美術の窓

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公募展便り(2014年12月号)

「美術の窓」2014年12月号

創立60周年記念一陽展

(10月1日〜10月13日/国立新美術館)

文/高山淳

1室

 高岡徹「空の背景」。青が背景に使われているが、複雑な青を組み合わせて、独特の手触りのある空間が生まれる。そこに抽象形態が浮遊している。オレンジや赤、黄色、ブルー、茶色などのフォルムがお互いにハーモナイズする。奇妙な生き物のような力も感じられる。子供が空の上に指でフォルムをつくりながら遊んでいるような、そんな無垢な雰囲気もある。右上方に、そこだけは窓のように切り取られて、満月と月を描いているところも面白い。そこにはこのような抽象形態になる前の空間があるように感じられる。

 宇留野信章「そして僕の心は空に吸いこまれていく」野間仁根賞。大画面の左はシルエットの樹木に金色の空。右のほうは茶色や濃紺、緑などが組み合いながら、そこに茶褐色の黄土色の色彩がドリッピングされている。朝の木立と夜の木立といったイメージになるだろうか。シルエットの中に立ち上がるクリアな樹木の枝や梢。そして、木漏れ日が下方にきらきらと差す。夜になるとしんしんとした奥行の中に樹木のざわめきが聞こえてくる。そんな二つの時間を組み合わせた面白さだろう。

 細川尚「木偶の夢語り」。130号の縦の画面を左右に二枚合わせた大きさ。その中心の接合した部分の線が、この空間の中に不協和音のように入っている。その線の先はのっぺらぼうの顔の男の顔に入った亀裂につながる。ジーンズを着た男の顔は、おそらく画家自身で、自らを木偶と呼び、木偶の夢語りと名付けた。しかし、背後にあらわれてくるものは不思議なロマンの世界。海が水平線まで続いていて、左のほうには翼をもった石像のような女性が上半身をあらわしている。六つの手をもっている。一部は壊れている。手前には少女が座っている。波打ち際である。その後ろに樹木の幹がカーヴしながら横たわるように伸びていて、そこに稲妻が落ちつつある。後ろにはヨーロッパの古城のようなフォルムが見えるし、右下にはヴィーナスの胸像のような彫刻もある。お城の中のお姫様を助けに行くような、そんな冒険的ロマンの序章のようなフォルムが背後に描かれているところが面白い。そして、そんな風景の中に亀裂が走って、その亀裂は二枚のキャンバスを合わせたことから起きるわけだが、その先がそのままこののっぺらぼうの顔の裂け目につながっている。そばにスカラベが飛んできている。スカラベは一陽会のマークであり、エジプトでは神の使いのような不思議な昆虫である。手前のこののっぺらぼうの顔の亀裂の内部にある世界が、後ろの空間である。そうすると、後ろの空間とこの人間とのあいだには亀裂が走っているということになるのだが、それを癒すようにスカラベがあらわれた。そう考えていくと、ことし一陽会は六十周年だが、画家はこの事務局長でもあり、いろいろな意味で新しく展開していく心づもりの序章のようなイメージも又感じる。

 市橋哲夫「海の宙 14─2」。海の宙とは面白い言葉。海の中に宇宙があるということになる。その海はまた無意識の世界と重なるだろう。無意識の世界の果てにはあの世があるかもわからない。そういった壮大なスケールは現代の心理学である。そういった心理学も引き寄せながら、深い空間の中を浮遊するかたちが生まれる。そんな中に赤い球形が右下にあらわれ、左上方には暗い奥行のある空間の中に星が鈍く光っているようなフォルムがあらわれる。いずれも空の奥深い空間であり、右下は太陽の出現のようなイメージが、そこに感じられるのだが、それがそのまま奥深い海の中の無重力の世界で起きているように表現されている。そのような空間をつくることにより、画家は自分自身のイメージを活性化しようとするかのようだ。その意味では、一人のダイバーのような心持ちでこの作品を描いたと言えるかもしれない。

 三阪雅彦「せせらぎ」。七歳ぐらいの少女が着物を着て座っている。長い髪をして、日本人形のような雰囲気。背景に波が動いているが、長谷川等伯の「波濤図」からとったのだろうか。金地の空間が上方に浮かび上がる。日本人のもつ美意識や空間、形象感覚を古典からとりながら、同時に描写的に二人の少女を配して不思議なイメージをつくる。

 安藤義孝「14・生命のかたち」。ベニヤの板を波打つように彫り込んで、複雑な波動をつくる。中心は三つの円によってできている。その中に波打つようなフォルムが大きくブルーグレーのトーンによってつくられている。同時にもっと細勁なカーヴするフォルムが、彫ることによって表現される。二つが呼応しながら、独特の強い波動をつくる。世界の最初は音であったというインドの神話があるが、音、あるいは波動といった、まず原初的な力が画面に引き寄せられる。それは人間の生命や太陽、ある普遍的な力であり、それを画面に彫り込むように表現したと考えると面白い。

 濵田清「遠い日〈風まつ日々〉」。丘の上にうずたかくおもちゃが積まれている。二つの白い椅子のあいだに挟まれてポールが伸びる。風がなく鯉のぼりがぐんにゃりとしている。風が吹くと、上方につられて空を泳ぐはずなのだが。空は残照のようなオレンジ色。風を待つ。下方の散乱する積木のようなものの中にはなにか悩ましい雰囲気。待つという独特の心持ちをユニークに面白く表現している。

 舘野弘「前線」。このぎらぎらとした雰囲気が実に魅力である。マチエールからもくるし、明暗のコントラストからもくる。そして、刻々と時間が動いていくようなベクトルもまた魅力。左のほうには駅の改札口のようなものがあって、そこを通りすぎるシルエットの人間の姿。その上方には雲があって、雨を降らせている。雲はぐるりと右のほうにカーヴしている。その雲の上を通りながらベルトコンベヤーが動いていく。ベルトコンベヤーの上には衣紋掛けのようなフォルムに吊るされた人間の姿。手前にはサラリーマン、ネクタイを締めてスーツを着た男が、やはり背中を吊るされている。自由意思を失って、社会の機構のなかに組み込まれて動いていく人間像。暗いイメージであるにもかかわらず、それほど絶望的な雰囲気がないのは、このマチエールや光の造形的要素によるものだろう。改札口を通る人は自由を目指す人かもわからない。しかし、その道に入った瞬間に驟雨に出会うといった雰囲気。画面の上方を見ると、ビルのようなもののシルエットが浮かび上がってくる。都会生活の戯画化と言ってよいわけだが、その戯画化が頂点に達すると、ある破壊する要素があらわれてくる。そんな要素が顔を出していることも、このスリリングな雰囲気を高める。

 棚瀬修次「Black Space in ─かたち─」。新星が生まれると同時に古い星はやがて死滅する。最後に赤く発光しながら星が爆発した瞬間を下方に描いて、寂々たる雰囲気をつくる。諸行無常といった言葉が浮かぶ。

 鈴木力「コルトーナの光」。三つのパネルによってできている。左の二つのパネルには不思議なカーヴする曲面の二つのフォルムがあらわれている。支持体は板なのだが、上方にはストライプ状に彫りこんで胡粉を置いている。そこに上下に五つ、左右七つ、三十五の円が彫りこまれ、金によって彩色されている。その中もストライプ状に彫りこまれているが、微妙に角度が変化しながら三十五の円が光線を微妙に反射する。光がテーマになっている。精神的な清らかな光が輝いている。その金と背後の黄色い空間が呼応する。上下の二つの楕円状のフォルムは、フラ・アンジェリコの「受胎告知」の翼からインスパイアされた。下方の翼にも六つの金色の円があって、それぞれがそれぞれに光を放射するようだ。右のパネルには、その神的な光に満ちた空間に対して地上的である。白い薔薇が咲いている。上方にはオリーヴの枝。三つの蔓薔薇が下方に落下しつつある。その下には二つの黄色い首の長い花器に赤と白の花が差されている。地上の祝福は花によってなされる。同じように紅白の輪は天使が首からかけたレイのようなもの。すべてが象徴的な存在として画面に引き寄せられ、お互いに呼応する。天使の光と地上の花による祝福。二つの世界を象徴するフォルムや色彩によって、実に力強く大胆なコンポジションを創造した。

 大場吉美「心機」。二十歳ぐらいのほっそりとした体つきの女性。きらきらとしたイノセントなロマンティックな顔。その後ろに口をあけて歯をむき出して笑う女性の顔が浮かび上がる。一人の女性の二つの側面。髪はまるでメドゥサのように揺れ動いている。その圧倒的な迫力に、下方の翼をもった男は空中でよろめいてストップしてしまっている。やがて落下するのだろう。上方には、そんな女性の様子を指さして飛んでいるもう一人の中年の天使がいる。もう一人同じ天使があらわれているのだが、それはほっそりとした美しいほうの女性の肩越しにあらわれている。女性の二つの顔。それによって世界観を変えざるをえないような男のイメージをユーモラスに表現した。空の独特のピンクを帯びたグラデーションの中に空気や雲が動いている雰囲気だが、その色彩がそのままこの二つの首をもった女性の胸の肌の色彩、その下の白い衣装の色彩とほぼ同色に連続する。女性の胸の中がそのような空のような深い空間になっているところもユニークな表現である。つまり、画家は女性崇拝者で、茫漠たるロマンティックな空のようなものを胸に見ているわけだ。そして、女性の二つの顔に出会うことにより驚愕し、心機一転するのだろうか。

 泉谷淑夫「ENERGY」。たくさんの羊が集まっている。不思議なことにジャンプをしている羊が何頭もいる。後ろから見ている。そして、中景では、その羊のフォルムが集合して大きな南瓜のような形になっている。南瓜のヘタの部分からロケットがいま発射された。下方から強いエネルギーを放射している。実はその放射されたものの煙がもこもこと手前まで来て、その塊が羊の集合体と重なるというように画面はできている。なにか祝祭的なイメージが感じられる。ロケットの上方に月が下りてきて、満月の柔らかな光。周りに神殿と思われる柱が壊れつつある。国家や宗教という、人を強制するものが壊れて、自由になった喜びのイメージもしぜんとあらわれる。羊たちは民衆の象徴だろう。そうすると、科学的な精神、ロケットはその粋であるが、科学は精神を解放するということにもなるだろうか。ガリレオがそれでも地球は回るといったような、そんなイメージも感じられる。ところが上方の月は、日本の神仏習合的な思想によると、大日如来なのである。その如来が下りてきているというように感じられ、その柔らかな光が羊たちを照らしている様子。つまり、科学により、自由になった人間たちを月が柔らかく包みこんでいるような、そんな不思議な母性的な要素が画面に表れている。ヨーロッパの父性的な要素と日本の母性的要素が結合した不思議なイメージであり、コンポジションといえる。

 大久保綾子「生命を紡ぐ」。生まれたばかりの赤子を抱く母親。そのフォルムを画面の中心に置く。そして、少年少女がその周りを走っている。女性の衣装は朱色で、巨大な太陽が銀色の生まれたばかりの白い産着の幼児を抱くというイメージ。周りの空間も金色で、巨大な太陽の温もりのようなイメージを表現する。

 山口陽子「生命」。水面に樹木の影が映っている。波紋が同心円状に広がっていく。そのシルエットを見ると、実に音楽的な雰囲気である。音楽は耳で聴くのだが、目でメロディを追っているような気持ちに誘われる。そういった不思議な空間があらわれる。

2室

 小松正司「やすらぎ」。少女が横になっている。手前に白いシーツが見える。少女の姿は暖色系でまとめている。力強いフォルムが生き生きと発信してくる。

 石川三知代「過密地帯」スカラベ賞。高層ビルを積木のように画面に構成している。金箔をそこに貼って、斜光線がこの街を照らしているように表現する。その斜光線に独特の希望のようなイメージが漂う。

 岡田彌生「加速する時空のなかで」。革張りの椅子が一脚。椅子の背はオレンジ色の空になっている。残照の光景である。そして、その椅子の上に布のようなものがかぶさっていて、その布はハイウェイへと重なる。高速で疾走する車から見た光景が上方に描かれる。その高層ビルの向こうから白い雲が入道雲のようにわいている。疾走する車と夏との別れのような入道雲。哀愁が漂う。そして、黒い革張りの椅子の置かれている地面も空になっていて、シルエットをそこに捺している。季節の分かれ目のようなピュアで悲しいイメージが、しぜんとこの作品から感じられる。光も柔らかな温かさのなかに寂しさの漂うような、そんな温度をもっているように感じられるところも面白い。

 小木曽雅子「蹟」。道路のアスファルトの上に車のタイヤの跡が見える。横断歩道も描かれている。その車の跡、いわば轍がそのまま空中に宙吊りにされたような趣である。過去を静かに振り返っているような、そんなノスタルジーのなかから希望の光が静かに差し込むようだ。

 田所満雄「クノッソス宮殿(クレタ島)」。地中海文明の初期の文明。ギリシャよりもっと前にあらわれた文明。そのクレタ島のクノッソス宮殿をテーマにして不思議な空間をつくりだした。壁にたくさんの魚が泳いでいる。壺を持つ茶褐色の人間。下方には不思議な文様の描かれた大壺が並んでいる。画家がかつて訪ねたクノッソスの宮殿を静かに残照の中に漂うように表現する。

 平野昭子「静謐の刻」。赤茶色の瓦屋根と石を積んだ壁。そういった中世の街並みと思われる風景を上方から見下ろしている。建物全体で有機的な一つの生き物のようなイメージが漂う。両側に道がのぞく。そのひっそりとした翳りのある道の表情。無人である。光に照らされた屋根の輝き。輝くものと寂しいものとがこの画面の中に連結して、不思議な表情を見せる。建物にあけられた一つひとつの窓が静かに鑑賞者を眺めてくるような、そんな不思議な味わいも感じられる。

 秀島有子「ヴェネツィアの家」。運河沿いの道を男性が歩いている。水際に下りていく階段。係留された船。五階建ての建物が正面に描かれている。屋根の上にももう一つ、小さな建物がつくられていて、実に独特の雰囲気である。そういった様子をベージュ系の色彩を中心にしながら、窓は緑の色彩で静かに描く。一つひとつの色面が語り始めて、静かなピアノのメロディを聴くような思いに誘われる。

 岩永勝彦「商い三竦の景」。通天閣のあたりの光景のようだ。広場に人々が出て、様々な様子である。右端に「串カツ元祖だるま」という看板があり、その上に大きな達磨の像がのっている。それに対抗する左のほうはタコ焼屋で、屋根の上に赤鬼がのっている。そのあいだに「金龍ラーメン」という幟が立っている。カウンターを囲んでいる人々。赤いテントのような屋根の上に赤い球を持った緑の龍がのっている。龍と鬼と達磨は、三竦みになるのだろうか。その看板が大阪らしい独特の庶民的な力を発揮する。赤いべべを着せた犬の紐を持つワンピースの女性。串カツ屋の前には人が並んでいる。「鉄板」という看板を持つ割烹着の女性。手前の赤い和傘の下に金髪の男女が丸いテーブルに向かっている。そんな様子だが、人々の顔は描かれてなく、全体の姿かたちでもって表現される。不思議な哀愁が漂う。上方の看板はパワフルだが、下方の人間たちはまるで人形のような雰囲気でここに集められている。人生の人形芝居とも言える舞台を、画家は背後で演出し構成している。今回は、人間たち以上に三つのキャラクターが立ち上がっているところが面白く感じられる。タコ焼屋の赤鬼の後ろに「道頓堀赤鬼」という看板があって、紺色の屋根の上にも小さな鬼がのっている。緑と赤とがお互いに響き合う。緑はしんしんとして人々を癒すイメージで、赤はパッショネートな性質をもつようだ。緑、赤いずれも北陸の九谷焼の色彩からインスパイアされたという。

 佐川文子「天上の華(祈り Ⅳ)」。スカイツリーのような塔の上から緑の茎が出て、巨大な曼殊沙華の花が咲いている。花弁は四方八方に伸びていって、まるで激しいダンスをするようだ。この中心のフォルムを囲むように四辺に曼殊沙華の花が集合して並んでいる。背後は青い海で、穏やかな波が立っている。そこに月の黄金色の光が波を輝かせている。緑色の月が上方で、黒い空に青い雲が浮かんでいる。三年前の津波に対する深い鎮魂の心持ちがこのような不思議な空間をつくりだした。一種の装飾性ともいうべきものが魅力。大胆に曼殊沙華のフォルムをデザイン化し画面いっぱいに散らし、デザイン化された海に向かって、その動きが手のような指のような、全体で祈りのイメージを表現する。

 佐々木英夫「胴長なひと・面長なひと」。(彫刻)。長い胴のある女性を一体つくり、その横に埴輪の顔のようなフォルム。顔は引き伸ばされているが、それを置いて二つを対照させている。自由なフォルムの遊びと言ってよい仕事。フォルムによって一つのメロディのようなものを表現する。

 野中未知子「ときめきの朝」。花と、たとえば二枚貝のアコヤガイの中の真珠のようなフォルムが重なっている。背後の空間も海の中のようなイメージが重なるようだ。そして、刻々と命の働きがそこにあらわれ、フォルムは変化していく。水面はるか向こうに不思議な球体がもう一つあらわれている。「ときめきの朝」という題名のように、朝起きて、まだ心持ちがイノセントなコンディションのなかで、内側から生命力がみなぎってくるようなイメージを感じる。また、夢のなかでそのような命の働きが花や貝となってあらわれてきているような感想ももつ。そう思って見ていると、花の花弁を翼のようにして鳥の顔があらわれてきていることがわかる。また、手前の青いたらしこみふうな空間は、右のほうを向いた青い鳥のようなイメージがあらわれてくる。そこから卵のイメージもあらわれた。卵はだんだんと位置を変えながら手前に迫ってくる。そこから生まれたばかりの命が、花弁を翼にして画面の中心にあらわれた。それを海のような空間が包みこむ。

 岡村順一「地の譜─Sign」。化石化したアンモナイトが集合している中に、針のなくなった時計が一つ。背後は黒々とした大地のうねるようなかたちで、空は赤く染まっている。長い時間眠ってきた化石たち。時間を喪失したそのイメージのなかに画家の想像力は深く入っていく。

 吉田光雄「緩やかな刻の集い」。床に六人の女性が座っている。手前の女性はリュートを奏でている。後ろの女性は楽譜を見ている。立ち上がって額に手を置いた女性。後ろに樹木が枝を広げている。床の向こうは風景になっていて、お城のような建物が聳えて、それを山が囲んでいる。一羽の鳥が飛んでいる様子はリュートの調べと呼応するのだろう。そういえば、この群像の横にピンクの薔薇の花が四つ置かれているのも、そのような音楽性の象徴のように思われる。風景には霧が立っている。霧の動きもまた音楽を感じさせる。六人の女性たちの配置も独特で、形の大小によって遠近感をつくりながら、全体で六人の女性は円弧を描きながら、その円弧はだんだんと広がっていって、遠景の建物、お城まで動いていくような、そんな螺旋状のコンポジションになっているところも面白い。

 定岡三紀子「夕薄陽の窓」。ブロックを積んだ壁に窓がつけられ、緑の扉が左右に開けられている。九十度回転すると、窓を隠す鎧戸のようなものになるのだろう。大正時代の建物のような雰囲気の中に蔓のような植物が伸びている。薄ら日が差して、柔らかな陰影をつくる。その陰影としっくりとしたマチエールによって、この窓のある建物の壁が不思議な詩情をたたえる。

 藤本元美「雨上がりの公園」。水たまりができている。椅子に座る青年。こちらを眺める中年の眼鏡をかけた男。点景に人物がいる。樹木が立ち、葉が茂っている。光の中に明暗ができる。水たまりが風景を映す。まるで写真で撮ったようなクリアな形象を油絵具でしっかりと表現する。

 清水正男「行方シリーズ '14・アートミュージアム・ホール」。一陽展の開催されている新美術館では逆円錐状の形が床から立ち上がって、上がレストランになっている。その黒川の建築の中心となっているフォルムを画面の真ん中に置いて、手前にもう一つのその相似形のフォルムの一部を描く。右のほうにはエレベーターが見える。無人である。カーヴする窓。グレーと薄青い色彩。柔らかな光。この新美術館の空間のもつダイナミズムと曲線による独特のメロディアスな要素を面白く画面の中に表現した。

3室〈彫刻〉

 矢野真「銀河鉄道の夜─02609」。少年の上半身がつくられている。背中から翼が生えている。左手で大きな羽を握っている。その羽と手の後ろ側に壊れた顔がある。後ろの板による光背のようなフォルムの中に、空に向かって走っていく銀河鉄道がレリーフふうに描かれている。六つの窓のある桟の向こうに、絵画的なイメージと彫刻のイメージを合体させた。カムパネルラは死の旅に出る、あの不思議なイメージ、地上のものがあっと言う間に天上にポジションを変えて列車は進むわけだが、その詩の世界をこのようなかたちで表現した。

 神山茂樹「ファエネ(Ⅱ)」。母子像である。子供が母親のあぐらのように広げた足の上に座っている。母親は膝に肱をついて瞑想ふうな雰囲気。目の表情などは、二人とも仏像的である。大きな量感が魅力で、母親のもつ量感にはボテロを思わせるようなところがある。彫刻のもつ魅力は量と量とのせめぎ合いだと思うが、ゆったりとした量の中に囲まれるようにイノセントな子供が座っている様子には、聖母子像を思わせるような魅力も感じられる。

 中村義孝「冬の影」植木力賞。青年がタイトな服を着て立っている。すこし両手を体から左右に離した様子で、肱をすこし曲げている。静かに呼吸をしているようなポーズである。瞑想的な雰囲気。呼吸をするときの微妙な体の動きを表現するような繊細なフォルム。ブロンズと思われる素材。目がぽっかりと空洞にあけられているのが、一種埴輪的な不思議な雰囲気を醸し出す。

 清水紀子「帆船」青麦賞。若い女性がすこし足を開いて立って、スカートの前を持ち上げている。そこにできる窪んだ空間の中に、何かを受け止めようとするかのよう。周りの空間とこの女性とはその部分で独特の関係をもつ。その関係を、たとえば帆船という言葉に言い換えてみたのだろう。

 伊藤正人「METROPOLIS」。黒御影の石柱が垂直に立っている。そこにステンレスのリングを嵌めこんだり、柱に筋をつけたりして、シャープで力強い動きをつくる。台座は赤い御影石を粗く削ったような雰囲気で、砂漠のような大地のイメージが漂う。大地の上に立つシャープなモニュマンと言ってよい。

4室

 丸山光子「命あるもの」会員推挙。百個を超える玉葱が集合している。黄色い玉葱、オレンジ色の玉葱。それがスポットライトの中で輝いている。中心に穴があいている。そこに一つの玉葱がいま落下しつつある。落下すると、玉葱はどこにいくのか。時間の闇の中をさまようのだろうか。玉葱自体が種であり、いわば卵である。植えると芽が出てくる。実際に一部芽が出ている。食べられる存在であると同時に種でもある野菜のオーラのごときものを、面白く輝くように表現する。

 川上弘子「天使の分け前」特待賞・会友推挙。木製の方形のテーブルの上にガラス器などが置かれている。そこに光が当たる。その光の感触ともいうべきものをじっくりと表現する。壁にはデッサンが貼られている。画家のアトリエの一部を淡々と描きながら、光の魅力を画面の中に表現した。「天使の分け前」という題の意味は、光の意味だろうか。

 磨井静子「無音の刻(中国)」。円形の数階の建物で、一階は倉庫になり、二階、三階、四階と人々が住んでいる。中国式の円形のアパートである。外側には窓がないのは敵から守るため。そういった木製の建物を画家は表現した。実際に現地に行かずに、資料をあさりながら、イメージのなかで描いたそうである。逆に、それによってこの建物のもつ存在の不思議さともいうべきものが立ちあらわれてきた。

 河井一郎「或る情景 26」。しっとりとした手触りのある表現。青みがかったグレーのトーン。床には二つの玉葱、二つの板、ペンキの缶のようなもの、小さな箱が置かれている。手前には小さなバケツが一つ。面白いことは、背後にある壁の上方に二十四日ほどの月が浮かんでいること。夜の気配がこの空間の中に浸透してくる。室内と戸外とが連結しながら、ものの存在感が静かにあらわれる。その一種触覚的なリアリティを静かに表現する。

5室

 石井悦夫「ヴィーナス」。線を見事に使っている。線によって女性のエレガントなフォルムをつくる。中心にボッティチェリのヴィーナスの顔のようなフォルムを描写している。向かって左には立っている女性の後ろからの姿。手前には大理石のヴィーナスの姿。淡いピンク色の空間の中にドローイングの線が蠱惑のメロディをつくる。

 藤田裕子「A氏の肖像」。大きなボックスの中からスプーンが立ち上がって卵を支えている。その手前の卵とスプーンによって、後ろの卵も押しつけられるように宙に浮いている。そんな、本来は小さいものが拡大化されて、キャンバス全体がボックス化したようなかたち。いわゆるトロンプルイユによる表現である。卵は命の象徴で、屈曲したスプーンは疲れた人間の生活のようなものをしぜんと連想する。

 久保田正剛「果てしなき道 MEMORY 2014」。濃い青、群青やコバルトブルー、ウルトラマリン、ビリジャン、テールベルトなどの色彩の中に金で道があらわれる。上方に向かってV字状に伸びていくフォルム。あるいは左にカーヴするフォルム。下辺から立ち上がって二つに分かれるフォルム。いくつもの道が重層的に表現される。その黄金色の道が全体でハーモナイズする。朗々と歌い上げるように。と同時に厳粛でもある。道は人生と同じ意味。様々な人生が存在し、それらは一つになって上方に向かっていくといった、いわばベートーベンの「第九」の歓喜の合唱のようなイメージの感じられるところが面白い。

 木村保夫「擬態する空(合同演習)」。青い空に雲が出ていて、その雲の中に隠れるようにステルス機のシャープな三角形のフォルムが見える。空よりもっと暗い青。そして、不気味な存在感を示す。ところが、雲と思っていたものは、一枚の大きな葉であった。葉が雲に擬態し、その雲の浮かぶ空にステルス機が擬態しているという構造になっている。下方に実際の枯れ葉が褐色の色彩で一枚描かれ、その周りに雲が浮かんでいる。ステルス機はレーダーにも捕捉されない最新の現代の兵器である。その幾何学的な人工の存在が植物の葉や雲の中に隠れているという発想が面白い。自然と対立するものが自然を擬態として存在するのである。そこに現代文明の恐ろしさがあると画家は語る。

 古曽成樹「里山の雨」。びっしりと樹木に埋め尽くされた山頂。その樹木はまるで苔のような雰囲気である。湿度が高いらしく、すこし霞むような雰囲気でその光景が描かれている。背景は霧の中にグレーに表現されている。二本の針葉樹が下方に立っている。日本の自然の深い山の中に入ったときのあの空気感をよく表現する。

 川辺嘉章「伊邪那美」。イザナミは最後にカグツチを生んで亡くなった。黄泉国に向かい、それを訪ねたイザナギは変わり果てた妻の様子を見て逃げ、お互いが語り合うシーンは『古事記』でも有名である。これは岩の中に仰向けになったイザナミである。周りを蝶が飛んでいる。後ろに骸骨が見える。ごろごろとした巨大な岩の中にイザナミはいて、裸で上向きで、まだ死んでいる様子ではないが、死に向かいつつある雰囲気で、それを蝶が周りで戯れながら囁きあっているような、不思議なロマンティックなイメージである。クリアなフォルムと強いマチエールによる表現。

 小川京子「決別の時」。ブランコに乗って下方を眺めている少女。その後ろ姿。眺めている先は、ひび割れた亀裂の走った地面にかけられた橋を歩こうとする青年である。茶色いコートを着て、腕を後ろに組んで、俯きながらいま渡ろうとする。亀裂を渡って向こうに行けば、この手前の女性とは決別になるだろう。もう一人、右のほうの石を積んだ西洋の城郭のようなところのアーチ形の窓からこの光景を眺める少女がいる。その塀の先には、アーチ状の通路の中に入ろうとする少年がいる。左のほうの道には母と子供が歩いている。決別というテーマの、内面的に起きる現象を視覚化する舞台装置。上方に満月や星が光っているのもロマンティックで、別れを絶望的なものではなく、ある一つの運命のプロセスのように表現しようとする思想やそのコンポジションに注目した。

 丹後香子「其れ其れの灯」。お堀端だろうか。手前に水がある。右のほうには土手があって、その向こうに高層ビルが立ち、イルミネーションされている。左のほうにはホテルらしきものがある。パレスホテルかもわからない。しーんとした暗いトーンの中に光が静かにまたたく。しみじみとした深い情趣を感じさせる光景である。

 小倉正之「KAORI」。十代の女性が椅子に座っている。青いワンピースを着て、大きな貝を持っている。そばに姿見があって、彼女の側面を映している。後ろに車のついたテーブルがあり、花模様の布が掛けられ、静物が置かれている。フローリングの一つひとつの模様までもクリアに描くような視力。表現の仕方。そんな中に、この十代の女性は不思議な空間のひずみのなかにあらわれるようだ。クリアであるがゆえの幻想感ともいうべきものがあらわれているところが面白い。

6室

 茶畑顕子「青の幻想 '14」。崖の下は平野のようだが、水に覆われているようでもある。上方に山間部の風景が描かれていて、そこから水がしたたり落ちてくる。『古事記』では天の瓊矛で海面を掻き混ぜると大地が生まれる国産みの神話があるが、すこし似たようなイメージかもわからない。大地と水との不思議な関係。それを照らす神秘的な光。ユニークな発想だし表現力である。

 中本邦夫「刻の庭─2014」。葉の落ちた樹木が枝を伸ばしている。それが左右にも、すこしへこんだ中間にもあって、行き暮れて道が遠いような、道が消えてこの網の目のような枝によって視界が遮られているような、独特な不安な心理。心象風景をユニークに表現する。

7室

 荒井哲夫「奇妙な果実」会友賞。チェーンが重なって、塊となっている。しかもそれが一つひとつくねくねと動いているようなフォルムを画家はつくりだした。そして下方には、発光し、鉄が溶け出しているような様子で、それは実は波打つ水の中に存在する。右のほうには竜巻や稲妻が落ちてくる。左のほうには発電用の風車が回っている。海という恐ろしい存在は、この前の東日本を襲った津波で日本人はよく理解したが、その海のもつ力に対抗するような不思議なフォルムを水の上に乗せて、あやしい神秘的なイメージをつくりだした。

 安田淳「もうひとつの現実」。赤い色彩の中に黒の太いストライプ。そんなフォルムが両側にあって、中心は白。白の中にグレーのストライプが三つ走り、正方形のレリーフのように二センチほどの厚さのあるフォルムが六個ずつ十二個コラージュされている。左右の赤や黒は漆を思わせる。画家は金沢の出身である。独特の和風の色彩を大画面の中に置き、抽象空間をつくる。中心の白とベージュの三本のストライプなどは、陰翳礼讃といった、しっとりとした独特の光の表現のようにも思われる。

 竹田明男「'14 おとのふね」。奇妙な植物のような樹木のようなフォルムが三つほど立ち上がって、その先は渦巻きになっている。二羽の鳥が飛ぶ。その下に船のような家のようなフォルムがあらわれる。「おとのふね」という題名のように、聴覚を刺激してくるものがある。自然の神秘を抽象的に表現しているのだが、鳥にしても渦巻きのある形にしても、一種具象的な要素が残っていて、独特の韻律が響き合う。

 田中知佳子「ハイウェイ」会員賞。オープンカーを運転する茶髪の女性。すこし斜め後ろから眺めている。そばに大きなトラックが並走している。車体は青く塗られている。運転席のガラスが黄金色に光って、オープンカーの窓もそのような色に光っているから、朝日が差し込んでいるのだろうか。爽やかな雰囲気のなかに大きなものとシャープなものとのフォルムをコントラストさせながら、一種の詩情ともいうべきものをつくる。人間を奇妙なシーンの中に置いて、ユーモアがあるなかに不思議なパントマイムのような表現をしてきたが、今回はメカニックなものを二つ組み合わせて、独特のコンポジションをつくる。色彩のハーモニーが独特である。

8室

 中村達成「占領された河原」会友推挙。壊れた車がたくさん積んである。その手前には取り出されたエンジンが錆びている。その手前には石ころがたくさん転がっている。そういった様子をクリアに描く。エンジンの周りには雑草が伸びている。廃棄されたものが、この画面の中では静かに息づくような雰囲気で表現されている。錆びたもの、遺棄されたもの、あるいは無機物の石が、生命的なイメージのなかで表現されているところが面白い。

 大黒郁代「Hakobune '14」。奇妙なシーンである。茶褐色のフォルムが水平線まで続いている。それは水かと思うと、うねうねとした大地のようでもある。U字形を変形させたようなフォルムで、中は空洞。そんなフォルムが大小十ぐらい置かれ、積木のような家が散乱している。海と船と家のイメージを詩のように画面の上に自由に表現した趣である。光線が差し込み、明るいグレーや茶褐色から焦茶色までの色彩のヴァリエーションが起きる。その斜光線の力によって不思議なメロディが画面から聞こえてくるようなところが興味深い。

10室

 伊藤裕一「HERE WE ARE…」。クレーの作品を思わせるところがある。そんな線と点描による空間表現である。断崖になっているのだが、その上に少女がドローイング的に表現されていて、その手から赤い糸が下方に下りているところに二重の円のフォルムがある。巨大なヨーヨーのようでもあるし、太陽のようなイメージもそこにある。あるいは、ハートといった意味もあるだろう。不思議な心象を独特の構成の中に表現する。

11室

 林裕子「何処へ」。水彩作品。古い建物の前に並木が立っているが、葉が落ちて、その枝振りが面白い。車が何台も走っている中にクラシックカーが一台。右のほうに大きなミラーがあって、車の中にいる若い女性の横顔を映している。その横顔の表情や指のフォルムなどがあやしい。モノトーンに近いような柔らかなトーンの中にひんやりとした叙情ともいうべきものが漂う。

 坂口かほる「秋の気配」。丈の高い太い茎の先に花がついているのだが、紫陽花のような花が紅葉したような雰囲気で、茶色やピンク、緑、白に咲いている。その様子がなんともいえず魅力的に表現されている。川が背後を流れている。その向こうは丘で、丘の上は針葉樹の林になっているようだ。夏が終わり、秋が来た。その頃の高地の様子を、緑を主調色としながら花の色彩をそこに置いて、しっとりと表現する。川がすこし残照を映しているようで、オレンジ色に染まっている。そんな上方の空の色彩と川の色彩に哀愁といったイメージが浮かぶ。

12室

 緒方美智子「どこへ行くの?」。丈の短い黒いワンピースを来た女性。運動靴をはき、白い帽子をかぶって歩いている。それを横から見て、強い生命感を表現する。そばに伸びる樹木の幹に黒い鳥がいて女性を眺めているという構図も面白い。

 山内敏史「石造りの部屋の中」。石を積んだ塀の中に三体のヴィーナスがある。ミロのヴィーナスとすこし腰を屈めたヴィーナス、頭のないヴィーナス。ギリシャの石像である。そんなもののある部屋の石の上に女性が裸で座っている。その背中のほうを描いている。クリアなフォルムによってつくられたかたちが面白い。シュールな味わいが魅力。

13室

 伏見伸彌「融合への道程」。面白い構成である。ほとんど青のモノトーンである。建物や教会をキュービックに積木のように幾何学的に表現している。その上方に濃紺のヴェールのあいだから女性の目がのぞく。その二人の女性の目が見ている手前のところに、裸の黒髪の女性が恐怖に脅えながら走っている。「融合への道程」という題名からすると、キリスト教とイスラム教の融合ということになるのだろうか。裸のヨーロッパふうな女性のボリューム感のあるフォルムをイスラム風のヴェールの中から眺める女性の目というユニークなコンポジションである。

 平元美智子「森の舞踏会 Waltz~Nocturneへ」。現実の大きさを変化させながら、独特のファンタジーの空間をつくる。ゼンマイやワラビのようなシダ系の植物が大きく描かれている。あいだに水が流れている。たくさんの蝶や蛾が飛んでいる。遠景には針葉樹の林。中景には裸木が伸びている。植物と蛾とが濃密な空間をつくる。左のほうは明るく、右のほうは暗くなっているが、その暗くなっているあたりに、小さくなった蛾たちが群れている様子などは、神秘的でもある。左の日中から右の夜の世界にまたがる時間の中を飛ぶ蛾の表現がロマンティックだし、ミステリアス。蠱惑に満ちた空間へ鑑賞者を誘うようだ。

14室

 西岡伸「Shopping area」。三叉路を金髪の女性が歩いている。一階はショップになっていて、ファッション系の店が並んでいる。空は曇り空。独特の動きのある線によってフォルムをつかむ。中に空気が吹いているようなムーヴマンがあらわれる。平凡な街とそこを歩く人をファンタジックな世界に変容するような筆力とイメージの力。

15室

 長谷川清晴「通り雨」。五本のキリンビールの瓶を拡大して描いている。汗をかいて水滴が下りてきている。キリンビールのシンボルのラベル。鉛筆を描いた作品は、そのちびていくフォルムの中に鉛筆とそれを使っている人の関係性が面白くあらわれていたが、この栓を抜かれた五本のキリンビールには、人間のほうの視線は消えて、汗をかいたこのビールの存在感が大きくあらわれてくる。じっと見ていると、巨大化されて、ドラム缶のような大きさに見える。そういった不思議なイリュージョンがいかにもこの画家らしいイメージの強さだろう。

第78回自由美術展

(10月1日〜10月13日/国立新美術館)

文/高山淳

1室

 石田貞雄「埋む風景」。より抽象的になってきた。空と水と大地のイメージがお互いにせめぎあいながら、渾沌とした力強い空間が生まれる。易でいう根源といったイメージもあるのだろうか。やはり三年前に東日本を襲った津波の大きなインパクトが深く画家のイメージに浸透して、画面を揺り動かしているような趣がある。

 水出陽平「スマホ人達」。スマホをいじっている老若男女十六人。十六人のスマホとの関係がそこにあらわれ、現代の群像になる。お互いが集合している意味はとくになく、スマホを扱っているということが共通した群像である。画家独特の妙に明るく、同時に空虚な雰囲気のある不思議な笑いのなかに表現される。

 山田かの子「The Secret Garden」。錆びたトタンのような塀が壊れた向こうに秘密の花園がある。カンナのような花や小さな野の草が生えている。そこにあるバケツや板を置いた道などが微細にクリアに表現される。周りのバラックのような家に囲まれた自然のもつ不思議な生命感を表現するユニークなコンポジションである。

 公文淳子「Lady Blue」。巨大な花や葉のようなフォルムに包まれて青い空間があらわれ、その空間は背後の青と関係をもつ。いわば蓮の葉の上とかサトイモの葉の上の一隅にイメージを働かせて、それを通過して、それを取り囲む大きな空間を画面を引き寄せたかのごとき感がある。また、植物的な有機的なフォルムが優しい。そのあいだに水が玉となって散り、浮遊しているような、イノセントな雰囲気が漂う。

 醍醐イサム「D-GIN」。水墨というのか、黒をひっかいたかたちで強い動きと空間をつくる。渾沌とした中に動いてやまないエネルギーが画面に引き寄せられる。

 平澤重信「煙の行き先」。一対二ぐらいの比率の横長の画面。そこに二筋の煙がまるで川のように伸びている。その周りに様々な家があって、それぞれキューブな形でありながら、人間の生活の息吹を伝える。家の煙突から出ている煙がたなびいているわけだ。万葉集の時代に、天皇が丘の上から民衆の生活を眺めて、人々の食事の煙がたくさんたなびいていると生活が整い平和であると思ったということを思い起こす。全体に黄土色にすこし赤の入ったようなトーンの中に、人間を含めて様々なアクションが家を中心にして行われている。それぞれがそれぞれのメロディをつくりだし、全体で生活の歌の合唱となる。優しい肯定的な画面である。

 大野修「五輪の都市」。直方体や三角柱のようなフォルムが上方に突き出ている。その周りに大きな波動のような黒いストライプのフォルムがあらわれる。三年前の津波のような災害からインスパイアされたのだろう。安定しているようで決して安定していない人間の生活、あるいは都市のイメージを、ヴィヴィッドにヴァイタルに表現する。

 ミズテツオ「JAPAN」。濃紺とすこし明るい青、中間色のコバルト、あいだのグレー、その不定型の組み合わせによって独特の緊張感をつくりだす。柔らかな色調が組み合って、きわめて堅牢な力強い空間が生まれる。三つの青は深い井戸の中をのぞきこんでいるような思いに誘われる。そういったなかにグレーの壁のような、あるいは道のようなフォルムが立ち上がる。また、明るい青は水を表し、中間色の青は空を思わせるような雰囲気。完全抽象でありながら、世界を構築する空間のイメージが立ち上がってくる。

5室

 平田寛子「これからどうする」。二十数人の頭をそった中性的な人間が裸でしゃがみこんでいる。膝を両手で抱えて、そのあいだに顔を埋めるようにしている。目をつぶっている人もいるし、横を眺めている人もいるし、前方を見ている人もいる。それだけの目の動きによって、不思議な動きが生まれる。左向き、横向き。見ていると、人間というより、地面の上に伸びた人知れない植物の動き、たとえば光合成とか呼吸するような、そんな植物的なイメージを筆者は感じる。すこし褐色を帯びたベージュのあいだのブルーなどの色彩も、大地と空気の関係を思わせるところがある。いずれにしても、描かれているものはそのような人間の群像であり、それを通して自然というものの働きを表現する画家の詩人的な才能、その筆力に注目。

 中田京子「生成」。暖色系でまとめている。水性絵具を重ねたように思われる。茶色、黄土、紫、ピンクなどの色彩がちりばめられている。あいだに線によって植物的な動きがあらわれ、植物がその茎を伸ばし成長していくようなイメージが画面から感じられる。そこにある命の輝きがオーラのように漂う。

 市川宏洋「あそぶ Ⅰ」。画面に接近するとわかるのだが、ほとんどコラージュでできている。コラージュも簡単なものではなく、たとえば新聞の上にもう一枚の紐のようなものやネットを重ねたりしながら、重層的なコラージュによって表現されている。すこし遠くで見ると、左上方に女性の上半身があり、右のほうに立っている女性がいる。遊んでいる子供たち。手前のほうには静物的な、と思うと、そこは庭のようになった白い空間。車も動いている。そういった大地と人間との関係をファンタジックに表現していることがわかる。そして、強い密度が感じられる。独特の色彩家でもある。ユニークな才能である。

6室

 大野美代子「造り直されるヒト」。癒しの空間のようだ。不思議な装置の前に人間が立っている。細長く引き伸ばされている。その肩から翼が伸びているようだが、その翼は葉によってつくられている。それは男性で、その下方に小さな女性のワンピースを着たような姿が浮かび上がる。それもどこか植物的なイメージである。それが青い丸いテーブルの上にのっている。背後に細長い水草のような茎が伸びている。植物的であると同時にオゾンいっぱいの深い水の中に浮力があらわれて、ゆるやかに茎が立ち上がっているような空間。そこに列車のようなフォルムもあらわれている。宮沢賢治の童話の中には水中の話も出てくるが、そういったイメージもある。いずれにしても、人間が社会的な制約から離れて、自分自身を癒すというイメージを感じさせるコンポジションである。

 笹賀捨雄「劫火」。赤と黒の強烈なコントラストの中に黄色い建物のようなフォルムが立ち上がる。それは人間的な営為の表現のようだ。下方には男の後ろ姿の上半身のようなフォルムが見える。三年前の津波、あるいは原発の事故に対する深い怒りの表現のようだ。

 大久保賢一「鳥のいる風景(A)」。優しい画面。ベージュとグレーとが静かに響き合う中に緑と青が入れられている。下方に矩形の空間の中に鳩のようなフォルムが見える。電信柱が立ち上がり、植物の葉が引き寄せられる。そういったものによって一つの家が構成されている。家の上方にはグレーの風が吹いているようだ。自然と深い関係をもった柔らかな感覚の表現であるが、コンポジションは力強い。ノンシャランに見えて、深い空間があらわれている。

 十時良「汚染・白」。軍手がまるでコラージュされたようにたくさん画面の中に描かれている。コラージュではなく描いているのだが、押しつけたような雰囲気がある。それが二十近くあって、そのあいだに人間の姿がシルエットになって浮かび上がる。悲しいパントマイムのような群像表現である。「汚染」という題名だから、放射能の汚染だろうか。どうしようもない、救いのないメッセージ。その苦しみの表現である。

7室

 さとうえみこ「ゆうえんち」。楽しいリズミカルな空間。ほとんど抽象的。板の上に水彩絵具を置いたりクレヨンのようなものでひっかいたりしながら、独特の韻律をつくる。ピンクによるストライプ。ところどころ植物の葉を思わせる緑の色彩。ベースの黄土系や褐色系の色彩。その中に風が吹き、水が静かに通っていく。一種の音楽的な効果がある。それぞれの楽器を持ち寄ってセッションしているような、そんな楽しいジャズのメロディのようなものが聞こえてくるようだ。

 森山誠「卓上 13─2」。凍りついたような強い孤独感のなかに、ものの気配が立ち上がってくる。これまでいた人間は消えて、静物的なものが風景的な空間をつくり、強い独特の吸引力を放つ。虚無の空間のような力がある。

8室

 足立龍男「漂流」。頭のはげた老人の顔が細長く画面いっぱいに描かれている。目の周りが四重の同心円になっている。大きな鼻、唇。顔全体が歪んだ大地のような存在で、何かをじっと眺めている。後ろには直方体のフォルムに番号が振られている。一部は倒れかかっている。棺桶のようなイメージもそこに重なる。まさに人間的存在、その運命といったイメージを、強くモニュメンタルに表現する。誇大ではなく、静かにイコンふうに表現する。独特の感性である。

 竹中稔量「パンドラの箱はひらかれた」。パンドラの箱からありとあらゆる災いが出現した。最後に一つ、希望というものだけが肯定的なものとしてあらわれたという。ここにあるのは、金属的なフォルムがお互いに関係しあい、抱き合い、離れ、威嚇し、といった不思議な群像表現である。砲身のようなもの、あるいはU字形の口のようなもの、穴のあいたもの、様々なメカニックなものが集合して、熱いパッショネートな強い、混沌としたコンポジションをつくる。

 小作青史「ハンラン記」。氾濫するものが生命的なかたちとなってあらわれ、お互いににらみ合い、反撃し、戦い、といった様子で、大地や雲がそのような群像に埋め尽くされている。

 植田良章「ナルヨウニシカナランデトタナカハイッタ」。四人の男が描かれている。グレーの中に太ったフォルム。白いチョークのようなもので形がとられ、叫んでいる。ユーモラスな独特の強い表現である。

9室

 立川広己「大地が割れる」。大地が真っ二つに裂けて、その上の建物が倒壊している。それを背景にして裸の女が横になって嘆いている。後ろに座った、おびえたような女性の裸を横から描き、その横には男の上半身の裸が見える。杭が上方に伸びて、カラスがとまっている。背後にもう一羽のカラスが空を飛んでいる。今回の東日本大震災に対する深いレクイエムの表現である。緑や褐色の色彩が入り混じったグレーのトーンの中に表現されている。背後の男と女は、いわば崩壊のあと新しくそこから歩まなければいけない人間たちのイメージだと思う。ノアの方舟に乗った航海のあとの人間のイメージもそこに重なる。手前の横になった女性は、すべての受難を受け入れてそれを許す存在。日本は母性的な国であるから、そのような存在の象徴のように感じられる。

10室

 岡本郷子「プラーナ」。プラーナとは息という意味である。三角形の山がいくつも見える。上方にオレンジ色の太陽が昇っているのだが、山の端が赤く燃えていて、そのオレンジ色のものは満月のようだ。日が沈んで満月が昇った。手前の草原に球体のものがいくつも浮いている。月の周りを雲がぐるぐると動いている。自然の息吹ともいうべきものをテーマにして、生き生きとそのスピリットを表現する。

 古田千鶴子「三美神(平和を)」。正面向き、後ろ向き、横向きの三美神が両手を上にあげて、そこに花を持っている。薔薇や向日葵や百合。背後には茶褐色の壁のようにも土地のようにも見えるフォルム。周りの青い色彩とこの暖色系の色彩が実に美しくハーモナイズする。女性たちは笑っている。人生を讃歌するといったイメージがしぜんと画面から感じられる。また、三人の女性たちと花と全体で独特の強いリズムの生まれているところがよいと思う。

11室

 羽田二朗「初夏の筑波山と小貝川」。筑波山が青いシルエットとして聳え、白い雲が浮かんでいる。水が流れ、周りに草が立ち並んでいる。写真を小さく使ってコラージュしたような不思議な感覚だと思う。ディテールが強く、風景のもつ重量感ともいうべきものが表現されているところが面白い。

 竹下馨「『ピエタ』黄色の時空」。画面の下方にたくさんの人々が集まっている。いちばん前の女性は両手を前に、手のひらを鑑賞者のほうに見せている。背後には建物の影がシルエットふうに浮かび上がっている。黒い雲。井伏鱒二に『黒い雨』という広島の原子爆弾の悲惨な出来事の小説があるが、今回の福島原発の事故と画家の中では重なるものがあるのだろう。黒い雨が降ってきて、人々は呆然と抱き合い、集まって不安におののいているといったイメージである。その圧倒的なイメージを正面切って画家は表現する。下方の人間たちの黒く汚れた様子。その不安に満ちた姿。子供を抱く母親。すべて圧倒的な存在感を表す。

12室

 田内徳重「防災対策の結末 Ⅱ」。白黒の独特の強いマチエールによって表現されている。水性絵具のようだ。亀裂の走った壁。津波のあとのような痕跡。防災対策をしても、二十メートルを超えた津波で東北の二万人近い人々が亡くなった。そんな惨劇の跡。壁が白々と輝く。そんな漂泊するようなイメージが、この画面から感じられる。

14室

 儘田静枝「病室のまど」。黒い夜の空間に、白い絵具を筆につけて強くストロークする。建物のようなフォルムが浮かび上がり、月が輝く。窓際に猫が黄金色の目を光らせている。猫はこの画家の同伴者と言ってよい。ノクターンと言ってよいような深い叙情を感じる。一種文人画的な味わいもある。

15室

 宮本玄雲「縄文紀の幻影」。縄文時代の目の大きな土偶が最近国宝になった。その土偶のようなフォルムからインスパイアされたような人間たちが何人かあらわれている。背後に茜色の雲が浮かんでいる。一本の樹木が人間に変容しつつある。縄文時代ほど自然と深い関係をもった時代はなかった。そのような時代が日本は約一万年続いたという。それが日本の古神道のもとになり、『古事記』などのもとになっていると思うのだが、そんな時代を懐かしむような、柔らかなハーフトーンの中に不思議な生き物たちを表現する。

 坂口利夫「生まれ変わるなら」。耳がだんだんと大きくなって猫のようになってきた女性の横顔。周りにトンボや蛾も飛んでいる。それぞれのフォルムがクリアである。上方から蜘蛛が触手を伸ばしているのも面白い。

16室

 小倉信一「イノチノアリヨウ─冥利について─」。画家は大病を経験したという。左上方に仰向けになっている人間が、自画像なのだろう。中心に、お坊さんが椅子に座って白い花を持っている。手術室の外科医。金盥の中の金魚。頭に帽子をかぶった女性。点滴の容器。少年や老人の顔。画家の大病や日常の経験のなかからあらわれてきた人間たちが集合して、独特の緊張感のあるコンポジションをつくる。筆力のある画家だけに、それぞれのものがねっとりと力強く画面から立ち上がってくる。それぞれの人間はそれぞれのシーンを象徴するようで、そのシーンがしぜんとその周りに漂う。重い時が流れていく。時間というものの重み。経験したコトを象徴する人間たちをオールオーバーふうに画面の中に引き寄せて、強いコンポジションをつくった。

 佐々木正芳「いぶかしき眼差し」。不思議なものを顔にもまとっている二人の人間の様子。メランコリックな現代の心象表現と思われる。

 斎藤國靖「仮説としての絵画」。矩形のテーブルの上に紙の箱があり、その上に李朝ふうな丸い壺が置かれて、そこに百合の花が差されている。その様子を線によって描いた場合が後方で、片光線にボリューム感をもって対象をそのまま表現すると、真ん中。手前は壺を一つ外して、モノトーンに染めて表現している。その三つのフォルムが連続して置かれることによって、不思議なリズムができる。同じ空間が表現方法が違うことによって、このように併置されると、お互いがお互いを反映させるような不思議なイメージがあらわれる。鏡の向こうにどんどんフォルムが連続してあらわれる場合があるが、そのフォルムが微妙に変化しながらあらわれる不思議さと言ってよいかもしれない。画面の上方すこし左に、すこし斜めに金のストライプが置かれている。その横の壁に映るように、その空間の中に植物の葉が描かれている。それは後ろ側と手前に描かれていて、不思議な日本的な雰囲気を表す。洋画的な発想のなかに浮世絵的なイメージが入ってきているわけだが、そのあたりはもっと日本的なしっとりとした、陰翳礼讃のような雰囲気があって面白い。

 水野利詩恵「道行き」。板戸から女性の上半身が浮かび上がってくる。幽霊のような雰囲気である。その霊的な気配が実によく表現されている。その下は障子戸になっていて、花のようなしみがついている。金属の輪のはまった引手の様子も実に不思議な雰囲気である。また、下方には黄色い薔薇が描かれている。女性の背中も花模様のノースリーブの衣服で、髪の上にまるで脳味噌のような厚く盛られた金によるフォルムがつくられているのもあやしい。一見すると花のように見えるが、よく見ると脳味噌のような不思議な雰囲気のものが、頭の上に置かれている。水をかけたようなしっとりとした板塀の木目。そして、それらは赤い布の上にコラージュされていて、周りもレリーフ状に植物が置かれている。「道行き」という題名、死に向かう旅。その死の旅からこちらに戻ってきて、ふっと顔をのぞかせた瞬間をキャッチした表現のようなヴィヴィッドなものがある。

 谷本重義「万物の奢り」。真ん中に太い綱が左右に伸びている。そこから御幣が伸びて、風に吹かれて泳いでいる。下方に杓を持った踊り子。赤い花のお面をかぶっている。上方は、音を鳴らすようなものを右手に持ち、左手に扇子を持った女性が宙に舞い上がっている。後ろに黄色い大きな巴の文様。提灯がその反対側で揺れている。下方には瓢簞形の花瓶が置かれている。平安時代のもののようだ。魚のようなフォルムのものがいくつも泳いでいる。日本のお祭りの陽気なフォルム。神楽などからもヒントを得たのだろう。その陽気なリズムのなかにフォルムがあらわれ、風に靡いている。ダイナミックに宙に飛び、あるいは腰を屈めて踊る様子。緑のバックの中に、紫色のフォルムによる雲のようなフォルムや同色の空を飛ぶ面をかぶった踊り手。右手に持った楽器からジャラジャラとした音が聞こえてくるようだ。じっと見ていると、空を背景にして古神道的なお祭りのイメージがあらわれる。雲がそのまま女性のフォルムに変容するようなダイナミズムも感じられる。左右にカーヴしながら伸びていく綱のフォルムが構成のポイントとしてよくきいている。

 小川リヱ「水風を訊く」。女性のお尻が五つ並んでいる。その左右にも、後方にもある。ピンクに染められている。人体によって巨大な花のようなイメージがあらわれる。激しいパッションによる表現である。

 岡ノ谷美依「オニごっご」。独特の色彩家である。青い水のような空間の中にオレンジと赤のフォルムがあらわれ、そこに群像がいる。手前の群像などは十人ほどいるが、一部は水の中に入っている。あやしい不思議なイメージである。中景に橋がかかり、その向こうには建物のようなイメージがあらわれる。夕暮れ方の残照の時間に人々がうごめいている様子。その黒々とした人間たちの様子は、しっかりと描かれていながら、なにか妖精的で、画家の心の中にすむ人々のようだ。青い空間に黄色とオレンジと赤が実に深い感情表現のように感じられる。

19室

 能登智子「響」新会員。正方形の画面の中の黒と白によってつくられた空間。二つの響き合う円弧。直線によって立ち上がるフォルム。深い心象表現である。建物。道。黒い太陽。そして部屋の中の壁。そういったイメージが静かに画面から響き合うようなかたちであらわれてくる。しっとりとした色彩のもつ触感ともいうべきものも、この作品の魅力だろう。

〈彫刻室〉

 岡村光哲「記憶 2014」。ステンレスの四つの柱。もっとも、三つの柱の真ん中の柱をずらして切って後退させて立ち上げている。上部は波打つような形になっている。一部には穴があけられ、一部は突起があらわれている。「記憶」というと、なるほどと思う。記憶の井戸のフォルムを柔軟にこのようなかたちで変形させて、目の前に置く。上方の揺れるような曲面の波打つようなフォルムは、まさに記憶の表面のようなイメージを感じさせる。エスプリのきいた作品。

 長谷川由美「道」。コートを着た男の群像である。塑像である。一種の詩人のようなイメージが漂う。モデルはミズテツオだという。なるほど、と思う。実際のミズさんの中から詩人としての性質を抽出したような彫刻であるところが面白い。

 中嶋一雄「揺らぐ座標」。硬そうな木である。茶色い、といってもオレンジ色っぽい木の色彩と質感。その中に穴をくり抜いて、アルミのような金属を打ち込む。あるいは、アルミの板と組み合わせる。すこし斜めに立ったそのモニュメンタルな抽象的な柱と光や水を思わせるようなフォルム。それはアルミによるものだが、その二つの組み合わせによって自然のもつ要素を立ち上げる。つまり、樹木や大地のイメージと形のない流れていく水や光のイメージを重ねて、ひとつの森のイメージをつくりだす。それを画家は一つのモニュマンのようなかたちで抽象的に立ち上げる。錆びた鉄板の上にその抽象形態が置かれているが、台座もしっくりとこのフォルムと合っている。

 藤山深諦「14─再生」。四本の柱によってつくられている。U字形にすこしカーヴするフォルム。中心で四つのフォルムが接触する。あいだにかすがいを打ち込み、それによって四つのフォルムが結束し、立つ。そこに連帯といったイメージがあらわれる。白木のもっている柔らかな優しいマチエールを生かした表現である。

 奥村拓郎「COSMOS」自由美術賞。牛の頭を抽象的に表現したような雰囲気がある。あるいは牛骨を立てたかたちを連想する。素材は寄木である。木の木目が浮かび上がるように、金属のブラシで繰り返し木目を洗い出したようなイメージ。その上から黒く彩色している。その木目が流れのようなイメージ、あるいは時間のイメージを漂わせる。木という素材を生かすことによって、この有機的な牛骨のようなフォルムが山のようにも、川のようにも、丘のようなイメージにも重なるところが面白い。

 西中良太「やわらかな都市 Ⅴ」。ボリューム感のある丈の低い半球体の端から円筒形のフォルムを立ち上げる。そこにキューブな建物を彫りこんでいく。イタリアあたりの古い都市と山上の城塞都市を連結したようなイメージを感じる。懐かしい雰囲気が漂う。現代の都市というより、やはり古い都市のもつ安らぎのようなものが、この彫刻からオーラのように漂う。

 池田宗弘「ネコ・椅子の上で」。ブロンズによる。足の細く長い椅子に猫がのっている。首を後ろに向けている。細長い猫で、エジプトの猫を思うところがある。その視線の先を追うと、椅子の背の上にカタツムリのいることがわかる。微細な生き物、カタツムリを眺める猫。カタツムリの時間と猫の時間とが、この椅子の上でクロスする。椅子はまた人間の時間を表すのだろう。三つの時間がこの彫刻の中でクロスする面白さ。

 長嶋栄次「少年の日」。木彫である。オールをもつ少年と犬。二人は木造の丸太の船の上に乗っているようだ。この丸太の船という乗物は時間の上を流れ航海する船のようだ。「少年の日」という題名のように、過去の記憶にこの船は向かい、そこからこのようなイメージが立ち上がったのだろう。オールが少年と犬とのあいだにあって、そのオールはこのコンクリートの野外彫刻の地面にくっついていて、外側の空間をこの彫刻の内部に引き寄せる力がある。時間と空間とがふたつながら捉えられた佳作と言ってよい。

 吉田光正「生きる Ⅱ」。樹木の幹に右手を回して体を支えながら、左手に女の子を抱く母親。足は台座に埋まっている。砂岩のような石だと思うのだが、その柔らかな石は砂丘を思わせる。その中から立ち上がってくる柔らかな母子像と樹木とは蜃気楼のような危うさがある。風がこのようなイメージを運んで目の前に立ち上がったような新鮮な雰囲気。

第49回一期展

(10月1日〜10月13日/国立新美術館)

文/高山淳・編集部

1室

 戸室佐代子「うたかた」。正面を向いた女性像を中心に、行き交う女性たちの姿が彫刻的に描かれている。どこかマネキンのような雰囲気で、虚と実の間にある。都会的な女性たちに対して、背景は山や湖がイメージされるのも、そうした虚実曖昧な世界とつながる。動脈と静脈が交わるような色彩が全体を覆っているが、しっかりとした人物のかたちや構成によって上手くバランスが取られている。(編集部)

 高橋雅之「河童橋」。上高地の河童橋が雪の残る穂高連峰を背に描かれている。筆致を生かしながら描かれた爽やかな色彩の風景は、橋を分岐点に上方の樹木、山、空、下方の川が垂直に交わるように立体的な奥行きをもって表現されていて、その橋の主塔が鳥居のようにも見えて画面を支えている。一定の存在感を見せながらも擦れるように描かれた河童橋は、自然のダイナミズムをより強調させるパーツとなっている。(編集部)

2室

 飯村博「ルーヴルの記憶」委員推挙。ギリシア・ローマの頃の頭像をスケッチする女性。背後の壁にはカノーヴァの彫刻のイメージが浮かび上がっている。全体が輝くようなハーフトーンで彩られていて、スケッチに没頭し、自分の世界に入り込んでいる女性の意識が表れているようでもある。女性と頭像をアモールとプシュケに対比させるような動線で描かれているのが面白く、独特な空間描写である。(編集部)

 新冨正弘「至上の愛」。長くモチーフにしている文楽の世界を、昨年に続き抽象化した意欲作である。衣装のイメージをベースにした色面構成からは、互いに侵食し合い、重なり合いながらも微妙な歪みを生じさせ、最期に向かう男女の心理描写を想起させる。整然としたストライプによる黒い色面に緊張感があり、その分赤い色面に強いエネルギーを感じる。そして、現世の闇から解放された二人の姿が左のグレーの矩形に重ねられる。(編集部)

 田端啓子「7年目の希望」。パネルが刻まれ、ダイヤグラムのように斜線が幾重にも走っている。三分割された画面の中央には街を俯瞰した景色が広がり、斜線によってカットが連なるような効果が生まれ、下から上にパーンしていくように風景が表れてくる。また斜線は電線のように見立てられ、緑色の小鳥たちが独特のリズムで並んでいる。よく見ると右側の青い色面下方には蟬の抜け殻のようなものが描かれている。7年もの土中暮らしを経て、ようやく天下に放たれた生を祝福するように朝日が街を照らしている。(編集部)

3室

 田中美恵子「捧ぐ 見あげてごらん」新人賞・準会員推挙。輪郭線の強い、切り絵による表現。ひまわりが意志を持ったように星空を見上げている。ひまわりと夜空の組み合わせが新鮮で、まるで恒星の子どもたちのように見えてくる。ひまわりの表情は少し悲しげで、いつか還る場所を空に見出しているのだろうか。強いひまわりの存在感によって空の空間の広がりが生まれている。(編集部)

5室

 Peggy Burkosky「湖畔のベール Lake side Veil」新人賞・準会員推挙。高い技術による水墨画のような滲みや暈かしの効果を生かした水彩画で、色感の良さも相まって独特のドラマチックな風景が生みだされている。一見リアルでありながらも絵画的な奥行きや縦横の線が交差する構成の妙があり、美しい光の満ちた一瞬の光景を画面に閉じ込めている。(編集部)

 森廣子「仲良し」。洋画的アプローチによる日本画であるが、岩絵具特有の柔らかさを生かし、子猫のフワフワした感触が再現されていて愛らしい。ベージュを基調とした背景も、地面がしっかりと意識され空間として成り立っており、手を伸ばせば触れるのではないかと思わせるような臨場感がある。(編集部)

9室

 永野志津香「彼女たちの領域」文部科学大臣賞。岩の上に少女が立って、タンポポの花の綿毛を飛ばしている。その綿毛は背後、左右に飛んで、星となっている。その後ろ、左を向いて鳥の顔をした年取った女性が卵を持って座っている。ホルス神を思わせる。ホルス神はもともとエジプトの天空の神であった。そして、初期のホルス神は太陽の右目と月の左目をもっているとされた。背後の右のほうの太陽と左の月とこのホルス神とは深い関係をもつようだ。もう一人、茶髪の中年の女性が向かって右のほうに座って右方向を眺めている。赤毛の女性であるが、ライオンの尻尾をもっているから、スフィンクスなのだろう。スフィンクスも初期のスフィンクスのように思われる。大地と人間とが深い関係のなかに生きていた頃の神話的なイメージを、画家はここに表現した。さらに壮大なのは、右のほうはインドで、左のほうはヨーロッパ。ユーラシア大陸をその背後に想定している。右にはヒマラヤがあり、左にはアルプスがあるようだ。そして、そのヒマラヤからいま太陽が昇ろうとしている。有明の月はヨーロッパのほうにあって、二十二、三日の月なのだろう。そのユーラシア大陸の向こうに海が見えるのは、黒海だろうか。ユーラシア大陸という、いわば東洋と西洋を両端にもつ大地をベースにしながら、神話的な世界、その自然と深い関係をもった神々のイメージをここに表現する。

 日本は『古事記』を見てもわかるように、もともと八百万の神と関係をもっていて、そのような古代の神々とも共通するものがあるだろう。画家の筆力は雄渾である。上方の黒い夜空の下の夜明けの頃の群青の青い空。広々と広がる大地。その向こうの水。そして、山にまだ隠れている太陽。空に残った月。まるで日月屛風のような趣もある。ユーラシア大陸を中心とした日月屛風と考えると、その壮大な画家の構想に驚くだろう。中心の少女のような白い衣装を着た女性が右手に持ったタンポポの花を散らしている様子は、初々しい。処女でもあるし、少女でもあるこの姿はやはり、キリスト教のような砂漠の中であらわれた男性的な神ではなく、大地と深い関係をもった女性神の典型のように思われる。じっと見ていると、その背後のホルス神もスフィンクスも女性神のようで、祖母と母と娘の三つの女性神がここに集合して、世界を支え、世界を監視しているような趣がある。そしていま、夜空に花を散らし、星をまたたかせている。少女のもつ気高い、瑞々しい、清らかな力は圧倒的で、日本人の鑑賞者もそのようなイメージには深く共感するものがあるに違いない。エジプトやギリシャの神話、あるいはユング的な記述を学びながら、画家は独特の日本の神話にも関係するような世界を表現した。悲惨な津波のあと、亡くなった人を癒そうとする作品の連作が続いたが、一段落ついて、もう一度再生のイメージ、新しくもう一度出発しようという作者の心持ちが、このようなスケールの大きな雄大な神話的な空間をつくったのだと思う。(高山淳)

 石川幸子「田舎街(Ⅱ)」。中世の面影を残すヨーロッパの街なのだろか。遠景にそんな建物が黄金の光の中、朧に描かれ、茶系の色彩から一人の女性像が浮かび上がっている。濃厚なマチエールだが、様々なタッチを織り交ぜることで画面が躍動的になっていて、落ち着いた女性の外見的な佇まいが強調されている。一方で周囲にはひまわりや、ポピーのような赤い花が大きく象徴的に描かれ、女性の情熱的な内面の動きをイメージさせる。黒いワンピースは絵具を編み込むように描かれていて、周囲の強さに負けない存在感があり、自然と視線が女性に引きつけられた。(編集部)

15室

 北条由美恵「しぐれ」。エアブラシによる描写だろうか。繊細なグラデーションによって丁寧に色が重ねられ、幻想的な光景を描き出している。時雨による水たまりの描写がユニークで、着物の輝きを引き立たせる。しなやかな動きを感じさせる作品である。(編集部)

16室

 佐々木大次郎「古き巴里の下で」。ノートルダムのキマイラ像が見下ろすパリの風景が時代を遡って描かれている。画面の半分近くを占めるキマイラが、その座する塔の高さを意識させる。通りには人々の姿が見えるのだが、一人一人の特徴的なフォルムがしっかりとしていて、街のコンポジションと呼応しながらこの時代の空気を漂わせている。全体が夕陽に染まるような色彩でまとめられ、その褐色の複雑なトーンの変化によってノスタルジックな気配と街が内包するエネルギーが感じられる。(編集部)

第38回新日美展

(10月4日〜10月11日/東京都美術館)

文/編集部

1室

 鈴木忠義「富士、日本人の心(Ⅱ)」新日美大賞。画家は長く富士山をモチーフにして描いている。画面の中の富士が、上方に向かって立ち上がってくる。上方には雪が被っていて、下方は赤く染まっている。それらの画面全体の色調も暖色系でうまく纏められていて、またそのフォルムは太く力強い線によって象られている。そのようにして描かれた富士は圧倒的存在感を放っているが、どこか大らかな優しさも湛えている。それが鈴木作品ならではの富士のおもしろさだと思う。

 森屋治三「夕凪の漁港」。曇天に覆われた漁港の情景が情感深く描き出されている。画面全体は落ち着いたグレーの色調で纏められているが、それがどこか寂しげな感情を運んでくる。左手前に錆びた漁船が大きく描かれていて、海面を挟んだ左奥に白い建物と他の漁船がいくつか配置されている。そうやって作られた空間の扱いが巧みである。仄かに明るくなった雲の合間もまた、作品にやわらかな抑揚を作り出している。

 星名昌和「水門のある風景」奨励賞。手前から奥へと小川が続き、そこに水門がある。その水門を正面から描いた情景である。水門の両側は土手になっていて、土手の左側には小屋が建っている。そしてその向こうに街並みが見える。空は夕焼けに染まりつつあり、しみじみとしたノスタルジックな感情を運んでくる。一筆一筆をじっくりと重ねることで、画家の深い想いが作品に込められているようだ。右側には一本の裸木が立っていて、それがまたどこか孤独な寂しさのようなものを作品に与える独特。

 万年山えつ子「兄亡き日」。画面の中央に縦長の三角形があり、左右に四本ずつの腕が伸びている。一人の男性が右側の腕の一本につかまっている。左側では背をもたれかけて座った女性が泣いている。そしてそれは大きなトンネルのような闇に包まれ、手前に影を落としている。どこか生と死の狭間を暗示するようなモニュマン的な要素が強く鑑賞者を惹き付ける。そういった中にどこか画家の祈りの感情が見え隠れしていて、それがまたもう一つの心理的な奥行きを作り出している。

 張京浩「復活」。雑多な室内の中央に一人の裸婦が描かれている。下半身はシーツに包まれ、どこかそこから生まれてきたような構成である。そして右奥の丸い鏡から光が反射し、裸婦を照らしている。自然光の中で生まれたナチュラルで神聖な雰囲気が作品を包み込んでいる。明度を繊細に変化させて鑑賞者の視点を女性に導き、一つのドラマを形成している。

 永野信「ローマの残響」。崖に張り出すように建物があり、その右上方に壊れたドームの内部が見える。下方の両脇にはこんもりとした樹木の姿が見える。色彩と質感とそれぞれにこだわりながら、現地の空気、ロマンを引き寄せている。独特の構図がそういった画面にもう一つのおもしろさを作り出してもいる。

 石原修「黄昏奏風」。魚眼レンズで覗いたような構成が強い臨場感を作り出している。手前には建物、遠景にはいくつもの煙突が見える。その配置が画面により広がりを持たせている。そのどこかノスタルジックな感情が、コクのある色彩と厚いマチエールに支えられながら作品全体を満たしている。

2室

 高橋秀雄「鐘撞き堂のあじさい」。青と緑のやわらかな色彩の扱いが魅力である。左奥にお堂が見えるが、そこに至るまでの青と緑の層が、心地よいハーモニーを奏でているようだ。瑞々しい自然の魅力が画面に溢れている。

 早田美智子「雪のメタセコイア林」文部科学大臣賞。手前から右奥に道がまっすぐに続き、その両側は林になっている。樹木の立つ地面には雪が積もり、道は濡れている。それらの質感の描き分けがしっかりとなされている。樹木の葉は落ち、あるいは茶に染まり、画面全体で落ち着いた色調で纏め上げている。そうやって丁寧に描き出すことで、冬の季節特有の澄んだ空気感と肌に迫る冷気が、確かな臨場感を獲得している。強いパースペクティヴによって描かれた構図の中で、画家のこの風景に対する強い親近感が重なり合って、鑑賞者とそのイメージを共有するような魅力がある。

 中尾不二夫「山と空と」。画面の下方になだらかな勾配を魅せる山があり、その上方の大きく空けられた空は、仄かに朱に染まっている。ただそれだけのシンプルな画面構成の中に、実に豊かな自然の表情が生み出されている。長く自然を描いてきたこの画家ならではの、風景と会話するような親密な情感が鑑賞者を包み込む。

 前原専二「老いる(鞆の街並み)」。古い街並みを通りの中央から見た風景。木戸や電柱、ミラー、車。人物などを丁寧に描き出し、靄のかかったようなうっすらとしたトーンを敷いている。過去からの長い時間、そこに暮らす人々の生活がどこか幻想的な雰囲気と共に甦ってくるようだ。それが、例えば老人がやさしく語りかけるように、静かに鑑賞者に迫ってくる。

 千木良宣行「霞川の桜」。画面の奥から手前に向かって、細い橋やいくつかの段差を経て、川が流れてきている。周囲は桜の樹が満開に咲き誇っている。そして桜は手前左にも大きな枝を張り出してきていて、川の向こうを見つめようとする鑑賞者の視点を遮っている。その画面構成が独特であり、おもしろい。上方からは明るい陽の光が降り注ぎ、桜や水面を照らしている。水面はキラキラと輝き、桜は薄く青みがかった影を作る。それらの色彩は特に繊細に扱われている。作品に近づくと堅牢なマチエールであることが分かるが、それによって画面が硬くなることはなく、むしろそれによってこの風景が支えられていると言ってよいかもしれない。刻々と流れる時とともに変化する表情の変化が、特に魅力である。

5室

 岡本繁夫「裏街へ尾道」。灰白色を基調色に画面を描きながら、建物などの姿をクリアに描き出している。そういった中で、左上のラーメン店の看板の朱がアクセントとなって画面を活性化させている。画家の作品に対する誠実な姿勢が見え隠れするようで好感を持つ。

7室

 前田重昭「空海」。暗い空に大きな海が広がっている。海には船の進んだ後のような細やかな波が立ち、水平線へと伸びていっている。空には暗色の明度を変化させながら、ステンドグラスのような表情を作り出している。シンプルな画面構成の中に、この画家の絵画的な感性が見て取れる。心象風景といってよいような、独特の魅力がある。

第82回版画展

(10月5日〜10月19日/東京都美術館)

文/高山淳・編集部

6室

 小作青史「テーブルをはさんで」。人間なのか動物なのか判別できない生物が、画面右側でテーブルを囲んでいる。画面左側では馬が暴れて、生物たちが蹴散らされているようだ。馬は横顔に目が二つ描かれている。キュビズム的なアプローチか、あるいは目が四つある馬なのかも知れない。幻想的なモチーフによって、妖しい雰囲気をを帯びている。。(編集部)

 天野邦弘「暗黙 3」。紺を基調とした縞模様の図形が、画面全体に配置されている。部分的に赤や緑、黒が用いられている。色と縞のパターンが二種類あり、濃紺と、灰色に近い紺色の図形に、それぞれ左上から右下に向かう縞模様、右上から左下に向かう縞模様が描かれている。方向の違う縞模様は相互に組み合わされて馴染み合っており、鑑賞者の視点は一方向に流されない。赤の印象が強いが、補うように緑や黒が用いられている。図形の構成と色づかいによって、作品の安定感を生み出している点に注目した。(編集部)

 吹田文明「輪廻転生 Ⅱ」。横長の画面のすこし右寄りに円が描かれている。その上にフリーハンドの線による円が何層か描かれ、そのさらに外側にえび茶色の円が描かれている。球が十ほど、大小異なって浮かんでいる。そのことによって空間が生まれる。また、菱形のフォルムがストライプの中にあらわれる。そのストライプは金のストライプで、そのストライプのあいだから緑や青の空間があらわれる。中心は黄色、金色に輝いている。ゆるやかに球は動きながら、まさに輪廻転生を始めているようだ。画家の考えのなかにはきわめて仏教的な要素があるようだ。因果律ではなく、無数の要素が世界を占めていて、有力なものと無力なものが運動のなかにあらわれ、刻々と世界が変化していく。人間を構成する原子が何兆の何兆倍あるかわからないが、それが分解して、また別の人体をつくっていく。そのような縁起的な深いイメージ、仏教的なイメージが、この作品の中に表現されているようだ。その意味では、輪廻転生曼陀羅と言って差し支えないような不思議な味わいがある。静かに球が動いているように見え、ストライプの向こうに深い空間があらわれ、光と影とがその中に静かに呼吸するようにあらわれる。そして、二匹のつがいの蝶が飛んでいく。蝶は魂の象徴である。輪廻する世界観のうえに蝶が儚い命の象徴として哀愁のなかに表現される。(高山淳) 深澤幸雄「青灰色の空間に」。画面中央に人物がいて、手を胸の前で交差させている。人物の頭部は平たい板を折り曲げて作られたようだ。その頭上を飛ぶ二羽の鳥もシンプルな三角形を用いて表されている。こうしたモチーフの不思議な形態が面白い。青灰色が人物の表情と相まって作品全体に寂しげな雰囲気を作っていて、それにもまた強く惹きつけられた。(編集部)

 金守世士夫「湖山〈不二・黄昏〉」。日没直後の富士山を、富士五湖のいずれかから臨んだ景色である。背景は淡紅梅と藤色で、藤色に溶け込む様に富士山が描かれている。近景には木が描かれ、一羽の鳥が止まっている。鳥の羽根は赤く、画面全体の印象を引き締めるアクセントとなっている。全体に統一された暖色と鳥の微笑みに、夕暮れ時の情景の暖かみを感じる。板目木版ならではの、木目のある背景や彫刻刀の跡が見て取れる山々も味わい深い。(編集部)

 中林忠良「転位 '13─光─Ⅲ」。画面がトの字に三分割されている。画面の右は上下に分割され、同じ風景を若干配置や腐食の度合いを変えながら刷ったものだろうか。上下でディテールが異なり、またグレーのトーンに変化があることに注目した。画面左側は、草むらに光を当てたようにも、魂のようなものが浮かんでいるようにも見える。時とともに風景あるいはその記憶が変化し、風化していく様を表しているようだ。(編集部)

 柳澤紀子「Front end・波 Ⅰ」。画面中央に人物が背を向けて立っているが、上体は前に倒しており、頭部が描かれていない。人物の手や背面、ふくらはぎのたくましい肉付きが、強い線とモノトーンで表現されている。人物の足下は波立つ水辺で、牛と家が浸かっている。人物の上をオオカミのような動物が跳んでいるが、人物に飛びかかっているのだろうか。こうした人物の形態や状況に加えて、全体の落ち着いた色づかいと空間に描かれた微かな黒い線が、不穏な空気を巧みに演出している。人体に及ぶ危機が表現されているように感じた。(編集部)

 小林敬生「陽はまた昇る─緑の星 1014・A─」。卵のような楕円形の画面に、陸海空の自然が描かれている。木口木版によって動植物が画面いっぱいに緻密に描き込まれている。その中には人間もいて、動物達と混ざって自然環境の中で暮らしている。こうした描写から、人類とその文明も自然の一部であり、動植物と協和しているというイメージが感じ取られる。左右対象の構図を取り入れながら、かなり多くのモチーフを一つの画面に巧みに組み込んでいる。(編集部)

 河内成幸「暁に翔べ(Ⅰ)」。北斎を思わせる高波の中を、飛べないはずの鶏が羽ばたいて飛び、くぐり抜けている。その軌道を連続写真のように描いている。縦に伸びている波の曲線や、鶏の飛翔を力強く表現する金色の無数の描線が、作品に勢いを持たせている。波の影に緑や赤や紫を用いる独特の色彩感覚も面白い。不可能を可能にして、大きな困難に挑むようなイメージが魅力的である。(編集部)

 天野純治「field of water #14022」。インクが層になって厚く盛り上がっている。表面は滑らかで、光沢があって瑞々しい。表面張力がはたらいているかの様である。水色の下に赤い色がかすかに見えるが、紫色に見える部分があり、光の加減で見え方が様々に変化していく。水は透明であるが、様々な要因で見え方が絶えず変わっていく。この作品はその変化の様相を、光と色のイメージによって再現しているようだ。(編集部)

 高垣秀光「漂泊─601」。暗闇の中に遺跡がある。星が輝いている宇宙空間に浮かんでいる様にも見える。黒い棒状の物は生命体だろうか。スポットライトの中に浮かびあがっているような遺跡は、紙の裏面に印刷する技法で表現されている。遺跡の周りを彷徨っているような黒い生命体と宇宙空間を漂っているような遺跡自体に寂しさが溢れていて、それが魅力的である。(編集部)

 小川幸一「赤い芽 No.3」。青い宇宙のような空間に、種のような球状のものがある。そこから赤いものが流れ出ているが、これは細胞分裂して増えていく生命体のように見える。鮮やかでありながら柔らかい赤と白のグラデーションで、波打ちながら広がっていく様が表現されている。赤い生命体は、鑑賞者に向かってゆっくりと迫ってくるようだ。(編集部)

 鈴木力「稲妻」。雨が降っている。雨は水色の斜線で、窓辺に降り注ぐ雨をそのまま街に降り注ぐ雨として利用しているようだ。黒い斜線は、雨音のイメージだろうか。画面右側には水色の旗が立っていて、黒と水色のバランスを整えている。シンプルな色の構成とモチーフの自由な配置によって、稲妻や雨を視覚と音のイメージとして形に表している。水色からは雨の冷たさが、勢いのある黒い十字型からは雷の騒々しさが印象深く感じられるなど、シンプルに徹して具体的な描写を削ぎ落としていくことによって、イメージが非常に明確なものになっているのが魅力である。(編集部)

7室

 多胡宏「檸檬の下を流れる時間」。テーブルの上に、キノコ雲が描かれた瓶がある。瓶の上に砂時計がのっており、更にその上にレモンがのっている。その上方には地球と月が描かれる。鑑賞者の視点は瓶から星に移っていくように仕掛けられている。例えば、キノコ雲は過去の戦争の記憶を、砂時計が落ちきることは戦争が始まることを、朽ちたレモンは地球の未来を表していると見ることができる。終末的なイメージを用いて、戦争が始まることへの危惧を表現しているのだろうか。個々のモチーフのディテールの力が、イメージを支える。(編集部)

 多賀新「妖姫」。女性の横顔である。鼻筋はとおり、目尻と口角はあがっていて、唇からは牙が見えている。眼差しから妖艶な雰囲気が漂っている。髪の毛一本一本に流れがあり、先が乱れている点もまた煽情的である。髪飾りも細かく表現されて、そこから立ち上る妖気も美しい。(編集部)

 利渉重雄「橋」。画面左右に一つずつ、水に浮かぶ都市がある。二つの都市は一本の橋によって繫がれ、遠景からの光がその橋を照らしている。二つの都市は、建築の様式から異なる文化圏であることが推察される。逆光によって浮かび上がるように描かれている橋は、二つの都市を繫ぐ希望の象徴に見える。昨今の激しい宗教紛争への強いメッセージだろうか。(編集部)

8室

 片平菜摘子「森への道 Ⅳ」。薄い橙色の森のなかを、二人の少年が黄色い花束を持って進んでいる。少年の姿には、森のなかをどんどん進んでいく好奇心が表れているようだ。少年に対して木は非常に大きく描かれている。好奇心と裏腹の不安が、少年に木を大きく見せているのだろうか。少年の視点による心理的遠近法が面白い。(編集部)

 鈴木朝潮「僕らは夢見てるか、未来を信じているか、」。十三本の脚を持つクモのような怪物が、ムカデのような多足類を食べている。怪物の長い脚はもつれそうなほどの激しい動きを感じさせ、毛の一本一本が緻密に描き込まれて、おどろおどろしさが強く表われている。現在進行形の恐怖の象徴とも言えるこの怪物が捕食する姿は、強者には結局敵わないがそれでも未来を信じるのか、と問いかけて来るような迫力がある。自分の描いたシチュエーションを黙って眺めている画家の眼力に引き寄せられる。(編集部)

 朝日みお「蒼い月の音 Ⅰ」。豊満な天女が鳳凰に乗って飛び、一輪の黄色い花を笛に見立てて吹いている。画面全体に草木などの装飾的なモチーフが賑やかだが、とりわけ鳳凰の尾にハート型が連なっているのが美しい。天女の髪は上に向かってなびいており、鳳凰に乗ってゆっくりと進んでいることが伺える。奏でている音色も天女同様に優雅で美しいのだろうと、想像力が搔き立てられた。(編集部)

 平野有花「壁の巣」。金色の壁が一面に描かれている。壁には青い亀裂が入っていて、画面下部には大きな穴が描かれている。亀裂は紙の皺を利用して表現されており、物質感があって面白い。穴の中は暗く、クモの巣のような膜がところどころ張ってあって、内部ははっきりと見えない。一隅に出来た亀裂が拡大していき、恐ろしい深淵があらわれる。(編集部)

9室

 永吉友紀「熱帶の花」。木造の小屋にベッドがある。絣を着て胸を少しはだけた女が、ベッドに腰を掛け髪を結わえている。壁には帽子と軍刀がかかっている。無防備な女性と、男性を連想する武器というモチーフの組み合わせが対照的である。色彩や線がもたらす女の柔らかな質感からはエロスを感じるが、女の目元は凛々しい印象もある。窓から見える植物が、密室の高いボルテージに清涼な風を送っているようだ。(編集部)

 鈴木良治「水のまち」。川沿いの道路を前景に、町を描いている。町の中心では津波が起こっており、その中には巨人が数体見受けられる。自然の恐ろしさと、それを前にする無力な人々を描いているようだ。津波に迫力を出すために、遠近感を大胆に調整している。町は柔らかい線で描かれているのに対し、波は勢いのある激しい線で細かく描き込まれている。緩急を付けながらしっかりと描き込まれた画面には見応えがある。(編集部)

10室

 山本桂右「Light Time Silence #24」。木造校舎の教室に、椅子だけが置かれている。窓は開け放たれ、外には海と雲が見える。教室全体が直線で構成されているが、柔らかな曲線の雲を描くことで視覚的なバランスを取っている。構図と構成によって窓の外の景色や椅子の方へ誘導されるようである。教室のイメージは騒がしく雑然としているものだが、静まり返って椅子が一つしかないこの教室を見ると、寂寥感や懐かしさが沸き起こってくる。(編集部)

12室

 小花春夫「何事もなかった」。大きな人の顔がある。どうやらそれは建造物のようで、階段や有刺鉄線がある。ネコや小人が出入りしている。様々なモチーフがコラージュされて一つの画面の中で色々な時空間が入り組んで、シュールな世界が作られている。(編集部)

 野田百合子「花の中にあるものは  なに」準会員優秀賞・会員推挙。画面の左側から花が満開に咲いている。白い無数の点が、花粉のように見える。モノトーンによって、白い花粉が銀河のように見えるのが特に美しい。それらと同時に、散っていく花の影も描かれている。被子植物では花の中には種子があり、受粉によって新たな命が宿る。しっとりとしたマチエールも魅力。(編集部)

 高尾ふき子「あくび」準会員優秀賞・会員推挙。一見何の動物か分からないが、象があくびをする瞬間をアップで捉えたものである。細かい線で緻密に描き込む事で、象の肌の質感をリアルに表現している。同時に象の口の中、頰のくぼみなどもしっかりと描き分けることで画面に立体感が生まれている。これによって肉の下には骨格があることが感じ取られ、象の存在感が強められている。現実をリアルに写し取るだけに終わらない描写力がある。(編集部)

13室

 水落啓「Melancholy KAGUYA 2014」。室内に描かれている竹は、かぐや姫のアトリビュートのように機能すると同時に、かぐや姫と猫と三角構図を作り、画面構成にまとまりを持たせている。楕円型の画面の中に、円形の窓がある。外が見えており、鑑賞者は視線を画面の奥へと誘導されて作品に見入ってしまう。こうした楕円の画面を活かしたモチーフ構成が特に面白い。

(編集部)

17室

 入江明日香「Le Ciel」。背景は空色の一色グラデーションで、残りの部分はモノトーンで描かれる。線の美しさが際立っている。ショートヘアーの少女が差し出した左手には鳥がとまっているが、指先が枝に変化している。体には羽毛が生えつつあり、鳥が複数組み込まれている。少女も鳥になろうとしているかのようだ。図案化された鳥たちは生き生きとしているが、対照的に少女は目が虚ろで生気がない。どことなく死を感じさせる少女の儚さも繊細な線で表現されている。(編集部)

18室

 城山萌々「不在」。三幅対の作品である。作品は、男性が檻を開けるとライオンの下半身だけが入っていて、その状況に困惑している、といった場面に見える。檻の空間は直線でシンプルに描かれ、扉は赤い幾何模様で表現されている。ライオンが壁にめり込んで色が溶け込んでいたり、困惑する男性が服を着ていないように見えたりする。シュールなイメージが魅力的である。(編集部)

第57回新協展

(10月5日〜10月11日/東京都美術館)

文/高山淳・編集部

1室

 宮﨑曠代「2014・DNA・多元空間」。画面の中心にオベリスクのようなフォルムが伸びている。その向こうは海で、水平線の向こう、空に向かってオべリスクが伸びている。その先に星が見える。オべリスクを囲むように四つのリングがつくられている。そのリングは題名のようにDNAの螺旋構造を暗示させる。また、そのオべリスクの手前には世界地図が置かれている。四隅に原子の模型のようなフォルムが置かれている。最近は、四次元ではなく、十一次元といわれて、ひも理論というものが盛んである。それによって、これまでの不思議な現象も説き明かされるそうである。DNAという地球が誕生して以来の記憶。その先端に人間はいる。そして、その記憶をDNAを通して解析しようとしている。そして、空間の把握もまたこれまでと変わってきて、そのような多次元の空間を想定すると、霊的な世界さえもそこに取り込まれるそうだ。そういったいまの科学の知見をベースにして、それを象徴的に画家は画面の上に表現する。オベリスクのようなフォルムは、その先端に人間がいる英知の象徴のようなイメージで、白く輝いている。(高山淳)

 加地守「明日へ」。画面全体が点描や粗いハッチングによって描かれている。草むらに立ち遠くを眺める少女がピュアな印象で、大人へと成長していく入り口に立っているようだ。空中の光を画家独自の視点で分解したように色彩が編み込まれていて、その密度が集約されるように主役の少女が構成されている。(編集部)

 斎藤栄一「玉砕の島」。太平洋戦争で地上戦が行われた南方の島々をテーマに描いてきた。今回の作品も戦闘の爪痕として遺る、うち捨てられた戦車がまるで叫び声を上げているかのように描かれている。破壊され劣化した装甲が痛々しく、戦場の激しさを物語る。マーブル模様のような背景の中、微かに海が遠望され、薄れゆく記憶のようでもある。遺跡化した戦車を通して戦争の記憶を画面に刻み込んでいる。(編集部)

 伊藤善文「石の街―2014」。オストゥーニの町並みを、画面上で独自に再構築して描き上げている。地中海沿岸特有の強い日差しが、眩しく照り返す白い石壁と長い影によって表され快活である。頂上のカテドラルに向かってジグザグと建物が構成されているのだが、その勢いで空に雲の筋がジグザグと表れているのも面白い。そこには波の寄せる周辺の海のイメージも重なってくる。一つ一つの建物を的確に描きながら、長い時間をかけて変化してきた石壁のトーンを細部まで追い、有機的な一つの集合体を誕生させた。(編集部)

 原三郎「ピエロとノラ」。近年の風景画から大きく変わり、画家の新たな視点が新鮮である。ピエロは中性的で、どこかミステリアスな雰囲気を醸し出している。脇には小さな猫が一点をじっと見ながら何かを考えているようだ。チャコールグレーの敷物が不思議な色合いで、室内の空気を変えている。右上方から斜めに光が走り、画家特有の陰翳表現によってピエロのシルエットが印象づけられている。(編集部)

 久保宏司「ディジョンの朝」。傾斜した路地を中心に、縦横の線をパズルのように組み合わせながら建物の細かなディテールを追って、歴史を感じさせる町の風景を描いている。石造りの建物や路地が見せる複雑な色調の変化、そしてひしめく建物の間から差し込む光による陰影のコントラストが見事にハーモナイズされている。上空に突き抜けるような尖塔と、爽やかな青空によって朝の澄み渡った空気を感じさせる。(編集部)

 星加哲男「再生」。トマトの枝や根っこが塊となって巨大な繭を形成している。下から突き上げられ、外側に膨らむような力の動きがある。だんだんと人物や生物がこの画面に潜んでいるのではという感覚が芽生えてくる。例えば古代ギリシアのラオコーン像のイメージが重ねられるような強さがあり、新しい生命の胎動が感じられる。(編集部)

 細貝惣児「紡ぎのかたち」。四人の女性が描かれている。鹿子絞りの着物を着ている。青や紫、グレー。その着物と女性の身体とがマッチして、日本独特の懐かしいような雰囲気が生まれる。正面を眺めている女性の背後に、手を広げたり、すこし肌を出して両手を胸のほうに伸ばして悶えているようなしぐさをしている人もいる。着物を着た女性のパントマイムのようなフォルムが三体、背後に描かれ、それを背景にして手前を見る女性。すこし上から斜めの角度から描かれている。画家はファッションデザインの仕事も長くしてきたが、日本女性の和服の美ともいうべきものを描いてきた。その女性の様子を見ると、母親のイメージが強くあらわれているように思われる。あるいは、その母のまた母といった、長く続いてきた和服の伝統のなかにある日本人の生活といったものも画家の念頭にあるのだろう。しっとりとしたマチエールがこの作品を支えている。両側の白いフォルムはしんとした雪のような雰囲気もあらわれる。白いストライプは横断歩道ではなく、連続した女性の血脈のようなイメージだろうか。

(高山淳)

 坂本正義「みの虫 2014」。修道士のような装いの老人たちが描かれ、手前の二人は携帯電話を手にしている。左の老婆が右の老人にメールを通して伝えたいことを発信するイメージが、背後の三人の姿として現れているのだろうか。地面には五つの黒い玉、天には三つの月のようなフォルムが時間の流れを暗示するように入れられている。老人の何ともいえない表情がユニークで、様々なマチエールを駆使した画面の中、存在感を湛えている。(編集部)

 松田圭人「花咲く乙女達(禍いの胎動)」。ケシの花畑に裸体をさらけ出す女性たちが寝転がったり、うずくまったりしている。ケシから連想されるものも相まって堕落の象徴のようだ。左側にはそんな堕落した者たちを呼び寄せるように地獄の使者と亡者が描かれる。生々しく迫る人物描写によって、快楽と隣り合わせの地獄を明暗の対比を際立たせながら表現している。(編集部)

 田中愛子「愛華の環」。熱帯性の植物や鳥が鮮やかな色彩で描かれている。緻密なタッチでタペストリーのような風合が表れるが、そこにタペストリーには無い奥行きを持った空間が加わって構成されている。植物のニョキニョキと伸びる姿が色調の効果もあって強い生命力を感じさせる。中央にぽっかりと円形の水たまりが置かれた。周辺とは相容れない人工的な円は、まるで異世界への入り口のように鑑賞者を誘っている。(編集部)

 多田耕二「活かされた風景」。モノトーンに近く、ちょうど逆光を浴びるようなかたちで風車のシルエットが表れている。画面以上の広がりを感じさせる空は、雲がこちらへ迫ってくるようにダイナミックに描かれ、空をどっしりと受け止めながら風車がそびえ立っている。全体に細かなハッチングを施すことで、なおさら風車のフォルムが浮かび上がる。雲を透かして差し込む光線がわずかに黄味がかっていて、記憶の中の風景といった心象性も内包されている。(編集部)

 山崎義雄「転想」東京都知事賞。伊達な出で立ちの老紳士がビル街の一角に座り逡巡している。傍らには「ヒトはどこへ行くのか?」という本が置かれていて、そこに書かれていたことから様々な思考を巡らせているのだろう。険しい男の表情に対して、女性はやや気楽な雰囲気で立っている。空を旋回する置き時計と魚が何とも拍子抜けするようなシュールさで、二人の思考の交わらない様子を表しているかのようだ。困難の続く現代社会を生きていく不安が立ち込めているような画面である。(編集部)

 大森英樹「ツネちゃんの世界」。人格が与えられたかのように不敵な表情を浮かべる猫。この部屋の主のような貫禄で視線を投げかけている。モチーフそれぞれの質感が巧みに迷いなく描かれていて、特に棚に置かれた計器のモニター、窓の外の太陽、机の上のランプ、三つの光源は個々に異なるニュアンスを持った光を放っていて、鑑賞者を異世界に引き込むような暗示をかけている。(編集部)

2室

 栗崎武成「フィレンチェの思い出」。縦長の画面を直線によって分割しながら、その中を色面として表現し、独特のハーモニーをつくる。具体的にはそれはピンクの家の壁であったり緑の壁であったりする。そこに窓があけられ、窓の中の色面、テラスの植木鉢などが配置され、全体で不思議なリズムをつくる。上方に上っていくと山が見えて、山の中に教会のような建物が左右に広がっている。穏やかな古都の生活を壁と窓によって表現する。そこには日常生活のなかを流れる独特のリズムのようなものも感じられる。典雅な音楽を空間化したような趣も感じられる。(高山淳)

 田平その「'14─某日 Ⅰ」新協賞・新日本海新聞社賞・委員推挙。乳白色の画面に黒い色面が侵食し、その下方に花を植えた鉢を抱える女性がいる。黒い色面には、多肉植物が溶け込むように描かれている。大胆に取られた空間によって女性像が際立ってくる。日常の連続する時間、その過去と未来を取り払った今現在の時間が三つの色面によってフォーカスされる。今を生きている実感、その本当の価値を花に象徴させているかのようだ。(編集部)

 上垣公子「湿原遠望」。水辺に挟まれた中洲を中心に湿原が俯瞰されている。草木や葦原の塊が層になって重なるように構成されていて、全体が細かな筆致の緑の微妙な変化によって形作られている。ひんやりとした静けさがあり、二羽の鶴が遊ぶ様子も雑味が無く、穏やかな空気を持った作品である。(編集部)

 山本弘美「あそびば」。古木がアスレチックであるかのように群がる猫たち。一匹は木を伝ってか、屋根の雨どいの上を歩いている。フォーヴな味わいのある作品で、木の形や五匹の猫それぞれの姿勢、こちらに顔を向ける姿など個性的で面白い。パステルカラーを織り交ぜた色彩にも独特のセンスを感じる。(編集部)

3室

 菅原平治「山麓の柿の木」。巨大な柿の木が毛細血管のように激しく枝分かれしながら広がり、異様な迫力を見せている。背景の空と山々が淡い色面を分割するようにして抽象性をもって描かれているから、よりこの柿の木のフォルムが立体的に迫ってくる。縦長の画面を生かし、下方の密度を上げることで木の高さが強調されていて、打ち上げ花火にも似た動きが表れている。(編集部)

 大中昇「草深原の狐」。ホンドギツネをはじめ貴重な生態系が保持されている千葉県の草深原は、今開発の危機に直面している。この地には「そうふけっぱらのきつね」という民話があって、人間に化けた狐が行商人を助ける話だそうだ。そんな民話からのイメージを租借して描かれた作品と思われるが、これまで西洋的な幻想世界を描いてきた画家にあって、和洋の風景が混在するような不思議な景色が表れている。月の出ている空に未だ色濃く残る夕焼けが妖しい。着物姿の化け狐は、女性らしい仕草と艶やかさを見せる一方で、人間と狐の境界を上手くモンタージュさせた顔立ちをしている。かつて助けた人間たちに現状を訴えかけるような神妙な表情が印象深い。(編集部)

 大西平夫「晩秋」。遠景の工業地帯に立つ煙突から吐き出される煙、そのモクモクとした動きがリフレインするように、近景へと草地の塊が描かれている。素朴なパノラマだが、不思議な量感がある。手前に立つ一本の竹竿と、中景の模型飛行機が醸し出す僅かながらの人の気配、そして画面右側から徐々に赤く染まっていく川面が、秋風の切なさが染みる心地を呼び寄せている。(編集部)

4室

 飯塚詠一郎「行雲」。白い雲や暗い雲が動いている。その動いている様子が迅速で、高速で動いている。逆に人間が高速道路を車で走ったり新幹線に乗って景色が移動していくようにも感じられる。つまり、空が動いているのか人間が動いているのか。いずれにしても、空の雲の映像ははっきりとした輪郭線をもちえないほどの様子で描かれている。そのスピード感が無情といった言葉を引き寄せる。同時に、そこにはイノセントな雰囲気もある。つまり、言葉になる前の映像のような不思議な味わいがある。とくにセルリアン系の明るいブルーの周りをウルトラマリンを濃くしたような雲が囲んでいるのだが、中心は白い雲で、ほのかにピンクに染まっている。スピードでフォルムが見えないような形象を眺めているうちに、その白い雲が浮かび上がってきて、不思議な、いわば詩のようなイメージが浮かぶ。空間のなかを動くというより、激しく動く時間というものが捉えたイメージなのかもわからない。(高山淳)

 飛田一喜「里山にて」。黄色や茶系の色面をベースに、緑や青、などの色面を散らし、それらの色面をつなぐように線によるドローイングが施されている。里山の四季の移ろいがイメージされる。縦横に自由に伸びる線は植物の茎のようでもあり、色面それぞれの時間を繫ぎ留める。線の周辺に花や実、鳥などの存在が感じられるし、中央の青い矩形は小屋のようにも見え、人間の営みが垣間見える。自然界と人間界の交差する里山がイメージ豊かに表現されている。(編集部)

5室

 新田晴夫「いさりびの景」。題名いさり火は、画面左奥、倉庫の出入り口から微かに覗く。その遠くの光がまるで倉庫の中に注がれているような、不思議な描写である。青い床や壁に滲み出るような黄色の色彩。大きくとられた空間がその色彩の柔らかな変化によって幽玄的な世界に取り込まれていく。抽象とも言えそうな画面を風景画に押し留めているのは、壁際に置かれた水色のプラスチックケースの存在があるからだろう。それらの大きさと位置、少し明るい色調によって、リアリティの中の幽玄が獲得されている。(編集部)

 合田幸代「出た?飛んだ」。トイレトレーニング中の幼児が、乗り物になったオマルに乗って空想の世界に遊ぶ。転々と弾む青いゴムボールは、影と共にリズムを刻み、シュールな画面を強調する。樹木が影だけで描かれているのも虚の世界であることを印象付ける。三次元的な動きで全体を構成しながら、子どもならではの空想の世界が表現されている。(編集部)

7室

 松永明峯「月の光」。係留されたゴンドラ越しにヴェネチアの街を遠望する。深い海の青が雲に覆われた空も青く染め、雲間から覗く月の光が海面を放射状に照らしている。ゴンドラのしなやかなフォルムがクリアに月光の中で浮かび上がって夜想曲の流れるような情景を作り上げている。(編集部)

8室

 新島初子「旅」。旅で出会った二人なのだろうか。モデルのような装いの女性二人は、青い眼光を放ち強いインパクトがある。背景に描かれたヨーロッパの町並みは、画面の奥の方へ吸い込まれていくようにハーフトーンの光の中に溶け込んでいる。背景の奥に吸い込む力と、女性たちの前に迫る力が調和して、そのバランスの中に独特の空気が表れている。(編集部)

 髙瀨美和子「インレー湖に咲いた」。ミャンマーの景勝地インレー湖で生花を栽培し収穫する老婆。籠いっぱいの花を頭頂から吊し、しわくちゃな顔で運ぶ老婆の姿は人間味に溢れている。湖の湿度を感じさせるような画面で、遠景の花畑が湖の霧に包まれるように幻想的に描かれている。決して美しいとは言えない風貌の老婆だが、背負う花々の輝きに負けない、滋味深い生命の輝きを湛えている。(編集部)

 舩山マヤ「時の位相」。三分割された画面が異なる時間を示し、それぞれに少女の姿がセピア調で描かれている。時代が変化しても、変わりなく垂れ流され続ける汚染水。林立するタンク、四つの排水口から吐き出される排水、曲がりくねったパイプ、それらが不穏な気配を増長させ、少女の表情や姿勢が不安げである。真ん中の少女は清らかな水の入ったコップを手にし、左右よりも明るいトーンの画面の中にいる。清水の中に一滴でも汚水が混じると、それはもう清水ではない。一杯の清らかな水に何とか希望を見出そうとしているかのようだ。浄化への祈りを込めるように、縦横に虹のラインが入れられている。(編集部)

 掛田敬三「夢の途中」。数十人の人が描かれている。ところが、何のためにここに集まっているのか、目的が定かではない。そんな群像のクリアなフォルムが集合すると、まさに夢の途中という題名のような不思議なものになる。上方は逆さまになりながら、U字形に男女が配列されて、様子をうかがう者、何かのしぐさをする人、時計を見る人、ぼんやりしている人、様々な人がここに集合する。その一つひとつの表情も描き分けながら、人間の集団の不思議なシーンである。(高山淳)

13室

 太田昭「夕焼け黒富士」。黒地に金や赤を基調とした彩色で、富士山とその下方に広がる港を空想的に描いている。漆芸や版画のような風合いがあり、平面的なシルエットや古代壁画のような図像的なモチーフを組み合わせた独自の世界である。港には鳥や甲殻類、馬の頭を持った人々などがいて、神話的なイメージも感じられる。富士の造形美というよりも、霊的な力をリズミカルな調子の中に表しているようだ。(編集部)

 門脇計子「湿原」。透明水彩による、淡くノーブルな光が滞留するような風景である。画面右の方から光が当たり、木々や草を縁取っている。水と草が柔らかく交わり、自然の醸し出す空気の流れが画面全体に広がっている。色彩の扱いが繊細で、抽象性と具象性がほどよいバランスを保ち、奥行きと広がりのある画面が描き出されている。(編集部)

第45回記念国画展

(10月12日〜10月19日/東京都美術館)

文/編集部

1室

 奈良重利「下町カフェ」。古いレンガ造りの高架下、そこに入居するカフェの入口が正面から描かれている。レンガ壁の煤けた様子やカフェ内部の暗がりが、墨と墨彩によって上手く表現されている。中央のカフェにぐっと集中するような構図で、墨による細かい線をモダンな感覚で生かし、ディテールを作りあげている。

 田之上緋佐子「畑」。円形と矩形の二つの畑が斜めに並んでいて、作物が規則的に配置されている。背後の五本の裸木が揺らぐように画面に動きを与える。ミニマルアートに迫るようなコンポジションの作品であるが、柔らかな濃淡の墨の力によって、有機的で、触覚的な画面が生まれている。

 金子紀久雄「春雷去来」。長野の塩田平を遠望する景色に、巨大な光の渦が現れた。春雷の音と光がこの渦巻くかたちから迫力を持って伝わってくる。渦には光背のようなイメージもあって、この地を見守る山の神を象徴しているかのようだ。墨の筆触は力強く、見え隠れする緑や茶が大地を形成する。また、爆発するような光にはピンクがかった白い色彩が混ぜられていて、春の訪れを予感させている。

 飯澤滋子「景(Ⅱ)」。中央の樹木を中心に、樹影が分身を作っていくように木のフォルムが奥へと広がっている。遠くにいくほど淡く霞んでいく木の表現が独特の気配を帯び、幽玄といえるような世界を創り出している。

2室

 入澤禎子「景」。山間の道をカーヴの向こう側から差し込む光を軸にして、陰翳を強調しながら描いている。独特の靄がかったマチエールがあり、水墨の滋味深い景色を描き出している。

6室

 古城和明「明日へ」。黄色の日輪が強い光りを放っている。その光が周囲を赤く染める。手前の樹木の立つ丘と、日の沈みゆく山との間は雲海のように見える。その空白の間に景色の雄大さが表れている。墨と朱墨が調和した淡い画面の中、しっかりとしたフォルムで立つ樹木に強い意志のようなものが感じられる。

第9回21美術展

(10月12日〜10月19日/東京都美術館)

文/編集部

1室

 田沼汪次郎「俄雨(ミラノ)」。大きな教会を背にした男を正面から描いている。教会は青の色彩で描き出されていて、男はそこから浮かび上がるような不思議な存在感を持っている。男の表情はどこか冴えないようで、深い哀愁が漂っている。それが作品内に蕭々と降る雨と不思議な調和を見せているところがおもしろい。周囲に散りばめられた標識や横断歩道、道路などが、男のこれまでの人生を暗示させるようにも思われて興味深い。

 野村順子「平和への祈りを込めて  対話パリ」。画面の中央に白いクロスを掛けたテーブルがあり、そこに二人の夫人が並んで座り、ワインを飲みながら語り合っている。その手前には紫のテーブルがあって、右側にサングラスをした男性が左を向いて座っている。その画面構成が独特で印象深い。背景は暗くなっていて、それが密度のある空気感を作り出している。日常の中にこそある幸せというものを、改めて賑やかに、そしてしっとりと描き出しているところがこの作品のおもしろさだと思う。

第31回近代水墨展

(10月12日〜10月19日/東京都美術館)

文/編集部

1室

 原田愛子「夕照」近代水墨展大賞。漁の仕掛けの網が画面を横断するように描かれている。それぞれの仕掛けにコンポジションの面白さがあり、近景の茂みの躍動的な筆致と、遠景の白く抜かれた波の沫に挟まれて空間を支えている。夕照を表す朱色と草を表す緑が控えめに置かれ、幻の中にいるような画面が表れている。

 清水昭子「川原の秋」。対岸が切り立った川辺の景色が手前の二つの茂みを通して描かれている。岩壁、川面、茂み、それぞれのマチエールが巧みな墨の扱いによって表現され、特に密度のある茂みの植物の動きにはエネルギーが充満していて、盛りを過ぎたはずの植物が、冬に向けて最後の生命力を放出しているようでもある。素朴な景色でありながら不思議な華やかさを感じさせる。

 西田洋子「かぐや姫(月へ帰る)」。かぐや姫が天女に連れられ天上へ帰る場面である。濃淡や太さを微妙に変化させた線による描写で、筆を運ぶ動きが画面を支配していて、大胆にあけられた空間に負けない魅力を持つ。来迎図のような天女たちの浮遊感もよく出されていて、繊細な背景のトーンの変化が神秘的な気配を導いている。

第58回日本表現派展

(10月13日〜10月19日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 五辻節子「落花流水」新人賞。下方に水が流れている。上方に花がたくさん浮いている。その二つの存在感がお互いに均衡しながら、不思議なバランスのなかに表現される。どこかレクイエムを思わせるような心持ちに誘われる。

 青木美弥子「a-ri-a」。五枚の縦長のパネルを連結したものである。太い幹に白い桜の花が咲いている。五本の樹である。アリアとは、日本語に訳すと、カンタータなどの詠唱という意味になる。桜の讃歌の図である。この長い樹齢をもった桜の生きている様子に対して、供養しているような、称賛しているような、独特の世界である。ベージュの上に黄土系の色彩が入れられ、そこに胡粉が使われて、優しい色彩。その波動も興味深い。

 米山郁生「幻視」。横長の画面を上下に三枚重ねて、真ん中の画面はすこし右にずらしてある。下方からV字形に鋭角的に伸びていくフォルムが、三つの空間を突き抜けている。そして、その向こう側に、金色の円弧があらわれている。そのそばに深い青。その境界によって左下の黄土色の上にグレーの人間の死体のようなフォルムが群がっている様子。それに対して右上方は赤黒い空間の中に漆のようなマチエールのものをドリッピングしてある。しぜんに、三年前の津波で亡くなった人、あるいは今年、広島で山が崩れて数十人の人が亡くなった出来事を思い起こす。そして、三途の川のようなものを挟んで、右上方には霊的な世界が充満している。あの世が描かれているようだ。そして、その両方を突き抜けるように細長いV字形のフォルムがあらわれて、一種のモニュマンのようなイメージをつくりだす。画家自身、心臓の手術をして、麻酔から覚めたときに不思議な幻覚のようなものを見たという。そういったイメージもここに重なっている。つまり、麻酔から覚めるときに死から生によみがえってくるような不思議な感覚を覚えた。両方の世界を垣間見たのではないだろうか。下方の三番目のパネルの地上的な世界と述べた上にも、黒い右上の漆のようなものがドリッピングしてあって、生のそばにはすぐにそのような死の気配が存在するようだ。いずれにしても、そのあいだを通って生きていくというパワーが、この細長いV字形のモニュマン的なフォルムになるのだろう。生と死の二つの世界を上方から見下ろして描いているような不思議な雰囲気がある。精神の目というものが二つの存在をそのまま見下ろしている。その巨大な目をこの作品の後ろに感じられるところがこの作品の良さだと思う。

 陣内里美「花月夜」。花魁が静かに踊っている。頭のあたりにつけていたお多福の面がずれている。まるでメドゥサのように髪が乱れている。その向かって右のほうに満月が現れている。花魁自体が花のような存在であり、物狂おしい命の花といったイメージで画面の中に表現されているところが面白い。

 向原常 「山嶺に迅き雲湧く紅葉かな」。上方に雲がわいている。その雲のあいだから山嶺が見える。下方には蔓のような植物が伸びて、葉を茂らせている。あいだに赤い太陽が見える。モミジはどこにもないようだ。と思っていたら、下方の蔓のような植物に葉がついている様子が楓を表すようだ。そばに太陽が赤く、そちらのほうは黒々と表現されている。いずれにしても、内側のほうから生命の力が漲ってくるような空間である。淡い緑が背景に賦されて、太陽が赤く輝いている。「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」という定家の和歌がある。何もないところに花や紅葉をありありと見るという。そういった意味合いもあるのだろうか。

 今岡紫雲英「輪廻転生」。真ん中に子供が座っている。首を傾けて。障害をもっている子供のようだ。周りにたくさんの花が囲んでいるのだが、花の中に子供たちの顔があらわれている。また、植物の葉自体が目のある葉のような雰囲気。花も同じような雰囲気で描かれている。目のあるのは人間だけではなく、植物にも目があり命がある。そういった集合体がそのまま輪廻転生の円弧となって、この中心の少年を囲んでいる。画家のつくりだした太子像ともいうべき深いイメージが感じられる。つまり、この障害を背負ったような子供が神様の子供のように描かれている。ぐいぐいとした濃墨で線がつくられ、それらが連携しながら有機的な関係をもつ生命的な空間があらわれているところが魅力。

 上野千代子「内在律」。独特の曼陀羅を表現している。いくつもの円弧。中心から白く放射するエネルギー。黒い太陽のようなイメージ。まさにこの曼陀羅の内側にある内在律ともいうべきものを画面に引き寄せて、それを表現しようとするかのような空間である。

 中野大輔「天駈ける」。五頭の馬が左に向かって疾走している。いちばん手前の白馬は上体を上に持ち上げている。後ろには褐色の馬、紺色の馬が続いている。背後には箔が貼られている。激しく走る馬のエネルギー。その躍動的なフォルムが圧倒的に画面に繰り広げられる。一種装飾的な空間の中にフラットなフォルムによる表現。輪郭線を組み合わせながら、独特の強いエネルギーを表現する。

 橋本学「輪廻」奨励賞。銀と漆をともにたらしこんだような独特の空間である。茶褐色とグレーとの色面が渾沌として、お互いに溶解しながら不思議な空間をつくる。もう一点の作品もドライなマットな中に不思議な渾沌とした空間ができているのだが、その渾沌という中に生成しつつあるイメージを生き生きと表現する。

 岡川孔「比良山遠望」。手前に琵琶湖が静かにさざなみを立てている。その波頭が白く輝いている。すぐ比良の山が迫る。上方には雪が下りている。その向こうに聳えるのは比叡山だろうか。筆者は、だんだんと日が昇りつつある夜明けの頃のイメージを思う。冷気が画面から発してくる。そのなかに徐々に山容を現しつつある比良の山並み。山と湖によって強い自然の気が表現される。

 高瀬千弥「祈りの刻」。下方に暗く彩られた空間があり、上方に赤い空間がある。その赤は細胞的にいくつもフォルムが組み合わさって、その中にキャラクタライズされた人間の顔などが入れられている。強い波動が画面から発してくる。三年前の津波に対するレクイエムのようだ。赤い空間に包まれた人間の顔は下方の死の世界から浮かび上がってきた顔で、生きているのだけれども、この世にいるのか、あの世にいるのかわからないような雰囲気があって、強い存在感が感じられる。

2室

 永名二委「富士融雪」。上方に富士と思われる白い山が、広い裾野をもってどっしりと表現される。それに対して手前に滝が落ちてきている。富士の雪が溶けて水になって落ちてきているのだろうか。空と右端とは濃墨で、強い劇的なコントラストを表現する。静と動とのコントラストでもあるし、夜や暗闇の中にあらわれてくる雪や水のイメージ。そしてもう一点。これよりすこし小さな作品が上方に置かれて、静かに水が流れている様子。だいぶ海に近い河口だろうか。満月が昇っている。大観に「生々流転」という水を扱った絵巻があるが、この作品も水の変化を面白く、上下二つの空間の中に表現した。

 稲熊万栄「乙坂を行く:馬市の日」。画家は木曾で生まれ、少年時代をそこで過ごした。その頃の記憶が繰り返し画面にあらわれる。馬を引いて歩いていく人々。川を渡って右のほうに向かっている。その右端にはたくさんの馬が集合している。民家を大きさを変化させながら遠近感の中に表現する。右端に番傘を持つ学生服を着た二人の少年。画家の中学生の頃の姿だろうか。こんもりとした山が遠景に立ち上がっている。水の流れは浅いが、清らかで激しく静かに流れている。見ていると、その様子が生き生きと浮かび上がってくる。

 小松欽「軌道をはずれ何処へ行く」。チンパンジーが数十頭群がっている。なにか不安な様子である。手前には渾沌とした水があって、その中に不思議な形象が感じられる。地球あるいは自然の象徴的なイメージが手前にあり、それに向かい合ってチンパンジーが騒いでいる。まさに地球は軌道を外れてどこへ行くのかといった問い掛けを、そのままチンパンジーを通して表現した趣である。葦ペンによる強いシャープな輪郭線がその表現にふさわしい。

 坂口放牛「森」。背景は金泥。そこに墨によって樹木が描かれ、家がその向こうにある。葉が茂っている。それだけの様子であるが、深い情感が感じられる。

 山田文行「式年遷宮」。伊勢神宮の式年遷宮の行列。右の鳥居から下りてきて、左に向かっている。中心の円弧の中にはこの神社の配置図。上方に満月と雲。そして、水の向こうから昇ってくる伊勢の太陽を荘厳するような、岩に渡した注連縄。これらの光景を円で囲んで、その円は綱でできていて、御幣が翻っている。ユニークな伊勢神宮讃歌、式年遷宮の図である。曼陀羅構図の中に見事にまとめている。

3室

 滝沢文子「荒野」。立っている女性、座っている女性。二人はお互いに視線を交わしていない。立っている女性は遠くを眺め、座っている女性はその姿を見ている。もう一人、中景にススキの中に向こうを向いて立っている後ろ姿の女性がいる。芭蕉の句に「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」という辞世の句があるが、死を前にして感慨にふけっているようなあやしい空間があらわれている。とくに向こうを眺めている中景の女性の姿には霊的な気配さえ漂う。

 吉村周子「時を越え(あの日)」。ロマンティックな空間。水際に若い女性が立って、その背中が見える。そばに樹木が伸びて、若葉が茂っている。水際に電車が走っていて、手前に向かう。水際の手前のほうは赤く彩られて、夕日を思わせる。空は黄金色で、白い雲が浮かび上がっている。記憶の内部、過去のロマンティックであった青春時代のイメージが画面にあらわれる。電車はそんな記憶活動の象徴のようだ。いずれにしても、下方の立っている女性の背中のフォルムとその周りの茶褐色の地面やピンクや黄色い色彩、あるいは樹木の伸びていく枝、白いブラウスにスカートをはいている姿が実にロマンティックに魅力的に表現されている。空間全体がそのままイメージの空間として機能しているところがよい。

4室

 作田吾亦紅「横浜の中華街」。濃墨でぐいぐいと建物や看板、そこを歩いている二、三十人の人を描いて、独特の力をあらわす。看板も文字も人間の姿も、画面の構成要素として実に生き生きとしている。そのようなコンポジションとフォルムの扱いに注目。

5室

 三宅玲子「夏山」。手前に麦のようなフォルムが強く立ち上がっている。中景には田圃。遠景の山の麓には建物がたくさん連なって集落を表す。上方に濃墨で山頂の切り立った山が描かれている。ぐいぐいとした筆力によって、夏の光線と植物の生命力、植物の香りさえも漂ってくるような臨場感。

 稲葉一枝「焼跡に兜かえせば児の髑髏(中勘助)」。上方に少女が兜をかぶって星条旗を背中に掛けている。「ギブ・ミー」という文字やMPという文字が見える。その下方は塹壕のようで、髑髏が転がっている。防空壕なのかもしれない。画家の少女時代に経験した敗戦の光景である。それが強い情動を伴って強いイメージの中に表現される。歳月によって余分なものがぬぐい去られて、なにか白々とした漂白されたような時間がぬっと姿を現したような、不思議な印象である。

 二瓶和紀「神田川を跨ぐ橋たち」。お茶の水のあたりの風景だろうか。神田川にかけられた橋や陸橋。そのそばの建物、背後のビル。しっとりとした墨による表現。遠近感の中に対象のフォルムをしっかりと表現する。

7室

 岩城大介「轟く」。黒いバックにグレーの植物的なフォルムがお互いに関連し、リンクしながら、左右、上下に動いている。植物が手をつないで踊っているかのようなあやしい雰囲気である。右上方に黒い鳥が口をあけて鳴いている。左上方に太陽のような月のようなフォルムが見える。植物の内部に、あるいは自然の内部に深く想念を潜入させてつくりあげた独特の心象風景である。植物のもつ生命力を面白く画面に引き出して構成した。

第67回立軌展

(10月13日〜10月28日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 小川イチ「季節 A」。赤い花が咲いている。馬のようなフォルムがそこにあらわれる。鳥が飛んでいる。右の上の空間では、植物が地面に小さく生えている様子も、空間の中のダブルイメージとして入れられている。淡い青いグレーの空間。風がそこに吹いているようだ。それはそのまま一種霊的な心の空間に変容する。花が風の中で動いている。あるいは滲むようにピンクの花。物思いにふける鳥。鳥の背中にいるもう一つの小さな鳥。そこにあらわれてきた馬のようなフォルム。懐かしい童話的なイメージ。それがそのまま画家の詩心の世界に変ずる。

 赤堀尚「新大橋  夜景」。橋を左右の金属のロープが引っ張っている。ダイナミックな橋が緑の色面によって表現される。そこから立ち上がるオレンジの柱。下方は夕焼けのようで、ピンクに赤く染まっている。夜空に浮かぶ新大橋。残照に赤く輝く空間。それを心象空間のように表現している。したがって、一種水墨の文人画的な、たとえば大雅などの描くようなスタンスで対象を引き寄せながら、そこに水平線があらわれ、垂直線があらわれる。文人画的な雰囲気の中にキュビスム的な骨格があらわれる。そこにある懐かしさと同時に色彩の輝きと強いコンポジションがあらわれる。「内浦湾」はその典型で、もう夕闇で、空は暗い。ほんのすこし黄色い色面の残光が空にある。そこに紫の雲が浮かんでいる。雲が重量感をもつような存在として空に浮かび、下方の同色の暗い海と対応し、あいだに補色である黄色の光が左右に伸びる。これも水墨のたらしこみふうな表現でもありながら、水平線のあらわれているところが水墨と違う。それによってヨーロッパの造形的な骨格があらわれる。そういった要素と、なにか懐かしい、対象を再現するのではなく、そのまますっと対象に入っていく水墨的なイメージ、方法というものがリンクするところに、この空間があらわれる。

 五百住乙人「卓上の果実」。歪んだ台形のようなテーブル。その上に自由に引かれたグレーのお皿の色面。その上に七つの洋梨が置かれている。お皿は一部グレーに光っているが、それはキャンバスに接近すると、絵具をはがしたあとである。お互いが浸透し合うような色調。お皿のそばに三本のワインボトルが黒いトーンの中に描かれている。テーブルの上のこの側面から見たワインボトルのフォルムとそばの大きなお皿とは視点が異なる。異なる三つの視点でありながら、この三本のワインボトルは不思議な情感を引き起こす。心のシャドーのような雰囲気でボトルがあらわれている。それはまたこのテーブルの左と下方に置かれた暗い滲むような影と関係するのだろう。それに対して、上方のすこし残光の中にあるようなグレー。陰影というものが強い力を発揮する。陰影の中に物象があらわれ、それはアンティームで親近感があるもので、手元に引き寄せられる。引き寄せられるのだけれども、それは到達しえないもうひとつの存在のようなイメージも獲得する。青いグレーのお皿が、空のようなイメージでテーブルの上に浮かび上がる。そこに七つの洋梨が浮かぶ。独特の内向する心象風景である。それは強い詩情に染められている。

 笠井誠一「静物 A」。白いテーブルの上に金属の鍋。黄色い筒のような花瓶に差された紫のチューリップ。花を数えると八つある。手前の大きな冬瓜のようなフォルムとオレンジのポット。上方の壁はセルリアン系の青い空間。紫の床。大きな空間があらわれ、豪華な雰囲気が感じられる。中心のチューリップの花が、花の重みさえも感じさせながら悠然として、すこし開きかかっている。それを取り囲む三つの鍋と冬瓜と小さなオレンジのポット。線を生かしながら構成されたこの静物には、深い奥行があり広がりがある。平面の上での空間の扱いが実に優れている。

 池口史子「赤い街並」。赤茶色の屋根に白やベージュの壁の建物が続いている。それを見下ろす視点から眺めている。ところどころ尖塔やドームのある建物が見えるのは、教会や昔のお城なのだろう。直線を駆使しながら、独特のパースペクティヴをつくる。一点消失法ではなく、画家の視点が自由に左右に変化する。それによって複雑な消失点が生まれる。パースペクティヴを重ねることによって、揺れるような動きがあらわれる。そこに斜光線が差し込む。いちばん近景はグレーのトーンの中に、下方に下りていく階段や屋根、手摺りなどが見える。視点の変化によって動きがあらわれ、はるか遠景には霞むような山、そして残照の空があらわれる。一種デジャヴ的なノスタルジックな空間があらわれる。

 中根のり子「幻の町」。家並みを遠望している。屋根の幾何学的な形に対して球体が大小たくさん置かれて、不思議なノスタルジックなイメージをつくりだす。緑とピンクとの不思議な色彩のコラボレーション。

 大庭英治「ある風景 Ⅱ」。色面によるコンポジション。色面がお互いに溶解したり立ち上がったりする中に空間があらわれる。水平のものと垂直に立ち上がるもの。そのあいだに置かれた物象。それを光の浸透する色面の中に表現する。

2室

 栗原一郎「王と王妃」。黒い細い足をもったテーブル。その上にグラスに入れられた薔薇。灰皿には消された煙草が一つ。画家はそれだけのものを描くにあたって、不思議なストロークを行い、デフォルメをしながら、まるで静物がこの空間のなかで踊っているかのようだ。線による独特の表情。線がひとつの心象を喚起する。コップに差された二つの花。一つは黒い薔薇で、一つは赤い蕾。なにか切ないようなイメージが伝わってくる。

 久野和洋「地の風景」。奈良の光景だそうである。以前はイタリアを中心にして描いてきたが、最近、日本の古都を描いている。中心のもっこりとした山は古墳のような趣がある。その下方に細い土の道が交差している。背後に雑木の生えた山が続いている。空が画面の約半分以上占めている。地平線近く、山と接するあたりはベージュの輝くような光に満ちた色彩で、上方に行くにしたがってすこし翳っていく。画家は単に自然を描いているのではない。そこに見える歴史を描いている。それはイタリアのときもそうであった。奈良の古い歴史に生きた人々の息づかいのようなものさえも画面から感じることができる。マチエールとフォルムによる不思議な力で、民族の記憶を喚起するような、そんな不思議な力が感じられる。

 山田嘉彦「雨季」。山田嘉彦は二点である。一つは「爛漫」といって、左右に桜の花が咲いている様子を描いたもの。光の中に花が輝いている。いちばん近景にその明るい色面を置いたものだから、後ろの暗い空間にもっていくのがなかなか難しい。下方に母と子供がいる。作品の魅力は輝くような桜の花の色彩だろう。それに対して「雨季」は、しっとりとした奥行をつくりだす。下方三分の一あたりが水で、ボートに乗る一人の男。背後に大きな広葉樹が茂っている。遠景には紫に霞む建物のようなフォルム。スーラを思わせるようなしっとりとしたトーンの中に、堅牢なコンポジションがあらわれる。背後の緑の樹木を映して、水面も複雑な、ほぼシンメトリックな緑の階調がそこに浮かんでいる。そのあいだに緑の船に乗るオレンジのシャツを着た男は、白い帽子をかぶっている。そのあたりのトーンの変化やフォルムには、実に繊細でありながら、強いものがあらわれる。左のほうに一本だけ幹が描かれているのも、クリアなフォルムの位置の変化としてよく考えられている。

 志村節子「インド幻想」。糸車のそばにデコイが置かれている。そばに果物や瓶に差されたミモザやアネモネの花。テーブルの上に置かれているものたちが、背後に風景が幻視されることにより地面に変化する。風景には砂浜とボート、そして海があらわれる。月がそばに霞むように浮かんでいる。ロマンティックな雰囲気。シャープな動き。イメージをつかんだ瞬間の心のときめきを表すような動きが、一種イノセントな空間をつくる。デコイが鳥に変容する。

 遊馬賢一「コリウールの赤いイス」。コリウールとはピレネー山脈の南端が地中海と接するところにある町。海水浴場でも有名である。そんな地中海の光が差し込むことによって、机や椅子がより赤い色彩を帯びたのだろうか。赤い机に赤い椅子。そばにこちら向きのもう一つの同じ椅子が置かれている。ベージュの壁にそれぞれの色彩が独特の魅力をつくる。見ている鑑賞者の脳髄に静かに浸透してくるような色彩と言ってよいかもしれない。

3室

 継岡リツ「特別な時間(天空 A)」。F型に近いキャンバスだと思うのだが、いずれにしても、その中に正方形のキャンバスを置き、右はキャンバスを裏返したような桟が左右にあるフォルムを置いている。正方形の空間の中心をあけている。そして、右上方にゼウスという文字と青いたらしこんだ色彩のあるキャンバスを貼り、左には緑のたらしこんだ二つの色面を置く。下方に黒い円弧を置き、SCO、LEO、TWINという文字、つまり蠍座と獅子座と双子座を置く。そして、そのすこし離した右に24という文字。そのそばには、よく写真を撮るときに使う色のグラデーションのようなフォルムをつけている。それはそこと左端と上方にも、計四か所に置かれている。中心の白い部分が大きな深い空間を表すようにつくられている。そこに広がる画家のつくりだした空間が面白い。天空と言ってもよいし、この装置によってつくられた厚みのある無限の空間。そこは白く塗られたキャンバスの色彩のままに輝いているようだ。それと呼応するように右の二つの桟のあいだの白い球。上方はすこし間隔をあけて三つの球が置かれ、その下方のあいだには三つの球が、一つはすこし離れ、二つは近づけて置かれている。そのそろばん玉のような不思議な球のイメージと中心の白い空間とが響き合う。三つの球はまるで禅の公案のような雰囲気である。いずれにしても、画面全体がいわば禅の公案のようになっていて、特別な時間、天空、時間と空間のクロスする画家のつくりだした想像的空間ともいうべきものがあらわれているところが面白い。絵画ならではの時空間の創造と言ってよい。

 嶋田明子「風景─#1 ・#2」。嶋田明子は二点出品で、両方とも緑の樹木がモチーフになっている。「風景─♯1」は、上方に黄色い色彩が点じられて、満月が出て、柔らかな光が注いでいるような雰囲気がある。そこに緑の樹木が立っている。地面の茶褐色の色面に対して、水のようなものがそこにあるようだ。草も茂っている。それに対して「2」のほうは、樹木が横に並んでいる。いちばん手前から若木のようなものが点々と伸びて、背後の草の葉の茂った樹木に行く。手前の植物は、樹木というより、植物の茎が大きく伸びているようなイメージがある。そして上方の赤い、あるいはオレンジの空間。下方の菱形のフォルムが組み合ったような中にオレンジや紫、緑などの色彩が入れられている。柔らかな優しい雰囲気。光が差し込んでいるのだが、光を表現せずに、光が浸透していく対象の固有色を画面に引き寄せる。その固有色の中にさらに工夫をして、画面の中の色彩に昇華させる。それによって深い音楽性といったものが生まれる。真昼の幻想といった趣である。また、樹木が優しく人を癒すように鑑賞者を招く。それに対して「1」のほうは、もっと月の光の中での柔らかな空間で、フォルムは空間に溶解しながら、お互いに滲み合うような雰囲気で鑑賞者に語りかけてくるようだ。

 加藤俊雄「光覆う」。オペラとか舞台からインスパイアされているという。赤い色彩とそれに囲まれて、中心の青い渾沌とした色彩はお互いに不思議なコントラストをなす。パッションが燃え立つなかに運命の水が不思議な正体を表す。様々な運命の水がここに流れこんで、一つの集合的無意識のような世界がそこにあらわれる。そういった演劇的空間を絵画に表現した面白さ。

 前川寿々子「植物のあるコンコース」。床のグレーの色面。天井の茶系の色面に対して、明るいグレーの色面が光のように走っている。あいだに緑の立ち上がる色面。左右に置かれた色面やグレーの色面。そして、三本の柱のような標識のようなグレーやオレンジとベージュ、青、濃紺、グレーなどのフォルム。手前の看板を思わせるような赤と白の二色のフォルム。左のほうには時計を思わせるフォルムが十二時十分ほどの針を示している。赤、橙、黄色、緑、青、柔らかな紫などの色彩が使われて、上品でエレガントなハーモニーがあらわれる。それぞれの色面はヴァルールとして画面に置かれ、それぞれのポジションを表す。たとえば中景の緑の矩形の色面の中に紫や青やグレーの色面が置かれて、それ自体で奥行があらわれる。下方のビリジャン系の緑もそうである。そういった色面によるコンポジションである。以前見たことがあるが、しっかりとしたスケッチがもとになっている。それをもとにしながら、だんだんとそこから昇華した色面の空間をつくる。緑という樹木のもつ深い色彩と人工的なパネルなどのあるコンコースとが不思議な対照を見せる。

 「街路」はかざぐるまのようなフォルムがあって、パースペクティヴに向こうに続いていく道になっている。左右にビルのようなフォルムがあらわれる。上方から逆三角形の緑のフォルムがあらわれている部分などは実に面白く、不思議な計量器のような趣がある。回転する道具のようなフォルムの中には、ピンクや緑、ベージュなどの色彩が使われているのだが、実に繊細で不思議な雰囲気がある。芭蕉にほそみという言葉があるが、洗練の極みといった雰囲気がある。周りの淡い茫漠たる色面の大きな組み合わせが、だんだんと中心に行くにしたがって細かくなり、道の向こうの光と影の空間の向こうに小さな緑の色面、そしてベージュの建物というように向かっていく手前に、二つの不思議な風の門のような回転するような様子のものを画面に置いてあるところが、実に面白く感じられる。

4室

 三浦智子「古に悠う─満月の夜に」。ススキの原に池がある。そこに満月が映っている。水の色彩はずいぶん塗り重ねられている。褐色でもないし、青でもない。紫でもない。まさに夜空の色のような色彩の中にグレーの満月が浮かんでいる。空に浮かんでいる月より、画家にとってはこの池の中の水に映っている満月のほうがつかみやすかったのだろう。満月を引き寄せるためには、水が必要であったという感じがする。土手がすこしオレンジ色に輝いている。この満月はこの池の中に映っているわけだが、同時に画家の心の中にすんでいる満月と重なる。この池は画家の心の内部にある世界と重なる。同時に、歴史というのか、百年、二百年、あるいは千年、二千年と『古事記』の時代から日本人が見てきた満月とも重なるのだろう。画家は自身の記憶と日本人の心の記憶を重ねている。心の井戸を掘ることは、民族の心の過去を掘ることと同じ。その記憶を思い出すことが画家の絵を描くという動機になっているのだろう。

 大和修治「ベニスの風」。グレーの空間の中に風が吹いている。記憶のなかのヴェニスの街や運河。繊細なトーン。ピアニッシモで演奏される風景。純粋なイメージがそこから立ち上がってくる。じっと見ていると、そのグレーのトーンによってつくられるこの空間には、心象的な深い奥行が感じられる。

5室

 坂口紀良「ホルンのあるコートダジューのテラス」。地中海の青い海。小さな白いヨット。近景のベージュのテラスに黄土色のホルンが緑の机の上に置かれている。楽譜が開かれて、モーツァルトという文字が読める。そこは濃い青紫。この青紫の空間が画面全体を引き締める。左右のカーテンのベージュ。そして、青い海の手前の椰子の木のようなフォルムの紫。遠景の山の紫。紫のヴァリエーション。青は手前の影の部分まで続く海と影の青。クリアなフォルムとぼかしたフォルム。逃げていく形に対して、立ち上がっていく形。そんな中に青と紫が不思議なハーモニーをつくる。

 福島唯史「九月  B」。船が浮かんで煙突から煙が出ている。手前で作業する男たち。グレーの空間。青い色面。男たちは白いシルエット。お洒落なコンポジションと色彩のハーモニー。構成主義的な要素。線によってつくられた船。いわば詩のイメージの空間化と言ってよいかもしれない。

6室

 島栄里子「街道の町」。中心に淡い紫色の色彩の教会がある。右のほうの丘の上に立つ教会。だんだんと地面が下がってきて、左上方に伸びていく上にあるもう一つの教会の塔。その先は城壁で囲まれた地面になっている。もこもこと山のような丘のようなフォルムが浮かび上がる。手前の崖。いちばん手前下方の空間は、上方から見下ろす角度から描かれている。建物の屋根と壁。緑の樹木。画家のつくりだしたこの空間には不思議な雰囲気がある。広がりと奥行と、いわば空間の底にあらわれてくるひずみが面白い。ひずみの中に紫に輝くような建物群が中心にほぼX字形に置かれている。それを囲む山や建物や岩はすこし調子が落とされている。はるか上方を見ると地平線があるのだが、それは山の揺れるような際にあらわれている。空にあらわれるすこしの残光。長い千年以上の歳月を過ぎてここにうずくまる集落が、一種異様な表情をたたえながら画面にあらわれた。

 野上邦彦「さあ、あの川を渡りましょう。」。上方にグレーに引かれている川は三途の川だろう。観音開きの画面。中心に老夫婦。両側に杖をついた僧のような形。オレンジ色の空間に黒い衣装を着た四人の人間たち。独特の強い寓意性をもつ作品。

 藤田清孝「樹木と壁 A」。藤田清孝は三点出品である。樹木の三本の幹とその向こうにある水の流れ、そして家を組み合わせたものである。「樹木と壁 A」では、縦長の画面の内部に彩色された風景があり、それを額縁のようにグレーの空間が囲んでいるのだが、樹木の幹はその二つの内部にある空間から外にはみ出ている。それはちょうど現実の空間からはみ出て、過去の時空間に入るようだ。見ていると、後ろにある家にあらわれてくる不思議な世界は、「源氏物語絵巻」の中に描かれている空間のように感じられる。水は現実とその寝殿造の中を流れている水との両方の性質をもつようだ。「B」も、三本の幹がもっと垂直に立ち上がって、右の幹が上に伸びて、空間を超えている。後ろに白い樹木が見え、白によって幻想のように建物が浮かび上がり、やはり不思議な水が流れている。その水はまた空と関係するようだ。時間というもの、現実の時空間を超えて、別の時空間を引き寄せて、その二つを同一の画面に描くことによって、一種霊的な空間を画家はつくろうとするかのようだ。

 髙木英章「薔薇の咲く庭 14」。百合や薔薇が満開である。その花の大きさが変化しながら空間があらわれる。戸外のイングリッシュ・ガーデンといった趣。風景でありながら、画家のもつ独特の遠近感にしたがって構成されたこの風景は、一種静物のような不思議な味わいを醸し出す。

 金子滇「青い炎」。フードをかぶった十五、六の少年。全身像である。そばにトカゲが地面の上にいる。反対側には青い炎が燃えている。青い炎もトカゲも少年のもつ粘着的なエネルギーとハートの寓意的な表現のようだ。暗い闇のような背景の空間。地面と床とがダブルイメージになった茶色い少年の立つ場所。両手をすこし曲げながらぼんやりと立っているこの少年のもつムーヴマンが、実にしっかりと描かれているところが魅力である。そのムーヴマンの力によってトカゲと炎が生きる。

 大見伸「或る休日」。中心に長靴に青いオーバーオールを着た男。左手にホースを持っている。庭仕事をする男。門の周りに薔薇のアーチがつけられている。背後に広葉樹が大きな幹を伸ばしている。青や緑の中に黄色い色面がつくられる。そのあいだに薔薇の花が咲いている。独特の光を引き込んだ表現。線を生かした、装飾的でありながら、奥行のある空間が魅力。

第66回中美展

(10月13日〜10月19日/東京都美術館)

文/高山淳・編集部

1室

 後藤ムツオ「セルリアン・ブルーの景」。画面の中央に青い色面があって、その周囲を黄、白、緑などの色彩が囲んでいる。心象的な要素が強いが、画家の作品の根底には生まれ育った北海道の風景が広がっている。空や大地、雪などはそういった色彩となって画面に現れてくる。それらは淡い透明感を帯びながら、鑑賞者とイメージの交感を行い、作品世界へと誘う。(編集部)

 堀岡正子「刻」。画面全体に強い生命力が満ちている。大きな古木のようなものが画面の中心に立ち上がり、そこから枝や蔓、葉が無数に伸びていっている。茶系の色彩を主に使いながら、そこに淡いグレーの風を吹かせている。その風は樹木を包み込むように旋回し、作品を強く活性化させている。時間というものをキーワードに長く描いてきたが、そこに生命というもう一つの要素を強く意識し、心理的な奥行きを作品にもたらしている。(編集部)

 川喜多和子「彩彩物語」東京都知事賞。赤から朱の色面を大きく画面の中央に置き、その周囲や内部にこまやかに青やベージュ、灰白色の色彩を施している。色彩の扱いは穏やかで、特に暖色系の色彩にやわらかな温もりのようなものを感じる。そういった情感を色彩に込める絵画力に注目した。(編集部)

 神宮司雅章「刻の記憶 2014」。近年浜辺に建つ集落の家並みをモチーフに描いている。今回は色彩がよりクリアになり、上方奥に見える水面の表情が豊かである。キラキラと陽の光に輝きながら表情を変えていくその様子に、臨場感と気持ちのよい感情がある。手触りのあるマチエールによってそれらを支えながら、じっくりと描ききっている。(編集部)

2室

 森信雄「館山波左間へ」。海岸沿いの街並みを遠景に見た風景である。手前から道路がカーヴしながら奥へと伸びていっている。その動きが力強く、画面を活性化させている。その先には山が連なり、家々は海と山に挟まれたところに密集して建っている。その密度と手前の道路のあたりの空間の対比がこの作品の大きな見どころの一つである。クリアな描写と共に、確かな臨場感が鑑賞者の眼前に立ち上がってくる。(編集部)

 加藤賢亮「Nighthawks0102」。エスカレーターの昇りと下りを二枚のパネルにそれぞれ描いている。どちらにもたくさんの老若男女が並んで昇降している。そのそれぞれの人物模様がおもしろい。この画家ならではのデッサン力がものを背後から支えている。どこか平面的な画面の中に、そういった人間性を描き込んだ独特の群像表現として注目した。(編集部)

 奥田豊廣「駅前暮色」文部科学大臣賞。街角の情景をしっとりとした青の色彩でまとめながら描いている。手前から横断歩道が伸び、その先には高いビルが建っている。標識や外灯も伸びているが、それが直線ではなくしかも少し傾いている。そのように他のものも描かれていて、それらが深い味わいを作り出している。そして寒色の中で、外灯の黄と信号機の赤が点々と光っていて、作品にアクセントを与えている。そういった鑑賞者を引き込むポイントを細やかに作り出しながら、画面全体をうまく纏め上げている。(編集部)

 髙谷稔「若芽に託す」損保ジャパン日本興亜美術財団賞。樹木の根元から根の部分に焦点をあてて大きく描いている。うねうねと伸びる根の動きが樹木の生命力を感じさせる。しかし古木なのだろうか、どこか色彩的にもかすむようなところがある。そして画面の中央に小さな緑の新芽が顔を覗かせている。画題にもあるように、次に受け継がれる生命を、この樹木は包み込むようにしているようだ。命の連鎖をシンプルな表現で強くメッセージしてくる。(編集部)

 黒羽根義浩「La Seine」。セーヌ川を左手に見た川沿いの情景。夕暮れ時で、対岸では点々と明かりが灯り、遠景ではその光が集まることでより大きな輝きとなっている。淡々とそういった風景を描きながら、そこに深い叙情的な印象を生み出している。落ち着いた色彩の扱いがそういった心情をより強く鑑賞者に訴えかけてくる。(編集部)

 竹井連「鼓動」。森の奥深く、あるいは細胞の内部で無数の命が生まれつつある。奥に吊されている透明な袋のような中には、たくさんの卵が詰まっている。そこから強い生命の波動のようなものが発信されて、それが光となって画面全体を照らしているようだ。黄から赤の色彩と少しの青を繊細にトーンを変化させながら、独特の視点で生命というものに迫っている。(編集部)

 津久井勝美「早春の香り」準会員推挙。たわわに花を咲かせた梅の木を描いている。まだ雪も降っているような寒さの中で、静かに咲く梅の姿がなんとも艶やかである。やわらかで自然な墨の扱いにも注目した。(編集部)

 羽子岡爾朗「私たち…いま」。朱の色彩をバックに三人の女性が描かれている。座っていたり、寝そべっていたり、立って後ろを向いていたり、そのポーズは様々である。どれも手足が大きく力強く描かれているなど、独特のデフォルメがされているところがおもしろい。それらが背後の朱の色彩と相俟って、現代的でも普遍的でもあるような、女性の存在そのものに迫るリアリティを獲得している。(編集部)

6室

 杉田君子「遥か」郡山賞。ススキがたくさん生えた山が奥へと連なるように続いていく。起伏しながら繊細に表情を変えていくその様子が、実に綿密に描き込まれている。手前左からは一本の道が伸びているのが少し見える。右に折れたところですぐに見えなくなってしまうのだが、それが作品に一つのアクセントを生み出している。シンプルな要素で構成された画面をうまくドラマチックなものに仕立て上げているところに、一つの絵画力を感じさせる。(編集部)

7室

 中島亜弥「猫の天国」郡山賞。画面左に大きく翼を広げた猫、右側にも象にまたがった猫が描かれている。下方の町にも小さくたくさんの猫が描かれている。それらは全て細やかな線で描き込まれている。細部まで入っていきながら、画面全体の大きな躍動感を失っていない。ユニークなイメージ世界とそれを表現できる筆力に注目した。(編集部)

 竹内セイ子「ゆうべみた  夢」。上方に五、六歳の女の子の顔が大きく描かれ、その下に楕円状のフォルムがあらわれている。実に新鮮で、印象の強い画面。その楕円の中に大きな赤やオレンジの金魚が泳いでいる。出目金のような尾をしているが、その頭はなく、中は空洞のものが四つほど泳いでいる。そこには小さな子供たちが赤い服を着て踊っている。元気に踊ったり走ったりしている。ラインダンスを踊っている女の子たちもいる。上方の女の子の首の周りには女性の大人の合唱団がいて、歌を歌っている。女の子の髪につけられたオレンジ色のリボン。背後の赤や緑などの色彩を入れた調子を落とした空間。子供のもつイノセントな生命力をこのように画面の中に表現する。表現しながら、画家自身も一緒に朗々と歌っているような趣である。優れたコンポジションである。色彩とフォルムが見事に結合している。赤い衣装を着た子供たちの中にところどころ青や緑の衣装を着た子供たちがいるのがアクセントになっている。(高山淳) 蠣﨑茂子「遥風(Ⅰ)」。水路を流れる水面を画面に大きく描いている。その揺れ動く水面の様子がおもしろい。中央に大きく動いているところがあり、そこから少しずつ動きが静まって周囲に広がっている。空の青や、レンガの茶、柱の白などを入れつつ丹念にそれを追いながら、全体で豊かな表情を作り出している。(編集部)

 川上比佐子「レクイエム」。大きな満月が空に浮かび、下方は海になっている。海からは小さな泡がいくつも浮かび上がり、蛇行しながら月を取り巻いている。画面全体は銀の色彩で纏められていて、それがどこか神聖な気配を作品に引き寄せている。じっくりと作品に向き合いながら、自身のイメージの世界を鑑賞者に語りかけるように描き上げている。(編集部)

8室

 西川敬一「変幻湧水考 '14」。画面の中央上部に金色に輝く部分があって、その周囲には茶や灰白色の色彩が漂っている。作品の前に立って眺めていると、画面が徐々に変化していくような感覚に陥る。上方から見た水面、あるいは宇宙空間、心の内面。そういった様々な要素を含みながら、深い奥行きを持った世界として描き出しているようだ。いずれにせよ、マチエールで抑揚を付けながら、深く瞑想するような精神的な奥行きが鑑賞者の心を惹き付ける。(編集部)

 山本好子「四年目の春(除染)」。東日本大震災後の原発問題をテーマにしている。大きな鞄をいくつも手前から奥へと並べていき、それを立体的に造り上げている。そのリズム感もよいと思う。平面作品でありながら、ここまで造形的に造り込むところが潔くもあるし、より強いメッセージを発信してくる。(編集部)

10室

 醍醐色「Compilation」会員推挙。一人の少女をとりまく色彩鮮やかな世界観が展開されている。自身の好むもの、愛するものを選別しながら一つの本に纏めていくその過程を、独特の色彩感覚で表現しているところが特におもしろい。(編集部)

11室

 大塚晶子「明日は」。朱の色彩を背景にして、シルエットになったいくつもの樹木が描かれている。樹木は直立するのではなく、画面の中央に空間を空けるように斜めに描かれている。そして下方や右上方には緑の色面が、ちょうど風が吹くように大きく施されている。強い動きが画面に生み出されているにもかかわらず、どこか落ち着いたような気配がある。地平線に沈んだ夕陽を思いつつ、明日に対する希望や不安の入り交じった感情が交差するように引き寄せられているようで興味深い。(編集部)

 山神陽「未来都市建設。」。一人の女性が大きく描かれていて、その背後には上から眺めるように都市の風景が広がっている。遠景には海が見える。この画家特有の金の色彩が随所に施されている。そこには歴史や神話に対するロマンといったものが仮託され、浮かび上がってくる。力強いフォルムもまた、そのイメージに説得力を持たせている。(編集部)

13室

 諸星すみ子「あるがままに」。画面にたくさんの猫が描かれている。歩いていたり、座っていたり、それぞれの様子がどれもユニークで愛らしい。自身が描きたいものをこれでもかと描ききっているところに、作品としてのイメージの強さを感じる。(編集部)

第36回一創会展

(10月13日〜10月19日/東京都美術館)

文/編集部

1室

 上野光子「街並み(ネルトリンゲン) Ⅰ」。街並みを小高い位置から眺めた情景である。屋根の朱色が陽の光によって少しずつ変化しながら奥へと続いて行っている。その様子がリズミカルで、どこか陽気な歌が流れているようなイメージを感じさせる。遠景には森や山が落ち着いた緑の色彩を見せている。見ていて気持ちのよい風景画として注目した。

 鮎貝周三「夕日」。水平線に沈もうとする太陽を小さく描き、その周囲は淡い水色で纏められている。その中に赤の色彩がすっと入れられていて、太陽の黄色と共に、うまく画面に馴染んでいる。静かな気配の中で、豊かな情感を作品に引き寄せている。

 今村昭寛「オンフルール港(フランス)」。水面を手前に大きく取り、その向こうには建物が建っている。建物はその姿を水面に静かに映している。じっくりと絵具を置きながら、落ち着いた雰囲気を作り出している。水面や空の表情など、色彩感覚の良さも感じさせる。

 佐野久子「ドブロヴニク」。船着き場の情景をクリアに描き出している。建物や船、パラソルなどをしっかりと描き分けながら、画面全体を安定した構図で纏め上げながら、街の賑わいをしっかりと表現し描ききっている。

2室

 狩野裕子「晩秋 Ⅱ」。画面の手前に裸婦が座っている。その眼前には強い風が吹く風景が広がっている。寂しくもあり恐ろしくもある情景である。カラスや鷺が飛び、画面全体でどこか鑑賞者を不安にさせるところがおもしろい。女性のやせたフォルムや樹木の風になびくようすなど、独特の描写で鑑賞者の記憶に強く残る作品となっている。

第38回大翔展

(10月13日〜10月19日/東京都美術館)

文/編集部

1室

 原口美代子「雪の館」。館は画面の左側にあるが、最前面の木が画面を分割していることで構図の中心となっている。木はただ館を際立たせるだけでなく、赤や黄色、紫色の葉によって作品の色彩を豊かにしている。雪は影に紫を加えられることで量感が増している。

 加藤祥子「今訪れる人無く」。辺境の教会を描いているようである。ペンによって緻密に描き込んで、石壁から植物まで様々な対象の質感を自在に表現する。前景の木が左に向かって伸びているため視線は遠景の教会に向く。教会が濃くシャープに描かれることで、作品に奥行きが出ている。人が訪れない場所だろうか。リアルなディティールと空間の奥行きに注目した。

第82回独立展

(10月15日〜10月27日/国立新美術館)

文/高山淳

1階─1室

 松村浩之「時を待つ」。三人の巨人たちが石畳の上に腰を下ろしている。背後は赤褐色で、錆びた扉のようだ。三人の人間たちが静かに息をしていて、阿吽という言葉があるが、阿吽の群像のような面白さがある。

 山本雄三「上海 Love Story」。上海の家族を描いている。上方に上海駅という文字が見える。中国の国旗を背景にして、二人の子供と母親と父親。それを紙の上に描くといったコンディションの中に表現している。紙の周囲は焼かれているから、なにか事件があったのかもしれない。左のほうに少年の像が見えるが、上からバッテンがされている。焼かれた紙に描かれた上海の家族。事件とドラマ性を感じさせる。絵の中の絵といったトロンプルイユ的なところもあって、面白い。

 奥谷太一「旅」。十三人の群像である。老若男女と言ってよい。左側に本人自身も入っている。下のほうを見ると、フェアに来た人々なのだろうか。地図を見ている。ダウンのコートなどを着ているから、冬なのだろう。背後のグレーのしーんとしたバックの広がりが独特である。その無地のグレーの様子には浮世絵の雲母刷のようなイメージもあるのかもしれない。すこし調子を落としながら、全体の大きな塊を捉えている。この作品の面白さは、個々の顔の面白さ以上に、全体のマッスとしての塊の空間の中に位置する大きさだと思う。その大きな空間を構成する個々の人々の中には、画家の想像力は本当には入っていないと思う。その集合体としての面白さを造形的に表現しているところに注目した。

 齋藤将「@はなさくもりのなか」。お父さんグマと子グマが二頭出没、注意、ウォーニングなどの文字があって、後ろの木にはウサギやペンギンなどがいる。ロボットもいるし、女の子もいる。森の童話と言ってよい。独特の温かな雰囲気で構成されている。キャラクタライズすることの造形的面白さと言ってよいかもしれない。

 額田晃作「キビッシュの人達」。エチオピアの現地の人々をテーマにして描いてきた。今回はそのファミリーや親子の群像である。独特のお互いの動きのリズムのなかに統合されている。左のほうには長い槍を持っている男。右のほうには子牛をもった母親。その両端のフォルムのあいだに男女が置かれて、独特の伸びやかな動きがあらわれる。背景の黄土色の上に褐色の肌がシルエットのように表現される。上方のブッシュのような植物の力。全体で動きのある二十人近い人間たちと動物との連携のなかに、生命のもつ力が静かに引き出される。

 木津文哉「緑の柵」。緑の柵はペンキが剝げてきて、内側の赤茶色の色が出てきている。鉄条網がその上に張られているが、それも錆びている。その背後は窓になっている。廃棄された廃屋の一部だろう。上方を見ると、醤油、缶詰、清酒、ビールという文字があって、赤いマークが置かれているが、その板の上に塗られたペンキもはげかかっている。酒屋さんの窓を描いたものだが、数十年の時間のあいだに廃屋になったその過程が、この絵によってわかる。時間の積み重ねをここに描いている。その時間の積み重ねの中から音楽が聞こえてくるようなところがこの作品の面白さである。徹底的に物質化したマチエールによる表現にもかかわらず、その時間の層の中から華やいだようなメロディが聞こえてくるように感じられるところが面白い。

 本田希枝「アダムとイヴの道」。赤いバックに人間の首やシルエットの全身像などが浮遊して、船のようなものの上にのっていたりする。十字架が傾いている。どちらがアダムかイヴかわからないが、いずれにしても、アダムとイヴは人類最初の人であり、楽園を追われて、聖書によると、そこから人間の歴史が始まったわけだから、人間の歴史という意味に解釈してよいのではないか。そのあいだにキリストのはりつけのこともあって、現代は渾沌とした中に人々は孤立化して不安に生きている。そんなイメージを淡々と描く。背後の朱色は人間の苦悩の炎のように感じられる。

 今井信吾「森……林太郎の」。樹木の中に、林太郎が小さい時から少年になるまでのフォルムが遊んだり動いたりしている。優れたデッサンによる仕事である。フォルムがお互いに関連しながら、振動するような力がある。

 大津英敏「少年時代・2014」。これまでパリのセーヌ川を描いてきたから、今回もそうなのだろうか。しかし、見ていると日本の風景のようにも思える。いずれにしても、下方に橋があり、川が流れている。空は赤く染められている。夕日の色彩のように思う。太陽が橋の向こうにいま沈もうとしている。その赤をバックにして、少年が立って宙に浮いている。画家の子供だと思う。強いノスタルジックなイメージの中に浮かび上がる少年の像は、時間が止まったような雰囲気がある。流れていく時間を止めて、少年のイコンをここに表現したと考えると、面白い。

 齋藤研「野の花」。右下に「タイトル 野の花 マタイによる福音書6章25節〜34節から」とある。下方のテーブルに野の花や落ち葉などが置かれているが、上方は、たとえば大宮あたりの新幹線を中心とした街並み、くわえてハイウェイが通っている様子をダイナミックに表現している。線によって描いているためにより密度があらわれ、鑑賞者がその中に入り込んで語り合う関係が生まれている。あまり再現的に描かれるとはじかれるのだが、線による表現が逆に強いシンパシーを、絵と会話できる力を、そのような内容をこの絵に獲得させている。これまでの作品の中で、とくにその意味での工夫が面白いと思う。そして、高速道路にしても、街にしても、独特のパワーをもってエネルギッシュなかたちで集合しながら、膨れ上がるように鑑賞者に迫ってくる。野の花は、宝石より美しいという言葉が聖書にあるが、この建物群もまた野の花という内容でここに描かれているに違いない。

 平岡靖弘「僕はみている。Ⅱ」。焦茶色の床に明るいライトレッドのような上方の空間。椅子に座った少年は白い顔をして、足も白く、上方の母親も顔が白い。なにか霊的な雰囲気が漂う。後ろにそのシャドーのような影があらわれ、左のほうにも横顔があらわれている。右のほうにも白い顔の不思議な人物。その中に動いていく星の軌道のような動き。少年は何を見ているのだろうか。現実に見えないものを霊視しているような、不思議な味わいが感じられる。霊視の中の世界を絵の上に表現すると、このようなコンポジションになるだろうか。

 金子亨「岡の上の休息」。六人の女性たち。五人は座っているが、右からだんだんと高さが上がっていって、右から四人目は立て膝をしている。音階ふうに女性たちを配している。そして、座っている女性たちのあいだに、右から二人目の女性の膝に頭を置いている女性が横になって、それを連結している。花柄の洋服を着ていて、それぞれの花が違う。その花の名前によって女性たちの名前をつけてよいのかもしれない。背後は焦茶色と黄土色で、暗い空間の中に光が横から渡り、なにか蠢くような強い動きがあらわれている。いずれにしても、女性讃歌というスタンスで構成した審美性の高い作品である。

 乙丸哲延「ブイヨン」。ベルギー南東部のワロン地方の小さな村である。共同体としてのコミューンをつくっているという。大きなお城は中世の頃にできたのだろうか。城壁と銃眼が見える。斜面に草が生えて、白い花が咲いている。そこに立っている兵士と思われる彫刻が力強い。十字軍の頃のイメージがそこにあらわれていると思う。歴史がそのままこの城壁や銅像にあらわれているような街を選んで、画家は独特の明暗のコントラストの中に表現した。城壁の向こうから雲が立ち上がっているのが息のような雰囲気で、中世のお城があるいはこの町が息づいているかのような雰囲気である。

 高松和樹「何ダカ意味ガ解ラナイ事ノ為ニ。」。ガラスでつくったお人形さんのようなイメージ。女性は膝に顔をくっつけて座っている。頭には花模様の飾りがある。下方には波を思わせるようなフォルムが繰り返されて、ガラスの板の上に乗っているような雰囲気。そばにマシンガンのようなもののフォルムがある。それらがすべてガラス細工のように表現されて、一種危険でありながら甘美な雰囲気を漂わせる。柔らかな光が当たり、不思議な明暗をつくる。

 木村小百合「どこから?」。オートバイの部品をバックにして、二人の青年が旋回している。まるでゴルゴ13のような頭をして、しっかりとした目つきの逞しい男が旋回している。その遠近感のあるディテールの力によって独特の生命感があらわれる。手前は大きく拡大され、遠いところは小さく。そんな二人の男性がメカの周りを回転しながら浮遊している。そこに画家の独特の美意識が感じられて、面白く思う。モノクロームが、ある意味で色彩以上に、この男性のエネルギーといったものを表現する。

 目黒礼子「聖域」。円筒形のガラスの中に本や様々な標本、爬虫類や蝶もある。あるいは、眼を検査するためのレンズもある。そういったものの中心に人間の骨格模型があって、それが立って両手を伸ばしている。不思議な印象である。聖域という意味はわからないけれども、画家のイメージは一人の人間のボディをつくるより、この骨格標本をつくるほうによりイメージが活性化しているようだ。そして、この骨格標本は標本であることをやめて、この円筒形のガラスを壊して新しく動こうとしているかのようだ。現代の閉塞された人間空間、社会。画家は骨格標本をそのようなイメージの中に引き寄せた。次の展開がどうなるのか楽しみである。

1階─2室

 斎藤吾朗「富士に寿ぐ」。上方に富士山。下方に富士山頂奥の宮という鳥居がある。下方に神主さんたち。周りにはこの地に関連する歴史的人物など。榎本武揚、山田長政、山岡鉄舟、広瀬武夫、徳川慶喜などの肖像さえもあらわれてくる。いわば富士を中心とした静岡あたりの歴史的登場人物を入れながら、富士の上には龍が人を乗せてあらわれているような、独特の面白さである。風俗、歴史を組み込みながら、いわば富士を中心とした日本人の記憶を結集したような表現で、赤い色彩がそれを支えて生き生きとした表情をつくる。

 向井隆豊「Flag・the times」。上方に青をバックに黄土の旗や黄色い旗、あるいは赤い旗などが靡いている。下方に人間の横顔が三体ほどある。ボックスの中に入っている横顔もある。独特のスピリチュアルな表現だと思う。対象の物質感というより、スピリチュアルな力を画面の中に引き出して、それをどう表現するかを工夫している。旗と人間とがお互いに呼応しながら、ある普遍的な人間精神というものを表現する。

 松原潤「負の祭壇~灯火」。イヴニングドレス姿の女性が蠟燭に手を差し伸べている。それは回廊で、向こうは庭で、庭の向こうには教会があって、ドームの上に十字架がある。左上方には聖母子像が置かれ、そこから光を発している。鎮魂のイメージがしぜんと画面から伝わってくるが、キリスト教的な世界、ヨーロッパの歴史的な建造物などを引き寄せながら、独特の空間の奥行と深い感情を表現する。

 田中茂「蛍」。浴衣姿の女の子が前景に立っている。胸のあたりに蛍が光っている。後ろは断崖のある丘のようなフォルムで、上方に樹木がある。後ろにも植物が密集していて、点々と蛍が光っている。その奥深い森のような自然のもつ息吹、気配が引き寄せられているところが面白く、それによって、この浴衣姿の若い女性もまた不思議なミステリアスな存在となる。そんな様子を蛍が照らしているという、独特のロマンティックなイメージである。

 梅野顕司「風景」。ほとんど抽象的な風景で、フォルムとフォルムが溶解し、色彩となって静かに輝いている。もともと、画家自身独特の色彩家である。建物が左右につながりながら、オレンジや黄色、ピンク、茶色などの色彩によって染められて、手前の水にそれが映っている様子で、温かで親密な、しかもポエティックな空間が生まれる。

 安達時彦「倖〈蓮〉」。女性の面をつけて踊るシテ。緑の柔らかな衣装。背後に白い銀河のようなフォルムが大きく渡っている。もののもつ幽玄の気配をよく表現する。

 馬越陽子「人間の大河―天体の動きと共に・絆―」。下方には、コバルトの深い空の空間に三日月が出ている。そこで何か黙々と動作をしている霊的な人がいる。その上にいま朝日のヴェールが下りてきた。朝が始まりつつある。太陽が左上方に現れた。夜明けの光というものはイノセントな雰囲気で、そのような光がある質量をもって表現されている、という言葉を使いたくなるように、そこに光が表現されている。その両側に五人の人間がいる。いちばん右側の人間は大きく、太陽に手を染められて、朝日を象徴する人間のようだ。それに対する、まだ月の光をまとっているような人がいる。面白いのは、右の場合には後ろに一人、左の場合には二人の人間の顔があることだ。それは亡くなった人の顔のような雰囲気で、シャドーのようにあらわれている。「絆」という題名のように、画家にとっては死んだ人も生きている人も等価値のなかに存在する。死んだ人も引き寄せられ、生きた人と同じように朝日の中にあらわれ語り合うといった、深いイメージが上方の空間のなかにあらわれている。そのイメージが、光の不思議な質量のある存在と述べたような、独特の空間の光のリアリティをつくる。その意味では、夜明けのイメージとして実にミスティックな強い深いイメージだと思う。

 石井武夫「まつりの宵」。遠景に数千人の人が集まっている。赤い色彩の中にそれらの人々はぎっしりと集合している。そんな中にジョーカーの様子をした女性が笑いながらあらわれて、両手のあいだに黄金色の球体を持っている。手前にはカーニバルのように仮面をつけた男女やピエロたちがあらわれている。面白いのは、その大群衆を眺めている二体のダミーである。左の上には、翼をもったダミーがその人間たちのほうを眺めているのだが、目はつぶって音を聴いているようだ。右下にはもっと大きなダミーがやはり瞑目しながら、この大群衆の守り役のような雰囲気であらわれている。左のダミーとジョーカーのあいだに裸の女性が立っている。その後ろには裾がずいぶん長い霊的な人が立っている。その向こうには海がのぞく。画家は娘を五歳の時に亡くした。その娘にたくさんのチューブがつけられている姿を見て、ダミーというイメージが生まれた。それから数十年の歳月がたつわけだが、画家の中でそのダミーは成長してきた。成長して、このように大群衆を守る存在、黙ってその心を聴いているようなイメージがあらわれてきたと思う。また、あいだにあらわれたこの裸の女性は、おそらく画家にその後生まれた娘たちのイメージがここにあらわれたものと思う。仮装と言ったが、ヴェニスふうな仮装だけではなく、日本のお稲荷さん、狐のお面をかぶった人もいるし、鬼のお面をかぶった人もいるし、南米ふうなお面の人もいる。世界中の人々がここに集合し、祭りをこれから始めようとする序章のイメージが、赤い色彩を中心として、堂々と合唱するように表現されている。

 入江一子「神々の樂園(バリ島ウブド)」。中心に階段があって、上っていくと塔がある。手前からいくつも丈の高い葉が伸びていて、その向こうに女性たちがいる。頭の上に花を持っている人もいるし、お盆を抱えている人もいる。妙なる不思議な音楽が鳴っている。メロディに沿って葉も揺れ、人々も動いていく。上方から黄色い光がカーヴしながら下りてくる。ウブドのもつ気配。神々の楽園と呼ばれる場所の不思議な気配を、画家独特の構成により表現する。画家の体の中にある音楽性ともいうべきものが十全に画面に引き出されているところが強みである。

 絹谷幸二「不動明王・阿吽」。中心につるぎを持ち、左手には錫杖を持った不動明王が邪鬼の上に足を置いて立っている。背後の火炎が画面全体を覆っている。その火炎につれて、左右の阿吽の童子とは別に、向かって左には龍、向かって右には獅子があらわれていて、この不動明王の力をより拡大し、象徴するようだ。青い炎、赤い炎の下には黄色い炎や黄土色の炎、緑の炎もあらわれて、激しく燃え上がる、強いエネルギーに満ちた空間をつくる。

 奥谷博「ちゃまですよ」。十二歳ぐらいの少女のようだ。ちょうど中学校一年生くらいの雰囲気の女性の顔とそのほぼ全身像。かわいい。右のほうには大きく胸像ふうにその様子が拡大されている。二重の大きな目。すこしぽっちゃりとした唇。あまり高くない鼻だが、かわいいかたちで中心におさまっている。柔らかな眉毛。頭の髪は黒く豊富で、やはり柔らかな雰囲気。少女が女性になった頃の、あの渾沌としたあやしい雰囲気がよくあらわれている。画家の目は、単にかわいいということでは済まされず、十二、三歳の女の子の内部までも浸透するように認識している。ほとんど無意識かもしれないが、そういった怖さのあるところがこの作品の絵画性というか、魅力と言っていいのではないか。向かって左のほうには、手摺りに肱を置いて遠くを眺めて、すこし笑っているおしゃまな感じの姿があらわれる。ほとんど無意識のうちに相手を認識して、相手と交渉し、引き寄せる力を天然にもっている少女の姿である。社交というものが本質的に身に備わっているのが女性と言ってよいのかもしれない。夏目漱石はそのような女性をコケットリーということで『三四郎』の中に書いているし、死ぬまで漱石を悩ませた女性のもつ力だと思うのだが、そういった様子がこの年頃にすでに十全に備わっているように描かれているところが実に面白いと思う。また、柔らかな体つきである。そのカーヴする柔らかなしなるような体つき自体がまた女性的だし、エロスというものを感じさせるし、やがて二十歳頃になると、独特の美しい魅力のある女になるに違いない。そういった感想さえも作品から感じることができる。背後は緑の扉とかテラスになっているのだが、その緑のもつ海のような独特の深いトーンもまた、この「ちゃまですよ」という少女の背景としてふさわしい。

 桜井寛「捨てた村」。建物の上部の様子は黒々として、そこにすこし光が当たっている。地平線のあたりに小高い山があるようだ。人がいなくなった村の建物や、その周りの雰囲気を、ふかぶかとした黒のトーンの中に表現する。画家にとって黒というのはきわめて重要な色彩だと思う。それはベッドの上に腰掛ける女性もそうであるし、黒を置くと、なにか安心するものがあるに違いない。すべての時間を吸収する黒の力が画面に引き出されているところが面白い。

 福島瑞穂「Chaos」。十字架にかけられているのはキリストなのだろうか。裸で、青黒い体をした男性である。その向かって右には吊るされた裸の女がいる。妊娠している。臨月が近い。女性器が赤く輝いている。その横には出産している様子が描かれている。女性器からへその緒が伸びて、いま現れてきた子供。向かって左には女の上にまたがっている男。セックスの最中である。その下方には、四人の生まれたばかりの子供が描かれて、宙に浮かんでいる。中心の磔刑されている男はずいぶん怒っているような雰囲気。たとえばこれがキリストであるとすれば、キリストは観念というものの塊と言ってよい。絶対的な観念、インカーネーションとしての存在である。それに対して地上的な女性は全くそれに対して無頓着である。非観念と言ってもよいし現実そのものと言ってもよいなかに、女性は行動して子供を生んでいる。キリストと一緒にはりつけにあったのは二人の盗賊であったといわれているが、作者はむしろ女性を吊るしたほうがいいといったような、苦い雰囲気でそれを描いている。男性が観念というものの代表で、その観念によって体が青黒くなって、女性に弄ばれているようなイメージ。つまり、現実に弄ばれて、観念は現実に負けざるをえない。だから中心の観念の象徴であるキリストは激しい怒りのなかにいる。そんなことが、この「Chaos」という題名で画家の描いたことなのである。下方に青い空がのぞいている様子が、なにか不思議な空虚な透明な味わいで、独特である。上方のドラマの背景は錆びたような茶色っぽいあるいはオレンジ色っぽい色彩で、いわば劫火の中に進むドラマといった雰囲気である。それに対して下方の、あらゆるドラマの果てにある、あのリア王が荒野の中で激しく罵った上方に浮かぶあの青い空のような雰囲気が左右に広がっているところが、深い味わいを醸しだす。

 金森良泰「唐招提寺」。唐招提寺の阿弥陀如来と千手観音などが柱の向こうにのぞいている様子を描いている。鑑真が開いた唐招提寺の独特の力とピュアな雰囲気をよく表現している。柱が前後しながら奥行を出して、柱のあいだにのぞくこんじきの仏が静かに輝く様子は、そのまま精神の実在を証明するかのごとき力がある。それをフレスコの技法によってしっくりと壁画的に、シンプルに力強く表現している。

1階─3室

 佐々木里加「HYPER BRAIN CYBERNETICS」。世界中がウェブでつながっている。そこには無数のサーバーがある。グーグルはもっと巨大なサーバーをつくろうとして、世界中の優秀な人材を集めているそうだ。そんな現代社会のハイパーブレインの世界をダイナミックに視覚化する。CGによる表現の下方に、レリーフ状の銀色のサイバーブレインが置かれていて、二つが相まって独特の奥行と広がりを表現する。

 瀬島匠「RUNNER 2014」。矩形のずっしりとした倉庫のような重量感のある建物が、海の中にあらわれている。向こうから波が寄せてくる。背後の空はどんどん雲が動いていく様子で、そこは鉛筆によるハッチングで表現されている。そういえば、画家はパリでセーヌ川沿いの建物を修復する仕事を以前してきたと思う。そんな経験も影響しているのだろう。海の中にわだかまるように立つ建物と空。変化するものの中に、変化しない建物。黒い塊は、変化するものの中に動かない画家の魂の象徴のようだ。その建物の上にRUNNERという白い文字が描かれている。過ぎていく日々のなかに絵を描くこと。その意味を尋ねることを、その存在を描こうとしているかのような雰囲気である。過ぎていく時間のなかに、なにか形のあるものをつくって、それをモニュマンとして残したいといった、そんな強い欲求がそのままこの絵の中に投影されているように思われる。

 森京子「悲しみは小さくちぎって」。詩人が絵を描くと、このような世界を描くのだろうか。建物の前に胴体がつながって左右に頭をもつ牛がいる。その牛の背中から少女の上半身が現れている。下方の道からオールを持っている少年が顔を出している。建物の下方は扉のようなショーウインドーのようなかたちになっていて、上方に窓があるのだが、そこに男性や女性やヤギの顔がのぞく。道を象を連れて歩く女性がいる。右のほうには五人ほど乗った車が進んでいる。柔らかなグレーに黄色の入った色彩によって、内界に起きる様々なことを具象化し、すべてがある象徴的な内容を伴ってあらわれてくる。牛や象は、画家にとって優しいイメージを支える同伴者のような意味合いらしい。扉があいたところから象の顔が浮かび、鼻先で踊っている女性がいるように。牛の背中から浮かび上がった女の子は、頭が取られて、人形の頭のように上方にだんだん小さくなって、それを梯子に乗った男が抱えている。人間の繊細な感情、合理的に説明できない様々な思惑や希望や悲しみなどを、牛たちが支える。全体から、音楽でいえば和音のように、あるいはメロディのように鳴ってくるものがある。

 吉田宏太郎「春の夢(Pendulum)」。横になった女性。金髪。それに対して垂直に立ち上がる男性のフォルム。大きな花が咲いている。花の下に仰向けになって浮遊している女性がいる。下方からも花が伸びている。春の柔らかな浮き浮きする気持ちのなかに浮遊する人々があらわれ、その人々はまた樹木であったり植物でもあったりするような雰囲気で、そこに花が引き寄せられる。独特の色彩家で、緑やピンク、黄色などの色彩のハーモニーと浮遊する動きとが柔らかなファンタジーをつくる。

 久我修「イツカ キタミチ ミタキカ ツイ」。空中に黒い金魚や赤い金魚が浮いている。そこに子供たちも浮いている。目をつぶっていて、夢遊病者のような存在として子供たちが空中を遊泳している。下方には街並みらしきものが見える。これは吉夢か悪夢か。渾沌とした中に希望の光があるようだし、あるいは恐ろしい世界に全員が連れていかれるような不安感もある。斜光線が当たって、その斜光線が照らしているあたりの様子を見ると、その中にやはり希望があり、その希望の渾沌とした姿を表現しているように考えられる。

 吉武研司「八百万の神々―元始女性は海であった」。左上方に胎児のフォルムが見える。へその緒がつながっている。そこは子宮の中での働きだが、この楕円形のフォルム全体が子宮を象徴するようだ。そして、それはまた海でもある。羊水という海と地球の最初の生き物を生み出した海のイメージが重なって、独特の強い、渾沌としたエネルギーをつくりだす。

 山田修市「追憶」。デッサン家である。画面のすこし下方に楕円状の芝生のあるような空間があり、そこから樹木が立ち上がっている。その前に籠を持って上方を眺める女性。犬が同伴者として走っている。上方には樹木の緑とあいだに見える家の屋根などが描かれている。マティスを思わせるような色面による空間。ただ、画家は視点を大事にする。だれがどこから眺めているのか、女性を眺める視点、上方の樹木の葉のあたりを眺める視点というように、視点がはっきりと画面から感じられるところが独特のリアリティをつくる。一つの真実感であると思う。それぞれの色彩が静かにハーモナイズし、見る人を幸せな気持ちに誘いこむ。

1階─4室

 大塚恵美「生命(いのち)の不思議」。受精卵がだんだんと分裂していって人間の形をなす。そういった現在進行形の細胞の増殖していく働きを表現する。顕微鏡でそのようなものを眺めるチャンスのある画家は、そこから繰り返しそのような細胞レベルでの生命の不思議な働きを表現する。下方には、赤く発光するような細胞とそのあいだの緑の細胞、周りのグレーの細胞、上方のベンガラの細胞。それぞれがまるで世界地図のように陣取り合戦をしながら動いていく、生命の有機的な働きを生き生きと表現する。

 堀井克代「祈願は露」。不思議な抽象作品で、強いエネルギーを感じる。中心に白と黒の市松の模様があり、それは上方の左のほうにも動いていく。その中に褐色系の色彩の線が入っている。両側には緑や青、紫などの抽象的なフォルムがあって、膨張しながら左右にはみ出ていくといった動きが感じられる。横長の画面のその背後は灰白色で、周辺がベンガラ色に塗られている。神仏習合の日本の空間の中で、深い祈りのエネルギー。それによって空間が膨れ上がって、動いていく。そんなイメージをこの作品から感じることができる。その背後にはまた日本の装飾的な文様のもつ力に対する画家の認識もあるに違いない。

 岡田忠明「淤能碁呂―1491」。淤能碁呂とは、『古事記』の中でイザナギとイザナミが渾沌とした海を搔き回し、垂れたものが淡路島になったり日本の島になったという国生みの伝説。下方に、その垂れたフォルムが八つほどの不定型のフォルムであらわれている。しっとりとした黒の表現。その背後のたらしこみふうな横長のフォルム。上方の無限な空間を思わせるようなベージュの輝くような空。その輝くような空はイノセントで、世界の最初の空。国生みの働きが下方に始まるといった元型的なイメージを、強いコントラストの中に表現する。トーンのもつ奥行ともいうべき力を十全に使う。

1階─5室

 木村富秋「光降る午後」。独特の色彩家である。白い地面から立ち上がる人体。黒くシャドーのようにシルエットふうに描かれている。足の先はうずもれている。青い空。そこに代赭色、ベネチアンレッド、ビリジャン、明るいビリジャン、黄土、グレーなどの色面が跳躍している。秋の空に跳躍するイメージのなかに、人間がひとがたとしてあらわれた。そこに光があふれる。

 田井淳「星合いの浜」。海の上方は銀河などが集まって、いっぱいの星である。その星の様子を見ていると、星が生まれつつあるような、そんな不思議な雰囲気である。そこに三日月が浮かんでいる。海のこちらの洞窟の中に抱き合っている男女がいる。黄金色に表現されている。右のほうの波打ち際には男女が乗ってきたと思われる船が一艘浮かんでいる。ユングの学説によると、男女というかたちで分離した性が、合体すると動かなくなるという。それを神秘の結合とユングは述べているが、そういったユング的な神秘の結合が左のほうで起きている。それによって自然はすべての命をはらむような存在と化して、無数の星がまたたきながら、自然全体が妊娠して生成しつつあるような不思議な様相を呈し、自然が緑色に光り始める。そういった形容ができるかもしれない。独特の強いヴィジョンの表現である。

 田端優「麗裕大観音菩薩」。大観音菩薩を見ていると、これはみな女性たちだと思う。その女性たちが集合して、あやしい不思議なエネルギーを発する。母であり恋人であり娘であるといった、そんな女性たちが仏の姿をしてお迎えに来ているといったような、画家のつくりだしたオリジナルな独特の強い仏画的表現に注目した。

 張忠儀「コスモスの下 2014」。手足が空洞の、人間のようなヒヒのような生き物が三つあって、その顔はいくつもの顔が重なっている。三体の前に矩形のフォルムがあって、そこに朱色に爆発しているものがある。自然は火でできていると言うギリシャの哲人がいるが、生成してやまないそんなヴィジョンを内側から捉えようとするところからあらわれてきたフォルムだと思う。空間のもつ密度が独特の気配と色彩を表す。

 前畑省三「いのちの誕生 Ⅱ」。海の底の生成していく力を、実にダイナミックに繊細に表現している。赤い樹木のようなフォルムが両側にあるのは、珊瑚だろう。そのあいだの下方にソフトコーラルという珊瑚が、まるで曲面を組み合わせた不思議な謎のようなフォルムであらわれている。そばに黄色い魚が泳いでいる。下方の小さなつぶつぶ。葡萄の房のような紫や緑、赤などのフォルムは何を表すのだろうか。その上方にうねうねとした海草のような無数の触手をもつものが動いている。そんな中からギンポがキョロンとした生まれたばかりの顔をのぞかせている。上方の赤い珊瑚のあいだにも魚が泳いでいて、その奥行は深い。上方を見ると、光が水面から下りてきていて、入道雲のような雲が空に浮かんでいるようだ。鹿児島にアトリエを持ち、奄美大島、琉球などの南の島の習俗や宗教などを研究してきた画家である。海のもつ生命力、海のもつ生む力を、この青い深い奥行のある空間の中に表現した。その中にあらわれてくる生き物たちの黄色や緑、朱色などの色彩が、実に深い味わいをもって表現されている。

1階─6室

 輪島進一「フェローチェ」。フェローチェとは音楽用語で、野性的に激しくという意味である。バイオリンを弾く演奏家の姿。そして、その弓の表情が動きに沿って何重にも描かれる。上方には、その顎にバイオリンを当てて演奏する顔の変化もまた繰り返し連続するように表現されている。左から激しいシャワーのような光がこの人間に当たって、飛び散っている。インスピレーションのイメージだろうか。ドローイングを徹底することによって、ものの連続したフォルムを追いかけながら、不思議なイメージをつくりだした。音楽家がテーマとなって、ドローイングが繰り返されるうちに、このようなコンポジションが浮かんだのだろう。それほど音楽家の、たとえばヴァイオリニストの体の動きというものは繊細で微妙で魅力的なものであるに違いない。

 田伏勉「サイロのある駅」。紙の上に水彩あるいはパステルなどで表現している。巨大なサイロの前に三人の男たち。左のほうには線路が通っている。右のほうにはサイロのある街並み。そして、男たちの横にミケランジェロのピエタ像のようなものが浮かび上がっている。イタリアのある駅のシーンなのだろうか。映画のワンシーンを思わせるようなドキュメンタリー的な手法で群像や風景を表現する。

 原田丕「untitled 2014-B」。袋のようなものが破れて、中から内臓のようなものがあらわになって出てきている。そこからリンパ系の漿液のようなものが垂れてきている。そんな不思議な情景である。点々と黄色い染みがグレーのバックについている。また、外側の皮膚のようなグレーの光っている部分は何なのだろうか。その光は下方の地面の上にも輝いて置かれている。何かの崩壊というものを黙って眺める視線。崩壊の中に、禍々しいものだけでなく、ポジティヴなものもあるということになるのだろうか。独特の観念的なものをテーマとした作品である。

 伊藤清和「閃光 Ⅱ」。金のバックの上に鶏が蹴爪を立てて跳躍している。軍鶏の闘いのような激しい動きのなかに花があらわれて、独特の装飾的な空間とシャープな動きが表現される。

 加藤啓治「青春の記憶 2014」。樹木に体をあずけるように座っている若い女性。それは正面向きで、鑑賞者の上方の空間を眺めているようだ。向かって右のほうには、地面に肱をついて寝ている女性がいる。周りに樹木の幹から太い枝が伸び、上方からは蔓のようなものが垂れてきている。渾沌とした自然の樹木の形は、エネルギッシュでありながら、未来の見えないようなイメージを表す。そんな青春が画家にもあったのだろう。そんなシチュエーションの中に二人の未来のある女性を置く。的確な強いフォルムによって奥行があらわれる。そこに絵画性があると同時に、カオスと希望、あるいは運命といったイメージを、二人の女性を通して表現する。

 井澤幸三「廻廊」。廊下の両側に窓や出入口がある。それがジグザグの壁に沿ってつくられていて、不思議な屈曲するかたちで向こうに続いている。手前に、前で手を組んだドレスを着た女性がいるのだが、その姿が後方に三つ、同じようなポーズで浮かんでいる。はるか向こうからこだましてくるようなリフレインしてくる動きが独特の雰囲気で、形而上的なイメージを示す。よく見ると、三人の後ろ側にもう一人の女性がいる。窓から風景がすこし見え、地平線がのぞく。斜光線が差し込む。この緑の廊下は、いわば内界につながる通路のようなイメージで表現されているところが面白い。

 伊藤弘之「桜香」。下方にメリーゴーラウンドがゆったりと回っている。白馬の上に赤い飾りがついている。黄金色の光でイルミネーションされている。その上方にしだれ桜がたくさん下りてきている。ピンクに、紫に。その濃厚な桜の香りが画面全体に満ちる。回転木馬がゆっくりと回るうちに、過去の記憶のようなものが静かにじんわりとあらわれてきそうな気配がある。上方のしだれ桜に包まれて、不思議な人影でもあらわれてきそうな、そんな繊細な雰囲気もある。回転木馬が回転するように、しだれ桜も先のほうがすこし揺れているような雰囲気である。そして、全体で満ち足りたような心象がしぜんと醸し出される。春の一刻の不思議な幻想のような、充実した時間がそこに流れる。

 森本勇「室内・室外」。室内にある壺。外から見る建物の三角形の形。池の周りの柵。そんなイメージを素早いドローイングふうなフォルムによって表現して、強い詩情を醸し出す。空間の中に電流のようなものが通じている。その電流のようなものが、シャープな動きの中にフォルムをつくり、光を表す。それをそのまま画面に放電しているような、不思議な詩人的な感性の表現である。

 塚本聰「儚さの中で」。階段が左右、あるいは向こうから下りてきている。左右の壁に水が下りてきているのが、あやしい幻想感覚である。左のほうは滝のような水で、右のほうは壁に伝わって水が下りてきている。堅牢な石でつくったこの建物の中に流れる水は、何の意味なのだろうか。深い無意識の世界を流れる生命の水なのだろうか。あるいは、記憶がそのようなかたちでよみがえろうとしているのだろうか。室内のこの空虚な空間が、そのような心の中の空間と重なる。

 大場再生「七月の街角」。建物に囲まれた広場。緑の自動車や黒い自動車。椅子に座った女性。外人ふうな女の子があぐらをかいて座っているそばに、男の子が金髪を靡かせながら歩いている。そばの若い母親。樹木が立って、陽光に葉がきらきらと輝いている。様々な現象をクリアに描きながら、まるで幻想のようにひとつの現実が表される。具体的にそのもののポジションや位置、いる人間などを描きこめば描きこむほど、非現実の世界が浮かび上がってくるようなシュールな味わいがこの作品の魅力だろう。

 山内和則「セレナーデ」。室内にあるミモザのような花。テーブルの上の楽譜。緑の家具の上の鏡。そして、窓があけられ、戸外の洋館が見える。黄色い室内。丹念に室内と室外のフォルムを組み合わせながら、柔らかな優しいハーモニーをつくる。

 半那裕子「不思議の国」。『不思議の国のアリス』のイメージである。ソファに座る少女がアリスだろう。右に窓がとられて、その向こうの青い空間は実は窓ではなく、異次元のようだ。女性の大きさほどのハートのAというカードが立ち上がり、後ろにはクローバーのキングが同じようなフォルムで浮かび上がる。手前に猫がいる。ソファの後ろには赤い目をしたウサギがいる。不穏な雰囲気の時間。上方の時計が十時近くなっているが、逆様になっている。この混乱のなかに異次元の世界がじわじわと画面に引き寄せられつつある。

 髙橋雅史「Recogimiento」。アジアのキッチンなどを独特のリアルなかたちで表現してきたが、今回は天然色というのかカラーで、木の箱や南瓜や洋梨などを描き、そのあいだに着物姿の眼鏡をかけた青年を置いた。青年の胸の下が消えかかっていて、霊的な雰囲気であらわれているところが面白い。上方にシャッターのようなものがあけられて、その桟のようなものが集合された鎧戸のようなものが見える。現実の中に非現実の世界があらわれてきたような面白さである。いずれにしても、対象の中に浸透するような画家の視力があって、その浸透する視力が霊的なものを引き寄せたのかもしれない。

 竹岡羊子「ヴェネチアの光と影」。真ん中に、仮面をかぶった女性が両手に花を持って立っている。向かって右のほうに、真っ赤な衣装を着た仮装の女性。あいだに柱が伸びている。左のテラスの向こうに、夜の中に植物が伸びている様子。そして、そのそばの柱には踊る様子や仮面が大胆に鮮やかに表現されている。夜の中に浮かび上がる仮装の人間たちの様子があやしい。それはまた逆に、生命というものの高いボルテージを表すものだろう。赤や黄色、紫、緑が激しく輝くように表現されている。アーチ状の向こうに、水がエメラルドグリーンに光っているところも実に不思議な力を表す。

 小久保裕「千年の森(気根)」。樹木の幹や根のようなものが縦横に画面を横切って動いていく。それはほとんど音楽的な感興を覚えると言ってよいような、抽象的なフォルムになっている。そこにあらわれるハーモニーやリズムが強く鑑賞者の中に入ってくる。森というより、森から受ける画家の主観的なイメージを表現した空間と言ってよいかもしれない。

1階─7室

 佃彰一郎「往って来い」。地面の上に格子状の白い線が引かれている。そこに老若男女、たくさんの人間たちが遠近感のなかに描かれている。服装もまちまちで、歩く方向も別々。都会の中の人間群像である。中には、待ち合わせをしているのか、手を上げて喜んでいる一群もいる。タブレットを眺めている女性もいるし、イヤホンでそのタブレットから流れる音楽を聴いている人もいる。ドラマというもので結びつかない人間群像というのは、まさに現代的であるだろう。そういった群像を繰り返し画家は描きながら、いわば自分自身の存在証明を表現するようだ。

 池末満「干潮」。干潟に水が一筋伸びている。向こうの浜には屈曲した灌木が茂っている。その向こうにはススキが白い穂を光に輝かせている。遠景には土手が左右に通っていて、白い空と接している。そんな風景を一つも漏らさずに画家は描こうとするかのようだ。何か一つを抜かすと、この風景全体が崩壊するように思っているのだろうか。そんな強い緊張感のなかに、風景はわれわれが普段見慣れているものとはまた違った、強い関係性のなかにあらわれる。

 大塚利典「希望の灯―再生」。V字形の構図になっている。V字のいちばん下辺にカンテラのようなものがあって、中に灯が燃えている。そこに向かって女性や青年たちが前屈みに四つんばいになって歩いてくる。不思議な群像である。不思議なことに、このV字形の外側に水が流れているし、V字形の上方から滝のように流れてくる水がある。その水と手前のカンテラの光とが不思議な対照を示す。水は3・11の津波のイメージなのだろう。その中で希望の光がカンテラなのだろうか。あやしい人間たちはその周辺にいて、それを実にクリアに表現する。なま身の身体を描きながら、どこか石彫的に表現して、不思議な津波のモニュマンのようなイメージをつくる。水と火の不思議な儀式を思わせるところがある。

 松井通央「魚類達の咳き」。椅子に座る女性。ソファに横になる女性。椅子もソファも取り払われて、そのポーズをしたフォルムだけが浮き上がり、その室内に様々な魚が泳いでいる。熱帯魚からアロワナ、あるいはタチウオのようなもの。そのカーヴする不思議なねっとりとした質感のある魚と女性とが、同類ではないのだけれども、呼応をするように表現されている。窓の向こうには樹木のある庭が見える。室内の閉鎖された空間の中に魚を泳がせるという構図はずいぶん乱暴なものであるが、画家は女性たちも魚のように見ているのかもしれない。そういった独特の視点が女性をまた新しく捉えるよすがになるのかもしれない。アングルの描く女性がどこか爬虫類的な要素をもっているが、似たような感覚で画家は女性に接しているのかもわからない。

 高橋伸「朧月」。三人の女性。真ん中の女性は短パンをはいて立っている。両側の肘掛け椅子に二人の女性がそれぞれ座っている。向かって右はストッキングだけで、上半身は裸である。黒い帽子をかぶっている。背後に、室内であるにもかかわらず、窓の向こうに月が浮かんでいる。月の中に白い炎のようなものが見えて、その月の光がまるで蠟燭を灯したようなイメージになっているところが面白い。月は、外側にあるのではなく、この三人の女性たちの内側に灯がともっているような、そういった不思議な人物群像である。そのようなかたちで作者と女性たちとのあいだには、きわめて微妙で近い心理学的な問題が横たわっているようだ。恋愛であるとか憎しみであるとかというわけではなく、自然体のなかにそのような近い関係があって、それがこの淡々と描かれた三人の女性たちの像を魅力あるものにしている。

 小林正「君を忘れない」。白いキメの細かい地のマチエールの上に、淡い墨で起こしたように女性の全身の姿が三体あらわれる。下方に小さく線描きのすらりとしたフォルムもあらわれるし、自転車に乗っている女性の姿もあらわれる。背後はガードレールや建物などが抽象的に表現されている。この女性に対して画家はきわめて近い関係にあるのだろう。「君を忘れない」という言葉のように、その肖像をあらゆる角度から浮かび上がらせている。それによって、なにか濃厚な人間のイメージがあらわれてくるところが面白い。ただ、それを再現的に描かずに、あくまでもイメージとして表現する。それによって、ある距離感が生まれる。その距離感は、近づいたり遠ざかったりしながら、一種抽象的と言っていいようなかたちで画面の中に位置づけられ、しかもごく深いパッションの中に表現されているところが、この作品の面白さだと思う。

 中嶋明「オール ザ ロンリー ピープル」。すべて人間は孤独といった意味になるのだろう。大人三人。女性はそのうち一人。あいだに子供がいる。ピンクのシャツを着た男と、ピンクのズボンをはいた子供。そばに聖書らしきものを持って立っている人がいる。グレーの独特のトーンの中にそれぞれ四人はお互いに関係ないという様子で、立ったり、歩いたりしている。向かって左側の男性は聖書のようなものを持って、左手の方向は座っている男性であるが、男のほうは関係のない方向を眺めている。後ろに素朴な建物がある。一本の樹木。壁画的な強いマチエールの上に、孤独な人間の姿をまるで人形芝居のように表現する。

 田口貴大「玲皇奈に捧ぐ」。白いキャミソールをつけた女性が森の中に立っている。左手に薔薇の花の飾りのある緑のシューズを持っている。雑草が周りに生えている。樹木が屈曲しながら上方に伸びている。女性のいるところはすこし光が差し込んでいるが、後ろは暗く、また光の差し込んでいる背後に向かう。びっしりと植物が繁茂している様子に、圧倒的な存在感がある。そんな中にひっそりと立つ女性のもつ独特の繊細なニュアンスがみどころである。このように見ると、女性もまた自然の一部であると実感する。

1階─8室

 張公「2014年の私」。宙に浮かぶ少年が二人。面白いのは、足が貝の中に入っているようだ。ヤドカリという生き物がある。殻を借りて生きている海の生き物だが、この二人の少年はヤドカリのような存在で、宙に浮遊している。そして、上方にぺたぺたと矩形のフォルムが重なって、上から降ってきている。そんな混乱のなかにある、しかし内向していく気持ちの中から、ピュアな命のイメージが静かにあらわれてくる。

 関口聖子「大きくなあれ」。画家のイメージは発生する段階のフォルムにある。種から芽が出たりするその部分が最も面白いようだ。今回は、花の中から、また蘂のあるところから新しい命が誕生してきているといった、画家のつくりだしたフォルムが実に生き生きとした印象をもたらす。左のほうは、そんなオレンジや赤い花弁の中から新しい芽が出ているような雰囲気で、左の赤い花の下方には胎児のようなもの、心臓のようなものが形をなしつつあるような、不思議なフォルムがピンクのU字形のフォルムの中に囲まれている。右のほうは、ピーマンのようなフォルムのへたの中心から伸びていくフォルムが面白い。不思議なことに、それらのフォルムの背景は風景になっている。はるか向こうに黒い山が見えてくるようだ。イメージの中ではフォルムの大小は消えて、大地からむっくりと立ち上がる黒い山のようなフォルムがあらわれ、手前の花のような生命体を支えている。色彩は暖色系を中心としながら、ミステリアスな緑やブルーなどの色彩も入れられて、実に華やかなものと言ってよい。

 貴志紘美「ある風景」。テトラポッドがずっしりとした量感をもって三つ置かれている。そのあいだに矩形のずっしりとした直方体のフォルムが描かれ、そこには前後三列、左右に並んで穴があけられている。そして、バネのようなものがその上に置かれて、メジャーがある。この前の東北を襲った津波の水の深さ、あるいは波の高さを測る測定器なのだろうか。津波が去ったあとに、その深い思いをこのようなかたちで表現したのだろうか。テトラポッドがまるで人間のトルソのように感じられる。

 島崎陽子「市のたつ日」。中国の奥地のほうに繰り返し取材に行ってきた。そこにまだ素朴な生活がある。実際に鶏を絞めたりして生活する人間たち。そんな群像である。牛も鶏も同じ仲間として入れられている。猿の頭がなくなっているのは、脳味噌が食べられたのだろうか。自由に大小を変化させながら、十人ほどの群像表現である。中心のインドふうな衣装を着た女性を顔を大きく拡大して描いているが、それが画家自身の肖像のようだ。

 須藤美保「菖蒲幻奏」。金箔に菖蒲の花を散らした琳派的な空間の前に、年取った女性と若い女性が描かれている。年取った女性は袖を持って、日本舞踊をしているようだ。それに対して若い女性は、その様子を座って眺めている。そして、親子あるいは姑と嫁といった関係と思われるような二人の女性が、そのままこの金屛風の中に入りこんでいるようにも見えるし、金屛風を背景に背負っているようにも見える。そのダブルイメージの空間があらわれているところが実に面白い。

 阿部栄一「よこたわるもの―2014―」。大きな蓮の葉が広がっている。一つだけ中心にまた蕾の花があらわれている。背景は暗い。水にほんのすこし光が映っている。両側に円筒形の柱のようなものが立ち上がって、そこに蝶の影のようなものが見える。この蓮の葉の下にはたくさんの死者が横たわっているようだ。その死者を供養するために蓮が植えられ、花が咲く。そういった、いわば無明の空間がこの背後にあるように思われる。その見えない世界の存在感がずっしりとあるところから、この不思議な蓮の葉のリアリティが生まれる。

 日下部淑子「花の譜」。赤い花、グレーの花、白い花。そんな花を拡大してピックアップした中に、まるで三角形のピラミッドのようなフォルムを入れる。それは鏡でもあるし、通過するガラスでもあるという、不思議な存在のようだ。手前に水滴が六つほど置かれている。膨らんだ不思議なフォルムである。それは水滴ではなく、涙なのかもしれない。画家は花を愛したシチリア王フェデリコ二世王妃エレオノーラ・ダンジョの連作をしてきた。その人の一生に対する思いが、このようなコンポジションをつくったのだろう。女性の一生。とくにそのような責任のある立場にあって苦しみながら高貴なる人生を終えた人に対する深い共感が、このようなコンポジションをつくったものと思われる。一種童話的なファンタジーと深い人生の思いとが重なったユニークな表現である。

 秋口悠子「刻」。大きな円形の建物に斜光線が差し込んで、影がそこに捺されている。上方には樹木と斜面に生えている草がこの壁に映っている。石を積んだ壁に細長い窓があけられている。深い感情がしぜんと画面から伝わってくる。この建物はたしか、精神病院であったと思う。この中に閉じ込められて、苦しみながら死んでいった人がたくさんいる。いわば、そういった人々を幽閉した建物なのである。それが古びていった。そんな建物と画家は出会って、深い感動を覚えたのだろう。画家は外部から建物を描きながら、実はこの建物の内部から建物をイメージしているところがある。その二つがクロスするところに、この光と影のシーンが生まれる。

 大泉佳広「BUTAI」。十二角形の塔の上に赤い四つの飛行機が飛んで、バスが動いている。真ん中に錆びた青い円筒があって、その中の地面から樹木が顔を出している。人間の顔をしたお日さまがその背後に浮かんでいる。いわゆるトロンプルイユである。すこし離れてみると立体的に見えてくるが、接近するとフラットな平面である。まさに舞台で、十二角形というと、時計の十二、あるいは一年の十二か月と一緒の十二で、その中にバスと飛行機、円筒形の中から浮かぶ樹木。オレンジ色のお日さま。不思議な物語の序章ともいうべきイメージがあらわれる。

 早矢仕素子「風の記憶―なんぢ夜も昼も河の如く涙をながせ―」。崩壊した建物。手前はシルエットに門のように描き、その向こうにグレーで建物を描く。深い感情表現である。以前、光画廊でイタリアの風景を出品されたが、それもよかったので、そのような大作も見たい気がする。

 石川和男「時航海―味方ハ、マダデアリマスカ」。南方で救援が来ずに亡くなった兵士たち。彼らの霊が日本に帰ってきた。お帰りなさいと両側に花を置いている。しかし、足だけが波打ち際に見える。上方は青い空で、雲が出ている。不思議な光が差し込んでいる。リアルな波の表現。深い祈り。遺骨さえ上がらない兵士たちに対する痛切な画家の気持ちが、このような不思議なモニュマンをつくった。

 髙橋正敏「地上―黄昏て、彷徨う航跡―」。目に包帯のようなものをあてがわれて見えない男。目が半分つぶれた顔。視界が消えてしまって、よろよろとさまよう人間のイメージ。崩壊した建物の残骸のように板が浮遊する。津波のような災害が日本に起きるし、原発問題などは、まさにこのようなコンディションである。そういった現代の日本の社会を、強く告発するように表現する。

 松山敏彦「T氏の思考」。T氏とは敏彦の略で、画家自身である。その本人が右下にいて、手のひらを上に向けて何か考えこんでいる。その手のひらの上にのっけるようにワイフと猫が宙に飛んでいる。左のほうには大きな茎とトマトが十倍ぐらいに拡大して描かれている。黄色い花が蔓のような植物の上に咲いている。下方には、郷里の画家の住む周りの風景があらわれている。退屈な日常生活。そのなかにも記憶があって、画家と最も親密な関係をもつ猫とワイフが宙に飛ばされて、くるくると動いている。ユーモラスでありながら悲しいような、ペーソスに満ちた表現と言ってよい。

1階─9室

 倉岡雅「女・鏡・KAZENOKEI(Ⅱ)」会員推薦。スリップ姿の女性がベッドの上に横になって、立て掛けた大きな鏡の上に足を伸ばしている。その鏡に体の一部が映っている。しっとりとしたマチエールが魅力で、そのマチエールによって女性のもつ柔らかな身体がハーフトーンの中にあらわれる。そこに風の代わりに猫を飛ばしてみる。そうすると、ドラマがやがて起きるだろう。女体を静物のように描きながら、それを動かして、次の展開に行こうといった表現として面白い。

 村田英子「Dark Salome」独立賞。サロメの話は女性性のある典型だろう。美青年であるヨナカーンに求愛するのだが、ヨナカーンはそれにこたえなかった。その屈辱のために、サロメは王の前で踊り、王に褒美としてヨナカーンの首を所望する。切られた首をサロメが抱えている図がよく描かれている。女性性とナルシシズムというものは深い関係をもっているのだろう。ナルシシズムというものが肯定的にいい方向にいくと、ファッションが盛んになるし、アートも盛んになる。そういった深い意味での女性性を描くためのイコンのようなイメージが実に面白い。髪は逆立って、不思議な表情をした顔が白く浮かび上がっている。月の光に照らされた顔のような色彩で、背後の赤く燃えるようなバックと対照される。しかし大きな目は翳りがあって、その視線の行方は定かではない。胸の衣装にも青い花や様々な色彩が点じられて、華やかな中に哀愁も感じられる。

 大原修一「『genomics』14-6」独立賞。下方に瓦礫があって、瓦礫に鉄を思わせる金属が食い込んで、強い力学的な緊張感が生まれる。レリーフ状の作品である。造形と力学といったテーマの表現と考えると面白い。

 結城康太朗「magnetic field 2014-Ⅱ」会員推薦。題名は磁場という意味だが、この火炎を見ていると、不動明王の背後の火炎を思うところがある。あの不動明王のもつ激しい火炎の部分だけを外して、それを結界のように磁場的な空間としてより激しく炎を燃やしているようなダイナミズムに注目した。

 鳥羽祐二「クレイジードッグ・1」会員推薦。犬がプラスティックで顎や胴体を囲われて、口を開け舌を出し激しく怒っている。下方から鎖のある機械のようなもので支えられている。実際とは違うかもしれないが、歯医者でグラインダーが回るあの恐怖感を犬に仮託して描いたような、ユニークな臨場感が感じられる。フォルムがクリアで、視点を変え、デフォルメし、強調しながら、独特のダイナミックなフォルムによって心象を表現する。

 山根須磨子「光彩の溢るる中で」会員推薦。蓮の池に女性が立っている。腿のあたりまで水が来ている。斜光線の夕焼けか朝日か、黄金色に水面が輝いている。その黄金色がこの若い女性の上半身の後ろに光背のように輝いているところが実に面白い。この水に濡れた女性の全体を仏のように慈しむように画家は表現している。背後に蓮の葉が立ち上がり、その大きな葉の連続したフォルムが独特のメロディをつくる。

 芝田友司「天空に Ⅱ」会員推薦。蒸気機関車が走っている。その手前にライダーがオートバイを支えて立っている。黒い機関車の後ろに青い機関車が反対方向に走り、もう一つの機関車が手前のほうに向いている。蒸気機関車はいまもファンが多いが、あの重量感がたまらない。蒸気によって動くわけだが、この作品の中では蒸気は発していないから、動いているのではないのだろう。しかし、三体の機関車があらわれると、しぜんと動いているような錯覚があらわれる。それに対して茶褐色の眼鏡をかけたライダーとオートバイは、もっと繊細な不思議な雰囲気でこの中に入れられている。画面から感ずるものは、ポエジーの世界と言ってよい。すべてのフォルムがあるメタファーとして機能する世界である。

 浅見千鶴「a fossil-Ⅰ」会員推薦。fossilとは、時代錯誤とか化石という意味になる。化石の扉を開くと、堆積した時間があらわれるのだろうか。アンフォルメルふうな、もの派的なマチエールの中に、そのような強いイメージを発信する。

 磯貝四郎「DEI」。レリーフである。錆びたトタン。鉄の板。アルミ。そういったものを圧縮し、しわを寄せ、コラージュする。強い響きのようなものがそこから生まれる。

 中村光幸「Field」。“Until a minute ago it felt so real, but now it seems imaginary.”一分前まではリアルに思ったが、いまはそれはイマジネーションだと思うという、たしか村上春樹の言葉と思われる英語が下に置かれている。たしかにリアルと思ったものがイメージに変容するのは、通常の人間の精神の働きだろう。上方に大きな時計が五時五十五分を指している。夕刻の時間。そこに若い女性が浮いている。リアルな姿でその時刻と向かい合っているような雰囲気。背後には地面があって、雑草が生えている。朝顔がへたって頭を垂れている。夕方の夜に行く時間のアンニュイな時刻。リアルだと思ったものは実は幻想であったというイメージ。その切ないような感覚こそ、生きていることの証明かもしれない。そういった心象を、リアルな再現的な植物や人間や時計によって生き生きと表現する。

 中前光雄「共生21"」。中心にハート形の琥珀が浮かんでいる。琥珀は木の樹脂(脂)が地中に埋没し、長い年月により固まった、いわば一種の宝石である。その琥珀の上方にオニヤンマがとまっている。黄色と黒の斑のトンボがとまっている。下方は水で、水からタンポポのような茎が伸びて、そこに赤いトンボがとまっている。向かって右のほうには緑のトンボが交尾している。タンポポの花が散って、その綿毛が浮遊している。そんな様子に巨大な太陽が背後に光背のように輝いている。上方の水の上に落ちた綿毛。だんだんと飛びながら水平線に向かっていく綿毛。琥珀は一つの死の姿であり、交尾しているトンボは生殖行為であり、次の子供が生まれるわけだ。誕生と死というものが同じ空間の中に表現されている。そして、巨大な王様のような黒と黄色のトンボが琥珀の上にいるのだが、ちょうどヘリコプターがホバリングしているような状態なのだろうか。足がない。不思議な雰囲気で、足をもって植物の茎にとまっている下方のトンボとずいぶん違う。幻影のようなトンボのフォルムである。しかもそれが王様のような威容を表して、存在感を示す。いずれにしても、生と死のイメージの中にホバリングするオニヤンマは切ないものがあって、人生の哀愁といったイメージもしぜんと感じられる。上方のトンボがオスであれば、下方の赤いトンボはメスなのかもわからない。巨大な太陽が、その背後に光背のようにあらわれている。水平線まで続く水の表現。実に「色即是空 空即是色」というのか、生と死、そして人生といったものが、トンボを通して如実に感じられるような表現。いわば仏画的なイメージと言ってよいかもしれない。画家は高野山のそばに住んでいて、この背後の巨大な太陽を見ていると、高野山の永遠にともしびを続けていく奥の院の万灯会のこともしぜんと思い起こす。

 米田和秀「星宿る地」。緑の草原。すこしこんもりした土手のようなフォルムのそばに小川が流れている。そんなところに仰向けに女性が横になっている。女性を支えているものはないのだから、イメージのなかで横たわっているわけで、宙に浮いている。その右手の下に水が波紋を広げている。ドレッシーな服を着た女性である。星のイメージは緑色の色彩を引き寄せるようだ。水も、水滴も、野の花も、地上の星のイメージと言ってよいかもしれない。そのように現実の大地の花や水を星空に変換させてみる。そこに詩的な女性を宙に浮かべて仰向けに置く。そんなイメージの働きのなかに独特のロマンティックな波動があらわれる。スカートがすこし水の中にひたっているのは、そこだけはリアルな表現であるが、そこから大きな波紋があらわれていて、その波紋によって水とこの女性とは一体化して、透明な水の奥のほうのグリーンの空間がまた夜空のイメージと重なる。

2階─10室

 小島遼「透明な時間」。中学校か高校の教室。整然と並んだ机と椅子。窓ガラスから光が差し込んでいる。上方に天井があり、モニターがある。そんな様子を実にクリアに表現している。それによって、この画面の中にある気配や光の粒子、影までがくっきりと浮かび上がってくるような表現力に注目した。

 井上伸久「明日へ, 14─4627」。浜辺を少女が歩いている。腰を屈めて、何かに触っている。そういったフォルムと女の子が上を向いてシャボン玉のようなものを吹いているフォルムとが重なって、ダブルイメージになっている。向こうから波が寄せている。海の波もダブルイメージになっている。それがしぜんなかたちのイメージの変換として表現されているところがよい。

 川野千寿子「cross my mind (Ⅱ)」。キューブなかたちの建物が画面の下方から上方に続いている。そのフォルム自体に独特のリズムが感じられる。そのそばの広場にサックスやトランペットやチェロ、コントラバスなどを奏している人がいる。カラスのような鳥がシルエットで飛んでいる。あるメロディに沿って配置された建物や人間、あるいは鳥が、お互いにそれぞれのパートを担いながら、全体で不思議な音楽となっている。そういった独特の感性に注目した。

 村本千洲子「石狩挽歌 Ⅰ」。バーのカウンターでホステスが煙草をくゆらせている。煙草はいま灰皿に置かれている。口紅がついている。そばにあるワイングラス。それに対して上方に、波の音を聴いているもう一人の女性があらわれる。その放心した表情は、自然の寄せてくる波の音を聴きながら、未来や過去のことを思い出したりしているのだろう。そういった時間というものがテーマになった二人の女性のフォルムの構成が、生き生きとした心のコンディションを伝える。

 手塚廣子「風の詩 Ⅱ」。中心に花弁が幾重にも重なった花が置かれている。その背後に帽子をかぶった女性の顔が浮かんでいるが、髪によって片目は隠されて、片目だけが開いて鑑賞者のほうを眺めている。下方は海になっていて、そこにダイヤモンドのような首飾りと真珠のようなフォルムが見える。下方の水と花とこの女性を見ると、3・11の津波に対する深いレクイエムの表現だと思う。正中線をしっかり決めた、一種シンメトリックな中に変化のある、独特の強いモニュメンタルなコンポジションである。

 福井慶子「生きる Ⅱ」。子供を抱く母親。母親と同じぐらいの背丈の子供たちが五人ほど周りを囲んでいる。背後は有刺鉄線や壊れた大砲や戦車。錆びたそれらの廃棄物に囲まれて、人間の群像が表現される。戦争に対して人間存在の群像がしっかりとした構成の中に表現される。

 長谷治郎「Light As A Feather」。一つの羽根のような光というのはどういう意味かよくわからないのだが、背中合わせになったティーンエージャーの女性が二人。片一方の女性は羽をもって、片一方は文庫本のようなものを読んでいる。そばにマーガレットのような花が咲いている。白いバックに柔らかなタッチでしっかりと二人の女性を描く。背中合わせのために、静かに花が咲いているような、そんな雰囲気もある。

 斉藤悠紀子「HARUKA 2014-1」損保ジャパン日本興亜美術財団賞。白いしっとりとした地の色彩。十センチぐらいの厚みのあるボックス形のキャンバスになっていて、側面まで絵が描かれている。そこにハッチングするようなフォルムやドリッピングするようなフォルム。そして、十字形の不思議なかたちがあらわれて、自分自身の空間をつくろうとする強い意欲が感じられる。その空間は、いわば間として生きる空間であって、そこになにかものを再現しようとしているものではない。作者自身が自分を解放するための空間。そんな欲求によってつくられた空間が面白い。

 佐藤みちる「宙」FC賞。ガラスの中に上方では液体が入っている。下方ではたくさんのガラスの玉が置かれている。上方に蛍光灯のような光があって、天井から吊るされたグラスや下方はカウンターになっていると思われるものを照らしている。バーのカウンターの一部を描いたものかもしれないが、それが不思議な奥行のなかに表現され、ガラスがガラスと連携しながら不思議なメロディがそこに表現される。

 橋本大輔「FAC 3016」小島賞。工場の中に廃物が散乱している。広い空間である。その空間の奥行、広さと同時に廃棄されたものたちのディテールが静かに表現されて、独特の緊張感が生まれる。柔らかな光がそこを照らしている。そのトーンの変化もまた魅力。

 中村惠美子「風の記憶 Ⅱ」中山賞。古い旅行鞄が二つ。すこし口をあけて置かれている。中から日本旅券というパスポートがのぞく。のぞいているのは茶色い鞄で、あいだからマスクも見える。上方は青い鞄で、あいだからコンパクトと口紅とフランスパン。フランチェスコという名札。どこかの食堂のものだろうか。そういったものものぞく。背後には地図がある。アフリカの地図のようだ。古びた鞄はしぜんと旅情を誘うようだ。

 志津田禮子「その先にあるもの Ⅱ―ADAGIO―」。女性のフォルムが前方から向かってくる。後ろにはヴィーナスと思われるヌードの石像が浮かんでいる。下方には傾いた建物。地震か戦禍かわからないが、壊れた古い街。手前に向かってくる女性の石像は俯いて、帽子をかぶって、一部手がなくなっているが、なにかメランコリックな雰囲気が感じられる。戦争と平和といったテーマを、こんなかたちのコンポジションの中に表現する。

 當間菜奈子「雨粒の遺志 Ⅱ」。布団の上に窓から光が差し込んでいる。暗い部分と光の部分とが実に魅力的に表現されている。光という物質かどうかわからないような不思議な存在が、画面の中で布団の上に物質化されるように表現されている。独特の感性だと思う。光が聖なるものとして表現されている。

 広瀬晴美「2014 私的風景―Ⅱ」佳作賞。赤と黄色の花が大きく表現されている。実景より何倍も拡大されていて、それによって迫力が生まれる。背後のソフトフォーカスのような緑の空間の向こうから、強烈な光が差し込んでいる。そこにシュールな気配が満ちる。

2階─11室

 蔵野春生「共生 Ⅰ」新人賞。陶器が壊れて散乱している向こうに、女性の胸像が浮かび上がる。その顔の角度を変えて、左右に二つの顔があらわれている。上方には植物の葉が茂っている。やはり地震のあと、その被害を超えて自然と共生しようとする思想を、このようなかたちで表現したのだろう。

 檀野功「脱淵」。サケが水の中を激しく泳いでいる。回遊して郷里の北海道に帰ってきたのだろうか。独特のドラマ性をはらんだ表現である。

 池上亮「Complex-40」。中心に裸の若い女性。いわゆるパイパンといって陰毛のない女性が中心にいる。その両側にSMふうな服装をした二人の女性がいる。そして、下方にタコのようなフォルムがあらわれている。性の問題はまことにコンプレックスと言うしかない複合的なものである。そういった要素をクリアな三人の女性のヌードや衣装によって表現する。

 片山紘子「生 Ⅰ」新人賞。植物の胞子のようなフォルムが面白く構成されている。ミクロな中に入っていって、それを大きな画面の中に引き寄せた。植物のもつ神秘とも言ってよいイメージ。バックは赤や紫色で、そこに緑色の球形や紡錘状のフォルム、あるいは長く垂れたチューブのようなかたちが不思議な世界を形成する。

 桑野幾子「'14 心の旅 Ⅲ」佳作賞。ネットのようなフォルム。あるいは伸縮自在のネットが独特の形をつくる。今回は、螺旋状に膨張してくるフォルムの中心がひっそりと奥まっていて、そこに紫や暗い陰りがあらわれている。それに対してもう一つ、上方に緑の扉のようなフォルムがあらわれているのが面白い。ネットによって独特の心象表現をつくる。しかも、題名のようにこのネットは旅をする。旅をしながら複雑な陰影をそこに引き寄せる。

 平育子「古代魚(保護区)」新人賞。アロワナがカーヴして泳いでいる向こうに、螺旋状の地面があって、その道の上に建物がつくられたり、引き出しのようなものがあけられて、タニシのようなものがあらわれたりする。海のものと地面のものとが、その境界を失って幻想の中にあらわれている。雲が浮かぶ。不思議なメロディが画面から聞こえてくる。

 三浦浩藏「奏でる」新人賞。ヴェニスのゴンドラに乗ってマンドリンを弾いている男。そばで少年がピッコロを吹いている。男の顔は鳥になっている。後ろには建物がのぞく。手前に鷗が下りてきている。ヴェニスという古い街は仮面舞踏会が有名である。京都と同じような古い街のあやしい雰囲気がこの二人の人間の様子からしぜんと感じられるような、独特のコンポジションである。

 米冨裕子「連動(Ⅱ)」。壺を転がして、その壺の口と底とを連結したような不思議なフォルムが上下につながっている。コロコロと転がっていながら、しっとりとした砂のような柔らかな感触がある。その左右に、植物の葉が連続して連結したようなフォルムが炎のように燃え上がってくる。風紋のようでもあるし、砂漠のようでもあるし、地面の懐かしい触感のようなものが月光のなかにあらわれてくるような雰囲気であるが、このそろばん玉をつなげたようなフォルムの連続したかたちから聞こえてくるメロディには、非常に素朴なものがあるように思う。

 吉川信一「二人」。お母さんと娘が座っている。母親のもつ強い存在感。娘のほうは赤い上衣を着ている。背景のグレーの壁や本などのある空間。キャンバスもある。前よりフォルムが柔らかくなってきた。描かれているフォルムがお互いに連携しながら、しっかりとした生命的なメロディが画面から聞こえてくるようだ。

 山本優里「木陰でひとやすみ」。ほとんどモノトーンの色彩の中に、樹木の根の部分が地面から浮き上がっている。周りには落ち葉が散乱し、松ぼっくりや小石のようなものもある。そこに木漏れ日が当たっている。地面が柔らかい。しっとりとしたトーンの中に木も地面も描かれている。地面が生きている。

 日置誠「約束の河」。泥の川のようなものが右上から左下に向かっている。その中に鼻までうずもれた男の顔と手のひらがのぞいている。約束の河に来たのだけれども、約束は果たされず、といった強いイメージを感じる。上方には弓なりになった男性の裸があるのだが、それは包帯で巻かれている。傷ついた体を包帯が癒している。その包帯を巻かれた男と、半ばほとんど泥の川に陥没している人間とは、約束のなかでここでクロスしているはずなのだが、二人のあいだの距離は遠く、約束は果たされない。ペシミスティックなイメージが強く立ち上がってくる。両側の石や石柱のようなフォルム、あるいは壊れた柱のようなものがそれを強調する。しかし、よく見るとしーんとした気配のなかに、見入らざるをえないものがある。それは画家のイメージの深さからくるものだろう。そう簡単には約束は果たされないのが現実であって、それを無言で眺める画家のイマージュと視力の強さが興味深い。

 北村倫子「赤いたんぽぽ見つけた」。樹に豚が寄り添ってのんびりした表情である。上方のブランコに少女が乗っている。オレンジの帽子をかぶっている。たくさんの鳥がその周りにいて、この少女を見守っている。少女を囲む楽園のようなイメージが、植物や鳥や豚などによってクリアに描かれている。優れた表現だと思う。

 神原利樹「ひまわり A」。向日葵が描かれている。一部はドライフラワーになっている。綿毛が上方に飛んでいるのが、小さな鳥のように見える。向日葵の生命力によってサクが壊れている。命というものに対する強いシンパシーがこのような表現を呼ぶ。イコン的な向日葵のフォルムの表現も面白い。

 秋富浩藏「生きる」。男が座って叫んでいる。悲痛な表情である。マスクが取れて、旗のようになってそよいでいる。喉ちんこが見える。四人の老齢の男女がその周りにいて、同じような様子。上方には海が見え、散乱した岩がある。東北を襲った津波の悲惨な状況に対するシンパシーから生まれたのだろうか。あるいは、老齢というもののもつ悲痛さを強調して表現したのだろうか。強いドラマ性をはらんだ群像表現である。

 小石川宥子「流風 Ⅱ」。水の中に杭がすこし突き出て、波紋が広がっている。その杭の上にはだれもいない。手前の杭の上には小枝があって、そこに鳥がとまっている。そばの切り株の上に鳥の巣があって、白い卵が三つ。その場所に上方から親鳥がその鳥の卵を運んでそこに下ろそうとしている。あるいは逆に、下方の卵を持ってよそに運ぼうとするかのようだ。親鳥の右足に摑まれた卵。そして下方の水の波紋。考えこんだような杭の上の鳥。上方を見ると、樹木の枝が伸びていて、そこにざわざわとたくさんの葉が密集している。はるか向こうには岬を思わせるような陸地があらわれている。鳥の巣の置かれた切り株のある空間はホームのようだ。やはり上方に飛ぶ鳥は卵を運んでいるようだ。この鳥は一つのファミリーというか巣をつくろうとしている。その静かな波動が画面全体に不思議な音色を響かせている。

2階─12室

 吉田守「シェービング(ロ)」。理髪店で、寝た客の顎のあたりをシェービングしている理髪師。それを手前から眺めているのだが、リアルでヴィヴィッドな表現だと思う。

 無井由希子「街 Ⅱ」。茶褐色の空間の上にキューブなかたちで家を置いていく。小さな家から大きい家まで、いわば積木を積むように左右に上下に置いていくことによって、不思議な空間が生まれる。街ではないし、積木でもない。心象的なイメージの街が温かな調子のなかに広がってくる。

 上村隆一「有形無景 1」。走っている少年少女。それを小さく描いたり大きく描いたりしながら、不思議なリズムの中に表現する。一種音楽的な感興を覚える構成である。

 渡部さなえ「置き忘れしもの」。赤いバイクに乗る母親。後ろに子供が乗っている。そばには兄が縄跳びをしながら空中を飛んでいる。下方に兄弟と思われるブチの犬(ダルメシアンかもわからない)が走っている。下方に森ビルのような建物が空に向かって伸びている。ダイナミックな動きのある構図。その中に人間的な生命力を高らかにうたいあげる。フォルムが生き生きとしている。

 中山紘樹「DANDANDANCHI」。団地のベランダに洗濯物や毛布などが干されている。そのほとんど同じ形のものが繰り返されるベランダと窓の中に、微妙な変化があらわれる。人が住んでいるからこその気配である。そんな様子を表現する。集合した人間たちの中のそれぞれの個性を描くように。

 大坂祥春「The Big Green-2」。ほとんど廃屋のような建物が立っている。空も地面もグレー。建物は緑。ベランダのあたりには人が住んでいる気配もある。心の中に抱いた建物のイメージ。緑の色彩に繊細なものがある。その独特の色調に注目した。

 川畑太「風の到来」。長いコートのようなものを着た女性が座っている。その胸から下方にわたるフォルムが、なだらかな砂丘のような大地的なイメージである。そこに風が吹いてくるような雰囲気もある。背後は花瓶に花が差されているし描きかけのキャンバスなどもあるのだが、モデルのいる空間がそのまま大らかな大地的なイメージと重なるところが面白い。

 本多文樹「決意」。津波のあと、復興させようという決然たる雰囲気の女性が、ピンクの衣装を着て前に立っている。後ろの船の中は散乱したものでいっぱいである。背後のグレーの海。散乱したものの中から梯子のようなものや板のようなものが斜めに立ち上がっている。そんなものを背景にした手前の女性のしっとりとした力強い表現。

2階─13室

 酒井嘉満「気配」。緑のテーブルの上に小さなヴァイオリンと人形とコップなどが置かれている。それを同じテーブルのすこし向こうにいる猫が振り返って眺めている。不思議なことは、その同じテーブルから樹木が生えていて、枝を伸ばしていることである。幻想と言ってよい。その向こうには小さな自転車も見える。テーブルの上を見ているうちに、風景的性質があらわれ、樹木が生えてき、光が差し込み、影ができる。そういった独特の、心理的なリアルな表現に注目した。

 津田光昭「生・2014(混迷の中で)」。手前に立て膝をして座っている裸婦があり、背後にうずくまったようなポーズの三人の裸婦が見える。しっとりとしたトーンの中に、裸婦を通して命というものの姿を見つめる。

2階─14室

 坂田燦「鎮魂(横たわる・2)」。海は台風のあとのように荒れて、壊れている。三年前の東北を襲った津波のイメージだろうか。手前に栗毛の馬が横になって死にかかっている。強いレクイエムの感情がしぜんと起こるのだが、手前の馬のフォルムの力強い表現が魅力。

 林晃司「廊下―3」。学校の廊下がずっと向こうまで続いている。ずいぶん長い廊下で、そのいちばん向こうは窓になり、緑の色彩が置かれているから、外にある樹木を反映しているのだろう。その遠くまでいくパースペクティヴを強調した表現と、しーんとした中の手触りのあるマチエールが、なにかこだましてくるようなイメージをもたらして興味深い。

 社家間美知子「2014・走る道 Ⅱ」。高速道路を走っている赤い車。不思議なことに道路の端に子供がいる。子供が何人か浮かび上がっている。そして、そこには階段がつけられている。不思議な幻想である。斜光線が差し込んで、柔らかな陰影をそこにつくる。薄暮の幻覚と言ってよいかもしれない。

2階─15室

 山下晴道「SORA '14  交錯したクジラ」。巨大なクジラが宙に浮いている。二頭ほどいて、その周りを雲が囲んでいる。樹木のようなものがそこに宿り木のように付着している。重量感のあるものが宙に浮いている。それが爆発したようなイメージを、クジラを使いながら面白く表現する。

 野村紀子「羨望スプーン 2」。キウイやオレンジ、サクランボ、スプーン。そんなものが白いスープの掛けられたコンディションの中に大きく拡大して表現される。その渾沌とした中に果実や金属的なスプーンのフォルムが立ち上がり、渾沌の中になにか激しくメッセージしてくるものが感じられる。

 森下よし子「暦日(或ル時)」。粗壁が壊れて、壊れた向こうに青年たちが歩いていく様子が描かれる。粗壁をつくったのは昭和や大正の時代だから、老齢の人がその壊れた窓からいまの青年の生態を眺めているといった視点が感じられる。クリアな青年たちの中景のブルーをバックにしたフォルムと、垂れ下がって崩壊しつつある粗壁とが面白く対照される。

 石川総一郎「決意の行方 Ⅰ」。コンクリートの地面に腰を下ろして、白いスポーツシューズをはいている青年。白いストライプが消えかかっている。これから運動でもするのだろうか。青年のもつきびきびとしたシャープなフォルムと緊張感を、モノトーンの中に面白く表現する。ドライなコンクリートの地面が現代的な演出。

 増田典彦「クロソイドの迷宮」。クロソイド曲線というのがあって、高速道路やハイウェイなどに使われているそうだ。そのクロソイド曲線に沿って道路が走り、空中に女の子の顔が浮かぶ。彼女はソフトクリームをなめている。クロソイド曲線はもう一つ、最も眠くならないカーヴといわれているが、覚醒する中に現代という時代の不安感やスリリングな気配を表現する。自由なデフォルメとコンポジションに注目した。

 杉本亜鈴「自問のナーシサス」。仰向けになって反った女性の裸のフォルム。反対に今度は背中のほうに反ったフォルムが組み合って、面白い形が生まれる。百合の花のようなフォルムがそれに重ねられて、女性のヌードを使いながら、独特のメロディのような形を表現する。

 藤井康子「Departure」。出発するという意思を面白く構成の中に表現する。飛行機の前に赤いブラジャーとパンティをつけた裸の女性が立っている。すこし体が宙に浮いた雰囲気で、その後ろの巨大なメカである飛行機の翼を左右に置いたフォルムと相まって、出発の宣言のようなイメージを表現する。構成が面白い。同時に、それぞれのフォルムのディテールが響いてくる。

 小畑健治「我々は宇宙人ダマだ 1」。テーブルの上に新聞紙を広げて絵具を塗って街の絵を描き、そこに箱で家や建物や籠のようなものをつくり、そばにアイロンが置かれている。いわば箱庭のようなものをつくって、煙を煙突から出して、独特の物語の序章のような舞台を表現する。不思議な感性。

 前田充代「想花 Ⅱ」。ドレスを着た女性の後ろ姿。背中が大きく出て、その柔らかな、すこし太り気味の体全体が静かに訴えてくる。周りに百合の花が散っている。水の中にいるようで、白いサクランボのようなものが浮いている。夢の中で見たような独特のリアル感が面白い。

 棚澤寛「喜ぶ気持ちを忘れないように」。空中に浮かんで両手を上げて笑っている少女。同じ少女がすこし位置を変えて、後方にいる。下を見ると、恐ろしいことに田園地帯がクリアに見える。高度千メートルあたりから見える光景だろうか。遠景には富士山がヌーボーと浮かんで、上方に雪を抱いている。雲が周りにある。飛行機から見えるような、地上の光景の上にセーラー服の人間を置くという、絵画ならではの表現がスリリングな気配を示しながら、独特な生命的な面白さを醸し出す。

2階─16室

 村松元子「月の灯り」佳作賞。女性が座っているが、足を宙に浮かせて不安定な様子である。そういった揺れるようなフォルムを通して、不安な雰囲気を表現する。バックは無地で、フォルムによって静かにパントマイムふうに語りかける。

 川邊りえ「もしも」。四、五歳の女の子と人形のイメージとが重なって、強く抗議してくるものがある。白目をむいた人形が上方を向いている。いたずらでもされて殺されたのだろうか。現代の不安感をダイレクトにメッセージする。

 児玉沙矢華「穿たれた噓」奨励賞。鏡の上に乗って、横向きだが、顔は上向き、そばに手鏡を持っている。寝ている下の鏡が割れている。そこに空が映っている。周りには廃棄物が散乱している。渾沌とした現代のなかで、なんとか自然と接触しながら希望をもつイメージを、柔らかなタッチのなかに表現する。柔らかなタッチによってそれぞれのフォルムをクリアに描き、そこにあらわれるトーンが、光を吸収するようだ。廃棄物とそのような暖かなイメージとが不思議なかたちでリンクする。

 河合規仁「夢月夜行」奨励賞。裸の女性は観音とダブルイメージになっている。河合商店という看板のある田舎の道をたくさんの人々が歩いてくる。狐のお面や日の丸の旗、タオルで顔を包んだ人間たち。田舎のお祭りの人間臭い雰囲気を背景にして、日の丸を持った観音の様子をした女性を大きく描いて、ノンシャランな雰囲気。日本の民衆のイメージを、関節を外したような表現でまとめて面白い。

 世戸瑛子「自己曼陀羅~龍神」。「桜筏さゆりゆらりと流れゆく髑髏の容して笑いつつゆく 世戸瑛子」。自詠の歌が短冊のように上に置かれている。畳の上にしどけない姿をした着物姿の二人の女性。二人で男性を誘いこむような雰囲気であるが、しかし一種の自己完結した官能の世界にいるようだ。白い肌が艶めかしい。独特の女曼陀羅のような構図が面白い。

 渡辺貞之「大きな楡の木の下で」奨励賞。太いニレの木の幹の下に木の机がある。そこに二人の女の子と一人の少年が腰を下ろしている。そこには人形や巣の中の卵、あるいは後ろには仮面などがある。クリアなフォルムによって、この年頃の少年少女のイメージをくっきりと表す。自然と一緒に語りかけてくるものがある。下方の段ボールから顔をのぞかせた猫がかわいい。

 デュボア康子「intimité Ⅱ」。三人の女性。赤や緑の原色の色彩。エッジをきかせたフォルムが独特の動きをつくる。

 堀一浩「ceremony」佳作賞。床がクリームに埋まっている。そこにセーラー服の女の子が腰を下ろしている。縫いぐるみのピンクの毛皮。ねっとりとして、うまく動けないようなコンディション。クリアなフォルムが魅力。渾沌とした不安な思春期のイメージを描く。

 山中俊明「景想―極光の発露」奨励賞。ハンモックに乗る女性。下方の鏡の上に乗る女性。ポーズを変え、服装を変えた二人の女性は実は同一人物だが、それを幾何学的な背景の中にくっきりと描く。

 宮地明人「そこに在るということ」佳作賞。おなかが膨らんでいる妊娠中の女性が、マタニティドレスを着て、足を投げ出して、お皿を持っているが、そこには苺が一つ。全体がベージュのトーンの中に、丁寧に対象のフォルムを追う。女性の柔らかな妊娠中のそのフォルムを追いながら、ロマンティックな優しい雰囲気をつくる。

3階─17室

 瀬戸一郎「WHERE(再生3・11) Ⅰ」佳作賞。真ん中に眼鏡をかけた男の人形があって、胸に時計がはめこまれている。胸がくり抜かれて旋回するわけだが、そこは時計になっていて、実際の時刻をあらわしている。上にはトカゲの上に日の丸のマークがある。トカゲはいくら切っても再生すると言われているから、日本がトカゲのように再生してほしいという意味になるのだろう。周りには顔や股や足やトルソなど、それぞれパートが置かれていて、右上には足の上に二時四十七分、三月十一日の津波の発生の時刻が描かれている。ばらばらになった身体がそれぞれ振動している。まさに3・11再生のイメージである。

 西海谷真由美「僕らはみんな生きている④」奨励賞。大きな女性の唇の上方が花になっている。針金で枠をつくって、そこにストッキングを張って彩色したフォルムで、華やかである。アピール度の強い作品で、両側はミラーになっている。ポップな感性に注目。

 遠山隆義「黒い誘い(B)」佳作賞。幽体離脱のように、自分のボディを顔が眺めている。ボディの中にも目があったり、妙なものがあったりするのだが、GAS EXPLOSIONS KILL24という文字が見える。ガス爆発が殺したと書いてある。コラージュしながら絵具をつけて、またその上からコラージュして、不思議な世界をつくっている。黒に独特の粘着力と手触りがある。いずれにしても、ボディを一つの船のように描いて、それを眺める本人というシチュエーションはユニークだし、そこから発する生き生きとしたイメージが面白い。

3階─18室

 波多野香里「私と母」。椅子に座っているのは私で、後ろに床に座っているのが母である。母は老いた雰囲気である。肌がいずれも緑で彩色されて、強くリアルで実存的な力が感じられる。生というもののもつ記憶、その気配、プレッシャー。そういったものを暗い無地の空間の中に二人を背中あわせに置くことによって表現する。

3階─19室

 谷昌明「紅鱗彩映」。水の中にニシキゴイが泳いでいる。まるで赤い炎が揺らいでいるような、独特のポップな感覚に注目した。

 木村節子「『ゆくえ』Ⅱ」。塔の上にタンクのような円筒形のフォルムがあって、そこからたくさんのパイプがつながって、周りを旋回している。そんなものを背景にして、猫がこちらに向かってくる。緑の目としなやかな強いフォルム。散乱する木の板。福島原発が三年たってもまだ収束しない不安感のようなものが、しぜんとこの背景の建物から感じられる。その中に動物的な本能で生命をまさぐり、未来に向かうメタファーとして猫があらわれる。ヴィヴィッドな構成とシャープなフォルムが魅力である。

 後藤玉枝「想い出ソナタ」。白黒のトーンによって、石化したようなフォルムがあらわれて、独特の心象表現となっている。中心には鳥の頭があって、目の周りのしわを見ると、かなり年をとった鳥であることがわかる。その右横のチューブから液体が出てきている。その液体を頭にかぶった魚の頭。左の布のフォルムなどは柔らかな雰囲気である。斜光線の中にほんのすこし黄土色などが使われて、柔らかな光の中にこの鳥はいる。「想い出ソナタ」という題名と合わせてみると、このチューブからあらわれてくるものが記憶の一部ということになるかもしれない。それはずいぶん重い存在のようだ。鳥の胸の下にある布がねじれ、結ばれて、ゆるやかに浮遊しているようなイメージの中に、ソナタが聞こえてくるような雰囲気がある。柔らかな音楽的な性質に対して、重い記憶といったもの。二つの要素に囲まれた鳥のフォルムが擬人化される。

 宮本孝之「或る日の記憶(Ⅰ)」。壊れた板の床や壁。白いペンキが塗られているが、はげて、しかも壊れている。その壊れた板塀をさらに突き破って、巨大な猫が現れた。滅びていくものに対して、新しい命の誕生。あるいは怒りのような心持ちがヴィヴィッドに表現される。

3階─20室

 谷内栄吉「共存 Ⅲ」。ビルのテラスに猟犬がいる。上方にヘリコプター。たくさんの風船と高層ビル。不思議な物語。映画のワンシーン。

 土佐大吾「ペア」。頭のはげた男と女性とがタンゴのようなダンスを踊っていると思って見ていると、頭のはげた男は実は女性であることがわかる。すこしショックな雰囲気であるが、関西ふうな明るい雰囲気のなかでタンゴを踊る二人の女性の楽しいエネルギッシュなそのイメージに感心する。ピンクや緑の原色による色彩の強いハーモニーもダンスにふさわしい。

 廣川飛鳥「スイミング・プール 3」。スイミングプールで泳いでいる女性たちを、水の中から眺めている。胴体や足、一部、中に潜った顔も見える。七色の光の中にそんなフォルムを幻想的に表現する。

 伊藤幸生「シャワータイム 1.」。シャワーを浴びる男。唇の下に海があらわれて、泳いでいる姿やモーターボートに乗るイメージがあらわれる。ポップな感覚によるイメージ表現。

 中畔千嘉「ジル」。フランス人形の顔が上方にある。目は髪の毛によって覆われている。周りに巻髪が垂れている。その巻髪がいくつもいくつも垂れている様子で、その連続性によって起きるリズムが激しい。よく見ると、この胸像のような顔と巻髪によってピラミッドのようなフォルムがあらわれて、そこから激しい光が左右、上方、周りに放射しているようなイメージを感じる。人形をメタファーにしながら、激しいインスピレーションのようなもの、その閃光のようなイメージを面白く表現する。

 有本ふみ子「仮説 Ⅰ」。正方形の画面を左右三つ、上下四つのパートに切って、そのまま額の内部が箱になっているといったトロンプルイユになっている。いちばん下には向かい合った男女の人形。横には石。上方には蝶の標本。左のほうには木の枝に掛けられた緑の布。そして中心には、空に浮かぶ白い雲が上方まで伸びていく。その横には赤い昆布のようなフォルムが見えるし、右のほうには障子がある。それぞれのパートはクリアにそれぞれのシチュエーションを表現する。「仮説」という意味はわからないが、そのようなものが集合することによって、不思議なクリアな映像的な世界があらわれる。フォルムがクリアで、それぞれの箱の中にそれぞれのフォルムを入れることによって、全体でそのストーリーをどうぞ絵を見る人に想像してほしいといった、提案的な表現として面白く感じる。

 亀井政子「なわとび」。チャイナ服を着た五人の子供たち。その前でカエルとキツネが縄を持って、「どうぞそれを跳んでください」といった雰囲気。後ろには山が見え、山の向こうは夕日の空。面白いファンタジーである。油彩らしいねっとりとしたマチエールによって、独特の物語を表現する。

3階─21室

 村田悦子「遠い記憶 2」。ドラム缶の上にカラスがいる。塀の向こうには茶褐色の瓦の屋根。カラスは不思議な雰囲気で、なにか語りかけてくる。積んだドラム缶が落ちかけている。不安定な心象のなかに、心のこもったある深い内容をカラスは語ろうとするかのようだ。

 栗岡和美「LA VITA1」。漆喰の壁ははげて、煉瓦の土台が見える。洗濯物が干されている。それぞれのマチエールとフォルムによって、全体で生活の歌のように表現する。

 持田隆志「彼方へ」。鳥の巣を人間の指が抱えているが、その内部は空洞で、その向こうに空と星が見える。痛切な、津波などによって大切な人を亡くしたその気持ちからあらわれたコンポジション。

 竹鶴昭子「風の旋律」。大きな樹木の前に女性がいる。お洒落な下着をつけて、花を頭に差している。後ろは崩れた断崖のような土が見えて、そばに巨大な樹木が立ち、そのうねうねとした幹や根の動きと女性とが相まって、独特の生命的な力が引き寄せられる。

 杉田緑「何処へ 2014─1」。緑の樹木が上方に、あるいは斜めに立ち上がっていく。そこにフクロウが飛んできているが、手前の大きな巣の中には何もない。喪失した悲しみ。青の柔らかなトーンの中にそんな感情を歌うように表現する。

3階─22室

 藍原亜美「はじまりの場所 3」。海岸に石が積んであって、そこに仰向けになった死体がある。たくさんのカラスが鳴き叫び、飛び、下りてきている。紫の花がそばに咲いている。悲惨な状況を柔らかなタッチのなかにクリアに表現する。海がすこし波打っているようで、海が深いレクイエムの表情を見せる。

 阿部一真「人間」。壊れた建物や石。その鉄筋が歪んで、まるで針金のように見える。そういった光景を、全体で花が開いたような構図の中に表現する。クリアなそのフォルムと画家のイメージの強さに注目。

 福井満「予感 Ⅰ」。ビルがいくつも立っているあいだに小さな民家も見える。右のほうは岸壁のようで、そこから巨大な波が押し寄せてきている。青い波に囲まれたこの街は、やがて大変な被害を受けるに違いない。そういったシチュエーションをしーんとした気配のなかにしっかりと表現する。

 保高達朗「ベルリンの街の映り込み」。歩道を歩いていく旅行者。リュックを背負っている。向こうから夫婦が乳母車に子供を乗せてこちらに歩いてくる。ショーウインドーに映る景色。まるで日本の大阪あたりの光景のようだが、ベルリンの街だという。クリアなフォルムによってしっかりと表現されているところに好感をもつ。

 柳田美穂「Shutting From The Sky Ⅲ」。日本が敗戦した太平洋戦争でB29が押し寄せてきている。赤い炎がもうもうと上っていく。格子状の柵のガラスの向こうで女の子が恐怖に震えている。いまから七十年近い前の東京大空襲のイメージだろうか。なにか痛切なものが感じられる。

3階─23室

 東さかえ「見るもの見られるもの」。目の中に少年がいる。少年は石の積んである上に座っている。目の中にいる少年というシチュエーションが面白い。少年はこの女性の目の中に抱かれて、閉じ込められているのか。あるいは、あまりに深い愛情によって幻影のようにここに存在するのか。様々な心理学的な解釈がこのシチュエーションから起きる。

 鎌田沙耶「従順さ」。室内の情景。標本のようなボックスの中にいろいろなものが置かれていて、上方に金魚が泳いでいる。コップには大きな薔薇の花も差されている。うねうねとした細い紐のようなものにイルミネーションがされている。ここに不在の人を待っているコンディションなのだろうか。強い情感が画面から感じられる。

3階─24室

 黒沢典子「重なる Ⅰ」。三角形のテトラポッドのようなフォルム。ピンク、黄色、緑、グレーと様々である。それらが重なり、集積し、不思議な動きをつくる。ジグザグ模様で渾沌としているのだけれども、その中ですっきりとした不思議な連帯感のようなイメージもあらわれる。中心の白いフォルムを緑、グレー、黄色、ピンクなどの色彩が囲んでいて、不思議な安息感のようなものがあらわれているところが面白い。

 上杉さなゑ「生きる―護る(ノ―・ウォー)」。船の中に若い夫婦と母親の抱く赤子。背後には波が寄せて、岩がある。船には白い鳩がとまっている。まさに題名のように、子供を守りながら人生の旅を続けるといったイメージを、しっかりとしたフォルムの中に表現する。三角構図に安定感がある。

 飯田博己「上をめざして 2014─Ⅰ」。二歳、三歳、四歳といった女の子や男の子が、だんだんと上方にせり上がっていく。その構成が面白い。

 桜井節子「ハッピーバースデイ Ⅰ」。十歳ぐらいの女の子。額が秀でている。前にバースデイケーキがある。そばで弟がケーキを食べている。後ろでは、はいはいしている子供。そんな様子を、中心に女の子の顔を配置し、放射状にフォルムを置くことによって表現している。優れた構成力に注目。

 加藤あ貴「かなた」。何百年もの樹齢をもつような樹木の幹の前に母と娘が座っている。座っているのはトランクである。つまり、二人は旅行中なのだろう。向かって右、樹木の向こう側に白牛が座っている。その雰囲気を見ると、この旅行はインドなのかもしれない。深い感情が画面の奥から聞こえてくる。それにふさわしいような優雅なフォルムによる構成と動き。

 林久人「潮、満ちるまで Ⅱ」。大きな岩の上に女性がのって、後ろに男が立っている。二人とも八十近い年齢のようだ。それを柴犬が眺めている。後ろには石やテトラポッドのようなものが散乱し、はるか向こうには海が見える。海が暴れて津波が襲いかかってきたのはつい最近だが、ここにあるのは、穏やかで静かな海を背景にした老夫婦の肖像画。モニュマン的なコンポジションである。夕方の一刻、穏やかな安息感の中に老夫婦と一匹の犬が描かれている。

 井川雅子「『感性』のままに」。手前に裸婦が三人いる。背中や、寝ていたり、立ち上がってくる一人の裸婦の三つのポーズのようだ。向こうに民家が三つ見える。その民家の上にU字形になって両手を前に上げた、女性の同じ裸の姿があらわれてくるが、それはグレーである。強烈な動きがそこにあらわれる。まさに「『感性』のままに」というように、放埒にヴァイタルな生命のイメージをこのような構成の中に表現する。ノンシャランな力と同時に激しい動きを呼ぶような生命力の表現。

 前原修二「春到来」。白い花を掌の上に置いて、それを慈しむように眺める男。体格のよい立派な男性で、背後に波打つように大地が描かれている。強い遠近感の中に表現されている。この男性の体のディテールが生き生きとしたイメージを発信する。

 松尾啓子「鏡の音 Ⅱ」。正方形の中に、黒いトーンの中から黄金色の光がちらちらと浮かぶ。朱色もそうである。それがなにかこだましてくるような独特のロマンティックな雰囲気である。光が揺れるように、まさに鏡に反射するように画面からあらわれる。

 三阪篤子「awake Ⅰ」。太い樹木の枝がまるで蛇のようにうねりながら人間を包んでいる。中にいる四人の人は小さな子供のようだが、大きな目を見開いて、いま目覚めた様子。そんな不思議なイメージを褐色系のグレーの中に静かに表現する。枝の向こうにはメッシュのようなフォルムがある。いずれにしても、柔らかでユニークな独特の感性である。

第68回二紀展

(10月15日〜10月27日/国立新美術館)

文/高山淳

1室

 美浪恵利「露につつまれ咲きみたる」。向日葵や百合の花の一部をピックアップして、独特の色彩豊かな詩的な表現にしている。写真をソフトフォーカスで撮って、それを構成したような現代的な表現である。

 狩野宏明「鹿踊りのはじまり」。木造の建物に瓦屋根。あるいは、粗末なバラックのような建物のみやげ物店。湯治場のような空間に狸の置物がいくつも置かれている。そういった昭和的な空間が背後に描かれる。手前には、ログ・イン、ログ・アウトという青と赤の掲示がされているが、ゲーム機のようなものがそこに置かれ、その上方に球体の中にたくさんの鹿が入れられている。鹿はその内部にも外部にも入れられて、アニメの中から現われて、この空間の中に画家の意思によって配置されているかの様子である。脳の中、あるいはゲームの中に存在するものと、実際の現実にあるものがない交ぜにされて、不思議なファンタジーをつくる。

 馬場洋「微睡みの幻―Ⅰ―」損保ジャパン日本興亜美術財団賞。矩形のテーブルにベージュのクロス。その上に白いクロスが掛けられている。その向こうに男が座っている。すこし開いた手のひらの中に一匹の蜂がいる。蜂のブーンとうなるような羽音がだんだんと増幅されて画面全体にあらわれてくると、世界が違ったものに変身するようなシュールな気配が感じられる。テーブルのそばにはトランクやリュックなどの旅を暗示するものが置かれ、その下方には手紙もすこし封が切られて置かれている。旅行するという日常から非日常の時間に入っていくうちに、現実が違ったものに変容しつつあるようなイメージの序章といった趣である。表現は描写的にリアルに具体的なディテールを追うことによって成立しているのだが、手のひらの一匹の蜂がそのようなキーワードとして画面に引き寄せられているところが面白い。

 戸田麻子「醒めないゆめ」準会員賞。女性が冬の衣装を着て座っている。白いレースのようなものを抱えている。目をほとんどつぶっている。その全体の様子から、現実と非現実の中間、あるいは夢の中にいる夢遊病者のような雰囲気があらわれる。そういった雰囲気の女性を外側から具体的に表現する力に注目した。

 高橋勉「約束の地(2014―Ⅱ)」会員推挙。冬の大地に雪が積もっているようだ。そこに白い雲があらわれる。カーヴする両側に、交互に小さな葉をつけた植物が旋回するようなかたちで、何本も何本も立ち上がって上方に向かう。まるで大きな樹木のように。手前にはドライフラワーがあって、そのドライフラワーの幹の代わりに曲線のフォルムが道のそばを伸びていく。その先にはアンモナイトのようなフォルムが見える。化石化したアンモナイトがいまの時代によみがえり、時間の謎のようにあらわれている。ここに表現されているのは存在しない空間、ねじれの空間とねじれの時間とがクロスする世界のようだ。そして、その時間の果てに新しい約束の空間が生まれるのだろうか。

 渡辺香奈「day after day」。白いシーツのつけられたソファに女性が座っている。組んだ足。右足の上に組んでいたその左足が上に持ち上げられて、体を激しく左にひねっている。夢魔のようなイメージ。のんびりとソファに足を組んで座っているのではなく、そんな平穏な時間に襲撃してくるような、もう一つのまがまがしい強いイメージ。そんなイメージの襲来をこのようなかたちで表現する。そんなイメージが襲来してくることこそが、今日の時代というものであるに違いない。それをパントマイムのようなかたちで象徴的に表現する。

 立石真希子「室内」。向こうにシンクと二つのガス台。手前にテーブル、椅子。上方の収納庫の下にある蛍光灯。蛍光灯は白々しい輝きでこの光景を照らしている。無人である。清潔な片づけられたキッチンが、病院のような無言の、平和であるが、なにか危険なものを背後に秘めたような、しかも白々しい独特の心象的なイメージをつくりだす。

 柏木健佑「記録」準会員推挙。明治、大正、昭和の昔の時代といまの平成の時代の時間のなかから、イメージを適当に引き寄せてひとつの空間をつくる。手前の地面に緋毛氈の敷かれたところで、青年やおじさんたちがロープや竿を立てて作業をしているが、舞台のようなものをつくろうとしているかのようだ。その向こうには、上方に洗濯物の干された空間の下方に紋付き姿の女性や正装した男性が座って、何かの儀式を待っている。その向こうには川が流れている。川に向かって裸の男が立っている。川の向こうは畑であるが、畑の中に半ば体がうずもれて赤い衣装の上半身をのぞかせた中年の夫婦のような男女があらわれている。その向こうに山がある。日本のそれぞれの時代のなかのイメージ、物語を自由に画面に引き寄せて、新しいシュールな物語をつくろうとする。それを説得力あるものにするために、ディテールをクリアに描いて、まさに現実にそのようなことが起きているかのような幻覚を起こさせるような筆力や構想力が面白い。

 株田昌彦「Cross Road」。巨大なコンビナートのような工場が、実は白い象によって支えられているといったイメージが面白い。象はなにか瞑想的で、百年生きる草食動物である。そんな象のイメージと人工的なコンビナートの現代科学の先端のような重厚感のある工場とが連結されるところに、予想外のショック、イメージの混乱といったものが表現される。それによって、お互いがお互いを照らし合わせて、象の秘密、工場の秘密といった、ある本質が画面の上に問いかけられる。

 今林明子「見えざるものの境界線」宮永賞。クラシックな、たとえばヴィクトリア朝の頃のイギリス女性の顔のようなイメージ。そんな顔の横に鏡があって、同じ顔がすこし角度を変え小さくなって鏡の中に映っている。すこし緑を帯びたグレーのモノトーンの中に、柔らかな光線が当たる。そして、不思議なロマンティックな時間がそこにたゆたっているような印象があらわれる。

 濵田尚吾「地平につづく道」。はるか向こうに続いていく岬のようなフォルム。中心には岩や草が生えていて、端を道が通っていると思ってふと見ると、それは巨大なクジラの身体であったというように描かれている。大地全体が巨大な生き物と重なり、あるいはその変身的な要素によって成り立っているといった、アルカイックなイメージである。下方には鉄道のようなフォルムがカーヴし、上方には小さなサメが飛行機のように空を飛んでいる。ぐいぐいと描きこむ筆力とイメージの発展的なポジティヴな力によって、アルカイックな力が引き出される。

 石田葉子「風吹く日」会員推挙。女性が水差しを持って歩いている。その先には蛇口から水が下方に流れてきて、下方のバケツに入れられた洗濯物に当たって、はじけて水滴となって上方に飛んでいる。上方には干された洗濯物が風に吹かれている。そのそばにはもう一人の女性がいて、階段を下りてきている。床の向こうのドアがあいて、ドアに貼られた予定表に女性が何か記そうとしている。日常のなかのそれぞれの動作を集めて、ファンタジーをつくる。時間はそれぞれ異なる。三人の人間がいると、三つの時間がそこにあらわれる。いずれもそれは日常のなかでの時間である。それを集めて、親密な当たり前の日々の仕事が不思議な詩の中の世界のように表現される。

 岩永敬子「折り方を忘れられた折鶴」。手前に方舟のようなフォルムがある。その中に巨大な折鶴が折られかけで途中で終わりになって、そこにたくさんの人々がいる。折鶴の中から顔を出している人間たち。羽のように両足を突き出した人間たち。手前には鶏や猫などがいる。この船に向かって階段があって、そこにセーラー服の二人の女性が歩いている。右のほうからは牛が顔を出している。画家は九州の農家にいて、牛の世話もするし、鶏の世話もしながら絵を描いている。そこから眺める都会というものが、不思議なものとして捉えられているようだ。後ろにも船があって、後ろはまさにノアの方舟のように牛やたくさんの人々、自動車などがある。その下方にはたくさんのビルの密集する都会の風景があらわれている。後方に二つの船が浮遊しているが、手前のこの途中まで折られた折鶴の船は着地している。下方から赤い光が燃えているようなイメージを表す。人間たちの格闘する様子、あるいはわけのわからない働きによって重量感があらわれて、飛べないのかもしれない。信仰をもたない人々。手前には鶏が宙に飛び、下方の餌をつつくように頭を下げ、猫が動き、人々が集まったりベンチの上にいたりしながら、日常生活のなかの存在として描かれている。いわば人間喜劇ともいうべきものを農家の女主人の立場から描いていて、この混乱している現象こそが現代の日本の社会ということになる。手前の船の右の奥から朱色に輝くものは、何かの炎のようなイメージで、やがてその炎はこの船を焼き滅ぼすのかもしれない。船首には骨になった鳥が立っている。そして、船の両側から牛が顔をのぞかせている。そういった牛とか鳥といった自然の存在を生かそうとするのだが、人間たちの重量によって船は浮かばないといったことになるのだろう。困難な日本の現実を不思議な喜劇のように表現する。

 白石顕子「言葉が眠る日」。高層マンションが正方形の画面の約八割の面積を占める。日に照らされた部分と暗い部分。ベージュや暗い黄土色に緑の窓。独特のエネルギッシュな表現であるが、そこに哀愁ともいうべきイメージが立ち上がる。その屋上の部分は何も描かれていず、その上方に電線のごときフォルムが幾本もあらわれる。そこから、階段が上方に伸びている。地上から天上に向かうようなイメージが強く感じられる。集合住宅がこの絵の中では人間の哀愁を帯びた群像のメタファーとしてあらわれ、人間たちは地上から天空に向かってイメージを立ち上げようとするかのようだ。

 星美加「沈黙」。窓をあけて、風が吹いてくる。レースのカーテンがたなびいている。それに向かい合っている黒いワンピースの女性。壁は代赭色。様々な絵が掛けられている。面白いのは、手前の白いテーブルの上に古い本やアルバムのようなものが積まれているところ。そのへんのもつ現実感は、この画家ならではの力である。

2室

 宮田翁輔「大地とともに」。すこし紅葉したような草が、ビロードのようなマチエールをもって向こうに続いている。手前の道に面して四つの大きな建物がある。その背後は丘になっている。丘の中に小さな道が見え、建物が点々とある。自然と向かい合って生活するイギリスの人々。その村の様子を温かく表現する。大地がまるで静かに鼓動しているような趣である。

 難波平人「銃眼塔を持つ村ウシュグリ(グルジア)」。グルジアは長く内戦があった。グレーの建物群。間から幾つも塔が立ち上がる。この不思議な塔の上方に人が住んでいる。その上方に銃眼があけられている。下方には人は住んでいないという。画家はその異様な街を今回訪ねて、表現した。手前の家などは壊されて、内部は空洞になっている。そういった廃墟のような街の中に人のいる塔があって、それらが強い陰影の中に表現される。左のほうから光が当たり、強い明暗のコントラストが生まれる。孤立した人間たちと連帯する仲間たち、そして戦い、殺戮。そのようなヨーロッパの激しい内戦のあとの街を、この建物と道による風景によって画家は表現した。独特の文学的な想像力を風景のうえに表現する。

 北村真「ガンガーの下降」。ガンガーとはガンジス川のことである。その川のそばにいる母と娘たち。子供が横になって寝ている。鳥がたくさん飛んできている。犬もいる。実際、インドでは犬や牛も鳥もあらゆるものが同一の価値をもって捉えられている。そういったインド的な思想というものが、ガンガーを背景にしてよく表現されている。クリアなフォルムを組み合わせながら、全体でお互いのフォルムがリンクし、曼陀羅的なコンポジションをつくる。

 佐々木信平「何か…」。大きな葉をもつ灌木の向こうに駝鳥の顔があらわれている。数えてみると九ついる。葉の後ろの下方に太い足らしきものが見える。その駝鳥の顔が頭のはげた人間の顔のように感じられる。すこし気味の悪い九人の群像と言ってよいかもしれない。なにか不安で禍々しいものがあらわれている。通常の、たとえば健康な人間にガンのようなものが発見されたときの心象。いわば平和のなかでのブラックホールに出会ったときのなんともいえず不安ないやな雰囲気といった様子が、この駝鳥の顔によって表現されているように感じられるのだが、どうだろうか。不思議な寓意的な表現だと思う。

 山本貞「桜咲く日」。ジャングルジムの中に三人の若い女性がいて笑っている。右のほうの揺れているブランコには青年が乗っている。灌木の垣根の向こうには桜の花が満開である。この公園に向かって後方の桜の花のほうから光が差し込んで、手前に黒々とした影をつくっている。影はどんどんと変化していくだろう。春の午後の一瞬の情景がいとおしく表現されている。時間というものの層のなかに捉えられた姿のように思われるところが、この作品の面白さである。画家は少年時代によく西のほうに向かう夕日を眺めていたそうだが、やがて夕日が来て、夜が来るだろう。そのように、この若い女性たちもあっという間に年をとるのに違いない。そういった時に対する感慨というものがベースになって、この透明な光に満ちた光景、人々が表現されているところが面白い。

 藪野健「思えばここに立つ日、全てが始まる」。画家はスペインに留学していた。これまで、その頃の街の作品を描いてきたが、画家に取材すると、これはイタリアのトリノだという。巨大なアーチが描かれている。このアーチが、今回のこの絵のコンポジションの要をなしている。このフォルムをここに置くのにずいぶん苦労したものと思われる。これによって一つの絵がモニュマン的な力を表す。アーチの下方に赤いバイクがあり、人が一人立っている。手前には丸いテーブルにパレット。右のほうにはキャンバス。そして、向こうに路面電車があり、巨大な建物が右方向に描かれている。同時に左のほうにも大きな建物があって、塔が伸びている。画家は建築が好きで、たしか早稲田では建築を教えていたと思うのだが、そういった都市というもののもつ骨格、まちづくりに対する強い興味がある。そのまちづくりといった思想をそのまま絵画のコンポジションのなかに引き寄せて表現する。そういった意味では、このアーチは平面と立体とのリンクする絵の中の工夫であり、それが成功していると思う。手前には室内の風景があらわれる。そして、青い空が画面の半分以上を占め、ある絶対感覚といったものがあらわれる。無限なるもののイメージがそこに顕現し、歴史を照らし、同時に現在の画家の今を照らすのである。

 山本文彦「地異 Ⅲ」。海のそばの岩のある情景。その岩の上に仰向けに寝る青年。その青年が手前では立っている。そばに若い母親と娘。画家は岩とか隕石といったものに対して強い親和力を示す。それは地球や宇宙の歴史に想像力が伸びていくからなのだろう。仰向けに寝た青年のそばに、幼児の顔が石の中に刻まれている。はるか向こうの石の丘の上に十数人の人々が立っている。あちらにあるのは現実であるが、この岩のある光景はもう一つの未知なる画家のつくりだした、もっと違った時間のなかに存在するもののようだ。そうすると、手前にいる人間たちは画家のつくりだした妖精なのかもわからない。画家の本来のシュールな素質が徐々に画面の中に動き始めたような不思議な感想をもった。手前の足跡のようなフォルムは実は岩の窪みであって、その窪みの様子を見ると、はるか昔の時間を連想する。

 滝純一「離騒」。「離騒」とは屈原の詩の名称である。屈原は世の乱れをうたって、汨羅の淵に身を投げた。「わが君は何故に徳を備えた賢臣を愛さず 悪臣どもを近づけたもうのか 何故にその態度をいつまでもお改めにならないのか 天下に向けて千里の馬を馳せさせたまえ その時こそまつ先かけて先導を受けたまろうものを」。この風景にはメランコリックな雰囲気が漂っている。上方のこんもりとした山は活火山のようで、そこから煙が上っている。下方の大地にも雲が漂って、下方の光景はよく見えない。赤い鳥とグレーの鳥が飛んでいる。鳴き交わしている様子も、なにか憂愁の気配である。画家の詩人としての感性によって、屈原のように世を憂う気持ちがこの不思議な空間をつくりだした。

 立見榮男「河童緑陰」。河童や桃太郎などの妖精のようなイメージのものが緑の空間のなかにあらわれて、楽しいファンタジーを表す。日本人のもつ汎神論的な自然に対するイメージを生き生きと表現する。

 北久美子「2014年の夏に」。孔雀が二羽描かれている。左右横長の画面の上に優雅なカーヴを描いて、後方には緑と青の孔雀、手前には白孔雀が描かれている。その白孔雀が実に神々しい。これは画家の創造した孔雀のように思われる。そして、夢のようにその孔雀の尾のあたりから白い砂子のようなものが上方にカーヴしながら伸びていき、それが蝶に変じている。孔雀の手前下方には蓮の葉がたくさん描かれ、ピンクの花の蕾や開いた花が描かれている。蓮台という言葉がある。蓮の上には仏さまがのっているが、今回は二羽の孔雀が描かれている。よく見れば、青い孔雀は男性で、白い孔雀は女性なのかもわからない。青い孔雀は画面に対して左後方に向かう動き。それに対して手前の白い孔雀は、画面に対してほぼ平行なかたちで描かれている。上方を見ると、昼の満月が浮かんでいる。青い透明な空の向こうに儚いような昼の月が浮かんでいるのも、手前のしっかりとした花と孔雀の表現に対して、より繊細なイメージ。「色即是空」という言葉があるが、「空」なるもののイメージとしての青空。そして、「色」としての現実としてのイメージの二羽の孔雀と蓮の花。しかも、その二つの様子は、現実でありながら、実は虚の空間で、画家のつくりだした不思議な世界。いわば極楽のようなイメージがしぜんとそこに感じられる。そして、砂子のような白い粉をまくと、それが蝶に変ずるといったように、この絵を見て感じるのである。

 市野英樹「ひとたち」。独特の存在感がある。座っている男が三、四人いるようだ。左に一人、右のほうでは二、三人の人々が絡み合って、どれがどの足になっているのか、よくわからない。しかし、そこには存在するものの息吹のようなもの、そして、それらが集まって一つの塊をなしている。一つのファミリーのようなイメージをそのまま一つの塊の中に表現する。これまでのすこし暗い調子からすこし明るくなって、光がちらちらと画面に輝いている。人間というものの存在のモニュマンと言ってよい。

 松尾隆司「ラスコーに憶う」。ラスコーの壁画は二、三万年前の当時の人間たちの祈りや狩猟の記録である。そういったイメージを上方に置いて、二人の女性がいま立っている。衣装を見ると、イスラムふうな衣装である。ユーラシア大陸のイメージ。その中心にイスラムや現在の戦火を交える街があるのだが、悠久たる歴史に画家は思いを馳せながら、この作品を描いたようだ。遠景には山があり、遠くに空が見える。

 遠藤彰子「燃ゆる火中花触れあふ」。五〇〇号の縦長の画面の下方には、屈曲する樹木の枝の先に白い花が咲いている。その後ろには白い骨のようなフォルムの内部に様々な人間たちがいるのだが、その中にタコの足のようなものがあらわれているのがあやしい。貝のようなものも爬虫類のようなものも存在する。あいだによく見ると、馬のようなものも蛇のようなものもある。この骨のようなフォルムの中には蛇、爬虫類、海のもの、そして人間などがいる。上方に赤いドレスを着たようなイメージと赤い花とが重なって、それが全体で炎のように燃えているイメージがあらわれる。そこに母と娘などのフォルムがあらわれて、それら全体がゆるやかな動きのなかに移動しつつあるようだ。後ろのほうには水があらわれている。上方の人間たちの母と子の集団のようなフォルムと炎と花びらとそのイヴニングドレスの衣装とが重なったような不思議なフォルムの上方には、鳥たちが集まってその光景を眺めている。そして、鳥たちと一緒にその赤い塊は静かに移動しつつあるようだ。季節の移り変わる様子。時間の中に命が燃えながら動いていくイメージがしぜんと感じられる。そのイメージは実に深く、人間と花と炎とそれを見守る鳥たちが一群となって動いていく。それに対して下方のささやかな梅の花のようなものは、やがて満開になり、消えていく。われわれの知っている樹木の花の変化である。その向こうには裸木が風に靡いて動いている。そして、後ろには海があらわれている。地球という星の物語を画家は描こうとする。地球という星の記憶の中には爬虫類から鳥や哺乳類、あるいは貝やタコなどのものが進化の体系の中にたくさんいるわけだが、それら全体を画家は背負って、その物語を描こうとする。それが静止したものではなく、時間につれて変化していく動きそのものが上方にあらわれているところが実に面白いと思う。

 秋山泉「刻の交差 Ⅱ」。川の周りに樹木が密生している。そして、上方の空には雲が出ている。そういったコンディションの中に光が差しこんで、鳥が飛ぶ。川とその周りの空間をだんだんと下方に行くにしたがって大きくした四つのパターンが描かれている。そこにも光が交差し、光によってあらわれる輪郭線のごときものが繰り返される。それを見ていると、いわゆる相対性理論を思い起こす。光がそれぞれのポジショニングの中に観察され空間化されるといった相対性理論の世界である。「刻の交差」というのは、そのような相対性理論的な時間によって観察される空間といった意味合いがあるのではないだろうか。最近のこの画家の時間に対する関心は強いものがある。そして、その上方には鳥が飛んでいるのだが、鳥も刻々とそのポジションを変えていく様子を、ある時間帯のなかに一望のもとに表現した。そして、最初の出発からだんだん時間の推移にしたがって動いていく様子を、波のようなかたち、波動のようなかたちで、こんじきの線によって表現した。そして上方に、そういった画家のイメージを雲が眺めているような、不思議な気配の空間があらわれた。そこにはこの作品を描く画家自身を客観化するような、天上から見る雲のようなフォルムがあらわれて、実に面白い。いずれにしても、そのような精神のもつイメージの力、その様子が独特の強い波動としてあらわれている。画家のスーラに対する関心も、おそらく同じような精神の力に起因するのではないだろうか。

 加野尚志「黄砂の頃」。画家は長崎の在住で、長崎には九十九島といって、たくさんの島々が海に広がっている。そんな九十九島を背景にして、下方の緑の野原を背景にして、百合の花を描く。そのとっぷりとした情感のある百合の花のフォルムが力強い。深い祈りのようなイメージが、シンメトリックなコンポジションの中に表現される。

3室

 西村榮悟「霧・花野」。人形が草原に座っている。その手前に向きを変えた同じ人形が座っている。後ろに道があって、その向こうに赤い屋根の建物が見える。右のほうには渚のようなイメージの空間が広がっている。人形の上方には灌木の茂みが見える。そして、そのような中に霧が渡っている。霧は日本画では雲として「洛中洛外図」などにあらわれてくるのだが、それによって異なる空間を結合する。同じような意味もあるのかもしれない。霧によって見え隠れする。と同時に、その霧は画家のイマジネーションにしたがってあらわれてくるもののようだ。そして、この草にうずもれるような二つの人形のあいだを囲んでいる。人形は画家の記憶や未来へ向かう希望といった精神の象徴としてあらわれている。過去と未来とのあいだに立つ現在というものの不思議な存在。それを霧が囲みながら、不思議なロマンティックなメロディが画面から聞こえてくるような空間が生まれた。

 吉野純「原罪(アダムとエヴァ)」。左に女、右に男。女は林檎を男に渡し、男はいま受け入れようとしている。そして、中心の木に蛇が巻きついて、女に蛇が囁いている。いわゆる原罪の物語を、ロマネスクの彫刻などに見られるような強い簡明なデフォルメしたフォルムとシンプルなコンポジションによって表現する。

 黒田冨紀子「長閑な休日」。樹木の周りで手をつないで遊んでいる六人の女の子。そばには母親が生まれたばかりのような小さな子供を抱きかかえている。子供に対してその大きさが強調されている。上方にも花が咲いている。巨大な赤い太陽が青い空に浮かぶ。母と子。太陽と花。自由に飛び回る黒い猫。平和な中での生活感情といったものを、独特の構図の中に表現し、一種のモニュメントをつくる。

 高崎研一郎「緑・広がる」。野原に横になった男性。その後ろに四人の女性たちが衣装を変えて立っている。すこしあいだをあけて母と子の姿が見える。そして、その下方に赤や黄色やジョンブリヤンの花が咲いている。実に可憐な星のような花と言ってよい。そばに白い鳩が飛ぶ。上方には岬があり、湾が見える。横になっているのは、画家自身の自画像のようなイメージ。そして、イメージのなかでこの美しい緑の中に女性たち四人を立たせ、母と子の像を引き寄せた。そして花を咲かせた。そういった言葉がしぜんと浮かぶ。緑の深い色彩の中に女性たちの衣装の色彩が静かに輝き、女性を花に変容したように小さな花が咲いている。温かな強い画家のイマージュの力による表現である。

4室

 北誠一「人と風景」。テーブルの周りに七人の男女が座ったり立ったりしている。その後ろに三人の男たちが話し合いをしている。そのさらに後ろに銀髪の女性の後ろ姿が見える。若い女性のように思われる。その向こうには不毛の大地が伸びている。テーブルが青く、まるで水や空をそこに映しているようだ。沈黙の七人の男女の様子がミステリアスである。いずれも内界の中にすむ人間たちで、これらの群像を通して画家は何を語ろうとするのか。繰り返しあらわれてくるこのコンポジション。内界のこの人間たちにふれることによって、もう一度命を豊かにしようとするのか。孤独の中に発見された群像は、深い自然のもつ孤独な姿と対峙するようだ。

 小柳吉次「栖」。太い幹をもった樹木が何本も地面から立ち上がり、集合している。奥行といい、左右の大きさといい、不思議な量感をもっている。ずっしりとした存在感のなかに柔らかな光が当たって、不思議なイメージを表す。そこに四羽のカラスが飛んできている。樹木には穴がぼこぼことあいていて、すみかというより、一つの家のようなイメージがあらわれている。カラスとふるさとのイメージがそこにしぜんと感じられる。この家がカラスのすみかというわけではないのだろうけれども、すみかとしての本質的な要素が、このうねうねと枝を伸ばす人間のようなグレーの樹木に感じられる。人間のメタファーとして存在感のある重量感のあるカラスが四羽、お互いに会話し、鳴き交わす。実にドラマティックな表現である。

 神近昭「〝悪の華〟より」鍋井賞。黄色からピンクのバックに紫の花が広がっている。その中に亀裂が走っている。黄色と紫は補色である。光の中に紫の陰りがあらわれ、それが伸びていく。悪の華が誕生する。そのイメージをアンフォルメルふうな構成のなかに見事に表現した。

 橘公俊「百日紅物語『翔』」。サルスベリの花が満開である。右のほうにはその穴のある枝が二本ほど上方に伸びて、まるで猫の手のように見える。下辺には白い猫が祈るように座っている後ろ姿。上方には鳥が左に向かって飛んでいる。このサルスベリの花はあの世とこの世との境界に咲いている花である。鳥が翔んでいるが、あの世に向かうのか、手前の世界に戻ってこようとしているのか。生と死の幽明界のようなところに咲く巨大な赤いサルスベリの花が、実に深い感情をこめて表現される。

 上瀧泰嗣「孤独な男」。黄土色の無地の色面に赤の不定型のフォルム。その中から女性の顔と胸が立ち上がる。そのそばには子供を抱くインディアンのようなフォルムがあらわれ、赤い鶏冠をもった鳥がくるっとした丸い目をして朝の時を告げている。そばには魚がいる。そして、棒の先にはプロペラの飛行機がある。そのそばに倒立した男の姿。頭は雲になっている。左上方には色とりどりの鳥が集合している。右の赤いフォルムの上には二輪車に乗ったピエロ。なにか新しいものが生まれつつある予感。「孤独な男」ではあるが、朝が来て、その朝の日のなかで鳥が時を告げ、七色の鳥たちが集まって散歩に行くといった、そんなノンシャランで楽しい希望のイメージを、独特のメランコリックな雰囲気の中に表現する。

 朝倉雅子「オラトリオ鐘楼の響き」。下方に赤い雲に乗ったヴァイオリン弾きがいる。上方にはたくさんの人々の顔がある。老若男女。中に天使もいる。それは雲の中から浮かび上がってくる人間たちの顔なのだが、そのあいだにもう一人、ヴァイオリン弾きがいる。雲はみな白いのだが、下方には黒い雲もある。空を眺めながら音楽を聴いて、音楽のもつ生命的なメロディに沿って人々の顔があらわれてきた。そういったイメージを強い筆力の中にぐいぐいと表現し、顔の群像がそのまま音楽のメロディと化すようだ。

 庄司剛「景『復活の大地』」。円盤が画面の中心に描かれている。周りは黄土色系やこんじきの色彩で、はるかに地平線が見える。太陽が地平線近くにあり、光を発している。不思議なことに、この深い暗いブラックホールのような存在の内側からゼンマイのようなフォルムが現れている。先がクルッと渦を巻いたそのフォルムは、新しく生まれいずるものの象徴のように感じられる。砂漠を思わせるような広大な大地に対して、隠花植物のような暗い空洞の中からその命を増殖する存在が対照されて、実に面白いコンポジションになっている。

 中村幸男「黒い樹林」黒田賞。広葉樹が立ち上がる横に若木が伸びている。いちばん手前には葉を落とした樹木の幹が立ち上がる。空は黄土色。地面はもっこりとした暗いトーンの中に草が生えている。両側の樹木は杉なのだろうか。複雑な緑の陰影の中に樹木のもつ生気、その気というものがしぜんと画面から感じられる。

 板倉美智子「静かな日々」。四つのパネルが連結され一枚のかたちになっている。そこに四人の白い衣装をつけた女性たちが踊るような不思議なフォルムをつくりだしている。シーツをそのまま衣装として身にまとっている。目の周りの赤いかたちや口紅、ハイヒールの赤い色彩などがアクセントとして立ち上がってくる。背後は薔薇の集合体である。女性たちは、いわばナルシシズムの世界に生きている。四人の女性は一人の女性でもあるし、四人のそれぞれ個性をもった女性でもあるが、そのナルシシズムというなかに共通した性質があり、不思議な動きを示す。いわば女性を讃歌するイメージを、この「静かな日々」の中に静かにうたいあげる。

 米津福祐「2014 ライデン」。雷電為右衛門の造形化である。中心に雷電為右衛門の正面を向いた体と顔が描かれている。半ば構成的に表現されている。手前に牛、右手に花、そして後ろに巴のようなフォルムがあらわれ、雷電為右衛門を荘厳する強いコンポジションになっているのだが、全体には山吹色を中心にして優しく柔らかな雰囲気の生まれているところがよいと思う。

5室

 山形八郎「海石」。海石とは海に沈められた石や岩盤のことだという。上下にそのような岩盤が描かれて、不思議なリズムをつくる。上方はその岩盤がすこし青みがかって、周りも群青。下方はすこし黄土色がかって、周りは褐色である。褐色の海石と青い海石とが上下呼応する。画家は秋田県にアトリエを構えているが、秋田の雄大な湾のある海のイメージなのだろうか。上方に水平線が見え、セルリアンブルーのような空がうっすらとのぞく。海の底にある石を画家は自由に画面の中に引き寄せながら、パワフルで優しい、いわばアンフォルメルふうな表現で、ひとつの詩をつくる。

 西村紘治「誕生」。裸の女性が体をひねって顔を下に向けている。そこには白い布のような、フォルムがあらわれている。下方には鷺が死んでいる。逆様になったその頭。不思議なことに、この鷺のそばには花が咲いている。蝶々がこの裸の女性のそばにいて、そのそばに巨大な目がある。蝶々になって、この女性を眺め戯れようとするのだろうか。ゼウスは白鳥となってレダを襲った。盗み見する、女性を犯すという激しい官能への欲求が、その目に感じられる。蝶々がイモムシから蛹になり、蛹から変身するように、この目に見られた女性はその男性の力によって新しい官能の命を与えられるのだろうか。煩悩を絵画としてのコンポジションの中に組み込んだユニークな表現。

 中井喜美子「戦場の舞台」。フランス革命の頃の戦争のようなイメージが画面に繰り広げられている。あの頃のフランスの軍人のような帽子をかぶった男たち。馬車がとめられて、そこに洪水のように水があふれている。上方を見ると、人々がたむろして話をしているそばに、天馬に引かせた車に乗る男女と赤ん坊がいる。ぐったりと死にかかった女性を摑んで持ち上げる水夫。舵をとる兵隊。槍を持つ男。ボートの上では剣を持った男たちが戦っている。フランス革命の頃の人間臭い戦いを、画家は自由な想像力のなかに描く。『ベルサイユのばら』的なイメージを、ベルバラのように美しくなく、強く生命的に、老若男女を集めて表現する。

 上田保隆「木霊」。画面全体に赤いトーンが力強い。どこかポンペイの赤を思わせるような、手触りのある壁画的なマチエールである。その中心に大きなフクロウの顔があらわれる。その周りにいくつもいくつも向きを変えながら、時には逆様の顔もあるのだが、フクロウの小さな顔があらわれる。その緊密なエネルギッシュな空間の表情が独特である。エネルギッシュであるが、それほど動きはなく、何かに耐えているようなイメージである。以前、画家は大病を患って、ほとんど死ぬ直前まで行ったそうだ。いまは健康になられたのかもわからないが、その経験をへて、このような非常にシンプルでありながら、強い静寂感ともいうべき無言の力をもつ空間があらわれた。いわば一つの強いコンステレーションともいうべきものを画家は表現する。

 松岡英明「冬韻」。川が蛇行して向こうに行く。夜明け前の光景のような風景の中に黒い鳥が飛んでいる。土手の上の樹木。遠景の霞む山。空と水と大地が一体化して、瞑想するような雰囲気のなかに寂々たるメロディが流れてくるようだ。そのメロディの中を鳥が飛ぶといった、不思議な印象である。

 八木茉莉子「ある日」。大阪の庶民的なパワーをよく表現する。中心に、おばさまと若い男性がダンスをしている。手前のほうには、はげた男とおばさまがやはりダンスをして、手をつないでいる。それは小さく描かれている。その周りにバッグを持って子供を連れた金髪の若い女性がいたり、ぷらぷらと歩く黒人の男がいたりする。後ろのほうには着物姿や、洋服にしても盛装した雰囲気の女性が座っているのも面白い。この室内と思われる空間は、実は室内であると同時に戸外の空間ともつながって、その中に画家の紡ぎ出すイメージが生き生きと表現される。老若男女、そのフォルムの大小もかまわない。イメージのもつ力を徹底的に画面の中に放出することによってあらわれた妖精のような人間たちが、それぞれ静かにその生命力を鑑賞者のほうに発信してくるところが面白い。

 吉川花憂「生命の賛歌」。王女さまのような女性が、そんな衣装を着て縦笛を吹いている。細長い笛で、先がだんだんと広がって丸くなっている。それに沿って背後の樹木、ネムノキのように見えるのだが、葉が揺れる。下方に寄り添うように二本の木がある。画家はこのようなシチュエーションをつくりながら生命のメロディを画面の中に鳴らす。

6室

 佐藤幸代「彼方」。画面は上下二つのパートに分かれている。上方には天球図のようなフォルムが見え、下方には、教会ともお城とも見えるようなフォルムの上方に九日ぐらいの月が浮かんでいる。下方の黒い空に建物が白く光っている。その白に対して上方の天球図のような独特の銀をなめしたようなその光とマチエールが面白いと思う。イメージが空間化される。イメージがいわばインカーネーションするような、そんな不思議な空間が上方にあって、形而上的なものと形而下のものがお互いに呼応するようだ。

 櫻田絢子「祈りてある」会員賞。桜が満開である。下方の巨大な数百年の桜の幹が洞になっている。細かな花がびっしりとついている。枝が左右に広がって伸びていく。そのあいだからまた若い枝が伸びている。全体に精霊のような雰囲気。点描的な技法によって花の不思議な透明感があらわれ、桜のもつ霊気ともいうべきものが表現される。そのような桜を描くことは、祈りを表現するのと同一だろう。

 瀧本周造「CAMINO DE CIELO」。葉を落とした樹木が広がっている。左右に、前後に。その梢までもしっかりと描いている。下方を見ると、驚いたことに、すべて立ち枯れになったような枯れた樹木の集合体で、それは地平線まで続いているようだ。中心から不思議な塔のようなものが幻のように伸びている。空が赤く染まっている。残照の景色の中にこの手前の木は生きて、その枝を広げている様子が、実にドラマティックに表現される。

 德永芳子「行く水の流れ・須弥山より」。「行く水の流れ」というと、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」という鴨長明の有名な文章を思い起こす。そのような水のもつ不思議な性質。そのまま時間の象徴のような性質が左右に描かれているように思う。中心に不思議なカーヴするストライプのフォルムが重なって動きつつある。その上方にはそのフォルムがすこし小さくなりながら山のような形を表すから、そのあたりに須弥山があるのだろうか。須弥山は仏教のなかでいわれる天国のようなところである。いくら作品を探してもその須弥山は現れず、銀色のフォルムはなにか複雑な煩悩といったものの象徴のように感じられる。

7室

 柏本龍太「introduction」。サックスとギターとドラムがいま曲の導入部分の演奏を始めた。まだ調子が乗っていない。ギターを弾きながらだんだんと調子が乗っていくのだろう。同じような雰囲気でサックス奏者もサックスをいま口から離している。そんな中での独特の最初の頃の演奏の雰囲気を、見事な動きのなかに表現する。画面の中心から花が開くように三人のミュージシャンを配している。中心からの放射状の動きとミュージシャンの動きが重なり、ビートのきいたリズムが画面から聞こえてくるようだ。

 松田俊哉「Monopia」。鉛筆による表現である。こんな様子で作品を描くと、何か月も時間がかかるに違いない。気が遠くなるような緻密な仕事である。中心にオルガンが描かれている。鍵盤が何層にもなって、周りは断崖のような岩組みの風景である。そして、上方にはシルエットの山と雲が浮かぶ。「Monopia」という題名のように、このオルガンの音楽によって荒涼たる背後の岩のある高い空間に音楽が響き、それはやがて上方の山の峰のかなたに消えていくのだろうか。オルガンの鍵盤が叩かれた音によってへこんでいるのも面白い。音楽家は、それをみると音が聞こえてくるのだろう。

 塚本裕志「ガラスの家」。二階建ての高い洋館に向かって、イヴニングドレスを着た女性が黒いハイヒールをはいて歩いていく。その後ろ姿が描かれている。細長い窓のあけられた洋館。全体ですこしミステリアスな雰囲気である。そこに画家のいわば叙情詩ともいうべきイマジネーションがあらわれる。

 赤羽カオル「響」。裸木の上にカワセミがとまっている。背後は落下していく滝の様子。重量感をもって水は落ちてくる。それを前にして、カワセミがとまっている。そして、獲物を見つけるとあっという間に飛び立つのだろう。カワセミのシャープな動きと、滝の轟音を伴う重量感のある表現とが面白く対照される。

 伊藤光悦「営業中」成井賞。海際の木造の三階建ての建物。二階までは津波で壊れてしまった。上方の窓の一部だけがまだ壊れていずに、そこで人が生活しているらしい。ヘアサロンという看板が見えるから、そこでヘアサロンの仕事がなされているのだろう。東日本大震災に対する衝撃。それに対する復活のイメージをここに表現した。空に昼の月が浮かんでいる。反対側にはゆるやかに一羽の鳥が飛んでいる。高いコンクリートの塀に鷗が三羽とまっている。その向こうは穏やかな平和な海が広がっている。つい先だっては海が荒れ、二十メートルもの高波が来たのだが、いまは穏やかである。祈りのような気持ちがしぜんと感じられる。画家のイメージと筆力によってつくられた衝撃を超えた静かな祈りの図像と言ってよい。

 北澤茂夫「白昼夢―雲海の街―」。不思議なテーブルの上に若い女性が仰向けに寝ている。下方は雲海で、その顔がだんだんと起き上がるところを雲海が囲んでいるから、やがて雲海がすべてを覆い尽くすのだろう。向こうの階段の上に同じ女性が立って、遠くを見ている。背後は黄金色の宮殿になっている。ドイツロマン派の文学に出てくるような黄金色の宮殿である。刻々と雲海は増えていき、この宮殿も隠してしまうだろう。ミステリアスな物語の始まる序章のような表現。

 中村智恵美「胡蝶蘭のある静物」。しっかりと描かれている。サテンのような手触りと輝きのある緑の布の上に、林檎や葡萄などの果物、胡蝶蘭、容器などが置かれている。中心に白い薔薇の花を彫った象牙のような塊が静かに置かれている。調子を落としたサテンの植物模様の布。サテンという布のもつ色合いや文様を描きながら、いわば第二の自然を布を通して画家は表現する。そこに実際の自然の果実、花などを置いて、実に強い緊張感に満ちた空間をつくる。

8室

 小川巧「フェイス(オマージュ・レーピン)」。レーピンというと、筆者の中では、ロシアの画家で、ドストエフスキーの肖像を描いた人が浮かぶのだが、別の人なのかもわからない。いずれにしても、レーピンの描いたドストエフスキーの像は、われわれドストエフスキーファンには脳裏に焼きついたような像となっている。ここに描かれているのは、目を見開いて驚いて、驚愕のなかにいる像である。しわが無数に顔や手を走りながら、人間の恐怖、おののきというものを見事に表現する。またしわはそのような驚愕の歴史といったものもしぜんと想像させる。

 今井充俊「ときの重さ」。赤い空間の中に黒い方形のボックスがあって、そこに二人の若い人が寝ている。上方は女性で、下方は男性のように見える。周りの茜色というのか朱色というのか、その色彩が実にロマンティックな印象をもたらす。ちょうど柔らかな夕日がそのまま色彩としてこの周りに定着されたかのごとき感がある。そして、下方には麦の穂のような一本のフォルムが描かれている。少女と青年は寝ながらだんだんと成長していくのだろう。また、もっとちっちゃな時のこともしぜんと浮かぶのだが、そういった時をこの茜色の光線が彩っているかのごときイメージに感心した。

 高取克次「チューインガム」文部科学大臣賞。モノトーンの世界である。グレーであるが、不思議な光と色彩を感じる。ノンシャランな世界。関節を外したような空間の中に、不思議なユーモアのセンスがあらわれる。チューインガムを膨らませた人形のような男。ネクタイを締めている。そばに女性がいて、鉛筆のようなものを持っているが、そばに犬がいて、犬は口輪をはめられている。上方に象が歩いている。その象のそばに街の建物や道路が見える。左のほうには不思議な犬の化け物のようなものが浮かんで、やはり口輪をはめられている。象はほうぼうに点々とあらわれて、一部は獏のようなイメージとしてあらわれているところもある。下方のチューインガムを膨らませた男のそばの象。象は百年生きるといわれている。そんな象の視点から見ると、人間たちは夢遊病者のように生きて街をつくっていることになるだろうか。そういった空虚な空間ともいうべきものを、画家は画面の中に表現する。

 玉川信一「殯の庭」。もがりとは、死体を小屋などに放置して、だんだんと腐っていく、その死を確認するための意味の言葉である。もがりの宮といって、そのための死体安置所も飛鳥時代や奈良時代にはつくられたし、『古事記』の中にも出てくる。手前に死体が袋に包まれて置かれている。中心にボックスがあって、そのボックスから手が出たりして、上方に屈曲しながら、茶色い柱のようなものが立ち上がっていくが、それも死体から伸びていく植物のような、木の枝のような不思議な雰囲気である。そこに白い雲が浮かんでいる。驚くべきことに、そばに高速道路が伸びている。手前の机と高速道路とは重なって連携しているのである。そして、小さな狭いところにネクタイを締めた男が立っている。この男は死体と隣り合わせに暮らしているわけだ。高速道路とも隣り合わせに暮らしている。上方にビルが林立しているのが見える。そして、半月のような赤い月が浮かんでいる。暗いブルーに銀色の雲やフォルム。都会生活のなかの哀愁といったイメージもある。メランコリー、あるいは哀愁といった雰囲気のなかに、死んでいるはずの死体が生き返って、勝手にその触手を伸ばしていく。実際、都会の中では完璧な死というものは実現しえない。死んでいるのか生きているのかわからないところに、みんな生きているといったイメージもあるだろう。都会の中で生活するところからイメージを伸ばすことによって、このような不思議なモニュマンが生まれたのだろう。

 井上護「浮遊の図」。三つのパネルによってつくられている。オレンジ色の夕焼けの空の上方に黒い雲が浮かんでいるのだが、その中にV字形に浮いた男の全身像。真ん中には龍が顔を見せて、その下を黒い鳥が目を光らせて飛んでいる。右のほうには、両手をすこし体から離して宙吊りになった、男とも女とも言えない像がある。夕焼けの雲にそのようなイメージを画家は発見した。新美術館の作品の置いている場所の光線によって画面が光ることによって、なかなかこの像の内容がよくわからないところがもどかしい。そのフォルムは黒く表現されているが、それよりすこし明るいかたちで雲が浮かんでいる。両側の人間はなぜ浮かんでいるのかわからない。ほっておくと、落下するに決まっている。龍や鳥は空中を飛翔するものであるが、それにつられてV字形になって浮かぶ、あるいは脱力のなかに浮かんでいる左右の人間の像は、なにか不思議な雰囲気である。なにか暗い虚無の中にいる人間のイメージがある。鳥も龍もダイナミックなエネルギーを全身に充塡しながらここにあらわれている。それに対して、同じ黒く描かれている二人の人間はなにか夢魔のようなイメージである。しぜんとゴヤの黒い絵のシリーズを思い起こす。未来に対する閉塞感や不安感。現代はDNAの解明により、病気などの発生する可能性がわかる。逆に言うと、それはまたその人間の将来性もわかるのかもしれない。未来がわかることはじつに不気味なことである。本当に未来がわかれば誰も生きることを放棄するかもしれない。そんなイメージもこの宙に浮かぶ黒い人間たちは語りかけてくる。こう書きながら、シェイクスピアの『マクベス』の冒頭に予言する魔女たちのシーンを思い起こした。バーナムの森が動く時にお前の未来は断たれると魔女たちは予言する。

 吉岡正人「光る大地」。左に立っている女性。右には樹木に寄りかかって居眠りをしている男性がいる。向こうに平野が広がっている。教会のような白い壁に赤い屋根の建物がその中心にあり、そこに向かううねうねとした道が見える。黄土色の地面が剝き出しで、ほんの少し緑の草が生えている様子は、砂漠を思わせるが、色彩が黄金色に描かれているので、聖なる大地といったイメージが表れる。その中に小さな教会だけが静かに存在感を輝かせる。荒野にこれから種をまく。旧約聖書の創世記篇にアダムとエヴァが楽園を追われるシーンがある。「神はアダムに向かって言われた。『お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる、野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る』」という聖書の言葉がこの荒野に反響するようだ。手前の男女はアダムとエヴァを担っている。男は眠りながら聖書の言葉を聞いているような不思議な雰囲気がある。教会を中心とした荒野と上方に白い雲の浮かぶ青い空は、じつに不思議な緊張感の中に描かれている。

 南口清二「停車場」。停車場は駅で、様々な人がそこに集まり、離れていく。人生あるいは旅ということが象徴的に感じられる場である。中景に五人の男女が立っている。その後ろに電車がとまっている。窓が日本の電車よりすこし高い位置にあって、そこで男性が外を眺めている。旅を象徴するように鳩が一羽、その手前をシルエットの中に飛ぼうとしている。いちばん近景にはコートを着た男性が俯いている。憂愁の表情である。そういった全体を、グレーの霧のようなものが包みこんでいる。その霧のようなものは二つの異なった、あるいは三つの異なった空間を連結するようだ。実は電車の中にいる存在と五人の人間たち、あるいは手前の人とは、同じ場所、同じ時間にいるわけではなく、画面の中に引き寄せられて構成された時空間であるだろう。霧のような空間がそれをリンクしている。霧のような空間は、実は時間というもののメタファーと言ってよいかもしれない。日本では「洛中洛外図」などの場合に、雲がそこを覆いながら様々な時空間を統合していく。同じような役目を、この霧のようなものがつくっている。そして、右上方にビルの何階から何階かの二つのフロアを結ぶ階段があるのは、もう一つの象徴的な意味合いがあるだろう。前述した近景の男の下方、すこし後ろにパイプがのぞいている。そこから水があふれてくる。それは記憶の象徴のように感じられる。過ぎ去った時間がこの中に集められ、画家のイメージの中に順序立てられ空間を構成するうちに、未来の時間もその中から暗示されてくるようだ。現代の不安な孤独な人間たちの群像の独特の表現と言ってよい。どこか長谷川等伯の「松林図」を思わせるところがある。

 生駒泰充「夜のパレード」。石化したような老人たちの顔が、顔のままあらわれたり、塔の上に載せられたりして、異様な雰囲気である。かつて生きた人間が顔だけが取られて、石化して画面にあらわれている。中心の建物の上にはサイがいて、サイの背中に建物がある。「夜のパレード」という題名のように、夜の瞑想のなかに様々なイメージが形をあらわす。巨大な魚から背鰭があらわれる。それは古代魚のようで、それはそのまま丘と重なって、その背中から樹木が生えているというように。一貫して幻想を描いてきた画家の奥行のある表現である。

 橋本俊雄「風の架け橋」栗原賞。カーヴする道のようなフォルム。一部苔むして、穴があいたりしている。そういったものが縦横に渡っている中に、穴から息のようなものが出ていて、その幾何形態の中に誰かが住んでいるような気配がある。下方には緑の草原が見える。穴から茎が出て、花が咲いている。上方には霧がかかっている。空間の中に縦横にフォルムをつくり、その幾何形態のフォルムに苔を生やし、それを生きた存在として描いていく面白さ。

 内藤定壽「画家の研究」。大きな二〇〇号ぐらいの画面にキリストの降下図が描かれている。どこかの作品の模写なのだろうか。それを眺めている男。アトリエの中でそんな名画と向かい合っている画家自身を後ろから描いて、不思議な雰囲気である。絵を描くということ自体を考えるといった構図になっている。

 浜村博司「ナガサキ考・無言の語り部」。花柄の衣装を着た女性が籠を持って座っている。背後に原爆のマリアのようなフォルムが見える。激しい光がこの場面を覆っている。原爆の光がこの画面に捉えられている。画家自身、原爆を経験し、生き残った人だと記憶しているが、強い激しい表現である。

 日下部直起「ヴィンチ村の夢」。ヴィンチ村というと、レオナルド・ダ・ヴィンチのことを思い起こす。下方に本が浮いている。エンサイクロペディアという文字が見える。その上に双眼鏡。飛行機の模型。そして、アザミのような茎が伸びて花が咲いている。向こうには石造りの建物があって、窓がある。クリアなそれぞれのフォルム。百科事典の一冊などは、ずいぶん使い古された手触りのある表現である。双眼鏡もそうである。そばに鍵があるが、この鍵はいわゆる錠前に合う古い昔の鍵で、それが青い布の上に置かれている。それぞれの物質の中に画家のイメージは侵入していきながら、物質が勝手に語り出すといった趣で、物質が夢を見ているようなあやしい雰囲気に注目した。

 佐久間公憲「エチュード・2014」。若い女性の背中、正面。正面向きもすこし体をひねったかたちで描いて、三体を三美神のように表現する。背後は箔を置いたような無限空間になっている。装飾空間と言ってもよい。若い裸婦のもつ比例。画家の感性によってつくられた三つの角度を変えたフォルムによって、いわば女性の美しさをエチュードふうに表現する。

 山崎進「風の知」。小さな滝が下りてきて、池になっている。そこにボートを浮かべている花嫁。周りを囲む人々。右のほうには母親と娘が青いシーツの上にいて、そばに兄が寄りかかっている。上方を見ると、緑の海が続き、島がある。右のほうには椿のような花が咲いている。ノンシャランな雰囲気の中に自由で闊達な人間群像があらわれる。言ってみれば、鉄斎などの描いた理想郷のようなものを、画家は油絵で表現しているのかもしれない。

 佐田尚穂「秋」。バスを待つ人のための木造の小屋。手前にリュックサックを背負った少女が手を上げている。バスが向かってきているのだろうか。小屋の中の時計は十時三十一分ほどを示している。「待合室をきれいに使いましょう」というポスターが貼られている。隅々までクリアなフォルム。背後に群がる茂っている樹木や植物もまたクリアに描かれている。そのあまりのクリアさに、時というもの、時間というもの、その場所がそのまま切り取られてここに移されたかのごとき、不思議な現実感がある。再現的な力が実に優れている。

 木原正徳「野のかたち人のかたち《光を宿す》」。赤いバックに若い女性の二つのヌード。座ったかたちと逆様になって浮遊しているかたち。そばに植物の細い枝が、ネコヤナギのような植物だが、屈曲しながら伸びている。鳥がとまっている。花が咲く。ウサギがいる。自由にイメージを駆使しながら、独特のリズムをつくる。一種の浮遊感覚ともいうべきもののなかに野の植物や生き物が引き寄せられ、光が色彩となってあらわれたような新鮮なコンポジションである。

 鬼澤和義「景」。右のほうの通りを歩いている後ろ姿の人。左のほうには高架の上を電車が走っている。下に道がある。黄昏時の光景。線によってこの光景をつくる。その繰り返しによって音楽的な効果が生まれる。メランコリックなメロディが、この薄暮の光景から聞こえてくる。

9室

 藤原護「Otonomie〈夢模様〉」。以前の色彩豊かな表現から一転してモノクロームに変わった。上下四列、左右七列、二十八の楕円形のフォルムの中に、基本的には手と花を中心として雪が降っているようなフォルムなどが入って、独特の空間をつくる。優しい。柔らかな音。親密で、花と手とがお互いに触れ合い、離れながら、いわば仏像でいう印を結ぶような雰囲気でそのヴァリエーションがあらわれ、それら全体で雅やかな和音がそこから発してくるようだ。モノトーンと言ったけれども、中にほんのすこしピンクや緑、青などが入れられている。冬のモノクロームの世界にふっと春の華やぐような色彩が引き寄せられたと言ってよいかもしれない。

 川上久光「繁殖の時」。右手の手のひらが画面の中心にある。その周りに花を中心とした植物的なフォルムがあらわれている。背後には、遠景に木立がシルエットとなって連なっている。夜の幻想と言ってよいかもしれない。花のもつ生殖的な要素が引き寄せられることによって、エネルギッシュでパッショネートなイメージがあらわれる。

 松本善造「朝日村」。五百年ほどの歳月を過ごしてきたような大木が、画面の右上方に描かれている。その木のほぼ真ん中あたりに視点があるような雰囲気で描かれているのだが、下方になってくると、見下ろす角度から描かれている。視点の大きな変化。またその視点の位置も、地面から十メートルほどの高さから眺めていたのが、五百メートルぐらい上方にのぼって下方を眺めているといった雰囲気である。それほど、この朝日村の様々な自然を画家はよく知っていて、自分の庭のように、掌の上を見るように描くことができる。それによって、この朝日村の自然のもつ力、いまは秋になっているようだが、その季節感さえも引き寄せながら、独特の生命と豊饒な自然を表現する。

 松本功全「宙」。円錐形のフォルムを底のほうから眺めている。底の中には渦巻くようなフォルムがあらわれ、星があらわれ、そこには宇宙がある。下方は、そのダイナミズムに従って円弧がつくられているが、そのあいだにひび割れたような大地が見えるし、右下方には裸木の神経のようなフォルムがあらわれる。地上は一種の荒廃の中にある。しかし宇宙は豊饒といった言葉が浮かぶ。ダイナミックなモニュメンタルなコンポジション。

 近藤慧子「ペリカンの日」。妖精の王女のような人物とペリカンとが一緒に歩いてくる。ペリカンの上には小さな少女が立って、炎があらわれているし、後ろでは笛と太鼓を奏でている女性もいる。サトイモのような葉の上には小鳥がとまっている。向かって右のほうには牛や鳥と一緒に少女たちがあらわれている。汎神論的な世界。様々な生き物が集合しながら、独特の幻想的な空間をつくる。上方には船に乗って空を浮遊している人々もいる。刻々と変化していく豊饒なる自然の中にある存在を形象化し、ピックアップし、集合させて、自然のもつ生命力と時の移ろいを表現する。

 田中定一「風の行方」田村賞。少女が空を見上げている。その少女の足元に近いあたりの視点から画面を構成している。少女の後ろには巨大な気球が浮かび上がって、いま上方に向かいつつある。二つの機械から炎が出て、空気を温めて、いま気球は上ろうとしている。田圃は刈り取られて、稲の藁を集めたものがいくつも点在する。秋、稲刈りの終わった頃に農村ではお祭りが行われるのだろうか。そんなお祭りのようなイメージが、このたくさんの気球を上方に浮かべたコンポジションから想像される。少女を中心として三百六十度ぐるぐると旋回するような空と気球とが実にダイナミックな空間をつくる。それは豊饒に対する一種の祈りといったイメージもあるのだろう。とくに後ろの炎を出して空気を温めて上りつつある気球のダイナミックな表現に注目した。

 吉川和美「午後の時空」。ヨーロッパ、とくにイタリア南部などにはこのような噴水がある。いまライオンの口からも水が出て、上方の円盤からも水が噴き上げられている。そういった様子を実にリアルに表現する。再現的というより、その対象の中にイメージを深く浸透させながら、あふれていく水のもつエネルギッシュな様子を表現する。単に空間だけでなく、そこに存在する時間のもつ継続する力を表現しているところが面白い。後ろには直方体の箱のようなものを積み重ねた不安定な空間があらわれ、虹の杖のようなものも浮かぶ。独特のロマンを感じる。

 都丸直子「さあ、ここからがクライマックス!!」。小学生の演奏会。後ろの子供たちは合唱団。指揮者が後ろを振り向くと、女の子がピアノを鳴らし始める。あいだに赤やピンクの花が豪華に咲いている。ひずむような遠近感を強調したコンポジションの中に、子供たちの活発な生命力が生き生きと表現される。

 岡野彰夫「青空は同じように広がっているのに」会員賞。白いクロスの掛けられたテーブルに、西瓜、洋梨、葡萄の房が置かれている。背後は静かな大きな川のようだ。川の下から入道雲が上がってきている。水平線の上方にもうすこし柔らかな雲が浮かんで、その上方にはサッカーをする青年がいる。いまボールを飛ばして、ゴールに向かって球が飛んでいる。さらにその上方には人々が歩いているようだ。画家のイメージは時と場所の異なる人々をこの画面に引き寄せた。右のほうには、乾燥して亀裂の走ったような地面があらわれている。夏の青空に白い雲が浮かんでいるが、その空の下には様々な人が様々な風土の中にいるということを、静かに歌うように表現する。左のほうには、樹木が屈曲して伸びて、桜のような花が咲いている。静かな想念が広がっていきながら、形象があらわれ、豊かな水に対して乾いた大地が引き寄せられ、コントラストがあらわれる。静かに流れる水の様子を見ていると、画家はその水の波紋のようにイマジネーションを広げながら、この画面をつくったように思われる。

 原澤和彦「夢で見た夢」。左側に男の子の兄弟、右のほうには三歳ぐらいの男の子といった配置で、いずれも怖い顔をしている。とくに三歳ぐらいの男の子は赤く染められて鑑賞者のほうを眺めているのだが、接近すると、涙を流していることがわかる。後ろにはブルドーザーの残骸のようなフォルムが見え、海の向こうに街がある。東日本を襲った津波の悲劇のようなイメージを感じる。雲も地面も残照に赤く染まっている。フォルムは力強く、イメージをどんどんかたちにしながら、ひとつの布置をつくる。

 井上展也「緑映」。画面の五分の三ほどが水で、その上には繁茂する樹木が様々な緑の色彩を織りなす。それをこの池が映して、揺れながらきらきらと輝いている。下方には水底の石がたくさん見え、周りに青い空を映してコバルトブルーが使われている。光を存分に吸収した画面と言ってよいだろうか。その中に植物や水が揺らいでいる。その様子が不思議な幻想感を醸し出す。

10室

 八田喜美子「微風」。石か切り株の上に女性が腰を下ろしている。体格のよい女性で、ピンクの花を持っているのだが、神話の中に出てくる女性のような趣がある。背後は草原で、緑にブルーが入って、すこし湿地帯のようになっているのかもしれない。ところどころ樹木が立っている。大地はいま何もないのだが、ゆるやかに鼓動しながら新しい命を育みつつあるような雰囲気で、低い丘のような部分や樹木などが遠景に置かれているのも、なにか不思議な印象を醸し出す。女性の顔に光が当たっているようだ。すこしオレンジ色のような柔らかな色彩で、遠くを眺めている様子と周りの自然とが不思議な関係のなかに表現される。

 六反田英一「環」。イヴニングドレスを着た四人の女性が水の中にいる。裾が上方に翻ったりしながら、無重力の中に三人がお互いが無言の中に手を差し延べたりしている。中心の女性はブルーのイヴニングドレスを着て、三人の白い衣装の女性がそれを取り囲んでいる。まるで夢の中で見た光景のようだ。水の中に人は生きることはできないのだが、水が夢の中の空間と重なるように表現されているところが、工夫だと思う。ロマンを感じさせる。

 向吉文男「牛を放つ」。震災の時に牛の軛を放して逃がしてやったが、間に合わずに死んだ牛もいたそうだ。そういった先だっての震災の悲劇をここに描いた。上方に拡大した顔の大きな牛が描かれていて、そのそばを水が激しく流れている。左には滝のように落ちている水。その向こうには、その牛を水辺に置いて表現したフォルムがある。そして、水の手前には霊を悼み、祈っている人間たちの姿が描かれている。全体にジグザグの激しい動き。ものは散乱し、川は奔流となって流れる中に、牛の激しく訴えてくるような顔が上方に浮かぶ。

 小川恵「小さな冒険者」。綱で吊り下げられた細い橋を渡る四歳ぐらいの男の子。そんな不安定な様子を光の中にくっきりと表現する。余分なものを排除している。その不安定なシチュエーションを利用して、生き生きと少年の姿を描く。

 井上正「野分立つ A」。野分とは秋の台風のことである。激しい風が吹くことによって、草原が左に右にしなりながら動いていき、そのあいだに風の道があらわれる。井上靖に「野分」という詩があるが、そのイメージを連想した。

 猪口玉喜「空なる目覚」。緑の芝生のような草原の上に裸の女性が仰向けに寝ている。肌は黄金色で、緑と黄金色の肌とが不思議なハーモニーを見せる。空はその黄金色をすこし沈めたようなかたちで彩られている。成熟した中年に近い女性のエロスの表現のようにも思われる。エロスを内側に沈めながら静かにその中に浸って、自立した女性の表現のように考えると面白いかもしれない。画家は一種のナルシシズムのなかにこの女性を描いていて、それの頂点は仏像的なイメージになるのだろう。

12室

 薗まゆみ「〈不思議の国〉 1」。画家は最近、烏天狗のような不思議な群像を画面に引き寄せる。その烏天狗に対して、神像を思わせるような女性を中に入れ、全体で不思議な力を画面に引き寄せる。都会化された日本であるが、夜になると、樹木の上に烏天狗が現れ、そんな有象無象の妖精たちを従えるもう一人の女神のような神道的な女性が見えるかもしれない。関西にはそのような自然、あるいは霊的な力が、東京以上に感じられるのだろう。キューブな形を重ね、あいだに高速道路が走っているような背景。面白いことには、その家を思わせるキューブな形の中に烏天狗や忍者のような人などが入れられて、全体で都会を崩壊させて、江戸時代、桃山時代、室町時代、平安時代の日本人の生活、あるいは思想のようなものが表現されるところが面白い。右のほうでは尺八などを演奏して楽しく踊っている人々(烏天狗)が描かれている。

 阿部好江「私の居場所②」。独特の色彩家である。室内に片膝を立てて座っている金髪の女性。不思議な妖精ふうな力があって、そばに何匹か猫がいる。テーブルの上にはパレットの上に絵具が出されている。後ろには花が生けられて、手前には林檎が置かれ、それぞれのものが浮遊し、動き出すようなエネルギーのなかに表現される。全体の主調色はグレーで、グレーが様々な色彩をつなぎながら生かして、その色彩のハーモニーもまた独特の魅力をなす。

 岸本凌幾「ジャズの刻」。サックスやベース、ピアノなどの四人の奏者をジグザグに画面に配している。音楽の音色に沿うようにブルーのグラデーションと暖色系の黄土から褐色のグラデーションが使われ、それらの中にミュージシャンのフォルムが力強く立体的に、強い明暗のコントラストの中に表現される。

 永井龍子「渚の詩『落日』」。水平線の近くにある斜光線が手前まで伸びている。そのオレンジ色の光が強いノスタルジックな感情を引き起こす。人恋しいような懐かしいような心持ち。その海辺を二人の姉妹と若い父親が歩いていく。上方に鳥が何羽も飛んで、鳴き交わしている。きょうという日が終わるが、明日という日は昇らないかもわからない。そんな不思議な強い深い感情が、このコンポジションの中に感じられる。

 辰巳明子「真脇考(甦える)」。石川県に真脇遺跡という場所がある。縄文時代の遺跡。その大きな壺を画面の右側に置き、その手前には、壺の中に火が燃えている。左には人骨らしきものがあるし、陶片が置かれている。どっしりとした存在感があって、日本の古代の素朴な生活に対する画家の讃歌する心持ちがうかがえる。それがこのゆったりとした力強い素朴なフォルムをつくるのだろう。背後には柱が幾本も立ち、その向こうに緑の丘や畑が広がっている。全体で温かな母性的な力というものが画面に醸し出されているところが魅力である。

13室

 吉本満雄「昔日暮色(遠い明日に)」。女の子を抱く母親。そばに姉がいる。小さなずんぐりとした子犬。昔の思い出が画面いっぱいに立ち上がってくる。その思い出の力によって、道はカーヴしながらはるか向こうの夕日に続く。その中景に、ぽつんと夕日を見る一人の少年のシルエットが見える。強い心象表現である。フォルムは自由なデフォルメによって、一種彫刻的と言ってよいような強さをもつ。

 増田康子「時空 Ⅰ」。裸の女性が座っている。それを彫刻的な量感のあるマッスの中に表現する。マチエールはしっとりとして、周りの夜を思わせるようなブルーと静かに響き合う。

 山家利治「人間図鑑 2014─Ⅱ」準会員優賞。現在はみんなスマートフォンや携帯電話、iPadなどのタブレットを使いながら生活している。その様子を面白く構成する。目鼻口を取られて、紡錘状の顔と幾何学的な体の白い色彩の集団。タブレットはピンクや紫、黄色、様々である。それらが集まった中心は下降して、どんどん落下しているような雰囲気。群衆がお互いに関連をもちながら、結局中心の部分で落下しているのは、まさに今日の時代の不安感やそのシチュエーションを実に比喩的によく表現していると思う。それを陰惨なものではなく、ノンシャランな中に表現する。とくに白の色彩のハーモニーは、品がよいという言葉を使いたくなるほどの柔らかなハーモニーである。現代の無機的な独特の社会生活を送ることを、このように描く。不思議な哀愁が画面から漂ってくる。

 川崎雅博「刻の谷―白夢―」。モノトーンで、不思議なドームをもつお城のようなマンションのような白黒のシルエットの建物が広がっている。そんな中に円盤の上にカワセミのような鳥がとまって、左のほうを向いている。そのカワセミの様子が、カワセミの衣装を着た子供のような雰囲気であるところが面白い。まさに白夢という言葉のとおり。「刻の谷」という題名だが、モノトーンで、ロマンティックでありながら、手前の断崖を見ていると、ずるずるとずり落ちてしまいそうな、そんな不安な様子である。緑を中心として彩色されたこの不思議なカワセミは、それに対抗する存在としてあらわれているようだ。

 大嶋美樹絵「2014・兆し Ⅰ」。街を見下ろしている。画面全体、この街は赤く染まっている。雲が三階建ての建物ぐらいの高さに浮かんでいたり、それよりすこし上に浮かんでいたりしている。その雲は周りが赤く、内部は黒く、まるで炎のように感じられる。ビルの窓の赤い覆いもまた炎のように感じられる。しっかりとこの建物の立体感を表現し、人々がシルエットに歩いていたりするそばに自動車がある。そういった客観的なお膳立てを壊しかねないほどの激しいパッションが、赤を中心とした色彩の中に感じられる。

 苅田さかえ「黒と白」。白い花模様の衣装と黒い花模様の衣装。シースルーのような体にフィットした衣装である。白い衣装の女性の背後には百合の花。黒い衣装の背後には薔薇の花を置いて、二つを対照させる。そのコントラストはエレガントだし、お洒落な雰囲気が漂う。

 宗村義英「風光る日」。草原に風が吹き、植物の葉が左右に動いている。そんな土手の上を少年が走り、そばを犬が走っている。後ろに平屋の建物と二階建ての建物が見える。フォルムがお互いにリンクしながらノスタルジックなメロディを奏でる。

 片庭類「舞」。黄色い衣装に松や鳳凰の意匠。中には金が使われている。黒い帯にこんじきによる牡丹。華やかな衣装を着て踊っている。後ろには夜桜が満開である。いわば舞妓のイコンと言ってよいような強い表現に注目した。

14室

 山本智之「境界線上の夢」準会員賞。昭和の頃のおもちゃをテーマにして、記憶のなかの世界を面白く表現してきた。今回は、手前のほうにおもちゃの電車がとまっているのだが、地平線の向こう側から女の子が顔を出している。おもちゃの中にもう一人の人物が入ってきたというかたちになっている。空には繊月が出ている。昭和という時代のなかに入って紡ぎ出すユニークなファンタジーである。

15室

 佐々木秀樹「終わらない夏」会員推挙。盆栽の幹を拡大したようなものが左右に枝を伸ばしている。その手前の台の上に男と女が乗っている。柔らかな光が当たって、クリアなディテールが浮かび上がる。まるで人形を扱うように人間を表現して、ドラマを予感させる。

 小原実知成「ポートレート②」。男と女の胸像。モノクロによって描いている。二人とも眼鏡をかけている。ひげを生やした中年の男性。女性はそれより十歳ぐらい下なのだろうか。あいだにニコンのカメラが置かれている。モノクロによって、かえって人間の本質のようなものが浮かび上がる。

16室

 冨田儀孝「心象の景『倭』 Ⅰ」。上方に檜皮葺きの神社を思わせるような建物が見える。手前には断崖があり、断崖のさらされた地面が見え、その手前には滝のように水が落ちてきている。神社のような建物の上方には、なにか花のようなフォルムが見える。たとえば熊野の奥の隠れ里のようなイメージがしぜんと画面から感じられる。

 仲築間英人「午睡」。女性が横になって眠っている。その背中のほうから描いている。その上方に羊や羊飼いの男と少年のようなフォルムが浮かび上がる。手前の女性の夢の中の光景のようで、旅行したときの記憶なのだろうか。それぞれのクリアなディテールによって独特のリアル感があらわれる。

 柴野純子「風が吹く日」。変形の画面。板の上に二つの大きな百合の花が浮かび上がる。下方には斜めに大きな錠前用の鍵。下方には小さな教会のある山あいの風景が小さく表現されている。鍵はペテロが持っているといわれる天国への鍵だろう。純潔の象徴としての百合の花。柔らかな風が吹いているが、それは信仰の風と言ってよい。そういったイメージを強く純粋に表現する。

 渡辺記世「風想空華」。念力的な強いエネルギーを感じる。いくつも旋回するフォルムがあらわれ、一部は巨大な木の破片のようなものが銀色に彩色されてコラージュされている。平面の上には渦が白と黒によって描かれる。その中にピンクの花のようなフォルムが引き入れられる。岩にも木にも、あるいは風にもそれぞれの魂があって、それぞれが旋回しながら集合して、それを画家の想念のなかに統一しているような、独特のコンポジションに感じられるところが面白い。日本的な神道的な念力的な空間の表現と言ってよいかもしれない。

 松下卓生「have a good time」会員賞。ねちっこいマチエールの上にモノクロによって風景を表現する。タンクのある工場地帯のコンビナートのような風景が遠景にあり、中景には、エアポート・ターミナルという文字が見える看板の上に二つの飛行機が飛んでいる。飛行機には男女のカップルが乗っているというユニークなファンタジーである。昔の衣装を着た二人の女性の、写真から起こしたようなフォルムが浮かび上がる。手で触りながら一つひとつ確認しながらイメージを紡いでいく。その触感的な表現が面白い。

17室

 小原瑛子「その箱をあけたら」。箱のへりにウサギの帽子をかぶった少女が手を置いて、中を眺めている。もう一人、右のほうにも同じような少女がいる。箱の中にはぐにゃぐにゃとした円筒形のものが積み重なったフォルムがあって、そのてっぺんのパイプから煙が出ている。意味が不明だが、なんとなくフォルム全体の関連性があって、柔らかな中にメランコリックな雰囲気とミステリアスな要素とがあらわれているところが面白い。独特の感性だと思う。

 伊藤浩二「ウイグルの老人」。杖をついてウイグルの老人が座っている。地面と背後の漆喰のような壁。老人もほとんど同じような色彩でできているが、独特の威厳のある品位のある雰囲気。しっかりと対象を描きながら、人間のもつ過去の記憶や存在感といったものを正面から表現する。

 鈴記順子「私的アリス考」。上方は工場街で黒い煙がもうもうと上がっている。手前の真ん中に巨大なウサギがいる。その周りを人々が左に向かって歩いている。実に面白いコンポジションである。なんとなく内田百閒の「件」という話を思い起こす。自分が件になってうずくまっていると、人々が件の予言を聞きにくるといった話である。不快な恐ろしい話だが、件がウサギで、その周りを人々が、そのウサギとは関係なくひたすら左に走って、あるいは歩いていっている。その一つひとつのフォルムは実に丹念に描かれていて、異様な力があらわれる。この作品の場合には煙を上げる工場とウサギと人間たちの三つの要素はそれぞれ無関係であるところが、不安感や気味悪さをもたらす。

 水巻令子「復興 Ⅱ」準会員賞。十歳ぐらいの女の子がベージュのお洒落なワンピースを着て立っている。左手に如露を持っている。背後の壁は亀裂が走って壊れている。震災をテーマにした連作の一つである。背後の壊れた壁や床は、震災による破壊を象徴する。その中で如露から流れる水は再生のイメージなのだろう。少女の目の表情、顔の表情が独特である。悲しいような様子と同時に、強い光をもっている。希望の光と言ってよい。少女は画家の心のメタファーのように使われている。柔らかく、すべての外部の衝撃を吸収する。同時に、小さな命のもつ純粋な力が周りを癒し、再生のエネルギーをそこに引き寄せる。そういったことになるのだが、少女の全身像のもつ、姿自身がまたこの作品の魅力である。理屈だけでは絵は成り立たない。そんなイメージを与えられた少女の、柔らかな幼い中にある完成したものを持っている天使のようなイメージが、この全身像から感知できるところがこの作品の魅力だろう。

 難波英子「クーラント A」。リュートが上方にある。後ろには鳥のデッサン。そばには地図。メトロノーム。白い花の差された透明な三角形のガラス器。黒いテーブルに白い布。その上の黒い布。ノクターンのようなイメージ。白と黒とが不思議な響きをする。もっとも、黒といっても、グレーもあるし、漆黒もあるし、白の中にもグレーやホワイトがあって、白と黒とのグラデーションの中に不思議な関連があり、甘美な雰囲気がそこに漂う。そのイメージの延長のようにグレーの額の上にも白や青の点々が入れられて、まるで星のようなイメージがそこにあらわれる。

 吉岡賢一「雲の上には」会員推挙。テラスのそばの低い塀に少女と少年が座っている。少女は少年の姉のようだ。少年は手を丸めて輪っぱを目の上につくって遠くを眺めている。そばに樹木が後ろから立ち上がって、枝に鳥がとまっている。その鳥の存在が全体の印象の中に隠し味のようにきくアクセントになっている。少年のそばの紙飛行機もそうかもしれない。後ろになだらかなカーヴの山がある。自然を背景にして、未来に希望をもつ二人の少年少女のイメージ。しかもそれは旅というイメージと重なるわけだが、そのイノセントな雰囲気をよく表現する。

 小西美樹子「静かな時」準会員賞。ドレスをまとった二十歳ぐらいの女性の上半身が描かれている。見上げる角度で、上方に空があり、空の雲に柔らかなオレンジ色の光が当たっている。下方には大きなケヤキのような樹木が見える。女性の首周りに植物の葉のフォルムが線描きで描かれている。女性が植物の葉や蔓を体にまとった聖なる存在として表現される。植物の精と言ってよいような妖精的なイメージが感じられる。淡い青が画面の真ん中あたりに使われて、上方のオレンジや紫、そのあいだにオレンジ色に光るこの静かな女性の顔や手の表現など、色の扱いが面白いと思う。

18室

 金子陽之助「広場の教会」。ぐいぐいと描きこんでいる。階段が近景にある。その向こうに建物が立ち上がっている。赤や茶褐色の色彩を使いながら、フォーヴィックにそれぞれのフォルムが強いムーヴマンを表す。

19室

 小松洋子「海月―Ⅰ」。大きなクラゲが浮遊している。そのクラゲの向こうに円形のフォルムがあらわれ、その円形の中に小さなたくさんの皿が置かれ、皿には人の姿などが描かれている。上方には時計のようなフォルム、あるいは天球儀のようなものが置かれ、その上には塔があらわれ、塔の中にベッドにいる人のような姿が見える。ベッドの上にいる人の姿が作者自身で、作者は想念の中で、夜の海にそのベッドを漕ぎ出して海中深く入っていき、クラゲのように浮遊しながらイメージを増殖していくのだろうか。通常の社会的制約から離れて自分自身に返ること。そのことがクラゲのように自由に海の中を浮遊するイメージと重なるのだろう。その海の中がそのまま空の空間と重なり、深い想念の世界があらわれる。

 竹内勝行「共生」。巨大な気根のようなフォルムが画面全体に描かれ、上方には、その気根が上方の幹につながって枝を広げて葉を茂らせている様子が描かれている。その中に宿り木のように、白い菊のような花が無数に咲いている。まるでその上に星が下りてきて、きらきらと輝いているようなミステリアスなイメージである。そこからまた小さく立ち上がっていく若木もある。空は青く、白い雲が浮かんでいて、そこにも白い小さな花が咲いている。白はまた雲にも使われ、下方の海に寄せる波にも使われている。青の中に白が、無垢なミステリアスな物象の色彩として表現されているところも面白い。徹底した写実の果てに、自然のもつ神秘的な姿が表現される。

 田家ハルミ「浅き夢 Ⅰ」会員推挙。和人形が仰向きに描かれている。胴体は、古典的な衣服を切り取って、筒状につけられている。そばに梅の花。反対側には月が浮かんでいる。百合のような花も浮かんでいる。雲もそうで、古代の文様や琳派、あるいは大和絵から図柄をピックアップし、この人形の上に配置しながら、なにかぼんやりとした想念の中にいるような、そんなシチュエーションをつくっていて、独特である。

 望月昭伸「ジョーカーは何処?」。黒い夜会服のようなワンピースを着た女性の後ろ姿。背中と首の肌の様子がなまなましい雰囲気で立ち上がってくる。左のほうに古い洋書が積まれている。その他、眼鏡やトランプが置かれているし、トランプもその中のクローバーやハート、ダイヤなどのフォルムが大きく、そこだけピックアップされて浮遊している。なにか謎めいたミステリアスな雰囲気。蠟燭から煙が立ち、手前の灰皿の上にも煙草が一つ。想念とこの女性のいる空間とが重なって、現実でありながら非現実でもあるような不思議な空間があらわれる。

20室

 山下征子「アイロンをかける」。大きなアイロン台の上で格子柄の服にアイロンをかけている女性。青や白、黄色の模様をつけた女性。その衣装の色彩が周りの薔薇の文様やストライプの文様などと響き合いながら、自然体のなかに独特の魅力をつくる。また、アイロンをかけるという動作、そのフォルムもシンプルで力強い。

 生地京子「運河のある風景 Ⅰ」。運河沿いの道を歩く男。手前の裸木。船の様子。夢の中に入っているようだ。夢の中で自分自身を眺めているような、そんな不思議な味わいが感じられる。

 丹羽久美子「私はどこへ行く」。赤い着物を着た女性が右手を上げているのだが、その中指に赤い糸がついていて、左手の壺の中からその糸を繰り出している。運命の糸だろうか。赤が周りの色彩とハーモナイズしながら、生命的な働きをする。日本の昔からの神道の神像のようなイメージが感じられて、独特のエネルギーが画面から発してくる。

 丸川幸子「one day Ⅱ(白鳥の湖)」。赤い床の上でオーケストラが演奏している。上方には青い空間に「白鳥の湖」を踊るバレリーナたちが描かれている。その上方には満月が浮かんでいる。音楽とバレーとが一体化しながら、優しく、しかも力強い動きがあらわれる。下方のオーケストラの男性的な動きに対して、バレリーナたちの女性的な柔らかなロマンティックな動きが対照されている。独特のコンポジションである。

 石﨑道子「流星の使者 Ⅱ」。女性が手を前で交差させて立っている。後ろに縦笛を吹く男性。黒い馬。その向こうには集落がある。曲線を使いながら、その曲線がそれぞれのフォルムの中にお互いが関連し合うように表現されている。それによって独特の不思議なメロディが画面から聞こえてくるようなロマンティックな響きがある。そういった造形感覚に注目した。

21室

 松岡美子「刻の行方 Ⅱ」。紫とグレーとの不思議なトーンの中に、神経のようなものが縦横に動いている。その中にグレーの湾曲するフォルムがあらわれる。謎めいた空間。シュールな雰囲気。空間というより、増殖していくそのネットのようなフォルムが独特のイメージを引き寄せる。

23室

 鈴木良治「森娘」。少女が地面の上に俯きになって寝ている。顔が大きく、頭に白い可憐な花の冠がつけられている。手と手のあいだにたくさんの小人たちが座ったり、立って皿を持ち上げたりしている。独特の幻想がリアルに生き生きと表現される。上方を見ると、丘のような湾曲した赤いフォルムがあらわれ、そこから樹木が立ち上がり、雲があやしく動いている。

 川口智美「Life」。アマリリスとチューリップの花が開いて、柔らかな光が当たって、その大きな花弁がお互いに囁き合い合唱しているような雰囲気。背後の黄色や緑、ブルーの色彩もきらきらしている。花に接近し、それを拡大し、まるで聖なる存在のように画面に配置する。

24室

 末次広幸「塔」奨励賞。塔が激しく壊れて、その中から恐竜の頭が現れ、上方には巨大な松ぼっくりの中が空洞になったようなあやしいフォルムがあらわれ、そんなものを背景にして、十代の少女が前方を眺めている。ダイナミックな動きのなかに独特のドラマを表現する。

 林隆一「ルーザー」奨励賞。ルーザーとは敗者という意味。円弧を繰り返し重ねている。いちばん上方には少女の横顔と手。中景には肩を下げた少年。いちばん下にはトボトボと後ろ姿を見せて歩いている人。ハッチングと彩色による表現。ドローイングふうな表現によって、そのルーザーたちを生き生きと描く。それに対して伸び上がって顔を出すウサギやキリンのような生き物や、魚の顔をする男などが、彼や彼女を元気づける存在としてあらわれているところが面白い。

 平野良光「phantasia」。木をつないだ橋のような小道のようなフォルムの先に樹木が立っているが、その樹木のあいだに洞のようなものがあって、その向こうに行くと、なにかもう一つ別の世界があるようだ。樹木の幹が垂直に斜めに立ち上がって、背景と相まって神秘的な不思議な雰囲気を表す。異界がそこに存在するような表現である。

 山城道也「Two sides」。キャンバスの裏側が上下二つ描かれていて、その桟に七歳ぐらいの少年が横になって、手は桟を摑んでいる様子が新鮮で、すこし予想外のコンポジションだから、衝撃である。バックはコンクリートが壊れて散乱した様子になっている。これは上下に立っているが、コンクリートの床の上にキャンバスを裏返して,そこに少年がいるというように解釈もできるのだが、画面を見ると、キャンバスは垂直に立ち上がって、背後は壁で、そこに少年がいるといったシチュエーションのように感じられる。そんなシチュエーションを描いて、独特の筆力を表す。

 関谷隆志「派生・舌禍」準会員賞。マゾヒスティックな表現である。手が足になって何本も下方に下りている。数えると七本。そして、前方の肩から二つの腕が伸びて、その先の指が舌を引っ張り出そうとしている。人間が昆虫に化して、その中で自分をいじめているといった雰囲気で、独特の強い雰囲気である。

 加藤隆之「黄色い羽根」。裸の女性が背中を見せて、顔をこちらに向けている。背後に様々な黄色い花が咲いていたり、植物が密集している。花と女性の衣装とが黄色く、不思議な幻想感を表す。光というものが黄色い色彩に重ねられて、独特である。

 山本直司「探る」。井戸のようなものに糸を垂らしている青年。よく見ると、地面に水が二十センチほどたまっている様子。そんな荒唐無稽なシチュエーションを画面の上につくり、リアルにディテールを描き、独特の寓意性を表す。

 桶田洋明「輪廻―大地―」準会員賞。温室のような空間の中に若い女性が座っている。ノースリーブのワンピース。周りに蝶が飛んでいるかと思うと、花も浮かび、あろうことか、熱帯魚が泳いでいる。植物園のもつ濃厚な生命感が、水族館のイメージを引き寄せて、その中に埋没するように女性の姿が表現される。ディテールがクリアで、ディテールをつなぎ合わせながら、不思議な絵画としてのイメージ空間をつくる。

25室

 菅澤薫「紆」奨励賞。横になった女性の背後は銀の箔である。ベッドの下にはウサギが白い布をかぶせられて横になっている。二つが対照されているのも面白いし、デッサン力もあるし、絵具の扱い方も優れている。ディテールが面白い。

 松井利明「一月の朝」。水たまりのようなところのそばに雑草が生えている。水たまりには小石などが散乱して、落ち葉などが積もっている。そんな一隅をクリアに描き、不思議な表情をつくる。

 阿部達也「Musashino」準会員推挙。武蔵野も都会化されて、ずいぶんその面影をなくした。一本の大木の下方に数軒の民家がある。また、手前が畑になっていて畝ができている。あいだに水があって、空を映している。そういった奥行のある風景をしっかりと描く。溶剤に樹脂を混ぜて油絵具らしいマチエールになっているのも、オーソドックスな技法である。

 塩原俊郎「予感 Ⅱ」。女の子が横になっている。その上に体の三倍ほどある一輪の黄色い薔薇の花がある。何の予感なのだろうか。薔薇の花から人体にかけてオレンジのドリッピングがされている。よい予感か悪い予感か。あるいは両方ない交ぜになった予感なのか。思春期の少女の不安定なイメージを生き生きと描く。

 森内謙「在 Ⅰ」。学校の美術のための教室を面白く描いている。隅にはマルス像や静物のためのテーブルなどが置かれている。反対側には青年が立っている。窓から光が入ってくる。淡々とその光景を描きながら、新鮮なときめきのようなものがあらわれてくる。描きたい部分をピックアップして、それ以外は流す。しぜんと空間に抑揚が生まれる。

 唯井直美「約束の場所 その一」。製氷の木造の店を背景にセーラー服の少女が立っている。あいだに黒い猫がいて、こちらを眺めている。心理的なデフォルメによって風景と人物とが相まって強いイメージを醸し出す。

 清水節子「山みずき 2」準会員推挙。木製の扉をすこしあけて、五歳ぐらいの少女がその体をのぞかせている。顔だけは十五、六の少女の顔のようで、そのアンバランスなところに独特の強さと心理学が生まれる。ベージュのトーンの微妙な変化と独特の触覚的な表現。漆喰を塗ったような壁。粗末な木製の扉。裸足でそこに現れた少女。強い表現である。

 湯澤美麻「いつか見る風景」。白いワンピースを着た少女が立って、手紙のようなものを持っている。風が吹いているようで、ヘアがなびき、白い手紙も浮かんでいる。夕日のようで、そのピンクから青にわたる色彩のコントラスト。ぐいぐいと描きこむ筆力。それによって強い動勢が生まれる。その動勢がそのまま一種の心理的な効果をつくる。

 岡田昌也「閉ざされた遊具(F)」。女性が浮遊している。水の中にいるような雰囲気である。いわば夢の中にいる女性の像のようだ。鎖がそのあいだに絡まるように浮かんでいる。チェーンというと、SM的なイメージも漂う。そういったものと柔らかな女性のフォルム。そのディテールを生き生きと描く。

 山本育子「彩海 Ⅰ」奨励賞。マーメイドが画面の真ん中に描かれている。周りには魚やイソギンチャクや海草などがゆらゆらと揺れている。すこし漫画的あるいはイラスト的技法であるが、対象を線によってつかみ、ピックアップする。色彩も明快な対比によって明るく強い造形表現である。

 野中伊久枝「悠悠 Ⅰ」準会員推挙。カバの親子が描かれていて、楽しい。水に体を浸らせて顔だけのぞかせている。母親のカバと子供のカバが前後二頭いる。南方の水のもつ独特の温かな感触のようなものがよく表現されているし、それぞれのカバの表情が生き生きとしてリアルで新鮮。

 嶋﨑奈美「晴れの明日を待って」。女の子が横座りに座っている手前に水がたまっている。そばに倒れた壺がある。独特のシチュエーションを切り取った表現。

26室

 築山佳民「ロバのいる生活」準会員推挙。円錐形で、上方をカットしたような不思議な岩。その中に窓や階段がつくられているから、それ全体が家になっている。そんな不思議なミステリアスな存在の手前に一頭のロバがいる。太った男がそばに立っている。作者には素朴な生活に対する憧れがあるのだろう。そこからあらわれてきた構図である。緑の草と水とが癒すようなイメージをつくりだす。

 松澤翔「ANIMA2」。若い女性の腰から上を描いている。板にペンキを塗ったようなバックの前に立たせて、クリアにそのディテールを表現する。きらきらとしたイメージがそこにあらわれる。

 平川敦子「The Little Mermaid」。頭を手前にして横になった裸婦像。波打ち際である。向こうには入道雲がわいている。海の中に様々な色彩が入れられて、独特のカラリストだと思う。女性の体の上に花が散らされているのも、ロマンティックな表現である。

27室

 増山敦子「飴色の部屋」。木製の大きな簞笥の上方は矩形に区切られた棚になっている。そこには色とりどりの瓶が置かれている。それを背景にして試験管を持つ女性。金髪に白い髪飾りをつけて、グレーのワンピース。そこに斜光線が当たっている。独特のときめくようなイメージがあらわれる。クリアなディテールが浮かび上がり、物語のワンシーンのようなコンポジションが面白い。

 後藤尚毅「瀬戸内望遠式」。日本画ふうな要素と洋画ふうな要素とが不思議な連結をしている。手前に黒い大きな岩があり、その手前に樹木が小さく立っている。背後はグレーの海で、島がいくつも続いている。空に鳥が飛ぶ。水墨で描かれてきた世界を、油彩画でぐいぐいと描いたような面白さと強さが感じられる。

28室

 菅野桂子「ある日 B」。椅子に座った中年の女性が、赤いイヤリングの位置を確認している。顔が大きく、だんだんと下方にいくにしたがって小さくなるようなデフォルメである。独特のパワフルなエネルギッシュな表現。

 進藤充男「静かに眠りにつくように」。クイーンサイズのベッドの上に女性が裸で仰向けに腰をひねって寝て、鑑賞者のほうを眺めている。リアルでなまなましいものが立ち上がってくる。

29室

 香川ヒサ「anxious sweet」。苺のショートケーキや林檎のタルト、様々なケーキが集合し、それをリアルに表現して、独特の強さがあらわれる。現代美術に通じるような面白さ。

33室

 田窪理子「夏の午後 Ⅰ」。横断歩道を自転車で渡る女性たちや男の人。それを上から眺めている。一人は歩いて渡っている。独特の強さがある。真夏の幻想といった趣もある。クリアなフォルムがしーんとしたなかにプレスされるように表現される。

 法木光子「カルーセル幻想 Ⅱ」。木馬が二頭、両足を上げているフォルムの手前に、豚が二頭あらわれている。一つは俯いて、一つは上方を見ながら舌を出している。その下方の支えている岩が砕けて、このメリーゴーラウンドは崩壊しつつある。不思議な幻想感覚である。しっかりとしたフォルムがこのイメージにリアリティを与える。

 筒井美代子「行方 Ⅰ」。水の中に二人の少年が海水パンツをはいてつかっている。年上と年下。兄弟なのかもわからない。後ろには壊れた建物の破片。旋回するフォルムはジェットコースターのようだ。どことなく東日本を襲った津波を思い起こす。壊れた建物に対して兄弟の柔らかな繊細な体と表情とが対照されて、独特のイメージをつくる。

〈野外彫刻〉

 石川隆「-+」。タコのイメージである。タコがその足を胴体にくっつけて、ぽんと置かれている感じ。目はマイナスのようなかたちでまぶたがつくられ、そばのもう一つの突起にプラスのフォルムがつくられている。このタコの足のようなエネルギッシュな独特のフォルムを、このもっこりとしたフォルムの中につくって、アルカイックなイメージを表す。

 本多正直「SEED OF PEACE ―賢者の知恵―」。フクロウをそばに置いた若い女性。左手に果実のようなものを持っている。白大理石と黄土系の石とを象嵌するように重ねた不思議な技法である。果実は題名によると、平和の種ということになる。そして、フクロウは森の賢者と言われているそのイメージなのだろう。もっこりとした大きな白い台座の上に載せられて、不思議な平和のイメージを醸し出す。

〈彫刻室〉

 長谷川総一郎「ほこら 11」。鉄板の上に石の円柱が伸び、その上に男女のトルソが置かれている。背後は金属による円である。光背と言ってもよいし、満月と言ってもよいし、太陽と言ってもよいシンボリックな円。日本は神仏習合の思想である。したがって、月が阿弥陀如来と重なる。二つのトルソには黒と金の彩色と、その上に箔が散らされている。イザナギノミコトとイザナミノミコトというイメージもあるし、アダムとイヴでもあるだろう。「ほこら」という題名のように、それが道祖神のように拝む存在としてつくられている。そういえば、速玉神社にコトブキ岩という、神が降りてきたという岩があるが、それはおもてから見るとペニスの形をして、裏から見ると女性器の姿をしている。そういった日本古来の男女のもつ力といったものを、この作品は優しく引き寄せて、円柱の上に立てた。

 日野宏紀「歓び」。葡萄の房を持っている若い女性。すっと伸ばした八頭身のフォルムである。十頭身かもわからない。細みのスレンダーな女性の姿の中にふくよかな曲面がつくられ、右手に葡萄の房を持って、作者のつくりだした独特のミューズのイメージである。

 遠藤幹彦「思」。珍しく今回は鋳造ではなく木彫である。男性のピエロをつくった。しかし、その姿を見ると、どこか両性具有的なイメージがあって、女性的な要素も多分に含まれている。肩に左手を置き、右手を腰に置いたこのフォルムは、不思議な翳りのような美意識のなかに表現されて、ユニークである。下に丸太の台があるが、一木から彫り起こしながら寄木をした作品。

 長谷川敏嗣「空の彼方へ」。先の尖った岩の上から心棒が出て、上向きで両手を下に広げた女性のフォルムがつくられている。仰向いて、すべて脱力して両手を垂らしたようなフォルム。空に宙吊りになって、その光を全身に浴びているようなイメージである。地上に立っているのではなく、宙吊りにされたフォルム。下方の先の尖った四つの曲面をもつフォルムの上にこの裸婦はいる。全身を垂らして仰向いたそのフォルムは、どんどん上方に吊り上げられて宇宙までいくのだろうか。下方のフォルムは月のイメージを切断したような印象で、それがこのフォルムを照らしながら、空高く引き寄せているような、そんな不思議なイメージである。

 恩田静子「宇宙曼荼羅」。樹脂でできた角柱の中に淡い白いフォルムや青いフォルムがあらわれている。空や水のイメージだろう。そして、下方に丸まった胎児のようなフォルムが見える。そのフォルムは角柱の上に置かれた青い球体の中にある胎児のイメージと重なる。へその緒が上方に伸びている。そして、横向きの女性のフォルムが金属の外側につくられている。若い母親のイメージだろうか。それを受け止める白いマスクのようなものが、漏斗のように下方に置かれている。この女性のフォルムを拡大して、すこし崩したような白いマスク。存在するもの。空間の深さと広がり。その中に新しく生まれいずるもの。それに対する深い信仰心。そういったイメージを、しぜんとこの角柱から感じることができる。生成する曼陀羅と言ってよいかもしれない。

 細野稔人「夏の終わりに」。裸婦が右足に重心を置いて、左足をすこし前に、首をすこし左にひねって、頭を傾げている様子。左手はすこし体から離して、右手の先は右の腿についている。なにか考えこんだような雰囲気。ふっと考えこんでいるうちに季節が終わる。季節の終わりの悲しみ、季節の別れといったイメージもしぜんと感じることができる。

 日原公大「雲を摑む様な話より―再び甦る方法の研究者あるいは永遠の揺りかご―」。中心に首から上がない女性の裸のフォルムが仰向けに置かれている。左右には曲面でできたフォルムがあって、手がそこからあらわれている。渾沌とした雰囲気である。「永遠の揺りかご」といわれてしまうと、そのような渾沌とした揺らぎの中につくられている。胸の一部から上がないために、人間の心理が表現されず、曲面の女性の大地的なボディのイメージが左右に増幅されていくようなコンポジションになっている。たしかに渾沌として永遠に繰り返す波のような力がそこにあらわれ、その中から二つの腕によってある意識といったものが表現されるというユニークなコンポジション。

 石川幸二「人類が地球に残せるもの」。舟形のフォルムの中に紡錘状の形があり、その中に二つの突起がある。その突起から黒い煙のようなものが突き出ている。あるいは巨大な葡萄の房のようなもこもことしたフォルム。題名の意味はよくわからないが、自然の中に存在し、今回の御嶽山の噴火のように生きて活動している大地のイメージをそっと船の上にのせて眺めているようなイメージに注目した。

 梶滋「1/f ゆらぎ・Spiral」。木によって円弧ができている。厚さは三十センチほどある。直径が二十五センチほどある。あるいは三十センチから四十センチほどあるフォルムで、その表面はでこぼこのある曲面になっている。寄木によってフォルムはつくられている。一周すると、右のほうに旋回したそのフォルムの直径は、最初より一・五倍ほどになっている。そして、不思議な手触りをもって独特のエネルギーをその内側から発する。「この作品は触ることを前提として制作しています。掌でゆっくり連続して、・1/f ・ゆらぎを体感していただければ幸いです」と作者の言葉があるが、そのような触覚的要素、造形のベーシックなところから発したユニークな木彫である。

 片瀬起一郎「通り過ぎていく季節」U氏賞。三本の太い幹をもつ樹木が重なって、それが人体のようにあらわれている。その上に鳥のフォルムが置かれて、それが女性の顔に見える。そばにうずくまった楽器を持つ女性の姿があらわれている。樹木の上にのる雲はいわば作家のつくりだした鳥居のようなもので、それを静かに鑽仰しながら座っている女性のイメージがある。ずんぐりとした独特の量のもつ力を、この彫刻は引き寄せている。そして、座った女性と樹木が人体に重なるようなイメージ。神道的な力が感じられる。

第43回日本文人画府展

(10月21日〜10月28日/東京都美術館)

文/編集部

1室

 北村洋子「風の脚」。丘の上に密集する街並みをさらに高い位置から眺め、その風景の広がりをゆったりとした雰囲気で描いている。画面の中央あたりが最も濃い墨で描かれていて、そこから徐々に淡くなっていく。その抑揚の付け方が自然である。遠景の空が再度濃墨になっていて、それが作品にもう一つの落ち着きを作り出しているところも興味深い。中景には背の高い塔が伸びている。鑑賞者の視点をそこに集めながらも、画面全体に画家の眼は広がっている。現地の空気、そこに吹く風をそのまま作品に引き寄せた臨場感が特に魅力である。

 杉原阿都「ほたるのお宿」篩雪賞。しだれた柳の葉の間に、蛍の光がぼんやりと見える。その儚い美しさが魅力である。そこに漂う静かな気配もまた鑑賞後に余韻を残す。

 中里典子「初夏」。中景に深い森があり、その向こうに連なる山並みが見える。丁度画面の中央に全体の動きが収斂していくような構図がおもしろい。清々しい空気感もまた魅力である。

 関口越山「月下春容」。月下に大きく半を咲かせる桜の大木を画面いっぱいに描いている。その艶やかな桜の表情が印象的である。背後には山の斜面が見え、右上方には満月が昇っている。それらをしっかりと描き込みながら、桜を主役とした構成が作品を安定させている。

2室

 鳥海彌三郎「涼風清水」佳作賞。清水寺の舞台に立つ母子を画面の右に配置して、左の方には寺の様子を視点が抜けていくように描いている。背後の山は霧がかっている。巧みな画面構成が気持ちのよい情感を運んでくる。確かな絵画力が感じられる。

3室

 畑佐祝融「雲山」。山にかかる雲の蠢くような様子が強く印象に残る。画面全体はどこか薄暗く、妖しい雰囲気を醸し出している。刻々と変化するその雲の動きと静止する下方の松の姿が静かに対比されているところがおもしろく、特に大きな見どころである。

第41回創画展

(10月22日〜10月28日/東京都美術館)

文/高山淳・編集部

1室

 海老洋「シシノハナ」。狛犬のような雰囲気の馬が二頭向き合っている。右の馬が、鼻を中央の男の額に、押し当てている。二つに分かれた画面は、トーンを違え、三体の身体のかたちには、桜の花や猫などが、染物の模様のように描かれている。背後には、碁盤状になったところにアルファベットが並び、判読できない片仮名が描かれる。モチーフの輪郭もそうだが、どこかくずしたそれらの線が面白く、謎解きのような、シュールな情景が構成される。(編集部)

 植田一穂「ツワノハナ」。巨大な花がグレーの空間の中に表現される。茎と花弁と蕊。フォルムの輪郭線、その空間との際、あるいは生命のエネルギー。そういった要素を入れこみながら、線によって花の軌道を表す。花のフォルムの外縁に軌道を発見して、それを黄色く表すような雰囲気。それによって花が象徴的にシンボリックに、抽象的に、しかも具体性を失わずに絵の上に新しく創造される。(高山淳)

 津田一江「Pacific」。海の中が光線の関係で緑に染まっているのだろうか。右のほうが海で、手前が波打ち際のように見えるが、よく見ていると、手前も海で、海が染まっているようだ。そして、上方はすこし紫がかった空で、手前の白い部分はベージュ系の色彩。その微妙な変化によって空と海の広がり、その二つの空間が画面の中に対置される。(高山淳)

 藤田志朗「沈む月」。高層ビルの向こうに月がいま沈もうとしている。手前にはたくさんの花が咲いている。ランボーの詩の中に花に目があるというフレーズがあるが、そんな不思議な花々である。花と月とは響き合いながら空間を構成している。そのあいだに高層ビルが、まるでファンタジックな街のように表現される。(高山淳)

 宮城真「地動」。ゆるやかな丘のある大地が広がっている。植物が生え、点々と針葉樹が伸びている。その向こうから巨大な雲が手前に向かってきている。やがて激しい驟雨が来るのだろうか。その雲がどんどんと手前に広がってきているのだが、空の一部にはまだ明るい部分がある。そして、左のほうには虹が立っている。先だって筆者は和歌山の南方熊楠の記念館に行って、その屋上から紀州の海を三百六十度眺めたが、そのときのもうもうたる気配を、この空を見ながら思い起こした。単なるイメージではなく、体験から来た独特の空間の広がりだと思う。その黒い激しい雲の動きに対して、透明な空が対比されているところが、実に絵としての魅力だと思う。(高山淳)

 目黒祥元「卓上の記憶」。城をバックに、卓上風景が描かれる。厚紙のコラージュによる線やフォルムの表現がダイナミックである。玩具のようにデフォルメされた鳥籠と鳥、植木鉢、山と海の景色の紙芝居のようなもの、シャベル。黄土を基調にした色感があたたかな雰囲気を醸している。(編集部)

 松倉茂比古「(LA VITA)夜の帳」。家が斜面に立ち並ぶ、イタリアの街並み。清澄な紺色の、空や陰の色。白銀の月。家々が呼吸するように立ち並んでいる、静かなこの夜の時間が表現されている。縦に射し込む金色の線には、イタリア語だろうか、文字が書き連ねてある。夜の中に静かに響く、アンティームな音楽性を感じさせる。(編集部)

 石原孟「構成の街」創画会賞。暗色の色彩による、鳥瞰の町景色。激しい筆致で、コラージュしていくように踏切、公園、工場、木といったものが配されている。画面の奥は、暗い。夜の闇というより、記憶のなかの暗いところといったイメージである。ある種ノスタルジックである一方で、津波で破壊された街を連想させる。不思議な奥行きのある画面である。(編集部)

 阿部千鶴「蒼いささやき」。厚塗りの中に青を中心に黄や白を交えて描かれた、格子や植物、公園の遊具といったかたち。そこを鳥が舞い、夢見るように目を閉じた少女がしゃぼん玉を吹いている。やさしいメロディが響くようだ。(編集部)

2室

 毛利やすみ「神無月」。清澄なブルーの夜空に、神無月の満月。地面には葡萄や花などが供えられる。哀愁のあるコンポジションである。死者を弔うようなイメージの中に、どこかあたたかなイメージがただよう。(編集部)

 加藤覚「雨の日」。木目の粗い板を支持体に、青やピンク、黄色や緑といった、花火を思わせる華やかな色彩をあしらい、都市の景色を象徴的に描く。静謐な光をたたえる箔の表情が、画面を引き締めている。建物の表面には、細かに雨しぶきが散る。スマートな疾走感のある構成である。(編集部)

4室

 本田郁實「婚活・お相手は何処」。パラソルの下に白いイスが集まり、群像のようである。赤い座面のイスが取り残されたように、パラソルから離れた真中にいる。画題から考えると、ひとりだけ相手がいないのだろうか。何とも、もの寂しい様子。それぞれのフォルム、パラソルや床の明るい色感が不思議なリズムをもたらし、どこかおかしみのある光景となっている。(編集部)

5室

 長谷川誠「暮映」。堅牢なマチエールに、黄や白といった淡い色彩。暮れなずむ空の下の、遺跡のような、石の村なのだろうか、山と一体となった建物群である。白い建物のごつごつした感じが、力強いリズムをつくる。(編集部)

6室

 伴戸玲伊子「海鳴り」。海べりの道路が奥へとつづき、先には岩場が小山のようにそびえている。岩には松の木々が立っている。路面は海水に濡れているのか、白く輝き、風が吹いている。グレー調の色感の中に奥行きがあって、静かな一刻のパノラマをなしている。(編集部)

 村松詩絵「空とつながる場所」。広場に、巨きな白い木々が立ち並ぶ。その下で、人びとがそれぞれに散歩をしている。空から地に降りてくる四角い紋様、木々の梢のかたちが織り混ざり、神秘的なイメージを醸す。画面全体で、やわらかな室内楽のような音楽性を紡ぎだされる。(編集部)

 齋藤文孝「風景との対話―大地の道―」。水墨によるモノクロームながら、胡粉の白が輝くような、清らかな画面である。心中で景色として昇華された、抽象的な道。両側に草が繁る、奥へ向う道にも見えるし、大気が躍動するある空間のようにも感じられる。長く集中した自己との対話のプロセスを描いたような、静謐な画である。(編集部)

7室

 星野哲弘「転生(過ぎ往く刻)」。向日葵が面白く構成されている。下方に逆遠近のボックスが置かれている。そこに円形のフォルムの中に鳥居や不思議な文様などが描かれている。そのボックスの上にも枯れた向日葵があり、ボックスの向こうから立ち上がって、太い幹に向日葵の後ろ姿がある。周りのグレーの空間の中には光の柔らかな陰翳があらわれている。その中にグレーの不思議なフォルムが窓のようにあらわれている。向日葵がドライフラワーになるということは、夏が過ぎたわけだが、その中に夏を惜しむ気持ちがあり、また、秋の気配がある。そして、どこか砂浜を思わせるような不思議なグレーの色面もあらわれる。手前のしっかりとしたボックスは、中に何が入っているのだろうか。十字形の構図の中に星座の配置のようなコンスタレーションで円形のフォルムが入れられて、実に不思議なモニュマンとなっている。(高山淳)

 石本正「裸婦姉妹」。手前の女性は俯いて裸になっている。その後ろ側に湯文字だけつけた女性が仰向けになっている。湯文字から腿から足がのぞいているが、その上半身のかたちにしても、手や顔にしても、実に優れたデッサンによる仕事である。対象を捉えると同時に、ドローイングしているうちに、塑像的にフォルムをつくっていくところもあるのではないか。そして、二人の女性の生きた存在、その呼吸するような肉体、あるいは性格的な要素までも実に見事に表現する。(高山淳)

 上村淳之「秋の水辺」。いちばん下方に五羽のシギ。中間にオシドリ。上方に雁が三羽飛んでいる。大きな月が銀色に光っている。柔らかなグレーの水のトーン。イメージの空間がそのままひとつの存在のある空間と化す。実際、手前の五羽のシギにしても、その真ん中の五羽のオシドリにしても、二つの鳥と鳥の距離感といったことが、ヨーロッパ的な油絵では気になるわけだが、この無限空間の中に置かれたイメージの鳥たちにおいては、それが気にならないところが実に不思議である。そして、深い情趣がその空間と重なりながら醸し出される。そして、そのまま水が空となって雁が飛ぶ。巨大な月が浮かぶ。イメージと象徴、そして現実という関係を見事に絵画的にクリアした、まさに日本画ならではの空間表現である。(高山淳)

 稗田一穗「残月春尽」。下方に、おそらく郷里の和歌山の海と思われるが、波が寄せている。面白いのは、下方より上方のほうが大きく、だんだんと下方が小さく、その下に遠景と思われる風景が手前に描かれていることである。浜に寄せる波と岩、そして向こうに見える島などが描かれて、二つの波とその部分とのポジションは全然別のものであるが、それが下方に並列して描かれていて、それが不自然と思わず、画面の不思議な奥行となってあらわれている。左のほうには切り立った断崖があり、そこにも遠くの波が白く見える。上方に大きく二十五日ほどの月が浮かび、その上に八重桜が咲いている。墨というもののもつ不思議な働き。無彩色でありながら、色を感じさせる働き。そして、そこに夜の空間が見事にあらわれ、白く月が輝く。下方の繰り返す波は、昼でもなく、夜でもなく、いわば紀州の時空間を表現し、無限に繰り返されるイメージと言ってよい。そこには持続する時間ともいうべき姿があらわれる。そしていまこの時間に現れた月と桜の花がお互いに呼応しながら、この春の夜を惜しむといったあんばいである。(高山淳)

 烏頭尾精「平城」。空が約六割ぐらいを占める。空の中を何か動いていくものがある。巨大な龍のようなものが動いているのだろうか。下方には大地があり、近景には家並みが見える。家並みの向こうにあるグレーの空間は、昔あった平城の都が幻影のように浮かび上がっているようだ。そして、はるか向こうの青いグレーの低い山並みを思わせるような空間。実際のリアルな実景としての大地と空が、イメージの大地と空に変容する。と同時に、現実のあいだから過去のイメージが浸透してくるようにあらわれて、実にあやしい気配が画面全体に満ちている。とくに下方の幻影のような街並みといったものと呼応するように、上方に不思議なフォルムが白っぽいグレーで、その周りのすこし暗いグレーの中を通りながら動いていく様子は、何か不思議な生き物、あるいは画家の詩人的な追想という心持ち自体が、その空を旅しながら動いていくような気配でもあるし、それを象徴的にいえば、龍のようなフォルムと言えるかもしれない。(高山淳)

 滝沢具幸「山路」。杉のような木が両側に立っている。下方に道があるようで、なく、あいだからちらちらと向こうの空間が見える。杉の中に深く入ると、たとえば吉野古道のような道があらわれる。奥行があり、渾沌とした空間が画面につくられる。樹木の幹から左右にいく枝のかたち、あるいは黒い線によってつくられた葉の様子、それぞれが不思議な韻律の中にハーモナイズする。自然の気配といったものを画家は表現しようとするのだろう。(高山淳)

 北條正庸「déjà-vu」。シルエットの男。そばに犬も後ろ姿で描かれている。ボートが一艘。上方に家を思わせるフォルム。そして、月があらわれている。自分自身の姿を後ろから眺めているような不思議な趣が感じられる。追想というにはもっとなまなましい、夢の中で見た現実のようなフォルムが表現され、その空間に密度が感じられる。(高山淳)

 片柳勁「幻影圓相」。上方に人の顔がある。そこから円状のフォルムが連続して重なって、一つのリングをつくり、いちばん手前では合掌したようなフォルムがあらわれる。その下方に深いすり鉢のようなフォルムがあらわれ、それの左右に広がる山並みのようなフォルム。そして、右には球体の中に馬がいる。グレーを中心とした中に、不思議な円弧によって独特の寂々たるメロディのようなものが生まれる。右下に馬がいると述べたが、左上方には正面向きの馬がもっと小さな円弧の中にいる。馬を観音のように、あるいは脇士のように置いた、仏の図像のようだ。(高山淳)

 程塚敏明「Departure」創画会賞。ファンタジックな建築物である。尖端にいる帆をもった舟は、そこからゆっくりと飛び立つようでもあり、大海に漕ぎ出そうとしているようにも見え、バックの空間は大洋のようにも、空のようにも感じられる。それに向って駆ける二匹の猫のシルエットが生き生きしていて、やわらかな味わいを醸す。(編集部)

 渡辺章雄「風景」。グレーを基調とした地に、矩形の色面が構成され、静かな、都会的な音楽性を感じさせる。赤や青の矩形をアクセントに、縦に金の線が走る。上空からその静かな動きを見ているような、不思議な奥行きがある。(編集部)

 平山英樹「夏果てる街」。白い壁に影ができている。建物の影のようで、そこにもう一人、作者自身と思われる横向きの帽子をかぶった姿があらわれる。その壁の向こうには大きな円柱の上に高速道路がつくられて、道がつくられているようだ。左上方には高層ビルが幻影のように浮かび上がる。そのそばにシルエットの階段。黄金色の空。青い空の下にこの黄金色の空は夕焼けのようだ。だんだんと日が落ちてくる。そんな中に建物や影、円柱などが上方に浮かび上がって、そこに不思議なリズムが生まれる。夏を惜しむといった心持ちもあるようだ。それぞれのフォルムが一種シルエットふうに表現されて、お互いがハーモナイズし、独特のメロディを奏する。(高山淳)

 谷井俊英「街道の邨」。いちばん左側を大きくカーヴして単線の線路が走っている。そこよりすこし低くなったところを、道路がカーヴしながら向こうに向かう。さらにそこから一段低くなったところ、それは海際の道だが、そこにも道がある。右のほうには湾が青い色彩で表現されている。あいだに民家が点々と立っている様子を上方から俯瞰する。二つの円弧の先にはもう一つの海が見える。しっとりとしたトーンのなかにそれぞれの形をしっかりと描きこむ。そして、全体ではるかなるものに対する憧れのような心持ちがしぜんと醸し出される。(高山淳)

 羽生輝「晩照(悠々釧路湿原)」。画面の約六割ぐらいは空が占めている。その中空に太陽がある。その周りは赤く、上方は黄金色。下方の湿原も暗い褐色と黄金色との二つの色彩によって、渾沌とした中に遠近感があらわれる。ダイナミックで力強い空間。上方の赤い空を見ているとなにか幻覚が起きそうな、ロマンを感じさせる空間である。(高山淳)

8室

 鈴木夏江「バラの咲く庭」。白いテーブルの上に向い合せに椅子が二つ。テーブルの上に青い如露。そして、周りはたくさんの薔薇の花が咲いている。薔薇の褐色の枝、褐色の茎。それに黄色い薔薇の花がたくさん咲いている。葉は白く、晒されたような雰囲気である。薔薇の花が咲いたあとに薔薇の花を思い出して、この画面の中に構成したような趣がある。瞬間的な現象ではなく、記憶に晒されたような花の表情が実に不思議な雰囲気である。その向こう側にサップグリーンのような緑の色彩、あるいは緑の葉のようなフォルムがあらわれているのも、優しい雰囲気で面白い。(高山淳)

9室

 大槻睦子「夜の川」。銀地をバックに、二人の裸婦が大きく描かれる。一人は寝そべり、手前の一人は丸くなって目を瞑っている。あるいは、一人の裸婦の二態が配されたようでもある。からだの曲線が流麗で、やわらかな、安らぐような流れを醸している。(編集部)

 木村信筰「道」。茶褐色のトーンにあたたかみがある。坂道の両側に町並みが続いていき、奥は海。家々が呼吸しているようなリズムがあり、ノスタルジックなイメージの中に、生き生きとした躍動感がある。(編集部)

 梶浦隼矢「光満ちて」。やわらかな色彩の野花の原に、時折あるタンポポが可愛らしい。上方の木の様子も草花の様子も、ひとつひとつ丁寧に描かれ、命が芽生える春の密度あるイメージを、力強く表現している。(編集部)

10室

 松田朋子「夏へ熟れる」。銀箔地の空間に、鮮やかな緑の繁みが描かれる。薊だろうか、花が三本、立っている。蜘蛛の巣がそこに絡みついていて、中央には小さな蜘蛛がいる。小さな草むらの命のさまが、生き生きとあらわれている。(編集部)

 多賀竜一「日常」。ふたつの小さな林、黒い溝のようなもの、その先に走る電車、海にヨット、空に鳥。デフォルメされたそれらのフォルムが、がっしりしたマチエールに、やわらかな色彩の調和をもって描きだされ、明るい韻律を感じさせる。(編集部)

11室

 石原貴暉「遠い刻」。ブルーを基調としたなかに、夕暮れのような、虹色のグラデーションの空が融け込む。街頭、街路樹、野花、上空には月。右方には電車があり、長い線路が奥に向っている。縦長の画面に構成された、幻想的な追憶のイメージが織り混じった光景である。(編集部)

 河合幸子「balance」。少女が手を後ろに組んで、頭に厚い本を載せて、上方を見ている。そのフォルムが実に魅力的である。また、黄土色のセーターのような質感のものの上衣と青に植物模様のスカートも面白い。緑色の丸太を積んだ様子が背景になっている。そして、その上方はむにゃむにゃとした茶とグレーの混色で、紙飛行機が飛んでいる。少女の横顔のフォルムや手の表情といったディテールがなまなましく、同時に画家独特の美意識によって表現されているところがユニークだし、絵画性である。

12室

 吉川弘「地平」。インドの風景だという。縦横に広がる空間。そのあいだを道が横切っていって、ちょうど飛行機で三千メートルあたりから眺めた光景のような世界が広がっている。いちばん下方はその地面に立って眺めている山のかたちのように感じられ、上方は俯瞰したフォルム。そして、その向こうにあるのは地面のすこし上から眺めている銀色に光る山並みで、その向こうに海が見える。独特の大地の広がりを図像化し抽象化しながら、具象性をもったユニークな表現である。金の道が縦横に広がっていく。(高山淳)

 奥村美佳「風の道」。土の道の両側に広葉樹が立ち並んでいる。その道の向こうに野原があって、その向こうに瓦屋根の民家が集合した村がある。その後ろは山になっている。上方には雲の上に山があらわれている。独特の強いイメージとそれぞれのディテールを画面の上で組み合わせた表現である。とくに向こうの集落と山などはほとんど幻想のようにさえ感じられる。もういまはなくなった集落が、道の向こうに突如として現れたような、ヴィヴィッドなイメージも感じることができる。また、上方の柔らかな水墨のような霞の向こうに、懐かしい山のフォルム。左右の近景の樹木の幹や枝、葉の形。実景と心象とが実に微妙にお互いの領域を浸食しながら、心象空間をつくる。(高山淳)

 太田絵里子「雨降る日」。繊細な線描に惹かれる。立つ女性は手で雨を受けているのだろうか、その顔立ち、まなざしに凛としたものがある。大和絵を思わせるバックの山々には桜が咲きひらき、雲が紋様のようにたなびき、雨か彗星のような線が飛び交っている。支持体の板の木目を生かした空の調子も、面白い味がある。プリミティヴな世界観に、現代的な女性のすがたがうまく調和している。(編集部)

13室

 浅野均「春の記憶と夢」。下方にシルエットになった家と樹木、植物のフォルムが見え、そこにぽつんと一人の男が立っている。その光景と上方に広がる光景。画面の上で二つが組み合わされている。上方には針葉樹の積み重なった森のようなフォルムが見え、その上方に灌木が茂って、そこに斜光線の黄金色の光が照らしているような光景があらわれる。そして、右のほうには三日月が、左のほうには朝日の中に青い山があらわれる。金色の風に靡いている様子は、ダイナミックに下方に下りてくる。山の中に深く入って、上方から見たり内部から見たりしながら、それらを組み合わせながら不思議な空間をつくる。そんな空間に対して、下方は素朴なシルエットの実景的な空間を影絵のように描く。それら二つを重ねることによって、まさに記憶と夢という題名のような不思議な広がりのある奥行のある空間が生まれる。上方の銀色に光る山並みのあいだに花が咲き、オレンジ色の屋根が見える民家がぽつんとあらわれているのも、まことに面白い、画家自身がつくりだした胸中山水と言ってよいかもしれない。(高山淳)

 雲丹亀利彦「扉の向こう」。塀と塀のあいだに鶏頭のような花をつけた植物が描かれている。それをはさむ塀のようなフォルムは金の色面である。地面と思われる部分が紫で描かれ、その周りに植物的なフォルムが組み合っていく。おそらく視点を変えながら色面構成を行い、上方の左右に黒い空間が置かれて、この空間のもうひとつ向こうにある夜空のようなものがあらわれているところも面白い。(高山淳)

 梶岡百江「夕晴れの日」。晴れた日の夕暮れ。地平線近くの空は赤く染まっている。電信柱が左に立ち、右のほうには巨大なミラーが立っている。Y字路があらわれ、そのコーナーにコンクリートの直方体のグレーの壁をもった建物が立ち上がる。三つの窓。下水管。グレーの壁の向こうから裸木が小さく見える。気圧が高くなり、耳がじんじんとしてくるような、そんな独特の空間の性質が画面に表現される。空間が叫び、鑑賞者を別の次元の世界に連れていこうとするかのごとき、独特の心象風景と言ってよい。(高山淳)

 宮いつき「鳥舎を覆う」。二人の女性とマスクをした男性。そんな上方に鳥籠があって、インコのような鳥がとまっている。面白いのは、左下にオレンジの光が引き寄せられ、押し葉のようなシルエットの植物がそこにあらわれていることである。様々な時間の光が引き寄せられ、三人の人物は不思議な散歩を画面の中で行うようだ。(高山淳)

 武田州左「再生・824」。直線と円弧によってつくられた空間は、紫系の色彩と緑、あるいは黄色、赤の色彩が入りまじって緊張感のあるものである。その色彩は天上的で、ステンドグラスを通してあらわれてくる色彩のような性質をもつ。そして、左上方、右下の斜めに動く動きを中心として、それに対抗する動きもあらわれる。聖なる力ともいうべきものが画面から漲るようにあらわれてくる。下方を見ると、不思議な月のようなフォルムが見え、その周りのピンクや緑や黄色の色彩は、まるでルドンの色彩を見るような透明感がある。精神のもつ空間。物質を超えた世界を画家は画面の中に引き寄せようとする。(高山淳)

 土方朋子「道行き」。布の支持体に黒の岩絵具で描かれる、命の呼吸を感じさせるリズム感あるタッチ。シンプルな手法ながら、風の吹く中を鳥の群れが飛び交うような、時間性と、物語性を感じさせる深みがある。岩絵具を生かした、潔い表現である。(編集部)

 松谷千夏子「海―Sea 1」。近年の出品は女性像が多かったので、男性像は新鮮である。海が広がり、そこから顔を出す男。髪の毛や波紋の様子が作家独特の味のあるリズミカルな線描で描かれる。男は浅瀬を歩いているのか、浮いているのか、あるいは、歩いていたらそのまま海を歩いていたような、何かユーモラスな感がある。不思議な一幕である。(編集部)

14室

 森本政文「Saint Trophime」。フランスに取材を続ける作家である。タイトルは、南仏のサン=トロフィーム教会からきているのだろう。中庭だろうか、教会の回廊の内側が、白く発光し、光の粒が画面全体に広がっている。回廊のこちら側には、二体の聖像が立っている。光の陰に、シルエットで描かれる。その手前には細い草が伸びている。右側には扉のようなかたちの白い光もあり、様々なイメージが画面上にあらわれ、幻想的な光景となっている。映画を早回しでみるような、不思議な躍動感がある。(編集部)

16室

 足立絵美「utopia のよる」。耽美な世界観に、紋様のように、二人の少女、猫や妖精たちが、シュールな一幕を構成する。それぞれの色感、まとった服の水玉模様や小さな虫たちといったディテールの描写が細やかで、毒気のある雰囲気をやわらげ、見応えある表現にしている。(編集部)

17室

 西久松綾「風の方向」。大きな河が広がり、奥には林、河上をカラスが飛び交う。カラスががあがあと鳴いているような実感がある。水の動きと鳥の動きが共鳴し、詩的な、ゆるやかな韻律をなしている。(編集部)

 沖谷晃司「白」。清らかだが、どこか虚ろでもあるような、透明感ある少女のさまが面白い。水墨表現を生かした、凛とした存在感のある作品である。(編集部)

 清水正志「空花」。西洋人形を思わせる女性を取り巻く、様々な町、花、草木といったイメージ。やわらかな色感の中に、夢の中をただようようなロマンティックな雰囲気があらわれる。(編集部)

18室

 村岡幸信「光土」。広がりのある空間に、やわらかな黄の色調。盛り上がるような山々のかたちが面白く、力強いリズムを生み出している。(編集部)

第65回記念一線美術会展

(10月22日〜10月28日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 江口ミホ「半夏生」。半夏生とは夏至から十一目のことで、七月の初旬に当たる。また、ハンゲショウという白い花のことも指すそうだ。そのハンゲショウの花が上方に描かれ、下方には裸の女性の上半身が描かれている。両手を胸のほうに向けて遠くを眺めている。後ろには椅子に座って悩んでいるような裸婦像がある。面白いのは、その裸婦とハンゲショウの花とのあいだに猫が一匹、こちらに歩んできて、ジロリと左右を眺めている様子である。すこし童話的なイメージがそこにあらわれ、それを女性のそばの三日月の顔をした人間のフォルムが強調する。一年の半分が過ぎて、夏が始まる直前。昔はその頃には田植えもしたそうだが、そんな歳月のポイントのなかで過去を振り返り、未来を望む。そういった中に放心するような女性のイメージが面白く表現される。クリアな輪郭線をもつ手前の女性のフォルムが絵画的に生き生きとした表現となっている。

 髙橋留三郎「見つめる」。臙脂色のイヴニングドレスを着た女性の上半身が近景に描かれ、すこし伏目がちに前を見ている。その後ろには筋肉質の裸の男が椅子に座り、その周りに男女が裸で前方を見て走ろうとしているかのようにひしめいている。そばには馬も同じような雰囲気で上半身をのぞかせる。不思議な画面である。何を描いているのだろうか。前を見つめて走るということは、未来と相対している人間の心象のユニークな表現なのだろうか。背景の褐色系のグレーに対して、色みのある褐色の肌をしたこの群像には、不思議な力強いイメージと同時に霊的なものも加わって独特である。上方に三つの雲が浮かんでいる。このエネルギッシュな人間群像のイメージが、この手前の女性の内部にあるのだろうか。背後にいる人間たちはきわめて寓意的に表現されて、なにかの比喩のような存在として描かれている。それに対して手前の女性の上半身は、そのまま素直に現実のシチュエーションを示している。二つの様子、外界と内界をそのように表現しながら、未来というものに向かう独特の心象表現となっている。

 橋本光「風跡―石切山脈―」。石切山脈という文字が左のほうの石の上に彫られている。その手前には巨大な石に金槌を入れて割って切り出そうとしている三人の労働者の姿が見える。後ろにはショベルカーがいる。その後ろにも大きな岩に数人の男たちが作業をしている。岩がその後ろにも立ち上がって、巨大な岩が重厚感をもって表現されている。石切山脈という題名のように、岩でできたこの山から石を切り出す作業をずっと昔からやってきたのだろう。そういった連綿と続いてきた労働を、面白くモニュメンタルにまとめている。手前の三人の金槌を打つ男たちのフォルムが力強く、画面を引き締めている。

 長島美勝「世尊の弟子たち」。上方に釈迦がいる。釈迦の弟子が仮面をかぶって集合している。法被には真実、精進、忍辱、布施、持戒などの文字が見える。釈迦と思われる男は兜率天という文字を法被に置いている。左上方に不思議な光を照らすものがあって、そこには出離、慈捨という文字が見える。仏教の用語をそれぞれの人に当てはめながら、全体で不思議なハーモニーをつくる。よく釈迦の弟子、あるいは中心に阿弥陀如来がいて左右に脇士などを置いた仏教美術があるが、これは実際の人間のフォルムにお面をかぶせながら画家のつくりだした仏教的群像となっているところが実にユニークである。現実の中に釈迦の思想を導入して、面白く構成している。そのエスプリともいうべき作者の力に注目。

 岩田司「旅路」。白い横断歩道の上に男が立っている。頭は坊主で、ショルダーバッグを掛けて立っている。後ろには曲がった横断歩道。あるいは曲がろうという標識、ウエスト、イースト、サウスのW、E、Sなどの文字が見える。人生は旅だとよく言われているが、そんな人生の旅の晩年のイメージをこんなかたちで面白く生き生きと表現する。輪郭線がオレンジ色で彩られて、男は黒い服を着ている。その輪郭線のオレンジのフォルムがそのまま、また旅路の道のイメージを表す。

 外川攻「望郷」。画家は隅田区に生まれた。隅田川が一時公害によってどぶ川になってたくさんの魚が死んだ経験をしている。最近はまた川がよみがえりつつある。そういった川の推移を描いてきた。隅田川は画家の最も愛する川であり、郷里の象徴と言ってよい。そんななかに生きてきた自分自身、あるいは環境の問題を、この一尾の大きな魚によって表現する。魚は切り刻まれたものがもう一度合体して再生して、この姿になったように表現されている。背後には川を思わせる青い色彩や散乱する材木のようなものが描かれている。まさに再生というイメージを強くうたいあげる。それはそのまま望郷のイメージにつながる。

 藤森千重子「猫のいる日常」上野山清貴賞。母親がテーブルのそばに立って、ネギの前に手を置いている。そばに女の子が椅子に座って黒い猫を抱いている。茶色、緑、青などの色調を暗いトーンのなかにそれぞれのポジションに置いて、静かな音色を鳴らしているような雰囲気である。日常のなかに発見したフォルムを組み合わせ、そこに画家独特の色彩を置いて、静かなメロディを奏でるようなコンポジションをつくる。

 髙木八重子「玄冬」。冬の寒い緊張感に満ちた朝。蓮の葉が高く立ち上がり、白い雲に向かう。背後には山や住宅、水などの流れのフォルムがあるようだが、それを抽象的に表現して、ときにシャープな引っ搔くような線やたらしこみふうな色彩のあるフォルムによって描いている。いずれにしても、冬の朝のきらきらとしたイノセントなイメージをうたいあげるように表現しているところに注目した。

 近藤弘子「想―碧い月―」。手前に大きな蓮の葉が揺れるように表現されている。そこから茎が伸びて、一輪の白い花が咲いている。不思議なことに、その前後には花托になった蓮の花がある。あいだから女性の上半身が浮かび上がり、すこし瞑想する雰囲気で、背後に青い月が浮かんでいる。ロマンティックなイメージである。月と蓮とのあいだに女性を立たせる。そして、蓮の花と花托になるあいだの時間の推移を示す。緑を中心とした色彩の中に女性の着ているワンピースの紫が独特の色彩効果を表す。

 河瀬陽子「マリオネット-65」。ソファの下の床に女性が座っている。長く白いドレスのようなスカートをはいた女性は、右手をソファに置いて俯いている。そのフォルムが生き生きとしている。ディテールが面白い。そばに女性のマリオネット(人形)が座っている。反対側にはこれを操る十字形の木の道具が転がっている。二つのあいだを結ぶ操り糸が壊れてしまった。つまり、心が破れて統一を失った心象表現と言ってよい。上方に足が十本ほど見えて、五人ほどの人間がいるようだが、裸の足のその様子がまたひとつの混乱を示す。寓意性の強い表現によって、この若い女性のいまいる混乱を表現する。ただ、それを暗いかたちではなく、どこか爽やかな雰囲気の中に描いている。その象徴が糸の切れた手前のかわいらしいマリオネットなのである。

 小林貞子「Spirto du noir(黒い魂)」東京都議会議長賞。ジャズ讃歌と言ってよい。その象徴としてサックスが大小二つ、画面の中心に置かれている。背後には横文字やトランペットなどが置かれ、独特の稠密な空間の表現になっている。壁のようなものも浮かび上がる。スラムの中で黒人がジャズやブルースを歌ってきた。そんな歴史を画家独特の構成によって鑽仰する。

 笠原久央「流・映・風・宙」文部科学大臣賞。手前に大きな白菜の上部が描かれている。白菜の筋のある形がそのまま地球というもののメタファーとなる。上方には九つの白菜が白い線描きで描かれ、一部はリングによって囲まれている。聖なる白菜である。それは聖なる地球と同じ意味だろう。背後に水と雲とが重なったような不思議なフォルムが浮かび上がる。白菜を地球のメタファーとして実にユニークなコンポジションをつくる。

 森久杏子「Shinroku」一線美術賞。三頭の鹿が手前に走ってくる。下方にまだ雪が残っているようだ。それを蹴散らしながらこちらに走ってくる。背後はこの山の色彩として褐色の色彩が使われている。木漏れ日の中を走ってくる三頭の鹿の生き生きとしたフォルムとコンポジションが魅力。

 冨稚阿紀「イキタココチ 2B+ゼロ(ハルオハルヲマツ)」損保ジャパン日本興亜美術財団賞。上向きの男の横顔。大きくあけた口の中から人間のたくさんの手や植物が伸びている。その下方は階段になって、その階段を自転車に乗った男が上っていく。手前には潜水服を着て逆様になった姿がある。まさに春を待つ、現在の困難な現実にある歯ぎしりするような心持ちを、面白く画面に表現している。抽象的ではなく、男性の顔や自転車に乗る男や階段や伸びていく手、あるいは渦巻きなどによって生き生きと描く。ユニークなコンポジションである。

 大石久美江「光」。縦長の画面のほぼ中心に、白い衣装をつけたバレリーナが足を高く両手を上げて踊っている。広い舞台の中に一人で踊っているプリマドンナの様子。そのフォルムが輝かしく生き生きとしている。手前は舞台の袖になっていて、そこに五人ほどの女性たちがバレーを踊っているフォルムがシルエットふうに表現されている。そばには向こうを見て、そのバレリーナを眺めている人。手前には若い男女の上半身が表現されている。この赤い衣装の若い女性が、あの向こうで踊っているバレリーナと一緒なのかもしれない。二人の親密な様子と舞台でひとり踊るバレリーナの姿とが面白く緊密に関係をもっている。舞台のゴシックふうな窓や柱の様子。その踊りにつれて手前の練習をするような女性たちの様子。「光」という題名のように、一つの芸を徹底して勉強することによってなにか困難なものを解決しようとする、そんなイメージが表現されている。人間の意志というものに対する深い信頼の表現と言ってよいかもしれない。また、右上方に女性の横顔が大きく描かれているのも面白い。そういった人々のあいだから見える中景の舞台の真ん中で踊るプリマドンナの様子。その神々しい気高い雰囲気が、実に周りの人々と心理的な関係をもちながら生き生きと表現されている。

 髙橋克人「想い出」。サーカスの旗が翻る。ピエロと三日月。手前にはオカリナと子供の妖精的なイメージのフォルム。蝶が飛んでいる。子供のような仮面と赤い衣装、青い帽子。気球が空に上がっていく。塔がある。雲が浮かび、岸壁の向こうに海が広がっている様子が、空と重なる。まさに思い出の中に浮かび上がってくる形象が、独特の壁画的なマチエールの中に表現される。それぞれが浮遊しながら、お互いに不思議なハーモニーをつくる。

2室

 加藤幸代「夏の刻」。赤く染めた髪をした女性が座って足を前に投げ出している。背後に向日葵の花が咲いている。そばには犬が同伴者としている。犬のそばには小菊のような花が咲いている。全体は緑の深々としたトーンの中に黄色やオレンジなどの色彩が輝く。外側から犬とこの女性と向日葵を描いているように見えるが、逆に内側からこの光景を眺めているようなところが面白い。そのイメージから、この複雑な深い安息感のある緑の主調の色調が生まれてくるのだろう。

 小林博「小路風景」一線美術文化賞。京都でいえば錦小路の中などのイメージである。小道の両側にせんべい屋や食堂などが軒を連ねている。オレンジ色の光が店の中からこの道に差し込む。手前に猫がいて、中景に後ろ姿の女性がいる。生活の匂いのする空間を独特の温かな気配のなかに表現する。

 小林弘子「坂のある街」。下方に茶色い小道がカーヴしている。両側にグレーの壁の建物が描かれ、屋根はオレンジ色や緑色。遠景に行くにしたがって地面は高くなっていく。そんな土地の上に建てられた建物を面白く構成して、とくにハーフトーンの色彩が優しくハーモナイズする。黒や緑、青などがアクセントとして入れられている。一種の音楽的感興を覚える佳作。

3室

 山口まり子「わらべ唄が聞こえる」。狐の仮面をかぶった女性たちが長い列をつくっている。幟を持っている人もいる。上方では、中心に火を燃やして数人の同じような装束の人々が踊っている。近景には、七五三のときのような和服を着た姉と妹。姉は狐のお面を頭の上方に置き、妹は紙風船を持っている。画面全体は緑のしっとりとしたトーンの中に表現されている。昔の日本人のお祭りを背景にして、着物を着た二人の少女を前面に立たせて、過去を懐かしみながら過去から現在につながっていく習俗といったものを面白く表現する。

 平野雅子「宙(どこへ)」。白いワンピースを着た年上の少女と同じような服装をした年下の少女が向かい合っている。髪が白く靡いている。小さな女の子は大きなボールを持っている。画面全体が青く染まっている。雨が降っているようだ。下方はだんだんと水がたまって揺れている。困った状況のなかにいて、年上の女の子は上方を眺めている。上方から光が漏れてきているようで、そこには希望があるようだが、現状はなかなか困難な様子。それは現代の日本人の、たとえば震災後の人々や様々なシチュエーションのなかに存在するだろう。二人はすこし妖精的な雰囲気である。そして、年上の妖精と年下の妖精がそんなコンディションのなかにいながら希望を探している様子を、独特の深いトーンのなかに表現する。魂の図像と言ってよい強いイメージを感じる。

 山本衞「にわか雨」。カフェバーブラッセリーと看板のあるパリと思われる店の前で、にわか雨のなかを傘を差したり、新聞紙を頭の上に載せたりして右往左往している人間たち。ユーモラスな雰囲気で、生き生きとその動きを表現する。色彩も暖色を中心としてそれぞれの固有色が生き生きと響き合う。

 市川紘子「扉(イタリア)」。煉瓦でできた壁の上に漆喰を塗っているのだが、それがほとんどはげている。アーチ状の木製の扉はいま閉まっている。南京錠が掛かっている。張り紙がしてあって、手のマークの上に赤で禁止の印が出ているから、進入禁止という意味なのだろう。そういった扉と壁を一つの境界として描きながら、リアリティをつくりだす。境界というもののもつ不思議な雰囲気。同時に、中になにかミステリアスなものが歴史的に存在するような強いイメージも、この作品の魅力をなす。

4室

 伊藤直「UENO STATION・VIEW」。上野駅はたくさんの番線があって、左右にその線路が広がっている。それを上方から眺めている。パースペクティヴをきかせたシャープな動きのある画面。クールな叙情と言ってよいような雰囲気が漂う。

 熊倉一峰「落書き(40)電車ごっこ」。冬木立が点々と立っている地面に落ち葉が積もっている。そこに子供が線路のマークを落書きした。落ち葉のあいだから黒い土によってその線が浮かび上がってくる。子供の遊んだあと。いま彼や彼女たちはいないが、それによってこの空間が親密な童話的なイメージを獲得する。

5室

 丸山幸男「遥―2014」。中心に女性が座っている。その右上には男性が裸で座り、頭を抱えこんで苦悩の様子である。向かって左下には女性が横座りに座って、やはり物思いにふけっている。上方に林があって、そこからいま光が昇りつつある様子が描かれている。希望の象徴のようだ。いま全体はグレーに彩られている。室内の苦悩の悩ましい空間の中に三人の人間はいる。積木のようなフォルムが散乱しているのは、困難な解決できない問題の象徴のようだ。そんな中に道が見えてくるように朝日が昇る。その朝日のピンクを帯びた山の雑木のあいだから昇ってくる輝くような様子が、実に画面全体を引き締め、隠し味のようにきいて、苦悩に対する希望としてのイメージが静かに伝わってくる。

8室

 伊藤文彦「帰路」会員推挙。カバンを持って道を歩く男の後ろ姿が描かれている。緑の上下。帽子をかぶって腰を屈めながら歩いていく。道は赤く黄色く彩られ、端のほうには水が流れている。緑の塀が立ち上がり、空は残照のピンクが一部黄色に染まっている。独特の動きのある空間。ムンクを思わせるようなシャープなフォルムがじかに鑑賞者の心を捉える。

9室

 根岸富夫「二月」。植物は黄色く褐色に枯れている。雑木もそうである。そんな中に渓流が流れている。そこに一羽の鷺がいま舞い降りた。首をすこし右にひねって遠くを眺めているようだ。その白い鷺が神々しく表現される。シャープな動きのあるフォルムと周りの水の深い緑の色彩。手前の枯れ草は柔らかな明るい黄土色で、背後の山の斜面に生える草はもっと沈んだ色彩で、あいだに大きな岩を抱えこんでいる。川のそばの風景を生き生きと描く。その中に鷺を一羽置くことによって、画面全体が引き締まる。上方のグレーの空。手前の石と空を映したグレーの色彩。そのハイライトともいえる白い鷺。グレーの系列の色彩が黄土色の系列の色彩と生き生きと響き合う。

 紫藤康夫「大峰山」。近景に樹木が伸び、枝に葉を茂らせている。その向こうに赤い橋が見える。中景には、こちらに妻を見せる白い壁の建物。背後に田圃が広がって、その向こうに巨大な山が立ち上がってくる。山の中心からは噴煙が上がっている。また、近景の樹木と呼応するように左の二つの建物のそばに一本の太い幹をもった樹木が立ち上がり、葉を茂らせている。枝に光が当たっている。明暗の強いコントラストが画面を引き締めるなかに、それぞれのもののポジションが置かれ、遠近感が生まれる。風景のもつ骨格ともいうべきものを画面に表現しながら、強いコンポジションをつくる。とくに遠景の噴煙のフォルムは面白く、それに対して手前の樹木の枝の様子や下方の赤い橋が有機的な独特の動きをつくる。

10室

 上野直雄「漁港にて」。岸壁の上に重しのブロックや網、青いビニールシートなどが置かれている。中景に建物や電信柱が見える。シャープな動きのあるフォルム。近景と中景、遠景をイメージのなかに引き寄せて、動きのある空間をつくる。グレーに独特のニュアンスがある。

13室

 久下りえ「夕日の山道」東京都議会議長賞。夕日の斜光線が道を褐色に染め、林の葉も赤く染めている。画面全体にノスタルジーを感じさせるような独特の心象的なものが漂う。

 松永徹也「秋深し」一線美術会員賞。黄葉した樹木が左右に並んでいる中に四人ほどの男たちが立って、すこし散策している。イチョウの木のようだ。燃えるような黄色。地面にもその葉が落ちている。あいだから薄青い空が浮かぶ。強い色彩の効果と明暗のダイナミックな表現が面白い。

 仲西豊「荘重」一線美術会員賞。三百年ほどたつ樹木のようだ。その幹に接近して、そのディテールを表現している。まるでたくさんの枝が腕のようで、生き物のような濃厚な気配を表す。

15室

 渡邉昌満「春の雪・落人の里」。桜やリンゴの花などが満開で、柔らかな緑の葉が芽吹いている。そんな山里に雪が降ってきた。その雪は冷たい雪ではなく、まるで春を讃ずるかのような雰囲気である。それぞれの色彩が輝くように表現されて、色彩とともに歌うかのようなコンポジションが面白い。

第41回青枢展

(10月22日〜10月28日/東京都美術館)

文/編集部

1室

 田中ゆみ「小宇宙未来へつづく」。たくさんの正方形のパネルを組み合わせて構成していた。会場の角の部分を利用して鑑賞者を挟むように並べていたが、そのうち三枚縦に繫がった部分を掲載する。これまでどちらかというとピンクから赤の色彩を使っていたが、今回は青が特に印象に残る。心象的な画面の中に強い音楽性がかんじられるところが田中作品のおもしろさである。そこにはリズムやメロディがあり、鑑賞者をその世界へと強く引き込んでいく。

 此木三紅大「ゾウさんストップ」。画面に大きく象が描かれている。象は横断歩道を渡ろうとしている。そのフォルムは実にシンプルで、一つの形象として扱われているようだ。グレーの色彩の中に白の象と横断歩道。そして黄色がアクセントのように入れられている。象にはそのフォルムによってマチエールがしっかり作られていて、それがフラットな画面の中で一つの存在感と見応えを作り出しているところが特におもしろい。純化したイメージの現れが、画家のユニークな造形力によって絵画作品へと昇華されている。

 縄手和弘「春を見る子へ」文部科学大臣賞。横長の画面にうずくまるように横たわった子供が大きく描かれている。地中に埋まって冬を過ごし、来るべき春を待っているようだ。丸みを帯びたそのフォルムがまるで卵のようでもあり、周囲のドット柄と相俟って、強いイメージを発信してくる。両目が暗くなっている子供がどこか妖しげな雰囲気を醸し出しているところも独特で、未来に対する希望、現実からの脱却といった二つの明暗のイメージが折り重なっているところもおもしろい。

 米谷和明「愚民の惑星・ジャンクプラネット」。海の上に惑星のような大きな球状の物体が浮かんでいる。画面に近づいてみると、その惑星には様々なものが描き込まれている。主に日本のマンガ・アニメのキャラクターであり、まさに日本の文化の集合体と言える。そして全体では大きな怪物のような様相を見せる。日本のポップカルチャーを否定するという感じではなく、その勢い、影響力の強さをこのようにモンスター化しているところにおもしろさがある。そして画家の精緻な筆力がそういったメッセージを背後から支えている。

 滝澤照茂「漁婦」東京都知事賞。海上の船で地引き網を引き上げる二人の女性を描いている。しかしその二人を中央ではなく向かって右端に寄せているところが独特である。空は明るいピンクで、漁をする二人の活気を強く感じさせる。豊かな色彩感覚によって強い臨場感を作品に引き寄せている。

2室

 丹羽良勝「遊気景 Ⅱ」。画面の中で水色とピンクの色彩が溶け合い、形を成しながら変化していっている。そこには人物のフォルムが現れたり、風景が現れたりする。画家のイメージの中にあるそういった情景が、そのまま純粋に作品となっているところが見どころであり、興味深い。

 斎藤敏文「僕のことばは意味をなさない」。向かって左側に女性、その右側に上下逆に描かれた男性というシンプルな画面構成である。線によってそれらは象られているが、その自由な線の動きが魅力的である。また、ベージュがかった温かみのある画面の中で、女性の髪の毛と男性の帽子の色彩がよく馴染みながらもアクセントとなって作品を活性化させている。それらが相俟って、この二人の関係性をより鑑賞者に意識させ、好奇心をそそる。

4室

 深沢紅爐「想」。例えば望遠鏡を覗くように、円形の窓の中に、中世ヨーロッパの砦が見える。掲出したのは砦が銀で彩色されたものだが、会場には金のものも合わせて五点出品されていた。歴史に対する好奇心とロマン、尊敬の念が、意匠化されることによって、より純化されている。それを五点並べることで、より強いメッセージ性も獲得している。

7室

 小松嘉門「子安神社」会員推挙。細密に描き出した版画の作品。大きな樹木が上方に向かって立ち上がってくる。幹には激しい凹凸があり、それがこの樹木にどこか翁のような深い人間性をもたらしているところがおもしろい。上方の枝葉や背景は繊細であり、画面全体で見応えのある調和を作り出している。

9室

 平岡祥子「風の戯れ」。これまで以上に心象性の強い作品となっている。かつて見た風景、自身の思い出を濾過しながら抽出し、画面に描き出していっている。マチエールでも抑揚を付けながら、ある種の即興的な描写が強い臨場感を孕む。風が吹く度に変化していくようなその情景が鑑賞者を捉えて離さない。

 深澤琴絵「CATS」。六枚の縦長のパネルを並べ、そこに幻想的な風景を描いている。中世の街並みに月が昇り、画面全体にはどこかしーんとした気配が漂っている。そして猫のシルエットがいくつか入れられている。様々な色彩を使いながら、猫が鑑賞者の視点に合わせて現れては消えていくような感覚に陥るところがおもしろい。これまでよりも作品により密度が増しているところにも注目する。

 森博美「空・H弐陸」。縦長の小さなパネルを、縦に四、横に十五枚、計六十枚並べている。それぞれには暗色の背景に色鮮やかな球体が描かれている。それらは星のようでもあり、生命の象徴のようにも思える。その両方なのかも知れない。右の方に行くと、それらのパネルは崩壊していっている。それはさながら世界の崩壊を暗示しているようでもある。命というもの、世界というもの、美しさというものの危うさがメッセージされてくるかのようだ。刹那と永遠という相反するものが、そういった観念的なイメージの中で繰り返され、鑑賞者を包み込むような世界観を獲得している。

第53回現水展

(10月22日〜10月28日/東京都美術館)

文/編集部

1室

 門紀美子「耀」。画面に大きく渦を巻くような動きがあり、その中心は明るい。画面の手前には暗色の霧のようなものがかかっている。その明暗と動きが、強いコントラストを作り出している。鑑賞者を希望ある未来へと導くような魅力がある。

 根岸嘉一郎「WALL・霧玄 2014」。湖畔に立つ古城のような建物を中心に描いている。周囲は山に囲まれ、そこには深い霧がかかっている。その霧を深い濃墨によって表現している。霧はゆっくりと動き、その姿を変えていく。長く存在してきた城と刻々とその姿を変えていく霧との対比が静かに立ち上がってくる。また湖面にも周囲の風景が映り込んでいる。画面全体を隙なく纏め上げて充実した作品として成り立っている。

 立花美茜「待春」現水展大賞。まだ雪の残る大地と、その奥に雑木林が見える。繊細な筆の扱いで樹木の枝をシャープに、しかしやわらかく描いていて、それが雪のやわらかさに繫がっていくようだ。手前から奥の雑木林までの空間の取り方も自然で、それもまたひんやりとした空気と少しの温もりを作品に引き寄せている。

 高橋英男「Only one ; this Earth」。視点を左に斜めに傾けたような構図が臨場感を作り出している。失われた命やそれに対する祈りが深い感情と共に画面の中で表現されている。そういったイメージを心理的な遠近感とともに鑑賞者に訴えかけてくる。

 小田柿寿郎「軒下光景」。古い民家の扉を正面から大きく描いている。扉にはしっかりと錠が掛けられている。扉の表面はところどころ剝落していて、屋根や柱を見てもかなりの年月が経っていることが分かる。力強い線と細やかな線を巧みに使い分けて緩急を付けながら、特に扉の表情を豊かに表現している。どこか年老いた人間を思わせるような、深い含蓄を醸し出している。手前の柱との描写の対比もおもしろい。

 内宮緑凰「回想」。手前から奥に向かってまっすぐに道が伸び、その両脇に古い家屋が軒を連ねている。正面にその道を置くのではなく、左にずらしているのが強い効果を上げている。屋根の伸びやかな曲線や行き交う人々の賑わいなどもしっかりと表現されているところにも注目する。

 小村欣也「栄枯盛衰」東京都知事賞。夏が終わり頭を垂れたひまわりを描いている。その力ない様子が実に自然で、どこか人間的な要素を感じさせるところがおもしろい。儚い命、人生の表現がじっくりと伝わってくる。

 井原優山「磁気嵐」。横長の画面に左右の大きな動きがある。コクのある濃墨を中心に、薄墨と地の白を活かして奥行きのある動勢を作り出している。ドリッピングなども使いこなしながら、強いイメージの力で作品を纏め上げている。

 早川信子「涼」秀作賞。流れ落ちる滝を縦長の画面に表現している。険しい崖に水がスピード感を持って流れ落ちている。下方には飛沫が飛び散っていて、画面を活性化させている。激しい画面を情感豊かに描きながら、もう一つ冷静にこの風景を描く画家の目があるようで、それが強く印象に残った。

2室

 真鍋宣子「つ・な・が・る」。腰掛けた若い女性が携帯を操作している。その様子を女性の左側から見て描いている。携帯からは眩い光が放射されている。一瞬で他人と連絡を取り合える情報社会における、最も有用なツールとしての携帯電話の威力が、このように表現されているところがおもしろい。女性もしっかりとデッサンされていて、見応えのある作品である。

 吉田綾子「Spring」芸術賞。空を仰いでまっすぐに立つ若い女性をシャープに描いている。女性の見つめる左上方からは、気持ちのよい風が吹いてきているようだ。その風の表現が豊かである。白ヌキと曲線を巧みに組み合わせながら、画面全体で爽やかな情感を作り出している。

 北村珠恵「旅にひろう(ソーリオ)」。険しい山々を望む画面構成である。左下にはたくさんの薔薇が咲き乱れている。右中景には背の高い塔が立っている。そしてそこから勾配になり、深い森林が立ち上がっていく。そしてさらに上方では雪を冠した険しい山並みが顔を覗かせている。鑑賞者の視点を手前から遠景へと自然と導くような構図が巧みである。それは画家の視点と重なるものであり、そのイメージは鑑賞者と共有される。そうやって引き寄せられたドラマチックな臨場感がこの作品の大きな魅力の一つとなっている。

 紅梅美峰「湧起」。画面に大きくカーヴするような動きがある。その背後にももう一つ斜めの動きがある。その動きが独特である。重なっていくようでもあり、それぞれが独自の動きを作り出しているようでもある。緩急を付けながら、風とそれに乗せた強い心情、例えば決意のようなものが感じられ、強く印象に残った。

 川端豊次「飛瀑」。流れ落ちる滝を、少し離れた場所からの視点で描いている。滝は紙の地を活かしていて、その左手前には崖があり、下方には大きな岩がいくつかある。その少し上には、崖から伸びる細い樹木の姿が見える。樹木は根元で強く上方に向かって彎曲している。その動きと流れ落ちる滝の動きが、静かに対比されているようだ。それによって生まれてくる気配のようなものが魅力である。

 毛利鋭子「好奇心」東京都議会議長賞。高い建物の一室から外を眺める子供の後ろ姿である。そのふくよかなフォルムがやわらかくしっかりと捉えられている。主人公をしっかりと描き出しながら、その周囲は淡く描き、印象深い作品として描き上げている。

 福田佳明「梅雨の頃」。シャープな直線によって画面に矩形と三角形を作り出している。それがどこか室内の窓辺の風景を思わせる。最も明るい部分が画面の中央にあって、上下の辺に近い程暗くなっていく。外から漏れ入る薄い陽光が、室内のある部分だけをそっと明るく照らしているようなイメージが浮かぶ。いずれにせよ、そういった静かな気配、画家の心持ちがしっとりと描き出された作品である。

 樋口朋子「風の記憶」秀作賞。長い髪の女性の上半身を横から描いている。女性は目を閉じていて、髪の毛は大きくカーヴを描いている。その黒髪の濃墨が、深い情感を運んでくる。どこか女性とは別の生きもののような生命力がある。流れるようなその生き生きとした動きが特に印象に残る。

3室

 川添早苗「情景」。深い森の奥に開かれた場所があり、その情景を描き出している。強いイメージの力が、どこか神聖な気配を作品に引き寄せている。人間の立ち入ることのできない、異世界の入り口のような幻想的な雰囲気もある。いずれにせよ、流麗な筆の扱いによって、独特の世界観を構築している作品として注目した。

4室

 森哲美「夏の夜の夢」。クリアな描写によって、自身のイメージをしっかりと画面に描き出している。大きな葉と繊細に描かれた帆船の対比もおもしろい。豊かな物語性が鑑賞者に発信されてくる。

7室

 瀬戸洋子「眺望」。高く聳える山を見上げるように描いている。その力強くシャープなフォルムが印象的である。下方には村落があって、その描写の違いや空気感の差が見どころとなっているようだ。

 鶴本理恵「フィナーレ」現水展賞。演奏に合わせて踊る踊り子達とその大きな影を背後に描いている。強いリズム感を引き寄せながら、ダイナミックに画面を構成しているところがおもしろい。場の熱気ある空気もまた鑑賞者を作品へと引き寄せる。

9室

 小川夕星「仮想的な空間」。画面の下方から上方に向かっていくつものビルが立ち上がっている。画面の中心に向かって少しカーヴしながら、伸びてきているようだ。どこか春の発芽の生命力を感じさせるところがある。ビルの形はそれぞれで、岩のようにも見える。何れにせよ、人間の生活、気配を内包する建物が、それ自体生命を孕みながら伸びゆくというイメージが強く印象に残った。

10室

 工藤せい子「驟雨」秀作賞。断崖のような場所に降る激しい雨が情感深く描かれている。雨そのものというよりは、雨が降ることで生まれる湿気による密度のある空気感が描かれているようだ。それが岩の堅牢な表情と相俟って、ドラマチックな作品として成り立っている。

12室

 佐藤雅治「未来へ Ⅱ」。霧深い山奥で一羽の鳥が手前から奥へと飛び去ろうとしている。樹木の濃墨の中に、その流麗なフォルムを見せる鳥が強く印象に残る。静謐な描写力にもまた注目した。

 是方美葉「小さき者」。画面の右から左へといくつもの蟻が行列を成している。雪が降っているようだ。雪は手前はかなり大きく、奥は細かい。その思い切った描写がおもしろい。童話の一場面のような寓意性が魅力。

14室

 谷先静津湖「奇峰湧雲」協会賞。中国の山奥を思わせる、石灰岩による細長い山が遠景に立ち上がっている。手前からそこに至るまでは樹木が続いて行っていて、下方は霧がかってよく見えない。霧は少しずつ変化していくが、その淡く繊細な表情がしっとりと描き出されている。伸びやかな山の動きと樹木の濃墨が相俟って、幻想的な雰囲気を作り出している。画面構成もセンスよくなされているところもまた見どころである。

第50回記念蒼樹展

(10月22日〜10月28日/東京都美術館)

文/編集部

1室

 原紀久子「ある日」。向かって左側へとカーヴする回廊に立つ一人の若い女性を描いている。女性は爽やかな白地のワンピースを着て腕を組み、こちらを向いている。少女から大人の女性へと向かう、その最中の繊細で幼くもあり大人っぽくもある表情が愛情深く捉えられている。ひんやりとした回廊の床や壁と、女性の肌の温もりも静かに対比されているようだ。女性の将来を回廊の先に見るような、そういった画面構成もまた興味深い。

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