美術の窓

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公募展便り(2013年12月号)

美術の窓 2013年12月号

第15回水彩人展

(9月25日〜10月3日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 橘史郎「初秋」。橘史郎は三点出品。地面に枯れた草が伸びている様子と、そのあいだから頭を出した黒土、そして草のあいだにところどころ穴があいているといった、通常絵に描かないところであるが、それを描いて、大地のもつ鼓動を表現する。褐色や黄土系の色彩の中に微妙な紫やオレンジ、緑などの色彩も入っている。枯れ草の向こうは耕された畑で、一筋植物が植わっている様子が緑で、遠景の面白いアクセントになっている。いずれにしても、存在感が尋常ではない。坂本繁二郎は自分の絵画理念を物感という言葉で表現した。対象のもつ存在感のことだと思うが、その存在感を全身で捉えて表現するところにこの独特の強さとマチエールが生まれる。

 「初秋」は、これまであまり描いてなかった作品。樹木に緑の葉がついて、ところどころまだ未熟な実がなっている。縦長の画面である。これまで横長で地面が中心になっているのに対して、これは樹木を肖像のように表現したもの。うっすらとベージュの空が枝からのぞく様子と緑とのハーモニーが瑞々しい。樹木に蔦が絡まっている。その宿り木の様子とこの樹木の葉の水気がすこしなくなりつつあるときの様子、そのこんもりとした雰囲気がよく表現されている。全体に透明感があって、ステンドグラスを通して入ってくる光のような色彩の魅力がある。

 小野月世「夏の名残り」。小野月世は三点出品で、「道…街」と「道…野」は対になっている。「道…街」は鋪装された道を通る自転車や自動車が独特の動きを示す。そこに柔らかな朝か夕方の光が当たり、その斜光線の光が隅々まで行き渡る中に、形象はすこしぼかされながら動きのある、奥行きのある空間が生まれている。それに対して「道…野」は、自然の中にある道とそばに咲く赤い花の群れ、向こうには水があり、その向こうには灌木がある。そこにもまた光が入ってくる。都会に入ってくる光と田舎に入ってくる光は湿度も風の触覚も違うだろう。その触覚さえも描き分けながら、その光のもつ独特のクオリティを絵の中に高めて表現する。

 「夏の名残り」は、風景を静物的にと言ってよいような雰囲気で表現したもの。柵の向こうに太い幹をもつ樹木が立ち、そばに犬がいる。光の当たっている部分と影の部分とがコントラストをなす。近景はシルエットふうな影で、中景に向日葵のような花が輝いている。その背景はすこしぼかされた樹木や霞がかかった山である。その中のポイントは木の幹と犬であり、その扱い方がクリアで、すこし静物ふうなフォルムの力が感じられる。同時に、ここには物語がしぜんと感じられる。一本の木の歴史、犬との関係、そこに不在のこれを眺めている人間、あるいは犬を飼っている人との物語がしぜんとこの画面から浮かび上がってくる。

 佐瀬芙美子「卓上の瓶」。佐瀬芙美子は四点出品。テーブルの上の瓶や植木鉢などを描いている。大作の方はテーブルの上の瓶のふかぶかとした空間、その中に浮かび上がるフォルムが、空間の中に息づくような雰囲気で、空間全体の大きさが魅力。それに比べると「ポトス」はそれより小さいが、パステルと思われる画面の中に蔓のような植物が植木鉢から伸びていて、そのフォルムが面白い。強い生命感が感じられる。背景のふかぶかとした青の調子も魅力だが、とくに朝顔のような蔓科の植物のもつ伸びていく形の面白さをよく表現していると思う。

 宇都宮敦子「横たわる裸婦」。小品である。仰向けに寝た女性が百合の花を持っている。そばに猫がいる。樹木が覆いかぶさるように葉を茂らせている。自然の中に女体を見て、その女体を寝かせるというすこし幻想的な雰囲気であるが、大地と女性のヌードとが重なりながら、深い情感を醸し出す。

2室

 入江英三「蒼茫」。入江英三は三点出品であるが、いずれも風景作品である。「蒼茫」は、釧路湿原と思われるが、はるか向こうまで続く湿原の広がりとすこし黄金色に染まった空の様子が微妙なハーモニーを奏でる。そこにあらわれてくるリズムのあるコンポジションと空間の奥行にロマンティックなものが感じられる。

 松田憲一「枯れの様(しのばず池)」。松田憲一は二点出品であるが、いずれも不忍池をテーマにして、枯れかかった蓮の茎と葉を抽象的な雰囲気で、まるで影絵のような柔らかなトーンの中に表現する。光というものがテーマになっている。その中に起きる蓮の様々な動きを面白くアレンジする。

 大原裕行「ユーラシアの風」。大原裕行は二点出品で、「ユーラシアの風」は、ポルトガルで見た旗のある光景である。翻るたくさんの旗がほとんど頭近くに道を横切って向こうまで続いている。その黄色からオレンジにわたるフォルムの連続した形は強く、色彩に輝きがある。下方の暗い路地のような道の様子やそばに生える樹木、そして遠景に見える小高いところに立ち並ぶ建物などをバックにしながら、この旗のもつイメージは抽象的であると同時に独特の音楽性と言ってよい要素ももつ。同時に、この画家特有の強いマチエールが感じられる。音楽でいえば、楽想が頭に浮かんで高らかに鳴り響いてくるときのような印象が、この旗のコンポジションの中に感じられる。画面を熟視すると、三角の旗の形がそれぞれ異なり、あいだに黒や赤の色彩が入り、実に不思議な味わいを醸し出す。

 山吉とし子「水面の太陽:B」。蓮の池を一〇号ほどの大きさにまとめている。水の中心に日の輝きがあり、その光が周りに浸透していくような雰囲気の中に、蓮の大きな葉の陰影と茎が自由に伸びる。一種抽象画面を見るような優しいハーモニーが魅力。

 青木伸一「風韻 2013─Ⅰ」。下方から上方に噴水のように動いてくるフォルムが、背景の柔らかな緑の奥行の中にお洒落でモダンな空間をつくる。視覚というより、聴覚的な空間と言ってよいかもしれない。

3室

 小笠原緑「月あかり・水辺」。小笠原緑は二点出品。「月あかり・水辺」と「昼の陽光・蓮池」である。「月あかり・水辺」のもつ大胆な形象、コンポジションに惹かれる。水から出る植物の茎や手前のグレーの上に浮かび上がる植物や抽象的なフォルムは、とくに何かということを指すことはできないが、しっくりとした味わいがある。黒とグレーの中に濃紺や青が入れられて、その空間とフォルムとの関係がしっくりとして、独特の瞑想的かつロマンティックな響きが感じられる。

 奥山幸子「忘れられた処」。大理石を貼ったような角柱が四つ立ち並んで、画面の上辺を突き抜けている。上方から植物が下りてきている。下方にもおびただしい植物の群れである。そして中心は白いぼんやりとした空間で、そこに満月が昇っている。月明かりの中にそれぞれの植物が目覚め、その生命の響きを奏でるといった雰囲気で、緑を中心としたこの大作のもつ全体の柔らかでロマンティックなトーンが面白く感じられる。

 甲本喜胤「星の降る夜に」。すこし画面の上方に水門のようなものがあり、はるか向こうの山の上に星がまたたいている。その星は手前の水にも映っている。上方のH形のコンポジションとそれを包みこむ夜の空間、輝く星の群れ。とくにきらびやかな色彩は使わずに、抑制気味のトーンの中にロマンの輝きが感じられる。

 平澤薫「さざめく水辺」。手前に鴨のような水鳥が泳いでいる。丈の高い雑草のあいだに水が向こうまで続いている。それが光と影の激しいコントラストの中に表現される。ススキのような植物もあるようで、その光の輝いている部分は宝石のようなイメージさえもある。

4室

 高橋道子「樹の囁き」。カラスウリのような実が三つほどなっている。背後にある樹木や蔓のような部分はトーンの中に溶けこむように描かれ、複雑な線が画面を縦横に走り、この三つの果実がすこし沈んだ赤の中に輝く。対象を自分の内部に取りこんで、一種心象的に表現しているところに注目。

5室

 三橋俊雄「夕暮れのヨットハーバー」。中景にヨットの停泊している様子が林立している。マストと白い船腹とによって清潔なリズムが生まれる。夕焼けの赤い色彩が空と水面を染めている中に、ヨットの清潔な佇まいが独特のコントラストを見せる。それを遠景の高い建物が構図的に押さえているといった調子で、港町の夕方の一刻の様子をロマンティックにうたいあげる。

 栗原直子「窓(連作1)」。栗原直子は四点出品である。ベテランの作家である。清潔で上品な空間は、この画家独特のものと言ってよい。「窓(連作1)」は、窓の向こうの庭になる実と植物の緑と樹木が調子を落として描かれている。その窓によってくくられた中が、そのまま一つの絵と言って差し支えないような魅力をたたえている。窓はもう一つ右のほうにもあって、そこにはベージュの色面のそばにまた複雑な植物の様子や、菖蒲のような花が咲いている様子。抑えた調子の中に緑系の色彩と暖色系のベージュやオレンジ色などの色彩がつややかに輝くようだ。水を含ませてそこにのせられた色彩が、この空間の中に漂うように独特の触感をもって描かれる。空間のもつクオリティの高さともいうべきものが魅力だと思う。

6室

 松波照慶「韻律」。樹木の上方の部分を横長の画面に切り取っている。横に並ぶ樹木のその形の中に独特の強いハーモニーがあらわれ、強いビートが鳴っているような、そんなコンポジションである。もう一点の柔らかな溶け込むような空間と対照された作品で、この画家の作品の多様性がうかがわれる。

 秋元由美子「芥子裳樣」。秋元由美子は三点出品で、中心にモノトーンの「アイズフォーユー」。薔薇をしっかりと描いた作品は色彩が使われていないが、光を受けて輝く不思議な生き物のような強さがある。「彩俑楽土」は、これまで画家の描いてきた曼陀羅や俑を形象化したものである。そして新しく植物の中に立つ女性を描いた「芥子裳樣」が新鮮。日本髪を結った着物姿の女性が芥子畑の中に立っている。その着物の文様も白い芥子をあしらったものである。一種霊的なイメージである。画家の祖母の若い時の姿なのだろうか。そういった死んでしまったある女性に彼女は接近し、それを画面の中に描き、命を与えるといった様子。それはこれまでの曼陀羅や俑の作品を描いたときの方法と同じだが、それらは無機物であるけれども、これはかつて生きていた女性を画面によみがえらせるところが面白い。不思議な佇まいで、ピンクや赤の芥子の中に立つ女性は、陽炎のように揺らぎながらイメージの強さを見せる。

 有川利郎「花ごろも」。百合や薔薇などのたくさんの花を背景にして、若い女性が腕組みをして立っている。その女性のフォルムがクリアで、画家の優れた形態感覚を思わせる。

第59回一陽展

(10月2日〜10月14日/国立新美術館)

文/高山淳

1室

 大場吉美「あるゆめ」。少女が横たわっている。その目から落ちた涙が三滴ほど、柔らかな緑がかったベージュの床の上に置かれている。そして、小さな三体の男がそれを取り囲んでいる。黒いスーツを着ている。顔はほとんどのっぺらぼうであるが、横顔あたりには目の点も入れられている。太ったスーツ姿の蝶ネクタイの三体の人物。その人物の周りに細い線がくるくると取り巻いて、上方に向かい、その線の先から息のようなものが出ている。左上方の男はこちらを眺めている。しんしんとした気配。少女の頭の上方にはカーヴする花弁のようなものがそっと触れている。この少女は様々な人間の不幸や悲しみを癒す存在のようだ。画家のつくりだした仏の像と言ってよいのかもしれない。その透明な柔らかな肌。画家のイメージが肉化してあらわれてきたイメージ。その横になった上半身の雰囲気。静かに内側から光が浸出してくるような輝き。その周りにいる蝶ネクタイの男たち。釈迦の涅槃図は著名で、そこにはあらゆる動物が集まって泣いているのだが、ここにあるのはまた違ったバージョンで、目を開いて横になっているこの少女のもつ癒す力、そのイノセントな力が圧倒的で、その周りに小人のような蝶ネクタイのスーツ姿の男たちが集まってのぞきこんでいる。それを眺めながらあたふたとしているような雰囲気がある。そして、たとえば右下の男の場合にはそれを取り囲んだ線の先から息のようなものが出ているが、それはイメージというものの象徴のようだ。社会的な制約のなかで大人たちは過ごしているが、その制約から外れたところにこの少女はいる。そして、その少女のあらゆるものを理解し受容する力が人を癒す力と重なるといったイメージ。そんな深いところからあらわれてきた仏的な強い柔らかなイメージに感心した。

 泉谷淑夫「神話」。地上に七頭の羊がいる。その前に石でできた巨大な遺跡がある。ストーンヘンジを思わせる。そして、繊月がそのあいだに輝いているのだが、そこに宇宙飛行士がいま棒を持って落下しつつある。それを無言で眺めている。ストーンヘンジの上にも羊がいて、二頭の羊は宙に飛びながら、このあやしい光景を眺めている。ストーンヘンジを中心とした素朴な古代の集落にあらわれた落下する宇宙飛行士のイメージは、そのまま神話として語り継がれるようなイメージを表すようだ。合計すると十三頭の羊は、キリストを中心とした十二使徒のイメージもあるだろう。そして、キリストはヤハウェとの関係のなかで預言をする。実際に復活して、現実の生死に対して神の世界があることを示すのだが、そんな新約聖書のイメージがそのまま、この上方から頭を下にして背中を見せながら棒のような物を持って落下する宇宙飛行士のイメージと重なる。歴史というものに対して画家は疑いを持っている。その神話的な物語が生まれる様子をこの不思議なトリックの中に表現する。すべてのフォルムは、落下するほとんど脱力したような宇宙飛行士の姿に集約するようなコンポジションになっている。その下方に生まれたばかりの新月が鋭い円弧の輝きを見せる。何かの誕生というものが描かれているのだが、ここでは古代の時間と宇宙飛行士の時間という二つの時間が遭遇するという不思議なSF的なイメージのなかに描かれる。

 棚瀬修次「Black space in―かたち―」。画面の中心からすこし右に巨大な星の爆発する雰囲気が描かれている。星の終焉は爆発でもって終わり、このような赤い灼熱の輝きを起こす。それはブラックホールの中に吸い込まれていく。その分裂の中からまた新しい星が生まれる。そんな終末と再生の星の姿を不思議なコンポジションの中に表現する。赤く爆発した円形のフォルムの背後に黒いブラックホールのようなものが取り巻き、その周りに深い青い空間があらわれて、様々な球体が散りばめられている。それは、新星のイメージだろう。

 鈴木力「南イタリア追想」。横長の画面が六つに分割されている。もっとも、三枚のパネルを合わせたものである。左のほうには巨大な石造りの神殿の骨格があらわれ、上方に青い空が浮かんでいる。右のほうはその礎石をピックアップし拡大したもので、側面から見た形と斜め上方から見た形。斜め上方から見た形の断面は黄金色に彩られていて、まさに古代ローマに対する栄光のイメージがあらわれる。まん中には青によって建物の骨格がコンストラクションされる。上方はポンペイの壁画にある天使の像を中心として、その左右に黒い羽を持った三体の天使を置いている。その三体の天使も現実にポンペイの壁画にあるのかもわからないが、つまびらかにしない。天使の羽にはレース状の不思議な文様がつけられている。青による線描であって、植物のようなイメージも感じられるし、花のようなイメージも感じられる。ポンペイの壁画を想起するようなしっかりとしたマチエールの上に飛ぶ天使。左の上方には蝶のような翼をもった天使がい、右のほうは鷲のような翼をもった天使がいる。その左下にはやはり上下二つの羽をもった蝶のような天使。古代ローマの秘儀。強いイメージ。ルネサンス以降、絵画は視覚の再現に変化するわけだが、ここにあるのは意味の世界と言ってよい。神も天使も、あるいは善も悪もすべて人間の心の中に存在するもので、そのイメージを掘り起こす。崇高なものもまた人間の内部にあるといった様子だろう。それを図像的に不思議な文様の中に表現する。そういった強いイメージが、この四体の天使に描かれている。今日のような混迷の時代には、とくに写真が発達すると、ほとんど視覚再現的な意味は絵画から脱落し、本来の人間とは何か、神とは何か、生とは何か、死とは何かといったイメージのほうに関心がいく。それがはるか古代ローマ時代に行われていた。そのイメージが紺碧の青い背景に取り込まれて、不思議な鮮やかさで浮かび上がってくる。

 高岡徹「夏の光」。独特の色彩の魅力である。えび茶色のような赤のニュアンスあるバックの中に抽象形態のフォルムが二十ぐらい浮かび上がる。三角や二重丸やフリーハンドの円、あるいは色面を組み合わせた建物のようなイメージが上下にあらわれる。色彩が内側から輝いている。輝いている色彩がお互いに呼応しながら、やがて呼吸を始めるようだ。無機物も有機物も色彩に還元され、その中に魂が宿るといった趣。そして、その魂の発光する様子を、色彩の中に光を内側から与えて、その光を徐々に引き出しながら構成したといったまさに詩人のコンポジションと言ってよい。また、そこには植物のイメージが強く感じられ、樹木や草や花のイメージに、月が歌うといったイメージがクロスされ、独特の絵画空間が生まれる。

 大東明宏「届いた便り」鈴木信太郎賞。壊れた戦車を背景にして少年が立っている。いま手紙の封をあけている。バックの空には白い不思議なものが浮かんでいる。戦争が終わった。戦車の様子を見ると、終わって長い歳月がたつ。背景にあるのは時間の象徴と悲惨な現実であるが、それを背景にして白い不思議な雲の浮かぶ様子などはもう一つの肯定的な現実を象徴する。そこに謎めいたものが飛び、その飛んでくるものがメッセージで、それをいま少年があけようとしている。少年のこちらを眺める様子が金髪の西洋人ふうな雰囲気であやしい。少年のもつ不思議な現実感と時間性が、この作品のイメージをより深くしている。

 逢坂清悦「あてるい」高岡徳太郎賞。あてるいとはかつて坂上田村麻呂と戦った東北の蝦夷の族長の名前である。今回東北を襲った津波の被害は坂上田村麻呂の蝦夷討伐以来といったイメージを画家はもっているから、「あてるい」という題名をつけたのだろうか。背後には倒壊した建物が繰り広げられている。その手前に花を頭に載せた中性的な人間が白い花弁を眺めている。白い花は亡くなった人に対するイメージだろう。深いレクイエムの表現と言ってよいが、その顔がすこし仮面ふうで独特である。人形劇を思わせるようなフォルムに光が差し、赤い花と白い花を置いて深い哀愁の表情であるところに惹かれる。

 山口陽子「生命」。水の上の波紋、そこに映る樹木の影が独特の曲線の連続によって表現される。空と樹木の明暗のコントラストの中にまるで髪の毛のような線があらわれ、絡みつくような雰囲気である。そして、それはまた独特の触手のような雰囲気で、対象を絡めとるように動いていく。水面に映る像がそのまま深い心理的な世界を表す。

 舘野弘「前線」。男がアンダーシャツを衣紋掛けに吊るされてゆっくりと動いていく。その衣紋掛けは上方の回っていく機械の一部に掛けられている。そばには背広姿の男の後ろ側がやはりフックに吊るされて、その回転台に沿って動いていく。そんな様子があと三体ある。油絵による重厚なマチエールの内側から光がじわじわと発光してくるような独特の色彩効果。吊るしたレールの上には大きな雲の塊がむくむくと漂っている。サラリーマン生活の決まりきった軌道を毎日行ったり来たりしている人間のイメージだろうか。色彩は下方の黄土系の色彩と上方のブルー系の色彩のみで、あとはモノトーンと言ってよい。ヨーロッパにはピエタというシリーズがあって、十字架に掛けられたキリストを下ろして抱きかかえている図があるが、現代のピエタのようなイメージも感じられる。また、見上げる視点から遠くを眺める視点といったように、視点の移動もありながら、無限に繰り返されるこのレールに吊るされた人間たちの動きは、言葉で書くときわめて絶望的だが、絵の雰囲気は深い静けさを感じさせる。不思議な光に照らされて無言で動いていくといった様子であるところも面白い。明暗のコントラストを徹底して使いこなした表現であり、それを支えているのはこの強い手触りのあるマチエールである。

 三阪雅彦「霊鷲山」。霊鷲山はそこで釈迦が法華経を説いたことで有名である。その法華経の素晴らしいお経を説いているシーンが、上方から下りてくる金の粉のようなイメージで表現されている。また、法華経の中には繰り返し花の降っている文句があるが、この作品でも花弁が下りてきている。下方にその法華経の恵みのように金が積もって、碗が一つ。この連作の中の一つのシーンだから、これだけを見てもよくわからないが、強い独特のイメージが表れているように感じられる。

 濵田清「遠い日(13歩の距離)」。雑草の上に積木などの色とりどりのおもちゃや子供用の椅子、あるいは鯉や奴の凧などがたくさん集まっている。それを眺める手前の二つの白い椅子。人はいない。そのあいだに黒々とした深淵が横たわる。その深淵は記憶というものの象徴だろう。子供時代と大人とのあいだには深い断絶がある。その断絶がこの黒い空間で、その断絶をあいだにしながら、白い椅子に座る人は過去を眺める。そういったイメージがシュールな雰囲気の中に表現される。とくに手前の白々とした木製と思われる二つのペアの椅子の存在が、怖くて不気味な時間という深淵を前にする人間のイメージを伝える。

 細川尚「画室の木偶」。ジーパン姿の画家自身の自画像であるが、顔の上にはのっぺらぼうのお面がかぶせられている。お面の上には傷がつけられている。まさに木偶坊といったイメージを自分自身に与えている。後ろには両側に二つポスターがあり、左には「YESTERDAY」という曲をマイルス・デイビスを中心として演奏したときのポスター。右のポスターにはTOMORROWという文字の下に 2013EXHIBITION 一陽会という文字が見える。画家は一陽会の事務所を長く務めて、今回の二〇一三年の展覧会では鈴木信太郎賞などの創立会員の賞を新しく設けた。今回の展覧会に賭けるものがある。未来の一陽会に対する希望がごくしぜんとこの作品から感じられる。しかし、画家自身は事務所として、木偶坊といったそんな声明になるのだろうか。中心には布の上のパレットやボストンバッグや石膏像、あるいは下方の裏返したキャンバスやバッグ、木の柱、静物画のための果実などが置かれている。それぞれのフォルムはクリアに描かれていて、独特の生活感がしぜんと浮かび上がる。無秩序なものをあえてここに表現したように感じられる。無秩序な中で、木偶坊と自己を規定することにより、二つのポスターが鮮やかに浮かび上がる。まさにデイビスのトランペットの音色が一陽会の会場に鳴り渡るように、この素朴な無秩序なもの、モチーフがやがて統合し動き出すのだろうか。

 岡田彌生「加速する時空のなかで」。下方に肘掛け椅子が一つ置かれている。室内にあるはずが浜辺に置かれているような趣である。地平線からいま光が昇りつつあるから、朝の時刻だろうか。そして、その上方に千切られたカーテンのようなフォルムが下りてきて、そこには道と両側の建物が描かれている。そこを二百キロほどのスピードで疾走するような雰囲気で、道も両側の建物も白く輝いているのがあやしい。その道の向こうはもう一つの違った世界、いわば椅子のある世界が此岸であれば彼岸があるようで、彼岸に向かってまっしぐらに進んでいるような、不思議な雰囲気が感じられる。そして、その下方に虹が立って黒い鳥が飛んでいるのも、死に向かう魂を荘厳しているような趣である。ピュアでイノセントな雰囲気で表現されている。

 市橋哲夫「海の宙 13─5」。画家は佐渡の出身で、子供の頃によく海に潜ったそうだ。そういった頃の記憶がよみがえったのだろうか。海の底の空間とイメージのなかの宇宙空間とが重なって、不思議な出会いがそこで起きているようだ。点々による曲線のフォルムは無重力状態のなかにゆらゆら揺れている様々な存在のように感じられる。そこには水の動きもあらわれる。命の象徴として赤い球体があらわれ、そのそばに小さな球体もあらわれる。紙飛行機のようなものが動いているのはエイのようなイメージでもあるし、潜水していく自分自身の自画像でもあるのだろうか。海の底が突き抜けると空の空間になるような、クオリティの中に抽象形態がゆらゆらと動いていく。

2室

 秀島有子「スーベニアショップ」スカラベ賞。白いフランス人形やピノキオ、猫、鏡、お面、そんなものがこの小さな正方形の画面に集合し、不思議な会話をお互いに始めるようだ。とくに上方の円形の鏡の中の仮面をかぶった黒い帽子の中世の兵士のようなイメージなどは、手前のいわゆるおみやげショップにあるものとまた異なったあやしさで画面に引き寄せられている。とくに仮面というものがこの中で有効である。中心に階段があるが、階段を下りていくと、現代の世界の奥にある中世的な世界に出会いそうな、そんなスリリングな気配も感じられる。それに対して優しいフランス人形が対置される。イメージというものがだんだんと増殖していく様子を面白く表現する。

 佐川文子「天上の華(祈りⅢ)」スカラベ賞。三つの巨大な円筒形のタンクのような建物の上方にもう一つの建物があって、そこからパイプが出ている。福島原発の汚水が流れ出して終わらないような、そんな不吉なイメージが背後のこのタンクのような円筒形のフォルムに感じられる。そして、それを背景にして巨大な曼殊沙華が赤い花を広げている。下方にはすこし小さく横に連続して曼殊沙華が置かれている。曼殊沙華は死者を弔う花であり、強烈なイメージを与える。レクイエムである。背後のタンクのようなフォルムはやはり福島原発のイメージであるにちがいない。その不吉な様子を逆に絵画の中に強いイメージとして引き寄せて巨大な曼殊沙華を配した異色の作品である。

 古野恵美子「希求する空」会員賞。東北を津波が襲って、たくさんの家が流された。津波のあとの茫然とした状況の中に、新しく裸木に葉がよみがえってくるといったイメージが静かに表現されている。低い丘に一本の裸木が立ち、その丘の上にも平地の上にもたくさんの人々が立っている。手前には引いた水が低く流れている。空が大半を占めているが、その雲の中に縦長の七つの窓があけられ、そこに月の動きを表すような不思議なフォルムがあらわれる。一日一日と過ぎていく日々。それによって受けた傷を癒そうとするかのようなコンポジションに注目。

 水谷喜美子「ゴルドの丘」。中景は畑が広がっている様子で、近景は古い中世の街のようなところにある道とその塀に座る二人の男女。二人はシルエットによって表現されている。光が差し、深い陰影がつくられている。旅愁と言って差し支えないイメージが表れる。トーンの幅が広く深い。そこに固有色が置かれて、ふかぶかとした空間があらわれる。記憶のなかにかつて旅をした街が引き寄せられ、人生晩年のイメージがそこに表現される。

 神部修成「時空に彩る生のかがやき」。見渡す限り黄色い花が咲いている向こうにはラベンダー色の花が咲いて、そのまた向こうは黄色で、こんもりとした山の稜線が見える。そこに向かう一本の細い道。緑の樹木のあいだに赤い屋根、白い壁の洋館が見える。画家は北海道の生まれである。北海道の風土の中にある理想的な世界を表現しようとする。そんな心持ちからあらわれてきたコンポジションであり、独特の色彩の輝きである。

 小木曽雅子「軌跡」。横断歩道をクローズアップする。そこに轍の跡や人の歩いた跡が見える。そして、その痕跡が宙にだんだんと浮遊していく。無常の風が吹き、時が移ろい、人間の営為の跡はだんだんと消えていく。情感漂う水彩であり、紙のマチエールやその白を生かした明るい不思議な透明感のある色彩がまた魅力である。

 岡村順一「地の譜―兆 '13」損保ジャパン美術財団賞。黄褐色の色彩で、たくさんのアンモナイトが化石化した様子が表現されている。その中心に針をなくした時計があり、その手前にオレンジの細長いビーカーのようなものに卵が浮いている。これから新しく命が生まれ始める予感。生まれ始めると時計に針が現れるのだろうか。命の始まりのようなイメージを化石化されたフォルムの中に表現しようとする。背後は山並みで、その向こうから燃えるように赤い太陽がいま昇りつつあるようで、空を赤く染めている。

 茶畑顕子「青の幻想― '13―」。水平線を背景にして大きな氷山。その手前に小さな氷山。近景には、浅瀬の奥に見える複雑な岩のようなフォルムが描かれている。青一色の空間の中に氷山の白い様子がきらきらと輝く。

 吉田光雄「緩やかな刻」。イタリアのアッシジのそばの街に取材した。それが中景に見える教会を中心とした建物群である。手前の市松状の床の上の椅子に女性がゆったりと腰を下ろしている。そばにリュートのような楽器がある。松のような樹木が背後に枝を広げている。その樹木のほとんどシルエットになった様子と霧がかかっている向こうの街と近景とのあいだの処理、そこにも樹木や建物がシルエットになって浮かび上がる。この小高い丘の上にある教会を中心とした中世の街の遠景にも幾重にも山並みが続き、霧が立っている。そのあたりの雰囲気は日本的な雰囲気があらわれているところが面白い。ハーフトーンのグラデーションの中に柔らかな調子で集落やシルエットの樹木、山などが描かれていて、そこに一羽の鳥が飛んでいる。それに対してもっと黒々とした近景の樹木の様子。また、床も黒とグレーの市松状の調子で、そこにしわのようなものがあり、波打っている。その波打っている様子が水のようなイメージも与える。あるいは、一つの響きが連続しながら床の上を伝わっていくような雰囲気。青い暗いスカートと焦茶色のチョッキ、白いブラウス。上半身の顔や手はスポットライトが当たったように明るく輝いている。ミステリアスな雰囲気が漂う。とくにこの人体のフォルムの明暗のコントラストの中にあらわれてくるイメージは、絵画的な面白さと同時にメロディアスで不思議なリズム感が感じられる。手前のくっきりとしたクリアなメロディに対して、中景から遠景にわたるハーフトーンのリズムは、東洋のリズムでありメロディであるといった趣である。それをつなぐものが女性の背後の一本の太い樹木から伸びた枝を中心とした黒いシルエットで、その黒いシルエットはそのまま床につながり、床からまた中景、遠景のシルエットにつながっていくような、そういった動きも感じられる。いずれにしても、淡々と描きながら、西洋とも日本とも区別のつかないようなその中間領域の中で、魅惑のメロディが画面から聞こえてくるようだ。

 平野昭子「深遠な息づかい」。ヨーロッパと思われる古い街を上方から描いている。陰翳により青みがかった屋根や赤みがかった屋根の瓦屋根が見えるが、そのそばには壁面があらわれて、窓がある。その部分がすこし高い。そしてまた屋根が続く。その先にまたすこし壁が見え、扉を開いた窓が見える。どの屋根にも煙突があり、ところどころ屋根の上に突き出した小部屋のような小さなフォルムも見える。そこに不思議な連続性、リズムがあらわれる。それぞれの窓の向こうにそれぞれの人が住んでいるわけで、見ていると、その人々の生活しているイメージがしぜんとあらわれてくる。これだけの建物の中に何百人かの人々が住んで、そこには老若男女がいて、様々な思い、生活をしているに違いない。人間の息づかいのようなものがしぜんと画面からあらわれてくる。それがそのまま優しい音色となりハーモニーとなって画面から聞こえてくるようだ。

 佐々木英夫「背中合わせ」。二つの座った人体をデュビュッフェふうにデフォルメして強い存在感をつくる。背中合わせのその手触りのあるフォルムの中を空洞にする。そこを白く塗る。なにか空しいものがそこにあらわれる。有機的な人間のもつ強い量感のある独特のフォルムの中に、そのような空虚な風が通り過ぎていくといった独特の味わいに注目。

3室

 神山茂樹「トルグ Ⅴ」。母親の前に少女がいる。少女は四、五歳の感じで、母親は三十五、六歳。母親はボテロを思わせるように太った量感のある表現である。量というものが懐かしい。量というものによって母と子を結ぶ。背後の大きな母親のもつオーラが、この手前にいる幼い少女を支えている。彫刻とその周りにあらわれてくる空間の広がり、密度に注目。

 前嶋英輝「BLUE BOSSA」会員賞。女性がガウンのようなワンピースを着て、ポケットに手を入れて立っている。クリアな形が石膏の白と響き合いながら立ち上がってくる。とくに全体のイメージはギリシャの頃の彫刻をイメージするような端整な雰囲気が感じられる。正面性を強調し、立つという動きを作品の心棒にしっかりと置いた、静かであるが強い緊張感のあるムーヴマンがよい。

 矢野真「カムパネルラ― 02503」。カムパネルラは『銀河鉄道の夜』の登場人物である。カムパネルラは死んでしまった。だから羽が生えている。その壊れた胸の中に銀河鉄道の列車が入れられて、まるでフルートのような趣である。哀愁に満ちたイノセントな銀河鉄道の物語をこのようなかたちで造形化する。作者のエスプリに注目。

 中村義孝「むこうの影」。頭が牛骨になった男。ペニスにはおおいがかぶせられている。重病の手術を受け、死からよみがえった人間のイメージである。牛骨は死のイメージであると同時に、もう一度動物としてのエネルギーを回復させたいという願いからあらわれたのだろうか。男としての存在意義を問うといった雰囲気で、イコン的なイメージがあらわれている。両手を軽く握って立つこの男の像は、ブロンズで抜かれている。その上からまた仕事もされたと思うが、きらきらと輝く、すこし黄金色を帯びたその材質感により全体が光の中に立ち上がってくる。光線の中にそのフォルムが立ち上がってくるのだが、立ち上がりながら深いシャドーがそこに逆に差し込んでくるような、そんな相反するイメージを実に面白く表現していると思う。

 登坂真澄「遊雲―遙か越えゆけ Ⅰ・Ⅱ」。木彫である。雲をベッドにして飛んでいるような少女の姿や、それを背にして仰向けに寝ている少年の姿。少年の上には黄金色のトンボがとまっている。夢の中のファンタジーのような様子を面白く表現する。パール色の色彩がこの木彫に彩色されて、ところどころ金が使われている。ロマンティックで夢幻的なイメージを彫刻する。

 伊藤正人「酒船石」。古代の遺構を思わせるような作品である。水路があり、石畳があり、そこに祭りのためのスペースがあるといった遺跡がよく日本で発掘される。とくに天平時代のものが面白いが、そういった古代に対する深い憧憬のイメージが感じられるところが面白い。時空を超えたモニュマンのようなイメージを、石を媒介としながら追う。

4室

 木村保夫「縄文とステルス」。画家の住んでいる長岡は縄文土器を多数出土しているところである。そういった郷里の風土にもう一度立ち返って新しくイメージを掘り起こし、創造した。縄文土器の独特の有機的な動き、フォルムの一部を拡大して画面の左のほうに置いている。そして、それに古代の弓を引くという動作を手前に描いている。カーヴする弓の下方の向こうに愛らしい土偶の姿が白い線描きで描かれている。その古代讃歌ともいうべきイメージの下方に六機のステルス機が飛んでいる。ステルス機はレーダーによって捕捉されないという恐ろしい戦闘機である。それが青いストライプの空間の中に茶系や緑系のシルエットとして表現されている。メカニックな現代文明の不気味な象徴としてステルス機が空を飛んでいるわけだが、その寒色の空間に対して上方は暖色の空間で、温かな素朴な生活の様子が象徴的に表現され、素朴で人間的な生命力に満ちた暖色を中心とした世界と、クールでドライでシャープなステルス機との世界が対照される。二つは逆向きの動きになっているところも面白い。

 千野清和「里山賛歌」。近景は棚田になって、だんだんと中景に向かって地面が低くなっていく。そこは小さな盆地で、畦道のあいだに田植えを終えた田圃が青々と続いていく。その向こうには山が幾重にも伸びて、その山際にも民家と田圃がある。土地の起伏をしっかりと描きながら、一つのパノラマ風景を描く。新緑が瑞々しく懐かしい日本の里山風景が描かれる。遠景はすこし霞むような雰囲気である。水墨画で描いてきた情景を油彩画によって客観的に丹念に描き起こした。そこにイノセントな風景の魅力があらわれる。

 西浦まゆみ「讃頌歌」。三人の女性が近景にいる。一人はトランペットを持ち、一人は亀を持ち、一人は人さし指で前方を指している。背景に植物のシルエットや鹿のシルエットが浮かび、十六夜ほどの月が上方に浮かんでいる。それぞれのフォルムがクリアであるところが特色で、そういった形態に対する優れた感覚を駆使しながら秋の幻想ともいったイメージを発信する。

 中本邦夫「刻の庭― '13」。庭の上の石畳と道の際の自然石を並べた様子、そして、そのそばの崖のようなフォルム。右のほうには樹木があって、下がっていく傾斜。そういった一つの庭のような道のようなシーンを表現して、古代につながるようなイメージが表れている。そこに木漏れ日が当たり、明暗があらわれる。庭の前にある石畳の道がやがてはるか向こうの過去にさかのぼる道につながって、上方ではジグザグになっている様子。空間の中に長い時間軸が引き寄せられ接続されたような不思議な味わいが感じられるところが面白い。

 川辺嘉章「オホナムジ(草薙)」。オホナムジとは大国主命のことである。スサノオノミコトの子供に生まれたが、厳しい環境で育った。とくに兄のヤソガミはオオナムチをいじめた。オオナムチは因幡のシロウサギで有名だが、その因幡のシロウサギがあなたはきっとヤガミヒメを妻にできるでしょうと予言した。ヤガミヒメに求婚したヤソガミはそのことを怒り、オオナムチを山に誘い出し、灼熱の岩で焼き殺してしまった。だが、オオナムチの母神は高天原の神々に頼み、オオナムチを蘇生させた。その時のストーリーが描かれているようだ。逃げていくヤガミヒメを追うオオナムチ。そのオオナムチはヤソガミのイメージとも重なっている。そして、岩のあいだから顔をのぞかせて眺めるヤガミヒメ。岩を積んだ様子はその困難な様子、不安定な中で生きていくオオナムチを暗示する。古事記をテーマにしながら自由にその愛と嫉妬を描いた。

 野中未知子「涙から咲いて」。色彩家である。蘭のような花が花弁を広げている。そのピンクから黄色にわたる色彩が鮮やかで、その周りの緑や青の中から浮かび上がってくるようだ。上方の黄色がすこし黄金色に筆者には見えるのだが、それを背景にして、青みがかった透明な球体が浮かんでいるのは、涙の象徴のようだ。涙でできた透明な真珠のようなフォルムが花を背景にして浮かんでいる様子が、実に不思議な印象を醸し出す。下方の寂しい神秘的な青いバックに対して、上方の緑は人を癒すような色彩である。その二つの色彩に挟まれてピンクからオレンジにわたる蘭のような花のもつ力、どこかエロスの香りさえもするような生命感に満ちたその花を背景にして、涙でできた透明な球が浮かび上がる。その球の中に不思議なイメージが徐々にあらわれつつあるような、そんな現在進行形のムーヴマンもまたこの作品の魅力。

 古曽成樹「里山」。広葉樹のあいだに針葉樹が立っている。七月頃の梅雨どきの草が最も繁茂する頃の季節のような生命感と密度が感じられる。同じような山が幾重にもシルエットの中にだんだんとフェードアウトしながら遠景に向かっていく。日本の自然のなかに深く入った独特の感覚的、触感的なコンポジションである。

 坂井幸子「時を刻む」。マットな手触りのあるマチエールがまず魅力。褐色の濃いグレーの向こうに台形の明るい空間がある。そこは月の光に照らされているようだ。そこに一つの赤唐辛子が置かれている。轍の跡のようなカーヴするフォルムがいくつかあらわれる。轍は時間を表し、時が過ぎていくなかに月の光に照らされて、ある貴重なものがこの一つの赤い唐辛子に象徴されるといった不思議な趣である。

5室

 荒井哲夫「奇妙な果実」。エルンストのシュールな作品を連想するものがある。二つの円をくっつけて伸ばしたようなフォルムに、二つのボルトがつけられ、それがお互いに組み合いながら動いていく。それはキャタピラーのような形でぐるぐると無限にこの中で旋回するといった雰囲気で、エネルギーが感じられる。エネルギーと同時にそれぞれのフォルムが生き物のような雰囲気で、生き物がこのメカニックなフォルムとなって集合しているようなあやしさもある。背後に月のようなものが出ているが、それはおそらく地球なのだろう。地球の中で絶え間なく動いている様々な関係性。大地も水も雲も人間も生き物も樹木も、一切が様々な関係性のなかで動いているといったイメージもこの作品に感じられる。永遠に無目的に動いているイメージもある。それが一種の不気味さと同時にユーモラスな雰囲気とないまぜになった独特のセンスのなかに表現される。

 田中知佳子「踊ろう」。構図が面白い。赤い絨毯のような上を男女が走ってくる。危ういバランスをとりながら、両手を広げて掌を上に向け、あるいは下に向けながら走ってくる様子が面白い。まるでパントマイムによって何かを語りかけてくるようだ。その周りには白い雲が飛んでいる。雨雲もあるようで、青いストライプが引かれているのは雨雲だろう。黄色い柔らかな広がりのある空間の中に歩んでくるこの男女は、この世の人ではないのだろうか。通常の枠を取り払ったイメージの中の男女のユニークな表現である。

 木村満幸「星座を往くポストマン」。タイルを画面の上でつくり、その上にオートバイに乗った郵便配達の人。牡牛座。下方には槍を持ったオリオン座もいる。そして、裸木が伸びている。タイルというものをイメージしながら、星座の世界を生き生きと描き、その中にポストマンを置くという発想が面白い。また、モザイク状にすることによって、色彩のハーモニーを面白くつくる。雲の部分の茶系からブルーまでの四角い点の組み合わせや、あいだの光の表現など、生き生きとしている。

6室

 長谷川清晴「机の上」。これまで鉛筆を使った面白い表現をしてきた。鉛筆を削るということのなかにある鉛筆と人間との関係性、そこに浮かび上がる時間性といったものを集中的に描いてきたが、今回はそのちびた鉛筆は左に一つあり、右のほうには赤いキャップがあけられて置かれている。そばに横になった鉛筆が一つ。グレーのマーカーが浮遊するように空に浮かんでいる。下方にはこのスティールの台のパイプ。すこし現象の説明が多くなってきたが、文房具によって文房具を使う人間との関係がしぜんとあらわれて、その中にファンタジー的な広がりが表現されているところは変わらない。リアルに描くと同時に、そこにある時間性ともいうべきものが表現されているところが面白い。だから、スティールの台の手前のパイプの下にある空間が上方の空間と違って、もう一つの時空間のようにあらわれてくるように感じられる。いわば人間の無意識のごときものが下方にあらわれているように感じられるところが、この作品の次の展開を予感させる。

 加藤恵子「空の詩」。木製の床、壁、机と椅子、そして扉があけられて、青い空と白い雲が浮かぶ。窓も木製の扉になっていて、右のほうに樹木が見える。手触りのある表現で、木との親和力のなかから徐々にイメージをつくりだしている。その炙り出しのような想像力の展開がそのまま画面のもつ強さとなってあらわれる。

 岩永勝彦「インテリホームレス」。バラックの家の前の植木鉢に花が咲いている。木と木のあいだに紐を通して洗濯物がぶら下がっている。近景には白髪の老人が草履をはいてヴァイオリンを奏でている。その椅子の下に白い犬が寝そべって、それを聴いている。この老人と犬とのフォルムの組み合わせは見事と言ってよい。後ろには缶などの資源ごみがリヤカーに積まれているが、廃品を取りにいって、これを売るのだろうか。上方に高速道路があり、バスや車が走っている。それを背景にしてひ弱い感じのヒョロヒョロした樹木に鳥の巣箱が置かれているのが面白い。ホームレスの世界であるが、言ってみれば理想的な世界ともいうべき自由気儘な空間がここに描かれている。日本人は西行の昔から隠居や世捨人になりたい願望があるに違いない。このインテリはそれを実行して実にのびのびとした雰囲気で、楽しそうで、見るほうもうらやましくなる。茶系の色彩に加えて緑のテントや緑の植物、あるいは地面にも緑が入れられていて、その緑に独特の味わいがある。この緑の使用は作者独特のものであって、だいたいどの絵にも使われて、しーんとした人を癒すような気配をつくる。ヴァイオリンの音色と呼応するのはそれを聴いている白い犬だが、また、そばにある如露も、箱の中に植わっているスミレのような花も、あるいは赤い小さな花も、それぞれがこの音色を聴きながら自分の花を咲かせているような趣で、ここに流れるメロディと可憐な花々がよく呼応しているように感じられる。テーマに従って、それぞれのものがお互いに関連しながら緊密な構成になっている。

 則松順子「三千年の命輝いて」会友推挙。三千年の樹齢をもつ樹木を正面から描いている。その屈曲する樹木の形をそのまま描くだけで、あやしい雰囲気があらわれる。対象を発見し、それに向かい合うところからこの強さがあらわれる。

 久保田正剛「果てしなき道―MEMORY 2013―」。これまでの斜線の激しい切り込みによるリズムに対して、今回は穏やかな中に中心の矩形の色面などがまるで月の光を受けて輝いているような、ロマンティックな趣である。周りは深沈とした青い空間である。夜の空間の中に月の光をおろして、その光を広げて永遠化したような、そんな不思議な雰囲気が感じられる。また、青い空間の中に白や黄色が点じられているのは、まるで可憐な花のような、そのような印象さえもあらわれている。

 内山靖子「La vida(人生)」。赤い瓦屋根の建物が連続して続いている様子を、上方から真下に眺めている。あいだに青い空間があるのは水のよう。中世から続く古い街を描いたような雰囲気であるが、縦長の画面の中にその屋根のある建物が連続する様子は独特の動きがあって、だんだんと上方に上っていく様子が力強い。表現主義そのものと言ってよい。集落が生き物のように上方に立ち上がり、そこには一種強い音楽性も感じられる。

 岩島謹司「山の畑(落し風)」。小麦の穂が連続して描かれ、しかもそれが風の中にざわざわと揺れている。そこを囲む環境がそのままこの麦に伝わって、それを通してあらわれてくる強さ。麦自体の説明というより、そこに吹く風や光が麦を通してあらわれてくる。現代音楽ふうな強いビートのきいた、そんなイメージが面白く感じられる。

7室

 廣門幸三「火力エネルギー」。火力発電所が描かれている。巨大な工場である。その壁面やパイプなどが奥行のある立体の中に捉えられている。そのディテールが生き生きと発信してくる。

 竹田明男「'13 おとのふね」会員賞。音を視覚化したような雰囲気で、渦巻きが空間に散らされ、あいだにハープのようなフォルムがあらわれ、その下を船が進んでいく。雷や稲妻といった自然の様々な光や音を視覚化した面白さで、そのプリミティヴな表現に一種神話的なイメージも感じられる。

 安田淳「もうひとつの現実」会員賞。黒、朱色、白を組み合わせたミニマルな表現である。中心に白い長方形が取られ、その両翼に三つの正方形の浮き彫りにされたフォルムがあらわれる。向かって右は黒く、上方から十数センチの赤いストライプが下りてくる。向かって左のほうは朱色の色面で、そこに黒いストライプが下りてくる。そういったフォルムが黒い台の上にパネルとして置かれている。朱色も黒も漆の色彩を思わせる。画家は石川県の出身だが、石川の漆の伝統の上に立った独特の表現だと思われる。その質感と、黒と根来ふうな朱色という二つの色彩をベースにしながら、中心に不思議な輝くような矩形の空間があらわれる。しかも、そこには上下に三つのやはり正方形のフラットな、中のマチエールを変えた色面があらわれる。そして、中心にほんの柔らかなシルエットが波濤文のような毛羽立つ筆触の上にあらわれて上下を突き抜けている。物質と光、質感と空間といった基本的な造形のエレメントのうえに立ちながら、寂々として幽玄なジャパニーズミニマルアートといった趣が興味深い。

 清水正男「行方シリーズ '13」。この会場の新美術館の三階から見た光景が描かれている。壁面や柱を使いながら人間をシルエットにして、ひっそりとした孤独感ともいった様子がクールな情感を伝える。

8室

 井上秀子「変容の街―ガス燈通りで―」。画家は銀座にビルを持ち、画廊も経営している。毎日、銀座の街を歩き眺めたそんな経験のなかからあらわれてきたコンポジションだろう。ビルの側面を見上げている。古いガス灯ふうな街灯が黒い輪郭線の中にあらわれる。空が水色のグラデーションになって表現され、斜光線がビルの一部を染める。懐かしい、優しい、ノスタルジックな街の表現である。

9室

 大黒郁代「Hakobune '13」会員推挙。東日本大震災の津波でたくさんの人が亡くなった。家も流された。船も沈没したし、陸上高くまで押し寄せられたものもある。そういった出来事を画家はこんなおとぎ話のようなファンタジーの空間の中に表現した。積み木を積むような雰囲気で、大きな船や流されていく家などをゆらゆらとする曲線の繰り返しの海の上に置いた。上方の方舟の前方に煙突をつくって、新しく船を再生する趣のあるところが希望の象徴のように感じられる。

 加藤美千代「あさぼらけ」。空が茜色に柔らかく染まっている。その様子をピンクから緑や青のグラデーションの中に表現する。青い雲がわだかまっている向こうから、日が下方に下りてくるような雰囲気。太陽光線の光の筒のようなものがそこにあらわれているのが不思議である。平凡な風景のように見えて、神秘的な雰囲気と同時に優しいハーモニーが鑑賞者の心を包み込んでくる。

10室

 佐々木英子「奏―2013」。金属のボールや陶器のお皿、あるいはガラスの鉢などの質感を描き分けている。器を集めながら不思議なハーモニーをつくる。光がこれらのものの中に差し込み、物質の中に浸透していくような気配も面白い。

11室

 坂口かほる「暮れなずむ」。縦長の大作である。野原に扇形のほとんどドライフラワーになったような花の様子が点々と描かれている。一つひとつの花の色彩が微妙に異なる。グレーや黄色、あるいは緑、紫、茶褐色といった調子で、その形の面白さと色彩のはんなりとした雰囲気とが相まって独特の情感があらわれる。背景はすこし斜面になって二つの丘が前後している。空にはすこしピンクや黄色が入って、夕暮れ方のすこし残照の気配のなかにそれぞれの花がくっきりと浮かび上がってくる。葉は紅葉しているから、ほとんど秋もたけた頃の光景のように思う。新古今集に秋の歌がたくさん歌われているが、そのような独特の美意識が感じられる。扇形の花のドライフラワーのような様子がゆるやかにお互いに連携しながら、ゆらめくような動きを表すような錯覚さえも感じる独特の気配がある。それぞれの植物のもつ存在感がしっかりと描かれていながら、それらが全体でイメージに昇華されているところがよい。

12室

 髙橋久仁子「異国の扉」。白い壁に対して大きな赤い扉が下方にある。全体にぐいぐいとした筆触、あるいはフォルムのもつ動きのなかに、赤い扉が強く立ち上がってくるようなイメージであらわれる。一種の破調をあえて試みたようなそんな強いピュアなイメージに注目。

 小川京子「長い旅の始まり」会員推挙。川辺にランドセルを背負ったフリルのスカートをはいた少女が空を見て手を上げている。手前にその兄と思われる少年が鼻の前に右手を上げて、やはりもっと手前の空を見ている。アーチ状の門の向こうに二つの煙突があり、白い煙を噴いている。あやしいシュールな気配である。向かって左には海があり、上方に三日月が出ている。荒涼とした中に、新しく生まれいずるものに対する予感といったイメージが面白く表現される。

13室

 山内敏史「石造りの部屋の中」。石造りの部屋の中に裸の女性が背中を向けて座っている。壁の前に頭の取れたヴィーナス。さらにその向こうの壁の前にミロのヴィーナスが立っている。グレーのトーンが独特で、そのトーンと光の中にあやしい雰囲気があらわれる。

14室

 阿部進「暮れゆく」奨励賞。木製の小さな船が岸辺から水の中に進入していて、上部は水につかっている。その形がクリアで、だまし絵を見るような面白さである。両側に前後に竹の杭のようなものが立っている。そのポジションも面白いし、水が向こうで風景を映しながら対岸の紅葉したような風景に変化していくその背景の処理も面白い。

 丸山光子「命あるもの」。たくさんの玉葱が地面をすこし掘った周りに置かれている。黄金色に輝いている。一部は芽吹いている。集合した玉葱の様子が生き生きとして独特のメッセージを発信する。玉葱の位置がどこにあるかということになると、すこし浮いているようなところもあるのだが、全体のその合唱するような強いイメージに注目。

第77回自由美術展

(10月2日〜10月14日/国立新美術館)

文/高山淳

1室

 井上リラ「卓上」。お洒落な作品。卓上のものがゆらゆらと揺れながら画面を動いている。ベージュの中にオレンジや青みがかったトーンが入れられた空間が生きている。そこにお皿やキッチンの道具などがゆるやかに動いているように表現するセンスに注目。

 醍醐イサム「D-GIN」。紙の上に黒をたらし込んだり、刷毛で形をつけたりしながら、全体でアンフォルメルな独特の激しい抽象のコンポジションが生まれる。左右に黒と白の強いコントラストがあらわれ、中間にグレーの刷毛跡のようなフォルムがあらわれる。巨大な二つの目がそこに出現しているようなあやしい雰囲気である。

 平澤重信「時がかさなって空にとける」。緑がかった空間が広がっている。その空間の中に様々なニュアンスがあって、空間自体が呼吸をするように感じられる。下方には線描きの線路があり、そのもっと下方には家並みを思わせるフォルムがあらわれる。上方には人の顔、雲、家、花、犬など様々なものが落書きのようにかすれるような線で表現される。そして、そこに色が点じられる。色彩はまるでこのスクリーンを荘厳する花束のような雰囲気もある。そして、花火のようなものが上がり、流れ星が通過するようだ。空にあるものと地上にあるものとをこの画面の中に並べて、呼吸するような空間をつくる。息をするごとに画家のイメージのなかのフォルムがあらわれるといった様子である。そういった息をすると同時にイメージがあらわれるといったナチュラルな動きがこの作品の魅力をつくる。

 大野修「冥府からの復権」。画面の中心に黒い男の像が置かれているのが実にあやしい。頭は三角形になっているが、その両側の黄色い幽体のようなフォルムにしても、右の赤い女性のようなフォルムにしても、きわめて強いエネルギーが感じられる。「冥府からの復権」という題名のように、死の世界から帰ってきた男のイメージ。生と死の境界領域からあらわれてきた人間存在といった力に注目。

 ミズテツオ「運命」。縦長の画面の下方は紫色、上方は深い青い色。そして、紫のフォルムから画面の上辺にわたって彫り込まれた線がゆらゆらと上っていく。深い内界に下りたところからあらわれてきたイメージのように感じられる。下方の紫は深い無意識の領域で、誕生以前。誕生すると、このような周りの見えない深い青いところをゆらゆらと上っていって、やがて生に向かうのだろうか。いずれにしても、きわめてコンセプチュアルなイメージである。形而上的な運命とは何かといった質問を画面によって表す。

 水出陽平「仕事人達」。九人の男女が描かれている。ヘルメットをかぶったりして、道路の工事現場に働く人々のようだ。車をとめたり誘導する女性もいる。その全身像が描かれた、九人の人間の肖像である。人間存在の深さを描くのではなく、もっとポップふうに表現している。対象を眺める自由な視点が、この九人の男女を活性化させる。九人の人間たちはどこか人形的である。それを集合させて、楽しい集合写真を撮っているような趣で、簡素な中に独特のユーモア感が感じられるし、そこにあらわれてくる生き生きとした人間のイメージが魅力。

 伊藤和子「花・ある日」。赤い花が咲いている。花瓶の中に咲いている。その周りのフォルムは抽象形態で、全体で生き生きとしたリズムが感じられる。

 伊藤朝彦「寄り添う」。年とった女性と年とった男性と二人いるが、女性は裸で、その後ろに男性が黒い服を着て立っている。その上方に二人を荘厳するように花が浮かび、左右から黒い鳥がその花に向かってきている。金婚式の頃の男女のようなイメージだろうか。画家は男性であって、女性を描くときに女性を裸にして、その丸いカーヴを強調する。それは女性であると同時にベッドでもあるし大地でもあるといった、男性特有のイメージが女性にあらわれているところが面白い。その下方にもう一羽の黒い鳥が地面でついばんでいるのが、この孤独な男性の後ろ姿のように感じられるところも興味深い。

2室

 小作青史「遭遇に向かって」。肉の塊のようなものがアメーバ的な力であらわれ、画面全体を覆っている。左から右に動いているのに対して、右から左に動いてくる力もあり、その妖怪的な力が自然のもつエネルギーである。決して止まない刻々と動いていく力を象徴するかのようだ。また、それはそのまま社会というもののなかにある人間同士の切っても切れない親和力を象徴するかのようだ。それをこの独特の暖色系の色彩とフォルムによって表現する。画家のイメージの力と造形力に注目。

5室

 興那覇五重「ダイヤモンド・ダスト」。銀色の地が二つのパートに分かれて、その上に紫や白、青などの色彩が置かれ、きらきらしたガラスがそこにコラージュされている。全体で上品なハーモニーが生まれる。ピュアでイノセントな空間が広がる。小さなガラスの集合した様子には、きらきら光る星のようなイメージもあらわれている。身近なところに存在する空間がその身近なままに深く優しい美しいものに変じるといった様子。

8室

 竹中稔量「N氏の憂うつ」。銃身や砲身のようなものが左右からあらわれて二つがクロスしてくる。周りには機械の一部のようなものがあらわれている。その硬質なフォルムを組み合わせながら、エネルギッシュな画面があらわれる。やがてまた戦争が起きるといった予感からこのような作品が生まれたのだろう。作者自身が戦争を経験した世代の人のような、イメージの強さが感じられる。いずれにしても、メカニックなフォルムを使いながら、そのエッジを切って組み合わせながら、独特の混沌としたなかにあらわれてくるエネルギーを造形化する力量に注目。

 髙橋敬子「帰りたい夜、2013」。建物や樹木を組み合わせながら緊密な構成をつくる。その緊密さの中に間のようなものがあらわれているところが面白い。そして、人間の姿がシルエットとして浮かび上がってくる。暗い調子と明るい調子。ところどころ雑誌のようなものをコラージュしてある。日常生活の中に動いていく意識と風景とがお互いに絡み合いながら典雅なメロディをつくる。

9室

 立川広己「浮遊する物体」。胴が切り離され、頭が浮かんでいる。下方には手が切断されて床の上に置かれている。上方から縄がぶら下がっている。拷問されて殺されたのだろうか。陰惨な画面である。その中の虚ろな目が鑑賞者を眺める。青黒いトーンの中に不思議な力が感じられる。現代というものの暗い部分をえぐる。

10室

 古田千鶴子「三美神(平和を)」。背中を見せるミューズとその両側にいるミューズ。背中を見せるミューズは両手を広げて、その手をこちら向きのミューズがそれぞれの手で摑んでいる。紗のような布をまとったほとんどヌードの三人の女性。三人の女性はほほえみながら独特のダンスを行う。豊饒なイメージ、あるいは平和というものの象徴として三美神を画家は描く。繰り返し祈るかのような心持ちで三美神を描く。今回もそんな想念が三体のミューズを通してオーラのような力を醸し出す。

11室

 さとうえみこ「from the table Ⅲ&Ⅶ」。正方形の二つの画面。向かって右は黄土系の色彩が光の中に浮かび上がってくる。左は矩形の中にグレーや、やはり茶褐色や黄土系の色彩を入れながら、周りにオレンジ色の色彩が入れられている。建物やテーブルを思わせる色面であるが、右のほうの作品は窓の向こうに広がる世界を暗示させる。色彩が優れている。透明な色彩が広がっていく。そして、そこに独特の詩情ともいうべきものがふかぶかと包みこまれてくる。ほとんど音楽を聴いているのと同じような感興を覚える。

12室

 平田寛子「中心の喪失」。十五人の裸の人間が膝を立てて、両腕で抱えている。その裸の人間が十五体あって、くるくると旋回している。目が白く光っている。不思議な雰囲気である。緑がかったグレーの空間の中に暖色系の肌の色が独特の質感を醸し出す。そのようなポーズで上方から下方に旋回するような動きがあらわれる。フォルムが優れていて、フォルムによって不思議なメッセージが伝わってくる。それを言葉に翻訳することはなかなか難しい。それぞれがそれぞれ勝手な行動を起こしていて統一感がとれていない現代社会のあるイメージと言ってよいのかもしれない。

 田内徳重「eclipse 5月21日」。エクリプスとは蝕という意味で、月蝕とか日蝕のイメージなのだろう。だんだんと陰っていく雰囲気を繊細にグレーのトーンの中に表現している。陰るもののフェードアウトするときのあやしい雰囲気。しかし、蝕も、やがてまた復活して光を放ち始めるだろう。二つのベクトルが画面の中にせめぎ合いながらフォルムが移動していく。また、上方の色面と下方の色面のあいだに紐で結わえるような不思議なイメージのものがつくられているのも面白い。アンバランスなものをお互いにくっつけながら、微妙な均衡がつくられている。その微妙な均衡は、たとえば人間のボディもそうで、一週間も眠れない日が続くとあっという間にバランスを崩すだろう。世界の傷を画家は絵の中で繕いながらバランスをとらせようとする。そこにだんだんと陰っていくものの姿があらわれ、画面を動いていく。きわめて日本的な深い情緒の世界が表現されていると思われる。

 鷲巣嵯環「ジョバンニの夢とカムパネルラへの小舟」。紙の上にサインペンのようなもので稠密にネットを描く。ネットのあいだから船のようなフォルムがあらわれたり、細胞のようなフォルムがあらわれたりしているが、上方には目のようなイメージもあらわれている。現実を超えて、もうひとつ別の世界に行く旅のようなイメージが感じられる。題名から宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』にインスパイアされたことがわかるが、あのクリアな銀河鉄道の窓から見た鉱物的な世界に対して、ここにあるのは細胞が充満する中に、そのネットを通してあらわれてくるもう一つの生命の働きのような、不思議なイメージと言ってよい。いずれにしても、画面全体のもっている強いエネルギーに注目せざるをえない。

14室

 儘田静枝「降りやまぬ雨はない」。三階建ての建物は青く彩られている。そばにグレーのシルエットふうな建物がある。画面を汚したような雰囲気で、上方の空に雨雲がいま雨を下ろそうとしている。下方には椅子のようなものがある。塗り込まれた絵具が独特の輝きを見せる。心の中につくられた風景である。ところどころあけられた窓が目のように感じられる。一種の詩人的なイメージによって、じかに画面に絵具をぶつけながら心の風景を描く。そこにあらわれてくる動きが生き生きとしている。

15室

 大石佳子「廻  Ⅰ」。巨大な甕が八つほど描かれている。それらが上下、左右重ねられて、そのしっとりとしたマチエールが語りかけてくる。大きな口とふくらみのある胴をもつフォルムが一種母性的なイメージで表現される。緑のトーンの中のそのマチエールと相まって、それらの連続したコンポジションに安心感が感じられる。オーソドックスな造形感覚の上に空間というもののもつ深さがよく表現されている。

 竹越仁恵「風景」。雑草が生えているあいだに小道がある。向こうに池が空を映して青くすこしのぞく。その後ろは土手があり、鉄塔が立って電線が伸びている。雲が上方にわいている。青を中心とした植物の表現。左右には樹木が立って、優雅なカーヴした梢を伸ばしている。優れたデッサン力である。植物や樹木の形を自由に絵の上に表現する。そして、それぞれがお互いに呼応しながらメロディがあらわれる。現実がミステリアスな詩の世界に変ずる。

16室

 羽田二朗「新緑の森の池で」。水が画面の約六割近くを占める。池の水はたゆたっている。ところどころ石が浮かび上がっている。対岸の鬱蒼と茂った樹木の緑。池の水もその緑を反映しながら、ところどころ光っている。その様子は油を流したようなぬかるみのような雰囲気で、強い存在感が感じられる。水がすべてを受け入れて澱んだそんな力が池いっぱいに広がっていて、存在感を見せる。

 谷本重義「躍る人」。エメラルドグリーンのバックの中に二組のカップルがタンゴを踊っている。豊満な女性とリーゼントふうな男とが官能的な踊りを踊っている。下方では男女が座ってお互いに会話をしている。男の右手は女性の体にかかって、その胴に手が回っている。これまで日本や朝鮮のお祭りを描いてきたが、今回はそのお祭りの祝祭的なイメージがタンゴというテーマを獲得した。パッショネートな現世の歓楽の踊りと言ってよい。女性の衣装につけられた赤い色彩が鮮やかで、その豊満な肉体とともに太陽のようなイメージがそこにあらわれているところが面白い。エメラルド系の背景と色彩とが高く響き合っている。上方に不思議な布のようなものが浮いている。その覆を外してこの世の男女の関係を肯定的に陽気にタンゴのリズムの中に解放しようとする。手前の白い色面にシャドーのようにつくられた男性の顔、女性のジョンブリヤン系の色彩に黒で描かれた顔を見ると、画家の初期の貧しい人々の線による表現を思い起こすところがある。手前の会話をしている男女の深い文学性ともいうべきものが背後のタンゴの踊りと相まって画調を深くしている。

 小川リヱ「鵺の視たもの」。馬の足が人間になっている。右足が人の足で、左が馬の足。そんな上に股を開いた女性のようなフォルムがある。下方には幼児のようなものがコップでなにかを飲んでいる。ピンクの曖昧な空間の中に光りながらあらわれてくるこれらのボディはあやしい。人間のもつ混沌とした中にあるエネルギーや生命力がしぜんと浮かび上がる。ヨーロッパでは仮面をつけてバッカスの祭りをやりながら、アニマル的になって自分を解放する儀式がある。牧畜民としての伝統である。日本の画家の中でこのような動物との強い親和力の中から人間存在の闇を浮かび上がらせるような作品は少ないから、なお興味深い。

 小倉信一「イノチヲハコブ―キオク―」。画家はこれまで葬送の絵をずいぶん描いてきた。今回も下方に浮いている四つの白い花の周りの男女や後ろ姿の人や人間たちを見ると、別離のイメージがしぜんとわいてくる。裸の子供を背負った若い母親が腰を屈めているが、パートナーをなくしたような悲しみの背中のように筆者には感じられる。そういった中に裸で立つ一人の青年が大きく描かれている。それは離別に対して新しく未来を切り開く人のイメージなのだろうか。しかし、その体の表情から顔の表情すべてがメランコリックである。メランコリーの感情が画面全体を覆っている。そのようなペシミスティックな雰囲気のなかに、人はやはり命を運んでいかなければいけないといった深いイメージが感じられる。松本竣介たちの時代のイメージを引き継いでいるような雰囲気も感じられる。オーソドックスなデッサンの力と油彩画の技法によって、軽い絵が多い中に重く人間存在の意味を問うようだ。

 森山誠「卓上13─5」。空気がひずんでくるような強い風圧が感じられる。お皿が一つ、ぽつんと置かれている。強い孤独感。それが台風の目になって周りの空気を動かし、暴風雨のような強い動きが画面の中にあらわれる。

 斎藤國靖「仮説としての絵画」。二つの画面が対比される。向かって右は椅子に座る女性が犬を抱いている。それは陰影によるオーソドックスな油彩画の技法である。それに対して向かって左は色面として女性の姿を捉えて、それを線によって起こしている。浮世絵の影響を通過したアメリカンポップのような描き方である。それに対して抱かれている犬だけは陰影の中に表現されて、二つの技法が対立している。オーソドックスなヨーロッパふうな捉え方と、アメリカンポップふうな捉え方の二つを対置させながら、表現とは何かということを画家は考える。考えること自体をまた絵にするといった、自分自身の技法を鏡に映してフィードバックさせながら二つの絵を描き対置させるというユニークな問い掛けが面白い。

 水野利詩恵「Calm down」。昔の板戸を使っている。そこには釘が打たれていて、釘の頭がポッチとなって点々と横に並んでいる。また、花模様の釘隠しのようなものがつけられ、鍵穴がそこにある。そういった江戸時代の頃のものと思われる板戸のフォルムを見ながら、幻視し、そこに人間の形が浮かび上がってくる。両手にはキリストの磔刑図のように釘が差されている。顔と胸がなくなって、そこに前述した釘隠しのための鉄の花柄の大きな模様が黄色く彩色される。そこにまた桜模様の金具が二つ置かれて、ピンクや赤、あるいはグレーの中に黄金色などに彩色されている。その上に画家は花を描く。この人間は霊体と言ってよい。つらい人生を生きてきた庶民の、ある普遍的なイメージのようなものがこの像にあらわれてくる。扉が境界領域となって、あの世とこの世とのあいだのようにそこに立ち上がってくる。画家はそういった霊的なこの寂しい人間を温かく迎え、その頭上に花を咲かせる。板戸との対話の中から生まれた像が鑑賞者を引き寄せる。

 亀井清明「ドナドナ」。上方に売られていく牛の顔が三つ並んでいる。悲しそうな不安そうな雰囲気である。それに対して運ぶ人はノンシャランな笑顔でそばにいる。下方に金属のパイプによってカーゴがつくられて、労働者たちがその中にいる。それを運ぶ男はすこし大きめに描かれている。牛が屠殺場に運ばれるように、労働者もカーゴに載せられて同じような運命にあっているといった様子を、ブラックユーモアふうな表現でまとめている。クリアなフォルムによるコンポジションが面白い。対する存在感のある表現をベースにして、そんなイメージを構成する。

 坂口利夫「虫たち」。二つのペアのカマキリ。手前のカマキリに捕らえられた逆様になったバッタ。上方に女性の横顔が紙に描かれて浮いている。そばにペアの蛾が飛んでいる。左のほうには女郎蜘蛛のようなものが待ち受けている。カマキリというと、性交のあとにメスがオスを食い殺すということで有名だが、女性に対する憧れと恐怖感とがないまぜになって、このミステリアスな画面が生まれたのだろうか。いずれにしても、フォルムが鮮やかで、画家は自由に視点を変えながらフォルムをつくる力がある。優れた造形力がまずこの作品の魅力と思われる。

 宮西寛人「公園・街・未来」。上方に一戸建ての建物がずっと並んで、その背後に高層ビルがある。ここは遊園地のようで、滑り台やブランコ、あるいは小高い土を盛って植物が茂っているところに子供たちが遊んでいる。そのそばを道路が走って、陸橋がかけられている。道路をオートバイが走る。交通整理の人もいる。遊園地にいる人間たちの周りの道路は通常より縮小されて、遊園地の中の道のごとき様子で描かれているところが面白い。そんな自由なデフォルメをして、遊園地と道路とそこに遊ぶ人やそこを走る男や工事現場の人を同列に並べながら物語をつくる。オートバイに乗っているのは大人と思って見ていると、下方では子供がそのようなミニチュアに乗っている様子もあらわれてくる。子供たちが育っていくと未来があらわれてくるわけだが、その未来はまだ混沌としているようだ。いずれにしても、数十人の人間たちを配しながら不思議な生気ある画面をつくる。

17室

 竹下馨「ピエタ(空襲)」。ベニヤ板をベースにして、その上に紙を貼ったりしながら独特のしなやかで柔らかなマチエールをつくる。下方には空襲の中に泣き叫ぶ数人の人がいる。とくに子供を抱く母親とそのそばの姉のようなフォルムが叫んでいる様子は悲しい。それをまた大人が取り巻いている。上方にはB29を思わせるような戦闘機があらわれている。そして、あいだに黄色い炎が立っている。その炎の中には、その熱によって焼けた建物などの破片が浮かんで浮遊している。激しい画面である。上方の黄色いトーンの中にあらわれるB29と炎は回想の中からあらわれた雰囲気で、深くしーんとした趣である。それに対して下方の泣き叫ぶ母子や男や女性たちの様子は、この前の津波で亡くなった遺族の悲しみが重ねられているようで、現実の問題として存在する。その現実感に対して、画家の記憶の中から空爆のイメージがよみがえった。二つの時間が画面のなかに連結しながら、ある悲劇のモニュマンが表現された。

〈彫刻室〉

 長谷川由美「ピアソラを聴く絵描き」。ピラソラはタンゴをおもに弾く演奏者である。ピアソラの弾く曲を髪もじゃらの男が頰杖をついて聴いている。モデルは仲間のミズだという。強い心象性が感じられる。想念のなかにいる男のリアルな存在感に惹かれる。

 岡村光哲「記憶の中の風景」。マットな金属の直方体のフォルムの中心を切り取って、そこにステンレスのような光沢のある波打つフォルムを入れる。そして、前後に矩形の穴をあけて、そこに表面がやはり波打つ直方体を入れる。その中心には穴があいていて、そこに直方体を菱形状に回転させたフォルムを上からのぞかせる。シンプルな中に強いイメージが表れる。フラットな平面に対して、波打つ光沢のある外部を映すフォルム。その二つの組み合わせ。あるいは、マットに対して輝くもの。平面に対して波打つもの。「記憶の中の風景」という題名だが、もっと碑のような端然たる雰囲気。流動的なものをそのままボックスの中に閉じ込めてカームダウンさせたような、そんな強い印象に驚く。

 中嶋一雄「揺らぐ座標」。傾いた板に彫り込みが入れられている。その板は二つのパーツからなって、鎹でとめられている。アルミニウムのストライプが埋め込まれている。光を表すようだ。それを支える台と、台の上に載るもう一つの板。それは波打ちながら、その年輪と相まって流れていく水のイメージを想起する。流れてくる水のそばで斜めに立つあるモニュマン。そこに光が差し込む。今回の悲惨な津波のことを深く心の中に抱いてあらわれてきた画家のレクイエムのようなイメージも感じられる。

 藤山深諦「13―再生」。四つの柱をカーヴさせながら組み合わせる。そして、その板に角柱を嵌める。六つの角柱が、そのカーヴする四つの柱の中に入れこまれる。それは傾きながら入っている。揺らぎながら立つ四つの抽象彫刻であるが、有機的なフォルムを六つの角柱によって閉じ込め、連帯感をつくる。あるいは、そこにある困難なものの暗示でもある。いずれにしても、その四つのカーヴする柱ともいうべきものがなまなましく、きわめて人間的なイメージを伝える。不思議な生のモニュマンと言ってよい。柔らかなものとそこに侵入してくる困難なもの。そして、その困難なものがあるゆえにお互いが組み合って離れないといった、そんな相矛盾する要素もその中に閉じ込めながら、四人の立つモニュマンともいうべき生のイメージが表れる。

 竹本鉄夫「箱とともに這う 左手の大きな男」。頭から胴体が箱の中に入っている。外に手足が長く伸びて、四つんばいになっている。両足の長さと両手の長さがほとんど同じで、左手に関してはいちばん長くなって屈曲している。箱の中の男の顔を、下方にあけられた面から眺める。内向的な雰囲気であるが、開かれた両目が鑑賞者を眺める。顔はすこし彩色されて、色鉛筆で線が入れられて、彫刻を彫るためのラインのようなものが血管のようなイメージとしてあらわれる。木のもつ柔らかな材質感を見事に使いこなしている。使いこなしながら、困難な現代の人間のイメージを生き生きと発信する。

 吉田光正「烈風の家族」。すこしピンクがかった砂岩と思われる大きな石の中を彫り進んで、台座に立つどっしりとした母親とその娘三人がそこにあらわれてくる。小さな姉妹が愛らしい。左から右に風が吹いているようで、髪が靡いている。風が時間を表すようで、この家族は時間の中に立つモニュマンといってよい。立体でありながら、レリーフ状の磨崖仏を思わせるようなイメージがあらわれている。それは最初の大きな石の原形を残すようなかたちで彫り進んでいるからだろう。背面はこの母親の後ろ姿だけがレリーフ状にあらわれて、あとは茫漠たる風のような面になっている。母と三人の娘は聖母子像といったイメージもあるし、素朴な仏の像をこんなかたちで彫ったような独特の強いヴィジョンも感じられる。

 M・A・池田宗弘「少年殉教者聖マテオ小兵衛」。サンダルをはいた聖マテオ小兵衛である。僧衣のような衣装を着て、両手を合わせている。合掌しながら、顔はすこし上方を眺めている。それは天にいます神を眺めているのだろう。柔らかなフォルムに不思議なオーラが感じられる。男性のはずだが、どこか女性の要素もあるようだ。少年でありながら、すでに老成したような趣も感じられる。個的なものから離れて、神とじかに対話しながら殉教する一人の人間の精神ともいうべきものを作者は彫刻した。そこにあらわれてくるオーラに注目した。

 長嶋栄次「光陰矢の如く」平和賞。男と女のモニュマンである。夕方のディナーの時間がきた。男の右手にぶら下がっている懐中時計は七時を指している。男の首から上はつくられていず、ジグザグのカーヴするフォルムの先に手があり、カーヴする上に鳥がとまっている。女性はワイングラスを持って前に出しているが、やはり頭はなく、その二の腕からそのままカーヴしながら頭を通って右下の腕の一部までのフォルムが上にのせられていて、やはり鳥がとまっている。男の鳥は女性のほうに向かっているが、女性の鳥は背中のほうを向いている。実に不思議な味わいが感じられる。説明的な要素は省かれて、普遍的な、ある年齢に達した夫婦の像がしぜんとあらわれる。足首から下はそのまま台座の丸太になっているから、それぞれのフォルムは一木から彫り出されたのかもしれない。もともとあった大きな幹がそのまましぜんと人間の形に変容したといった最初の木のもつ時間性ともいうべきものが、しぜんとこの彫刻から感じられるところも面白い。ずっしりとしたトルソの上の抽象的なフォルムの処理が新鮮で、かつ力強い。

第48回一期展

(10月2日〜10月14日/国立新美術館)

文/高山淳・小池伊欧里

1室

 石川幸子「花は咲く(Ⅱ)」。赤やベージュの色面の中、黒いワンピースが強いコントラストとなって少女を浮かび上がらせる。ワンピースは赤い花のプリントがコラージュされ、頭上の薔薇などの花と呼応する。盛りを迎えた花々に、少し浅黒く健康的な少女の成長が重ねられる。また、甘えるように寄り添う猫が、大人になりつつある少女の空気を印象づけているように思える。(小池伊欧里)

 森田哲隆「宵の詩(四国・佐田岬)」。青の階調によって空、海、岬の岩山が描かれている。繊細な描写で、水平線際の白んだ様子や、灯台の光の反射、岩山の陰影、潮の流れなどが表現されている。どこまでも続く海の広がりが、静けさの中に表れている。(小池伊欧里)

 笠野建司「雨のサンタ・マリア広場」一期会大賞・大衆賞。広場の地面が大きくとられ、立ち並んだ建物は三階部分の途中で切れている。一方、雨で濡れた広場が建物の最上部までを映しているというユニークな構図になっている。ハーフトーンを丁寧に展開していて薄く張った水の様子や雨の中のくすんだ建物の様子が見事に表現されている。スクラッチするように入れられた雨も効果的である。(小池伊欧里)

 新冨正弘「至上の愛」。文楽人形をモチーフに、劇中で表現される愛の姿を描いてきたが、今回、その世界が抽象表現として洗練された。マットな黒と光沢のある黒がストライプ状に並ぶ色面は髪や帯を思わせ、着物をイメージさせる赤い色面へと続いていく。右側の黒い世界から飛び出したような、左上にある台形のフォルムからは、死を境に暗黒に転じるのではなく、空蟬のしがらみから解放された男女のイメージが浮かび上がる。(小池伊欧里)

2室

 髙瀨勝之「荒川春景」。大きめの筆でポンポンと色面を置くような筆致を重ね、ボリューム感のある河原の風景を描いている。黄色や緑で表された草花によって川はほとんど隠れているが、その瑞々しさを湛えた自然の力を感じる。緑の帯を中心として層が重なっていく風景は、交響曲のように全体のアンサンブルを生み出している。そして左方にポツンと置かれた木立が郷愁を誘う。(小池伊欧里)

 田端啓子「落雷」。太いストロークが幾重にもなって落雷の様子を描いている。大きな稲妻を箔で入れ、その余波を黄色の細い線で表現する。画面の奥の方から前面に盛り上がってくるような印象で、轟が聞こえてくるようだ。雨に濡れた街が稲光によって一瞬色彩が変化し、混沌とする。そんな落雷の瞬間を人間の心理状態も反映しながら捉えているように思える。(小池伊欧里)

 斉藤敬一「土手の上の景色」。ドローイングのように風景を描き起こしている。真ん中に走る赤い道が印象的で、この道に引き寄せられるように周囲の景色が描かれている。赤い道を境に右側は下がっていき、リズミカルに緑の面が入れられ、左側は下方の勢いのある草むらから流れるように土手上の描写へと続いている。雲の動きも独得で面白い。(小池伊欧里)

 佐々木大次郎「春宵(日本再生への祈り)」。俯瞰するような構図の作品から変わり、今回は三重の塔を見上げるように描いている。陽が落ち、空がサーモンピンクに染まる中、溶け込むように桜の花とガス灯の明かりが入れられている。しっかりとした描写で木造の塔が描かれ、桜の花は柔らかく、息づかいが聞こえてきそうな生々しさがある。塔の影が落ちた石段には二羽の鳩がくちばしを重ね愛らしく、平和な雰囲気が伝わる。大地が傷ついても空いっぱいに花を咲かせる桜と、古の姿を留め続ける木造の塔の凜々しい立ち姿に日本再生への祈りが込められている。(小池伊欧里)

4室

 井上清次郎「懐かしき故郷の駅(Ⅰ)」。淡々とした雪景色に二対のレールが描かれ右にカーヴしていく。背景の山や家々が水墨的な表現で、雪景色の味わいを深めている。標識や信号、ポールなどの赤が不思議な存在感である。裸木や様々な柱の縦に伸びる動きと、大きくカーヴしていくレールの軌道が画面を大きく動かしている。(小池伊欧里)

 野本頼子「のうるしの咲く頃」理事推挙。緑の草と交互に帯をつくる黄色いのうるしの花、そして緑の樹木と青い空の間にある樹木が、効果的に視線を呼び込む。粗いタッチながらも、近景から遠景に向かって空と大地がぶつかるダイナミズムがよく表れている。(小池伊欧里)

 猪原儀久「WHITIANGA HARBOUR(NZ)」。数隻のヨットが停泊する港のすぐ背後に山が迫っている。赤やオレンジ系の色彩をうまく織り交ぜながら山に当たる赤い陽の光を表す。絵具を力強く置いたストロークで水平な海から山が立ち上がるように描かれ、ニュージーランドの雄大な自然を象徴するような風景となっている。(小池伊欧里)

6室

 北川昌弘「坂道のある風景(Ⅴ)」。木陰になった小さな坂道と、夕陽によってパステル調の光を反射させる空が上下に展開されている。しっかりと作られた下地には数多くの色が細かく複雑に塗り重ねられ、深みのある画面が生まれている。電線が奥へと視線を誘導する。下方に広がる明るい面の起点となる赤いパイロンがポイントとなっている。(小池伊欧里)

 酒井秀雄「サンチャゴ・デ・コンポステーラの散歩」。キリスト教の巡礼地として名高いサンチャゴ・デ・コンポステーラだが、そんな歴史ある街の日常風景が切り取られている。剝き出しの道路に斜光が当たり、金色に輝く。逆光でシルエットとなった女性と二匹の犬が映画のワンシーンのように動いている。構図の切り取り方がユニークで、非日常にある信仰の世界と、日常とがこの光る坂道によって対比されているようだ。(小池伊欧里)

 亀田みち子「彼方に」。草木、川、平原、空、建物、とタッチを使い分けながら風薫るような風景を描いている。周辺から中心に向かって明るさの増す緑の表現が爽やかで、素朴なロケーションながら見応えのある画面を描き出している。(小池伊欧里)

9室

 永野志津香「水はひとつにつながっている」。最近、福島原発から汚染水が流れているといった報道があった。海に流れるだけでなく、おそらく地下の水脈も汚染されて、その水は福島の土地の中を通過し、どのような禍々しいことを起こすのかわからない。そういった恐怖感をだれもがもったと思うが、それをそのまま絵にした趣がある。下方に水が流れている。黄色い大地の向こうには座礁した船が引き揚げられている。ほとんど葉の落ちた丈の低い枯れたような木が一本、水のそばに立っている。そのそばにピエロが黒い傘を持って立っている。そばの椅子にはその傘を閉じて座って物思いにふけっているもう一人のピエロがいる。その二人のあいだに本が散乱する。その上にグレーの紗がかけられている。水の下にもグレーの紗がかけられている。画面を縦断する紗はまさに汚染水というものの象徴だろう。水は左右にも上下にも流れていく。そのあいだに本が開かれているのは、様々な知恵、あるいは報道、そのようなものがその汚染水を制御できなかったといったペシミスティックなイメージと思われる。そして、悲しい蝶が飛んでいるのは魂の象徴だろうか。蝶はこの汚染水からあらわれて、外側を飛び、宙に向かっている。それは空しいイメージのこれまた象徴のように感じられる。大画面の中にいわば演劇的空間ともいうべきコンポジションをつくりながら、原発の汚染水という重いテーマを画家は描く。物思いに沈んでいるピエロはまた画家自身の自画像でもあるし、われわれ日本国民の自画像でもあるのかもしれない。(高山淳)

12室

 梶裕子「塩引き鮭」。着彩した和紙を切り貼りして描いている。和紙の繊維の違いをうまく使って、木や鮭の質感の違いを演出している。二つの丸い木の樽と、縦に整然とぶら下がった鮭によるコンポジションが面白い。(小池伊欧里)

16室

 飯塚温子「花巡り」。岩彩だろうか、淡い赤や青の調子の中に緑の植物がすくすくと伸びている。ぼかした画面でもしっかりと植物のフォルムが捉えられている。三羽根のヒヨドリが画面上に円を描くように入れられていたり、左上の桜と下のピンクの花が呼応したりする中で、内側から滲み出てくる赤い色彩から生命の温かさが感じられる。(小池伊欧里)

 田村哲男「ひととき」文部科学大臣賞。全体が温かみのある色調で、女性が着るワンピースのワインレッドが引き立っている。木製の棚や、その上の小物がディテールを追って描かれているのが味わい深い。緩やかなS字型で姿勢良く立つ女性は、その細かく描かれた背景からふっと浮かび上がるように、柔らかい輝きを放つ。女性が見せる何気ない一瞬の美しさを捉えているような作品である。(小池伊欧里)

第37回新日美展

(10月4日〜10月11日/東京都美術館)

文/磯部靖

1室

 鳥沢むつみ「HAPPY LIFE」。サラリーマン風の男がゴミ山を前に大きく描かれている。その波打つようなフォルムで描かれた男の悩ましい表情も印象的だが、背後の二匹の猫の様子もおもしろい。紐などでアクセントを付けながら装飾的に描かれた画面の中で、独特のエスプリを効かせて現代社会を描き出しているようで興味深い。

 神内巍「越前の海 Ⅴ」文部科学大臣賞。海岸の岩間に海水が入り込んでいる。真上から俯瞰するような視点である。赤茶色の岩に白と青の海水が入り込んだその様子は、強い動勢を孕んでいる。そして、その複雑な波の表情は力強く、しかし繊細に描かれている。確かな表現力が感じられる作品である。

 石原修「常滑黄昏」。今は使われていない廃工場を正面から描いている。長い時間この場所で稼働してきたその時間の流れが、しっかりと画面に描き込まれている。斜めに傾いたフォルムや二本の煙突の様子やコクのある色彩とマチエールが、老翁を思わせる深みを感じさせる。しみじみとした情感が特に魅力である。

 鈴木忠義「富士、日本人の心」。画面に大きく富士が描かれている。山肌は赤みを帯び、頂に輝くような雪を冠している。下方の雲海なども合わせてきびきびとした描写であり、画家の富士に対する深い想いと共にその姿が力強く立ち上がってくる。

 前原専二「路地裏」。下町の路地裏の風景である。画面全体の淡い雰囲気が、どこか記憶の中の風景を思わせる。そこを一人の老人が杖をついて歩いている。それが、両脇の家屋の直線的な動きの中で、ゆっくりとした時間の流れを感じさせる所にも注目する。

2室

 中尾不二夫「空と山と」。画面の下方に山の嶺が見え、上方は大きく空間が空けられている。空は淡い朱の色彩で描かれ、山は深い赤から茶、緑で彩色されている。朝焼けとも夕暮れともとれるその情景には、不思議な天上的世界観が内包されているようだ。下界から遠く離れた世界に漂う静かな気配が、そういった印象を引き寄せている。鑑賞者の心の奥に深く響いてくるような美しい風景である。

 色摩光雄「里山」新日美大賞。手前から奥に田んぼが続き、遠景には山が見える。手前の緑から奥に向かうに従って少しずつ青みがかっていくという、緑系の色彩を繊細に変化させながら扱っている。その素朴な様子が、しぜんにやわらかく描き出されているところが特に魅力である。

 森屋治三「晩秋雪景」。雑木林を抜ける道の向こうに家屋がいくつか見える。雪がうっすらと積もり、遠景の山は真っ白に染まっている。木々の細やかな枝の描写が、そのざわめきを伝えてくるようだ。画面全体に漂う透明で清々しい空気感が、強い魅力を湛えている。

5室

 千木良宣行「美術館ロビー」。大きなガラス越しに建物の奥にそびえる山がみえる。その手前に女性が一人立っていて、電話をしている。そしてさらに手前にソファとテーブルがある。空間を大きく取った建物内で、重層的にモチーフを重ねて画面を構成している。ソファは丸みを帯びたフォルムを形成し、それが、遠景の山の姿とどこか呼応しているところがおもしろい。落ち着いた色彩を丁寧に重ねていき、そこにゆっくりとした時間の流れを感じさせもする。そういった中で生まれる深い余韻が、鑑賞者を捉えて離さない。

6室

 岡田三郎「我街川越」。手前に川が二本左右に分かれるように流れている。その向こうに土手があり、さらに街並みが見える。空は朱がかっていて、街並みや土手は逆光になって暗く陰っている。柔らかな筆の扱いでしっとりと情感深く描き出しているところが印象的である。画面の中央に見える背の高い赤と白の電波塔がもう一つのポイントとなっているところもおもしろい。

第81回版画展

(10月5日〜10月19日/東京都美術館)

文/磯部靖

1室

 小林麻美「お茶会」山口源新人賞。たくさんの食べ物を乗せたテーブルを前にして羊が描かれている。両脇には黒豚がいる。童話の世界を思わせる世界観にリアリティがある。それは細やかで確かな描写力によるもので、その筆力に注目した。

3室

 川村紗耶佳「curtain」。作品内に大きく取られた空間が特徴的である。太陽や月を思わせる円形の金のフォルムが左上や右側に見え、時間の移り変わりを予感させる。そういった中で小さく点景で描かれながらも人物や植物が生き生きとした動きを発信してくる。

 石川真衣「ハンドルが摑めない 2」。一人の少女を中心にして独特の世界を形成している花や犬、明かりなど様々なモチーフを随所に配置し、それらを媒介にしながら鑑賞者のイメージを刺激する作品である。

 山本晶子「憶念」。岩場に立った少女が小さく描かれている。周囲にはこんもりとした他の岩もあり、その向こうは森である。空の雲間からは光がいく筋か差し込んでいる。どこか終末的なイメージを感じさせるところがおもしろい。岩の細やかで荒々しい表情もまた見応えがある。

5室

 中村隆「Still Life(Ill-humored fruits)」。妖しいフォルムの内部が樹木のうろの中のように空洞になっている。切り取られた所から内部が見え、そこは洞窟を思わせる空洞になっている。細かく皺のように描き込まれたそれらの様子がおもしろい。そこに一際小さくしなびた果実のようなものが描かれているのも、生命の終焉をどこか感じさせ、深い余韻を残す。

6室

 佐藤照代「Some bady up there- 2013-1」。

画面に大きく女性の顔を描いている。その姿が強く印象に残る。冷徹というか、強い意志の力を感じさせる。深い紫や水色、朱の色彩を使いながら、際立たせた存在感が鑑賞者を強く惹き付ける。

 鈴木良治「溶けた王」。上方左上に右を向いた鳥のような顔が見える。その見開いた瞳が強い求心力を放っている。そこから矩形の体躯が下方まで描かれているが、そこに風景的要素が入れ込まれているところがおもしろい。樹木の幹のようでもあり、雲のようなフォルムも見える。溶解していくような動きも感じさせる。画家の豊かなイメージによる世界が展開し、物語性とともに迫ってくる。

7室

 河内成幸「遺産不二」。黄金に染まった富士の姿が輝かしい。背後の雲なども富士を中心とした放射状に描かれている。強い存在感、生命のエネルギーが放たれてくるようだ。画面は大小五つに分割されていて、それらが微妙にずらされて組み合わされていて、それもまた河内作品のおもしろさである。細やかな線などでアクセントをつけながら、鑑賞者を画面にぐいぐいと惹き付ける魅力がある。

 小林敬生「白い朝又は早暁―陽はまた昇る(蘇る星) 2013A」。左右上下がシンメトリーとなっていて、その中に一部鯨などがコラージュされている。自然界を浸食する現代社会とそこに生きる動植物が、いわば曼陀羅風に捉えられているところが独特である。細やかな描き込みによってそれらがいきいきと作品世界で存在し、作品を活性化している。

 天野純治「field of water #13025」。赤紫がかった暗色の空間に吸い込まれるようだ。どこか瞑想するような、鑑賞者の深層心理にゆるやかに接触してくるイメージや、しっとりとした触感が印象的である。

 浦江妙子「kioku-2013-07-10 どこにいくのか?」。一枚のシャツをまるでポートレートのように描き出している。モノトーンの中に浮かび上がる人間の臭いが、このシャツに強い存在感を持たせている。作品の背後からそういった気配が漂ってくるところが特に印象的である。

 中山隆右「光譜―空間時間―赤」。鮮やかな赤一色の空間の中に、赤、黄、水色、青と変化していく線がいくつも描かれている。それらがある一定の距離を置きながら配置されている。またそこに重ねられるように曲線や文字も書かれている。それらが作り出す淡々としたリズムが、ある秩序を感じさせる。宇宙の法則とも言ってよいような、神秘性が魅力的である。

8室

 磯見輝夫「The Loop」。掠れるように描かれた中の所々にロープが見え隠れしている。描かれているものは具体的に判別が着かないが、どこか廃棄されたもののような集まりに見える。それらをつなぐロープの存在が、暗に現代社会における人間同士の関係性を浮かび上がらせてくるかのようで興味深い。

 中林忠良「転位 '13―光―Ⅰ」。画面を四分割して構成している。上方では細長い樹木の影のようなものが伸び、それが左右で明暗が反転している。下方では、桜の木がその枝葉を伸ばしている。繊細さと大胆さを組み合わせながら、生命の美しさを讃えているようだ。

 吹田文明「希望・失望」。二枚対の作品。こまやかな線で水面を表現し、そこに一羽の蝶をモチーフに、左右で二つの感情あるいは摂理、現象を描き出しているようだ。落ちていく蝶、昇っていく蝶というシンプルな構成の中に、そういった深い暗示が込められている。シンプルであればある程鑑賞者のイメージは刺激され活性化する。

 小作青史「空中での遭遇」。上空ですれ違う二頭の馬。その馬は幻想世界に生きるような妖しい雰囲気を湛えている。どこか死の雰囲気を感じさせもするところがおもしろい。スピード感を孕んだその作品世界が、鑑賞者を魅了する。

9室

 渡會純价「kizuna―デュエット」。二本の樹木が大きく描かれていて、それぞれに横笛とバイオリンを演奏する少女が重ねられている。またその周囲にも小さな人たちが描かれている。おだやかな心地よいメロディが聞こえてくるようだ。また、頭上に飛ぶ二羽の鳥も平和の象徴を思わせる。鑑賞者を癒すような魅力を持った作品である。

 利渉重雄「暁鐘(ギョウショウ)」。地上高くそびえる城塞が力強く立ち上がってくる。空は暗鬱で、これから起こる戦乱を予感させる。直線と曲線の組み合わせと、それによって生じる明暗が、そういった強い臨場感を引き寄せている。

 乗兼広人「大きな屋根―3(秋)」。画面いっぱいに描かれた民家が強い存在感を孕んでいる。それはどこかそこに住む人や鑑賞者までも包み込むような優しさを兼ね備えている。その温もりといってよいような感情が強い魅力を湛えた作品である。

 多賀新「三巴矢」。三本の矢と弓を持った女性の肖像を朱の線で描き出している。凜としたその表情と佇まいが、どこか神話的なイメージを引き寄せる。弓と矢がクロスする下腹部辺りに視点を集中させているところも印象的な構図である。

 武田あずみ「365日のテーマ」。映画館のように並ぶ席を俯瞰するように描いている。斜め後ろからの視点なのでそこに座っている人々が何をしているのか詳しくは分からないが、だからこそ強い好奇心をそそる。ユニークなイメージの力と構成に注目した。

10室

 辻えりか「古より、時は廻る」。大きな樹木とたくさんの鳥や魚。幻想的な世界観を強い動きの中で作りだしている。それぞれのモチーフの妖しげな描写が印象的である。波打つ大地と右上方へと飛んでいく動きが、画面を強く活性化している。

12室

 尾崎淳子「蘆」。どこか水墨画的な雰囲気を湛えたシンプルな画面が、強い情感を引き寄せている。モノトーンの中に効果的に金を使いながら風景的要素を引き寄せているそのセンスに惹き付けられた。

13室

 菱田俊子「いつか」。ピンクのグラデーションがやわらかく表現されている。気持ちよく見ることができるポップな雰囲気が特に魅力である。

 平木美鶴「SORA」。上下が鋭く尖った楕円形の気球のようなものがいくつも浮かんでいる。そこに雲や円なども合わせてテンポの良いリズムを作り出している。明るい色彩によってポジティヴなイメージを引き寄せた生き生きとした画面に注目した。

 岡田まりゑ「つぶの ヒトツブ─備に」。ベージュ系の色彩を繊細に変化させて画面を描いている。その中で右下に置かれた赤い矩形が作品の中で一つのポイントとなっているようだ。淡々と描きながら、独特の調子によって印象的な画面を作り出しているところがおもしろい。

 松下サトル「星座を巡る5つの話」。格子状のバックに近未来的なイメージモチーフが描かれている。ロボットやロケットなど、童心が刺激される。上方の星座なども合わせてロマンチックなイメージを穏やかに語りかけてくるようだ。

18室

 髙橋文子「憐れみの器 Ⅲ―アモス書より」。家屋に重ねられるように小さく書かれたいくつもの器に雨が貯まっていっている。それはどこか世界中の不幸を嘆く神の涙のようで興味深い。密度のある画面を作り出しながら透明感を失わず、画家の純粋な心を深く感じさせる。

19室

 西村文子「99¢ Hot Dog」。見上げるような構図で描かれた都市の風景である。その大胆な画面構成が強く印象に残る。街の喧噪がこちら側まで聞こえてくるようだ。

第56回新協展

(10月5日〜10月11日/東京都美術館)

文/高山淳・小池伊欧里

1室

 宮﨑曠代「2013 DNA・(iPS)」。画面の上方に巨大なリングがあり、そのリングの下辺と重なるように水平のストライプがある。それに対して垂直に伸びていくフォルムはまるでオベリスクのようだ。そして、円と相似形の円弧がその下方にあり、その向こうは海が広がっている。ゆったりと波が寄せている。はるか向こうに水平線があり、リングに囲まれた空の中に星のような球体が三つほど浮かんでいる。右上方の白いフォルムは昼の月を思わせる。リングの外側は宇宙で、その宇宙の空間はそのまま下方の海の世界へとつながる。海は地球上の生命を育んだもので、海から初めて生物が生まれたという。生命の始原の海がゆったりとたゆたっている。リングやストライプの中には頭蓋骨や手の骨や宇宙の原子核の模型、あるいは石膏像などが置かれている。そして、リングの中はDNAのらせん状のフォルムが幾層にもつながっている。海から生まれた生き物の細胞から今日までの長い連鎖が、DNAの中にすべて記憶として含まれている。未来に向かってオベリスクのようなフォルムが向かう。きわめて図像的な元型的な作品と言ってよい。また、海はだんだんと水平線に行くに従って淡くなり、空の白い色面と接する水平線のあたりには清らかで霊気のようなものが感じられる。宇宙というものの謎の中に地球という星があり、そして過去を引きずりながら人は未来に向かって生きていく。そういったイメージを見事に構成している。(高山淳)

 久保宏司「歓喜(セーヌ川・クルーズ船)」。セーヌ川の遊覧船越しに見たパリの風景のようだ。モダンなガラス張りの遊覧船と、その屋根の上の観光客、石造りの街並み、そして空が層のように重なって対比される。しっかりとしたマチエールで絵具が置かれ、強い日射しの作る陰影の変化が丁寧に付けられている。臨場感のある構図である。(小池伊欧里)

 原三郎「サンチジャーナの教会」。古い集落を俯瞰するように描いている。グレーや茶色が微妙に移ろっていく。点描を効果的に使ってその変化は表現されている。見る角度をずらしながら、どこかほのぼのとした光景が生まれている。グレーズするように光の帯が縦に入っていたり、オレンジ色の雫が散っていたり、一日の様々な光が表れているようだ。(小池伊欧里)

 加地守「風を待つ」。草地の上に立つ少女を下から見上げている。背景は緑の地の上に白や水色の細かいストロークが織布のようなマチエールで入れられ、薄い雲のかかった大空を表現している。その表情豊かな空に浮彫りになるような少女の立ち姿が印象強く残る。(小池伊欧里)

 栗崎武成「コンポジション」。ヴェニスをモチーフにしたものだろうか。昼のヴェニスと夜のヴェニス。左は赤を中心としてオレンジや青の色彩も入れられながら、朗々と朝日に照らされたヴェニスを歌う。一種の音楽性が感じられる。それに対して右のほうには夜のヴェニスがあらわれる。街全体が大きな船の中に取り込まれているようで、海洋の国ヴェニスの過去の栄光がそこにしぜんとあらわれてくるようだ。上方に満月が浮かぶ。右は寒色を中心として、左は暖色を中心としたコンポジションである。それぞれのフォルムが連鎖し組み合わされながら、お互いに呼応して独特の音楽的な構成になっている。(高山淳)

 山崎義雄「輪刻」。コンクリートの塀にすこし亀裂が走っている。その向こうの山河を眺めている女性。手前には若い女性と老人がいて、老人は赤ワインのグラスを持って座っている。空に魚が泳いでいる。そのイメージはそのまま東日本大震災の衝撃、そのレクイエムを思わせる。広がる山の上の空がそのまま海のイメージとつながりながら、日本のふるさとの風土が広がっていく。そういった中に物思いに沈む二人の女性を配し、一人は未来、一人は過去を眺める象徴的存在として妖精のように入れられる。(高山淳)

 坂本正義「じじばばじばば」。フードの老人がまるで異星人や異なる時代の人間のような風体で左右に描かれている。盛り上げたり、多様な凹凸がちりばめられたりし、触覚的にイメージが広がる。二老人にしかわからないコミュニケーションが視覚化されたのだろうか。老婆の背後に大きな老人の顔があって、それは老婆の記憶の中を映しているかのようだ。画面は細い柱によって分割されているが、この境界はそれぞれが異なる世界にあることを暗示する。長年連れ添った二人による無形の交信の姿なのかもしれない。(小池伊欧里)

 大森英樹「青空の記憶・2」。スクラップ寸前のアンドロイドが、忘れられた場所といった雰囲気のバス停で電灯に照らされている。アンドロイドの大きな眼鏡には、青空が映し出されている。かつて、人間だった頃の記憶なのだろうか。全体がリアルな質感を持っていて、遠景に至るまで陰影の中にディテールが強く再現されている。(小池伊欧里)

 大中昇「凜」。青いローブをまとい、中世風衣裳の女が立つ。物語の一場面のような印象だ。遠くに続く砂浜は画面の中央へと向かっていて、上下真っ二つに空と砂浜が分かれる。空の青い色と夕日に染まった赤褐色の砂浜が幻想的である。浜に置かれた巨大な装置の後ろ向きに佇む象のようなシルエットが荒涼とした雰囲気を醸しだしている。(小池伊欧里)

 細貝惣児「紡ぐ」。小紋の着物を着た女性の腰から上が描かれている。帯には一輪の赤い牡丹の花が咲いている。同じ赤い珊瑚のような簪が髪の下に見える。服飾デザインの仕事もしてきた画家は、母親が着ていた着物のイメージがいまも強く残っているそうだ。その意味では、この女性は母親のイメージと重なり、日本の伝統的な生活のなかに培われた美意識と重なる。北国生まれのこの母親を荘厳するように雪のようなフォルムが背後にあらわれている。しっとりとした雰囲気のなかに柔らかに光が当たる。一つの女性の像が画家のつくりだしたイコンのような働きをする。(高山淳)

 星加哲男「あした実がなる、花も咲く」。実が熟したトマトが巨大な蔦となって増殖し固まり、一本の大樹を思わせるキノコ形のフォルムを形成している。中央の複雑な絡みつきを見せる蔦と、上方の赤々としたトマトの実や花が、生命的な力強さを発し、下方の暗く入れられた陰によって全体の重量感が感じられる。今にも大きく花開きそうなエネルギーの内包を感じる。(小池伊欧里)

 斎藤栄一「玉砕の島(夜明け)」損保ジャパン美術財団賞。南方の戦場跡にうち捨てられた戦車をモチーフに描いてきたが、今回はより心象的な印象がある。夜明けの光の中心は戦車の頭に隠されていて、感傷的に響くオレンジ色が穏やかに海上を照らす。人の気配が無く、ボロボロの戦車だけが悲劇の墓標となって島を見守っている。(小池伊欧里)

2室

 福田典高「マイナスイオン」。渓流の流れに迫力があり、苔むした岩場の奥には紅葉した木々が強い光の中に描かれている。輝きながら落ちてくる水流や、飛沫と波状のうねりが豊かな動きを持っている。心地よい冷気を感じる。(小池伊欧里)

 田口幸子「河のほとり」。背景には、スーラの「グランド・ジャット島の日曜日の午後」の世界がシルエット的に再構築され、手前に三人の和装の女性が描かれている。背景との間に置かれた山の形が着物の模様から派生するように入れられている。上下の対比がシュールだが、色が馴染んでいることによって不思議な親和性を導き出している。(小池伊欧里)

3室

 田平その「'13―某日 Ⅱ」。椅子の背に右手をかけ、足を組んだ女性。手前には観葉植物がある。ブルーグレーとでもいった色で地塗りし、そこに黄土系の色彩を重ねて独得の風合いを出している。全体が月光を鈍く反射しているような色彩で、そこに人物や植物が溶け込んでいく。ユニークな構図である。(小池伊欧里)

 舩山マヤ「時の位相・2013(B)」。上方にA4、A5、A6という文字が見えるが、福島原発をイメージするようだ。巨大なドラム缶から汚染水が海に流れている。そういったものを背景として、上方を眺めながら祈っているような一人の女性の像。今回の津波のあとの処理、とくに福島原発の処理は終わっていない。そういったことを心の中に深く取り入れて、その事態の改善を祈っているイメージが表れている。それをこの画家らしい独特のロマンティックな雰囲気のなかに表現する。(高山淳)

 伊藤善文「カレル橋より望む」委員推挙。川べりから上へ上へと伸びていくように建物が構成されている。建物ひとつひとつが的確に捉えられた描写である。実際は平坦な風景を、敢えて丘の上に積み上げていくように創作しているような印象も受ける。ベージュ系の壁、赤い屋根、緑地がリフレインされボリュームが与えられているが、まとまりのあるコンポジションである。頂上の尖塔を持った教会が、天空に浮かぶようだ。水面のさざめきや樹影の揺らめきが画面に緩やかな風を運んでいる。(小池伊欧里)

4室

 太田昭「漁港影富士」。静岡にアトリエを構える画家にとっては身近な富士山だが、今年はまた特別な思いがあるだろう。黒地に色を乗せていて、富士の麓から伸びる桟橋を中心に、蒔絵の繰り返す模様のように鳥、船、木々のフォルムが入れられている。それはスタッカートを刻むように展開されている。装飾的な描画と対照されて漆黒の富士がより霊的な雰囲気で立ち上がっている。(小池伊欧里)

 飛田一喜「summer─2013」公園の一角、植物に囲まれた建物をイメージさせる。緑系の色面と青系の色面が調和し、木陰や植物による影が織り成す、涼やかな夏の風景が表れている。あえて平面的に色を置きながらも、近景から遠景に向かう奥行きが感じられる。(小池伊欧里)

 飯塚詠一郎「雲流」。空に雲が流れている。あやしい雰囲気で表現されている。あいだに青い、空を思わせる空間がのぞく。雲の向こうには無限の空間がある。雲は光に照らされて、一部白く輝いている。すごい速さで動いているような雲。それはまた一転して川の中を流れる水のようなイメージと重なる。そして、流れてやまないこの存在は時間というものの象徴のようだ。そういったイメージを敬虔に画家は捉える。茫漠たる空間に時間が過ぎていく。時の流れをこのような不思議なコンポジションの中にうたう。(高山淳)

 長澤美幸「Mの象憬」。グレーを基調とした画面の中、山とその影を映す湖面のような風景が描かれている。黒と白のくっきりした直線的ストロークによって力強い存在感が表れ、上方に矩形が二つ浮いているのが面白いリズムを生む。ところどころ茶系の色を覗かせながら動きが出されていたり、また多様なマチエールが魅力である。(小池伊欧里)

5室

 合田幸代「赤ねんね」。三人の子供が描かれているが、同じ一人の子供を、大きさも変えポーズも変えながら構成したように思われる。砂丘のようなものが背後にあって、地面が手前に続いているところに様々な自動車や馬や恐竜や象などのおもちゃが散乱している。赤い衣装をもって白いパジャマのような服を着たこの少年。はるか向こうに海がのぞき、二つの気球が飛ぶ。画家独特のクリアなフォルムが魅力である。その曲線を中心としたフォルムがお互いに連結し、独特のメロディが流れる。子供の心を育み、子供の成長を願うようなメロディが温かく画面から聞こえてくる。(高山淳)

7室

 掛田敬三「ある記憶の形」。百人を超す群衆が描かれている。老若男女様々である。そして、群衆の中に赤い柱が何本も立ち上り、そのあいだに横に八角柱のようなものが置かれている。たくさんの群衆は難民のような雰囲気もある。あるいは、何かの事故によってせき止められた群衆たち。そんな群衆たちをいい方向に導くようなイメージ。赤い柱は鳥居のようなイメージもあるし、古事記に出てくる心柱のようなイメージもあらわれている。日本のメルトダウンしたような状況に心柱を打ち込みたいといった気持ちが、このようなコンポジションをつくったのだろうか。いずれにしても、群衆のそれぞれの表情や動作を描き分けて、強い存在感を放つ。(高山淳)

8室

 壷内健晶「広場の記憶」。中世の面影を残す街並みで、噴水を中心にした螺旋状の構成である。中心部分はペンによる細かいハッチングで、くっきりと建物のフォルムを描き、周りの遠景は鉛筆とグレーの水彩でもやがかったような表現で描かれている。そのコントラストによって、記憶の中でフォーカスされたような風景となって表れている。(小池伊欧里)

 多田耕二「ループ橋」。立体歩道橋の延長なのだろうか。高速道路と見間違うような巨大な二つの円環が、見上げる角度から描かれている。逆Y字形の二つの脚をもった柱が連結され、後ろ側から見るこの構築物が強い存在感を放つ。グレーの空にすこし色相を変えたグレーのループ状の構造には不思議な力が感じられる。そこに斜光線が差し込んで、構造物に明暗を与える。しっとりとした雰囲気のなかの独特の情緒がこの幾何形態に表現される。夕暮れ方のようなイメージもあって、街というもののもつイメージをこの構築物に捉え、やがてここを離れて帰郷するといった、そんな時間の推移さえも感じられる。いずれにしても、画面の中に描かれているのは、二つの円環とその向こうに伸びていくフォルムが斜光線の中にあらわれてくる姿であり、哀愁さえも感じさせるような情感がこの強い構築物からあらわれているところが興味深い。(高山淳)

13室

 石井淑「WORK Line1」東京都知事賞。滝が上方から注いでいるようにも、水が下から上に昇っているようにも見える不思議な感覚である。褐色がベースにあるが、白からグレー、水色、青と変化しながら重層的な画面を作り出している。混濁したものを浄化しながら新しい地を形成していくようなイメージがある。(小池伊欧里)

第44回国画展

(10月12日〜10月19日/東京都美術館)

文/小池伊欧里

1室

 津田一典「城山の朝日」。紙の凹凸を効果的に使い、また多くの筆致を使いながら山道から望む山際を描いている。小高い山の頂に生えた木々の枝を透過するように金泥で朝日が入れられ、それが空の薄い赤へと滲み出ていくようだ。素朴ながら神聖なおもむきが感じられる。

 古城和明「萌し」。地平の向こうは混沌とした空のようでも連なる山々のようでもある。中央に忽然と現れた虹が墨を切り裂く。茫漠たる世界を切り開き天上に向かって伸びる虹は好事を予感させる。墨を複雑に重ねつつも強弱を生み出し、滲みを強調しながら独得の風景をたぐり寄せている。

 金子紀久雄「残月・光不二」。力強い筆運びで富士山とその上部にかかる雲を描いている。金で描かれた月が、あえて半分以上雲に隠されているが、それでも月の輝きが印象深く残る。金色の月光が雲を侵食していき、富士の裏側にも光の範囲を拡げつつある。雲の動的な動きも相俟って、雲が作るベールの強弱によって光を変化させながら沈み行く月と、不動の富士山との異なる時間体系が織り成す風景の妙が表れている。

2室

 入澤禎子「秋のけはい」。逆光によるシルエットのように木立が連続している。奥に向かって三角形に眺望が広がり、紅葉し始めた緑が覗く。手前を墨で描き、奥を彩色して描くことで、奥行きのある空間と木漏れ日の白む効果がより豊かに演出されている。

3室

 石川大助「夜目」。黒々とした山と輝く月が対置されている。全体を上手く滲ませていくように墨を置きながら、靄の中の月光の広がりが幽玄の世界のように描き出されている。

5室

 木村泰子「瀧物語」魏山人賞。炎のように激しい滝の流れがはっきりとしたコントラストによって描かれている。硬質な岩と激しい水流とがぶつかり合う中で、それぞれの物質的な存在感が宿っていくような力強さがある。

第8回21美術展

(10月12日〜10月19日/東京都美術館)

文/磯部靖

1室

 田沼汪次郎「夜のカフエテラス」。オープンカフェをバックに一人の男が楽器を演奏している。緑あるいは青みがかった夜の中で、賑わうカフェと男の対比が、より一層孤独感を感じさせる。しかしそれとは反するように、男の様子はどこかユーモラスで、その対比が興味深い。シャープな線で淡々と描きながら、作品に深い情感を引き寄せている。

 野村順子「希望・前進・明日へ(スペイン)」。三組の男女がペアになってダンスを踊っている。それぞれが衣装の裾をはためかせて回転するような動きを見せ、それが重なり合うことで画面全体が生き生きとした動勢を孕んでいる。赤、黄、緑といった鮮やかな色彩もまた魅力で、ポジティヴなイメージを運んでくる。人々は皆明るく楽しそうであり、人生とは楽しむことだという希望といってよいような強いメッセージを鑑賞者に向けて発信してくる。そういった発信力もまたこの作品の大きな魅力の一つである。

 町田聖省「秋の高層湿原」。手前に背の高い草が生えていて、その向こうは広い草原になって続いて行っている。そのナチュラルな筆の運びと色彩感覚がよいと思う。それが自然の中にある空気感を引き寄せ、見ていて気持ちよい作品として成り立っている。

第30回記念近代水墨展

(10月12日〜10月20日/東京都美術館)

文/小池伊欧里

1室

 西田洋子「古事記(1)」。天岩戸に籠もった天照大神の気を惹くために桶の上で踊るアメノウズメのようだ。片足で立ち、軽妙に舞う姿からは、地を踏む力と跳ね上がる力が伝わってくる。巧みなカーヴと強弱による線によってしっかりと描いている。

 清水昭子「里山雪景」。上から画面の真ん中までが山の端で、そのボリュームに圧迫されるような強さがある。そこから少し雪原が現れ、手前に裸木や枯れ草が入れられている。三層の雪景が互いを引き立てながら、人を寄せ付けないような厳しさを持った自然の姿を表す。遠くから眺めると吸い寄せられ近づくと突き放されるような不思議な画面である。

 福田順子「夜桜」。墨による暗がりの中、淡いピンク色の桜がじわりと発光するように広がっている。魚眼レンズで見たように斜めに幹が伸び、水面にうっすらと光を落としている。花弁のひとつひとつが細かく描かれていて、マッスで捉えている部分も活かしながら儚さと絢爛さの同居した詩情を表現している。

5室

 竹本康子「時を忘れて」。立ったままスケッチをしている夫婦だろうか。二人に自然とフォーカスするように、ぼかしたような木の葉の表現などが、モチーフを見上げながら自分の世界に没頭する二人を強調する。その真剣な表情と佇まいがよく表れている。

 鈴木法子「錦秋」。傾いた日に照らされて黄やオレンジに染まる秋草。日の当たる穂の部分だけ着彩されて、秋の輝きが強調されているところから奥行きも生まれている。踊るように描かれた手前のススキと、隊列を成してフェードアウトしていくような背景との対比も面白い。

第57回日本表現派展

(10月13日〜10月19日/東京都美術館)

文/高山淳・磯部靖

1室

 石井松琴「印象 ケルン大聖堂」努力賞。上方へと伸びる尖塔の、そのシャープで力強い動きが強く印象に残る。そこに重なるように白い花がいくつも右上から斜めに入れられている。また尖塔の背後には、淡いグレーで雲が左上から右下に伸びてきている。花と雲が交差するあたりが二つの大きな尖塔のちょうど間であり、そこに鑑賞者の視点がしぜんと集中する。そして下方に向かって建物の細やかな描写へと移っていく。その一連の視点を導くような画面構成が特に見どころである。堅牢な部分や淡く優しい部分などで作品に抑揚を付けながら、聖なる建物の荘厳な姿をしっかりと描き出している。(磯部靖)

 陣内里美「花供養」。花供養は別名花祭と呼び、四月八日、お釈迦さまの誕生日のことをいう。後ろ向きと前向きの二人の花魁。揉紙の中に背景が独特の奥行を示す。そこにあでやかな二人の花魁が帯を前にして立っている。仏の力は生命力やエロスを感じさせる花魁たちもまた救うだろう。後ろ向きの花魁の様子にはなにか悲しみのような表情も感じられる。そして、花が降ってくる。背後の黄土系の色彩のすこし錆びた黄金色を思わせる調子の中に、揉紙でつけられたマチエール。伝統的な花祭の中の風俗を描きながら、生の輝きのなかに死のイメージも引き寄せながらお釈迦さまを鑽仰する。淡々としたその表現の中に深い味わいが感じられる。(高山淳)

 岡川孔「湖北の山」。眼前に立ち上がってくる山の姿に吸い込まれるようだ。図版では分かりにくいが、深い暗色で染められた山の姿の中には、わずかな赤や青によって稜線が描かれているところも印象的である。何層も重ねられた画面が深い心理的な奥行きをも作りだし、鑑賞者を包み込むような雄大さを感じさせる。永遠とも思える程長い時間をかけて隆起した山の持つ時間や存在感が確かに作品の中に表現されている。(磯部靖)

 横山近子「そして、誰もいなくなった、」。廃墟のような都市の風景がわずかに浮かび上がってくるようなイメージである。上方には鉄条網も見え、下方には弾痕がいくつも空けられている。激しいテーマでありながら、画面は静かでやわらかい。戦禍に巻き込まれてここで生活する人々さえいなくなった、寂しい情景である。しかしそこにはかつて暮らしていた人々の生活の残り香のようなものも感じられる。それさえも時間が経てば消えていくのだろう。そういった儚く風化していくものへの想いが、静かに語りかけられてくるようだ。(磯部靖)

 青木美弥子「美しき気配」。巨大な石柱或いは樹木を思わせるフォルムがいくつも並んでいる。それらは落ち着いた黄金を思わせる色彩が施された背景を背に描かれている。そのどこか抽象性を帯びた画面が、鑑賞者とのイメージの交感を活性化させる。そして中央下方にはぽっかりと明るい空間が空けられている。その空間が強く印象に残る。奥の向こう側にはもう一つの世界があるような広がりを感じさせもするところもおもしろい。時間や空間、または人間の心の風景というような、概念的なものを表現した形の一つのように思う。そこにあるのは純粋な表現だけであり、それが美というものに繫がってくる。そういった画家の中にあるイメージがこのように現れて来たところが実に興味深い。(磯部靖)

2室

 米山郁生「地の厳霊」。横長の三枚のパネルによってなっている。下方から上方に向かう稲光のような銀色のフォルムが強い動きとヴィジョンを示す。いちばん上のパネルと真ん中のパネルとのあいだにわたって黒い円形のフォルムが描かれている。黒い太陽のようだ。あるいは、そこに様々な死霊が集まってうごめいているようなイメージもある。上方の部分でその円形は消えて、あと四分の一の円形は外側に暗示される。そこには深い悲しみのようなイメージもあって、そこだけ額も取り払われている。中心にはブロックが浮き、上方にも散乱するブロックのようなものが浮いている。下方には上方に立ち上がる高層ビルのようなフォルムが何体か見える。最も下層には板を黒く染めたものなどがコラージュされていて、薄い紗のような、紙のようなものも貼られている。崩壊したものである。板の上に和紙などを貼っているが、その板を彫って、そこに銀色を置いて、下方から上方に立ち上がっていく不思議な稲光のようなフォルムがある。左から立ち上っていく稲光はビルの向こうからあらわれて、三番目の画面の上辺を突き抜けている。3・11の東日本大震災から二年以上過ぎて、ようやくそのレクイエムをこのようなかたちで画家は表現した。同じようなテーマを扱って昨年の作品はとよめくように激しい臨場感にあふれたものであったが、この作品ではその魂を静かに鎮めようとするかのようだ。その魂が集合しながら、稲光のように上方に向かっていくというイメージもあるし、画家の祈りの心がそのようなかたちをとって画面を覆って進んでいくということも言えるだろう。香月泰男の作品を思い起こすところがある。香月はシベリアに四年以上抑留されて、帰ってきて黒の厚いマチエールで戦争体験の絵を描いた。香月の言葉に、深夜に竹竿を振る、竹竿を振って、その空間の中に手応えがあると絵を描き始める、と。今回の津波の悲惨な災害の内部に想像力を置いて、深夜に竹竿を振ってこの稲光を描いたような味わいが感じられる。中心にブロックのようなものが浮いているのは棺桶のようにも感じられる。たくさんの死者の魂を癒す。魂が点々と画面いっぱい覆いながら、集合して、前述したように稲光にもなり、その稲光はまた画家の祈りと重なる。それはまた闇の中を根のようになってじわじわと進んでいくといった、ある抵抗感のある強い想念の姿のようにも感じられる。(高山淳)

 山田文行「三嶋大社 花の舞」。細やかな花々に囲まれた画面が美しい。下方の鳥居から中央の社への縦の動きと、花の円を描く動きが強い求心力を作りだしている。そこに舞を舞う人々や、左上の富士、社全体の風景など、様々な要素を加えて行っている。凝縮された濃密な画面にも関わらず、ゆったりとした感覚もあるところが見どころだと思う。画面全体の賑やかで楽しい雰囲気もまた鑑賞者を強く惹き付ける。(磯部靖)

 今岡紫雲英「輪廻転生」。縦長の画面を何回も円弧がぐるぐると回転していく。その円弧に沿って朝市の女性たちの姿が描かれている。数えると六人の女性たちが座っている。その中心は白くあけられて、そこにアンコウやカニなどが描かれている。アンコウのひらべったい独特のフォルムがユーモラスな雰囲気を呼ぶ。そして、周りに旋回する様子は実は波の動きのようでもあって、波しぶきが散っているようだ。海というもののもつ底知れない豊かさと深さ。彼女たちは海から獲れたもので生計を立てているが、その海からの収穫物が中心にあり、女たちは座っている。下方にはカワハギ、ノドグロという文字さえも見えて、その魚が箱の中に置かれている様子が淡墨で表現されている。「輪廻転生」という題名であるが、海というもののもつその豊かさ、地球ができてしばらくして出来た海というもののもつ不思議な味わい、そして海が育てた生き物、やがてその海から現れた生き物が進化の過程のなかで現代の生物になる。そういった進化の体系のようなものもこの絵の背後にあるようだ。決して動きを止めない波が時間というもののもつダイナミズムを表すようだ。そこに黒々とした線によって女性たちのフォルムが描かれ、白と黒、あいだのグラデーションの墨色の中間色などが相まって、深い輝くような色彩を表す。(高山淳)

3室

 前川聖牛「絆」。五羽の鶴の伸びやかな様子が生き生きと描き出されている。その内、左から二番目の鶴の首が金に染まっている。本来鶴の幼鳥の首は褐色であるが、それが、画面全体を照らす陽の光に呼応するように金色に輝いているところが印象深い。左の三羽と右の二羽が諍いを起こしているのだろうか。この幼鳥を守ろうとする親とその子供との絆が、クリアなフォルムの線と色彩によって強く浮かび上がり、鑑賞者に発信されてくる。(磯部靖)

 稲熊万栄「児らの声、風の中に」。二つの画面を上下に少しずらして構成している。左側では生け簀で魚を捕る少年たち、右側では竹筒から流れ出る湧き水を飲む少年などが描かれている。また、左上方の余白には草原を歩く人々、右下では海で泳ぐ人々が小さく描かれている。いずれも夏の風景であり、画家が自らの少年時代を想い起こして描き起こしたものだろう。時代背景こそ変われど、誰もが心のどこかに残す滲むような幼い頃の夏の記憶が、自身の体験から来る表現だからこそ強いイメージによって刺激される。やわらかな筆の扱いのその一筆一筆に強い想い入れが込められて、魅力的な作品として成り立っている。(磯部靖)

 阿部清「水鏡」新人賞。じっくりと描き込まれた密度の高い画面である。川の水面に映る周囲の情景がキラキラと輝くようだ。秋の気配を感じさせる艶やかな色彩の扱いもまた魅力で、寒色から暖色をうまく組み合わせて描き出しているところも見どころである。(磯部靖)

 滝沢文子「荒野」。二対の画面にそれぞれ老婆が描かれている。荒々しくも誠実に描き込まれた画面に好感を持つ。左側では立ち、右側では座り、お互いに向かい合っているようである。一人の老婆の時間軸をずらした表現かもしれない。誰かをまっているのだろうか。右から左へと吹く風がじつに切ない感情を運んでくる。(磯部靖)

4室

 宮本美幸「桂林」。画面の左側に立つ裸木に一羽の鷹がとまっている。その鷹は広がる広大な風景を眺めている。石灰岩で形成された独特の切り立った山々が並ぶこの情景が、雲海に纏われながらもその姿を見せている。鷹と画家自身、そして鑑賞者が重なり合いながら視点を共有し、そのパノラマ的な情景も相俟って、確かな臨場感を獲得している。(磯部靖)

 杉田博「氷壁・紅葉」。手前の紅葉した雑木林と奥の白く雪に染まった山が強いコントラストを作りだしている。そこに雪がはらはらと舞い、その二つの風景を一つにまとめ、繫げているようだ。じっくりと描き込まれた中に、強い情感が込められ、肌に迫るような寒さまでも引き寄せている。(磯部靖)

 吉田清隆「廃墟」。廃工場の内部を描いているが、その構図がおもしろい。手前には鉄筋が剝き出しになった穴があり、その向こうには大きな機材が置いてある。何度も重ねては削って作られたマチエールが、赤茶けた色彩を作りだし、そこに過ぎてきた時間という概念を引き寄せている。シャープな線の繰り返しの中に、そういった深いイメージが刻まれている。(磯部靖)

5室

 岩城大介「行く」。人気のない野原の情景がイメージされる。余分なものを削ぎ落とすように単純化された画面が、強い情感を引き寄せる。二羽のカラスが飛び、左側には太陽あるいは月を思わせる円が浮かぶ。ところどころに紙などをコラージュしてアクセントを付けている。一日の時間の流れを一つの画面の中に描き出したような、ゆるやかに過ぎていく時間の流れを感じさせるところがおもしろい。極めて日本的な自然との対話の中で生まれたような、この画家らしいイメージと表現が特に魅力である。(磯部靖)

 永名二委「湧霧」。画面の左手前あるいは奥に連なる山の嶺が見え、左下方からは霧が寄せてきている。そのゆっくりと少しずつ変化していく鬩ぎ合いが強い印象を残す。余白となった霧の部分が大きく取られているが、その微妙な間の取り方が実に繊細である。また、わずかに覗く山々の表情も繊細に描き出されている。大胆に画面を構成しながら、そこに大自然の雄大さをまざまざと感じさせる印象深さがある。(磯部靖)

 三宅玲子「惜春」。海沿いの集落の風景を少し小高い場所から眺めた風景である。家屋の屋根や左上から伸びる樹木の枝などがじっくりと誠実に描き込まれている。確かな描写力を感じさせる作品である。(磯部靖)

7室

 稲葉一枝「野にうら淋し轡虫(中 勘助)」。戦争の跡を思わせる寂しい情景に惹き付けられる。ヘルメットや銃などがうち捨てられていて、そこに死のにおいを感じさせる。それと同時に自然の持つ生命力もある。その生と死のイメージが、大きく描かれた満月に照らされながら、立ち上がってくる。作品内に漂うそういった気配が強く印象に残る。(磯部靖)

 吉村周子「Dream Line 追憶」。空は赤く染まり、大地はオレンジ色で、そこに白い川が湾曲しながら流れている。その岸辺にウェディングドレスを着た女性が身を屈めてすこし歩みつつあるかのような動きを見せる。その先に一匹の犬がいる。それを眺めている後方の人々。新郎は黒い服を着て静かに立っている。結婚式という女性の憧れるイメージが追想のなかに表現されている。新郎からすこし離れて、この女性はある強いイメージのなかにあって一人である。相手は新郎ではなくて犬といったところが面白い。その前に流れている水は追想の時間の流れのように感じられる。茫漠たる空間の中、深い追想のなかに画家は入っていく。あるイノセントな女性のイメージを描くことによって、自分自身を解放するかのような不思議な味わいが感じられる。(高山淳)

 小松欽「氷瀑 Ⅱ」。圧倒的な量感が表れている。滝が一度下りてきて、その曲面を通りながら下方にもう一度下りてくるあたりが凍っているようだ。葦ペンで描いたものであるが、不思議な静寂感がある。動いているものがそのまま止まってしまった情景。すこしは水も流れているのだろうが、その全体と対峙して何かあやしいものがあらわれている。空間のもつ力であると同時に、時間というものの謎の中に画家は入っていく。(高山淳)

 中野大輔「花月夜」。枝垂れ桜が画面全体を覆っている。茶褐色の幹から枝、そして梢にわたるそのフォルムと、すこしピンクを帯びた白い花が無数にそこについている様子。まるで花が滝のように流れてきているようなイメージもある。そして、左上方に二十日ばかりの月が顔をのぞかせている。宗達や光悦のように月を身近に引き寄せて、まるで花の向こうから月が身を起こしてあらわれてきているようなイメージが感じられる。メロディともいうべきものが花という実体とともに描かれているところが、とくにこの作品のよさだと感じる。量感があるようで量感がなく、フォルムがあるようでフォルムがなく、桜全体を一挙につかもうとするかのような強いヴィジョンが感じられる。これまでの作者の作品の中で何か一つ突き抜けたような進境の様子である。(高山淳)

 佐々木千恵子「山の辺の道」奨励賞。林道が手前から奥へと起伏しながら続いていく。上方からわずかに差す木漏れ日が繊細に描き込まれている。左手前には赤い椿の花が咲いている。緑と茶の色彩でまとめられた中で、その赤が強いポイントとなって画面を活性化しているようだ。見応えのある作品である。(磯部靖)

第65回記念中美展

(10月13日〜10月19日/東京都美術館)

文/磯部靖

1室

 森信雄「外房大原展望」。右手前に大きく山の影が見える。その向こうには街並みが広がっていて、さらに遠景にはまた山並みが見える。その手前から奥へと視点が違和感なく自然と移動できるところがよいと思う。また屋根の瓦などが丁寧にしっかりと描き込まれているが、その繊細さと手前の山影の大胆さが強いコントラストを作り出してもいる。長く木版作品を制作し続けている画家の洗練された技術と表現力に感心する。

 對馬文夫「原生林(佐渡)」第65回記念賞。かなり年月を経た古木を画面に大きく描いている。手前の樹木には葉が無く、枯れているのかも知れない。右背後の樹木はそうではなく、葉が生い茂っている。そこに緩やかな生と死の対比が見られるようで興味深い。じっくりと作品に向き合いながら、安定した画面を描き出しているところにも注目する。

 神宮司雅章「刻の記憶」。シルエットになった手前下方の家並みとその向こうに広がる水面。水面はキラキラと輝き、強いコントラストを作りだしている。手触りのある厚いマチエールの中に確かな情感を引き寄せている。大胆な画面構成の中に、そういった強いイメージの力が作用して、独特の心象風景として成り立っている。

 石原脩鵬「時計屋」。黄金を思わせる色彩を背景に、一件の家屋が大きく描かれている。家屋の右側は店になっているようだ。その建物の姿に強い生命力を感じる。それはここで暮らす人々の生活の匂いであったり、長い年月を過ぎた建物自体の存在感でもあるだろう。その存在そのものにスポットを当てて描き出しているところが強く印象に残った。

 羽子岡爾朗「いま……/そして私たち」中央美術協会賞・委員推挙。二つの画面を連結して作品を構成している。左側には背を向けて座った老婆、右側には若い二人の女性。そして中央には二人の赤ん坊が線で描かれている。歳をとるにつれて孤独になっていくその寂しげな老婆の姿が、他の若者や赤ん坊と対比されているようで興味深い。この画家特有の朱の色彩が、その対比をじわじわと浮かび上がらせる。それぞれの人物のフォルムもおもしろく、味わいのある作品でもある。

2室

 後藤ムツオ「プルシャン・ブルー」。強い抽象性を感じさせる風景作品である。これまで故郷である北海道の風景を描いた作品が多く出品されてきたが、今作品もまたその北海道の風景的要素が強く感じられる。透明な空気感や澄んだ空、雪、海。それらが画家のイメージの中で一定の色彩となって画面に現れてくる。それを純化することによって生まれた作品である。純化されたイメージは鑑賞者のそれに直接語りかけてくるような魅力を湛えている。

 西川敬一「天恵湧水考」。暗色の部分と明るい部分が鬩ぎ合いながら共存している。水たまりを俯瞰したような構成のようでもあり、深い宇宙の深淵を思わせる様な画面が強い魅力を放っている。ふとした身近な情景の中に真理に繫がる部分がある。それを敏感に感じ取った画家によって、このような心理的な奥行きを持つ作品として立ち上がってくるところが特に興味深い。

 堀岡正子「刻」。灰白色の色彩を中心にした画面の中に風が吹く。それは時を越えるように、或いは空間を越えるように吹く風である。作家は全てのものが変化し続ける無常の世界を深いイメージによって繰り返し表現してきた。今回は特に濃密な画面が印象的である。二本の樹木とその向こうの風景が浮かび上がりながら消えていくような感覚を得る。力強さや繊細さ、そして儚さといった感情が見え隠れしながら、鑑賞者を作品世界へと誘い込むようだ。

 黒羽根義浩「中世の村」。遠景の台地になった所に城塞都市が見える。鬱蒼と茂った下方の森の中から立ち上がるその都市は、どこか寂しげな様子を湛えている。淡々と、しかし確かな描写力によって描き起こされた作品の中で、深い情感が生まれている。時を超えたような、不思議な存在感が印象的である。

 竹内セイ子「とくべつな日」。大きく口を開けた赤や朱の魚がたくさん描かれている。その下方では子供たちが楽しく遊んでいる。人間ではない、動物が擬人化した子供たちもいる。その生き生きとした様子が実に楽しい。現実ではあり得ないことが、画家の深い想いとイメージの力によって、独特のリアリティと存在感を引き寄せている。無垢なもののもつ純粋な喜びといっていいだろうか、鑑賞者は素直にそれに身を任せて作品世界へと入り込み、楽しむことができる。

 竹井連「旱天」。小さな生きものたちが画面の中でひしめき合っている。オタマジャクシのようにも見えるがそうではない。そこに一つの竜巻が起こっていて、生きものたちは空へと巻き上げられて行っている。自然の持つ大きな力には如何とも抵抗できないその様が、現代社会に起こる天災を連想させるところが興味深い。独特の創造性に注目する。

3室

 奥田豊廣「日暮の駅前ビル」。青の色彩で統一された画面が強く印象に残る。青を繊細に扱いながら浮かび上がらせるように描かれた大きなビルの下方の道路では人々が行き交っている。そのしっとりとした情感がどこか心地よい。日暮れの少しずつ変化していく街の情景やその雰囲気を表現する独特のセンスに注目した。

 高原千惠子「雨上り」。赤や紫の花が咲く樹木が道の両脇に立ち並んでいる。道は雨に濡れている。雨が上がった後のむっとするような匂いがこちらまで漂って来るような、確かな雰囲気をしっかりと捉え表現しているところが特によいと思う。

 川上比佐子「レクイエム」郡山賞。大きく描かれた満月とその下方で波打つ海が静かに響き合っている。特に海は激しい動きであるにもかかわらず、どこかやわらかな雰囲気を持つところが印象深い。それは語りかけるような雰囲気である。波間にいくつも見える小さな丸い飛沫が魂のようでもあり、天に昇った魂に向けての想いなのかも知れない。暗色の世界の中で輝く銀色が静謐な気配をも湛えている。深く余韻の残る作品である。

 橋本勝「爛漫」。様々な花が画面いっぱいに咲き乱れている。黄や赤、朱といった色彩によって描かれたそれらは、穏やかに、しかし強い発信力を持って眼前に迫ってくる。よく見ると、花の一部は歯車になっている。これまで器材をモチーフにして描いてきたこの画家らしい表現である。無機的なものと有機的なものを組み合わせ、そこに美というものへの深い興味あるいは洞察が感じられる。そういったものへの純粋な探求心もまたこのような作品を描かせたものの一つのように思えて興味深い。

6室

 深澤香世加「願いのつばさ」。一人の少女が画面の右下に描かれていて、その上方では三羽の鳥が飛んでいる。そしてシャボン玉のような球体が四つ浮かんでいる。背後には波打つような線が数本描かれていて、それらが穏やかな明るい色彩で彩色されている。独特の浮遊感の中に、心温まるようなイメージが感じられる。幸せというものの一つの表現として、強く印象に残った。

 橋本豊子「HOKO-TEN」。スクランブルの交差点にたくさんの人々が描かれている。その一人ひとりの様子が細やかに描写されていておもしろい。その中で左上方に武士とそのお付きの者の姿が見える。時代を超えてやってきた彼らがこの都会の風景を見てどう思うか。そういったシニカルなメッセージ性も合わせて、見応えのある作品となっている。

 北山由美子「雨上ガル」準会員推挙。湖畔の風景だろうか、深い色彩の中に強い情感が込められている。水面はオレンジがかったように陽の光を反射している。何でもない風景をしぜんに作品の中で描き出す筆力に注目した。

7室

 大塚晶子「明日は(1)」。シルエットになった細い樹木のようなフォルムがいくつも見える。そのシルエットは深い暗色である。右上方に夕陽が落ちて行っている。背景はオレンジから黄の色彩である。そして画面の左側にもう一つ大きな金色に輝く円弧が見える。それは夕陽の輝きの強調のようでもあり、希望の様なイメージを感じさせる。日が暮れて、明日また新しい一日が始まるのは誰にとっても平等である。そこに希望を見出すのかどうか、その大切さを画家はメッセージしているようだ。これまでも作風を変化させてきたが、今回は特に画家の深い想い入れが独特の抽象性を孕んだ作品となって生まれたように思い、強く印象に残った。

8室

 酒井洋子「創」。下方に茶がかった色面があり、上方は灰白色である。そして所々に赤や水色といった色彩が入れられている。混沌の中から何かが生まれてくるような、そんな気配が感じられる。また、どこか風景的要素が感じられるところもおもしろい。それは都市の再生といったイメージに繫がる。人間の営みから生まれた都市の再生が、そのまま人間の再生に繫がるようなイメージを感じさせるところが実に興味深い。

 今すみ子「渓谷」。大きな滝が流れ落ちている。その強い動きが鑑賞者を惹き付ける。周囲の岩は赤みがかっていて、水は黄みがかっている。独特の色彩の扱いがこの作品を印象深いものにしている。どこか余韻の残る作品である。

 仲村佳代子「SQUARE 2013 KIZUNA」。明るい黄緑の色彩をバックにしながら、そこに小さく黄や青の矩形を繫げて波打つような動きを作りだしている。強い音楽的なリズムが感じられる。低音から高音までを多重的に組み合わせて奏でられるそのメロディが鑑賞者の耳に心地よく響いてくるようだ。

 川喜多和子「ミステリー」。落ち着いた青の色彩が特に魅力的である。そこに赤あるいは黄、緑の色彩を加えて画面を構成している。そしてそこに輝くような灰白色を入れている。そのそれぞれの色彩が鬩ぎ合いながら複雑な感情を作りだしているようだ。それに加えて風景的な要素もあるのが興味深い。画面全体で一つのストーリーを語るような気配が特に印象に残る。

 石田克「ブラック  カツ」。画面に大きな顔が描かれている。それは人間のようでもあり、猿のようでもある。人間の持つ表面的な顔の中には、本来の動物としての根源的な顔がある。それを思わせるような強い発信力を孕んでいる。大胆な筆の動きで描かれたその顔は、喜怒哀楽を全て含んだような深みがある。画家が自分の心と正直に向き合って、その姿をそのまま描き出したような不思議なリアリティが、鑑賞者に人間とは何かという問いを投げかけてくる。

9室

 西川知子「nature─生」会員賞。青の色彩を基調色にして、樹木を白で描いている。樹木には黄や赤などの色彩で葉や花、実が描かれているようだ。その伸び伸びとした筆の運びや色彩感覚が魅力的である。生の喜びを謳歌するような音楽的リズム感もまた、気持ちのよい画面を構成する要素となったセンスの良い作品として注目した。

 平沼邦子「WORK」。渓谷の中を縫うように流れる河を思わせる様な画面である。長く抽象作品を出品しているが、今回はよりクリアに画面が描き出されているようだ。岩のようなグレーの色彩の部分は特に描き込まれていて、強い見応えを感じさせる。力強い意志の力が発信されてくるような魅力がある。

10室

 中島亜弥「おかし猫」外部招聘審査員賞。猫の頭にケーキなどがいくつも乗っている。愛らしい猫の表情とケーキの組み合わせがシュールである。その細やかな描写力と発想力に特に注目した。

12室

 山本文代「アンコール・アンコール」。チェロを弾く男と観客である猫。その対話がおもしろい。チェロの奏でるメロディを媒介として、ロマンチックなイメージがこちら側にも伝わってくる。心温まる作品である。

16室

 山神陽「滝に誘われて(昼の月)」。黄金に輝く画面が鑑賞者を強く惹き付ける。左手前の二人の女性が半神的な要素を孕み、存在している。背後では滝が滝壺に落ち、そこにも二人の女性が描かれている。それぞれのフォルムがマチエール豊かに描き起こされていて、そこに強い神話性を引き寄せている。滝の上方には満月が浮かび、その恵みを画面全体にもたらしているかのようだ。独特の世界観であり、イメージの力強さが魅力の作品である。

18室

 福島尚「凍てる鉄路・急行ニセコ」。列車が実にクリアに描かれている。線路なども右奥へと続いて行っているが、しっかりと遠近感が捉えられている。画面全体のトーンを統一しながらひんやりとした空気感もつくりだしていて、その総合的な描写力に注目する。

第66回立軌展

(10月13日〜10月28日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 小川イチ「2013 A」。イメージの世界である。水のそばに花が咲いている。小さな草で、赤や白に咲いている。手前に水鳥が一羽。その向こうには二羽の鳥が下りてきている。青に不思議な霊的な性質が感じられる。空と水と空気が一体化した空間は、そのまま画家の心象的な空間と重なる。そこに夢の中で出会うようなピンクや白い花が咲く。

 赤堀尚「コバルトブルーの紫陽花」。青いテーブルの上に三角形の花瓶があり、そこに四つの青い紫陽花が置かれている。エメラルドグリーンのカーテンがその背後に下りてきている。左からテーブル下方に向かって深い青い色彩が置かれていて、その背景の青に無限感と言ってよいものがある。壁を突き抜けて、深い空を突き抜けて、なにか宇宙的なイメージがそこにあらわれ、しんとした気配が画面に満ちている。白いコップが左に置かれ、花瓶やテーブルに赤が激しいタッチで置かれて、その赤は左下にも一部点じられている。青に対する赤の分量、そしてエメラルドグリーンの分量、そのあいだにしっとりとした水気のある紫陽花の量感のあるフォルムが静かに置かれている。それぞれの色彩はまるでステンドグラスを思わせるような輝きと深さが感じられる。室内の静物をモチーフにしながら、そこにあらわれてきた空間の無限なる雰囲気が魅力である。

 五百住乙人「卓上の静物 B」。五百住乙人は二点出品。桃と鉄製のコーヒーミルを描いたものの中に残照のような光が当たり、深い詩情を醸し出す。もう一点は同じく桃とワインボトルのようなものとポットが置かれている。ボトルとポットは物質感が後退し、線による輪郭線の内部は透過されて、下方の台を映している。台は緑を帯びた独特のトーンであるが、そのポットや桃の一部にピンク色の色彩が点じられている。そのピンク色の色彩が不思議な雰囲気で、現実と心象とのダブルイメージとなっている。桃もそうだし、実はテーブルもそうなのだが、物質というより、ある記憶のなかにあらわれた光景のように感じられる。その記憶に手探りするように画家の想像力は伸びていく。淡い光がそこに揺れる。その光がピンク色となって画面に醸し出される。下方の緑の様子は深い想念の内部にある色彩のように思われる。不定形の四辺形のテーブルのバックも暗い青や黄土色、緑などの色彩で、その上にテーブルというひとつの結界のようなものがつくられ、そこに桃とボトルやポットが置かれ、光が与えられる。ピンクは、手前のほうにそのようなステンドグラスがあって、その光がこのテーブルを照らし出しているようにも感じられる。そのステンドグラスのようなものは画家自身のイマジネーションの光のことである。画家の内部には不思議なステンドグラスがいくつもあって、その光がクロスし焦点を結ぶと一つの空間があらわれてくるといった、そんな不思議な雰囲気に心が揺れる。

 笠井誠一「室内・2013」。ドアがあけられて、向こうに達磨ストーブやモチーフの置かれたアトリエがみえる。そこには廊下を通っていく。廊下は途中に二段の階段があり、左のほうに階下に下りていく階段が見える。壁は明るいベージュ色の色彩で、天井はすこし寒色系のグレーである。グレーのニュアンスと黄土系の色彩のニュアンスが静かに響き合いながら、光に満たされた空間があらわれる。そこに直線によってフォルムがつくられる。それぞれのフォルムは遠近感に従ってそれぞれのポジションに置かれ、この全体の空間をある聖なるイメージに変容させる。

 木村鐵雄「土に匂う B」。六号ぐらいの小品である。赤褐色の背景に茶褐色のフォルムが左にあり、右のほうにH形のフォルム、その横に赤と茶、あるいは朱と茶と白、あるいは朱一色の扇状のフォルムが立ち上がっている。下方から右上方に向かってクレッシェンドふうに伸びていくその朱は、画家の詩情ともいうべきものの象徴のように感じられる。詩人を象徴する松明のようなものが点々と画面にあらわれている。そこに強い詩情が感じられる。

 池口史子「送電塔のある景色」。二点出品であるが、三つの二階建ての建物とそれを囲む道を描いた作品がとくに面白く思われた。くすんだ赤、ブルーコンポーゼのような青、そしてライトレッドのような赤にそれぞれの壁は塗られて、そこに斜光線が差し込み、道路に影が映る。道路も空も黄土系の色彩である。光源ははるか左の向こうにあるようだ。そこに向かって道が伸びていく。その光源がおそらくこの作品に深いノスタルジックな感情、イメージを与える。

2室

 栗原一郎「九月のひと 2」。女性が仰向けに横になり、右の膝を立てている。グレーの中に汚したようなトーン。線による女性のフォルム。アンニュイな雰囲気。女のもつ体温。客観的に対象を描くというより、心の中に対象を取り込んで、フリーハンドで描くうちに女性の体があらわれる。優れたドローイングの力。これまでのスケッチブックの中からつくられた一つの女性像と言ってよいだろう。銀灰色を思わせるようなグレーが汚されて、女性のもつ温かさや心音さえも聞こえてくるような不思議な現実感が魅力である。

 久野和洋「地の風景・やまと」。この前の髙島屋の稜の会に出た奈良の道と樹木には驚いた。実に存在感と詩情ともいうべきものが混在する作品であった。今回も奈良の風景が描かれている。柔らかな女性的なカーヴをもつ丘陵が真ん中にあり、そこは緑で、若草が茂っている。点々と石のようなものや道がある。ところが、手前は晩秋のような褐色の風景で、その中にくすんだオレンジ色のような樹木が点々と立っている。そして、遠景にはもう一つの山があり、それは二月ぐらいの風景のように思われる。三つの季節がこの丘陵に描かれているように思われる。空が山の稜線と接するあたりはほの明るいグレーで、だんだんと上方に行くに従って暗くなる。その光が山の端からあらわれて放射しているような風景は、夜明けのあとのようなイメージも感じられる。下方の沈鬱な雰囲気の風景、歴史を背負ったその風景に対して、空のイノセントな表情が対置される。時間というもの、歴史というものの内部に画家が入り込むところからつかまえた風景のように思われる。

 山田嘉彦「的矢湾」。沢山の島のあいだにぽっかりと海がのぞいている。そこに白い一艘の船がある。海は空を映して明るい色彩で、その周りに島の影が映っている。空を見ると、入道雲のようなものが浮かんでいる。夏のある一刻。静まり返ったような緊張感と奥行がある。しんとした気配のなかに一艘の船は、静中の動という言い方もあるかもしれないが、コンポジションのへその緒のようにそこに置かれている。船があることによって、人間的な気配が周りの風景に対してあらわれる。点描によるトーンの広がり、変化のなかに実にイノセントな雰囲気でその白い船が配置されている。

 志村節子「岸を離れて眠る舟」。題名が詩的である。湿原のような風景が広がっている。岸辺に赤茶色の一艘の船。秋の風景のように見ていると、春の若草色の緑もあらわれる。あいだにスカイブルーのような青の中に様々な色彩の入れられた水が向こうに伸びていく。空は残照のような色彩で、紫の中に黄色い光があらわれている。時を失ったようなあるイメージの世界と言ってよい。春とか秋と述べたが、様々なイメージを追いながら時を止めたなかに船が一艘繫留されている。まさに船は眠っていて、解纜されない。夜になると寝台が船となって旅を始めるという言葉もあるが、この船はそのとき画家を乗せてどこに行くのだろうか。

 遊馬賢一「サントリー二島」。白に近い灰白色の中に様々なグレーが入り、あいだにベージュが入る。海はコバルト系の青で、空はセルリアン系の青。白い雲がこの白い街と呼応する。グレーを中心としたハーフトーンの柔らかなハーモニーが魅力である。

3室

 嶋田明子「いつか」。嶋田明子は最近樹木に興味をもっているという。これまでの抽象的な風景からすこし木という具体的なものがあらわれてきた。とくに「いつか」という緑の中に山吹色の入れられた輝くような空間の中に、樹木が近景、中景というように立っている様子は初々しい。とくに空のオレンジ色、黄色。黄金色と言ってよいような空に捺された光がまた魅力である。その光は強いノスタルジックな感情を喚起する。現実の光というより、もっとスピリチュアルな光がそこに重なっているように思われる。そして、いま葉をつけたばかりの緑の色彩。それは樹木の葉にも地面にもあらわれ、それら全体にその不思議なオレンジ色の光線が差し込んでいる。現実とイメージとが深い領域のなかでリンクし、あらわれてきた風景のように思われる。もう一点の「ある日」は、ピンクと紫の世界である。先ほどオレンジ色で述べたようなピンク色の色彩が画面全体を占めている。まるで生の歓喜を歌うかのようだ。そして中景に林が見える。手前のほうにも樹木があり、空き地があり、はるか向こうには丘のようなものも見えるし、右のほうには丘の斜面のような形も見える。赤というものが透明感をもってあらわれている。歓喜を表現する音楽もあると思うが、そのような合唱が画面全体から聞こえてくるようだ。

 継岡リツ「特別な時間(游)」。正方形の画面を置くために、木でつくられた枠がM形だと思われるが、つくられて、その枠の中に直線や水平、斜線桟が置かれて、それもまた絵の一部としてあらわれている。白い部分はキャンバスで、宇宙遊泳的なイメージがあらわれる。ノンシャランに空を動いていくイメージ。屈曲したストライプ、黒い不定形の円、あるいは直線によってつくられた不思議な立体はまさに宇宙衛星のようなイメージを筆者に与える。その下にたらし込みふうなジョンブリヤン系にブラックを入れたような滲みの色彩があらわれ、そこから足のようなものや触手のようなものが生えている。脳髄の中から触手が伸びているような、そんなあやしい雰囲気で、非常に柔らかなセンシティヴな命のイメージである。自画像的な感性の表現と思われる。脳髄から足や手や角や触手のあらわれた雰囲気と背後のピュアな宇宙遊泳的なイメージとが不思議な響きをつくる。そして、下方に格子状の青いフォルムや赤や白のストライプによって一つの壁のようなものがあらわれる。それは外部の現実、木目を生かした板に桟のようなものによってつくられた世界。その桟の下方には円弧のボール紙を切断したようなものが嵌めてあるし、上方には白い点々としたフォルムが横に七つ、縦にグレーで五つある。つまり、脳髄を思わせるような生き物の動きに沿って、そのスクリーンの中にあるものがそれぞれ動くと、周りの外部のものもそれに反響しながら動いていくといった雰囲気である。いわゆる因果律の世界ではなく、華厳経のいう縁起的なイメージ。そのような空間を画家は描こうとするかのようだ。もっとも絵を見た勝手な感想であるから、事実と異なるかもしれない。

4室

 前川寿々子「早朝の花市場」。緑が透き通るように使われている。緑のヴァリエーション。カドミウムグリーンやビリジャン、テールベルト、様々な緑が深い癒しのようなイメージを与える。その中に朱色やジョンブリヤン、黄土、紫などがほんのすこし点じられている。そして、そのあいだをグレーの色面がつなぐ。左上方にはアーチ状の円弧の屋根をもつ建物があるのだろうか。直線を中心とした中にその円弧が独特のアクセントとなっている。斜めに立ち上がるストライプ、垂直に立ち上がるストライプや色面、そして、左上方の円弧は画面の中景の上方にもう一つあらわれている。そこには鏡のようなイメージがあらわれて、青や緑や柔らかなブルーやビリジャン系の緑が置かれて、手前にはジョンブリヤンや朱色が置かれている。その中心の幾重にも色面が集合した部分が、この作品の一つのポイントとなっている。それをつくるために、右のほうには遠近法的な斜線が引かれ、左下からは斜めにストライプが立ち上がる。そこにあるきわめて貴重なものが集合し、色面が集合し、円弧と直線によって不思議な鏡のような世界があらわれる。その鏡は周りの色面を吸収し集約しながら、また静かに輝くといった様子である。そのヴァリエーションとして左の上方の円弧があらわれ、下方の色面があらわれ、それを増幅する。一つのテーマがメロディに沿ってだんだんとクレッシェンド的に増幅していく、そういうメロディの過程。あるいは、フーガふうに二つの旋律がお互いに相手を追いながら流れていく、そんな音楽的な時間を空間のなかに結晶させたような魅力もまた感じられる。

 三浦智子「古に悠う―凍れる沼―」。二点出品。「凍れる沼」は、グレーの雪の積もった様子がそのまま凍るような温度のなかに表現されていて独特である。三つの色面からできている。地面が二分割され、上方に地面とも空とも思われる重なった空間があり、月の一部が見える。ススキが穂を上げてすこし揺れている。下方の二つの色面は氷の様子と重なり、そのあいだに凍っていない青黒い水がのぞく。一つひとつのススキの表情。それらが十本ほど連続しながら、独特の雰囲気である。そのススキは一種の身振りのようなものを表す。深い感情のなかからその身振りがあらわれているようで、そのススキのニュアンスが独特である。グレーの手触りのある冷たい質感のあいだにある水は、聖なるイメージを発信し、上方の月の一部と静かに呼応する。何もない一部凍った雪景の中に月とススキが語り合っているようなイメージと言ってよい。とくに背景のこのグレーのもつ微妙なニュアンスが面白い。単なる物質というより、幾層にも重なった時間がそこに存在するように感じられる。

 田屋幸男「庭の樹」。桜の花が咲いている。そばに若緑色の葉をつけた樹木がある。そんな下に白い犬が寝ている。首を垂れて、何かを聴いているようだ。ハーフトーンの夢のような森の空間の中にいる一匹の白い犬。クリアなフォルムと精妙なヴァルールをもとにした世界で、実景がそのままイメージに変容する。

5室

 福島唯史「九月 A」。色面構成の作品であるが、グレーを中心としてそのハーモニーが上品で、一種の詩的なイメージが浮かび上がる。また、独特のお洒落な感覚があり、そこに惹かれる。

 杉山優子「刻々」。新しく今年から会員になった。東京の下町の風景と思われる。運河に船が繫留されている。そのディテールにわたる表現に存在感が感じられる。

 太田冬美「AFTER THE RAIN ―帰れない森」。暗い中に白く輝くものは家々の窓のような雰囲気である。上方から下方にブラッシュして下りてくるものがある。メランコリックな雰囲気が漂う。そのなかに大切な街のイメージ。ひんやりしたイメージと温かなものとが不思議なかたちで融合している。

 坂口紀良「ポン ヌフ」。パリのポンヌフの光景である。フォルムを線によって捉えている。そのフリーハンドの線に独特の表情が感じられる。橋を数人の人が行き来している。空はすこし調子を落とした青で、手前の橋に光が当たり、白く輝く。一つの風景をメロディのように表現する。

6室

 松田環「窓辺」。椅子に座る女性。椅子の上に置かれたオリーヴのような植物。船の模型。ウイスキーのボトル。そんなものを画面に配置し、色面的に構成する。そして、右のほうは夜の時間で、左のほうは黄昏時の四時頃の時間といったように、二つの時間がそこに対置され、真ん中にグレーと褐色の二つの色面が柱のように画面を縦断し、二つの空間を分ける。時間の計測器のような柱の両側にある二つの時間。人間と静物。ユニークなコンポジションである。

 金子滇「夏の肖像・姉と弟」。十二歳ぐらいの少年と十五歳ぐらいの少女。姉は座り、弟は立っている。白いズボンに白いワンピース。バックは褐色系のグレーで、それをすこし明るくすると床になる。空間の中に密度が感じられる。その密度はこの対象に接近する画家の筆力とイメージの力によるのだろう。細密描写的に対象に接近しながら、実はその二人を包み込む空間を描こうとしているところが面白い。空間のなかの手触りを確かめるように一つの棒が壁に立て掛けられている。

 大見伸「南仏の光の中で」。赤い壁の洋館。その前の植木の置かれているすこしあいた空間に、ステッキを持ちソフト帽をかぶった男が立っている。その様子がどこかマグリットの登場人物に似ているところが面白い。空も地面も樹木も一種の光の中に表現されて、その透過性のあるイメージからしぜんとミステリアスな情感が漂う。

 髙木英章「バイブリーコートの小さな橋」。橋が川の中ほどにかかっていて、そばに小道が伸びている。両側に樹木が立っている。燦々と光が注いでいる。とくに小道の上の影の表現が面白い。水も影や光を映しながら複雑な陰影をなして、手前のスカイブルーのような色彩などはとくに魅力である。一つの風景をいとおしむようにすべて認識しながら、いわば理想的な世界ともいうべきものを表現する。

 島栄里子「地相―刻―」。スペインのアルバラシンの風景である。隆起する地面の形があやしい雰囲気をつくる。混沌として渦巻くような動きもあるし、それぞれの斜面がまるでそれぞれの時間を背負ってそこに集合しているような趣である。空間のみならず、歴史的な時間の内部に引き寄せられて、自分の位置さえも失うようなそんな恐ろしい風景と言ってよいかもしれない。左下に川が青く流れている。そこから斜面が立ち上がり、また下りていき、また立ち上がりといった様子で、その遠景に小さな教会が見える。そこから手前のほうに斜面は一度渡ってきて陥没し、また立ち上がるところに岩のようなものがあり、そこにしがみつくように建物が見える。下方を見ると、地面に穴があいていて、穴居時代の住居が描かれている。この場所は穴居時代から今日までの約一万年の時間にわたって集落が営まれた場所だという。その空間に加えて、前述した時間がそこにしみ通るように描かれ、画面から描かれた時間がある混沌のなかに発現してくるような趣である。そして、柔らかな斜光線が当たり、一部黄金色に染めている。地面はすこし薄紫色の色彩がかかり、全体で薔薇色の風景としてよく知られているそうだ。しかし、そのようなロマンティックな名勝というより、描かれているのは混沌とした時空を背負った風景と言ってよい。

 野上邦彦「目玉焼きのある朝食」。野上邦彦は二点出品であるが、卓袱台に向かって食事をしている光景がとくに面白い。左にめしを盛った茶碗を持ち、箸を持ち、目玉焼きに向かい合っている人物が描かれている。モノトーンの光景の中に目玉焼きの黄色だけが色彩として輝く。食というものの敬虔なイメージと言ってよい。上方にお多福と狐のお面が掛けられているのは、老夫婦を象徴するようだ。画家には寒山拾得のような独特のイメージがあるようで、そのような古典をベースにしたうえでの人物表現と思われる。

 藤田清孝「青壁と樹」。二点出品であるが、ひずんだような空間が面白い。まるで源氏物語的な家屋が平行線の中に描かれて、一種の無限空間をつくる。手前に樹木が立ち上がり、赤い花をつけている。ところが、その向こうに白い線の集合によって建物と建物のあいだに小さな木が描かれている。手前の樹木は現実の時間で、低い位置の木はもう一つの時空間に存在するようだ。ちょうど目の前にある風景がそのまま平安時代の時空間を引き寄せたようなダブルイメージとなっている。そして、上方に緑のフラットなバックから黄金色の色彩が煙のように立ち上がっている場所が三か所ある。一種霊的な雰囲気である。時間の中に持続する人間のもつ生のイメージが幽体ふうにあらわれていると考えると面白い。

第81回独立展

(10月16日〜10月28日/国立新美術館)

文/高山淳

1階─1室

 瀬島匠「RUNNER a brave dog」。学生と若い母親が海を背景にして立っている。そばにブレーブドッグが座っている。母親と娘は写真の中の人物のようで、犬はこの浜辺にいるようだ。雲が浮かんでいるのだが、やがて驟雨が来る気配がある。そこに飛行機のプロペラを思わせるような巨大な銀色のプロペラがコラージュされている。やがて来る圧倒的な自然の力を象徴するかのように。この三つのパートをもつ巨大なプロペラとその背後の海のイメージとが面白く呼応する。

 佐々木里加「HYPER BRAIN RADIATION」。巨大なブレーンがいくつもいくつも下方から上方に向かってきている。まるで超高層ビルから下方をのぞいているような遠近感を背景にしてあらわれてくるブレーンが、圧倒的な存在感を見せる。そして、画面の下辺の右側、左側にブレーンの中にパイプがつけられたフォルムが、銀色の半立体としてコラージュされている。

 山本雄三「優しくなれない」。中心に百合と月を描いた縦長の作品。左右にストッキング姿の裸の女性が腰を曲げてテーブルの上に両手をついている。不思議な構図である。中心の花と月を鑽仰しているのだろうか。鉛筆を使ったドローイングをそのままタブローにしている。ドローイングの力が魅力である。中心に何かきわめてロマンティックなイメージが生まれている。

 権藤信隆「Come l'acqua della fontana etema」。左下のライオンを思わせるようなフォルムは永遠の泉である。それの上と横に座った外国人女性と立った外国人女性がヌードで置かれている。背後に楽譜があり、切手があり、キューピッドの彫刻がある。イタリア通信といったイメージである。イタリアの文化に深く入り、そこからイメージを組みながら、この不思議なCGふうな作品が生まれた。よく見ると、全部描いているからCGではないのだけれども、彫刻一つにしても、それを見て描くのではなく、写真としての情報を駆使しながら、それを組み合わせて独特のイメージをつくる。メロディが流れてくる。そのメロディのパートをそれぞれのフォルムが担っている。

 久我修「デマタシカメ ユメカシタマデ」。空と子供と金魚が浮かんでいる。夢遊病者のような子供たちの姿である。手をつなぎ、笑い、目をつぶったりしながら、出目金たちと遊んでいる。異様なイメージである。出目金の目とこの少年の細い目とが対比される。盲目的に誘導されていくような時代のイメージを生き生きと表現する。

 金井訓志「花籠(CONGRATULATIONS AM!)」。籠に薔薇やいろいろな花が入れられてリボンが掛かっている。緑のバックにその様子を大きく描いている。黒い線によって輪郭線をつくる。ところどころ反射の光を入れている。オピーを思わせるようなお洒落さが日本独特のすこし湿気を帯びたトーンの中に表現される。

 吉武研司「八百万の神々―元始女性は太陽であった」。楕円形の絵の中に赤いシルエットで上方に三人の人物がいる。また、黄色い線によって様々なフォルムがあらわれる。左のほうには目があり、右のほうにはいま生まれつつあるようなフォルムがあらわれてくる。中心には人の顔がある。まさに八百万の神々が集合して、全体で巨大な太陽をなすような、そんなパワフルな画面である。

 山田修市「やわらかな心」。色彩家である。背景を色面で構成し、そのヴァルールによって空間をつくる。若いカップルの前に、マントヒヒのような服装の人が椅子に座っている。高齢の女性のおもむきである。傍に犬が寝そべっている。介護問題は日々新聞を賑わせているが、ここに描かれているのは老人と共生する夫婦の姿のようだ。細いハンガーや筆立て、レコードプレーヤー、大きなクリップなどの小物がうまく配置されてこの空間を活性化させている。暖かな日差しが射し込んでいるようだ。日常をテーマに生き生きとした構成をつくる。

 森京子「背中って真夜中みたい」。イタリアふうなデスクから引き出しがあけられると、六人の男たちが現れて合唱を始めている。テーブルの上に帽子を後ろに背負った人間が立ち上がる。背後に大きな絵があって、それは森の中の風景であるが、ぽっかりと大きな胸像があけられて、男があらわれている。左から階段を下りてくる男がいる。右のほうにもドアがあいて、一つの人形のようなものがあらわれてきている。深夜の幻想のようであるが、不思議な光がここに差している。画家は深く内界に下りてきて、イメージをそこからくみ、無機的なものと有機的なものが混在する世界があらわれる。椅子から人間の形が生まれつつある。「背中って真夜中みたい」というタイトルも詩的である。背中が真夜中であれば、正面は昼間で、目に見えない世界というものが背中にあって、それが夜で、深い無意識の世界がそこに存在するということになるだろうか。そういった世界に白昼入っていこうとするところから、この独特の動きと気配に満ちた作品が生まれたのだろう。

1階─2室

 加藤啓治「青年立像図 2013」。廃棄物のような盛り上がった上に男は立っている。後ろに家族写真が浮かんでいる。その中の左後ろのスーツを着た男がこのジャンパーを着た男なのだろう。津波の中から、その破壊を片づけて新しく家をつくらなければいけない。その宣言のようなモニュマン的な構図になっている。しっかりと丁寧に対象を描き、それを重ねることによって強い力が生まれる。

 松村浩之「叫」。裸の男が敷石の上に座って、上方を見て何か言葉を発している。戦士のような筋肉質の大きな体である。頭はごく小さく、体の大きさが強調され、とくに足や手の先が大きい。背後に石を積んだ壁があって、一部崩壊している。その中から新しく労働し立ち上がろうとする人間のイメージだろうか。みどころは、座ったこの男の全身のフォルムの面白さと言ってよい。

 田中茂「月明かり」。大きな岩が二つ背後にある。水のそばにも岩がある。その不思議な水に右足を入れて、水の中に何かを見ている裸の女性。古事記の時代のような神話的なイメージがしぜとんと画面から感じられる。それを上方の満月が照らしている。シチュエーションの面白さと色彩が魅力である。

 額田晃作「キビッシュに住む人」。キビッシュはエチオピアの町の名前である。黄土系の褐色の色彩で大地が彩られ、それは上方まで続いていて、そこに独特の安心感というか安息感が感じられる。近景に、頭の上に何か袋を中に入れた籠を置いて杖を持っている女性とそばに座って槍のようなものを持っている男がいて、背後にそれを囲むように四人の男女がいる。いちばん左は棒を持った男のようだが、その後ろには裸の女が歩いていて、右のほうには壺を持った女性が二人。そして、また向こうに五人の性別のわからない現地の人が衣装を着て立っている。独特の気配がある。大地とともに共生しながら自然の中に生きている人間たちの群像である。前述した座っている男の頭に鳥の羽が差されているのだが、それが白く輝いて三日月のように感じられる。静かに画面の内側から差し込んでいる光があって、月の光の中にそれぞれの人々がいるような、そんな不思議な気配もまた感じられる。それぞれの色彩は渋いが、独特の輝きをもっている。ほとんど動きのない動作をした人間群像であるが、全体でもって語りかけてくるムーブマンが感じられる。

 木津文哉「ふとん店」。板にペンキを塗った壁。そこに仁丹、エスサン肥料、東芝のマツダランプ、東亜化成肥料、日産化学といった看板やポスターが貼られている。仁丹はブリキでできているようで錆びている。その上に二つの窓があるが、中は無人で、ガラスは壊れ、片一方の窓には板で覆いがされている。いちばん上には「お家庭・御婚礼にはのふとん」という大きな看板が見える。それがほとんどリアルな現実感として平面の中に表現されている。マチエールが主要な部分を示す。家ができてから現在までの数十年にわたる時間がこの場所を侵食し、錆びさせ褪せて、ガラスを割り、このような状況になったわけだ。そのあいだの時間がここに積もっている。その積もっている時間を画家は絵の中に解放してメッセージしようとする。そこにはもちろんヒューマンな感情があるが、それ以上に時間というものの不思議さを眺める画家の視線がある。人はだれでも記憶をもっている。その持続する時間のなかに生きて、未来をのぞんでいる。この建物ができて以来、今日までの持続する時間を味わうことによって、未来に対するスタンスが生まれてくるというイメージも感じられる。持続している時間から不思議なほの明かりのような光がこの画面に差す。

 相田幸男「悠…ラ・セーヌ」。セーヌ川の周りの光景。断崖があったり、教会の周りの赤い屋根の家があったり、壊れた修道院があったりする。もちろん樹木も生えている。そういった様子をイメージの中に浮かべて画面をつくる。シャープなそれぞれのフォルムがお互いに呼応しながら、優雅な円舞曲を奏でるような雰囲気もある。上方に二羽の雁のような鳥が飛んでいる。季節によって移動する鳥のようで、旅情がしぜんと浮かび上がる。

 今井信吾「林太郎の広場」。林太郎は画家の孫である。その孫が動き回る様子を画面いっぱいに描いている。右上方に母親が子供を抱えている様子を描いているのが、構成のへその緒のようになっている。クロッキーをそのままタブローにした動きのある作品である。

 大津英敏「少年時代」。セーヌにかかる橋。パリの街々。空が朱色に染まっている。そこに少年が座っている。初めて画家がパリに行ったのはいつごろか。家族連れでパリに行ったこともある。パリでの子供を描いて安井賞を取った。様々なパリでの経験の中からこのような一人の少年の姿が上方にあらわれた。

 入江一子「バリ島、ガルンガンまつりの日」。女性たちは頭に大きな装飾されたものを持って、こちらに歩んでくる。手前の二人の女性も上方に羽のついた、帽子とは異なるものを頭に載せている。左上方から光が差し込んでいる。背後には森や花が咲いている。音楽が聞こえてくる。ロマンティックで神秘的で優しい音楽である。画家の心の中にもずっと音楽が鳴っているのだろう。その音楽が画家に絵を描かせる。それほど画家と音楽との関係には深いものがあると思う。緑を中心とした色彩が神秘的な雰囲気を表す。

 金子亨「希望」。六人の若い女性の群像である。四人が座って、そのあいだに一人が寝て、座っている女性の膝に頭を置いている。後ろに一人、立っている女性がいる。視線が百二十度ぐらいのあいだをそれぞれ眺めている。褐色の絨毯のような草の上に座っている。背後に黒々と影が生まれている。それを見ると、斜光線が差し込んでいるようだ。六人の女性にはそれほど光を強調せず、静かにその全身が浮かび上がるように描いている。手前に林檎が転がっている。林檎はアダムとイヴの創世記に出てくる果実である。林檎を食べることによって智恵を得、羞恥心を覚え、人間がそこから出発したという。そんな林檎は、若い女性たちのこれから向かう未来を暗示するのだろう。それぞれの衣装は花柄で、『源氏物語』ではないが、花の名前によって六人の女性の名称をつけるような、ロマンティックな文学性も感じられる。

1階─3室

 大塚利典「花散る河―午睡」。横になって眠っている女性。半裸で、すこし布が掛けられている。上方にギリシャ神話に出てくる女神のような女性たちが集合して、左右からこの女性のところに降りてきている。上方の三体の女性は眠っている人の心の中を眺めているようだ。大群像と言ってよいのだが、それを生き生きと描き起こす筆力に注目せざるをえない。下方の女性のヌードも面白いが、それ以上に上方のイメージの中の女性たちのフォルムが実に活性化して面白く思われる。

 向井隆豊「TOKI no HATA」。たくさんの男女が集まって旗を立て叫んでいる。こちらに行進してきているような強いムーヴマンが感じられる。赤は命というものの象徴だろう。上方に斜線によって区切られた色面があり、その中の緑やジョンブリヤン系の色彩などは不思議な光の氾濫してくるような雰囲気がある。一つの祝祭の表現と言ってよい。

 乙丸哲延「雨あがる(バスク・フランス)」。バスクはフランスのスペイン寄りの高いところにあって、実際この取材の時、霧がかかってしっとりとした雰囲気であったそうだ。ずっしりとした存在感のあるお城のような建物が左に聳える。石垣の上に建てられている。中世のお城のような存在感があるのだが、その下方は断崖のような斜面になっていて、そこに樹木があり、風の中にざわざわとざわめいているようだ。そして、下方に池のようなフォルムが見える。一瞬の驟雨が紫色の雲で、それが通過すると青い空や黄色い光をもった空があらわれてくるようだ。動いている風景のこの様子はどこか日本の湿度の高い田園風景と重なるものがあって、この作品を見ながら懐かしい気持ちに襲われる。いずれにしても、建物や樹木の立体としての強い空間の表現。それぞれの中の息をするような力を描き起こして、見事と言ってよい。

 斎藤吾朗「熱田神宮・創祀千九百年」。中心にヤマトタケルノミコトとミヤズヒメがいる。下方に「景行天皇四十三年一一三三年熱田神宮創始草薙剣鎮座」とある。上方にアマテラスとスサノオがいて、その剣をスサノオがもらい、ヤマトヒメに渡し、それがヤマトタケルノミコトに渡された段階で草薙の剣と名づけられた。それ以来の名古屋の熱田神宮の歴史を描いている。見ていると、中に信長、秀吉、家康なども出てきて、次の円では勝海舟や大隈重信などの顔も見え、いちばん外縁では厳かな熱田神宮のお祭りの様子が描かれている。一つひとつの部分に一つの物語があり、肖像画となっているから、一般の鑑賞者はこういった作品を眺めると、実に楽しいのだと思う。通常の絵の世界とは別に、これは絵巻的なかたちで、旋回するように千人ぐらいの人々が描かれている様子であるが、実に力作だし、歴史というものを面白く語ってくれる貴重な作品である。

 井澤幸三「変容」。丸いテーブルの向こうに十代の女性が座っている。後ろからアケビのようなものが垂れているのだが、それがテーブルの上になると芋のようなものに変容している。背後はパノラマで地平線までうねうねと大地が続いていく。異様な幻想と言ってよい。夜が後退し、向こうから朝日が昇ってくるようだ。夜の深い想念のなかにアケビのようなものが別のものに変身しつつある。その夜の時間が後退していくといった、そんなイメージも感じられる。

 安達時彦「双調」。二人の女性の面をつけたシテが歩いてくる。こういった二人で対の能があるのかどうか知らないが、その対の様子が面白い。背後に月の光を思わせる円弧があらわれて、全体に柔らかな光の中に霊的な気配があらわれる。下方の床も水を打ったような水鏡のような雰囲気で、柔らかな緑を中心とした能役者の姿が虚空に咲いた花のように感じられる。

 馬越陽子「人間の大河―いのち舞う・不死の愛」。赤い色彩が鮮烈である。その上方に不思議な人物が出現してきている。その人物にすがるように、その向かって左側に三人の人間がいる。出現している中心の人物は一種神的な像である。三人の小さなすがるような人間たちの後ろには黒い渦巻きがある。闇が後退し、命の光が彼らを照らすようだ。その命の光のような激しい色彩が下方の赤い色彩だろう。朝日の色彩がそこに重なる。夜が後退して日が昇る。中心の人物の向かって右には、その下方にある夜の暗い流れを眺めているもう一人の人物がいる。不死の愛のイマージュが神的な存在と化して、いま出現してきた。そんな圧倒的な存在感がある。その神的な人間の肉体は青白く、体は黒や緑や青などの独特の宇宙的な色彩で彩られている。その後ろの淡い青の空間、冷気のようなもの、そしてその上方に黄金色と黒い球の一部などがある。闇を後退させながら光とともにあらわれてくる像を見事に表現する。

 平岡靖弘「僕はみている。」。中心に少年が目を見開いている。下方に波が立ち上がってきているから、恐ろしい津波を目撃したのだろうか。後ろに五人の女性がいる。振子のように揺れている。そして、顔が横顔からだんだん左に行くに従って後ろを眺めている様子。亡くなった人が向こうに消えて昇天していく様子を眺めているようだ。二年前の津波に対する深いレクイエムとなっている。

 本田希枝「もがく」。鳥が飛んでいる。鳥の下にボックスのようなものがあるが、壊れた家のような雰囲気である。下方に斜めに浮かぶ人間の横から見た姿。茫漠たる空間の中に霊的なイメージの世界があらわれる。重力は消えて、ゆらゆらとそれぞれのフォルムが動いていく。鳥さえも、はばたくのではなく滑走しているような趣である。そのスローリーな動き全体でもって、独特の悲しい癒しの空間があらわれる。

 絹谷幸二「祝・飛龍不二法門」。富士山の周りに龍がいる。向こうから手前に大きな弧を描きながら上方に向かって「不二法門」と叫んでいる。日本というローマ字も見える。富士が世界遺産になったことを祝った図である。龍の上には百合を持った少年が座っている。そのあたりのイメージはすこしギリシャ神話的で、上方に星が見える。星は左上方と富士の右後ろにも白く輝いている。その星と空の様子を見ると、香月泰男がシベリア抑留時代に穴の中から空を見上げた時に青い空と星が見えたという、あの構図の中にあらわれてくる星を連想するものがある。龍は金銀の玉を両足に持って叫んでいる。龍の動きに呼応するように雲がむくむくとその周りに浮かび上がり、稲妻が光り、赤い空の向こうに星の輝く夜空がある。青い空もある。まことに見事な動的なコンポジションである。エネルギーが画面から放射する。

 奥谷博「自画像―césarの親指―」。セザールの親指を彫刻したものが中心よりすこし右に大きく置かれて、その周りに奥谷博本人が三人いて、そばに息子が一人、そして寒山拾得の中にでも出てきそうな不思議な女の子が二人いる。娘の幼い頃のイメージもそこに浸透しているのだろう。そして、丈の低い裸木がこの公園の向こう側、セザールの親指の後ろ側にあって、それがまるで記憶の網の目をたどる存在のような不思議な形で、お互いが連絡し合って画面を左右に広がっていく。そして、その向こうに小さく描いたセザールの親指がある。構図が見事である。どこからこのような構図が生まれるのか。まことに、この人の才能と言うしかない。この人間たちはすこし遠くから見ると、妖精のように感じられる不思議な存在で、強いイマージュによって生かされている。空間が描かれているのだが、時間というものがここに描かれているようにも感じられる。持続する時間。オレンジ色のブロンズの彫刻のそばに黄色いコートを羽織った本人。そばの息子の黄色いズボン。その二つの黄色がまた色彩的にも独特の輝きを見せる。すこしハレーション的な色彩で黄金色のようにも感じられる。そして、前述した少女の赤い衣装。両翼にダークなスーツにネクタイ姿の足を組む奥谷博本人と立って後ろに腕を組んで遠くを眺めている本人。二人の地味な色彩。サゼールの黄金色にも見える真鍮色の色彩は、フェードアウトするように裸木の向こうに小さくもう一つ置かれている。裸木の枝がお互いに連結していて、結界のようなイメージをつくりだす。網の目のように広がる持続する時間。あるいはそれは記憶を呼び出す装置のような、そんな不思議なネットが後ろに広がっている。すこし調子を落とした青い空が無限の空間を示す。

 桜井寛「捨てた村」。先日の髙島屋の個展は面白かった。その中にもこのような、スペインと思われるのだが、人がすべていなくなって捨てられた村をテーマにした作品があったが、その時のチーズなどを描いた静物は非常にこの画家の詩人らしい柔らかい感性がそのまま造形化したような印象をもった。この作品は黒とグレーが独特の存在感をもっている。上方から見下ろした構図で、屋根の上の様子が続いている。その向こうに壁が立ち上がって、小さなアーチ状の入口が見える。茫漠たる平野が背後に広がっていく。ほぼ同色の中にグレーが強調されて表現され、黄土と緑を混色したような空が広がり、地平線に光がある。かつて存在した人々。その不思議な気配というものを強い明暗のコントラストの中から引き寄せる。黒々とした時空間の中からちらちらと光がちらつくようなそんなコンポジションである。

 金森良泰「大仏殿」。朱色の太い柱の向こうに大仏の姿が見える。後ろのこんじきの光背がきらきらと輝いている。朱色の年代もののずっしりとした柱。青みがかった、すこし落ち着いた調子の大仏の存在感。いま画家が新しく塗ることによって輝く光背。古い時間の中から画家は絵の中に新しく大仏を照明し、立ち上げようとする。

 福島瑞穂「APORIA. 2013」。アポリアとは行き詰まりとか問題解決能力の欠如、困惑、当惑といった意味になる。ヨーロッパに「メメント・モリ」といって、「死を忘れるな」という大きなタイトルがあるが、その流れを感じる。上方に豊満な裸の女性が上向きに寝ていて、そこに骸骨が接吻をしている。後ろにも三人の骸骨がいる。その下方では男の上に裸の女性が抱きついているが、男のほうは口をすこしあけ目を見開いて瀕死の様子である。テーブルが傾き、ハンバーガーやコーラの瓶が揺れて、一つは逆様になって液体を放出している。床も九十度傾いている。まるで大きな振子が揺れるように椅子やテーブルが揺れる中に、男と女の物語が進行する。後方はひび割れた黒い大地で、不毛の地面が広がっていく。女性は骸骨に取りつかれて恍惚の様子である。福島という画家のある本質的な問題であるが、骸骨が好きで、骸骨に抱かれると恍惚とするようなところがあるのかもしれない。それは一種の観念性で、肉体というものの中に深く入りながら、肉体を嫌悪するようなところがあるのかもしれない。若い頃にヨーロッパに七年ほどいたことがあるが、快楽的な要素と同時に、肉体を遮断し神との関係を絶対視するカソリックの伝統がしぜんとこの画家の中にしみ通っているのだろう。いずれにしても、造形力に驚かざるをえない。独特のしっかりとした手触りのあるマチエールによって画面はつくられているのだが、いわば荒唐無稽な骸骨との抱擁、男と抱き合う様子に説得力がある。イメージを形にして納得させるフォルムをつくりあげるその力である。とくに上方の骸骨に抱き締められているその様子、あるいは骸骨のフォルムにはなにか聖なる光がそこに当たっているような部分がある。徹底して堕落することによって神をつかむという背反する力。快楽を貪りながら、その様子を他人の目で他者として眺め、そこから立ち上がるイメージの力である。そのイメージは骸骨を呼び、大きな振子のように画面を揺らす。下方の現世的なハンバーガーや椅子の様子に対して、上方の荒涼たる大地のひび割れた広がりが対照されるのも面白い。室内とか室外といったものは消えて、壁は取り払われ、イマージュのみが動いていき、そのイマージュがこの男女の図をつくる。まさにイマージュのインカーネーションである。その肉化した力に打たれる。

 石井武夫「アトリエのモデル達」。色彩が輝いている。フローリングの床に赤い色彩の布が敷かれて、そこに女性やダミーたちがいるのだが、その布が大きく旋回しながら下方に行く流れのように感じられる。その上に二人の女性、四体のダミーがいる。ダミーは安らかな表情で眠っている。いちばん下のダミーは百合の花や薔薇の花などを持っている。強い光がこの光景を照らして、それぞれの色彩が輝く。女の子の部屋を連想するものがある。画家自身は妻と娘二人だから、しぜんとそのようなイメージが紡がれるのだろう。五歳の時に手術台にのった子供(子供は亡くなったのだが)の様子からダミーのシリーズが生まれたのだが、そのような記憶はだんだんと癒されて、深い眠りの中に葬られていくような、そんな雰囲気がある。そして、その流れの中に小さな馬や虎やオートバイや莵などの人形が置かれて、その人形たちもまた一緒にこの時間の中を流れているように感じられるところが面白い。その外側にはワニや小さなモン・サン・ミッシェルを中心としたパリの街のような模型、あるいはダーツなどが置かれているのだが、右上方にラッパを吹く小さな天使のようなイメージが表れているのも面白い。そのそばには楽器を奏する天使が浮いている。それに呼応するように三体のダミーの真ん中、二つの赤い川の流れのあいだにチューバのような大きな管楽器を吹いている狼にも熊にも見える人形のそばに、『不思議の国のアリス』の中に出てくるような花の真ん中に顔のある女性がラッパを吹いている様子が描かれている。親密な雰囲気で、静かにいまのコンディションをうたっているようなイメージが表れている。長い時間の流れが一望に画面の上に置かれ、そしていま一人の画家が筆をもって、ピースフルな音楽を奏しているような雰囲気が面白い。赤い川の流れと述べた部分が、筆者には巨大な太陽がこの床の上に下りてきているようなイメージと重なる。

1階─4室

 前畑省三「いのちの誕生」。海から地球上の生命は生まれたといわれている。その海の底にあやしく花の咲くような世界が描かれている。それは花のみならず、微細な生き物が集合して命を獲得しながら育ちつつあるようなイメージでもある。渾沌とした内側から光を発するようなフォルムたちが小さく連続しながら、時に花のようなフォルムをつくり、時に小さな巣のようなイメージもつくり、あるいは新しい芽があらわれてくるような雰囲気もある。赤い小さな無数の手の分かれているようなフォルムが向かい合い、それは中景にも立っていて、その向こうは緑の花畑のような雰囲気。深海の中に、画家は実際の経験とイメージによってこの独特の豊かなイメージを表現した。暗い色彩の上方にだんだんと水面近い世界があらわれ、無数の魚が泳ぎ、その向こうに入道雲が青い空に浮かんでいる。海に対する讃歌といった強いイメージが命を活性化させる。

 佐原光「瀞峽 13」。熊野川の源流に近いところを取材した。断崖の下に水が静かに流れている。水が神秘的な雰囲気である。スポットライトを浴びたように岩肌が光っているのだが、その両側の山の斜面と思われるところは黒々と暗い緑で描かれている。長い歳月を思わせる岩と静かに流れる水。その水の中に赤い花びらのようなものが散って流れているのが、深い祈りのイメージを与える。

 松原潤「La speranza~祈りの譜」。「La speranza」というのはスペインの歌である。その曲を、向かって右の女性がヴァイオリンで奏でている。それに沿って、向かって左の女性が優雅に踊っている。その向こうには川が流れ、川の向こうには教会が聳えている。ドームの頂上に十字架が見える。ずいぶんしっかりと描きこんである。グレーやベージュを中心として、それぞれのフォルムが静かにメッセージを発する。手摺りが一部壊れ、石畳が一部壊れ、上方の文字のあるアーチも半ば崩壊しているが、それを再生させようとするそんな強いイメージがこのコンポジションからしぜんと感じられる。

 高橋伸「シベリアの風」。ロシアのささやかな教会のような建物がいくつか立っている。その手前に椅子に座った若い女性がいる。これまでの北海道の風土を背負った野性的な女性たちは後退して、ロシアの独特の素朴な教会を背景にして物思いにふけっているような女性のイメージがあらわれた。グレーに優しいニュアンスが感じられる。そのグレーの中に小さな教会がいくつか立っているのが不思議な雰囲気を表す。大きく見開いた女性の目の表情が独特で、すこし斜めの方向を眺めているようだし、なにも見ていないようでもある。何かスピリチュアルな存在を考えているような、そんな独特の雰囲気が感じられる。

 久保田益央「鉦韻」。笠をかぶった五人の和服姿の男が鐘を鳴らしている。後ろには旗を背中に背負った人間がいる。殷々と祈りの音楽が聞こえてくる。鐘のみならず歌も入っているのだろうか。五人の群像の顔は隠されて、頭を前に傾けて鐘を叩くというその姿がきわめて内向的なイメージを与える。強いコンポジションである。

 前田さなみ「見透せぬ窓 砂嵐」。子供を抱える女性の後ろにつるぎを持った女性がそれを守っている。そのつるぎの先に百合の花がたくさん咲いている。そして、大きな布がこの女性を上から覆っているのだが、その裏側が赤い色彩で、反対側が白く、白い色彩は白い百合の花につながり、赤い色彩は太陽のようなイメージを与える。明るい希望の太陽によって、この戦乱の中の母子を守っている。そんなイメージが生き生きと発信してくる。遠景では黒煙が上がり、戦争がそこで行われているようだ。砂嵐という題名のように、イラクをはじめとした中東の悲惨な現実を深く心に受け止めて、このような希望の絵を描いた。噴煙は炎となってオレンジ色に空を焦がすが、そのオレンジ色が上方では希望の光のようなイメージになっている。

 田井淳「常若の国」。湾の中にヨットが一艘浮かんでいる。カップルが立っている。小さな島がそこから顔をのぞかせている。湾を囲いこむ屈曲した大地。岩がごつごつとした様子で、そこに緑の植物が生えている。そして、湾のはるか向こうの水平線近く、虹がかかっている。虹の上方の空には無数の星がまたたいている。その星が点々と下方に下りてきて、雪のように画面全体を覆っている。内側から発光するような緑色が使われているところが、この絵の魅力である。緑には微妙な変化があって、緑の交響楽ともいうべき世界が生まれている。虹は一つの結界で、手前は天国のような世界で、地上から遠く離れた場所のように描かれている。

1階─5室

 中前光雄「共生21"(那智の滝)」。那智の滝が正面に描かれている。いちばん上方には綱があって、御幣が掛けられている。その滝壺のあたりに葉が三百六十度広がるような不思議な植物があらわれて、そこから茎が出て、オレンジ色の花が咲いている。よく見ると、それはタンポポの花である。そうすると、下方の三百六十度伸びている異様な葉と言ったのは、タンポポの葉であることがわかる。小さなものを手前に持ってきて大きくして、それを掲げている。花が雪洞の光のように感じられる。そして、花が受精し、綿毛となって飛んでいく様子が描かれている。巨大なオニヤンマのようなトンボが二つ飛んでいる。一つは枯れかかったタンポポの花にとまり、もう一つは宙に浮いている。トンボは儚い人生を象徴する。滝の落ちるその岩盤の不思議な形。那智の滝は御神体である。霊力のある千数百年の歴史をもつ那智の滝を背景にして、儚い生き物の一生のようなイメージがそこにあらわれる。そして綿毛は、法華経の中に釈迦を荘厳して繰り返し出てくる花のイメージと重なる。そう思って画面を見ていると、その下方に緑のトンボがいて、いま交尾している様子が描かれている。下方のタンポポの葉が蓮台のようなイメージであらわれている。那智の滝をテーマにしながら、死と再生の物語を静かに描く。

1階─6室

 大塚恵美「生命(いのち)の不思議」。一つの細胞から分裂して、だんだんと人間になる。人間の中にある様々な臓器も細胞でできている。最近iPS細胞というどういうものにも変容する細胞が脚光を浴びて、山中氏はノーベル賞をもらった。今回は五つぐらいの細胞の塊が不思議な力を発揮している。だんだんと熱をもって命が生まれつつあるような様子。小さな点々がびっしりと集積しながら、異様なものになっていく。左の不思議なフォルムの中には受精卵がだんだんと人間の体になるようなフォルムも浮いている。上方に豆のようなフォルムが浮いている。命というものの不思議さを画家は描いて、圧倒的な存在感を示す。右に赤いストライプがあるのは、生の連鎖の柱のように感じられる。

 堀井克代「玄の片ら」。上方に太い赤いリングがあって、その下の部分が描かれている。そこから三つの垂れ幕のようなものが下りてきている。不定形の同じようなフォルムがその両側にある。下方に黒い太陽と名づけたいような円がある。背景は黄色で、上方の赤い円弧の中はグレー。その中にもあもあとした霊体のごときものがある。きわめてアニミスティックな呪術的な世界が表現されている。その赤いリングは天照大神の時代、古事記の時代を思わせるような強さが感じられる。また、旗を見ていると、奈良朝の頃のイメージもそこにあらわれてくるようだ。日本の古代神話から今日までの歴史を眺めているような、黒い太陽が下方に浮かんでいる。

 岡田忠明「淤能碁呂―(生)」。楕円状のフォルムの上方が画面の下辺からのぞいている。その中は黒いトーンで、その周りに薄墨がストライプで置かれている。内側から金のドリッピングしたようなフォルムがあらわれている。背後のベージュを思わせるような灰白色のしっとりとした空間に緊張感がある。その空間の力によってこの抽象作品は成り立っている。黒い部分は、よく見ると墨をたらしこんだような微妙なトーンがつくられて、そこに直線や平行線、垂直線、斜線のフォルムがいくつも描かれている。まるで東洋医学の鍼のようなものが、この下方のフォルムの中に置かれているのが面白い。一つ黄金色のドリッピングしたようなフォルムが画面の左辺にある。何かが生まれつつある予感。生まれつつあるものとその周りを取り巻く空間との強い緊張感が面白い。

 河尻隆次「沈黙の彼方」。深い青い色彩、紫、茶褐色、そして明るい朱色や黄色い色彩などの色面がブロックのように画面の中に置かれ、それによって強い量感のあるコンポジションが生まれる。上方は生で下方は死の世界、意識と無意識といった二元的な世界が見事な色彩の輝きの中に表現される。

 白野文敏「内と外(在)」。縦長の矩形の中に厚さが十センチほどのキャンバスが置かれ、上方がうねっている。内側も黒褐色に彩られている。不思議な隆起するフォルム。微妙で繊細な味わいが感じられる。一枚表皮をむくと、また内側から何かあらわれてきそうな、そんな雰囲気もある。実際、薄い皮のようなフォルムがその上につけられているところもある。実に微妙な空間と動きが作品から感じられる。

1階─7室

 塚本聰「光、こぼれて」。階段の両側にライオンの像がある。階段を上っていくと、上方から光の差す空間があらわれ、建物が聳えている。不思議なことに、その階段を水が伝って下りてきて、階段の崩壊した部分では小さな滝のように落下してきている。そして近景は静かなさざなみを立てる水が覆っている。あやしい世界である。よく見ると、二頭のライオンもお互いを眺めながら口を曲げて何かを語っているようだ。何かおかしなことが起きつつあるぞといった会話が聞こえてくるような不思議な世界。そして、水が命あるもののごとく流れてきている。ある不思議なものがゆるやかにあらわれつつあるような、そんなときめくような空間が表現される。

 竹岡羊子「歓喜の頌歌・Purple Red」。色とりどりの羽のようなものを頭に差した女性が立って歌を歌っている。赤い上衣に紫のワンピース。そして、きらきらとしたショールを肩に掛けている。その背後にグランドピアノを弾いているミュージシャンがいる。やはりこれも紫の上衣を着ていて、恍惚とした表情でピアノを弾いている。このピアノを弾く奏者と歌う歌手とのコラボレーションが実に不思議なハーモニーを画面の中につくりだして、強い印象である。脇役のように後ろに横笛を吹いている背の低い人がいる。ところどころ白い花が咲いている。赤と紫の一体化する色彩の中にあらわれてくる深い命の奥から聞こえてくるようなメロディが、画面から聞こえてくるようだ。

 大場再生「私が私に戻る時」。テラスに若いカップルが座っている。両側の建物、遠景の樹木とさらにその遠景の建物。外光を画面の中に取り入れながら、生き生きと都会の一隅を描く。左の建物のガラスに映っている人の姿なども面白い脇役となっている。

 松井通央「深海の夢」。横向きに寝た女性。その後ろにも横向きに寝た女性がいる。渚のように水が流れてきている。魚が頭を上に向けて女性を眺めている。クラゲがそばを泳いでくる。題名を見ると「深海の夢」ということで、夢の中で海を引き寄せて、海の底にある生き物があらわれて、この女性を取り巻いている。海との深い親和の世界。女性性の深いところのイメージもまた引き寄せようとするかのようだ。

 田端優「麗裕観音図」。密教的な仏が大小並んでいる。独特のあやしさがある。一種の官能性がそれぞれの仏像にしみ通って、それがこのようなかたちで集合すると、実にミステリアスな雰囲気が生まれる。中心の大きな仏像の後ろに手を上げている観音さまなどはとくに女性的である。カーヴするフォルムが妖艶である。

 森本勇「陽光」。キャンバスの上にブラシで色面を置いたり、たらしこんだり、チョークのようなものでフォルムをつくったりしながら、不思議な叙情的空間をつくりだす。黒い背景に赤や緑、黄土の色面が一つの建物のようなイメージを表す。そこから上方に伸びていく線。ところどころに白などのパステルふうなフォルムが入り、深い緑色と朱が対比される。空間の奥行の中に、ある韻律があらわれる。

 輪島進一「クレッシェンド」。女性が手を伸ばしている。それが繰り返されて、重なり、だんだんと左上方に向かう。不思議な動きである。優雅とさえ言いたい。しかしその先端の手のリアルなデッサンによる表現は、それぞれの個的な手を表すようで、柔らかな若い手から老人の手まである。上方は黒く、裸木が立っている。丘のように円弧をなしている。その円弧は左が下がっていて、下方の手の動きは左が上がっていく。その二つが静かにお互いに呼応する。夜のアトリエの中にイメージがあらわれ、そのイメージが発展していく動きを、そのままこのような不思議な繰り返される手や人間の顔の移動によって表現しているようなあやしさが感じられる。考えられた構成のようで、実はナチュラルな感性のあらわれと思われるところが面白い。

 福満正志郎「巡光・存在のジェラシー」。若い女性が横座りをしている。それを画面の中心に大きく描いている。背後に黄色い色彩でうねるような光を帯びたような輝きのある空間が生まれ、その向こうに教会を思わせるような建物がのぞく。抽象的な白い二本のストライプや三角錐、あるいはストライプの板のようなフォルムなどがあらわれて、この女性のもつ独特の輝きを周りから支えている。

 山内和則「門(みゆき通り)」。泰明小学校の前のカフェの奥から描いている。黄色を中心として緑と赤い色彩とが雅やかに響き合う。上方を電車が走る。日本の銀座の一隅がパリのようなモダンな雰囲気で表現される。

 田伏勉「陸橋のある風景」。陸橋が遠近感のなかにシャープな形で画面の上方にある。下方にはレールがあり、電車があり、その後ろには建物とタンクがある。手前に錆びた車があって、その前に少年が立っている。雲が動いている。階段を上ったところにショルダーバッグを持って空を眺めている男がいる。だいぶ前に事故があって、その時の車が錆びてしまった。そんな不運な出来事がこの不穏と言ってよい風景の中にしぜんと感じられる。そんな記憶と階段の上方で遠くを眺めている男の姿が呼応するようだ。ドラマ性をはらんだ風景のなかの人物表現が興味深い。

1階─8室

 小久保裕「伏流水」。二人の人間が横になっている。地面が人間の体と重ねられている。そのあいだに水が流れている。独特のリズムがある。大地がそのまま人間に寓意化されて、不思議な韻律をつくる。自由にデフォルメしたそのフォルムに今回とくに強い詩情が感じられる。水がそこを流れているということもあるだろうし、その流れてやまない清冽なものが画面の中から、その動きのようなものをじかに伝えてくるようだ。

 池末満「洲」。すこし水が引いた洲のしっとりとした柔らかな地面の様子を生き生きと描く。あいだに草が生え、そこから裸木が立っている。冬枯れの光景である。向こうには水が流れている。その水のすこし向こうに土手のような地面とのあいだの幅があって、そこにススキのようなものも生えている。その地面と水とのあいだのところが、かつて出てきた水によって抉られているようになって、暗い影になっている。その向こうに灌木があり、はるか遠景に土手が通っている。そういった土手から洲までのあいだの光景をクリアに描く。どんな微細なものも見逃さないように注意を払いながら。そうすると、そこにある実質をもった空間が生まれてくる。湿った地面から生える雑草。灌木に光が左から差し込み、明暗が生まれる。中景のススキが光の中で戯れている様子。それぞれのものにそれぞれの時間があるようで、それらを丹念に写実する。一種の無音状態のような緊張感がこの作品の魅力と思われる。主観を極力排して、目玉だけが画面の中を動いていくような、そんな不思議な風景の面白さである。

 日下部淑子「ダリア」。十八世紀の頃のフランス人が着た木綿のざっくりとしたワンピースを最近入手したそうだ。それを中心に置いて、ダリアのような花を右上に、左下には赤や黄色の多弁の花を置いている。背後に月のようなフォルムが浮かび上がり、右のほうには崖のようなフォルムが浮かび上がる。女の一生といったイメージがあらわれる。女性讃歌と言ってよいかもしれない。背後の月は女性と同じ性質、象徴であるが、その中の祠のような穴を見ると、様々な経験がその中にしみ通るようにあらわれて、明るいものと暗いものとの両方を重ね合って女性の一生があらわれてくるという、そんな寓意性も感じられる。

 髙橋雅史「Trabajador」。タイトルは働き者という意味である。中国人の経営する店の会計する場所と物置のようなところをクリアに描いている。ビニール袋に様々な野菜などが入れられて置かれている様子。そばの立て掛けられた玉葱と台秤。テーブルの上の伝票。重ねられた籠。それぞれをクリアに描き、モノトーンの中に不思議な情感を醸し出す。対象との距離が近いのか遠いのか、その距離の取り方が面白い。接近すると、もっと汗臭い世界が生まれてくるだろうし、遠ざかると、単なる平凡な光景に変ずる。対象との中間領域のところでこれらのものを描いている。そこに独特の時間というものがあらわれてくる。

 佃彰一郎「ライン」。地面に三つの同心円を描く。その中心に人間を配する。そこから出ている人もいるし、歩こうとしている人もいる。群像をそのような同心円の中に立たせるという発想が面白い。その小さな円がその人のポジションになっていて、老若男女をそこに立たせ、あいだにまた人を配しながら、現代の社会の縮図のようなものを表現する。たとえば背広姿に杖をついて眼鏡をかけた老人、上着を脱いで携帯電話を見る男、子供のほうに手を伸ばしているスカーフを巻いた女性というように、一人の人間のクリアな全身像を、具体的にリアルに表現する。その筆力が優れている。五十人近い人が集まると、その存在を通して社会というもののある姿が浮かび上がってくる。

 中嶋明「エピメテウスの戸惑い」。エピメテウスとは兄のプロメテウスと対照的に愚か者だった男で、プロメテウスの注意を無視してゼウスが人類の不幸のために送ってよこしたパンドラを妻にもらい、あけてしまったという。そのパンドラの箱を妻が持って遠くを眺めている。そばにすこし馬鹿っぽいエピメテウスが座っている。妻は謎めいた冷たい微笑を浮かべて遠くを眺めている。子供が胸に手を当てて未来を眺めている。そういった三者三様のキャラクターを面白く描き分けている。どこか人形芝居のような趣もあるのだが、その単純化された三人の全身の姿かたちが今回は実に面白く思われる。やはり、一人の人間を描くより物語をテーマに群像表現したほうが作品が活性化するのだろう。独特のマチエールもまたこの作品の魅力。

 半那裕子「不思議の国」。『不思議の国のアリス』の連作である。卵が割れて、その中から手や楽譜が出てきている。下には莵の頭をした人間やティーカップなどがあるが、その下に建物があって、建物のいちばん下あたりに老夫婦がいるのが面白い。淡々とフォルムを描きながらミステリアスな物語をつくっていく。絵画的センスに注目する。

 木村小百合「どこから?」。オートバイに乗っている女性。お尻がはみ出ているから、完全に乗っているわけではない。オートバイの前輪を大きく描いて、それ以上にこの女性の足の裏を大きく描いて、そこに左手のマニキュアのある指を置いている。ダイナミズムともいうべき動きがこの作品のポイントだろう。女性の顔はモナリザふうに表現されているところも面白い。ダイナミックであると同時に不思議なクラシックな雰囲気のなかに表現してその落差が面白い。

 奥谷太一「存」。四人の人間が描かれている。二人の男が座っている。男の後ろにカメラを持つ少年。手前には青いスカーフで頭をくるんだリュックを背負った女性がいる。女性の体が後ろの男女に比べるとずいぶん小さく置かれている。四人はそれぞれ別の空間にいるように感じられる。とくに手前のリュックを背負った女性とその後ろの三人とは違った時空間にいるように思われる。その二つの空間を統合しているところにこの作品の新しさがある。それぞれの空間、それぞれの時間がそこに流れている。しかも、よく見ると後ろの三人もそれぞれの時間を生きているといった雰囲気があって、そこに単なるナチュラルでない空間や時間の表現がつくられて、そこに緊張感があらわれる。背後のグレーの広がりのある緊張感に満ちた空間は、なにも描かれていないが、奥行がある。同時に、その奥行のある空間が四つの時空間を統合しているといった趣であるところがとくに面白い。それぞれのフォルムはきわめて緻密で求心的である。

 目黒礼子「実験室」。円筒形の上にガラスの板が載っている。円筒のものもガラスでできている。そこは一部壊れて、中には様々な昆虫や魚や卵や内臓などの標本が入れられている。そばにスケルトンが座って考えこんでいる。画家はスケルトンをずっと描いてきたのだが、最近そのスケルトンが人間的な表情を帯びて、温度さえももっているような、そんな深いイメージを獲得しているところに驚く。上向きのスケルトンは足の関節などは外されているが、笑っている雰囲気だし、それを眺めている座っているスケルトンも笑っている。下方には動物の頭が置かれている。画家はこの画面の中で独り遊びをしているようだ。独り遊びができる体質なのだろう。その中に様々な物象がある生気をもちながらあらわれてくる。

 木村富秋「流れ唄」。女性の顔の表情が優しい。頭が一部なくなっている。クッションの後ろに手を置いて座っている。周りで不定形のものが動いている。飛び跳ねて移動している。室内のものたちを動かしながら、女神のような女性を描く。ハーフトーンの色彩に音色がある。月の光でも差しているような柔らかな光の扱いも魅力である。

 伊藤弘之「キャニオン逞」。グランドキャニオンが月光に赤く染まっている。そこに二頭の大小の木馬が浮遊しながら走っている。いちばん下方にはぐるぐると回転する木馬がイルミネーションの中に浮かび上がっている。上方に満月がある。ロマンティックな幻想である。グランドキャニオンは何億年もの時間のなかでこのような谷をつくったそうだが、長い時空間を背景にして木馬が動いていく様子が面白い。木馬を動かしているのは画家の心のなかの時間と言ってよい。その画家の心の時間を巨大な時間が支えているといった趣であるところが面白い。

 齋藤将「Gペンでかこう☆くま」。熊の人形がペンを持って漫画を描いている。後ろには書棚がある。ファンタジーを独特のノンシャランな雰囲気のなかにしっかりとしたマチエールで表現する。熊の目の表情を見ると、人形であると同時に人間であることがわかる。

 田口貴大「ニライカナイ」。鬱蒼と茂った南のほうの森のような自然の中に女性が立っている。左手で木の幹を握り、右手でロングスカートをすこしたくし上げたポーズである。足はこの左手で握った木のカーヴする根本の上に立っているから、不安定な様子である。そういった様子を淡々と描き起こす。それぞれの植物のディテールからこの女性のディテールまで、ディテールが生きた雰囲気というのだろうか、淡々と描きながらそれぞれが呼吸をしているような強い写実の力が感じられる。おそらく現実を見たというより、写真なども使って描いたと思われるのだが、そのディテールの力に注目する。そして、ディテールが集合することによって、何か不思議な命の働く世界が生まれている。

1階─9室

 張公「2013年の私」。上向きの哀愁に満ちた坊主頭の青年。頭が首から離れて宙に浮遊している。そのそばには心臓が浮いている。木の葉が落ちてくる様子が矩形の色面となっている。茎が切られて、円筒状のフォルムがあらわれる。ぽっかり切断されたところからあらわれてくる空虚感ともいうべきものが、面白く画面にアレンジされている。深い緑のトーンの中に黄色や朱色が独特の哀愁の表情を見せる。

 島崎陽子「市のたつ日」。中年の女性が量り売りをしている。その買物の様子。売り手と買い手が面白く画面いっぱいに表現されている。そばに鶏を持つ女性がいる。猿や豚の顔のようなものもあるから、中国のある場所の風景だろうか。牧畜をする人々の生き物との共生関係のなかでの人間の逞しい生活感ともいうべきものを、独特のデフォルメしたフォルムによって表現する。昨年より安定してイメージが高まってきたように感じられる。

 須藤美保「香華幻奏」。モノトーンによって着物姿の女性を描く。そばにその着物の柄の中から牡丹を抽出して大きく描く。金の帯を抱きかかえる女性をもう一人描く。着物を単に着物ではなく、その衣装から現実のものに還元したり、その美的な雰囲気のものを抱きかかえたりといった、着物をキーワードにした独特のイメージの展開が面白い。そばに一匹の猫がいるのが、なにかなまなましい現実の脇役となっている。

 貴志紘美「ある風景」。テトラポッドが一つ、大きく描かれている。その丸っこい重量感のある存在が面白い。背後は散乱する風景のようで、先だっての津波のあとのようだ。手前のグレーのテトラポッドはその重量感のあるフォルムがまるで人間のような存在感を醸し出す。

 秋口悠子「刻」。煉瓦造りの古い廃屋のような建物に樹木の影が映っている。影は大きく、屋根まですべて覆うようだ。その黒はこの建物の崩壊の兆しを表すのかもしれない。影が生き物のようにこの地面に襲いかかり、蜘蛛のようにこれを捕らえようとするかのようだ。影のもつ不思議な力を画面の中にとくに強く引き出したユニークな作品。

 中村光幸「Quiet Friday」。上方に時計があって、二時四十六分を指している。下方に両手を耳に当てた女性がひざまずいている。後ろにももう一人の女性がいる。布が浮遊し、数字のある袋が浮遊している。二時四十六分は二年前の東日本大震災の津波が起きた時刻である。その恐怖を真っ黒い背景の中にこのグレーの強い緊張したコンポジションによって表現する。大きな時計と二人の女性の様子。とくに手前の耳を手で覆った恐怖の女性が強いモニュマン性をつくりだす。

 阿部栄一「よこたわるもの―2013」。上方に男が仰向けになって亡くなっている。ホルベインのあの死体を描いた像からインスパイアされたそうだ。死の象徴である。ところが今回は、そのヴァリエーションのように磔にされた鳥が翼を広げている下方に蓮の花が開いている。死を包み込んで天上にもっていこうとするイメージだろう。そんな優しい雰囲気で蓮の花が描かれている。窓の向こうに寺院が見えるが、その横に原爆ドームのようなフォルムがあらわれている。柔らかなハーフトーンの色彩の中に死を見つめながら、それを癒そうとするかのようなコンポジションが鑑賞者を引き寄せる。

 松山敏彦「T氏の思考」。百合のような花が一輪、大きく咲いている。その下に夫婦がいる。背中合わせになっている。トンボやバッタや蜂や蝶。そこにアメンボやカタツムリや魚が浮いている。三日月があらわれ、上方を向いて寝ている男の姿がある。下方の男性の裸の寝姿である。反対側には空に猫が浮いている。はるか向こうに山並みが見える。自分の住んでいる街で暮らしているところから発した幻想である。草木国土悉皆成仏という言葉もあるが、そういったきわめて日本的な生き物との関係を面白く構成する。

 大泉佳広「KAZE NO KIOKU」。上方に板の扇風機を思わせるようなフォルムがある。その後ろに世界地図が見える。下方には玩具のバスと樹木と赤い飛行機が見える。浴槽を立てた空間の中に置かれている。上方に太陽に顔のある中世的な図像が見える。画家はマチエールにこだわり、ディテールにこだわりながら、そのディテールを通してある詩的なイメージを引き寄せる。しかし、まだここに風は起きてないようで、風が起きるとよりダイナミックなコンポジションがあらわれるだろう。

 早矢仕素子「風の記憶―The Rood―」。壊れた建物の壁。倒壊した壁の中の龕に聖人が入っている。遠景には教会が見える。壊れた建物の下方の両翼に聖人、中心に十字架が見える。破壊された光景の中に深い信仰が宿る。そんな宗教的なイメージを強いコンポジションの中に表現する。

 関口聖子「私の花日記」。右上方に薔薇のような花が描かれている。左のほうには花になりつつあるような不思議なフォルムがあらわれている。種もあるし、成長しつつある生き物のような不思議なフォルムである。画家はそのような種から植物が生まれ、胚がだんだんと育って植物や花の形をなすその過程に大変な興味がある。そこに命の持続する時間を眺めている。ベルグソンの言う持続という観念を画家は絵に表現しようとするかのようだ。空間というより時間のほうに興味がある。その過程がこのあやしい不思議な魅力的なフォルムをつくりだす。色彩も柔らかなグレーや緑、ピンクなど、お互いにハーモナイズし、命というもののなまなましいイメージを創出する。

2階─10室

 村田英子「Dark Salome・希望」小島賞。画家のつくりだした現代のサロメ像である。女の自尊心や虚栄心を十分に発揮したサロメのイメージを、この独特のフィギュア的なフォルムの中に表現する。独特の衣装も面白いし、バックの赤い色彩が強い情念を感じさせる。黄金色に輝く目玉の描かれていない女性の顔がヴィヴィッドに発信してくる。

 児玉沙矢華「微睡む嘘」。ガラスの上に少年が横になっている。そこに顔や入道雲が映っている。周りには廃棄物が散乱している。その廃棄物の様子はこの画家のもっている環境認識なのだろう。その中に空があらわれて、人間が独特の体温をもって描かれる。現実と希望が交錯するなかに一人の人間の姿を描く。

 山中俊明「景想―対の重力」山田文子賞。ハンモックふうなものに女性が横座りに座っている。そのひねったフォルムを生き生きと描く。周りの抽象形態とこの有機的な女性のフォルムが面白く響き合う。

 鳥羽祐二「クレイジードッグ Ⅰ」独立賞。犬が赤い舌を大きく出して口をあけている。どうもここは歯科医のようで、その口を凸レンズでアップしている。そして、下方にはショベルカーのようなものがあらわれている。歯科医で歯をいじられるときの恐怖感を、この犬を使ってヴィヴィッドに表現する。独特のデフォルメが面白く、構成力がある。

 倉岡雅「女・鏡・KAZENOKEI─Ⅲ」独立賞。ソファの向こうに大きな姿見がある。その姿見に足をつけて、ベッドに逆様に横になった女。そばに牛骨がある。牛骨の後ろには階段がある。放射状のコンポジションの中に徹底して対象を描く。グレーに不思議な輝きが感じられる。面白いのは鏡の中のこの女性は彩色されているところで、それもうっすらと彩色されていて、独特の深いニュアンスを引き起こす。

 芝田友司「前進の詩」独立賞。蒸気機関車の手前に自転車を持つ赤い服の男がいる。後ろの緑の蒸気機関車に運転する男がいる。二つの時が交差しながら過ぎていくようなイメージ。蒸気機関車には独特の重量感がある。その重量感をうまく使いながら、そこに動きを与えてシュールな時の味わいを醸し出す。

 波田浩司「羽の舞う日」会員推薦。高層ビルを下方に置いて、夫婦が空中に飛んでいる。鳥の羽がその周りに散っている様子に空しい雰囲気がしぜんと感じられる。デフォルメした形が生き生きとしている。現代のカップルをヴィヴィッドに表現する。

 村上佐惠「ダウンバースト Ⅱ」。ダウンバーストとは下降気流ということで、時にそれは大きな災害をもたらす。渦巻くようなバックの前に、ずっしりとしたメカニックな存在感のあるものが浮いている。見ていると、先が爪になっていて、一種メカニックでありながら有機的な要素がそこに加わって、現代というもののもつプレッシャーをよく表現する。

 米田和秀「星宿る地 Ⅱ」会員推薦。池に両足をつけて岸辺に仰向けになる女性。顔や手は肌色が使われているが、それ以外は緑に染まっている。独特の神秘的なイメージを表す。優れたデッサン力がうかがえる。神秘とかロマンといったイメージが面白く、また、緑の中に光が含まれて独特の輝きのある色彩として使われているところも魅力。

 高松和樹「ヨリドコロ」会員推薦。銃を抱えた少女。その横には脇士のように二人の少女が立っている。背景に猫や鹿がいる。ガラスでできたフォルムのような面白さが感じられる。そこに響いてくるものがある。現代の孤独な内向的な世界からあらわれた人物像であり、それを癒す動物たち。女性を両側に脇士を置いた仏のように描いて、その女性に銃を持たせるという発想が新鮮。

 山根須磨子「光彩の溢るる中で」独立賞。池の中に腿までつかって蓮の葉を持っている若い女性。濡れた上衣の下に肌が透けて見える。女性の体は黄金色に縁取られ、水も黄金色である。聖なるイメージといったものが感じられて、この女性を荘厳しているような趣もある。いずれにしても優れたデッサン力に目を見張る。対象のもつ量とディテールを見事に描いている。柔らかな曲線が組み合いながら、優雅な雰囲気が生まれる。

 井上達也「セイチョウ」中山賞。ような花びらの中に蕾があらわれている。だんだんと蕾から開いていく花。その時間の動きのようなものが画面の中に大きく捉えられていて、独特のムーヴマンをつくりだす。

 浅見千鶴「a fossil- ①」独立賞。大きな竿に絵具をつけて動かしたような独特のエネルギーとマチエールの強さが感じられる。赤黒色のバックの中に白いフォルムが立ち上がる。独特のモニュマン性を感じる。

 磯貝四郎「DEI- I」会員推薦。金属を曲げ、溶接し、あるいはネジでとめ、コラージュした独特の物質感のある抽象作品である。中心のねじれるような金属のフォルムがバックの暗いトーンの中から浮き上がり、独特のダイナミックなエネルギーを発するし、どこか幽玄といった雰囲気のあらわれているところも面白い。

 結城康太朗「magnetic field」独立賞。炎が燃えている。上方では何か爆発している。動きを赤を中心とした色彩で描く。バックは銀灰色のようなグレーともっと濃い青みがかった調子。独特のエネルギーと色彩感覚に注目。

2階─11室

 杉本亜鈴「孤高のロータス」。裸の女性が三つのポーズをして、ちょうど花が開いたような、そんなイメージをつくる。デッサン家だと思われる。

 村本千洲子「石狩挽歌」。三人の女性。手前の女性は顔の横にもう一つの顔がぶれたようにあらわれている。手も同様である。そんな方法で動きを出す。床の木のテーブルの上にはグラスが一つ。窓の向こうには海があって、船が走っている。屈曲するフォルムをうまく使いながら、独特のムーヴマンを表す。そのムーヴマンが内向し、内的な世界に向かおうとするところが面白い。

 榎本悦明「浮遊するリンゴ(Ⅰ)」。モノクロームの作品である。一人の人間を三様に描いて、三人に分割している。中心の男は背広姿で座って、浮いた林檎を眺めている。後ろの二人は座っていて、後ろに本棚がある。独り遊びをしている老人といった趣で、シュールな味わいが感じられる。

 森本貞代「華の回想」。男女がジャンプしているような雰囲気で、頭がない。何かリズムがあり、どこか爆発しているような、そんなエネルギーが感じられる。

 伊久美大悟「振り向いて、『いってきます。』」。アパートの部屋の廊下とドアとその向こうの部屋を描いている。柔らかなハーフトーンの中にしっかりと表現していて、光線の扱いも面白い。目の質がよい。

 中野耕司「曲がり角の向こう側」。青年と少女をすこし人形ふうに扱って、人形芝居ふうにコンポジションする。周りのテーブルや床、雲などの構成も面白い。

 渡辺貞之「黒い羽根の天使『慈悲の聖母ごっこ』」。女性が黒いマントを広げて、そこに八人ほどの子供たちを囲いこんでいる。バックは金が使われている。装飾ふうな画面と黒という強い色彩の扱い。そこに寄り添う子供たちの不安そうな様子。ユニークなコンポジションである。

 宮谷順子「斜光 Ⅱ」奨励賞。ラップに包まれた女性の全身像と顔。都会的な雰囲気のなかにシャープなフォルムが魅力。

 宮地明人「そこに在るということ」奨励賞。乳飲み子に乳をふくませる若い女性。下にはいはいしている子供がいる。ベージュの空間の中にしっとりとした空間ができあがる。鉛筆の線なども生かされている。デッサンがそのまま絵となった例である。フォルムに対する優れた感覚がうかがえるし、画面全体にイノセントな雰囲気の漂っているところがよい。

 中村惠美子「風の記憶」芝田米三賞。ボストンバッグが二つ。下に世界地図が見える。ボストンバッグは一部擦り切れたりして年代物である。いろいろな札が貼ってある。茶色いバッグの下はアフリカの地図で、チャドとかマリという文字が見える。上方には地中海とイタリアが見える。手触りのある地図とバッグによって旅行の時間の重さ、長さがしぜんとあらわれる。

 手塚廣子「時 Ⅱ 2013」。紙の上に鉛筆やボールペンによってデッサンしている。新鮮な雰囲気がある。二人の女性。女性の頭にはたくさんの花が描かれている。空もあらわれるし、水のようなものもあらわれている。二人の人物の周りの花や様々なものが、ごくしぜんなイメージの展開のように感じられる。灰白色のトーンに独特の色彩感覚がうかがえる。

 松浦孝彦「都市の遠近―回想」。高齢化社会の現実を面白く表現している。高層ビルに囲まれた老人が俯いている。上方には妻と思われる眼鏡をかけた女性の仰向けの大きな顔が描かれて、老老介護のような社会問題が表現される。

2階─12室

 福井慶子「生きる Ⅰ」奨励賞。黒人の子供たちが集まって不安そうな雰囲気である。アフリカに取材をしたものだろうか。その表情をしっかりと捉え、全身を描く。

 林晃司「廊下」。リノリウムの床とグレーの壁。病院や学校の中の廊下や壁である。だんだんと向こうに向かっていく。その遠近感が力強い。それぞれの壁や床の位置が現にそこにあるように描く力からくる空間の強さである。

 小石川宥子「流風」。倒壊したような樹木の幹の洞に卵が三つ、上方に卵を抱えた鳥が下りてきている。深い水の中に同心円の波紋がわいている。津波などの災害のあとのそこからの再生を願うイメージだろう。グレーのトーンに独特の深い味わいがある。色調も空間の奥行や広がりがこの作品の魅力である。放射状に広がる動き、あるいは同心円の動き、様々な動きがコンフューズする中に卵というものが聖なるイメージで捉えられる。

 堀一浩「pool」。白いクリームのようなものが床にいっぱいあって、そこに苺ジャムのようなものがドロドロとした様子で入りこみ、セーラー服の女性がその粘着力のある中に横になっている。上方には熊の縫いぐるみなどがある。スィーツの海に溺れたようなイメージであるが、鬱陶しい現代の閉塞されたイメージをよく表現する。

 増田典彦「チルドレン  アンセム」。ヘッドホンをつけた人形のような少女が宙に浮いている。手の上に花が浮いている。スリリングな構図が面白い。

 山本優里「陽だまり」新人賞。樹が地面に接するところに光をあててそこを緻密に描く。地面の上の落葉や石と隆起する根。存在するものの強い気配が感じられる。

 吉川信一「旅の中で」。二人の太った女性が座っている。大きな円弧が繰り返しあらわれて、そこにあらわれるムーヴマンが心地好い。森の中のベンチに座る母と娘だろうか。

 村松元子「Sacrifice」。丸いテーブルに白いシーツが掛けられている。その上に横になった女性。頭から髪が垂れている。反対側には足が垂れている。そんな不思議なポーズであるが、画面の中に引き寄せる力が感じられる。不思議なエロスというか生命感がこの女性の姿から発信してくる。描写的なフォルムというより、画家のつくりだしたフォルムが強い印象を醸し出す。

 石川総一郎「決意の行方 1」新人賞。アスファルトの地面に素足で立った青年。靴を手に持っている。後ろにはきつぶされた靴が何足も置かれている。ドライな現実のなかに生きて、立ち上がって行動を起こすといったイメージだろうか。青年のフォルムがしっかりと描かれている。また、グレーのトーンの中に新鮮な味わいが感じられる。

 日置誠「風を待つ」佳作賞。裂けた地面に下半身が入っている。そこから水平に手を上げて若い青年が上半身をのぞかせている。後ろにも倒壊した柱のようなものが見える。倒壊した、あるいは縛られた現実から抜け出て、新しい人生を獲得しようといったイメージ。独特のマチエールの強さがある。粘着力のあるマチエールが独特の重さとなって画面にあらわれ、それに対抗するだけの浮力を人体に与えようとする。その力が強い印象を生む。

2階─13室

 川畑太「隆起」。女性が横座りに座っている。周りに花々がある。窓の向こうに建物と森が見える。日差しが差して、柔らかな明暗のコントラストを醸し出す。室内の情景をやわらかな色彩の中にうたいあげる。フォルムがクリアで、それもこの作品のよさだろう。

 藤井康子「Fragility」。若い女性がコンクリートの上に仰向けに横になっている。ミニスカートがめくれてストッキングが見える。傍にタロットカードが散乱している。存在感がある。無機的な床の上から肉体の持つエロスの力が発する。

 高橋美穂「出会わない」。駅の構内のようなシチュエーションの中を歩く人々の下半身を描いている。黒白の表現で、動いていることでちょうど写真をブラして映したような、そんなフォルムがあらわれている。クールでモダンな感覚がうかがえる。

 藏元玲美「サマサナイ」。青いリボンをしてお洒落な服を着たティーンエージャーが夢の中でペンギンと遊んでいる。そばに赤や白い花が散っている。そばに貘がいるから、こういった情景自体が夢想的情景であるということなのだろうか。いずれにしても、イメージのつくりだした女性や貘などのフォルムが生き生きとしている。

 田中ひとえ「風の微笑」。赤い背景に浮遊する人間や階段、下方の座っている二人などのフォルムを自在に描きながら、独特のファンタジックな空間をつくる。そばに鳥があらわれている。鳥とこの浮遊する女性は友達のようで、飛ぶという願望を絵の中に面白く表現する。

 社家間美知子「走る道 Ⅰ」。高速道路のような道の上を黒いスーツを着た黒い帽子の人が向こうに歩いていく。向こうには料金所のようなものが見える。その上にも向こうに向かう道がある。この料金所の向こうは断崖で、すぐ海になっている。海に下りていく階段も見える。階段を白い衣装を着た女性が歩いている。面白いのは、柵のところにいる女性が花束を放っているところである。亡くなった人、別離に対する深い思いがしぜんと感じられる。別離のイメージをこの不思議な群像によって、一種デルボーふうに表現しているところが面白い。

 森下よし子「暦日(ある時)」。粗壁が剝落しつつある。骨格の板が見える。そんな下方に広場があって、サラリーマンや若い男女が歩いている。記憶の中に浮かび上がった情景が下方に描かれ、長い時間をこの剝落した粗壁のような稠密なマチエールによって示す。

 渡邉安澄「工場の月」。湾曲するレール。車。トラック。電信柱。コンビナートのような大きな管に取り巻かれた建物。街灯が灯っている。夕暮れの情景。そんな風景を奥行のある空間の中に表現する。幾何形態が集まって不思議な情感を醸し出す。

2階─14室

 宮本孝之「破壊」。古い板塀に窓があるが、そのガラスを打ち破って巨大な猫が入ってきた。迫力のある画面である。猫のディテールや板のディテールがなまなましいイメージをかたちづくる。

 井川雅子「もしかしたら」。裸の女性が浅い座り方で二体描かれている。下方に二匹の猫がいる。背景は赤や黒の色面構成になっている。運命の音色を聴いているような不思議なイメージがあらわれている。

 木村節子「『ゆくえ』Ⅰ」。塔の上というよりは工場のいちばん高いところにチューブが張り巡らされていて、木の階段が散乱している。そこに猫が跳躍している。中心のフォルムから湯気が出ている。湯気はチューブからも出ている。なにかなまなましい生命の感覚が感じられる。このダイナミックな管に取り巻かれた塔のようなフォルムは、生というものの象徴のようだ。そこに跳躍する猫。この構成はよくできている。曲線がうまく使われて、奥行や動きが統合されて、独特のモニュマンとなっている。

 小島遼「夕影と学舎」。中学校や高校の教室の中が描かれている。机が並び、黒板がある。窓の向こうに樹木が生い茂っている。そこに斜光線が差し込み、明暗をつくる。上方の天井にこの校舎の外から見た光景が映っている。シャープな繊細な筆致で、この空間にあるものを生き生きと表現する。優れた描写力である。今回は天井にあらわれた蜃気楼のような校舎の外観がすこし強引に中に構成されているが、次の展開が期待される。

 関口倫世「記憶の庭」。車のフロントグラスから見た風景だろうか。女の子を抱きかかえる父親。それをガラスを通して正面から眺めている。フロントグラスにゾウリムシのような不思議なフォルムがいくつもあらわれて、黒い輪郭線の中に青い点々がある。道が蛇行している。何かの運命的な視覚といった、そんなヴィヴィッドな印象が表現される。

2階─15室

 冨森士司「ふりむけば、宇宙」。上方に水があり、下方の地面に象形文字のようなものが書かれている。画面に接近すると、それはずいぶん彫り込まれた形になっている。モデルペーストが使われている。あやしい雰囲気で、文字が呪文的に生きているようだ。

 後藤玉枝「前略 お元気ですか。 Ⅱ」。枝のようなものが下方から二つ斜めに伸びて、それがロープで結ばれている。右下に指が二つ見える。その上にタイヤがあって、その上にはスカーフで包まれた鳩のような鳥の頭と胸部が見える。枝の反対側には人間の横顔が見える。モノトーンの中に不思議な色彩感覚があらわれる。フォルムが力強い。立体感があるし、ディテールまでクリアに描かれて、実に謎めいた雰囲気である。鳥の目や嘴やしわなどを見ると、人間のような趣で、現実を拒否して籠もったようなイメージがあらわれている。ロープとタイヤの下の指。ドアや窓を打ちつけて内部に入って、そこで命というものを眺めている。光線に希望のイメージが感じられる。

 飯田博己「これから Ser.2」。一歳ぐらいの女の子が手を差し延べている。それを上方から眺めている。その視点が面白く、また、ふくよかな皮膚の感覚が生き生きとしたイメージを発信する。

 前田充代「想花 Ⅰ」。黒いドレスを着た女性が横になっているが、肌もグレーである。シーツもグレー。花がまたグレーで、百合のような花が描かれている。しっとりとした味わいの中に女性の体温や心臓の拍動を静かに聴いているような、そんなリアリティが面白く感じられる。

 波多野香里「他人の始まり①」。青年と制服姿の女性と私服の女性、そばにもっと小さな少年が立っている。「他人のはじまり」という題名だが、やはりブラザーやシスターの関係なのだろう。その中に反目しているイメージを面白く表現する。人間の内界にまで筆の届いた独特の群像と言ってよい。

2階─16室

 秋富浩藏「生きる」。口を大きくあけて祈っている老人の像である。そばに犬がいる。顔を極力大きくして、手はごく小さく描いている。チョコンと前に足の裏が見える。背景は砂漠のような雰囲気で、足跡がのぞく。強い感情表現である。独特の形態だしコンポジションである。

 金本清「ゴルゴタ Ⅰ」。子供が死んで、それを膝の上に置いて女性が嘆いている。背景には羊の群れと羊飼いが小さく描かれている。黒い鳩が下降している。三角構図の構成で、筆力がある。ぐいぐいと描きこむ力に注目した。

 桜井節子「再生 Ⅰ」。ケーキを前にした少女。そばに三人の女性の顔や姿がある。顔を大きくデフォルメしたフォルムが独特の空間をつくる。子供の内面をのぞきこむようなスタンスに注目。

2階─17室

 野村紀子「夕日陰」新人賞。スプーン、さくらんぼ、蜜柑の一部、桃などが集合している。それらがガヤガヤとお互いに響き合い、おしゃべりしているような雰囲気である。スプーンと果実の一部がハーモナイズして、エネルギーを醸し出す。構成力も優れているし、形のもつ力、立体感をよく表現している。

 池上亮「Complex-35」奨励賞。翼をつけた裸の女性はキャバ嬢のようだ。誘われて入ると後ろの口の中に入れられてひどい目に遭うのだろう。鳥の頭をつけたサービスの男もいる。風俗店のイメージを面白くヴィヴィッドに表現する。フォルムに対する感覚が優れていて、そのディテールの力に注目。

 當間菜奈子「宙のほとり」。部屋の中にシーツが丸まっている。枕もある。そこに窓から光が差し込む。光のじかに差し込んでいるところは温かな雰囲気で、周りにグラデーションができる。光がまるで魔術のように存在感をもって画面の中に表現されている。光というものを物質の量のように、精密に測っているような不思議な感性である。

 長谷治郎「Body and Soul」新人賞。肉体と心という題名であるが、一人の女性が座っているポーズと寝ているポーズを重ねて、優雅なエレガントな雰囲気をつくる。若い女性らしく、のびのびとした肢体をもった女性をモデルにして、美的なセンスを醸し出す。背後に楽譜が見える。ベージュとグレーとの対照も心地好い。

 湊なつみ「タイムマシン」。黒いストッキングをはいて立つセーラー服姿の女性。強い印象である。構成が面白い。

 阿藤和子「myself II」。足を組んだ女性のフォルムをデフォルメして、そのイメージを左右に増幅させて、独特の映像的なイメージを表現する。

 土佐大吾「愛燦々」。坊主頭の三人の男がお互いに抱き合うように接近している。ネクタイをしてワイシャツ姿だが、下半身には何もつけていない。大きな白いクリーンな歯並びの様子がむきだしの口にあらわれて、きらきらと光っている。明るいファンタジー。フォルムと色彩との二つが相まって、独特の生気を表現するユーモアのある構成に注目。

 川邊りえ「いっしょ に あそぼ 2」奨励賞。女の子の人形が三体あって、真ん中の赤いドレスの人形が鋏を持って紙からひとがたを切り取っている。なにか怖いものが感じられる。

 河合規仁「旭日昇天」佳作賞。狐のお面をかぶって日の丸の扇子を掲げている青年。後ろには着物姿で踊っている女性。招き猫がいて、亀に乗った少年がいる。浦島太郎を模している。その背後には七福神が楽しくはしゃいでいる。現実と非現実をない交ぜにして、明るいお祭り気分の幻想をつくる。

 小川実「原爆ドームと街」。段ボールでつくった広島の原爆ドームと街と電車。そんなシチュエーションを絵に描いて、不思議なファンタジーをつくる。

 橋本大輔「虚の引力」新人賞。大きな工場の内部のものが撤去されて、がらんどうの空間が描かれている。その空間の力が独特の魅力となって作品の中にあらわれている。同時に気配ともいうべきものが表現されているところも面白い。

 桑野幾子「'13 心の旅 Ⅲ」佳作賞。ネットによって一つのフォルムがつくられる。そして、そのフォルムが動いていくような味わいが感じられる。以前はもっと静的な空間であったが、そのフォルムが動いて生きているような雰囲気に展開してきたことが面白い。

 佐藤みちる「透化する存在」奨励賞。ガラスのコップやミラーのようなもの、あるいは屈曲した形などが集合して、きらきらとした光と影の世界をつくる。動的な感じが面白い。

3階─18室

 米冨裕子「地の鼓動(Ⅰ)」佳作賞。壁土のような支持体の上に植物の葉を描いている。下方にはまるで繰り返す波のようなフォルムがあらわれているが、それは温室栽培の外から見たフォルムのようだ。しっとりとしたマチエールの中に生きて呼吸するものの姿を描く。

 服部誠「ootoo- I」佳作賞。グレーの中のストライプ。円筒形のフォルムを集合させて独特のリズムをつくる。また、その中に一部ミクロの散乱する小さな破片のようなものを集める。抽象形態の中に大きなうねるような動きと細密な空間とが生まれ、お互いに呼応するところが面白い。

 松尾啓子「HIRAKU」。独特の韻律が感じられる。画面の内側から響いてくるものがある。金と焦茶色、そして黒。能の動きを思わせるような幽玄な雰囲気のなかに内側から響いてくるものが感じられる。

3階─20室

 狩野啓子「子供の時間」。ソファに二人の女の子が座って、スマートフォンを眺めている。その後ろには別の大人の女性と子供がまるで霊体のように表現されている。不思議な感覚で人物に迫る。

 蔵野春生「初夏の手紙」。丸いテーブルにクロスが置かれ、花やサクランボなどが置かれていて、若い母親が何かメモをしている。そばに子供がいる。後ろに本棚がある。そういった情景をクリアにしっかりと表現する。その誠実な作画に注目。

 贄田肇「搬送」。男の顔には酸素マスクがつけられ、ほうぼうにチューブがつけられて、点滴の液体を手にした医師たちがこの人間を運んでいる。四人の看護師や医師と患者を面白く表現している。マチエールとコンポジションが面白い。

3階─21室

 中畔千嘉「髪」。フランス人形のような二人の顔が上方に浮かんでいる。そして、片一方の女性にはくるくると巻いた髪がいくつもいくつもあらわれている。向かって右の女性にはハッチングしたフォルムによってピンクや茶褐色の色彩が置かれる。内側から激しく鼓動してくるリズムが感じられる。あるイコン的なイメージとして二人の顔が描かれ、その内側から発してくるエネルギーともいうべき不思議なリズムに注目。

 佐藤仁敬「ヒカリのケハイ」。十歳ぐらいの少女が座っている。窓の向こうに建物のある街がパノラマふうに描かれている。街の形態も少女のフォルムもクリアで、形態に対するセンスのよさに注目。

3階─22室

 磯谷和子「昭和―戦禍」。戦中の家族のようで、父親が兵隊姿で、生まれたばかりの子供を抱える母親と兄弟が二人。上方に日章旗がたなびく。全体に茶系の色彩の中にたらし込みふうな影が入れられて、そのイメージが強く、戦後七十年近くたってもいまだある日の経験が消えずに画面の中に再生される。

 石川博愛「廃墟の記憶―A」。高層ビルが壊れかかっている。その中庭には壊れたブロックが散乱している。そして、その高層ビルのはるか向こうにヨーロッパの建物が残って聳えている。実にシュールな味わいが感じられる。一つひとつ丹念に紡ぐようにこの光景を描いて、不思議な気配があらわれる。下方に十字架が置かれているのが切ない。

 鷲谷春奈「解放の場所」。飢えて死んでしまった馬が地面に横たわっている。後ろに赤い建物があるが、そこに馬に乗って疾走する人間の姿が赤いシルエットで描かれている。その先にも馬のシルエットが描かれている。影絵で何かを暗示するようなセンスと同時に一種シュールな感覚に注目。

 大坂祥春「海へ・Ⅳ」。建物が緑色に描かれている。手前に海があるようだ。柔らかな緑を中心とした色彩の中に紫などの色彩が淡く入れられて、全体でロマンティックなメロディが流れてくる。

3階─23室

 西海谷真由美「僕らはみんな生きている」佳作賞。薔薇の花が布でつくられ、コラージュされている。あいだにモニターが二つ。目と変化する線描きのフォルム。マリリン・モンローを思わせるような唇。目の動きと、もう一つのモニターの中の風景的要素の変化。ユニークな若々しい感覚の映像と絵画とのコラボレーションである。

3階─24室

 ふじいあさ「架空園(邂逅)」。頭がなく、胸から腿までがデフォルメされて、その先端が三つ地面について絡み合った不思議な有機的な形。しかも、そこには二人の人間がいるようで、そのカップルが絡み合いながらお互いに傷つけ合い、傷をなめ合うような不思議なコミュニケーションがあらわれている。シュールな空間である。

 白井宏治「自己と外界の関係」。仰向けの裸の女をぐいぐいと描いて、独特の存在感を醸し出す。あるドラマのワンシーンのような強さがある。

 栗原大樹「流転」。白いベッドに裸の女性が横になっている。髪が伸びて、ベッドの下に水があらわれ、花が集まり、頭蓋骨が上に載っている。エロスとタナトスの世界を生き生きと描く。

3階─26室

 加藤あ貴「ある家族のお話し」。巨大な樹木の前に若い母親と姉と弟、そして一匹の犬。前を水が流れ、花が咲いている。菖蒲のような花と蓮の花。はるか向こうに一匹の犬がいる。それぞれのフォルムを描きながら、物語の中のワンシーンのようなイメージがあらわれる。弟は頭蓋骨を抱えている。水の中には死の世界があって、死と向かい合いながら生のイメージを繰り広げようとするかのようだ。それぞれのフォルムのディテールが生き生きとしている。

 林久人「潮、満ちるまで Ⅱ」。散乱する海岸の光景。津波のあとのようだ。そして、石の上に座った老夫婦。そばに犬がその様子を心配そうに眺めている。海の向こうに入道雲が立っている。今回の津波のあとの現実を静かに画家は表現する。透明な光がこの夫婦を照らす。

3階─27室

 東さかえ「見るもの見られるもの Ⅰ」。鶏の頭が人間の顔と重なって、巨大に全面に描かれている。背後は高層ビルである。実にあやしい雰囲気である。人語を解さないといった雰囲気で、目を見開きながら、ある現実を眺めている。

 片山紘子「生 Ⅰ」。イソギンチャクのようなフォルムがその触手を伸ばして不思議な生命感をつくりだしている。自由に色彩が使われている。緑や黄色やオレンジ、赤などの色彩。そして、透明な胞子のようなものが浮遊している。それぞれの触手が上方に向かって伸びていき、不思議な生き物の合唱が聞こえてくるようだ。

 黒沢典子「重なる Ⅰ」。テトラポッドが六つぐらい集められている。重量感がある。黄色やグレー、ピンク、緑などの色彩に淡く彩られている。それぞれがそれぞれの人間のような雰囲気で、お互いに連帯するといった雰囲気も感じられる。また、柔らかな独特のマチエールがこの作品の魅力でもある。

第67回二紀展

(10月16日〜10月28日/国立新美術館)

文/高山淳

1室

 鈴木良治「たてた。」。子供が立った瞬間のイメージだろうか。しかし絵を見ると、大人が苦労して立っている様子を戯画化して、このような細い足と細い腕、大きな頭で立てたような、そんな不思議なイメージを感じる。後ろに滝のようなものが落ちてきていて、上から水をかぶっている。滝行といって修験道の修行があるが、現代に生きる人間にはそういった様々なトラブルを我慢して生きていかなければならないといった寓意性も感じられる。独特の強いイメージの表現と言ってよい。

 小林祐子「黄昏」。丈の低い樹木の上方に葉が茂っている。下方にはコスモスのようなピンクの花や白い六弁の花や星形の花が咲いている。田園とそこに生きる木や植物を一種図像的に表現する。

 久間啓子「Sea drops〔Flower〕」会員推挙。海亀が泳いでいる。その中に赤い花が浮いている。水がマーブル状の模様をつくりだして、ある渾沌とした雰囲気をつくる。レンズで見たようなクリアさがそれぞれのフォルムに感じられる。そのクリアなフォルムと水の不可思議なバックとが面白く共鳴する。

 立石真希子「室内」宮永賞。白いソファの上にベージュのクッション、茶色いバッグが置かれている。フローリングの上には新しいキャンバスが裏返しに置かれ、グレーの壁がある。平凡な光景のように見えて、何か新鮮なものがある。そこにあるものを発見したといった驚きのような新鮮な雰囲気が感じられる。

 星美加「平穏な沈黙」。実にしっかりと描かれている。写実というもののもつ力を見せつける。円形のテーブルにピンクの布が置かれ、そこにシャツ、懐中時計、頭蓋骨、ブリキの花瓶に差された牡丹、右のほうではページをめくっている人の親指と人さし指が見える。向こうの壁に姿見があって、そのページをめくっている女性の姿がほとんど全身入れられている。窓があけられ、風が吹き、カーテンが翻る。シチュエーションをある物質感の中に表現する。物質感を描くことが対象のものだけでなく、室内の空気までを描こうと踏み込んでいるところが、この作品の面白さである。

 濵田尚吾「遠吠」会員推挙。狼のようなフォルムが上方に口を向けた様子。それがそのまま斜面になり、そこに植物が生えている。ダブルイメージである。上方に満月があらわれ、そこに盆栽のような小さな器の中からやはり遠吠えの狼が描かれている。イラストレーション的なイメージの展開をクリアなフォルムによって表現する。

 今林明子「在る昼下がり」。緑がかったグレーのトーンが渾沌とした空間をつくりだす。そこにガラスのティーカップ、そしてガラスのソーサーが置かれている。それが水中で眺めているように曖昧である。巨大化されたソーサーとティーカップ、手前の葡萄のような粒。全体がこの独特の緑がかったグレーの明暗の中に表現される。存在というものが揺らぐ。その揺らぎを面白く表現する。

 株田昌彦「Twin Engine」会員推挙。ドラム缶のような胴体の先に木でできたような栓があって、そこから黄色い息が噴き出ている。上方からはグレーの湯気が出ている。不思議な二つのフォルムがエンジンだとタイトルにある。自然のもつ生命の働きをこのようなフォルムをつくって寓意化したようだ。メカニックなものによって自然というもののイメージを表徴しようとする姿勢が面白い。

 平野良光「ここのつのせかい Ⅰ」。緑がかったグレーのトーンの中心に巣があり、卵が一つ。不思議な石造りの建物のようなフォルムが傾いている。石を積んだような壁の向こうに星空が見える。上方には電車が浮かび、洗濯物が干され、古びた倒壊したような建物があらわれ、窓がのぞく。巣の周りは円形の石造りの井戸のようなフォルムで、そこに梯子が立て掛けられている。胞子のようなものが飛んでいる。通常の時間や空間を排して、画家のイマージュによって世界を構築しようとする。井戸の向こうの壊れた壁の向こうに星空があらわれるのも、不思議な木が伸びていくところに魚が泳いでいるのも、そういったイメージの働きである。それが独特の統一感のなかに放射状に広がる。それほど色みは使っていないが、深いトーンがあらわれている。どんどん向こうに引き込まれるような奥行が描かれている。一つひとつのディテールは具体的なものであり、それを組み合わせながらいわばシュールな世界を表現する。

 美浪恵利「露~いくえにも連なりて Ⅱ~」準会員賞。蓮の葉と露をフォーカスのレンズで拡大したようなかたちで表現している。下方にクリアなフォルムがあらわれ、上方にそれを拡大して、柔らかなすこしピンぼけのようなフォルムがあらわれ、二つを対比させながら空間をつくる。それによって蓮の形が後退し、水滴が宝石のように浮かび上がる。

 狩野宏明「芸術産業廃棄物 Ⅰ」。画家はディテールにこだわる人である。今回は喉からおなかまで切り裂かれて心臓などが見える解剖的な金髪の男がまず描かれ、その上方に両頭の幻想的な生き物があらわれている。手前のほうはもっとリアルで、猫が三匹いて、散乱した廃棄物。上方にも大きな金属の箱の中に廃棄物が置かれている。そんな廃棄物のもつ力、ディテール、猫のもつあやしい雰囲気からだんだんとこの解剖的な人間に向かい、その向こうには神秘的なイメージがあらわれている。現実を徹底して描くところからよりイメージの世界のものに向かおうとする意欲作と言ってよい。

2室

 難波平人「ダッカ旧市街(バングラデシュ)」。建物の壁が晒されたように白く輝いている。空を見ると暗く、夜の光景のようだ。様々なポスターや看板、旗などがその建物に吊るされたり貼られたりしている。無人である。左のほうに歩いていくと、すこし下がり気味の道で、その向こうにも白い壁の建物がある。その不思議な灰白色をバックにして色とりどりの旗やカレンダーが鮮やかに浮かび上がる。無人の都市のようなシュールな味わいが感じられる。下方の一階建ての扉も閉まっている。夜のしんとした気配の中に建物が不思議なスクリーンのように画面全体に浮かび上がる。全く日本と違った宗教、風俗の街なのだろう。その異様な雰囲気をヴィヴィッドに表現しながら、通常の時とは違った何かワープしたような時空間を画面の中に描く。

 北村真「海から来た女」。クリアな二人の女性。一人は子供を抱いている。鷗のような鳥がそばに羽ばたいている。波が寄せる。そういった情景をクリアにリアルに再現的に表現する。

 佐々木信平「夜泣き石(小夜の中山)」。掛川のこの夜泣き石は江戸時代に書かれた文献による。この場所で女性が陣痛に見舞われたのだが、旅人が、その女性がお金を持っているために、その女性を殺した。傷口から子供が生まれた。子供は成長して刀鍛冶になる。ある日、刀を研ぎに来た男に対して、名刀であるが、刃がこぼれているのが残念ですねと言うと、実は十数年前に自分は女性を殺したことがあると告白して、仇だとわかり、その仇を討ったという話である。植物の中心に盛り上がるような円弧の空間があらわれている。それが夜泣き石である。その上にかかる葉が赤みを帯びた褐色で描かれている。血の汚れを思わせる。そこで殺された女性の怨念の表現だろうか。そのあとのドラマを予感するかのように、その石のあやしい膨らみをもった形が謎めいている。まるでここに様々なストーリーを生み出す不思議な生命をもった石が存在するかのような趣である。人生というものの因縁、運命、そんなものを画家はこの植物によって囲まれた石に感じているようで、その無地の空間が、逆に無地であるがゆえに不気味な力で迫ってくる。

 山本文彦「地異 Ⅱ」。巨大な岩石の上方に仰向けに横たわった青年の姿がある。そばに筋肉質の青年が立っていて、その向かって右に二人の若い女性が座っている。左のほうは入江になって海がのぞく。この後ろの岩は一億年とか二億年という単位によってできたものだろう。そこに置かれた死体は静かに眠っているようだ。画家はそういった地球の様々な生き物、歴史に深い関心をもっている。今回、手前の三人の人間の背後にあらわれた不思議な岩石の異様な形が独特で、そこには気の遠くなるほど長い時間が隠されているように思われる。そういった時間に対して手前の三人の人間はいくら生きても百年も満たない人生を生きている。そして、不思議な海は広がる。この岩石に抱かれた仰向けの人間はエジプトのミイラなどにもつながるような、もう一つの時空間の中に横たわっているようだ。時間というものを垂直に下りていく画家の感性のユニークな表現と言ってよい。

 藪野健「どんなに時が刻まれても」。画家はスペインに留学したことがあって、その頃の記憶が繰り返し絵の中にあらわれる。大きな建物が画面の真ん中にある。鐘楼の下に時計台があって、十二時十七分ぐらいを指している。広場に路面電車が一台、二両続きであらわれて、その向こうにはクラシックな車などがあって、みんな盛装の雰囲気で人が集まっている。建物の正面玄関の前で記念写真を撮るように人々がポーズをしている。左には画家のアトリエの中が描かれる。パレットを持つ男と大きなキャンバス。青い空とその空を映した海。ここに集まっているのは亡くなった人々のように感じられる。画家の強いヴィジョンが繰り返し亡くなった人々を画面に引き寄せる。あるいは別れた人々。その内なる祝祭のようなイメージをこの強いコンポジションの中に表現する。画家は何かを再現するのではなく、その深い内的なイメージを描く。

 山本貞「日本風景(横浜)」。樹木の葉が鬱蒼と茂っている。その向こうに海が見え、ベイブリッジの上を渡る白い橋が描かれている。V字形にあけられた海の上をカーヴする白い橋とそれを支える支柱がイノセントな雰囲気で表現される。手前の鬱蒼と茂った八月頃の樹木の様子と幾何学的なクリアな白いフォルムが対照されて、横浜讃歌といったイメージがあらわれる。

 滝純一「記憶 2013」。赤茶色の塀の下に中世の馬の兜、インコ、果物の盛られたお皿、鳥の剝製などが置かれている。そこにいま一羽の鳥が下りてきている。向こうに見える風景が面白い。モノトーンの冬の景色である。そこに黒褐色の針葉樹が生えていて、そのはるか向こうに山がある。両脇にも雪をかぶった山があって、どこかブリューゲルなどの風景を連想する。上方に赤い色彩があって、太陽かと思うと、それは鶏のトサカのある顔である。左のほうには翼だけが見える鳥を暗示したものがある。寒々とした荒涼たる風景が向こうに広がっている。その荒涼とした風景を癒そうとするかのようだ。荒涼とした風景はそのまま中世という時代のイメージにつながっていくのだろうか。いずれにしても、一つのイメージが次のイメージを呼び起こすという連鎖のなかにこの空間はつくられている。

 立見榮男「夢に胡蝶となる」。中心に蝶が四羽、穏やかにのどかに飛んでいる様子が描かれている。その上方に妖精的な童子の顔が浮かぶ。周りは黄色い空間で、山があり、蓮のような葉があり、蓮の葉の上には一寸法師のような小さな童子が座っている。日本昔話といったイメージを面白く絵の上に展開する。「夢に胡蝶となる」は荘子から来ていて、自分が蝶なのか蝶が自分なのかわからないという話だが、まさにそのような、ここに描かれている花や蝶や童子もそれが作者の分身のように思われる。

 北久美子「雲」。左から孔雀がその尾を少し上方に伸ばしている。その尾の先あたりに胸を反らしたもう一羽の孔雀がいて、尾を下方に垂らしている。それによって円弧ができる。円弧の下に鶏頭の花がペアで咲いている。その下には白い鳩がペアで立っている。その横には二羽の雀が向かい合って、一羽は遠くの空を眺めている。その向こうでは二羽の孔雀が幸福なアーチをつくっている。愛の讃歌といったイメージと言ってよいかもしれない。のどかな豊かな幸せに満ちた光景のうえに、四つの白い雲が浮かんでいる。背後の深い無限空間を思わせるような空のグラデーションの中に、左右には花が咲いて、そこに紫色の蝶が飛んできて、右のほうはやはり二羽で、左のほうだけが一羽の蝶である。とくに何かを強張って描くのではなく、穏やかな中に駘蕩とした幸せな楽園を画家はここに描いた。

 宮田翁輔「地の鼓動」。大地の大きな起伏は背後に海を背負って、横は断崖である。その断崖に向かう形とむきだしの岩がシュールな味わいを見せる。曲線によって組み合わせながら、大地のもつ大きな量感と空間の広がり、そしてその断面を、海を背景にして生き生きと表現する。

 市野英樹「室内」。群像表現であるが、黒白の中に独特の人間の気配がある。人の存在を無言の塊として画家は表現する。

 遠藤彰子「葡萄の熟れる頃」。大画面である。下方では川の両側に建物があって、右のほうはコンビナートのようだが、その向こうの街が倒壊している。手前の街も倒壊して、火を噴いて煙を上げている。噴煙の上る先に様々な馬があらわれているが、加えて、鳥やタコのようなものがそこで騒いでいる。稲光が差して、その先に雷が落ちていることがわかる。一つの終末の光景が表現される。高速道路は壊れて、車が倒壊している。そんな中に人々は逃げて、脅えている。狼のような黒い動物が跋扈している。黙示録的な世界である。終末の光景の焼き尽くす噴煙の中に新しい激しい生命のようなものが生まれて、騒いでいる。とくに右上には自転車にかろうじて乗っている緑衣の女性の上にテーブルがあり、テーブルは壊れているが、そこにタコが絡みついている。黙示録であるから、言葉で述べるより、この光景をひたすら眺め入るしかない。そういった異様な力がこの画面の中にある。地上のものと天上のもの、あるいは意識と無意識、通常の時空間の奥にもう一つの時空間があるということを、画家はこのドラマの中に黙示するのである。

 櫻井晨正「想」。千手観音が並んでいる。バックは金で、千手観音の線も金のように思われる。上方に空があって、星が流れている。千手観音の優しいそのイメージは、ある想念の象徴と言ってよい。画家はもともと想念というものを絵画に描こうとして努力してきたが、今回は西洋から一転して日本の仏教の世界に返ってきた。黄金色の中に癒しの空間があらわれた。

 秋山泉「刻の交差 Ⅰ」。水を中心とした森の様子が上下四枚に描かれている。いちばん上は、水は消えて森のみである。下から二番目に、その水の中に一艘の船があり、棹を操っている人の姿が小さく描かれている。水の中にピンクの色が入ったり黄金色が入ったりして、それぞれ微妙に四面は異なる。時の推移を表しているようだ。時間というものの持続を画家は表現しようとする。それを空間的にどのように表すか。縦に四枚の作品が並んでいるが、絵巻的にいうと、横に連続する時間を縦に並べたという言い方もできて、時間の推移を一望のもとに見ようとする。黄色い花のような色彩や赤い不思議な生命的な点が緑の中に入れられている。また、ところどころ朱色や黄金色が入れられて、強い気のようなものがそこから感じられる。森の中に深く入って、その時間の流れのなかに刻々と変化する不思議な持続を画面に表したように思われる。色彩に透明感がある。対象の物質感というより、その対象から受け止めるイマージュからあらわれる色彩の深さと透明感である。

 加野尚志「文月の頃」。文月とは七月のことである。百合の花や小さな牡丹のような白い花が咲いている。後ろに葉が茂っている。満月がその上方に浮かんでいる。背後は海。月の光が一部黄金色に海を染めている。蝶がそこに飛ぶ。シンメトリックなコンポジションの中に微妙に左右が変化する。海と空の二つの暗い青を背景にして、月と花が輝いている。花の香りが匂ってくるようだ。一つの命の象徴のように蝶が飛ぶ。合掌しながら風景を描いているようなスタンスが感じられる。

3室

 西村榮悟「早春のモレ」。モレは明治時代に浅井忠がこの場所を描いたことでよく知られている。画家は油彩によって表現している。手前に水があり、水辺から樹木が伸びている。面白いことにその手前に水の中から丈の低い樹木が伸びている。そして、石垣があり、白い壁の建物があり、背後に教会と思われるものが聳えている。また、岸辺の近くにも黄土系の壁の四角錐の屋根、そして煉瓦造りと思われる煙突がある。左上方から柳が枝を伸ばしている。グレーのトーンの中に柔らかなこんじき色が重なっているような雰囲気で、独特の光を感じさせる。空もグレーの中にすこし朱色などが入れられている。画面全体に内側からじわじわと滲み出てくるような光があらわれて、それが上品な雰囲気をつくる。しっかりとした精神の佇まいを感じる。とくに二つの樹木の形はきわめて生命的である。屈曲しながら伸びていく丈の高い樹木。その枝のフォルムは実に繊細である。そして、まるで水に流されそうな雰囲気のなかに水から立ち上がっている裸木。二つの樹木は生きている。画面全体のこの不思議な光はやはり画家の精神が発する光だと思う。また、手前に枯れかかったような褐色の灌木がその触手を伸ばしている様子も、向こうの樹木と対照されて不思議なメロディをつくる。水は流れてやまない。まだ冷気の感じられるような季節のなかに不思議な光の中の存在を描く。

 中西勝「幸華」。西瓜をもつ夫。子供を抱える母親。中心の台の上に巨大な西瓜が載り、布で縛られている。自然の実りの中にいる夫婦と子供の、いわば聖家族といったイメージを淡々と描き深いメッセージを発信する。

 吉野純「ピエタ」。十字架から下ろされたキリストを抱くマリア。そばに六人の男女がいて悲しんでいる。画家のつくりだしたピエタは内側から光が鈍くあらわれてくるような独特の光線の中に表現されている。ロマネスク時代のタンパンなどから引用してきた作品も画家には多いが、これは画家がそのままじかにつくりだした一つのピエタのように感じられる。右のほうの上方の女性はまるで日本人のような雰囲気である。キリストの顔もやはり日本的な顔で、それを抱きかかえるマリアもおかみさんのような雰囲気で、全体に力強いコンポジションと深い空間があらわれている。

 黒田冨紀子「ネムの庭」。ネムの花が上方に咲いている。木馬に乗る女の子と男の子。タイヤキのようなものの上にまたがった白い和人形。そして、太った女性が幼児を抱いている。穏やかな中に守る存在としての母親像が強く表現される。その母親を中心とした独特のコンポジションに注目。

4室

 上瀧泰嗣「逃げ出したオモチャの鳥」。赤いミノムシのようなクッションのようなフォルムが円弧をなしていて、三つのパートからなっている。そこに仮面や人間の横顔や逆様になった女性などがいて、円錐状の鳥籠からいまオモチャの鳥が逃げようとしている。その右上方に白いシルエットのように植物と鳥もいる。赤いフォルムから立ち上がっていく人間を思わせるようなフォルムが、画面の上辺を突き抜けている。グレーの中に赤という色彩が強く発信する。横顔を見せる人間は手で風力計を操作している。日常のなかの午睡のようなイメージ。そのなかに様々な喜びや悲しみや恐怖やアンニュイなイメージが引き寄せられて、そのノンシャランな時間の流れこそ、あるいはイメージの広がりこそが人間の生活だと画家は主張するようだ。

 北誠一「風を念ふ」。モンゴルの人を知らないが、モンゴルの人を思わせるような人々が集まっている。九人である。独特の衣装をつけた人々が座ったり立ったりしてテーブルを囲んでいる。ところがもう一人、右下に低い椅子に座った金髪の女性がその背中を見せているところが不思議である。背景は茫漠たる大地の広がりで、地平線まで続いている。そういった中で素朴に自然とともに生きていると思われるこの人々に対して、もう一つ別の金髪の後ろ姿の女性は何者なのだろうか。そういえば、テーブルの上に青い布が掛けられていて、その青い上辺の面が水のようだし、空をそのまま切り取ってここに置いたようなあやしさである。左のほうには壁が黄色く輝いている。画家の描いてきた内界の人間たちの中に新しいものが生まれつつあるような予感を感じる。濃密な空間に何かが生まれつつある。

 松尾隆司「谺」。茫漠たる大地を背景にして二人の女性が立っている。一人は前向き、一人は横向き。同じ人間の二つの姿のようだ。そして、上方にはアルタミラの壁画の中に出てくる動物たちが描かれている。自然と共生し、一つの獲物を取るのにも祈りをこめていた時代のイメージが上方にあらわれる。いまはそのような信仰もなくして、人間は自然と切り離されて生きざるをえない。そんなイメージを下方の二人の女性に感じることができる。うねうねと続く砂漠のような樹木の生えていない荒涼たる大地の広がりが、それを背後から補強する。しかし空は不思議な華やかさで広がり、そこにアルタミラの動物たちが密集している。

 神近昭「イスキア島の夏」。色彩のハーモニーが実に魅力である。あえて対象のフォルムを図像化して組み合わせながら、より色彩の効果を狙っている。下方の菱形や三角形のほとんど抽象的な形。海に浮かぶ船もかなり抽象化されている。その向こうにローズ色の不思議な建物が立ち上がる。空のピンクや黄色、青、ベージュなどの色彩と手前の色彩を背景として、それらの色彩をより強度にしたような建物群。そして、それに向かって手前の岸壁から一筋の道が向こうに続く。気持ちのよいハイウェイのようなフォルムである。近景は、ほとんど抽象的な矩形や三角形や円弧である。朗々としたメロディが画面から流れて、実にその曲は幸せに満ちている。その幸せ感は空間のなかにある色彩の力から発生する。

 橘公俊「百日紅物語(再会)」。一面の百日紅の中に通路があらわれて、左右から猫があらわれている。これまで猫は後ろ姿で、百日紅は向こうの世界とこちらの世界の境界に咲く花のような強いイメージであったが、まさに死から生還して、もう一度生と出会ったような強いイメージが感じられる。右下の枝の切られた樹木の上方も、フェードアウトしてくるような印象である。これまでの百日紅の異界のような力をもったような激しい赤が、この世の赤に変じて、一面に咲いている。そこにオレンジ色の不思議な通路があらわれて、左右から猫が向かい合っている。猫はおそらくグレーと思われるが、補色の関係で色彩が緑がかった妖精的な猫に見えるところも面白い。

 板倉美智子「頌歌」。赤と白の大胆な衣装をまとった女性が踊っている。四枚対のいわば屛風仕立ての空間である。頭にかぶったものから左右に鈴のようなものが広がっていて、鈴のみならず、貝のようなものもそこに垂れている。巫女のように思われる。巫女は踊りながら、「頌歌」という題名だから何かを讃じているのだろう。足の先までクリアなフォルム。全身の形によって深い感情を表す。後ろになだらかな円弧が浮かび上がって、一つの踊りによる結界の空間が生まれていることを暗示する。ヨーロッパふうな激しい踊りではなく、たおやかな静かな踊りの中に凜然たる気が伝わってくるといった様子である。

 米津福祐「ライデン(平成25)」。相撲取りががっぷり四つで組み合っている様子を画面いっぱいに表現する。体の一部は画面からはみ出ている。ほとんど相撲のイコンと言ってよいような味わいが感じられる。

 朝倉雅子「オラトリオ鐘楼の響き」。青い空に巨大な雲がピンクに染まっている。その中にたくさんの人々がいる。面白いのは、その中に菩薩を思わせるような姿があらわれていることだ。その周りには万国の様々な人種の顔やかたちが描かれている。その中に菩薩を思わせる柔らかな顔とそのそばに仁王を思わせるような顔が、横顔と前の顔とダブルイメージになって表現されている。日本の鎌倉時代などの仏顔がここに援用されて空に浮かんでいるように感じられるところも面白い。下方に地上を小さくし、巨大な雲が赤く燃えて、そこにたくさんの人間を入れる。そして合唱するという画家のインスピレーションが生き生きしている。

5室

 松下元夫「音・ひびく古の道」。ほとんど抽象作品である。一部はドンゴロスのようなものがコラージュされている。紙もコラージュされている。激しい筆触で、あるエネルギーといったものが色彩豊かにうたわれている。地上の存在である。それに対して上方に木の板が貼られ、そこに月を思わせるフォルムがコラージュされている。全体は乱暴な筆致に見えて雅やかな雰囲気があって、まるで王朝時代の音色が画面から発信してくるような不思議な作品である。アクションペインティングふうな筆致がそのような雅やかな世界を引き寄せるところが面白い。

 中井喜美子「時、動く」。マリーアントワネットのような女性が、大きく下方に描かれている。その周りに馬に乗った兵隊や、鬘をかぶった司祭や、船に乗る人々。戦争をする兵士達の姿などが描かれている。フランス革命は歴史のエポックであった。マリーアントワネットはギロチンにかけられた。それから二百年以上経つが、その頃の混乱を絵の中に画家は引き寄せる。それは現在もまた、ある混乱の中にあるという時代認識によるのだろう。この絵の中ではマリーアントワネットは、憂愁の表情である。画家も同じような心持ちの中にこの多数の人々を描いた。右上方にスカートに沢山の人々を入れた髑髏が、船に肘をついて立っているが、それはメメント・モリという寓意性が感じられる。最近の震災の悲惨さもこのような絵を描かせる動機となったのだろう。

 谷田穎郎「追憶の街(其ノ幻想)」。街に日が落ちている。その日に照らされて裸の女性が三体寝ているのだが、白く光り輝いている。日を背景として十字のクロスの指飾りをした女性が立っている。日没の夕日の中にあらわれた幻想的なイメージをうららかに表現する。下方はすでに夜の気配で、夕日と夜とのあいだに横たわる女性のフォルムがロマンティックなイメージを与える。

 八木茉莉子「ある日」。通天閣あたりの大阪の下町からイメージしたエネルギッシュな画面である。看板を持つ蝶ネクタイの男のそばにビリケンが座っている。蝶ネクタイの男の看板の中には合唱する三人の楽団の図が描かれていて楽しい。右のほうには卓袱台のようなものを出して、そこに黒人や日本人、アメリカ人などが座っていて、その後ろにはみすぼらしいしもたやに赤提灯がぶら下がっている。生きる楽しさや無常感をあぶり出すように画家は表現する。

 上田保隆「無常」。下方に目を見開いた梟がいる。そのそばには暗い中にもっと激しい感情をあらわした顔がある。赤い色彩に覆われているのだが、その上方にも、見ると五つぐらいの梟の顔がそれぞれの表情を見せてあらわれてくる。赤い炎は劫火のように立ち上っている。そのそばにも若い梟が立っている。画家は大病を経験した。そこからあらわれたイメージだろう。その劫火はいつ人を焼き尽くすかもわからない。逆にいうと、その劫火を前にしながら生というものの力、その意味を絵の中に問うかのようだ。その意味ではどこか青不動などの仏画的なイメージが表れている。画家の代わりに梟が点々とあらわれ、そこに炎が立ち上がる。

 西村紘治「誘惑(盗視)」。正方形の画面の中心に仰向けになった裸の女性がいる。それを頭のほうから眺めている。右上方に巨大な目が見える。うなだれた馬がそばにいる。手前には逆様になった鳥。そして、シルエットになった鳥がやはり上方の裸婦を眺めている。そばに巣があって、卵が三つ。下方に花がある。エロスに引き寄せられ、エロスを眺め考えこんでいる男のイメージを面白く表現する。全体に使われた赤のグラデーションが実に強い感情を喚起する。

 松岡英明「木枯らしの頃」。薄暮といったようなトーンの中に風景が広がっている。倒れた太い樹木の幹に黒い鳥がとまっている。背後には水があり、その向こうには草原が広がって、さらに向こうには山並みが見える。そこに黒い鳥が舞っている。手前の倒壊した樹木の幹は川の中にあるようだ。しぜんと二年前の津波の災害を思い起こす。深い想念の中に画家はいる。その心の中のスクリーンがそのまま絵の中の奥行としてあらわれる。切々たるメロディが画面から聞こえてくる。

 竹内重行「時を越えて」。花が咲いている中に女性の上半身があって、その背中が描かれている。はるか向こうにオーロラのように光が下りてきて、二羽の鳥が舞っている。時を超えてロマンの源泉を眺めているといった、そんな憧景の雰囲気が興味深い。

 山形八郎「岸辺」。垂直、水平のダイナミックな動きが力強いコンポジションをつくる。画家は秋田にアトリエをもって秋田の海を描いているはずだが、三陸のあの荒々しい断崖のようなイメージがあらわれている。そこは山水と言ってふさわしいような独特の力が感じられる。縦に横に朱色の線が輝く。そして、空はピンクに染まり、そこに緑のストライプがあらわれる。下方には青い湾のような空間があらわれ、空の朝焼けのようなイメージが繰り返しこの画面の中に置かれている。空と大地と海の三つの要素を画家独特の詩的なエネルギーのなかにコンフューズし、再構成した趣が感じられる。そしていま夜が後退し、日が昇る。そのイノセントな空の光に対して、夜の闇をまだ背負っている陸地が闇からその姿をあらわしつつあるといった、ドラマティックな印象を抽象的なコンポジションの中にまとめる。

 吉川花憂「生命の歓喜 No1」。満開の桜の下で縦笛を吹く女性は、鳥のような不思議な装束である。そして、雅やかに五人の女性がそばで踊っている。踊っている五人は小さく描かれ、それを桜の木が取り巻いている。その踊っている様子はヨーロッパというより『源氏物語』の中に出てくる青海波といった、のどかでうららかな穏やかな踊りのように感じられる。手前の女性は、角笛のような細長い縦笛を吹き鳥の羽のような衣装であるのだが、全体に和風な、雅やかな、のどかな、スローリーな動きがあらわれ、そのムーヴマンが画面から静かに鑑賞者に伝わってくるところが面白い。

6室

 櫻田絢子「命尽くし」。薄墨桜だろうか。枝が四方八方に伸びて、枝垂れ桜が満開である。枝は赤く彩られ、淡い透明な花びらがついている。近景にも中景にも遠景にも空間の四方八方に枝と梢が伸びて、桜が枝垂れている。とくに下方の地面と接する部分の幹の大きさは巨大で、何メートルもあるようだ。そして、花を咲かせている様子が、うっとりとした一つの成果のような、幸福感のようなものに満ちている。じっと見ていると、時間の底知れぬ謎の中に入っていきながら、この樹木と語り合うような気持ちに誘われる。

 津田仁子「毀れた刻」委員推挙。逆遠近の机の上にすこし壊れた人形、金属の入れ物、ランプ、古いラッパ、分解されたキューピー、鍵などが置かれている。側面にもお玉のようなものや鍵が吊るされている。上方に木馬が吊るされて、木馬のおなかがあけられて、そこから鍵がぶら下がっている。それを絵に描いたようなかたちで、後ろの壁の紙の上にその木馬が描かれている。木馬は金属製である。ひんやりとした雰囲気のなかに古いものが集まって、それぞれがそれぞれの時を語っている。それぞれが、出来てこのようになるまでの時間を語りかけているような、そんな趣が面白く感じられる。

 瀧本周造「Camino de…(対話)」。欅のような樹木が枝を広げている。それを大きく画面の中に構成している。幹も枝も画面からはみ出ている。不思議なことに背景の地面は荒涼とした雰囲気で、立枯れのような細い樹木の幹が点々と広がっている。空はすこし赤みを帯びた雲が覆っている。強い暴風雨でも来そうな、そんなドラマが感じられる。その中に四方八方に伸ばす枝から梢にわたる形が強く発信してくる。まるでその枝の先は振り乱した髪の毛のようでもあるし、神経の繊維が伸びているような、そんなあやしい雰囲気で、その周りの環境の変化をその触手が感知しながら命の限り梢を伸ばしているといった様子。しかもすこし傾いているために、不安定な中での安定もあってスリリングな気配が感じられる。

 佐藤幸代「遥か」黒田賞。透明な青い海のようなフォルムの上方はベージュの色彩で、そこに赤い太陽が浮かんでいる。下方には巻貝や天球儀を思わせるようなフォルムが見える。古来から今日までの長い地球の歴史の中に、太陽という星がいくたび上ってきたことだろうか。当たり前のことが神秘的な問題として画家には捉えられているようで、そこには不思議な形而上的なイメージがあらわれる。一種仏画を思わせるところがある。

7室

 柏本龍太「counterpoint」。カウンターポイントとは対位法という意味である。ドラムを叩く男とエレキのギターを弾く男。二人の人物が描かれている。臨場感がある。演奏している動的な様子がこの作品の魅力だろう。ボリューム感もあって、対象のもつその生命感や動き、フォルムの面白さを大胆に、明るく、奔放に、生き生きと表現する。

 松田俊哉「夏は静かに発酵し」。鉛筆による作品である。下方には画家のつくりだした不思議なスタジオのようなものがあらわれ、上方には雲が幾重にも群がっているが、下方の雲は富士山のあの樹海の中の石筍のような不思議なイメージがあらわれている。つまり、だんだんと積み重なってこんなフォルムになったという長い歴史を感じさせる。その不思議なものの上方に本物の雲が浮かんでいるようだ。いずれにしても、鉛筆によってイメージを表現する。そのイメージには自然のもつ様相がしぜんと引き寄せられて、シュールな味わいを醸し出す。

 塚本裕志「夜の美術館」。褐色のキューブな建物の手前にノースリーブのワンピースを着た女性が立っている。後ろ姿である。そこにスポットライトを当てる。痩せた痛々しい雰囲気で、このどっしりとしたキューブな美術館と対照される。強い明暗のコントラストがあらわれて、ミステリアスな味わいが醸し出される。まるでこの美術館の箱がこの女性の心の内部にある不思議なもののイメージと呼応するかのようだ。

 赤羽カオル「水の賦」。洪水のような巨大な水が左上方から右下に押し寄せて流れている。そんな激しい水の姿をよく表現する。そして下方からすこししなるような植物の茎が出て、そこにオニヤンマが交尾をしている。激しい津波の時にも様々な事件のときにも性の営みは密やかに営まれるといったイメージになるだろうか。水とこのトンボとの対照が独特の雰囲気をつくる。

 北澤茂夫「白昼夢―響きの丘―」。女性が台の上に仰向けになっている。その手前にパイプオルガンの内部のようなフォルムが見える。針のない時計が二つ。背後にはドイツロマン派の文学に出てくるような宮殿があらわれ、両側にペガサスがいる。この女性は夢の中にこのようなロマンの世界を想像しているのだろうか。室内とその向こうの幻想風景とが面白く呼応する。

 伊藤光悦「ぼくの海」。海の水が明るく、不思議な量感をもって広がっている。そこにコンクリートの岸壁があり、釣竿を持った少年がいる。一段高くなった岸壁の上には、それは右後方だが、女の子を自分の体にもたせかけている父親がいる。上方に昼の月が浮かぶ。釣竿を持つ少年の背後の上の部分に赤い灯台のようなフォルムが見える。海は柔らかな雰囲気で、かすかに波を立てている。うっとりするような存在感があって、吸い込まれるようだ。海も、津波のときもあるし、激しい波のときもあるし、凪のときもある。それぞれの表情を見せるのだろうが、これは儚い昼の月に象徴されるような、そのような一刻の海のように思われる。ところが二つの岸壁の向こうに三角形に沈みこんだ大きなフォルムがあって、津波のような大災害のあとといった、恐ろしい出来事がその前にあったことを暗示する。それが平和の大切さというものを強く意識させるのだろうか。少年の後ろに手をつないだ大人と子供の影が見える。その実体はない。実体は消えてしまって、影だけが残っているような雰囲気である。ある喪失のあとの光景のもつ不思議な安息感のごときものを画家は描いた。

 中村智恵美「紫色の花」委員推挙。これまでより光がより強く意識され、色彩が明るくなってきた。蘭の紫や白、ピンクの花、大きなガラス瓶に入れられた色とりどりの薔薇の花。洋梨。サテンのような布。それぞれがそれぞれの存在を主張しながら、お互いにハーモナイズする。何か朗々としたメロディが聞こえてくる。以前は対象の物質感にこだわっていたが、それを突き抜けて絵画としての形や色彩となり、お互いがハーモナイズするところに感心する。

8室

 今井充俊「…Preghiera II…」。題名は祈りという意味である。両手を上に伸ばし、爪先を伸ばした女性が仰向けに寝ている。そばに板が二枚組み合っている。下方に薔薇の花、百合の花、大きな三つの花弁が置かれている。人間の後ろに青い色がつけられ、その周りはベージュである。津波の時のイメージを思わせる。津波に対する画家の深い鎮魂のイメージが一人の生きた人間にこのようなポーズをさせる。下方のハーフトーンの色彩と相まって悲しく優しいハーモニーをつくる。

 小川巧「想」文部科学大臣賞。老人が両手で顔を覆っている。そして、目からは涙が出ている。親指は描かれていなくて、左右の四本の指が独特の存在感を示す。上方から光が当たっていて、その爪のあたりの指を光らせている。指は口ほどにものを言うそうだが、まさに証拠のような作品である。その向こうに瞑目した男の瞼。そして、大きな両目の二つの涙。強い悲しみのモニュマンである。

 吉岡正人「天国の庭」。不思議な緊張感がある。森の緑を映して、池が静かに横たわっている。それを眺める手前に座った男と立っている女性。背中を見せている。対岸の手前に一人の男が裸で、やはり背中を見せて向こうを見ている。対岸には青いスカートをはいた女性が上半身裸で横向きに立っている。手前の三人が見ているのは、対岸の一本の木のようだ。独特の形をしている。大きな葉が点々と梢についている。オリーヴとも違う象徴的な一本の木で、神秘の木と言ってよい。神の依代のようなイメージも感じられる。このような木が画面にあらわれたところが、この作品の面白さと思う。この不思議な木を裸の三人が眺めていて、その視線とはもう一つ別に何か瞑想にふけって遠くを眺めているような横顔の女性。手前には樹木の幹が一本立ち上がっていて、奥は葉が茂った樹木が並んでいる。空には金の箔が置かれている。厳かな荘厳するような光景の中に時が止まり、唯一この一本の樹木だけが生きて呼吸をしているような雰囲気である。しかも、この大きな木の下に若木がもう一本あるところも、なにか強い象徴性を感じさせる。

 井上護「海から来た女」。海から現れたのはヴィーナスだろうか。津波で亡くなった女性たちだろうか。右のほうには青い海を思わせる色面の上方に褐色の雲がいくつも立ち上がって、それを背景にして三人の裸の女性がいる。正面向き、後ろ向き、横向き。三美神の構図である。それを遠くから眺めている。それは雲や海と一体化した神的な存在のように感じられる。その女性が左のほうになると、漆喰がはがれたような壁の前に二人は立って、何か静かに会話をしている。背後の壁に記憶とか歴史といったイメージが表れる。いずれも画家の内界に住む女性のように感じられる。現実の女性を描いたのではなく、画家の心の中にあるアニマ的なイメージがあらわれている。一つは自然により近い存在として。もう一つは内側で囁き語りかける存在として。二人の中の向かって右側の側面を向いた顔などはすこし悪魔的なイメージもあらわれているし、左のほうは貞淑な雰囲気で、二人の女性の表情は対照的である。いずれにしても、心は生きものといってよい。その内界を伝達するのに、画家はこのような手段を使って表現するところが面白い。空間の深さにとくに注目する。

 玉川信一「鳥の巣」。不思議な強さがある。一見すると何が描いてあるのかわからないのだが、じっと眺めていると見えてくるものがある。右下に右手のない男が尖った金属のものを左手に握って椅子に座っている。その後ろに犬がいるのだが、頭が切断されている。対極の左上に横になった男の体があって、首から上が切られている。布のようなもので巻かれていて、あいだに手が見える。その下方に巣箱のようなものがあり、そこから二つのトーテムポールのように見えてくるピエロの顔のようにも鳥のようにも見えるフォルムがあらわれている。おそらくそれが鳥なのだろうが、一般的な鳥ではなく、あやしい存在で、しかもそれは棒の上にのっかっている。グロテスクな笑いのようなものをたたえている。ドライフラワーのような植物が中心に立ち上がって、両側にその触手を伸ばしている。頭のない人間、残酷な笑いを浮かべるピエロ、頭のない犬、そして金属のフォルムを折れ尺のように画面に捺して混沌とした心象を表す。月が右上方に出ている。途方に暮れた人間の存在。そのいわば実存的な姿を描こうとする。画家自身はたいへん優秀な人で筑波大学の教授も務めているが、絵の上ではそういった社会性のベースにある人間の内部を描こうとする。それによって現代の人間像の悲しさに迫ろうとするかのようだ。

 南口清二「アルバムの風景」。手前に男女の横顔が互い違いに前後して描かれている。左のほうには四人の人物像が立っている様子で、男の横顔と背中、左右にこちらを向く女性の顔とシルエットが見える。あいだを霧が渡っている。時間が流れていく。まるで絵巻の中の時間に沿った動きを一枚の絵の中に同時に描いたかの感がある。遠景にマンションがあり、その手前に橋がある。そして、マンションの中の一部を拡大したかのように左上方に窓がある。極力余分な装飾的要素を排して、人間の生きているその時間と住んでいるその場所を対置させながら、時間が動いていく様子を面白く描く。メランコリックな雰囲気が佇んで、物思いにふける男女の像のように画面全体に感じられる。二人は恋人か、あるいはかつて付き合ったような深い関係のようだ。そういった関係が変化していく様子を、霧の中に浮かび上がるような人物像を通して表現する。霧の表現は紺碧障壁画の雲と一緒で、いかにも日本的な空間構成と言ってよい。

 生駒泰充「アルカディア」。満々とたたえた水が滝になって下りてくる様子が画面の中心に描かれて、下方の地面にはあやしい人間たちがいる。オールを持ったり杖を持って休んでいたり、キングのような衣装をつけていたり、ガスマスクをつけて杖をついた人もいる。上方には崖がそのまま建物のようなイメージに変じて、その上に大きな船があり、船に家が積まれて、そこから植物が生まれている。時間を旅する船だろうか。遠景まで点々と家や水、建物などがあり、低い山並みが続く。画家が絵の中でつくりだした一つのワールド。緻密にそのディテールをつくり、そこに人や様々なものを配しながら、それぞれのものが呼吸をするような空間をつくっているところが面白い。

 橋本俊雄「風の架け橋」。構成が面白いし、優れている。煉瓦でできたアーチ状のようなフォルムが手前から二つ大きく立ち上がり、反対のアーチ状のフォルムがグレーで、すこし離した段階に二つある。百合の花がところどころ浮遊していて、飛び魚のような魚が飛んでいる。それだけのシーンだが、構成の骨格が優れているために強い印象である。大きな円弧が強い波動を起こす。白い百合の花とともに見ると、レクイエムのようなそんな心持ちを表現したものと思われる。

 山崎進「風よ伝えて」。赤茶色の大地の上に赤い瓦屋根の小さな小屋があり、その内部や外側に人々がいる。そばにヨットが繫留されて浮かんでいる。海は緑で、空も緑がかった青で、暖かな地域の海辺の光景である。ちなみに人の数を数えてみると、赤子まで入れて二十七人。それぞれがそれぞれの勝手気ままな動きをしている。そうでありながら、なにかノンシャランな中での統一感があるところが面白い。日常からすこし離れたところに彼らはいる。椰子の木の茂る赤茶色の地面がこの人間たちを照り返している。空に月が浮かび、星が流れる。

 鬼澤和義「景」。朝方か夕方か。サラリーマンが駅に向かっているのだろうか。坂道があり、高架の道があり、その下を通る道もある。ビルもある。樹木もある。そういった様子を色面の中に置きながら、そこに大きな直線を繰り返すことによってトーンをつくる。ハッチングではなく、その長い大胆なストライプの線の繰り返しによって独特のリズムが生まれる。明暗の柔らかなコントラストもそこにつけられて、道の一部がベージュに彩られ、明るく輝いている。希望の光のようなイメージも感じられる。都会の抒情ともいうべきイメージをうたう。

 松本邦夫「星の旅人」。地面はすこし山吹色で、樹木の赤にオレンジ色が入り、笹のような植物が伸びている中に、実景より大きな夫婦が描かれ、姉と弟がいる。幻想感がある。空には星がまたたいている。ハレーションを起こすようなその色彩の強さによって、あるいは人間と風景との大きさを、人間のほうを大きくすることによって独特の幻想感があらわれる。それによって地上のものが別の、たしかに星の中の存在のようにも感じられる。

 德永芳子「行く水の流れ・阿吽」。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」という鴨長明の『方丈記』の一節から画題をとったのだろうか。まさにそのように流れてやまぬ水が時間というもの、命というものを暗示する作品として描かれている。左右は横のストライプの銀泥による張り詰めた空間で、中心に水が下りてきている。その中に紙飛行機のような不思議なものが舞っている。落ちてきた水は手前のほうに流れてくる。その手前のほうに来る流れはあまり描かれず、落ちた水は不思議なことに消えていくようで、そこに飛ぶ紙飛行機のようなものと滝壺にある紙飛行機のようなものの集合体があやしい。寂々とした声明を聴くような深い音楽性も感じられる。ほとんど無彩色の色彩であるにもかかわらず、品があり、深いトーン、あるいは深い光のような色彩を感じることができる。

 佐田尚穂「春」。バス停の前の赤いリュックを背負った女性がくっきりと表現されている。ガードレールも、休む場所の小屋のような木造の建物も、背後の樹木もクリアにくっきり描かれていて、その細密的な表現の徹底さが魅力である。また、背後の自然のもつ時間と手前のこの若い女の子のもつ時間と二つの時間がせめぎ合っているような雰囲気も面白い。

 日下部直起「オルタの幻影」。オルタとは建築家の名前だろうか。古風なタイプライターが近景にあり、アーティチョークが伸びている。その背後は静かな湖で、その向こうに整然とした大きな建物や小さな建物が広がっている。建物の形、窓の形などに独特のメロディともいうべきリズム感があって、それらは黄金色に輝いて、水の上にその姿を映している。タイプライターのもつ独特のリズム感と上方の建物群とが響き合う。

 木原正徳「ひとかたち《花の舟》」。赤や青に対してベージュ、柔らかなブルーなどが鮮やかな色彩としてあらわれ、お互いに気持ちよくハーモナイズする。座った裸婦と逆さまになった裸婦。そのあいだに小さな船を上から見たフォルムがあらわれている。両側にオリーヴの木や花が船の上などに浮遊している。ピクニックに行くような心持ちで船があらわれているようだ。また、人体の構造を探求するというより、逆さまになった裸婦と座っている裸婦の二つのフォルムによって独特のリズムができているところが面白い。

 佐久間公憲「白のエチュード」。バレリーナの三体を描いて独特の審美性がある。若い女性である。それぞれのポーズで座っているのだが、その椅子とか床は描かれず、銀箔を置いたような装飾的な空間の中に三人を配している。柔らかな光が当たって、バレリーナのもつ体の美しさや首筋の細さ、あるいはきりっとした目の表情などのポイントポイントをアクセントとして画面に入れながら、ロマンティックな華やぎをつくる。

 小柳吉次「りんごの花」。巨大な太い林檎の幹とその広がる根をクリアに描いている。そして、白い林檎の花がたくさんついている。蕾はみんなピンク色であるが、開くとこのような透明感をもつ白い色彩になるのだろう。円山応挙の絵を思わせるような優れたフォルムの力が感じられる。洋画というより、日本画のもつ空間のフォルムの強さと言ってよいかもしれない。バックに淡い緑や淡いこんじきを思わせるような色彩がはかれていて、それも裏箔などの技法を想起させる。そして、フォルムは柔軟に自由に描かれ、画面の中からはみ出て伸びていく。そこに正面向きの花が一種装飾的な表現として上方に無数に散りばめられて、実に豊かなイメージを与える。

9室

 西大記「サン・ミッシェルと竜」。シュールな気配が漂う。中景には密集する集落をパノラマふうに表現しているのだが、手前の壁の上に少年と老人、老人の背後に不思議な存在がいるのだが、そういった人がいて、少年が歩いている。その壁がまるで屋根の上のように九十度倒されて置かれている。柔らかなグレーのハーフトーンが広がっていく。江戸川乱歩に『真夜中の怪人』という小説があるが、フランスのある街並みをあやしい人が探索しているかのごとき雰囲気が描かれていて面白い。その背後にキリスト教的な銅像ふうな老人と得体のしれないもう一つのフォルムがあるのが、さらにミステリアスな雰囲気を醸し出す。

 大槻和浩「兆し」。女性の上半身。顔は大きく、目を見開いている。茫漠たる不思議な空間があらわれている。空に三日月が浮かぶ。独特の肌触りというか、質感があって、質感を通して人間のイメージを表現する。

 近藤慧子「神獣地へ」。豚の上に梟と鶉がとまっている。後ろに少女がいて、少女の帽子には山羊のようなものと少年がいる。そばには若い母親が大きなフォルムで描かれている。その肩に梟が、その左手の点線上の先の上に山羊のような動物がとまっている。左後ろには紡錘状の三角錐的なフォルムの中に少女や山羊、鳥、梟、子供などがたくさん密集している。一切衆生悉有仏性という言葉が日本にある。ここにあるのは遊牧民族的な存在と農耕民族的な存在とがミックスして、それぞれがそれぞれの命をもっているといった様子で、そこに画家は一つの物語を紡ごうとする。形は自由に変化し、ものの大きさもイメージによって変わっていくなかに、横顔の豚の顔の向こうに不思議な大きな女性の姿があらわれる。これまで以上にイメージが活性化しているように思われる。

 内藤定壽「運ぶ人」委員推挙。白いキャンバスに耳を当てて手で触っている作者。その後ろにはフランスの新古典主義のダビッドあたりの中から登場したような三人の女性があらわれている。絵を描くということを考えるそのこと自体に浮かぶイメージを絵にするという発想である。優れたデッサン力あるいは筆力をもとにしたそのようなテーマ性が面白く感じられる。

 塩谷亮「律」。裸の女性が黒い上着だけを羽織って立っている。床と壁に布が敷かれて、床には淡いピンクの百合の花が一つ置かれている。女性のフォルムを見ると、すこし妊娠初期のような雰囲気もある。いずれにしても、女性のもつ柔らかな曲面やそのフォルムに接近して画面の中に生かしている。乳房や腿などの柔らかな雰囲気に対して、左手の血管のすこし浮き出たフォルム、長い髪、すこし俯いて考えこんでいるような表情がいずれも呼吸をする人体にそのままフィットするような写実になっている。以前の写実に比べると、はるかに深くなっている。女性という対象のもつ生きた存在を画面の中に生かしながら、単に生かすだけでなく、そこに画家独特の生に対する尊敬のような気持ちが入ることによって、画面がより高次のイメージを獲得する。

 松本善造「『朝日村』―早苗饗」。飛行機の上から見たような朝日村の様子が下方に描かれている。そして、だんだん下降していって、巨大な樹木の塊が右上方にあらわれてくる。左にはもっと細い樹木が立ち並び、草を茂らせている。そのあいだは斜面になっていて、斜面にも様々な植物が生えている。視点を自由に移動させながら画家の扱う朝日村のシリーズが続いているが、今回はとくにそのダイナミックな動きに注目した。

 岩永敬子「我々は何処から来て何処に向うのか」。背景には都会のビル群が描かれている。そこに一艘の船が浮かぶ。その一艘の船の中にはそのビルの中で生活している人々の様子が描かれているようだ。子供と添い寝する若い母親。ヨーヨーを垂らす少年。黒い豹の尻尾をもつ女性。地球儀を見る男。旗を振る老婆。梯子をなんとか立てようとして努力している人々。沖縄のシーサーのような生き物のそばからもう一匹の山猫のようなフォルムが浮かび上がる。そう書いてくると、この船の中にある存在は都会のビルの中にいる人々ではなく、もっと素朴な田舎に暮らす人々であることがわかる。そばにもう一艘のいま建造中の船があって、そこには子供たちと母親や先生、牛と女性、聴診器をそばにおいた病人などが置かれている。そして下方には馬の歯によって支持された紐が伸びて、それを持つ人がいて、その下は高層ビルの下方で、赤い五角形のヒトデがいる。都市の崩壊とそこから新しく何かもう一つの命や生活をつかもうと努力するイメージがしぜんと浮かぶ。タイトルも「何処から来て何処に向うのか」ということである。

 都丸直子「アチッ!!焼くのは生のサカナだけにして~!!」。囲炉裏に火が燃えている。鉄瓶が揺れている。鉄瓶を自在鉤で吊るしたその上の木製の鯛が泳いでいる。そんな鯛の向こうに箸を持った少女の顔がある。食欲と魚を焼くという行為を面白く連結しながら、独特の心理的遠近感をつくる。囲炉裏の周りには魚が串に差されて立っている。順番を待っている魚が串に差されて床の上にある。デフォルメをする精神がそのまま絵画としての面白さとなっている。

 藤原護「Otonomie〈川模様〉」会員優賞。これまでの豊かな色彩がなくなって、グレー一色になった。川の流れを聞きながら、そこに浮かぶイメージをこの不思議な形にしたということだろう。そのフォルムを見ていると、カンディンスキーなどにつながるような味わいが感じられる。そして、あいだにすこし水の流れていく様子が抽象的に表現されているが、川に雨が降ったり、天気であったり、あるいは花が咲いたり、魚が泳いだり、様々なイメージを左右四列、縦七列の中に自由にまとめた画家のイメージの力に感心した。

 田中定一「何処へ」。麦藁帽子をかぶって籠を持った老農婦が歩いていく。極端に下方から上方を見る様子で、画家の視点はこの女性の足元よりもっと低いところにある。画面のほとんどが空で、そこに残照を受けた雲が黄金色に輝いている。そして、たくさんの気球が飛んでいる。籠を持つ農婦が地面を歩く姿がそのまま不思議なバックによってもう一つの世界に変ずる。とくに光というものの透明な性質が色彩としてあらわれているところが面白いと思う。農婦の先は家なのか、あるいは何かファンタジーの世界に農婦が戻っていくかのような不思議な雰囲気である。土と生きる人間を描いてきた画家が、それをベースにファンタジーを描いた。

 岡野彰夫「キセツ・巡り来る」。白いシーツの上に緑のマスカット。地面から丘を切り取ったようなフォルムから枝が出て花が咲き、もう一つの同じようなフォルムから枝が出て鳥が飛んでいる。後ろは川の流れで、その川の流れは四層にわたって繰り返し重ねられている。下方の流れの上方には入道雲が浮かび、中層では大きな断崖があらわれ、その上方ではやはりもこもことした雲が遠近の中にあらわれ、さらにその上方では雲は消えて、静かなさざなみがあらわれ、そこにもっこりとした島のようなフォルムに樹木が密集している。まさに季節が夏からだんだんと冬に向かって巡っていくようだ。そういった様子を前述した風景によって表現している。

 井上展也「黎明」。画面を見てまず注目するのは、画面の中心にある池である。そこは空を映してグレーに輝いている。手前の緑の雑草の中の白い小さな花々。中景の対岸の茶畑のような植物の三層のフォルム。その向こうには山のようなものがあるらしい。中心にぽっかりあいたこの水には聖なるもののイメージが宿る。

10室

 吉川和美「午後の時空―水の形―」。イタリアにはライオンの口から水が流れているといったものがよくつくられているが、そういったものからインスパイアされたのだろうか。その口から水が流れ、またどこからか溢れるように水が流れている様子が、命というもののヴィヴィッドな感覚を伝える。

 八田喜美子「せせらぎ」会員賞。画家は宮崎の西都原古墳群をテーマにして描いてきた。今回は岩の上に女性が一人座って南天のようなものを持っている。後ろに水が流れていく。柱が立ち、柱の上に不思議な植物のような花のような布のようなものが巻かれている。その柱を見ると、かつての古墳時代の柱を連想する。それを画家は絵の中にもう一度立ち上げて、その喜びを、旗のようなものをその上方に置いて風に靡かせているかのごとくである。これまで以上に古代に接近することによって、いま生きている人間もよりミステリアスな存在に化すようだ。

 原澤和彦「うつせみの淀」。落ちてくる飛行機。壊れかかった車。空に雲がわいているが、その雲が湖のように、そこに倒立するように映る建物。あるいはそこに浮かぶ廃墟の群れ。子供を抱く母親が右下にいて、すべてがフェイクに見える現実のなかに、母子の存在を聖なるものと捉える。リアルなフォルムに対する感覚が構成に臨場感を与える。

 知念正文「竹富島」。牛の鼻につけられた紐を持つ男。そばには母親が小さな子供を抱いて、そばに兄が立っている。植物が激しく立ち上がっている。田園で牛とともに暮らす農夫の姿が象徴的に表現される。小さな部分にこだわらず、大きく全体をつかまえて、そこにあらわれてくる強いムーヴマンが魅力。

 小林千枝「蟬時雨―望郷」。暖色の色彩が画面全体を覆って、柔らかな暖かな雰囲気をつくる。独特の色彩家だと思う。ソファに膝を立てて座っている女性のスカートの花柄の意匠のピンク色が、全体の中の静かなアクセントになっている。俯いた女性の顔が優しい。

11室

 松下恒夫「ふじ壺のついた貝殻も現れた」。貝殻に大きなフジツボがいくつもついている。その上に、アワビの断面のような中に南瓜の断面のようなものが描かれている。蜂の巣のようなものもある。ほとんどミイラ化したカエルが飛び、蛾がそばにいるが、羽がちりぢりになっている。海の中のもの、あるいは南瓜のようなもの、カエルや蛾といったものをモチーフにして、それを引き寄せながら不思議なフォルムをつくりだす。レクイエムのようなイメージもあるし、新しくフジツボがどんどん成長しているような生命的なイメージも感じられるし、その両端を描く。ディテールが面白い。

 向吉文男「牛を放つ」会員賞。上方に前向きの牛の顔が置かれている。下方は散乱する様々なフォルムで、自動車のようなもの、車輪の跡のようなものも見え、水が噴き出るように流れている様子も描かれている。やはり津波のような大災害があったことからインスパイアされたものと思われる。そういった中にも牛とともに生きていく生活がある。あるいはそれを壊す現実。様々な要素がコンフューズしながら後ろ向きの農夫の仲間、あるいは夫婦と思われる姿が見える。大地とともに生きている人間の激しい表現であるが、よく見ると、深い静かな味わいが感じられる。

 藤井繁「忘れぬ思い」。柵に腰を下ろす農夫のような男。後ろの何もなくなった地面に裸の女性が寝ている。同じ女性の背中と上から見た姿。この室内の向こうには荒野が広がっている。点々と建物が見えるが、すべてが崩壊したあとのようだ。やはり津波の経験に根ざしているのだろうか。しかし、この二人の女性と一人の男性のフォルムは力強い。

 岸本凌幾「ジャズの刻」。ベースにサックス、トランペット。トランペットのようなものを持っている人はボーカルでもある。そういった楽団奏者の姿を強い陰影のコントラストの中に表現する。それによって画面の内側からジャズのメロディが流れてくるようだ。明暗の強いコントラストとフォルムを組み合わせたコンポジションに注目。

12室

 神保進「男二人(高千穂)」。柵に寄り掛かるようにして立つ二人の男。背の高い男と低い男。ふさふさとした髪と後退した額。自由にデフォルメした形。二つの人間の存在を表面的ではなく、内側から描き起こすその筆力。背後の山はグレーで、霧がかかっているが、一種水墨のもつ表現力も感じられる。

 辰巳明子「復元木柱列(東方向)」。縄文土器が二つ前後している向こうに柱が十本ほど立っている。その向こうは緑の田園風景である。手前にはイルカの骨と陶器の破片が置かれている。上方の二つは土偶の一部のように思われる。悠遠たる古代、縄文時代に対する憧れがこのような不思議なコンポジションをつくった。土器のカーヴする曲線を見ていると、呪術的な世界に入っていくような力を画家はそこに引き寄せていることがわかる。そして、可憐なイルカの骨が自然と共生した頃の縄文文化のイメージを静かに伝える。

 大久保真加子「絵のある部屋で」。猫が横になっている。その下には花嫁衣装のような大きな布があって、そこに様々な花が置かれている。上方にも花が咲いている。うねうねとした独特の曲線によるフォルムとそれぞれが集合することによってあらわれてくるヴァイタルな力。左のほうには二枚ほど描かれた絵が掛けられて、下には白いキャンバスがある。いずれにしても、そういった独特の曲線を使った動きのある生命的な力に注目。

 田口正子「景 Ⅰ」。家があり、道があり、樹木があり、丘がある。そして遠景には霞むようなグレーの山がある。パノラマを自由な抽象的造形に表現している。そこから不思議な音色が聞こえてくるようだ。とくに中心の楕円状のフォルムに囲まれた家や水を思わせる存在には、何か深く人の心を癒すものがある。

13室

 阿部好江「風音(2)」準会員賞。ピンクのテーブルの向こうに少女が座っている。妖精的な雰囲気である。テーブルにはかじりかけの林檎やカップ、本、花が置かれている。後ろに向こうに突き出た三角形のフロアがあり、そこに遠近感のある窓がある。その向こうに花のようなものが浮かんでいる。グレーを中心とした中にしっくりとお互いのフォルムが響き合いながら、独特の詩情を醸し出す。

 小松洋子「海月―Ⅰ」。手前に星座を思わせる盤があり、その向こうにも星座と時計を重ねたようなフォルムがある。それは上方に伸びていく塔のある建物の下方で、その向こうに時計がいま針を動かしている。クラゲが左右に泳いでいる。下方は海の底で、砂地に透明な水が戯れている。時間や星座を超えて、このクラゲは魂の伴走者のようなイメージとしてあらわれてくる。そこに独特のロマンティックなイメージが漂う。とくにクラゲはイメージと存在の両方に軸足を置いたようなものとして画面に置かれ、その背後の海と響き合う。海の水もまた命を育む不思議な存在として表現され、その透明な水の柔らかなイメージがとくに魅力である。

 勝田敏夫「トドワラの彼方 Ⅱ」。飛行機から見た地上の風景のようで、中心に水が蛇行しながら流れている。上方には空が浮かぶ。地平線が円弧を描いている。独特の臨場感が空から見た風景に感じられる。

 牧ヶ谷功「炎樹(Ⅲ)」。赤い幹から青い炎のように樹木が立ち上がっている。点描による表現で、その周りの不思議な植物なども相まって、自然のもつ不思議な働きを寓意的に表現する。一種織物を思わせるような、そんな独特の技法にも注目。

 丹羽久美子「時の記憶 Ⅰ」。赤い着物を着た女性が風車を持って座っている。そばに人の顔以上に大きな芥子の花が咲いている。琵琶のような楽器がその手前にあり、樹木が立っている。日本の物語の世界からあらわれたような深い感情世界を象徴する女性のように思われる。論理的ではなく、感情や祈りといったイメージが画面からしぜんと立ち上ってくる。

14室

 徳田ユキコ「暮らしのかたち・南フランス」。色彩家である。建物がお互いにひしめくように並んでいる様子を、V字形の構図の中にまとめている。上方に広がっていくかたちの中に、様々な朱や茶の色彩のヴァリエーションが入れられている。それは屋根であったり窓であったり煙突であったりして、そこにすこし明るい壁のベージュ系の色彩が入れられて、全体で高らかなハーモニーをつくる。同時にフォルムの全体に気持ちのよい音楽的なリズムが生まれる。

 佐々木秀樹「入り日」。少年と少女。少年は盆栽のようなものの上に立っている。少女はフラットな切断された円柱のようなものの上に立っている。お人形のような少年少女。しかしよく見ると、クリアなディテールの中に生き生きとしたイメージがあらわれてくる。影絵のようにいま夕日が落ちて、雲がピンクに染まっている。

 竹内勝行「共生」。太い根の先に幹があり、幹の先に枝や梢がある。そんな巨大な三百年や五百年生きてきた樹木を根から梢まで描いている。宙に浮かべたようなコンポジションになっている。そして、そこに宿り木のような植物が存在し、白や紫の花を咲かせて可憐な様子である。背後には安曇野のような田園風景が広がり、遠景に山が見える。一本の樹木のもつ不思議な形をヴィヴィッドに表現しながら、「共生」という題名のように空間と時間の象徴としての一つの存在を描く。

 吉田晴夫「テニス」。空中に飛ぶようにしてボールを追う女性。下方には両側に足があって、数えると五本で、腕が二本、ラケットが二本といった激しい動きをする人がいる。月が出て、月を眺めている帽子をかぶった少年がいる。田園の中の詩と言ってよい。テニスという運動をキーワードにしながら、生き生きとした運動する一つのフォルムをつくる。緑やブルーをベースにしながら、そこに明るい色彩を点じていて、色彩のハーモニーもまた魅力。

15室

 難波英子「アルマンド B」準会員賞。丸いテーブル。黒いグランドピアノ。テーブルの上の花瓶に差された白い花々。壺や像の置物。そういったものを大胆に空間の中に配置しながら、黒を主調色としてまとめている。黒からグレーにわたる調子がふかぶかとして、空間をつくる。そこに、たとえば白い花のそばにある青い布のようなものを置いたり、すこしあけられたグランドピアノの中に別の色彩なども置いて、黒の中で明度の高いものがお互いに響き合う。シックな味わいがある。黒を色彩として使いこなして、室内の空間の深さや広がりを表現する。そこに雅やかな高音部のメロディが流れる。

 唯井直美「次女・八重の領域 Ⅰ」。塚のようなフォルムの上に木があるが、木は半ばで切られている。それを眺める着物姿の少女。風が吹いて、木につけられた巣箱はどくろの仮面のように感じられる。虚しい空虚なイメージを表現する。この塚の中に入り込む階段が下方に置かれているが、その中に入っていくと、もう一つの別の世界に行けるのだろうか。

 定森満「花のある風景」。腕を組んだ女性の裸の上半身。周りに花があり、後ろに立った半裸体の女性がいる。ラッパを吹く天使のようなフォルム。青を中心として独特の色彩の輝きが感じられる。内向しながらじわじわとあぶり出すようにフォルムをつくっていく。そのようなイメージの展開によってあらわれてくる、触覚的存在感に注目。

 望月昭伸「告知者」。紙を持って、いま現れてきた男。外した眼鏡を持っている。俯いた年とった夫婦。犬が心配そうにそばにいる。カウンターの向こうにはやはりタバコを持って俯いた男と考えこんだ男。窓の向こうを眺めるコート姿の人間。ある禍々しい告知を与えられた人間の心。その心理的なドラマを様々な群像によって表現する。それぞれのフォルムが優れていて、独特の群像構成になっている。

16室

 松下卓生「泪のしずく」。三つのグレーの巨大なタンクがあり、手前にも小さなタンクがありパイプが縦横に走っている。そんな中に蜃気楼のようにあらわれた洋風な美しい女性のすこし後ろから眺めたフォルム。そして、タンクに穴があき、そこから涙が落ちてきている。グレーの空間にも涙が落ちてきている。メカニックなコンビナートが悲惨な状況になっているということ。そのまま福島原発のイメージにつながっていくものがあるだろう。

 遠矢秀三「虚空へ」。樹木のように立ち上がる岩のようなフォルムが何本もあって、それが旋回しながら、その中に雲や光る球体を抱いている。下方には雪が積もっている。そのあいだに集落がある。ところが、その集落の周りは崩壊した様子である。崩壊したなかでまだ保っている集落であるが、人の気配はない。捨てられた街のようなイメージを下方に置きながら、あやしい不思議なものが立ち上がって、光る雲や球体を抱いている。そこには希望はあるのだろうか。虚空というものが人間の営為に対して対照され、虚空の中から新しい命が生まれつつあるのだろうか。不思議なファンタジーをこのように構成する画家の力に注目する。

 庄司健一「囲いの中の風景」。帽子をかぶって座る男。眼鏡をかけている。独特の質感がある。後ろには道のようなものがあり、右には山と太陽があるが、内部からチューブを絞り出すように描いた人間像であるところが面白い。

 小川富子「軍鶏Ⅰ(生きるということ)」。二羽の軍鶏が闘っている。そのフォルムがリアルで、優れた力をもつ。モノトーンである。筆によってこのフォルムは描かれていて、独特のボリューム感と同時に生気に満ちた形があらわれている。激しく闘う軍鶏の姿を描くことは難しいと思うが、強い想像力があるのだろう。

 山家利治「漂流人間(Ⅰ)」。大きな円筒形の中にロボットのような人間たちが落ち込んでいく。パソコンを持っているそのままの様子で、数十人の人間が雪崩を打つようにそのブラックホールに吸収されている。人体はグレーによってつくられて、キュービックな形でまとめられている。そこには静かに光が当たって、情感があらわれる。哀愁の中の現代の人間群像といった趣である。

17室

 下村尚子「ある日の楽園・Ⅱ・2013」。葡萄や洋梨が積み上げられているが、その向こうに海がある。いま引き潮のようで、洲が出ている。点々と小さな白い建物やタンクのようなものがのぞく。上方に葡萄の一粒、二粒、レモンなどが宙に浮き、巨大な雀のような鳥がこの果実を狙って下りてきている。鳥の動きの先を見ると、そこには果実があって、果実からまた向こうの海に行って、また鳥に行くという、前後にわたる紡錘形の大きな動きがある。その動きが、この風景の中の時が無限循環するような不思議なイメージを表す。

 玉尾慶子「午後 Ⅰ」。兄と妹が立っている。そばに犬が寝そべっている。キュービックな処理によってフォルムをつくる。褐色の色彩が大地を思わせて、独特の安心感がある。後ろに伸びていく柱のようなものがあり、空が残照で、もう一つは緑がかったグレー。二つの空が変化しているのも面白い。いずれにしても、この十代の兄と妹の強いコンポジションである。

 石田葉子「春一番」準会員優賞。上方に洗濯物が干されて翻っている。三重にわたって紐が上下に置かれている向こうに、盥から水を地面に放っている女性がいる。落ちてくる水をフォルムとして面白く表現している。その右向こうには何か作業をして立っている女性の姿がある。あいだにボールと碗とカップ。日常生活のなかで経験するイメージを絵の中に面白く表現する。単に再現するのではなく、時間のなかで動いていくもののイメージがあらわれる。時というものがしっかりとフォルムの中にからめとられているところがこの作品の面白さである。また、単純化したフォルムが独特の生命感をもっている。実際、水が落ちるその様子が細分化された時間のようにフォルムとして描かれているわけで、そういった時間の表現がしぜんと物語をつくる。

 伊藤浩二「路上の老人」。白いひげを生やして杖をついた老人が座っている。イスラムふうな帽子をかぶっている。褐色系のグレー一色である。人間の存在というものに徹底して焦点を当てて表現する。描いているうちに彫刻をつくるようなマチエールが生まれる。

 田家ハルミ「夢野 Ⅰ」。チャイナふうの衣装を着た女性が宙に浮遊している。顔を見ると、頭はほとんど坊主に近い様子で人形のようであるが、やはり人間なのだろう。下方にはススキや毬や小さな花などが置かれている。夢の中で無重力になった人間のイメージである。夢の中でそのような経験をすることによって自分自身を解放する。いわゆるセルフリアライゼーションの典型のような作品として注目した。

 六反田英一「飛翔」会員推挙。浮かんでいる女性。ワンピースを着ていて、その衣装が宙に浮かんでいる。バックは銀の箔を置いたようなかたち。下方に水がある。水と女性とが胸のあたりでほぼ接している。そのあたりに黄金色の玉があらわれている。バックにたくさんの鳥が飛んでいる。甘美な幻想である。墜落することにも快感があるし、墜落しつつまた飛ぶことにも快感がある。そのような自我をなくしたところにあらわれてくるイメージを面白く造形化する。

 小原瑛子「その花をさがすとき」。倒れたピサの斜塔のようなフォルム。そのそばに頭に薔薇の花を差しエリザベス朝のような首に巻いた衣装をつけた妖精のような女性が立っている。野には白い百合や様々な雑草がある。画家はきわめて夢想的にイメージを追う。そのイメージの中に見えてくるものが描かれる。緑の空間がしっとりとして、そこに光が当たり、この不思議な少女とも大人ともいえない顔や手を照らす。顔と手の形が実に面白く感じられる。

 大崎宥一「マテーラ」。グレーに独特のニュアンスがある。マテーラは紀元前につくられた洞窟住居が現代にのこるイタリアの街であるが、そんな街の手触りをこの汚したようなグレーによって表現する。独特の手触りとボリューム感がある。ところどころ窓があいているのが面白い。窓がそのまま窓の奥にある人間の気配を示す。グレーの壁にも人がそこに触ったような気配がある。垂直と水平の、あるいは斜めの線を駆使しながら、深いイメージを画家はここに構成する。

 柴野純子「祈りのかたち」会員推挙。板を自由に切ったものを画面にしている。地塗りをして、そこに色を置く。上方に大きな百合の花。画面の上辺から吊るされた糸に一つの鍵。あいだに、おそらく古代の音楽と思われる楽譜が置かれている。鍵は天国に入るペテロの持っている鍵を思わせる。百合は清純の印。信仰というものの力をこのようなコンポジションの中に表現する。

19室

 吉本満雄「この街の片隅で(ドヤ街の人)」。ワンカップ大関を左手に持って座る男の膝には猫が寝ている。ハイライトのタバコと吸殻。干されたシャツ。魚眼レンズで眺めたような独特の楕円状の動きの中につくられたコンポジションである。デフォルメされた人間の手や顔の表情が強い生命力を発信する。

 榎本幸弘「冬の街」。高架の線路に電車が走っている。粗末なアパート。アパートのドアをあけると廊下がある。信号がいま赤く灯って、その上に人の目が浮かぶ。下方には俯いた男の姿。走る人。街の中で経験する断片を集めながら、時の過ぎていく様子を構成する。フォルムによって強いビートをきかせながら表現する。

 河野陽子「あの日 Ⅱ」。茶褐色の中に影によって時間の謎を表現する。人の影、樹木の葉の影。影の中に窓があらわれ、猫がいる。ミステリー小説のワンシーンのようなコンポジションである。

 山本智之「夢でみた夜」。昭和の昔の時代。板塀にオリエンタルカレー、キッコーマンの看板、金鳥の渦巻きの蚊とり線香の看板。後ろには使われなくなった電車。窓の壊れた建物。人形のような少年が目を見開いて鑑賞者を眺める。追想のイメージが心理的な遠近感の中に、明暗のコントラストを伴ってあらわれる。

 井田孝子「星夜会 Ⅱ」。公園に犬を連れて座っている少年。そばに鳥が何羽かいる。空を見ると、十三日ほどの月が出ている。雲の向こうに星がまたたいている。街灯が点々と灯っている。夕方の光景と思われるが、空の上方は夜で、下方には不思議な光が差していて、時間というものが特定できないようだ。中心の噴水の白いフォルムもあやしい。クリアなフォルムを駆使しながら時間の裂け目の中に入ったような面白さを描く。

 冨田儀孝「心象の景『倭』Ⅰ」。下方に大きなお寺の屋根のようなものが白く輝いている。その後ろは大きな斜面になっている。左上には丘がある。右のほうにも切り立った断崖があって、そのあいだにはさまれたお寺である。上方には円弧や玉を持った龍の足が見える。よく見ていると、右上に龍の頭があらわれてくる。画面を眺めていると、ちらちらとして見えてくるものがある。中心にお寺を置いて、自然の中の象徴とした龍が上方にあらわれ、時空を超えた世界があらわれる。茶褐色のベージュの色彩が優しく、安心感がある。龍を描いて、龍のダイナミズムというより、空間のなかにわだかまる強い力を表現したものと思われる。

20室

 水巻令子「廃校 Ⅰ」。この学校は津波に襲われて廃校になったのである。その中に十歳に満たないような少女が立っている。左にカーネーションのような花を持っている。大きく見開いた目が不思議な表情を表す。その目は何を見たのだろうか。恐ろしい津波の様子を見たのだろうか。同時に、この目にはどこか仏眼的な要素が感じられる。苦しみを癒すような強い精神のエネルギーが、その目から発信してくるように感じられる。そんな不思議な少女の姿が描かれている。古びた建物の壁のドアはなくなって、ドアの向こうに窓がある。その窓がすこしあけられて光が中に差し込む。その光は自然の光であると同時に、手前のこの少女の目の不思議な輝きを見ると、弥勒菩薩の光のような仏の光のような、そんな強いイメージが感じられる。この校舎の内部の状況をリアルに描くという力。そのうえにあらわれた独特の形而上的なイメージを表しているところが実に面白く感じられる。しかしまたもう一度この絵を見ると、少女の全身像が描かれていて、服もスカートもサンダルをすべてクリアに描かれているのだが、実に不思議な霊的なものがあらわれているように思われる。十歳ぐらいまでに人間の人格は完成するといわれているが、十分に完成されたそのようなものを画家はここに描いている。

 永井龍子「渚の詩 Ⅱ」。浜辺を白い犬を連れて歩く女性。岩には鳥がとまり、岸壁の上には鳥が飛んでいる。はるか向こうの水平線までの距離感が描かれているところが、この作品のよさである。同時に日常のなかに流れる時間を淡々と描きながら、独特の哀愁が感じられる。

 仲築間英人「記憶―水を汲む少年」会員推挙。昔ふうにポンプを上下しながら水を出す仕事をしている裸の少年。そのそばには後ろ向きの少年が座っている。古い昭和の頃のような畦道と茅葺きの家。少年の顔を見ると、タイあたりの人間のような雰囲気もある。また、水を汲むポンプの上に牛のようなイメージがあらわれている。牛が荷を引きながら水田を耕す姿である。フォルムが力強い。

 薗まゆみ「遊(2)」。これまで描いてきた烏天狗を小さなボックスの中に一つひとつ入れて、大きく女神のような女性を浮遊させている。日本は天照大神の時から、女性が強い力をもっている国である。そんな力を激しく描くことによって、天狗たちが小さなボックスに閉じ込められて、マイホーム的になっている様子が面白い。

21室

 松岡美子「刻の行方 Ⅰ」。地面がひび割れている。不思議な線があらわれている。石がそこに並べられている。風景というものが深い孤独なものとして表されている。植物のようなフォルムがまるで神経のように感じられる。世界の果てにあらわれた風景のような存在感が表現される。

 渡辺記世「華々想々 Ⅱ」会員推挙。ぐるぐると回るフォルムがいくつもあらわれて、その上に赤く彩色された木がコラージュされている。明るい、お祭りのとよめきを思わせるようなエネルギーが画面から感じられる。神道的な世界と自分とが一体化したところにあらわれてくるプラズマのようなイメージの力に注目。

 林湜和「相棒」。山羊のお尻に猫がとまっている。木彫であるが、フォルムが生き生きとしている。白く彩色されているのが木目と相まって、ナイーヴで素朴な表情を表す。

 中山孝司「命をつなぐもの」。鹿のような角をもった頭蓋骨が木彫されている。ところどころ赤や緑に彩色されている。念力的な要素があらわれている。呪術的な力を引き寄せているところが面白い。

24室

 持留亜矢乃「その先に臨む命の歌」。黄色やピンクの花を茎のほうから眺めている。つまり後ろから花を眺めている。黄色い花は十弁ぐらいのかたちで、その向こうに包み込むような円筒状と思われるピンクの花が咲いている。茎が太く、その花を支えている。後ろから花の命を眺めているところが面白い。昨年は手術後のような坊主の女性の顔を描いた画家であるが、今回は一転して、このような激しく咲く花を後ろから眺めるという視点の作品を描いた。昨年の作品を見た人は、この作品を見ると、またいろいろな感想がわくと思う。

 渡辺愛子「日本人の物証―糸Ⅰ」。かつてぼろ布を緻密に描きながら、それを縫う手を描いたが、ぼろ布が消えて、布はこの一筋の何本かが縒られた糸になった。それに触れている老女の手。クリアに手を描きながら、そのあいだに続く糸が父、祖父、曾祖父というように、連綿とつながる家系の連続を感じさせる。その連続をイメージする糸が銀色に光っている。それに対して、いま八十歳ぐらいの老女の手が描かれている。時間と空間の二つの要素を面白く連結する。

 上杉汐輝「滄溟の時」。中国の山水画を思わせるところがある。左上に白骨のような白い裸木が枝を広げている。その後ろには広葉樹があって、緑と褐色を混ぜたような色彩が葉につけられている。それに対して右下には雑草が密生する中に少年が立っている。妖精のような雰囲気で、肩から着物のようなものを着て、胸から首、顔と白く輝いている。あいだは水で、蛇行しながら遠景に続く。画面にほの明るい光が満ちている。自然の中にある裸木とこの柔らかな皮膚をした少年のような姿が対照されて、ミステリアスな物語がこれから生まれつつあるようだし、何かの象徴的な表現のようにも感じられる。

 柏木健祐「六月の野の土赫く」二紀賞。昔の活動写真をつくる時に働いている人々のようなノスタルジックな雰囲気がある。実際、障子や襖、畳などを持っている人もいるし、紅白の天幕の上には舞台がしつらえてある。そういった中にマグリットの中に出てくる登場人物のような山高帽の男が数人、幔幕の中に入ろうとしている。過去の記憶と現代の動きとがない交ぜになって、かゆいところに手が届くようで届かないような、日本人には親和力のあるイメージが表現されている。だから、二紀賞をとるのもわかることである。それぞれのフォルムはクリアで、一つひとつ舞台の中の登場人物として描いている。それによって現代と過去とがない交ぜになった不思議な空間が生まれる。

 鈴記順子「私的アリス考 Ⅱ」女流画家奨励佐伯賞。百人を超えると思われる老若男女が左に向かっている。そこは橋のようになっている。そして、その向こうには巨大なコンビナートが煙を噴き上げながら活動している。その上に莵の横顔が雲や霧の中からあらわれている。その口の向こうには火が燃えている。コンビナートが危険な状態になっているようだ。とすると、下方の人々は避難をしていることになる。そのわりにはノンシャランな雰囲気である。こういった絵は言葉で説明するのは難しく、その意味を絵からじかに尋ねるしかないところがある。言ってみれば黙示録的な世界と言ってよい。筆者は数えていないけれども、直感で百人以上いるのではないかと言った下方の老若男女の姿をそばで見ると、走っている人もいれば、立ち止まっている人もいるし、何かを引っ張っている人もいる。しかもそれぞれの人間との関係はきわめて薄く、孤独な人々が、時には二、三人のグループがあったとしても、それぞれが勝手に左に向かっていく。ここにあるのは空間というより時間というものの不思議さのように感じられる。時間は持続していく。それぞれの人間にはそれぞれの内部に持続した時間がある。そんな時間というものの不思議さを描くところが面白い。

 青山ひろゆき「琉群」。恐竜が赤い衣装をまとって左のほうに進んでいる。口をあけながら強い迫力である。それが集合体で描かれている。ユーモラスだし、不思議な力が感じられる。

 榎本篤「残響」。馬の頭を見上げている。まるでギリシャ時代のトロイの木馬を思わせるようなアルカイックで古代的なイメージである。そして、下方にピアノとすこし離れて立っている男がいる。この男性はミュージシャンで、ギリシャまでさかのぼる曲を弾こうとするのだろうか。

 高橋勉「約束の地(道標)」。楕円状の半分のフォルムが画面に描かれ、近景にアンモナイトのようなフォルム、そして雲が浮かび、植物の葉があらわれ、上方には樹木のような形が描かれている。シックな褐色系の色彩の中に神話的な物語が生まれつつあるような、そんな世界を面白く表現する。

 川口智美「amaryllis」準会員賞。白や赤やピンクのアマリリスが画面に大きく描かれている。その茎や葉の形が面白く、花と茎とがしっかりと連結しているところにこの画家のデッサン力がよくあらわれている。そして、背景は柔らかな透明な黄色で、その黄色とそれぞれの花や葉の色彩が典雅なハーモニーをつくる。

 村上伸栄「家紋(影とかげ)」。彫塑によってつくったような女性とも男性とも思われない顔が大きく画面いっぱいに描かれている。独特のマチエールがある。像を通して人間の内面の世界にふれようとする。

 川上久光「食虫花」会員推挙。チューリップのような花びらが開いていて、その中に指や蕊などが置かれ、水玉がUFOみたいな形をして浮遊している。横になった指は動物の頭を思わせる。そして、遠景には都会の高層ビルのイルミネーションの世界が描かれている。憧れをもつようなイルミネーションの世界に比べると、ここに描かれている花の中にある存在はもっと人間臭く、お互いが近い関係のなかで絡み合うような世界である。

25室

 白石顕子「手紙」準会員推挙。たしか武蔵美の卒制の時から注目してきた画家である。以前はもっと生活感のある風景や室内風景を描いていたが、今回は上方に幾重にも立ち上がる高層の集合住宅を淡々と描いて、不思議な魅力を発する。近代的な高層ビルではなく、一階の上に二階を、その上に三階を、というようにだんだんと重ねていったような雰囲気で、手前にはもっと低い階の高層の建物が見える。右のほうから斜光線が当たって壁や窓をきらきら光らせている。一つひとつの住居の区分によって微妙に色彩が異なる。以前にはマチエールが重視され、フォルムが重視されていたが、この作品では色が重視されている。地味な暖色系の中にブルーが入っている色彩であるが、それらが連続する中に夢のような希望に向かうような、そんなハーモニーがあらわれる。

 平川敦子「おやすみまた明日」。お風呂に入ってリラックスする。そのコンディションが高く上げられた足によって描かれ、その浴槽にはカバも気持ちよく入っている。いま象がそこに入ろうとしている。日々の苦労をバスで癒す画家の日常からあらわれたファンタジーで、また不思議なリアリティがある。

 末次広幸「塔のある街」。褐色のモノトーンである。壊れたビルの手前に物思いに沈むポーランド人のような女性の上半身が描かれている。高層ビルはそこに重なって樹木が覆っている。崩壊した街を再生しなければいけないのだが、そういった中にこのような女性の上半身を置くことによって、あるロマンティックな情感のようなものが生まれる。

 大島敏英「兆し」奨励賞。ものと空間との関係といった難しさは必要なく、骨になった魚と動物の頭とがレリーフのように表現されている。実際はレリーフではなく、絵画のイリュージョンだが、そのようにクリアなフォルムを描いて、独特の明るさとリズムが生まれている。

 渡辺麻希「休憩」。黄土や褐色を主調色として、そこに差し込む光がテーマとなっている。光の量を測るかのように植木鉢の花や白い動物の骨が置かれている。光に対する欲求が今後どのように展開するか楽しみである。

 立木健太郎「いつも此処から Ⅱ」。森の中に母親と子供たちがいる様子が描かれている。たとえば女性の手のフォルムを見ると、この絵描きは優れた描写力のあることがわかる。ぐんぐんと描きこむことによってあらわれる存在感に注目。

 櫻井美佐子「泡沫姫」。タイルを背景にして、顔が全部髪になっている女性。そこに手を当てているところからシャボン玉が浮かんでいる。手の指の形やこの女性のフォルムの全身のもつボリューム感、ディテールのもつ力、その強い描写力に注目。その描写力が、フラットなタイルを前にして女性を描いて生かされることによって、シュールな味わいを醸し出す。

26室

 若見優貴「向こう側の空」。地面から伸びた植物が白い花をつけていたりピンクの花をつけていたりする。背後には灌木がある。自生の植物を描くことは意外と難しいことであるが、難なくそれをこなしながら、植物のもつ生命感を生き生きと描いている。その筆力に注目。

 榊原幹夫「棲家」。木造の二階建ての建物が左右にあって、そのあいだに樹木が伸びている。手前にはトタンの壁の小屋のようなものがある。雑草が生い茂っている。空の雲がピンクに輝いているから、夕方だろう。カラスと思われる黒い鳥が二羽飛び、左のほうの裸木にはもう一羽がとまっている。それぞれのフォルムがクリアで、独特の物語がその作品の中から伝わってくる。造形力もあるし、このシーンを描きながら、それが一つの物語になるといった才能に注目する。

 石﨑道子「流星の使者 Ⅰ」準会員推挙。赤い帽子をかぶった魅力的な女性が腕を組んでいる。後ろに舵輪のようなものがあり、その向こうにラッパを吹いている若い女性がいる。後ろには一角獣が黒々とした茶褐色のシルエットで浮かぶ。その向こうには家があり、巨大な塔のようなものが立ち上がる。ロマンティックな風景。いわばドイツロマン派の文学を思わせるような、そんなミステリアスなシーンである。

27室

 中山和子「清風(Ⅰ)」。三本の杉のような木が立っている様子を地面近くのところに焦点を当てて描いている。もちろん地面には雑草も生えている。独特の動きがある。視点の面白さとその根底にある水墨のもつ気品のようなものが、この表現の中に引き寄せられているところが面白く思われる。

 松原寿恵子「ラウンジにて」。ピアノを弾く赤い髪の男と、彼と九十度の位置でトランプをいじっている金髪の女。すこし後ろに女がいる。手前には様々な犬がいる。不思議なことに、室内のはずが背後に風景があらわれ、二十五日ほどの月が浮かんでいる。イメージを追求する。浮かぶイメージを画面の中に構築し、音楽的なメロディのようなものが聞こえてくるような空間をつくる。色彩画でもある。

 香西文夫「使者」。描写力がある。それは女性の後ろの馬を見れば明らかである。手前の女性も画家の美意識に従って細長くすこしデフォルメしたかたちで表現されている。混沌とした様子をカーヴするフォルムによってぬかるみのように地面を表現する。海は黒く、水平線のすこし上方の空を赤くしながら希望のイメージをもたせる。コンポジションといい造形力といい、優れた画家であることはよくわかる。

28室

 片山友佳「聳える海」。瓦屋根の民家が左右にも前後にも密集している様子が強いリズムとなって画面にあらわれている。下方に手前の道のガードレールのようなものが赤く結界のように描かれている。その向こうには山の斜面を補強するようなコンクリートのフォルムが見える。海の向こうから黒い雲が現れてきている。台風が来るのだろうか。台風が来ると、この集落は崩壊するのだろうか。そんな不穏なイメージが描かれているように思う。いずれにしても、独特のリズムというものを絵の中に生かしている。

 丸川幸子「one day I(祈り)」。指揮者の向こうには合唱隊がいて、もう一人の指揮者の向こうにはオーケストラがいる。そして、いちばん後ろにいるのは声楽隊であるが、その後ろに巨大なガラスのようなものが立ち上がって、そこに人々の姿が巨大に映っている。画家には不思議なリズム感があって、一つひとつの人間やフォルムを音符のように扱いながら、トータルで一種の音楽を聴くような感興を起こさせるところが面白い。

 阪上芳子「木魂 Ⅱ」。水の中に樹木がある。根が広がっている。一部が地表に出ている。枝も根のような雰囲気で、カーヴしながら絡み合うような形をつくっている。上方に水面の波が見える。水の中というシチュエーションも面白いし、そこにあらわれてくる形が生き生きとしている。見ていると、樹木の絡み合いがまるで人間の絡み合いのように感じられる。

 山崎恵「春を待つ」。左が暗く、右上方が明るく、そこから黄金色の光が入ってくる。それぞれに樹木のカーヴする幹のフォルムがつくられ、右下には影のようにも水のようにも見えるフォルムがある。全体でロマンティックな雰囲気が漂う。上品な雰囲気の中に樹木がお互いに呼応しながら鑑賞者に語りかけてくる。ハーフトーンの色彩も魅力。

29室

 岡田昌也「閉ざされた遊具(F)」。画面の中心に上から鎖が下りてきて、その先にブランコを思わせる遊具がある。その上方に女性が浮いている。仰向けになって、膝を頭のそばまでくっつけたポーズである。ずっしりとした黒白の世界の中に浮遊する裸婦。ブランコの鎖のもつ重量感。黒に一種の気品ともいうべきものがある。それは形態に対する優れた感覚と同時に、画家のもつ美意識によるものだろう。

 大貫恵美子「空」。子供を抱いて上に持ち上げた母親の姿を、下方から見上げる角度で描いている。風景がそれに従って魚眼レンズのようにカーヴして見える。コンポジションの面白さと造形力に注目。

 片庭類「星桜」。画面の八割ぐらいは桜の花に覆われている。画面の中心下方に幹が見える。明るくほほえましい。桜の花と一緒に画家も踊っているような、そんなリズム感がある。そこには日本人の神仏習合的なアニミスティックなイメージがあらわれて、上方の空には月や星がまたたいている。昼も夜もなくひたすらこの桜の花を愛でる心もちが絵の力となってあらわれている。

32室

 小牧星子「箱と少年」。優しいアンティームな魅力がある。小さなおもちゃのような家に子供がいて、窓から顔をのぞかせている。その右のところに何かを持って四つんばいになった少年がいる。後ろには版画を思わせるような技法で樹木が立っている。ベージュやグレー、褐色系の色彩を使いながら、おだやかな中に構成もしっかりしている。愛らしい。

 杉﨑春菜「愛してる」。水彩作品。上方のサロメの顔を思わせるような女性の顔が印象深い。全体は黄金色のトーンに染まっているが、その顔の部分の表現力に注目した。

33室

 勝又大智「階段」。画面の真ん中に舗装された通路があって、途中は階段になって下りていき、フラットになってまた下りていく。中景に見える建物群はその近景よりもっと低い部分にある。左右に雑草や樹木が立っている。この通路に少年と少女の二人は後ろ姿で立っていて、男の子が一人こちらに駆け上ってくる。そういった平凡なシーンを絵の中に描きながら、独特のリアリティをつくりだす。おそらくディテールのもつ力を十全に使うということと、中心にこの通路をおくというコンポジションの力だろう。

 筒井美代子「行方 Ⅰ」。後楽園のような遊園地を背景にして、池がある。その池の中に男の子と女の子が水着姿で立っている。一つの詩の世界が描かれているが、手前の空間がもうすこし大きくなれば、もっと面白くなると思う。

〈彫刻室〉

 加藤美紀「音のない森」。二つの板の上にテラコッタの少女を置いている。板の右はしには一羽の鳥。板の中にすこし白く塗装した部分があって、そこに光が流れているようなイメージがあらわれる。それに対してテラコッタのもつ質感が対照される。独り遊びをする詩人のようなイメージがあらわれる。

 長谷川総一郎「ほこら 5」。古い樹木の幹を切断し、中をあけて、その洞の中に男女のヌードがある。トルソである。黄金色に彩色されている。中の樹木の様子が渾沌とした流れを感じさせる。時間の流れである。その中にふくよかな二人の男女のトルソ。男女神と言ってもよい。道祖神的なイメージも感じられる。また、縄文時代の豊かな土偶的イメージも感じられる。日本の古神道的な長い流れのなかに西洋とのクロスするところからあらわれた独特の彫刻として注目した。

 日原公大「雲を掴む様な話より天翔女あるいは流離いの女神」。黒く彩色された首から下の裸婦のフォルムは力強い。顔は白木でお面のように嵌められている。そこにかぶさるフォルム。ある強張りのなかにこの女性はいる。抑圧されたなかから命が立ち上がろうとする。

 日野宏紀「鼓動」。ピエロが両手をすこし前に、手のひらを開いて何かをメッセージしている。足を見ると、親指が反っている。強い緊張感のあるポーズである。パントマイムの一つのようなストップモーション的な力が面白く感じられる。また、眉をひそめたようなかたちで上方を眺めているこのピエロの顔には、悲しみの翳りがある。

 遠藤幹彦「流れ」。三つの太いカーヴする板の上に女性が立っている。ヌードである。右足に重心をすこし置いて、左足がほんのすこし曲がっている。首をすこし右に回し、腕をくの字形に、手のひらを顔のほうに向けて指を開いている。ボリューム感のある女性像で、すみずみまで神経が行き届いている。画家のつくりだした菩薩のようなイメージを、この女性から感じる。

 柳沢俊男「浜守」。海を眺める女性の上方に、二羽の鷗が飛んでいる。量感のある女性の全身のフォルムに対して、軽快な鷗のフォルムが対比される。海を守る女神のイメージをモニュマンとして造形する。

 片瀬起一郎「雲の行方」。大きな樫のような広葉樹が三本。そして、間隔をあけてアコーディオンを持つ女性が座っている。アコーディオンの音色に沿って樹木のフォルムが優雅に変化し揺れていくような二つの関連性。そこにあらわれている空間の魅力。木彫のもつ質感を十分生かした作品である。

 長谷川敏嗣「鎮魂―流転の海へ」。右足一本で立って、左足を前に伸ばし、両手を広げて、危ういバランスをとっている裸婦である。一瞬ののち転落する危険性がある。今回の題名のように、津波で亡くなった人々に対する深い悲哀の表現と思われる。この危ういバランスをとるということ自体が、鎮魂の深いイメージを醸し出す。

 恩田静子「(宇宙曼陀羅)追悼・秀郎へ」。円柱の上に上方がすこしもっこりとした小さな円柱を置き、そこに球体を置いている。五輪の塔の変形バージョンである。画家がこれまでつくりだしてきたプラスティックの中の透明な物質を使っている。下方の太いフォルムの中には鍾乳洞を思わせるような不思議なフォルムがあって、その中心に円柱があり、円柱の中には黒や金の点々が入っている。また、黒い点々は表面にもあるようで、上方にもあり、そして、いちばん上の球体の中には銀や白い球体が入れられ、金粉も入っている。三つのカーヴするフォルムがそれを囲んでいる。厚い板のようなかたちで、厚さは微妙に異なるのだけれども。その中にも黄金色や緑色などの色彩が入れられていて、全体で深い結界をつくる。独特のマチエールの強さがある。中心を囲む、この半ば透明な三つのフォルムと、森の塔のような円柱とのあいだに立ち上がる霊気のようなものが興味深い。また、海の水の奥深いところからそれを切り取って地上に持ち上げて置いたような深いイメージがある。海底三千メートルとか一万メートルといった奥から何か切り取って、記念碑としてここに置いたような不思議な印象が感じられる。そこにはなにか人間の感傷を許さないイノセントな強いイメージがあらわれている。

 小笠原宏「コート」。マフラーで口元を覆った女性の姿。ジャケットに手を突っ込んでいる。一木から彫り出したのだろうか。独特の量感と動きが感じられる。

 丸山幸一「楽士の幻想」。馬に乗ってチェロのような楽器を弾く女性。ふくよかな馬の胴体のフォルムと弦をもつ顔の表情。楽器の下方が女性の足になり、その上に乳房があらわれてくるというユーモラスでシュールなイメージ。彫刻としての量と空間とのかかわり方が面白いし、イメージ自体も面白い。

〈野外彫刻〉

 山手麻起子「貝に咲く」。アンモナイトのようなフォルムを大理石に優雅に彫り込んでいる。曲面と曲線とがお互いに呼応しながら、夢の中に咲く花のような純粋さ。時間のしみ通ったようなフォルムが面白い。

第42回日本文人画府展

(10月20日〜10月28日/東京都美術館)

文/磯部靖

1室

 杉原阿都「埋れて。合掌」。雪の積もった斜面に点々と岩が置かれている。左上から右下に向かって幾筋か並んでいる。その何ともいえない静かなリズムに深い情感が感じられる。大小織り混ざった岩が高音と低音を奏でるような心地よさが特に魅力。

 北村洋子「喨々」。手前から奥に向かって水路が続き、その両脇に背の高い建物が建っている。橋を挟みながら右手前から左奥へと緩やかなS字のカーヴを描くその動きが、鑑賞者の旅情を刺激しながら作品へと誘う。そこに一艘のゴンドラが描かれている。そのゆったりとした存在がもう一つの動きを作り出し、生き生きとした魅力を湛えている。淡い墨の扱いで描き出しながら、水面に一際深い影が映り込んでいるところがおもしろい。建物が少し傾いているところもまた、この構図の中で強い臨場感を作り出している。そういった見せ方にも絵画的なセンスを感じさせる。

 中里典子「春霞」。雄大に連なる山の嶺が強く印象に残る。下方では霧が立ちこめ、ゆっくりとした動きを作り出している。余白を上手くいかしながら、そういった大自然の持つ魅力をじっくりと表現している。作品の中から流れ出る冷たい空気感もまた魅力である。

3室

 渡辺芙美恵「昼下がりの街角(ベルギー)」。洋館とその奥に聳える高い時計塔が描かれている。じっくりと描き込まれた画面に味わいがある。どこか妖しい雰囲気を湛えながらも、下方の人々の賑わいも相俟って、見応えのある作品となっている。

5室

 畑佐祝融「泉声咽危石」。手前から遠景まで、重なるように山が続いている。そこに樹木が重なり合いながら、重厚な画面を作っている。滝が流れ落ちてきていて、それが白い道を作っているようだ。この風景をイメージの中でじっくりと歩くように描いているところに見応えがある。確かな表現力とともに深い情感を引き寄せているところも見所である。

第40回記念創画展

(10月22日〜10月28日/東京都美術館)

文/高山淳・大澤景

1室

 海老洋「ウヲノハシロキ」。ちょうど画面一杯に横向きの牛が描かれる。牛の茶色いからだの表面は一見すると毛並みの模様だが、よく見ると、地図が描かれている。どこかの古地図のようで、牛の下半身が湖で、湖の周りに点々と家があり、腹から顔にかけて山が連なり、鳥が群れて飛び、牛の目の上の辺りには小さな祠がある。牛は真下を向き、口をぱかりと開けている。その下には壺があり、魚が真上を向いて歯を剝いて口を開けている。対話しているような、もしくは威嚇し合っているようなおもむきである。牛の足の間には三羽のカラスがいて、一羽は線描だけで表現されている。この対面を見ているような飄々とした存在感が、この景に深みを与えている。この作品のベースには、何か故事があるような印象を覚えるが、そうではないのだろう。そう思わせる説得力を画面に持たせる画家の機知、おのおののフォルムの面白さに注目した。(大澤景)

 平山英樹「楽園無常」。金色で表現された遊園地の景色が上方にあり、そこから分かれ、黒をベースに、下方へと続く階段が描かれる。上方と下方で色彩が響き合い、光と闇の強いコントラストを成す。階段が一定のリズムを持って降りてくる様が静かな韻律をつくる。現代の世の無常観をクリアにあらわす描写力に注目した。(大澤景)

 津田一江「sunbeams」。茫漠とした海に、切り立った崖のような島があるようだ。それをかき消すように、鋭い光線が燦々と周囲から射している。純化された光の表現である。全体を貫く清澄な緊張感に注目した。(大澤景)

 藤田志朗「赫い月」。煌々と輝く赤い月から、花々が舞い降り、一面に咲いていく。雲がたなびく空は夕暮れ頃なのだろうか、さまざまな色彩を帯びている。その色彩を映すような極彩色をした蓮の葉は、ひとつひとつが祈りの念の結晶のように感じられる。(大澤景)

 植田一穂「葉月」。薄いピンク、淡墨を基調とした色彩。大きなやわらかい筆で、一輪の百合が描かれる。じっさいの百合というよりも、百合を象徴する図像としての表現で、潔く描かれたフォルムに生命感が感じられる。(大澤景)

 柴田長俊「光航」。右上に板の円盤がコラージュされ、白い月が象られる。滝が落ちるさまのようにも見える濃い青の空間をバックに、布のコラージュによる激しいマチエールをもった、大きな岩のフォルムが置かれる。それは月明かりに輝くようである。自然の力強さを、手でもってそのまま画面に移したようなダイナミズムに注目した。(大澤景)

 宮城真「宙」。噴霧するように描かれた白いオーロラが降りている。うねり、こちらに向かってくるようである。天と地は塗り分けられ、地は、緊密にほどこされた黒の岩絵具が煌めく。凍えるほど寒いような地域の、清澄な空気感が画面に満ちている。じっさいの極彩色ではなくモノトーンで表現されたオーロラは、天上的な存在感を濃くしている。黙禱するような、祈りの念が感じられる。(大澤景)

 松倉茂比古「LA VITA『過ぎる日』」。題名はイタリア語で人生、時間といった意味。空に月が輝くが、夜明け頃の月だろうか。ある時を回想しているような、ロマンチックなおもむきがある。空を彩るように貼られた箔の形と、山に立ち並ぶ家々の形が呼応し、リズムを作り出す。人の姿はないが、家のところどころに窓が開き、洗濯物が干されている。生活の息吹きが感じられる。空には飛行機が飛び、雲がたなびく。画面全体にわたりひかれた金色の線は、月の光線でもあるようだが、この風景をやさしく荘厳する光のようにも感じられる。(大澤景)

 野畑直子「記憶のしかた」創画会賞。薄暗い空のもと、黒い船か、貝のようなフォルムがある。表面には古代文字のような紋様が捺されている。手前には、触感的な厚みあるベージュのラインがひかれる。左から右へ沙漠の砂が波打つような、ゆっくりと前進する動きが感じられる。右手に、白くうっすらと輝く直方体がある。その煌めきが、電磁波のように伝播し、舞い上がる。クリアな形象である。脳内の動きの光景のようである。(大澤景)

 重政啓治「耕作の跡」。茶色と箔による静かに輝くような色彩が基調となっている。画面には様々な試みがなされている。銀箔を貼る、赤、茶の色彩を散らす、変色した箔をぐしゃりと丸めたものを貼る、鉛筆で丸を沢山描く。それらはある秩序のもと、その秩序を少し乱したように構成されている。その上に、黒く強い線が引かれる。それは題名の示す通り、田んぼの、耕耘機が通った後の道筋なのかもしれないが、深い表情を持った線である。画面全体から、画家の内的な創造のプロセスを画にしたようなおもむきを感じた。(大澤景)

 目黒祥元「潜思」。昨年の出品作と同じ風景を題材にしているが、画家は風景画を描くのではなく、ひとつの風景を媒体に、自分の画を試みていく。昨年の写実性の高い表現から、画家特有の、厚紙をコラージュしてランダムなかたちをつくり、その上を彫り込むようにして線を引いていくという技法に、より深く取り組んでいる。厚紙のかたちが、岩の塊のように感じられ、それがリズムを持って迫ってくるようだ。縦長の画面で、下方は緑系の色彩、上方は金泥で塗り分けられる。そこにそれぞれ山の連なりや建物が描かれている。下から上へとのぼっていく、ゆっくりとした時間性を感じさせる。画面の基調を成す、土を思わせる焦げ茶のトーンがあたたかく、全体で、やわらかな音楽的ハーモニーを織り成す。(大澤景)

 藤野麻由羅「色が育つ」。夜を思わせる空間の奥にサーカスのテントのようなもの、手前に植物市場のようなものがある。テントと同様、白で描かれた植物市場から、緑、青、黄、赤、黒といった色彩がスライム状になり、ふわふわと宙に舞っていく。やわらかな夢が紡がれるようである。(大澤景)

2室

 秋葉ゆかり「野の花」。銀の地に、白で野花が線描される。花のバックにはそれぞれ青やピンクの色彩が配され、淡々としたリズムを持って立ち並ぶ。中ほどに一羽の蝶が頼りなげに、ひらひらと舞っている。画面全体にわたる繊細な詩情に注目した。(大澤景)

 田尾憲司「夢」。着せ替え人形を思わせる裸婦と、洋服、木、家、雲、枝もしくは炎、といったものが描かれる。ひとつひとつのデフォルメされたフォルムが洗練されている。裸婦は、二人の女性が重なるように描かれ、うすく描かれた一方には顔があり、毅然とした表情をしている。その上に、上書きされたように描かれた女性には顔はない。女性が棲む、ある家を象徴しているような雰囲気もある。こうした切り詰めた要素でひとつの夢を語る画家のセンスが巧みである。(大澤景)

 伴戸玲伊子「シリウスの影」。鳥瞰する視点で、広がるパノラマを描く。夜空を滑空するような、爽やかな韻律がある。現代の田園風景なのだろう。ダイナミックに雲がたなびいている。しかし雲だけでなく、もやりとした霧や、黒い渦も見え、どこか不穏な影の気配も感じられる。そうした現代の暗部を連想させる心象風景的なイメージも面白い。(大澤景)

3室

 河合幸子「朗読」。女性が本を開き、牛に朗読を聞かせているのだろうか。女性と本、牛、その周りに繁茂する植物の様子。あわいブルーとグレーを基調にした色調に、女性の表情も相まって、どこかメランコリックな雰囲気が醸し出される。そこにシックな印象の赤い薔薇が挿されアクセントとなっている。静かな物語が語られるようだ。(大澤景)

 加藤覚「入谷交差点」。骨太な表現である。黒く塗った横板の地をそのまま生かし、箔や金網をコラージュし、建物の形やタワーのかたちを象徴的に描く。そこに大胆なタッチで、手前の横断歩道のようなところから奥へ続く、街の風景を描く。夜の闇に花火がまたたく様を定着したような、切れのいい華やぎをもつ作品である。(大澤景)

4室

 長谷川誠「奇岩の村」。ごつごつした岩山にある村なのだろう。白と黄であらわされた空間に、乾いた空気感がある。岩々と建物が一体になったように、強い線でそれぞれのかたちが描かれる。ダイナミックなリズムをあらわすコンポジションに注目した。(大澤景)

 香野ルミ子「水牛と女の裳」。パターンの反復による、強い視覚効果がある。花模様、格子柄、十字柄、紋様の中に女性が立つ紋様。そうした紋様に覆われた中に、水牛と馬、それを囲むように三人の女性がいる。彼らによるひとつの儀式のような様子が、織物のように表現される。力強く祈るような生命感がある。(大澤景)

 佐藤豊「遠い日の風景 Ⅱ」。繊細な色彩がハーモナイズする空間に、二人の女性が線描で描かれている。手前には草花がある。二人は中空にある何か、子どものような存在に優しく呼びかけるように、手を差し伸べている。その二人の女性のさまに聖性が感じられる。(大澤景)

5室

 蓬田阿哉「遊具の風景」。夢のようなシュールな空間が、クリアに描きだされている。ピンクを基調に様々な色彩を帯びたパイプで組まれた象の遊具。鼻を高く突き上げ、何か動作の途中で止まったような雰囲気である。そのまわりには、同じパイプで造られたローラーコースター、子どもが落描きしたような線路の線、立ち連なる菱形の柵のようなものがある。どれもカラフルな色彩の中に、何かあやしい気配がある。象の中に浮かぶ三つの風船は、画家の心を象徴するように、しずかに揺れているようだ。(大澤景)

 石田直子「トルソのある部屋」。美術館の彫刻室なのだろう。そこにある彫像はすべて肉体の部分なのだが、とくに真中の首のない裸婦像、右手前の、考え事をするようなポーズをした、こちらも顔の無い男性像が、人以上に肉体性を感じさせる表現で面白い。奥の部屋には、こちらは顔のある肖像画がかかっている。デフォルメしたフォルムの軽妙さ、ゆっくりとしたリズムを作る構成力に注目した。(大澤景)

6室

 村松詩絵「月夜のうた」。画面の上部を占める白い樹々、箔をつかった矩形やストライプによるバックの構成が、あたたかみある音楽的なトーンを織り成す。手前には道があり、カップルや犬などが行き交っている。ひとつの家の表に、牧歌的な夜の情景が広がっているようだ。やさしいハーモニーを作り出している。(大澤景)

7室

 竹原城文「紅い扉」。中国の景色だろうか。手前から奥に、一本の路がある。砂っぽい路面、煉瓦を積んで造った橋や家の壁が、明るいベージュとグレーを基調にした色彩で表現されている。路は、奥の家の赤い扉に続いている。この景に立った画家の詩情が、画中にじんわりとあらわれるようだ。(大澤景)

 加藤良造「山水境」創画会賞。岩山に細い樹々が立ち並び、森を成す。その上の、雲に届かんばかりに高くそびえる岩山を、はるか高く見上げるようである。水墨の技法を基調に、自然のダイナミズムを畏敬するように描きだす。森の緑や空の青のトーンが清澄である。(大澤景)

 上村淳之「湿原の朝」。二羽の丹頂鶴が描かれている。一羽は立って後方を向き、もう一羽は下方の二羽の雛のほうにその顔を寄せている。画家独特のプラチナの銀灰色の空間が背景に広がる。その茫漠たる無地の空間がそのまま深い奥行を醸し出す。その中に二羽の丹頂鶴が鮮やかに浮かび上がる。画家のいわば瞑想するような世界からあらわれた丹頂鶴で、写生から生まれた丹頂鶴ではない。そのイメージがそのまま発展しながら、下方に黄金色のオレンジ色の二羽の雛を置いた。そして、三つの水草のようなものが細い葉先を見せながら上方に伸びていく。背後の無地の茫漠たる空間は不思議で、その空間はその向こうに様々な形象があることを暗示する。そこに霧が渡ったようにグレーの空間があらわれ、一種の無限空間ともいうべき不思議な味わいが感じられる。その空間に包まれながらこのような二羽の丹頂鶴と愛らしい二羽の雛があらわれた。(高山淳)

 大森運夫「大原女の郷」。和装にほおかむりをした女性が二人、立っている。手の表情やこちらを向いた顔の動きといったフォルムがそれぞれ的確で、生き生きとした存在感がある。その澄んだ目に、魅き込むような力がある。秋の実りに呼応するような女性美が、力強く表現されている。(大澤景)

 石本正「ひまわり晩映」。ほとんどドライフラワーになりかかった向日葵が何本も描かれている。その黄土系の色彩によって描かれた向日葵のフォルムが魅力である。画家は優れたデッサン家である。デッサンが命と言ってよく、その力がこのドライフラワーになりかかった向日葵の命を描く。まるで小さな灯火がそこに灯っているような、そんな味わいも感じられる。背景の群青と茶系の色彩を混在したような空間の中に、微妙なカーヴを描きながら立ち上がっている茎の上のこの向日葵の花たちは、実に不思議な生きた存在で、それがそのまま詩の世界に変ずるようだ。(高山淳)

 稗田一穂「満月懸かる」。洋装の女性が白い帽子をかぶって、その後ろ姿を見せている。そばには青い花が前の柵のようなフォルムの上に置かれている。道は不思議なカーヴをつくりながら、一度下方に下がり、上方に上っていく。その周りには樹木や建物が立っている。上方の松林の向こうに大きな夕日がいま落ちつつある。と思うと、実はそれは違って、いま現れてきた満月なのである。夕日と満月とがダブルイメージになりながら、いま松林の向こうに現れた。現実の世界がそのまま不思議な時空間に変ずる。それぞれのフォルムはイメージの中に生かされている。月というものは鎌倉時代には来迎図としてあらわれ、月という神道的なものと本地垂迹によって阿弥陀とが重なる仏画が描かれたが、そのような伝統をこの月は背後に背負っていると思われる。その月と対応するように手前に若い女性の後ろ姿が置かれているのが不思議である。画家のロマンティシズムのなせるわざだろう。画家にとって女性は永遠の謎ともいうべき存在なのだろう。この世のエロスを含めた謎のかたちと満月とが呼応する。あいだに植物や樹木が立ち、じっと見ていると、それらがざわめいてくるような気持ちに襲われる。(高山淳)

 烏頭尾精「春日」。興福寺の境内や奈良公園を思わせるようなフォルムが下方にある。点々と建物があり、背後は斜面となって丘に、あるいは山になっている。そして、白い空にシルエットのようにグレーの雲が浮かぶ。ちょうど日が落ちたあとの空のようでもあるし、日が昇る直前の空のような雰囲気もある。そこには時空を超えた空間があらわれているように思われる。しっとりとした緑の中に淡々と春日の風景が描かれ、お寺もそこに点々と描かれている。その緑のもつふくよかな表情が実に見事と言ってよい。その緑が山であり、樹木であり、草であり、植物であると同時に大きな丘でもあり、そしてまた様々な思いのこめられた空間になっている。毎年同じような緑が風景を染めるが、その毎年毎年の繰り返しの風景が重なってこの緑になっているような、艶やかで玲瓏たる、しかも深い味わいが感じられる。そういった山とお寺や民家などの建物の上方に不思議な光に満ちた空があらわれる。(高山淳)

 滝沢具幸「山路」。松の木が立っている。枝が屈曲しながら伸びている。手前の白い大きな松の左右はもっと細い松で、それらが絡みながら神経のようにその枝は伸びていく。とくに中心の樹木は一本の人間のように思われる。ジャコメッティが対象の存在を追い詰めて細い人体を描いたように、余分なものを削り落として命というものを見つめた結果、このような不思議な彫刻的なフォルムがあらわれたのだろうか。黒白の世界は一種の水墨の世界につながる。浦上玉堂の水墨のもつ韻律のようなものも感じられるが、やはり、この作品はヨーロッパを通過した水墨であって、どこかヨーロッパのもつ孤独な人間の視点と日本の風土のもつ不思議な奥行や広がり、あるいはその湿度が連結するところから生まれた表現のように思われる。(高山淳)

 池田幹雄「北の大沼公園」。やわらかな色感の船と山、前景の公園とあいまって、海のふくよかな表情があらわれている。そこに二艘の船がゆっくりと進むさまがテンポをつくり、音楽的な詩情を醸し出す。(大澤景)

 松本祐子「天が紅」。生き生きと生え並ぶ前景の花々、中景の原と沼、遠景の山並みが、クリアなフォルムで表現されている。景色全体を染めるあわいピンク色のトーンが清澄である。ゆるやかな時の移ろいが感じられる。(大澤景)

 清水豊「ひかりのあわ」。やわらかな雰囲気の森の路に、光の粒が舞っている。木漏れ日の光であるだけでなく、森の生命力を表徴するような光の粒である。じっさいにこの景色を行くような実感がある。(大澤景)

 羽生輝「晩照(悠々釧路湿原)」。空が夕焼けに輝く。その黄色と赤、紫といった色彩のハーモニーが、聖性をひきよせる。地には、彼方まで続く湿原がその輝きを映している。それらの輝きがそのまま、この情景への感興をあらわすようである。ある根源的な憧憬が感じられる。(大澤景)

 片柳勁「幻影圓相」。ベージュとグレー系を中心とした色調のうえに、慈愛に満ちた仏のような女の顔が浮かぶ。その口から、光の線が降りている。周りに円弧があり、数珠のように連なっている。珠のひとつひとつの中に、女の顔に祈りをささげる人のようなフォルムがある。左上の天上からも、祈りをおくるような、人のフォルムが向かってきている。地には馬やさまざまな生き物がいるようだ。見応えのある表現で、魂の群像劇というか、ある祈りのイメージの世界を描いているようだ。画面全体で合掌をしているようなおもむきを感じた。(大澤景)

 広岡真彩彦「アラカシの庭」創画会賞。岩があり、小さな丘があり、アラカシの樹々が生い茂っている。根や枝のかたちが確かである。茶と緑のトーンを生かし、ダイナミックな生命感が描きだされている。(大澤景)

8室

 三橋卓「雨ト橋」。アースカラーを基調とした手触りのある画面に、探るようにしてフォルムがあらわれる。河があり、奥に橋があり、その脇に家々が並ぶ。画面の下半分はまた橋なのだろう。柵のようなものは、橋の手すりだろうか。手前に傘の上部が見える。誰かが持っているのだろうが、その人物の手だけが見える。傘の表面は水玉模様のようでもあるが、何か、円い果実がぼとぼとと落ちてきているようにも見える。激しい、夏の夕立のようだ。(大澤景)

9室

 森本政文「REQUIEM」。山や教会の様な建物、河、橋といったものでイタリアの街都を構成し俯瞰するようなダイナミックな構成である。街から明るい色彩の靄が立ち上がって来る。河にかかる橋のラインを反復するように線がひかれ、その靄をもり立てる。それらのタッチの中から立ち現れるように、天使の彫像、花々が前景に描かれる。画面全体から、何か浄化するエネルギーが立ち昇っているようである。(大澤景)

10室

 谷内春子「杲杲」。山をバックに、白い線で描かれた細い樹が立っている。小振りな果実を実らせている。山のさらに向こう側の茫洋とした空間もまた山なのだろう。空に赤い太陽がぽつんと浮かんでいる。ゆるやかな広がりのある表現である。あたたかみある色感にも注目した。(大澤景)

 松井由美子「曇りの時」。住宅地である。雨が降り出しそうな、茫洋とした曇り空である。ぬれたような道路が真中に通っている。白っぽい住宅や木がある。グレーを中心とした色彩のなかに、うっすらとそれらのフォルムが立ち並ぶ。左から右、手前から奥と、しずかな音楽的リズムが感じられる。(大澤景)

 成田昭夫「新館野」。雪原に、真っ赤に彩られた樹々が立ち並んでいる。左から右へと背の低い樹になっていき、全体でひとつの塊のようになっている。風に吹かれ、曲がりくねるようである。樹々が叫んでいるような、激しいエネルギーが感じられる。からりと晴れた青空とのコントラストが面白い。(大澤景)

11室

 大槻睦子「薊」。森の道に立ち止まり、手を口にあてている少女。薊の刺に触れてしまったのだろう。薊の花が木々の間に、輝くような赤紫色で描かれている。少女のからだのかたちや、木々のかたち、それぞれのフォルムが確かである。やわらかな色彩の中に、静かな物語が語られるようだ。(大澤景)

 渡辺章雄「風景」。画面全体が矩形で切られ、一定のリズムをつくる。そこに金や赤、白の、建物を抽象化したようなフォルムが、上から下へと降りていく。それに呼応し、金や銀の直線が明滅するようである。静かな祈りのイメージを感じた。(大澤景)

12室

 梶岡百江「ララバイ」。哀愁ただよう風景である。あぜ道が続いている。はるか向こうに、電信柱が立ち、その傍に、よく見ると赤子をおぶった母と子どものように見える二人の影が立っている。そして、地面よりもはるかに大きな空が広がる。夕暮れの頃だろう。青と橙の繊細なグラデーションで表現される。雲がなびく様が流麗に描かれ韻律を成す。鑑賞者を画面の中に引き込むようなイメージの強さに注目した。(大澤景)

 谷井俊英「若狭路」。長く谷井の作品を見てきた。いつも線路が作品の構成の軸になっている。今回も線路が左辺からカーヴしながら上方に向かうが、その周りの田園風景がしっかりと表現されている。草や樹木、あいだの民家、電信柱、そして若狭湾の海が上方に広がる。温かな雰囲気で聖なる風景といった言葉が浮かぶ。地に足の着いた、対象を見る力がベースにある。風景が一つの絵としてのイメージの世界に昇華されていく。線路というと、すぐ旅のイメージとか時間といった言葉を使いたくなるが、まさにそのとおりで、旅人といったイメージがある。日本の詩人は常に旅をしていきながら風物や自然を、あるいは人間を発見してきた。画家の目によって新しく発見された若狭湾の周りの風景のように感じられる。これまでよりはるかに色彩に輝きがあり、深い。(高山淳)

 奥村美佳「道」。右方は、豊かな春のような幻想的な山林である。ピンクや緑の色彩のハーモニーが心地よい。右手前には小さな家がある。道が右下から左上へとのび、一度S字型に曲がる。曲がった先の景色は、うすく描かれ、段々と消え入りそうである。道を行くにつれ、春がうっすらと冬へと移っていくイメージなのだろうか。あるいはその逆でもあるだろう。ふしぎな哀しみが感じられる景色である。(大澤景)

 浅野均「今日的瀟相八景『山市晴嵐』」。水墨による作品である。八景と題にあるから、八つのシリーズのうちの一点なのだろう(出品は二点)。山並みに木々が淡々と連なっている。小さな町がその間にある。その上空に、大きな太い帯が描かれている。黒い雲のようでも、有害な煙のようでもあるし、現代の不安感の象徴とも思える。モノトーンでも静かなインパクトを生む、大胆な構成に注目した。(大澤景)

 吉川弘「大地と岩山」。手前と遠景に左右に横たわる岩山のあいだに、緑色で表現された大地が広がる。そこに幾何学模様のように、複雑な線の道が走っている。あたたかみのある緑を中心に、奥の金色の山々の色彩や、手前の岩山のグレーが呼応し、癒すような豊かな色合いを成している。空中に、緑色に輝くもやのようなものと、黒い点が舞っている。その粒ひとつひとつが何か滋養の塊であるような、豊かなイメージを感じた。(大澤景)

 圡手朋英「水色」。エメラルドグリーンで表現された水の表情が面白い。そこをゆるやかにすすむ白い舟、手前の山の斜面にさくさくと立ち並ぶ木々、奥の方の青い水。山の間にうっすらと浮かぶ満月。静謐な、癒すような韻律がただよう。(大澤景)

 北條正庸「M氏のアトリエ」。画面中央に樹が立っている。左は室内、右は屋外なのだろう。室内にはスーツを着た男性がいる。眼鏡をかけ、ちょび髭を生やし、きっちりとスーツを着ている。まっすぐな眼差しである。室内には、花瓶やレコードプレーヤーがあり、犬がいる。屋外には、四人の若者の顔がある。この画家のいるアトリエを、何か興味深そうにうかがっているような様子。生き生きとした物語性が、明るい色彩の中に描き出される。(大澤景)

13室

 雲丹亀利彦「夏の刻」。向日葵がすっと立っている。下方は線でシルエットが描かれ、上に行くにしたがって色彩をまとう。黒で影のように描かれたり、箔で表現されたり、赤や青の色彩で描かれたりしている。そのさまは光を浴び輝くようで、その光は、夏の陽の象徴のように感じられる。明るい黄土、グレー、ピンクの組み合わせによるバックの空間は、その光を受けて染まったようである。クール・ジャズを思わせる、激しく乾いた音楽性が画面にあらわれている。(大澤景)

 武田州左「大驟雨・811」。富士山のそばで大驟雨に遭ったときの経験を描いたそうである。上空から旋回するような動きで紫、緑、青、黄色などの色彩が動いている。神々しく神秘的な雰囲気で、人界からはるかに離れた天空の物語がそこに表現されているように思われる。富士山というと、草野心平に詩があるが、その詩からも触発されたように思われる。これまでの一種単調な一方向に向かう動きの絵と比べると、この作品は見違えるような面白さである。複雑な動きが画面の中に統一されて、強いムーヴマンを起こす。そこで光線が色彩に変じている。カソリックのカテドラルのステンドグラス。光とクロスするような、そんな強いヴィジョンの表現と思われる。(高山淳)

 米蒸千穂「一秒先の未来」。ライムグリーンが全面を覆っている。そこに四台の車が描かれる。高速道路を奥に向って走っているのだろうか。霧の中に薄れるように、少し先を行く二台の車が描かれている。静謐な時間性をあらわす構成に注目した。(大澤景)

 吉岡順一「雲隠の風景」。茶系の色と胡粉による独特の山水景である。雲や山のかたちが丁寧に盛り上げられていて、一種レリーフのような表現である。見ていると、そこかしこに沢山の招き猫がいる。時に分身するように列をつくって並んでいる。ユーモア性もそなえた、福々しいイメージである。(大澤景)

 本田郁實「タダイマ」。正方形の画面に、二脚の藤の椅子がある。椅子は人格を持って、生き生きと動いているようだ。題名にあるように、左側の椅子が、右側の椅子に向かってただいま、と言っているところなのだろう。白く描かれた椅子には淡い色彩がほどこされ、やわらかな感情をあらわすようである。力強くリズミカルなコンポジションに注目した。(大澤景)

 齋藤文孝「山水景 4」奨励賞。胡粉と、水墨の技法による、ストイックな表現である。身体性を感じさせる強いタッチを繰り返し、胸中の山水を抽象化し描きだしていくようだ。見ていると、自然や、人の精神が移ろい揺れるさまが想起される。清らかな韻律がある。(大澤景)

 松谷千夏子「Windless」。繊細な線による女性の肉体のフォルムが力強い。女性はベッドのようなものに身を投げ出しているのだろうが、中空に漂っているようなイメージも感じられる。髪を前に投げ出して、目を見開いている。それが何か喪失感を感じさせる。絞られた構成が生み出す、清澄な空気感にも注目した。(大澤景)

 長澤耕平「circulation」奨励賞。箔を全面に使った、静かに輝くような画面である。都市を上から見たように沢山の建物がひとつひとつ描かれ、反復する。墨で表現されたV字状の河が、題名にある循環のイメージを引き寄せ、落ち着いたリズムを生む。(大澤景)

14室

 多賀竜一「日常」。デフォルメされ表現された林が三つある。奥から薄緑の林、黄の林、河をはさんで、灰色の林。空には鳥が飛び、気球が飛ぶ。淡い色彩がバランスよく配されている。それぞれのフォルムが面白く、リズミカルな構成をつくっている。(大澤景)

 田中翔子「Jardinet~小さな庭~」。四本の青い花が立つ。それぞれの花が異なった調子で、それが一人ひとりの人物のような雰囲気である。淡い色調を中心にところどころに箔をつかった、やわらかな色感も相まって、情緒ある景をつくりだしている。(大澤景)

15室

 藤原玲子「風のことづて」。ドクダミの花が咲き並ぶ中に、黒い蜻蛉が舞っている。薄味だが印象深い色彩の中に、小さな自然を礼讃するような、静かな詩情があらわれる。(大澤景)

16室

 木村信筰「憬」。不思議な奥行きのある作品である。道があり、左右に力強いフォルムの家並みが連なる。建物は煤けたような茶から、画面中ほどから白へとトーンを変える。その奥の建物の方が、より大きく描かれているように見える。夜明けの陽を浴び、煌めいているようだ。ほの明るい生活のムードが感じられる。(大澤景)

17室

 竹田和子「Time off 山ヲコエテ」。晒されたような色彩の構成で、この大きな山の眺望をパワフルに描きだす。生き生きとした音楽性があらわれている。(大澤景)

 吉川大介「まどろみと雨」。川が流れ、その向こうに雑木林が左右に広がっている。上方から光の柱が降り、逆向きの水晶のようなものが吊られ連なっている。題名にあるように、抽象化された雨なのだろう。それはかすかに鳴るベルのようである。やわらかな色彩の中に、しずかな幻想性が紡ぎ出される。(大澤景)

 中野雄基「群像」。強い赤を基調にした、風吹く荒野を思わせる空間に、水牛のような動物の群れがいる。動物の息づかいが聞こえてくるような、力強い表現である。(大澤景)

 土方朋子「渡り」。画家は一貫してこの「渡り」をテーマに、屋外の同じ場所で描いているという。その時々の樹木や空気、温度などの変化、時に行き交う鳥などを具体的に描くのではなく、それらを感じた画家自身の感覚を純化し即興的に表現する。白い地に黒とグレーの顔料だけで描かれている。散りばめられときに重ねられたタッチは、鳥が群れて飛んでいるような印象、あらゆる魂が舞い群れているような印象、あるいは葉っぱが生い茂るような印象、さまざまな生の躍動するイメージを想起させる。シンプルな技法でこのようなイメージを生むセンスに注目した。(大澤景)

18室

 真下俊威「キッチン」。ダイニングキッチンのテーブルに、女の子が手を伸ばし突っ伏して寝ている。奥にいるのは母親だろうか。目を伏して、洗い物をしているようである。犬が手前に寝そべり、こちらを見ている。少女の体のかたちや、テーブルに灯があたり影をつくる様子、食器棚の食器、床や家具の木目、そうした生活の要素の一つ一つが丁寧に描かれ、密度ある韻律を作り出している。(大澤景)

 加藤法子「幽寂」。キャンバスのような支持体に和紙を貼り、それを染めていくようにして独特の味わいをつくっている。その上に、蓮の花と、立ち並ぶ茎を描いていく。丁寧に一本一本がかたどられ、明るいグリーンの色彩も効果的で、清鮮なパノラマを作り上げている。(大澤景)

 野角孝一「太陽と雨の家」。パステルカラーを基調に、家、鳥、風や風車、太陽、太陽から滴りおちる雨といったフォルムを組み合わせ、童話的なシーンをつくる。色彩のバランスがしっかりしており、明るい存在感があった。(大澤景)

第64回一線美術会展

(10月22日〜10月28日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 湊圭子「朝焼け香港…上空より」。香港島には立錐の余地がないほど建物が造られ、建物と建物のあいだには橋がかかりといった様子であるが、そんな香港島の様子を背後に、下方に三人の男女がいる。眼鏡をかけた夫とワイフと思われる女性のあいだに少女がいる。テーブルの上には花を思わせるようなイメージと食器のイメージとが重なったようなものがあらわれている。寒色を中心とした中に黄色やオレンジなどの色彩が使われ、全体に澄んだ透明な雰囲気があらわれている。建物の集合体あるいは塔などがお互いに響き合って、生き生きとしたイメージを伝える。ミクストメディアでパステルなどもうまく使われている。哀愁の香港といったイメージがある。追想の香港といまの香港とが重なりながら、ヨーロッパでもない東洋でもない不思議な味わいがあらわれて、風景全体が静かにハーモナイズしてくるようだ。そして、そこに若い夫婦と娘を配置して、強い詩情をつくりだす。

 大石久美江「雅」。画面の下方にはバレエをしている女性のフォルムが十体ほど描かれている。上方には女性の顔が五つ描かれている。少女から中年の女性まで、俯いて悲しんでいるような顔、叫んでいる顔、右のほうを眺めて好奇心に満ちた顔、あるいはぼんやりとした顔、瞑目した顔。様々なシチュエーションの女性の顔を描きながら、その下方に生命をあるリズムの中に溶け込ませながら美しく表現するバレエのフォルムが描かれている。下方から上方に向かって中心あたりに虹が立っている。人間讃歌と言ってよい。もっと言えば、女性讃歌ということである。女性をそのように捉えながら、女性に対しても自分自身に対してもひとつの癒しを与えているといった不思議な味わいが感じられる。

 髙橋留三郎「見つめる」。えび茶色のイヴニングドレスを着た女性の側面が画面の中心に描かれている。その影のように、同じ角度からの女性が横にすこし小さく、向かって右にはすこし大きく後ろ姿が描かれている。そして、グレーの空間の向こうにはたとえばヴェニスの街のような外国の風景が浮かんでいる。深い追想のイメージだろうか。かつて経験したものがよみがえってくるが、自分自身はだんだんとフェードアウトしていくといった、そんな不思議な時空間のイメージを面白く表現する。

 外川攻「望郷・ふくしま」。画家は東京の下町の生まれで、隅田川の魚が公害でなくなったことをテーマとして日本の高度成長の歪みを描いてきた。そんな画家にとって福島の原発事故は強いショックを受ける出来事であったと推測できる。サケのような魚の腹から、赤い色彩、つまり血が滲んでいる。ショックで死に見開いた目をしている。その周りは大地の色彩、茶色のふかぶかとした空間である。福島について様々な人が絵を描いてきたが、この作品はほかの人に描けないぐらい切実な福島問題、原発問題のモニュマンとなっている。しかも、その血の色が夕焼けのようなイメージに重なっているところは、画家の年齢によるものかもわからない。時が過ぎていく。過ぎていくなかにまた福島の原発の問題が起きた。そして、日は傾いていく。そんな深い感情が感じられる。

 橋本光「風跡―TAMA・SHIZUME―」。画家の兄が亡くなった。突然のことであったそうだ。上方にその遺影が掲げられている。左右に葬式に参列する人々が黒いスーツで並んでいる。遺影の下方には、合掌する手が二つ描かれている。しっとりとしたマチエールは、悲しみを塗り込めたような強さがある。画家は絵を描くことによって兄の魂を鎮めようとするかのようだ。

 長島美勝「世尊の弟子たち」。四人の弟子たちは、何かノンシャランな雰囲気で描かれている。それに向かい合う近景の世尊は、活を入れている様子。その間に弟子のまとめ役のような人が、顔の一部をのぞかせている。暗い調子でこの人は描かれている。全体に黄金色を思わせるような黄土系や茶系の色彩によって彩られている。リーダーと弟子達との関係が、ユーモラスに表現される。色面による構成がモダンと言ってよい。

 岩田司「マジシャン」。坊主頭のマジシャンが、トランプをシャッフルして、それを前の少し距離のある帽子の中に放っている。連続するカードが動くように面白く描かれている。周りに、色とりどりのシャボン玉のような球体が浮遊している。ハーモナイズする色彩が生命的なイメージをつくる。マジシャンの後ろ側に黒々としたシャドーが描かれている。その影が強い印象である。メメント・モリ(死を忘れるな)という、ヨーロッパでは長く続いてきた絵のテーマがあるが、同じような性質、つまり禍々しい内容がその影には隠されているようだ。それはどんな人生もその通りだろうが、絵の中にその影がしっくりとはまって、暖色系の色彩の動きのあるマジシャンと対照され、深い絵の内容を形作っているところに感心した。

 藤森千重子「ピクニック」。横になっている女性と座っている女性によって構成されている。背景は緑で、ピクニックのワンシーン。シートの上には、葡萄などの果実がある。爽やかな韻律が感じられる。上品なセンスのよさに注目。

 浅見正一「鎮魂の詩」。潜水夫の帽子のようなものが、箱の上に置かれている。箱の中には幼児の人形の頭、そばに左手が立っている。ワインボトルもある。傍には網やガラスの重しなども置かれている。後ろには廃材の柱もある。題名のように、東日本大震災に対するレクイエムである。通常の二、三倍の気圧がここにかかっているような重い空気がある。その中でそれぞれのものが静かにその存在を主張する。画家の祈る心、その深い自己沈静による表現のゆえだろう。

 髙木八重子「朝を待つ」。下方に蓮が群生している。白い蕾が見える。題名のように、ようやく夜が後退して、朝の光が射し込み始める頃のイノセントな雰囲気である。上方のほの赤くなりそめた空に、白い雲が浮かんでいる。その上方に銀と青の市松状の模様が描かれているのが面白い。夜の織物のようだ。夜、色々なことを人は考える。その様子を造形化するとこのようなものになるかもしれない。今それが、だんだんとフェードアウトしている。優れた心象風景である。

 髙橋克人「公園にて」。壁土を思わせるようなマチエールによって現在進行形の意識の動きのようなものが表現されているようだ。客観的な現実というより、公園にあるものを使いながら画家の意識が浮遊し、あるいは動いていく。そんな様子が表現されている。外界がそのまま内界のかたちになる。中心には椅子のようなフォルムがあって、その中に不定形の抽象的なフォルムが動いていく。そこには人間だけでなく、空にある雲のようなものまでも引き寄せられて、そのトータルによって内界と外界に両立するようなフォルムがあらわれ、しかもそのフォルムが静かに動いていく。

 冨稚阿紀「イキタココチB+ゼロ(テンセイノイチマク)」。耳に両手を当てて叫んでいるような人間の顔。上方には潜水しているような眼鏡をかけた男性が浮遊している。同じような人間が下方にもいる。花が咲いている。何かを摑んでいる指。上方には紐のつけられた鳥が飛んでいる。混沌とした中に生きていかなければいけない人間の姿。外部と内部とのお互いの関係、そして一つの桎梏。そういった状況をクリアな彫刻的なフォルムによって表現する。独特の憂鬱と言ってよい、心象風景を表現する。

 森久杏子「千年の四囲」。三頭の羊が上方から見られている。しっかりとした表現力である。

 河瀬陽子「マリオネット」。右下に西洋人形がピエロふうな衣装を着て座っている。そばに少女が立って操り人形の道具を持っている。上方には群衆の足元が描かれている。社会というものの圧迫感。その中に思春期の女性が操り人形をいじりながら瞑想に沈む。そんなイメージを筆者は抱く。それを表現するのに、それぞれのフォルムが独特の力をもってあらわれてくるところが面白い。

 江口ミホ「蓮華水精」文部科学大臣賞。女性が手を挙げて、左右に体を揺らしている。その前に俯いて考え込んでいる女性がいる。どこか弥勒菩薩を思わせる。いずれも裸婦である。東日本大震災に対するレクイエムの表現だろうか。

 笠原久央「浮現(サントリーニ島幻想)」。画面の下辺にサントリーニ島を上から見たかたちのパノラマが描かれている。ほかは、海が画面の大半を占めて、空には星がまたたいている。そこに画家の描いてきた大きなキャベツが浮かんでいる。キャベツは一度水に漬かったようで、水をしたたらせている。その巨大なキャベツはまた巨大な貝のイメージと重なる。海の内部からいまキャベツが浮かび上がった。キャベツは右からの光線によって輝いているが、その葉脈が不思議な人間の記憶のメタファーとなっているようだ。深海の中に長く生きてきた巨大な貝のようなイメージもそこに重なる。そして、その記憶が海から立ち上がって、ミステリアスな、実にシュールな雰囲気を醸しだす。空は満天の星である。

 小田邦子「午後の詩」東京都知事賞。テーブルの上の洋梨や葡萄やあじさいやボトルなどと、建物が、同一画面に面白く構成されている。グレーの少しひんやりとした調子の中に、青や緑が生き生きと置かれ、線によって花やお皿が描かれ、その線は建物の輪郭線と連繫する。弾むようなリズムが感じられる。

2室

 小林敏彦「窓の中の夜」。褐色の桟の中に窓ガラスがあり、そこにたくさんの猫がいる。そのそばに若い女性を胸に抱きかかえたもう一人の人物がいるが、その顔は曖昧で、幽体のような雰囲気である。ミステリアスな味わいが面白い。

 佐野雪枝「レッスンの合い間に」。レオタードを着た女性が左足を低い椅子の上に置いて、その靴の紐を結ぼうとしている。その人体のフォルムがしっかりと描かれている。フォルムの面白さが魅力。

3室

 笠原夏衞「カサレス」委員推挙。外国の教会を上に置いた中世ふうな集落を背景にして女性が立っている。その全身像が描かれている。そばに十時十分ほどを指した時計と木馬がある。グレーのトーンの中にしみじみとした雰囲気があり、女性のフォルムは力強く、背景のキューブな建物群と面白く響き合う。

4室

 加藤幸代「ピュアーな気分」。スーティンを思わせるようなデフォルメした女性のフォルムが面白い。赤い上衣を着て、白や黄色やピンクの花を抱えている。犬がそばに寝そべり、背後に男性と思われる寝た男の下半身が見える。緑を背景にして、手前の女性の赤や花の色とりどりの色彩が輝く。

 石崎広子「メリーゴーランド」一線美術文化賞。たくさんの木馬が静かに回っている。上下二段になっている。後ろ側にももう一つのメリーゴーランドがある。それを背景として夕暮れに人々が立っている。夫婦もいれば、子供もいるし、若い二人の女性もいる。暗いトーンの中にイルミネーションが輝く。暗いトーンの中の微妙な色調の変化を表現しながら、静かな中に奥行と動きがあらわれる。

 平野雅子「宙(どこへ)」。大きな球体を抱えている女性。遠く空のほうを眺めている。背景は青に染まっていて、その中に不思議な大きな紐のような文様が見える。内向的な作品で、深く心の内部に入りながら、祈るような心持ちを伝える。

5室

 丸山幸男「遥―2013」。崩壊した街。その地面に四人の男女が描かれている。一人は寝、一人は座り、男と女が立ってお互いを見つめ合っている。遠景にはビルがあり、近景には壊れた壁の一部などが見える。全体にグレーを中心とした独特のトーンが画家の深い想念を伝える。二年前の津波に対するレクイエムの気持ちもあるのだろう。かなり構成的な作品でありながら、対象のディテールをよく捉え、全体のトーンの深い響きが魅力。

 小林弘子「追憶」。パリの街だろうか。その旅行で得たイメージ、あるいはスケッチをもとにして色面構成的に表現している。色彩家で、グレーを中心とした中にオレンジや褐色、えび茶色、黄色、若緑色などの色彩が生き生きと響き合っている。色面的な処理であるが、それぞれの位置がしっかりしていて、お互いのフォルム、色面同士の関係のなかに遠近感が生まれる。屋根や階段に段ボールがコラージュしてあるのも、その色面の把握の中にぴったりと収まっていて、画面に強さを呼んでいる。また、親密な情感ともいうべきものが画面にあり、どこかシャンソンのようなメロディがきこえてくるところも面白い。

9室

 上野直雄「午後の漁市場」。セリをする場所と思われる倉庫のような建物を背景にして、漁船が五艘繫留されている。それを艫のほうから眺めている。シャープな形が対象に沿いながら、その連続によって独特のきびきびとした動きをつくりだす。また、グレーの微妙なニュアンスをよく生かしている。

 根岸富夫「河畔浅春」。小さな川が左右に流れている。近景は洲で、そこに雑草が茂っている。水は少ないが、川幅は広いのだろう。中景に土手があり、土手に立つ裸木やその手前の灌木や褐色の草などがしっかりと描かれている。遠景は青く霞んだ山で、その下方に家が見える。空はジョンブリヤン系の色彩で、すこし残照のようだ。黄土系の色彩を生かしている。微妙なニュアンスをそれぞれのポジションの植物に置くことによって、その色が金色に見える。聖なる風景と言いたくなるような敬虔な雰囲気が漂う。そのあいだに水がすこし青みがかったグレーでところどころ入れられて、それもまた独特の生命感をつくりだす。ところどころの青い色彩、明るい青みがかったグレーの色彩が画面全体をよく引き締める要素となっている。あわあわとした雲のあいだに見える空の雰囲気に対して、水のもつシャープな強さともいうべきものが対照されているところも面白い。また、裸木の形を大きく捉えながら、その連続性の中に繊細な味わいが生まれる。

 紫藤康夫「橋のある風景(明科)」。中景に川が流れている。近景は瓦屋根などの建物のそれぞれの屋根の形が面白く生かされ、太い樹木の枝が伸びている。中景は山間の集落の建物群である。そして、山は三つ、位置を変えながら遠景に向かい、グレーの空と接する。黒に近いような濃い色彩が対象のフォルムの輪郭線あるいは影の部分に使われて、それが画面に重量感を与えている。きびきびとした集落の建物の形も面白く、近景の屋根と響き合っている。あいだにコバルト系の水が流れている様子が生き生きとしたアクセントになっている。

10室

 髙橋弘樹「オンフルール港の裏町」。建物の形を直線によって表現し、その連続によってメロディが生まれる。近景は水や道、田畑などを抽象的に表現し、空の色彩とほぼ同色で、その二つの空間に抱かれるようにしてこの集落の建物の様子が生き生きと表現される。どこか音楽的な感興を覚える。

12室

 内田敬「麦秋」。上方は山吹色で下方は褐色系の色彩の二色によって麦畑の様子を表現する。そこに独特の動きがある。その横の動きに対して、下方の斜めの褐色の樹木の動きが呼応する。絵画的センスのよさが感じられる。

13室

 仲西豊「陽光 Ⅱ」一線美術会員賞。パステルの作品。太い樹木の幹を近景に置いて、そのディテールをしっかりと表現する。左右にそれぞれ二本の幹が立ち上がる。背景に霧が立っている。森の雰囲気がよく表現されている。

15室

 今井典子「夕景」委員推挙。画面全体に独特のリズムがある。中心は下降していく舗装道路で、それも一度急降下して、また徐々に下がり、岸壁に向かう。湾は夕日に赤く染まって、その海に接する部分の建物や遠景の橋などがグレーで、すこし調子を落としながらアクセントとして効果を上げている。左右の深い緑色と道路の真ん中に一本引かれた黄色い線などがとくに面白く感じられる。

第40回記念青枢展

(10月22日〜10月28日/東京都美術館)

文/磯部靖

1室

 山口マオ「キヨシローのように」東京都知事賞。水色の車が左に向かって進んでいる。猫が運転し、その後ろには女性。屋根にはギターを弾く猫がいる。左側には海が見え満月が輝く。草むらにいる兵士のたばこが長い煙を上げている。ノンシャランとした見ていて楽しい作品である。自由なイメージ、自由な生き方。人生を楽しく生きるという、現代社会において最も困難なことが、この作品世界では可能のようだ。生き生きとした描写力が特に魅力。

 上田靖之「螺鈿の杜 Ⅰ」。実に繊細に描き込まれた画面が鑑賞者を強く惹き付ける。画面を枠で囲み、その周囲にも円や楕円があったりして、そこにオブジェが張られていたりしている。独特のイメージ世界である。シンメトリーを思わせる構図の中に、自然の持つ妖しさや生命力が立ち上がってくる。グレーを基調色とした画面を周囲の青が囲み、画面全体で強い緊張感を持っている。それがそのままリアリティのある臨場感に繫がるようで興味深い。

 此木三紅大「うそ泣き」。画面の中央に大きなハートが描かれている。力強い太い線で囲まれ、ピンクに彩色されている。ハートからは、暗色の涙を思わせるものがいくつも落ちて行っている。よく見ると、ハートの内部が半分グレーになっている。それが純粋な心とは異なった、画題にあるようなウソを感じさせるところがおもしろい。極めて純化されたシンプルな画面が、強いイメージと説得力を引き寄せている。ある種の心理現象を描き出す時、いかに臨場感を持たせるか。画家の強いイマジネーションがそれを可能にしているようだ。強く記憶に残る作品である。

 丹羽良勝「復興への絆」。茫洋とした画面が絶えず微細に動くような感覚がおもしろい。透明感のあるブルーをうまくあつかいながら、深く瞑想するようなイメージを引き寄せている。

 米谷和明「COSMIC DIAGRAM10」。確かな描写力が強いメッセージ性を獲得している。牛骨を中心に画面が展開し、現代社会と自然環境との複雑な関係性が画面を活性化させている。空や山、水などを下方や上方に入れながら、画面の中心の茶系の円の中には歯車が見える。旋回するような構図の中で、その中心に置かれた自然破壊の象徴を思わせる牛骨が、鑑賞者に静かに語りかけてくるようだ。

3室

 田中ゆみ「宇宙への伝言 風と共に」。五枚のパネルを横に繫げて、そこにピンクを中心とした心地よい空間を作っている。そこには風が吹き、風に乗ったメロディが流れているようだ。曲線が伸び伸びと動き、球が浮遊し、花火のような花が開く。紙を揉み込んでアクセントを付けた下地がそれらを支えている。パステル調の色彩は水色やベージュ、紫なども施され、それが豊かな情感を引き寄せる。喜怒哀楽や人生の儚さ、希望といった感情が、鑑賞者の心に直接響いてくるようだ。これまでの街のイメージから変化した、自身の感情をより強く豊かに表現しているところに特に注目する。

5室

 深澤琴絵「アンダルシア」。二点出品のうちの一枚。建物や猫などの型を重ねながら絵具を施し、重層的なイメージを形成している。どこかゆらぐような作品世界は、記憶の中の風景とイメージによって生まれた風景を織り交ぜたようで興味深い。そういった中に金を効果的に扱いながら、幻想的な世界を創り出している。

8室

 深沢紅爐「想〝ロードス〟」。五枚のパネルを少し間を空けながら構成している。そこに砦を思わせるいくつかの版を使ってそれぞれのパネルにその姿を浮かび上がらせ、金などを使いながら、どこか絵巻風にその風景を描いている。ロードスの戦乱にまみれた歴史をそのまま時代と空間を越えて引き寄せて展開させている。そこに鑑賞者は自身を投影し、物語に耳を傾ける。歴史へのロマンが強い魅力を放ち、鑑賞者を捉えて離さない。

9室

 平岡祥子「風がたり」。建物に囲まれたような広場が下方にあり、そこはベージュがかった色彩で描かれている。その空間の取り方がよいと思う。建物はグレーのシルエットになっていて、朝日あるいは夕陽の光が、瑞々しく降り注ぎ反射している。そしてそれが強いノスタルジーを引き寄せる。鑑賞者の心と響き合いながら増幅されるそれらの感情は、前述した余白によってより活かされているようだ。厚いマチエールに麻や文字をコラージュしてアクセントを付けながら、しっとりとした情感を描き出しているところに特に注目する。

第52回現水展

(10月22日〜10月28日/東京都美術館)

文/磯部靖

1室

 藤原青童「幽寂」。松を思わせる樹木が幾本も並び、林を形成している。うねうねとしたカーヴを描くその幹のフォルムがおもしろい。それが連続して奥へと重なり合って続いていく様子が、しっとりと描かれている。どこか妖しさを感じさせる気配が漂っているところが特におもしろい。

 紅梅美峰「デジャ・ヴュⅡ」。堅牢な岩肌に強い風が吹き付けているような情景である。細い樹木が右になびき、積もった雪は巻き上げられる。そういった強い動勢が実に印象的である。岩肌の起伏が独特の調子を作りだしているところもまた作品を活性化させているようで興味深い。

 根岸嘉一郎「WALL・遺跡」。眼前に広がる山に遺跡が掘り出され、あるいは残っている。上方には雲がかかり、城塞がうっすらと見える。画面全体に漂うどこか幻想的な雰囲気が魅力である。過去から現在に引き寄せられた当時の空気が、鑑賞者を包み込むようだ。微細にわたって描き込まれた画面がそういった情感を湛えている。

 川端豊次「雪暗れ」。上方からの光によて掠れるように浮かび上がった樹木の小枝に二羽のカラスがとまっている。そこにはらはらと雪が舞い落ちてきている。ロマンチックな光景である。擬人的な要素を孕んだカラスが、お互い語り合うようにより添っているところが特に印象的で、心温まる。

 高橋英男「地球:皆のもの」。原発のコンビナートが海岸線に長く続いて行っている。中央では汚染水が流れ出ている。タンクの楕円が繰り返して連続する様子が、独特のテンポを作りだしている。空と手前の岩は濃墨でそれ以外は紙の地である。特に海が白く輝いているような雰囲気を湛えているところがおもしろい。画面全体の強いコントラストの中に、現状の原発問題に対する警告を孕みながら、見応えのある絵画性を作りだしているところがこの画家の技量である。

 福田佳明「唱」。直線によって区切られた三角形によって濃淡を繊細に変化させながら調子を作りだしている。そこに球体が大小三つ浮かんでいる。それらはお互いに静かに響き合うように存在している。それに加えて鋭い直線と球体が織りなす調和が独特のメロディを運んでくるようだ。自然の風景と自身の心の風景を重ね合わせたような強いイメージの力が印象深い。

 永峯華月「猫達」。一本の樹木を中心に戯れる三匹の猫の様子が愛らしい。上方の紅葉や猫の体毛などを繊細に描き込みながらも、画面全体でやわらかで自然な感覚を失っていない所が特によいと思う。

 橋本キヱ「深閑として」。右奥へと続く林道をかなり地面に近い視点で描いている。樹木の幹、草、地面など、それぞれの質感をしっかりと描き分けているところがよい。素朴な情景の中に、清々しい空気感が引き寄せられている。

2室

 門紀美子「煌」。大きな花が開き、そこから画面が展開している。濃淡を繊細につけて作り出されたイメージの空間が、深い奥行きを作りだしている。そこに二本の明るい光線が伸びてきている。ある一瞬の美しさと言ってよいだろうか。美というものの儚さと永遠性に迫るような表現が強く印象に残る。

3室

 向井五十代「雪にねむる山里」。合掌造りの家屋が建ち並ぶ集落に雪がしんしんと降り積もってきている。そのこんもりとした雪の様子が、実に強い臨場感を孕んでいる。スポットライトを当てたように明暗をしっかりと分けながら、肌に迫るような空気感を湛えているところもまた大きな魅力の一つである。

 立花美茜「残照 Ⅱ」芸術賞。朧気に浮かび上がってくるような風景が印象的である。林の中を抜ける道が奥へと続いて行っている。それが、どこか異世界への道のような感覚を覚えるところもまた興味深い。

4室

 清水喜代美「晩秋」現水展賞。左手前から右に道が伸び、途中で左に折れて続いている。その向こうには家屋が見える。道は明るく、それはそのまま上方の空へと伸びていく。素朴な風景の中に、誠実な画面構成を感じさせるところに好感を持つ。

5室

 宮本勇「薔薇の薫り」。裸の男の背中を中心にして画面が展開している。その周囲には薔薇などの花が描かれている。妖しい雰囲気である。旋回するような構図の中に、独特の美的要素が感じられるところが特におもしろい。

7室

 横溝晴花「関帝裊裊」佳作賞。深い暗色の空間に明るい筋がぼんやりとおぼろげに入りこんでいる。背後には文字が書かれた遺跡が浮かび上がってきている。関帝廟の中に差し込んだ光が、当時の空気を濃密に残しているような、深い情感が魅力である。

 川添早苗「心の情景」。左上方からシャープに差し込む光が、強い幻想感を引き寄せている。繊細に描き込みながら作られた手前から中景までの空間が強い余韻を残す。また、中景の下方の一際深い濃墨が、強い印象を作りだしてもいる。

 小田柿寿郎「路地」。街の一角にある路地の風景が伸びやかに描かれている。淡い墨の扱いが実に繊細で、画面の左端が最も濃く、そのすぐ右側が明るい。その明暗が、伸びやかな線の動きと相俟って強い情感を運んでくる。確かな安定感を持った画面が、この画家の絵画的なセンスを感じさせる。右下に少しドリッピングも見られ、それもまた一つのアクセントとして効果的である。

9室

 牛山和雄「太古ロマン『時の流れに。』」。宇宙を舞台に埴輪が描かれている。上方には衛星、下方には地球が見える。時間と空間を越えたイメージの広がりが強い魅力を放っている。

10室

 内田哲三郎「帰港」奨励賞。雪の積もった港の風景が誠実にじっくりと描き出されている。奥へと重なりながら並ぶ漁船の様子が違和感なく捉えられているところに特に注目する。

11室

 北星墨花「風韻」。激しく波打つ海面が、強い動勢を孕んでいる。そのドラマチックな様子が肌に迫るような臨場感を感じさせているところに特に注目した。

12室

 小林真宇志「里帰り」。奥へと続く道の左側に大きく若い女性が描かれている。さらに向こうには海が見える。画面全体の明暗のコントラストが作品を強く活性化している。左手前から差す陽の光が女性に当たり、長い影を作る。その様子が、何とも言えない切なさのようなものを引き寄せているところが特に興味深い。

 坂野隆雄「頑張らなくちゃ!」秀作賞。累々と積み重ねられた廃車の繰り返す様子が、強い抽象性を孕んでいる。その一つひとつは味わい深いフォルムである。悲壮感というよりは、生まれ変わりへの再生といったような希望が作品の背後から感じられるところがおもしろいと思う。

16室

 谷先静津湖「忘郷」。入江の情景を小高い丘のような所から見た視点で描いている。そのやさしくやわらかな筆の扱いが魅力的である。ぼんやりと浮かんだ満月が、どこかこの風景を見守るような画家のもう一つの視点を思わせる。岩場と海面の複雑なせめぎあいが繊細に捉えられながら、画面全体に強い情感と余韻を引き寄せている。

第49回蒼樹展

(10月22日〜10月28日/東京都美術館)

文/磯部靖

1室

 原紀久子「ある日」。椅子に座った一人の少女がこちらを見つめている。赤みがかった茶系の色彩でまとめられた室内の雰囲気に心が温まる。何気ない日常の一コマのようであるが、だからこそ記憶に残る満ち足りた時間といってもよい。そんな画家の心情が確かなデッサン力と表現力によって、強く鑑賞者に伝わってくる印象深い作品である。  

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