が吹いている。その風の合間、雲の流れる向こうに星がまたたいているようなロマンティックなイメージ。

 黒木ゆり「朝の気配」。白く塗装された木製の椅子が少しはげている。長く使われて摩耗している。コンクリートの壁と床。どこから差すのか光が当たり、柔らかな影が壁や床にうつっている。まるで時間のお化けのような椅子。そこには誰も座っていない。その椅子にはここに腰かけていた、今は亡くなった人のイメージもあるし、現代の日本の老人たちのイメージもあるのかもしれない。いずれにしても、椅子という無機物を描きながら、きわめて濃厚に人間の気配を表すところが面白い。

 中尾廣太郎「仲間」。三人の青年の群像である。大きな目と大きな手をもつ三人の青年の力強いフォルム。背後は太い木の柵になっていて、その向こうは浜辺で、船が引き揚げられている。遠景は白い建物が構成されている。遠景、中景、近景としっかりとしたコンポジション。柵が浜辺と青年たちのあいだに立ちふさがっているから、もう漁業はできないということだろうか。そういったなかで漁村の青年たちは未来を求める。そんな、すこしメランコリックな雰囲気のなかにしかし希望を求める青年群像といった趣である。ディテールが強く、鼻や目や手などが言葉以上に力強く語りかけてくる。赤いシャツを着た男の右手の表情は、なにか悩ましいものを示すようだ。

3室

 深田啓子「ありふれた風景」会友賞・会員推挙。コンクリートの壁に錆びたスコップが立て掛けられている。壁には金属のボルトがつけられていたのが、上方ではボルトは下に落ちて、金属は傾いている。窓のあった部分は空洞で、そこから林がのぞく。グレーのコンクリートの空間が独特で、そこに風のようなものが吹いてわだかまっている。それは時間というものなのかもわからない。

 阿部浩子「轍」会員奨励賞。鋪装されたコンクリートの道が割られて、いま工事中で、そこにキャタピラーの跡が残っている。そんな一隅をしっかりと描いて、物質感までも表現する。対象と画家とのきわめて近い距離によって、なにかシュールな雰囲気があらわれる。

 吉田力「人物」。タンクトップに短パンの女性が木製の椅子に座っている。太った女性で、不思議な存在感を醸し出す。淡々と描きながら、量感がよくあらわれている。

 佐藤京子「憂愁」。裸婦が仰向けに横たわっている。足を上方に伸ばしている。上方から紙のようなものが落下している。それは十枚を超える様子で、不思議な気配である。その周りにドリッピングしたようなグレーや白や黒い飛沫が散っている。アンニュイな雰囲気のなかに深い心象的な世界が広がる。衣装を脱いで、自分自身と語りながら、イメージを手探りで探していくような、手触りが感じられる。ユニークな現代の女性の心象風景と言ってよい。

 小林欣子「糸あやつり」。お洒落な衣装をつけた若い女性。緑の帽子をかぶっている。その後ろに大きな満月があらわれている。その満月を背景にしてマリオネット(操り人形)が三体ほどぶら下がって、お互いに会話をしている。この若い女性の守り神のようなイメージも、そのマリオネットにはあるようだ。ロマンティックな物語性のあるコンポジション。

 鳥屋尾敬「パピルスの詩」。アラビアふうな衣装をまとった女性がパピルスを持って座っている。後ろにエジプトの壁画に出てくる女性が二体描かれている。パピルスの歴史はエジプトの歴史でもあるだろう。古代に対する思いを背景に現代の女性を描いて、情感をつくりだす。

 早川二三郎「階段のある街」。階段を上ると赤い入口があり、また階段を上るともう一つの入口がある。建物は五階か六階建ての古いもので、壁の漆喰が一部はげている。ヨーロッパのある街の情景を直線によるコンポジションによって表現する。直線による画面分割によって、きびきびとしたリズムが生まれる。

 下田秀子「壁」。漆喰の壁。黒いがっしりとした木製の扉。扉にはポスターが貼られて、その跡が残っている。音楽が画面から流れてくるような魅力がある。

 畑山明子「待つ」。白いペンキを塗った板塀の前に若い女性が立っている。ジーパン姿のすこしアンニュイな雰囲気の女性の全身像が面白い。

 山口操「静視」。不思議な空間表現である。二つの古い木箱を重ねて、上に紙風船が一つ。そばに小さな扇風機。枯れ葉と巻貝。そんなものを淡々と描いているのだが、それらのあいだにある空気感というのだろうか、空間に不思議な手触りが感じられる。画家の心の風がそこに吹いているような様子で、それが鑑賞者を引き寄せる。

 井上陽照「夏の花」。木製のテーブルの上に茶色い布を置き、その上に大きなたくさんの向日葵の差された花瓶がある。向日葵には強いエネルギーが感じられる。黄色いコクのある色彩。霊気のようなものさえも感じさせる向日葵の表現に注目した。

4室

 竹留一夫「梓・座像」。黒い上下に黒いストッキング。バックも黒く、青いテーブルの上にウルトラマリンのような青い色彩の中に黄金色の花が差されている。その差されている花瓶も黒い。黒というものが画家にとりついたような感じで、黒のヴァリエーションが不思議な力をもって画面に使われている。その中からまるで星のように輝く黄金色の花がそばにある。座ったこの若い女性の生命感を画面に引き寄せようと、画家は絵具を重ねている。

 南濤敬「想」。磨崖仏が二体。四天王のような立っているフォルムと座っている阿弥陀仏のような雰囲気の像。臼杵などの磨崖仏からヒントを得たのだろうか。岩から彫り出したフォルムが画面の中に浮かび上がる。緑がかったグレーやすこしピンクがかったグレー。独特の手触りの中に風化しながら、これを彫った当時の人々の信仰心ともいうべき力が画面から立ち上がってくる。

5室

 大野昌男「油壺のある静物」。古い長持のようなものの上に二つのガスランプ、染付けの大きな壺などが置かれている。布の上に赤と緑の九谷のような小さな壺があるが、これが油壺なのだろうか。手前に小さな木箱があって、その上に鉋と墨を引くための道具のようなものが置かれ、蠟燭のつけられた燭台がある。古いものたちを画家は描く。古いものたちが今日まで残っていて、それと関係をもった人々の長い歴史までも画家はここに描こうとする。古いものと会話するなかから生まれた静物たちである。そこに独特の親和的な世界があらわれる。

 磯崎俊光「立春」。巫女が榊を持って立っている。後ろには大きな樹木の幹があって、注連縄が張られている。古木と立春の儀式。ぐいぐいと対象を画面の上に描き起こす筆力がこの作品の魅力で、その筆力によってエネルギーがあらわれる。

 和田貢「幕間」。二人のピエロ。女性のピエロがウクレレを弾き、男性のピエロが歌っている。幕間のトレーニングである。誰も観客がいないところでトレーニングをする二人のピエロ。夫婦なのだろうか。そんな濃密な関係が二人のピエロの姿かたちから感じられる。人間心理にまで筆が届いているところが魅力である。背景には大きな布が貼られて、そこに光が当たり、すこしピンク色やジョンブリヤン系の色彩、あるいは青い影ができているのも、柔らかな雰囲気を醸し出す。いずれにしても、二人のピエロのフォルムが優れていて、そのフォルムの力がこの作品の見どころである。

 飯泉俊夫「杯を捧げる巫女」。杯を両手に持って前に差し出して立っている巫女。衣装の三角の形を組み合わせたフォルムに対して、丸い頭と短い足とが面白いコントラストをなす。真摯に厳粛な儀式を行っているかのごとき雰囲気。それをモノトーンの中に表現する。塗りこまれた絵具がまるで土器のようなマチエールをつくりだす。画家独特の精神的な表現で、祈りというもののイメージをよく表現する。

 松田茂「錦秋の山(飛彈)」。山が赤く或いはオレンジ色に染まっている。その向こうにすでに雪を抱いた山がのぞく。その山頂の雪の白と赤やオレンジ色の色彩、そしてあいだにある緑とが、強いエネルギーを表現する。美しい山というより、激しいパッションを感じさせる表現である。

 安増千枝子「窓辺」。緑の机。花瓶にミモザがさされている。そこに鳥が来てとまっている。大きなアコヤガイに葡萄が入れられている。海があり、そこに夕日が落ちている。白い鳥が羽ばたいている。画家の祈るような心持ちが引き寄せた深いイメージである。

 桐原美根子「ひまわり」会員賞。ギリシャふうな大きな壺に向日葵がさされている。かなりドライフラワーになっている。フォルムが力強い。残った黄色い花びらが、なにか燃えているかのようなイメージを醸し出す。

 坂恭子「熱帯の楽園」会員賞。蘭のような花が咲いている中につがいのインコのような鳥。ヤツデのような葉がいくつもうねうねと立ち上がって、この花や鳥を囲んでいる。フォルムは曲線でできて、お互いのフォルムが連携しながら濃厚なミステリアスなメロディを醸し出す。

6室

 堤和則「炭坑(ヤマ)の記憶」会友奨励賞・会員推挙。木製の古びたテーブルの上に綱やヘルメット、カンテラ、ショルダーバッグなどが置かれて、後ろの壁にはジーンズの上着やカンテラが吊るされている。床の上には一足の長靴。グレーを中心とした中にそれぞれの色相があらわれてくる。手触りがあって、一つひとつのものが呼吸するように表現されている。対象が画面の中で生きた表現になっているところがよい。

 今井明吉「北の番屋」。一階建ての粗末な番屋の建物。そばに引き揚げられた二艘の船。すこし雪が屋根にも地面にも積もっている。空は曇って、海が黒々と水平線まで続いている。そんな様子を描きながら、しみじみとした情感が感じられる。トタンのような屋根に積もった雪とそばの光景を見ると、そこに精神の光が当たり、それらを照らしているかのごとき錯覚を覚える。

 中熊則子「蔦」会員奨励賞。壁にツタが密集している。上下に窓が見える。ツタが画面全体を覆っていて、そのうねうねとしたフォルムと手触り、生命感ともいうべきものが、そのツタから感じられる。ユニークな表現である。

 高橋健一「生命」。妊娠した女性がくつろいだ雰囲気で座っている。膨らんだおなかに手を当てている。緑を中心とした色彩の中にこの女性の姿を描く。独特の色彩表現である。女性の姿が親密で、不思議なリアリティが感じられる。

7室

 柿本照子「十月」。フキに似た葉のあいだから茎が伸びて、黄色い菊のような花が咲いている。筆者は植物の名前がわからないので、見えたままを言うと、その黄色い花が周りのすこし調子の落ちた緑や茶色の中に実に落ち着いたしっとりとした雰囲気で咲いている様子が、この作品の魅力をなす。一隅にこの情景を発見し、それをまるで宝物のように表現している。

8室

 前田理英「杏奈」。緑が主調色となっている。椅子の座面も、ワンピースの衣装も、壁も床もそうである。そのしっとりとした調子がなにかエキゾティックな雰囲気を醸し出す。両手が膝の上に置かれているが、その指の様子など、ディテールの形が生き生きとしている。

 小出孚美子「思考」。頰杖をついて座っている女性。そばに横座りの女性がいて、その側面のフォルムが見える。頰杖をついている女性はパンツにシャツだが、横座りの女性はカラフルな着物を着ている。横座りの女性のフォルムはこの絵の中では物質感はない。その形だけは生き生きとしているが、物質としての存在ではなく、イメージの中で画面の中に現れてきたようだ。そんな画家の想像力ともいうべきものが作品の魅力をつくる。

 川瀬多真希「放下著」会友推挙。上方に蜘蛛の巣があって、細い糸が下りてきて、カラフルな大きな蜘蛛が下りてきている。その蜘蛛を眺めている羅漢。周りには萩が成育して、空には満月が昇っている。金平糖のような光が満月の周りに散っている。月に照らされた蜘蛛を眺める羅漢。放下著とは禅語である。ある修行者が趙州和尚に聞いた。私は長い修行の甲斐あって、自己本来の仏性を体得して無一物の消息を得ました。これから先、どう修行したらいいのでしょうかと。そうすると、趙州和尚が答えた。「放下著」と。放下著とは、捨てよ、という意味。その無一物の境界を見てくれといわんばかりの態度を見てとった趙州は、その無一物の境界も捨ててしまえとばかりに「放下著」と一喝したという。蜘蛛は網を張って昆虫などを捕食して食べているわけである。そんな蜘蛛に放下著と言ってもあまり話は進まないと思うのだが、この蜘蛛はカラフルで、女郎蜘蛛だろうか。生きているうえでの煩悩の象徴として女郎蜘蛛がここに置かれ、それに対して放下著と羅漢が語りかけている。それらの会話と関係なく、満月が昇り、金平糖のような星がその周りにまたたいている。その金平糖のような星は月の光でもあるのかもしれない。萩が咲き乱れている様子。グレーの夜の空間の中に不思議な会話やイメージが進行していく。

 長曽我部清子「日々」。茅葺きの屋根の下に柱と軒があって、その横に伸びていく梁にニンニクが吊るされている。そんな様子を茅葺きの屋根を画面の半分以上入れて、ユニークなコンポジションの中に描く。向こうの壁のあいだにすきまがあって、樹木のような緑の色彩が置かれているのもユニークなアクセントになっている。ニンニクの形も面白い。

9室

 近藤克子「里山」。斜面になって下方に下りていく先が盆地になっている。棚田になってだんだん下方に下りていくと、湖が見える。あいだに道があり、家が点々と見える。そんな様子を淡々と描きながら、不思議な魅力を放つ。それは懐かしさだと思う。里山には日本人の心のふるさとのようなイメージがあるのだろう。

 田口慶子「扉」。錆びた鉄の扉が画面の真ん中に描かれている。左のほうには唐辛子が吊るされている。トタン屋根が画面の上辺にのぞく。錆びた鉄の様子と鮮やかな赤やオレンジの色を見せる唐辛子とが面白く対照されている。

10室

 齊藤隆輝「昔の物語」。十二色環すべて使ったようなカラフルな布が三枚ほどテーブルに掛けられている。その中心に長い角をもつ山羊の頭蓋骨、ピエロの首、細長い壺などがあるのだが、山羊の頭蓋骨の後ろに大きな帆船が置かれ、地球儀などが置かれているのが面白く、それぞれのフォルムがクリアで、旅をしたりするようなイマジネーションがしぜんとそれぞれのものから伝わってくる。そのような強い波動が画面から感じられるところが面白い。

 市川弘子「青いランプのある静物」。白いテーブルに青いランプ、青い大きな瓶、透明な瓶、ガラスのコンポートに洋梨などが置かれている。壁と床が構成的に表現され、グレーの矩形を組み合わせたかたちになっている。その上方にブラックのポスター。線をうまく使いながら対象のフォルムを浮かび上がらせる。

 森本計一「セーヌ早朝」。セーヌ川に二艘の船が動いている。黒い船と白い船。橋がかかっていて、橋の向こうには大きな建物が連なっている。朝日が昇って、空の際をオレンジ色に染めている。その光が川面もキラキラと光らせる。中心のグレーの橋と建物の強い存在感を構成の軸にしながら、光というもののときめきともいうべきものを表現する。

11室

 開原順子「EMILY」会員推挙。赤い薔薇の花のつけられたワンピースを着た女性が立っている。ドレッシーなワンピース。両手を前で重ねている。周りには上方に伸びていく蔓のような植物が描かれている。一種装飾的な力を画面に引き寄せながら、独特の生命感を表現する。女性のフォルムも力強い。

 住井ますみ「落ち葉の頃には」。誰も乗っていないブランコが近景に吊るされている。中景には滑り台。樹木の影と思われるものがその地面の上に伸びている。斜光線のすこし傾いた光がこの公園全体を染めている。一つひとつのものを描きながら、時間というものの動いていく気配を画家は表現する。トーンが繊細で、それがこの作品の絵画性だと思う。

12室

 伊藤久美子「ひまわりの行方」。フラットな平面的な処理で、花瓶の中に二十本ほどの枯れた向日葵がさされている様子、あるいは左端の風見鶏の形、黒い桟の向こうにある空、ベージュの壁などを組み合わせながら、独特の韻律をつくる。向日葵の丸い楕円状のフォルムが集まった様子と風によってクルクル回る風見鶏が呼応して、ユーモラスで楽しい空間があらわれる。

 鈴木きみ子「フェズの鞣し革工場」。大きな岩のようなものの中がくり抜かれて、溶剤や色彩が入れられている革工場。それが画面の中心にあって、そこで作業する人間の姿。大きな棒のようなものを中に入れてなめしている。右のほうには赤い上衣を着たもう一人の人がいる。後ろの建物などと相まって、明るい色調の中に微妙に色彩が変化しながらそれぞれの色彩をハーモナイズする。人間たちも井戸のような中の色素も、刻々と時を刻みながら生きて動いていくようなリズム感、あるいは気配がよく描かれているところが面白い。

 繪内禮一「追憶(大台ケ原山にて)」。倒壊した樹木の幹やそこで切断されてしまった根のあたりなどにびっしりと苔がついている。先だって台風で吉野が被害に遭った跡なのだろう。そんな様子の中に鹿が現れて鑑賞者のほうを眺めている。そういった様子がクリアなフォルムによって表現される。クリアなかたちがお互いに呼応しながら、自然のもつ神秘的なイメージがあらわれる。黒褐色と緑との対比も鮮やか。

 村松泰弘「夏の渓流」会友推挙。大小の岩が散乱する中に渓流が流れてくる。近景では段差の中に滝のように落ちてきている場所もある。動いてやまない水をリアルに表現する。水の動きと岩の重量感をもったフォルムとが細密的に表現されて、ユニークな空間が生まれる。

 廣田純男「路地裏」。ベージュや褐色の色彩がお互いに滲むようにハーモナイズして、なにかノスタルジックな雰囲気が生まれる。上方に鐘楼があるが、その鐘が響いてくるような懐かしい中世の街である。

13室

 田原常崇「刻」。ガード下に男が立っている。ガードの中は暗く、隙間から光が差し込んでいる。そういったシチュエーションの中に一人の人間を立たせることによって、ドラマ性が生まれる。

 原田富士子「花の舞」。モノトーンによって表現されている。焦茶色を中心とした色彩が駆使されているのだが、花が満開の様子がよく描かれて臨場感がある。大きなボリューム感がつかまれているところがよい。

14室

 清野年子「華」。樽にドライフラワーが生けられている。向日葵や紫陽花、ホオズキなど。いずれも黄色やオレンジ色、紫の色彩で、暖色系。それらが集合すると華やかな絢爛たるイメージがあらわれる。

15室

 髙林厚子「船泊」。白い船が繫留されている。右のほうは床が上げられた民家が続いているようだ。そんな下町の一隅を正面から描いている。ディテールにこだわらず、全体をよく見ながら、水のもつ量感、船の大きさなどをよく表現する。

16室

 石濱武志「川沿いの家」。木造の家が立ち並んでいる。電信柱や赤いポスト。窓の様子。そして、その道の先は低い柵があるが、その下には運河のような様子で水が流れている。ナイフをうまく使いこなしてマチエールをつくりながら、微妙なトーンの変化を表現する。しぜんと生活感のようなものが醸し出されているところも魅力。

 宮里洋詔「昭和23年4月」。ランドセルを背負って、胸に「みやさとひろつぐ」と平仮名で名前を描いた小学生の姿。古いセピア色の調子だから、写真を見ながら描いたのだろう。不思議なリアリティが感じられる。時が過ぎても決して消滅しない、ある存在の重みともいうべきものが表現される。

 小林幸子「ひととき」。カフェの外に座る人々。入口に男性が立っている。灰白色、褐色、肌色などの色彩を使いながら、ゆったりとしたカフェの一隅を生き生きと描く。

 林こうじ「ある刻」会員推挙。漆喰の壁。低い建物の入口あたりに腰をかけて縫い物をする老婆。そばに白い猫がいる。淡々と描きながら、しぜんと物語が生まれる。

17室

 余田滋子「ふたり(兄・弟)」。兄と弟が並んでいるが、兄はずいぶん体が大きく、弟はずいぶん小さい。そんな様子が黄土色を中心として描かれている。しっとりとした中に内側から柔らかな光が差しているような雰囲気で、不思議な精神性を感じる。マチエールもよい。

 畑公雄「古い人形」。操り人形が箱に座っている。ジョーカーの人形。手前にトランペット、ヨーヨー、紙風船が置かれている。人形であるが、なにかきわめて人間のようなイメージ。画家のイメージの強さがそのような存在感をこの人形に与えている。語りかけてくるものがある。

 古閑博文「まっすぐな道でさみしい(山頭火)」。中景に山頭火の後ろ姿が見える。笠をつけて杖を持っている。周りは枯れたような雑草で、赤や茶褐色の色彩。道は白く向こうに続いている。遠景に赤い色彩が置かれているのは、ノスタルジーの表現だろうか。黒い雲にすこし隠れて日が白く描かれて、夕方なのだろう、山頭火の影は長い。そばに道祖神が二体。ぐいぐいと描きこむ。ひとつのイメージの世界を表現する。

19室

 北田民子「CAFE BAR」。ロートレックのポスターの貼られた赤い扉。手前の樽の上にワインやシャンパン、赤い液体の入ったグラス。色彩家で、のびのびとフォルムをつくる。

20室

 添田光代「Matera」。上方にいくに従って地面が高くなって、そこに建物が建てられ、それら全体でハーモナイズするものがある。柔らかな光に満ちているような色調。上方に教会が立っている。一つひとつのフォルムが面白く、それぞれ人間的な手触りが感じられる。

23室

 天達章吾「坊ノ津」。近景からすこし下がっていくと、小さな湾があって、そこに漁船が繫留されている。その向こうに民家が立ち並んでいる。近景の右は小高い崖になっていて、左のコーナーには電信柱があり、瓦屋根の民家がある。それほど色数は使っていないが、微妙な色調の変化があり、全体でなにか緊密に響いてくるものがある。いわば詩情と言ってよいものが画面から立ち上がってくる。道の下がったところに二人の人間(男女)が描かれているのも、独特の気配を示す。

27室

 田中利勝「代搔き始まる」。水田に水が張られている。それが空を映してグレーに輝いている。あいだに民家が点々とある。背後は暗い褐色の地面と緑。その向こう、山の下方にこんもりとした暗い林と白い建物が見える。雲の移ろいによって明暗の変化ができるのだろう。色彩感覚がよく、モダンな雰囲気があらわれる。

28室

 岡野博文「追憶」。黄土色、赤、褐色、イエローオーカー、黒、ビリジャンなどを重ねた色彩。上方に大きな宮殿のような建物が見える。下方には民家があるようだ。それを俯瞰した構図から描いている。一つひとつのフォルムがお互いに関係をもちながら、全体で絵具の渦のような強いムーヴマンがあらわれている。心象風景である。

 髙見敏子「屋根」。ネープルスイエローにバーントシェンナを混ぜたような屋根の色彩。白い壁。そのあいだから塔が立ち上がり、鐘楼が見える。揺れ動くような建物のフォルム、その集合した表情が面白いし、生き生きとしている。

第46回新美展

(4月24日〜4月30日/東京都美術館)

文/紺世邦章

1室

 猿見田正義「空……冨士 Ⅱ(黒)」。黒一色の空間に、白い輪郭を取りながらシンプルな台形で表現された大地と富士が描かれる。山裾の円形は線に勢いがあって、流れていく雲を表現しているようである。モチーフは昨年同様であるが、色数を少なくしていることが今作の特徴である。たとえば昨年の富士が青や赤の縦に伸びるストロークで描かれていたのに対し、今作の富士は横向きのストロークを用いて黒の濃淡のみで描かれている。さらに円形の内部が赤色に塗られておらず、後景の富士の色が透けて見えるようになっている。これらによって今作では、静謐な空間に鎮座する富士のどっしりとした存在感が強調され、それと同時にその山裾を流れていく雲の動きが強く感じられるようになっている。

 勝間田英幸「memory III」。少女が窓から射す光を見つめている。肩から上が描かれていて、画面の大部分は少女の頭部である。一部画面に入っている白い服と髪の毛の描写は非常に細密で、それぞれの柔らかな質感が再現されている。加えて画面の中央を占める少女のきめ細やかな肌は、光によって生じる微妙な差が丁寧に描き分けられている。とりわけ首から頬にかけて当たる反射光に入れられた僅かな青が、日射しの暖色の中にあって鑑賞者の目を引くようになっている。

 山本捷「黄昏のフィレンツェ」内閣総理大臣賞。夕日に照らされた街並み。画面上は赤、下は暗く、紫や黒で彩られる。動きのある青や黒の線で描いている。縦横に引かれた様々な色の線は空間に広がりや奥行きを作り出していて、また所々明るく鮮やかな緑色が入れられていることがアクセントになって、色彩を豊かにしている。

 二村洋子「紫音のハーモニー」文部科学大臣賞。赤と青の下地に、シンプルに空間とモチーフが表現される。歌手が歌い出すと、赤と青の協調の中から緑の線で歌声があらわされるようだ。

 松原紀子「『ある光景』─みつめる」。クラゲを見つめる人々と、その姿が反射した水槽を描く。水槽に映った人々はまるで水中にいるようだ。またクラゲは触手は一本一本描き込まれ、人々の関心をよそにゆっくりと水中を漂っている。おもしろい状況を水族館に発見した画家の着眼点に注目した。

 浜崎清治「もみじの出向い」秀作賞。秋の野山と集落が描かれている。木々には赤や黄色、青などの色が散りばめられているが、ところどころ白が入れられているため、画面全体はすっきりとした印象になっている。近くで見ると集落が木々の色の中に一体化するが、離れて見ると青い屋根の建物や茅葺屋根の建物の形ががはっきりと見えてくるのがおもしろい。

3室

 矢野口靖「凜」優秀賞。剣道をしている少女の姿である。少女の周りには木馬や菖蒲、鞠が青紫で、葉が赤で描かれている。思春期の少女の情熱や不安が混ざり合っているような心象風景のなかで、懸命に剣道に打ち込んでいる姿が凛々しく表現されている。

第89回国展

(4月29日〜5月11日/国立新美術館)

文/高山淳・磯部靖

1室

 稲垣考二「崖顔」。アルチンボルドふうな表現。五〇〇号と思われる画面全体にまず女の顔があらわれる。ところが、その顔にネットが張られ、鼻は乳房になり、鼻の上方にはもう一人の女の顔が浮かぶ。両側にも女性の顔が浮かび、巨大な女性のイメージが崖全体と重なり、その崖の上で遊んでいたり、よじ上っていたりする男女がいる。下方には三人の裸の女が座っていて、そのさらに下方にも今度は七人の女性の裸がある。よく雛段に五人囃子、三人官女、いちばん上にお内裏さまがいるが、それを援用したような画家独特のコンポジション。画家の筆力は圧倒的で、とにかくその筆力によってこの世界は表現されている。画家にとって女性はきわめて強いコンプレックスの存在のようだ。女性でできた崖の上に蟻のようにとりついて上っている男女の様子を見ると、しかもそこにはほとんど秩序らしきものはなく、人間を遠く蟻のように眺める視点と、それをピックアップすると女の部分になってあらわれてくるといったコンポジションが、異様な迫力をもって迫ってくる。(高山淳)

 大森啓「Landscape」。積木を積んだようなフォルム。それによって画面も長方形ではなく、その積木の形に沿って切り抜かれている。上には家や船、電車、あるいはコーヒーカップ、煙突、飛行機、樹木などがある。社会を構成する要素をこのようなかたちで標本ふうに積木の上に並べながら、全体で一つの情報をメッセージする。そして、お互い同士はとくに関係をもたない様子が、いかにも今日的なコンポジションと言ってよい。(高山淳)

 安原容子「待て!」。浴槽の中に大観覧車や富士山や門や家などが浸かって、倒壊しつつある。エッフェル塔も見える。手前に男と女が遊んでいる。二人とも林檎を持っているから、アダムとイヴのイメージだろう。女はすでに林檎をかじったようだ。その背後の浴槽の中の悲惨な現実。水に浸かったこの都市や山の様子は危機が近づいているわけだが、それに対して、それに見向きもせずに戯れる男女。強い図像的な表現である。(高山淳)

 安達博文「時の符─XVII・XVIII」。二つの顔が描かれている。左のほうの眼鏡にはヨーロッパの風景や遺跡が映っている。その鼻のところに赤いシャツのジーパンをはいた男の姿があらわれる。向かって右の男のサングラスには、壊れて燃えている難破した船。そして新幹線のような電車の颯爽たる姿。そして、鼻のところに女の姿が浮かぶ。耳が目のようにいくつも浮かんでいる。情報化社会の今日、目や耳に見える映像が画面の中のある意味の主役をなしている。そして、カップルと思われる青年と女性とがあらわれて、鼻の上に男は女を、女は男を置いているといった様子。現代の情報化社会の人間像を表現する。(高山淳)

 梅澤希人「MARE」。中心に象が立っている様子を正面から眺めている。そのそばにネクタイ姿の作者と思われる人間が浮かんでいる。後ろに水鳥のようなものが見える。右のほうにはサボテンのような、上方が広くなって下方ですぼまっていくフォルムが三つ。ほとんどナンセンスな画面であるが、画家のイメージの中では大切なものが集められて、不思議な親密な空間が生まれている。その空間のクオリティがこの作品の絵画性だろう。(高山淳)

 福井路可「夜の風、明日の海─15・4─」。両側に夜の風の世界があらわれ、真ん中に明日の海があらわれる。明日の海はピンクに輝いていて、朝日を受けて輝いているようだ。両側は夜の闇の中の、いわば苦悩の時間。左には男が描かれていたのだが、その中から女のボディが現れつつある。右のほうは、女性のフォルムの中から男のへそのあたりのボディが現れつつある。男と女がそのように一つのフォルムの中に絡み合いながら出る様子もまた不思議な悩ましい表現である。板目を面白く扱いながら、時間というものの淀むような、ひずむようなコンディションがあらわれ、上方には頭を垂れた二つの顔があらわれる。それらを両翼に置いて、中心には希望の朝の光が海に差す様子が生き生きと表現される。(高山淳)

 野々宮恒人「時は流れる」。三枚の画面を組み合わせたもの。右下の絵では、少年が病気になっているようだ。それを兄が介護している。上方には、母親と父親ともう一人の少年が描かれている。母親は薔薇の花を持っている。パイプをふかしている父親。横になった少年の腹部に本があって、そのそばに天使が現れているのが面白い。この少年は右上の少年と一緒で、そこでは本を読んでいる。元気なときの少年と病気のときの少年が二人描かれているようだ。そんな様子で絵解きをしていくと、これら三枚の中に物語が流れていることがわかる。自由なデフォルメされたフォルムによって、深いノンシャランな物語があらわれる。劇的なものではなく、なんとなく日常のなかで動いていく時間の流れのなかに人間たちが乗って、独特の、いわば絵巻的な空間を一つの画面の中に収めるといったあんばいである。ユニークな才能を感じる。(高山淳)

 神尾和由「UNA GIORNATA(朝)・UNA GIORNATA(昼)・UNA GIORNATA(夕夜)」。朝と昼、夕夜という四枚の作品。右下のスケッチブックに描いている状況が朝で、日が昇った様子。上方に行くと昼の画面が二つあらわれ、左下がだんだんと日が落ちつつある雰囲気。黄土系の色彩に独特の安心感がある。そして、家や遺跡などがそこに置かれ、同伴者のように馬や犬があらわれる。ゆったりとした空間と時間のなかに、いわば瞬間的な時間ではなく、大きな歴史的な時間の流れが引き寄せられ、それと人の働いたり動いたりする様子が重ねられて、独特である。(高山淳)

 小川浩司「Zou-2015 K 深川万年橋下・トルコ国境より」。左は深川万年橋の光景。右はトルコ国境で、ボスポラス海峡と思われる空間があらわれる。そこにも鉄の橋がアーチ状にかけられて、二つの橋が対照される。両側に象がいて、象の牙が黄色く輝いている。黄色がこの絵の中の色彩として、たとえば深川万年橋下では橋や地上の光景に黄色が使われていて、遠くから見てもきらきらとした雰囲気を与える。空には月が、右のトルコの陸橋の上には赤い不思議なシンボルがあらわれる。イメージの転換によってどんどん空間が発展していくようだ。右のボスポラス海峡の中に浮かぶ灯台のようなイメージが、傾きながらいくつもあらわれているのも面白い。この象は夢を見ているようだ。象は百歳まで生きるそうだが、夢を見ながら、夢の中でトルコと万年橋とがお互いにリンクする。そんな不思議な夢想的な空間を、青をバックにして生き生きと描いた。(高山淳)

2室

 塩川髙敏「浮游 '15」。水の中に女性がいて、歩いたり、浮かんでいたりする。水と女性とが不思議な親和力をみせる。まるで赤ん坊が羊水の中にいるような安息感のなかの女性たちのフォルムが面白い。(高山淳)

 津地威汎「航跡…海の歌…」。夜の波に朝日がいま差し込んだ。それによって夜が後退して、日が満ちてくる。そんな二つの時間の境界のときの海の表情のようだ。キラキラとした光がまさに海を讃歌するようなイメージを与える。暗い部分は夜で、その夜のわだかまりが表現される。そして、航跡がそのあいだに不思議な陰影を、波をつくっていく。夜と朝との中間に航跡があらわれ、そこに光が差し込むといった四重奏ともいうべき空間の広がり、その表現が実に豪華であると同時に、また不思議な陰影の中に表現される。海という巨大な肉体が存在する。夜の肉体、朝のときの肉体、そんな二つが渾然と溶け合うような中に澪があらわれる。船が進んでいく。夜が刻々と時間の推移につれて表情を変えていくなかに澪が現れ、遠ざかっていく。(高山淳)

 井上悟「陽ざしを楽しむひとたち」。ワインを飲む男。テーブルに座る男女。白い壁。ブルーの扉。案内をするボーイ。赤いシャツの男。原色を使いながら、色面によるコンポジション。自由にフォルムを組み合わせる。フォルムはそのまま色彩となってあらわれ、全体で空間が生まれる。顔は白く塗られ、一種の仮面劇のようなものが進行していく。(高山淳)

 島田章三「鎌倉にひとり」。実に強いイメージがフォルムを引き寄せる。駅のホームに立つ女性。ショルダーバッグを肩に掛けた黒髪の女性の横顔である。そばに線路があって、緑の電車がこちらに向かってくる。そこよりすこし下のほうに車が一台走ってくる。後ろにトンネルが見える。左は海で、波が寄せてくる様子を二つの白い波頭のフォルムによって表現する。その上方には空と接する部分にブルーの色面が置かれて、これも海を表す。明暗の激しいコントラスト。車の後ろが三角形の明るさで切り取られているのだが。道を含めて線路まで。同じ三角形の色面が、女性の立つ背後のホームにつくられている。その明るいグレーの三角形によって、この黒褐色の画面が活性化する。それによって女性の姿が浮かび上がってくるような力がある。この三角の色面が女性を支えている部分があるだろう。上方にY字形に立つ柱が屋根を支え、ホームの上方の時計のようなもののイメージを吊るしている。重層的な空間。つまり、現象的に場所を説明するのではなく、イメージの中にあるホーム、電車、道、海などのものを一つの画面の中に集めて、異次元、異時間のものが一つの造形上の要素としてまとめられて、独特の強い詩的な空間をつくりあげる。そういった画家のパッショネートな表現の力が、実にこの作品の中にあらわれていると思う。道路やホームの一部、あるいはバックなどにハッチングするようにナイフで削った跡があるのも、なにか画家のパッションを思わせて面白い。(高山淳)

 大沼映夫「白彩降臨」。縦が九つ、左右が十五の枠に分割され、つまり百三十五の枠の中に上方から白い絵具が垂れてきているといった様子。まさに白彩降臨である。そのグレーの中に微妙な変化がつくられて、全体で不思議なハーモニーがあらわれる。(高山淳)

 佐々木豊「まつり」。画面の前面にピンクのドレスを着てヴァイオリンを弾いている女性。後ろは海で、巨大な魚があらわれている。小さな魚も泳いでいる。その中に死体のような老人の泳いでいる様子があらわれる。対岸には女たちが合唱するように両手を上げて、左のほうには笠をかぶって踊っている女性たち。女性たちが持ち上げているのは御神輿で、その上に男と女がいる。手前には裸の男が四つん這いになって、そこに女が乗っている。女性のほうが強い存在。画家のフェミニスティックなイメージが激しく表現される。海というと、二〇一一年に日本を襲った津波を思い起こすのだが、そういった津波のエネルギーさえも画家は絵の中のエネルギーに変えようとするかのようだ。しかし、その経験は深い。海という恐ろしい存在が画面の半分を覆い、後ろにお祭りがあらわれ、男を従える女のイメージがあらわれる。ヴァイオリンを奏でる女性。背後の祭りの様子を見ると、お囃子や合唱のようなイメージが生まれるはずなのだが、手前のソロで弾くヴァイオリンのメロディのように、ソロの音楽が流れてくるような不思議な哀愁の表情が、この力強いコンポジションの中にあらわれているところが面白く思われる。(高山淳)

 柏健「現出へ向かって」。裸の男が渦巻状の輪の中を走っている。上方には画家の亡くした妻の顔が浮かび上がる。左のほうに一つ、右のほうに三つのフォルムが、ジャングルジムの中に浮かび上がる。あいだに車のバンパーのようなフォルムも見える。画家はストイックなイメージを常に男性に与える。このリングの中を走る男も社会の規制のなか、我慢して働いている男のイメージが浮かぶ。それに対して女性の顔にはなにか憧れのようなロマンティックな雰囲気が漂うのだが、すでに彼女はいない。中心に男がMRIのドームの中に頭を入れているようなコンディションが表現されているのも面白い。(高山淳)

 前田昌彦「いざない '15─琉」。鉄塔の上にレーダーのようなものがのぞく。戦闘機が飛んでいる。画面のほとんどは樹木のシルエット。裸木の枝が伸びていく様子。下方は水になっていて、花がついているようだが、それが全体に透明な霧のような様子で表現されている。空は青く、白い雲が浮かんでいる。木の様子が神経にさわってくるような不思議な絡み方をしている。現代という時代は様々なものが絡み合いながら社会が構成されている。すこし憂鬱な風景が広がる。(高山淳)

 花田勝太郎「'15-3 Specimen A.B」。たくさんの雲が浮かんでいる。雲の中心が凹んでピンクの漏斗のような形で、それが連続している様子はなにか不思議な雰囲気である。下方にシルエットに樹木が並んでいる。手前には水があるようだ。たとえばインドのガンジス川のような大河のある風景。そこでは雲も不思議な形で変容していくだろう。一種ヒンドゥー教的な、独特のねちっこいイメージが風景全体に表現されているところが面白い。(高山淳)

 久保田裕「ひろしま」。瀬戸内海のうねるようなゆるやかな波の表情が手前に描かれ、はるか向こうにはたくさんの島が見える。ところどころノリやカキの養殖場のようなものが見える。空も海も黄金色に染まっている。遠景は霞んでいる。空の下に海が広がる。そのゆったりとした表情が画面全体の独特の温和な不思議な魅力を引き寄せる。(高山淳)

 本田正史「移ろう流れ」。アフリカの仮面のようなフォルムを上方に組み合わせている。そこからカーヴしながら下方に動いていくかたち。下方から上方に向かうかたち。それらが強い独特の波動をつくり、中心がすこしあけられている。日本の昔は陰暦、月の暦であったが、そのような時間のなかに過ぎていくようなイメージがあらわれている。エネルギッシュなアフリカふうな仮面であるにもかかわらず、陰翳礼讃といった雰囲気があらわれているところが面白い。(高山淳)

3室

 大島幸夫「竹林…旭光」。独特のリズムで竹が左右に生えている。緑、赤、青の竹で、強い韻律をつくる。その向こうは両側が崖になった、海のような、あるいは大河のような存在で、太陽がいま昇ってきた。見ていると、それが月に見えて、かぐや姫の物語を思い起こす。清々しいような不思議な空間が竹の向こうに生まれている。朝日がそのようなイメージをつくるのだろうが、同時に、それは満月と重なって不思議なロマンを引き寄せるようだ。(高山淳)

 多納三勢「痕跡の森」。ロシアのスモレンスク近郊にポーランド人将校一万人余が虐殺されたカチンの森という場所があるが、そんなことを思い起こした。おびただしい死体が横たわっている。そして、上方に犬のようなフォルムが見える。その右後ろにも相似形のフォルムがあらわれている。死のモニュマン、あるいは死の番人のような雰囲気。左のほうには人間の座った背中のようなフォルム。下方には横たわったフォルム。そして、近景に植物の茎から広がる葉のようなイメージ。紫や緑によって、独特の色彩があらわれる。「痕跡の森」という題名だが、人間の営為の跡が、激しい殺戮の跡が眼前に広がる。(高山淳)

 西川ひろみ「場 その先」。樹木の両側に少年のようなイメージがあらわれている。樹木の周りに画家の幻視した存在である。一本足の少年が浮かんでいる。白日夢のようなイメージ。背後の樹木の緑の溶け込むような色彩と周りのベージュの色彩とがお互いに混じりあいながら、不思議な幻想的な情景を支える。(高山淳)

 徳弘亜男「樹冠・下和田の森」。樹木が強い逆光の中に浮かび上がる。真上を画家は眺めて、空の明るいグレーに樹木たちが逆光になっている。それが万華鏡ふうに表現されて、不思議な力を獲得する。シルエットが強いリアリティをもって迫ってくる。(高山淳)

 山口静治「彷徨する騎士─ドン・キホーテ─」。ライトレッドのような被膜力の強い絵具が空にも地面にも使われている。そして、地平線際に小さなお城などがかなりクリアに緻密に描かれている。いくつかのシーンをそこで連結させて、スペインの風土を表す。それを背景にして、黒い馬に乗ったドン・キホーテ。手前にはサボテンがあり、その手前に拡大したドン・キホーテの顔が見える。哀愁に満ちたその表情が面白い。(高山淳)

 弥富節子「パンドラの箱」。イタリアのピサにカンポ・サントという納骨堂がある。そこの壁画を見て、画家は強いインスパイアを受けたそうだ。右のほうの座った女性の背後にある像。左のほうの石に座ってパソコンを眺めている少女の手前にある像は、その壁画からイメージされた。左下にはたくさんの死につつある人の姿。右のほうには天使も加わった戦争の場面。「死の勝利」という題名の壁画で、死があらゆるところに満ちている様子が描かれている。左のほうの画面では、その死に向かう人々の群像を後ろにして、パソコンを眺める若い女性の姿が描かれている。右のほうには黒いスカートをはいた女性がパンドラの箱をいまあけている。それによって、不信や様々な悪が世の中に飛び散るわけだが、最後に出てきたのが希望だといわれている。天使が中に入って戦うのは希望を求めてのことだろう。激しい争いの壁画。その優雅ともいえるフレスコのフォルムを画面に生かしている。じっと見ていると、左の女性の座っている石の床の亀裂がまるでアミダクジのような雰囲気で、渾沌とした人類の未来を思わせる。このフレスコを描いた中世の時代から長い時間が過ぎて今日がある。左の座っている女性の白い敷石が右のほうに侵入してきているのに対して、右の座っている女性の地面のフォルムが左に向かって、二つの地面がそれぞれの時代を表し、二つの時間が、相手方の時間に侵入しているように感じられるのが面白い。背後の壁画はカンポ・サントの壁画なのだが、柔らかな光が画面に引き寄せられて、それぞれのフォルムが浮かび上がるように表現されている。中世と現代とがお互いに語り合いながら画面から静かに立ち上がってくるように思われるところも面白い。(高山淳)

 増地保男「隙」。グラスでワインを飲む男。立ってミエを切っているような男。右のほうの線描きの顔。下方の髪の逆立った女。赤いバックに自由に強い生気あるフォルムをつくる。プリミティヴな表現が逆に造形の強さとなっている。(高山淳)

 松岡滋「イーゼルのある室内風景」。H型イーゼルが室内に置かれて、周りにソファや台。台の上には瓶や筆などが置かれている。扉があけられて、その向こうに道がジグザグに続く。冬景色のようで、枯れた草、一軒の家、山が見える。戸外の色調と室内の色調とが統一されて、そのまま二つの空間はリンクして広がりがある。と同時に、室内には室内の閉じられた空間が生まれている。閉じられた空間と開かれた空間がリンクしながら、それら全体が大きく画面という閉じられた空間の中に引き寄せられて、しっとりとした情感を醸し出す。(高山淳)

 萩原敏孝「祈りととまどい」。木彫のような石像のような二人の女性。手を口元に当てている。向かって左の女性は、その左手で隣の右手を摑んでいるから、強い連帯感がある。よく見ると、左が娘で、向かって右側が母親かもわからない。左のほうには頭部で五つのシーンがあらわれ、下方には半ばヌードの腿までのフォルムがあらわれている。なにか女性の運命、女性の悲しみといったイメージがしぜんと画面から伝わってくる。彫刻的なフォルムによって、そのような深い感情表現のコンポジションがつくられている。ユニークな才能である。(高山淳)

4室

 新井延彦「室内」。左下にフードをかぶった少年の顔が大きく描かれている。その横には犬がこちらを眺めている。後ろの白い敷布の上に年とった猫が一匹いる。なにか不思議な表情で、すでにこの世にはいない猫が現れたようなあやしい雰囲気もある。上方のテーブルの上にはパイプ、サクランボ、あるいは花瓶にさされたドライフラワー、古いコーヒーミルなどが置かれている。右のほうにはポットや瓶、その下にはくず籠が緑とグレーの蓋つきで描かれている。身辺にあるものを一つひとつ集めて丁寧にここに表現する。見ていると、その描かれているものは、実際にあるものもあれば、すでに消えてしまったものもあるようだ。それらを集めることによって、空間のみならず時間というものも画面の中に引き寄せられる。落ち着いた温和な室内空間の表現であるが、そのようなコンポジションになっているところが面白い。(高山淳)

 蝦名協子「人・希」。二枚の対の作品で、左のほうは裸のトルソと屈み込んだ女性のフォルム。上方に教会や塔や階段が振子のように傾いて揺れている。これは縦型の画面だが、向かって右のほうは横型のFの画面で、中心に三つの顔が描かれている。正面とシルエットの側面、そして俯いた顔。やはり、その周りを教会の鐘楼や塔などが、こちらは周りにそれらが描かれて、まるで時計の針のようにこの女性の周りを取り囲んでいる。画家はクリスチャンである。カソリック的な信仰のイメージ。教会と自分、聖なるものと地上の存在といったイメージを、このようなコンポジションの中に曼陀羅状に表現する。ところどころ使われた赤や紫、青などの色彩が輝くようだ。と同時に、空間の中のブルーや黄土系の色彩も澄んだもので、独特の形而上的な空間が背後にあらわれているところが面白い。(高山淳)

 山村博男「マテーラ(Ⅰ)」。マテーラは、一万年ほど前の洞窟に暮らしていた時代から今日までの歴史が、その地域に見ることのできる不思議な街である。このマテーラは、上方に鐘楼のある教会を置いて、下方は地面になって、いま暮らしている人々の建物が密集している様子を表現している。朝の空間のようだ。光が差し込んで神々しい雰囲気。青い空の中にジョンブリヤンなどの色彩が入れられ、壁にも黄色などの色彩が点じられて、キラキラ黄金色に輝く街のイメージを面白く表現する。優れたデッサン家で、対象を静的なものではなく、動的な動きのあるものに表現しているところが面白い。(高山淳)

 川井一義「時の流れ─'15」。横長の三つの場面が上下に描かれている。背景は銀河のような夜空を連想する。三つの横長の画面には様々な家と道、樹木などが描かれて、細かく振動しているような雰囲気である。「時の流れ」という題名だが、横山大観に「生々流転」という絵巻がある。それは山の小さな川の水の流れ始めから始まって大河に行くまでの景色の変化、そして最後は水から水蒸気が昇っていってもとに戻るといった内容だが、これは淡い黄色やブルー、緑などの色彩が入れられながら、家の様子を遠くから眺めている。その振動する様子は、たとえば四年前の津波のような災害もまた連想する。遠くから見た家の様子はなにか切ないような雰囲気を感じさせる。その様子は人間の儚さや運命といったイメージをしぜんに想起させる。時間の推移につれて家の様子が変化していくといった様子で、その家も堅牢なものではなく、いつ壊れるかわからないような、そんな繊細な雰囲気のなかにキューブなかたちで傾いたりしながら、音譜のように画面に表現されて、地上の風景をいとおしく感じさせるようなコンポジションになっている。(高山淳)

 浅野アキラ「望郷。」。左のほうに煙突のある工場のような建物。右のほうに夫婦と子供、三人の群像。空を見ると、三日月が出ている。煙突からは煙が出て、この家族の上を覆っている。褐色の道。フォルムも単純化して、しっかりと大づかみに描きながら繊細なニュアンスを失わない。街の中にいる三人の家族が聖なる存在のように表現されている。(高山淳)

 肥沼守「植物公園の午後」。フレスコによる大画面である。横長の楕円状の中にたくさんの花が咲いている。中にゾウやキリンがいるから不思議である。花の中に二人の人間の顔が浮かび上がる。その様子は花が人間に変身して現われてきたような楽しさである。手前には、爬虫類の頭部が人間の顔になったり、花の中の蕊が女性の顔になったりしているフォルムもあらわれてくる。明るい原色を使いながら、そのような植物と人間、あるいは昆虫やゾウや両生類などもまた人間との境界をなくしてここに集めて、それぞれがハーモナイズする独特の物語を表現する。ゆったりとしたコンポジションが力強い空間をつくる。(高山淳)

5室

 小池亮一「黒と黒の間」。ジェッソのような白い絵具を塗った背景。たくさんの薔薇の花が伸びている。オールオーバーに薔薇の花が咲いている。その花は茎の先につけられているのだが、茎は楕円状の穴から現れている。そばの穴には女性の上半身が浮かんでいる。それぞれ女性の顔は変わっているが、上半身であることは共通していて、大小、あるいは傾いたりしながら現れている。花と女性の上半身とが共通した同じベースのうえに表現されているところが面白い。線というものは調子とは違った独特の強さがある。いわば図像としての強さで、その図像が強いイメージを引き寄せる。薔薇の花は枯れても、女性はどんどん成長していくといった、そんな不思議な二つの時間軸がこの作品の強さをつくるようだ。(高山淳)

 堤建二「たびのさがしもの」。若いカップルが旅をしている。左が女性で、右が男性だろう。男はバッグを持ってコートを着て、右手に遠眼鏡を持って遠くを眺めている。背景のしっとりとしたベージュに褐色を混ぜたような色彩。後ろに柵がある。木を地面に打ち込んで、それを鉄線で結んでいる。倒壊した椅子や机が転がっている。さすらうイメージを淡々と描きながら、強く鑑賞者のほうに伝わってくるものがある。ペアのこの単純でありながら不思議な形。横顔と正面向きの顔を重ねたような顔のフォルムも実に深いイメージだと思う。しっとりとしたトーンがまた魅力。(高山淳)

 安富信也「出エジプト記」。八枚の画面からなっている。中央下の二つの大きな作品の左側から始まる、モーセの一生が描かれている。最初は「モーセの生い立ち」、その右側の「モーセの召命」、そして反時計回りに右下の「アロンの杖」、右上の「過越」、左に向かって、「出エジプト」、「海の奇跡」、「ホレブの岩」、そして「十戒」で終わる。左下ではモーセが十戒の文字の入った石のようなものを上方に持ち上げている。ステンドグラスを思わせるような独特の深い色彩の輝きで表現されている。また、黄色い光のようなものが各場面の中に入れられているのも面白い。その光はヤハウェを暗示するように思われる。ファラオの娘に川から拾い上げられたモーセと、燃える柴の中からヤハウェがモーセにユダヤ民族を救う使命を与える召命。大きな杖を持ったモーセと下方の羊のフォルムも力強い。(高山淳)

 瀬川明甫「時の無常」。六十人ぐらいの顔が描かれている。いわゆる爺と婆のあいだに若い女性の顔が集まっている。女性の顔はそれぞれ異なる。青年の顔がないところが面白い。中に一人、婆ではなく、五十歳ぐらいの女性の顔が上方に浮かぶ。いずれにしても、見ていると見飽きない。あいだから猫の顔やカエルが現れたり、野菜や果実が現れたりする。背景には大地があるように推定される。つまり、都会の群像ではなく、背後に土の匂いがする。その土の匂いの中で暮らしてきた爺、婆の顔に対して、若い女性の顔はもっと都会的で、意外と自然と切り離されているのかもしれない。その女性の存在自体が実は自然から引き離されても、その女性自体が大地そのものと重なって画面の中にあらわれているような面白さがある。地面が何かを生むために存在するのであれば、女性もそのような生む存在としてのイメージが、つまりエロスとしてのイメージが画面にあらわれていて、それが能面ではなく、リアルな写実の中に表現されているところが実に面白いと思う。(高山淳)

 星兼雄「刻の景『赤い硝煙』」。中東の混乱は収まらない。最近はイスラム国なるものが出現してきた。戦争で倒壊した建物を背景にして、少女を抱き締める母性的な存在が描かれている。聖母子像と言ってよいかもしれない。ところが、その母性的存在は顔はほとんど壊れかかった石のようなものによってつくられている。悲しみの極まるところ、このようなイメージが浮かぶ。顔も人間的な要素が一度崩壊して、サイボーグ的な存在としてあらわれ、それがまた壊されてきているような、そんな強い臨場感が画面から感じられる。(高山淳)

6室

 宮下直子「水の華」。不思議な光景である。土手のようなもので水が区切られているのだが、その中の水の様子がそれぞれ異なっている。上方の水は柔らかな青みがかったグレーのような色彩で、左下はビリジャン系の深い色彩。そして、その横の三角形の二つの水は緑色で、そこに柔らかなピンク色の光が重なっている。土手の上も明るいピンク色のような色彩で、そこからゆらゆらと立ち上がっていくものがある。水の上に蜃気楼が重なったかのような不思議な気配が感じられる。手前の影の部分、対岸の向こうの五月の緑を思わせるような色彩。この世のものとは思えない、あやしい気配が感じられる。その一角の風景全体がなにか別のものと重なって、光がそこに下りてきているような雰囲気である。水や土手という存在、形而下の存在が形而上的な存在に変容しつつあるような、不思議な気配である。あやしいというより、もっと澄んだ中にあらわれてくる光の満ちた幻想のようなイメージが表現されているところが面白い。

 もう一点の「青沼」は、白骨化したような樹木が水面から立ち上がっている。立ち枯れた樹木のようだ。その水の中に周りの緑を映しながら青い空があらわれている。針葉樹のような樹木もあるし、草なども映っているが、中心に濃いウルトラマリンの空のようなものが映っている。見ていると、引き込まれるようだ。水の中にもう一つの世界が存在して、その存在の現実感に引き寄せられるような、そんな不思議な水の風景を画家は描いた。(高山淳)

 佐々木良三「地平 Ⅰ・Ⅱ」。佐々木良三は「地平 I」と「地平 Ⅱ」であるが、二つはつながっているから、二曲屛風の趣である。洪水の引いたあとにもその泥が残っているような、そんな空間が画面全体を覆っている。そこに昆虫のような足をもった人間が手を差し伸べ、骸骨化した駝鳥のような鳥が向かい合っている。それは左側だが、右のほうには、下方にやはり鳥のようなものの骨が広がっていて、仰向けになったその様子は人間のようで、その口から上方に吐き出すプラズマのようなものがあって、そこに人間が上を向いたり下を向いたりして泳いでいる。それは線描きで表現されている。そしてもう一つその上方に、やはり鳥のような翼のようなフォルムがあらわれて、それもやはり骨になっているようなのだが、その下方に人間の腿から足のようなフォルムがあらわれている。このいわば泥のような空間に画家は不思議なものを幻視している。死んでいながら死んでいない存在。あの世とこの世との中間領域のなかに存在する霊的なさまよえるものたちを表現したようなところがある。そして、光が当たり、影が捺されるのだが、その影もまたあやしく画面の中を動いていく。この壁に画家は自分の脳裏に浮かぶものを投影しながら、イメージを現実化していく。そのイメージの現実化という内容がピュアであるがゆえに、不思議な境界領域の存在が表現されていると思う。(高山淳)

 遠藤賢太郎「風の道標(樹氷)」。蔵王の樹氷は有名である。木全体を覆って不思議な形が生まれる。トルソのようなイメージも感じられる。二つのフォルムがむかいあっている様子は道祖神のようだ。日に当たって透明感をもちながらキラキラと輝く。自然のつくりだした神秘と言ってよい。抜けるような青い空がその背景に引き寄せられる。画家の青は、山形というより、まるでギリシャや地中海を思わせるところがある。青の周りの白もそんなイメージである。山形にある蔵王と地中海とがイメージの中で重なりながら、この不思議な青と白の色面をつくりだした。そして、その中に結晶した樹氷が不思議な形で輝く。見ていると、画家の強いイマジネーションは地球の外皮である大気圏(大気圏があるから空が青く見える)を突破して、宇宙のイメージを引き寄せようとするかのようだ。(高山淳)

 江村正光「生成・次の次の次」。赤やオレンジ、緑などの色彩が実に輝く。輝きながら光となって鑑賞者を襲ってくるところがある。たとえば植物は光と二酸化炭素で光合成を行って澱粉をつくるわけだが、そういった植物の中で行われている工場的な過程を視覚化すると、このようなものになるのかもしれない。いずれにしても、不思議な生成が行われている有機的な工場、仕組み、そういったもののイメージを感じる。(高山淳)

 藤岡泠子「風とかたらう〈札幌中の島公園にて〉」。水に樹木が映っている。六月頃の様子で、水の中にもう一つの世界があるように表現されている。実体から物質感を失って、より透明な、いわば叙情の世界があらわれる。対になっている「風とかたらう〈裏磐梯にて〉」は、かつて画家が描いた氷山が動いて亀裂がそこに走っていくような、不思議なさざなみのような三角形の連続したフォルムで、きわめて強い音楽的な効果を上げる。ほとんど音楽が形となって造形化されたような、そんなイメージが画面から感じられる。聴覚を刺激してくる。つまり、対になっている作品は視覚と聴覚との対と言ってよいような独特の空間表現である。(高山淳)

 常世隆「バルベックの眺め」。バルベックはノルマンディーをモデルにしたプルーストの『失われた時を求めて』の地名である。空と樹木と道と水とが渾然と一体化した空間があらわれている。それをたらしこみふうなかたちで表現する。水墨的な技法を使いながら、中心に樹木が広がっていて、光を受けて道が白く輝く。手前に青い水が流れている。そんな様子を歌うように、万華鏡的に表現して面白い。(高山淳)

7室

 小原キク「パリの情景 une évocation de Paris」。エッフェル塔がイルミナシオンされている。エッフェル塔の前に続く道、あるいは囲む道がオレンジ色に電飾されて、緑の部分もそのようだ。点々とパリの街の明かりが見える。夜間飛行という言葉があるが、夜の低空飛行から眺めたような光景。強いイマジネーション。愛するわがパリといったイメージを、淡々と描き起こして、強い詩情を醸し出す。(高山淳)

 野田好子「ガンダーラ佛」。蘭のような花が咲き乱れているところに壊れかかったチェアがあって、そこにガンダーラ仏が座っている。チェアも後ろの光背もすべてが石でできた、一部欠損したガンダーラ仏なのだろう。背後は銀の箔を置いたような日本的な空間になっている。花の中に小さく置かれたガンダーラ仏という発想が面白い。ガンダーラ仏は二千年近い昔、インドでつくられたわけだが、それがいま咲き誇る花の中に鎮座し瞑想しているようなイメージが実に面白い。(高山淳)

 千原稔「生死の苦海」。カブトガニが海のほうに向かって歩いていく。砂浜にいる大きなカブトガニ。空には満月と金星。光に照らされて背中が輝いている。寂しいひとりぼっちのイメージ。この兜のような鎧のようなもので覆われた中にカブトガニがいるわけだが、その鎧自体がひとつのホームのような雰囲気になっていて、その中に生きている存在がロンリーに切々とした感情の中に表現される。向こうに海の波が見えるが、海まで辿り着くと、カブトガニはふるさとに戻ったような心持ちになるのだろうか。そこに向かってそろそろといま這いながら進んでいく。(高山淳)

 増田直人「UNTITLED」。野菜や果実を植えていない畑の土。でも、畝がつくってあるようなフォルムが手前に伸びている。それを背景にして、左にペアの女性、手前にもう一人の女性が描かれている。自然のもつあやしい気配と少女のもつエロスの気配とが重なって、独特の力をもって鑑賞者を引き寄せる。塀の向こうにはイトスギのようなものが立ち、低い山が見える。塔が立ち、赤い屋根の建物も見える。ヨーロッパのある場所のようだ。どことなくうねるような風景の表現はゴッホを思わせるが、空はのどかな白い雲の中にのぞく青い空である。独特の感性だと思う。(高山淳)

8室

 井上八重子「リベルタンゴ」。「リベルタンゴ」とはアストル・ピアソラ作曲のタンゴの楽曲のことである。中心におへそを出した女性のフォルム。ピンクの衣装を上にたくし上げている。コケットリーに満ちた女性の雰囲気。大きな目があやしく輝いている。両側には男性と女性とがタンゴを踊っている様子。左の女性はほとんどヌードで、背後から男が手を差し伸べている。右のほうはやはり男がいて、女性が体をひねっている。ピンクという色彩が強い官能的なイメージで使われている。面白いのは、女性の肌の色彩で、絹のような柔らかな光沢のある官能的な力を十全にその色彩が表現する。それをベースにしながら、黄色やピンク、青などの色彩が入れられて、優雅な、しかも生命感に満ちた動きが表現される。三枚対でタンゴの情熱的なイメージ、とくに女性を中心とした生命の力が表現される。(高山淳)

 菊地達也「パンドラの暦(こよみ)」。パンドラの箱があけられて、様々な悪徳が世界に広がって、最後に希望というものがあらわれたという伝説があるが、人間の歴史にはたしかにそのような不信から生まれたようなものがたくさんあるだろう。それが題名になっているが、この作品の面白さは色彩の力だと思う。遠景の建物の連なっている様子。中景のやはり建物の連なっている様子。そのあいだは斜面になっているような雰囲気である。手前の建物はまるで蜃気楼のように、その斜面の上に浮かび上がっているようにも考えられる。壁画ふうなマチエールと暖色系を中心とした色彩のハーモニーが独特の魅力をつくる。色彩によって空間のなかのものたちが、その存在感を輝かせる。(高山淳)

 石丸康生「大津島から」。三〇〇号ぐらいの縦長の画面。厚いパネルで、左右の側面にもキャンバスが回っていて、その厚さが二十センチほどある。つまり、これは一つの立体的な空間といったイメージ。その表面に青い十字形のフォルムがあり、四隅がベージュの光り輝くような色面。この大津島はかつて戦中、人間魚雷の発信基地だったそうだ。そういった戦争の歴史も背負いながら、この大津島全体のイメージをいわば一つの肉体のように画家は表現しようとする。そばに接近すると、キャンバスを布で縫っているところがあって、それが幾筋もあり、不思議なリズムをつくる。あるいは溝を繰り返しつくったような部分もあるし、独特のマットなマチエールの上に絵具を薄く掛けて重ねて、独特の奥行をつくる。ベージュの輝くような空間は、残照のような気配が感じられる。陸地であると同時に空のイメージがそこに重なる。そして、青い十字架のようなフォルムが独特のモニュマン性を獲得する。褐色の直線がその青の両側に入れられ、画面の下辺、銀色のところにも二ヶ所、下辺から上方に立ち上がる五ヶ所にその褐色の直線が入れられている。それは錆びた鉄のような雰囲気で、この島の戦中の記憶がそこに引き寄せられるかのような感じがある。画家は音楽がずいぶん好きなのだろう。前述した糸でかがったようなそのフォルムは、いわばメロディのように画面を動いていく。それもジャズのセッションのように、即興的なイマジネーションがそのままメロディと化して画面の中を動いていくようだ。その意味では、空間のみならず、時間のイメージもそこに引き寄せられる。画家にとってこの大津島は、画家の背負う十字架のような不思議な存在感があるのだろう。そんなイメージが、透明な青やベージュの色彩の中に描かれ、繰り返し繰り返しメロディがそこに鳴る。(高山淳)

 石原重人「NOAH 2015」。巨大な画面である。五〇〇号だろうか。上方に、傾いてグレーの黒いシルエットに見えるのはノアの方舟の残骸だろうか。そして、地上から黒い煙のようなものが立ち上がって、それがまた長々と地上に影を捺している。水滴の巨大な塊や花が空中に浮遊している。下方の赤い地上の風景は崩壊した様子である。大暴風雨が何日も続いて、ノアの方舟以外すべてが崩壊したという伝説の雨の上がった瞬間の光景。とくにノアの方舟の暗いシャドーのような影は、生き残っても決して未来が明るくないような、雰囲気である。いわば原爆のあとに生き残ったような、そんな不吉なイメージも感じられるところが面白い。ただ、そのような中から一つの水滴がビル以上の大きさであらわれたり、巨大な花が浮かんだりする。そこに希望を求める画家のヴィジョンが感じられる。(高山淳)

 岡本増吉「映る・映す Ⅱ」。横長の画面で、中に魚が泳いでいる。アクアリウムを眺める少女と水を通してその向こうからこちらを見守っている若々しい父親のイメージ。二人のあいだに水槽がある。そこを泳いでいる熱帯魚や様々な魚。考えられたコンポジションである。都会の無機的な空間の中にあらわれた水の不思議な働き。それによって生かされている魚たちが面白く表現される。ソニービルの前のソニースクエアにこのようなアクアリウムが現れて、見た記憶が作品を見ているうちによみがえった。(高山淳)

9室

 松山俊彦「繚乱」。ベージュのバックに回転させながら繰り返し黒い線を描いて、エネルギッシュな不思議な塊を表現する。その塊は動き回っているようだ。顕微鏡で、このような生き物が激しく動いているような図があるのかもしれない。いずれにしても、運動とエネルギーをもつ不思議な存在を画面に表現した。(高山淳)

 開光市「私の城」。四角いテーブルを両側の人間が持って支えている。向かって右の人間はその上に右手を置いてリズムをとっているだけかもしれない。支えているのは左の女性。そのテーブルの中に足を突き出して少年が立っている。その後ろに階段があって、階段を入ると、もうひとつ別の世界に行くようだ。女性の顔も何枚も皮膚をはぎ取ってもはぎ取っても顔が現れて、というふうに表面的な世界をはぎ取りながら、奥に奥にと画家のイマジネーションは進んでいく。テーブルの下の色彩は青く、下方に海があるようなイメージもある。いずれにしても、テーブルの奥にある世界が面白い。そばのテーブルには魚が載っている。球のようなものも見える。しんとした気配のなかにイマジネーションの世界が展開されていく。(高山淳)

 半田強「豊饒礼讃」。六本の手をもち牛の頭をもった怪物。手にはネギやカブ、レンコン、ザクロ、花梨などを持っている。カエル、猿、豚、山羊、人間、お坊さん、馬、莵などがニンジンやカボチャなどを持って、そこに向かっている。右の六本の腕をもつ人は豊饒の神様のようだ。その神様にそれぞれが野菜を持って祈りに来ているのだろうか。強いイマジネーションによって現代の仏画を描く。(高山淳)

 辻久美子「紅鏡の華」。楕円状のフォルムの中に、上方と下方に二つの目玉のような球体を置いている。そして、それらのあいだをグルグルと回る動きがあり、いわば一つの細胞の中にある二つの核を拡大して描き、生成していく世界を表現したかのような雰囲気がある。波打つようなフォルムがまたその周りを囲んでいる。植物的な細胞的な世界が宇宙的なマクロの世界を引き寄せるかのようなコンポジションに注目した。壁画を思わせるような厚いマチエールも、この表現を支えている。(高山淳)

 船越多美子「鳥の囀る空の下には」。左のほうに鳥の羽が大きく描かれている。右上方にはモノクロームでシュロのような葉がたくさん置かれている。羽に支えられるようにたくさんの巨大な花がいま朽ちつつあるようだ。右のほうには廃棄されたタイヤのようなものが見える。時間の変化が描かれているようだ。画家にとって鳥のイメージはそういった世界を支えるメタファーのようだ。そして、支えられた地上的な存在は刻々と移ろっていく。そんな時間というものを独特のコンポジションの中に表現する。(高山淳)

 吉井章「AMANO HASHI DATE」。青い空間に金で自由にフォルムをつくる。下方から上方につけているのが天の橋立だろうか。その上のほうにも右に続いていくものがあるから、これが天の橋立のようだ。その上から金色の雲があらわれる。それは上下にも真ん中にもあらわれる。同じ金でも、雲と陸地が区別され、その陸地には人々がいる様子が、簡略化されたフォルムのなかに描かれる。金碧障壁画を本歌としてモダンな現代的な空間をつくる。(高山淳)

10室

 指原いく子「車窓」。赤がふかぶかとした空間をつくる。下方に円形のフォルムや線でかいた円弧、楕円やドリッピングしたものなどが入れられている。大きな円が画面の中心にある。ノスタルジックなイメージが漂う。夕日の赤い世界の中に身を没してうたいあげていくような、そんな深い表現だと思う。(高山淳)

11室

 上條喜美子「熱帯植物園」。様々な葉が描かれている。シダを大きくしたような葉もあるし、サトイモの葉のようなものもある。黄緑、あるいは緑、あるいはテールベルトなどの色彩。その葉がお互いに語り合いながら密集している様子。そこに濃密な空間が生まれる。画家独特の感性である。自然のもつあやしい存在に画家は接近する。それを今回表現するのに、様々な葉をここに大きく描きながら、そのハーモニーのなかに表した。あいだからピンクの葉がのぞいているのが、緑の中の強いアクセントになっている。(高山淳)

 進藤裕代「大地 Ⅰ」。不思議な植物が茎を伸ばし、花を咲かせ、空中にその種が浮遊している。花も開いている。一つひとつの植物が、あるいは大根が妖精のように表現される。生きた妖精が動くように植物を描いていく。独特の感性である。(高山淳)

 榎並和春「旅芸人」。馬に乗って帽子をかぶった男。猫や家や月が見える。ドンゴロスを貼った上から絵具を置くことによって、独特のマチエールが生まれる。三味線の音色が聞こえてくるようだ。その哀調のなかに男は旅をする。(高山淳)

 北原勝史「回想 2015」。華やかな色彩豊かな作品。金を面白く使いながら、そのあいだに様々な花がまるで目のように開いている。その花のあいだに仰向けの二人の女性の顔。一人の女性は音を発し、一人の女性は花の茎を口にくわえている。暖色系の色彩を使いこなしながら、あいだに緑や青もわずかに入れながら、独特の華やかな色彩のハーモニー。また、浮世絵を思わせるような線による大胆なフォルムの表現がまた魅力。(高山淳)

12室

 西村駿一「ふるさと 2015 Ⅰ」。ピンクの空間が柔らかなグラデーションのなかに描かれ、そのあいだから黒い線によって集落や道、川などのイメージがあらわれる。いわば山水が黒によって表現され、その上をピンクの色調が覆う。ピンクは桜の花が満開のイメージでもあるし、懐かしい心が醸し出す色彩のようでもある。見え隠れするふるさとの光景が記憶のなかにあらわれつつあるような、独特の空間表現になっている。(高山淳)

 松野良治「景 けい」。カーヴするフォルム。上方の三つのフォルムは、ベニヤを切って、上から鉛筆で色をつけたもの。もっとも画面全体がそうであるが。上方の三つのパートは重なりながら、大きな境界領域をつくる。丘のようなものがそこにあるように思われる。手前に三つの不定型のフォルムが大中小と近景、中景、遠景というように並べられて、それが不思議な生き物のようなイメージを感じさせる。風景の部分が生きて、有機的な存在と化してコラージュされている。この鉛筆を重ねた黒は、光を反射しながら鑑賞者の位置によって微妙に変化していく。そして、そこには巨大な空間が生まれる。と同時に、なにか懐かしい世界でもある。日本の風土のフォルムを象徴的に画面に表現したかのような懐かしさも感じられる。(高山淳)

13室

 金谷雄一「ミルキィ・ウェイ 15─4─1」。ほとんど黒に近いグレーの上に、黒による巨大な円を二つ重ねたようなフォルムが浮かび上がる。その上方に金泥を置いたような光るものがあらわれる。しっとりとした黒のニュアンス。夜の中に息づくような気配。その中にキラキラ光るものは星なのだろうか。(高山淳)

 姫野芳房「trigoria-2015」。抽象的な表現で寄せる波を描いている。そして、その波の上に不思議な砂地のようなフォルムがあらわれる。波の上に画家のイメージが重なってダブルイメージになっている。いずれにしても、繰り返される、永遠に演奏される音楽を思わせるような波の抽象的な表現に注目した。(高山淳)

 甲原安「One day 2015 -going around-」。電車の運転席からホームを眺めている。右のほうのホームにはたくさんの人が立っている。自分がこれから入っていくレールのもうすこし左のレールに、こちら向きの電車が続いている。左のほうにはもっとメカニックなものが並んでいて、その上方を別の電車か、車道が通っているようだ。明暗の強いコントラストの中に駅の様子を描くのだが、それを運転席から眺めているというコンディションが面白い。(高山淳)

 瀬尾昭夫「庭(Ⅰ)」。机とか花瓶、あるいは柱などがこの中のフォルムとしてあらわれている。そこに緑や青の色彩が植物的なフォルムとして入れられている。下方のブルーは水を思わせる。室内と庭とがお互いに行き来しながら、強い心象的な空間があらわれる。赤に独特の深さが感じられる。深い瞑想の中からあらわれた空間だと思う。(高山淳)

14室

 上原一馬「ただあの町を目指して」。背景の銀灰色の空間がしっとりとした雰囲気をつくる。手前に赤い服を着た若い女性が立っているのだが、その後ろに大きな青い蝶が羽を広げている。下方には鹿がいる。少女のエレガントなフォルムがそういったフォルムを引き寄せる。葉の落ちた枝が伸びている。遠景には大観覧車やランドマークタワーや高層ビルなどが横に並んでみえる。都会の風景を背景にして、女性がまるで変身するようなイメージを、ロマンティックに歌いあげるように表現する。(高山淳)

 大友良江「Works Ⅱ 2015・ Works Ⅰ2015」。二枚のボックス形のキャンバスを対にしている。左端には赤いヘルメットをかぶった少年。右には黒いソファに女性が座っている。あいだに洗濯物を干す赤い紐が伸びていき、黒いパンツや赤い上衣をぶら下げている。壁には蝶などのフォルムが落書きふうに描かれたり、ピンクの床には黒い魚が泳ぐように描かれている。新鮮な感覚で、若い男女の断絶したなかでのお互いに引き合うイメージを面白く表現する。洗濯紐の赤い紐は男女のあいだをつなぐイメージだろう。(高山淳)

 浜田公子「吹き抜ける風」。上方に六つのシーンが描かれている。左には春の風景。細長い柱のような中に描かれている風景は雪の冬景色。その横には秋の光景が。そしてその横のほぼセンターのあたりには白い花が咲いている初夏の光景。そしてその横のストライプには紫色の秋もたけた晩秋の風景。そしてその横には初秋の風景というように、季節によって変化する丘のある風景を六つのシーンに描き分けている。手前には矩形の逆遠近のテーブルがあり、オリーヴや葡萄、紅茶の入れられたマグカップなどが置かれている。そして、グレーのコンクリートのような壁、三つの椅子。季節によって変化していく景色とそこに吹き渡る風を、しんとした気配のなかに表現する。画家は季節をうたう詩人のような繊細な感性がある。それは長く作品を見ているとよくわかるのだが、それを縦横に駆使して、一年という季節のなかでお気に入りの部分をピックアップしながらジグソーパズルのようなコンポジションをつくりだした。(高山淳)

 宮本薫「忘れ花」。少女の顔、頭には花のフォルムが金平糖のようなかたちでたくさん頭部につけられている。花や星のマークが下方の地面にもつけられている。なにか粘着力をもって迫り吸引されるような不思議な空間があらわれている。(高山淳)

 嶋村貴志「春を待つ」。注連縄を張ったこの樹木はいわば御神木で、相当長い樹齢をけみしているのだろう。枝がそこから左右に出ている。遠景には、下方だが、街並みが見える。建物群がシルエットふうに表現されている。上方を見ると、夕方の空には星が輝いている。その様子を淡々と描きながら大きな空間をつくる。画家のその優れた筆力が、この作品の中に風景のドラマともいうべきものを表現する。黄金色の空から淡いブルー、あるいはピンクの雲、もっと暗いグレーのブルーの空というように、空の変化一つとっても複雑で見事な表現になっている。(高山淳)

 原秀造「讃華紅花」。下方に紅花が咲き乱れている。その花をピックアップして、上方に大きく描いている。はるか向こうには山形の蔵王を思わせる山がのぞく。山形は江戸時代、紅花で潤ったそうだ。そういった郷土の長く育てられた花をまるで星のように表現する。(高山淳)

 小西千穂「休日の市場」。テントを張って市場が出ている。たくさんの布を売っている店に娘を連れた母親が訪ねている。店の側ではブロンドの女性が応対している。そんな様子が右のほうにはもうすこし小さなかたちで、女性と買物客が、応対している。手前を犬を連れた青年が歩いている。左のほうにも人物がいて、手前に猫が居眠りをしている。お互いが関係をもつケースもあるし、無関係なケースもある。そんな人間の群像であるが、現象を描いたのではなく、深く人間の心理の奥のほうに下りて表現したような強さが感じられる。テントを中心として大きく旋回するような構図になっていて、右のほうの赤煉瓦の手前には若い女性と老人とが会話をしている。上方を見ると、緑の扉があいて、テラスに出た女性がいる。これは一望にこのような光景が見えるはずもなく、それぞれの見えたものを接ぎ合わせながら、全然異なった時間の人々をこのように集合させている。それによって現象を超えた時空間が生まれる。以前よりそのような時空間の強さがよりあらわれてきたと思う。(高山淳)

15室

 中山正「アフリカ~大地の鼓動~」。板に地塗りをして、ぐいぐいと絵具を置く。植物のフォルムが画面にあらわれている。近景には大きな花のようなものがいくつかあらわれている。後ろに円形のフォルム。種のような形。緑と赤褐色の色彩の中にウルトラマリンの鮮やかな青が入る。それぞれのフォルムが強く波動を発しながら、全体で大きくハーモナイズする力がある。素朴な自然のもつ深いイメージが象徴的に表現される。(高山淳)

 山寺重子「予感」。上下二つのF型のキャンバスを重ねている。黒い中に白いフォルムによって細胞のようなフォルムがあらわれる。その中に不定型のフォルムがたらしこみふうなトーンの中にあらわれ、上方では三つの花のような太いフォルムが記号的に表現される。それが下方では赤や紫の色彩の上に黄色い色が点じられ、すこしくすんだような褐色の花のような記号的なフォルムが、上方同様三ヶ所入れられる。細胞の中をのぞいてみると、エネルギーの循環とか、生成していくものがある。そんな言葉がこの作品を見ながら浮かぶ。きわめてミクロな中の細胞レベルでの生成活動を、下方では色彩豊かに表現し、上方ではその様子を形として描いているといった雰囲気。うまく言葉にはならないのだが、そのようなミクロな中での生命現象が描かれているように筆者には思われて、興味深い。(高山淳)

16室

 小西雅也「僕たちの箱舟」。画面の中央に鍵盤が背中合わせに二つ置かれていて、その両側で二人の男が演奏している。右側には手前にもう一人の男がいて、三人は木造の舟に乗っているようだ。また左側には弦楽器を弾く女性がいる。画題が暗示するように、世界を救うのは音楽である。満天の星々とキラキラと輝く水面。これまでになくロマンチックで豊かな詩情がリズムと共に溢れ出てくる。(磯部靖)

 山田一道「DIS TOR TED-005」準会員優作賞・新会員。戦闘機や戦車などが画面の中央に積み重なるように描かれている。それらは朽ちつつあり、苔むして自然と一体になっている。背後には樹木の太く大きな枝が伸びていっている。ハーフトーンの穏やかな色彩の中に、人間の小ささと自然の大きさが静かに対比されている。画面全体に向かって左向きの動きがあるところも時間の流れを感じさせて興味深い。(磯部靖)

 光田千代「シンホニー Ⅳ」。画面の中央に三角形のようなフォルムがあって、その周囲を様々なものが取り巻いている。それらは、人工的なもの或いは植物のようなものである。三角形のフォルムはマントを羽織った人物の後ろ姿に見える。清濁を織り交ぜながら、世界の全てがこの人物を取り巻きながら収斂していってるような構成であり、画家のイメージの生み出した強い心象的な要素が印象に残る。(磯部靖)

17室

 佐藤功「風 Ⅰ」。画面いっぱいに描かれた両掌の中に、いくつかの羽毛が包み込まれるように置かれている。細部まで細やかに描き込みながら、手や羽毛の質感をしっかりと表現している。そして画面の中には、緩やかな風が吹いているようだ。軽やかな羽毛が飛ばされないように守りながら、気持ちのよい透明感を作品に与えている。確かな描写力の中に、画家の温かな心情が見え隠れするようで興味深い。(磯部靖)

 鳥井公子「そしてまた始まり Ⅱ」新会員。裸の二人の男性と一人の女性が並ぶように画面に描かれている。身体のある部分は暗色あるいは掠れるように消されている。モノトーンに近い色彩の中で、存在というものの不確かさ、危うさが臨場感を持って鑑賞者に迫ってくるようだ。三人の配置が適度なリズムも作り出している。過去にとらわれながらも、前を向いて生きようとする意志も感じられるところにもまた見応えを感じさせる。(磯部靖)

 本城義雄「恐山の石『ん』」。和風の簞笥の上に竹籠があり、更にそこに横に長い木片が乗せてある。木片の上には石や時計、積木が置かれている。上方には縄が左右に渡されていて、そこに縞模様の布が絡めてある。赤みがかった茶系の色彩を基調色にしながら、どこか静かな気配が画面を満たしている。それぞれのモチーフをクリアに描く画家の技倆もさることながら、独特の間を作り出すことで、画面に深い余韻を感じさせる。(磯部靖)

18室

 石塚信雄「青い花」。若い女性の膝から上の肖像と、その背後にたくさんのうすい紫の薔薇が描かれている。花がたくさんあるにも関わらず幹は一つであり、その幹は太く、トゲがいくつも付いている。大人しそうな女性でありながら、美しさと危うさを持った薔薇を描くことで、それらを静かに暗示しているようだ。清潔感のある画面の中に、そういったイメージが見え隠れしているところが特におもしろい。(磯部靖)

 中野紋「どれにしようかな~?」。四つのドーナツをお手玉のようにして扱っている女性を正面から描いている。ふくよかなフォルムの女性は、どのドーナツを食べようか迷っているようだ。女性の着ているワンピースは黄とオレンジの太めのボーダー柄で、それが背後の壁や床の縦や横の線と重なりながら、画面を活性化させている。独特のデフォルメも相俟って、楽しげな感情に惹き付けられる。(磯部靖)

19室

 高木美希「In bloom」。夢の中のような世界が広がっている。デフォルメされて大きく描かれた女の子と、それを取り巻く妖精たちがケーキや飲み物を持ち寄り、さながらパーティのようである。ピンク系の色彩の中に、青や黄などを効果的に使って描いている。愛らしいモチーフたちにしっかりと存在感を与えているところに特に注目する。(磯部靖)

 表康子「PASSION」。カラフルな色彩で花や蕾が大きく固まって描かれている。画面の向かって左側に大きく「PASSION」の文字が書かれている。豊かな色彩的表現がポジティヴなイメージを運んでくる。様々な色彩が調和しながら画面を構成しているところに、絵画的センスを感じる。(磯部靖)

 藤井裕子「Breeze '15─隙間─」。画面の中央に黄土色の扉があって、それが少しだけ開いている。その向こうにはグレーの世界が見える。手前には深い赤の色彩が使われている。扉を隔てた内と外の空気感が肌に迫るような臨場感と共に強いコントラストを作りだしている。どこか鑑賞者の好奇心を誘うような雰囲気もまた魅力である。(磯部靖)

 中村宗男「東風」損保ジャパン日本興亜美術財団賞・新会員。画面の手前に身体を左に向け、顔だけこちらを向いてしゃがむ少女が描かれている。どこか不安げな表情のようにも見える。東の風は春を告げるが、そういった少女の新しい生活、人生の第一歩に対する不安と期待が入り混じっているのかもしれない。また、奥のもう一人の寝ている少女は、いまだ冬眠から目覚めていないようだ。いずれにせよ、深くコクのある色彩とマチエールで、若者の初々しい心情をじっくりと描き出したところにこの作品の見応えがある。(磯部靖)

 長谷川輝和「未定」。不安定に浮遊するような体勢で描かれた少女がこちらを見つめている。暗色のワンピースを着た背中には翼が付いているようだ。暗鬱な雰囲気が画面全体に漂っている。自身の思うように飛べない苛立ちと落胆、そして救いを求める感情を訴えかけてくる。長谷川作品特有のデフォルメが、そういったイメージをより背後から後押しする。(磯部靖)

20室

 石井秀隣「兆」。画面の中で、赤と青の色彩がせめぎ合うように浸食しあっている。そこにもう一つの白の色彩が入り込んでいる。陰と陽、明と暗といった相対する感情というよりは、どちらも肯定的な要素を孕んでいるようだ。赤と青の両方に大義があり名分があり、それを白が仲裁しようとする。そういった現代の複雑な、答えの見付かりにくい問題が、画家の鋭敏な感性を通して現れて来たように思えて興味深い。いずれにせよ、石井作品のこれまでよりも激しく動きのある新しい展開として注目する。(磯部靖)

21室

 阿部正彦「留まるものは何もない・27」。コンピュータで制御された無機質な室内を思わせる画面に、モニターに向かう一人の裸婦の腰掛けた後ろ姿がある。裸婦が彫り込むようにして描かれているのは阿部作品の特徴である。全てが機械に支配され、自身の中身は空洞で何もないということだろうか。虚無的な空しさが漂う。細やかさと大胆さをうまく組み合わせながら、現代社会に対する強いメッセージを発信してくる。(磯部靖)

23室

 野口智弘「チェシャ猫の憂鬱」。丸くカットしたフィルムを組み合わせて大きな猫の顔を形成している。背後では線書きの猫の顔が浮かんでは消えて行っているようである。不思議の国のアリスに登場する猫が、ユーモラスで独特の表現によって、生き生きとした存在感を獲得しているところが印象深い。(磯部靖)

 山岡美佐子「誕生日を忘れる」。生クリームがグレーになったバースデーケーキを大きく描いている。誕生日を忘れてしまったことで、その存在意義を失ったケーキが徐々に崩壊して行っているようなイメージである。どこか恐ろしい雰囲気を持ちながら、全体で蠢くような動勢が画面を活性化させている。強く印象に残る作品である。(磯部靖)

24室

 八木道夫「命 輝く その1」。一人のピエロが画面の向かって右寄りに描かれている。ピエロは仮面を持って目線を斜め上に向けている。左側にはうっすらと楽器を持って演奏するピエロたちが描かれている。背後には波が寄せる海が広がっている。津波被害が際立った東日本大震災を想起させる。亡くなった仲間たちと生き残った自身が、一つの画面の中で語り合うように存在しているようだ。いずれにせよ、確かな描写力で深い感情を作品に込めながら描いているところに注目した。(磯部靖)

25室

 福島正子「KANKEI-2」新人賞・新準会員。画面の下方から上方に向かっていくつもの立ち上がるような動きがある。ベージュの色彩を背景にしながら、灰白色から朱へと色彩を変化させて行っている。それはどこか植物のような生命力を感じさせる。お互いに絡み合いながら、生きようと花を咲かせるそのイメージの力が印象的である。(磯部靖)

26室

 いなむられいこ「ハハトコ(コロモガエ)」会友賞。着替えをさせられている少女を正面から大きく描いている。モザイク風に細やかに描き込みながら、少女のあどけない様子がしっかりと捉えられている。X型の強い構図の中から、純粋な魅力が発信されてくる。(磯部靖)

27室

 木村良子「記憶」新人賞・新準会員。明るい白の色彩をベースにしながら、そこに赤や青、黄といった様々な色彩を混ぜ込んでいる。「記憶」という画題だが、常に曖昧で時間と共に変化し、消失していく様子が描き出されているようでおもしろい。画面全体のやわらかな触感もまた独特でおもしろい。(磯部靖)

 有冨茉子「2015 変容 2」新人賞・新準会員。茶から黄土色の色彩で画面を纏め上げ、そこに生まれては消えていく細胞のようなものが描き込まれている。ある種の泡沫のような動きの中に、濃密なイメージの世界を感じさせる。(磯部靖)

 末松大「Dark sideⅠ」国画賞・新準会員。画面の中央に向かって左を向いた人物が一人立っている。両手で顔を覆っていて顔は見えない。周囲には不穏なイメージが漂っている。人間の負の精神、普段は見せない裏の顔のようなものが浮かび上がってきているようで、それらを暗示するような発現が興味深い作品である。(磯部靖)

28室

 石橋暢之「煙」絵画部奨励賞。濛々と煙を噴き上げる汽車がこちらに向かって走ってきている。その様子をクリアなモノトーンの色彩で描き出しているところがおもしろい。細部まで描き込みながら生み出された臨場感もまた魅力である。(磯部靖)

 阿部加奈恵「子猫がうちにやって来た」会友賞・新準会員。人魚を抱えた猫を独特のデフォルメで描いている。人魚や猫の表情、舞台設定など、そのユーモラスな雰囲気に強く惹き付けられた。(磯部靖)

30室

 辰己隆「夕暮れ時の公園(Ⅰ)」。薄暗がりの中で、手前に鉄棒、壁の向こうに樹木や街並みの見える情景である。低い視点で描いていて、それが強い臨場感を引き寄せている。グレーの色彩を主に扱うことで、どこかノスタルジックな雰囲気も獲得している。(磯部靖)

 中木智津子「何処へ Ⅱ」。画面の中央に若い男女が描かれている。周囲には植物の装飾的な紋様と重なるように手足などの部分もいくつか描かれている。また、その背後に入り組みながら黄と水色の色彩が施されている。瑞々しい精神のイメージが、画面を通して伝わってくる。迷いや不安、あるいは夢や希望といった若者のならではの心の動きが、センス良く表現されている。(磯部靖)

 葛山敦子「作品 Ⅰ」。歩道橋から道路を見下ろす人物を中心に画面が展開している。街路樹やバス、建物などによって巧みに画面を構成しながら、ドラマチックな奥行きを作りだしているところに注目した。(磯部靖)

 松村益義「スマホの向こう側」。女学生の何気ない様子をスマホで覗く視点で描いている。スマホの画面には、その場の様子は写っていない。女学生同士の中に入れずに、フィルターを通してコミュニケートしようとしているのだろうか。いずれにせよ、確かなデッサン力と共に、独特の視点で描き出しているところに注目した。(磯部靖)

 吉武弘樹「打ち上げ」。森林に囲まれた大きな湖。その上方に向かって点景で打ち上がるロケットが描かれている。雄大な自然と小さな人工物の対比が、クリアに描かれているところがおもしろい。パノラマ的な視点の中に、どこか幻想的なイメージが見え隠れし、鑑賞者を作品世界へと引き込むようだ。(磯部靖)

32室

 富田郁子「愁─のうぜんの咲く頃」。画面の左下に裸婦、右上にトルソが配置され、そのどちらにも図案が施されている。周囲には同じく装飾された雅な反物が広がっている。全体に艶やかではあるが、派手な印象はない。そして画面の左下や右側中央には、ノウゼンカズラがいくつか描かれている。この花は夏から秋にかけて花を咲かすが、その時節特有の、どこかノスタルジックな憂いが画面を通して伝わってくる。そういった静かで深い情感がこの作品の魅力である。(磯部靖)

 勝部桂子「窯 1」。一人の裸婦とその背後にある影を中心とした、アルカイックなイメージが強く印象に残る。ぐいぐいと描き込み、堅牢なマチエールを作りながら、見応えのある作品として成り立たせている。(磯部靖)

33室

 辰巳ミレイ「家路 Ⅰ」。手前から奥に道が二手に分かれながら伸び、その間に家屋が建っている。その強い存在感が印象的である。じっくりと画面を描き込み、そこにどこか幻想的な雰囲気を纏わせているところがおもしろい。画面の右下に帽子を被った人物の影が見えるのもミステリアスだし、一つの物語性を作品に与えているようで興味深い。(磯部靖)

34室

 森本憲司「白鳥」。霧がかった湖にたくさんの白鳥が描かれている。それぞれの様子が細やかに捉えられている。肌に迫るようなひんやりとした空気感もまた魅力である。(磯部靖)

 鈴木修一「C14」。画面にいくつもの骨のようなフォルムが描かれている。そしてそれらを大きな動きが包み込み、また、細い白や黄、赤、青の曲線が取り巻いている。生と死、破壊と再生を行き来するようなイメージが、ダイナミックに描かれ、強い説得力を孕んでいる。(磯部靖)

〈彫刻室〉

 佐藤健次郎「生きる A」。自然の大きな板を台座にして、その上にこの二つの女性のフォルム、組みあったブロンズを置く。無重力のような状態。上方に向かって浮き上がっていくようなかたち。浮遊する中にあらわれてくる人体のフォルム。それらがどこかゆらりと揺れる海草のようにも樹木のようにも見えるところが面白い。(高山淳)

 渡邉寿美華「律」。若い女性が立っている。ショールを身にまとって、その先を両手で引き寄せながら腕を組んでいる。両足にほぼ均等に重心を置いたかたちで、シンメトリックな中に静かな緊張感が生まれる。内向的な瞑想的な雰囲気もあらわれる。(高山淳)

 水野智吉「風に向かう」。豊満な裸の女性が両手を後ろに引いて、左足を前に出して、なにか迫ってくるようなかたち。すこし口もあけられ、目は大きく開かれて、強い波動があらわれる。奥行のある豊満なボディ。こんな女性と出会うと逃げ出したくなるような迫力がある。モデリングが見事だと思う。全体に比べてすこし両手が小さい。このポーズ全体のフォルムを見ていると、かつて能役者(男)が裸で演技して、その様子を師匠に見てもらったという逸話を思い起こすところがある。着物を脱いだネイキッドなヌードというのではなく、本来の肉体が存在するわけで、なにも衣装を着る必要もないそのフォルムのなかでの表現であるところが、実に面白く思われる。(高山淳)

 峯田敏郎「記念撮影─鮫ヶ尾城の風─」。丘の上に少女が立っている。左手に百合の花を持っている。その丘に樹木の影がくっきりと捺されている。作者に以前、教え子の中に自殺した少女がいて、それが自分のテーマに深い影響を与えていると聞いたことがある。この少女は現実のものとは思えない。お棺の中にいる存在のようだ。白く塗られた中に朱色がその衣装につけられているが、その朱色はいわゆる呪術的な墳墓の中の色彩のように思われる。そして、目を見開いて、イノセントな純潔な雰囲気で立っている。少女の魂ともいうべきものを彫刻する。丘に深く捺された樹木の影には、シャドーのような深い意味合いが感じられる。(高山淳)

 菅原睦「滴り」。歪んだ球形のようなフォルムが四つ積み重ねられている。いちばん下にあるのがいちばん大きく、左のほうにすこし突起があって、片口のようなイメージを思わせる。その上に上下より左右が伸びたかたち。その上には縦のほうが伸びたかたちがあって、それは二番目に大きい。手前に突き出て、その先が銀色に彩色されている。その上に紡錘状のフォルムがいちばん小さく置かれている。その四つの組み合わせがユーモラスで、独特の空間の中の存在として発信してくるものがある。側面から見ると、奥行は意外とないことがわかるが、正面から見ると、左右に広がったかたちが豊かな雰囲気。三百六十度の方向に向きもムーヴマンも微妙に異なるものが四つ積み重ねられて、お互いがハーモナイズする様子は愛らしく、鑑賞者を引き寄せる力がある。(高山淳)

 本郷寛「サワミ」。二十歳ぐらいの女性がワンピースを着て立っている。腕をくの字形に曲げて、両手の先が八の字形に開いて、掌が鑑賞者のほうを向いている。すこしほほえんだ顔。ボディに対して顔がすこし大きい。おかっぱの頭。一見して、仏像でいうと北魏の様式を思う。東京国立博物館にも北魏の顔の大きな彫刻があるが、それを連想するところがある。つまり、少女の像を彫ったというより、もっと異なった霊的なものをここに引き寄せている。すこし上体を前に倒している。そして、語りかけてくる。足はきっちりと閉じられている。その閉じられた足からV字形に広がっていくフォルムのいちばん上に頭があるわけだが、若干屈み込むように語りかけてくるが、口は閉じられて、目は見開かれて、巴旦杏ですこし大きい。少女の像をつくりながら、そのまま仏像にもつながるような精神性の感じられるところが面白い。(高山淳)

 石谷孝二「想雲」。雲の端が渦巻きになって、片方の端は細くなっている。それを三つ組み合わせて、それにはさまれて十三日ぐらいの月が置かれている。月はアルミのような金属に彩色して、小さな釘で打たれている。木の表面をそのような金属で覆って独特の手触りをつくる。最近、平等院の飛天が公開されて人気を呼んだが、この作品は雲の上に乗る飛天の代わりに月を置いた斬新なイメージである。神仏習合的な世界である。月を見ながら、そこに阿弥陀如来などを連想させるような、月そのものを崇高なものとして雲の上に置いて表現した。独特の豊かで大きな波動が生まれる。木に白く彩色した雲と黒く彩色した雲の三つのフォルムのあいだから、大きく十三夜の月が浮かび上がる。小さな光る釘でアルミの薄い板をそこにコラージュしているのだが、作品の周りを見ながら鑑賞者が動くたびに色彩が変化するのも楽しい。(高山淳)

 佐藤忠博「まどろみ」。向かい合って二頭のゴリラがいる。小さなゴリラは全身がつくられて、腕を組みながら居眠りしている様子。片一方はそのゴリラの頭を巨大にして台座の上に置かれている。そのあいだにデコボコのもの、あるいはカーヴしたものが連絡していて、大きな手が向こうから出ている。ゴリラは夢を見ている。夢を見ているなかで、その頭や手やこのデコボコしたイメージがあらわれてくるのだろう。夢の中の自分自身の像を右のほうに描いて、それを想念しているゴリラを左に置くというユニークなコンポジションに注目した。(高山淳)

 三島樹一「生物礼讃 その2」。五つの種のようなフォルム。ソラマメをむいた形が五つ現われたような不思議な存在感を放つ。上下の二つのフォルムによってできていて、そのあいだに赤やピンクや青や緑などの色彩が使われているのも楽しい。(高山淳)

 本郷芳哉「彊」。アルミと思われるが、叩いて、もこもことした雲のようなフォルムが生まれる。エネルギッシュなかたちで、そのフォルムはまた竜のようなフォルムと重なる。激しいエネルギーがこめられたかたち。そして、その存在は静止していず、どんどん膨張し動いていくようだ。そういった存在と時間の二つの軸の中にあらわれてくるエネルギーのベクトルともいうべき姿を表現して面白い。以前よりますますその方向にパッショネートなものがあらわれてきた。(高山淳)

 宮崎みどり「水流迫」国画賞。抽象的なカーヴするフォルムの下方に女性が仰向きに足を伸ばして、脱力した雰囲気で存在する。その足の先は岩のようなものにつながっている。水死体のようだ。樹木の肌が白く浮かび上がってくる。一部黒く、あるいは青く彩色しているところもあるのだが、そのあいだから浮かんでくるその色彩がなにか空しいような、不思議なリアリティを醸し出す。二〇一一年の津波で亡くなった人に対するイメージから、このような彫刻がつくられたのだろうか。(高山淳)

 黒沼令「潜心」。青年が座って右足を伸ばし、左足は立てて、その左足の前に両手を置いている。どことなくロダンの「考える人」の別バージョンの雰囲気がある。フォルムは木の片を組み合わせながらつくっていて、その組み合わせた一部が空洞になっている。それがこの作品の一つの見どころとなっている。その継ぎによって、この作品全体に独特のリズムが生まれる。彫刻としての基本的な優れたフォルムに加えて、そのリズムが痛々しい雰囲気もあるし、現代という時代の象徴的なイメージをそこに表現する。(高山淳)

 笠原鉃明「月の道」。青く塗られた木材の後方に男の顔が埋まっている。ほとんど唇まで埋まっていて、それは水の中に浸かっている様子。波紋が同心円状に広がっている。その顔の前に二つの葉をもった植物がのぞくのだが、画家によるとトンボの羽のイメージだそうである。儚くもろいもの。男の後方は円弧をなしていて、そこに金や銀の箔が貼られている。そのフォルム全体が三日月から半月を思わせる。水が月を映している。波紋が広がっていく。そういった中に瞑想する男の顔。繊細な中に過ぎていく時間や生命の印。そういったイメージをこの男の浸かる液体の中に表現しようとする。作者のシャープな優れた造形力があって可能な表現。(高山淳)

 藤田英樹「雲~ただよう~」。少女が仰向けに寝ている。両手を握って、足を伸ばしている。その乗っている下の四つのフォルムを見ると、雲を思わせる。雲が空を漂うように、漂う人間のイメージをつくったのだろうか。少女の体は彩色されている。漂うにしては硬直したような雰囲気で、そのフォルムと周りの雲のような柔らかなフォルムとが面白く対照される。ボディを通して、この少女の頑なな純粋な意思とか精神の佇まいを感じさせるところが面白い。(高山淳)

 瀧澤春生「求めつづけてその声をきく」。波形のフォルムの上を太った猫が歩いている。その前の波形の下方にもう一匹の猫がぶら下がっている。まるで猫の影のような雰囲気。あるいは、俗にいう心のシャドーのような雰囲気で猫がぶら下がっている。猫という獣の本能的な要素を内部にもちながら人間と接している存在。猫に仮託して様々なイメージを人間は表現してきたが、今回はぶら下がっている猫と歩く猫、その虚と実、実と虚の二つによって、なにか不思議な心理学的なイメージがあらわれる。下方は白い台で、そこに影が映っていて、その影を見ているのも、なにか楽しい。実と虚と影によって独特の空間が生まれる。(高山淳)

 花田嘉雄「つぼみ」準会員彫刻部F氏特別賞・新会員。白木の材木の上に二つの顔がある。中心はお月さまや太陽に顔を描いたように、まん丸な中に目、鼻、口がある。それが後ろに五弁の萼のようなもの、花びらの中に包まれている。後ろを見ると、そこには茎があって、花の蕾をこの二人の女性のようにイメージして表現したことがわかる。愛らしい。日本人独特の植物との親和力からしぜんと生まれた表現のようだ。しかし、ヨーロッパの中世に太陽や月を擬人化した顔で表現したものもあるから、そういったイメージも引き寄せながら、中世的なヴィジョン、物質的でなく、もっと深いイメージによる彫刻表現として面白い。(高山淳)

 根本春奈「貪食」新人賞・新準会員。座っている女性。おなかが出て、ずいぶん太っている。頭が体にのめりこんでいる。頭髪の部分が花になっていて、この太った女性を愛らしく感じさせるようにその花を置いているが、すこしブラックユーモアふうな雰囲気もある。胴体と足とのあいだ、一部が壊れていて、それを金継などしている日本人の感性。切断されることによって、逆に動きや変化が生まれる。両掌に食べ物が置かれていて、それを眺めている女性。拒食症の反対で、食べていなければ気が休まらないという、そんな不安感の女性のイメージを面白く表現する。(高山淳)

 冨森士史「ジャンヌ・ダルク(In the Storm)」会友賞・新海賞・新準会員。鉄を素材にしてオートバイに乗る女性をダイナミックに表現している。髪のウェーブやその髪をくくっているものなどが背後に翻って、まるで天使の翼のようにさえ感じられる。動きがある。車も、前輪は車であるが、後輪は馬の後脚になっている。腕から先は五本の線状のフォルムになっている。ねじれるような曲面のかたちが画面全体に行き渡り、トータルで動きのある抑揚のある、しかも優雅なかたちが生まれる。ジャンヌ・ダルクのもつ処女性と純潔性とパワーを、現代のオートバイに乗る女性に仮託して見事に表現する。(高山淳)

 有馬寛子「明日を待つ」。大理石を磨いて、しっとりとした独特のカーヴをつくる。扇形のそのフォルムが重ねられながら優雅なメロディが奏でられるようだ。独特の感性で、触覚的な力を十分に利用して、ちょうど巻貝がだんだんと自分の貝の形をつくるように、画家は大理石でイメージを紡ぎながら不思議な時間の積み重なった層をエレガントに造形した。そんな感想をもった。(高山淳)

 林宏「はじまりについて」。大理石の円形の形を三つに切断している。一つは、その大きなところに黒い御影を球形にカットして、そばにもっこりとした二つの樹木。二番目の大きさの大理石の上には、樹木の上に座る少女。もう一つには、黒御影の球状の形をカットして、前述したものより小さなものが置かれている。黒大理石の上には経線のようなものが彫り込まれている。宇宙的なイメージ。そして樹木と人間。それぞれの質感を変えながら、まるで夢の中に世界の始まりを夢想するようなロマンティックな世界を表現する。(高山淳)

 西村公泉「プラナの振動」。二つの円状のフォルムの上に空手のような動作をしている男を置いている。二つの円の台座は反対方向に移動して、それを回すと、このポーズの男が回りながら上下し、傾き、独特の動きをつくる。楽しいユニークな武道家の彫刻である。(高山淳)

〈野外彫刻〉

 大成浩「風の地平線―蜃気楼 Ⅳ」(部分2)。抽象的な表現で、中心が楕円状の柱になっていて、上方が水平に伸びている。その柱に左右からカーヴする切り込みが入っている。また、左右に伸びる断面はぼそぼそとしたかたちで削られて、下方の柱の部分は滑らかにつくられている。それによって断面が風を受けているような独特のイメージが生まれる。たしか、この作品を富山県のどこかに並べたものを見た記憶があるが、それはまさに風の蜃気楼のような不思議なイメージを醸し出していた。連作の一つで、強い存在感を放つ。(高山淳)

 岡野裕「人間に気付かれないように移動する方法」。茶色の御影石の方形のフォルムの中心が彫り込まれて、真ん中からカーヴして凸状にあらわれてくる円形のフォルム。きわめてエネルギッシュで、大事なものが方形のボックスからあらわれてきたかのようだ。きわめてシンプルな遺跡のイメージも、そこに感じることができる。強い想念がこめられている。小さな彫刻であるが、巨大な空間を連想させる力がある。(高山淳)

 原透「特異点のある石 12」。特異点のことは英語でシンギュラー・ポイントというが、立方体の角を曲げて内側に引っ張って穴をあける。三つのクローバーの形がそこにできる。その穴をのぞくと、向こうに石が見える。石という固く層をなす存在を、まるで豆腐やチーズのように滑らかに扱うというイメージがまず面白い。そして、のぞきこむと、もう一つの石がそこから見えるというコンポジション。その三つの稜線がその部分でカーヴし、引っ張られて曲面になり、不思議な力をそこに表す。造形の楽しい冒険と言ってよい。(高山淳)

〈版画室〉

 世古剛「Mask IX Dedicated to Léone」。二つのマスク。一つのヴァイオリン。チェロかもわからない。そして、起き上がり小法師のようなフォルムの上にマスクがつけられている。「かのニーチェもつぶやくなり。“すべて深いものは仮面を愛する。”“すべて深い精神は仮面を必要とする。”『善悪の彼岸』」。というコメントが作者本人によりつけられている。ピンクや緑の華やかな背景に、不思議な二つの仮面を中心としたコンポジションである。祭りの前夜のようなイメージがしぜんと漂う。画面に入れられた強いエネルギーがこの作品の魅力だと思う。そのエネルギーをフォルムと色彩によって表現する。(高山淳)

 小原喜夫「天川 7」。上方両側に不思議なU字形のフォルムが見える。勾玉ふうなフォルムが重なって、一種ユーモラスであると同時に神秘的な雰囲気でもある。そして下方には、仏の顔が渦巻くような風の流れる夜空に浮かぶ。不思議なプリミティヴなパワーが作品から感じられる。「天川には、水と大気のパワーが満ちあふれています」(小原喜夫)。(高山淳)

 サイトウ良「瞑─天空─生」。円の中心よりすこし上に球が浮かんでいる。そこから左右に放射状に翼のようにシャープな曲線が広がる。円の中には白い雲のようなイメージがあらわれ、花もまたあらわれる。「霊性、スピリテュアリティ、心の深奥のはたらき等々想像してみました」(サイトウ良)。不思議な虚空の曼陀羅のようなイメージと言ってよいかもしれない。球を中心とした不思議な奥行のある曼陀羅的なイメージが、透明な青やベージュを中心として広がる。黒や青、紫の放射状のフォルムは、いわば台座のようなイメージで、その上に静かに球を載せる。その球がきわめて大切なもの、仏の座を示すようだ。(高山淳)

 園城寺建治「Sea of Trees -eternity-」。たくさんの樹木が連なって、海のような空間をつくる。そこに川が流れている。裸の女性がスカイダイビングをしている。小さくそばに鳥が羽ばたき、船も浮遊している。森をバックにした不思議な幻想。森のもつ強いイメージが人を自由にする。「悠久の時の流れ。大気と自然。今ここにいる私」(園城寺建治)。(高山淳)

 藤田和十「望郷」。山の青が神秘的な雰囲気で上方に描かれている。白い雲が浮かぶ。そこから光が射している。その下方には水が流れてきているようだ。青のもつ独特の透明感と深さのある色彩が、高い山や清冽な水のイメージを表現する。人界と隔絶した霊的な自然のもつ魅力を表現する。「ノスタルジーの思いに浮んだ世界。遠近法に工夫しその構成に力をそそいだ。斜光は一つのポイントである」(藤田和十)。(高山淳)

 米倉泉「Revelation 1503」。巨大な樹木が描かれている。千年ぐらいの樹齢のある存在の霊的なイメージがしっかりと描かれる。木と木のあいだの青が神秘的な空間を表す。(高山淳)

 小山秀弘「仮面 E」。女性の顔、あるいはその目、指などが優れたデッサンで表現される。周りに蝶や花、砂時計。砂時計のそばには男の目と鼻がアップで描かれている。男女の愛の儚いイメージをロマンティックに表現する。優れたデッサン力に注目した。(高山淳)

 木村多伎子「ななかまど(冬)」。墨版を中心にナナカマドの赤と女性のセーターの青の二色が使われている。色数を制限して、逆に華やかさが生まれるところが面白い。ナナカマドの枝が墨版によって見事に表現される。網の目のようなそのフォルムの伸びていく姿は、生命というものの凜然とした気配を示すようだ。それに対して女性の上半身は柔らかなシルエットで、もう一つの生命の表現と言ってよい。余白が生きている。「ななかまどは夏に赤い実を結ぶ。秋を過ぎ、雪に埋もれても、その赤は白の世界に輝く、多くの北のマチのシンボルとなっている」(木村多伎子)。(高山淳)

 大山恵美子「スマホパーティ」。三人の少女の横から見た全身像が比較されながら、スマホをいじる様子にいまの風俗的側面が生き生きと浮かび上がる。墨版のみの表現が逆にしっとりとした味わいを醸し出す。銅版である。「日々時は流れて行きます。流れて行く時代の中に、時に輝く女性たちを描いて行きたい」(大山恵美子)。(高山淳)

 白鳥勲「有りのまま」。テーブルと思われる空間に、ポットや不思議な形をした花のようなフォルムや鳥のようなフォルムがあらわれている。目だけが線の中につくられたフォルムもある。背後は緑で、そこにも鳥を思わせるようなフォルムや飛行機を思わせるフォルムが浮かんでいる。スポットライトに満たされた赤い矩形の色彩とハート形の色彩。しんとした中にじんわりと寄せてくるものがある。静寂のなかにものの存在が静かに強くなってくる。その立ち上がってくるイメージ。とくにグレーの中の赤は光るように輝いている。その赤は命のイメージを伝えるのだが、そのまま凝固して結晶して、まるで深いルビーのようなイメージを表す。不在のイメージと言ってよいかもしれない。不在であるがゆえに迫ってくるもの、輝いてくるものを、画家は描く。あまり構成にこだわらず、ノンシャランに、見えるがままに描くことによって、逆に空間にすごみが生まれた。「妻を亡くし、遠ざかっていた(いつも2人で行っていた)軽井沢のアトリエに1人行き。森の中の夜のテラスでの【私の心の中の 有りの儘】愛別離苦」(白鳥勲)。(高山淳)

 圡屋敦資「森の標 15─1」。和紙といっても、もっとしぜんな紙にプリントされてある。その中の葉の形や二重丸やこんじきの文字を表しているような、光るようなフォルム全体でふかぶかとした自然のもつ神秘的なイメージを伝える。「山に自然に落葉している『カラマツ』の葉を材料にハンドメイドで紙を作り、この紙に凹版刷りを行っている。【恵みの雨】により育まれる豊かな自然を表現したいと考えている」(圡屋敦資)。(高山淳)

 奥野正人「おんな〈眩惑楚々〉Ⅱ」。樹木を背景に若い女性のヌードが描かれている。後ろから見たお尻から上のフォルムに独特のエロスが感じられる。背後の冷気の中に女性の肌の熱が対比されているといった、そんな不思議なコントラスト。ユニークなコンポジションである。(高山淳)

 我妻正史「あの日の記憶 015」。二〇一一年三月十一日の東北を襲った地震。それによって街がすべて消えたところもある。そういった激しいうねるような力を作者は画面の中に引き寄せて、その中に希望のオレンジ色の光を与えた。緑や黒のしっとりとした調子。しかし、鋭角的なフォルムは激しい動きのようなコンストラクションになっている。それにはさまれた暗いバックの中の赤やオレンジの輝いている様子は切ない。「目に映るものではなく、風や空気、音、光など見えない部分をどう表現するか、廃墟のなかのどこかで小さな花が咲けたらと祈りながら制作しました」(我妻正史)。(高山淳)

 笠井直美「GrowingⅠ」。伸びていくエネルギー。そして、そこにあらわれてくるブラックホールのような穴。この抽象的形態はなにか不思議な生きた顔のようなイメージが生まれていく。無限に伸びていく生命力と、その中の恐ろしいブラックホールのような力があいまった独特の表現になっている。「くり返し、くり返し花を咲かせ、実を結ぶ……。生長し、持続する植物の生命のたくましさをかたちにしたい」(笠井直美)。(高山淳)

 塩崎淳子「慈雨」新会員。結跏趺坐した観音像である。ほとんど女性の姿と言ってよい。強いエロスと一種暴力的な力がこの線描きのフォルムの中に引き寄せられる。「心にある畏れを除き、煩悩の業火を癒す甘露のような菩薩の姿を刻みたかった。澄んだ清明な眼で世の中を見つめる事が能うように」(塩崎淳子)。(高山淳)

 髙橋保「祭(異空─83)」。万華鏡的な曼陀羅になっている。花やアメーバのようなフォルム。輝くような極彩色のフォルムが七つ、円弧を描き、その中心に光背のようなグレーのフォルムがあらわれる。それを背景にして、燃える炎のようなイメージ。七つの不思議な種子のようなイメージは背景は緑で神秘的で、その周りをウルトラマリンのブルーが覆っている。一種宇宙的な虚空の中に祈るような心持ちの宗教的な世界が花開く。「宇宙は壮大で永遠である。それに較べれば地球はほんのわずか、そして人生はそのごく極くわずかで儚い」(高橋保)。(高山淳)

 下井美智子「廃墟(Ⅱ)」版画部奨励賞。コンクリートの壁、コンクリートの床。そこに倒れた折り畳みのテーブルのようなフォルム。半ば壊れている。暗い室内に、左上方に窓があけられて、白く輝いている。しっとりとした室内のグレーのグラデーション。触覚的なキメ細かな表現。(高山淳)

第60回記念新世紀展

(5月2日〜5月10日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 神戸正行「宙 27─1」。縦長の画面で、一対二ぐらいあるだろうか。型で一つのフォルムをつくり、その上に和紙を何枚も重ねて、独特のマチエールとグレーの中の柔らかな色彩を表現する。満月がこの画面全体に差し込んでいるような、柔らかな雰囲気がある。その中にレリーフ状に矩形、あるいは段ボールのように筋のあるもの、あるいは半円形などのものが徐々にあらわれてくる。あぶり出しのような効果である。現実と瞑想的な空間とが重なりながら、独特の詩情を表現する。

 佐藤一成「旅」。画面の中心に女性の胸像が描かれている。顔が縦に引き伸ばされて大きく、手は小さく、優しい表情でほほえみを浮かべている。それは黒い調子で描かれている。周りはベージュ系の色彩で、いわば逆光の中にいる存在のようであるが、女性のフォルムは一種彫刻的な強さがある。周りの月明かりを思わせるような明るさの中にしっとりとした雰囲気で立っている。周りにこの女性の全身像が入れられている。ヌードもあるし、衣装をつけた姿もあって、何体も左右にそのフォルムがある。いわばこの女性に対する深い思いがテーマになっている。

 岸本恵美「ちいの部屋」。画面の上方に横になったちいの顔をほぼ正面から見たデッサンがある。両側はオレンジ色のバックの上に、ちいをフィギュアにしたようなフォルムが描かれたり、激しく降る雨の、エネルギッシュで動くようなコンディションが描かれている。真ん中には長方形の二つの色面で、中心には青い空の下の建物。下方にはちいの足跡のようなイメージが置かれている。おそらくちいはすでに亡くなった犬で、その思い出をここに描いている。描くことによって、死んでしまったちいが生き生きと画面の中によみがえる。単に肖像だけではなく、ちいと一緒に歩いた道などのイメージも引き寄せられて、独特のムーヴマンがあらわれる。

 三浦敏和「アメリカ村(壁)」。アメリカ村は大阪のファッションの集合したところである。御堂筋とはまた違った独特のバタ臭さと生活感など、様々なものが混在するところである。今回はグレーとブルーを中心としてひんやりとしたトーンのなかに表現している。このトーンは独特で、画家の本来の持味と言ってよい。下方にワーナー・ブラザースのキャラクターの一つを印刷したTシャツ。上に上着が掛けられている。マネキンである。真中には茶色い帽子をかぶった人形。後ろには男性のファッションがマネキンにつけられている。そばにエスカレーターが下りてきていて、外人さんがこちらに歩いてくる。青いジーパンをはいて長いショール。左手で首のあたりを触りながら歩いてくる様子を、優れたデッサン力によって表現している。このアメリカ村の様子を象徴するものとしてこの人物が入れられている。周りにはブランドの名前や香水瓶、車、あるいは靴などが配置されて、深いリズムが感じられる。自然体のなかに大阪のもつ独特のセンス、生命力を引き寄せる。昨年のパリとブランクーシをテーマにした作品とは少し異なって、大阪の鼓動が伝わってくるようなコンポジションである。

 森長武雄「集い」。画家は徳島の海岸で育ったという。その頃の記憶が最近、繰り返し画面の中に引き寄せられるようだ。画面の下方に三人か四人の少年少女が集まっている。手前の少女は足を投げ出して座っている。その衣装と横の三人の子供たちとのあいだにライトレッドの色彩が置かれている。まるで太陽そのものを引き寄せたかのような鮮やかさである。それはハートの色彩であるし、同時にノスタルジーの色彩でもあるだろう。そばに人体のトルソのようなものが白いフォルムで浮かび上がる。上方には犬のような生き物などがいて、左側にも子供の顔のようなものが線描きで入れられている。上方には青い透明な色彩が入れられている。コバルトやセルリアン、ウルトラマリン。その色彩自体がなにか水のイメージを引き寄せる。全体に大きくカーヴするフォルムは、作者の意図とは違うかもしれないが、船のようにも感じられる。そして、上方に地平線があらわれて、空に柔らかな黄色やジョンブリヤン系の色彩が入れられて懐かしい。そのグレーの地面と空との際のあたりの位置が画面の奥のほうにあって、その位置によって大きな空間が生まれているところも魅力である。

 藤田禅「命への鳴動」。最近、天皇陛下が日本兵の亡くなったペリリュー島に行かれた。いまでも南方の海の下には沈められた船や遺体があるだろう。そういったイメージをこの作品から感じた。計器のようなものが下方にいくつもあって、壊れている。上方に円弧のような太いフォルムが幾本も立ち上がって、まさになにか鳴動しているものがある。サギの頭のようなフォルムが右辺から突き出してきている。下方には海があり、海はそのまま雲や空と重なるのだが、そこに大きな土星のようなフォルムがあらわれている。過去から発信してくる強いメッセージを画面の中に表現する独特のコンポジション。

 田村敏子「渦刻」。題名が面白く、渦巻く刻。黄土色のテーブルの前に赤い上衣を着た女性が立っている。テーブルの上には大きなお皿があって、花のようなものが置かれていて、穏やかな雰囲気なのだが、そこに黒い犬があらわれて、激しく吠えたりしながら情動を引き起こす。テーブルの下にも犬の顔があらわれている。数頭のこの犬は平和な時間のなかに侵入してきている。その動きが波紋のようにこの室内に浸透して、実際、円弧のようなフォルムも斜めに描かれている。それを受け止めた女性の放心したような表情がまた面白い。色彩は独特のコクと輝きをもつ。

 冨永之廣「流れの図『焦月から白露へ』」。二つのキャンバスによってつくられている。一双と言ってよいのだが、右のグレーの地のフォルムは左の淡いグレーより、パネルの厚さだけ手前に出てきている。右が夜とすれば、左は朝とか昼のイメージ。その中に和紙を貼り、独特の韻律をつくる。人間や樹木や様々なものすべてをいわば自然の一要素として捉えて、それらが呼吸するような、そんなリズムを画面の中に表現しているところが面白い。

 川井雅樹「ELEGY(証言者 Ⅲ)」。二〇一一年三月十一日に津波が東北を襲った。たくさんの人々が亡くなった。そのことに対する深いレクイエムから、このようなコンポジションが生まれたのだろう。画面の中に「止まれ」という文字が見える。ストップ。交通標識が散乱し、人形たちが倒れている。それはそのまま人間の比喩だろう。止まれというところを走っている二つの人形のシルエットが見える。激しい破壊のあとの散乱した風景を画面の中に表現する。

 紀井學「饗艶の刻」。両側に白いトルソのようなフォルムがあらわれている。それに囲まれて中心に、赤い頭に緑の胸、オレンジ色や緑や赤のストライプの足のようなフォルムがあらわれる。また、それを囲むようにその後ろ側にも白いトルソの上部のようなフォルムがあらわれる。森の中のイメージ。画家の絵を見るごとに、縄文的な要素を感じる。弥生時代の以前、日本には約一万年ほどの縄文時代があったという。世界でも珍しく長い歳月のなかで自然と深くかかわりながら命を育んできた。土偶や縄文土器のアルカイックな形なども当時の日本人の心が伝わってくる。画家もまた自然の中に深く入って、自然のもつ草や木や植物や様々なものを活性化して画面に引き寄せ、全体で交響楽のようなフォルムをつくろうとする。赤が命のパッションを表す。両側の白いトルソのようなフォルムは、長く生きてきた樹木のようなイメージだろうか。そのあいだに海を引き寄せたような青や花盛りのようなカラフルな色彩、あるいは冬の雪のイメージなども入れられて、まさに自然讃歌、饗艶の森のイメージがあらわれる。

 岩崎奈美「約束の日」。レトリーバーだろうか、大きな犬の横から見た姿が懐かしく描かれている。右下には顔だけ横から眺めた図。下方には植物の葉。上方に馬の俑のようなフォルムが見える。柔らかな緑やグレーの中にこの犬の存在が生き生きとあらわれる。下方には青い鳥が翼を広げている様子が描かれているのも面白い。その鳥の姿がそのまま青い空を思わせる。自然と深く交感するイメージのなかに生き生きと犬を表現する。

 足立慎治「幾つもの夜を越えて」。ベッドに横になった生まれてしばらくの男の子の姿。その周りは紙をちぎったようなものをコラージュして、その中にこの子供が現れてくるといった構図をつくっている。一日一日の夜がこの破られた黒い紙のようなイメージなのだろうか。その集積に対して、命の貴重な、かけがえのない姿の子供があどけない表情で遠くを眺めている。

 金子久子「時・過ぎゆく(Ⅰ)」損保ジャパン日本興亜美術財団賞。ワンピースを着た女性が立っている。風に髪やスカートがすこし靡いている。背景は灰白色の中にすこしベージュを入れたような色彩。強いマチエール。街の中を吹く風。そこに立つ女性のフォルムをしっかりと描く。

 中神ふみ子「記憶の中の未来 Ⅲ」。画面は重層的な時間の積み重ねのなかに表現されているようだ。上下に暗く流れる川のようなイメージがある。それはそのまま流れていく時間を表すようだ。その中心あたりにレースのようなフォルムがのたうつように入れられ、中心に黒い円が見える。その中にシャープな赤い筋もあらわれるし、柔らかな緑や青なども入れられて、豪華な雰囲気もある。その中心の渦巻くようなフォルムが画家の今という時間だろう。過去となって葬られるのではなく、現在進行形で動いていく様子。その後ろには過ぎ去った時間の流れが川のようにあらわれている。そういった中に未来に向かって動いていく時間がある。そんなイメージをしぜんと感じる。また、十字形のコンポジションになっている。それが力強い。

 小枝真紀「APES」和田三造賞。画面の中にゴリラの頭部のデッサンが六枚貼られて、独特の面白さ。ゴリラの表情を描き分けている。瞑想ふうな顔もあるし、横目を使っている様子もあるし、沈んだ雰囲気の顔もある。そのどっしりとした量感のある頭部を六枚並べることによって、ヒューマンな味わいが生まれる。優れたデッサン力が、このゴリラに接近して独特の力を引き寄せる。

2室

 向芝節男「映」。水面が描かれている。三ヶ所、そこに樹木や空が映っている。そのあいだはもやもやとした不透明な緑のたらしこみふうな色面に覆われている。三ヶ所の木の倒立したかたちがお互いに響き合う。あいだに太い樹木の幹のシルエットがあらわれているところが面白い。さらに面白いのは、大小の鯉が泳いでいることである。ぬるんだような不透明なこの池に生きている鯉があらわれることによって、この空間がより深いイメージを表す。水の中の虚像と思っているなかに実像としての鯉があらわれる。よく見ると、右のほうに何尾か、右下まで小さな鯉が泳いでいる様子があらわれてくるところが面白いと思う。水がそのような魚を生かしている存在。そんな厚みのあるイメージであらわれているところが面白い。

 金井哲子「あしたへ(Ⅰ)」新世紀美術協会奨励賞。画面全体に温かな感じがある。それは暖色の色彩の組み合わせによるのだろう。上方に母鴨がいて、子鴨が三羽。卵が四つ。蓮の池を泳ぐ鴨の兄弟。左下には父親の鴨のような雰囲気の鳥が立っている。右のほうにも二羽の鴨。それを茶系の色面や格子状のフォルムなどでつなぎながら、独特の幸せ感に満ちた空間をつくる。画面に引き寄せられた光が強い充足感を与える。

 大形美知子「夢の曲がり角 Ⅱ」池上浩賞。画面の真ん中よりすこし上にアコーディオンを弾いている女性が描かれている。女性の黒髪が上方に伸びていっているのが面白い。メロディに触発されて、髪も動くのだろうか。女性の周りは紅色が使われて、その後ろは黄色やオレンジ色で、生命的なイメージがそこにあらわれる。大きな観葉植物がいくつも描かれ、その連続の中にエネルギッシュなイメージがあらわれる。その植物の向こうから猫が足を伸ばしてジャンプしている。下方にはブーメランのようなフォルムや楽譜の断片などが置かれて、右には白い道のようなフォルムがあらわれる。Buaという文字も見える。下方には井桁絣の裂がコラージュされている。画面全体の中に響いてくるものがある。それぞれが静止せずに動いていく。そのベースにあるのは音楽だろう。音楽とともに生まれたイメージの展開。澄んだ原色の色彩。とくに赤やオレンジや黄色がテンションの高いハーモニーをし、それに対して抑えたグレーやブルー、黒などの色彩がアクセントのように置かれて、全体で楽しい、生き生きとした空間があらわれる。

 長谷川孝子「アカシヤ達のカフェテラス」刑部人賞。両側に上下に立って上っていくのはアカシアの木だろうか。あいだにグレーの大きなテーブルがある。二つのティーカップ。白いお皿にはザクロのようなものが置かれている。黒い花瓶には緑のポピーや紫の花などが生けられている。周りの白い空間は雪を表すのだろうか。全体にしっとりとしたエレガントな雰囲気が漂う。その中にカップや果実、花がひっそりと置かれアカシアの樹木がその枝を広げている様子を、面白くキュービックに構成した。

 小野瀬緑「Landscape I」。白いテーブルに老若男女の首が置かれている。その後ろに二人の少女がいて、上から水がケトルのようなものでまかれて、それがテーブルの周りに溢れて氾濫しようとしている。塀の向こうは緑の草原や山が見える。二〇一一年の東北を襲った津波をモチーフにしてこのようなコンポジションをつくったようだ。それぞれのフォルムはクリアで、画家独特のセンスによって表現されている。この老若男女はみんな亡くなった人々のようだ。ミステリアスな顔をした二人の少女は、そういった災害を起こさせる存在、あるいはそういったものを眺めている不思議な存在のように画面にあらわれている。

 榎原保「忘れてきた学舎 2」。かつて作者が学んだ学び舎が様々なヴァリエーションの中に表現される。作者と建物との関係は非常に近い。いわゆる視覚的な実景の遠近法にのってとっていない。画家の心の遠近感に従って建物があらわれているところが面白い。そして、記憶によって晒されたようなイメージがあらわれる。単に白い壁やベージュの壁ではなく、そのような晒された時間を通してあらわれた独特のマチエールで表現されているところが、この作品のリアリティをつくる。道の先にはグレーの大きな建物が見える。メインの校舎で学び舎である。その左や手前に層をなしながら赤茶色の屋根をもつ建物、あるいは緑の屋根をもつ建物があらわれて、いちばん手前には上方に三角形のシャープな形をもつ、ほとんど窓のない塊のような建物が見えてくる。そして、ふと左下を見ると、そこにぽつんと白い小さなベンチが見える。茶色い樹木が一つ。その白いベンチは画家がそこに座っているイメージ。あるいはベンチが画家であるような、不思議な気配であらわれているところが面白い。上方のダイナミックな建物のコンポジションに対して、孤独な白いベンチがイノセントな孤独感を表す。

 田代晃士朗「武蔵野」大久保作次郎賞。森の中の川。中にごろごろと大きな石があって、ほとんど苔むした様子。両側に様々な樹木や草が生えている。その密集した雰囲気をよく表現する。近景に空と樹木がシルエットに映っている。そのそばには枯れた紅葉した葉が流れから離れて淀んだ中にあったり、枝が見える。よく見ると、水が流れていないような雰囲気。森の中に深く入り、写真を撮り、それを組み合わせながら独特の密度のある情景を描く。

 伊藤勇夫「大和棟─2」。瓦屋根に白壁の建物。たくさん寄せ集められて、お互いに息苦しいほどの近さでそれは構成されている。しかも、内側から揺れているような、そんな強いムーヴマンがあらわれる。民家を使ったユニークな表現である。もうすこし力が加わると崩壊するような、そんなスリリングな気配も感じられる。

3室

 平田睦夫「私の痕跡 Ⅰ」。紙おむつをつけているような老人が歩いている。歩行が困難な顔。苦労して歩きながら日常生活を営んでいる様子が、独特のコンポジションの中に表現される。渾沌とした凹凸のあるマチエールがつくられ、のたうつような空間が感覚的にも視覚的にも画面の中にあらわれ、老夫婦がそこに表現される。

 松下喜郎「邑落変容」。どこだろうか。中東ふうなイメージがあるのだが、定かではない。建物と建物が接近している。そんな中に宮殿のような建物が浮かび上がる。そして、それぞれの建物にパラボラアンテナがつけられている。その無数ともいえるアンテナがこの街につけられている様子が、画面全体に雪が降っているかのごとき情感をもたらすから不思議である。上方ではすこし霞んだ空気遠近法でビル群が描かれている。緑の樹木は一切なく、建物とアンテナだけでこの街がつくられているところが独特で、逆にそれによって人間のヒューマンな味わいが生まれ、哀愁といったイメージもあらわれる。

 森博子「いきるものたち(刻)」。正方形に近い画面にオールオーバーに蟻がいて、様々に動いている。昆虫の一部を運んでいる蟻もいるし、右下では蝶の羽のようなものに取りついているようだ。上方にはつむじ風が吹いている。葉にとりついている蝶もいる。見ていると、グレーの中に様々なものがあって、そこに黒い蟻が様々な行為をしている。それを上方から全体が見えるように画家は描く。見ていると、それぞれの蟻は真剣な様子で、まるで人間の行いを比喩的に上方から眺めて構成した趣がある。強いリアリティが感じられる。

 大杉英郎「聖なる夜に(Ⅲ)」。夜のモン・サン・ミッシェルだろうか。傾いている。上方に三人の天使が現れて、メッセージを高らかに告げている。光がまたたいている。天使も照明を浴びているような雰囲気であらわれている。そんな明暗のコントラストの中に黄色や青、緑、紫などの色彩が入れられて、独特のダイナミックな空間があらわれる。

 速水瑛久「佇む Ⅰ」。画面に近づくと、メディウムを使ってまるで壁のようなマチエールをつくり、そこに彫り込むようにこの植物の枯れた茎を表現していることがわかる。晩秋から冬にわたる野原の一隅。白いところは水のようだ。土があり、そこに枯れた草がある。季節の様子を植物と水によって表現する。陰翳がそこにつけられ、歌を詠みたくなるような独特の情緒のなかに表現されているところが、日本人独特の感性だと思う。

 原ちとせ「鎖された海 Ⅰ」。遠景に軍艦島のようなフォルムが見える。上方に巨大なクジラが泳いでいる。クジラは赤道から南極まで回遊する。そんな自由なクジラのイメージと誰もそこには侵入することができない軍艦島の孤立したイメージが対比される。それは閉鎖と自由といった二つのイメージのメタファーとして表現されているわけで、様々な比喩がそこに可能になるだろう。その強いコンポジションに注目した。

4室

 浅井陽子「見つめる時間」。上方から下方に垂れていくようなフォルム。その横には不定型の三角形の同じようなパターンの小さなフォルムが見える。二つをつなぐ緑の太いライン。グレーの空間の中にドリッピングされた白いフォルム。あるいはジグザグの線。あるいは緑の何列にもわたる点線。画面の中に描いているうちに何かを発見したり、そのうちに夜が来たり、音楽がそこに聞こえてくる……。様々なイメージをこの画面の中に徐々に入れこみながら、ひとつの空間をつくる。

 ふるた加代「traveler II」。縦長の画面のほぼ真ん中上方にシルエットの女性がいる。裸足で立っている。その膝のあたりに横にグレーの空間があらわれ、そこに五足の靴の写真をコラージュしたり、不思議な書の文字が記号的なかたちで横に連続していたりする。それはイメージの連鎖であり、その先には紡錘状のフォルムが紫をバックに白い波打つような線によって表現されている。その下には、画家の身近にあるものだろう、ペインティングナイフや刷毛や絵具、油に加えて、普段使う香水瓶やグラスなどが置かれている。それが紫の上に白い線によって表現される。一部はナイフの先でこすって線が浮かび上がっている。イメージがだんだんと育って進展していく。それにつれて眼前にあるものがイメージに沿って白い線によって描かれ、それが旅の思い出のなかに入っていく媒介となる。中心は、背景が白く、その白い輝きが活性化したイメージのスクリーンのような雰囲気であらわれているところが面白い。

 中村和子「緑景 Ⅰ」。中村和子は二点出品。「緑景 Ⅱ」は、大きな森を横から眺めているような雰囲気だが、「緑景 I」はそういった存在を上方から俯瞰しているイメージがある。森や道や池、あるいは様々な自然を構成する人間も含めた要素を上方から眺めながら、それがメロディの中に動いていくような、すこし上品でお洒落な感覚に注目した。

 生川香保里「響・Ⅰ」。画面の真ん中につむじ風を表すような曲線のこんがらがったフォルムがある。その周りの青やライトレッドなどの色彩、そして背景の白い空間。なにか強い力がここにあらわれ、動いていく。たとえば竜は自然を象徴する人間の想像上の生き物であるが、そんなドラゴンのようなエネルギーに満ちたものを画面に引き寄せて、この渾沌としたフォルムをつくりだしたかのような力が感じられるところが面白い。

6室

 加藤寿美子「愛しきもの(Ⅱ)」。大きな鳥籠を持つピエロの女性。それに対して右のほうには、座っているピエロの肩に白いインコのような鳥がとまっている。そのあいだにほとんどバックに隠れるように黒いシルエットの女性が立っていて、左手に林檎を持っている。「愛しきもの」という題名のように、深い感情がこめられた作品。上方を見ると、鳥の飛んでいる様子が描かれている。グレーやピンク、青などの色彩が柔らかく使われている。

 阿部弘「記憶の時空 Ⅰ」。刈った稲や麦などによって藁をつくり、巨大な人間の顔が後ろにつくられている。一種縄文的なエネルギッシュなイメージを感じる。手前に少女の胸像ともいえるフォルムがあらわれる。黒い髪にぱっちりとした目で鑑賞者のほうを眺めている。そして、この少女と後ろの藁人形とはほぼ垂直な位置にあるのだが、その藁人形の下方に果実が輝いている様子が、希望のようなポジティヴなイメージを表す。

 紺野加代子「石膏像のある静物」。横から見た石膏像をシルエットふうに描く。お皿の上のバナナ、あるいは貝、長靴、イーゼルなどを面白く配置して、グレーを中心としながら品のよい空間を作る。

7室

 山本貞子「AT THE DEEP RIVER」。ディープリバーとはガンジス川のことだろうか。あるいは、カンボジアやタイのメコン川のことだろうか。いずれにしても、大きな川の向こうにいま太陽が沈もうとしている。手前にたくさんの花が入れられたざるがある。少年はレイのようなものを持って上方を眺めている。手前のざるの花の中に小さなお皿があり、そこに蠟燭が燃えている。背後のシルエットの建物。ゆったりとした水の波。斜光線の中の深い空間。とくに手前の花がオレンジ色に輝いている様子は、深い信仰心の象徴のようだ。

 荒木田和美「繕う」。魚網を繕っている男。U字形に重なった魚網の中心で作業をしている男の姿。手前は白いバックにカレイやキンメダイや様々な魚が黒い輪郭線によって描かれている。一種彫刻的な力強いモデリング。魚網の向こうの水平線まで続く海。モニュメンタルなコンポジション。

9室

 和田依佐子「秘境」。「秘境」は、白く塗られた木製の椅子がほとんど壊れかかっている。右は足の代わりにコンクリートのブロックがそれを支えている。その周りにアザミのような花が咲いていたり、落ち葉を見ると紅葉している。秋も冬に近い頃の季節。周りはたらしこみふうなしっとりとしたオレンジや褐色、紫、茶色の色彩であるが、その中に倒れかかったこの白い椅子だけがクリアに浮かび上がるように描かれている。老年、体調が思わしくなくなるイメージを象徴しているようだ。そばに大きなスギのような木が立ち上がっている様子が、画面の右辺からすこしのぞくように描かれているのが、なにか頼もしい。

 もう一点の「秘橋」は、水の上に木製の橋がかけられている。小さな川だが、そばに点々と樹木が立ち上がって、その幹のかたち、あるいはそのそばに巻きつく蔓のようなもののフォルムが、まるでメロディのような雰囲気で描かれているのが面白い。この橋も相当朽ちていて、いつ壊れるかわからないような雰囲気。柔らかな光がこの光景を染めている。その光の中に幹や枝の一部や蔓などが浮かび上がってくる。橋の向こう側にオレンジや黄色の小さな可憐な花が咲いている様子。なにかロマンティックな雰囲気である。無人の風景であるが、優しい繊細な音楽がそこから聞こえてくるようだ。

10室

 澤井和夫「定年、今」。段差のある地面の上のほうにショベル・カーがある。後ろにキャタピラーの跡が見える。ところが、その先は急に低くなっていって、もうすこし行くと倒壊しそうな雰囲気。空はウルトラマリンの濃い色彩。うねうねと地面が続いている様子はまるで砂漠のよう。定年で会社を辞めて、次の人生のなかで新しく人生設計を組み立てなくてはいけないときのコンディションを、どのようにこの先進んでいいのかわからないような風景の中のショベル・カーとして発信する。

 上田紀子「アダン」。太い剣状の葉をもつアダンの木。そのあいだにパイナップルのような実がなって、オレンジ色の中に黄色い花のようなものが集合したような不思議な果実を実らせている。エキゾティックな雰囲気が漂う。

 田中哲雄「枯れ行く刻」。中景に低いドームのような建物がある。お寺なのかもわからない。その周りは本来、池で、蓮がたくさん育っていたようだが、水が引いて地面が顔を出し、大きな蓮の葉が枯れかかっている。そんな様子を一つひとつ丁寧にクリアに描く。不思議な光景があらわれてくる。視覚としての面白さである。蓮がどんどん死の方向に向かうときの様子が独特の迫力をもって迫ってきて、なにかシュールな味わいを見せる。

12室

 宮城葉子「鏡の中の世界」。鏡の中に、椅子に腰掛けて何かものを書いている人、キャンバスのそばに立っている女性などが映っているのだが、鏡の手前に石でできた手首から先の二つの手の彫刻が置かれている。それが鏡に映っている。上方のテーブルに座る女性たちに対して、その手のフォルムがなまなましく立ち上がってくる。優れた造形力を感じる。

 斎藤文江「卓上の静物」。テーブルの上にヴァイオリンが置かれ、青い花瓶に黄色い花が生けられている。ヴァイオリンの上方に六つぐらいの色鮮やかな蝶が羽ばたいている。青、オレンジ、エメラルドグリーン、黄色などの色彩で、ロマンティックなイメージをつくる。ヴァイオリンの奏でるメロディに沿って現れてきたようにも思えるし、この絵を描きながらしぜんと想念がそのようなイメージを引き寄せたようにも思われる。落ち着いたイエローオーカー系の背景の中に暖色系の色彩を入れながら、鮮やかな黄色い花と蝶とが協奏曲と言ってよいようなハーモニーをつくる。

15室

 三澤俊文「見知らぬ市 Ⅱ」。建物が左右にも奥行きの中にもいくつも並んでいる。それはキューブな積木のようなかたちで、光のグラデーションの中に入れられている。色は緑や茶色、あるいはグレー。その建物の手前はシルエットになっていて、その向こうの列になると、下から霧のようなものが立ち上がってきて壁を白く光らせている。グラデーションの中にしぜんと空間が生まれる。全体の印象はそこに不思議な音色が聞こえてくるような、ロマンティックな味わいである。

17室

 武田恵江「ソラニスワレシ15ノココロ─Ⅲ」。「ソラニスワレシ15ノココロ」という題名で二点出品。一点は、少女の手前に逆様になったカマキリが一匹いて、そのカマキリの逆様になったラインはシャープで繊細で、青春というもののメタファーとしてあらわれている。逆様になっている様子がなおさら思春期というものを表すようだ。もう一点は、上方を向いて両手を前に向けているカマキリ。その向こうには少女の上半身が描かれている。妖精のような少女で、顔が大きく手が小さい。それが金を上にかけられて、金のヴェールの中に存在する。左のグリーンと右下のブルーコンポーゼとが鮮やかなイメージをそこに伝える。植物の命と青い空。そのあいだにはさまれて少女が立っている。まるで十五歳の仏様といった雰囲気である。それほど魅力的にこの少女を描かれているのだが、そのフォルムに斜めに入るカマキリの形が、なにか不思議な存在。カマキリのそのような姿や意味に思春期を象徴する謎めいたイメージを画家は与えている。まさに「ソラニスワレシ15ノココロ」なのである。ソラは、空でもあるし、そこにクウというイメージも重なって、一種、空観といった内容も感じられる。

 田中詩奈「ran away」新人賞。オレンジ色のフォルムがのたうつように、波のように画面全体に動いている。その中に様々な人間たち。とくにセーラー服を着ている少女たちがあらわれて、そこに呑み込まれていくような強い動きがあり、それに対抗してまさに逃げようとしているイメージが実に面白く表現されている。いわば社会の規制であるとか、グレートマザー的な支配力のなかに混乱する、道を失いがちな少女群像といったイメージを、強い筆力によって表現する。

 辻みどり「時を奏で」第60回記念賞。左上から左下に向かって旋回する動きは、右に向かい円弧をつくる。左右は逆向きの渦のようなものができている。中心は暗い。その左上は何もない空間であるが、右のほうには白馬があらわれる。白馬のお尻あたりに両手をついて逆立ちをしている女性がいる。妖精のような存在だが、白馬と一体化しながら左のほうに動いていく。そして、下方にはクチナシの花や椿、百合など、様々な花が白くレリーフのように表現されている。マチエールは独特で、すこし漆を思わせるようなマットな肌。渦を巻いているのは時間なのだろうか。あるいは渦を巻いているのは深い感情。ブラックホールのような空間。生の輝きもまた死というものがあるからこそ意味があるといえる。そういった対立するものから、この無垢な白馬と少女があらわれた。白馬の上に逆立ちする少女は、イメージや生命力というものの象徴だろう。それに呼応して静かに咲く白い花の群れ。やがてその花も咲いては枯れる輪廻を繰り返す。そう思いながら見ていると、二つの渦は輪廻を表すのかもしれない。そう思うと、今という時間が大切に感じられる。

第37回新洋画会展

(5月11日〜5月20日/東京都美術館)

文/磯部靖

1室

 谷正幸「涼風の妙高高原」。清々しい空気感が魅力の作品である。山頂を望む鑑賞者の目線を誘導するように描いているところがおもしろい。中腹に点景で建物が描かれているのも、小味見よいアクセントとなっていて印象に残る。

 庄司陞「雪の中央公園(東京・小平)」。雪の降り積もった並木とその向こうに建物が見える。画面全体が青みがかっていて、その色彩によって肌に迫るような臨場感が作品に引き寄せられている。それが窓から漏れる明かりによって生まれる温かさと静かに対比されているところが特におもしろい。

2室

 岸信勝「中世の煌めき(トレド)」優秀賞。積み重なるような街並みを遠くから見下ろすように描いている。そしてそれは遠景の一際大きな建物に収斂して行っているかのような動きを孕んでいる。重厚な構図の中で、軽やかな色彩の扱いが強い魅力を放っている。

 萩野淳二「干潮(フランス)」新洋画会大賞。茫漠と広がる砂浜の風景。所々に海水が入り交じっていて、豊かな抑揚を作りだしている。寒色を繊細に扱いながら、砂浜の豊かな表情をじっくりと描ききっている。

第75回美術文化展

(5月12日〜5月20日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 山下春代「物思い」会員推挙。上方に頭と手がつながって、その下に大きな目玉があらわれている。歯の中には乳房があらわれて、顔があぐらをかいて座っている様子。体の部分部分を切り取って、画面の中に再構成している。強いヴィヴィッドな表現である。目を見開いてこちらを眺めているこの不思議な女性。その強い造形力に注目した。

 浜砂ルイ子「景」。下方に積木のとんがったフォルムのようなものが集積して、それが海際の高層ビルを表すようだ。上方には五人の男があらわれる。フォークを持って食べている男。タバコを吸う男。双眼鏡で眺める男。新聞を読んでいる男。クラリネットのような楽器を奏している男。その男性のノンシャランな雰囲気と、無機的でありながら集合した不思議な力を見せる高層ビル群が、お互いに呼応しながら現代という時代のアンニュイなイメージをつくる。

 本山正喜「先への不安」。アダムとイヴはエデンの園の林檎を食べて楽園から放逐された。そんな林檎が煩悩の象徴のようにここに現れている。下方に抱き合う男女。女はこちらを見ながら、情緒に浸っていない。樹木のあいだからこちらを眺める女性。女性は男のように単純ではなく、もっと様々な不信を集めながら生きていく存在のように描かれている。枝に絡まった蛇が知恵の象徴のようにあらわれる。イメージを男女のフォルムによって、樹木によって、蛇によって表現する。見事な造形力と言ってよい。

 浅野輝一「ある出来事から」。たくさんの人が手を上方に差し伸べている。それらが集まってもっこりとした凸状の丘のようなフォルムが生まれる。連帯の証のようだ。そこには人に対する信頼感や希望が感じられる。その上方のすこし赤味を帯びた紫色の空の様子もまた希望や連帯の象徴のようだ。ところが、さらにその上方にブルーやピンクや黄色でうねうねとうねった不思議な靄のようなフォルムがかかる。そして、反対に画面の下辺には十二人の後ろ姿が浮かぶ。黒いシルエットになっている。その黒いシルエットにはなにか疑惑のイメージがあらわれ、その疑惑の心の中の渦巻くようなものを、前述した空のカーヴするものの集積したフォルムによってあらわしている。疑惑に挟まれた、中心に希望や団結がある。対立する二つの心象を見事なコンポジションの中に表現する。

 鈴木秀明「太陽の船」。画面中景で船が壊れている。その周りのギリシャ神話に出てくるような大理石の人間たちが壊れて崩壊しつつある。下方には壊れた建物が散乱している。上方もやはり山のようなものが崩壊している。崩壊するイメージをダイナミックに表現する。かつて太陽が東から昇り西に沈むのは神話の船が運んでいたという伝説でもあったのだろうか。そういった神話は崩壊し、神殿は壊され、無秩序と混乱が訪れた。そういったイメージを独特の再現的なフォルムを駆使しながら表現する。

 斉木章代「デトックス」。デトックスとは体内から毒を出すことを言う。そのために断食療法などもあるのだろう。画面の中にはドリッピングされた黒や緑、赤などがうごめいている。上方には白いフォルムが、バケツの中に絵具を置いてこの上にぶっかけたような雰囲気で激しい動きを示す。上方からグレーの絵具が下りてくる。キャンバスの地塗りをしない麻のままのものが使われ、そこに絵具がしみ通るように表現されていて、マチエールは乱暴のように見えて実はキメ細かい。デトックスというより、ある混乱の中にある心象をダイナミックに表現する。毒は出ず体内を回っている、世界の中を動いているといった、そんなイメージを荒々しくダイナミックに表現する。小品だが、「デトックスA」というもう少し小さな作品が出品された。麻布がコラージュされている。板のパネルの上にじかに描かれている。焦茶色の色彩が動き、白いフォルムが固まるように絵具が置かれている。黒々としたものがコラージュされている。この作品も体内に動き回るポイズンと言ってよい存在に対して、いかにそれと対応するかといった働きのダイナミックな力が実に面白く表現されていると思う。

 伊藤行子「Requiem─春」。二〇一一年三月十一日の津波に対するレクイエムである。二つの大きな波が青く描かれ、その手前にもうすこし小さな波が置かれている。三か所、緑からブルー、紫のグラデーションの同心円のものが浮いている。その三つは魂の象徴のようだ。深い画家の鎮魂の気持ちが画面全体の構図の中にあらわれる。三つの同心円は、たくさんの魂の集合したものと画家の深い祈りの心持ちとが重なってあらわれたものと思う。

 石原収二「原子大気・平和」。崖と瓦礫。地面にぼっこりとあいた穴。青い空。平和と恐ろしいブラックホールのような現実。それを象徴的に表現する。

 五島秀明「ザマニシリーズ・晴・時々曇後雨」。黒い背景に金がざっくりとした強い気配を示す。下方には原色の赤い色彩が左右に動いていく。下方はグレー。絵をじっと眺めていると、上方が晴れで、だんだんと曇って、そして最後に雨になっているような不思議な時間の推移が感じられる。そんな時間の推移を豪華な赤を使って、大胆にざっくりと画面を切り取るように表現する。破墨山水のごとき力が感じられる。

2室

 堤光子「春霞」。足を組んで座る女性の肩に猫がいる。ノンシャランな中にまさに春霞が立つようなほほえましいイメージが漂う。

 長船侍夢「失われた刻(とき)」。一点は、女性が立っている様子の全身が描かれている。優れた再現力である。左足で立って、右足の指の先で左の甲をなでている。あやうい雰囲気である。そばに秤があって、卵と割れた卵の二つが測られているのだが、割れた卵のほうが重い。それは割れた卵のほうが経験が積み重ねられているからだろう。時の重さとは過去の重さといったイメージなのだろう。そういったイメージを女性の全身像と秤によって表現している。面白い構図である。もう一点は、やはり立っている女性の姿をしっかりと描いているのだが、そばに水と思われる液体を入れたグラスがある。そのグラスの中に入っているものが時間というもののメタファーとなっている。そういった説明的な問題より、この作品の場合には立っている女性のもつリアリティに注目した。

 中村和子「想い」。ブルーの上に黄色や褐色、ピンクなどで縦横にフォルムがつくられる。黄色は心の中からあらわれてくる温かな波動のようなイメージである。あるいは無秩序な街のようなイメージもそこに感じられる。いずれにしても、そのヒューマンな味わいがこの作品の魅力だろう。

 岩田哲夫「想(75)」。黒とブルーとが宇宙的な雰囲気をつくる。夜の空の中のすこし曇った感じ。そんな中に満月が現れる。キャンバスをコラージュして、そこに絵具を置いたりしながら、独特のマチエールと奥行をつくる。

 山口裕美子「TIME TRAVEL」。使い古した梯子が立っている。その上方にグレーに山葡萄の実がなっている。梯子にドライフラワーになりつつある五本の薔薇の花が吊るされている。下から、画家のアトリエにあるという観葉植物がいま伸びてきている。うっすらとした赤や緑に生気があって、生き生きとしている。ドライフラワーと対照的な時間のベクトルである。そのあいだにスカーフが畳んで掛けられている。中心が白い中に花のような抽象的な模様がつくられていて、縁が紫。その白が輝くような明るい雰囲気をつくる。そのスカーフは画家本人と言ってよいだろう。画家がそこに存在する証である。過去に向かう時間と未来に向かう時間。二つの時間のあいだにはさまれて、それぞれのものが比喩的に画面に集められ、独特の話法で物語が語られる。

 石川裕「マシューの朝」。激しく暴れているようなイメージ。中心から右のほうに、一度収まったものが大きくなって巨大な手のようなところにいくつも驚いた目がつけられている。混乱の極み、強い情動、恐怖感。左のほうにもねちっこくフォルムがあらわれて、その二つを細いものがつなぐ。木の根っこを使ったものである。その根を使いながら画家は不思議なイメージをそこに表す。ちなみに、「マシューの朝」のマシューというのは、ある家族の飼っている犬で、その家族がいなくなると、部屋の中で暴れ回っているという話を聞いて、つけたそうだ。

4室

 岡本真貴子「翔(と)びじたく ~ scene Ⅰ~」。下方の右手が鳥の羽を持っていると思って画面に接近すると、それはたくさんの手によってつくられた羽であることがわかる。同じようなものが左上方に二つある。黒い輪の中にはたくさんの指のようなものが集積しているようで、よく見ると、それは後ろ姿の人間らしい。津波で亡くなったたくさんの人々が昇天していく様子を、この不思議なかたちに寓意化した。鷗が飛んでいる様子は画家の祈りからつくられたのだろう。左上方の手でできた羽のあいだから新しい芽が伸びつつあるのも、悲しい表現である。輪廻していく命の独特のモニュマンふうな表現。

 乾繁春「何処へ行く」。旅をするイメージを面白く表現している。赤いボートに二頭の犬。旅人の同伴者である。背中にリュックを背負って立つ男の姿がそのそばに描かれている。向こうには海が見える。上方からぶら下がるように逆様になった男女の姿。右のほうから黒い手がこの男のぶら下がっている上方の傘の柄を持っている。傘を持って歩くというイメージのなかには独特の心象が感じられる。その傘自体が一つの家の象徴と言ってよいだろう。動いていく家。人生は旅であると言い換えることもできるわけだが、そのコンディションをユニークなコンポジションの中に表現して、注目した。

 圓尾博一「御伽草子(一寸法師)」。一寸法師が三叉の矛を持って宙に浮かんでいる。その見下ろしている先には、中からなにか爆発して上方に煙が立ち上っているボックスがあり、その中には赤い舌を出した化け物がいる。両側に緑やグレーの鬼がいて、この赤く彩られたものをいじめているようだ。『地獄草紙』や『病草紙』などの絵巻からヒントを得たフォルムだろうか。左下のほうを見ると、蛾が飛んでいる。あるいは綿毛も飛んでいる。そして、虹がかかっている。一寸法師は頭の上にある大きな葉を左手で持って、グライダーのようにその葉を使いながら宙に浮かんで動いていることがわかる。その上にカマキリがいる。『一寸法師』の物語が、画家の手にかかると、にわかに精彩を帯びて、そのような強い独特のフォルムや登場人物があらわれる。一寸法師の様子も面白いが、右下の鬼たちの様子はとくに出色だと思う。

 船本寛「母昇天」。母親の若い時の姿が下方に描かれている。その頭の上に蓮の花が置かれる。そして、その上方に上向きの母の顔。左のほうには母の横顔があらわれる。右上方にも同じような顔があらわれる。下方に花が咲いている。母の顔によって曼陀羅状のフォルムがあらわれ、その中心に蓮華の花が置かれている。白い不思議な気のようなものが上方に立ち上っていく。死んだ母の魂が天上に上っていく。その中間にくっきりとした目があらわれ、うっすらと鼻や口がのぞく。だんだんと実体を失って魂としての存在となっていく様子を、独特のコンポジションの中に表現した。

 吉岡治美「赤い龍」。龍がとぐろを巻いている。頭を数えると四頭。そのあいだに福島原発の壊れた発電所が見える。青い海が向こうに続く。空に不思議な気配があらわれている。手前のほうにはプルトニウムのドラム缶がたくさん置かれている。四つの龍は福島の四基の原子力発電所を意味するのだろう。福島原発の事故で、原発は緊急の場合にも止めることさえできないことを我々は知った。プルトニウムを使った核分裂反応による発電は、完全に人間が支配管理することは不可能。旧約聖書、ヨハネの黙示録に、世界の終末的光景が書かれている。ヨハネ黙示録から引用する。「わたしはまた、一匹の獣が海の中から上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。それらの角には十の王冠があり、頭には神を冒瀆するさまざまの名が記されていた。わたしが見たこの獣は、豹に似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。龍はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威を与えた。この獣の頭の一つが傷つけられて、死んだと思われたが、この致命的な傷も治ってしまった。そこで、全地は驚いてこの獣に服従した。龍が自分の権威をこの獣に与えたので、人々は龍を拝んだ。人々はまた、この獣をも拝んでこう言った。『だれが、この獣と肩を並べることができようか。だれが、この獣と戦うことができようか。』この獣にはまた、大言と冒瀆の言葉を吐く口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。そこで、獣は口を開いて神を冒瀆し、神の名と神の幕屋、天に住む者たちを冒瀆した」。たしかに原子力発電所の事故や昭和二十年の長崎広島の原子爆弾投下は黙示録的世界といってよい。画家の激しいイメージの表現である。画家自身も癌と十年以上戦っている。癌という支配することができない病気との闘いが、原発事故に対するイメージを深くしているところもあるだろう。

 小林康男「望郷 2014─3」。百合の花。緑の実のなった植物。手鞠。それらをリアルに描きながら、強いノスタルジックな心象を表現する。つやつやとした緑の果実と白い純潔な百合の花とが、深いイメージを表す。

 藤野千鶴子「無題 2014─1」(遺作)。昨年の四月十七日に亡くなられた。享年七十七歳。色彩家であった。とくに晩年は宇宙的なヴィジョンを描かれた。同時に、たとえばこの作品の赤が心の温かさを表し、その周りに無数の存在が集積し、無限なる空のイメージが引き寄せられているように、壮大な人間の輪廻転生の物語を霊的に表現したと思う。惜しい人を亡くした。合掌。

 小関通「縁日 14─2」。高いところに格子天井がある。右のほうには五色の幔幕が張ってある。その下に三々五々、人々が歩いている。いちばん左側に赤い衣装を着た女の子と黒い上下を着た父親が描かれているのが、アクセントとして実によくきいている。空間の中に光が入り、全体に強い波動が起きる。十数人の人々がかたまって動いていく。ヴィヴィッドな表現である。

5室

 山田光代「はなびら c」。ピンクに白いドリッピング、あるいは黒いドリッピングなどがお互いに相まって華やかなシーンを表す。薪能のときの火と、その周りに咲く枝垂れ桜を思わせる。幽玄と言ってよい。

 森中喬章「未来へ」。下方には地層が描かれているようだ。その中にはかつてあった様々なことが痕跡として残っている。魚の骨が三つ。その上方にはアミダクジのようなものがあらわれて、船のイメージもある。上方が海になり、海から水がホースのように伸びていく先に若葉がのぞく。右のはもっと伸びて青い緑の空と一体化する。対岸の家並みは壊れているから、二〇一一年三月十一日の津波に対するレクイエムだろう。場所によって街がそっくりなくなった悲惨な現実を超えて、未来に希望をもって生きていこうといったメッセージ。地層の中を見ると、かつてそういうことが繰り返しあったと語りかけてくる。人を破壊した海が、今回は優しい雰囲気であらわれて、その先に希望の若葉をつけ、癒しの空のイメージと一体化するというコンポジションもユニークだと思う。

 佐伯直樹「相克『ノ』輪廻」岡田徹賞・会員推挙。水彩だと思われるが、緻密に描かれている。その激しいエネルギッシュな表現。同心円、あるいはヘビのようなフォルムがのたうちながら、その赤いフォルムのあいだに見えるもの。有機的なものと無機的なものが相剋しながら輪廻し、激しい情動を起こす。独特のコンポジションである。

 福田祥子「生きる」。夜空に星がいっぱいまたたいているようなイメージがオールオーバーにあらわれる。その中にブラックホールのような穴があらわれるのは死んだ人のイメージだろうか。黄色や白などの輝きはすべて、無数の魂の集合した存在のように感じられる。

 佐野俊郎「赤い蜂の遊気流」。半円状のステンレスと思われる柱が立っている。下方に赤く塗られた蜂。上方に大きな金属の球体。その下方にも球体が六つ入れられて、それが反射しながら不思議な映像を見せる。ある時点まで近づくと焦点が合わなくなって、その空間の中に自分が入り込むような眩惑を覚える。カプーアなどの作品からインスパイアされたのだろうか。ユニークな立体である。

6室

 見﨑泰中「GREEN MESSAGE『すがる一葉』15・4B」。寄木による作品である。茎の先に一枚の大きな葉がついているが、うなだれて、風が吹くといつ落下するかわからない。繊細で弱々しいイメージを木彫で見事に表現する。

8室

 奥田美晴「黙示録」。波紋状のフォルムが画面全体を覆っている。その一部は赤く彩られて、花のようなイメージをつくるし、右上方では満月のようなイメージを引き寄せ、雲のようなイメージにもなる。正面向きの若い女性の顔が浮かぶ。くっきりした一重の目とすこしふっくらとした唇。若々しく希望に満ちている。その同じ女性の側面が青く左に彩られる。なにか物思いに沈んでいるような顔である。仏像彫刻では、たとえば阿修羅のように三体の顔を一つの首につけるということもよくあるが、これは表向きの顔と内側の顔といった二つの面のようだ。画家はこの若い女性に対する深い愛情がある。希望に満ちて生きてほしいという祈りのような心持ちが、この不思議な波紋状のフォルムを生み出すのだろうか。満月のような完全な存在、あるいは深い感情を示す赤い花のようなフォルム、あるいは朝焼けのような空、あるいは夜の暗い空間。画家は人間の内面と外面の二つの顔をここに表現する。

 廣石都「トランジット2015─A」。トランジットとは横切るといった意味になる。枝から六弁の花のようにも葉のようにも見えるものが手前に動いてきている。それは立体的なフォルムとしてあらわれているが、下方には平面的に茎から葉が一つ、あるいは二つ、三つついている様子が左の方向に伸びていくように描かれている。シャドーのような図像的なイメージである。植物というもののもつ不思議な生命感、その伸びていく力をクールな緑やブルーを中心に表現する。

 西村卓「DREAMS─僕はどこにいて、どこにいくのだろう」努力賞・会友推挙。実際の樹木の幹を切って置いて、そこにたくさんの積み木のようなフォルムを集積している。色もつけられている。白木もある。それらがこの幹の枝の途中や上などにこびりつくように集積して、下方にも群がっている様子は不思議な味わいである。生命というものの無秩序な存在。とくに人間というものは地球の上にいくらでも増えるバイ菌のようなものだが、そのようなイメージも引き寄せながら、しかしまたあっけらかんとして明るく、無機的なこのキューブな形と樹木の幹との対照。樹木の幹の統一したフォルムに対して、ここに集められた無秩序なキューブな形は、その木と親和しながら、対立しながら、あるいは第三極のような、なにか独特のイメージを発信する。

9室

 直原清美「時を織り込んで」。白いバックに黒い陰影がしっとりとしたニュアンスを表す。女性のスカートとそこから出てくる足のようなフォルムがいくつも見える。上方には絡み合ったチューブのようなものもあらわれる。画家のホームページには「私の制作への原動力は古来よりの女の生きざまです。諸々の不条理を呑み込んだ上で、子を生み、育て、社会の中で安息の場所を縫うようにして探してきた女の生きざまを『イマ』の感覚で表現していけたらと思っています」とあるが、そんな人生を経てきた思い、それから未来に向かって歩いていくイメージを、いかにも女性らしい繊細な雰囲気で表現した。面白いのは上方に過去があって、下方に未来があるようだ。地平線が描かれていないが、下方に地平線があらわれてもおかしくないようなコンポジションになっている。

 逸見幸也「①鬼にかなぼう『喜怒哀楽』」。金棒の先がふっくら膨らんで、そこに喜怒哀楽の鬼の表情が生まれる。それが四体、やきものとして置かれて、ユーモラスな力を発揮する。ユニークな造形だと思う。

10室

 野村明正「残映 Ⅰ」。「残映I」と「残映Ⅱ」と二点出品である。地面は津波のような大災害、あるいは原発のような事故によって崩壊してしまった。はるか向こうにビル群が白く見えるが、それは崩壊したビルで、墓標のように並んでいる。ところが、猛々しくカーヴする不思議な植物、あるいは生き物のようなものが、いまうごめくように現れた。チューブのようなかたちが渦巻くように動いていく。そして、胞子のようなものが飛んでいる。それは両手を伸ばした人間のフォルムのようでもある。その生き物が光を受けて鮮やかに遠景から近景まであらわれているところが実にダイナミックで、面白いと思う。再生のイメージを植物のイメージを借りて表現する。

12室

 浦田直人「原始の杜 2015」新人努力賞・会友推挙。鉄筋に使うようなものが十本、ゆらゆらと立ち上っていく。それを囲むもう一つの鉄筋ふうなフォルムが四個。あいだに十三×十の百三十のフォルムがあらわれる。その隙間の中にネットがつくられたり、真鍮で渦のようなものがつくられたりする。内部の下方からゆらゆらと上方に伸びてくるものがあって、その先には胞子のようなものがついている。「原始の杜 2015」という題名だが、縄文時代のイメージをここに引き寄せようとするかのようだ。そういえば、昨年は風神雷神のイメージを鉄でつくって、実に力強く、ユーモアのあるものであった。今回、作者によるとイチョウの実のようなものが、十本の柱の上方につけられている。そして、それはクルクルと回る。材質は真鍮のようだ。そして、それが飛んでいくと、また新しいイチョウが生える。そういった樹木や胞子が生きて成長し、どんどん増殖するイメージを、このゆらゆらとした不思議なフォルムによって表現した。ちょうど海の中で浮力がつくように、このフォルム全体に浮力がついて、うごめくような生命感が感じられるところが面白い。

13室

 小笠原千鶴「5W1H─I」。イリュージョンの表現である。赤、白の旗のようなフォルムが青いバックの上にはためいていて、その上方に乳飲み子、母親、猫。そしてギャルソンがお盆に二つのグラスを持って歩いていく。もうすこし歩くと彼は墜落するだろう。スリルをテーマにした表現。

 宮川達也「絆─Egg─」。上方にエッグがあって、それを五本ほどの腕が支えている。その有機的なフォルムは下方にもいくつもあってあやしい。タコのような不思議な存在が、このエッグを持ち上げている。おそらく一木から彫り出したものと思われる。

第75回記念日本画院展

(5月12日〜5月20日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 高木みなみ「森の精」。前後に枝にとまったフクロウがいる。後ろは全身白で、手前は黒い模様がついている。あやしい雰囲気。フクロウというより、人間がこの鳥に化身したよう。それほどイメージが深く入っている。

 吉永智恵子「青春の光と影」佳作賞・会員推挙。水墨の上に彩色しているようだ。フォルムが面白い。少年が宙に浮いて、足をすこし曲げ、肱を曲げたり、右手を突き出したりしている様子が生き生きとしている。金銀の箔を散らしている。少年の柔らかな身体のもつ表情をよく捉えて、青春の心理的空間を描く。

 長塩桂子「平和を学ぶ Ⅰ(前橋空襲)」望月春江賞。少女がパネルを持っているが、そこは空襲に遭った前橋市の様子である。下方には教会があり、両手を合わせている青年や女性がいる。前橋の歴史を背景にして希望に燃えた少女を前面に配して、まさに戦争体験をベースにしながら未来に向かうコンポジションになっている。

 今村孔久「氷雪のレダ」第75回記念賞・会員推挙。ゼウスが白鳥に化身してレダを襲うギリシャ神話の物語だが、この絵の中ではレダは裸でうずくまって、周りに雪が積もっている。白鳥はレダを襲うのではなく、羽を広げながらレダを守っているといった不思議な雰囲気である。日本の情緒のなかにレダの話が溶解し、独特の雪国の空間をつくりだした。曲線をベースにしたコンポジションも優れている。

 希月まさみ「おやすみの前に」ロバート・クラウダー賞・会員推挙。寝る前に本を読む少女。すこしメランコリックな少女の繊細な表情や手のフォルム。背後の茶色や緑のストライプ。膝掛けが下半身を覆っている。その下方には空を思わせる群青。上方は室内を思わせる褐色の色面。イメージを壊さないように慎重にかたちをつくりながら、独特の潑剌とした空間をつくる。エキゾティックな色彩のハーモニーも魅力。

 立花大聖「執着」望月春江賞・会友推挙。俯いた女性の上半身。背後に遠くを眺めているもう一つの同じ女性の顔があらわれる。そばに大きな犬のようなフォルム。あるいは馬の頭のようなかたちが両側にあらわれている。いずれも情動といったもののメタファーとしてあらわれているようだ。女性のもつ執着を表現するコンポジションが面白い。手前の女性の手のフォルムを見ると、優れたデッサン家であることがわかる。

 SALAM MD ZAKIRUS「飛沫」佳作賞・会友推挙。矩形のフォルムの上にグレーの絵具をバケツからぶちまけたような表現。一瞬の強烈な動きが画面に定着される。周りの柔らかな黄色、青、緑などの色彩の中にそのフォルムが浮かび上がる。柔らかな夢のような空間が生まれる。

 矢野亜子「樹の下で」会員推挙。満開の花の下に少女とフレンチブルドッグがいる。その見上げた少女の顔やブルドッグの顔が手前に接近してくるような、その距離感の近さが独特のコンポジションとなってあらわれている。

2室

 増田裕子「芳香」会員賞。シュロと花をつけた植物の様子。上方のシャープな葉の群れた様子と緑の葉に白や黄色の花が咲き乱れている様子。そして、下方にはビワが実っている。丹念に対象の形を把握し、それを画面に自由に入れながら、不思議な花鳥空間をつくる。

 浦野英里子「テレザを待ちながら(ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』より)」会員推挙。セントバーナードが寝そべって、その前にいる莵を見ている。枝の先に林檎が一つなっている。莵のそばにはカットされたハーフの林檎が二つ。バックはオレンジ色の無地の柔らかなグラデーション。その無地の空間が不思議な力をもつ。

 深津富士子「貝殻航海」会員推挙。貝殻にのった女の子が紫の花を持っている。それを青い蝶が吊るして運んでいる。下方には巻貝を引いている青い蝶もいる。浜辺の貝殻にも蝶がとまっていたり、あるいはその貝殻を持ち上げたりしている。貝殻と蝶という組み合わせが不思議な感じであるが、詩的なイメージの中では二つは意外とフィットするようだ。巻貝にしろ二枚貝にしろ、その模様とか曲線の美しさと黄色やブルーや紫の蝶の華やかな感じとが響き合うのだろうか。それらに運ばれていく少女は夢の住人。満月が照らしている。

 三森千惠子「春のささやき」。サトイモのような大きな葉のあいだから茎が出て、白い花が咲いている。エンレイソウだろうか。茶色い花も見えるが、いずれも小さな可憐なものである。大きな葉は緑やオレンジ色、あるいはすこし薄黄緑色、ピンクのものもある。それらが横に連続して、匂うような空間があらわれる。右下のほうには小さな五つも六つもある葉がついている上方に点々と白い花がつけられている。あるいはサトイモのような葉の周りに紫の葉のようにも花のようにも見えるものが、それを取り巻いているような様子。この小さな花と大きな葉をもつ植物の繰り返しによって、不思議なメロディをつくる。聖書に野の花はソロモンの栄華より美しいという言葉があるが、そういった言葉も連想した。

4室

 望月昇「不動明王三尊像」。索を左手に持ち、右手は壺の上に置いた不思議な仁王像である。剣を持つ代わりに壺の上に手を置いている。両脇の童子は一人は剣を持ち、一人は合掌している。黒いバックに焦茶色のその身体の色彩。金による衣装。赤い火炎が背後に燃えていく様子。強いコントラストの中に不動明王を中心とした三尊像のエネルギッシュな存在を表現する。

 菅野サツキ「祈り」。四人のお坊さんがお寺の階段の下で祈っている。袈裟が赤や黄色や青のカラフルな様子で、四人並ぶと、後ろ姿がなにか不思議な印象を放つ。お寺の柱や扉の様子もクリアに描いている。クリアなフォルムによって、なにか不思議な気配があらわれる。

 大田のり子「秋色の中で」会員賞。白と黒の猫が寄り添っている。白は正面向きで、黒は体をひねって鑑賞者のほうを眺めている。上方は紅葉した大きな葉のあいだに赤い小さな実が鈴なりになっている。下方には落ち葉がいくつか。上方の葉はいわば黄金色で、その葉の中から発光しているような雰囲気。強い詩情が感じられる。

 蟹江義典「朝の雲海」会友推挙。水墨ふうな、筆をぐいぐいと動かしながら雲海を表現して、ダイナミックな動きがあらわれる。遠景には黒い山の峰がいくつも聳え、手前の地面までのあいだに雲海が満ちている。その様子がドローイングふうな筆の力によって生き生きと表現される。

5室

 北尾君光「光の中で」。イメージを自由に線によって描き、独特のきらきらとした空間をつくる。見合わせる二人の少女の顔の白いバックに黒い線描きの表現が中心になっている。下方には、女の子が空中を飛んできて、手前にはその女の子の妖精のような大きな顔があらわれる。そばに花が咲いている。上方には海を航海する船があらわれる。下方の窓には花畑。様々なイメージを描きながら、お互いが、言葉の尻取り遊びではなく、フォルムの尻取り遊びのように連関しながら、一種詩的な世界を表現する。植物と鳥、女性、海、あるいは雨やお日さまなどの要素が画面に入れられ、お互いが呼応しながら独特の清らかで強い波動を表す。

 岩本美代子「交差 1」。ベージュの空間。濃いベージュとすこし暗いベージュ。そこにグレーが入り、青い色面が入り、えび茶色の色面が入り、黒がいちばん手前に置かれる。中心では黒がバッテンのように交差している。はるか向こうからだんだんと手前に大きくなってくるリズム。柔らかな明るいトーンから暗いトーンに向かう、その明度の変化につれてフォルムが大きくなり、手前に近づいてくる。そこにはなにか独特の強い音楽性ともいうべきものがあらわれる。それがそのまま朝、昼、夜といった一日の時間の推移さえも表すようだ。

 鈴木美江「野に立つ」。額田王の「あかねさす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖振る」という歌を思い起こした。これは大海人皇子が袖を振って私に愛情を示しているのを野の番人が見ないでしょうか、という歌だが、逆に額田王が袖を振っているというイメージで女性を描いている。それはまた75回記念の日本画院を祝っているイメージとも重なる。望月春江亡きあと、作者は日本画院を主宰して守ってきた。そして、この記念すべき年になり、この女性を通して、その喜びを語っているように筆者には思われる。赤いドレスを着て両手を上げているこの女性の様子はふくよかで、不思議な魅力をたたえている。人間的でありながら、どこか妖精のイメージもそこに重なる。そのような表現においては作者の独壇場と言ってよい。下方の秋の野のようなイメージに対して、上方は太陽がいま昇ってきて朝日が差し込んでいるようなイメージを、金の幾重にも繰り返すストライプによって表現している。抽象的な要素と具象的要素の見事にリンクした構成である。

 酒井重良「樹下 Ⅱ」。木の下で想念をしている三人のお坊さん。いちばん右側の人は額のあたりに手を置いて、その指を伸ばしている。グレーの中の黒いシルエット。ところどころ赤によって輪郭線がつくられる。月がそばに下りてきている中を、赤や緑や黄色の矩形によって装飾する。黄金色のビーズのようなものを金の砂子のようにまいているのも大胆であるし、画面に独特の効果を与えている。

 百々茂貫「何処へ」。中東の女性だろうか。長い衣装を身にまとった女性が遠くを眺めている。その下方には座って同じ方向を眺めている女性がいる。画家の優れた素描力。自分たちはどこへ向かうのか。国の将来はどうなるのか。そういったイメージがそのまま画家自身の年齢と重なって深い感情が表われる。

 髙橋淑子「春の訪れ」。赤紫の花が下方に咲いている様子が神秘的である。中に一つ、青みを帯びた花が咲いていて、そこにアゲハチョウがとまっている。その上方にこの花の群生した様子が描かれている。神々しい。黄土色や緑、紫などの色彩がお互いに静かにハーモナイズして、親密な雰囲気も漂う。上方には木立があって、あいだからうっすらと青い色彩が置かれているのは空のイメージだろうか。画家は花をずいぶん身近に引き寄せている。心の中にそれを思い浮かべて、その花をまるで灯明のように咲かせている。日本人は自然に深く関係をもって育ってきた民族だが、その素朴な心象がそのまま一種宗教性につながるようなスタンスのなかに表現されているところが魅力である。

 市川保道「森」。二人の女性が立っている。上方の女性は手に鳥をとまらせている。雪がちらついているような気配のなかに、この二人の女性は妖精的なイメージであらわれている。しんしんとした気配のなかに自然の象徴ともいうべき女性。その女性を通して自然と語ろうという、そういった作者の姿勢が興味深い。

6室

 寺内雅之「遠雷の風」京都市長賞・会友推挙。樹齢が数百年もあるのだろうか。ごつごつとした樹木の幹。地面と接するあたりの怪異なフォルム。風に吹かれてそよぐようにしだれる桜が無数の花をつけて表現されている。大胆で繊細な表現。

 高野幸子「晩秋の黄昏」奨励賞・会員推挙。水のそばに柳が二本。葉を垂らしている。枯れた草の中に道が続いている。風が吹いて、池がさざなみを立てて白く輝いている。そばのススキの様子。自然のもつ空気感までも感じさせるような表現。

 山崎信子「晩夏の葡萄」会員推挙。細い木で鳥籠のような棚をつくり、そこに蔓が巻きついている。中に葡萄のような実がなり、小さな紫色の花が咲いている。蔓や花の動いていく方向をよく見定めて表現していることによって、画面の中に動きが生まれる。その動きを目で追っていくと、メロディが聞こえてくるような表現になっている。

7室

 髙橋賢心「窓」。相当老朽化した壁がある。そこに一つの窓がある。窓の鎧戸があけられて、黒猫がのぞいている。むっちりとした丸いフォルムの中に目が緑に輝いている。猫のもつミステリアスな生命感ともいうべきものがよく表われている。

 滝上くら「アーティチョークの譜」。点描ふうな表現であるが、フォルムがしっかりとしている。大きな葉から太い茎が出て、その先にアーティチョークの花が咲いている。小さな葉がその下に左右にのびている。小さな赤子が両手を広げて、その頭が輝いているような花のようす。そんな花が三十から四十ぐらい大小描かれて、不思議なリズムをつくる。上方には花の背景に同心円のフォルムがいくつも外側に広がっていく。この花を画家は聖なる存在として捉えているから、そのような光背のようなものがあらわれるのだろう。

 両角延清「街の灯」。車がたくさんつながって、そのライトの灯が水の流れのように感じられる。そんな夜の街をバックにして、チャップリンの姿があらわれる。独特の強い筆力がある。構図も面白い。

 石川満「ヨシ」。船着場のそばにヨシが密生している。二艘の船の形もなにか懐かしく愛らしい雰囲気。猛々しく立ち上がるヨシのフォルム。S字形にカーヴしながら上方に伸びていくその先に穂があって、穂は茶色や黄土系の色彩などで彩られている。密生しながら、全体でくねくねと踊っているような、そんな不思議なリズムがあらわれている。

 田端藤次「歓(能・羽衣)」。天女が両手を上にあげたときのフォルムをブルーの背景に見事に表現する。黄色や赤の衣装が浮き上がるように映えて、白いおもてが輝くようだ。天女は天に帰るわけで、上方にその深い空のイメージもあらわれる。

8室

 八島廣子「初雪」。山はすでに雪が積もっている様子であるが、麓に雪が降るのは初めてなのだろう。紅葉したオレンジ色の樹木や緑と茶色を重ねたような針葉樹などと地面の雪とが生き生きと愛らしく表現されている。

9室

 川上嘉宏「きぬかけの道 御室 仁和寺」。仁和寺の五重塔が画面の中心に描かれている。まるで鳥がその翼を広げているような雰囲気である。グレーの空に二十二、三日の月が出ている。また、五重塔の両翼の葉の落ちた裸木の様子。あるいはその塔の背後の朱色などの色彩も、どこか幻想的である。クリアに描いた塔がそのまま夢幻的なイメージを醸し出す。

 樋口純「聳」。マッターホルンが聳えている。このシーンは写真などでもよく見る角度。光の当たっているところは白く輝き、その側面は暗く陰っている。満月が空に出ている。強いモニュマン性があらわれる。

10室

 榑林澄子「小川の詩」。脱がれた運動靴やサンダルが四組。そばにオレンジ色の百合の花が咲き、タデのような植物が伸びている。子供はどこに行ったのだろうか。小川で泳いでいるのだろうか。それぞれのフォルムを丹念に描いている。子供が何かに熱中している、そんな時間のなかに画家の筆は入っていく。

 飯嶋甫「木霊」。樹木が密集している。その幹の部分に焦点を当てる。カーヴするかたちが響きあいながら上方に伸びていく。そのコンポジションが面白い。

11室

 都丸宏一「過ぎ去りし日」準会員推挙。花の名前はわからないのだが、右から茎が下方に垂れて点々と白い小さな花が咲いている。左下から右のほうに雑草のような植物の茎が伸びている。中心に満月があらわれ、そばにススキが穂を靡かせている。植物の形が面白い。優れた表現だと思う。

 山田京子「栂池の午後」。白い樹木の幹が複雑なかたちで上方に伸びていく。その先に紫やオレンジの葉がついている。それを塊として描く。そのあいだに針葉樹が暗い緑色で伸びている。植物の草がテールベルトのような地味な色彩であらわれる。白い幹の先の紫やオレンジの葉の様子が、まるで不思議な雲のような雰囲気である。この山の様子を独特のデザイン感覚で表現している。

12室

 ホセイン眞弥「Flow」。白鳥が二羽、水の中にいる。蓮の花が咲いている。右下方には箔による空間処理。白鳥の姿が面白い。奥行と量感がある。ねちっこい表現で、油彩画を思わせる。

15室

 唐木誠子「冬の里」。まだ霜が残っているような田圃の様子。裸木が数本伸びている。背後に青い針葉樹。空のほの明るさ。心の中にあるふるさとの光景を描いたような懐かしさがある。

第20回彩美展

(5月12日〜5月20日/東京都美術館)

文/紺世邦明

1室

 原元勝「クシエ・ド・ソレイユ」。夕暮れの街を描いている。空は濃い藤色に塗られ、月がうっすらと描かれる。建物はシンプルに輪郭をとって面を強調して塗られ、リズミカルな構成を作り出している。

 斉藤秀雄「樹と牛 1」。樹や牛が、独特の構成とフォルムで描かれる。画面全体には多くの色が重ねられているようで、緑の部分でも間近で見れば朱色が透けて見えるところがある。下に重ねた色を活かしながら明暗を調整することで生まれる奥行きには、どこまでも続いていくような深い余韻がある。

 菅和彦「西日のステージ広場」コア賞。遠景から前景に、道路がダイナミックな遠近感で描かれている。遠景には前景よりも明るい色が配され、道路は大胆に黄土色に塗られている。画面右には、草に補われている赤茶色がモチーフの描写と関係なく入れられている。また画面左下の道路には、帯上に白い絵具が塗られている。大胆な構図に加え、実験的な構成に注目した。

2室

 鈴木清登「工場 Ⅱ」。工場群を描いたものであるが、建物や道路が直線できびきびと表現されている。固く無機的に表現されたそれらの間に植物が柔らかに描写されて、次第に工場が植物と一体化していくような雰囲気が感じられる。

第111回太平洋展

(5月13日〜5月25日/国立新美術館)

文/高山淳

1室

 西村純子「ラフレシア(楽園)」損保ジャパン日本興亜美術財団奨励賞。ラフレシアとはブドウ科植物の根に寄生し、本体はその寄生組織内に食い込んだ、ごく微細な糸状の細胞列からなり、ここから直接花を出す。根、茎、葉はない。一生のうちに五日間だけ花が咲く。そのときに強烈な腐った肉のにおいを発し、虫を誘引するそうだ。

 上下がシンメトリックなコンポジションになっている。上方の四弁の花はラフレシアの形象化だろう。その向こうから女性が顔を出して、なにか誘惑の表情である。強い匂いのようなものを息のようなかたちで送っている。それに誘われて黒い帽子をかぶったスーツ姿の男たちが、その木によじのぼって、このラフレシアの花に近づいている。下方の花のようなフォルムからパッチワークのようなものがいくつもいくつも離されて、上方に浮かんでいく。そのあいだの梯子状の中に場面が七場面ほどあって、海辺の男女や乾杯する男女、あるいは上っていく男たち、あるいは女性のマスクなどが置かれている。深く社会の中に寄生する存在のようなイメージを画家は表現する。そこから咲いた花が男を誘惑する。そんなイメージを独特の物語性と、奇妙なコンポジションのなかに表現する。

 佐々木徹郎「黄梅院」会員秀作賞。画面の中心に階段を置いて、その向こうに山門がある。そこに白い衣装を着た若いカップルが立っている。女性はパラソルを差している。周りの濃い緑の陰影の表現の中にコントラストの激しい階段が中心に置かれ、白い衣装の男女がいるというユニークな、オーソドックスでありながら強いコンポジションである。また、手前の地面に青みを帯びた影が散っている様子が、ジョンブリヤン系の地の色の中に不思議な陰影をつくる。

 白水チカ子「愛・回想」東京都知事賞。ベッドに横たわる裸婦が白い肌を見せている。その背面が描かれ、そばに立ち上がったトルソの一部がある。盛装した女性がそばに二人ほど立っている。ワイングラスやワインの瓶。重厚なマチエールの中に女性のもつ様々な場面が描かれる。いわばナルシシズムの世界と言ってよいかもしれない。それを独特の女性的な内向的な、しかも内向することによって相手を誘惑するような、そんな不思議な雰囲気のなかに曲線を使ったコンポジションによってフォルムを連結しながら表現する。下方右に海のようなイメージがあらわれているところも、なにかロマンティックである。

 中村直弘「時空(旅立ち)」文部科学大臣賞。静止していた世界を一挙に打ち破って、美しい女性が現れた。これからドラマが始まる。そういったプロローグ的なイメージを、中心に女性を置き、放射状の動きの中に表現する。

2室

 鈴木國男「ヴェネチアの誘惑 Ⅰ」。ウルトラマリンからセルリアンブルーまでの青のヴァリエーションの中に仮面をつけた男女が浮かび上がる。そのあいだにはゴンドラが三艘進んでいて、中年の人々もいるし若い人もいて、その向こうの宮殿と相まってあやしい雰囲気である。ヴェネチアの歴史は中世にもつながっているような奥深いところがあって、それを背景とした仮面をつけた人間たちは実にあやしく、人間の深い心の底にある心理や情動のようなものをしぜんと感じさせる。

 藤岡ミチコ「パフォーマンス」。太鼓を叩くピエロの後ろでばちを持っている男の胸に長方形の板があって、そこにも太鼓を叩く男と新聞の切り抜きが見える。決して明るいイメージではなく、一見して「ブリキの太鼓」を思い起こすような、時代の流れに対する懸念のようなイメージを表現したと思われる。また、右後ろのほうにも二人の太鼓を叩いている男の姿がモノクロの中に描かれていて、それも内容を深くしている。

 兼忠志「4000M 鈍色の岩稜」。四千メートルの高さになると、酸素もすこし薄くなるだろう。その中に岩がむきだしになって現れ、まだ雪がすこし残っているような様子。夏に近い山頂の姿をしっかりとした再現性のなかに表現する。

 鈴木勝昭「今、煌めいて」会員秀作賞。赤いドレスを着た女性が後ろ姿や横向きの姿を見せて三体立っている。その後ろには正面向きの女性のシルエットふうの姿が四体。連続的な動きのなかにまさに煌めいている女性のイメージを表現する。

 安達孝雄「重ねし刻(マテーラ)」。マテーラは穴居時代から今日までの一万年ほどの歴史がそのまま建物に反映されている不思議な場所である。そういったマテーラの奥深い姿をユニークなコンポジションの中に表現する。手前は穴居時代のようなイメージで、だんだんと後方に行くにしたがって現代的になり、その後ろにはルネサンスの頃のような鐘楼のある建物が立っている。ベージュを中心として茶色などの色彩がアクセントとして使われている。この立体的な建物のもつフォルムも面白いが、それ以上に、そこに捺された陰影によって時間や歴史というものを表現しているところが魅力である。

 田宮慶子「サウンド イン NY」。ドラマーの姿が右にあって、その前に太鼓やシンバルなどが十ぐらいあり、その楕円形の形がそれぞれのポジションに描かれ、きらきらと白く輝いている。後ろにはニューヨークのブロードウェーあたりのビルが夕闇の中に浮かび上がる。強いコンポジションである。とくに太鼓やシンバルの楕円形のフォルムの組み合わせが面白く、それを前にしてスティックを持つ男の姿が生き生きとしている。強いムーヴマンが画面に表現される。

 中谷基子「話して」。カフェの外のテラスの男女を生き生きと描いている。まるで映画のワンシーンのような雰囲気である。クリアなフォルムの中に人間の表情を描いてドラマをつくる。

 多田知史「ろうそく村」。広場の中心に大きな蠟燭が立っている。炎が燃えている。その下でヴァイオリンを弾く猫やピッコロのような横笛を吹く猫。そして手前の猫はメランコリックな表情で遠くを眺めている。曲はセレナーデ、あるいは愛の歌なのだろう。人恋しいような感情を面白いコンポジションの中に表現する。

 遠山はるみ「母の詩」。幼児を抱く母親。母親はピエロの姿で、幼児は人形の姿になっている。寝転がって瞑想する女性や座って頭を垂れている女性もいる。同じピエロがもう一人、しゃがんで膝をついている姿もある。子供と母とのイメージを面白く表現する。母のイメージより、子供の力が画面全体をインスパイアしているようだ。宝物のような子供のイメージを中心に女性たちが配置されて、深い感情ともいうべきものを表現する。

 松倉弘子「屋根裏僕らの秘密基地」。フランス人形の少女が座っている。それに対して斜めに向かい合うように金髪の少年が座っている。帆船を両手に持っている。女の子は本を膝に持っている。周りにムーミンや魔女、棚の中にも様々な人形や本が置かれている。いちばん手前にがちょうの上にまたがる魔女のようなイラストが表紙に描かれている。「男の子って/ジョニーのお帽子/ワンワン/床屋さん/おサルが一匹/てんとう虫/いいこいいこ/小鳥と石/おーい坊や/釘がないので」といった、簡単な言葉がなにか強いイメージを喚起する『マザーグース』の絵本が置かれている。その『マザーグース』の童謡の中には、大人が読んでも怖いような話も存在する。この少女少年を構成しながら(それぞれ人形であるが)、そのような恐ろしい世界もその周りに存在するように画家は描く。そのそばで猫が戯れている。しかし、時を失って二人の少年少女は屋根裏で永遠に夢想的なイメージを紡いでいる。そういった通常の時間から脱落した世界を、画家は人形劇の中に表現しようとする。そこが面白い。

3室

 杉山八重子「抗議」。最近、国会議事堂をデモが取り巻いた。原発反対のデモであった。そのときのことを描いたのだろうか。抗議の人々の群れが黒いシルエットになって右のほうに描かれている。左のほうには牛を連れた農夫のような人のシルエットが見える。その後ろには牛を連れてきたトラックのようなものがある。上方右には国会議事堂。中心に裸木が立っている。抗議といっても無言で、静かな中にテコでも動かないような、そんな強い力が画面から感じられる。人間たちをいずれもシルエットにして表現するという不思議なコンポジションである。

 我那覇絹子「木麻黄のある風景」。木麻黄が葉を茂らせて風に揺れている。そんな木麻黄が何本か画面の中景に立っている。手前は影になっていて草の生えている様子。木麻黄の向こうには白い壁の建物が見える。建物の日の照っている部分の明るいベージュ色はそのまま背後の空のベージュ色とリンクする。空の上方はすこしピンク色がかっているから、朝方の景色のように感じられる。いずれにしても、自然の中に深く入った表現である。画家自身がこの木麻黄になっているような不思議なリアリティがある。樹木は周りの風、光を全身で感じている。そして体をひねるようにその枝を動かしている。自然に深く入るところからこの風景が描かれた。

 俵山昌子「はなの喜び」。六体のフランス人形が並んでいる。左から二つ目のフランス人形は背中を向けているが、それ以外はこちらを向いている。上方に薔薇の花のアーチがかかっている。不思議な強さが感じられる。明るく生き生きとしながら画面から強く発信してくるポジティヴな力がある。

4室

 柴田愛子「アンダルシア回帰」。画家の作品は曲線が使われて、その曲線がうねうねと繰り返す中に不思議な音楽的効果をつくりだす。カフェのような室内にカラフルな衣装をまとった人々がいる。大きなガラスの向こうに風景が見える。そこは砂丘のような地面になっていて、宮殿が遠景に見える。鳥や白馬に乗る人や荷車を引く人が小さく描かれていて、その人々もまたうねうねとした曲線の中に表現されている。ガラスを通して見る遠景の風景は、ファンタジックなイメージを醸し出す。いずれにしても、風景がリズムやメロディといった音楽性を感じさせる作品である。

5室

 井石千香子「ドイツの小さな町の冬」椿悦至賞・会員推挙。しっとりとした調子。サップグリーンがよくきいている。画面の主調色となっている。屋根や地面に雪が積もった光景で、中心に樹木がその枝を広げて、その横には川が流れている。しっかりとした石造りのような堅牢なキューブな建物。ドイツの光景を描きながら、その陰影の深いトーンは日本的であるところが面白い。

9室

 加藤ひろみ「サボテンのあるこうけい」。若い三人の女性の上半身が近景に描かれている。花柄の衣装をまとっている。春の妖精のような雰囲気。後ろにはむきだしの地面が広がっていて、そこに点々と三人の女性がいる。面白いのは、上方に三つのサボテンが浮かんでいること。サボテンは厳しい環境の中でも生き長らえる。ほとんど水のない砂漠でさえも成長していく。そういったサボテンのもつ生命感がこの女性の上にあって、この女性を荘厳しているような雰囲気。どんな困難な現実があっても成長してほしいといった画家の気持ちのあらわれだろうか。

 牧野健治「形態 2015─Ⅱ」佳作・会員推挙。三人の裸婦が室内にいる。あやしい雰囲気である。白い布を置いた台の上にはこちら向きの横になった裸の女性が、右手を垂らして手の先に赤い花を持っている。中心に立って俯いた女性。そばの椅子に座って体を曲げている女性が、その横にいる。いずれも裸婦で、暗い室内で黄金色に輝いている。密度のある空間のなかに裸婦のもつエロスの力がお互いに連鎖しながら強く発信してくる。

 川崎常子「連鎖の情景─A」。うねうねとした曲線によってできたフォルム。蓮の花托になったフォルム。そのあいだから手を伸ばしているような茎が伸びている。魚が泳いでいる。小さな胞子のようなものをつけた植物がゆらゆらと揺れている。胴体にいくつも突起のある不思議な形の生き物が泳いでいる。白黒の空間の中に命というものの姿があやしく力強く表現される。優れた形態感覚でありコンポジションである。

11室

 藤島てる子「遺されたパレット」。使い古されたパレットの上には赤やホワイト、黄色、ブルーなどの絵具が置かれている。ブルーの絵具の上には筆が置かれている。そばに絵具のチューブや幾本もの瓶やグラスが立っていて、小さなワイングラスのようなものの中には青い液体が入れられている。題名を見ると、このパレットを使っている人は画家の身近な人で、すでに亡くなった。悲しみや思い出などの気持ちを、パレットを中心として描いたようだ。寒色系の色彩に対して暖色系のオレンジや赤などの色彩が呼応しながら、悲しい色彩のハーモニーをつくる。

12室

 北村洋子「TOO Late」。花束を持って石畳を歩いていく女性の後ろ姿。コートが風にすこし翻っている。向こうにあるのは古い教会のようだ。褐色の色彩で表現されている。がっちりとした石造りの建物であり、それが夕日の中にオレンジ色に輝いているようで、強いノスタルジックな感情を呼び起こす。「TOO Late」という題名を見ると、この花束を持って訪ねていく相手はすでにこの世にいないのだろうか。画家の魂の中にあるイメージの表現である。それをこのような具体的なお膳立てのなかに表現する画家の造形力に感心する。

 藤井順子「喜びの時」。可憐な白い花が咲いている。そこに黄色い蝶や白い蝶が飛んできている。三人の子供たちがそこにいて、楽しそうな様子。そばにはすこし年上のお姉さんのような子が帽子をかぶって座り、山羊の背をなでている。左のほうには父親が女の子を抱いて座っている。猫が横になっている。オレンジ色やベージュ色の明るい穏やかな空。春が来て、地面から植物が伸びて花が咲き、これから生き物が動き始める。春の喜びを穏やかな構成のなかに表現する。中心の女の子たちの姿が愛らしく、花に囲まれたその様子が魅力的に描かれている。

13室

 大久保正子「余情」。顔に狐の顔のような化粧をしている。赤い絵具でひげのようなものを描いた四人の子供たち。手拭いで頰かぶりをし、雪洞のついた傘を持って踊っている。右のほうには大人の女性が編笠をかぶって踊っている。大きな満月が出て、このお祭りの様子を照らしている。深い紫色の空間。左のほうには紅葉したようなオレンジ色の葉が見える。いずれにしても、子供たちの無邪気な踊っている様子が幻想感と同時に連綿と続いた祭りの魂といったものを伝える。受け継がれてきた祭りのイメージの中に、いま子供たちが楽しくはしゃいでいる様子が穏やかに力強く表現される。

14室

 上林如子「蒼い海」。奇妙な生き物が絡まるように集まって泳いでいる。その右のほうのフォルムを見ると、ウミウシを思わせる。ウミウシは小さな生き物であるが、貝殻が縮小し体内に埋没、消失した種で、実に軟体動物的な不思議な動きをし、ものによってはきわめてカラフルである。それがまるで海の妖精のようなイメージのなかに捉えられている。海という謎めいた深い存在をウミウシを通して描こうとするところが実にユニークで面白い。うねうねと曲線によって囲まれたこのフォルムは、海というあやしい存在の象徴のように描かれている。

 横山真弓「祈りの中で」。教会の中のフランス人形。教会という厳粛な神の世界に対して、愛らしいフランス人形が対比される。グレーの複雑で豊かなニュアンスが色彩のポイントとなっている。また、教会の祭壇の様子が遠景にあり、上方の窓から入ってくる光が内陣や椅子を照らしているところも、画面の奥行を深くしている。

15室

 服部多恵子「空と大地」。散乱した大地は地震などのあとだろうか。そういった崖っぷちで男性が空を見上げている。ショルダーバッグを肩に下げたワイシャツ姿の男である。空には雲が浮かんでいるのだが、それ以上にカラフルな気球が浮かんでいるところが面白い。赤い気球は太陽を、黄色い気球は月を思わせるような、ナチュラルな幻想感があらわれている。大地では困難な出来事が起きたが、空はいま静まり返って、人々に夢を与える存在として上方にあるといったイメージになるだろうか。

 小俣洋子「春望」。池の向こうに木製の小さな橋。上方を見ると枝が出てきて、そこに桜の花が咲いている。周りは緑の複雑なトーンでその中に静かに桜の枝が揺れている。そんな様子を落ち着いたタッチのなかによく表現する。

16室

 塚田讓「ハッピーアース・祈り」。青い帽子に青いコートを着た若い母親のような人が中心に立っている。そばにその妹のような女性が両手を組んで祈っている。そばには大型犬が遠くを眺めている。後ろの、緑の市松状の道が続いている先には地球らしき星が浮かんで、その周りに雲が漂っている。右のほうには壊れた建物や機械などが散乱している中に男が立っている。建物の向こうにはキリンやシマウマがいる。地球の自然と破壊された文明といったイメージのなかに二つの調和を祈る。そんなイメージを代弁するものとして女性があらわれている。クリアなフォルムを組み立てながら、破壊と再生、自然と文明という対立項を面白く表現する。

 大倉悦男「森の中で」。大きな樹木の下で立て膝をして座る女性。そばに獣がいる。樹木と樹木の間はブルーや緑で、あいだから木漏れ日が黄金色に見える。森の神秘的な雰囲気がよく表現されている。その森の中に座って考えこむ女性のイメージ。清らかで懐かしい存在。プリミティヴであるが、フォルムが力強いし、色彩もよい。

19室

 佐田昌治「古都・風と光…」。古都とはヴェニスのことで、一艘のゴンドラが向こうに向かって進んでいる。手前のテラスにお洒落な帽子をかぶった女性と青年が描かれている。二羽の鷗がそばに飛んできている。ヴェニスの朝が来て、爽やかな光が差し込む。暗い歴史を感じさせる深い人間の心の奥の世界を思わせるようなヴェニスが後退し、爽やかな朝があらわれる。それを二人の若い男女や鷗によって表現しているような、清潔で生き生きとしたコンポジションに注目。

 中村晃子「新」。少年たちが集まって密談をしている。そういった様子を面白く群像の中に表現する。

 杉澤安江「回想」。ソファに二人の女性が座っている。姉妹だろうか。友達だろうか。優しい調子である。後ろのカーテンが引かれて、秋もふけたような枯れた草が起伏のある地面の上に生えている様子。そして、ビルのグレーの幾何学的なシルエット。室内の大きな観葉植物の指を思わせるようなフォルム。淡いグレーやブルー、ピンク、黄色などの色彩が繊細に使われながら、お互いにハーモナイズする。二人の女性が座っているのだが、心の中でデュエットしているような雰囲気で、そのメロディに沿って周りに物象があらわれているような不思議な詩情が感じられる。

 よでん圭子「暴れ模様」。黄土色や紫色などが使われている。その色彩のコントラストも強いが、フォルムが力強い。ビートのきいたジャズを聴いたときのイメージがそのままこのコンポジションのイメージと重なる。中心の裸婦の横から見たかたち、その周りを囲む有機的であるが抽象的なフォルム。いわば女性の生命力に対して、それを取り囲む様々な環境といったものが集められて、ヴァイタルな力が表現されているところが面白い。

 佐田興三「いろは」。「いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせす」は弘法大師がつくったといわれている。いわば日本語を教えるためのテキストであるが、そんな「いろはにほへと」がローマ字で上下に描かれながら、それによってあらわれてくるイメージが赤い調子の中に描かれる。白い教会のような建物も見えるし、稲架木が畦道に立っているようなイメージもあらわれる。あるいは、抽象的なフォルムの組み合わせによって独特のファンタジーの空間もあらわれる。赤の色面をペインティングナイフで置きながら、最初に置いた明るい緑色の色彩があいだからあらわれてくるといった様子。一種即興的なコンポジションの中に西洋と日本に両足を置いたような不思議なファンタジックな空間が表現される。

 浜辺順「嘆きのセイレーン」。セイレーンとは、船乗りに歌を聴かせて海の底に引きずり込むという恐ろしく魅力的な妖精たちである。そんな女性のもつ不思議な力をロマンティックに画面の中に表現する。髪が海の中に靡いている様子が面白く、それがそのまま歌のコーラスのワンフレーズの繰り返しのように表現される。下方の暗い中での緑や濃紺、上方のすこし明るい空。そんな中に黄金色の肌をもつセイレーンがあらわれる。

 松村啓二「冬濤」。大きな波が打ち寄せてくる。その繰り返す波の動きをダイナミックに表現する。まだ嵐の序章で、これからますます激しくなる、現在進行形のその風景の様子の臨場感あふれる表現である。

 佐藤光男「冬運河」。小樽の風景だろうか。運河に雪が積もっている。繫留された船の上にも雪が積もっている。遠景の山もそうである。遠近感を強調しながら、近景と遠景とのあいだの距離感を生き生きと描く。グレーの複雑なニュアンスをこの風景の中に生かしている。青を中心としたグレーに対して、上方の空のベージュのようなトーンとが対照されて、ぽっかりと浮かんだ淡い雲の雰囲気としっかりとした大地の表現とが対照されているところも面白い。水の上につがいの水鳥がこちらに泳いできているのも、ほほえましいアクセントになっている。

 澤村みちる「森の少年は金に輝く」。黄金色に輝く少年は角笛を持っている。ギリシャ神話を思わせるようなイメージである。その両側に丈の低い樹木が立ち、大きな葉を茂らせているのだが、そばに葉と見紛うようなフォルムであるが、鳥がとまっている。なにか大正ロマンを思わせるような独特の夢のような世界である。また、少年はこんじきであるが、上方の空にも金が使われていて、天空から黄金色の光が降ってきている。その光に照らされた黄金色の少年。瑞々しい若緑色の色彩の中にエメラルドグリーンやカドミウムグリーン、あるいはビリジャンなどの色彩が置かれ、ところどころ赤が点じられて、いわば森とその妖精といったイメージが描かれる。少年も樹木も鳥もすべて同じ仲間として描かれる。自然と深い関係をもつ生命というものを画家は静かに荘厳するように、黄金色の光をそこに降らせる。

 根岸一雄「西の風」。西の風というと、西方浄土から吹く風なのだろうか。西からの風や光に照らされた女性の群像。十人ほどの女性が座ったり立ったりしながら、その風を聴いている。寂々たる雰囲気である。グレーがすこし黄金色を思わせるようなトーン。女性たちの顔の光っている部分は銀灰色に感じられる。深い精神的なイメージがこの風や光のなかに表現されているところがこの作品の魅力だと思う。

 小池かよ「2015 試行へ」。三人の女性が上下に置かれている。膝を立てて横座りになった女性たち。緑の衣装を着て、背景も緑である。その中に女性の肌がジョンブリヤン系の色彩で輝いている。どこかステンドグラスを思わせるようなコンポジションであるし、色彩である。信仰をベースにしたスピリチュアルな空間、そのノーブルな雰囲気が魅力である。

20室

 藤本繁「赤毛のアンの島─1」会員推挙。色彩家である。緑の草原に白い壁をもつ家。屋根は緑と暗いグレー。白い柵。オレンジ色に紅葉した樹木のあいだに緑の針葉樹。深い空に不思議な雲が下方にあり、手前の水には白鳥が一羽いる。画家のつくりだした色彩のもつ品のよい性質がお互いにハーモナイズしながら、ファンタジックなイメージを醸し出す。

 斎藤知恵「果たされた運命」太平洋美術会奨励賞・会友推挙。妖精的な若い女性が座っている前に、丸いテーブルが傾いている。テーブルの下にはたくさんの髑髏などがあって、鳥もいる。女性は糸を持っている。その糸が運命の糸なのだろう。ロマン派の物語が進行するような独特の雰囲気。現実を再現するのではなく、イメージを表現するその姿勢に共感をもつ。

21室

 石渡泰子「亀山湖」会友推挙。湖はオーレオリンのような色彩。茶色い一艘の船。背景は暗い。ブラックに近いような色調の中にグレーや緑。そこには山肌が存在するのだろうか。直感的に対象を把握して色面として表現する。

22室

 鶴東光二「もののけの森」会友推挙。この樹木の立つ森の中に入ると、地面は厚い苔で覆われている。その苔に上方から木漏れ日が当たっている。不思議な様子に輝く。その神秘的な雰囲気がこの作品の魅力だろう。脇役のように、遠景に一頭の鹿が立って、その苔のほうを眺めている。

23室

 中村靖「ペトラ エルカズネ」会員推挙。ヨルダンにある神殿が表現されている。石でつくられた神殿の様子が、透明水彩を重ねながら輝くように表現される。下方の人物の表現もリアルで優れている。

 川崎節夫「長城紀行―黎明」会友努力賞・会員推挙。万里の長城の上に立って、はるか向こうに続く長城の様子を描いている。周りの山の表現も空気遠近法の中によく表現している。

 鈴木知子「飛騨高山」丸山晩霞賞。昔ながらの木造の建物。一階は店になっている。雪が降っている中を傘を差してこちらに歩いてくる男女。後ろの樹木が枝を広げている様子。淡々と対象をしっかりと画面に定着させながら、そこに降ってくる雪の点々を描いて、情緒が生まれる。

 田中範子「望郷」会員推挙。若い女性と男。後ろの教会のようなシルエットの建物。森。男はボルサリーノをかぶっている。強い性格がそこにあらわれている。それに対して穏やかな女性の表情。二人の性格を描き分けるような筆力。

 東條房子「サクソフォンの学生」会友推挙。サクソフォーンを吹いている若い女性の姿を丁寧に描いている。それによって重ねられた絵具から豊かな色彩があらわれる。

24室

 土屋敏子「パリ早春の時」。道のコーナーにあるカフェが画面の中心になっている。そこに入ろうとしている二人の男性。座っている老人。シルエットになった店の中の人。道を歩く二人の男女。上方の空と裸木。切ないロマンティックな音楽が聞こえてきそうな独特の色使いと客観的に対象を描き起こす筆力。

 下村正芳「ランプと黒猫」。緑の上着を着た茶色の髪の女性が椅子に座っている様子を感覚豊かに表現する。その後ろに黒猫がいて、頭をこちらに向けて鑑賞者のほうを眺めている様子。その黒猫が入ることによって、画面が一挙に活性化する。

 池田千世子「実りの季節」。葡萄棚から葡萄の房が垂れている。青い複雑な色彩。中にはベージュやグレーの色彩の葡萄の房がある。背景には葉がたくさんあるはずだが、それを線によって描きながら、厚みのある空間をつくりだしている。その背景の処理と葡萄の重ささえも感じさせるような量感のある房の表現がよい。葡萄をまるで宝石のように描いている。

 渋谷敬子「シチリアの朝市」会員努力賞。朝市には肉のようなものが吊るされている。そこに二人ほどの男女が買いにきている。透明な光線が差し込んで、明るい部分と影をつくる。端整な表現力というのか、客観的に対象をしっかりと描きながら、そこに光を生かしている。

 由比五男「『薄暮』マテーラ」。マテーラの建物を俯瞰している。屋根を置いて、漆喰の壁。そんな様子を丁寧に描くことによって、ヒューマンな味わいが生まれる。ところどころ照明が入って、照り返しの光がこの薄暮の中に導入されているところが、なにか懐かしく繊細な雰囲気をつくりだす。

29室

 田中俊行「少女の夢」。ファンタジックな物語のシーンの一つのような不思議な感覚である。木の上に少女が座って下方を眺めている。後ろにまわした手に一輪の赤い薔薇の花を持っている。下方には小さな小川が流れている。周りは鋪装されていて、そこに男女や歩行する人がいる。川には魚をとっている少年がいる。遠景には、アーチ状の石でできた建物の上に大きな木が伸びている。その上方には吊り橋があって、男が下方を眺めている。画家のつくりだした物語が進行していく。それをクリアな一つひとつのフォルムによって表現する。

30室

 佐々木實「マダム・バタフライ」。高さが四メートルほどもある巨大な彫刻である。女性が歌を歌っていて、口から息のようなものが出て、それがヒョウタン形のかたちをつくる。レリーフ的な表現で、後ろはつくられていず、凹状にへこんでいる。マダム・バタフライというと、「ある晴れた日に」という歌を歌っているシーンが浮かぶのだが、このマダム・バタフライも歌っている。

31室

 熊本くにみ「山ゆり・AA」。山百合の蕾がぐいぐいとした筆力の中に表現される。黄土色の色彩がそこに使われている。その後ろは緑の色彩であるが、白く咲いた満開の山百合が繰り返しそこに描かれている。手前の蕾の山百合もなにか霊的な影のようなかたちで、背後にその白い百合が描かれているのがまことに面白い。画家は百合を生きた存在として捉え、それをこのようなかたちで強く表現する。

 安藤昌平「倉敷春宵あかり」。中心に川が流れている。そこに一艘の船が進んでいるのだが、後ろには棹を持つ男。手前には船頭の裃を着た男。あいだに若い女性二人に中年の男女の四人の客が乗っている。棹を持つ男は江戸時代のような風俗。周りに点々と雪洞が灯り、人々が行き交っている。瓦屋根に白亜のなまこ壁。遠近感を強調しながら水に樹木の影が映っている様子が、まるでわれわれを夢の中にいざなうようだ。水も近景はすこし暗く、中景は明るくなっていて、そのあたりのニュアンスの表現も見事である。とにかく、一つひとつのフォルムがクリアで、それを組み合わせながら物語をつくるところがよい。

 久保木妃呂子「想―Ⅱ 2015」。三体のマネキンに自由な衣装を着せて、それをスキャンしながらCGとして表現する。きらきらとした都会的な表現。マネキンと衣装とが夢の中の妖精的な雰囲気の中に表現される。

第67回三軌展

(5月13日〜5月25日/国立新美術館)

文/高山淳・磯部靖

1室

 齋藤リラ「草虫花譜」。八枚のパネルを横に合わせたような構成になっている。実際には画面上で縦長の八つの空間がつくられ、そこに様々な花が描かれている。ポピー、鬼百合、ホオズキ、カンナ、白百合、山茶花。白い可憐な花などが大きく、あるいは小さく自由に画面の中に描かれて、それぞれがお互いにハーモナイズする。筆者は花について詳しくないのだが、その花は季節季節を背負っているようで、一つの季節だけではなく、春夏秋冬の季節の中に存在する花がここに描かれているのだろう。枯れた蓮の葉のようなものもあり、花托のようなものもある。あるいは、そこにアゲハチョウのようなものが来てとまっているのもある。日本画の世界を油彩画で表現したようなところもあるが、日本画以上に激しくパッショネートな表現になっている。それはフォルムに対する強い感覚によるものだろう。背後には金泥を思わせるような色彩が使われて、草虫花譜というように蜂や蝶やカマキリなども置かれていて、強い波動が画面から感じられる。それぞれの波動がお互いに響き合い合唱しているかのような雰囲気であり、実にパッショネートな四季花虫図となっている。(高山淳)

 中井一男「私風景(風の行方)」。後ろを向いて横になった女性の描かれた画面を中心に、その左右と上に一つずつ、計四つの画面で作品が構成されている。その構成が一つの室内を見渡すようでおもしろい。窓辺や壁に掛かった洗濯物、トルソ、そして女性とその手前の雑貨がそれぞれ強い存在感を持っている。それらが今回、このような構成によってより活かされているところに特に注目する。(磯部靖)

 滝浪文裕「絆」損保ジャパン日本興亜美術財団賞。一人の母と三人の子供が縦長の画面に描かれている。母は赤ん坊を抱き上げ、その二人の姉は足元に抱きついている。強い愛情がストレートに描き出されている。そのイメージは、立ち上がる樹木のように強固で強い生命力を孕んでいるようだ。この母子を見守る画家のあたたかな目線がそういった感情を運んでくる。確かな描写力を持ったこの画家だからこその表現であり、発信力である。(磯部靖)

 小林俊彦「潮汐」三軌会賞。「遙か遠くの島まで見える澄んだ空気、吐息も白くなる初冬の朝。幾度となく繰り返される潮汐の風景である。年間を通して朝日と干潮時が重なる数少ないシーン。決して人間の手で造る事の出来ない砂と波の造形。足元で同じリズムで押し寄せては返し、さざ波が沖に向かって囁(ささや)きながら遠ざかっていく。古(いにしえ)より続く大自然の神秘に感動と畏敬の念を抱き、心奪われた瞬間でした」(小林俊彦)。いま朝日が昇って、空はオレンジ色に染まっている。その赤い光はこの海の波や浜に斜光線となって浸透して照らしている。波は海の向こうに水平線に向かって引いている。太陽が昇るというポジティヴな力に対して、水平線に向かって引いていくというネガティヴな力。二つのベクトルがかみ合う中にこの不思議な光景が生まれた。リアルな再現力であるが、その力によってシュールな雰囲気が生まれる。そのシュールな雰囲気は海というものの不思議なイメージからくるのだろうか。海は様々な生命を育む存在であるが、朝日に照らされた引き潮の中にはなにか不思議な感じがあって、いわば時間のはざまのような空虚なものがあらわれてくるかのようだ。ちょうど日蝕の時に感じる不思議さと共通したものがあるのかもしれない。(高山淳)

 吉田照美「メディアの噓・死神の弁明」。朽ち果てた廃屋とそれを撮影する一人の男が描かれている。廃屋の手前に置かれた廃材には死神が座り込んでいる。その強い関係性が、様々なイメージを鑑賞者に運んでくる。長く放送業界で生きてきた作者だからこその問いかけであろう。じっくりと画面と向き合って描き込むことで、モチーフは生命を得、作品に説得力が生まれる。暗鬱とした画面の中で、真実を知るであろう死神の存在感が強く印象に残る。(磯部靖)

 小早川岳士「駈ける」会友優賞・会員推挙。ガラスの破片のようなもので象られた人物が空を駆ける様子が、見上げるような視点で描かれている。そのダイナミックな構成に強く惹き付けられる。地平線に僅かに見える陽の光に照らされた姿が、ロマンチックな情感を運んでくる。(磯部靖)

2室

 山形一遊「金樽鰯」奨励賞。三分割された画面の中央に水面が見え、上方には植物の枝葉が見える。下方は水中になっていて、たくさんの鰯が泳いでいる。水中は暗色で、それが画面全体で強いコントラストを作り出している。鰯の上下しながら連続する様子が独特のリズム感を作りだしていて、それがまた上方の静かな気配の漂う雰囲気と対比される。そういった、一つの画面の中で作り出された抑揚が、見応えを引き寄せている。(磯部靖)

 横須賀幸正「わだつみの……」。三面対の祭壇画ふうな構成になっている。中心には壊れたブロックの上に球体が置かれ、その球体の中には貝が生きていて、水が入っている。周りに水の泡や水滴が描かれている。水というものが生命を支える神秘な存在としてここに描かれている。岩陰にいる赤いカニが動いている。上方に満月と三日月、二十四日ほどの三つの月が置かれているのも面白い。水の最も集約したものは海であって、海は月と深い関係をもつ。しぜんと月のイメージがこの水の祭壇画に引き寄せられたのだろう。(高山淳)

 大槌隆「2015年4月1日・夜明け」。千葉県白子町九十九里浜の二〇一五年四月一日の夜明けはまさにこのような光景だったのだろう。画家はこの砂浜を繰り返し描く。一時はモノトーンによって描いたこともあったが、これは色が入って、広々とした空間の広がり、そして夜明けの太陽が雲の向こうに赤く見える。空の淡い広がりがイノセントな雰囲気である。地面の上に点々と生える草。あるいは廃棄されたドラム缶の残りのようなもの。白い塀や赤白の看板。何一つ見落とさないようにこの空間を描く。そのような作業を繰り返すうちに、その空間の一つひとつが画家の内界のある部分に化すような不思議な存在があらわれている。いわば念が対象に移って、その移った対象が心の中に閉じ込められて、もう一度画面の中にあらわれるといった趣なのである。(高山淳)

 佐藤美代子「2015『遼遼』」。一人の女性を中心に、そこから例えば樹木が枝を広げるように、イメージが生み出されて行っている。絵画や天秤、パソコンなど、日常的なモチーフが様々描かれ、それらが画面を活性化させている。生まれては消えていくイメージの欠片が集合して、この女性の存在を成り立たせているようだ。そして、これまで主役として描かれてきたウサギが、絵画作品となって描かれている。その視線の向こうには崩壊した建物のようなフォルムが見える。現代社会の限界、破綻を予感させるようなイメージ、近年では地震によって瓦解した原発の建屋を想起させる。それ自身、あるいはそれによって被害を被った現地の人々に対して、ウサギは気持ちを向けているようで興味深い。いずれにせよ、画面全体で画家の深い心の内に触れるような魅力を孕んでいるところが特に見どころである。(磯部靖)

 縣二三男「ポーランドの沈黙・房」。アウシュヴィッツのイメージなのだろう。そこでユダヤ人やポーランド人がたくさん殺された。写真で見るだけでも恐ろしい沈黙の建物であるが、画家はそこから生きた人間の血潮、その苦悩、その心を引き出そうとするかのようだ。繰り返しこのテーマを描いているが、描き尽くせないものがあるのだろう。最近、日本でも南方や大陸やほうぼうで亡くなった人のことが資料によって浮かび上がった。トラック島周辺に天皇陛下がお参りされたのも記憶に新たである。人間にとって無意味な死というものはない。死というものはいくら悲惨でも、それは生というものを照射するようだ。そういった逆照射された生のイメージが、この深い輝くようなオレンジや赤、ベージュの色彩によって表現される。(高山淳)

 吉田外美子「影向の庭園」。横長の画面に自然の摂理と美しさを感じさせるイメージが描かれている。月や太陽、それによって生まれる建物の影、植物やそこに吹く風。そういった何気ない情景が、ドラマチックに表現されている。そこにもう一つ、刻々と変化する時間の流れがあって、それがさらに強い臨場感を作品に引き寄せている。(磯部靖)

3室

 実石江美子「いのちの樹」。それほど丈の高くない樹木が画面の中心に描かれている。屈曲した枝が伸びていき、そこに大きな葉がつけられている。背景は黒で、そこに銀灰色のクワの木と枝と葉が浮かび上がる。それはグレーであるが、同じグレーでセミの抜け殻。地上から現れて、ここにとまり、そこからセミが抜けたあとのような殻が点々と置かれている。そして、そこから生まれ変わったセミは黄色い色彩で羽を広げたり閉じたりしながら描かれている。やがてセミは命いっぱい鳴きながら、一週間ほどで死ぬ。セミは地中で幼虫として七年ほど過ごし、このクワの木に上った。それからセミに変態して約一週間。やがてまた卵がかえって地中で幼虫として成長していくのだろう。命の循環ともいうべきものがしぜんと作品から感じられる。黄金色の波のようなフォルムが繰り返しいくつか描かれているのは、そういった命を大切に守るような、荘厳するような、そんな画家の気持ちからだろう。この作品のテーマを支えているのはモノトーンによる画家の筆力である。クワの木のもつ力がセミを支えながら、前述したようなイメージをつくりだす。(高山淳)

 松本孝「鳥のいるプロフィール(A)」。テーブルに肘をついて腰掛けた一人の女性を中心に画面が展開している。女性は強い眼差しをこちらに向かって送っていて、それに強く惹き付けられる。その周囲にはたくさんの様々な鳥が描かれ、鳥の羽も舞っている。様々な色彩が使われているが、それらがうまく扱われて画面が構成されている。ヴィヴィッドな感性が魅力である。(磯部靖)

4室

 小澤茂「交錯する指標」。大小様々な色面によって画面が構成されている。赤の色彩をベースに、茶、暗色、青、緑、黄、ピンク等々で矩形や円、線などをいくつも描き、重ね、ある部分では間が空けられている。そういった抑揚がおもしろい。日常と非日常、意識と無意識を行き来するかのような、スリリングな気配も孕みながら描き出された画面が印象に残る。(磯部靖)

 鳥羽佐知子「終わらない旅」。赤いワンピースを着た女性が身体を捻り、右手を上方の舟にかけている。その舟には、もう一人の女性が目を閉じて寝ている。背後にヨーロッパの古い建物が見上げるような構図で描かれている。どこか薄暗い色遣いが、若い女性の未来に対する不安を引き寄せる。周囲にはカラスが舞っていて、それもまた不穏である。長くこのシリーズを続けているが、政治、経済、国際情勢がますます不安定になってきたことに、画家は敏感に反応しているようだ。そういった暗鬱なイメージだが、女性の眼差しはそれをものともしない強さを秘めている。その強さが鑑賞者を強く惹き付ける。(磯部靖)

 柳澤武雄「あそびましょ」。手前に青い紫陽花が二つ咲いている。その下方、あるいは葉の上に子供たちの姿が見える。その笑顔がなんとも愛らしい。背後には砂漠が広がっていて、和洋の神・天使が見える。乾いた砂漠に咲く紫陽花は希望の象徴のようだ。それは、人類の未来への希望である子供に重なる。空間を大きく取りながら、そこに余韻を作りだした鑑賞者に深く考えさせるような発信力を持った作品である。(磯部靖)

 森田一男「渦中の子どもたち」。二人の少年とその間に挟まれた一人の少女が正面から並んで描かれている。近年、戦争をテーマに描いてきた画家であるが、今回は現代に起こっている地域紛争、テロの悲惨さを描いている。特にイスラム系テロ組織による少女を使った自爆テロが恐ろしい。描かれた少女は紫の炎に包まれている。その様子が深い悲しみを強く引き寄せる。死と背中合わせに生きる三人の姿と眼差しが、そういったメッセージを鑑賞者の心に強く訴えかけてくる。(磯部靖)

 市川元晴「愛するものたち」互井賞。たくさんの様々な犬が画面に描かれている。その一匹一匹が丹念に描かれている。それらは、家族がテーマになっているようだ。それが、V字型の構図によって、より強く繫がりを深めながら、愛の大切さ、美しさを発信してくるようだ。犬という身近な動物をメタファーに、画家は現代において最も大切で人生の基礎となるものを表現している。(磯部靖)

 佐々木忠和「日はまた昇る」。津波によって倒壊した鉄筋コンクリートが、大きく描かれている。大変な爪痕であるが、実に穏やかな気配が漂っている。海面も静かで、奥の方は日の出の光にキラキラと輝いている。絶望から希望へ、再生のイメージが静かに立ち上がってくる。清潔な描写によって、それらが生き生きとしたポジティヴな魅力を生み出している。(磯部靖)

 伊藤勝男「キラキラ」会員推挙。海沿いの街並みを眺めるような視点で描いている。黄や青、緑といった豊かな色彩感覚が魅力である。家屋や海、岩のフォルムなどの味わいのある描写と相俟って、強く印象に残る作品となっている。(磯部靖)

5室

 佐藤宏道「歓び」。画面の下方にいくつかの樹木が枝葉を広げている。その上方は大きく空の空間が取られていて、そこに紙風船や鯉のぼり、風車、凧、細長い紙などが舞っている。中央に少し大きめの紙風船があって、その両脇に鯉のぼり、それらを中心に配置されている。どれも子供に近しいモチーフであり、成長を祝い、喜ぶものである。シンメトリーな構図の中で、それぞれが丹念に描かれていて、画家の心情がよく現れ、伝わってくるようだ。(磯部靖)

 岡田早苗「街」。白いドレスのような衣服を着た女性の全身を正面から描いている。背後には夜の街が煌めくように描かれているようだ。たくさんの人々が行き交う街の中、この女性もまたその中の一人なのだろう。そのワンシーンを捉え、背後の物語性をイメージとして浮かび上がらせているところがおもしろい。そういったものを味わい深い色彩とマチエールで支えている。(磯部靖)

 小森秀司「待春」。画面全体に草原が広がっている。冬の間、色を失って寒さに耐えてきた草が、春の近づきを知り、どこか黄金の輝きを孕んでいるようだ。その一つひとつをじっくりと描き込みながら、画家は生命の力を与えている。遠近感に気を配りながら、奥行きのある精神的な世界を草に仮託して描いているようなところが実に興味深い。(磯部靖)

 今本一夫「山村暮色」奨励賞。夜を迎える山村の情景をぐいぐいと力強く描き出している。青や紫など寒色を大胆に、効果的に扱っているところが見どころである。特に、白や朱を入れながら施された中央の青の色彩が味わい深く、画面全体に深い情感を引き寄せている。(磯部靖)

 庄子明宏「春はまだ遠く」。手前に平原が広がり、その向こうの小高い丘に牛舎のような平屋の建物が見える。そういった情景を、淡々と、しかし繊細に描き出している。まだ雪は至るところに残っていて、画面全体に肌に迫るような冷たい空気感が満たされている。臨場感を特に大切にしながら、それがこの作品の大きな魅力となっている。(磯部靖)

 もりたかめい「都市のつくり方」。「東京湾のゴミ埋立地に苗木を植え、緑豊かな森に生まれ変わらせようというドラマチックな計画が実現しつつある。『海の森』プロジェクトと呼ばれている。1945年の敗戦後、明快なビジョンのないままスクラップ&ビルドを続けた『東京』に、初めて将来を見据えたプロジェクトが進行中なのである。もう、パリのオスマン計画やニューヨークのセントラルパークを羨むことは止そう。この国にも《都市のつくり方》を真剣に考える人がいるのだから…。今はただ、爽やかな緑の海風が吹き抜ける銀座の街路を颯爽と歩く、曾孫たちの笑顔を思い浮かべていよう」(もりたかめい)。下方に緑の色面があって、それは公園のようだ。そして、上方に建物が立ち並ぶ。右のほうは高層ビルが固まって、巨大な宮殿のようになっている。緑の向こうに小さな小高い丘のようなフォルムが見える。それはこの緑の森プロジェクトによってよみがえった街を遠望している様子だ。海の向こうにその新しい街が見える。その街をピックアップして、手前に自由に表現した感もある。画家は描きながらだんだんと建物をつくり、街をつくっていった趣がある。右のほうのグレーは水のような雰囲気で、そこに矩形の小さなフォルムがいくつもあらわれているのは、小さな公園や樹木のようだ。左のほうにはもっと幾何学的なフォルムがあらわれている。中心のグレーを取り巻く赤い色彩は、都会を潤す血管のようなイメージ。よみがえる街には新しく血管ができ、そこに栄養素を送り込む。そんなイメージもこの赤にはあるだろうし、また、都会の心臓のイメージもあるだろう。中心の明るい緑と暗い緑の二つの色面が、この街のイメージのもつ包容力とか安息感といったものを表すようだ。二つの緑の色面、それは昼と夜と言ってもよいような時空間をまず描きながら、だんだんと建物や街を画面の中につくっていったのだろう。(高山淳)

6室

 山崎巨延「新緑榛名」。画家が近くに居を構える榛名湖の情景である。湖の向こうには榛名山の姿が見える。手前には樹木や草木が葉を繁らせ、湖や山はその間から覗き見るような画面構成である。その枝葉が細やかに、瑞々しく描かれているところにまず惹き付けられる。湖面はわずかに揺らぎ、時の流れを感じさせる。手前から山までの距離感をしっかりと捉えながら、画面全体で実際に鑑賞者を作品の中へと自然と引き込むような魅力を放っている。画家の確かな筆力だからこそ成り立つリアリティである。(磯部靖)

 菅原明男「春のひざし」。画面の手前から奥へと草原が広がり、中景に背の低い建物が見える。その向こうにはうっすらと山並みが見える。草原には手前から湾曲しながら轍が続いて行っている。その緩やかな動きが、作品を活性化させている。茶系の色彩を抑揚豊かに扱いながら草木を描き、そこにあたたかな陽射しの温もりを与えている。繊細な情感を大切に描き出した作品である。(磯部靖)

7室

 山崎千鶴「A DAY 1501」。廃材をたくさん描きながら、画面の中央に空間を作っている。ヴォリューム感のある廃材に囲まれることで、その空間が強い余韻を作りだしている。画面全体はグレーの色彩を中心に、茶系を織り交ぜながらまとめられ、消えゆく存在感のようなものを引き寄せている。イメージとして伝わってくるそれらの気配が、特に魅力の作品である。(磯部靖)

8室

 大部員代「喝采」。木製の椅子が画面の中央に大きく描かれている。そこに色様々な薔薇が置かれ、また床にも散らばっている。華やかなパーティーの後を思わせる演出である。シンプルな画面構成でありながら、その背後にあるイメージが強く訴えかけてくる。落ち着いた色彩の扱いもまたセンスの良さを感じさせる。(磯部靖)

 松村純雄「月夜の森のBAR」。擬人化された動物たちが集うバーのカウンターを正面から描いている。それぞれの動物たちや棚の酒瓶などが細やかに味わい深く描かれていておもしろい。天井から見える星空もロマンチックで、豊かな物語性を感じさせる。(磯部靖)

10室

 遠藤政和「故郷の新春」。両岸に雪の積もった河が手前から奥へと続いている。地平線は低く、空の大半には雲が広がっている。その雲の動きが雄大で印象的である。地平線の先に光源があって、それが清々しい心理的なパースペクティヴを作りだしているところが特におもしろい。そういった強い情感の扱いと表現を描ききった画家の絵画的センスに特に注目した。(磯部靖)

12室

 阿部留治「冬の最上川」。画面の右奥からゆっくりとカーヴしながら手前に向かって河が流れている。両岸にある雪は量感豊かに描かれている。空は、やわらかな黄、ピンクといったパステル調の色彩で、それが水面にも映り込んでいる。その様子が強い詩情を作品に運んできている。(磯部靖)

13室

 小松崎こう「夜遊び会議」。六個のアルミ缶が大きく並んで描かれている。そのアルミ缶には細工がなされていて、人間の立ち姿のようである。笑ったり手を挙げたりするその様子がおもしろい。ガラスのテーブルに置かれているようで、アルミ缶自体の表面と合わせて、周囲の様子と光の反射が大きな見応えを作りだしている。イメージの豊かさと確かな描写力を感じさせる作品である。(磯部靖)

14室

 井上幸美「願いを込めて『スターダスト』」奨励賞。歌を謳う黒人の女性とそれに聞き入る男性、上方背後には演奏する様子が描かれている。「スターダスト」は有名なジャズの曲であるが、人物を描く画家のそのデッサン力が、画面の中に流れるメロディをしっかりと伝えてくる。(磯部靖)

 高橋富美江「森」。ピンクの花を持った二人の女性が背中合わせに立っている。背後には大きな樹木が立ち上がってきている。二人は白い衣服を着ていて、その様子にどこか妖精的なものを感じさせる。森の中での一場面であるが、幻想的な世界観が魅力の作品である。(磯部靖)

15室

 村山晴美「2015 時を駆ける」。こちらに向かって疾走する白馬が、画面いっぱいに大きく描かれている。その凜々しい表情、姿が強く鑑賞者を惹き付ける。力強い馬のフォルムもまたしっかりと捉えられ、繊細に描写されている。背景の世界観と合わせて、画題にあるように過去から現代へ、現代から未来へと移り変わるこの世界を駆け抜けるような、霊的な気配を併せ持っているところが特に魅力である。(磯部靖)

 杉本靖子「四季おりおり」奨励賞。上下に分割された画面に猫などの動物たちがたくさん描かれている。上は花びらの散る春、下は雪の舞う冬のようだ。猫たちそれぞれの様子がユーモラスであり、愛らしい。独特のセンスを感じさせる作品である。(磯部靖)

17室

 藤田康弘「甍の波・シェーナ」佳作賞・会友推挙。水彩作品であるが、重厚な感じで、水彩とは思えない力があらわれている。題名のように、俯瞰してシエナの街並みを描いている。見えるのは茶褐色の瓦と側面の壁である。道に従って建物がつくられ、全体で大きなムーヴマンがあらわれる。その動きと同時に上方から差し込む光によって、ニュアンス豊かな陰影がつくられる。動きとその光の力によって、一種抽象的と言ってよいほどの強い波動が生まれる。しかもそれが中世の街シエナで、現代というより、中世から続く連綿たる歴史さえも感じさせるところが面白い。(高山淳)

 白鳥幸雄「夢物語」新人賞・U氏賞。時計の前にピエロが描かれ、それを中心に画面が展開している。足元には犬や猫、人形などが集まってきている。まさに夢の世界の出来事のように、独特のイメージ世界となっている。楽しく、ミステリアスで自由なこの世界に鑑賞者を強く引き込むような魅力を放っている。(磯部靖)

24室

 岩野耕治「神話 15」。小さな人型を組み合わせたようにくり抜いた板をいくつか並べている。それを付近に置いてあったライトで照らすと、背後の壁に揺らぐような影が映る。独特の演出であり、リズムのようなものを感じさせて印象に残った。(磯部靖)

 三坂侃「悠久たれ!! エーゲ海」。黄金の仮面を被った女神の彫像とその足元にエーゲ海が作られている。その世界観を限られたスペースで空間的に構築しているところがおもしろい。仮面の表情も特徴的で、作品全体で明るくポジティヴなイメージを発信してくる。(磯部靖)

 小川龍男「秋を編む」新人賞・U氏賞。小枝を編んで大きな球体を作りだしている。そこには様々な森のイメージが組み込まれているようだ。葉や木の実だけではなく、その背後にある一年の時の流れや動物たちとの関わり。そういった自然の中の物語が、収斂していくような動きの中に感じられて印象に残った。(磯部靖)

25室

 御正進「鷺」。飛び立つ鷺とそれを見上げる人物。それらが上下に配置されている。鷺と人物のしなやかなフォルムが特に印象に残る。一瞬の邂逅、その瞬間が流れるような動きの中に表現されている。淡々と表現しながら、ある種のロマンを感じさせるところが特に魅力の作品である。(磯部靖)

第37回日本新工芸展

(5月13日〜5月24日/国立新美術館)

文/高山淳

1室

 西川勝「月のふね」文部科学大臣賞。「やわらかな月の光で編みこまれたイメージが手びねりで創られている。美しい長石釉の光と色の一方で、線刻が月光の澄みわたる厳しさを現し、観る者を誘ってくれる」。複雑な曲面を組み合わせて、全体で船の形になっている。赤く彩色された色彩も見事だし、その中に長石釉の輝くような色彩が、まるで月の光に反射しているような趣。

 月岡裕ニ「切金砂子彩箔『潤』」。牡丹の花。雌しべと雄しべ、花弁。それをデザイン的に表現しながら、切金と砂子によって絢爛豪華な表現にまとめている。

 豊澤英之「瀬戸の朝」日本新工芸会員賞(特賞)。「色漆を塗り重ねてから、刀等で彫ることによって表現する彫漆技法で制作している。静かに広がる瀬戸の夜明けと波間を照らす光が表現されている」。下方の黄金色の光が周りの青い描写的な表現に対して、実に力強いアブストラクトとしての力を表す。

 加藤幸兵衛「ラスター彩日輪草文方壺」。方壺にいわゆるラスター釉の褐色、金彩、ブルーなどの色彩が点じられて、向日葵のような花が大きく胴に咲いている。はるかシルクロードと深い関係をもつラスター釉の色彩によって絢爛としながら、どこか大陸的な広がりをもつ表現。

 寺池静人「櫻華」。柔らかなカーヴするフォルムの上方中心に、小さな穴があいている。壺である。起伏のあるその肩のフォルム。そこに桜の花がレリーフ状につくられて、全体で金彩のような色彩効果を上げている。柔らかな光が内側から発光するような上品な壺。日本人のもつ深い陰影豊かな情緒を感じる。

 中村武郎「地に育つ─萌し─」。鉄を叩きながら不思議なフォルムをつくりだした。三つの足。その先はカーヴしながら、双葉のような植物の葉や茎になっている。そこからカーヴしながら円錐状にすぼまっていくかたちは有機的で、中になにか実のようなものがなり、そこから蔓のようなものがあらわれているといった雰囲気。植物をヒントに有機的な形を創造した鍛金の作品。

 田中照一「水面 煌めく」。蓋物で、上方は金彩になっている。そこに水面の波紋がたがねで彫り込まれて、独特の抽象美をつくる。また、もっこりとした蓋のもつ量感が豊かである。うつわというものが、大切なものを守る存在、大切なものを中に入れる存在としてイメージされ、それがこのふくよかな蓋の形からしぜんと感じられるところが、この作品のよさだろう。

 古瀬政弘「白幻の使者─機を待つ─」日本新工芸会員賞。「石庭に止まり、次の行動を伺う様を作者自身の心境と重ね合わせている。胴体は鍛金技法、頭部は彫金技法を用いて美しく構成された作品である」。竜安寺の石庭の岩の上にこの不思議な鳥がとまった、とこの作者はイメージしている。竜安寺の石庭からインスパイアされたこの青銅のフォルムは、時間というものの謎のようだ。その時間の謎の上にとまる鳥はもちろん作者の想像上の産物である。胴が丸く膨らんだ形で、そこに激しく尖った嘴をもつ毅然とした顔があらわれる。時間という不思議なものと呼応する不思議な妖精的な鳥を作者は創造した。

 水野教雄「春舞う」日本新工芸会員賞。「山々の満開の桜の花が散る様を練込み技法を用いて型に嵌め込み、制作した美しい作品である」。ベージュの上に褐色の練りこまれた色彩が不思議な網の目状のネットのようなフォルムをつくりだし、そこに起伏があらわれて、全体で花弁がそのまま抽象形態になったような独特の造形をつくりだす。

 北出太郎「想う」日本新工芸会員賞。「磁土を板作りにて成形し、焼成している。九谷の上絵付を施し四十雀の子を見守る親の想いを表現した作品である」。白磁の上にこの四十雀の図柄が見事な意匠を見せる。六面体の面取りしたフォルムも斬新でモダン。

 山﨑豊「玄揺」彫刻の森美術館賞。「漆黒を連想させる柔らかな釉色が魅力的である。土の温もりを秘めた肌合いと、彫刻的な造形に工夫がみられる。くり抜かれたわずかな空間が効果的である。宮崎県の高千穂峡から着想を得た自然の風景を自らに取り込み作品へと見事に昇華させた作品である」。受賞理由にあるように、一種彫刻的な力をもつフォルムが素晴らしい。

2室

 青山鉄郎「春光」。巨大なうつわ。そこに螺旋状に動く曲面がつくられ、中心に月白釉のような釉薬が置かれ、その垂れたかたちが乳白色で、月を中に入れたようなロマンティックな雰囲気をつくりあげる。ろくろと思われるが、その雄大な器形をベースにした雅やかな釉薬による表現に注目した。

3室

 稲川久子「快晴の朝に」。四体の白いフォルム。それは人間であるが、三体は両手を上げて、もう一体は帽子をかぶって両手を重ねている。地中から新しく植物の命が生まれて、背伸びしながら地面からそのフォルムが育ってきているような、そんなイノセントな雰囲気が鑑賞者を引き寄せる。

5室

 米澤二郎「フューマン」日本新工芸賞(特賞)。「六ツ目編みで成形した竹、籐を染料にて染め、漆仕上げを施した作品である。強烈な色彩が存在感を感じさせる」。漆の赤が独特の色彩効果とマチエールをつくりだす。ベースは竹を編んだものだから、プリミティヴな力がそこからあらわれる。プリミティヴな力とモダンな力とが一つの作品の中に重なったような独特の力がこの作品の魅力。

 高木ひろ子「風の…」日本新工芸賞。「旅で出会った山里の美しい風景を題材にしている。その澄みきった空間を細長いフォルムにサンドブラストを施した作品である」。細長いガラスの壺で、胴に菖蒲や山里の風景やマッターホルンと思われるフォルムが描かれていて、実に優雅でエレガントな作調。

第62回日府展

(5月21日〜5月30日/東京都美術館)

文/紺世邦明

1室

 廣島樹「鬼子母神」。人の子を捕らえていた鬼子母神が、やがて仏法に帰依するまでを、画面の右から左へ物語が進行するような構成で描いている。グラデーションで表現された雲の輪郭や鬼子母神のフォルムのメリハリや肉感など、モダンな感覚を取り入れている。

 山田大作「サンフランシスコの森」。森の中に大木が描かれている。大木は今まさに倒れかかっているようにも見え、危うさやダイナミックな印象が感じられる。同時に森全体に漂う霧には静寂も想起され、森の神秘性が表われている。

3室

 加藤由利子「風華春霞」。満開の桜が、六曲一双の画面に噴水のように描かれている。散っていく花もあるが、無限に花が湧いてくるような勢いである。一つ一つ丹念に描き込まれた花びらに、溢れ出る桜の生命力が感じられる。

5室

 吉田馨都江「DANCING IN SNOW」。雪景の林である。画面中心の木の肌は白く描かれ、他の木とは差別化されている。画面の外へも自由に伸びていくこの木の幹や枝のフォルムはリズミカルで、夜の静寂に踊る手足のようにも見えておもしろい。

 宮田益榮「窓辺」。喫茶店の一角。明暗のコントラストの中に、客と外の樹を対比させる構成がおもしろい。手前の人物はなぜか不機嫌な面持ちで、ここからなにか物語が展開していくような、鑑賞者の想像を搔き立てる作品である。

7室

 宮澤賢一「疑いは人間にあり─メルトダウン─」努力賞・参事推挙。海岸に、猿飛出らしき面をした人物が憤怒している様子である。遠景にはキノコ雲が見え、地震や津波、先の原発問題に対する危機感を描いている。仕手を通して、強い怒りを表現している。

 石井泰代「進む」努力賞・参事推挙。薄を分け入って進む狐の姿。眼光は鋭く、他の存在を寄せ付けないというふうである。狐と薄と満月のファンタジーで、独り強く生きていく意志を表現する。

 小室禮子「リンディア」。二人の女性と鳥が描かれている。この劇的な場面は、天国での再開だろうか。鮮やかでありながら深みもある青は出会いの情感を強くし、無数の鳥たちは二人を讃えているようだ。

 平江正好「跳ね橋のある風景」。オランダと思われる水辺の風景を、爽やかな色と軽やかなタッチで淡々と描いている。水面や雲の様子から、この場所にゆっくりと流れる風が表現されているようだ。

8室

 Luuka「オーラの共演 2」奨励賞・委員推挙。N字をした龍と、赤や黄色のタツノオトシゴが7匹描かれている。天に住む龍と海に住むタツノオトシゴが、明快な色と構成を伴って共演している。

 髙橋ゆみ子「風と落葉と Ⅱ」奨励賞・委員推挙。少女が落ち葉を手から放っている。この少女は親の目線から描かれているのかも知れない。そのように見ると、少女の幸福に満ちた表情には、画家の愛情が表われている。

9室

 南部祥雲「母子像」。現代風の母子の姿である。母親の顔に手を伸ばす子供の表情は不安げであるが、子供を見守る母親の表情はアルカイックスマイルのようで、そこに母親としての女性の強さが表われている。

第81回旺玄展

(5月22日〜5月30日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 高桑昌作「兆(ゼフィロスとクロリス)」。クロリスは大地の妖精で、ゼフィロスは風の神である。西から吹く風はギリシャに春をもたらす。ゼフィロスに愛されクロリスは花の妖精になる。春が来たことのお祝いで、たとえばボッティチェリの有名な「春」という作品にはこの二人が右のほうに描かれている。これは高桑がつくりだしたゼフィロスとクロリスで、赤い色彩の中に官能的なクロリスを抱くゼフィロスが高らかな雰囲気で表現されている。うねうねとうねる背後の曲線的なフォルム。とくに下方の水の部分が銀色で、独特の装飾的な表現になっているところも面白い。春と愛とが重なった強い潑剌としたコンポジション。

 小玉政美「時の記憶─2015」。青い球を持った女性が立っている。後ろに横になった人間は、中は空洞で死体のようだ。上方に立つ柱のあいだから崩壊した建物などが見えるようだ。四年前の津波に対するレクイエムだろうか。この女性が抱く球体の中は青のグラデーションで、深い海のイメージがあらわれている。海と深い関係をもつ満月が上方に浮かび上がる。この女性は霊的な存在である。

 松田敬三「潮鳴」。潮がかなり高くなっている。磯に押し寄せてくる。そのダイナミックなフォルムやエネルギーを画面の中によく表現する。

 斎藤寅彦「時の跡─イソヒヨドリ─」。流木のような倒された樹木の幹。まるで樹木のトルソのようなイメージが画面の上に置かれている。その下に様々な新聞が古びたかたちで敷かれている。上方には圧力計のようなものも見える。コンクリートの台のようなものは岸壁のイメージだろうか。画家は釣りが好きで、釣りの場所にこのイソヒヨドリが必ずといっていいほど現れるそうだ。そのイソヒヨドリがスケッチブックに描かれている。画家は対象をそのまま再現的に描かずに、記憶の中からフォルムを掘り起こすように描く。それぞれのものがそれぞれの時間を背負ってここに描かれている。古新聞は古い情報がそこに積み重なっているし、倒れた樹木のトルソもこのようなかたちになるまでの時間を語りかけてくるようだ。そこに画家が見たイソヒヨドリのスケッチが置かれて、画家とのかかわり方がそこにしぜんとあらわれる。マチエールと対象のディテールによる独特の表現である。

 喜多廣志「天高く」。少女が立っているのを、ずいぶん下方から見上げている。少女の後ろには青い空にうろこ雲のようなものが出ている。爽やかな空が広がっている。それを背景にしてイノセントな少女のフォルムがのびのびと描かれる。そばのテディベアは、ずいぶん抱かれたのだろう、古びた様子で困った雰囲気で座っているのもほほえましい。

 貞永マミ「森の譜 Ⅰ (2015)」。紫陽花やホオズキ、向日葵、ホルン、トランペット、オカリナなどがたくさん並べられている。その並べられている地面の向こうは風景で、葉の落ちた裸木が立っている。中心にペアのように二本の木が立ち、その後ろには林のように連続した裸木が見える。そんな構成自体になにか独特のリズムが感じられる。ほとんど渋い緑の調子で統一されている。柔らかなトーンで紫陽花が脱色されたような白い調子で描かれる。うずもれるようにそのあいだに楽器が置かれているのだが、楽器はいまその音を鳴らしていない。秋が終わり、冬が近い頃のイメージだろうか。あるいは、春を待つ冬のイメージだろうか。季節が過ぎて、そこに置かれたものたちは記憶の中に積み重なるようにして季節から脱落し、ここに置かれているようだ。そういった不思議な時間軸の中に存在するものを置きながら、しかし画面全体でなにか物悲しい不思議な音色が聞こえてくる。

 片岡美男「ある風景」。波打ち際に不思議なフォルムが見える。流木によってつくられた船のようなイメージで、そこに一羽の小鳥がとまって遠くを眺めている。海の向こうには小さな島が見える。鷗がたくさん空に飛んでいる。四年前の津波の被害に対する深いレクイエムの気持ちが、四年間の時間のなかに画家にこのようなコンポジションをつくらせたようだ。クールな雰囲気のなかに深い感情がこめられている。

 石橋節子「かけぬける IMA '15─1」損保ジャパン日本興亜美術財団賞・会友推挙。少年の顔の下に戦車の砲が伸びている。二つの対照がドラマティックでドキッとする。とくに砲をもつ戦車が強い遠近感の中にしっかり描かれているところが、この作品の絵画性と言ってよい。戦争というもののもつ強いプレッシャーが、少年の顔と相まって強く訴えてくる。筆力がある。

 佐々木實穂子「遠い日(crossroads)」。籠や木製の椅子などに少女が座っているが、それは同じ少女の三つのポーズである。中心の少女は頰杖をついて鑑賞者のほうを眺めている。その前に鳥籠があって、その中に林檎が一つ。左右にはむきだしの林檎が床に転がっている。後ろには長屋のような建物が横に伸びている。褐色系のモノトーンによる表現で、しっとりとした雰囲気のなかに不思議な気配が感じられる。林檎というと、アダムとイヴの神話で、蛇に誘惑されてアダムとイヴが林檎を食べる話があるが、林檎は知恵の象徴で、それを食べることによって様々な自意識が生まれる。彼女たちの経験の比喩として林檎が置かれているのだろうか。いずれにしても、少女の優雅な曲線によってつくられたかたちがしなやかで、三体のフォルム全体でなにか響き合ってくるものがある。その曲線の連携によって不思議なメロディが生まれてくるようだ。そのメロディに対して、この直線によって区切られた鳥籠のようなものの中にある曲線の林檎は、隔離されたもう一つの記憶のイメージのようだ。フォルムによって何かを語りかけてくる。

2室

 田中牧生「海祭」。木製の船の上に浮玉や錘、網などを載せ、あるいは手前に置いて、海に対する讃歌のイメージを象徴的に図像的に表現する。

 今西邦代「樹木からの眺め」。近景に葉の落ちた樹木がその枝を広げている。くねくねと動くその枝の様子がなにかあやしい生き物のようだ。その向こうにずっしりとした建物がのぞく。秋も過ぎて、冬のようだ。そんな中にある樹木の存在を生きているものとして、メランコリックなトーンの中に表現する。

 加藤良子「カリュアティード」。カリュアティードとは柱と女神像とが重なった、たとえばギリシャのアクロポリスの神殿の柱であり女神であるような、そんな存在のことである。その一つが大きく手前の画面の中心に全身像で置かれている。左のほうから光が当たり、不思議な構成の中に陰影がつけられる。後ろは断崖で、その海際の一隅に教会や建物が並んでいる様子が見える。上方にはアクロポリスなどのアテネの神殿が描かれる。左のほうには断崖の上の地面にほとんど壊れた神殿の一部。満月が浮かんで、空を緑色に染めている。海の不思議な青い色彩。向かって右のほうには円弧の段々がずっとあって、劇場の一部のようだ。ギリシャ讃歌のイメージを、中心にこのカリュアティードの神秘的な図像を置きながら表現する。ふくよかで優雅な女神の像。能舞台などでシテがこれから舞台が始まるといった様子ですっと現れてきたときのような、独特の幽玄な雰囲気もこの作品から感じられる。地中海とそこに差す光の不思議な美しさがこの画面に浸透しているような、そんな不思議な力も感じられる。

 勝俣睦「碧(へき)への想い」。最近、海が汚染されているのを嘆いて、そこに龍を引き寄せて浄化しようとする。そんなイメージを面白く描く。水彩にパステル。パステルによって素早く龍が上方に向かって進んでいく様子を描きながら、ユーモアと同時に神秘的なイメージがそこにあらわれる。

 若林俊男「コレクション Ⅲ」。褐色の調子で流木や壺、古い柱時計、ランプなどを描いている。ランプには灯がともっているようで、オレンジ色の光が見える。そんな中に褐色の猫が寝そべってこちらを眺めているのが面白い。その猫があらわれることによって、この静物が活性化する。強い再現的な描写力である。

 山本俊昭「バザールのロバ」。ロバのそばに男が立っている。後ろには市場が出ていて、オレンジ色や黄色い色彩で彩られ、そこにたくさんの人々が歩いている様子が表現される。全体にすこし靄がかかったようなトーンの中に、生き生きと対象のフォルムがつかまえられる。

 木下京子「愛するもの─1」東京都知事賞。キャンバスに地塗りをして鉛筆によって描いている。ラブラドールが床に座っている。両側にその子犬のような二頭がいる。後ろに黒板があって、この木下さんの子供の時の集合写真や定期健康診断の記録などが描かれている。それに対して右上方に、現在の木下さんが料理の講師をしているレシピが置かれている。二つの時間がここに描かれている。鉛筆によって一つひとつ確認しながら時間を追っていくような、そんな表現方法が面白い。ラブラドールも、成犬と小さな子犬と二つの時間のなかにいる存在を置いているところも上方と対応する。いずれにしても鉛筆による技法が、時間というもののなかに浸透していくような力がある。そこが面白い。

 大神田礼子「ゆるやかな時間(とき)」。コッカー・スパニエルに右手で触れている金髪の若い女性。手前にはタンポポのような花が咲き、小さな一つのモンシロチョウが中景に浮かんでいる。全体は褐色のしーんとした雰囲気の風景的バックになっている。そこに女性と犬が月の光に照らされたかのような雰囲気で浮かび上がる。ロマンティックな雰囲気である。女性と犬との深い関係のなかに、夢見るようなロマンティックなイメージがあらわれる。

3室

 小池成芳「テアトロ グレコ」。建物の下がアーチ状にあけられて通路になっている。左のほうから光が差し込んでいる。そこに三人の少年が歩いている。周りの石造りの建物の中に小さく描かれた三人の人間。歴史といまここに生きている人との対照といったイメージが静かに浮かび上がる。構図が面白い。

 山田正夫「マルタ港町」。白いヨットが繫留されている。左のほうにはモーターで動く白い船が繫留されて、その一部がのぞく。道には車。そして、一段上がったところに道路があって、その向こうにはずっしりとした大きな建物が見える。すこし褐色の汚したような調子でグレーの上に絵具が置かれて、独特の気配があらわれる。上下のあいだに緑の植物や樹木の葉が置かれる。手前の水の表情もそうだが、しーんとしたなかに一つひとつのものを慎重に触り測っているような、不思議な緊張感が画面に感じられるところが面白い。

 原野眞城「おわら風の盆」。富山の踊りである。笠をかぶって輪になって踊る男女。数えると八人の男女が踊っている。その全身像がここに描かれているわけだが、その八人のフォルム全体のかたちを見ていると、音楽が消えて、パントマイムが行われているような不思議な雰囲気があらわれるところが面白い。

 藤井啓子「アルハンブラ幻想」。アルハンブラはスペインの美しい宮殿であるが、それを遠景に置いて、肩の出た衣装の女性の上半身が描かれる。すこし後ろのほうからこの女性を捉え、ひわった横顔の女性のフォルムが街を背景に独特の強さで描かれる。憧れのようなイメージが、この女性を通して画面から感じられる。

 樺島貞「2015・今 Ⅱ」上野の森美術館賞。若い女性が立っている。毅然とした雰囲気。後ろに薔薇が斜めに浮かんでいる。ぐいぐいと描きこむ力。それによって強いリズムが生まれる。

4室

 筒井スミ子「花は、花は咲く、あなたに咲く」。女性が座って右方向を眺めている様子が優雅に描かれる。月が女性を照らしているようだ。そばに白い花が咲いている。右後ろに黄金色の輝くような空間があらわれている。祈る心がこのような光を集めて、そこに不思議な形があらわれつつあるような、そんな雰囲気である。マッチ売りの少女がマッチをすったときに楽しい団欒の風景があらわれるが、それと似たような画家の思いがつくりだした、温かであるが、あやしい不思議な空間である。その色彩と反対側の白い花とが呼応しながら、深い独特の感情的空間が表現される。

 磯村倬司「やすらぎ(コスモス)1」。ピンクのコスモスでうずまった山や斜面。その花が手前では拡大されて、緑の茎の上にピンクや白や紫で咲いている様子。独特の幻想感の漂う風景。プリミティヴと言ってよい力を画面に発揮する。

 坂口良治「水溜まり」。水たまりが画面の九割ほどを占めている。そこに電信柱のようなものが映っている。水の中に空と銀色の電信柱が映っている様子が、独特な情感を醸し出す。銀色の幾何学的な形が一種の詩情を感じさせる。

 米澤眞理子「パリのフラワーショップ」。買物の紙バッグを肘に掛けて女性がいま店から出てきた。そばの入れ物に花が生けられている。周りにピンクや赤の花が咲き乱れている。夕闇らしく店の中はオレンジ色の灯がともされている。店全体の外側の様子を描きながら、一瞬の女性のしぐさを面白く表現する。

 岡村えみ子「下町 未完成」。棚に大きな革製のような本が置かれている。そばに傘とピンクの花が生けられた壺。上方には「COMEDY THEATRE」という文字の見える建物のポスターが貼られている。しっかりとした手応えのある雰囲気。ぐいぐいと茶系を中心とした絵具を重ねながら、底光りするような色彩の力を引き出している。マチエールも手触りがあって温かで安心感がある。

 柴田光男「湖北の景」。湖の中に杭が打ち込まれている。その様子が面白く画面の中に表現されている。遠景は山で、いま日が沈もうとしている。そんな空を映した水の中に、点々とした杭の形が実にヒューマンな雰囲気で描かれている。

5室

 平倉洋子「生きる」。樹木の根の部分が描かれている。まるでタコの足のような或いは蛇のような強い力をもった根が動き回っている様子が表現されて、強い迫力が感じられる。

 佐々木俊子「雪の晴れ間に」。地面には雪が積もっている。葉の落ちた裸木が数本、場所を変えながら上方に伸びている。その様子が実に生き生きと表現される。

6室

 林加代子「旅の記憶」佳作賞。白い壁に茶色い屋根。そんな建物がたくさん密集したかたちでこの白いキャンバスの上に表現される。近景になるにしたがってだんだんと大きくなる。その背景には黒い向日葵や何かの紋章のようなフォルム、あるいは横文字が描かれて、画家のこの街での記憶が表現される。不思議な情感が漂う。

7室

 中村章子「ひとの風景」。グレーやベージュ、あるいはオレンジ色などの背景に点々と人の姿が描かれる。みんなそれぞれ一人で、後ろ向きや前向き、斜めに歩いている人。そんなフォルムと街の建物のフォルムが重ねられて、都会の孤独感ともいうべきもの、都会の詩情ともいうべき雰囲気、そんな空間があらわれる。

 宮島明「サーカスの人」。ピエロがなにか瞑想している。女性が横から描かれて、ピエロの前にいる。その後ろには、両手を上げてそこに直立するもう一人の人間を支えて演技をしている二人。アクロバティックなフォルム。このピエロと手前の女性は夫婦とか恋人なのかもわからない。後ろはその二人の組んだ演技なのだろうか。赤と黒と山吹色の三つのバックの色彩。その色彩を背景にして、余分な装飾を排除した男女の姿が感情深く描かれている。深い感情表現だと思う。

 沼田桂子「祝福」。お祭りのような雰囲気である。若い女性を花で囲み、頭に素敵な帽子をつけている。そばにつがいの白と緑の小鳥があらわれる。蝶もたくさん飛んでいる。この女性を荘厳しているようなイメージで、のびのびと様々なフォルムや色彩が集められて、朗々たる響きをつくりあげる。

8室

 根井操「2015年・白い朝」。実に雅やかな雰囲気である。直線と曲線が織りなしながらパースペクティヴがあらわれ、遠近感がつくられる。上方は暗い海のようだ。そして、その向こうから夜が後退して朝の光があらわれる。白い光が建物に差す。しかしまだ、右のほうには夜の闇がわだかまっている。徐々に夜が明けてくる。そして、そのなかに画家は命の歌をうたうかのように赤い三つの色面を入れた。懐かしいオレンジ色の光は家のともしびだろうか。階段のようなフォルム。あるいは三角形のきびきびとした形。希望に向かってメロディがあらわれる。それをこの半具象的、半抽象的なフォルムによって半音階的に表現する。純粋でイノセントな心象風景。

 松岡暁子「Here and Now 141202」。紙の上に黒い絵具をぶちまけて強い動きをつくる。激しく羽ばたくような力がお互いに格闘しながら画面の中を動き回る。

 小島房子「森羅万象」。上方にたくさんの円状のフォルムが正方形の中に入れられている。十を超えるそのフォルム。そこから矩形の形が流れてきている。背後にももっと大きな正方形や小さな矩形などが集められている。その上に墨のグレーのような色彩が、透明感をもって置かれている。それに対してその周りは白い風景。白い風が吹いているような雰囲気。そのなかに月が移っていく。月が移っていくなかに白い風が吹く。なにか強いムーヴマンが画面全体のなかにあらわれ、この空間のなかを吹き抜けていく。そこにはいわば無常観ともいうべきものが感じられる。深い、そしてまたぽっかり空いた空虚な空間。そんな無常の風のなかに月が動いていく。下方には真昼の光が引き寄せられているようだ。そこに不思議な入口があらわれる。一日の時間のなかに吹く詩情ともいうべきイメージを表現する。

9室

 松岡暁子「one more challenge Ⅱ」努力賞。石段を上っていく四、五歳の男の子。武者絵の凧を左手に持っている。背後の階段の描写と子供の後ろ姿とが面白い空間をつくる。

 鍵和田智子「朧気(おぼろげ)」。薄紫の扇子のようなデザインの薄黄色い衣装をつけた女性。すこし襟元があけられて、長い首がそこからあらわれ、卵形の顔が浮かび上がる。すこし切れ長の目。両手で赤いワインが入ったグラスを持っている。帯は笹をデザインした緑色。黒い駒下駄。女性のもつ官能的と言ってよいその生命力が、画面に引き寄せられている。着物を通してこの女性の裸身が浮かび上がってくるような、そんな生命的な表現に注目した。

 服部倫子「季節からの便り Ⅱ」。紫陽花や菊の入れられた円窓。矩形の中には緑の樹木。もう一つは白い百合の花。その三枚のフォルムを背景にして若い女性が立っている。両手を短パンのポケットに入れて、左を眺めている様子。女性の柔らかなフォルムが画面の中に生かされている。ごくしぜんなポーズのなかに不思議なコケットリーが感じられる。感覚の優れた画家の瑞々しい表現。

 鈴木てん子「雪の日の寓話」。黄土色のブーツをはいた少女が赤い玉を右手に持っている。その目の方向を見ると、下に雪でできた莵が地面に座っている。上方にも莵が二匹飛んでいる。そばに雪の結晶。月の中から莵が現れて、地上に出現したような、そんなファンタジーが感じられる。女の子の顔や手、しぐさが愛らしい。

 馬場由紀子「…前へ、それでも前へ。」文部科学大臣賞。三人の女性が走っている。衣装を翻しながら走っている。背後には波のようなフォルムが繰り返しあらわれる。困難な現実。津波が押し寄せる前に逃げなければいけない。この前の津波の災害からもインスパイアされたのだろうか。人間のもつパワーが三人の女性の走る姿を通して表現される。

 利根川幸子「幻(げん)」。観音さまのようなフォルムが中心に立っている。両側に莵と鹿。後ろには鳶のような鷹のような鳥が舞っている。線による対象のフォルムの表現が優雅で、強い精神性を感じさせる。

 浅原哲則「ふたつの陽 4」奨励賞・会友推挙。縦笛を吹く黒人の少年の後ろにアコーディオンを弾くもう一人の少年がいる。瓦礫の上に座ったり立ったりして楽器を奏している。独特のファンタジックな空間が生まれる。二人の少年のかたちが生き生きとしていて、形に対する優れた感覚を感じる。

12室

 中村多美子「葩(はな)に願いを Ⅱ」牧野賞。花車というのだろうか。四輪の上に木の箱のようなものがあって、そこに紫陽花やその他、たくさんの花が置かれている。それをしっかりと描きこんで、独特のエネルギーがその画面から発散する。不思議なことに、手前に不等辺四角形ともいうべきガラスが立てられて、それによって向こうのものが青く見える。ガラスが入ることによって、より作品の心理的陰影が深くなる。ガラスを通すだけで対象が青く見えるし、また、ガラスの汚れで見えない部分もあらわれてくる。そこには人間の意識のあり方もまた感じさせる。いずれにしても、ドライフラワーに近いようなこの花のもつ不思議な力を中心に置いて、それを静かに描き起こしながら、深い感情や祈りを作品の中にこめているように思われる。

 奥山幸子「忘れられたところ Ⅰ・Ⅱ」。大理石をコラージュしたような柱。植物がこの庭にはたくさんあって、近景では青やピンクの花を咲かせている。その上方に白い霧のかかったような何もない空間がある。ところが、そこに不思議な存在感が感じられる。そこは霊的な気配があって、未知なるものがそこに存在するかのようなときめきさえも覚える。そのような空間を画面の中につくりだす画家のイメージの力に感心した。

 澤田朱美「一雨の後」。庭の様子をしっかりと描いている。赤い花や灌木の枝や葉の様子。ブロックによって囲まれた地面のかたち。瓦屋根や遠景の樹木。それぞれのポジションにあるものをぐいぐいと描きこんで強い吸引力がある。

 十枝松江「煌めきの中で」。ススキが風に靡いている。夕日で空もススキも赤く染まっている。その色彩が強烈で、強いノスタルジックともいえる感情を喚起する。フォーヴといってよいムーヴマンが画面から感じられるところも面白い。

13室

 吉田正造「ハリストス夜の祈り」努力賞。ハリストス教会の鐘楼が高く立ち上がっている。それを地面の上に立って眺めている。十三夜ほどの月が出ている。白く塗られたこの教会の様子をしっかりと表現する。建築のもつ力を画面の上に生き生きと表現する。

14室

 石橋明美「夜明け」。四体の仏像が描かれている。円空仏を思わせるようなシャープなフォルムである。強い祈りの心がこの四体によって表現される。独特の表現力。

17室

 角田寛弥「海辺のcafé」。青くペンキを塗ったドアがあけられて、客が一人椅子に座っている様子が見える。浮袋が壁につけられている。カフェという文字も見える。強い筆力でこの建物のもつ空間を表現する。

 佐藤均「梁(はり)」奨励賞。古い昔の農家の囲炉裏のあるスペースを天井の部分までクリアに描いて、不思議な空間をつくりだした。上方の碍子による配線などを見ていると、時間が過去のほうにしぜんとワープするようだ。

18室

 石井好道「No Return」無鑑査。コントラバスとサクソフォーンのあいだにゴールデンレトリーバーが座って音楽を聴いている。上方の壁にはマリリン・モンローとサックスを持つミュージシャンとが並んで立っている写真がある。そのそばの鏡にはクラリネットが吊るされているのだが、鏡には、反対側の窓の向こうにある青い空と白い雲が映っている。その空の様子もなにか音楽を感じさせる。クリアなフォルムを集めて、ポップな感覚でジャズ讃歌といったイメージをつくる。

21室

 大道美貴子「街(まち)はずれ」。古い木の扉。石を積んだ壁にアーチ状の木の古い扉がつけられている。不思議な存在感が感じられる。褐色の絵具を塗り重ねながら、強いオーラが感じられる。

25室

 萩原孝正「秋色の響」。紅葉した茂みのような藪のような樹木の前に、葉がほとんど落ちた樹木が細い枝を広げている。その形が繊細で、なにか悩ましいような雰囲気。樹木がまるで人間のように身をよじりながら腕を差し伸べているようなイメージが醸し出される。自然の一隅に発見した存在を面白く描く。

26室

 好川悦子「マヨール広場へ」。道がカーヴしながら下降していく。その道に接して建物が二つ。玄関に向かう石段。煉瓦の積まれた門と細い鉄の線条の扉。緑の窓。漆喰と思われるベージュの壁。それぞれのものを手で触るように描き起こして、生活の気配がしぜんと建物から浮かび上がってくる。

 磯野桂子「路上のアンティーク」。皿や壺がたくさん並べてある店の様子を、ユーモラスに面白く表現する。フラットな皿の描写力。並べることによって独特のリズムが生まれる。

 山田洋子「大地の彼方」。中心が低くなって、両側が高くなっている道の様子。そのうねるようなかたちが遠景では畑になって、そこには野菜のようなものが植えられて、空と接するところにはこんもりとした緑の樹木が見える。地面の様子を手元に引き寄せるようにして描く。めまいがしてきそうなほどの動きが感じられる。迫力のある大地の表現である。

27室

 石井代央子「鳩のいる景─繫ぐ─Ⅰ」努力賞・会友推挙。幼児を抱える母親。そばに兄と思われる男の子が立って手を伸ばしている。若い母親は右手に幼女を抱き、左手に白い鳩を持っている。後ろの樹木の様子。なにか祭壇画ふうな構成。母から子供に伝えて、その繰り返しによって人間の歴史はできている。それを褒め讃えるといった雰囲気である。赤がそのようなイメージの中に使われて、優れた効果をあげている。三人のフォルムがやや様式的であるのは、一種の宗教的な表現のためだろうか。

28室

 北野弓子「夜想曲 2015」。三人の女性と馬とによって不思議な音楽的なコンポジションをつくる。縦笛を吹く人、ギターを演奏する人。そのそばには両手を上に上げて、その音色を聴いている女性がいる。三人の女性に囲まれて、馬が優しい表情で立っている。ハーフトーンの色彩の雅やかなハーモニー。簡潔な形であるが、ディテール、たとえば指などの表情が生き生きとしている。シンプルであるが、繊細なディテールをもった独特のコンポジションである。白い肌が香りさえも感じさせるような悩ましいほどの魅力がある。

 篠田孝壽「初夏の輝き」努力賞。田植えをしている二人の農夫。手前は水が輝いて黄金色になっていて、そこに点々と植えたばかりの苗が並んでいる様子。半分は影になっていて、その部分に農夫がいて作業をしているのだが、その明暗のコントラストやフォルムが強い表現となっている。

 田村正「かまくらの里」。樹木の不思議なデフォルメした形の上にフクロウが飛んで下方を見ている。北国独特のかぶりものをした女性が藁沓をはいて手を組んで祈っている。左後ろにはかまくらが見える。回想的かつ幻想的なコンポジション。独特のフォルムの強さとコンポジションが鑑賞者を記憶の世界にいざなう。

 長森雅世「片隅」佳作賞・会員推挙。片一方は鎖でつながって、片一方はフックになってロープをつないでいる。連結する器具と思われるものが四つほど錆びて横たわっている。その表現にずっしりとした存在感が感じられる。

 杉浦文俊「紙ふうせん」佳作賞。古い板塀の上に紙風船が飛んでいる。それを窓から顔を出した猫が眺めている。手前の道にいる少年も眺めている。紙風船を猫と少年が眺めているというシチュエーションが面白い。しかも、猫はこの板塀の桟のあいだから顔をのぞかせ、少年は後ろ姿であるが、手前でそれを眺めている。二つの存在によって捉えられた紙風船は単なる紙風船ではなく、なにか不思議な貴重なものの比喩のように感じられる。板塀まで描き起こす細密な描写力が、その不思議な時空間をよく表現する。

 遠藤美智子「明日へ(A)」。ショールを肩に掛けて俯いた少女の後ろ姿。下方に花がたくさん咲いた花束がある。向こうは海。シルエットの鳥が飛んで、シルエットの少女は一輪車に乗っている様子。時計。死者に対するレクイエムの表現だろう。少女の肩から白い花が咲いているのが見えるのは献花のイメージだろう。

 浦田道数「生きた化石(5)」。上方にアロワナが浮かんでいる。その下方に石の舗道の上に裸の男が立って、そばの樹木のようなものに寄り掛かっている。後ろに槍と盾。男は泡を口から出しているから、この場所が水の中のような雰囲気。いわば下層の意識世界で行われている出来事を画家は描こうとする。水はそのような意識下の世界の象徴のようだ。盾と槍とが強い存在感を放っている。未知なもの、神秘なもののイメージを面白く表現する。

第65回記念新興展

(5月22日〜5月30日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 近藤啓司「早春の径」。地面に様々な落ち葉が落ちている。上方に葉の落ちた裸木が点々と立っている。そんな中にスピッツのような犬がぽつんと立って前方を眺めている。どことなく菱田春草の「落葉」を連想するところがある。穏やかな中に温もりのある表現で、余白が優れた効果をあげる。

 木内英文「木の街」。独特の幻想的な風景を描く。樹木がそのまま建物になっている。樹木の幹に窓がつくられて、明かりが見える。根のようなものが気根のように垂れている。あいだに階段があり、階段を上っていくコート姿の男が見える。中心に女性がぽつんと座っている。そばに梯子をかけて工事現場のようなところに男性が立っている。樹木がそのまま住居になり、それが連結されて街となっているという不思議なイメージである。ガウディは有機的な不思議な建物をつくったが、どことなくガウディふうな発想が樹木をモチーフにして広がっているような感想をもつ。独特のイマジネーションの力である。

 山下昇「山霧」文部科学大臣賞。軽井沢の高峰高原をモチーフにしている。中心に白樺が立ち上がっている様子が自然体のなかで神々しい様子である。その左右に黒い幹をもつ樹木が立ち上がり、緑の葉を茂らせている。すこし霧が出ているようで、遠景が霞んでいる。初々しい緑の色彩が鑑賞者を癒すようだ。しっとりとした空気感さえも感じさせる臨場感のある表現のなかに、白樺の白い幹が立ち上がる様子がロマンティックな効果をつくる。

 岩田令子「遊」。子供たちが遊んでいる。十人ほどの男女で、少年少女から小さな幼児までを描き起こす。後ろに壁が剝落した様子で、そこに外灯が影を捺している。中東あるいは中国などの田舎の光景なのだろうか。線によるフォルムの把握が優れた効果をあげる。

 藤岡麗子「森憩」。樹木が立ち、葉を茂らせている様子を淡々と描きながら、独特の神々しさを表現する。

 小松貞雄「観自在樹華」。摩訶般若波羅蜜多心経を描くにあたって、お経に書かれている「色即是空 空即是色」などの「空」の世界がオレンジ色の上に銀の箔やグレーなどの色彩で表現されている。とくにオレンジから朱色にわたる色彩は炎のようで、一切を空と感じる激しい力をその色彩によって表現しているかのような感がある。ユニークな表現である。

 羽太晟湖(富士子)「紅の垣根」。赤い花はベニバナなのだろうか。竹でつくった柵のそばにこの植物がひっそりと育ち、赤い花をつけている。その様子をしっかりと表現する。また、上方の背景がすこし赤みがかっているために、その色彩と花の赤とが呼応しながら、不思議な力を発揮する。

 丸茂湛祥「法華経序品」。左に釈迦が座っている。両側に普賢菩薩と文殊菩薩がそれぞれ象と獅子の上に乗っている。後ろのほうには四天王が立っている。四天王は画面の四隅に立っている。手前のほうにたくさんの人々がお参りに参列している。王もいれば王妃もいる。それに対して右上方には地獄が描かれ、男の口に熱湯を入れている閻魔の顔も見える。その下は畜生道で、豚の頭や魚の頭や牛の頭をした人がいる。左のほうは天界で天女たちが並んで音楽を奏している。下方、画面の右真ん中あたりに修羅たちがいる。修羅道である。いわゆる六道の中にいる人々がここに集合しながら、釈迦と普賢、文殊菩薩を囲んでいる。それがきわめて現代的な雰囲気で表現される。線に艶があり、柔らかでありながら緊張感がある。その白描の力がこの作品の根幹を支えている。背景は黒で、その上に柔らかなグレーに彩色されながら、たくさんの人々がここに集まっている。仏を中心として六道に輪廻するといわれる人々が集合している。その中に釈迦のほほえんでいる姿が神々しく、まさにその白毫から光が走るかのごとき感がある。

 小松志津江「海と暮らす」新興美術院賞 第二席・準会員推挙。桟橋に引き揚げられた四艘の船。向かって左のほうに置かれた船は修理されるのだろうか。桟橋とドックのようなものが木造でつくられている様子が、淡々とした筆致のなかによく表現されている。ディテールまでクリアに描きながら、全体のバランスといい、見事な表現だと思う。一羽の海鳥が下方の水際に立っているのも、おもしろいアクセントである。

2室

 新田志津男「月昇る」。錦繡という言葉があるように、黄色やオレンジや赤に紅葉した樹木が山の斜面に織るように立っている。淡いセルリアンブルーの空にいま月が昇ってきた。手前の水が静かに波立っている。山深い中に入った自然の姿を、一種装飾的であると同時にリアルに表現する。

 吉久保絢子「未知との出合い」新興美術院賞。ピエロが宙に浮かび上がっている。左で頰を押さえ、右手を腰に当てて、おどけた表情である。そのそばに黒いバックに数式が置かれている。それは画家の父が高名な数学者で、画家自身がよく数字を見て遊んでいた記憶による。そばの二つの天球儀に銀色で星座のフォルムが細かく描かれている。その後ろには大きな満月のようなフォルムが見える。オレンジ色のポピーが浮遊している。空という無限なる空間。大気圏を突き抜けると宇宙が存在する。そんなイメージを背景にして、人類の代表である女性のピエロが空に浮かび、おどけたしぐさである。壮大なテーマを背景に控えたヒューマンな表現に心引かれる。

 望月ます「水路冬韻」会員努力賞(巣居人賞)。枯れた葦のような植物の先にカワセミがとまっている。下方を水がすこしカーヴしながらゆっくりと流れている。モノトーンの中にカワセミのブルーが際立つ。静と動の面白いコンポジション。

 長尾としお「斜陽」。太い樹木がカーヴしながら立ち上がっていく。下方がうろになっている。そのそばに赤く紅葉したような小さな葉をもつ植物が伸びている。後ろの樹木のところには笹のようなものも見える。山深く入ったところで発見した一隅だと思う。墨による表現であるが、自然のもつあやしさや神秘感がよく表現されている。

 関根健一「聖峰富士」会員奨励賞。墨一色の作品。松のような樹木が地上に立っていて、その上方に富士が聳えている。「聖峰」という題名だが、まさに霊峰といった雰囲気で、空の奥深く立ち上がっていく富士の神々しい姿をよく表現する。

4室

 立川美智子「釈尊兜率天降下図」。釈尊の周りに、兜率天をはじめとしてたくさんの仏がいて、彼らは雲の上に乗って、だんだんと下方に下りてきている。下方にも様々な着飾った女性たちがいたり、あるいはチベットふうな仏像がいたり、上方には伽藍が立ち上がり、雲の中にまた天女のようなものがいる。そういったものを線描きで形をとり、中に極彩色に色彩を入れて、強いコンポジションをつくる。クリアな一つひとつのディテールがお互いに響き合いながら、恍惚とするような陶酔境を表現する。

 山根久明「広島の神楽、岩戸(天宇津女命)」会員努力賞(祥光賞)。アメノウズメノミコトは天岩戸に隠れた天照大神に扉をあけさせるために、賑やかに踊る。その踊っているシーンを上方から見下ろす角度で描いている。赤い衣装が翻り、白く塗られた女性の顔と黒髪。右手に鈴のようなものを持ち、左手には三叉の矛を持っている。神楽の一場面。生き生きとこの踊りのシーンを表現する。

 川口清「日溜まり」。ほぼ満開の桜の木の下に五羽の雀が輪になって、そばにはペアの山鳩がお互いに見交わしながら地面に立っている。そばにタンポポが咲いている。手前には笹の葉が群がっている。花弁の様子を独特のリズムの中に描く。全体で豊麗ともいうべきシーンがあらわれる。

 松原秀「町並み」準会員努力賞・会員推挙。アッシジの風景だろうか。黄金色の屋根に漆喰の壁。あいだから鐘楼の塔が立ち上がる教会の様子。遠景には霧がかかっている。一つひとつのフォルムを描きながら、とくに屋根につけられた金が渋い輝きを見せながら、独特の精神性のある風景をかたちづくる。

7室

 浜中利夫「朝の鼓動」。川の水の流れている中の洲に人が立っている。そばの道を歩く男女。犬を連れている人がいる。樹木の中に民家が見える。おそらく画家の身近な光景と思われるが、それを水墨を中心とした動きのある構図にまとめる。

 飛澤龍神「真鍋小の桜」。六曲の金屛風である。真ん中よりすこし右に桜の巨大な幹が描かれ、そこから上方左右に幹が伸びている。その幹から枝にわたる魁偉と言ってよい桜の木のもつ姿が構成の骨格をなしている。そこに大きな、すこしピンクがかった白い花びらが満開の様子である。桜の花びらも通常よりすこし大きいが、逆に画面全体の中ではフィットしている。その下方に男の子や女の子たちが駆けっこをしている。右のほうに二人、左のほうに五人。そして、その群れより左のほうに待っている少年少女たち。屈んで靴を直している子供もいる。生き生きとした子供たちの生命感と満開の老木とが対照される。まるで曾祖父やそのまた前の世代の人に子供たちが見守られているかのようだ。手前に小さなタンポポの花が咲いている。もっこりと盛り上がっているような地面の様子と桜の木の形。簡潔にして、実に力強く、しかも優雅な雰囲気さえも漂う。右のほうに桜を支えている補強のための木が線描きで描かれているのも、画面に変化を与えている。

 平田春潮「作刀(加熱)」。刀を加熱している。やがて水に入れて、また加熱して叩くわけだが、加熱している状態の鉄の様子。赤い炎が右のほうに立ち上がっている。それを見ている職人。暗い中に刀の先と炎とが強く浮かび上がってくる。暗い中に存在感のある水を入れた容器など、油絵を思わせるような、独特の対象に対する接近からくる表現である。力強いと同時に深い精神性を感じさせる。

 菊池柾寿「湖讃映陽(滋賀)」新興美術院大賞・代表理事推挙。琵琶湖の浮御堂が正面から描かれている。中にお灯明の蠟燭が灯っている。そこに向かう木の床。もっと手前は石が敷き詰められて、左右に、老木と思われるが、松の木が点々と立っている。残照で空が赤く、それを映して湖も赤く、中に波が白く砕けるような輝きを見せる。松のあいだから巨大な太陽が見える。明暗のコントラストの中に琵琶湖の広がりと浮御堂がしっかりと表現される。奥行と広がり。そして、信仰心がそこに加味された強い表現である。

 岡田忠男「生」。古い老木から若い枝が立ち上がって、そこに緑の葉をつけている。何の木かわからないが、清潔な中に毅然とした雰囲気である。爽やかな風がこの木の周りに吹いているかのような強い詩情が感じられる。地面の上の黄土色や緑の草に対して、この樹木の上方の群がるような葉の様子とが面白く対照される。そのあいだの空間の奥行がまたこの作品の魅力である。木を取り巻く独特のオーラが描かれているところがよい。

 安食孫四郎「みのりの頃」。稲穂が実って黄金色になっている。もうすぐ刈る時期が来るだろう。そういった田圃が広がっている。あいだに最上川がゆったりとカーヴしながら流れている。カラスが飛んでいる。ずんぐりとした丘のような低い山が正面に見える。後方にも山が広がっている。田圃が実った最上川周辺の風景が、ずっしりとした存在感のなかに表現される。中景は実った黄金色の稲穂であるが、近景は赤や褐色の色彩が入れられて、また違った畑のものも収穫時にあるようだ。緑の針葉樹と褐色になった雑木の色彩も、この風景の中の脇役として絢爛たる様子である。

 上妻静枝「陽影」会員努力賞(杉風賞)。障子がすこしあけられて、黒い猫が廊下に座って障子の向こうを眺めている。そこには南天のような実がなった植物がある。黒い猫の後ろから見たかたちがほほえましい雰囲気で、独特の存在感がある。障子に外の光景がシルエットに影絵のように映っている様子と、すこしあけられた向こうのリアルな景色とが対照されているのも面白い構成である。いずれにしても、かなり年をとったと思われる黒猫の後ろ姿にユーモアとペーソスと存在感が感じられる。

 藤咲億桜「スサノヲ」。スサノオノミコトのあらぶる魂のようなイメージを水の逆巻く上に描いている。右手に杖を持っている先に八咫烏がとまっている。頭に角をつけている。左手には太鼓を叩いている女性が立っている。下方には風神雷神がいたり、鷲が飛んだりしている。逆巻く水には龍がいたり、魚が飛んでいたり、ガレー船のような船があるし、人魚もいる。面白いのはサーフィンをしている青年がいることである。墨による自由なイメージの展開。対象を線によって描きながら、描くうちにイメージが膨らんでいくのだろう。

 衣川昌良「妙高山麓」美術の窓賞。妙高山のあいだに滝が落ちて、手前に流れてくる。そんな風景のかたちを面白く描く。緑と水の白とが静かに響き合う。

 堀内噎子「上野公園の一隅」。上野駅の公園口を出て西洋美術館のほうに歩いてくると、すぐ右側に一階がテラスになった建物がある。その建物が後方に描かれ、手前には新宮の動く彫刻が立っている。近景にはイチョウの木が茂っている。建物の両側には褐色の木や緑の木が茂っている。筆者には見慣れた上野公園の一隅であるが、画家の手にかかると、なにか懐かしい不思議な表情があらわれているところが面白い。画家の人柄だろうか。建物にしても、柔らかなベージュ色に光の中で輝いて、不思議な存在感を見せる。手前のイチョウの木も墨一色で表現されていて、身近な存在であると同時に近寄りがたい木のもつ力がそこに引き出されているように感じられる。動く彫刻の周りにベンチがあって、女性や老人や若い人などが座っている様子が淡々と描かれている。そして、それがまたしぜんとこの画面の脇役になっている。その人物が入ることによって、風景と鑑賞者との距離が近くなる。ソフトな光の中にハーフトーンの色彩で対象のフォルムが静かに立ち上がって、親近感がありながら、なにか神々しい、不思議な風景の力があらわれる。

 白石繁馬「黄昏森閑」理事推挙。中心に道がある。左右はちょっと盛り上がって草が生え、樹木が立ち並んでいる。中心の道がはるか向こうまで続いている。そして、夕日がずいぶん低いところからその斜光線をこの道に照らして、道を輝かせている。まるで西方浄土が向こうに存在するような、そういった強いイマジネーションが感じられる。

第51回亜細亜現代美術展

(5月22日〜5月30日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 金登美「回想」。備前のような壺に生けられた花々。手前には青紫の紫陽花の花。右のほうにはミモザと思われる花。左のほうには芙蓉のような花。見ていると、右のほうには月光が差し、左のほうには太陽が差しているような不思議な雰囲気である。中心の青や紫の紫陽花の花が魅力的であるが、同時に月の光と太陽の光をそこに引き寄せて、イメージの中の世界、一日、昼夜分かたず存在する霊的なイメージをここに表現した。上方の赤や緑などのバックの色彩も実に神々しい。

 呂忠平「晨曦(朝日)」。朝日に照らされた白い洋館。水も黄金色に染まっている。中景に立つ樹木の柔らかなカーヴする形。優しい表現である。また、黄金色の光が画面に満ちている様子が温かくロマンティックな雰囲気を醸し出す。

 羽山清太郎「マルメゾンのトリステス」。マルメゾンはナポレオンの妃ジョセフィーヌが住居を構えたことによって改築がされ、有名になった建築で、ナポレオンと離婚したあともジョセフィーヌは亡くなるまでここで過ごしたそうだ。様々な植物や動物なども集めて、この館を賑わしたそうだ。手前の白馬の銅像もそんなことの名残だろうか。そこに腰掛けて銀髪の女性がいる。風が吹いているようで、髪も衣も靡いている。後ろの赤い葉をつけた植物、緑の植物、あるいは針葉樹。クリアな三階建ての建物の形。いずれもその現場に行ってデッサンをした結果描いたもので、臨場感が感じられる。画家独特のクリアなディテールに及ぶ筆力が不思議な力を画面にもたらしている。手前の女性もどこかジョセフィーヌの面影があるのだろうか。

 八田祐加子「回想(カッパドキア)」。女性が座っている。エレガントな健康な女性。左後ろにカッパドキアの風景が広がる。

 暖水英美「infinity-nature/巡愛」亜細亜芸術賞。宇宙は無限である。自然も無限である。地球という青い惑星を思わせる球体を持つ少年。後ろには観音さまのような女性が青く染められて手を広げている。右手の先はこの少年の頭に添えられている。後ろに太陽が輝く。右のほうには宇宙の星が広がっている。無限なる宇宙や自然と人間への愛を、画家はこのようなコンポジションの中にうたいあげる。

 佐藤葉子「Chairs」上海市対外文化交流協会賞。三つの低い不思議な木製の椅子。その手前にアコヤ貝や二枚貝などが置かれている。それがシュールな雰囲気で不思議な空間を引き寄せている。

 髙田哲雄「奇策」文部科学大臣賞。コンピューター・グラフィックスの仕事である。自由に楽しくフォルムをつくりながら画家は遊んでいる。この白い不思議な形に囲まれた中の緑や赤、黄色などの色彩は、不思議な調子で色彩を輝かせる。そこにはなにか流転していく時間の中を動いていく動きのようなものが感じられ、そのような動的なイメージと同時に白い形が結晶したフォルムのようで、静と動との二つがリンクし独特の時空間をつくるようだ。

2室

 幸坂裕美子「ある情景 2015」。石でできた建物が続いている。上方につがいの鳥が飛ぶ。下方に少年や少女が遊んでいる。窓に若い母親と少女。古い建物のもつ過去の歴史のようなものが、建物の周りに漂っているのに対して、いまを生きる子供たちが明るく表現されて、二つの対比が絵画としてのドラマをなす。

3室

 外村由美子「暮春 隅田川」。隅田川を屋形船が進んでいる。向こうを見ると、土手の向こうにスカイツリーが聳えている。スカイツリーと較べると、相当高いビルも低く見えるが、点々とビルが並ぶ。そんな宵方のスカイツリーのある風景をバックに屋形船が行く様子を淡々と描いている。豊かな情感が感じられる。

4室

 上原とし子「子供達の迷宮」。不思議な大きな手が立ち上がり、その上に女の子たちや男の子たちが立ったり座ったりしている。骨になったピンクの魚が泳いでいる。いま太陽が没した瞬間だろうか。子供たちの自由な明るい雰囲気と骨になって浮遊する様々な魚とが仲間のように呼応するところが面白い。

5室

 太田奈江「抱っこ、わたしも」。四歳ぐらいの女の子を膝に抱いている若い母親。その女の子の前に生まれて間もない子供が横になっている。その切れ長の目の表情を見ると、菩薩のような気高さが感じられる。茜色の背景に姉妹と母親を描いて、まさに聖母子像といったイメージをつくる。簡潔にして、要所要所に線が入れられ、穏やかな明るい色彩をそこにさした優れた表現である。

 中嶌虎威「時は流れる」。茶の樹木の幹がくねくねとカーヴしながら画面を縦断している。松の葉の緑は大胆に簡潔に色面として置かれる。月が昇って、その光が黄金色に雲を染める。下方に水があって、水草のあいだに月が映っている。シンプルな色面構成によって、装飾的に日本の秋と思われる風景を大胆に表現する。

 大波天久(久夫)「華咲く里に夕陽沈む」。水墨のたらし込みなどを含めた自由な技法のなかに、しぜんとそこに風景があらわれた。山があらわれ、海があらわれた。そこに丸い円形が夕日となった。一部彩色した紙をコラージュしている。それによって色彩が濁らず、発色がクリアで、墨の最も強い黒をベースにしたグラデーションの中に色彩がお互いにハーモナイズする。心象風景がそこにあらわれる。

 宗雪孝夫「花(2015─Ⅰ)」。花をモチーフとした強い曼陀羅的表現である。中心に円があり、その中を矩形で区切り、九つの円をつくる。五つは大きく、四つは小さい。その周りに八つの円をつくり、そこに様々な樹木のフォルムを入れている。それを黒い円で囲んでいる。その数は七十二で、つながって囲んでいる。それに接しながら十七の正方形の枠がつくられ、その外側に植物を思わせるフォルムがつくられている。正方形の後ろ側は暗いグレーの空間。おそらくこれは墨版を入れて、そのあとに彩色するのだと思われる。版画かもわからないが、そうでないのかもわからない。棟方志功の墨版でフォルムをつくり手彩色するという技法を思わせるところがある。それほど志功と同様に色彩が豊かである。強い波動が画面から放射してくる。花曼陀羅と言ってよい。あるいは、草木の曼陀羅と言ってよいかもしれない。

7室

 金森弘山人「朝日の輝く船溜」。表装画アートということで、特殊糊を使って裏打ちした布地や着物の古布地を素材として、それを象嵌方式により極薄の和紙で止めて制作したものである。三艘のゴンドラとそれが運河に映っている様子を面白く表現する。下方はほとんどアブストラクトと言ってよいような独特の形象で、シャープな黒いゴンドラの船と対照されて、鮮やかな印象を放つ。

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