美術の窓

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公募展便り(2013年11月号)

美術の窓 2013年11月号

再興第98回院展

(9月1日〜9月16日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 藁谷実「オリーブの木とともに」奨励賞。古い素朴な小さな教会のような建物が白い石を積んだかたちになっていて、そこに赤い扉が見える。それが緑の中に不思議な雰囲気で、詩の中にある世界が現れてきたかのような趣である。手前に大きな木が立っているのはオリーヴで、その銀灰色と緑を掛け合わせたような不思議な葉の色彩が、しぜんと幻想性を呼ぶ。地面の茶褐色の手触りのあるマチエールの上に小石が点々とある。無人の中に何か囁いてくるような気配が感じられる。

 前田力「行方」奨励賞。メリーゴーラウンドのそばで望遠鏡を見る少年は帽子をかぶっている。シルエットの中に少年がいて、背後に柔らかな光が満ちている。ロマンティックな子供の頃の夢を生き生きと描く。そして、静かにメリーゴーラウンドは回る。

 後藤純男「大和の秋」。「山里に在る寺は、夜の帳が下りると、その姿は隠れてしまいます。月光に照らされ、再び夕闇に姿を現す寺。季節の移ろいと共に、そうした時間や天候に因る風景の機微を自在に表現出来る。だから絵の世界は、飽きること無いのです」。築地塀の向こうに瓦屋根が聳え、塔が立っている。背後の山の端から巨大な満月がいま昇ってきた。モミジが赤く輝いている。道の周りのススキ。画家のよく知った対象を、いわば客観的でありながら心象風景として表現する。とくに中景に立つ松のずっしりとした緑の葉と幹のもつ存在感とそのリズム。静かに聳える塔。来迎図のように山の端から浮かび上がってくる巨大な月。どこか仏画にも通じるような敬虔なスタンスのなかに秋の美しさがしみじみと感じられる。

 郷倉和子「空へ」。「以前から空の様子を描きたいと思っていました。特に四季の中で寒中の空に魅力を感じます。描いても描いても足りないような気になる空。『規則性があるようで無い雲、空は広くて深い』と改めて感じます」。瓦の屋根が下方にすこしのぞき、梅の木に白梅が咲いている。その上方にウロコ雲。その雲の向こうに何かあるような、そんな強い独特の不思議なイメージである。画家としての志。無限なるものに対する深い憧憬。そんなイメージがこの空を通して感じられる。

 下田義寬「暁雲」。「初冬の山中湖に見た光景です。高い峰の頂の更に上、空は季節、時を問わず思いもかけぬ様相を呈し、今日、又明日と千変万化の姿に誘惑されます。曙光のなかに浮かび上がる遊雲に漣のように乱れながら投影する光と陰。わくわくするような気配のなかに富士は端然屹立する。厳しい景色に向きあいながらも温かく包みこんでくれるように感じたものを表現したいと思いました」。富士山の右肩の向こうに曙光が上る。白く発光するその太陽の様子が実に神秘的な雰囲気である。手前の山中湖に逆光の富士の影が大きく映っているが、上方のフォルムとほぼ相似形になっている。その周りは黄金色で、さざなみと空の雲の動きつつある様子。その動きは時間の推移を表すわけだが、それに対して端然と聳える富士のフォルムが実に魅力である。上方の雲の逆光の光に縁取られたフォルムなどは、イタリア・ルネサンスの頃のようなイノセントなメロディが聞こえてくるようだ。懐かしいさざなみの様子に独特の親和力が感じられる。刻々と移る季節のなかの富士を写生しながら画家が発見し創造した富士山のフォルムでありイメージであるところが、この作品の絵画性と言ってよい。

 松尾敏男「ヴェネチアよ、さようなら」。「写生を兼ねて、好きな街ヴェネチアを訪れるようになって十数年。最近は帰路に着く時いつも次の機会があるかしらとふと思います。今年も六月の末にヴェネチアに行きました。12時間程の飛行機の旅は大丈夫でしたが、帰路空港へ向うタクシー(モーターボート)から遠去かる街を見ながら今年が最後の旅かと思い『さようなら、ヴェネチア』と惜別の言葉が湧いたのです」。船尾に赤、白、緑の旗がたなびいている。イタリアの国旗である。澪が三筋、白い水しぶきを上げている。そして、対岸に茶褐色の屋根をもつ建物が重なって、その向こうに宮殿が見える。観光名所としての建物ではなく、民家を通してその向こうに聳える宮殿であり、画家とヴェネチアとの長い関係がしぜんとしのばれる。雲が出ていて、あいだからうっすらと空が見える。懐かしさの中にヴェネチアの街が、ある堅固な存在感として捉えられているところが、実にこの作品の絵画性だと思う。そして、だんだんと遠ざかっていくという不思議な感覚が、この作品の画調のもう一つのベースをつくる。近づいていき、だんだんとクローズアップするのではなくて、遠ざかる風景、その向こうにあるヴェネチアの街。あいだの淡い緑の海と白い澪は空間であると同時に時間というものの象徴のように感じられる。

 那波多目功一「寂光」。「夕暮れがせまり、写生を終えて帰ろうとしてふと見ると、向かいの木々の上にやわらかい月の光があたりを照らしておりました。水田に映えた空の色も美しく輝いてきれいでした。すべてが異次元の世界。それらの風景が一つになり絵画の世界を教えてくれました」。水田の向こうに菖蒲の群生がある。それを描いていて、実に神々しい不思議な世界が表現されている。手前の水田はまだ田植えがされておらず、水が張っている中に空を映して、一部白く輝いている。その輝きが菖蒲の上方真ん中あたりの輝きと呼応する。不思議な輝きのあいだにこの菖蒲は横に連続して生えている。一つひとつの蕾がまるで合掌した手の群れのようなあやしい雰囲気である。現実の世界がそのまま浄化されたもう一つの魂の世界ともいうべきものと重なる。「異次元」の世界を画面の中に写生を通しながら引き寄せて、実に神韻たるイメージが表れる。現実がそのままもう一つの神々しい仏の世界に転化しているような、そんな世界に注目。

 福井爽人「木陰」。「幸いなことに、私は気ままに旅に出て色々な風物を見て楽しみ、写生をすることも出来ました。けれど木は歩くことが出来ません。ひさしぶりに訪ねて行くことがあったとしても、木はきっといつもの場所にいつもの様に立っていることでしょう」。一本の大きな木がまるで一人の人間の肖像のように描かれている。樫の木のようなたくさんの葉をもっている木の重量感のある様子が懐かしい。地面の際に朱色があって、そこに鳥がいる。夕焼けの空のようで、深いノスタルジックな心情が漂う。地上に長く生きているモニュマンといったイメージで、この木と画家とは、作者が述べているように、再会したといった、そんな時間性も感じられる。

 今井珠泉「流氷幻想」内閣総理大臣賞。「私は、北国は冬、南国は夏こそ、その場所の特徴が良くつかめると思っている。したがって、北海道の写生旅行は冬が多い。シベリア・アムール河畔より南下、道東を埋めつくした流氷も、ようやく岸を離れ、方々に裂け目ができはじめると、やがて長かった冬もやっと終りを告げ、待ちにまった春が近い事を知る。シーズン中は流氷を逆手にとって、紋別・網走から流氷観光船が、又網走では観光の為のヘリコプターも飛ぶ、今回は今迄色々な所の印象に残った流氷をもとに構想をまとめ、制作したものである」。厚い氷が画面の大半を占める。その中に不思議な切れ込みが入っている。胡粉と黄土を混ぜたような独特の柔らかなベージュの空間。そこに氷が裂け、黒い海がのぞく。その海の中に太陽が月のように輝く。

 廣田晴彦「残照の路」奨励賞。ヨーロッパのある街。S字形の高速道路の向こうに白い壁をもつ建物が点々と続く。手前にはシルエットふうに雑木があって、それを見下ろす角度から描いている。独特の陰影の中に白や朱色が輝く。客観的な対象に日本人のもつ叙情が重なる。

 手塚雄二「遠望立山」。「大伴家持が歌を詠んだ、雨晴海岸から立山連峰を2月下旬に富山湾ごしに見る。たとえ晴天でもその姿を現すことは稀なことであるという。束の間の美しさは、心の中にいつまでも残るものであった」。独特の水墨表現になっている。遠望する立山連峰のまるで蜃気楼のように浮かび上がってくる様子が、黄金色のトーンを落とした水墨ふうな表現の中に神々しい。近景はシルエットになっていて、丘に雑木が伸びている。あいだに静かに富山湾が広がる。金の砂子や箔、あるいはプラチナ箔を使いこなしながら、画面全体の内側からゆるやかに静かに光が浮かび上がってくる。空のグレーの調子と海のグレーの調子、山の調子が微妙に異なりながら、深々とした空間が生まれている。水墨表現と言ってよいのだが、モダンな雰囲気が実に魅力的である。向こうまでの距離感と同時に、いま立山連峰が浮かび上がったといったそのイメージの鮮やかさ。近景の暗いトーンの中での雑木や草や丘陵の様子などの複雑な動きがそこに加味されて、しんしんとした風情が感じられる。谷崎潤一郎に『陰翳礼讃』という日本美術の特質を述べた文章があるが、まさにそのような言葉もこの作品に当てはまる。

 王培「知音」。少女が二人、手をつないでいる。画家は天津のあたりの出身であるが、北のほうの風俗、衣装が面白い。赤い上衣に黒いスカートやズボン。素朴な表情の中に女としての目覚めの雰囲気もある。グレーのトーンの中に二人の少女の個性の異なった様子を描き分ける。対象の中に深く入って、独特の存在感のある少女像である。

 清水由朗「機械仕掛けの翼」。「レオナルド・ダ・ビンチの素描を再現した飛行器具の翼を描きました」。グレーの空間に広がりがある。胴体から翼が左右に伸びる下方に、男性が横になってアームに手を掛けている。自転車のペダルを漕ぐようにそれを回すのだろう。下方の空間の室内の中にいる人々。あやしい雰囲気の中に独特のイメージの広がりが感じられる。グレーに不思議な詩情があって、レオナルド・ダ・ヴィンチの夢想に作者の夢想が重なって、詩のある空間が生まれた。

 松村公嗣「初詣」。「夜店から香ばしい匂いが流れてきた。人いきれの中、おろしたての服を着て初詣に出かける少年の姿が目に映る。子どもの頃の自分を見た気がした」。画家は奈良の生まれ育ちで、子供の時の初詣の風景を画面の中に描いたという。白い羽が全体に調子を落とした群像の中から浮かび上がり、その白い羽の不思議なリズムの中に初詣の喜び、神々しさ、ときめきといったものが感じられる。人間たちはすこしシルエットふうに描かれていて、全体で強い気配があらわれている。それを見下ろす角度という視点が面白い。また、縁日の赤いテントが上下に置かれていて、そのあいだに群衆がいる。赤いテントの配置には独特のデザイン性ともいうべき構図の面白さが感じられる。

 吉村誠司「ベトナムの宙」。「ベトナム・フエの風景です。亜熱帯気候の蒸し暑い空気と霧の中に見える大地を描きました。ベトナムの実風景を元に、蓮を雲に見立て、平和を思うベトナムのイメージを絵画にしたいと思い制作しました」。下方に、水路に取り巻かれた街がある。緑の中に点々と家が見え、中心に尖塔のある小さな教会のようなフォルムがあらわれている。この全体の緑のトーンといい、その背後に広がる、また違った緑の広がりといい、水の雲を映した輝きといい、古画を見るような雰囲気がある。そこの周りに何艘もの船が進んでいる。画面の約五分の三あたりが空で、蓮の葉が連続してあらわれ、それが雲とダブルイメージになっている。その上方に仏たちが来迎してくる。いわば来迎図の現代版と言ってよい。中心は蓮台に座る釈迦であり、その周りに日光、月光像といった東大寺にいるような仏がいて、たくさんの仏がその周りを取り巻いている。蓮の葉が雲とダブルイメージになるという、そのイメージが面白い。同時に、ふわっと上方に浮かび上がった幻想の世界に対して、下方のずっしりとした存在感を見せる街の様子とが対照されて、地には地の力があり、空の仏には仏の力があるといった二つの要素を描き分けながら、それを一つの画面に合致させる力がこの作品の優れた絵画性であるし、想像力の強さと言ってよい。これまでの作品の中でもわかりやすい作品であると同時に、その内容は深いと思う。

 小田野尚之「発電所跡」文部科学大臣賞。「大分県・豊後大野市の旧沈堕発電所の遺構にて取材しました。スケッチをしながら『あそこに人が立っていたら、より雰囲気が出るのにな…』などと考えていると、絵の神様は本当にいらっしゃるらしく、カメラを持って坂をおりてきた観光客の女性が、まさにその場所に立って眼下を流れる川や滝の撮影をはじめました。が、何枚か写した後こちらを振り返ったその方は、廃墟の真ん中でじっと自分を見ている怪しげな中年男に腰を抜かさんばかりに驚き、逃げるように帰って行かれました。こちらも仕事とはいえ申し訳ないことをしたと思いました」。旧沈堕発電所の壁がずっしりとした存在感を示して、上方にコの字形に描かれている。その壊れたアーチ状の入口の向こうに青いパラソルを持つ白いワンピースを着た女性が立っている。顔は見えない。あやしい雰囲気である。いまそこに立つ現在の幻とこの発電所のもつ過去の記憶とがここで不思議なクロスを行う。そこにしぜんとあやしい幻想性が生まれる。

 井手康人「百花為誰開」日本美術院賞(大観賞)・第十九回足立美術館賞・招待推挙。たくさんの花を頭にのせた女性が立っている。後ろに飾られた牛のようなものが立っている。下方に人々が歩いている。お釈迦さまの花祭りのような雰囲気で、タイなどの宗教的なお祭りを背景にして、花を頭にのせた女性が立っている様子がロマンティックに表現される。

 髙島圭史「つぎはぎの製図」奨励賞。上方に製図台の前に座る作者本人がいる。手前に丸い机があり、そこに地球儀や様々な建物、文房具などが置かれている。その陰影豊かな室内風景に不思議な情感と空間の広がりがある。また、このアトリエの中で瞑想するという行為によって、空間に密度が表れる。アトリエをテーマにした奥行きのある空間に注目。

 岸野香「RUN」。ショーウインドーにたくさんの靴が置かれている様子。外側が空を映しているために、空に靴があるような、不思議なイメージが表れる。街の一隅に発見したユニークなイメージの表現である。

2室

 加来万周「永立」。画家独特の黒と白による力強い表現である。ローマのコロセウムを思わせるようなドーム状の建物の一部を描いている。遺跡で、ところどころ剝落している。過去の栄光を伝える。背後の白と黒、若干のベージュの色彩が力強いコントラストをなす。建物のもつ骨格、それをつくった人間の力。建物の形自体にある、思想ともいうべきものに想像力を重ねながら、この不思議なモニュマンをつくった。

 小川国亜起「白律」。刈った稲の株に雪が積もっている。そこに雀がとまっている。その点々とした様子。上下にも左右にも伸びていくそのフォルムの一部を切り取って、田園の中の一つの詩ともいうべき世界を表現する。それぞれのディテールがクリアで、ディテールの力によって画面が生きる。

 ⻆島直樹「鵜の瀬」。山伏たちが集まっている。背後は崖で渓流が流れている。縄梯子のようなものが上方にカーヴしながら見える。六人の山伏のもつ不思議な霊気ともいうべきものが画面から立ち現れる。画家の長く取りくんできたテーマであるが、より一層その内容が深くなってきたと思う。

 速水敬一郎「イザナイ」。静かに川が流れている。両側には緑の植物があり、その端には点々と白い花をつけた可憐な灌木もある。岸辺の大きな樹木の枝が川の上に垂れ下がって葉を茂らせている。夕方なのだろうか。空が黄金色に染まって、それを映しながら川が流れる。仏画を見るような敬虔な印象と同時に、一種の文学性ともいうべき物語性もしぜんと感じられて惹かれる。

 伊藤深游木「願い」特待推挙。スタジアムの内部である。音楽の演奏場、あるいは体育館の一隅かもしれない。その幾何形態のもつ美しさを見事に表現する。こういったテーマになると、画家のイメージは俄然と広がり、画家の繊細で鋭敏な感性のスクリーンを通して不思議な美しさが表れる。

 松下雅寿「浄」。白と黒による表現である。滝を描いたものである。水の落ちる様子を画面の上方大半に描き、それに対して下方に滝壺、岩、断崖、裸木を描いて、独特の韻律をつくる。

 廣瀨貴洋「夢に向かって」。ウミガメが下降している。それにつられるようにたくさんの魚やクラゲまでも含めて一緒に海の底に泳いでいる。不思議な幻想感覚である。寂々たるメロディが画面から聞こえてくるようだ。

 小田原千佳子「緑跡」。少女が座っている周りに森の植物が繁茂している。シダや葉の大きな団扇のような植物や手を広げたような植物もある。それをすこし晒したような褐色の色調で描く。現実の上澄みのようなものをピックアップしながら、一つの詩の世界をつくる。そうすると、時間的な性質が脱落して、イメージが変容する。そこに面白さがある。

 吉原慎介「北辺」。道が上方にだんだんと上っていって、空と接する。その上っていく道の様子がそのまま一つのドラマとして表現される。しっとりとした地面のもつ感触。そこに轍のようなものも見え、そこを通ってきた人間の行為のあとがまだ漂っているようなあやしい雰囲気である。

 宮下真理子「限りの空」。洋館を見上げている。屋根の上には青い空が見える。蔦のようなものが左右に絡まって下方に門がある。周囲はベージュの上に線によって暗示的に描き、洋館の一部は白い壁や煉瓦、屋根などを彩色して、リアルに描く。それによっていわばイメージの世界がよりきらきらと立ち上がってくる。

3室

 河合重政「あつい出会い」。二頭のウミガメが泳いでいる。産卵しに来たのだろうか。二つのウミガメはなにか深い関係をもっているようだ。大きな重量感のある亀が泳いでいる。その亀は一種寓意化されて、人間のような趣である。悩ましい雰囲気もある。右のほうのこちらに向かうのは雄で、左に向かうのは雌のようだ。二つの亀の絆のようなものが重厚な雰囲気のなかに表現される。

 齋藤勝正「湧煙裏磐梯」。飛行機の上から眺めた裏磐梯なのだろうか。頂上から噴煙が上がっている。上方から見る視点が鮮やかで、下から見るのとは違った独特のダイナミズムがあらわれる。しっとりとした茶系の色彩を中心として静かに陰影がつくられたこの山頂の様子が、単に上方から見るパノラマという視点だけではなく、画家のデッサンによって手前に引き寄せられて、独特のヴィヴィッドな雰囲気で表れる。

 劉煐杲「響導」。垂直に立つ樹木の幹に蔓が絡まっている。それがまるで花のように描かれている。黒白の世界の中にしっとりとした独特の神秘的な雰囲気が表れる。現実がそのまま幻想と化すようだ。その抽象的な音楽的な世界に引き寄せられる。

4室

 松村公太「環」。鍬を持って耕している農婦。水を張った水田の様子の中に労働する人が聖なるものとして描かれている。大きく空間をとって、中心に黄金色の光を上方から差し込ませたロマンティックな表現である。

 赤田美砂緒「探しもの」。古い瓦屋根の木造の一階建ての民家。その手前で十字路になっていて、舗装してない道路が白く輝いている。その建物を手前の黒い猫が眺めている。もう老人夫婦しかいないのだろうか。あるいは、すでに人がいなくなって廃屋のような雰囲気もある。地面の白茶けた様子のように、なにか時間に晒された光景。晒されることによって、ある本質的なものが浮かび上がるといったイメージが面白い。手前に咲いている植物の可憐な様子も、この作品の脇役としてよくきいている。

 山本浩之「白日」。白いパラソルを持つ若い女性の全身像である。後ろ姿を描いている。周りの黄色、傘の周りの青、女性の緑色、パラソルの白、それぞれの色彩が独特の夢見るような雰囲気をつくる。あのルドンのもつ純粋な色彩の輝き。その神秘性と共通するような不思議な雰囲気が表れている。

 永井健志「風韻」。暗いバックに蓮の花が咲いている。花弁がすこし下方に落ちている。手前の植物はシルエット。背後は黒。そのあいだにスポットライトを当てるように蓮の花を描いてロマンティックな表現としている。古典を研究したうえでの独特の花鳥画と言ってよい。

 穂苅春雄「朝霧」。二つの船のあいだに網を渡してお互いの漁師が協力しながら漁をしている。その壮大なドラマティックな動きを上方から俯瞰した構図で生き生きと表現する。たくさんの鷗が飛んでいる様子が表面に描かれている。人間たちの労働のドラマをこの手前の鷗たちの大群によって讃歌するように表現する。

 松本高明「細濁り」。透明な水の下にいろいろな大小の石がある。上方にすこし白い飛沫を上げながら水が流れている。水の流れる様子によって変形レンズのように底の石が歪んで見える。すこし上方では濁りがあるようだ。そういった渓流の一隅を写実的に表現して、不思議なイメージを醸し出す。流れてやまない水というものと、その底に静止している石というものが面白く対置される。

 小島和夫「メモリー '13」奨励賞。トルコに取材したものである。杖をつく老人と後ろの孫のような少女と犬。後ろの石造りのしっかりとしたかつての帝国の面影を残すような建物。油絵にしても差し支えないようなボリューム感のある表現で、もののもつ存在感を描く。同時にそこに老人と少女を対置するように、背後の建物もそうであるが、歴史とか長い時間というもののもつ手触りが静かに表現される。

 楢原環「夕影」。岸壁に白い漁船が繫留されている。手前のほうには大きな船の舳先が見えるし、巻かれた帆のようなものもあらわれている。光が波の上にきらきら反射しながら手前に伸びてくる。夕方の漁村の一隅を描いているが、漁村の生活感のある雰囲気ではなく、ひっそりとしてロマンティックで夢のようなイメージが表れているところが面白い。独特の構成に注目。

 吉村佳洋「水紋」。岸壁を歩く男。手前にモーターボートが繫留されている。水がゆらゆらと揺れている。左右にフリーハンドの白い線を縦横に描きながら、水紋や風のイメージを醸し出す。独特のモダンで新鮮な感覚が感じられる。

 伊藤みさと「森の工房」。一階建ての小さな建物の窓があいて、中で窯が焚かれているようだ。陶芸家の小さな工房だろうか。周りには白樺や様々な樹木が生えていて、植物が密生している。手前に小さな空間がある。柔らかな緑の色彩が優しく人を癒すようだ。また、全体に独特のリズムがあり、静かに風が吹いているような雰囲気であるが、それは画家の心が起こす風のようだ。いずれにしても、清涼な詩の世界を表現したと考えてよい。

 松岡歩「層層」。たくさんの貝殻が描かれている。中で大きなものはアンモナイトである。貝塚というものがあるが、昔の人は貝をたくさん食べたそうだ。その人々の生活の痕跡でもある食べられた貝が集積して層をなしている。その層の中には実際に食べられずに死んだ貝もあるのだろう。歴史というものをその中に表現しようとする。その地層の中に青いトーンが入ると、それは幻想の空のように感じられる。いずれにしても、ベージュやオレンジ、青、緑などの色彩がよく手なずけられて、独特のしっとりとした雰囲気のなかに静かに雅びやかにハーモナイズする。そのあいだに小さな生き物たちの象徴として貝が面白く集合的に、画面に配置されている。地中にあるものが星座のようなイメージで立ち上がってくる。

 清水操「Azzurro―青―」。セルリアンブルーの空の下にたくさんの洗濯物が何列にもわたって干してある。左のほうにはアパートのような集合住宅があり、ベージュ色に輝き、また、影の部分がなにか懐かしい。生活のうたともいうべき敬虔なイメージを静かにうたう。

 白井進「うつろいの季」。森の中に入った小道が描かれている。周りには灌木が茂って、向こうには山の斜面が見えるが、点描によってもうもうとした気配のなかに表現されている。独特の密度が感じられる。日本の湿潤な風景はトーンによって表現する必要があるだろう。オーソドックスに誠実で純真な感覚で日本の風土に向かい合っているという姿勢が好ましい。右のほうにススキがたくさん銀色の穂を靡かせているのが、静かな脇役となっている。

5室

 三浦愛子「蜘蛛の巣」奨励賞・第十九回天心記念茨城賞。上方のハンモックのようなフォルムの上に若い女性が座り、後ろに鹿がいる。樹木や植物のフォルムがあらわれている。下方に杉がある。右下は大きく余白があけられている。それぞれのフォルムをピックアップして構成し、ロマンティックなイメージをうたう。

 梅原幸雄「旅の夕」。「インドの女性の美しさに心惹かれる。特にサリーの優美で、その形の合理性には驚かされる。モデルをお願いした、インドの女性はいつもジーパンなどのラフな服装で現れて、サリーに着替えた時の凜としたたたずまいと美しさを今でも忘れることはできない」。七人の女性群像である。二人は床に座り、二人は椅子に座り、三人が立っている。それぞれの衣装が変化し、あでやかな雰囲気。そして、大きな目が実に魅力的である。そんな女性たちに画家はずんぶん接近して描いている。遠くから客観的に描くというより、一つひとつに接近しながら、全体でこの画面をつくったということだろう。そこにあらわれてくる手触りともいうべきものと不思議な衣装のもつ輝き、そして人体の奥からあらわれてくるある精神性が目の光に集約されて、強い表現となっている。

 清水達三「渓谷翠韻」。「紀伊半島南方の山間部。大塔山を源に熊野灘に流れ込む約60‌Kmを古座川と云う。古座川町の透明度の高い大自然の生命を映し出すクリスタルリバー。二年前の大水害は南紀和歌山初めての悲しい大事故であり現在復興中。水の美しさに感動し、初夏早朝の空気を描こうと制作した」。古座川がカーヴしながらこちらに流れてくる。向こうでは緑、そして不思議な青い調子になり、手前で白い泡を立てている様子が魅力である。この前の水害ではこのあたりの地形も変わるほどのことが起きたそうだが、いまそんなことも忘れたかのような神秘的な水が手前に流れてくる。見ていると、単なる水というより、人生というものの中を流れていく時間のようなイメージも重なっているようだ。それほど水の物質感をもちながら、その水の物質感を超えた象徴的なイメージがここにあらわれている。同時にロマンティックでもある。画家自身のもつ天分がこの水と重なって、そのような不思議な神秘的なイメージを醸し出す。手前のシルエットの崖と向こうの緑の樹木やそのバックにあるシルエットの山塊。そして、柔らかな光に満ちた空。もうもうたる水蒸気の湿度のある空気の様子。水墨画を思わせるような量感のある優れたトーンによる地上の山の組み合わされた表現に対して、この青く神秘的な水の静かな流れが深い味わいを醸し出す。

 田渕俊夫「春爛漫」。「桜が満開だと聞いて出掛けた代々木公園は見事に春爛漫の世界でした。厳しい冬を乗り越えて迎えた春の喜び溢れる光景は、私に活力を与えてくれました」。ソメイヨシノの太い幹、そして四方八方に広がる枝が、濃墨から淡墨の、たらし込みふうな滲み出るようなフォルムによって表現される。そして、そこに満開の桜の花の様子が淡い紙の地を生かした微妙な白いトーンの変化によって表現される。花が空間で、その花の空間の中にシルエットの樹木の幹や枝が伸びていくといった、そんな不思議な幻想性がこの作品の魅力である。そして、すっぽりとその空間に包まれるような臨場感が感じられる。

 宮廽正明「把手共行」。「大西洋に面したガーナ共和国の上空で、大きな口を開いた定置網漁に出会いました。幾つもの手と網が握手をし、声を掛け合いながら─口福─な網が閉じていきます。人と自然、体と心の共同作業です。願いが大きくなったり目指す目標が高くなるにつれて、力を合わせる度合が増していきます。大きな自然と向き合うと、自分だけの力ではどうすることもできなくなってきます。大きなうねりは、緊張感という厳しさと揺らぎという優しさを混在させています。目の前にあるちっぽけな浮までが、人の手の届かない反対側の拠り所を作ってくれました」。木造船に十数人の漁師がいて、定置網漁を行っている。網の中には大きな魚がシルエットになって泳いでいる。海のもつ深さ、そのうねりが独特の線を重ねた表現によってあらわれている。海というものの恐ろしさ、怖さがまず描かれていて、そこにともに助け合いながら漁をする姿があらわれる。一瞬出会った光景を絵にする画家の能力に驚かされる。

 西田俊英「ゼウスの世界」。「ゼウスはロシア皇帝が愛したという、このボルゾイ犬の名です。知人の紹介で初めて待ち合わせをした折、広い公園でなかなか会えずにようやく探し出した時、ゼウスは偶然にも桜樹の下で休んでいました。実は今回、枝垂れ桜と犬を描こうと思いながらもなかなか構成が煮詰まらず悩んでいたのですが、ゼウスに会った瞬間、思い描いていた世界が明瞭化されたような気がしました。儚い故に一層美しさを増す桜と繊細で思索的な美しい犬。共に輝き、息づいているかけがえのない命を幻想的に水辺に配置して絵画ならではの世界で描いてみました」。枝垂れ桜の下にボルゾイ犬が横になっている。桜の枝の向こうに太い幹がある。そのまた向こうにも桜があって、そのあたりはかがり火が焚かれて、すこし夜桜のような趣も感じられる。桜が前後重層的に奥行きのある空間のなかに配置されているところが、この作品の実に面白いコンポジションになっている。桜のあやしい森の中に踏み込んだような神秘性が感じられる。また、こちらを見つめるボルゾイ犬は、女性のように思われる。そして、下方が水に濡れているようにその影を映している。じっと見ていると、能舞台を思わせるところがある。下方の空間が能の床が鏡になったような雰囲気で、柔らかく上方のフォルムを映している。能は死者との会話であるが、このようなシチュエーションの中で独特の過去との対話を画家は描いているようだ。ボルゾイ犬自体もロシアのいまは亡くなった皇帝が愛したといわれているように、そのような過去の歴史、あるいはロマノフ王朝の悲劇などもしぜんとある陰影を伴ってこの作品の中にあらわれてくるようだ。人間の生の連続をそのまま象徴するかのようなこのあやしい桜の枝垂れてくる花弁や枝の様子。そして、美しきもの、愛されるものの象徴としてのボルゾイ犬、その高貴な姿は画家自身の子供の頃のイメージが重なっているように思う。画家は三重の生まれで、少年の頃に能に熱中したという。画家の人生のなかで少年の頃から培われた夢のような夢想的な空間が、このコンポジションの中にしぜんとあらわれてくるような面白さとあやしさを感じる。一種水墨的な味わいであるが、その水墨的な様子がそのまま能のもつ生死をともに往来するその力、イメージと重なってくるようだ。

 牧野伸英「日差しの中へ」奨励賞。教室のドアをあけて戸外を眺める七、八歳から十歳の少女の後ろ姿。それを取り囲む校舎の中の空間と戸外の空間とその向こうの校舎の窓。その中に光が入ってきて、きらめくような空間があらわれる。その光の中にすこしシルエットふうな少女を立たせて、愛らしくほほえましい雰囲気をつくると同時に、空間の広がりというものがよく描かれていて、そこに光が導入されて、独特の魅力をつくる。

 武部雅子「通り雨」。座っている女性のフォルムがクリアで強い。輪郭線が生きている。周りには建物や樹木、水などが箱庭ふうに線によって色面的に描かれていて、それらの組み合わせによってコンポジションの強さがあらわれ、新鮮である。キュービックな造形解釈を日本画の世界に持ち込んでいるところが、この作品の魅力だろう。また、柔らかなベージュ系の色彩が静かにハーモナイズし、その中に色彩を変えた朱や緑、黒などの線が縦横に引かれて、それがメロディアスな雰囲気をつくる。

 番場三雄「暮れゆくバザール」。二頭の驢馬がいて、小さな驢馬が大人の驢馬に擦り寄っているような雰囲気。下方には籠の中に様々な収穫のものが置かれている。背後にはテントがあり、壁がある。不思議な金色の光が上方にあるのは夕日の投影だろうか。懐かしい雰囲気である。この二頭の驢馬のもつ優しさ、呼吸をし体温までも感じられるようなフォルムの力、その表現。グレーの中に複雑微妙なトーンがあらわれ、人間と共生する二つの動物が実に魅力的に優しく描かれている。収穫するものたちがそこに置かれて、自然と深い関係をもった素朴な生活が画面に描かれている。上方にシルエットの鳩がもう一つの別の瞑想的なイメージとしてあらわれているところも面白い。

 宮北千織「想」。「以前から描きたかった人物の形です。画題は『想』として、空想の世界を描きたいと思いました」。向日葵のような大輪の花柄の衣装をつけた女性が座って、膝を立てて、そこに両手を置いて、額を近づけている。衣装の向日葵のようなフォルムとそこに彩色された赤が夢のような雰囲気をつくりだす。単なる衣装の柄ではなく、そこにもう一つの夢想するロマンの世界が存在するかのようだ。向かって左奥には教会を思わせるフォルムが線描で描かれる。上方には湖があり、山があるといったイメージも表れ、建物があり、鳥のようなものが飛んでいる。画家にとって大切なイメージを紡ぐ。そこには風景的要素もあらわれ、また、夕焼けのノスタルジックな心象的時間も導入されるといった様子で、複雑な時空間が画面にあらわれ、画家の強い憧れのようなものが、画面全体を統合して独特の魅力をつくる。

 福王寺一彦「月光」。「月の光と湖からの微風が霧の中の木立を通っていきました」。木立が黒いシルエットで描かれている。巨大な月が上方に輝く灰白色で描かれている。下方は霧が立って、まるで雪が積もったかのような世界。不思議なロマンのなかに枝が伸び、梢の先までのフォルムがメロディを奏でる。

 村上裕二「その先へ」。「先へ進むんだ。顔を上げて大空を見上げるんだ。そして君が道を指し示す時、未来はひろがりはじめる」。若い兵士が左手を伸ばして指示している。画面を上下に縦断し、ところどころ槍の穂先が見える。奥には馬の頭があって、前に向かって進行している。背後は群青と朱色の激しい色彩である。強いパッションの表現である。それを一種キャラクタライズするような登場人物を中心として表現する。アニメ世代に育った画家の新しい日本画のヴィジョンと言ってよい。

 倉島重友「風暦」。「南イタリア。世界文化遺産のマテーラから車はクラコの城を目差して南下した。人気の無い廃墟の城塞を仰ぎ見た時、さほど大きな遺構ではないにしても、その孤高の佇まいは、長い年月を越えて来たその繁栄と衰退を想わせた」。クラコの城跡が画面の中ほどに聳えている。急斜面のフォルムが下方に続き、そこに点々と小さなオリーヴのような木が立っている。全体に下に金箔を置いて彩色したような独特の輝きが感じられる。じんわりと画面の内側から光ってくる画面。歴史というもの、人間の栄枯盛衰に対する感慨がしぜんと感じられる。

 前原満夫「慈光」。葉の落ちた裸木が描かれている。細い枝から梢にわたるそのフォルムが面白い。白骨化したような形である。その上方に満月が光を差している。下方は雪原である。冬の一本のこの樹木のもつ命のフォルムをしっかりと表現する。独特の実在感があり、そのうえに深い情感が重なる。

 中村譲「春節祭」。龍を舳先に置いた山車が静かに手前に歩んでくる。極彩色の荘厳がなされている。また、夜空にもう一頭の青龍がその頭を持ち上げている。龍を中心としたお祭りである春節祭がエキゾティックに表現されている。人間たちはシルエットの中に置かれ、中心の山車がきらきらと輝くように表現され、とくに上方の青い龍のフォルムが面白い。

 山田伸「静夜思」奨励賞。若い女性が座って、すこし膝を立て、右手を前にくの字形に出して、掌を上に向けている。そこから蝶がたくさん生まれて上方に飛んでいく。後ろには枯れかかった大きな向日葵の花が俯いている。ノクターンと言ってよい。深夜の瞑想的な雰囲気のなかにロマンティックなイメージを醸し出す。横向きの女性の手や顔や足などのフォルムがクリアで、そこに画家の美意識が感じられる。そのフォルム自体によって深い感情的世界が醸し出される。フォルムの力に注目。

 村岡貴美男「温室」。傘を持って立つ女性が右下方にいる。背後は温室になっている。そこには様々な花が咲き乱れている。食虫花のような花も見える。大きな葉をもった椰子のような植物や芭蕉のような植物も、その葉を広げている。全体、オレンジ色の色彩の中に彩られて、強い内向的なイメージがあらわれる。温室の中で静かに成長を遂げる植物たち。その熱気のあるイメージに対して、右下には日傘を持つ若い女性が立ち、顔を左のほうに向けて何かを眺めている。女性の成長と植物の成長が静かに対比されて、無言で何事かを語りかける。命というものが胚胎され、静かにその命が成長する、そんなイメージが感じられる。

6室

 東儀恭子「CROSSING」。手前に二匹の犬。上方にもっと小さな二匹の犬。お互いに向かい合っている。独特の強いマチエール。形が力強く、そのあいだの空間が生きている。韻律が画面の中に感じられる。ドローイングの力ともいうべきものが顕著で、それが独特のリズムをつくる。

 斉藤博康「歴―木古内浜―」。海辺に打ち上げられた船は廃船である。空に満天の星が輝いている。セルリアンブルーの空とシルエットの船、手前の砂の青みがかったベージュ系とがひっそりとした叙情の世界をかたちづくる。船の上のマストが画面の構成にリズム感を与える。

 野地美樹子「行く秋」。一車両ほどの小さな電車が遠ざかっていく。手前はたくさんのススキが群生していて、その穂が銀色に輝いている。斜光線が差し込み、ところどころピンクに染まっている。全体で強いノスタルジーの感情が引き起こされる。手前のススキの表現と電車の後ろ姿が対照されて、人間のつくりだした営為と自然のつくりだした群生するススキの様子とが対照され、ある文学的なイメージが表れる。

 西澤秀行「教室」。学校の教室のフローリングの上に机と椅子があり、トロンボーンを持つ少女が座って前に立つ友達と話し、笑っている。そんなシーンがクリアに描かれる。ベージュの中に柔らかな色彩が与えられて、清々しいなかにイノセントな雰囲気が漂う。

7室

 近藤仁「富ノ遺産」。ウォーターフロントの建物。窓の中は光り輝く。見ていると、たとえば上海などのイメージが起きるが、実際にはどこを描いたものかはわからない。ただ、そういったエキゾティズムと人間たちの生活や歓楽のイメージが、この夜の中に静かにうたわれているようだ。また、水のもつ人を癒す性質のものが手前に描かれ、その波紋の様子なども画面全体の中でよくフィットしている。

 鈴木恵麻「水に映す」。船の舳先に少年が座って、立て膝をしている。黄土系の色彩が使われて、全体で錆びた黄金色に見える。廃船は老人を思わせ、その老人の舳先に若い少年が座っているといったイメージ。存在するものの魂ともいうべきものに触れようとするかのような独特のマチエールが魅力。

 平山理「殷殷」。長崎の祭りだろうか。龍を担いでいる様子。上方には名前の入れられたたくさんの雪洞が光っている。それぞれのフォルムがクリアであるところが、この作品の面白さである。お祭りの熱気というより、そのフォルムによって絵画的な魅力があらわれる。

8室

 涌井欽也「春到」。小川のそばの枯れた岸辺に少年が立って、浮きのようなものを眺めている。晒されたような空間の中にイメージによって立ち上がる光景。現実と非現実との境界にあるところの透明な叙情ともいうべきものが魅力。

 新井政明「駅」。駅のホームにたくさんの人々がいる。屋根のあいだから見えるプラットフォーム。人間たちを生き生きと描いて、都会の一隅を一つの絵にしている。アンティームな雰囲気が興味深い。

9室

 高橋裕子「遙想」。単線が伸びている。そばに無人の駅舎がある。上方に覆いかぶさる樹木と下方から伸びていく雑草。一隅をクリアにしっかりと描いていて、独特の強さを見せる。空には箔が置かれている。装飾的な要素も取り入れられて、独特の魅力を表す。

 木村惠子「レクイエム」。雑草がまるで肋骨のようなフォルムを茎の周りにつけながら立ち上がっていて、幻想的な雰囲気があらわれる。植物の名前はわからないが、きっとこのようなものがあるのだろう。一種シュールな味わいを表す独特の感性。

 高宮城延枝「凍解け」。画面の真ん中に青い水があって、そこに空を映している。針葉樹が倒立して映っている。周りは雪と思われるが、白い光景である。それに囲まれた無垢な詩の世界があらわれているような、ピュアな表現に引かれる。

 中神敬子「連なりのある街」。取材した場所はわからないが、俯瞰した構図で建物や教会のようなものが並んでいる様子を、斜光線の中に表現する。上方に緑の色面が見えるが、それは田園のようだ。黄金色に照らされた集落と輝くような緑の田園。それら一つひとつのものを音符のように扱いながら、独特の美的な秩序のなかに表現する。

10室

 森ゆだね「追究の瞬き」。プラネタリウムが描かれている。それを映す機械が左下に火星人のようなフォルムで立ち上がり、上方に星座がある。プラネタリウムの魅力を淡々と描きながら、そのまま一つの詩の世界を表す。

 浜口和之「暮れなずむ」。昨年は真っ赤な夕焼けを背景にした粗末な建物であったが、今回は夕暮れの中にあるガード下の道である。向こうに建物が見えるが、空はほとんど褪せたピンク色である。独特の手触りがある。それがある現実感をつくりながら、詩の世界のような不思議なときめきを表す。何回も通った道の素朴な風景が、なにか貴重な世界を表す。

 芝康弘「繫がる生命」。二頭の馬の前に立つ少女。少女は後ろの向かって左の馬の手綱を持っている。少女は妖精のような雰囲気である。細密に対象を描きこむことによってあらわれてくる独特の心象的な要素がこの作品の魅力だろう。

11室

 吉澤照子「静謐」。池に睡蓮の花が咲いている。そばに水鳥が来ている。上方に光が滲み出るように光源があるが、それは太陽か月なのだろうか。浄土を思わせるような光景である。自然の内部に深く入り、それを画家の心の中に取り込み描いた仏画的なイメージがあって、清らかな世界があらわれている。

 菊川三織子「静韻」。「3人の女性の立ち姿を描きました。白い花などは、スケッチブックの中からみつけたり、新しく写生したものを入れてみました」。菊川の描く女性は飛鳥・白鳳・天平時代の女性のような妖精的、不思議な力をもっている。ベージュの肌が輝くような神的な性質を示す。それを荘厳するように大きな牡丹や百合のような花が浮かぶ。

 小山硬「早春」。「早春の朝、深い残雪の竹林の中で、巣穴から出てきた狸の親子が強い印象に残り、制作いたしました」。左が親で、後方に二匹の子供の狸が、いま穴から下りて雪原の中を歩いてくる。背後の竹の凜々としたリズミカルな表現。それは冬を過ぎて、やがて来る春の鮮やかな暗喩となっているようだ。その中に生活の象徴として三匹の狸を置く。一種童話のような物語さえも紡がれるような親密な表現。

 大野百樹「冬来」。「このススキの曽爾高原は三重と奈良県にまたがり、爽快で優しく冬くる頃は身も心も同化してゆく」。現実というより、幻想の世界を思わせるところがある。柔らかな光が斜光線のようにこの風景を染めている。全体は紫色が主調色となっている。その光の中からススキのようなフォルムがまるでレースのようなフォルムとして、画面にいくつもいくつも浮かび上がる。そして、風に靡く草木の様子。その向こうに聳える雪を抱いた山脈。山脈の手前に、その一部を拡大したような斜面があらわれる。客観的に一点から対象を眺めるのではなく、対象の中に本人が入ってそこからつかんだものを組み合わせてつくられた空間であり、悠遠たるロマンがあらわれる。このような絵を見ていると、『万葉集』の詩人たちの歌のイメージもそこに重なるようだ。

 高橋天山「八俣遠呂智切散之図」。「古事記というとちょっと『遠い存在』と感じる人も、『ヤマタノオロチ』と聞けば、どこかで記憶が呼び醒まされるもの。それ程に須佐之男命による八俣遠呂智退治神話は日本人の心奥に刻まれている有名な故事です。現在第62回伊勢神宮式年遷宮を記念して奉納絵巻を制作中であり、長年に渡り古事記絵巻に取り組んでおりますが、昨年に引き続きこの大作もその成果。“身一つに頭が八つ、尾も八つ、八谷をまたぐ様な巨大さで常時血でタダレテ…いる、人喰い大蛇”を相手に、必死の戦いを挑んだ須佐之男命様の『とてつもない強さ』を表現できれば、と希いました」。ヤマタノオロチの胴体が画面をカーヴしながら旋回している。まずそのフォルムが力強く、いわば一つの結界ともいうべきものがあらわれる。頭が四つ。そしていま、その頭の一つに乗ったスサノオノミコトがその目と目のあいだの頭頂部に黄金色の刀を差し込んでいる。血がほとばしっている。左上方には切られた胴体の切断面が見える。赤みがかったバックの中に朱色と墨の黒によるヤマタノオロチの表現が力強く、強い幻想性がそのままある現実感のなかに表現される。フォルムに対する優れた感覚をもっている画家である。その力を縦横に使った表現である。悠遠たるロマンもしぜんと画面から感じられる。

 篠﨑美保子「炎陽の華」。日傘を差している二人の女性だろうか。後ろに優雅なチェアがベージュ色に彩られている。熱帯の植物がその細く長い葉を茂らせている。二人の女性のフォルムが力強く、独特のボリューム感がある。時間が止まったような、柔らかで力強いイメージが、この二人の女性から醸し出される。日本人のようでもあるしバリ島の人のようでもあるアジアの女性が、母性的であると同時に神的なイメージを伴ってあらわれている。また、背後のチェアもそうであるし、女性の優雅なカーヴするフォルム、後ろにある大きな葉のカーヴする形などがお互いに響き合い、呼応し、リンクしながら、優雅な動きがあらわれ、その曲線の動きを追っていくと、一種の無限旋律ともいうような永遠に繰り返されるメロディが画面から聞こえてくるような思いに誘われる。いずれにしても、中心の二人の女性のデッサンがとくに優れている。

 瀬永能雅「濯枝雨」。豪雨の中に水が増水して氾濫する直前のようだ。手前に橋がかかっていて、そこに子供をおんぶした親とそのそばのすこし小さな娘が傘を差している様子が、切なく危険な雰囲気である。いずれにしても、逆巻くように溢れるような水の動きとその量感のある表現に注目。

 岩永てるみ「departure」。どこの駅だろうか。外国の駅のホームのようだ。大きな貨車が連結されて、はるか向こうまで続いている。斜光線が差し込んでいて、上の時計を見ると十時五分を指している。午前の時刻であるに違いない。そこをシルエットになった若い女性が向こうに向かっている。そのシルエットのフォルムが独特の強さと面白さを表す。まさに出発のイメージで、背中を見せて向こうに歩んでいく女性。そして、向こうには光の溢れる空間があり、なにか希望に向かって歩きながら、そのまま消滅して行方不明になってしまうような、そんな不思議さもある。旅という時間のもつ性質を見事に表現していると思う。それを表現するのに、しっかりとしたホームの水平面、ボリューム感のある貨車、そしてそれを覆う力学的な屋根や壁などが描かれている。そこにより人間の繊細な佇まいが対照される。

 才木康平「緑風」。樹木が地面から立ち上がってくるその部分を中心として、幹の広がり、葉の様子を描いているが、シルエットの中に表現されている。向こうから光がこちらに差し込んできている。風が吹いているようで、光と風が不思議な文様を背景につくる。そのあたりの感覚的な表現はこの画家独特の感性だと思う。この一隅が仏の世界を引き寄せているような、そんな深い精神性を画面に与える。

 齋藤満栄「遊行柳」。「『田一枚 植えて立ち去る 柳かな』松尾芭蕉 奥の細道の一句です。西行に憧れ、東北へ旅立った芭蕉は、途中白河の関近くの西行が愛でた遊行柳の下で、しばし西行を想いこの句を詠みました。西行に私淑する芭蕉には遊行柳の前に立つことは至福の歓びであったことでしょう。これに想を得て、この絵を描きました」。柳の幹と枝が構成のポイントになっている。そこはグレーで、水墨ふうな表現である。柔らかな緑の葉が上方から下方に複雑な様相で下りてくる。そこに二羽の鳩がとまっている。白い鳩とグレーの鳩である。画家の文章を読むと、二羽の鳩は一羽は西行で一羽は芭蕉ということになるだろうか。そういった二人の日本の先人に憧れるもう一人の画家齋藤満栄がいて、こんな空間が生まれた。柳の枝の流れを見ていると、そこには繊細な美学ともいうべきものがあらわれていて、時間がそのように伸びていっているような趣もある。それに対して葉の表現は客観的な写実によるものと思われる。いずれにしても、この柳の内部に、先人の心の中に深く入って、鳩をそのような擬人化したかたちで置くという表現が面白い。

 大矢紀「雨余光陰」。「日本美術院を創立した岡倉天心先生の生誕150年没後100年の節目の年に作品を出品できる幸せをまずは喜びたい。数年前から天心先生終焉の地である東洋のバルビゾンと呼ばれる妙高山を中心とするこの一帯を描いているが、この地は春夏秋冬いつの季節もそれぞれにすばらしく美しい所である。去年スケッチの折にはげしい風雨に遭い今日はむりだから帰ろうとした折、急に雨があがりしばらくすると降った雨が上昇雲気となって天に帰って行く様と、又同時に雲間から一条の光がさし込み、只々大自然のすばらしいドラマ演出に驚きと感動感謝で夢中でスケッチブックに手が勝手に動いていました」。下方に湖。湖を取り巻く雑木林、そして中腹の黄金色の光を受けた面。そして、雪をかぶった妙高の山々。暗い空に朱色の光が走り、雲が動いている。刻々と動いていく妙高の姿。晴れたときの光に染められた様子と雲の中の妙高。あるいは激しい風の中の様子。ざわざわと樹木が鳴る。そういったいくつかのシーンをここに重ねながら、画家の思う妙高というもののもつ生きた姿を表現する。

 大野逸男「霧の林」。「栃木県大芦川の雑木林を取材しました。朝、夕、気温と水温の差か、霧が湧くように木々を包んで行きます。美しいモノクロの世界が広がります」。褐色の松のような樹木の幹が近景にあり、そのあいだに下生えの草、あるいは灌木が黄金色の葉を見せ、その向こうにはだんだんと霧がかかっていて、グレーの世界の中に雑木が広がっていく。霧の流れが動きと空間の変化を醸し出す。一瞬ものが見え、また消えていくといった、そんな臨場感が感じられる。自然の中に深く入ったところからあらわれてくる世界である。日本人が和歌に詠んできた独特の人生と自然との交錯するような、単なる空間のみならず、時間軸さえも表現されていると思われる。

 北田克己「夏の細道」。「木戸をくぐると市中を忘れさせる清静な庭がありました。小さな空間なのにどこまでも深い奥行きがあるように感じます。待ち、止まり、そして分け入ってゆくに従い景色が変化します。簡素だけれど行き届いた造りの小間に上がると晴れた日中でも暗がりに目を凝らすほどです。窓の障子に映る木漏れ日が輝く玉のようでした」。作者の文章を読んでいると、桂離宮などの庭園を思い起こす。左のほうには茶室のような民家の空間が描かれている。そこにこんじきの葉や、壁につけられた備前ふうな小さな花瓶、あるいは竹筒のようなものから下りてくる、いけられた植物。黄金色のモミジのような葉、あるいは蕾などは次の緑の空間にも動いていき、そして、右の白い空間に向かう。そこにはシダが生え、不思議なV字形の葉、ちょうど松の葉のようなものが浮遊しながら右の白い樹木に向かい、それは木蓮のようでもあるし、上方にはモミジがあらわれている。「夏の細道」という題だが、その中にある移ろいのなかに春夏秋冬のイメージもしぜんと引き寄せられているようだ。落ち葉が連結しながら不思議な旅を行う。単なる空間の変化のみならず、時間の変化もそこにあらわれて、その中を葉が旅するといった、そんな不思議な雰囲気である。そこには画家独特のリズム感覚のよい音楽性といったものも表現されている。時と空間の中を動いていくそんな鮮やかな世界が、独特のひっそりとした美意識の中に表現される。

 大嶋英子「窓想」。窓の手前の椅子に女性が座って頰杖をついている。レストランの一隅のようだ。上方に赤いカーテンがあったり、飾りの壺がある。窓の向こうにはヨーロッパの石造りの建物が見える。藤田嗣治の作品の中にこのようなシーンがあったように記憶しているが、この作品はすこし古色を帯びたようなしっとりとしたマチエールの中に暖色系の色彩と緑系の色彩を使いこなしながら、しっかりと室内の空間にあるものと人間を描いて、静かな情感を醸し出す。物語性がしぜんと画面から感じられるところが魅力。

 大島婦美枝「朝」。母牛と子牛が藁の上に横になっている。それを大きな量感のなかにどっしりと表現する。また、白牛が聖なるものを表す。

12室

 平林貴宏「表象と消費」。右手に花を、左に菊の入った籠を持つ和服姿の女性。狂人のような雰囲気である。「墨田川」という子供を失った女性の能の演目があるが、そのような世界に共通するようなあやしい力が感じられる。一種の霊的な要素をクリアなこの女性のフォルムを通して表現する力に注目。

 新生加奈「母と子の物語」。肱枕をして本を子と一緒に読んでいる若い母親。そばに頰杖をついた少女がいる。バックは無地で、赤から黄金色、茶褐色などの色彩のトーンの変化による。二人はともに白い衣装を着ている。本も白い。余分な要素は一切省いて、母と子の二人の関係に焦点を当てて描いて、強い空間をつくる。柔らかでありながら、ある求心的なイメージをよく表現する。現代の聖母子像と言ってよいようなところまでイメージの中に下りていったところにあらわれてくる魅力。

 三須暁子「帰り道」。斜面を手前に自転車で走ってくる人。坂道の上は茜色の空で、そこにバスが一台。電信柱が伸びている。強いノスタルジックなイメージが漂う。風景もバスも人物も画家の深い感情によって一種非現実の世界と化すような、そういった表現力に注目。

13室

 松原秀伸「塔の街」。教会を中心としたオレンジ色の屋根瓦と白壁の中世から続く建物群をしっかりと表現している。一種のボリューム感のあるところと、マチエールがしっかりしているところが、この作品の存在感をつくりだす。金という象徴的な色彩を使うことによって、中世のもつ独特の気配が表現される。背景は霧が立っていて、向こうに島のような小さな丘のようなものが見えて、それ以外は霧の景色になっているところも面白い。

15室

 丸山國生「オースティン・ヒーレが来た」。どっしりとした石造りの建物の手前に階段が五段ほどあって、そこにベージュのオースティンがとまっている。そばにシルエットの女性。うまく霧を扱いながら、存在するものの魅力をピックアップするように表現して、印象が強い。マチエールとボリューム感の表現が優れている。

 鳫野佳世子「島模様」。昔ながらの簾が二連垂れている向こうに子供たちがいる。アイスなどを売っている店だろうか。手前に男が背中を見せて座っている。強い光が差し込む海辺の建物と思われるが、明暗のコントラストの中に少女たちのフォルムを一部のぞかせて、ヴィヴィッドな表現になっている。

16室

 杉山紅「秋色の中で」。蔓のような植物が紅葉して、カラスウリの赤い実がちらちらと輝く。中に若い女性がノースリーブの上半身をのぞかせる。それぞれのフォルムがクリアで、そのクリアなフォルムを連続させながら、独特のメロディと言ってよいような構成をつくる。

 髙橋雅美「静けさのなかに」。石段をだんだんと下りていくと路地で、周りに民家がある。そういったシチュエーションを上方から見下ろしている。明暗のコントラストの中に下降していくという視点の動きが面白く表現される。

17室

 安井彩子「奏でるために」。管楽器のトリオで、三人の女性が描かれている。譜面台を前にして二人の女性が立ち、一人は座ってサックスを持っている。そのフォルムがしっかりと表現されている。形態感覚に注目。

18室

 藤城正晴「莫妄想」。雲がわだかまっている上方に満月がある。飛行機から見た光景である。雲の上の空がしんしんとして深く感じられる。実景というより、画家のつくりだしたイメージの世界のように思う。奥行きと同時に能を見るような独特の静かな中の動き、幽玄の気配に注目。

 今井美晴「夜窓」。自動車によってチュロスの販売を行っている公園の中のシーンを描いている。販売員と周りの若い客たち。クラシックな車を使った店、移動式店舗であるが、その様子をしっかりと描いて物語が生まれてくる情景を表現する。構成力と一種の文学性ともいうべきものに好感をもつ。

 村上里沙「心安」。地面に水たまりができている様子を描いて、緻密なエネルギッシュな表現にしている。周りを取り囲む灌木の様子や地面や水の様子に独特の実在感が感じられる。また、暗い部分にもう一つ別の異次元の世界を感じさせるような感性も面白い。

19室

 本地裕輔「遠くへ」。木でできた桟橋の杭の上に二羽の白鷺がとまっている。雪が降っている。もう一つ、向こうにも同じような桟橋が見える。江戸時代の桟橋のような深い情緒がしぜんとこのような情景からあらわれる。水墨を中心とした骨格の中にベージュ色の色彩や胡粉が入れられて、独特の風景との親和を表現する。

20室

 増本寛子「凜と」。樹木が上方に立ち上がっていく。ちょうど坪庭のように吹き抜けの空間が家の中につくられている様子を、下方から上方を見て描いている。その見上げる角度とそこに向かう樹木の形、イルミネーションなどがきらきらとした美しさを表す。

 坂根輝美「喪失した友人」。ドライフラワーを持った若い女性が立っている。その全身像が描かれている。暖色系の茶褐色のトーンの中に包み込まれるように表現されている。題名からすると、この女性は亡くなった。そして、その面影をこのようなかたちで表現したのだと思われる。不思議な存在感が感じられる。一種の霊体のような、イメージの強さである。

21室

 三浦長悦「明けゆく」。青いネットの向こうに樹木がある。おそらく果樹園と思われる。ネットを通して見る向こうの形とネットのもつ微妙なカーヴするフォルムとが相まって、独特の繊細であると同時に強靱なコンポジションをつくる。

 金澤尚武「眩惑」。コート姿の女性が赤い肘掛け椅子に座っている。それを取り囲むバックは独特の抽象形態をパイプでつくったもので、激しい放射状の、あるいは求心的なエネルギーを表す。ひっそりと座る女性に、エレガントな、またエロティックな魅力が感じられる。

 竹田ゆう子「霜月の頃」。竹林の手前が池になっている。その洲のようなところに三羽のカラスが下りている。竹林のフォルムを描きこんでいて、そのしなるような動きとボリューム感をよく表現する。全体で油彩画と見間違うような筆力で、空間のもつボリューム感や空気感、あるいはカラスのもつ存在感を表現する。グレーによる表現である。

 手塚華「×」。クロスするスクランブルの横断歩道の白いストライプを、暗いグレーの色面の上に浮かび上がるように表現する。そして、三十人ほどの人々をほぼシルエットふうに配して、強い印象である。都会の中に発見した一種メランコリックな雰囲気のなかの人間の存在の面白さ。と同時に、そこにあらわれてくる空間の面白さを構成する。

22室

 川島優「Necessary word」。四人の女性を配しているが、左下方の人は立っていて、ほかの三人は寝ているような様子。そのポジションがはっきりしていないが、シャープな感覚が感じられる。

24室

 河本真里「実」。椿のような樹木が茂っている向こうに若い女性の上半身が浮かぶ。椿も女性も奥行きがあって、立体感が感じられる。茶系のトーンが上品で、独特の情感が醸し出される。

 水津達大「ことつて」。渓流のそばに少女が座っている。深い水の様子とそこにもこもことある岩、そして悩ましげな女性の肢体。墨を中心として明るい部分はベージュの色彩で描き、独特の気配があらわれる。対象を再現するというより、空間のもつシュールな雰囲気がよく表現されている。

 岩田明子「汎う」。橋の上に男女が立っている。どれも若い人らしく、何組ものカップルがいて、街灯が白く輝いている。下方に川の水が流れている。色彩はベージュと墨色の調子の二色であるが、青春のモニュマンといったイメージがよく表現される。

第49回主体展

(9月1日〜9月16日/東京都美術館)

文/高山淳・磯部靖

1室

 田中淳「月への石段」。岩の中に階段がつけられていて、その向こうは海である。上方に満月が輝く。海の向こうに母の国があるという。それは死の国でもあるのだが、そのような深いイメージが表れている。ほとんどモノトーンの中に月光によって白々と岩組みが照らされていて、そのあたりの人間の営為の跡もあやしい雰囲気をつくる理由だろう。この石段のある場所自体もすでにある結界の中に入っていると言っていいかもしれない。(高山淳)

 植田寛治「ロダンのバルザック像」。バルザック像を画面の中央に描いている。下方には自転車が一台置かれ、周囲には葉を付けた樹木が立っている。ハーフトーンの色彩によって描かれたそれらが、現地の心地よい空気をそのままこちら側に運んでくるようだ。像に加えて柵や樹木の縦に伸びる動きと、奥の道に並ぶ車の重なりが作品に重厚な奥行きを作り出してもいる。そういった立体的な画面構成が前述した色彩と相俟って、見応えのある作品となっている。(磯部靖)

 井上俊郎「巡礼者たち(カルバラ、イラク)」。イスラム寺院の広い広場に人々が集合している。近景の子供を連れた母親が歩いている姿がほほえましい。女性はイスラム特有の衣装を身にまとっているが、子供は開放的で明るい花柄の衣装をつけている。そばに年とった二人のイスラム教徒が歩いてくる。はるか向こうのドームや塔が黄金色に輝いて、赤い旗が立っている。平和な、祭礼の一日が描かれる。屹立する塔と黄金色のドームの背景の空と雲。その雲の流れ、フォルムの中にイスラムのアザーンの声が聞こえてくるように思われる。(高山淳)

 矢野利隆「影の領域」。不思議な鳥が画面の中心にある。鳥であると同時に人々を死の世界に連れていく船のイメージがそこに重なっているようだ。その手前に三人の男女がいる。二人の女性に囲まれて老齢の男の裸の後ろ姿が見える。二人の巫女によって向こうの世界にだんだんと導かれているといったイメージだろうか。後ろに骸骨があり、その暗い空間の中にあやしいものがうごめいている。死と生の境界の領域をこのようなかたちで表現する画家のエスプリに感心する。下方に行くに従ってベージュの空間がもあもあとした霧のような性質を帯びて漂っているのも、結界を表す独特の表現と言ってよい。(高山淳)

 中村輝行「台の声」。逆遠近の台に人が座っている。側面に男が一人、上方に三人の男のシルエットが見える。二人は顔がシルエットで隠れているが、一人は口をあけて何か叫んでいる。そのあいだにインディゴのような暗い青い矩形の中に白を混色した不思議な窓のようなものが見える。下方にはそれを四十五度旋回した菱形のフォルムが三つ漂っている。中心の強い矩形のイメージは福島原発のイメージのように感じられる。そう思って見ていると、左の側面に座っているはずの男性の腕と腿が切断されている。手も足も出ないといった様子で、悲惨なイメージをかたちづくる。それに対して右上方に叫んでいる男の声なきイメージが表れてくる。中心のこの逆三角形のフォルムは机であると思って見ているうちに、だんだんと立体化し、塔のようなかたちで立ち上がってくる。ある恐ろしいものがこの中に入れこまれている。その恐ろしい声を画家は静かに聴く。そして、このような強いコンポジションが生まれたのだろう。バックの黄色を帯びた無地の強い空間も独特の緊張感をつくりだす。(高山淳)

 筑波進「白い魚とセシウムの海」。画面の下方に精気のない裸婦が横たわっている。その頭部は魚と重なったようなダブルイメージだ。上方に原発建屋が見える。周囲は海の底を思わせる深い青の色彩がグラデーションを変えながら彩色されている。今まさに問題になっているセシウムの流出を深い情感を持って表現している。人物のシャープでありながら緩やかなフォルムがよく捉えられている。それが奥の建屋の無機質な要素と対比されながら、その間の空間で独特の余韻を作りだしているところが特におもしろい。(磯部靖)

2室

 中島佳子「地の符2013(遺構)」。北朝鮮の遺構を新聞記事で見て、そこからヒントを得たそうだ。先だっての個展にこれよりもっと小さな、これと同じシリーズの小品が出品されていて、それが展開してこの作品になったそうだ。白々とした地面に切り込みが入り、穴があけられている。かつての集落の跡と思われる。遺跡や石が散乱している。そこには時間というものの層が積み重なって漂っている。人は描かれていないが、その空間全体に気配が濃厚に漂ってくる。ものの断片を画家のイメージによってつくり、置く。崩壊した遺跡の様子が逆に絵の中では心の内部にずっと現在進行形の時間が続いてきているといった、そんなイメージも引き寄せる。ただ単に純粋な過去のものであれば、このようなかたちに作品が立ち上がってこないだろう。そういった不思議な時間というものの謎が画面に描かれているところが面白い。フラットな地面の中に起伏が起こり、そこに直方体や円形の窪みがつくられ、じっと見ていると、その様子が人間の脳味噌の一部を拡大しているようなイメージ、あるいは無意識の領域で行われる作業の現在進行形のように見えてくるから不思議である。(高山淳)

 水村喜一郎「静物(ランプなど)」。ライトレッドのテーブルの上に木の箱やコーヒーミル、ランプ、カップ、ワインの瓶、あるいは高坏の染付の模様の中に置かれた無花果などが置かれている。ドライになったアケビも二つ。それぞれがそれぞれの固有の存在として描かれ、静かに輝いている。全く奇をてらわず、対象のもつ存在に迫り塗りこむうちに、現実のものが絵の中のフォルムとなって、その絵の中の世界で静かな輝きを醸し出す。手で回すコーヒーミルの把手が右のほうに伸びているが、それを見ていると、静かに回って、いまそこでとまっているが、また回りだしそうな気配もある。それ以外は静かに立っているが、中心のワインの二つの緑の瓶の一つにコルクがつけられて、片一方は瓶の口がそのままのぞいている。それも実に不思議な雰囲気を醸し出す。高さが微妙に異なる。そこにひずむような空間の味わいがあらわれ、それによって瓶が単なる瓶ではなく、このワインの瓶が画家との深い関係のなかから何かを語りかけてくるような、そんな雰囲気もある。じっと見ていると、そのような物語がしぜんとあらわれ、鑑賞者に語りかけてくる。そんな強い深いイメージが描かれているところに感心する。(高山淳)

 石崎哲男「明日は晴れ」。雪山の風景であるが、そのドラマチックな画面構成に惹かれる。手前には樹木が大きく描かれ、その向こうに山が見える。日差しが燦々と降り注ぎ、山の頂上には噴煙のような雲がかかっている。じっくりと描かれた画面全体の中にある透明で清々しい空気が特に心地よい。(磯部靖)

 小菅光夫「一谷嫩 軍記熊谷陣屋之場」。平家物語の中の熊谷直実と平敦盛を題材にしている。画面全体は小菅作品特有の明るい朱を基調色としている。画面の中央では熊谷が札を持って見得を切っている。物語の詳細は割愛するが、右側には処刑された首を持った女性、左側に僧が描かれている。人物それぞれのフォルムにヴォリューム感があって生き生きとした人間模様を伝えてくる。舞台設定でありながら、背後に画家のイメージによって他の場面も描かれていて、作品全体に確かな物語性が生まれている。(磯部靖)

3室

 豊福光行「日出る」。画面の中心に大きな朱の色面があり、周囲は暗色と灰白色が組み合わされながら構成されている。強いイマジネーションの力が発信されてくる。それは原始的な自然のエネルギーであり、画家は自身を媒体としながら画面に表現している。大胆な構成でありながら、繊細な優しさのようなものも感じられて印象に残る。(磯部靖)

 齋藤典久「The Aran」。はじめてアイルランドのアラン島に画家が行って、もう長い歳月がたつ。その後何回か現地にも取材に行ってきて、それをいわば象徴的なイメージの根幹として繰り返し連作がつくられている。今回は緑がかったグレーのしっとりとしたトーンがまず魅力である。上方に二筋の水平線があって、下方に斜線が入ってきて、そこに不思議な渾沌としたイメージがあらわれている。その下方にもややかすれるように水平線が引かれて、手前が海のような趣になっている。島という周りが海によって取り囲まれた結界のイメージはそのまま画家自身の生のイメージと重なるところがあるのだろう。そして、グレーの中にこの三角形ふうなフォルムがあらわれ、渾沌としている様子はそこで静かに小爆発が起きているような雰囲気である。パッション、あるいはエネルギーといったものがコンフューズしながら、独特の詩情ともいうべきものが発しているように思われる。それを映す静かな海のようなイメージ。上方はまた二筋のフォルムによって、もう一つの陸のイメージが表れてくる。バックグラウンドミュージックのようなかたちで上方の二つの水平線によってつくられたフォルムがあらわれてくる。山のようなイメージさえも感じられるその下方の不思議な爆発のような、そのモノトーンの中の力が今回の作品のとくに面白さと思われる。(高山淳)

 水戸部千鶴「わたしたち」。縦長の三枚の画面によってつくられている。それぞれに頭と両腕のないトルソのようなフォルムがある。朝、昼、夜といった時間によって心象が変わっていくようなイメージがしぜんと感じられる。そういった、いわば時間による意識の推移ともいうべきものを、このトルソを使いながらすこしねちっこいマチエールによって表現する。外界を描きながら、そのまま内界につながる表現の面白さと言ってよい。(高山淳)

4室

 浅野修「虚と実(ちぎられた構造)」。F一三〇号のキャンバスの横に、高さが同一で、それの三分の一の幅の縦長の画面を接続した空間がつくられている。F一三〇の中には、キャンバスの上に樹脂のようなものによってもう一枚の被膜ができており、その被膜が一部めくられている。内側から黒い空間がのぞく。めくった裏側とその向こう。またこの樹脂の被膜は透明で、内側を映している。どの部分が虚で、どの部分が実なのかわからないけれども、そのようなコンディションのものをつくる。そして、そこに破るというあるアクションを行う。左のほうにはタコ糸のようなものを三本コラージュして、それが左の側面から右のほうに伸びてクロスし、三角の形ができる。それをなぞるようにドローイングによる線があらわれているが、その上からも樹脂がコラージュされていて、表面と内側といったイメージが表れる。独特の感覚的な表現である。いわゆる禅問答の如きものである。偈ということで、禅では公案を与えるのだが、この作品は虚と実の公案というように理解すると、面白い。そのための空間の中の激しい一撃ともいうべきものが、この被膜を破り、破ったあとに何が見えるかということを鑑賞者に問い掛けてくるようだ。(高山淳)

 中城芳裕「マボロシレストラン」。漆黒の画面に金でもってフォルムをつくっていく。右のほうは食卓の上に大きな魚の頭がのっている。向かい合う子供を抱く母親と少女。上方に食前のお祈りという文字が見える。向かって左にはメニューを広げる二人の少年の前にウェイトレスが、ハート形の頭をもつ翼のある鳥の骨のようなフォルムをすすめている。本日のおすすめという文字が上方に描かれている。そのそばには三日月が出、牛の頭が窓からのぞいている。下方の地面には鳥の子供や紐で結ばれたコウモリや山羊などが歩いている。子供の頃にしぜんと感じたファンタジーを思い起こす。画家は子供の頃の世界に下りていくことができる人なのだろう。ごくしぜんに浮かぶイメージのままに作画された趣が感じられる。深い記憶の中に入ることによってあらわれたファンタジーで、妖怪のようなものも仲間のように画面の中に入れられる。(高山淳)

5室

 佐野たいし「夜の王様」。黒いバックにグレーの絵具が塗りこまれている。塗りこまれているというより、たらしこんだような雰囲気である。その右上方に王冠がすこし傾いて浮かんでいるから、そこに王様の顔があるようだ。その下の足のようなところに長いストライプのフォルムがあらわれ、下方に白い絵具が盛られている。その白い矩形と上方の王冠とが上下響き合って、独特の韻律をつくる。そのあいだに球形の白、グレー、エメラルドグリーンのような華やかな色彩が点じられている。画家はジャズが好きだが、ジャズの高揚したメロディを弾いたあとの一瞬、休止が来たときの、そんな広がりのあるイメージをしぜんと感じることができる。夜の幻想と言ってもよい。流れている音楽が一瞬止まった瞬間の不思議なひずみのあるブラックホールのような空間。そんな面白さも感じられる。造形的空間と音楽的空間のクロスしたところにあらわれてくる世界の面白さと言ってよい。(高山淳)

 佐野未知「朱鷺の風に乗って」。釉薬を使った独特のマチエールの中に、命とは何かを追究している。今回はオレンジの色彩を基調色にしながら、そこに青やピンク、緑など様々な色彩を施している。そして画面の左中央に舟を思わせる灰白色の色面がある。それは魂を運ぶ舟である。そこには円などが象られ、どこか神聖な気配が漂っている。その舟がゆっくりと右上に向かってく動きを見せ、そこに魂の行方を考えさせるイメージがあるところが特に印象的である。(磯部靖)

6室

 鴨狩泰代「晩秋の武甲山」。山が削られた武甲山がまるで静物のように画面の中心に置かれ、小さな建物が近景にある。そして、裸木に黒い鳥が立ち、後ろを振り返って何か叫んでいる。冬を間近にした季節。寒風が画面を吹きすさぶ。このテーマを胸中山水のように心の中に抱きかかえて、一種文人画的なイメージの強さも表しながら、油絵としての骨格をつくる。ユニークな表現である。(高山淳)

 見藤瞬治「螺旋考」。樹木が下方からテーブルを串刺しにして上方に伸びている。裸木である。そのテーブルは、よく見ると横たわった人間たちによってつくられている。画家は阪神大震災によって衝撃を受け、それから大地の中に人間を幻視するような不思議な作品を描いてきたが、今回、二年前の東北を襲った震災がそれにさらに加わって、こういった衝撃的な画面が生まれたものと思われる。テーブルは地面を切断したものであり、そこには死体が横たわっている。それを突き抜ける裸木は自然の暴力の象徴のように感じられる。通常、樹木は癒す存在としてあらわれてくるが、ここにあられてくる樹木はそのような暴力性をはらんだものとして、盲目の自然力のようなものとしてあらわれ、そこに時間軸が加わって、この平面を突き抜けて画面の上下を縦断する。(高山淳)

 榎本香菜子「MAZE」。メイズとは迷路といった意味である。緑の塀によって迷路がつくられ、その床はオレンジ色である。大地の色彩である。緑は植物の色彩である。そこに猟犬が走り、莵が走り、莵と猟犬とが追いかけっこしているような雰囲気もある。猟犬は本能に従って獲物がいなくても獲物に向かって走っているような雰囲気で、永遠に走り回り、息絶えるまで、といったイメージとしてあらわれている。莵はもっとノンシャランで、飛び跳ねたり隠れたりしながら、そんなゲームを遊んでいるような趣である。遊ぶものと追うものの二つの性質がラビリンスの中に置かれて、あやしい。ラビリンスははるか向こうまで続いて、地平線まで達している。地平線にはシルエットになった山脈が小さく横に描かれているのが救いかもしれない。その山脈もなく、ひたすら地平線の果てまでこのラビリンスが続いていくと、ほとんど絶望的な気持ちに襲われるだろう。遊ぶものと追うものというのは、人間のもつ属性、その社会性の二つの要素と言ってよいかもしれない。それを莵と猟犬とに託して、実に見事な寓意性を表現する。

 もう一点は「私も、うさぎ」という題名で、巨大なキャベツ畑の中に少年が裸で上半身をのぞかせている。両手を耳のところに当てて莵の格好をしている。莵はずいぶん生命力が強く、生殖能力も強いそうだか、生命力の象徴のように考えられているようだ。いずれにしても、この圧倒的なキャベツ畑の中に上半身をのぞかせる少年というのも、実に怖いイメージである。キャベツ畑のこのキャベツの大きさは、たとえば放射能を受けて肥大化した存在で、そんな変容したキャベツ畑が続いているといった雰囲気さえも感じられ、そこに裸で少年が立つといったイメージが感じられるところが恐ろしい。(高山淳)

 斉藤望「8月の葡萄」。縦長の画面の左側に葡萄の葉が伸びてきている。バックはその動きと同じように右上方への流れるような動きを見せている。葡萄の葉には小さく描かれた人間が二人乗っていて、バイオリンを奏でている。右上の方では白馬に乗った紳士と小鳥に乗った少女も描かれている。画面全体は、例えばメロディを奏でるような流麗な動きをみせている。葡萄の葉や蔓の独特のフォルムがそこに繊細なリズムを刻んでいっている。強い音楽性の中に未来への希望や夢を楽しながら、少し切ないようなノスタルジーも感じさせるところが魅力である。(磯部靖)

 門屋武史「天空の時」。グレーのワンピースを着た少女の背後に壁画が描かれている。その左側では壁画の背後に大きな歯車やパイプが見え、古代の超文明を思わせる。そしてそれにロマンを馳せる少女。それぞれの質感をしっかりと描き分けることで、確かなリアリティを引き寄せ、正方形の画面にうまく纏め上げているところに注目した。(磯部靖)

 丸谷恵「地・うつくしま・ふくしま」。飛行機の窓から見下ろすように俯瞰する視点で描いている。今回は東日本大震災の影響による原発問題に苦しむ福島を描いている。画面の中央に聳える磐梯山を中心にした平野と山間部の入り組むようなせめぎ合いに見応えを感じる。特に雄大に聳える磐梯山の清潔な表情が美しさを感じさせる。人間自らが引き起こした災いをイメージの下地にしながら、自然への畏敬の念、大切さ、圧倒的な偉大さをメッセージしてくる。(磯部靖)

 グェン・ディン・ダン「TWISTER/ツイスター」。椅子に座ってキャンバスに向かう画家自身の姿を画面の中心に描いている。身体の向かって左半分は黒のスーツを纏っているが、右側は裸で、下腹部からは内臓が飛び出ている。絵描きは作品に自身そのものをぶつけて制作する。そのイメージをこのように表現したところがおもしろい。右下手前にはハゲタカがいたり、左側には布や納豆など、その一つひとつが画家の精神世界を強く暗示させているようだ。彼方の地平線には竜巻が起こり、徐々にこちらに近づきながら、その精神世界を破壊していくような恐ろしさも感じさせる。精緻な筆致によって、そういった幻想世界に強いリアリティを引き寄せている。(磯部靖)

 吉田正「The ellipse VI」。椅子に腰掛けた一人の少女の肖像である。背後にはテーブルがあり、その上には瓶などに合わせて鳩が二羽描かれている。少女は白い上衣にピンクのスカートで裸足である。こちらに視線を合わせ、じっと見つめている。大人になる少し前の少女の繊細で危うくも瑞々しい雰囲気に目が離せない。室内の風景を描きながら、最後に緑がかった色彩を粗く施しているところも独特の演出で興味深い。(磯部靖)

 河村八重子「過ぎゆく(港の倉庫 '13)」。コクのある暗色のシルエットによって港の情景が描き出されている。暗色の中には、青や赤、黄などの色彩が細やかに入れられている。それが深い味わいを画面に作りだしている。背後は灰白色の色彩が建物群を包み込むように施されている。それがこの風景がどこかイメージの世界、過去の風景のようにも思わせる。刻々と変化していく時間の流れを画面に刻み込むように、画家は描いている。(磯部靖)

7室

 伊藤明美「紅のDJ」。DJを一人画面の中央に描いている。画面の下方手前に観客がいて、その間に大きな機材が見える。暗色で描かれたその機材の重厚感が、強い見応えを作り出している。背後には赤から褐色の色彩が施されていて、それが会場の熱気と密度のある空気感を強く感じさせる。厚くマチエールを重ねながら、そこに鑑賞者の五感に訴えかけるようなパッショネイトな情感が魅力の作品である。(磯部靖)

 手塚國彦「峠の棚田」。手前から奥に向かって棚田が重なりながら下っていっている。雨が降っていて、画面全体はしっとりとした気配に満ちている。その雨の描写が画面の右下あたりにしか無いところがおもしろい。ただそれだけで雨を感じさせるのは、緑や青のコクのある深い色彩によってもたらされている。難しい構図の中に、そういったリアリティのある臨場感を引き寄せているところに特に注目する。(磯部靖)

 續橋守「風の跡」。足尾銅山の廃墟をテーマにして長い。今回は、これまでの幾何学的な激しい韻律の表現に対して、下方に堆積した廃棄物、あるいは散乱した壊れたもの、コンクリートの塊などが柔らかな雰囲気で表現されている。白いコンクリートの塊のようなものの散乱する様子が、有機的な雰囲気で息づくように描かれている。曲がりくねった錆びたパイプ。壊れたエレベーターのあと。白いコンクリート。散乱する床。配線が垂れ下がっている。最近の何もない骨格だけの建物のような表現から、崩壊した直後のようなイメージに過去にさかのぼっていって、そこにある世界を引き寄せたかのような雰囲気が感じられる。やはり、津波や福島原発の出来事があって、その臨場感のあるイメージが足尾銅山というテーマに向かうにあたって、風化する前の時間にまで画家を引き戻すようなかたちでこのような独特の雰囲気が表れたのだろうか。実際にあらわれてくるイメージをそのまま述べると、夢の中に入っていくような趣がある。コンクリートの散乱したものにしても、一種有機的な雰囲気で、柔らかく、懐かしいような雰囲気さえも漂う。人間の記憶というもの、イメージの働きの不思議さと言ってよいかもしれない。この壊れた様子がそのままふるさとのような、そんな雰囲気さえも漂うあやしさと言ってよい。一種霊的なイメージが、この建物の内部の空間全体に漂ってくるかのようだ。(高山淳)

 栗﨑進一「麦秋『風のいたずら Ⅱ』」。麦畑が地平線の彼方まで続いている。その一つひとつが実に細やかに描き込まれている。そこに風が吹き、手前の穂は倒れ揺れている。その一本一本の微細な動きが大きなうねりとなって、強い動勢を画面の中で作りだしているところがおもしろい。黄金を思わせる色彩の中に生まれた独特のムーヴマンが鑑賞者を強く惹き付ける。(磯部靖)

 有馬久二「Born again」。大きな岩が転がっている。その一つに昔の踏切の信号灯のようなものが置かれている。いま赤いランプがついている。そばの緑はいま灯っていない。危険という標識である。肉親を亡くしたこと、二年前の震災のこと、二つのことが画家の心の中に深く浸透し、このような独特の、一種自虐的とも鬱的ともいえる世界があらわれたのだろう。はるか向こうに続くのは線路の跡のようだ。線路は取り払われて、跡のみが残っている。行くべき方向性を失って、散乱する岩の上に置かれた信号灯はそのまま画家自身を投影した存在と考えて差し支えないだろう。斜光線が差し込み、画面全体を赤く染めているのも切ない。(高山淳)

 﨤町勝治「根尾谷秋彩」。力強く立ち上がる樹木が強い生命力を孕んでいる。幹は三又に分かれ、一本が右上へ、残り二本が左上へと伸びていっている。樹木の表面は細かく描き込まれているが、その表情にどこか畏怖するような霊的な要素を感じる。それが逆三角形の構図の中で、よりいっそう鑑賞者を惹き付ける。地面は土と草の茶と緑であるが、その中で左側に赤い花が点々と続いている。それもまた作品に一つのアクセントを作りだしている。(磯部靖)

 佐藤善勇「冬の北海製罐」。冬の小樽の情景である。小樽は画家の長いテーマの一つである。画面の手前から奥に向かって運河が少しカーヴしながら続いていって、奥に橋が見える。そこに舟が何艘も並んでいる。右側には大きな建物が建っている。そして左下には画家自身を思わせる人物がシルエットになって描かれている。コクのある色彩と厚いマチエール、力強いフォルムが相俟って、ドラマチックな画面として立ち上がってくる。また、もう一点中品が展示されていて、それは前述した橋の辺りからこちら側を見た風景となっている。つまり北海製罐が左側になるという視点である。二つの視点がクロスすることによって、鑑賞者をこの風景に引き込む強い臨場感が増長されてくる。長年小樽を描き続けてきた画家の深い愛情と街全体との親密な関係性が、作品全体を通して描かれたその一筆一筆に強く感じられる。(磯部靖)

8室

 浅野英明「森へ行く(還る)日」。草木の生い茂った森の奥へと道が続いている。左手前からストップモーションのように三人の同一人物と思われる女性の後ろ姿が描かれている。周囲の草木の滲むような描写と、女性の繊細に描き込んだ描写の対比がおもしろい。どこか夢の中の世界に迷い込んだような不思議な幻想感が魅力である。(磯部靖)

 森脇ヒデ「'13 梼」。木という文字と寿という字を掛け合わせた不思議な題名で、それがそのままこの作品のテーマとなっているようだ。巨大な樹木の中にあけられた洞が描かれている。そばから根が垂れ下がっている。三百年、四百年の時間を生きてきた巨大な樹木のもつ過去の痕跡のようなもの。そんな木のもつイメージに重ねて、人生といったもののイメージをしぜんとそこから表現する。ドローイングによってできていると言ってよい。この巨大な幹の後ろ側にも樹木が描かれていて、画面全体のドローイングする力がそのまま作品の強さとなっている。(高山淳)

 中村陽子「景」。都市の交差点を斜め上から俯瞰した構図で描いている。車や人々が行き交うその地面に、ここには描かれていない歩道橋の影が大きく落ちている。画面の左手前から差す朝と思われる陽の光が、鮮やかな明暗を作り、作品内の清々しい空気を作りだしているようだ。丁寧に描き込まれた誠実さにも好感を持つ。(磯部靖)

9室

 野辺田紀子「蜃気楼」。茫漠とした風景が眼前に広がっている。手前が岸辺で中景に海、さらにその向こうにぼんやりと蜃気楼が見える。それは灰白色で描かれた都市の風景のようであり、仄かな黄色の光が揺らいでいる。何度も色彩を重ねた海の表情は深く幻想的であり、どこか孤独感を感じさせる。そういった強い情感が魅力の作品である。(磯部靖)

 鈴木直「沈黙の対話」。画面の左側に立っている托鉢僧とそれを正面から見つめる小さな子供。そしてその子供の母親が描かれている。その無言の会話がおもしろい。人物それぞれのフォルムはじっくりと描き込まれ、捉えられている。無垢な子供の好奇心が、独特の間とシニカルなおもしろさを作りだしている。人々が行き交う街の一隅での無言劇が鑑賞者を強く惹き付ける。(磯部靖)

 石井晴子「のうぜんかずらのゆくえ」。ノウゼンカズラの咲いている手前に若い女性が三人立っている。ノウゼンカズラの花言葉は栄光とか名誉といった意味だが、その栄光の果ては背後にある無機質な高層ビルとハイウェイということになるから、すこし空しい雰囲気が漂う。そんな高層ビルとハイウェイがまるで玩具のような雰囲気で女性の背後に描かれている。画家は秋田の出身であるが、現代の社会のそのような未来に対する不安感のようなものもしぜんと画面に表現される。(高山淳)

10室

 福田玲子「裏箔の日」。「裏箔の日」という題名は、裏側に箔を置いてほのかに光が画面に差し込むといった意味だそうである。下方にあるのはおびただしい堆積物である。植物の枯れたものの堆積の上に漁網が重なって置かれている。二年前の津波が三陸を襲ったことに対する深いレクイエムの表現と思われる。その堆積物や漁網がそのままここに朽ちずに残って、内側から光を発しているような強さで描かれている。強いモニュメンタルな表現である。上方から癒すような光が差し込んでいる。このような光の扱いはすこしキリスト教的なイメージのように思われる。旧約聖書などを読むと、悲惨な出来事がたくさん起こるが、人間とエホバの対話の中に物語が進行するようで、そんなイメージもこの作品にはあるようだ。いずれにしても、ベージュの地面の上に堆積したものの表現の力強さとその生命感に圧倒される。(高山淳)

 岩見健二「創る」。巨大な工場が描かれている。コンビナートという言葉を使ってもいいような規模の存在である。中心に青い巨大なパイプが上下を縦断していて、その後ろ側に矩形の梁が浮かび上がり、様々な機械がそこにあり、横になったパイプとそこにつながる太いパイプ、あるいは階段などの、明るい部分と暗い部分。暗い部分は紫を主調色として描かれ、明るい部分は緑がかった色彩によって描かれている。そこに白い輝くような光が点々とまたたく。左側の上方にそこだけ朱色の塔のようなものが立ち上がってくる。巨大なこの組織はいわば人間の体のように、そこを血液が循環するようにパイプがあり間断なく機械は動き、トータルで一つの生き物のような存在と言ってよい。その幾何形態による圧倒的な存在感を画家はぐいぐいと描く。コンビナートのもつ暗い側面ではなく、肯定的な何事かを生むために間断なく動いていくそのエネルギーともいうべきものが、夜の空間の中に静かに輝くように表現されている。(高山淳)

 山本靖久「淵─光と闇の狭間で」。池の中心に小島があり、そこに二人の女性と犬がいて、そのすぐ後ろにはお腹の上辺りまで水に浸かった象が左向きに描かれている。それらは温かみを帯びたベージュから灰白色の色彩で描かれていて、背後の暗い森と強いコントラストを作りだしている。そして両脇には和紙のパートがあって、そこは無彩色である。どこか祭壇画を思わせる様な画面構成であり、この情景に漂う神聖な雰囲気を際立たせている。画家の内面にあるやさしい感性が、生きとし生けるものや自然に対して向けられ、穏やかでイノセントな世界を創り出す。その世界は現代に生きる我々が心の奥底で無意識のうちに渇望しているものであり、だからこそ鑑賞者は山本作品に惹き付けられるのだろう。(磯部靖)

 森慎司「Noisy City」。都市の風景とプールの水中のダブルイメージで描かれた斬新さが魅力である。水着を着て水中眼鏡をつけた少女が画面の中心にいて、その背後には裸、あるいは水着を着た人々の首から下が見える。さらに奥には、街を歩く人たちの姿がそのまま描かれている。画面全体は青から緑の寒色系の色彩でまとめられていて、そこに浮き輪やボールのカラフルな色彩が小気味良いアクセントを加えている。都市の騒音と水中の無音という相反する世界を一つの画面に重ねて描き出し、首のない無機質な人々の群像によって没個性社会を表現するというイメージの豊かさに注目した。(磯部靖)

 藤田俊哉「ROSE」。金箔を背後に敷き、そこに矩形で区切られた空間を作って花や果物などを描いている。花や果物は確かな写実力で描き出され、強い存在感を持っている。矩形は暗色や黄、赤、ストライプなどで彩色されていて、それ自体は強い抽象性を孕んでいる。空けられた金箔の部分には独特の余韻がある。そういった中で画面の中央やや右にある深紅の薔薇を中心に画面が展開している。画面を巧みに構成しながら美そのものに迫る臨場感が魅力である。(磯部靖)

11室

 麻生眞紀子「翳りゆく時の中で」。一人の女性の様々なポーズが躍動的に描かれている。全部で七体だが、足下を中心に一つの花のような構図になっているところがおもしろい。女性はタンクトップにタイトジーンズという服装で、丸みを帯びたそのフォルムの肉感に強い見応えを感じる。しっかりとしたデッサンの力も感じさせる。(磯部靖)

13室

 新野安紀子「踏みひしぐ」。手前から奥に向かって林道が蛇行しながら続いて行っている。両側は雑木林になっている。塗っては削った手触りのあるマチエールによる素朴な情景に惹き付けられる。画面の奥へと続く道のその先に対するミステリアスな雰囲気も少しあり、印象に残った。(磯部靖)

 長崎祐司「梅樹 A」。たくさんの梅の樹が並んでいる。樹木の上方は見えず、地面にスポットをあてて描いているところがおもしろい。ドローイングのような線の柔らかさも魅力ながら、淡々と情緒深く描いているところに注目した。(磯部靖)

 大都志帆「果実に器」。室内から窓越しに屋外の風景が見える。窓が少し空けられている。ガラスから見える風景と隙間から見える風景が繊細にその違いを見せている。室内は暗く、その窓際に三つの赤い果実と器がそっと置かれている。(磯部靖)

 髙澤信「幻夢」。遠景にスカイツリーを望む風景であるが、上空では戦闘機がいくつも舞い降りてきている。地上に近い空は赤あるいは黄で染まり、スカイツリーも燃えているようだ。現実に起こったことではないが、今現在の日本においてもこのような戦禍にみまわれる可能性はゼロではない。戦争を知らない世代が大半を占める日本において、画家はその危険性をメッセージしている。街並みの丁寧な描写でリアリティを引き寄せながら、強いイメージの世界を展開している。(磯部靖)

14室

 森幸子「お母さんが呼んでる」。画面の手前が洞穴のように暗い空間になっている。格子を挟んだ向こう側は明るく、子供たちが走っていっている。画題にあるように、母に呼ばれそれまで遊んでいた洞穴から出て家に帰るところなのだろう。左奥には太陽のように輝く光が見え、そこに向かって石が並んでいる。子供にしか分からない子供の世界をこのようにどこか妖しく恐ろしげに描いているところがおもしろい。その中で上方からぶら下がって揺れているブランコが、独特の間と動きを作りだしているところが興味深い。(磯部靖)

 河内一「雪が荒ぶ浜小屋」。凍てつくような寒さが肌身に迫る臨場感が魅力である。手前には家屋が並び、その向こうには荒れる海が見える。その海に立つ波が次々とこちら側に押し寄せて来るような所が強いムーヴマンを作り出している。左上方から吹き下ろす風がうっすらと入れられているところもまた、画面にもう一つの動きを作り出しているようだ。グレーから灰白色の色数の少ない中に、そういった自然の厳しさや豊かな表情がじっくりと描き出されている。(磯部靖)

 扇子茂「鯉影」。水辺の風景である。水面を大きく取りながら、右上方に少しだけ地面が見える。画面の中央やや下方には泳ぐ鯉の姿が見える。その旋回する動きや草の曲線、右上の赤と白の杭などの直線が、どこか抽象的な様相と動きを作っているところが印象的である。軽やかに描きながらも要所要所のポイントを抑えて、一つの作品として描き出している。(磯部靖)

15室

 長澤弘美「HOME I」佳作作家。計二十世帯が見えるマンションの外側を正面から描いている。それぞれの家庭は明かりが灯っていたりいなかったり、不在で暗かったり様々である。カーテンや光の質によって緑や青に見える部屋もある。矩形と直線で囲まれた画面が独特のテンポを生み、無機質な外観を見せながらもそこに暮らす人々の生活の匂いのようなものを感じさせるところが印象深い。(磯部靖)

16室

 井上樹里「繚乱」損保ジャパン美術財団奨励賞・秀作作家・会員推挙。縦長の作品を二点出品していた。掲出の作品では、遠景に見上げるように小さく山があり、光背のような光がうっすらと見える。手前下方は特に抽象的になっていて、雪、風、あるいは雑木林などの要素を孕んでいるようだ。繊細さと大胆さ、静と動をうまく使い分けながら作品をドラマチックなものにしている。画面全体に漂うどこか神聖な気配が、作品の前に立つ鑑賞者を捉えて離さない。(磯部靖)

 柿崎覚「青い緑の小径」佳作作家。明るい陽の光が作り出す木漏れ日が、作品にいきいきとした魅力を作りだしている。絵具を重ねた厚いマチエールによって出来た画面に清々しい空気が漂っている。それはまさに色彩の力だと思う。明暗を繊細に扱いながら、自然と対話するかのように描いているところが特に印象的である。(磯部靖)

 小林宏至「Retrospect II」秀作作家・会員推挙。ベッドに一人の女性が横たわり眠っている。下方には雑誌やバッグ、口紅などの日用雑貨が散乱し、背後は都市の風景の絵がある。また、画面全体にわたって黄や白の細い線が数本縦横斜めに入れられていたり、白い羽根が舞い降りていたりする。日用雑貨が暗示する現在と茶がかった風景が暗示する過去が、女性の夢の中で交錯しながら現れては消えて行っているようだ。確かな写実力で描きながら、そういったイメージを前述した線や羽が媒介となって鑑賞者との交感を成り立たせているようで興味深い。(磯部靖)

 木村好子「右顧左眄」秀作作家・会員推挙。画面を幾つかのパートに区切りながらマネキンをいくつも描いている。右顧左眄は周囲を気にして自身の態度を決めかねていることの意だが、その自身の意志不在をマネキンというモチーフで表現しているところがおもしろい。そして画面はどこか破壊的というか破綻した状況を感じさせる。そういった中で長く伸びる赤い棒が、それらを導く一つの強い意志のようにも思われる。いずれにせよ、じっくりと画面を描き込みながら、旋回するような構図の中に、不安や迷いといった感情を強く表現した作品として注目した。(磯部靖)

17室

 上野信彦「赤いパラソル」。オープンカフェの一隅である。テーブルと椅子が並び、上方にはピラミッド型の赤いパラソルが描かれている。影を多く使いながら描き出された画面の中でそのパラソルの赤が強く印象に残る。そしてその鮮やかな色彩がうまく画面全体に馴染んでいるところがよい。確かな絵画的センスの良さが感じられる。(磯部靖)

 菅谷敏子「キャンパス風景 Ⅰ」。銀杏を思わせる樹木が、手前から少し距離を取った中景に並んでいる。そしてその間の空間が作品に独特の余韻を作りだしているところがおもしろい。激しくもやわらかなストロークで描かれた画面が記憶に残る。(磯部靖)

19室

 福井年子「名もない人たち Ⅱ(風まかせ)」。赤、青、黄の帽子を被った三人のピエロの顔が並んでいる。身体はそれぞれ区別して書かれていないから、同一人物なのかもしれない。手は五本、足は四本でピエロの大げさな動きが表現されている。特に、その少し大きい手の表情に味のようなものがあって印象的である。周囲の装飾はピエロの洋服の模様から溢れ出ているようで、画面全体で不思議で魅惑的な雰囲気を作りだしている。細かく描き込みながら、ピエロというどこか実在の不確かなもののユニークな姿をじっくりと作品の中で捉えている。(磯部靖)

第20回記念新作家展

(9月1日〜9月7日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 今井忠「コア」協会賞。ずいぶん求心的な画面である。黒い密集したものが放射状にあらわれて、それが爆発して、徐々に広がっていくような不思議なイメージである。不吉なイメージであるが、核融合の連鎖反応のようなダイナミズムが感じられる。人間の世界とは隔絶した自然のもつ力を、面白く絵画のうえに表現していると思う。

 小池弘恵「献花(花は咲く)」。若い母親と小さな少女。お互いに黄色い花を持っている。背後に海がのぞき、積乱雲のようなものが浮かんでいるが、その上方に雲が数珠つなぎのようにあらわれて、それはさらに上方に行くと花になっている。二年前の津波に対するレクイエムの表現だろう。母と幼女は花を抱えて、お互いに向かい合っている。日常のシーンを描きながら、深いレクイエムの感情を表現する。

 河口いくえ「鹿骨」。床に黄土色の布を敷いて、そこに大きな鹿の骨を置く。画家自身はそばに筆を持って立っている。黄土色のボックスの壁のあいだから自然の樹木や植物が見え、あいだに猫がいる。アトリエの中と自然とをそのようなかたちで連結しながら絵を描くという行為自体をテーマとした表現となっている。猫は森と室内とを自由に行き来する生き物のように描かれているところも面白い。いずれにしても、赤いチューリップと筆を持ってすっと立つ女性の形、フォルムに独特の魅力があり、そばのモチーフの鹿の骨の角のカーヴする形などと相まって、独特の濃密な雰囲気がつくられる。

 中野淳「夜景のある画室」。画家自身が眼鏡を外して座っているそばに犬を抱いた妻がいる。そばに大きなイーゼルがあって、夜景の街、そこにも同じこの女性が衣装を替えて同じ犬のそばに立っている。二つの時間を一つの画面に描きながら、老齢の時間、いまという時間を画家は静かに語る。優れたデッサン力がそれを可能にする。

 根岸正「春遠からじ・Ⅱ(鳥たちの狂詩曲)」。面白い作品である。地平線の向こうに黒い鳥がたくさん群舞している。曇り空に太陽が白く映っている。手前に二羽のカラスが騒ぎ、オナガドリがつがいでいて、その部分は風景を静物的に扱っている。テーブルの上に緑の植物。そして、様々な鳥たち。そして、下方には十二色環の青、茶、緑、ピンク、紫、黄色、赤などの色彩をストライプで置いている。鳥と画家は深い親和力をもっているようだ。鳥を一つのメタファーとしている。まだ寒い季節で春は来ていないがテーブルの上にはすでに春が来て、春の喜びをうたっている。上方も同様で、花弁は黄色く彩られ、ヤツデのような葉があり、青い空を背景にして鳥が飛んだりとまったりしている。上方の蓮の花弁のような白い弁に黄色い色彩が点じられているのは神々しい。上下に春が来て、風景は冬といった様子である。まさに春遠からじの狂詩曲、ラプソディである。とくに右のほうの黒い鳥と青い鳥が重なった様子は、画面全体を統合するへその緒のようになっている。その喜びの踊るような表現、そして曇り空に鈍く光る白い太陽。画面全体に独特のリズムが感じられる。風景と静物。静物の中にはそのような画家のイメージによってつくられた色面が置かれて、全体で音楽的でもあり絵画的でもある世界があらわれる。

 上野尚子「地のものと」。根のある植物が三体、左から右、そして傾いた様子で置かれている。まるで自分自身の感覚を測るリトマス試験紙のような様子で、この植物が置かれている。画面は矩形に自由に分割され、中に植物の一部や葉などが置かれている。そして、そんな中に画家自身と思われるシルエットの胸像が浮かび上がる。すこし体調を崩されたそうで、そんな中に表現した作品である。逆にいえば、自分自身のコンディションを整えるために絵を描いているような雰囲気があって、それによって画面に密度が生まれたと言えるであろう。画家の才能のたまものと言ってよい。

 坂口富貴子「回想」。真ん中にコバルトブルーやウルトラマリン、あるいはエメラルドグリーンのような色彩が置かれている。下方に黒い線がある。海と空といったイメージがしぜんと浮かぶ。下方には黒い色面に建物のようなものが見える。その左のほうからは紫の色面が立ち上がっていく。右上方は不思議な網の目のようなフォルムで、そこにもやはり建物のようなものが浮かんでいる。中心の海と空と筆者が述べた光景、あるいはその周りのベージュの海辺を思わせるような色彩。いわば宙づりにした風景で、画家のイメージがつくりだした光景である。詩情によってつくられた空間が周りの都会の中の網の目のように緻密な、お互いに拘束し合う光景の中心にあらわれて、実に深い色彩の輝きを見せる。絵によって画家は自分自身の心を解放する。

 森吉健「夏の終り」。帽子をかぶった裸婦は腕を組んでいる。どっしりとした重量感のある存在である。右のほうに窓から映る光のようなものがあらわれ、上方に暗い赤い空があらわれる。夕暮れの幻想といった趣も感じられる。いずれにしても、一人の女性の存在感というものを中心にしながら、日々うつろっていくイメージを面白く構成する。

 伊藤介一「蓮池と蓮宇宙」。画面の下方に大きな蓮の葉がのびのびと描かれ、それらは集合しながら独特のメロディをつくる。あいだに白い蓮の花、ピンクの蓮の花が咲いている。両側は宇宙的な空間で、そこには不思議な輪になった乗り物のようなものがあらわれ、星雲が渦巻き、花が浮かんでいる。土星のようなものも見える。蓮の花の向こうは奈良を思わせる光景で、五重塔や寺院が見え、柔らかな山の稜線があらわれ、上方には空があり、星雲がある。画家は蓮を媒介にしながら、現実と向こうの世界、地上と宇宙、現実と浄土の世界といった二つのものを対置させようとするかのようだ。それが画家の自由なイメージのなかで引き寄せられた抽象的な不思議なフォルムもあらわれながら、独特の曼陀羅のような空間があらわれるところが面白い。

 西寄寿美「大海原へ」。二頭の親子の鯨を上方に置いて、子供が泳いでいる。下方に百合の花がある。海のもつ母性的要素があらわれていて、二年前の津波の恐ろしさと対比される。海には様々な顔があるのだが、この穏やかな海にやはり鎮魂のイメージも感じられる。

 八木原由美「半夏生」。ソファに猫を抱いて横になる黒髪の少女。その後ろに紫の扇子を広げた黒いドレスの母親らしき女性がいる。不思議なことは、二人の手前に裸の女性がソファの肱に両手を置いてそこに半ば寝るようなかたちで体をソファにあずけていることである。三人の女性が不思議な魅力を放ちながら、鑑賞者を画面の奥にいざなう。画家の密室は強い純度をもっていて、その密室の中で画家の一人遊びのような世界があらわれる。そこに生命はエロス的な輝きと香りを放つようだ。そういった世界を面白く表現する。また、女性の黒いドレスのそばに黒猫がいて、目が黄金色に輝いている様子が奥に見えるのも、そのような独特の密室の表現と思えばわかりやすい。

 中山雅子「早春 Ⅱ」。二筋の川が流れているあいだが緑の洲のような地面になっていて、そこに青い葉を茂らせた木立が十数本並んでいる。その向こうにも草原の中に細い水が三筋あらわれて、はるか向こうのベージュの空や遠景の木立のような世界に向かう。近景には、その青い木立の上部と山とが見える。画家の普段見慣れている光景、水と木立、山を一度分解しながら、画家の心象にのっとって画面の上に再構成した趣である。音楽にフーガという形式がある。前のメロディを後ろのメロディが追いかけていく形式であるが、一種フーガ的なコンポジションとなって、画家自身の大切な身近な自然を表現する。

3室

 日高梢「そまりて」。赤いバックの色彩に独特の輝きがある。それを背景にして花瓶のようなものがあるが、そこに球体のようなものが集合している。その球体はピンクや緑やブルーによって構成されている。同じ球体が右上方にあって、黒い闇の中に現れている。赤は一つの道となって手前に続いていく。その左側には街を思わせるような風景がある。画家にとって大切なものを絵の上に表現する。だんだんとそのイメージは煮詰まって、一種凝縮したような世界があらわれる。そこは赤というもののもつ深い性質を最大限に使いながらあらわれてくる世界である。赤が感情と同時に呪術的な力をもって画面の中に表現されているところが面白い。

4室

 山川麻弥「春の日」。セルリアン系のブルーにすこし緑の入った調子に透明感があって、魅力的である。そこに蝶が飛んでいる。花が降っている。花と蝶がお互いに相手に変身しつつ、この緑の空間を自由に浮遊する。

 橋本清一「木もれ陽は花」。パリの街の一隅だろうか。坂道を大きなバッグを持って女性が歩いていく。手前の、ここに描かれていない樹木が、後ろからの光線によってその背後の壁に影をつくっている。その光と影との様子が魅力である。中心に一本の黒い街灯がある。光と影はうつろっていくものであるが、画面の中では物質感をもった存在のように描かれている。光と影は、さらに言うと、パリの歴史の中にあるイメージと言ってよいかもしれない。塗りこまれた絵具は強いマチエールをもって画面の中に定着されている。そんな不思議な画家のつくりだした影と光のステンドグラスともいうべき古い灰白色の壁の前を女性が大きなバッグを持って歩いていく。女性の人生とパリの歴史が渾然した独特の味わいが感じられる。

 澤田嘉郎「ハマヒルガオ」。丘に黄色い布を敷き、仰向けになった若い女性。海辺の風景で、向こうに海が見え、波が寄せている。手前にハマヒルガオが咲いている。達者なデッサンの中に色彩の透明感をよく生かしながら、浜辺の女性が描かれる。上方のジョンブリヤン系の雲がノスタルジーとロマンの背景として効果的である。

 安井キミコ「CZARDAS」。指揮者が空中に飛んでいる。オーケストラの楽団員がそれを囲んでいる。コントラバス、チェロを弾く人。ヴァイオリンを弾く人。ピッコロを吹く人。トランペットを吹く人。楽譜が宙に舞う。面白いのは、指揮者の下に楽譜が翼をもって浮かんでいるところで、その楽譜を見ながら指揮者は浮遊しながらタクトをふっている。音楽のもつメロディ、その力に沿って、しぜんとあらわれてきた構成だろう。「CZARDAS」はハンガリーの民俗舞曲である。民衆の素朴な力強い音楽を奏する全体のフォルムが実に生き生きとしているのも、この作品の魅力である。

5室

 新谷美智子「遊園地にカリオンの鐘が鳴る」。滑り台、大きな街灯、そんな公園の遊具が自由にデフォルメされ、不思議な生き物のように画面に配置される。そして、楽しく親密な歌がそこから響いてくる。優れた造形感覚が一種の音楽的な効果をつくりだす。そして、シュールな味わいが醸し出される。

 河瀬うた代「こだまする呟き」。垂直の線が数限りないところに引かれ、傾き、そこに色面があらわれ、朗々たる歌が歌われる。そこには抽象的でありながら、人間と人間との連帯感、あるいは人間と自然との連帯感といったイメージが浮かび上がってくる。

 本田久一郎「レクイエム(2656の響)」。画面全体がたくさんの様々な貝によって埋まっている。圧倒的な存在感を見せる。目がくらむようだ。その一つひとつの貝はきっと、今回津波で亡くなった一人一人の人間のことだと思われる。画家はそのようなかたちで画家なりのレクイエムをここに表現したのだと思われる。一つひとつの貝殻の様子は全部異なっていて、これだけを描き分ける労力と集中力は並大抵のものではないだろう。画家は海を愛する人である。海と深い親和感のある画家であるがゆえに、その海が凶暴になってたくさんの人を殺した出来事でひどく心の中が傷ついて、それを癒すようにこの不思議な貝殻の群像が生まれたものと思われる。その貝殻はすべて死んだ貝殻の密集なのである。じっと見ていると、一つひとつの貝殻が人間の顔に見えてくるから不思議である。そして、それが陰惨なものではなく、不思議なハーモナイズの中に、ある美しきもの、アラベスク模様のようなかたちであらわれているところに感心する。

第98回二科展

(9月4日〜9月16日/国立新美術館)

文/高山淳

1階─1室

 五味祥子「遺跡の人」。旋回するような構図が面白い。その円弧に従って人間らしきフォルムが次々とあらわれる。遺跡の中に埋葬された人々が立ち上がってくるようなあやしい雰囲気である。一種の呪術を画面の中で行っているような強い気配とムーヴマンが感じられる。中心のハッチングのフォルムに対して、周辺は黒い独特の不定形の生き物のようなフォルムがうごめいていて、その中に朱色のDNAのようなフォルムがあらわれているのも面白い。連綿と引き継がれていく生死の連鎖の中に入りながら、画家は死者の霊を呼び戻そうとするかのようだ。

 香川猛「楽園」。透明感のある色彩のハーモニーが素晴しい。中心に横向きになった女性がいる。黒い色彩に朱色の輪郭線。下方には二羽の鳥がいる。そして、それら全体が透明な海の水の中にいるような雰囲気で爽やかである。左のほうから緑の植物が伸びているが、地上の植物のようにも海草のようにも感じられる。その上には水鳥がいて、潜水鏡をかけた男がそのそばにいる。後ろにも水鳥がいる。柔らかなベージュの空間が上方に広がる。そして、その水鳥の下、緑の植物、立て膝をした若い女性のあいだに青い透明な色彩があらわれ、その下方に太陽を抱きかかえるような色面があらわれる。自然讃歌と言ってよい。自然と人間との幸福な調和を見事にうたいあげる。

 西健吉「浜の娘」内閣総理大臣賞。背後に漁船が浜に引き寄せられている。そばに網を持つ二人の男女。手前の椅子に若い女性が立て膝をして座っている。背後には岸壁の上に灯台が聳え、手押し車を引いてこちらに来る女性がいる。空間の奥行と同時にX字形の動きを軸にしながらモニュメンタルなコンポジションをつくりあげる。労働ということを描くために画面全体をすこし汚して、その汚した感じによるトーンやマチエールがこのテーマにふさわしい。それぞれのフォルムは屹立するほど強くしっかりと表現されている。また、浜も空もベージュの中の上方にすこし青い空がのぞくのがロマンティック。

 生方純一「タマモノ」。大きな岩が宙に浮いている。四つほどで、その上方には正方形のグレーの箔のようなフォルムがいくつも浮かび上がっている。下方には洲のある大きな湿原のような、川のようなものが広がっている。水が白く輝いている。深い祈りのような空間が感じられる。その想念の力によって岩が持ち上げられ、茫漠たる水面が広がる。グレーの中の黄色やオレンジ色の独特の輝きには一種霊的な要素も感じられる。

 石附進「郷の記」。牛とともに座る農夫。鳥が飛んできている。周りに花が咲き、樹木が枝を伸ばす。春の田園風景のような緑の優しいトーンが広がっていく。自然との深い関係の中からあらわれてきた独特の心象的モニュマンと言ってよい。

 田中良「葦原」。葦の原が地平線まで続いている。そばに満月が浮かんでいる。それに照らされて、葦が黄金色に輝いている。近景では一本一本の葦の様子がススキが靡くように表現されている。深い情緒が感じられる。だれもがこの絵を見ると日本の懐かしいふるさとの光景を思い浮かべるだろう。こんな光景から、秋の満月にオハギをそなえる儀式のことも想いおこす。黒い夜空の下に群生する黄金色の葦の原の行方にはまたもうひとつ向こうの世界のイメージもあるにちがいない。

 伊庭新太郎「蛇口」。ストライプの中に明暗がつけられて、画面全体を覆っている。ジョンブリヤン系の色彩の中にブルーグレーのトーンがつけられ、細胞やDNAのような連鎖していく様子が画面全体を埋めている。そこにモザイク状に水道の蛇口が大きく描かれている。栓をひねると水が出る。蛇口というものが象徴的な意味合いで画面にあらわれている。その水は命というものの象徴と言ってよい。そういったものをつかさどる、あるいは生と死の臨界の状況もまたこの蛇口のイメージにはあるだろう。そして、背後の細胞的な要素は社会全体の人間の連鎖といったイメージもあるし、様々な記憶が連結しながら現在をつくる人間的存在の意味もあるかもしれない。いずれにしても、柔らかなトーンの中の不思議なモザイク状の作品であり、一種の現代の祭壇を思わせるような、そんな深いイメージも感じられる。

 中島敏明「慈愛」。最愛の妻を亡くして、このようなあの世にいる存在を手前に引き寄せようとするかのような連作が続いている。いわば幽冥世界の領域にある人物像と言ってよい。そして、その人物がだんだんと画家のイメージによって血管が通り、現実に生きて動き始めているような、そんな鮮やかな印象がこの作品にはある。子供を抱く母親の像であるが、母親の顔はまだあらわれていない。ただ、大きな慈愛といった力が熱をもってこの一度石化した人間や子供を生き返らせようとするかのようだ。自分自身の痛切な体験に加えて、二年前に福島の原発事故や津波があった。画家自身も福島の出身であり、二つの出来事が重なりながら、このような悲惨な出来事に対抗するかのごときイメージがより強くあらわれてきたように思われる。この聖母子像の背後に大きな後光がある。その後光は満月のような力と重なるように思われる。夜の瞑想的な空間の中にあらわれてきたイメージで、それを月が照らすようだ。

 加覧裕子「海譜」。三面対で、画面の中心に不思議な卵形のフォルムを上方に持ち上げる女性がいる。周りにたくさんのクラゲが浮遊している。画家は母を亡くして、その母との別れの悲しみからこの深海の中に入り、クラゲをあたかも魂のように表現するような連作を始めた。そんな連作の個展も最近拝見した記憶がある。今回は、そういった世界と別れの儀式のような切実なものが感じられる。この女性は画家自身と重なるだろう。そして、魂が周りに浮遊しながら、やがて別れを告げる。そんなドラマティックな印象が感じられる。

 中井史郎「浮遊」。グレーのバックに青とオレンジ、赤、黒の抽象形態を置いて、新鮮な印象を醸し出す。空の青や夕日の赤を矩形の抽象的な色面に閉じ込めたかのごとき印象が面白い。

 山中宣明「Visible & Invisible」。下方から青い炎が立ち上っている。刻々と動いていく現実の象徴のようだ。拝火教という宗教では、火が世界の本質であるという説をなす。いわば刻々と動いてやまない命の働き。そんな無常のなかの炎のようなものが、この青い独特のフォルムから感じられる。それを包み込むオーラのようなジョンブリヤン系の光の筒のような空間も面白いし、そのそばに見える緑の色彩も人を深く癒すものがある。

 山岸光代「春、夏 そして秋」。左から春、夏、秋というように色彩が変化していく。両脇に女性が座っている。真ん中に夏の様子で、浜辺に帽子をかぶった女性が肩を出したワンピースのような衣装を着て座っている。いずれの色彩にも内側に光が含まれているようだ。光が内側から発光するような趣が感じられる。その光を含んだ色彩が朗々として画面の中でうたってくるような、そんな強いイメージに注目する。画面は方形に分割されていて、緑、黄色、オレンジ、黄色、朱というようにゆるやかに動いていく。たとえば春の中にも秋の象徴の赤い花を持った女性がいるし、秋の中にも夏を思わせるような黄色い色面が円状にそこに重なっている。いずれにしても、それぞれの色彩がステンドグラスを通して見るような輝きをもっているところが魅力である。また、三体の女性の配置によるモニュメンタルなコンポジションもよい。

 中原史雄「断章の景に降る 13─7」。たくさんの黄色い薔薇が画面を覆っている。そして、はるか向こうを見る三人の人物の後ろ姿。薔薇の向こうは深い暗い緑色で、その中に赤と黒の線によってフォルムがあらわれているが、そこに大きな不思議な女性の顔が浮かび上がる。どうもこの女性は亡くなった人々の最大公約数、共通のイメージなのだろう。そうすると、薔薇は献花ということになる。二年前の津波のことを画家は断章という言葉で述べたにちがいない。そんな深いレクイエムの感情を見事なコンポジションの中に表現する。

 粕谷正一「美術室」。トゲを抜く少年の石膏像を中心に、アトリエの中にある様々なもの、ポスターカラーもあれば刷毛もあるし、ラッパもあるし、定規もある。観葉植物もある。そんなものがクリアに描かれていて面白い。背後に緑の黒板があり、分光のイラストが描かれている。そばにあるものに強い光を照らしてクリアに克明に表現する。その光は画家自身の視力の強さと言ってよい。

 濱田進「画室の語らい」東京都知事賞。画室の床に穴があいて、その下方にパリの街があらわれたといった、新鮮な印象である。床の上にも建物の側壁が浮かび上がり、その数を数えると九つのフォルムが円状に配置されている。手前にはイーゼルがあり、パレットがあり、絵具箱の上にはレコードが置かれている。アトリエの隅々にあるものとパリのイメージとが重なって、まるで強烈なフォルムによるパリのプラネタリウムを見るかのごとき印象と言ってよい。そんなパッショネートな構図に感心した。

 松室重親「大地の詩」。駱駝のそばに、若い女性。グレーのトーンの中に優しい表情を見せる。夕空を思わせるような淡いベージュの空の中に独特の哀愁さえも感じられる。

1階─2室

 永井二郎「僕の尾鈴山」。太い何百年もの樹齢をもつ樹木が立ち上がる手前に少年がいる。里山の道が続き、その向こうに集落が見え、低い山がある。鳥が飛ぶ。ふるさとの情景を心の中の情景のように象徴的に表現する。

 戸狩公久「津軽」。雪の積もった漁船が三艘かたまっている。前後する船に対して直角に向いた船があって、それが画面全体の構成の軸になっている。黒いどっしりとした船の量感に対して、その上方に積もる雪や船室に積もる雪が独特の情感と同時にイノセントな雰囲気をつくる。上方に橋がかかっている。そこは歩行できるようで街灯が二本立ち上がる。鳥が飛ぶ。橋の下にも船が小さく、三艘と二艘と見える。津軽の港、画家のふるさとの光景が深い奥行きの中に表現されている。雪がこの船を化粧しているような、そんな独特の柔らかな夢のような雰囲気で描かれているところが魅力である。

 阿美代子「女たち(光明)」。下方から茎が伸びて、蓮の花が満開である。蓮の花から光が差すようで、周りに光のオーラのようなものが見える。そこに二つの小袖のようなものが舞っている。小紋の襦袢のようだ。二人の女性がそこに象徴的に描かれ、この蓮の花を荘厳していると言ってよい。蓮の花は亡くなった人に対する手向けのイメージ。そして、それは上方に浮かぶ満月が下りてきて、蓮の花と合体したようなイメージと重なる。満月というと、鎌倉時代に聖衆が迎えに来る来迎図が日本でたくさん描かれた。そういった来迎のイメージで、そこに連れていかれた人は浄土に向かうわけで、浄土に行った人に対する深い祈りの気持ちもしぜんとこの作品から感じられる。緑を中心とした色彩が神秘的で、独特の人を癒す性質をもっている。

 平権「鬱金みねづたひに陽の濃き淡きと」。谷に丸太の橋がかかっている。その危ういところに立つ女性と座る女性。いずれも天女のような雰囲気である。はるか向こうには滝が見える。左下には渓流が流れ、もっと手前には滝になりつつある落下する水のしぶき。満山の紅葉した樹木の様子。錦秋という言葉があるように、秋の金襴緞子のようなその光景の中に天女が二人降りてきている。めでたい光景である。その向こうに鷺のような白い鳥が飛んでいるのも、気高い不思議な雰囲気を醸し出す。

 大隈武夫「沙漠の村の村祭」。三人の女性が立っていて、二人は子供を抱いている。中心の女性のピンクの衣装が明るく輝く。上方に細長い首の壺を持っている。そこに右上方から鳥が飛んできている。後ろのもあもあとした樹木の様子も喜んでいる様子だ。オアシスの情景である。右下方には水を思わせる青い色彩があり、そばにピンクの花が咲いている。独特のタッチによってこの作品はできている。そのタッチの集積によって動きがあらわれる。その動きが生命とか歓喜といったイメージを誘う。その意味ではそのタッチのリズムに独特の音楽性があると言ってよいかもしれない。じっと見ていると、女性の衣装の中に孔雀のような鳥のようなイメージも表れる。それもまたタッチと線によってあらわれてきたイリュージョンと言ってよいかもしれない。

 栗山淳「利根川晩秋」。大利根の流れが白く光っている。近景の雑草の盛り上がった様子が独特の陰影の中に表現される。対岸の緑の草原や雑木林も濃い緑で描かれ、空にグレーの雲のような雰囲気がある。いまにも雨の降りそうな気配であるが、深い情趣が感じられる。

1階─3室

 深見まさ子「隔 Ⅲ-1L」。大地の地層のようなイメージが下方にある。そこに深い闇が連結されている。記憶のブラックホールのようなイメージ。そして、そんなところから黄金色の正方形の色面がゆらゆらと上方に立ち上がっていく。不思議なロマンが感じられる。この正方形の黄色い色面は、平安時代の料紙などに散らされている装飾的な金の箔を思わせるところもある。時間というものの地層の中に画家の想像力は向けられて、そこから雅やかな音楽のようなものを引き寄せる。

 餅原宣久「時感 13─Ⅳ」。現代の孤独な人物像のイメージである。近景に三人の女性が寄り添うように立っているが、三人は実は無関係のようにも感じられる。そんな現代の不毛な関係性の中に孤立する人間群像が、優しいトーンの中に表現されて切ない。遠景に抱き合うような男女。右のほうには四人の女性がいて、三人はかたまり、一人はそこから背を向けて歩いていく。上方に不思議な箱が浮遊している。その箱はあけられたパンドラの意味だろうか。信頼と不信、愛と不信といった二つながらのベクトルの中に彷徨する人間群像と言ってよいかもしれない。

 佐野明子「春の歌(メンデルスゾーン)」。春が来て、命がますます輝いていく。そんな弾むような気持ちがギザギザの白い線によって、あるいは波打つようなカーヴによって表現される。そして、その命が徐々に膨らんでくるようなイメージが赤い色面によってあらわれる。画家の感性は柔軟で、心が動いていく時間がそのまま一日の時間帯と重なり、朝のイノセントな気分から夜のノクターンのようなメランコリックな気分まで移っていくようだ。そういった心象を面白く抽象的に表現する。

 柳田邦男「時の標」。裸婦の群像である。いちばん手前には褐色の裸婦が座っている。後ろにはベージュの裸婦が数人座り、その後ろには裸婦が十数人立っている。その裸婦たちのリズムによって不思議なモニュマンがあらわれる。V字形に広がっていく裸婦の群像。夜から朝が来て、昼に向かい、また夕方に行くその時間の推移を、裸婦の組み合わせによって表現したかのような時間性も感じられるところが面白い。また、形態に対するきわめて鋭敏な感覚が感じられる。その感覚のよさがこのようなコンポジションを可能にする。

 鶴岡義詮「瞑」。裸の女性が椅子に座っている。足の指の先がすこし画面の下辺で切れている。そこにストライプが左右に入って、右足と左足が前後している。いずれにしても、ボリューム感のある女性のフォルムである。黒を中心とした中に黄色みを帯びたグレーが入って、独特の強いコンポジションになっている。背後は青で、青の上にピンクがある。青のもつ水を思わせるような背景に月の光に照らされたようなこの巨大な裸婦の像。両手を額に当てて、何か考え込んでいる様子である。瞑目の裸婦。その裸婦を形成する曲線や曲面が実に温かであると同時に神秘的なイメージを醸し出す。生命というもののもつ不思議な働きが、月のイメージと重なってあらわれてくるように思われるところが面白い。

 飯田由美子「夏をよぶ鳥 Ⅰ」。シルエットの女性が立っている。後ろに仰向けの裸の女性がいる。緑の色面にグレーの色面が連結される。鳥が左から右に向かってきている。女性の右手の甲のあたりに鳥がとまっている。シルエットの中、たとえば女性のワンピースの中に独特の色の輝きが感じられる。深く内界に画家は入る。そこからイメージを引き寄せる。触覚的要素が動き始める。そういうところから鳥のような羽ばたくもののイメージもあらわれるし、ノンシャランな仰向きの裸婦のイメージもあらわれる。独特の色彩家と言ってよい。

 錦木眞葉「海の音」。ひごによってできた紙飛行機。まだ紙が貼られていない。それを持つ妖精的な少女。右膝を立てているが、そのお尻を支える椅子がない。それを見る鳥。草原の向こうの青い海のストライプ。なにか空しいような気分が感じられる。本来あるべき関節が外れてしまった様子。そこに独特の雰囲気が生まれる。二年前の津波のことが深く画家に浸透して、このようなやるせない、ある空虚なものを抱えたコンポジションが生まれたのだろうか。いずれにしても、そのようなコンポジションの面白さと優れた形態感覚に注目した。

 米田整弘「アドリア海の風」会員賞。アドリア海が独特の紺色によって描かれている。対岸の白い壁に赤い屋根。近景にはオレンジの屋根に白い壁が見える。風が渡る。その様子を独特の斜めに傾いた動き、あるいはそのようなフォルムによって表現する。構成がしっかりしている。絵画としての骨格がきちんとできているために奥行きがあらわれる。その奥行きに対して斜めに動いていく動きが拮抗し、独特の動きがあらわれる。その動きのなかにひとつの詩情ともいうべきものがあらわれる。

1階─4室

 塙珠世「新生・新星・しんせい」。左下の奥のほうからエンゼルたちが上方に出てきている。それを待ち受ける若い母親のようなイメージ。そして、エンゼルたちのそばには地球の緯度を思わせるような数字が描かれている。宇宙の中にある地球という青い奇跡的な生命の星。そこに誕生するものに対する祝福のようなイメージを、この壮大なコンポジションによって大画面にまとめる。赤が深い感情を表すようだ。

 藤田由明「万象のNIRVANA」。ニルバーナとは涅槃といった意味である。黄色と青の色彩の輝きとハーモニーが実に魅力である。浄土の音楽が聞こえてくるような雰囲気がある。下方は海で、津波で亡くなった人に対するレクイエム。その人々をそのまま涅槃に導こうとする気持ちが、この不思議な音楽のような絵画を制作させたのだろう。オーロラのような光景の下方の矩形の扉と左上方の月を思わせるフォルムがお互いに呼応する。下方の出入り口は死と生の境界のようだ。

 山岸睦「インフルエンス」。椅子に二人の男女が座っている。足首から先はない。二人はもたれかかるような雰囲気で、そのグレーのフォルムに入れ墨のような文様がなされている。それが二人の記憶、あるいは複雑な心理的な陰影を帯びて、逆に優しいファンタジーとなっている。その二つの人体の表現を面白く感じる。

 中村佳阿瓔「記憶の断片―Ⅲ」。朱色が実に鮮やかに使われている。画面全体、朱の上から黄色や茶、青などを入れた雰囲気。その中心の大きな朱の横に青い矩形があり、中に青い円弧があり、ひっかいたような三角形のフォルム、横にストライプが伸びて、中心にビリジャンが置かれている。赤、青、緑が象徴的に謎めいて響き合う。中心の青は金環食のような太陽のシャドーのようなイメージも感じられる。いずれにしても、周りの三角形の熊本の装飾古墳のようなフォルムもあわせて、一種古代的な呪術的な力がこの朱色を中心とした空間に宿るようだ。

1階─5室

 鬼頭恭子「風の刻  '13 翔」。天空に女性が三体ほど浮かび上がっている。向かって左には女性の顔も描かれて、座ったようなフォルムがあるが、その横に仰向けのフォルムを描いて消した跡が見える。下方にはひざまずいたようなフォルムがあったのだろう。それを消したり分解しながら、たとえば左下から上方に差し伸べる手があらわれる。下方は青い空とも海とも重なる茫漠たる雰囲気で、富士山のようなイメージの山が右下に浮かび上がる。この女性を見ていると、東北の豊かな肌のキメ細かい優しい女性たちを思い浮かべる。東北のお祭りにこのような顔をした女性が花を頭に差した様子があるが、そんな雰囲気も感じられる。筆者を安らぎの世界に温かく引き寄せるような母性的な雰囲気が感じられる。そして、天体の星と重なり、女性たちは空中を浮遊しながら姿を変え、動いていく。そんな悠久たるロマンがしぜんと画面から語りかけてくる。

 今村幸子「雑貨など」。グレーの背景に独特の色感が感じられる。すこし中にプラチナが入っているようなそんな独特の背景に、灰白色の左右に動く色面があって、そこにハンドバッグや靴のようなもの、ハンカチ、洋梨のようなフォルムが象徴的に入れられる。身近にあるものがそこに置かれて、それらが静かに語りかけてくる。画家ときわめて関係の深いものがこの不思議なバックの中にあらわれて、独特のイメージのエッセンスともいうべきものを漂わせる。

 武藤挺一「勧進帳を読めと」。弁慶が関所を通る時の富樫との会話、セリフ、動作。その「勧進帳」をテーマに連作が続いている。弁慶が見得を切っている様子が上方の顔に描かれる。そして、その勧進帳と勧進帳を読む手。下方の黄色く広がる様子は裾模様で、弁慶のもつ気迫がこのような独特の色彩となってあらわれたのだろう。背後の緑の中にストライプが大きくあらわれ、黒い衣装の中に弁慶の顔が浮かび上がる。韻律のある独特の見得という歌舞伎のシーンを面白く絵画的に構成した。フレスコを思わせるようなマチエールも面白い。画家自身、舞台と深い関係をもった人で、そのような職業からしぜんとこのようなイメージが浮かぶのだろう。

 木脇秀子「花束」。白いドレスを着た女性が花束を抱えている。下方に赤い川のような色彩が入れられていて、その朱色の色彩が魅力である。上方の空にも赤などの色彩が入って、舟形の繊月が浮かんでいるのだが、下方の空よりもっと輝いている赤い色彩が強い感情表現となっている。その赤のノーブルなロマンティックな感情と無垢なドレスの白とがハーモナイズする。そういうところに五つの先端をもつ大きな星も生まれたのだろう。星はいまここに誕生したかのような、そんなイノセントな雰囲気が感じられる。いずれにしても、女性のもつ夢想、ロマンを画面いっぱいにうたいあげる。

 田口郁子「光まとう この身のうちに」。子供を抱いた若い母親。フードをかぶりコートのようなもので身体を覆っている。下方にはイスラム系の集落があり、尖塔やドームが見える。空が黄金色に輝いている。その光はこの母子のまとった衣にも浸透してくる。聖母子像と言ってよい。顔と手の表情によってこの母子のイメージはつくられているわけだが、それに加えて光が連結した独特の色彩が魅力である。この母子を荘厳しているような趣が感じられる。優しいと同時に霊的なものがこの身体に浸透する。母親と子供という存在が集落を背景にして聖なるものとして表現される。

1階─6室

 館礼子「'013 私の部屋 Ⅱ」。ベージュのテーブルの上に線描きの高杯があり、その上に白く塗られた南瓜がある。後ろには本が広げられている。背後に茶褐色の大きな壺。南瓜のそばに葡萄の房が六つぐらいついたものが置かれているのが、実に洒落たアクセントとなっている。緑はその下方にもすこしたらし込みふうに置かれている。卓上に一片の詩ともいうべきイメージをつくる。そういえば、右のほうから鉄塔のようなものが白い線によって浮かび上がり、その向こうに夜空のごとき空間が広がっているのも楽しい。

 大野哲司「ストーブのあるアトリエ」。独特の色彩家である。ある絶対的な感情ともいうべきものをテーマに、それを詩の世界に引き寄せたコンポジションにいつも感心していた。今回も達磨ストーブとその周りの夕日の輝きのようなイメージが実に詩的な造形をつくる。惜しい人を亡くした。合掌。

 石田勝己「月夜に案山子が動いた」。白い漆喰の家、鳥、長靴、月、田圃。そんな身近なものを引き寄せながら、画家自身が案山子となって、その田園の空気感、夜の月の光などを体感しているかのごとき、独特のユーモラスな表現である。周りにしぜんと浮かび上がってくる空間が優しい。

1階─7室

 東井邦夫「レクイエム 2013」。白いワンピースの女性が座って、レクイエムの文字が書かれた楽譜のようなものを持っている。背後に海が白く広がり、福島原発の壊れた建物が見える。左のほうにつがいの鳥が飛んでいるのは、家に帰るのだろうか。手前にはワインのボトルなどのある卓上。室内で画家は静かにイメージを広げていく。壁が壊れて、海が浮かぶ。悲しい亡くなった人々。その魂の象徴のように鳥が浮かぶ。

 渡邉丞「チムニーのある景」。煙突が七本、屋根から出ている。その向こうには壊れかかった建物の頂上に五本の茶色の煙突がある。周りの建物は崩壊して、煙突だけが残っているようだ。そして、赤い煙突と白い煙突がお互いに歌い出す。悲しいシャンソンのように感じられる。海は黒々としている。その向こうには雑木のようなものも見える。津波のあとの鎭魂の海のような、そんなイメージのなかに煙突がそれぞれ一人一人の生の歌をうたうかのようだ。

 米田安希「風に向って」。自転車に乗る男。危ういバランスの中に自転車は進んでくる。それをモザイクのような小さな色面を合わせて構成し、アンティームな雰囲気をつくる。

1階─8室

 前田芳和「生きる」。都会の歌といった趣である。都会のイメージを抽象的なストライプの中の文様として表現する。その中に帽子をかぶった男が歩んでくる。その両側にジグザグの道が見える。どの道を歩こうか。都会のクールな抒情といったイメージがしぜんと醸し出される。

 益子佳苗「空」。赤い色面の前に二人の裸婦が立っている。下方はベージュになっている。インパクトの強い画面である。強い啓示を受けた瞬間のような、そんなドラマ性が感じられる。

 鎌田道夫「出を待つ」。上方に四人の奏者が演奏している。マンドリンのようなものを真ん中の青年がつまびいている。下方に老人とピエロがいる。老人も鼻を見ると老いたピエロで、その後ろに中年のピエロがタバコを吸っている。二人はそれぞれ孤独で、会話しているようには思えない。深いメランコリックな味わいが醸し出される。青年はいま舞台で楽しく演奏しているが、出を待つこのピエロたちはまた違った思いの中にいるようだ。クリアな人間全体の形。顔もそうだし、手の表情もそうである。そういった様子を通して形でもって人間の運命とか苦悩、喜びを表現する。

 遠藤つるえ「ふるさと追想」。巨大な向日葵が立っている。すこし枯れかかっている。下方に数羽の鶴が立っている。深い感情表現だと思われる。向日葵は豪胆な一人の人間のように立って、老いている。その胸のあたりに赤い色彩がもう一つの花のように置かれている。後ろにはその向日葵を横にしたようなフォルムがあらわれ、それが雲のようにわだかまっている。曇天の中に太陽を胸に入れたような一人の人間像を思う。そばに高貴な鶴たちが従者のようにあらわれている。

 藤橋秀安「秋日譜」。上方でチェロと横笛を吹いている二人の男。秋である。秋のメロディがしぜんと画面に流れてくる。それを音階のようにストライプの連続したフォルムの中の紅葉した樹木によって表現する。

1階─9室

 森岡謙二「ヴォールドなランドスケープ」。ヴォールドとは寺院建築などの穹窿のことであるが、その穹窿が寺院の中から外れて、赤いストライプとして画面の中を動いていく。中心に聳えるゴシックふうな教会が見える。周りには樹木が密生している。そして、その上方を三羽の蝶が飛んでいる。蝶の下方、建物の上方は空にもかかわらず、深い湖のようなイメージがあらわれ、はるか向こうの山のシルエットがそれを抱えこんでいるようだ。その上にもう一つの白い雲のたなびく空がある。教会の内部から外に出て、ある結界を広げるように赤いヴォールドが進んでいく。そこには画家の神聖で敬虔な深い感情表現があるように感じられる。上方の赤いヴォールドによって囲まれた下方には、深い悲しみとロマンのイメージがあらわれる。下方に円弧になるように連結されたヴォールドがあって、そこには塔のようなものをシルエットとして映して、淡い哀愁のベージュの雲が浮かんでいる。甘美なものと悲しみとが深い密度の中に表現された画面と言ってよい。

 祝迫正豊「大地回想 '13」。犬を連れた少女が立っている。前に青い鳥がいる。樹木が伸びて、葉が紅葉している。夕焼けのようなオレンジ色の空の中に佇む少女は、画家の回想の中から生まれたシーンだろうか。背後に大きな若い母親のような顔が浮かび上がる。追想の中に甘美なメロディが流れる。

 横前秀幸「MESSAGE-Wind Compass」。下方に植物があり、上方に植物の茎が壊れて両方に離れていくような動きがある。柔らかなピンクの空間の中に自然の風やあらゆるものを体感的に感じ取って遊びを行っているような、そんな瑞々しい感性に注目。

 寺田眞「木霊」。大きな樹木の幹を切断して六つ置いて、三列で、二つが重なっている。柔らかなしっとりとしたマチエールが目を引く。背後にもうもうたる霧が立っているようだ。樹木のトルソといった趣である。切られているが、まだ命が残っているようだ。真ん中の下の幹に節があって、切断された枝の跡がへその緒のように感じられる。それを中心に六つの樹木のトルソが、まさにこだましてくるように哀切なメッセージを発信する。やはりこの作品も津波の大惨事に対する深い画家の感情表現のように感じられる。人間の死体や散乱するものは避けて、この切られた樹木の幹を重ねながら、深いレクイエムの感情を表現する。柔らかなそのマチエールが心のひだのような不思議な味わいを醸し出す。切られた断面が白々と光っているのも悲しい。とくに真ん中の樹木の上方にあるすこし大きな幹の断面には、断面のみならず、そこには液体がたまっているようで、涙の入れられた器のようなイメージも漂う。

1階─10室

 川邊忠光「ナンを捏ねる女」。座ってナンをこねる女性がボリューム感のなかに表現される。後ろに少年が座っている。反対側には女性が座って、窯の前にいるから、ナンを焼くのだろうか。逆三角形の構図。正方形の中に不思議な放射状の動きがあらわれている。青みがかった光がこれらの女性やナンを照らしている。しんしんとした生活の情景である。素朴な人間の労働が聖なるものとして永遠化されているといった趣である。

 森山修「生…」。軍鶏が立っている。王者のように傲然と立っている。後ろには骨になった軍鶏が横たわっている。負けた軍鶏なのだろうか。あるいは、この王者のような軍鶏もやがては負け、死に、後ろの骨になるのだろうか。その二つが十字形の強いコンポジションをつくる。生と死という二つの世界が対置される。軍鶏はそのまま人間のイメージとなる。太い足。反らした肩。強い目。独特の図像的な軍鶏図に感心した。

 木村清敏「遠い遠い北の街カーナルクス」会員賞。カーナルクスに取材した時の記憶が画面に描かれている。雪の積もった建物。しーんとした気配の中に手前には運河が流れている。向こうには草原が広がり、低い山が見える。ロマンティックな、ピュアでイノセントなイメージがこの建物を中心とした風景に漂う。

 川井幸久「五浦」。画面の下方に天心のつくったという五浦の六角堂がある。背後に波が騒いでいる。海に突き出たこの六角堂は、津波で一度流されて再建したという。岡倉天心が東京を追われて、ここで新しく院展を立ち上げた場所である。そのような深いエネルギーがこの建物に感じられる。そのエネルギーによってすこしひずんだような空間があらわれているところが面白い。その周りの緑の葉を茂らせた樹木や手前の岬の断崖、その先の海などをひずませるような、不思議な台風の目のような、そんな雰囲気でこの建物が描かれているところがこの作品のとくに面白いところと思われる。背後には山の斜面があり、緑の樹木がそこに立ち、草が生えていて、そういった二つの斜面が海に向かうというコンポジションになっているところも優れた構成である。それに加えて、前述した低気圧がそこを通るようなそんな不思議な強い動きが、そこに表現されているところが独特の心象のムーヴマンを呼ぶ。

 友政光雄「スイッチバック」。塗り込まれたマチエールが壁のような空間をつくる。そこに線描きによって建物やスイッチバックする線路などが描かれる。壁が心象的なスクリーンとなってあらわれる。そこに一つの深い抒情があらわれる。

1階─11室

 安藤恒子「祈りの壁 (A)」。サリーを着たインド人と思われる女性が地面に座っている。片膝を立てている。堂々たるモニュマン的なイメージがこの女性から放射する。ピンクのサリーとその体格のよさによって、そのようなイメージがあらわれる。手前に大きな壺の一部が見える。後ろには、体が人間で頭が象のヒンドゥー的な図がピンクの壁に描かれている。片一方の壁は漆喰で、斜光線に輝いている。インドの生活の一部を聖なる光景として画家は捉えている。生活と宗教、習俗。そこに生きる一人の女性を代表として、聖なるものとして表現し、一つのモニュマンをつくる。

 毛利弘子「マングローブの森」。水と水に突き出た地面に生える樹木。そして湾があり、その向こうに岬がある。手前の赤茶色の大地に生える樹木が、水墨のたらし込みふうに表現されている。なにかメランコリックな雰囲気が漂う。独特の心象風景と言ってよい。

 吉沢智大「風の記憶」。少女が裸になって立っている。明暗の強いコントラストの中に一種彫刻的なフォルムの強さを見せる。遠景には雑木が見える。風が吹いて、木の葉が散っている。女性の髪も騒いでいる。不思議な風の中のモニュマンであり、思春期のもつ独特の繊細な表情と生命力が表現される。

 永吉規公子「きざし」。何かが兆す様子として不思議な形が動きつつあるようだ。それぞれの形は不定形で、何かを指しているものではないが、そのものがじわじわと動く様子が面白く表現されている。そこに独特の時間性とメロディが生まれる。暗いグレーのバックの中に明るいベージュの空間があり、その中に不思議な生き物がある。画家のつくりだしたロボットのような人造の生き物である。そばに萌えいずるように双葉がいま地面から顔を出している。下方には落下していくU字形のフォルム。左のほうにはその地中の穴の中で何かが生まれ出るような、そんな予感のような空間も感じられる。刻々と動いていく自然の鼓動に耳を澄ましながら画家は表現する。

1階─12室

 大脇春美「面―キッチンドリンカー」。ショートグラスからカクテルを飲む女性の横顔。その横顔はもう一つの左の顔と一緒になって、前を向いた顔になる。片一方の目は渦巻いていて、すこし酔っぱらって口がほころびて笑いかけてくる。その上に白い莵がビールを飲んでいる様子がユーモラスに描かれる。赤い靴にリボンをつけたワンピースである。キッチンドリンカーという言葉のように、酒を飲むということを客観視しながら、しかもユーモラスに、しかもやめられない業のように描く。それは人生というものはそのような中に存在するというような、そんな説得力ももちながら、ノンシャランな空間をつくる。空間の中に時間というものが入れられた独特の表現になっている。

 加藤ひとみ「刻の流れに」。木製の椅子の背から向こうの棚にかけてシーツがかぶせられている。そばに葉のついていない枝がひっそりと置かれている。後ろはスクリーンのようになっていて、シルエットの木がシャドーのように描かれている。その下方は夕方の光のようなオレンジ色の空間。そのスクリーンは一つ折れて、向こうは青みがかった空の中に裸木が伸びる様子がやはりシルエットとして影絵のように描かれている。手前には鬱蒼と茂る葉のある樹木が伸びている。夏が終わり、秋が来、秋が終わり、冬が来る。とくに秋から冬にかけた季節感がしぜんと感じられる。そういった季節の移り変わりを画家は敬虔に眺めている。そこには自分自身の人生の流れも重ねられているのだろう。そこに独特のメロディがあらわれる。そのメロディを影絵のような、あるいはシャドーのような影も使いながら、静かに表現する。

 冨士谷隆「START」。スタートという意味はわからないが、裸婦のフォルムが面白い。寝転がっていた裸婦が起き上がって歩いていくといったこと。それが題名の意味だろうか。線描によるフォルムに注目した。

1階─13室

 岩田博「和の思い」。関節人形を使いながら、深い神話的な画面をつくる。下方には三体の人形が座って、メランコリックな様子である。立ち上がった四体は空を見ている。そしてまた明日という日に向かって歩もうとするかのようだ。一日の終わりのそんなイメージを面白く関節人形によって表現する。

 尾崎ゆき子「ホイロ(焙炉)」。ホイロという言葉を辞書で引くと、海苔やお茶などを乾燥させる、木枠の底に和紙を張った道具のことを言うらしい。この作品も炙り出しのような雰囲気で、じわじわとイメージが進行し、このようなかたちになったようだ。楕円状の窓の中にこちらを向いた優しい目の女性がいる。そばに横向きの少年のようなフォルムが見える。その顔の一部は黒く塗りつぶされている。夜の世界の少年のようで、女性の顔は昼の世界のように思われる。母性的な要素の母親とやんちゃな少年といったイメージもしぜんと浮かび上がる。あるいはまた、この女性の二面性ともいえるだろう。そういったものが大きな楕円の中にあらわれる。そのあらわれ方がじわじわじわじわと画面の裏側から浸透してきて浮かび上がった像のように感じられる。そこに独特のリアリティと手触りが生まれると言ってよい。バックは青い空のようにも見えるが、津波のあとの海のような茫漠たる中に散乱したものが円弧を描きながら動いていくといったイメージがある。そういった暴風雨のあとのような様々な困難な現実のなかに浮かび上がるこの円窓の中の二つの顔。二人には深い親和力があって、その親和のなかにあらわれてきた不思議な優しいイコン的なイメージと言ってよい。

 大松峯雄「宙(予感)」。九つばかりの球体がF型の横の画面に位置して、独特である。お互いが関連をもちながらぐるぐると旋回しているようだ。黒い空間のあいだからウルトラマリンの空が浮かぶ。それぞれの球体はそれぞれの命の発現のように感じられる。命が星のように集まり、お互いに語り合いながら静かに画面の中を動いていく。そのイノセントで深い生命的なイメージの後ろに無限に広がる空がある。

 有水基雄「競う」。剣道の試合がダイナミックに描かれている。二人の試合がそのまま太陽を引き寄せたかのような光り輝くもののように表現されている。左の間合いをとってお互いが竹刀を交差したような動きも面白いが、それと反対方向の黄色と朱色による紡錘状の激しくうたいあげるような、ステンドグラスからあらわれてくる光のようなものが、それに対抗するようにあらわれているところも実に面白いと思う。具象的な剣道の選手のフォルムに対して、背後の抽象的なその色面の動きは壮大で、実にシンフォニックなイメージをつくりだす。

 木戸征郎「支える」。中心が黒い大きなストライプになっていて、窓の向こうは夕焼けである。そして、赤い空もだんだんと沈んだ様子が下方の円窓に描かれている。そんな中に何か墜落して垂れ下がっていくものがある。三つのコラージュしたフォルムがそうで、板目のもの、和紙、あるいはストライプの線と染め上げた三つのフォルムが棚から落下しつつある。両側には建物を思わせるような構築的な矩形のフォルムがある。二年前の津波がそうであったが、やむをえず亡くなった人がたくさんいる。これもまた現実である。そういったことも含めてすべてを画家はある関連のなかに表現し、そして深い祈りの空間をつくる。それが円窓の中のすこし夕日が沈んだ空だし、いままさに真っ赤に燃えた赤い空でもある。そして、そんな祈りを仮託したものとして、そばに植えられた茂る草のような植物のイメージを置いている。ユニークなコンポジションである。

1階─14室

 入佐美南子「existence 2013-8」。生命が解体し、膨らみ、卵が割れつつあるような、そんなときめきのような雰囲気を淡いハーフトーンの中に表現する。球体がじわじわと輝き始めているような、そんな優しい生命的な画面に注目。

 宮村長「雨宿り」。人々が雨宿りしている上方に大きな看板があって、七福神が描かれている。巴文様の提灯もあるし、雷神もそばにある。大阪の通天閣のあたりのイメージだろうか。神仏習合した仏や神と人間とが素朴に交流をする生活感がそのまま一つのこの画面になっている。そこにある力がよく引き出されて楽しい。

 須藤愛子「Le Vent (風) 舞」。画面の中がとよめいている。天地の始まりといった趣である。F型のキャンバスの下方に太い円弧が置かれる。その円弧の上がジグザグの形で、その向こうに真円のような井戸のようなものがあらわれ、その奥のほうから鳴り響いてくるものがある。右のほうからはまるで眼球のようなものが旅をして、その終焉の井戸のほうに浮きながら飛んでくるようだ。その下方にはまた独特のドローイングによる不思議なリズムが生まれる。上方には三重の円弧で出現をかたちづくるような、そんな動きがいま激しく旋回するようだ。ちょうど飛行機のジェットエンジンのようなイメージと言ってよいかもしれない。グレーの独特の空間の中に線があらわれ、生動し、両手を上げて立ち上がってくるようなイメージもある。面白いのは、前述した深い井戸のようなフォルムで、そのフォルムは深いまなざしのような、瞳のようなイメージと言ってもよい。下方の円弧のフォルムを見ていると、そこには足が伸びてきて、足が地面を踏み鳴らしているような雰囲気がある。『古事記』に神がなりますシーンがあるが、そのようなこと寄せをしながら、世界が振動する、そんな独特の生気ある画面、そのアンフォルメルふうな表現に引かれる。天地創造のとよめきがそのまま画面の中に、このスクリーンの中にあらわれてきたような雰囲気。しかも、その中心のものに瞳に見えるような透明な性質があって、それがまたこの作品のもう一つの魅力と言える。

 大塚章子「主よ憐みたまえ」。大きな祭壇画である。緑の頭をもった女性がだんだんと下方に向かい、最後はひざまずいて遥拝している。そんな動きが実にダイナミックである。それに対して反対側を向く女性が二体立っている。黒い体、赤い体、あるいは波打つような文様の衣装を着た人間。エジプトの不死の神話を思わせるところがある。エジプトの壁画では朝、太陽とともに動き、夜は船に乗ってもとに帰ってくる。毎日一度夜死に朝復活する。そのような人間の魂ともいうべきものと旧約聖書にあるミゼレーレが連結して独特のコンポジションになっているが、そのような人間的な弱さを照射するもう一つの世界がしぜんと画面から感じられる。上方の三角形の中にある様々な三角は、天上の世界を形象化したもののように感じられる。いずれにしても、黒い色面と赤い色面が実にふかぶかとした空間をつくりだす。赤が暖かく、深い人間の感情とその上にある天上的な要素がダイナミックに構成される。

 竹内幸子「交信中…」。グレーの地に発泡スチロールを矩形に切ったフォルムが両脇にあって、その中に不思議な人間がいる。顔の中に顔があり、古代人のような趣である。そして、二人が交信している様子が、そのあいだの黒い色面の中の数珠をつないだような不思議な動きの中に表現されている。上方に同じような黒い色面に封筒のようなものがあり、STというマークがあるから、昔は手紙で交信していたのが、現代はケータイで交信しているといったイメージもあるだろう。それに加えて、さらに古代では人と人とがもっとテレパシーで交信していたといったイメージもそこに重なるようだ。つまり、ケータイやネットでつながっている関係が、古代ではもっとじかにお互いがテレパシーで関係をもっていた。人間のぐにゃぐにゃした形が両側にある。面白いのは下方に胃袋のようなものがあって、それは杓のようでもあるが、容器の中にそれが入っていることだ。人間も容器と言ってよいかもしれない。容器の中に不思議なものが漂いながらゆるやかに動いている。その動いている様子は内臓的でもあるし、同時になにか深い意識の底にあるもののようにも感じられる。イースター島の巨人たちは海に向かって整列しているが、そのようなきわめてアニミスティックなものがこのイメージの中にあるように感じられる。画家は外側に向かわない。ひたすら内向する。内向しながら脳の中に入り、内臓の中に入り、人間の身体をひとつの容器としてその中に入り込みながら、その内側から構成しようとする。そんなイメージを石に彫り込むように描く。

 本間千恵子「刻音(悠空間)」。歯車を使いながら時の移っていく様子を表現する。そのたくさんの歯車は人間とほかの人間との関係性のようでもあるし、人間のもっている思考とか感情、感覚などの要素のようでもあるし、つまり、様々な有機的なものがかみ合いながら、時が動いていく。全体ではすこしメランコリックな雰囲気があらわれている。そして、それは黒い傘が象徴する。不安な夜が明けて朝が来る。背後の空間を見ると、そのような朝がようやく来たといったイメージも感じられる。下方が夜の世界で、上方が朝の世界のようだ。そして、ほとんど壊れかかった歯車のようだが、やはり回転し、生は続いていく。下方の茶色の歯車がそのような楽しさ、明るさを象徴し、上方の傘が憂鬱なものを象徴するようだ。そして、時計の針が一部壊れて上方にあるのは、メランコリーの表現のようだ。

 浅賀昌子「花は咲く」。画家はシベリウスの音楽が好きだそうだ。女性のヌードをデフォルメしたフォルムが空中を泳ぐように浮遊していく。その連続した動きと背後の渦を巻くようなフォルムとがそのままシベリウスの音楽のメロディを表すようだ。音楽のもつ時間のなかで演奏されるその働きを一つの画面の中に一望に表現する。独特のロマンもまたこの作品の中から感じることができる。

 金澤英亮「INNER SPACE」会員賞。緑がかったグレーの上にもっと濃いグレーが渡っていく。F型のキャンバスを二枚、左右に連結している。川がそこに流れているようだ。あるいは、時間と言ってよいかもしれない。その中に様々な出来事が起きる。そんな出来事が抽象的なフォルムでストライプになったり、たらし込みふうになったり、ハッチングになったり、ドリッピングになったりしているようだ。そんな心象の流れといったものを川にたとえて抽象的に表現して、深く鑑賞者の心に染みてくるものがある。

1階─15室

 辻富佐美「土の領域」会員推挙。仰向けになった女性の顔がブロックのような岩のようなものの中に見える。はるか向こうに海がのぞく。地震によって亡くなった人に対する深いレクイエムの表現のように思われる。地味な色彩であるが、内側から色彩が輝いてくる。また、旋回するようなダイナミックなコンポジションも力強い心象表現となっている。

 茶谷弥宏「春休み」会員推挙。眼鏡をかけた若い女性。立っている女性。座っている女性。学校の女生徒たちが思い思いのポーズで画面に構成されて、ピンクに染められた空間の中に生き生きとした表情をつくる。背景に水のある風景があらわれているようで、その動いていくイメージがそのまま若い女性の生命感と重なる。

 髙見愛「庄屋の片隅」二科賞。粗壁にひびが入っている。木でできた柱と仕切り。押入れのような空間がむきだしになって、そこに筵がたくさん積まれている。下方には壊れた木の破片が散乱している。そういったところに焦点を当てて、それをクリアに描く。そうすると、そこにあるものたちが不思議な生気を醸し出す。数十年の時間がこのものたちを浸食しているということと同時にものたちのあやしい力が画面に引き出される。

 田村一男「建群 (F)」会員推挙。パッチワークのように建物をつなぎ合わせて独特のコンポジションをつくる。室内楽を思わせるような構成である。建物のある光景がいわば静物のように手元に引き寄せられて、作曲をするように一つの画面を画家はつくる。

 矢野兼三「陽矢 (国道20号線)」会員推挙。ハイウェイが画面を横断している。後ろに山があり、湖のようなフォルムがあらわれる。それをアンフォルメルふうなダイナミックなコンポジションにまとめる。

 藤谷進「ハス (蓮) 2」会員推挙。大きな蓮の葉を背景にして少女が立っている。赤いマフラーがアクセントになっている。夕暮れのように深い陰影の中の表現である。蓮と少女というと仏画的なイメージも漂うが、そのような内面から照らし出された女性像。また、透明感のある豊かな陰影をもつ色彩も魅力。

 高木和子「食堂風景 2」会員推挙。大きなお皿に大きなスプーンを置いて取り分けているような、その部分を拡大して独特の生気ある画面をつくる。激しく風が吹いているような動きがあって、皿と二つの手の位置が面白いコンポジションをつくる。ジョンブリヤン系のグレーの空間に独特の余情が感じられる。

 古谷和子「風の子」。中国の女の子のような二人が輪に両手を置いて体を吊っている。そんなフォルムに独特の動きがあらわれる。下方には座って膝を両手で抱いた女の子がいて、内向的な雰囲気がある。外向的な女の子と内向的な女の子が画面の中に構成され、リングや階段状のフォルム、白い建物の壁などが置かれて、楽しい雰囲気が生まれる。子供の頃の少女の活力を画面の中に回想しているような趣もあって、そんなスタンスからノスタルジーが生まれる。

1階─16室

 片岡佐智子「人形 3」会友賞。木馬の上にセーラー服の人形が乗っている。両側に三体の木馬がある。きわめて内向的なイメージである。女性は何歳になっても十七歳という説がある。一人遊びの世界を画家はこの画面の中に描きながら心を癒そうとするかのようだ。そんなところからあらわれてくるしっとりとしたマチエールやトーンもまた魅力。

 田中節子「スピリット・コラボ 2」。ホルンが画面の上方にあり、ホルンのカーヴするフォルムが空間の中に動いていき、紐のようなパイプのようなカーヴをつくる。同じようなフォルムが画面の中につくられ、新聞や雑誌などがコラージュされ、そばに赤い色面が置かれる。ホルンはもともと角笛から来ているが、その音につれて優雅に画面の中にその響きが伝わって生命的なイメージがあらわれてくる。音楽は時間の芸術といわれて、ある時間のなかでメロディが響くわけだが、その流れを一望のもとに構成したような面白さがある。

 佐野宜子「DANCE・コンテンポラリー Ⅰ」会友賞。若い女性が両足を広げてポーズを決めている。後ろにはすこし体を後ろに引いた仕種、そのそばにはもっと側面的に体を曲げたフォルムがある。背後には男性のダンサーがいて、手前に女性のダンサー。線によってクリアなフォルムをつくり、それぞれのフォルムを連結するように青や黒、緑などの色彩が波のように表現され、背後に矩形の建物が置かれる。ダンスのもつ動きを面白く画面の中にアレンジする。

1階─17室

 片岡素子「人の居る空間 Ⅲ」会友賞。三人の少女が裸足で立っている。そこに強く風が吹いている。その風に抗して立つ少女の姿が生き生きと表現される。ヒューマンな思想、感情といったものがしぜんとそこから伝わってくる。フォルムが力強い。

 汐待和子「再生 2」。赤い鶏冠を立てて王者のごとき鶏がこちらに歩んでくる。下方には洋風の建物がいくつか連結されてリズムをつくる。夜の空のようで月が浮かんでいる。激しいリズムが画面に起きる。まさに再生の響きと言ってよいだろう。二科の会期中にオリンピックが東京に来ると決まって世間が騒がしいが、その前はもっと静かな日本であった。そんな日本を叱咤激励するかのごとき鶏のイメージと言ってよい。背後に段ボールなどをコラージュして手触りをつくり、それもまたリズムをつくる一つの要因となっている。ヴァイタルな力というものがテーマとなった強いコンポジションである。

 渡辺美加「Fun time」。母と娘。ティーブレークといった雰囲気である。その様子を一つひとつの衣装の文様までも緻密に描く。それは絨毯も壁紙も窓もレースも同様であるが、それによって独特の熱気のある画面をつくる。熱気というより、温かな温度が画面の隅々まで行き渡っているかのようなアンティームな雰囲気がそこに表れるところが面白い。

 石倉妙子「つきぬものたちへ 2」。人間のトルソを思わせるようなフォルムが画面の中ほどにあって、それを後ろ側から黒いものが覆っているような雰囲気。そして、不思議な球体が二つ浮遊している。命というもののもつ霊的な力を表現したものと思われる。死の境界領域まで近づいたところから発見された生の姿をほのかな明るみの中にうたいあげる。

1階─18室

 添野忠「回想する風景」会友賞。コートを着た女性が両手を腰に置いて上方を見ている。後ろにヨーロッパの建物のようなものが見える。独特のロマンティックな雰囲気が漂う。形に対するセンシティヴな感覚がある。女性とヨーロッパの教会のようなものを連結して、憧れといった心象をしぜんと浮かび上がらせる。

 田辺幸子「かたすみ (Ⅰ)」。壁にフライパンや鍋などが吊るされている。下方には魚の開き、テーブルの上にはコーヒーミル、椅子、机、そんなものを生き生きと描く。キッチンの中にあるものたちが、お互いに会話をしているような生命感のなかに表現される。ドローイングによる力と言ってよい。対象の中に入って対象のイメージを形に表現する力がこの作品の魅力である。

 古野紀征「村の朝 (Ⅰ)」。巨大な樹木が四本ほど立っているあいだを教会に向かって女性や男性や驢馬が歩いていく。背後の山には満月が出ている。メキシコの風俗と思われる。朝の儀式が静かに行われる。そんな素朴な物語の生まれる場所、そこに立つ家や木や山が実に生き生きと表現されて楽しい。月の表現は日本的と言ってよい。

2階─1室

 山下かじん「思惑のいらない休日」。正方形の画面のバックに金泥や箔を貼り、その上に、たっぷりと墨を含ませたような線によってドローイングするリズムが面白い。ほとんど抽象形態で、金を背景にグレーや灰白色、赤、紫などの正方形の色面が貼ってある。すこし王朝ふうの雰囲気も感じられる。そこにカリグラフィックなかたちで線が動いていって、独特のメロディをつくる。バックの金に墨がたらしこんであって、そこにおける光と影の陰影も空間をつくる。

 篠原涼子「Summer Holiday #2」パリ賞・会友推挙。朱色と若緑色、青紫色などの色彩が生き生きと響き合う。マチエールと色彩にすこし染色を思わせるところが感じられる。画面に接近すると、パネルにじかに描いていて、輪郭線が彫り込まれているところも面白い。一種のモダンな感覚。ファッションと絵画との境界領域のようなイメージをつくるところが面白い。

2階─2室

 中野紀三郎「津波」。モノトーンの中に、まるでパントマイムのような不思議な雰囲気でドラマが進行している。海には車や家が沈んでいる。手前のその上に黒い死体がつかまっていたりする。近景の地面にも六人ほどの人がシルエットで様々な嘆きのポーズをしている。はるか遠景では噴煙が立ち上がっているから、福島原発の事故なのだろう。そういった様子をしっとりとしたモノトーンの中に表現する。音は聞こえてこない。無音の中に進行するヴィデオを見ているような雰囲気もある。それがまた臨場感をつくる。

 織田清子「遊夢 Ⅴ」。裸の女性が台の上に浅く腰掛けている。背後に風景が広がる。すこし斜面になっているようで、上っていくと上方に白い建物が見える。点々と褐色の樹木が立つ。その風景はオレンジ色を中心とした色彩で、女性の肌とほぼ同一である。メランコリックなイメージが漂う。その憂愁ともいうべき心象がそのまま風景に伝わって、風景に独特の傾いた面をつくり、その向こうに魂の家のような建物があらわれる。

 世古明子「共存 Ⅰ」。大きなサボテンが中心にある。それは白黒で描かれていて、そこにフクロウや鳥などがたくさん集合している。下方にはエリマキトカゲや卵から生まれたハチュウルイのようなものが見える。メキシコの風土の幻想といった雰囲気もある。強いエキゾティズムの中にサボテンが力強く広がり、青い空の中に鳥や地上の生き物が実に生き生きと表現される。

 稲本玲子「緑陰」。緑の扱いが面白い。エキゾティックな雰囲気と同時に、優しい森のもつイメージもあらわれる。緑のワンピースを着た女性が座り、そばに植物の緑が様々な形をもってあらわれ、上方には樹木の枝が頭上にあり、そこに緑の葉が茂っている。遠景の山も緑で、後ろに二人の女性がいるが、一人は緑である。様々な緑が使われている。オリエンタルでもあり、エキゾティックでもあり、人を深く癒す植物の緑でもあるような、そんな緑の複雑な階調にまず引かれる。風景と人物とが一体化したような空間が生まれているところも面白い。また、対象の形を追うというより、対象のもつ動きといったものに画家の関心はあり、その様々な動きが画面の中に統合されて、独特の画面の大きさがあらわれる。

2階─3室

 水野興三「風の街 (1)」。すこしキュービックな表現で道と建物を構成している。デフォルメされた建物や樹木、車などの表現がお互いにある量感をもって表現されているところが、この作品の絵画性だと思う。上方に雲のようにも海のようにも見えるフォルムがあらわれているのも、面白い効果である。

 渋谷良子「早苗饗」。若い二人の女性がすこし座ったような雰囲気で描かれている。優雅なカーヴが響き合いながら、若い女性の生命的なフォルムをつくりだす。そのフォルムに対する感覚と構成力がこの作品のよさだろう。

 野口睦幸「街の構成」。ずいぶん塗りこまれた画面で、独特の強いマチエールをもつ。その中に建物と道とが構成されて、強い心象性をつくりだす。心の中の街、そのモニュマンといったイメージに注目した。

 濱征彦「トレド情景」。スペインの中世のトレドの街がしっかりと描かれているが、すこし童話的なイメージがそこに重ねられて楽しい。手前に二人の女性と一人の老人が描かれているのも、同じような雰囲気である。独特の色彩家だと思われる。色彩のハーモニーと一種のファンタジックな空間、イメージの広がりに注目。

 山﨑美恵子「ジャズを聞きながら」。ところどころコラージュがされているが、白と黒を中心に、そこに原色を置いて、独特のリズミカルな空間があらわれている。それぞれのものがあたかもジャンプでもしそうな、そんなきびきびとした韻律の中に構成されている。また、白と黒のハーモニーがシックな雰囲気をつくる。

 田口正子「秋をつげる使者」。海のそばにテーブルがあり、そこに若い女性が座っている。あやしい雰囲気で、独特の吸引力をもつ。女性のもつ深いエロスの力、人を引き寄せる力が十全にこの人物に使われていて、不思議な呪術性のようなものを醸し出しているところが面白い。

2階─4室

 星野敦郎「新鳥亜綱」。円形の中に包まれるように女性のヌードが描かれている。立て膝をして座り、右手は後ろに左手は頭にのせた独特のポーズである。後ろにも六角形のフォルムがあって、一種曼陀羅的な様子が幾何学的なフォルムの中にあらわれる。ペンギンと鳥のフォルムが両脇に脇士のようにあるが、鳥の先はスタンドになり、ペンギンの先は何かの道具のようになっている。若い女性の有機的な曲線を描く。ヌードのフォルムが柔らかく、独特のエロスともいうべきイメージをつくる。幾何形態と女性のボディとの対照によって、周りの様々なものを引き寄せるような求心的な力を表す。

 會澤佐智子「北の浜辺」。地面に雪が積もっている。そこに揚げられた船や海で使う錘。雑木が広がっている。風景でありながら、しんとした気配のなかに静物を見るような感覚が広がる。色彩が柔らかく響き合って、夢のような雰囲気をつくる。

 柴﨑康男「巡視船のある風景」。ほとんど黒と白、ブルーなどの抽象的な表現であるが、独特のエネルギーを感じる。濃い心象的な要素と風景とが絡みながら、ほとんど抽象に近い具象表現として注目した。

2階─5室

 山村出洋「Jazz Liveの夜」特選。画面の上方にシルエットとしてジャズバンドの演奏家のフォルムが浮かび上がる。下方は丸いテーブルに向かい合った二人の女性。背中を見せる女性もすこし頭を垂れているし、向こうの女性ももの思わしげで、顔の部分はグレーにつぶされている。生活感と頽廃的な雰囲気が漂う。水墨でいうたらしこみふうな空間によって二人の女性は包まれていて、メランコリックな雰囲気が漂う。

 有馬広文「記憶の淵 Ⅲ」。若い女性の上半身が向かってすこし左側に描かれている。周りには静物や雲や風景的イメージが広がる。それを色面によって表現する。センスのよさが感じられる。

2階─6室

 鈴木旭「赤い月」。画面の下方にパリの夜景が描かれている。赤く染まっている。ムーランルージュの風車の建物のそばには別のイルミネーションのある建物がある。その横には屋上にイルミネーションされた看板が見える。画面の上方は夜空で、その右上に赤い満月が浮かんでいる。優しいロマンティックなシャンソンが画面から聞こえてくるようだ。左下に女性の顔が浮かび上がる。その顔もなにか懐かしく優しい雰囲気である。対象を客観的に描くのではなく、心の中に取り込んで、ある音楽的なイメージのなかに表現して、赤茶色の色彩が情感をかもしだす。心理的な空間の奥行きに引かれる。

 高谷ひろ子「la vie」。お洒落な感覚。グレーに独特の味わいがある。若い女性が黒を中心としたエレガントな衣装をつけて立っている。右手を差し伸べている先に黒い猫が佇んでいる。後ろに植物があり、遠景に白い洋館が見える。黒の中に金がところどころ入れられているのが、装飾的な効果として優れている。詩人の絵のようなイメージの強さがある。

2階─7室

 髙岡次子「音のある空間」。下方にアコーディオンが開かれている。黒と白の市松の床に女性が横になっている様子が線描きで入れられる。エレガントな雰囲気である。上方には音楽のハーモニーする、あるいはメロディが抽象的な空間のなかに表現される。ラブソングのようなイメージとノクターンのようなイメージとがクロスするような、優しい女性的な空間に引かれる。マチエールもしっとりとした調子である。

 伊藤よし子「想―2013D」。下方に大地のような茶褐色のフォルムがあり、その上方に交響楽のようなイメージの抽象的なフォルムがあらわれる。一種音楽的な感興を画面にしたような面白さである。上方の円やストライプやたらし込みふうなフォルムを重ねた茶褐色、青、緑、朱色によってつくられたその独特の緊張感のあるコンポジションが、音楽のクライマックスのようなイメージを発信する。

 大堀幸子「象 Ⅰ」。グレーの抽象的なフォルムが力強い。下方では立体感をもって立ち上がり、上方では斜面の中に融解する。独特の手触りのなかにきらめくような灰白色である。画面に接近するとわかるが、ずいぶんデリケートにそれぞれの色面は構成されている。雅びな中に毅然とした、月光に輝く風景のようなイメージも感じられる。

 清水尚子「都市空間」。高層ビルから下方を眺めてみた形象のようだ。コーナーを車が動いていく。屋上のようなものも見える。視点の変化によって都市の景観が変わって見える。そこにコンポジションが生まれる。金がグレーと響き合って、一種雅びやかな雰囲気をつくる。

 西峯多木次「REHABILI (1)」。リハビリする人々の様子が線を中心として表現されている。それが独特の心理的な遠近感によって画面の左側に構成されている。右手前には大きな椅子が立ち上がり、上方に花がある。花と椅子は一種のモニュマンとして画面にあらわれている。

2階─8室

 德弘あずさ「ある風景 Ⅰ」特選。黒いバックに矩形のフォルムを大小配置して韻律をつくる。一部は段ボールを破ったようなものの不定形のフォルムもコラージュされている。上方の青い小さな正方形が全体のアクセントとして効果的である。

 吉田多鶴恵「遠い風景 Ⅲ」会友賞。ノンシャランな茫漠たる青い空間の中に人間の行為の跡のように線が引かれ、水平線が引かれ、広場のようなものがあらわれる。下方は二本の線に七つのストライプであるが、すこし不定形の紙を貼ったものが鮮やかな印象として浮かび上がってくる。空間と人間の行為というものをぎりぎりのところで試みた表現として面白い。

2階─9室

 岡山芳彦「川沿いの道 Ⅱ」。土手の上の道がすこしカーヴしながら向こうに続いている。周りの建物や樹木が全体できびきびとした韻律をつくる。舗装されていない道の上に雲の影のようなものが映っているのも面白い。客観的な風景に見えて、すこしシュールな味わいが醸し出されるのは、そのような陰影による効果だと思われる。柔らかな色彩に滋味がある。

 安坂伸司「幻想」特選。中心にワイングラスが一つ置かれている。前後して壺とワインボトル。一杯ワインを飲むうちにイメージが広がっていくのだろうか。倒立するワイングラスがあらわれ、ジョッキが上方に伸びていく。窓の向こうには丘があり、そこには不思議な樹木が立っている。満月が昇る。そして、そんなイメージが頭の中に動いていることを示すように、上方に男のすこし後ろから見た横顔と背中が広がっている。そんなイメージの転換が画面の中にしぜんと感じられるところが面白い。時間の推移に従って動いていくイメージを一望に絵の中に表現する面白さと言ってよい。

2階─10室

 遠山恵子「散歩道」。赤が新鮮な印象である。その赤い色彩を背景にして、女性の上半身を横から見たフォルムがあらわれ、この女性は手にオレンジの薔薇を持っている。周りに白い鳥が飛び、背景に風景が広がる。道に沿って見える建物をフラットに背景に構成する。風景と人物を面白く組み合わせて、一種音楽的な効果をつくりだす。

 金田道子「風道 1」。風景の中を感覚的にイメージのなかでたどっていくような動きが、そのまま画面の構成としてあらわれている。そういった体感的なものと自分の意識の流れを連結したところからくる構成として面白い。背後に白い線によって人間のフォルムをいくつか中に入れる。そのカーヴする線が背景の濃密な空間と重なりながら、独特の心象的な空間をつくる。

 石本香織「光のリズム Ⅰ」。明暗の調子がロマンティックである。月光に照らされた室内といった趣である。その中に若い女性が座って本を読んでいるような雰囲気で、アンティームな空間がつくられる。

 藤田典子「星のかけら」。“WELL, SEE YOU LATER.”と上方に書かれている。描かれている鳥や時計や双葉や女性の横顔、そういった象徴的なフォルムと鑑賞者とがここで出会って心が揺らぐような気持ちになればよいといった意味もあるだろう。そんなイノセントな詩のイメージをノンシャランな雰囲気で画面に構築する。グレーをベースにして赤や青や黄色が輝いている。

 佐治登茂子「墟 Ⅲ」。廃墟を抽象的なコンポジションの中に表現する。そこを通り過ぎた時間と歳月を無限なる宇宙の中をたゆたう星のようなイメージと重ねて表現する。それはまたこの廃墟を荘厳するような心持ちでもあるのだろう。中心から上下に広がっていくフォルムを青い空間の中につくる。茶系の色彩の中に入れる。そして、それを透視するようにもう一つの宇宙のような銀河のような世界を描く。

 湯浅光子「詩的な風景 Ⅱ」。裸木が上方に伸びていき、裸木のあいだに建物が見える。上方には二十六日ぐらいの月が浮かび、下方には犬が一匹いて、こちらを眺めている。粉雪が降っている。ロマンティックな風景である。それぞれの枝がそれぞれのメロディを歌っているかのような、そんなイメージも面白いし、全体で優しいハーモニーがあらわれる。

2階─11室

 狩谷昌孝「どっちが食べる?」。独特の画家のつくりだしたフォルムが生き生きとしている。若い女性が大きなお皿に一尾の魚を抱えている。下方の床に猫がそれを狙うかのような面魂で描かれている。後ろにポットが湯気を立てている。火が燃えている。キッチンの一隅に立つ女性と猫、その他、キッチンの道具が生き生きとしている。一種漫画的なデフォルメする力がある。フラットに対象を図像化する力と言ってよい。その力が組みあって独特の生気をつくる。

 吉田幸子「室内の光景」。テーブルの上に様々なワインボトルが置かれ、白いグラスには紫陽花のような花が差されている。十個ぐらいのレモンが転がっている。そばに観葉植物が葉を茂らせている。面白いのは、テーブルの下の足の部分にもう一つの、風景のようなイメージが表れていることだ。青を主調としながらそこにビリジャン系の色彩が入ってきて、静物の後ろ側になにか風景的なイメージが広がるようだ。

2階─12室

 大岩千寿子「カスティーリャの村」。スペインのある村の様子と思われるが、建物より人間のほうがはるかに大きく、中心の女性はさらに巨大で、そのそばに五人の女性が手をつないで踊っていたり、その後ろの女性たちも元気でヴァイタルな雰囲気である。カスティーリャの街を脇役として、そこに住む女たちのエネルギーを面白く構成して、物語とファンタジーをつくる。

 長谷川昭三「現代万華鏡 (宙)」。透明な青い色彩がまず魅力で、そこに黒い線描によって女性、ワイングラス、ワインボトル、ヒトデ、鳥、クレーン、橋、本、ペン、ティッシュ、建物などが置かれて、親密なイメージの広がりを統合して面白い。題名のように万華鏡的にくるくると回転させるとフォルムが現れ、といった動きもまた魅力。

 石井正子「生―2013」。廃棄物の上にカラスが乗っている。もう一羽のカラスと喧嘩をしている様子で、中景にもカラスが飛んでいる。フォルムがクリアで、都会の一隅に発見した物語を生き生きと表現する。

 稲村博子「潮風のテラス」。フォルムが面白い。建物や干されている洗濯物、女性、パラソル、それぞれが生き生きと画面の中に構成されて、フォルムが語りかけてくる。

2階─13室

 斉藤りゅう子「牛 Ⅱ」。こちらを向いて立つ白い牛。青い牛がその後ろからカーヴしながら顔をのぞかせている。量感のある表現で力強いコンポジションである。福島原発などの出来事がバックにあるのかもしれない。そういう環境問題に対して抗議をしているようなイメージもしぜんと感じられる。

3階─1室

 奥村桃枝「和魂 2」。牡丹のような花をデザイン化するようにクリアなフォルムを重ねながら、点描でしっとりとまとめている。花の周りにシャボン玉のようなものがいくつも浮かんでいて、花が呼吸をするようだ。

 三宅敦子「沈黙 Ⅰ」会友推挙。二つのトルソが左右に描かれている。黄色からベージュにわたる色彩が優しく、独特の触感がある。お洒落な感覚に注目。

 小川エリ「鳴」会友推挙。サックスを鳴らす女性の演奏家を描いている。黒と白の色彩がシックで、クリアなフォルムに注目。

 蒲田宏「残雪 (Ⅰ)」会友推挙。浜に雪が積もっている。一階建ての民家がそばにあり、電信柱が斜めに伸びて立っている。向こうに暗い海がのぞく。フォーヴィックな動きのある作品。トーンに対する優れた感覚がある。その中に朱色が一部点じられて、強い詩情を醸し出す。

 上石直美「ゆらぎ 1302」特選。蓮の葉が水に浮かんでいる様子をクリアに描いて、フォルムの連続性によるメロディともいうべきものが画面に流れてくる。

 牟田志津子「風の記憶 Ⅱ」会友推挙。コンクリートのブロックを重ねながら、スリリングな独特のバランスをつくる。危うい均衡の上方につがいの鳩がいる。津波の出来事もそうであったが、現代の不安感といったものを面白く象徴的に表現するなかに、鳩によってヒューマンな感情を示す。

3階─2室

 野平智広「伝言~託された思い~」特選。窓際の棚の上に少女が座って小さな玩具のキリンに触っている。窓にキリンの顔が浮かんで、彼女に語りかけてくる。寂しい少女の心持ちをユニークなコンポジションの中に表現する。

 金子律子「彼方」。ブロックの上に若い女性が座っている。背後は海で、その海の向こうには黄金色の光が降り注いでいる。津波に対するレクイエムの表現である。フォルムに対する感覚が優れている。

 中田登「ART in ART  '13-2」特選。黒いテーブルに花瓶があって、そこに一本の白い百合が差されている。後ろのキャンバスにその百合が描かれて、ダブルイメージになっている。下方の黒いテーブルの色面と花瓶のキュービックな処理、手前のカップなどのフォルムが面白い。

 丹野史子「街角の楽士たち Ⅲ」。ギターを弾く人、サックスを吹く人、ヴァイオリンを弾く人。三人の青年を配置して、しっとりとした情趣を醸し出す。フォルムもしっかりとしていて、デフォルメも面白い。

 佐々木邦枝「風―ロシアから Ⅲ」。橋の向こうに宮殿が立つ。一部新聞などをコラージュしながら、爽やかな雰囲気で外国風景をまとめて清々しい。

3階─3室

 川﨑美津子「囲まれた風景 (C)」特選。ビルがこの楕円形の広場を囲んでいる。その中には熊、豚、鶏、猪、犬、リスなどの動物が描かれている。現代人の不安以上に動物たちが現在の環境に不安な様子を面白く構成する。ノンシャランな雰囲気の中に強く発信してくる危機感が伝わってくる。コンポジションも面白い。

 江島良子「La vie à Paris IV」。パリの屋根を描いている。そういったシャンソンもあった。屋根から煙突が立ち、窓が見え、窓の中に明かりが差している。そんな様子を手触りのあるマチエールと自由なコンポジションによって表現する。

3階─4室

 山口進治「南仏の村」。オレンジ色の屋根瓦の下の壁が明るく輝いている。周りは青や緑によって空や樹木がたらし込みふうに表現されていて、その中に建物が浮かび上がってくる。その澄明なハーモニーに清々しい情感が感じられる。

 髙橋悦子「コンサート Ⅲ」。歌を歌う人が画面の近景に大きく描かれている。後ろにベースを弾く人。サックスを吹く人。ピアノの鍵盤が浮かび上がるが、演奏者は見えない。深いブルーのトーンの中に演奏する人を配しながら、ブルースが聞こえてくるような、しっとりとした表現が興味深い。

3階─5室

 須佐美惠子「SPRAWL 2013-3」。街を俯瞰しながら暖色の色彩のグラデーションのなかに深い情感を醸しだす。

3階─6室

 木原三千代「カーニバルの日・2013 (Ⅲ)」。ヴェニスのカーニバルをモチーフにして連作を続けている。今回は、近景に二人の女性と思われる仮装した人物を配し、もっと手前には上半身だけが横から描かれた同じような人物がいて、彼女は赤い花を持っている。その後ろにも行列が続き、宮殿のような建物が線描きで描かれている。独特のリズムがある。そして、メロディがしぜんと画面から伝わってくるような音楽性が感じられる。青を中心とした色彩のトーンの中に古都ヴェニスのあやしい気配がしぜんと伝わってくる。

 加藤裕子「材木置場 (2)」。材木を置いて、それの一つひとつに色をつけ塗り分けて、全体で生気あるハーモニーをつくる。決してうまい作品ではないが、そのプリミティヴな力と材木に生命が吹き込まれて立ち上がってくるような様子が面白い。

3階─7室

 山田公代「追憶の欠けら Ⅰ」。女性が下着姿で座っている。それを斜めすこし後ろから描いている。その女性のフォルムがすこしトーンの中に溶け込んでいるが、独特の魅力をかたちづくる。背後の遠景のフォルムの中に女性の横顔や塔や星や巻貝などが描かれて、その手前には風車が静かに動き、ロマンティックな雰囲気を醸し出す。ノスタルジックなイメージと女性のフォルムとが相まって、優しい情感が漂う。ハイライトから暗いところまでのグラデーションに独特の魅力がある。

3階─8室

 椎野ひろ子「語らい Ⅱ」。白いワンピースを着て、白い帽子をつけた女性が、両手の上に蝶をとまらせている。周りに花が咲いている。花と蝶とが同じイメージの中にお互いに変容しながら、しっとりとした緑の中に浮かび上がる。

 上嶋啓司「マネキンのある部屋」。室内の空間に独特の感覚があらわれている。マネキンが立つ中、その真ん中に女性が座っている。マネキンは、衣装のためのマネキンもあるし、体全体がつくられたマネキンも立っていて、その中に座る女性。そして、そこに差し込む光によって幽体ともいうべき独特のイメージが浮かび上がってくる。灰白色の微妙なトーンの変化を使いこなしながら、空間のもつある性質、そのクオリティがこの作品の魅力だろう。

 山田初美「雨の予感」。おばあちゃんが椅子に座って、そばに大きな白い犬がいる。犬とおばあちゃんの表情がほぼそっくりな様子なのもほほえましい。そういった犬との深い関係のなかに描かれていることによる心理的奥行きともいうものが、この庭のある空間にあらわれる。そんな表現が、平凡に見えて深い印象をつくりだす。

3階─9室

 松本陽子「想 Ⅰ」。テーブルの上に立て膝をした少年。その手前には帽子をかぶった女の子が立って目に拳を置いている様子で、泣いているようだ。男は知らんぷりをして、後ろにいる。別れのシーンを描いているようだが、センスのよさがうかがえる。フォルムに対する感覚も優れている。

 萩原義雄「Holiday, Rocks Sydney」。横断歩道の向こうに古い建物が立っている。建物の後ろには海があるのだろう。鷗がその歩道の向こうに三羽、下りてきている。その様子がなにかシュールな味わいを醸し出す。それぞれのフォルムがクリアであるが、時間の中に風化しつつある様子で、その中に三羽の鷗が生き生きとした表情をつくりだす。風景に心理的なイメージがあらわれてくる。

3階─10室

 中馬康子「解放 Ⅰ」。静物のようにも風景のようにも見える独特の空間構成だが、色彩の力が魅力だと思う。それによって独特の生気が生まれる。

 城戸佐和子「水脈 Ⅹ」。強い動きが画面から感じられる。赤を主調色としているが、ぐいぐいと塗りこめたその筆触からも動きが生まれる。左上方からは滝が下りてきて、水が右方向に流れてきている。手前には樹木もある。風景の中にある力を表面だけではなく、その地中も含めて動いているような激しさとムーヴマンがある。そこから独特の詩情ともいうべきものがあらわれる。

3階─11室

 渡邉仁美「Kokopelli」特選。画面の上に布をコラージュし、その上から絵具をぶちまけるような勢いで描いて、独特のムーヴマンが生まれる。感覚的な世界である。対象のフォルムというより、感覚のなかに浮かび上がってくるイメージを面白く表現する。

3階─12室

 宇都木裕子「女のいる室内」会友推挙。籠に洋梨を入れて、少女がその籠を運んでいる。後ろに青年が横になっている。その向こうにはテーブルがある。それをキュービックなフォルムによって表現する。形態感覚と構成力が優れている。若い男女の日常のなかの室内空間を面白くアレンジする。

 西夏希「Life force I」。三百年、四百年の樹木がいくつも立ち上がって、人間のような雰囲気で描かれている。そういった樹木の表現が強いメッセージ性を発信する。

 井上練子「Twins-sister2」。双子の姉妹という題名だが、画面の中にそれらしきものは見当たらない。絵から発信されるものは激しい色彩によるテンションの高いハーモニーである。

3階─13室

 田原馨「森・共生」。樹木とそこにつたう宿り木、そんな森の中の様子をクリアに稠密に描いて、独特の魅力をつくる。樹木の枝にしても、草にしても、様々な方向にその先を伸ばしていく。そんな動きをそのままトレースするように画面に表現する。それによって生気が生まれる。樹木の形、それは葉も含めてだが、それを再現的というより、ほとんど作者と一体化したようなかたちで吸収し、認識し、画面の中に表現しているようで、面白く感じられる。

 南木まどか「蒼鷺が歩む森」。樹木がゆらゆらと立ち上がってきて、蒼い空に満月がうかんでいる。夜の世界が昼の世界のように描かれて、昼と夜とが同じ空間の中に併置するようなシュールな世界があらわれる。そこに白い鷺が立っている。左右の木にも様々な鳥がとまっていて、独特の幻想性をはらむ。

 小林珠子「道の彼方へ Ⅱ」。自転車の荷台に少女が座っている。自転車をこぐ青年は赤いシルエットになっている。フォルムに対する感覚が優れていて、フォルムによる一種の美ともいうべきものが表現される。

 大森寛治「桃ヶ池公園」。大きな街灯が灯っている。緑の樹木。緑の池。そこに二羽の鴨が動いている。鴨は普通より大きく描かれていて、アンリ・ルソーのようなファンタジーが生まれる。

3階─14室

 安野礼「Quel est donc ce monde.」。茶髪の少年が立っている。画面上下ぎりぎりまで全身を描いて、独特の力が描かれている。少年の内面に入って、少年と一体化するようなところからあらわれてくる表現である。色彩も面白いし、マチエールも強く、フォルムも独特のイコン的な力を表す。

 村木真佑子「prologue」。裸の男女が絡み合いながら、まるでダンテの地獄の門のフォルムのように連結されている。そんな上に白い動物と白い蛇がいる。それは情念とか暴力といったものの象徴のようだ。そんな人間たちの上に若い少女が立ち、カーテンを広げてかなたを眺めている。混沌とした錯綜する人間界から旅立とうとする序章を表現する。優れた形態感覚とその構成力に注目。

3階─16室

 竹内康恵「Open Heart I」。下町の商店街が面白く生き生きと表現されている。屋根が蛇の背中のように縦横に旋回して、そのあいだにお祭りや遊ぶ人、家の中にいる人、あるいは猫や、中でギターを弾く人などが、自由に描かれていて、独特のエネルギーを呼ぶ。一種児童画的な強さがある。そのプリミティヴな表現に注目した。

3階─18室

 平井征史「バッファローに雪」。バッファローというのは町の名前なのだろう。雪が降って、一部ぬかるんだりして、向こうに建物がある。その向こうに黒く聳える大きな建物がシルエットに浮かび上がる。画面の中に独特の汚しのようなものがあって、それが人間のもつ深い感情を表すようだ。空は紫色に染まっている。白とシルエットの建物と紫の空が一体化する表現というのも不思議であるが、ある心の絶対的な感覚ともいうべきモニュマンが表現されていると思う。裸木の黒い線による表現も脇役として生きている。

3階─22室

 土屋真理子「夕暮れの街  ①」。建物が一体化して、一種集合住宅のようなフォルムをつくりだしている。その中に窓や壁、あるいは屋根の上に立つもう一つの部屋などが自由につくられている。一つの建物を街をつくるような雰囲気で表現する画家の造型的才能がよい。色彩も黒をベースにしながら、そこに十二色環の様々な色彩が使われて、楽しいファンタジックな空間を生み出す。

〈彫刻室〉

 島田紘一呂「ANNIVERSARY-500 -LUNAR ANGEL-」。猫をずっとつくってきたが、今回は猫が一本足で立って、上体を上方に反らしている。そして、片足は宙に置いて、頭を上方に向けている。背中から翼が生えている。月光によって照らされた猫であるが、それ以上に月に憧れて猫が別の生き物に変身しつつあるような、そんな不思議な味わいが感じられる。円弧というものを強調しながら、円弧が円弧を呼びながら上方に向かうそのムーヴマンが面白い。

 吉野毅「夏の終り '13」。若い女性が立っている。左足に重心を置いて、右足をすこし曲げている。左手を後ろに右手をすこし前に、しぜんと両手を垂らしている。石膏のもつイノセントな白が光線の中に輝く。微妙な光の中に若い女性の生命感が息づく。また、石膏による陰翳礼讃といったそんなヴィジョンが興味深い。

 日高頼子「夕凪」。膝で立った女神のような女性。その頭に鳥がとまっている。右手を後方に、左手を胸の上に置いている。凪というのは、海の干潮と満潮との境目の様子でもあるし、無風状態のこともいう。それまで力がせめぎ合っていたものがそこで消えるときのその不思議な静寂感のようなもの、そんなイメージをおそらく作者はつくりたかったのだと思う。女性の体を通して、干潮でも満潮でもない一瞬動きが止まったようなときの動きをつくる。一本の輝くような杭が水中から上方に向かって立ち上がっていくような、そんなきらきらとしたイメージがしぜんと感じられる。その静かな杭の上に鳥がとまる。杭とはこの女性の不思議なフォルムの意味である。

 工藤健「展開」。新体操のポーズのようだ。体を百八十度曲げて、両手を床につける。足と両手がそばにあって、顔はその膝の裏側にあって、水平に向こうを見ている。足は、左足は地面についているが、右足は上方に立ち上がっている。そんな曲芸的な女性のポーズにあえて挑戦して、不思議な動きと美しさをつくる。キュービックな処理によって、その柔軟な女性の体に面を与える。人体が球体とカーヴする角柱のようなものに還元されるが、ディテールを失わない。正中線をしっかりとつくることによって、不思議なメロディが生まれる。左足が地面について、右足が上がり、上体が百八十度曲げられ、その首が水平に足のほうを向いているといった、回転する動きが一瞬止まっている様子。画家は音楽をたいへん愛好している。たとえばバッハの無限に循環するようなメロディを一瞬凍らせて、それを形にするとこのような不思議な形になるだろうか。

 林一平「産声」会友賞。植物と人体とが連結されている。足を伸ばしたその腰から蓮の鉢のようなフォルムが立ち上がって前に向かっている。不思議な生命感が感じられる。植物と人間との合体というところに、いかにも日本人のもつヴィジョンが感じられる。

 仲子亜未「マフラーをまいたヒト」特選。小羊をマフラーのように肩に掛けた青年が立っている。青い上衣に暗いブルーのパンツに黒い靴をはいている。マネキンのような作品であるが、色彩が瑞々しい。

 大村富彦「眠る人」会員賞。テラコッタの作品で、上方を向いて仰向けになった人体である。眠るというより、ほとんど死体と言ってよい。深い永遠の眠りについた一人の人間をテラコッタによって荘厳しているような趣が面白い。

 嶋崎達哉「Donna Rossa」。若い女性が石の上に座っている。そのまろやかなフォルムを木彫によってよく表現する。彩色によってどんどん自分のイメージを煮詰めていく。実際の女性というより、画家のつくりだした女性であるところが面白い。最近フィギュアが盛んであるが、徹底したそのイメージを追い詰めるところからあらわれてくるオーラともいうべきものが、この作品の魅力だろう。日本女性のなよなよとした力というものを実に面白く造形化している。

 竹屋修「記録 '13・還」。テラコッタの作品。上向きの横になる人体と立つ人体。テラコッタにするときにもともとの塑像を分割して焼いて組み合わせる。それによってもう一度新しい動きがそこからあらわれてくるかのような、そんな暗示的な独特の気配があらわれる。分解し再構成する人体。それに古代から延々と人間が行ってきた焼くという行為が加わって、独特の質感と動きを表現する。

 池田嘉文「HORIZON(ホライゾン)」。百体ほどの女性たちの群像である。ロダンの「地獄の門」を思わせるような激しいフォルムが集まっている。下方から上方に向かって八の字形に広がっていくフォルム。女性たちはまだ眠りについているようで、やがて目が覚めるのだろうか。夜明け前の女性群像といったイメージが面白い。

 信時茂「透く音(すくおと)」。若い女性の裸の腰から上の像であるが、強いボリューム感と同時に内側から張り出してくるような生命感が感じられる。また、両手を前に出しているから、なおさら奥行きといったものもあらわれる。彫刻であると同時に強い精神性ともいうべきもの、女性の体の内部からこだましてくる力が感じられるところが、この作品の面白さと思う。そのこだましてくるようなものはどこからくるのか定かではないのだが、「透く音」という題名を見ると、物質を通過した形而上的な存在がこの作者のイメージの中にあるのである。

 中山憲雄「森の神父」。牛のようにも山羊のようにも見える不思議な動物の頭部が金属によってつくられている。鍛金と思われるが、それによって手触りがうまれて、独特のオーラを発する。

 三宅一樹「磐座女神(いわくらにょしん)」カヤの木の一木造りである。その中から神像を彫り起こした。量感がある。座っているが、その腿のもつ量感、あるいは上半身の量感、そして両手をクロスさせて、そこに布をかぶせているが、そこはブラックホールのようになっている。もともとあった洞を使ったそうである。逆にそのブラックホールによってあやしい気配が生まれる。体の後ろ側から立ち上がっていく不思議な樹木の幹のようなフォルム。自然の霊的なものの体現として日本人が親しんできた神像のもつミステリアスな力がしぜんと感じられる。赤い色彩を繰り返し重ねて彩色されているのも、この作品によくフィットしている。顔のもつ柔らかな、頰から顎にかけるラインと重い髪の量、肩からおなかにかける、あるいは太腿のフォルム、全体で独特の一種の抽象性を獲得しながら、強いエネルギーを発散する像が生まれた。

 藤巻秀正「森の響き」文部科学大臣賞。森が叫んでいるような激しいイメージが感じられる。だんだんと自然破壊が進んできている今日、森が悲鳴を上げているといった趣である。樹木がお互いに連結し、肩を抱き合って塊となり、その木たちが口をあけて騒いでいるような、そんな雰囲気である。極端にいえば、ムンクの「叫び」ではないが、そのような強烈なイメージがこの木彫の独特の有機的な抽象体から感じられる。

 工藤直「夏の残像」。二人の女性。一人は立って、一人は座っている。座っている女性より、立っている着衣の女性のほうがよりボリューム感があって生命感が感じられる。風になびくスカーフなども面白い脇役となっている。

 竹田光幸「舟―日暮れ時―」。光と影というものは普通彫刻にはならないものと思われるが、それを立体化したところがこの作品の面白さである。光と影のアラベスク模様といった言葉も浮かぶ。加えて、水の流れといったものもしぜんとこの中に取り込まれているようだ。光と影の計量器のような三本の柱が上方に向かっている。木と鉄と大理石の素材を連結させ、そこに穴をあけている。下方には二つの翼のようなフォルムが組み合っている。向かって右のほうではその先からもう一つのピラミッドのようなフォルムが立ち上がり、それはV字形になっている。ヒノキとクスノキで、おそらく彩色してない部分がヒノキで、赤く彩色した部分がクスノキだろう。そして、そのシルエットの透かし彫りの中に球体が点々とある。光と影というものを乗せた船が静かに動いていくといったイメージであるに違いない。きわめて微小なものときわめてマクロなものがこの作品の内部に含まれているようである。途方もなく広がる光と影の世界がまた小さな手のひらにのるような、そんな愛らしい存在に変わるかのような不思議な動きが、この波紋状の透かし彫りの彫刻とそこから垂直に立ち上がるフォルムから感じられる。

 前田忠一「OTROK―君はライオン」。桃太郎といった民話的な主人公のイメージがしぜんとこの彫刻から立ち上がってくる。ライオンのような髪をした青年。大きな手。そして、髪が上方に火炎のように立ち上がっていく。日本の民話的な主人公のイメージをボリューム感をもってつくる。口を固く閉じて右のほうを見ているその表情もまた面白い。

 森田博之「くしとはさみ」二科賞。女性が横になっている形を実にダイナミックに表現する。手が大きく、その胸のあたりについている。その後ろには櫛のようなフォルムも見える。一つの塊を彫り起こしていくときのダイナミズム。まだ黒い墨の線が残っている。完成するとまた違った作品になると思うが、その制作途中のダイナミズムが評価されて、二科賞を受賞した。

 橋本和明「Kanon―月の鏡」。樹木が女性に変容して立っているような、そんなイメージが感じられる。女性の立っているのは円状の台座であるが、その前に皿のようなものがある。そこに月が映っているようだ。森の中の水のそばの樹木が女性の像に変身する。

 こじまマオ「工業化文明の行方」特選。牛の頭が観音のような顔になっている。その頭や背中にコンビナートがあって、煙が出ている。現代文明とヒンドゥー的な世界とが合体した不思議さと言ってよい。

 正司強「MM(Midnight Mission)」。鉄を叩いて溶接した大きな像である。スーツを着ていて金によってストライプの文様がつけられているのが装飾的な要素として面白い。いずれにしても、鉄のもつ素材感を生かした強いエネルギッシュな表現である。

 内藤裕子「DOPPO」。木彫の裸婦であるが、顔の部分に莵のお面がつけられて、そこにお下げ髪が垂れている。実にあやしい雰囲気で、思春期の少女のもつ不思議なイメージをよく表現する。

 松田重仁「花ふる時」。樹木が枝を広げている様子。あるいは植物が茎を伸ばして、そこに花をつけている様子。そんな繊細な表情のものを三体つくって、植物の夢見るような空間をつくる。種から芽を出し、育ち、花をつけ、種に戻る。それは外観からすると物理学的な現象かもしれないが、そこには植物の夢があるに違いない。そこに想像力を合わせた表現と考えると面白い。

 細田愛由美「stripe 2013」。クスノキの寄木の作品である。猫の頭をした女性が立っている。すこしファッショナブルでスタイリッシュな雰囲気がある。影が立体化して地面から立ち上がったような、そんな新鮮な印象である。

 荒谷叔未「lamp」。不思議な植物のようなもっこりとしたフォルムが伸びていって、それが吊り下がったところに裸の莵が吊るされている。裸の莵という言葉もおかしいが、それは人間の子供のようなイメージと重なる。なにかあやしく不気味な雰囲気がある。この背後の熱帯の植物を思わせるような独特のフォルムの先に吊るされた莵の様子には、未来というものに対するあるペシミスティックなイメージが漂う。深く鑑賞者に問いかける作品。

 大塚邦博「Melting time」。裸婦が立て膝をして足首を交差させて、その膝のあいだに頭を入れて屈み込んでいる。その塊を石膏によって表現する。内側から輝きが無垢に石膏としてあらわれてくるような初々しさである。ある貴重な美しきものがそこに横たわっているといった、存在感を醸し出す。

 鈴木法明「お兄ちゃんと一緒(水辺の出来事)」。素材はチタンということになっているが、それを溶かして叩いて、この兄弟の像をつくった。素材のもつオーラともいうべきものが実によく表現されている。兄弟のもつしぜんな情愛というものが、この金属を溶かし、叩き、溶接した彫刻の周りに漂うようだ。また、下方の水辺のようなイメージの金属の表面のマーブル状の文様も面白い。

 吉田光男「流標」。ワンピースを着た女性がしっかりと立っている。ボリューム感があって、強い存在感が感じられる。また、衣装に横に向かう鑿の跡があって、時間のなかに立つ女神のようなイメージもある。空や海の中から現れてきた、そんな大きなボリューム感をもつ初々しい女神像と言ってよいかもしれない。

 小田信夫「智」。二、三歳の子供を抱いた若い父親の像である。一木から彫り出された巨大な大きさをもつ。平安時代には立木観音といって、一木の中に観音を見て彫り出した仏像が多いが、この作品もまたそのようなイメージが感じられる。また、樹木が立ち上がって枝を広げていくその形と、若い父親と子供の像とが重なるようなダイナミズムも感じられて、そこが面白い。

 平澤勇輝「ともだち」。たしか大学の卒制の時に見た記憶のある作品である。熊が立って両手を広げている。ずっしりとした存在感がある。初々しい強いイメージが彫刻としてつくられていて、好感をもつ。

 津田裕子「浮遊―2013―」。三体の裸婦が宙に浮いている。白に、グレーに、ブルーに彩色されている。空に浮かぶ雲が女性の体に変容する。そんな独特の詩の世界の表現である。

 市川明廣「ふわり―天の川―」。大理石のもつ柔らかさを十分に生かしている。ところどころ虫食いのように洞があいている様子がまた面白い。飛行機の形をしたフォルムが空を飛んでいるようだ。天体観測所や天体を見るベンチなどが翼の上に置かれている。そして、金によって上方が彩色され、三つの星のあいだに天の川が金によって表現されている。天体の空間を切り取って飛行機の形にして、そこに天体観測所をのっけたといったダブルイメージになっている。天体が大好きな少年の初々しい夢を造形化したようなイノセントな味わいが感じられる。作者本人に聞くところによると、このような図像はアフリカの未開社会にもあるそうだ。

 服部多加志「異空環」。木、ステンレス。一木から二つのフォルムがカーヴしながら立ち上がってくる。下方は木のリングが囲み、上方はステンレスのリングが囲んでいる。自然のもつエネルギーだと思う。われわれが感知していても、科学的には発見できないエネルギーがたくさん自然の中に存在するだろう。そういったエネルギーを彫刻の中に引き寄せて表現した面白さだと思う。

 佐々木友二郎「YOUNG SKYWALKER」。クスノキを素材にして着色してあるそうだ。独特の強いエネルギーが感じられる。

〈野外彫刻〉

 豊田晴彦「母性」。女性が立て膝をして座っている。両腿のあいだに手を交差して置いて俯いた女性像である。量感のある石像。ロマネスク美術のもつあの豊かなイメージをしぜんとこの作品から感じる。

 菅原二郎「内側のかたち 13─RB」。パイプのようなものによって連結された抽象形態が二つ。一部赤く彩色されている。人間のもつ細胞、たとえば腸の中を顕微鏡で拡大してみると、森林の中の道のようなあやしい雰囲気があるが、そのような自然の構成要素をピックアップして、独特の抽象形態にコンポジションした面白さと言ってよいだろうか。

 前田耕成「間」。キメ細かく磨かれた直方体の横に、石を削ってその荒々しい肌を出したものを合わせる。平面的に連結されているが、上下に連結されたものがもう一つあって、その二つのエレメントによって環境彫刻ともいうべきものがあらわれる。自然のもつ気配、そういったものに敏感なのはイサム・ノグチであった。イサム・ノグチの晩年の茶室のにじり口のようなものをつくった作品はいまも筆者には忘れがたいが、同様の一種無作為のなかにあらわれる自然の不思議な霊気ともいうべきものを面白く表現する。言ってみれば、作者のつくりだした新しい庭の一部と言ってよい。

 宮澤光造「風に吹かれて」。少女の体は極力自然石を磨いたかたちに近づける。そして、その際から手のような形が見える。そして、髪をリボンのように左右に伸ばしたあどけない顔が彫られる。石のもつそのボリューム感や魅力をそのまま極力生かしながら、それを少女の立つ姿に変容させる。

第39回東京展

(9月9日〜9月16日/東京都美術館)

文/高山淳・小池伊欧里

1室

 井上利哉「GENJIE(情愛)」。今回はもう一点は「憎悪」という題名で、対照的である。「情愛」は、画面全体にオレンジ色の光が漂っている。黄金色と重なるような柔らかな光がまさに源氏と女性たちとの睦まじいイメージを与える。下方に白いグレーのフォルムが折り重なっているのは、そんな女性たちの佇まいを表すようだ。上方に御簾が上がったようなフォルムがあらわれ、そこに源氏と女性とが立っているようなイメージも感じられる。いずれにしても、寂々たる王朝のメロディが画面の中にたゆたうようにあらわれてくる。ほとんど抽象的なコンポジションで、『源氏物語』のもつ独特のめでたき愛の世界を荘厳するような、そんな音楽的な構成になっているところが面白い。(高山淳)

 横前裕子「紫の上(源氏物語)」。「源氏の最愛の人、紫の上だったのに。女三の宮の降嫁がその幸せを消していく」。画面には二つのリングがあって、中心のリングには青い帯と赤い帯とが向かい合っている。後ろのリングには赤い花弁と黄色い花弁、紫の花弁が見える。画面全体は紫の色の無地の空間になっている。中心にF型の横にした画面を置き、両サイドに縦長の画面を置き、観音開きの三面対になっている。中心の二つの帯の対比は紫の上と女三の宮との対比だろう。そして、後ろの花びらのようなフォルムはひっそりとした紫の上に対して、赤や黄色の女三の宮の権勢を表すものと思われる。また、長方形や平行四辺形のフォルムがその周りに散りばめられ、斜線があらわれ、斜線はリングの中を折れたり、中に入ったりしている。斜線が折れるということは運命の変化を表すのだろうし、黄色い正方形の枠やオレンジの正方形の枠、緑の正方形の枠が金平糖のように動いていくのは、情愛のイメージだろう。『源氏物語』の中に深く沈潜し、そこからいわば作曲をするように画面を構成していく。今回は後退していく紫の上と女三の宮の出現といった様子を、ある序章のような、プレリュード的なイメージのなかに表現する。やがて女三の宮は柏木と浮気をし、源氏にその事実を悟られて、柏木はノイローゼとなって亡くなり、女三の宮は仏門に入るといった物語が展開していく。(高山淳)

 原弘「013内面空間 A2」東京展賞・功労賞。三幅対である。都会のドライな人間関係、群像がまるでこの槍のような横に連続するフォルムによって表現されているようだ。上方に三角形のフォルムが連続するのは集合住宅のように思われる。その後ろに山のようなフォルムが黒や赤やオレンジによってフラットに重なるように表現されている。それはまた高層ビルのようなイメージかもしれない。その中にやはり朝は来、空を染め、やがて後退して夕暮れが来る。そういった時間軸の動きが三面対の中にしぜんとあらわれる。都会の要素の中に救いを求めるように画家はその世界と対峙しながら、繰り返しその内部からイメージを発信する。シャープなエッジを立てたフォルムが連続する中に不思議な哀愁の表情もあらわれてくる。(高山淳)

2室

 濱野彰親「右顧左眄」。この作品は自画像なのだそうだが、もやもやと実体のつかめないような形象で描かれた顔には、あちこち視線の落ち着かない目が複数置かれている。題名のように右を見たり左を見たり、外からの情報に迷い決断がおぼつかない様子である。挿絵作家としても確固たる評価を得るプロフェッショナルであっても、創作に対する不安や迷いは永遠に付きまとうのだということだろうか。ユーモアの効いた作品である。(小池伊欧里)

3室

 吉田玲子「静寂」。青の濃淡で構成された色面と線描きによって、水辺の町が描かれている。湾曲するように建物が端に置かれ、中央に明るい青でとられた大きな空間が視線を誘う。水面が建物や空の光を柔らかく映す。濃厚なマチエールによる味わいがある。うっすらと夜が明けてきた時間といった静謐な印象を持った。(小池伊欧里)

6室

 根橋洋一「ももいろ月夜」。女の子のおもちゃのような色づかいで埋めつくされた強い画面。薔薇やクリームのようなものの中に、金魚や双頭の猫、小悪魔が顔を覗かせる。これだけの色彩に囲まれていても、メインの少女は挑発的な妖艶さを持ち、くっきりと浮かび上がっている。処女性と大人のエロスが同居する不思議な存在であるが、額のビンディと、ホイップクリームでできたような左右の脇侍的な生きものによって近寄りがたい雰囲気がある。大きな妖しい目に惹きつけられる。(小池伊欧里)

7室

 松岩邦男「森の楽師」。画面下方の石段に座る楽師から全ての世界が広がっている。奏でる音楽によって現れた世界である。水を照らす光や、漂う霧の流れ、霧が遠くの雲に向かって流れていく様子が幻想的である。それぞれの心の中の記憶と対話しながらこの世界は変化していく。空の鳥も水を流れる者たちも、ここでは同じ方向に進んでいく。時間の流れから少し距離を置いて瞑想し、穏やかな気持ちで日常に戻っていく、そんなイメージがこの作品にある。(小池伊欧里)

19室

 万代進「北の大地・1962年に見た記憶」。画家が高校三年の時に窓から見た十勝岳大噴火の記憶がこの作品のベースにあるという。幅約四メートルほどの画面に風圧が感じられるほどの迫力で、噴煙が描かれている。火口内部の爆発に伴う閃光だろうか、内側から発光するような青白い光が噴煙のボリュームを形成している。その青白い光は、叫び声を上げる人々のような形にも見えてくる。近年日本が経験している、有無を言わさない自然の脅威が、記憶の中の映像と重なってこのような作品となったのだろう。(小池伊欧里)

20室

 青柳芳夫「タンク」。この作品は、太平洋戦争で使われた戦車を描いたところから始まったという。入江のような場所にカラフルな自動車やバイク、船が瓦礫のように集積されている。手前には拳銃を構える女性と赤ん坊の人形を抱き、ナイフを逆手に握る女性、そばに水鉄砲を構える少年が描かれる。何れもどこかフェイクっぽい描写である。日本人にとって現代の戦争は離れた世界の話で、また、ボタン一つの無人攻撃が主体の戦争に何となく実感が湧かない。そういった現況に対する風刺的なイメージがこの作品にはあるのかもしれない。鮮やかな色彩が周りに入れられたことで、錆びついた戦車の重々しさが対照されているようだ。(小池伊欧里)

 齋藤鐵心「空間演出方法その5。 13─A」。四枚の平面と、その間に重ねた板やワイヤー、棒などによる複雑な構成物を挟んでいる。それぞれの平面には白く大きな空間が作られ、グレーの色面や線が影のように描かれている。展示されていた会場では、平坦なライティングで判りにくかったが、例えばスポットライトで横から光を当てると、間に挟まれた構成物の影が平面に作られ、変化に富んだ画面が現れることだろう。そして、日光の影響下にある場所であれば、日の移ろいとともに作品が動いていくことになるだろう。今後の展開が楽しみな作品である。(小池伊欧里)

第31回FAA富士美術展

(9月9日〜9月16日/東京都美術館)

文/磯部靖

1室

 楽山正幸「東西四季模様(D)」。中品を複数出品。同時期に銀座の画廊で開催された個展と合わせたシリーズである。画家がこれまで旅してきた国内外の場所をイメージ豊かに軽やかに描き出している。画面を分割したり、画中画を入れ込んだりしながら、さながら鑑賞者をその旅へと誘うようだ。マットな触感のマチエールと鮮やかでやさしい色彩がこの画家の人柄を表すようであり、見ていて気持ちのよい作品世界となっている。

 飯塚六郎「Expresses Happiness」。白いワンピースを着た少女を大きく描いている。少女は花を持っていて片手を上に上げている。その手は大きな時計まで伸び、背後はコクのある赤になっていて、そこに他の子供たちや風景がいくつも描き込まれている。その何とも言えない構成が微笑ましい。時計を中心としたある種のリズム感がまた印象的である。

 伊藤一子「春を探しに」。紫と黄色という補色関係の色彩を中心に使いながら、春の風景を描いている。塗っては削るを繰り返したマチエールを背景に、画家の愛情溢れるイマジネーションが展開している。小さな家や三輪の白いハトなどが、重なりながら続く丘の風景に配置され、愛らしい情感を引き寄せている。

2室

 鈴木律子「セピア色の街角(Ⅱ)」。街角の風景を複雑な構成で描き出している。手前の柱から見え隠れする中景の空間の取り方がよい。明るい日差しがやわらかな明暗を作りだしている。視点を実際の目線に合わせた高さにすることによる、確かな臨場感もまた魅力で、画家の確かな絵画的センスを感じさせる作品である。

 佐藤整子「道の途中」。港の風景をバックにして二人の少年がこちらを向いて立っている。この二人はここで出会ったのか、これから分かれて別々の道に進むのか、記念写真のように深い想い入れが描き込まれている。それが、小さな紙を敷き詰めたようなマチエールに支えられながら、不安と期待を内包している。いずれにせよ、背後の街の細やかな描写と海面の空間が強い見応えを作り出し、強く印象に残った。

第77回新制作展

(9月18日〜9月30日/国立新美術館)

文/高山淳・小森佳代子・小池伊欧里

2階─1室

 田村研一「CATASTROPHE―BOWL」。家が壊れている。地震のあとのようだ。下方に曲がった線路が伸びている。安アパートの壁は壊れて、中に家族がいる。蒸気機関車がすごい勢いで走ってくる。ボーリングのピンが浮いている。同じように上方に中年の男や若い女性、少年があらわれている。美容院の頭にかぶせるものが宙に浮かんでいる。京都の桃山という下町に画家は住んでいる。その下町のパワーともいうべきものが面白く画面に爆発している。説教や理屈は蹴飛ばして、エネルギーこそが大事で、それを前に出したコンポジションである。カタストロフィから新しいものが生まれる。クリアなフォルムのディテールがこのような表現を可能にする。(高山淳)

 成尾勝己「部屋の中を散歩する…」。一対二ぐらいの横長の画面の中心に若い女性が帽子をかぶって立っている。そして、様々なコードを持っている。後ろに楕円形の黄色い色面があって、まるでそこに満月が輝いているかのようだ。その周りに象やペンギン、犬、サバ、ブリ、オオアリクイ、ミーアキャット、ヤモリなどの動物や魚がいて、それぞれにその紐は結ばれている。そんな動物や魚とこの女性は関係をもちながら、すこし硬い表情で直立して上方を眺めている。部屋の中が一つの結界と化して、ドライなテクニカルな現代社会とはまた違ったものとの関係のなかにこの女性はいる。そういったイメージを描く。それをサポートするために画面の中心に満月を引き寄せた趣のあるところが面白い。満月と女性の顔とが明度が高く、だんだん周りに行くに従ってトーンが下がっていく。都会の中にロマンティシズムを引き寄せようとする。そんな試みのなかに不思議なコンポジションが生まれた。(高山淳)

 松木義三「子供の時間」。二十人ほどの子供たちが描かれている。大半がグレーだが、その中に色がつけられた少年少女。そのうずくまる子供たちの周りを走っている。モノクロームの映画の中に天然色の映画が入りこんだような不思議な雰囲気で、それによって物思う少年の夜の世界から昼の世界が浮かび上がってくるような構図になっている。子供と深く接触する、たとえば教師などの経験のなかからあらわれてきたコンポジションのように思われる。いずれにしても、それぞれの子供の個性的な表情を描き分けるその筆力に注目。(高山淳)

 佐々木宗實「ある日の一隅」。寄り添う少年少女の人形。中年の女性の人形。下方にはエンゼル。フクロウがグランドファーザーのような雰囲気で上方をにらんでいる後ろには天秤があって、果物やトウモロコシなどが置かれている。上方に星が浮かび上がる。童話のような世界を画家は画面に引き寄せる。(高山淳)

 四宮敏行「午後の遊戯」。関節人形が上方にぶら下がっている。下方のダーツ盤のようなものの上に女性が立っているが、両手がない。ボックスから青年が顔を出している。ソファには女性が横になっているが、その胸は木の骨格だけになっている。現実と夢との中間領域のような世界があらわれる。ぼんやりした中に徐々にイメージがつくられ育っていく、そんな現在進行形の様子が表現される。目的あっての行動ではなく、目的のない中に内界の人間たち、イメージが静かに立ち上がっていく。そんな様子を面白く描く。現代人はあまりにも目的のためだけに動いているから、目的を見失ったときに初めてエゴの背後にあるセルフともいうべきものが動き始める。そのようなシチュエーションを面白く表現する。(高山淳)

 蛭田均「黄の室内」。500号はあると思う大作である。黄金色の室内。下方には鏡台があって、そこに女性の正面向きの顔が映っていて、左手を前に伸ばしている。その横にはドレッシーな白いワンピースと帽子が掛かっている。反対側にはソファに寝て左を見ている女性。その視線の先には床に横座りして後ろを見ている女性。床には青や赤の球体のガラスが転がっている。なんとなくアンニュイな雰囲気が漂う。向こう向きの女性の上方に白い蘭の大きなフォルムが浮かび上がっている。その横にはエリザベス朝の頃を思わせるような家族の像が描かれている。女性が部屋の中で自分を解放して夢想にふけっている。たゆたう時間があらわれ、そんな女性の様子が独特の香りのように画面から漂ってくる。劇的なシチュエーションではなく、間のある空間ともいうべきものが面白く表現される。(高山淳)

 鍋島正一「鳥の歌―EL CANT DELS OCELLS」。キリストの生誕を祝うカタルニア民謡からインスパイアされテーマが発展したという。生まれたばかりの三人の子供たちがいる。上方にそれを祝福するように鳥が飛んでいる。飛ぶ鳥と下方の乳児たちとが大きな円弧の中に関連している。生まれいずるものに対する讃歌のイメージである。そして、子供たちの後ろに人生の旅を象徴するような皮の旅行カバンが置かれて、その上に馬の人形や地球儀が置かれているのも意味深長である。不思議な緑のグラデーションの中に描かれた光景。イメージがインカーネイションするかのごとき様子を静かに描く。(高山淳)

 金本啓子「マントの女(冬の花火)」。画面の中心に両手を上げている女性がいるが、そのオレンジ色のマントが翻って強い印象を与える。背後は雪が積もっているような地面で、上方から花火が落ちてくるような不思議なフォルムが連続している。祝祭の表現のような強さが感じられる。(高山淳)

 渡辺久子「談話室」。画面の中心に二つの丸いテーブルがあり、手前に林檎や洋梨などが枝つきで置かれている。左のほうには鏡台があり、鏡台の下に花がある。画面全体に観葉植物の葉が茂っていて、そこに柔らかな霧のようなものが漂っている。上品なセンスのよさが感じられる。画面から香りが漂ってくるようなところが魅力。(高山淳)

2階─2室

 矢澤健太郎「天岩戸と神々の話」。上方にアマノウズメノミコトが踊っている姿が描かれている。下方にはフトタマノミコト、右にはオモイカネノカミが立っている。左の不思議な室内の光景を組み合わせたようなフォルムの中に天照大神の顔がぼんやりと浮かび上がる。左のこの様子が天岩戸の中のようだ。そして、アマノウズメノミコトの踊りにさんざめく様子を天岩戸の中で聞いて、何事かと不審な様子の天照大神。茶系の無地のバックが強い。古事記に加えてギリシャ神話を引き寄せたような趣が感じられる。ギリシャ神話も古事記も多数の神々がその働きをする神話である。(高山淳)

 田澤茂「日本人の神々 3」。画家は体全体の中に絵画というものの本質を身につけたような才能があるようだ。たとえば棟方志功が板画とあえて言って板に彫り進んでいるときのシーンを見たことがあるが、同じような雰囲気で、もし目が見えなくても絵を描くような、そんな全身のリズムや想像力がこの画家にはあるようだ。そんな圧倒的な存在感が三点に感じられる。「日本人の神々 3」が真ん中にあって、モノトーンの中に龍が三匹あらわれている。周りは無数の人々である。そんな人々は実はもう死んでしまった人々で、野仏になったような人間たちが集まってお互いに合唱しているような趣である。そんな様子を背景にして羅漢のような老人たちが楽しくはしゃいで龍と呼応している。龍は荒ぶる魂ともいうべきエネルギッシュな民族の活力の象徴としてここに出現してきたようだ。そして、日本人を代表するような羅漢たちが龍たちと呼応しながら、不思議なお祭りのようなエネルギッシュな波動をつくりだす。

 「1」は、上方に太陽があって、そこを像がゆっくりと歩む。その上に乗るのは通常、文殊菩薩であるが、この絵の中では母子像となっている。下方には剣をもった不動明王がいて、その下方には弁財天が音楽を奏で、それに沿って不思議な女性たちが現れ、七福神のような男たちが様々な動作をしていて楽しい。上方には風神雷神もいる。やはり八百万の神を画面に引き寄せ動かす画家の筆力が、この不思議な構図をつくる。

 「日本人の神々 2」は、先だって世界遺産となった富士山を上方に置いて、やはり不思議な象と象の上の仏が動いていく。下方には野仏がこけしのような形に変じ、色彩豊かに表現されている。風神も雷神もそこにあらわれ、無数の人々がいる。その無数の人々は「草木国土悉皆成仏」という言葉があるように、人間だけでなく、動物もそうだし、植物もすべてが生きたものとして画面の中に引き寄せられ、命の歌をうたうべく画面に参加している趣である。三点ともに絵画であると同時に、一種音楽的と言ってもよいような強いリズムの中に無数のフォルムが集積している様子が実に面白い。(高山淳)

 金森宰司「ライフ『ライブハウスのステージ』」。ピアノを弾き、チェロを弾く男。後ろには太鼓を叩く男。そして、青いステージの上で踊る男。足が黒く、不思議なデフォルメがされている。画家はパソコンでだいたい構図を決めるそうだが、実際の絵になってみると大きさが違うから、そこにひずみのようなものがあらわれるのではないか。もうすこしじかに絵の上でイマジネーションを展開したほうがよいような雰囲気もある。(高山淳)

 佐藤泰生「渚のシネマ(巡る刻)」。向かって右に海があり、波が寄せている。ヨットが幾艘も出ている向こうに富士が見える。左にはメリーゴーラウンドがゆるやかに回転し、上方の映写機から映る中にサーフィンの姿が浮かぶ。左下にはシネマの入口が見える。女性が寝そべっている。その両側のあいだに黄金色の道が続いているところが面白い。空間的にも時間的にも異なるものを画面の中に統合する。若い夫婦が立っている。女性は日に焼けた女の子をそばに置き、男はサングラスをして、女の子を抱えている。それぞれのフォルムが歌をうたう。歌いながらお互いのフォルムが連結される。絵画としてのクリアなコンポジションをつなぐものは、そのような音楽的なメロディのようなものかもしれない。その画家のつくりだしたメロディによって、この時空間の異なるものが統合され、湘南のある夏の日があらわれる。道のはるか向こうに山があり、山のそばに家が一つ立っているのが面白い。その家のあたりがこの構成のポイントになっている。その家はひょっとして画家のアトリエなのかもわからない。そのアトリエを遠くに見ながら、アトリエの中で展開される縦横無尽なイマジネーションを画面の上に繰り広げる。いわば絵巻と言ってもよい。絵巻は横長で、時間に沿って動いていくが、それをこの大作の中に圧縮して、一望に見えるコンポジションをつくるところにこの画家の才能が感じられる。(高山淳)

 松浦安弘「砂漠のテント(モロッコ)」。砂漠の中に茶褐色のテントがある。砂漠は風が吹くと、その様相を変えるという。砂漠は海に似ている。そんな砂漠を遊牧民はテントを張りながら移動する。砂漠も動くし、テントも動く。そしていま画家はその自然と人間とのきわめて明快な関係をこのような画面にまとめた。砂漠もテントも二つとも変数であるにもかかわらず、この画面の中ではひとつの定数として普遍的な強いコンポジションになっている。画家の強いヴィジョンがそのようなコンポジションをつくりだした。見ていると、砂漠がジョンブリヤン系の色彩に彩られているが、その中にピンクや青などの色彩も若干入れられていて、様々な色彩にその砂漠の色彩が変容するような、そんな眩暈するような気持ちに襲われる。砂漠の上方の空との接点は淡いグリーンを帯びたブルーで、その上に柔らかな紫があり、その上にまたブルーがある。その青い色彩もまた不思議で、まるでオーロラがそこにかかっているようだ。絵具の内側に光があって、その光がこの砂漠の黄土系の色彩を通して画面に浸透してくる。そして、見ているうちに様々な色彩が見えてくるような、不思議な感興を覚える。それはそのまま海に波が寄せるように、海が動くように、風や温度や様々な要素がそこに入っていることの表現がなされているからだろう。粗末な褐色のテント。一部青と赤のストライプの幕が垂れている。そのテントのフォルムもたくさん連なっていて、小さな丘のようなイメージにも変容する。つまり、本来描くことのできない変化するものを、画家は心の中のイメージとして画面の中に描いた。その力が実に独特の性質をこの作品に与える。(高山淳)

 石阪春生「煙突と猫たちと〈女のいる風景〉」。中心に立っている女性がいて、すぐ下方に座っている女性がいる。ドレッシーなエリザベス朝のような衣装である。その下にフランス人形が座っている。この二人の女性は人間なのか人形なのか定かではない。人間でもあり人形でもあり妖精でもあるような、不思議な性質をもっている。画家のイメージによって命を与えられた女性像である。後ろに煉瓦を積んだフランスやイギリスの中世ふうな建物があり、上方に煙突がある。その煉瓦を積んだ形が面白く、これもまた実景というより、画家が画面の中で一つひとつそのパートを丹念に積み重ねながら建物に命を吹き込んだような、そんなニュアンスがある。そして、立っている女性の後ろに猫が座ってこちらを見ている。右の建物の前には猫が横になって、やはりこちらを見ている。その下方には布があり、石を積んだ壁があり、アーチ状のその向こうには蔓のような植物があり、手前の椅子の上にはフランスパンと洋梨があり、小さな器には花がある。そのアーチ状の蔓のような植物の向こうに空のようなイメージが浮かぶ。そのイメージは画面の上下のあけられたグレーの空間につながっていく。普通、空は上方にあるものだが、この絵の中ではもちろん画面の上方に空があるのだが、下方にぽっかりあいた空が見えて、それが深い深淵のようなイメージを与える。画家のつくりだした深い空間と言ってよい。画家はどんどん井戸を掘っていくようだ。井戸を掘っていって心の内部に入っていくに従って地球の反対側に出て、そこにぽっかりと空があいたような不思議な雰囲気がある。それもまた画家のイメージのもつ強い力による。そして、それぞれのフォルムはほとんどドライフラワーのようなものであるが、あるいは無機物の煉瓦であるが、お互いに連携しながら、機能し、有機的に関係をもつ。一本の植物の蔓が伸びるように、あるいは地下に根が伸びていくように、画家のイメージはそのつどそこにフォルムをつくり、画面というひとつの平面空間の中をまるで地中のように堀り進んでいく。その掘り進んでいく、動いていく根のような力こそが画家のイマジネーションそのものと言ってよい。そして、そこには深く鑑賞者を引き寄せる力がある。エロスと言ってもよい。画家とここに描かれているものたちとの関係はきわめて近い。その近い関係性の中に一種魔的なものがあり、その魔的なものが鑑賞者を引き寄せ、われわれの無意味な日常性、あるいは仕事などを放擲して、この茨姫の眠りの中に誘い込むような、そんな蠱惑が画面から感じられるところが実に魅力だと思う。(高山淳)

 福田徳樹「仮泊(土佐日記によって)」。紀貫之の「土佐日記」の四国からの船出のシーンと思われる。四国の国守から京に帰るときの旅が「土佐日記」には書かれている。右のほうには屋形船のようなフォルムがあり、左のほうには月が下りてき、様々な思いが抽象的なフォルムによって表現されている。大和絵のようなイメージと油彩画による表現主義的な要素をミックスさせたところが面白く感じられる。構成力に注目する。(高山淳)

 太田國廣「神仏垂迹富獄図」。パッショネートな画面である。日本人の奥底にある強いエネルギー。そのエネルギーの源のようなものを画面に引き出したかの感がある。中心に富士があり、富士の頂上から日が昇ってくる。その上に雲があり、黄金色の円形のフォルムが見える。その黄金色の円形のフォルムはほうぼうにあるのだが、満月を象徴するようだ。また、それは太陽でもある。そして、半月や三日月や、月齢に沿って月の形が変わるように、太陽の形が赤い色彩によって月と同様変化していく。そして、富士の周りに狛犬が立って、この世界は一つの結界であると語りかけてくる。下方に行くに従って、たとえば松尾大社の有名な国宝の女神像や、その富士の左端には男神像などもあるし、あるいは黄金色を背景にした様々な仏の像が浮かび上がり、下方には釈迦の誕生仏のようなものもあらわれる。その誕生仏のすぐ手前にお稲荷さんの狐が両側にいるのも面白く、そのあいだに鳥居があり、灯籠がある。まさに神と仏が一体化しながら、お互いに語り合い、助け合い、ゆらめくような動きの中に強いエネルギーを発散する。そのエネルギーは一種結界と言ってもよい空間をつくる。富士の手前に階段があるのも面白い。いわゆる富士曼陀羅という鎌倉時代につくられた仏画のような垂迹美術を研鑽した結果だろう。赤い鳥居が下方の両方の狐のあいだに一つ。そして、その上方に男女の仏がお互いに手をつないでいるそばに一つ。その向こうに階段があって、階段を上っていくともう一つの鳥居が見える。。一つ鳥居を入るごとにより濃密な宗教的な神仏習合の空間の中に入っていくといった趣である。そして、それぞれのフォルムは浮遊している。浮遊しながら分離し、また集合する。そんな動き自体の中にわれわれの心の中にある祈りのようなイメージと重なるような世界があらわれる。画家は一画家であることに徹している。一庶民と言ってもいい。そんな自由なポジションから画家のつくりだした新しい神仏習合の曼陀羅図と考えると、実に創造的な仕事であることがわかる。

(高山淳)

 一居孝明「GOLD ZONE」。廃棄物が透明な袋に包まれて大きな塊となっている。それをテープによってくくっている。その上にデンジャーというステッカーが貼られている。その上にも手前にも、雀がとまっている。廃棄物が単なる廃棄物に終わらない。たとえば放射能のような強力な毒性をもって存在するのが現代と言ってよい。その恐ろしさをこのナチュラルな雀を配することによって対照させ、強く訴えてくる。しかもその廃棄物が黄金色に染まっているところが不気味だし、現代的と言ってよい。(高山淳)

 平田智香「バス ストップ」。ほとんど廃棄されたバスの中に座る人。あるいは、そのドアの中に顔を隠して立っている人。あるいは、手前にいる二人の女性。右のほうにはパレットを持ってこれを描いている女性がいる。バスはこの女性にとってなじみのある存在なのだろう。そのバスが時間を乗せる乗り物のような雰囲気で画面に描かれているところが面白い。それに対してクリアな女性像を配置しながら、回想的なイメージのなかから未来を望むといった雰囲気の心象が浮かび上がってくる。一羽の黒い蝶が時間を旅するそんな象徴的な存在として、画面の中ほどに置かれている。(高山淳)

2階─3室

 馬緤紀子「いのち 2013」。縦長の画面の中に楕円形をつくり、楕円形の中から新しく命の生まれてくる様子を擬人的に表現する。木が再生する。木の中にある再生のイメージを、暗いグレーの女性の顔と明るい若々しい女性の顔を上下に置いて、時間の推移を表し、その下方の明るい女性の顔のほうには桜の花や桔梗のような花が、あるいは芥子のような花が咲いている。また、片一方のほうにはあの吉野の山のようなイメージもあらわれる。雲がその上方を動いている。手の上に白い猫がのっていて、その上に朝顔がある。日本は農耕民族で樹木や植物が枯れ、また春に新しく芽吹くという繰り返しを経験してきた。津波という大惨事もあったが、その再生を農耕民族ふうに画家は表現しようとする。それを擬人的に描く。女性の顔にしても二重のくっきりした目。通った鼻筋。唇。そんな妖精的なフォルムがそのまま女性のフォルムと重なりながら、そこに花や緑の山があらわれる。そんな日本人のもつ普遍的な自然観を楕円を軸として構成する。優れた寓意的な表現と言ってよい。(高山淳)

 佐野ぬい「日記のアングル」。抽象的な不定形のフォルムがまるで生き物のように画面を動いていく。青、黒、もっと暗い青、明るい青、バーミリオン。そんなフォルムがまるで画面の中を画家のつくったおにぎりのような雰囲気で画面を動いていく。高踏な抽象ではなく、自分の身の丈に合った抽象表現である。そして、下方の明るいベージュの空間や上方の柔らかな緑やブルーの空間、曇り空の中に樹木の輝いているような、そんな不思議な世界の中を色彩の塊が生き物のように動いていく。おそらくこんな作品も室内で長く見ていると、会場で見ている以上にもっと親密の度合いが増えてきて、静かに語りかけてくるものがあるにちがいない。(高山淳)

 鶴見雅夫「THE FOUNDER―アトリエの軌跡―覚・Ⅰ─13─10」。褐色の不定形の色面の上方にピンクの色面。下方に紫の色面。そして、そこに矩形の建物のようなフォルムが浮かび上がってくる。これまでの画面を均等に分割して、その中にイメージの動きを追っているような作品に比べると、また新しい展開である。混沌としたものの中から何か生み出そうという力が感じられる。もともとカラリストである。その色彩はどこか日本の王朝ふうな雅びなものがあるから、ファンも多いのだろう。そして、その混沌の中に秩序をつくろうという力が実に面白く発現している。緑やブルーも隠し味のようにきいている。(高山淳)

 高堀正俊「林檎」。モノトーンの作品。地面に白いシーツを置いて、そこに十歳ぐらいの少年が裸で横向きに寝ている。点々とそばに林檎が置かれている。デッサンの面白さと言ってよい。灰白色の中に画家はシーツや林檎や人体を精緻にデッサンしていく。それによって独特の温もりが生まれてくる。後ろには低い樹木が枝を伸ばしている。林檎自体、アダムとイヴの創世記の話に出てきて、様々な寓意性をはらんだ存在である。そういった存在と十歳ぐらいの少年が対置されて、少年の未来といったイメージがしぜんと浮かび上がる。いずれにしても、温もりのある少年のフォルム、あるいはその感触が独特の絵画性と言ってよい。(高山淳)

2階─4室

 鈴木喜美子「足尾の今―残された煙突―」。足尾銅山はもうほとんど建物はなくなっているが、この作品の中では煙突が一本ぽつんと残されているようだ。記念的に残されているのかもしれない。山の斜面。上方のコンクリートになった工場の跡地。その下に建物のようなものの側面が浮かび上がる。まるで人間の顔のようだ。その下の土管から水が流れてくる。足尾銅山を描き続けるうちに、その風景の奥にある、もっと奥にある力を今回、画面に引き寄せたように感じられる。足尾銅山の中に数万人の人々が働いていた時期もある。いまは廃坑になって誰もいない。しかし、いわば家族のような強い有機的なかたちが滅びても、その奥のほうに命というものがささやかな小川のように流れているといった、不思議な趣が感じられる。この作品は画家のそのような客観性を通り越した内観からあらわれた光景のように思われる。一本の煙突が三角形の台座の上に立っているが、なにか懐かしく寂しく、実に不思議な雰囲気を釀し出す。(高山淳)

 岸宏士「ナイト クルーズ」。パリのセーヌ川をクルーズする船が下方に描かれている。抽象的な直線によって区切られた中に白いフォルムがあらわれ、窓がある。イルミネーションの黄金色がそれを上方で囲っている。右のほうにはもう一艘の船が続く。パリの対岸の街を青の矩形のグラデーションによって表現する。そして、エッフェル塔が立つ。それは赤によって表現され、やはりイルミネーションがされている。空には黄色を中心とした色面が、いわばちぎりながら画面に浮かばせたような不思議な雰囲気で、内なる祝祭といったイメージがしぜんとあらわれる。そこに向かって建物が上方に上昇していく。画家のパリ讃歌といったイメージを、一種音楽的なコンポジションの中に表現した。その優しい華麗な、すこし哀愁も感じられるメロディがしぜんと画面から聞こえてくるような雰囲気である。下方の白いクルーズの船は画家の貴重なものを抱えこんで静かにセーヌ川を進んでいくようだ。(高山淳)

 鈴木幸子「花の中へ」。大きな花弁をもつ花の中に着物が置いてある。その着物はやはり様々な花模様でいっぱいになっている。日本の着物の絢爛豪華な花の意匠と実際の白い花弁の群れ、そこには葉も描かれ、下方には様々な植物が芽を出しているような雰囲気で、鳳凰のような鳥の小さな図像的な要素も入っている。花というもののもつ広がり、深さ。もちろん花は開いたあとに実を結んで種になり、新しい命を育むわけだが、ここにあるのは実を結ばない花のもつ美しさとその虚しさともいうべき、そんな不思議なイメージが表現されているから、いわば耽美的な世界を追求するところからあらわれてきた空間の面白さと言ってよいかもしれない。(高山淳)

 村山容子「風の詩 '13─Ⅰ」。村山容子は二点出品である。「風の詩 '13─Ⅱ」は、暗い夜の空間の中に手前に白い雪の積もったような空間があり、二か所、残照の空が広がっている。中間に広がる夕焼けのような空。そして、はるか向こうにもリフレインするように夕焼けの空が黒い空間の中に輝いている。そして、右の黒い空間の中に緑色の細いストライプが点々と浮かんで、はるか向こうに消えていく。音楽の音符がそこにあらわれているような、深い音楽性が感じられる。そして、黒い空間がそのまま波のようなイメージとなって右の浜辺に寄せているような雰囲気も感じられる。白のもつ無垢な不思議な存在。魂や心の集合体のような不思議な柔らかな動き。

 もう一点の「'13─Ⅰ」のほうは、白い色面が近景にあって、中景にもう一度白い色面が二つ、動くようにあり、左向こうに塔のようなフォルムがあらわれ、そこが赤くピンクに染まっている。そこにあるのは浄土のような雰囲気で、懐かしい光景が上方に浮かび上がってくる。「色即是空 空即是色」という言葉が般若心経にあるが、無常の風が画面を吹いているように思われる。その無常が冷酷なものではなく、人を包みこむような存在として表現される。そんな不思議な心象空間ともいうべきものが画面に存在し、そして、その空間が動いていく。そして、その向こうにあるピンクの世界は魂のふるさとのような雰囲気である。祈りのもつ深い密度のある心象空間ともいうべきものが画面にあらわれ、その空間がわれわれの心を包みこむように感じられる。手前の白と向こうの白とのあいだに白くドリッピングしたようなフォルムがあり、右下にももう一つ小さな白がある。白は人々の軌跡のようなイメージ、上方の空にピンクの星が輝いているようなイメージもある。いずれにしても、心のスクリーンの奥にある世界、深い井戸の中に画家は下りていき、そこから見える空、空間、大地、雪、様々な風などを視覚化し、一つの画面の中に表現したような深いイマジネーションが感じられるところが筆者を引き寄せる。(高山淳)

 杉野和子「潜」。キャンバスの上に鉛筆によってハッチングし、トーンをつくっている。樹木の幹のようなフォルムが人工的なパイプとなって変容しながら、画面の中を左右に連続して視界を遮る。そのあいだに暗い闇があって、そこに星がまたたいているような様子である。樹木の独特の伸びていく生命感は、女性的な感性で捉えられると、このような途方もないエネルギーとなって引き寄せられるようだ。しかもそれが人工のパイプとつながるというところが面白く現代的である。その向こうにもう一つの世界が存在し、星がまたたくように見えるところがロマンティックなイメージを釀し出す。(高山淳)

 松尾萬里「緑の椅子・赤の椅子」。左が赤の椅子で、右が緑の椅子。中心に男女の人間が立っている。両側に人が座っている。人間の存在というものがしぶとく強く表現されている。独特のねっとりとしたマチエール、肌触りを感じる。ほとんど人形のような人間たちがある有機的な存在感をもってこの空間の中に描かれる。実存的と言ってよいほど、表面的なものではなく存在する内側から対象を把握しようとするところから、この有機的なコンポジションが生まれるのだろう。(高山淳)

 手嶋醇子「或る日のテーブル」。逆遠近のベージュのテーブルの上にセロリやポット、カップ、ワインの瓶などが置かれている。面白いのは、そこに不思議なリボンで結わえられた箱があって、箱の中に青い空と雲があらわれているところ。日常性の中に入りながら、ひとつの詩のようなイメージを画面に引き寄せる。手前に一本の樹木が立ち、茶色い葉、黒い葉を茂らせている。室内に入ってきた自然というもののイメージと言ってよい。そして、フローリングの床に白い壁があり、時計は二時三十二分を指している。フローリングの何もない空間が近景の様々なもののフォルムと面白く対照される。このひっそりとした空間の中に霧のようなものが漂っている。その想念のイメージと手前のものたちがお互いに浮遊しながらある存在感をもって立ち上がってくる様子とが面白く対照される。そんな中に透明な空が立方体の中に切り取られて、室内に引き寄せられる。(高山淳)

 佐藤柳逸「野一隅―偶像」。自然のもつパワフルな力をダイナミックな抽象表現にまとめている。傾いた地面。そこには黄金色の花が咲いているのだろうか。激しい緑や朱色、赤と緑のフォルムが空に向かって立ち上がっていく。自然というもののもつ恐ろしさを画家は表現しようとする。そして、その奥にある命の輝きが引き出される。(高山淳)

 間中敏子「想 '13─Ⅰ」。二点出品である。マネキンのあいだにマネキンのような女性が座って回想している雰囲気。しっとりとした空間の味わいとマチエールが優しく懐かしい。残照の中で様々な想念のなかにいる人物像といった趣である。じっと見ていると、三体の顔のある立っているマネキンと横になるマネキン、そして、頭も足もないトルソのような二つのマネキン、ぽっかりとあいた心の空洞のようなイメージもそこに感じられる。そして、その空洞を埋めるように静かに想念が伸びていくようだ。(高山淳)

2階─5室

 竹村和夫「踊る人」。三人の白いワンピースを着た女性が手をつないで踊っている。そのフォルムが面白い。独特のダイナミズムが感じられる。フォルムの力である。ヨーロッパ人が描いたような、そんな強さが感じられる。(高山淳)

 一居弘美「Seeds」。種が散っている。たとえばタンポポの綿毛の一つひとつに種がついて飛ぶように空を飛んでいる。そして、新しい命が復活する。そんな種というもののもつ強い再生的なイメージを、不思議な透明な叙情のなかに表現する。(高山淳)

 眞野眞理子「み旨のままに」。船のようなフォルムの上に九人の聖人が立っている。周りには波のようなフォルムがあらわれ、三人の、翼が生えているから天使と思われる女性が立っている。船はどこに行くのかわからない。その不安定な未来のなかで聖人たちは何か祈っている。それを天使が助けるといった構図になるのだろうか。平面の上にモザイクをつくりだすような独特の画面の小さな点描による表現である。(高山淳)

 稲垣敏彦「時の眼差し  '13─M」。画面の中心にピサの斜塔が描かれている。上方に月が浮かぶ。三羽の鳥が舞っている。マネキンの下方は五本の棒によって支えられていてそのフォルムがピサの斜塔を眺めている。松ぼっくりがあり、ビー玉があり、ウイスキーの白い瓶のようなものもある。そんなものが打ちっぱなしのコンクリートの上に置かれている。一種静物的に風景を扱いながら、不思議な詩情を釀し出す。ピサの斜塔がまるで振り子のような雰囲気で、左右に揺れてくるような錯覚に陥る。時というもののもつ謎をこのようなかたちでシュールに表現する画家の才能が興味深い。トーンの繊細さ、その柔らかさもまたこの作品の魅力だろう。(高山淳)

 新保甚平「水田」。杉木立の手前にまだ田植えをしていない水田があって、そこには水が張られている。そこに杉木立が映っている。その水の中にもう一つの世界が見えるような、そんなイノセントな不思議な雰囲気である。童話やおとぎ話が生まれてくるような、そんなピュアな世界が平凡な水田の中に表現されている。透明感のある色彩のハーモニーがまた魅力である。(高山淳)

2階─6室

 熊沢淑「2013、 風―礎」。茶褐色の布とグレーの布を組み合わせている。茶褐色の布のもつ大地的な要素に対して、グレーの布は人間的な傷つきやすいイメージを与える。二つを対照させながら、そのあいだにつくられた柔らかなカーヴが面白い。そのカーヴが実に繊細な表情をつくる。また、そのカーヴがお互いに響き合いながら、人生の歌ともいうべきイメージを切なくピアニッシモにうたう。ピアニッシモであるがゆえの純粋性ともいったイメージが自然を醸しだす。(高山淳)

 荒井茂雄「円のある風景」。六つのボックスの中に円を使いながらネットを張ったり針金を置いたりといったフォルムが置かれて楽しい。円による幻想、円による組曲といった様子である。右から二つ目に箒のようなフォルムが針金でつくられていて、その後ろに画家が昔描いたストライプの風景がある。その中に鳥が上方を見てピンクの雲が浮かんでいるといった絵もある。さらにその右端には、ネットの中に暗い円盤があって、中心がピンクで周りが黒、下方はピンクや黄色のグラデーションで、上方はレコードのような趣で、静かにレコードが回りながらメロディを聞かせるといった趣である。円は同心円のものもあったり、さまざまであるが、それぞれの円が動きながら、そこから歌が聞こえてくる。その画家独特のエキゾティシズムともいうべきものが現実を超えて、もう一つの世界をしぜんとこの中に引き寄せるようだ。そういった絵画のもつイマジネーションの力を、6つのボックスがハーモナイズし、発信する画家独特の才能である。(高山淳)

 髙橋正樹「継承と孵化」。二点出品。「継承と孵化」は、丘のようなものを切り崩して、その手前に様々な抽象的なネットのようなフォルムを置き、そのネットはまるで蜂の巣のような雰囲気で、そこから蝶が孵化しているような、そんな不思議なイメージを表現している。シュールリアリスティックな力が面白い。もう一点の「終焉と発生の地」は、やはり同じようなネット状のものが廃棄され、その廃棄された中からやはり蝶のようなものが色とりどりに浮かび上がってくる。崩壊と再生のイメージを面白く構成する。

(高山淳)

 沼本秀昭「照」。三つの大きな板を横に連結して正方形の画面ができている。中心は正方形を九十度転がした形で菱形になっていて、四つの正方形、中心の正方形、四隅には円形があって、強い曼陀羅構図になっている。焼いた板の断片などがコラージュされ、様々なものが切断されコラージュされ、あるいは流木のようなものもコラージュされている。不思議なプラネタリウムの中に入って眺めているような、そんな天空のもつあやしさといったものが感じられる。そう思って見ていると、それがそのまま地上の風景となって、たとえば二年前の津波でたくさんの人々が亡くなったが、そんな悲惨な様子が正方形の中に入れられ、それを癒すように四つの円が曼陀羅的な力としてあらわれているようなイメージも感じられて、独特の深さと力強さを表す。

(高山淳)

 伊藤康夫「ARCADIA 〈束の間の光〉」。少年がシーツに丸まって子馬を抱えている。上方に若い母親が二人いる。影の中にしっとりと座っている。フォルムが優れている。少年も馬も女性もその優雅な曲線によってつくられていて、曲線がお互いに連絡しながら昼下がりの柔らかな光線の中に包まれているといった趣である。そして、やがて黄昏が来る。黄昏の時の情景が母親のフォルムにある陰影のようにも感じられる。背後には廃棄物のようなものが置かれている。二年前には津波があったが、一人の人間の運命にも様々な出来事が起きるだろう。いま母と子はともに柔らかな光の中に、瞑想の中に存在するようだ。柔らかなその光のクオリティがこの作品の魅力であるし、子馬を抱える少年の慈愛に満ちたイメージも魅力であるし、二人のフォルムは、昔、紀伊國屋に森芳雄が「二人」という作品を描いて掛けてあったが、そのようなヒューマンなイメージにもつながっていくようだ。(高山淳)

2階─7室

 宮田保史「伊太利亜 2013(カプリ島)」。イタリアに長く滞在していた画家である。記憶のイタリアが赤い色調をもって迫ってくる。巨大な島のようなフォルムで、その中心に緑が抱きかかえられて、白い建物が点々と赤の上にも緑の上にも置かれている。周りを海が包みこんでいる。深い心象表現であって、ノスタルジックな感情がしぜんと感じられる。そのノスタルジーともいうべきものがこの赤という色彩を呼ぶ。画家自身、たしか小豆島の出身だと思うが、島というものに対する独特の親和感があって、島が一つの画家の故郷のようなイメージをかたちづくるのだろう。広場の高い塔の下にたくさんの人々が集まって楽しそうな雰囲気もほほえましい。(高山淳)

 有田守成「時間(天と地 '13)」。機関車のレールが銀色に光って地平線まで続いている。上方に空がある。空が約九割ぐらいを占めている。右のほうには雲が盛り上がって、不思議な形をあらわしている。左のほうは雲というよりブラックホールのような空間があらわれている。竜巻の内部に入ると、このような空間があるのかもしれない。そして、その下方に津波のような巨大な動きが迫ってくる。二年前の東日本大震災の津波の被害を画家はこのように咀嚼して、二年かけてようやく作品にした趣が感じられる。そして、右の盛り上がる雲の中に、よく見ると人の横顔が見える。亡くなった人々の霊的なものがこのようなかたちであらわれて、雲となり天上に向かいつつあるようだ。左は恐ろしいブラックホールで、そこには数十万の人間も呑み込まれてしまうだろう。画家は広島の生まれである。国鉄の機関士をしていた時期もある。だから、このようなレールのイメージもあらわれる。広島というと、二十万人近い人間が一挙に亡くなった原爆の記憶がある。そういった記憶が今回の津波の災害によって画家の心の中に再度浸透してきて、このような恐ろしい画面があらわれたのだろうか。上方の空のブルーは実に非情な青と言ってよい。雲の向こうには暗い宇宙がある。空気を通して空は青く見えるが、地球を取り巻くその不気味な空気のない宇宙のイメージさえも画面に引き寄せられる。自然の猛威を振るう力、津波。あるいは原子核を分裂させる原子爆弾もまた自然の恐ろしい圧倒的な力の存在証明と言ってよいわけだが、そのようなものがレールの向こう、上方の空に浮かび上がるという、いわば黙示録的な世界がここに表現されている。(高山淳)

 加藤鉦次「生々流転―朝祭り」。画面の中心に道があり、江戸時代の装束のような人々が歩んでいる。左のほうには巨大な山車が現れ、上方に能舞台があり女性の面をつけたような二人の人物がいる。右には巨大な松が立ち上がる。お祭りのイメージを通して三河の江戸時代、あるいは江戸時代以前の時代にまでさかのぼるような、時を遡行するような雰囲気。そこにあらわれてくる人物たちが不思議な輝きをもって迫ってくる。その意味では、画面全体に一種霊的な気配が強くあらわれているところが面白い。(高山淳)

 島橋宗文「田園譜―杜の形象」。かなり具象的な空間があらわれている。画家は三重の伊勢湾から鈴鹿のほうに上っていった山の麓にアトリエを構えている。その自然に恵まれた風景が実に広々とした独特の深いニュアンスのなかに描かれている。ところが、それに加えて今回三つの青い不思議なフォルムがあらわれている。それはまるで巨大なブーメランのように筆者を襲ってくる。描かれているものは日中の世界だから、夜の世界のふかぶかとした空間を、ある具体的な空間を色面の中に捉えて、それをこの深いウルトラマリンのブルーに染めたということも言えると思う。しかしそれ以上にこのブルーには破調のようなものがあって、ブーメランと述べたように、深いノスタルジックなものが感じられる。湖でもあり、空でもあり、あるいは夜の空間の一部を切り取ったものでもあるようなその三つのフォルムは、緑のふかぶかとしたこの山間の風景の中に入って、きわめてデモーニッシュな雰囲気をつくりだす。筆者はそこにきわめて貴重なものの入れられた結界的なイメージを感じる。画家はこれまでどうしても抽象的に表現せざるをえないような風景の中の画家のイメージの核のようなものがこの具象的な風景から分離して、青いウルトラマリンの不思議なフォルムとなって空中に浮遊し、あるいは逃げていき、手前に来て画面の中を旋回するような動きを示すようだ。そういった主観と客観というものの二つのせめぎ合いのきわめて典型的なコントラストを、一種破調的な画面の中にあえて挑戦した冒険作として実に面白く感じる。(高山淳)

 木下和「遺されしものへ―いづこへ '13―」。画面は赤く染まっている。下方を駱駝の隊商が左に向かって動いていく。その風景を見ると、現代から千年ぐらい前のシルクロードの時代にまでさかのぼるような趣がある。そういった時間を突破した普遍的なイメージがあらわれている。背後には山があり、ピラミッドがのぞく。そして、巨大な太陽がいま沈みつつある。太陽の発光する大きさに比べると、ピラミッドも、さらに駱駝に乗る人間たちも小さい。アッラーという神を信仰するイスラム文化というものがこのようなものかと、この画面を見るとうなずけるところがある。太陽とアッラーという神とが一体化したような巨大な夕焼けの中に、昔ながらに隊商は動いていく。(高山淳)

 辻井久子「流動する栖 2013─Ⅰ」。テーブルの上のグラスに映る光。窓の向こうに咲く花。そんな日常の中にある自然が画家独特のプリズムによって分解され、画面の中に統合されて、楽しくそれぞれのフォルムが歌いあげるような趣である。そういった画家の詩人的な感性が、この平面造形によくあらわれている。(高山淳)

 馬淵哲「幻視(Life)」。上下二つのパートからできている。板の上に彩色されている。二つのパートの接続するところに上向きの人体があり、その首から腰にかけて巨大な亀裂が走り、それが目のように見える。まるで神の目のようだ。下方に女性の顔や体がいくつかあらわれ、上方には黄金色の矩形の上にやはり女性の上半身があらわれている。死と生の領域を超えて、死んだ人もまたここによみがえって表現されているようだ。ところどころタナトス(死)という文字も見える。棺桶に入っている人、あの世に行った人をもう一回画面の中に呼び戻す不思議な儀式を画面の中で行ったかの感があるが、中心のこの暗い不思議な目は恐ろしい。人間的な希望や回想や悲しみを離れて、すべてを見通すような目が中心にあらわれている。また、金や銀という金属の箔を使って、装飾的なモニュメンタルなコンポジションになっているところも面白い。現象を再現するのではなく、思想を絵の上で表現する。そんなコンポジションに注目。(高山淳)

2階─8室

 樺山祐和「森にうつるもうひとつの森へ―音連れ―」。黒い樹木が林立している。その向こうから緑や紫やピンクの光があらわれている。繊細なステンドグラスを眺めているような趣である。この夜の闇が後退し、その向こうから夜明けの光が徐々にあらわれてくるような、そんなロマンティックな表現に注目。(高山淳)

 藤田邦統「『鉛と緑の間』―水脈―」。500号を超す大画面である。茶褐色の地面を思わせるフォルム。その向こうに緑の山のようなフォルムがあり、上方からぶら下がって下りてくるフォルムがある。画面を自由に縦断し横断しながら、何か激しい動きが感じられる。その動きがもう一つの動きを呼び、全体で継続的に連鎖していく様子がそのまま命というもののように感じられる。(高山淳)

 竹内一「音刻軸―昇る柱」。画面の中心に樹木でつくられた素朴な十字架がある。その下方は水のような雰囲気で、波紋が起きている。その水のような雰囲気が実は音の始原の様子なのだろう。「初めに言葉ありき」とヨハネの福音書の最初に書かれているが、そんなイメージを感じる。そして、その周りにいる四人の人物。そして、その左右に立ち上がって右手を天に向けている人物。聖書のそのような啓示的な、「初めに言葉ありき」といった、いわば波動(音)が画面全体に静かに広がっていくようだ。

(高山淳)

 小島隆三「打ち上げられた船」。流木のようなものによって船が組み立てられて、そこに三人の女性がいる。後ろには少年が船の模型を持って見ている。背後に島があり、島の向こうには灯台がある。両側には少年と犬。右のほうにも犬と自転車。二年前の津波に対する鎮魂歌といった趣も感じられる。「海よ、静まれ」といった雰囲気。そして、船の中にあるのはささやかな家族の生活。中景には教会や建物などの風景があらわれている。そして、船の壁に背を置いた若い母親が左手を上げると、そこから鳥が立ち、もう一つ黄金色の光が伸びていく先に鳥がいる。鳥はそのような祈りや魂の象徴としてあらわれている。金というものがこの絵の中で面白く扱われているところも面白い。いずれにしても、家族というものをベースにしながら自然との関係を回復させようとする思想的なイメージが興味深く感じられる。(高山淳)

3階─1室

 板谷諭使「ROOM」新作家賞。ヨーロッパの古いアパートを思わせる。室内は歪み、テーブルは天板だけで浮かんでいる。旅行かばんにはオオサンショウウオのようなクリーチャーがいて、この幻想的な世界の発生装置のような象徴性がある。セピア調の画面だが、どことなく爽やかな雰囲気に好感を持つ。かばんの内ポケットに入れられたドライヤー、はみ出たトゥーシューズ、右の少女が食べるボンゴレの貝、レトロな冷蔵庫などディテール豊かに描写されている。(小池伊欧里)

 柿原康伸「港の休日(A)」新作家賞。停泊する船やガスタンクの球形、重厚な建物群、それぞれに存在感がある。時代も国籍も無い、画家の作り出した港の風景のように思える。建物の隙間、奥の方から徐々に迫ってくる鳥にはどことなく余裕があり、人気の無さと相俟って普段の操業日とは違った静けさが漂う。コクのあるマチエールで、暗色をベースに明るめのグレー、紫、青などが滲むように入れられ、強弱のある画面を作り出している。(小池伊欧里)

 永井優「君のためにできること」損保ジャパン美術財団賞。セーラー服の少女が白いエレキギターを下げ、小面をかざしている。内向的な自分自身の開放をどこかで渇望しながら、もう一歩が踏み出せないでいる、そして喜怒哀楽の境界があやふやで移ろいやすい。そんな思春期の少女の姿が見出せる。「君のためにできること」を探しているのは傍らの猫なのだろうか。漆を使った独特の風合いが効果的である。(小池伊欧里)

 田代青山「放蕩息子」。古い木材を重ねた十字架に有刺鉄線が巻かれ、白いズボンとおもちゃのゴム動力飛行機が括り付けられている。放蕩の限りをつくし、身動きが取れない状態を象徴するかのようである。一方で、ベルトも手錠も外れ、飛びたった後のように鳥の羽根が舞っている。聖書にある、放蕩息子を赦す父親の話も重ねられているのかもしれない。モノクロームながら、硬いものと柔らかいものを組み合わせ、モチーフそれぞれの質感を上手く表現している。(小池伊欧里)

3階─2室

 萩野谷弘子「Which dreamed it? ○h」。シュバンクマイエルのアリスの世界を思わせるような、どんよりとしたシュールな世界が拡がりつつある。巨大な時計が時間を支配し、巨大なハサミが空間を自在に操る。現実世界が崩壊し、仮想世界へと取り込まれていくようなイメージがある。パイプをくわえて足を組むウサギのふてぶてしい佇まいが可愛らしい。(小池伊欧里)

 石川由子「都会の都合」。いつの時代ともつかない、少し懐かしい街の風景が鳥瞰図的に描かれている。画面はF型のパネルの上に細長いパネルがくっつけられているような構成で、下の大きなパートには鉄筋の学校や幼稚園が集まり、細長いパートには木造の商店街やアパートが描かれている。学校には校庭の代わりに屋上が様々な運動の場となって描かれ、これが「都会の都合」ということになるのだろうか。様々な動きが明るい色調の中で躍動している。イマジネーション豊かで、見ていて楽しい気持ちにさせられる。(小池伊欧里)

 田中亮平「ノスタルジィア Ⅱ」。洋風下町といった趣きである。レトロな建物のレストランが中央にそびえ、Y字路を複雑にしたような構図で右側に人影、左に路面電車が走る。グレーの中を侵食する黄や紫によって、不思議な輝きを持った風景が表れている。右上方からの斜光線がレストランの左側や近景に影を作り、余計に郷愁の中に引き込まれていくような感覚に陥らされる。(小池伊欧里)

3階─3室

 藤田憲一「記念撮影」。水族館にやってきた親子、女の子は魚のレースを観戦しているようだ。親子はカメラのライトに照らされている。昔の映画撮影に使われていたようなカメラだが、写真がプリントされて出てきている。撮影技師はアンドロイドのような体で、パステル調で変化していく水槽の幻想的な色彩と同化している。それぞれがユニークな造形で描かれている。メカニックなものを創作して独特の世界を描いてきた画家だが、親子と魚というモチーフによってまた新しい物語が始まった。シルエットのように描かれたイタズラっぽい少年が第三者的な視点を演出している。(小池伊欧里)

 大道寺里子「いつしか時は―2」絵画部賞。トウモロコシ畑をテーマにした作品を描き続けている。北海道に赴き、広大なトウモロコシ畑を取材しているそうだ。収穫を終え、枯れつつあるトウモロコシの葉が波打つように描かれる。下方には水溜まりがあるのか、暗がりにうっすらと青色がのぞく。枯れつつありながらも、黄金色に輝くトウモロコシの葉は強い生命力を帯びているように見える。陰影を効果的に使い、トウモロコシ畑をここまで魅力的に描く筆力に注目する。(小池伊欧里)

3階─4室

 神野隆起「トワイライト墨田川 2」。浅草の吾妻橋を見おろすような構図で、遠くまで整然としたビル群が続いている。黄昏時の斜光に照らされて、普段愛想のない殺風景なビル群が、ハーフトーンの美しい表情で描かれている。じっと眺めていると、緩やかな風に運ばれる風船や落ち着いた隅田川の流れと共に、ゆっくりと流れる時間が感じられてくる。(小池伊欧里)

 近藤オリガ「『最後の晩餐』の前での対話」。よく見ると、背景の上方にはダ・ヴィンチ「最後の晩餐」の垂れたテーブルクロスから下の部分が描かれている。そして、かつて扉を作ったがために欠落しているキリストの真下の部分を窓に見立て、その窓の外を海と空につなげてみせた。実際にミラノで「最後の晩餐」を見て構想したのだろうか。ダ・ヴィンチの壁画では仇とも言える空間がこの作品では光背そのもののように光をのぞかせ、テーブル上の布を神々しく照らしている。点対称に描かれた少年が脇侍のようにシュールな空間を際立たせている。(小池伊欧里)

 葉山たみ子「時の風音 Ⅰ」。シェパード風の犬が二頭大きく描かれている。どちらもペロンと出した赤い舌が印象的だ。右の犬は、尻尾を振りながらこちらに関心を示すような雰囲気で愛らしく、左の犬は、右の犬に何かを訴えかけたがっているように見える。ドローイング的な勢いがあり、所々マチエールが変化しアクセントとなっている。複雑に重ねられた色彩が画面の中でじわじわと動き出す。身近な愛しいものへの温かな記憶が円弧の中に閉じ込められていくようだ。二頭のお腹や周辺にモデリングされたハート型にも愛情が凝縮されている。(小池伊欧里)

3階─5室

 谷田なほこ「みあげる」。縦横に枝を伸ばした樹木が立ち並び、右側から注ぐ日光による木漏れ日が点々と地面を照射している。樹木の葉や草は細かい点描で描かれ、緑の調子が変化する微妙なニュアンスを捉えている。木そのものの動きも豊かだが、幹の根元から外側に向かう樹影の様子もドラマチックである。(小池伊欧里)

3階─7室

 浜本忠比古「ふるさと・空 Ⅰ」。二人は同じ人物だろうか。手前の女性が現在を表し、故郷に思いを馳せていてそこに至るまでの道程が空に向かって伸びるように構築されていく。そして、都会の緊張感から解放され居心地の良い空気を胸一杯に吸い込む姿が中景に描かれているように思える。縦に走る直線的な造形と木々や雲のモコモコとした横に動く形がほどよいバランスで安定感をもたらしている。(小池伊欧里)

3階─8室

 武田雪枝「遊 Ⅰ」。ウサギの耳をつけた少女がソファに乗って、本を開いている。部屋に置かれたものは左のトルソ、時計、観葉植物、右の積み木、頭像、オウムの像、そしてソファと視線を呼び込む動きになっている。抑えた色調ながら、モチーフの一つ一つがしっかりと捉えられている。壁に映る幾何学的な影の模様が面白く、本に集中する少女の意識によって空間が歪められているかのような感覚も覚える。(小池伊欧里)

3階─12室

 立畠裕子「忘れられた場所」。ここ数年の発表作と比べると、随分明るい画面になった。神話に登場してくるような人々や生きものたちが隊列を組んでいる。ルネサンス絵画のテイストを画家独自の世界に引き寄せているような趣きで、登場人物一人一人が個性を持って描かれている。透明感のある、青の階調で描かれた空と緑の階調で描かれた大地が、動物の頭の様な形をした丘を介して交わる。何度もグレーズするように描かれた右側の木には独特の深みがあって画面を引きしめている。(小池伊欧里)

3階─13室

 原元鼓「箱舟―乗船」。UFOの襲来が地球に危機的な状況をもたらしているようだ。物語の主人公のような女性が避難船に乗りこもうとしている。周りには数多くのつがいの動物たちが同じように船に乗りこもうと集まっている。画面全体が旋回するような動きで描かれ、濃厚なマチエールと相まって迫力がある。女性の下半身が大きくデフォルメされているのも強い印象を残す。動物のディテールが細かく、それぞれの表情が豊かで、少しコミカルな雰囲気も作っている。極めつけは、とぼけた顔で自分を指さす宇宙人の姿が小さく紛れ込んでいるところだろう。(小池伊欧里)

 下倉剛史「街かど」。半地下のある二階建ての木造家屋が並んでいる。一見誰もがみたことのあるような懐かしさのある日本の風景でありながら、一階部分が高くなっているというその構造の外観が珍しく、新鮮である。油彩ならではの味わい深いタッチで描かれている。(小池伊欧里)

 朝田智子「休日」。洗面台がクローズアップされている。黄色を基調とした画面には温かさがあり、微睡の中にいるような心地良さがある。身近なものを拡大する面白さと、空間を大きく取る大胆さがあるのだが、調和した色彩によって不自然さは無く全体が馴染んでいる。シンクの底が一番明るく描かれ、視線を集める。日常生活の泉に集結してくるかのように水回りの器物が置かれているのも微笑ましい。(小池伊欧里)

 竹本義子「キッチンの詩 Ⅲ」絵画部賞。上方から食卓を捉えたユニークな構図である。巨大に描かれた鍋には魚介類がたっぷりと入れられ、重量感がある。鍋の存在感が圧倒的で、食、すなわち生命を取り込むことの力、そこに伴うエネルギーのようなものがほとばしっている。そしてその鍋からのエネルギーが伝播するようにテーブルが輝き、子供たちを照らしている。(小池伊欧里)

3階─16室

 池田紀子「樹― '13」。水彩によって、密度のある古木の幹が見上げるように描かれている。木の質感を捉える描写力もさることながら、日没近くと思われるオレンジの色彩を背景に、影になっている樹木を紫がかった色彩を軸に表現しているところにも独特の感性がある。(小池伊欧里)

 阿部洋子「川のある町」。瓦屋根の古い民家が川沿いに並ぶ一角。近景の川から遠景に向かって的確に風景を構成する家並みが描かれている。同系色の微妙なニュアンスで遠近や川と建物のコントラストを再現している。(小池伊欧里)

 仲田道子「ステップラダー(ミラー)」。梯子に乗って浮かぶ少女の下に、鏡が浮かんでいる。異世界との境界のような鏡で、少女は異界の住人のようだ。少女の造形などユニークで、様々なストーリーを想像させる。(小池伊欧里)

 名執光子「寓話」。童話のいくつかの要素を混在させた舞台。いぶかしげな少女の表情と対照的に羊とオオカミはほのぼのとしている。空間の捉え方や、柔らかく調子の付けられた緑、赤、黄色のバランスにセンスを感じる。(小池伊欧里)

3階─17室

 小西優子「黒い光に照らされて Ⅱ」。七福神や福助が大都会の上空で遊んでいる。中には悪魔やサンタクロースのコスプレをしているものもいて、親近感が湧く。複雑に組まれたビル群も無彩色のトーンのみで描かれている。いたずらっぽい遊び心の芽生えた少しダークな神様達が無機質なビルの上でよりシュールな存在となっている。(小池伊欧里)

3階─18室

 岡本冨有子「昼やすみ」。ブーツを脱ぎ捨て路上で休む労働者。窓から覗く幼児と、煙草を吸って佇む老人に挟まれている。真昼の強い光を受けた壁が黄金色に輝いて見える。新聞のコラージュが自然に馴染むほどしっかりと塗り込まれた壁は、この作品の主役と言ってよいかもしれない。仰向けで休む労働者以外の全ての存在物に、何かを暗示しているような不思議な雰囲気がある。(小池伊欧里)

 矢吹幸子「夕景・CAMOGLI」。逆光の中に青系のハーフトーンで子どもたちが照らされている。水平線を起点に反射する夕陽の輝きが、広場の地面に派生してドラマチックな余韻を生む。子どもの頃の記憶が甦るような幻想的な光景が、優しい色彩で描き出されている。(小池伊欧里)

3階─19室

 奥村真美「桜詩情」。パステルで細かく桜が描かれ、横たわる女の様々なポーズが桜の淡い色彩に塗れている。桜に侵食されているといった様子で、着物の桜柄、そして髪の毛まで桜と一体化しつつある。女の表情や抑えた艶やかさがどことなくもの悲しい。美を裏付けるための死といったイメージも表出してくる。左下の空間が一層消えゆく美の儚さを印象づける。耽美的な作品である。(小池伊欧里)

3階─21室

 増田偕子「日月」。自己の意識がネコに姿を変え、記憶の中を辿っていく、まるで夢の中の風景のようだ。不思議な光に包まれている印象で、霧の中に続いていく道がこの独特な世界観を強めている。木の幹の質感やひょっこりと生えている若木の描写も面白い。(小池伊欧里)

 森愛子「太陽の車輪 2」。トスカーナなどに見られるような建物を増殖させ、独自に再構築している。下方に向かって建物が大きくなっているが、集落の広がり方は様々で、有機的なうねりが画面を圧倒する。近づいて建物の流れを追っていくのも見応えがあるし、離れて見てもある種抽象表現的な醍醐味がある。(小池伊欧里)

 松本直子「くもり空」。円形のプールを中心とした広場の一隅。思い思いに過ごす人々の様子が作品に動きを与えている。色の扱いに独特のセンスがあり、カラフルな色彩ながら派手さは無く、柔らかく発光している。中心の人物がはくパンツの黄色がアクセントとなっているが、画面の屋台骨と言えるのは爽やかなプールの水色だろう。一度この水色に視線が通ることで全体の色彩にバランスがもたらされているように思う。強い陰影の無いくもり空の下に広がる乳白系の色合いが優しい。(小池伊欧里)

3階─22室

 右馬野恒子「シチリアの風 Ⅱ」。風が運んできた記憶のパーツが徐々に合わさっていくように、青、赤、グレーの色面の中から建物や船の形が表れてくる。ディテールを排除しながら色面中心に構築していくコンポジションで、蜃気楼のような幻のような光景を作り出している。(小池伊欧里)

 伊藤万几子「トスカーナの夢―3」。夢と現実が交錯するかのように、緑から黄色、オレンジ、紫と移り変わる独特の色彩が目を惹く。アーティチョークが、まるで意思を持っているかのように宙を舞っている。この部屋の主の意識がアーティチョークに移り、意識の抜けた体が人形となって椅子の上にうつぶせになっているのだろうか。不思議な世界である。(小池伊欧里)

 渡辺幸子「命 Ⅲ」。均質な灰色で描かれた街並みの上空に、無数の乳母車のシルエットが重ねられている。乳母車はつむじ風に翻弄されるようにくるくると回転し、不安定で落ち着かない。新しい生命の象徴として捉えられる乳母車。生まれてくる子どもたちが安心しきれない社会状況に画家は警鐘を鳴らす。澄んだ空、汚染のない水への願いを込めるように、濁りのない青緑色で空や川が描かれている。(小池伊欧里)

3階─23室

 石田優子「棚」。様々なものが詰め込まれた棚。色面によるコンポジションが面白く、多様な色の重なりが画面に深みを与えている。勢いのあるストロークによって日常生活を閉じ込めた棚が人生のモニュマンとして描かれている。(小池伊欧里)

3階─25室

 河島鏡子「遠い日(萎れた鉢植え)」。過去が取り残されたような部屋には、倒れた馬、飛ぶことのない鳥、トルソ、そして萎れた鉢植えが放置されている。生死の境を象徴するかのように奥に扉があり、外にはまばゆい緑の風景が広がっている。扉から射し込む光がテーブルの上の卵をかすめている。死と再生のイメージが内包されている。(小池伊欧里)

3階─26室

 田中直子「イチョウ―Rising again―」新会員。巨大なイチョウの古木を間近に見ている。長い年月を経た幹の表面に長老の深く刻まれた皺のような説得力がある。部位ごとに、緑がかっていたり、青みがあったり、赤らんでいたり、意外な発見がある。朽ちてしまいつつあるところから緑の新芽が現れ、自然の逞しさがフォーカスされている。(小池伊欧里)

3階─27室

 奥田善章「遊花―精霊と綾取り」。ペン画によって実に量感のある人物が表現されている。精霊との綾取りで何を交信しているのだろうか。糸の両側に引っ張られるニュアンスが決まっている。人物と背景も巧みに描き分けられ、雲間から光が海上に落ちている様子が神々しさを演出する。(小池伊欧里)

〈彫刻室〉

 森克彦「ハマキチョッキリ 揺籃」。木に彩色してハマキチョッキリの姿を表現しているが、細部に宿るリアリティが森ならではの世界観として確立されている。木の重さを全く感じさせず、存在感と軽やかさを兼ね備えている。色彩の温かみやぬくもりが感じられて心地よい。森の中のワンシーンがぽっかりと切り取られているようである。(小森佳代子)

 照井榮「山と森の川のうた」。男性の胸像であるが、その胸から太い首が立ち上がり、そこに顔がつけられている様子は、まるで山が立ち上がって、山の向こうから人の姿が現れたような怪異なイメージを釀し出す。頭はそったお坊さんのようなフォルムであるが、その上に魚の勾玉のようなフォルムが置かれている。勾玉は弥生時代につくられたそうであるが、弥生時代の奥にある縄文的な力が立ち上がってくるような力。弥生時代と縄文の勾玉とが連結されたようなあやしい不思議な雰囲気である。日本の自然のもつ柔らかで神的な様子をこのような形に造形化する。(高山淳)

 雨宮透「白い風」。真っ正面を見つめる女性の胸像と物憂げな横向きの女性立像の二点、いずれも石膏による作品である。雨宮は昨年から十数年ぶりに石膏作品を出品している。一瞬ジャコメッティを思わせるムードもあり、胴体をごく薄く表現し、その質感と量感に迫る。前回より首回りの空間が生き生きとしている。爽やかな風を感じさせるメロディアスな雰囲気に共感を持つ。(小森佳代子)

 柴田正德「メランコリー」。石灰岩の素材感を生かした首二点と、石灰岩と石のマチエールを組み合わせた女性像の三点を出品。中でも掲出の「メランコリー」はシンプルな造形の中に独特のトーンが生まれていて一番印象的である。アンティームなイメージが作品に息づいている。(小森佳代子)

 白砂勝敏「黎明」。楠による、上方に勢いよく伸びるイメージ豊かな作品である。下方の頭のような部分はどこかヤッコソウのフォルムを彷彿とさせ、有機的な生命力溢れるイメージを思わせる。太古の踊りあるいは炎の化身のような趣もある。様々な思いを込めた力作であろう。(小森佳代子)

 片伯部平「オルガン 18―ポアンカレ(point carrée)」。恒例のオルガンシリーズである。側面の風化したような野面に小さな四角い穴があけられていて、その空間は何かを語りかけているようである。上部の磨かれた部分は地平線のように右に緩やかにカーヴしている。端の小さく突起している部分に目線を落としてみると、雄大な山の稜線のようにも見えるが、心の風景を見ているようである。短辺の側面にあけられた穴は地下水脈のようでもあり、不思議な世界観を見せる。(小森佳代子)

 上野良隆「風ふく花」。側面から見ると、ふくよかな女性が身を反らして、そこにスカートが翻っているような雰囲気である。その頭上に雲が覆いかぶさっているような。そばで見ると、それは釣鐘草のような花が下方を向いて咲いているようなイメージとも重なる。アルミという柔らかな質感を利用して、そのアルミのもつイメージがしぜんと彫刻家にこのような形をつくらせたようにも思われる。下方の膨らみは二つのフォルムからなっていて、身を反らした女性のおなかのようなフォルムと翻るスカートのようなフォルム。それが角度を変えると釣鐘草のようなフォルムに重なる。正面から見ると象のような、不思議な一本足の大きな懐かしいフォルムのイメージにもなる。アルミのマットな部分と磨いた部分とが絡み合いながら、そこにしわがあらわれ、天空の雲の下の、不思議な花のような趣があらわれる。(高山淳)

 笹戸千津子「アキコ」。真っ白な色彩が印象的な石膏による若い女性立像とブロンズによる女性の首の二点を出品。衒いのない、どこか憂いを感じさせる女性のデリケートな表情をしっかりと表現している。清々しい生命力を湛え、内面性をうかがわせる、落ち着いた作品に仕上がっている。(小森佳代子)

 市川悦也「INSIDE OUT Ⅶ」。どっしりとした木の幹にくり抜かれたように黒漆が施されている。その力強いプリミティヴな風情が面白い。近くと遠くでは表面の凹凸が逆に見えるところが興味深い。その表情の中には穏やかに流れる時間、そして生きる人々の記憶が刻まれているような錯覚にも陥る。外から染められ、あるいは内に秘めた、実体とイメージの世界を思う。(小森佳代子)

 中島幹夫「海の目(瀬戸内)」。「人や自然との出会いの中から新しい世界が生まれる」と語る中島は、山口県大津島にて瀬戸内海を見つめながら仕事をし、海をイメージした作品を多く制作してきた。今回も大理石と御影石とレンズ用のガラスを組み合わせたユニークな作品である。島をイメージした大理石の白い柔らかさと対照して、御影石による海、そしてガラスを彫ってノミ跡を残して波の泡のようなフォルムが二つ表現されている。さまざまな表情を見せ、無限の広がりをイメージさせる作品に仕上がっているところが興味深い。(小森佳代子)

 上松和夫「遺跡『風景』」。薄い鉄を編んだ屋根のようなフォルムと、テラコッタを思わせるFRPによる不思議な風景が現出している。この鉄の仕事は追随を許さない上松ならではの世界がある。その鉄の波打つようなフォルムは大海原で、その下は海底都市を思わせるような趣もある。朱褐色や黄金色の円柱によって表現される遺跡のようなフォルムは何をイメージしているのだろうか。神社の鳥居の手前と向こうを区切る結界とそのまわりの空間を作り出す仕事を思わせる上松の、今後に期待したい。(小森佳代子)

 松本弘司「大地」新会員。楠による母子像である。木が持つ自然の味わいを生かし、母子の信頼感が伝わってくる佳作である。大作であるが、どこまでも静けさを湛え、ノクターンの調べあるいは海に打ち寄せる波の音が聞こえてくるようなところが魅力である。作家の実直な思いが伝わってくる。(小森佳代子)

 梅沢通浩「寂風」。瘦身の若い女性の佇まいが印象的である。すっくと伸びる一本の木の中に女性が立っているようなナチュラルな雰囲気がよい。端正な仕事であり今後も楽しみである。(小森佳代子)

 山本正道「ロマネスク」。山本ならではの風景彫刻である。今回は石という素材にこだわって表現されたように思う。極力単純化された木、家、人の息づかいが、表情のある石に寄り添うように表現され、独特の詩情を生み出している。時空間を超え、郷愁感を誘う所以であろう。(小森佳代子)

 佐善圭「白き春の訪れ」。大理石による。花びらが増幅しながら空間の中に動いていくといった趣である。それぞれの円弧を描く形がシャープで柔らかい。花びらのフォルムに天空から柔らかな雲のようなフォルムが降りてくる。それをシャーベットのように溶かし切断し花にくっつけたような、独特の詩的なヴィジョンが感じられる。(高山淳)

 五十嵐芳三「クロスするメビウスの環」。金属の円柱の上に石膏の二つのメビウスの環が連結され、不思議な華やぎを見せる。水中で海草が浮遊しているような、そんな無重力のようなフォルムが組み合い、その幅二十センチほど、厚さが一センチほどのフォルムの面を追っていくと、それは無限に循環する。メビウスの環というのはそのようなものだが、その無限に循環する二つのフォルムが組み合わされて、複雑な形態をなす。ゆらゆらと揺れているその謎めいた存在。何かを主張してポジティヴに動いていくのではなく、ひっそりとイメージを引き寄せて、優雅な海の中のダンスを踊っているようなフォルムが鑑賞者を引き寄せる。(高山淳)

 山縣壽夫「遺された時―25」。木彫によるシンプルな造形の「遺された時」シリーズ。今回は装飾をせず、あえて木の表情のみである。上部は牛の頭をイメージし、十字架のようなフォルムがアクセントとなり、落ち着いたモニュマン性を獲得している。再生と希望を導いているようなメッセージ性もあって興味深い。(小森佳代子)

 澄川喜一「そりのあるかたち 2013」。ケヤキの台からヒノキによるシャープな彫刻が立ち上がる。柔らかなスローな円弧を描いて立ち上がっているフォルムに対して、逆の円弧をもつフォルムがそこに組み合っている。何かを主張するというわけではない。なにか不思議な佇まいに魅了される。世阿弥の花伝書によると老人には老人の花があるという。老木に咲いた花のようなイメージが感じられる。自然体のなかに脱力し、力を抜いたなかに不思議な華やぎが生まれる。ヨーロッパ的な前に出て行く彫刻、あるいはボリュームを追求する彫刻とは違って、逆に削って削っていく中にあらわれてくる魅力的な形である。(高山淳)

 加藤昭男「陶祖 加藤藤四郎像」。世界を代表する陶都・瀬戸。曹洞宗の開祖道元禅師に従って中国に渡り、やきものの技法を学んで帰国し、瀬戸焼の開祖となったと伝えられる加藤藤四郎。自身も瀬戸の出身である加藤昭男が、この陶祖の姿を制作した。両手を大きく広げた藤四郎が、狛犬と対話をしているような趣が面白く、独特の世界観が生まれている。悠久の時の流れがフラッシュバックするような大らかさと、加藤が得意とするデフォルメによる表現が、パイオニア精神の心意気として見事に結実している。(小森佳代子)

 小川幸造「明るい未来へ―藤岡市助博士―」。日本のエジソンとも称された電気工学者で東芝の創業者の一人である藤岡市助の像である。手を後ろに組み、やや上を向くモデルの温厚なイメージが伝わってくる。容姿端麗な立ち姿は、タイトル通りまさに明るい未来を見つめる姿のイメージが現出していて、藤岡市助の思想に迫るようである。(小森佳代子)

 永津守「スピン・ザ・スピン(spin,the spin)」。下方にあるのは一木で、そこから接ぎ木をしながらフォルムを立ち上げている。ねじれの形が幾重にもあらわれる。樹木のもっている生命感、その長い時間性といったものをまずベースに置いて、その中から夢のような世界を立ち上げる。その動きは木の中に画家が感じたヴィジョンと言ってよい。(高山淳)

 喜名盛勝「散歩道」。母親のブタと子供のブタの二つが石に彫られている。石は独特の砂岩のような手触りがある。中国の西安に自然石でつくった馬などの像があるが、それと共通したような強さがある。自由につくるのではなく、石の中にブタのイメージを探る。たとえば平安時代に木の中に仏像を見るかのごとく、大きな岩の中にこの可憐な生き物を感じ、それを彫ることによって、本来石の中にあったものを生かし出現させる。そういった彫刻の方法によってあらわれてくるフォルムが力強く、独特のオーラを放つ。(高山淳)

 原田理糸「空中への展開」。木という素材の素朴さと力強さを衒いなく見せる仕事である。四本の大きな丸太の動きのある組み合わせに独特のリズムがあって空間表現に活力がある。今後も楽しみな仕事である。(小森佳代子)

 小川原隆太「眠りに落ちる者の瞳」。黒いコートをひるがえし、見た目かなり不安定なポーズの青年像。その巨大なサイズ感と動きに目を奪われる。物語のワンシーンを切り取ったような哀愁漂うイメージが興味深い。達者な技術に裏付けられた、ダイナミックでありながら、感情の機微が豊かに表現されている。(小森佳代子)

 高野正晃「ずっとここで生きてゆく」新作家賞。昨年に続き個性的な家族の肖像である。大きな手をした母のおおらかさ、地蔵様のような首のユーモラスさなど、ユニークでどこかノンシャランな家族像が象徴的に表現されている。(小森佳代子)

 西川淑雄「音の形」。大理石による愛らしい木菟の表現である。羽根のフォルム、やや首を横にした表情は、小ぶりながら存在感がある。純粋に作品と向かい合うことの楽しさが伝わってくる。(小森佳代子)

 下平知明「不安と体温」。大理石によってユニークなフォルムが現出している。山あるいはソフトクリームのように隆起したフォルムの下には不思議な表情をした顔が覗く。柔らかさと緊張感が綯い交ぜになったような面白さがある。(小森佳代子)

 日比野知三「『フクイチ』―防護服の男たち―」。福島原発の悲惨なイメージを、この二人の防護服の男たちによって表現している。その後ろには巨大な波が垂直に立ち上がってくる。背景のその板は圧倒的な存在感を示す。柔らかな膨らんだ防護服のフードの奥に顔があり、顔は恐怖におののいている。この彫刻全体の中には通常の一気圧ではなく、十気圧ぐらいのプレッシャーがあるようだ。不安なプレッシャーをそのまま空間の中に引き寄せているところが面白い。(高山淳)

 田中実「一時」。二種の石を組み合わせて、豚が表現されている。極力単純化され、地面に吸い付くような趣である。愛らしいフォルムと重なるその呼吸は、安心感を覚えさせる独特の温かみがある。どこかとぼけたような剽軽さが魅力である。(小森佳代子)

 石松豊秋「絵画時空」。存在感のある作品である。精巧に作られたヴァイオリンを前に、金色に彩色された物憂げな女性が佇んでいて雅びである。衣装の色彩の妙も落ち着いていて、揃えた手のまわりの空間に美しい詩情が生まれている。四方に木枠を施し、絵画的空間を獲得しているところも変化に富んでいて魅かれる。(小森佳代子)

 杉山惣二「『女』…き、 '13」。赤いワンピースが片一方の肩から取れた様子で、女性の官能的な美しさを見事に表現している。テラコッタの懐かしい土のマチエールに彩色されて、鮮やかな雰囲気である。日本の神道的なイメージのなかからあらわれた女神のようなイメージが不思議な官能性のなかに浮かび上がる。(高山淳)

 番浦有爾「月あかり」。月が浮かぶ夜空に、鳥が鳴いているような趣で、鳥の姿と月がダブルイメージになったような独特の詩情がある。カザルスの「鳥の歌」のチェロの調べのように、曲線の表現が美しく、心地よい緊張感を湛えている。(小森佳代子)

 ゼロ・ヒガシダ「INORI Ⅱ」新制作協会賞。ステンレスに木を足して、木に鉄を溶接した形。円弧の形が大きく空間を引き寄せる。大きなステンレスの台座の上に立ち上がってくる形。厚みのあるステンレスの台座との接点は一つのポイントである。横に広がっていく形が上方で一つのグロスとかみあい、そのグロスは樹木の不思議な年輪をもつ柔らかな黒く彩色されたフォルムに流れ、溶接された鉄のフォルムにつながり台座と接続するが、台座と接続する面は、ステンレスと違ってすこし広がりのあるフォルムである。そこはステンレスの台座が斜めに切り取られている。たとえば巨大な波を造形化しようとすると、このようなものになるのかもしれない。抽象的な波の形に深い有機性が存在する。森羅万象の中にある大きなうねり。そのうねりが空間を獲得する力を表現する。しかも、ステンレス、木、鉄とマチエールが変化しながら、空間をふかぶかと切り取りながら、あらわれてくるものは幽玄の姿と言ってよい。能のなかであらわれてくるあの不思議な無言の力を造形化すると、このようなものになるのかもしれない。朗々として豊かでありながら、典雅で謎めいた無言の踊り。そして、異界と関係をもちながら演じられる舞台。そういった要素がこの大きな空間表現のなかに感じられる。(高山淳)

 岩間弘「ふたつの扉」。もともと反った樹木の中からその形に沿って製材し、それを組み合わせたという。このカーヴする板を組み合わせたフォルムは実に力強い。作家がつくった反りではなく、自然のなかにある反りを使って、それをナチュラルに切り出して、一つの世界をつくった。そして、片一方には四つの反りのある形、右のほうでは二つか三つのそれぞれの形を重ねながら、九十度回転すると五枚の板を重ねたものであることがわかるのだが、なにか不思議なモニュマンを感じさせる。樹木のもつ二百年、三百年の時間の中につくられた反りが、作家のエスプリによって切り取られ、一つの彫刻となってあらわれている。そこには空間の力と同時に時間というものの力がしみ通るようにあらわれる。木による碑といった、不思議な力が感じられる。(高山淳)

 奥田真澄「花束」。花束を前に顔を覆う女性をテラコッタで表現している。墨を土に混ぜて焼き締めた黒陶の色彩が独特である。花束の色には色彩がないが、見ている者が自分の色を想像するであろうところが面白い。スカートは清冽なブルーと赤の花模様で彩られ、女性の心の動きを表しているようである。(小森佳代子)

〈野外彫刻〉

 渡辺尋志「犀が見た月(望郷)」。愛らしい具象表現の犀が前方を見上げている。つい触ってみたくなるようなフォルムである。その先には円柱の上に載った風景都市が表現されている。その視線の面白さ、彫刻そのものの楽しさを伝えてくれる作品である。(小森佳代子)

 石川浩「静かな風」。秋の青空のもと気持ちよさそうに揺れるイメージの作品である。デンマークの石だというが、抑え気味の石の表面のマチエールと、あけられた穴のしぜんな空間が美しい。風という見えないものを意識させ、心の振動のような風情もあって、作品のまわりの空間に心地よいトーンが生まれている。(小森佳代子)

 青木三四郎「明日へ」。子供達が口をあけて待っているところへ母親が帰ってきた瞬間の梟の家族の情景が生き生きと表現されている。広げた羽根の逞しさ、子供達のあどけなさなど、実に丁寧に彫られている。木の幹に仕立てた円柱の彫り跡を残した部分も味わいがある。青木ならではの手彫りの魅力である。(小森佳代子)

 鈴木武右衛門「酔夢紀行 パリにて '13」。白い御影石の上に黒い御影石で二頭の馬の頭。その後ろに座った女性の半裸身。その後ろには立っている男の像が描かれている。男と女が夜のパリの中でお互いに深いリビドーをもちながら邂逅し、愛し、別れていく、そんな強いヒューマニスティックな味わいが感じられる。手前の二頭の馬は二人の男女のリビドーの象徴と言ってよい。パリの地下には縦横無尽に地下道があり、その中を下水道が渡っているが、そのような巨大なパリのもつ有機的な人間臭いイメージを彫刻にすると、このような形になるかもしれない。男と女の夢は果てしない。そんな引きあう力を造形する。ノクターンといった趣に注目した。(高山淳)

〈スペースデザイン室〉

 田中遵「The Tenth Wave」。アクリルに鉄板を差し込み、不思議な情景が生まれている。どこか会場である国立新美術館のエスカレーターを思わせる。田中のセンスと素材の組み合わせの面白さが興味深い。(小森佳代子)

 伊藤順「ロトス」新会員。自然界の有機的なフォルムを象徴しているような木による爽やかな作品である。下方に向かうにつれ細くなっているが、それを感じさせない安定感と独特のリズムが面白い。(小森佳代子)

 谷浩二「Evaporation」。発砲スチロールの八枚の台の中から四つのパターンが発光する。中に大きな電球が埋め込まれているという、装置のシンプルさに感心する。長く見ていると、発光したデザインが消えた後、残像として目に残り、光が蒸発してしまったかのような趣で、不思議な郷愁感を誘う。(小森佳代子)

 今村敬子「EMU13 a place」。染めによる十枚のパネルを組み合わせ、ユニークな画面が生まれている。色彩の変化に独特の旋律を持っている。単なるデザインに陥らず抒情的な空間が生まれているところに注目した。(小森佳代子)

第68回行動展

(9月18日〜9月30日/国立新美術館)

文/高山淳・小池伊欧里

1室

 中島弘「『微動』コラージュ」。パステル調の色面が幾つもの同心円で波紋のように広がっている。中央の円の中には粒子を顕微鏡で見たような有機体がある。その微かな動きが波動となって増幅されていく。生命の輝きが放つエネルギーが形象化されているような作品である。(小池伊欧里)

 山脇勇大「Moire」。植物の細胞を拡大したような、整然と並ぶ核を中心にオレンジの円が囲む。ミクロなイメージと同時に、星雲が集まる宇宙的なイメージにもつながっている。全体が緑でグレーズされたような画面で、独特の色彩と光の変化が生じている。作品全体が呼吸をしているような印象があって、思わず近づいていってしまう不思議な力がある。(小池伊欧里)

 柳原雅「始まりの日」。混沌とした状態に何らかの作用が働いて、縦に上昇、あるいは下降する動きが生じつつある。上方から亀裂のように走る黒い色面や、その脇のT字形のフォルムが「始まり」のきっかけなのだろうか。グレーと青の多様なバリエーションによる動きから強い波動が生まれている。(小池伊欧里)

 桜井忠彦「流転 '13─9─1」。紙を折って、そのしわが巨大な波になったり大地になるといった方法は、エルンストのつくったフロッタージュの技法のように思われる。そこに点々としたものが浮遊する。波と火山と崖、そんなイメージが重なった中に水滴が浮遊していくわけだが、その水滴が魂のようなイメージであらわれているところが面白い。二年前の震災の衝撃が画家の中に浸透して、このようなレクイエム的な表現になったように思われる。(小池伊欧里)

 初田隆「タマシヒ ノ カヘル トコロ」。一見水墨画を思わせる、洞窟や岩壁のような風景が広がる。冥界へとつながる魂の通り道なのだろう。下方には七本の金の線が入れられ、まさに、死者の魂が上昇していくところなのかもしれない。ディテール豊かな描写力である。(小池伊欧里)

 汐月顕「Termini」。記憶の終着するところなのだろうか。盛り上げたり型抜きをしたりして作られ変化に富んだマチエールに、数字や記号、柵の跡が配置されている。時間の経過と共に曖昧になっていく記憶を刻み込むようにこの終着点に蓄積させる。(小池伊欧里)

 斎藤幸子「☆1309★again☆」。透明な色彩が実に魅力的である。そこに四つの軌跡があらわれている。一つは円弧で、それを挟むように上下に三つの直線の軌跡があらわれる。右上は黒で、左下は明るいベージュで、そのあいだに青のグラデーションの中に黄色が入る。夜明けが徐々にあらわれてくるような雰囲気。篝能という篝火でみる夜の能がある。能は常に亡くなった人々をその舞台に引き寄せる。火はその脇役としてふさわしい。そして、篝能が終わった時の、魂の去っていく時のやるせない雰囲気を、筆者はしぜんとこの作品に感じた。それはまた夜が後退し朝が来るときのイメージとも重なるだろう。そして、人間の祈りは軌跡となって空を動いて、無限のかなたに去っていく。たらし込みふうな色彩が今回は独特で、その色彩のハーモニーの中に、前述した黒、青、緑、グレーの上にピンクの炎のあとのような色彩が三筋置かれているのがなんとも哀切で、華麗な悲しみの表現のように感じられる。(高山淳)

 石川功「巡礼詩―悠久に舞う―」。画面全体をすこし暖色系の灰白色が覆っているのが皮膚のような雰囲気で、その膜の向こうに熱があるような、そんな温かさが実に面白い。そこから赤いフォルムや緑などの色彩があらわれる。絵画としてのスクリーン自体が有機的で、鼓動してくるような強さがある。(高山淳)

 永野陽子「風韻」。一つのスクリーンが鋭敏なマチエールとなって、そのままこの画家の体温のようなものを思わせるし、それが画家の一個人をくるむ外側の自然の風景を思わせる。そのような対象と自分とが一体化するなかにあらわれてくるリズムやメロディのようなもの、そのトーンの中に黒い線によって心の軌跡のようなかたちがあらわれ、茫漠たる空間に風が吹くようだ。(高山淳)

 戸田あや子「ひろがりの空間」。しっとりとした調子の中に大きく旋回するようなフォルムがつくられている。それがなにか寂々とした雰囲気である。冬の季節の肌合いのようなもの、寒さの中に毅然として佇む樹木。この絵の中にはそのようなものが抽象的に表現されているが、その薔薇の花弁を抽象化したような旋回するフォルムの中心に青が入れられている。周りは緑からだんだん明るいグレーに移っていくのだが、そこに光を感じることができる。その中心にある存在として宇宙的な神秘ともいうべき性質が青の中に感じられるところが面白い。(高山淳)

 根本忠緒「WORK 1372 AUTUMN」。つい最近、台風のあとに明らかな満月が浮かんだことがある。暦を見ると、まさに九月の十五日、いわゆる中秋の名月の季節であった。そんなことをこの作品を見ながら思い起こした。画面は抽象作品で、すこしカーヴするストライプが黄色や黄土、オレンジ色、くすんだ緑などのフリーハンドで引かれている。そこに金粉を散らしたような菱形のフォルムが無数にドリッピングするように置かれている。その向こうに下弦の月、十三夜の頃の月が浮かんでいる。その外縁に黄色から緑のグラデーションがつけられている。しんしんとした気配のなかに秋のもつ独特の叙情が感じられる。前にも述べたが、法隆寺の幡が東博の宝物館にあるが、あの黄金色の幡が静かに揺れるような、そんな独特の繊細な感覚がこの画家の中にはあるように思う。抽象であり、その感覚の繊細でありながら強靱なその性質が見事に日本の風土の移ろいを表現する。そして同時に、そこには古代人がもっていた祈りのようなイメージが重なるようだ。下方に水を思わせるような横向きの動きがあるが、二年前の津波の大災害に対するレクイエムのような心持ち。そんな敬虔な一個人としての立場から、自然から受ける感覚を増大し一つの大作が生まれる。そこにあらわれる音楽はヨーロッパのダイナミックな音楽ではなく、寂々と聞こえてくる雅楽を思わせるような、そんな音色である。日本の音色がそのまま抽象的なこのストライプや菱形の小さな破片の中に感じられるところが実に面白い。(高山淳)

 土屋豊「TENSION-13」。半円の重ねられた円盤が二つ、横に伸びるプレートの間から顔を出している。何れもフェンスに覆われている。手前の円はやや明るくなっていて太陽と月を連想させる。大地の韻律のようなメタファーを感じる。無機質な円盤だが、所々穴から細長く湾曲した金属が飛び出していて、不思議と柔らかな雰囲気になる。張り詰めたものからの解放をこの金属の稲穂に託している。(小池伊欧里)

2室

 江見絹子「星を生む」。エルンストの作品を思わせるような深いシュールな味わいが生まれる。地球の始まり、星の始まりのような深い神秘なイメージ。上方の卵のようなピンク色のフォルムの周りの黄金色。卵は生まれてくる星のようなイメージであり、それはまた命の誕生かもしれないが、それが有機的なものというより、もっと突き放した宇宙的な中にあらわれてくる発生といったイメージに感じられるところが、いかにもこの画家らしい表現である。神秘というものをテーマにしたユニークな作品。(高山淳)

3室

 多田洋子「CITY BAROQUES(パラドクス)」。バロックとは歪んだ真珠という意味だが、黒を面白く扱いながら、ジャズの激しいビートが画面から聞こえてくるような雰囲気。そこに独特の都会的なセンスがあらわれる。そんな中に繊細な青いチューリップの一輪の花や下方の抽象的な心臓を思わせるような赤が入れられる。ポップなリズミカルな表現が、いわば都会の鼓動を表現するようだ。(高山淳)

4室

 堀江恵美子「風のある日」。海を背景にして激しく波があらわれ、渾沌とした雰囲気をつくる。そんな上に球体が浮遊していて、祈りのようなイメージがあらわれる。(高山淳)

5室

 近堂隆志「黒韻 89.5dB」。コンポジションが面白い。横長の画面に矩形の黒い大きな幅のあるフォルムとその逆向きのフォルムとのあいだに黒い色面がお互いを渡している。バックのベージュには線描きでもやもやとしたメランコリックなフォルムがあらわれる。この動きと余韻、間、そういった日本的な空間を実に面白く描いている。心のもやもやがバックグラウンドのようになってくるところが魅力。(高山淳)

 黑田恵子「希求 13─08」。弦のようなフォルムがぐるぐると巻きながら上方に立ち上がっていく。その中に白い花のようなフォルムが見えるが、それは生まれたばかりのヒヨコのようで、そこに女性の横顔のようなフォルムが重なって、新しい命が生まれつつあるそのイノセントな雰囲気があらわれる。蔓のような植物はまたイメージの触手としての根の先のような力も感じられる。グレーのバックにあらわれてくる画家のつくりだしたフォルムが生き生きと発信してくる。(高山淳)

 大鷹進「O氏の黙示録」。大きなホオズキの繊維だけになったようなフォルムが地球の上に置かれている。その周りにたくさんの人間の体が浮遊している。ネットの向こうには大きな目が一つ見える。浮遊する人間たちは大きさからして小さな蚊のような雰囲気でさまよっている。下方にアフリカやシナイ半島、インドなどの大陸が見える。その地球の上に置かれた大きなホオズキの中から浮かぶ目が、静かに世界の終末を眺めている。独特のイメージの力である。画面に接近すると、このホオズキのネットをよじ上っている人もいる。宇宙には酸素もなければ何もない。漆黒の中に無重力となった裸形の男女が浮遊する。そして、ホオズキは強い重力の中にあって地球の上に置かれて、そのホオズキのネットにしがみついている人がいる。いずれにしても、地球という存在をこのような角度から眺めてみることも必要なことだろう。あくまでもヴィジョンというか、イメージによる世界である。しかもこの目は一眼で、巨大な一つ目小僧みたいな存在がネットの向こうにある。目以外はホオズキの中は空虚である。認識することがすべての世界の始まりといったことになるだろうか。(高山淳)

 赤穂多恵子「空の鳥・地の花」。題名から聖書の一節を思わせる。ソロモンの栄華以上に野の花が美しいという一節がある。また空飛ぶ鳥も、とくになにも働いていないけれども、食べるに困らない、神を信じよという聖書の言葉からの引用だと思う。そして、この黒い服を着て座る女性はそういった人間的存在の象徴でもあるし、地球という星の象徴のように感じられる。ゆったりとした雰囲気で座っている周りに花が咲き、鳥が飛ぶ。黒が深い性質をもった色彩として使われている。いわば沈黙の中から浮かび上がった色彩それぞれの固有色が魅力的である。聖書のベーシックなイメージを日本画ふうな装飾的な表現の中に生き生きと表現する。(高山淳)

6室

 関口貴子「雲の名前」。十いくつかの小さなキャンバスを組み合わせて、一つのストーリーをつくる。中には女性の姿や動物の顔やサイのようなフォルムもある。逆立ちの女性もいるし、しゃぼん玉をつくっている女性もいる。イメージが浮かぶごとに、それを一人の人間を使いながら描く。それをジグソーパズルのように組み合わせながら、ノンシャランな雰囲気のなかに独特の心象表現をする。そして、一枚の絵であるとひとつの密度があらわれすぎるところに、このようなかたちでキャンバスを組み合わせると、不連続の世界、間ともいうべきものがあらわれる。その間を生かしながら、人間の姿を一種ユーモラスに哀愁の中に表現する。(高山淳)

 脇田啓子「個々の人格」。三人の女性が立っている。ファッショナブルな雰囲気で、後ろに樹木がミモザのような花を茂らせている。関西のヴァイタリティのある女性のイメージが感じられる。生命というものの力を三美神ならぬ三人の現代の日本女性を使って表現する。(高山淳)

 今川考司「雨あがりに」。閉塞された空間の下方に黒い椅子があり、そこに小さな建物がキュービックに描かれている。そこから飛行機が上方の空に向かう。現代の閉塞されたマイホームの現実と、そこからジャンプしてもうひとつの自由を獲得しようとする飛躍を面白く寓意化する。(高山淳)

 白岩史子「ひとびと 2」。たこ焼きの旗や日の丸を持っている女性。たくさんの人々が集合している。お祭り気分である。そんな様子を輪郭線によってフォルムをつくり、昭和の懐かしい民衆の熱気を表現する。赤がなにか温かく、温もりのような雰囲気で扱われているところが懐かしい。(高山淳)

 細井美奈子「刻―2013」。大きな赤いワンピースを着た女性の首があけられて、首と鎖骨とのあいだに眼鏡をかけた夫がいる。その中で管のようなものを操作している。それは女性の気管なのだろうか。グレートマザーを思わせるような女性が男を養っているのだが、その男は女性の気管を握っているわけだから、なくてはならない存在なのだろう。そして、この女性を二つのリングが囲いこんでいるということは、この女性は社会的な制約、あるいは拘束されたなかで頑張っているということになる。そばに梯子が立ち上がっていくが、上方で切れている。背後には男や女性の、自転車に乗っている姿や本を読む姿、二人の子供を抱えて歩く母親、遊園地を散歩させる女性、結婚式の男女、鳥によって空中に浮遊した男の足に結ばれた紐によって一緒に動く犬、日の丸を掲げて走る女性ランナーなど、様々なフォルムが描かれ、背後には富士山がある。日本という国に生まれ、家庭生活を営み、子育てをしていくという女性の一生をユーモラスに描きながら、男と女のコメディでもあり悲劇でもある関係を面白く表現する。その一種ブラックユーモアでもあるようなイメージを、生き生きと表現する。画家のエスプリに敬意を表する。(高山淳)

 上野宏子「卓上の花」。テーブルの上にヴァイオリンや楽譜や果物などが置かれて、手前の花瓶には芥子の花が差されている。その向こうは風景があらわれて、樹木のようなものが立ち上がっている。ノクターンのようなイメージを優雅に品よくまとめている。とくにハーフトーンの中の色彩の扱いが魅力である。(高山淳)

 石原佑一「人間家族 13─Ⅱ」。色彩に独特の輝きがある。娘を抱く母親。そばに三人の子供が座ったり立ったりしている。横にもう一人、大人の女性が座っている。その背後の箱の中に子供がいる。保育器の中の子供のようだ。そして、上方に二枚のワンピースが吊り下げられている。時計がそばにあって、六時十分。病院の中の親子で、障害をもった子供とその若い母親といったイメージが漂う。母親も子供も一種仮面的な表情をしているが、この独特の肌の白く輝く青白い中に内側から命が燃えているような、そんな不思議な雰囲気がこの作品の強いリアリティをつくる。生きるということの意味を画家は絵の中で探ろうとする。(高山淳)

 國嶋陽子「花影」。枝垂れ桜のようなものが描かれている。その樹木の幹から枝にわたる調子がシルエットによって表現されている。花は一つひとつのものはクリアに描かれず、全体にトーンとして表現されている。花冷えという言葉があるが、そんな冷気のなかに花が咲き、その透明な様子で空を映しているような趣。下方には水が見えるようだ。この作品の面白いところは、その桜の枝がクリアに独特の動きのなかに繊細にして、しかも強く描かれていることと、すりガラスを通して見るような、その花と空の一体化したトーンのもつ不思議なほの明るい色調である。(高山淳)

 守末利宏「杜のある風景」。田舎の道がすこしカーヴしながら続いている。その向こうにいわゆる鎮守の森といった雰囲気で鳥居があって、鬱蒼と茂った樹木がその背後にある。階段を上っていくと社があるのだろう。昔ながらの村を守っている。八幡さんのような存在が不思議な力をもって描かれている。音が聞こえない世界。無音の中に存在するものがその存在するだけの力をもって画面の中に描かれている。背後のこのこんもりとした鎮守の森のような様子は、長い歴史を感じさせる。それと呼応するように田舎の舗装されていない道、田圃、そして水が白く輝いている。神道的な空間の中では水は人の汚れを取ったり様々な力をもっているが、そのような水が道のそばに白く輝いている。空を大きくとって、画面の半分以上を占めるのだが、そのグレーの無音の奥行のある不思議な空間。どんどん過疎化する村の中に無言のメッセージをその樹木や水から発してくるのだが、作者はそれを受け止めながら一つひとつこの風景を描く。(高山淳)

7室

 廣島巖「日本に向かって!(38度線を越えて)」。38度線というと、朝鮮戦争の停戦の時のラインである。日本は大陸に進出し、戦争に負けて本土にみんな命からがら逃げ帰ってきた。その経験を画家はしたのだろうか。たくさんの難民の群れが黒いシルエットとなって手前に迫ってくる。いちばん先頭に立つのはほとんど骨皮になった子供を抱く母親で、乳をそばに向けているが、乳も出ないような雰囲気である。そばに子供が母親にすがりついている。巨大な機関車が上方から手前に迫ってくる。強い情動が画面から感じられる。敗戦後六十八年たっても、画家の記憶はあせず、ますますその時の経験が画面の中に激しく浮かび上がってくるような雰囲気。その象徴のような機関車のフォルムである。(高山淳)

 新美晳也「X+YZ=±0.はざま」。この前の津波がテーマだろうか。中心に海に流される建物などのイメージを表し、左には流されたあとの魂が天空に飛ぶような茫漠たる雰囲気。右にはそれが収まった穏やかな海を三幅対として表現している。海というかたちのないものをピックアップして空虚な中に詩情ともいうべきものがあらわれる。(高山淳)

 矢元政行「樹」。ずいぶん縦長の画面であるが、その真ん中に巨大な太い一本の樹木が描かれている。巨大な幹にじかに葉がついているような、宇宙樹のような雰囲気。そこにたくさんの人々がしがみつくように描かれている。その宇宙樹の力に頼って生きている人間たちの様子である。現代の文明は発展しすぎて人間を攻撃してきているが、もっと本質的な世界の骨格をなすような命の働きを、この不思議な樹木によって表現したのだろうか。褐色の中のトーンの変化によって、その樹木の形に手触りと存在感が感じられる。(高山淳)

 木寺明「赤い爪」。女性が板敷の上に布を置いて寝ている。頭を上に、体をひねっている。蟬時雨の音の聞こえてくるような不思議な気配がある。静物と化したような女性のボディに対して、その向こう側から聞こえてくる音。そんなイメージがヴィヴィッドに伝わってくる。(高山淳)

 脇川晃子「広場にサーカスが来た。」。一輪車に二人の男女が乗っている。その上方には天蓋のようなものがあらわれて、下方は人間群像である。線による表現である。線によって増殖するようにフォルムがあらわれる。そこに独特のリズムと生命感が表現される。(高山淳)

 安養寺智子「ワタシテキ☆ライフ」。ファンタジーの表現である。色がまず魅力で、緑や赤が発光するような蛍光色のような力をもっている。緑の床の上で女の子がパソコンを扱って、パソコンの画面には「FRIENDS」という画面が浮かんでいる。エッフェル塔のスノードームを眺めている女性。緑のベッドの上に横たわった女性。感性のなかで一人芝居をする。一種の詩人的な感覚のユニークな表現と思われる。(高山淳)

 堂本たみ子「Cadenza II」。黒いバックに白いテーブルのようなフォルムがあり、歯車がいくつもそこを回っている。自分自身の内側から絞り出すように表現するというその表現すること自体を絵に描いていて、そのようなイマジネーションの力が面白い。

(高山淳)

8室

 中路達也「涼」。肉筆浮世絵を思わせるようなフォルムである。黒い縁台に着物を着て座っている女性は扇子を持っている。線による表現である。油彩画によってマチエールを丹念につくっている。とくに女性の肌の肉感的なマチエールが独特である。(高山淳)

 大森重夫「4・16 跡」。四・一六の事件というのはわからないけれども、ブロックを積んだ背後から大きな管が口をあけて、その向こうの壁際に男が立っている。背後に窓があって、窓の向こうは夜の空間である。それぞれのものを丹念に描きながら、静かに語りかけてくる。上方に扉のようなものがあけられた向こうにいる男。男のフォルムは一種彫刻的な強さを示す。夜の静寂のなかにすべてのものが立ち上がって会話を始めるような、そんな緊張感のある空間構成に注目。(高山淳)

 吉村玲子「一日の終りに」。様々な樹木が生え雑草の生えている庭のような、公園の一部のような空間がしっかりと描かれている。樹木や草は描くのがなかなか難しいと思うが、画家は難なくそれを描きながら、全体で奥行をつくり、それぞれの植物や木の命を表現する。一つひとつ手の上に置いて眺めているような繊細で深い味わいが感じられる。(高山淳)

 森下良一「記憶の板塀」。板塀の上に絵が描かれている。ドアが半ば開いて、そこから水が下りてきている。その水はこの扉のある空間の周りを囲いこんでいる。扉には黒い手袋が針金によってつけられている。いわば記憶の水ともいうべきものが、扉の向こうのブラックホールのような矩形の空間と対照される。一枚の時代がかった古びた板塀の中に画家は記憶というものの働き、その恐ろしい力を描く。(高山淳)

 河村純一郎「あの日のこと」。下方に岬があり、洋館が立っている。花が咲いている。茫漠たる海が背後に広がり、そこに飛行機のような雰囲気で女性の上半身が浮かんでいる。旅の記憶がよみがえったのだろうか。記憶によって経験した事実は余分なものが脱落して、よりイメージとして濃厚になってくる。そんな記憶の象徴のように波が繰り返し下方の岬を洗うようだ。(高山淳)

 中田幸夫「森の音」。森の中に水が流れている。それが深いコバルトやウルトラマリンの色彩で幾筋も描かれていて、神秘的である。その水平方向に対して垂直にくねくねと立ち上がる樹木や植物の様子。実景というより自然のもつヴィジョンを画家は幻想的にここに表現した。独特の色彩の輝きが感じられる。(高山淳)

9室

 髙田光治「天竜の白い森」。天竜川は昔から大河として有名であるが、それがいわば結界のようなかたちで流れている。さらにいえば、三途の川のような趣である。黒い船に漕ぎ手が座ったり立ったりしている様子が、三途の川の渡し場の船を扱う人のように感じられる。その向こうにあやしい樹木があり、山の稜線をたどっていく道がある。その向こうには黒い月のようなフォルムがあらわれ、女の後ろに男がいて、二人がくっついているようなフォルムがあらわれる。白い岩のような山も見える。死んだら帰っていく世界を画家はイメージしているようだ。その山道に向かうたくさんの人間たちが黒いシルエットとして描かれている。中には牛のようなフォルムも見える。それが荒唐無稽なものではなく、独特の手触りとリアルな気配をもって描かれているところが実に面白い。(高山淳)

 猪爪彦一「夜のトルソ」。柱にトルソがあるが、その下方はほころびていて、鳥の翼のようなものが向こう側に赤く彩られてあらわれている。飛べない鳥、飛べない人間。そんな言葉が浮かぶ。首の部分は切断されて、その上方に土星のような星が黒い空間に浮かんでいる。シンメトリックなコンポジションの中に深い瞑想的な味わいがあらわれる。(高山淳)

 松原政祐「生きるものたち『天地共生』」。壁に刻印するように様々な形象が描かれている。人間もいれば、魚もいるし、動物もいる。植物もある。そんな人類の遺産を壁に刻むように画家は描く。船もある。太陽もある。画面に造形化するために、そのようなフォルムを図像化し、結晶させようとする。そして、時を止めようとする。そんな強いイマジネーションが独特の空間をつくる。白い五弁の花がその壁の中ではなく、手前に描かれて、まるで天空の星を地上に下ろしたかのような、イノセントな雰囲気がある。(高山淳)

 堀研「散華」。枝垂れ桜が満開である。その桜の中に幻影のごとき人物が現れる。お坊さんのようで、着物を着て座っている。両手を上に伸ばしているが、その二つのあいだに不思議な気のようなものが渡っている。桜を鑽仰している一人の法師の姿である。それはたとえば西行の「願はくは花の下にて春しなん そのきさらぎの望月のころ」といった歌さえも浮かぶようだ。桜が不思議なほの明かりの中に描かれている。一つひとつの桜の花びらは描かれていないが、枝垂れる桜に無数の花のついている様子が、内側から照らされているような明るさの中に表現されている。どちらかというと、夜桜の趣がある。シルエットに樹木の枝や梢が描かれている。その桜の命、その動きといったものの骨格は十分描かれながら、茫漠たる桜の不思議な霊気を描いている。画家は細密描写を好まない。桜という不思議な命あるものに対して向かい合う。カシコキものに向かい合いながら、それを油彩画に表現する。日本の伝統的な表現方法でいえば、それは装飾的な表現になるわけだが、あくまで画家は油絵によるドローイング的な表現を好む。そのドローイングの力が一種水墨ふうな力を発揮しているところが実に面白い。そして、ほとんど無心の状態の中に入る。集中力の中から幻影のようにこの不思議な人の姿が浮かび上がったと理解してよいのではないか。幻を描いているのは人物のみでなく、桜本体もそうなのであるかもしれない。雪舟に「慧可断臂図」という、達磨が洞窟の中に面壁する作品がある。太い線による表現であるが、それと似たようなイメージをこの桜と向かい合う僧の姿の中に感じる。表現方法は油彩画であるにしても、その入っていた世界は、日本の雪舟をはじめとする伝統的な画僧のスタンスに近いものが今回あらわれているように感じられる。(高山淳)

 神田一明「彼女の休日」。床は黄土色で壁はベージュの中に、ジョンブリヤンの色彩が入れられている。黄土色の丸いテーブルに太った猫がいる。そばに画家の親しい女性が立っている。女性も暖色系の色彩で、髪は黄土色で茶色い服を着ている。なにかこの部屋の内側から輝いてくるものがある。存在の内側にある不思議な光。それがテーマと思われる。クリアなそれぞれのフォルムも面白いが、その色彩のもつ独特の輝きが魅力である。後ろに青年の顔を思わせるようなお面が白いボックスに立て掛けられ、その前に小さな人形のような男が座って、椅子が倒れ、時計も倒れているが、時を失ったような味わいもあって、その中に存在そのもののもつ不思議な力が画面の内側からせり出してくる。(高山淳)

 山口実「旅人の木のある部屋」。題名の旅人の木は丸いテーブルの横にある観葉植物の名前であるが、それが題名になると、また違った味わいを示す。なぜなら、窓の向こうに岸壁があって、海が見える。しぜんと旅のイメージがそこにたゆたう。丸いテーブルの上の白い布の上にお皿や瓶などがあるのだが、そのグレーに独特のニュアンスが感じられる。以前は木の上に地塗りをして描いたものだが、キャンバスに描かれたことによって、よりトーンの繊細な調子があらわれてきたのだろうか。いずれにしても、このクロスや黄土色のテーブルや逆遠近のテーブルやケーキなどを照らす光には不思議な哀愁が感じられる。曇り空の中から静かに差し込む光を受けた静物たちは、画家の魂のもつ繊細な味わいを託された存在のように感じられる。(高山淳)

 辻司「人形達の木(メキシコの生命の樹シリーズ Ⅱ)」。画面の中心から巨大な樹木の幹が立ち上がる。枝が見えないほどたくさんの人形がそこに吊るされていて、人形たちのあいだにオリーヴ色の緑の樹木の葉が描かれている。独特の色彩家で、それぞれの色彩が渾然としたハーモニーを奏でる。クリスマスツリーはキリストに対する讃歌であるが、このメキシコの生命の木は人間たちを育む大きな自然というものの讃歌のように思われる。だからこそ下方に脇侍のように向かい合った二匹の亀が描かれているのだろう。そのあいだには小さなサボテンがある。人形は人の顔もあるし、ライオンや虎、莵、イタチ、鬼、様々な顔がつけられている。いわばメキシコに存在する命はすべて平等で、すべて仲間であるといった思想があるのだろうか。いずれにしても、フラットに百ぐらいの人形たちをこの生命の木に吊り下げて、それを統合し一つの絵にする筆力は並みのものではない。いわば指揮者がオーケストラの百人に及ぶ楽団員の音を聴き分けながら統合するような、そんな筆力と構成力が感じられる。しかも、全体でそれが楽しく深い祈りのメロディと化しているところが見事である。(高山淳)

 畑中優「逃げて来た道―私の矜恃」。祖父や祖母や若い花嫁や子供。そんな大家族の一部がここに集合しているような様子。後ろにはパレットがあり、絵具の筆が倒れている。背後にはシルエットの街がある。画家は絵を描くということは自由になるということだと思っている。描くという画家のポジションはなにものにも従属しない。そんな位置から群像を描き、ドラマをつくる。その距離感が独特である。そしていま描きかけのキャンバスには若い女性とピエロとが描かれている。そこに描かれているピエロこそが画家本人なのだろうか。いずれにしても、シャープな筆致でクリアにフォルムがつくられる。そのテクニックと筆力がすぐれている。(高山淳)

 大平和朗「地のうた '13 イカロス」。イカロスとは太陽に接近して墜落したギリシャ神話の登場人物である。ここには集落の跡が描かれているようだ。大きな広場に線路があり、点々と塔のようなものが立っているが、無人で廃墟となっている。手前にはその廃墟の一部の住処のようなものが浮かんでいる。上方には気球のようなものが浮かび、失った時間がしぜんと画面にあらわれてくるようだ。そういった中に、この手前のフォルムから不思議な霊気のようなものが三か所、穴から噴き出ているのが面白い。よく見ると、その蒸気のようなものが点々とこの大地のところから噴き出ていて、この残された広場はそれなりに活力をもっているようだ。イカロスという題名からすると、人間の営為というものは限りなく発展し、神になろうとして太陽に近づきながら焼け焦げて墜落するわけだが、墜落したのちもやはりその命は連綿と伝わってくるといった、そんな寓意性さえも感じることができる。茶系の色彩に独特のヒューマンな味わいがある。(高山淳)

 前田香織「夜の入口」。「夢は夜ひらく」という流行歌が一時ずいぶん流行って、それを歌った藤圭子が亡くなった。この作品とはあまり関係ないのだが、花が中心に開いて、それぞれの花弁が女性の体に変容してあらわれている。そんな夜の瞑想的な雰囲気の中に女性が自分自身に返り、自分をいたわって自分の命の様子を眺めているといった、そんな深い味わいが感じられる。シュールといえばシュールであるが、そこにあらわれてくる命が発光し、灯し火のように空に向かって光を発している様子はまことにヴィヴィッドな表現である。そして、はるか向こうの空に星が流れている。命の深い味わいが感じられる。(高山淳)

 角護「tomorrow」。男性とも女性ともわからない両性具有的な人間の胸像が近景にある。後ろに一艘のボートがある。そのボートを漕ぐ人がいる。そのあたりになってくると複雑なかたちで、様々な人間がそこにいるように描かれている。そして、ボートの上には魚や鳥や亀などが描かれ、下方にイカが描かれている。そして、ボートから虹が立っている。黒褐色の緑もそこに入れられているが、その中に海と関係のある様々な働きが表現されている。画家にとって海はふるさとのような存在なのだろう。昨年は賞をもらって忙しかったが、もう一度海との関係を回復させながら、自分とはなにものかといった問い掛けを画面の中に行っている趣がある。虹は海に対して立っているものと思われる。ボートの外側に相似形のフォルムがあって、海がボートに沿って立ち上がってくるような趣であるところも面白い。繊細なデリケートなトーンが生まれている。外界を描きながら、そのままそれが内景の表現となるところがこの画家の面白さである。(高山淳)

 高橋三加子「刻―2013」。五人の男女が描かれている。すべて女性かもわからない。しっとりとしたマチエール。グレーであるが、様々な色彩がそこに入れられたグレー。パントマイムのように台の上に立つ二人の人間。その手前には母と娘が向かい合せのようであるが、ねじれの位置にいる。もう一人の女性は頭を傾げて何か動作をしている。人の心の奥にある働き、そんな深い意識の底にある命の働きを、画家はこのような妖精のような人間の、パントマイムのような動きによって表現する。筆者はそのような作者の表現にずっと関心をもってきたが、今回はとくに色彩が生きているし、動きも面白く感じられた。(高山淳)

 下平武敏「鳥海天満宮奉納浮立」。板の上に絵馬のような雰囲気でお祭りの人間たちの群像が描かれている。手前の烏帽子をかぶった男が釣竿を持っているのだが、その先に鯛が掛かっている。そして背後に、日の丸の扇子を開いてそれを祝っている老人。その後ろには座って音楽を奏している人々。日本のお祭りの古くから伝わる様子を、炙り出しのように板塀の上に表現する。そして、そこに時が脱落し、イメージとしての存在が浮かび上がる。(高山淳)

10室

 小杉義武「領域―白」。画面の中に小爆発しているような動きが感じられる。とくに何かが描かれていると言うことは難しいのだが、命が爆発し、独特の生命感が感じられる。そして、一つの爆発は次の小爆発を誘発し、画面独特に不思議な動きが感じられる。抽象に極力接近した具象表現と言ってよい。そのイノセントなイメージをこの壁画的なスクリーンの上に表現する。(高山淳)

 石原恒人「僕の居場所」。六人ほどの人間の顔が描かれているが、頭が壊れて、そこは電気の配線のようになっている。ほとんど顔は仮面のようである。現代に生きる人間の肖像画である。強い陰影の中に人間の肖像を刻印するように画家は表現する。体から離れて頭だけになったその顔が、男の壊れた頭の上にのっているのもなにか切ない雰囲気だが、まさに現代というものの関係性はそんなようなところにあると画家は強く主張するようだ。(高山淳)

 平木久代「遥かなる夢」。額に象を乗せた男の頭が上を向き、ツタの籠に入れられている。口からは芽が伸び、耳からも植物が伸びている。植物の息吹が予感される。どことなくプリミティヴなビジュアルであり、ツタやハスをはじめとした植物が空間を浮遊し力強く縦横に線を巡らしている。(小池伊欧里)

 吉井寿美子「刻を積む―遊―」。抽斗の中に迷宮が作られるシリーズが続いているが、これまでの少し不穏な世界とは打って変わって子どもたちが生き生きと遊ぶ、未来へ視線を向けた世界になってきた。出口のある楽しいラビリンスから抽斗遊具のイマジネーションが広がる。迫力のある見せ方でデフォルメされている。地平線に向かって終わり無く飛ばされる紙飛行機が新しい世界を求めている。(小池伊欧里)

 佐藤定「黒い浜辺」。工業地帯の港に臨み、大きく黒い海が広がっている。ヘリコプターや船が、変わった角度で入れられ不思議な空間を作る。遠景に連なる建造物群は、色面を重ねて簡素だが的確に描かれている。海は、黒い表層の下にある金の地色が活かされて、様々な光を反射する水面の様子を浮かび上がらせる。深い海への祈りの気持ちが塗り込まれているのかもしれない。(小池伊欧里)

 上川伸「ギャップ」。円錐形のフォルムが大地から大きく立ち上がっている。その円錐形のフォルムをつくるのは木の細いストライプのようなフォルム。あるいは、茎をつなぎ合わせてこの円錐形のようなフォルムをつくり、下方にそれを横断する二つのリングがつけられて、下方の大地の上に立っている。大地には扇状のフォルムがつくられ、地平線の向こうから雲がわき上がっている。古代の激しいリビドーやエネルギーといったものを画面の中に引き寄せようとするかのようだ。とげのようなそのフォルムをつくる小さな針が突き出ているのも暴力的な雰囲気であるが、その黄金色のトーンといい、地面の様子といい、空といい、暴力的ではあるけれども、なにか懐かしい古代の夢のようなイメージもあらわれてくる。九州という日本の中でも文明がごく早くから育った風土の中からあらわれたイメージかもわからない。(高山淳)

 森井宏青「わたしとともにあるものに最大の幸せを与えよう」。大小いくつかの人物デッサンが組み合されている。歩きながら、あるいは三本脚の人物が右腕をかかげ、頭部からただならぬ力を受信・発信している。その力によって這うように女の背中を進む犬と男。支配と服従の不条理な構図が見えてくる。部分部分のマチエールにこだわりを感じた。(小池伊欧里)

 富田知子「渇いた伝言」。柩のようなボックスから人の形が浮かび上がる。発光するように白い色彩が広がり、突起が上方に伸びる。濃いグレーの雲は死への入口だろうか。生死の境にあって、別の世界との交信がされる場所のように思える。(小池伊欧里)

 阿部直昭「浮遊」。巨大な波のようなフォルムがあらわれ、そこからグレーの飛沫が上がっている。激しい動きをストップモーションふうに表現すると、このようなかたちになるのかもわからない。赤い球が不思議な謎めいた雰囲気で浮遊する。(高山淳)

11室

 中田純子「時間のかけら Ⅱ」行動美術賞・会員推挙。廃材、布、ダンボール、古い鍵、スパナ、針金、様々なものがコラージュされている。多様な風合いで、時が刻まれるように古びたものたちが画面に印されていく。それらが、塗ったり削ったり、進んだり戻ったりして作られたベージュやグレーの色調の中で一体化し、また新たな時間が動き始める。(小池伊欧里)

 伊藤信義「layer-I」会友賞・会員推挙。裸足で車椅子に乗る老婆が真ん中にいて、足元や背後には横転した車や瓦礫が積み重なっている。激しい画面である。瓦礫だけではなく、この作品では色も積み重なって多重の層になっている。塗りつぶして元に戻そうとするのではなく、地を生かし塗り重ねて変化させていく、そんな復興への願いが込められているように思う。(小池伊欧里)

12室

 作間豊「いのちの賛歌 2」奨励賞・会友推挙。エプロンをした女を中心に、、左半分は巨大な牛の顔、右半分は中心に向かう牛たちと少年が描かれる。牧歌的な生命への賛歌であり、輝き広がるような色彩が力強い。(小池伊欧里)

 浅地貴世子「惰性」奨励賞。ドローイングのような表現による十数体の人物の、折り重なりゆらりと傾く様子が連続性をもって描かれている。墨色で作られた微妙なニュアンスが独特の量感を導き出している。(小池伊欧里)

 廣川稜子「過ぎ去りし日々 1」。埴輪のような置物やグラス、ボトル、カップなどのガラス器が、赤みがかった光に色彩を移ろわせている。ガラスを通す光が互いに作用し合い、複雑な表情を見せる。弧が連続していくコンポジションも面白い。(小池伊欧里)

14室

 畠中治知「犬と自画像」。青で統一された部屋と洋服によって、プライベートな世界を限定する。自然光のあたる部分には黄色が入れられ、そのちょっとした色の挿入によってぐっと空間の奥行きが生まれる。床に置かれたモチーフが丁寧に描かれ、こちらを見る犬の佇まいも愛らしい。(小池伊欧里)

15室

 北神禎子「おもいでは風のように(1)」。肩をすくめたピエロが、良かった時代、恋人のことなど過去の記憶に思いを巡らせている。三分割された画面の効果で、真ん中の画面が過去に取り残された時間のように感じる。温かみのある色彩が郷愁を呼び起こす。(小池伊欧里)

16室

 山田早苗「久遠 Ⅱ」。無数にコラージュされた円には点描で球が描写されている。球同士が引き寄せ合い、大きな柱となって発光する。その球の固まりが有機的な一つの生命体となって増殖を続けていく。そんな、遠い宇宙に発現した現象のようなイメージが湧いてくる。(小池伊欧里)

17室

 安本香織「TIME」。キャンバスに数字がびっしりとスタンプされている。そのキャンバスの上層はアルファベットの型に切り抜かれ、裏地がめくれ、新しい色彩が表出する。マルやバツ印も白く描かれている。それぞれの文字や記号が裏返ったり回転したり、様々な音色を響かせる賑やかなジャズのように散りばめられている。(小池伊欧里)

〈彫刻室〉

 小井土滿「ナガルコットの風のまにまに…」。十二個の鉄を叩いて溶接した形が浮かび上がる。その十二個の大小の形は何かの影のように感じられる。影が地面から立ち上がって、不思議な命をもって揺らぎ始める。(高山淳)

 湯村光「SQUARE FORM」。三つの赤御影石をカットし、積み重ねる。それによって不思議なムーヴマンが生まれる。天然の石が彫刻に変わる。(高山淳)

 翁観二「視程― '13A(エスキース)」。黒く彩色された木の上にアルミのようなフォルムが置かれている。山の向こうに雪を抱いた峰が立ち上がってくるような不思議な神々しさが感じられる。「視程」という題名のように、この彫刻に鑑賞者は不思議な白山連峰のようなイメージを幻視するかのようだ。(高山淳)

 水本智久「Natural Posture」。ステンレスによる作品。二つの動きの異なる円弧が並び、そこに大小の球体が内側に抱えられる。抽象彫刻でありながら、自然のもつ不思議な空間があらわれる。たとえば波を形象化すると、このようなフォルムになるかもわからない。(高山淳)

 岡村正博「Plants」。抽象彫刻である。ちょうど自在鉤のような、そんな曲面をもつフォルムが組み合いながら立ち上がり、上方には中のあけられた直方体があり、その中に接続している。抽象彫刻が生きた形としてあらわれる。そして、その形は刻々と動いているような生命感をはらむ。(高山淳)

 多田千明「ghibli」。白木の作品で、繊細な茎の上方に蕾のようなものがついている。植物のもつ柔らかなイノセントな雰囲気を生き生きと彫刻する。(高山淳)

 生島豊昭「神々のたびだち」。コンクリートの中から錆びた鉄の梯子が上方に立ち上っていく。中間にリングがつけられ、その上方には人間のようなフォルムが吊られている。途中で梯子は切断され、もっと細い線がまとわりついたりしている。上方に伸びていく形が様々なマイナスのものを含みながら、ゆらゆらと立ち上がる様子は、まるで人間の運命のような、そんな寓意性を感じさせる。(高山淳)

第43回双樹展

(9月18日〜9月24日/東京都美術館)

文/磯部靖

1室

 前之園千賀子「─再生─」。画面の左側に白いワンピースを着た三人の女性が描かれていて、それぞれがポーズを取っている。右奥は丘陵になっていて、白い柱の残る遺跡が見える。女性のポーズにはそれぞれに意味があって、悲しみ、憂い、希望といった画家の心情を表しているようだ。それは東日本大震災もしかり、世界中で起きている戦禍や災害に対する心の表れである。女性のフォルムはしなやかで、白のワンピースは陽の光に少し輝いているようだ。茶から黄土色系の色彩を主に使いながら、左遠景には海が見え、その落ち着いた青がしっくりと画面に馴染みながら、一つのアクセントを作りだしているところも興味深い。

 平野良子「閑処」奨励賞。崖の上に東屋が見える。手前の大きな岩や周囲の雑木林の緑など、やわらかな筆の扱いが魅力的である。そして一筋の滝が流れ落ちている。画面全体にその滝がわずかな動きを作りだし、刻々と変化する自然の表情をより豊かに感じさせるところが特に印象的である。

 狐塚照子「路─2013」。森の中に伸びる道を手前から奥に描いている。道や脇の岩、奥の樹木などが、灰白色で描かれている。それが周囲の紅葉しかけた緑から黄の色彩の中で輝くようだ。画面全体は右の方が暗く、左の方が明るい。一日の中の時間の流れや季節の移ろいなどが、抽象性高く表現されている。それはまるでイメージの結晶のようであり、それが鑑賞者を作品に誘うような魅力を醸し出している。

 黒鳥正己「雪どけの頃」。手前から奥に向かって大地が続き、遠景に大きな山が見える。中景から徐々にせり上がっていく様子が実に自然に描き出されている。道が続き針葉樹が立ち並ぶ。その手前から奥への距離感もまたしっかりと捉えられている。細やかに大自然の姿を描写しながら、そこにある清々しい空気も作品に引き寄せているところが特に魅力である。

2室

 伊勢正史「犬吠の朝」。犬吠埼はこれまでも画家が描いてきたモチーフの一つである。今回は灯台のある岬から少し距離を置いて、そこから灯台を見た風景を描いている。褐色の地面に道があり、そこから少し下ったところの奥に家屋の屋根が見える。そしてその向こうに岬の切り立った崖が見える。その崖の堅牢な姿が作品に強い重厚感をもたらしている。その崖の上に白い灯台と建物が見える。灯台は少し影を帯びて描かれていて、それは背後の空の輝きをより際立たせている。空は何度も絵具が重ねられたマチエールで描かれ、下地に支えられながらまるで光背のように神聖な輝きを帯びている。手前の大地の黄土から褐色の色彩、岬の深い暗色、空の輝きという三つそれぞれの要素が画面の中で統合され、見応えのある風景として成り立っている。

4室

 根岸嘉一郎「湧雲槍ヶ岳」。厚い雲のかかった山が大きく描かれている。奥の山は鋭くその頂を見せ、手前のもう一つの山との間に雲がある。不動の強い存在感を見せる山と刻々と表情を変えながら流れる雲の、静と動の対比がこの作品の見どころである。画面の中に漂うある種の気配が、そういった繊細な動きの中から生み出されている。

5室

 小濱喜平治「地韻・2013」。地面からカーヴを描きながら伸びる樹木の強い生命力が鑑賞者を強く惹き付ける。画面は黄金を思わせる色彩に満たされて、それがしっとりとした輝きを見せている。上方には樹木の葉が幾枚も描かれていて、下方ではまた別の緑の葉が描かれている。その葉のフォルムの対比もおもしろい。生命賛歌といってよいような、画家の自然に対する深い畏敬の念が作品の前に立つ鑑賞者を捉えて離さない。

第85回記念新構造展

(9月19日〜9月24日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 益村司「蘭陵王『遠望』」。蘭陵王の演目を踊る様子が三つの視点から描かれ、それを統合してダイナミックな力が感じられる。ベージュの空間の中から深いブルーがあらわれているところが、無限なるものを感じさせる。それは空間のみならず、時間というものもそうで、千年以上の時間をあっという間に飛び越えた雰囲気があらわれる。そして、朱色の衣装をつけた蘭陵王の舞いが天空の下で厳かに演じられる。

 細谷玉江「空の旅人 2013」。青い空間。下方は濃いウルトラマリンで、だんだんと上方に行くに従ってセルリアンブルー系の青があらわれる。それを背景にして両側に不思議なフォルムがあらわれる。黄色、緑、朱色などの色彩によって不思議な弧を描く軌道がそこに描かれている。今回はその二つのフォルムが天空に掲げられた天蓋のような趣を筆者に与える。様々な星の散りばめられた二つの天蓋が宇宙に吊り下がっているような趣。たらし込みふうに独特の樹脂系の白いマチエールが垂れている様子が幾本も描かれているが、それが天蓋の幡のような雰囲気を筆者に与える。中心に円筒形の輪になったフォルムがいくつもつながりながら下りてくる。その輪になった球体の中に不思議な輝きが感じられる。まるで宇宙に吊るされたカンテラのようなイメージが感じられる。これまでは宇宙の空間を動いていく魂の軌道のようなイメージがあったが、その魂たちがここに集合して不思議なお祭りを行っているような表情。そのイノセントな輝きが無常のなかを吹く有情のイメージのように感じられる。

 寺本洋子「月下の塩田」内閣総理大臣賞。海水を浜に引いて乾かして塩をつくる。そんな昔からの塩田の作業が行われている。月がそこに差しているようだ。傘をかぶって働く人々がまるで妖精のように感じられる。懐かしいメロディが画面から聞こえてくる。

 田村誠「コンポジション」。ドラム缶を真上から見ている。その古いドラム缶のすこし曲がった円形の形。あけられた二つの穴。青やグレーの色彩。ドラム缶がまるで人間の顔のように感じられる。しかもそれが少年や少女のようなイノセントでプリミティヴな表情をたたえる。そのようなフォルムがお互いに連結しながら、不思議なハーモニーがあらわれる。

 中谷時男「マテーラ」。マテーラは穴居的な住宅から現代建築まで一万年の歴史があるという。そのマテーラの集落を、上方に教会を置き、あいだに建物や階段を置きながら、線によって表現する。紫、暗いベージュ、明るいベージュ、グレー、緑などの色面をそこに重ねながら、マテーラ讃歌ともいうべきイメージをつくる。

 古川泰司「ささら獅子(川越)」。お互いに向かい合って踊る獅子舞。その獅子の二つの紅白の角をもったお面が力強いし、足を踏む男のかたちが力強い。そのあいだに白い波状のフォルムがあらわれる。強いエネルギーがそのような気となって、二人のあいだを包み込んでいるようだ。それを見る観客たちの素朴な顔。中に天狗のお面をかぶった人がいるのが面白い。長い伝統をもった川越のお祭りのなかに入って、民衆のエネルギー、祭りのもつある霊的な力を画面に引き寄せる。いずれにしても、フォルムのもつ力がこの作品のみどころだろう。

 前嶋実「九十九里凱風」。砂丘に引き寄せられた漁船たち。青い空に鳥が数十羽飛んでいる。だんだん漁も衰退しつつある。海の中で働いてきた漁師たちに対する讃歌と言ってよい。不思議なオーラのような光が画面を満たしている。

 桑本順子「街の詩 1/3」。鉄橋の上で自転車に乗る青年とそのそばに座る女性といった趣である。ドライな都会の鉄橋のようなものを背景にして、二人の男女をポップに表現する。人間の中に入れられたオレンジや黄色、赤、青、緑などのレインボーカラーともいうべき色彩が鮮やか。それはまたこの二人の若い人の夢を見るイメージと重なる。

2室

 森靖男「糸あやつり人形師」。大きな獅子面を持って獅子舞をする人が、緑の布から顔を出している。それは実は操り人形で、それを操っている男が画面の上方にいる。その操り人形師の姿かたちがクリアで生き生きとしている。暗いバックの中に強い力がそこにあらわれている。下方の操り人形の可憐なしぐさ。人生というものに対する苦い感情もしぜんと感じることができるわけだが、画面全体ではそれが無言のなかに、動きのなかに表現される。コンポジションが面白い。

 浦山幹司「彩色華」。向日葵が頭を垂れている。ほとんど枯れかかっている。しかし、向日葵のもつ王者のような雰囲気がそこからしぜんと伝わってくる。垂れた大きな葉が金色のように感じられる。独特の精神の佇まいを感じさせる作品。

 平島昭久「民族和解象徴の橋」。モノトーンによる表現であるが、強いマチエールがまず魅力。

 小田原朝子「エッサウェラ(モロッコ)」。モロッコの白亜の建物。浜の上に引き揚げられた緑の船。そこに白い衣装を着た二人の男が屈みこんで作業をしている。地中海のそばの街を色彩豊かに歌い上げる。

4室

 松田悦子「いたずら書き」。はがれたポスターの跡。木製のドアの下方に金属がつけられ、そこに赤い色彩が入れられている。壁に落書きがあり、その内容は、小さな窓のある家の中とそばの車の中に女の子がいて、建物から煙突が出て、煙が浮かびその下に雑草が生えている。可憐である。表面がはげた漆喰の内側のものが顔を出す。その壁が剝落する中に画家の懐かしい記憶がよみがえる。その記憶を落書きで描く。壁が画家の心のスクリーンになる。とくに二つの小さな野の草の可憐で繊細で、なにか深いイノセントな表情が、この画面全体の脇役としてふさわしい。壁の下につけられたピンク色がお洒落な雰囲気である。

 片桐学而「有明(落合)」。田圃が実っているのだろうか。あるいは刈り取ったあとの田圃なのだろうか。黄土色の色彩が強く、そのあいだを青みがかったグレーの川が流れ、民家が黒々とうずくまるように描かれている。紫色の山が遠景に立ちはだかり、空がある。すこし水墨でいう文人画ふうなイメージを油彩画によって表現することによる生気ともいうべきものが魅力。

 山本啓子「なにげない日常」。強いマチエールにまず目がいく。岩絵具のようなマットな強い肌。その黄金色の壁には、狩りをする人、あるいは頭に籠をのせた女性のようなフォルムが浮かび上がる。下方には石を積んだ様子。それを背景にしてメキシコの女性のような人が赤茶色のショールを身にまとい、同色の帽子をかぶってこちらを見つめている。そのフォルムが力強い。素朴な庶民の歌が静かに聞こえてくる。

 藤本節子「アルベロベッロ」。階段を下りていくと四辻になる。その向こうにとんがり帽子の民家が点々と両側に続いていく。そんな旅の記憶のなかから思い出深いところをピックアップし、あとはベージュやグレーの壁のような空間によって表現する。青緑色の街灯、同色の車、とんがり帽子の民家にパラソルがあり、赤い布が垂れている。それぞれがそれぞれの懐かしい音色で画面の中に引き寄せられハーモナイズする。

 浅野秀夫「軍鶏」。二羽の軍鶏が下方にいて、お互いににらみ合っている。上方の大きな軍鶏が下方に襲いかかってくるような雰囲気。三羽の軍鶏が巴状に配されて独特の生気をつくる。ムーヴマンと色彩とフォルムに注目。

5室

 小田津也二「橋上の駅」功労賞。川の上に橋があり、その上に高架の線路が通っている。その線路に沿ってホームが上にかけられている。周りにはビルが並んでいる。ビルの色彩も空もベージュ色で、このホームを優しく包み込むような雰囲気である。実景というより、画家の記憶のなかにある駅のような、そんなピュアな表情に惹かれる。

 松久崇恵子「刻の想」。流木のようなものを縄で結び、そこに一輪の白い四弁の花が差されている。縄だけで足りずに、針金も使われている。津波で流出した流木なのかもしれない。深い祈りの感情が感じられる。壊れたものを縛る。そこにはそのような傷ついた人間の連帯感をもっと強くしなければいけないという思いもあるだろう。そんな人の心が一輪の白い小さな花に象徴される。

 本目雅己「鞆の浦風景」。鞆ノ浦は瀬戸内海の福山市の、平安時代から続いてきた港である。タイの漁でも有名である。その風光明媚な鞆ノ浦の岸辺と船、赤い灯台、民家によって、懐かしいアンティームな空間をつくる。色彩に透明感がある。青や緑や朱色などの透明感のある色彩のハーモニーには画家の醸し出す独特の抒情が感じられる。

6室

 西川くみ代「夏の終わり」。もっこりとした丘が優しい。そこに影絵のようにシルエットで三人の子供が走っている。まさに夏の終わりのちょっと寂しいような雰囲気が漂う。青みがかった空にピンクの雲のようなものが二筋流れる上にグレーのシルエットが翻っているのも、そんなイメージだろう。

 斉藤弘久「KANTAKA 13-1」準会員奨励賞・会員推薦。カンタカとはお釈迦さまが乗る馬のことらしい。メゾチントなどの技法を使いこなしながら、向こう向きの馬の様子が風景の中に溶け込むようにしっとりとして表現されている。深い思いの感じられる画面。

 石黒妙子「楽園」秋山賞。グラスにガーベラのような花が差され、蝶が来ている。下方にも小さな花が咲いている。メゾチントを中心としてしっかりとした陰影の中にその様子を表現する。

 谷田川卓「明日へ」。上下に二つの黒いストライプが見える。片一方は画面の上下を斜めに傾きながら貫通し、向かって右側は途中から画面の上辺を突き抜けている。その周りにたくさんの人々が後ろ姿を見せながら歩いていく。バッグを持ち、あるいは子供の手を引き、あるいは手に何かを持ちながら。それらを囲むように円形のフォルムがあらわれ、背後はマーブル状の文様である。津波が襲って二年、回復の祈りの様々な作品が描かれているが、ここにあるのはそれに向かって進む人々の姿である。それぞれ何か荷物を背負いながら歩むというイメージが描かれることによって、より深く、より切実な内容があらわれる。右のほうは赤い色面の中に黒いシルエットで、やはり向こうに向かって歩いていく人々がリングのように描かれている。そんな人々を荘厳するように二つの白い百合。マーブル状の大地やマーブル状の背景は渾沌とした未来を示す。あるいは、激しかった津波の災害をも象徴する。赤い色彩が太陽のように希望の象徴として引き寄せられる。

 小田悦子「北09─13 現場」会員推薦。海を思わせる青い色面。田園を思わせる暗い緑の色面。そのあいだにエメラルドグリーン的な色彩で四つの抽象的な塊があるのは、建物のように感じられる。風景を結晶化させるようなイメージの力に注目。

 小塚幸子「寂光荒ぶる」会員推薦。滝が下りてきている様子であるが、黒と白の色彩に幽玄な気配が感じられる。日本人のもつ独特の繊細なトーンによる表現である。

 山香和信「気勢」一般奨励賞。孔版による。鬼が二つのバーベルを上下に持って激しく足を踏み鳴らしている。鬼から稲光が出、下方に雲が大きな花弁のように浮かび上がっている。まさに気勢そのもので、この鬼から発するオーラともいうべき生命力が生き生きと表現されるコンポジションに注目。

 早坂宗太郎「風の詩 1」。花弁を思わせるようなフォルムが輪になって浮かんでいる。ロマンティックな音色が聞こえてくるようだ。また、その中に黄色やオレンジ、赤、青、紫などの色彩が入れられて、静かに瞑想しながら祈っているような、そんな雰囲気もしぜんと感じられる。

9室

 石山匠「宙(そら)」。歯車のようなもの、あるいは機械の一部のようなものが空中に浮遊している。それはデカルコマニーふうなディテールをもつ黄金色のものたちである。それが左右から浮かび上がって、独特の音楽が画面から聞こえてくる趣である。夜の満月のなかの幻想ともいうべきロマンティックな雰囲気がしぜんと感じられる。

 髙橋忠治「宙の指輪 H‌25‌─A」文部科学大臣賞。光を面白く扱っている。たとえば朝の光線の中に物象がピンクに染まる時間帯と光の神聖な様子を、不思議なリングやストライプによって、空間の中に位置づけようとする。

10室

 岸さとみ「街角」。ハーフトーンの色彩が優しい。道がカーヴしながら上方に向かう後ろにピンクの洋館が立っている。三階あるいは五階建ての建物で、その屈曲した形が面白い。童話の中に人を引き寄せるような、ファンタジックな魅力がある。

 穴吹昭人「古代の遺産」。かつての宮殿の跡だろう。白いギリシャふうな柱や漆喰の黄金色の壁が残っている。その大広間か広場と思われる石を敷き詰めたところに三人の体が転がっている。白く発光するような不思議な趣である。ポンペイの溶岩に埋もれた様子も思い起こすが、最近日本でも津波があったし、死者というものが現実の中に透視されるような、そんなイメージの力がこの作品の面白さだと思う。

11室

 三浦康栄「宵闇の花火」。空に白と赤の花火がまさに花のように浮かび上がっている。下方は水のある暗い集落である。津波のあとの東北地方の上方に浮かんだ花火のような趣。一つひとつの花火の火が魂の集合体のように見えてくる。

 内田雅敏「黄昏アイランド」。青年と若い女性とが十字形の構図の中に描かれている。スクリーンに出てくるような美男美女であり、その後ろに地中海を思わせる海やイタリアの集落を思わせるような建物が黄昏の光の中にオレンジ色に浮かび上がる。ロマンティックな表現である。

 内田晃「安息の丘」。ハーフトーンによってしっかりとしたマチエールをもつ画面であり、ハーフトーンの色彩の響き合いが優しい。ドーム状の建物の上方に二十羽あたりの鳥がねぐらに帰っているような趣。ノスタルジックな雰囲気のなかに静かに空が輝く。

 熊谷良夫「黄昏どき」。煉瓦造りの洋館の建物や近代的な建物などが並ぶ下方は、雪かきで雪が道の端に盛り上がっている。その中を歩く家族のような一群。車がテールランプを照らしながら走っていく。淡々とした描写でありながら力強い。同時に、黄昏の懐かしいような深い感情がしぜんと画面から漂ってくる。

12室

 上杉紀恵子「サプライズ」。三匹の猫がいて、二匹の猫が上方のシャボン玉を眺めている。そんな様子を俯瞰する視点からしっかりと描く。猫の力強い柔軟なフォルムが魅力である。

 佐々木とし子「アン&アル」。牛や羊の群れを率いて向こうに向かう若い女性。その女性は鑑賞者のほうを振り向いている。番犬のような犬が手前にいる。道の向こうには緑の清水のようなものが流れている。それぞれのフォルムがしっとりと描かれながら、深い物語性、たとえば聖書の一節のような物語性をしぜんと感じさせる。

13室

 平田源也「貨車のある工場」会員賞。褐色、黄土、赤みがかった色彩、青、グレーなどの色彩が雅やかに響きわたる。それが工場の建物の色面によるところが面白い。有機的な形。それらをパイプによってつなぎながら、全体でこの工場が鼓動しているような、そんなリズムの生まれているところが面白い。

 水谷清子「静息の目覚」。六人の金髪の女性が座っている。鏡を見ている人もいれば、手前の女性の髪をつくろっている人もいるし、タバコを吸っている人もいる。中に一人、横になって頰杖をついている。周りに花が色とりどりに咲いている。ロマンティックな雰囲気である。夢の中の世界のようだ。夢の中の光がこの女性を照らして、それぞれの女性は黄金色に輝いている。フォルムがクリアで生き生きとしている。イメージがつくりだした女性たちの肢体が魅力的に描かれている。

14室

 伊藤昌子「雨の街角」。画面の半分ぐらいが道であるが、その道をいま赤い傘を差して白いお洒落な洋服の女性が歩いてくる。それが鮮やかな印象で浮かび上がる。

15室

 岩井雅義「鐘つき堂のある風景」。鐘つき堂が遠景にある。木造の建物で、二階に鐘があるから、火の見櫓を思わせるようなフォルムである。昔ながらの木造の二階建ての民家が手前に続いて、あいだを道が走っている。そこに牡丹雪が降り、江戸時代の情緒がよみがえってくるような雰囲気である。茶褐色とグレー、あるいは鐘つき堂の向こうの空のピンクなどの色彩を抑えながら、独特の内側からあらわれてくるような輝きとマチエールがよく表現されている。

16室

 宮原武義「七福神合奏空想図」。弁天、寿老人、布袋、えびすなどの七福神が琵琶や横笛、クラリネット、太鼓、ホルン、法螺貝などを奏している。その音につられて鹿が現れ、鶴が飛ぶ。最近世界遺産に登録された富士山が背後に浮かび、満月がそばに寄り添う。柔らかな青みがかった空からグレーの調子を背景にして七福神のフォルムが生き生きと浮かび上がる。形象に対する優れた感覚によって、彼らを演奏家に仕立てた独特の画面である。縁起のよい七福神の合奏であるから、そのメロディを聴くと大福が招来するにちがいない。

17室

 高橋勲「無意識な風景」会員賞。車輪が一つ、画面の真ん中に置かれている。そこは水たまりの中のようで、水が空を反射して、白く輝いている。不思議な抽象性とコンポジションの面白さを感じる。

24室

 田中菊枝「水郷待春」準会員推薦。湿潤な日本の水郷の様子をよく表して、それははるか向こうまで続いている。土のもつ感触ともいうべきものが描かれているところが魅力だし、加えて、その色彩の後ろに金を置いたような画面の内側からじわっと光ってくるような、そんな光を含んだような色彩であるところも魅力。

 砂田保「仮面カーニバル」準会員推薦。三人の女性が装飾的な表現のなかに描かれている。仮面をかぶり、その衣装の中にも渦巻文などが入れられているのが面白い。フォルムは、髪のバックの黄色を背景として不思議な音楽性ともいうべきものを表現する。

 谷芳美「思い出の地」準会員推薦。壁がくり抜かれて、道が続いていく。もう一つくぐると、アルベロベッロのとんがり帽子のような集落が見える。グレーを中心とした中にクリアなフォルムによる遠近感のある構成に注目。独特のリズムが生まれているのも面白い。

 小山博「港 2011」準会員推薦。海際の建物、高速道路、そして、アイランドになった中の工場、あるいはクレーンなどが、グレーを中心としたトーンの中に静かに表現される。光が左から差し込む。明るい海と手前のすこし暗い調子とが対照されて、エレガントな雰囲気をつくる。

第75回記念一水会展

(9月19日〜10月3日/東京都美術館)

文/高山淳・磯部靖

1室

 斉藤蕙子「風の調べ」。白いワンピースを着た女性が丸い椅子に座っている。スツールに右足を立てているから、右のほうの膝がすこし上がっている。その膝頭に両手を添えて、すこし首を右に傾け、遠くを見ているような雰囲気。床の向こうのテラスの向こうには若緑色の樹木が立ち、そこから光が差し込んでいる。床も女性も背後のテーブルの上の花にも光が差し込んでいる。その光がそのまま風の動きと重なるようだ。カーテンを翻えらせる。その風はまた移っていく時間とダブルイメージになっている。中に女性がその風や光すべてを全身に受け止めて放心しているような雰囲気である。横顔のもつフォルムがクリアで、長い首から胸にわたる形、あるいはしっかりした腰から出る膝の形といったように、女性のフォルムは一種彫刻的な強さを見せる。その強さが柔らかくこの画面の空間の中に溶け込むように、光の中に、風の中に描かれているところが魅力である。そんな感覚を開放しながらリラックスしている雰囲気がしぜんと鑑賞者の感覚にも響いてくる。髪の下方、首にエメラルド系の色彩が点じられているのが、色彩のアクセントになっている。全体で彫刻的と言ったほどフォルムが強いのであるが、妖精のようなイメージがそこに重なるところが面白い。(高山淳)

 武藤初雄「湾岸にて(泉大津)」。コンクリートの壁が画面の上方八割ぐらいの面積を占める。下方に車の跡の見える砂地が描かれている。コンクリートも建って数十年たつのだろう。穴ぼこがあいて浸食されている。また、あるときには水位が上がってコンクリートの半ばを浸したときもあるのだろう。そういった時の推移というものがこのコンクリートの壁と砂地の中からあぶり出しのように浮き上がってくる。時間というものの音色を画家はこの光景から聴いているような、そんな独特の雰囲気が感じられる。(高山淳)

 さきやあきら「開拓の一月」(部分)。那須の一月の風景である。雪が積もっている。そばに黄色いサイロが二つ。茶臼岳に向かって繰り返し低い山の稜線が幾重にもあらわれながら山頂に向かい、山頂には雪が下りている。黒々とした雑木の様子がトーンの中に表現される。どちらかというと墨色に近いような背後の山並みに対して、手前の平地には茶褐色の雑草や灌木が生えている様子が対照される。いちばん近景には屈曲する裸木が伸びている。刻々と風景が動いていくようなムーヴマンが画面から感じられる。大地の鼓動のようなものを画家は受信して、そのリズムを画面の中につくりだしているようなところがこの作品の魅力である。(高山淳)

 吉崎道治「待」。雪の積もった中にすこし水が見える。そこから植物の茎が三本ほど点々と伸びている。柔らかな光が差し込んでいる。水の深い緑色。一隅に発見した時空間である。雪と水と枯れ草のようなものに日が当たり、それを見つめる画家の視線が絡み合って、独特のリアリティをつくる。(高山淳)

 小川游「白き神の座」。三つの山が重なり、重厚な画面を作り出している。もっとも手前左側には深いコクのある緑の色彩の雑木林が並んでいる。そこにはシャープな線で描かれた裸木も重なっている。雪面を挟んだ向こう側には紅葉している木々が見える。右側には少し掠れた峰が降りてきていて、さらに一番奥には雪に覆われた峰が大きく連なっている。上方の空には黄金を思わせる色彩の雲がわずかに浮かぶ。それはこの山の持つ威光のようなものに照らされて輝いているようだ。山の雪は鈍く抑えられていて、それが逆にこの山の存在感をさらに際立たせている。入り組んだ層を色面と共に構成しながら、ヴォリュームのある山の姿が鑑賞者の眼前に立ち上がってくる。(磯部靖)

 寺井力三郎「帰れぬ船」。気仙沼の情景である。中景あたりに東日本大震災による津波で流されてきた巨大な船舶の姿が見える。陸地に上がった船の異様な光景は、この地を訪れた画家にとっても忘れられないものとなった。画面の手前にはやはり津波で流された家屋の跡が見える。すでに雑草も生え、遺跡によくある居住地跡のように土台が残っているのが何とも痛ましい。そこに一匹の犬がそっと描かれている。もともとこの家で飼われていたのだろうか。パノラマ的なこの情景の中で、この犬の存在感がどこか鑑賞者をほっとさせる。改めて命というか生きていることの素晴らしさをこの小さな生命が静かに訴えかけてくる。やさしく筆を置きながら絵具を重ねて描くのは寺井作品の大きな特徴だが、特に今回は強い想いがその一筆一筆に込められているようで、強く印象に残った。(磯部靖)

 本山唯雄「ともしび」。道の左側に高い樹木が幾本も伸びて続いている。その木のすこしカーヴしながら伸びていく様子がしっかりと描かれている。道の上にV字形に緑色の空が見える。近景に電柱が立ち、左右に街灯が見えるが、それがガス灯のような雰囲気で、中で赤く燃えている雰囲気がある。現代の風景がにわかに明治や大正の時代にさかのぼって、その頃のイメージを引き寄せたような面白さが感じられる。とくに街灯の面白い形の中に入れられた赤が、この作品を活性化させる。風景と同時に時間というものの内部に入っていくような面白さである。(高山淳)

 田中義昭「靜物」。洋梨やレモン、花、本、様々なものが置かれているテーブルに光が差し、影をつくる。そのテーブルの上に雲が下りてきて風景と化したような、そんなダイナミズムが面白い。それによって、静物が光と影の中に動き始め、それがイメージを刺激して四方八方に広がっていく。それはそのまま光と影の陰影の表現になり、一種抽象的な空間の広がりが生まれる。(高山淳)

 玉虫良次「交叉点」。浦和の昭和三十年代の街を繰り返し画家は描く。やがてそれは戦前の浦和にもつながっていくようだ。記憶の底から浮かび上がってくる街の雰囲気が不思議な気配を表す。路面電車が交差するところが広場になって、そこに点々と人々がいる様子。向こうから手前に電車が来ている。もう一台、近景にあるが、そのあいだに赤い自転車が通せん坊しているのもあやしい。瓦屋根の民家。駄菓子屋や小間物屋。手前は暗く陰影の中に染まって、だんだんと上方に行くに従って明るくなる。明るい部分のさらにもっと向こうには明るい点景の建物があって、手前は古い時代で、だんだんと最近の時代に時が移っていくような雰囲気もある。ノスタルジックな雲がすこし黄金色を帯びて浮かんでいる。以前は顔を隠していた人間たちがだんだんと顔をあらわして、ランニングシャツを着た少年や絵を描く人や座って本を読む人などがあらわれて、画家のイメージが広がってきた。現実にあるものも一度記憶の中に沈めて、もう一度そこからイメージとして引き寄せる力が強くなってきた。独特の群像表現でもあるし風景でもある世界が生まれる。時が過ぎていくのではなく、時が堆積している中に入っていこうとする画家の想像力の力が面白い。(高山淳)

 久保田辰男「明日へ」。大きな母親と思われる牛と子供の三頭の牛が組み合わされてモニュマン的な表情を見せる。一頭の子牛が草の中にうずくまって鑑賞者のほうを眺めている。母牛の背中のフォルムの向こうに、そのラインを繰り返すようなかたちで丘のようなフォルムが見え、樹木が立ち、家がある。ふるさとの情景とこの牛のフォルムとがお互いに呼応しながら、ふるさと讃歌ともいうべきイメージがあらわれる。また、背後の風景は緑を中心として描かれている中に、茶褐色の量感のある母牛と三頭の子牛が画面の中にしっかりと置かれている。強い触覚的な力もある牛とイメージの中にあらわれてくるような風景の広がりとが面白く響き合っている。(高山淳)

 宇野のり子「遠い日」。独特の空間世界に黒い三つの箱が置かれていて、その手前や上に瓶やグラス、カラスウリなどが配置されている。横に繫がるように点々と配置されているモチーフたちは、そのクリアなフォルムとともに独特のリズムを刻んでいるようだ。また、モチーフそれぞれの質感、重さなどもしっかりと捉えられていて、画家が長く描いてきたモチーフに対する思い入れが強く感じられる。空間を大切に扱いながらテンポと間をうまく作り出し、どこか余韻を残す作品である。(磯部靖)

 山本耕造「ゆめ」。巨大な葉をもつ熱帯系の植物を背景にして、手前に一歳か二歳の少女が座っている。後ろの窓の向こうに幻影のように、この少女の若い母親の顔が浮かび上がる。それぞれのフォルムがクリアであるところがまず魅力である。そして、緑を中心として人を癒すような雰囲気のなかに少女とその背後の母親を配して、深い想念の世界を表現する。背後の若い母親の顔の画面の中の入れ方がロマンティックな雰囲気を釀し出す。(高山淳)

 山本勇「祈りの朝」。子供を抱く若い母親。その母子を荘厳するようにそばに大きな芥子の花が開いている。青やピンクや紫の花に囲まれて、この聖母子はいる。後ろに東南アジア系の、たとえばタイやインドネシアの仏像のようなイメージがあらわれる。右後ろには二人のお坊さんが背中を見せている。その向こうには大きなボロブドゥールの寺院のようなイメージもあらわれる。暖色を使った温かな雰囲気のなかに母子を囲む花や遺跡に、不思議なロマンティックな味わいが感じられる。ペインティングナイフによって塗り込まれた絵具の層が、色彩の輝きを表す。エキゾティックな雰囲気のなかにアジアのもつ温かな雰囲気がわれわれには身近に感じられる。(高山淳)

 弓手研平「雨霞む道」文部科学大臣賞。画面の手前から奥に向かってまっすぐな道が続いて行っている。その道を母と子が二人、傘をさして手を繫いで歩いていっている。画面全体は緑がかった色彩のトーンがかけられている。そこに母親の赤と子どもの青が入れられているが、その三つの色彩がうまく馴染んで独特の幻想的な世界を作り出し、鑑賞者の郷愁を誘う。両脇の草むらには点々と白い百合が咲いている。百合は聖母マリアを想起させるが、母の存在に対する深い愛情の象徴と言ってよいだろう。降り注ぐ雨は、母と子だけの世界を作る。どこか切ない孤独感を孕みながら、同時に安心するような温もりも感じさせる。厚いマチエールでそういった情感を背後から支えながら、鑑賞者の想いと画家自身のそれをリンクさせるようにじっくりと描き込んだ作品である。(磯部靖)

 浅見文紀「木霊」。樹木の根を緻密にリアルに描いて、あやしい雰囲気を釀し出す。通常見えない根を掘り出して組み合わせることによって、その伸びていく形に面白さがある。シュールな気配も漂う。本来風景として存在するものが、静物のように眼前に置かれて、丁寧にそのすみずみまで描くという視点の面白さもまた魅力である。(高山淳)

2室

 辰巳文一「朝(ブルージュ)」。煙突のある一階建ての建物が画面の中心にあって、そこに向かう道がある。道は建物から放射状になっているようで、公園の中の光景のようにも感じられる。いずれにしても、近景から中景、遠景にわたる樹木の表現が生き生きとしている。その木の形が空間をつくりだす。画面の四辺を突き抜けて樹木の上方に伸びていく力に対して、上方から下りてくる光の力が独特のリズムを呼ぶ。平凡な作品のようでありながら、深い空間を獲得した佳作である。(高山淳)

 寺井重三「青いチャイナドレスのえりかちゃん」。青緑色のチャイナドレスを着て扇子を持った若い女性がピアノの前に立っている。そばに画家がずっと描き続けた踊り子のチュチュが赤や紫色、黄色に輝いて置かれている。描きたいものを描く。描かないものは描かない。その空間の緩急のある韻律が面白い。焦点はもちろんこの若い女性にある。すっと立ったその力。丸い卵形の顔の中に目がきらきらと光っている。それを荘厳するように、そばにチュチュの原色の色彩が入れられている。色彩のハーモニー。そしてムーヴマンのあるフォルムに注目する。(高山淳)

 宮原麗子「グラナダ回想(アルハンブラ)」。作者はアルハンブラ宮殿の中から外の光景を眺めているようだ。鍵形の、つまり画面の下方と右方向に窓の厚みのある奥行があり、その向こうに遠景に山を、中景に白い街並みを、近景に茶色い屋根を置いた庭園が描かれている。画面全体に茶系の地塗りがされているような温かさがある。その地熱のような力が画面全体の通奏低音のような雰囲気である。スペインのパッショネートな国民性がしぜんとこの風景の内側からにじみ出てくるような、そんな不思議なエネルギーが画面から感じられる。直線を風景の中に入れこみながら強いコンストラクションをつくりだす。(高山淳)

 淺見嘉正「雪ぐもり」。いかにも日本の風景である。曇天のなかにいつ雪が降ってくるかわからない雰囲気。道は一部溶けてぬかるんでいる。車が通ったあとだろう。中景に稲架木のような樹木が横に並んでいる。遠景にはその下方に低い山が雪をかぶっている。しんしんとした雰囲気があるし、画面の中を冷気が流れているような、そんな臨場感が感じられる。そして、そこにしっとりとした情感が生まれ、懐かしいといった雰囲気が生まれる。(高山淳)

 佐藤道雄「日曜日」。画家は戸外で実際に風景の前にイーゼルを立てて描く。それによって複雑な陰影が生まれる。公園の向こうに建物があるようだ。太い樹木が上方に向かっている。シイやクスノキや、そのようなたぐいの木のように思われる。そして、新緑の葉に覆われている。燦々と光が差し込む。あるいは曇った日もあるだろう。その光の移ろいが、不思議なことに現地にキャンバスを置いて描いたこの画面から消え、対象のもつ本質的なポジション、フォルムが浮かび上がってくるところが面白い。しかもそれは現場で描かなくては表現できないようなデリケートな繊細な動きや形を伴って表現される。(高山淳)

 池田清明「舞台袖」。階段の手すりに右手を置いて立つ女性の全身像を描いている。女性は花の冠を被って舞台衣装を着ている。その布の薄く柔らかな様子が、この女性の可憐な美しさをさらに際立たせているようだ。画面全体には階段や床など茶系の色彩が柔らかなトーンで多く使われているが、その中で黒の上衣と白いスカートが色彩的な見所を作り出している。モチーフそれぞれが画面全体に馴染むようなやさしく繊細な筆の扱いと、力を抜いたポーズをしっかりと描き出すデッサン力が、一人の女性の美しさと存在そのものを引き出す臨場感を引き寄せている。(磯部靖)

 小島義明「雪解けすすむ三月の積丹」。画家は工場などを描いてきたが、今回はじかに風景をモチーフとした。湾内の道がカーヴしながら続き、波が寄せている。右のほうは山の斜面で、低地には二十棟ぐらいの低い赤い壁を見せる建物が集まっている。遠景には高い岬がまるで巨大な鯨のような雰囲気で海に向かっている。そこには雪が積もっている。画家独特のシャープな斜めの線、その切り込みが繰り返される中に画面全体の動きがあらわれ、空間の奥行も表現される。目を閉じると消えてしまいそうな、そんな不思議な動きが画面から感じられるところが面白い。静物的な風景が多い中に、これはあくまでも海と接する大地の形、その巨大なディテールの面白さを描いたものと言ってよい。(高山淳)

 鈴木益躬「チャラツナイ岬」。北海道の風景だろうか。海に向かってせりだすように岬が描かれている。もともとは海の中の頂上にあったものが隆起したような、そんな不思議な味わいもある。海は穏やかで静かな様子で、ほんのすこし岩に向かって波頭を上げている。近景はまだ残雪が残っているような低い斜面になっている。柔らかな光が差し込む。穏やかな北の風土の一刻をしっかりと描く。(高山淳)

3室

 久保慶議「或る風景」損保ジャパン美術財団賞。地塗りの段階で布を貼ってしわをつくったような、そんな独特の強いマチエールをつくって、その上から彩色している。日本画の岩絵具やフレスコを思わせるようなマチエールが独特である。集合住宅の前の公園のような場所に半球形の遊具のようなものがあり、その表面に突起がいくつも出ている。そんな不思議なフォルムが実に面白く画面の中に描かれている。後ろの集合住宅や二階や三階建ての民家を背景にして、不思議な生き物のような、あるいはシェルターのようなこの半球形のコンポジションが面白い。(高山淳)

 斎藤由美子「遠い日の想い」。テーブルの上にアネモネのような花の入れられた花瓶。ワインのあいたボトルや小さな花瓶、真珠貝のようなもの、ザクロ、花托などがそのテーブルの布の上に置かれている。後ろに向こう向きのマネキンが立っている。女性のマネキンで、その向こうの淡い空のような空間に向かっているようで、そこに憧れといったロマンティックな雰囲気が浮かび上がる。トーンを中心とした表現で、そのトーンの深みによって遠近感が生まれる。室内の心象の濃厚さによって、それぞれのものが独特の活気を帯びる。(高山淳)

 山田和夫「黄昏」。中景に駅のホームがある。両側に民家が立ち並んでいる。手前は踏み切りのようで、杭が立っている。それぞれのものの形、ポジション、光の中に浮かび上がる形を描いて、強いコンポジションになっている。(高山淳)

 長谷川清「初夏の香り」。若い女性がテーブルの向かって右側に立っている。テーブルには花やグラスなどが置かれている。背後には壁と窓が描かれていて、コクのある色彩で前面の花や女性を支えているようだ。女性は黄色のシャツにジーンズを着ている。そのシャツの黄色がテーブルの花の紫と補色関係にあり、静かに響き合っている。若い女性の瑞々しさと花の繊細な様子もまた響き合っている。そういった関係性が、安定した構図とマチエールによって確かに表現され、印象的な作品となっている。(磯部靖)

山下審也「給食室の午後」会員佳作賞。金属の箱が鈍く銀色に光っている。食器や鍋がやはり金属で、そのグレーの独特の輝きと壁のグレーとが対照されて、しーんとした気配が滲み出るように描かれている。もののみならず、空間のもつ独特の気配を描いているところが面白い。(高山淳)

 森敬介「断崖の白い街(希)」。海際に白いホテルのような建物が立ち並び、この岬の頂上にまたそのような白い建物が連続して立っている。あいだの斜面は農地のようでもあるし、山肌を見せるところもあるし、塊としての独特の斜面がそこに描かれている。海は青黒く、空は明るいコバルトで、そのあいだの岬の下方と上方に立ち並ぶ白い家並みがずっしりとした存在感のなかに表現される。(高山淳)

 川本幸子「時は流れて」。これまでより作品がすこし小さくなった。そのぶん逆にお洒落な雰囲気があらわれてきた。屋根があり、壁があり、あいだに道があり、そこに向かう階段があるといった要素によって、この風景はできている。そして、斜光線がそこに差し込み、壁を白く、あるいは屋根をきらきらと茶色にグレーに光らせている。しっとりとした影の部分。光と影の微妙なそのかたちを見事に画面の中に再構成したような趣である。そこに高音部と低音部のメロディが流れているような、そんなイメージもあらわれる。フーガのように一つの旋律を次の旋律が追いかけているといった構成もしぜんとあらわれる。海外の街の一隅がそのまま音楽を造形化したような、抽象的な味わいのなかに描かれる。明るい部分は朗々とした旋律がそこから聞こえてくるようだ。(高山淳)

 宇田春美「遺されし一隅」。壊れた窓ガラスの部屋の中。床は張られてなく、地面がむきだしになっている。ガラスの向こうには草や樹木が立っている。そんな空虚と言ってよいような建物の中の空間、そのひずみ。そこにある人間の営為とその外側の自然とが面白く対照される。(高山淳)

4室

 勝谷明男「農場冬日」。一階建ての木造の大きな建物が雪の積もった地面の上に立っている。雪は新雪が降ったばかりで、柔らかな雰囲気。あいだから雑草がすこし顔を出しているく。はるか向こうの雑木林と青い空と白い雲。きらきらと光がこの風景に注いで、雪かそれを反射してまぶしいような、そんな様子を実に生き生きと描いている。木造の触感、地面の触感、雪の触感。触覚的なところまで踏み込んだ写実の魅力である。(高山淳)

 髙橋皐「川沿い(栄村にて)」。画面の手前に大きな川が流れ、その向こうは緑一面の世界である。樹木が葉を広げ、その向こうは丘になっている。自然の中にある様々な表情を持った緑という色彩を敏感に捉え描き出す。それがこの作品を生き生きとした風景画として成り立たせている。緩やかに流れる川とそこに吹く風、陽の光。そういったイメージに訴えかける魅力を孕んだ作品として強く印象に残った。(磯部靖)

 河西昭治「丘陵の聖堂」会員佳作賞。茶系の色彩を中心に描いている。オレンジの屋根の建物が連なって、奥の聖堂に続いて行っている。コクのある深い色彩が、この街の長い歴史、過ごしてきた時間を強く感じさせる。じっくりと作品に正面から向かい合って描き出した見応えのある作品である。(磯部靖)

 山本佳子「初夏のころ」会員推挙。緑の木造の椅子に少女が座っている。白いワンピースを着ている。夏の一刻。光の中に横向きの少女が座った様子が端正に品よく描かれている。また、グレーのもつニュアンスを追求しながら、そこに清浄なハーモニーが生まれる。(高山淳)

 久保博孝「獺祭図」小山敬三奨励賞。白いシーツが台の上から垂れ下がって掛けられていて、そこに人形が置かれている。背後には木製の時計がかけられている。下方にあるアルミの器には様々な植物などが入れられている。自身のアトリエにある沢山のモチーフを一つの画面の中に集めて配置し描き出したような、凝縮された密度の濃さがある。それが強い見応えになっているのだが、画面の左側は空間になっている。その間が独特の余韻を作品に与えているところが、巧みな画面構成である。繊細に描き込みながらも硬くならずに作られた抑揚が、この作品の見どころである。(磯部靖)

 髙橋喜美子「紀伊の浜」。鉄の直方体のずっしりとした台から竹竿が上方に伸びている。その上方からそこにくくられた漁網が垂れてきている。その漁網の形が実に美しく描かれている。その一つひとつの形、あるいは重なった形。まるでイスラムのアラベスク模様を見るような、そんな強い韻律があらわれている。同時に、そこには海を相手にする人々に対する敬虔な宗教的ともいえる感情もしぜんと滲み出てくるように表現される。背後は静かな湾と建物と小高い山である。手前は砂地になっている。空はほとんど紙に近い明るいグレーで、そこに二羽の鳥が飛んでいる。時が止まったような不思議な雰囲気。まるで凪の時の漁村のような味わいの中に二羽のつがいの鳥が飛ぶ。そして、重量感をもった網が上方から吊るされて、その一つひとつを丹念に描きながら、この漁村の生活を画家は静かに荘厳するようだ。(高山淳)

 安藤忠雄「追憶(暮愁)」有島生馬奨励賞。有島生馬奨励賞。からっとしたマチエールで、明るいグレーの茶系の入れ物の上に瓶や花瓶、貝、ガラス瓶、アイロンなどが置かれている。そこにスポットライトが当たる。背後に二つの素朴な民家があり、屋根には石が置かれている。屋根だけで、側面は黒褐色の無地の色面になっている。空には雲が低くわだかまっている。省略するところと描くところとの対照が面白く、その二つの要素によって懐かしいリズムが生まれる。(高山淳)

 荒木幸子「待ち人」。壁際に立つ一人の女性の全身を正面から大きく描いている。女性は向かって左を向いて立っていて、その左背後には赤い扉が見える。また右下には白い日傘が立てかけてある。女性の背後にある壁、少し奥まったところにある扉など、その微妙な距離感をしっかりと捉えている。また、木製の扉や石の壁、女性の衣服など、質感の異なったものを違和感なく描き分け、画面全体で安定した魅力を作っているところも魅力である。(磯部靖)

5室

 柳茂忠「春雪鉱山」。上方に行くに従って風景のポジションが後退していくという独特の遠近法によっている。山水にはそのような高遠法という構図があるが、それを油彩画によって表現している。近景には小さな小川のようなものや建物が並び、だんだんと上方に向かう斜面が中景にあり、近景は削られた岩山のようなものの頂上が見える。そのそれぞれの地面の位置にあるもの、それ全体で独特のハーモニーが生まれるところがこの作品の魅力である。コンポジションの面白さで、どこか岡鹿之助の風景作品を連想するような清潔な韻律が感じられる。(高山淳)

 宇佐美明美「風の譜」会員佳作賞。砂丘が延々と続いていくが、その緩やかながらも激しい起伏が強い見応えを感じさせる。柵があり、水溜まりがあり、奥ではかなり急な傾斜で盛り上がっている。そこに細やかに流れるように作られた風紋が刻まれている。さらにそこに右方向から光が差し込んで、影を作り出している。その複雑な表情を実に誠実にやわらかく描き出している。ドラマチックに画面を構成し組み立てながら、そこに満たされる清々しい空気もまた大きな魅力の一つとなっている。(磯部靖)

 山川常三「史跡になった閘門」。中景に古い閘門の形があらわれて、その背後に樹木が枝を広げている。閘門の下の水が空を反射して白く輝いている。面白いのは近景にある一艘の船と桟橋である。上方の形に対してすこし小さくデフォルメされているような趣で、そこに空間がひずんだような不思議な力があらわれる。シャープな細長い船のクリアな様子が懐かしいし、その船と作者との近い関係を思わせるような不思議なオーラのようなものがこの船の周りにたゆたっている。その周りの空を映した陰影のある水の表情。空は逆に穏やかなグレーのトーンでまとめている。幾何学的な閘門の形。それぞれのものを画面の中に繊細に配置しながら、いわば水の歌とも言うべきメロディが画面から流れてくるようだ。(高山淳)

 高橋康夫「昆布番屋の岬」。岬の端に赤い屋根や青い屋根の家がある。まるで岬の上にへばり着いたかのような不思議な雰囲気である。そばに電信柱が一本。中景は一度下がってまた隆起した岬で、岬の断崖が見える。向こうの岬と手前とのあいだには亀裂のようなものがあって、二つは分離しているのかもわからない。そのような二つの大きな塊のあいだの近いところにこのいくつかの家があって、それがまたスリリングな雰囲気をもたらす。上には雪が積もっている。周りは海でゆるやかに波が寄せている。穏やかであるが、ずっしりとした自然の強い存在感に対して、可憐な赤や青の建物が対照される。そこにしぜんとヒューマンなロマンともいうべきものが生まれる。(高山淳)

 青木年広「流れゆく時間に」。白いクロスが掛けられたテーブルの上に、様々なモチーフが置かれている。花瓶やそれに生けられた花、レモンやリンゴ、浮き、フランスパン、貝。それぞれがその質感を保ちながらしっとりと描き出されている。その中で特に手前の赤色のガラスの花瓶が目を引く。リンゴの赤とはまた違った、透明感のある様子が特特の存在感を放っている。画面全体で構図的にもうまくまとめられた作品である。(磯部靖)

 小泉玲子「楽屋の踊り子」第七十五回展記念賞・会員推挙。手前にしゃがんで話す二人の踊り子が大きく描かれ、背後にも数人の踊り子が描かれている。左上方からは明るい光が差し込んできている。その光を画家は繊細に扱っている。様々な色彩を情感豊かに扱いながら、印象的に人物などの存在を浮かび上がらせているところが特に印象的である。(磯部靖)

 伊藤尚尋「潮騒」新人賞。海水の引いた浜辺に一人の女性が立っている。地面には無数の石が転がっていて、女性の背後には一際大きな岩が置かれている。左後方からの光によって逆光になっていて、その繊細な明暗がそれぞれの姿に立体感と存在感を生み出している。女性は厚手の服を着ていて、向かって左下を見つめている。若い女性の憂いを帯びた姿が、この女性の心の内に対する鑑賞者の好奇心を呼ぶ。遠景は海が見え、島影が掠れるように浮かんでいる。そのように全てを繊細に描き込みながらも、画面を満たす透明な空気感を大切にしているところに特に注目する。(磯部靖)

6室

 田島健次「すみかの起源」。今年の最初にインドに行ったそうだ。デカン高原のすこし北側である。岩が覆いかぶさるように描かれている。その岩の上に幻のように仏陀がのっている。岩の下に青い水が見える。一頭の牛と一人の女性。茫漠たる時間のなかをインドの人たちは過ごしてきたが、その千年、二千年、三千年、あるいは五千年、あるいは新石器時代の一万年ぐらい前の時間がそのまま眼前に広がってくるような、そんなダイナミックなフォルムだし、そのようなコンポジションである。この自然に対して、いかにも人間は小さい。その対照もまたこの作品の眼目だろう。(高山淳)

 中村哲泰「泉」。画面の下方手前に泉があって、そのすぐ脇に沢山の植物がまとまって生えている。背が高く、タンポポの綿毛のように白い花を咲かせているものや、背が低く紫の葉に包まれて黄色い花を咲かせているものなどがある。その植物それぞれの姿がどこか妖しい存在感を醸し出している。泉の持つ強い生命力によって生まれた、古代の植物のような独特の姿を見せているそれらが強く印象に残る。かつて雪山の風景を出品していたのを記憶しているが、今回モチーフを変えて、生命の力やその魅力をどこか歌うように描き出したところが印象的であった。(磯部靖)

 山田正博「炭鉱の跡」。グレーから暗色の色彩が、さびれた炭鉱にある建物の姿を浮かび上がらせている。手前には円形の花壇があってその周りを錆びた鉄の柵が囲んでいる。それぞれに重厚感があって、長い時間の流れを孕んでいるようだ。矩形と直線、曲線を立体的に構成しながら、忘れられ、寂しいながらも存在し続ける孤独な心情を鑑賞者に訴えかけてくるようだ。(磯部靖)

 平井利明「装蹄」。白馬の後ろ足の蹄を交換している。青い服を着た男性が馬と同じようなポーズで蹄を付け替えているところがおもしろい。馬の流麗なフォルムをしっかりと捉え、そこに男性の姿を重ねることで、画面に厚みが生まれている。周囲に散らばる用具や背後の壁や窓など、それぞれのモチーフの質感も違和感なく描き出されている。長く馬を描いてきた画家の、馬に対する深い愛情がよく伝わって来る作品となっている。(磯部靖)

 丹羽章「五月の風」。八階ぐらいの窓からこの光景を眺めているようだ。左にその窓にとめられた二種類のカーテンがのぞく。すぐ下方は三車線の道路で、バスや車が走っている。向かって右のほうはこんもりとしたグリーンベルトになっていて、その先は海岸で、船が接岸している。中には数千トンの汽船のようなものも接岸しているから、大きな埠頭なのだろう。そして、はるか向こうにはシルエットになった対岸と建物が見える。インターコンチネンタルの半円形の建物も左のほうに見える。横浜港が右に描かれていることになる。点描によって豊かなしっとりとした緑のトーンの味わい。それは黄色や淡い緑になってやがて青い空に逃げていく。あいだに白いトーンで豪華船が係留している。海の向こうの見知らぬ街をつなぐ船のような豊かなロマンを感じさせる。構図がとくによい。見下ろす角度からはるか水平線というか、並行に向こうに向かう視点の動きに沿ってだんだんと憧れといった心情が喚起される。そのような目の動きがそのまま心の動きと重なるような構図になっている。しかしまたほとんど七十度ぐらいの角度で見下ろすところにいるバスや車も地についた表現で懐かしい。それらがこのような絵の中に入れられると、シュールな時間を旅する乗物のような味わいもそこに生まれる。(高山淳)

 上原文丸「古木の道」。地面を低い位置に持ってきて描かれた公園の風景である。背の高い樹木が数本その枝を四方に伸ばしている。その生き生きとした描写に惹き付けられる。脇の道では人々が歩いたり走ったりしていて、それが古木の持つ時間の流れと静かに対比されている。画面全体に漂う冬の澄んだ清々しい空気もまた魅力である。(磯部靖)

 所征男「花簾」。腰掛けた三人の女性を画面に大きく描き出している。三人は色味は違うが同じデザインの上着とスカートを着ている。それぞれの衣服は青みがかっていたり黄みがかっていたりする。その繊細な色調が、三人それぞれにしっくりきているところが面白いと思う。しっかりとしたデッサン力の上に、若い女性の特有の瑞々しい姿やこれからの華やかな人生を予感させる魅力がある。(磯部靖)

 新井隆「窓辺の光景」会員佳作賞。アトリエの中と戸外とがそのまま連結されているところが面白い。大きな丸いテーブルにガーベラの差された花瓶や果物の鉢に林檎が置かれたりしているのだが、その向こうは畑の土がそのまま見える。あいだに緑の草もあり、道路が通って点々と民家が見え、民家の後ろには林がある。空は青く白い雲が浮かんでいる。電信柱が点々と伸びている。郊外のごく平凡な光景であるが、この絵の中に描かれることによって、それぞれがそれぞれの固有のものとして立ち上がってくる。そのように描かれている。そして、色彩も現象的な色彩より、もうすこし深い濃い鮮やかな調子になっているところが面白い。それぞれの小さなフォルムを絵の中の要素として慎重に画家は扱う。扱いながら画面に配置する。配置しながら遠近感が生まれる。平面の中に奥行が生まれ、もうひとつ現実以上の真実ともいうべきイメージがそこにあらわれ、深い純な色彩が現実以上に彩色される。平凡なものをモチーフにしながら、もう一歩か二歩、それを絵画としての要素の中に組み立てながら、もう一つのアナザーワールドをつくっているように感じられるところが面白いと思う。(高山淳)

 森本光英「カサブランカと画集など」。画面の中央に花瓶にいけられたカサブランカが鑑賞者を強く惹き付ける。モチーフのフォルムがクリアに描写され、凜とした雰囲気が漂う。テーブルに置かれているたくさんの本が、鑑賞者とカサブランカの距離感を表現するのにうまく使われているのが面白いと思う。そうやって巧みに画面を構成しながら描かれた作品である。(磯部靖)

7室

 髙﨑高嗣「夏風」。花柄の青いワンピースを来た女性がソファに腰掛けている。女性は向かって左側を見て、鑑賞者と目線をずらしている。右脇には花が付いた帽子がそっと置かれている。画面全体に漂う清楚で清潔な雰囲気が魅力である。それはこの若い女性そのものの魅力とリンクしながら、生まれている。どこかかしこまったこの女性の様子もまた初々しく、丸みを帯びながらもシャープなフォルムが画家ならではの繊細な描写で捉えられている。淡い色彩の扱いもまた心地よい。(磯部靖)

 柳沢賢一郎「裏町 Ⅴ」東京都知事賞・会友推挙。水平、垂直によって画面を分割し、しっかりとした堅牢な構成である。また、壁のマチエールがしっかりしていて、そこに時間性や生活の手触りが感じられるところも面白い。右上方の屋根がだんだんと後退していくコンポジションが、手前の壁の位置と面白いバランスをつくりだす。(高山淳)

 平林邦雄「街角」一般佳作賞。グレーに独特のニュアンスがある。そこに光が当たり、壁が白く輝いている部分がハイライトで、その白とグレーのコントラストに情感が感じられる。また、左下に白髪の人物がいる様子と長い時間のなかで風化した建物群とが独特の哀愁を感じさせる。(高山淳)

 池田竜太郎「森と水面、緑の調子」。水に接する地面に樹木が鬱蒼と茂っていて、その葉が群がって樹木の幹や枝も見えない様子。葉の量感と手前の水平な鏡のような水とが対照される。猛々しいほどの生命感を感じさせる樹木の様子であるが、それを緑の塊として捉えて、その重量を静かに測っているようなバランス感覚、静寂感が感じられるところが面白い。(高山淳)

 保坂晶「朝の月・人と棲家と」安井曾太郎奨励賞・会友推挙。高いビルが並ぶあいだに二人の人物が立っている。男と女のように見えるが、シルエットになっている。上方に二十五日ぐらいの月と星が輝いている。一つは金星のようだ。斜光線が差し込んで古い建物をオレンジ色に、あるいは緑に染めている。なにかシュールな味わいがある。対象を再現するというより、心象風景をこのような洋館を使って表現し、あいだに月や星がまたたいている様子がロマンティックだし、はるかなものに対する憧れといった心象を引き寄せる。(高山淳)

 辻原久美子「赤い靴」。赤い靴を脱いで敷布の前に置き、立て膝をした女性。ロングスカートの中に緑や紫の色彩が散りばめられて、白いセーターと対照的である。独特のねっとりとしたようなマチエールがあって、それが生命感を呼ぶ。同時に深いエロスともいうべき女性の雰囲気があらわれてくるところが面白い。右手をついているその指の様子や垂れた左手の様子、遠くを眺めているような女性の顔。そういったディテールもまた独特のニュアンスをもつ。(高山淳)

 矢野川瀧男「海に生きる人」第七十五回展記念賞・会員推挙。オレンジ色の台に座った漁師を肖像ふうに描いている。帽子をかぶって右手を膝に左手を上にあげているが、手がずいぶん大きく労働者の手であることがわかる。背後はグレーの岸壁に海がのぞく。この老漁師を聖なるものとして捉えている。(高山淳)

 今城俊雄「護岸へ繫がる橋」。桟橋が奥に向かって伸びている。船が三艘ほど繫留されている。対岸の島のような陸の様子。その手前の水平に伸びる突堤。波が揺れている。一つひとつのディテールがクリアで、そこが魅力である。(高山淳)

 芝教純「Shushuと渡り廊下の窓」。暗色のダッフルコートを着て座っている少女を大きく描いている。少女は右を向き、ぼんやりとどこかを見つめている。あるいは物思いに耽っているのかも知れない。背後には窓があり、校舎内の廊下が見える。辺りには夜を想わせるしっとりとした青い色彩が施され、窓の中の光を浮き立たせている。少女の座る台座は、奥にいくつも並んで続いて行っている。それがこれまで歩んできた人生を思わせる。学校に通う若い少女の現在を描きながら、過去とその先にある未来を少女の微細な様子で予感させるところがおもしろい。それは不安と期待の入り交じった感情である。深い色彩と確かな描写力で人物を描きながら、そこにもう一つの時間軸を作り、鑑賞者のイメージに訴えかけてくる画面が鑑賞者を捉えて放さない。(磯部靖)

8室

 松岡貞子「サボテンの園」。サボテンに花が咲いている。それがほとんど画面の大半を覆っている。そのじかな表現が実に楽しいし、アンティームな様子である。サボテンの花が語りかけてくるような雰囲気。実際はチクチクと痛いたくさんの針をもっている水の少ない区域の植物が、日本のこの庭に置かれて、まるで春のお月さまのような感じで明るい輝きを放っているところが実に面白く思われる。(高山淳)

 工藤道汪「ある刻私の風景  H‌25」。棚の上にブルータス、三つの石膏の胸像が置かれている。二つはビニールをかぶせられている。ラオコーンのそばに黄金色の時計が置かれ、十一時三十三分を指している。後ろはすりガラスの窓で、淡いグレーがイノセントな雰囲気をたたえる。その台に安井曾太郎の滞仏中の木炭デッサンのコピーが立て掛けられている。手前の木製の椅子の背に青い上着が掛けられ、かじられたフランスパン、ふたのあけられた飲みさしのコーヒーの細長い缶が置かれている。そこにはこの画家の日常のある時が切り取られている。それに対して安井曾太郎の像は百年近い前のフランスで描かれたもの。そして、三つの石膏像がある。石膏像はだいたいがギリシャやローマの石像をかたどったものであり、美大生にとって、あるいは画家にとって、トレーニングのための彫刻である。そこには画家としての憧れであるとか、日々のレッスンであるとか、様々な絵に対する思いがしぜんと重なる。その向こうにグレーのすりガラスの窓が置かれているのが不思議な表情で、その窓をあけると、イタリア・ルネサンスの頃のような、あの青い空が浮かぶかもしれない。このアトリエの中での画家の様々な思いがそのままそれぞれのものから伝わってくるような雰囲気が、この画面の清潔でイノセントなイメージをつくるのにちがいない。黄金色のクルクル左右に回転する時計が様々な要素を測る黄金の秤のような雰囲気で、いわば美のカノンともいうべき雰囲気で置かれているところも興味深い。(高山淳)

 原元勝「冬の山村」。雪の降り積もった山村の風景である。右奥から左手前に川が流れ、その向こうには家屋が見える。さらに遠景には山並みが見える。ごく普通の風景であるが、川や家屋など入り組んで複雑な画面の構成がしっかりとまとめられている。少し茶がかった雪の色彩が逆にリアルで、強い臨場感を感じさせるところがまた印象的である。(磯部靖)

 濱上明希子「パンが焼けるまで」。小麦粉に水を入れてボールの中でそれを固めている。それを練って空気を抜く。いま直方形のパンを焼き終わってオーブンから出している。三つのポーズが一つの画面に統合されている。同じ人間である。太った存在感のあるこの男性は、この画家の作品の中に繰り返し出てきて、筆者には親しいものになった。その同じ人が三つの仕事の様子をしているところを同一画面にまとめて、パンを焼く仕事が聖なる仕事のような不思議な雰囲気で描かれている。白い上下の作業衣に光が当たり、繻子のような輝きをもっているし、台のベージュの色彩もそれと呼応しながら、明度の高い響きのなかに清潔なハーモニーをつくりだす。ボールにしても、秤にしても、オーブンにしても、人間にしても、それぞれのもののもつボリューム感をしっかり捉えているところが面白く、そのような感性のうえにこの室内の様子を構成して、独特のモニュマン性を構築する。(高山淳)

 竹内徹「湖畔雪日」。湖畔に木製の桟橋がいくつも出ている。船は係留されていない。それに接したカーヴする道を赤い傘を差して一人の人間が歩いていく。左には洋館がある。大正時代の建物がそのまま残っているような雰囲気の情景である。アメリカ軍によって焼かれなかった昔ながらの日本の街の情緒と、そこを歩く一人の人間を点景として清潔な情感を醸しだす。(高山淳)

 河石正義「造船所と運河」。手前に大きく船の一部が描かれ、その向こうには河が見える。河には白い建物が見える。手前の船や屋根のコクのある深い色彩と、運河やそこにある建物の明るい色彩が強いコントラストを作りだしている。重厚に描きながら、そういった見どころを作りだしているところに注目した。(磯部靖)

 増田敏郎「初夏のひととき」。床の上に肘をついて、左膝を立てて足を伸ばしている若い女性。白いシャツにグレー、赤、白のワンピースを着ているのだが、そのワンピースが庭からの光によって光っている様子が、独特のロマンティックな雰囲気をつくりだしている。また、のびのびとした若い女性のフォルムのもつ生命感にも注目した。(高山淳)

 大津明美「時」。古い簞笥の上に方形の花瓶があり、そこにドライフラワーと思われるのだが、紫やピンクなどの様々な花がいけられている。そのまま上に視線を向けると古い柱時計が置かれて、一時三分。午後の一刻である。振り子が左右に振れる型の時計であるが、振り子が止まっているような、そんな雰囲気もある。日常生活があるモニュメンタルなものに変じている。一直線に古いテーブル、ドライフラワー、柱時計といった構成も、そんな性質のイメージを引き寄せる理由だろう。(高山淳)

 藤目尚江「二頭立の馬車(ウィーン)」一般佳作賞。馬車を斜め後ろからの視点で描いている。馬車の車輪や馬の足が路面にしっかりと接地し、進んでいく様子が違和感なく捉えられているところがよいと思う。奥に向かうカーヴする動きやそこまでの距離感と共に、じっくりと描ききっているところに画家の確かな技量を感じさせる作品である。(磯部靖)

9室

 伊藤玲子「上町筋」会員推挙。奥に続くイチョウ並木が細やかにしっかりと描かれている。左側の道路では車が往来し、葉はひらひらと舞い落ちる。その時間の推移を画面に組み入れながら、秋のひんやりとした澄んだ空気感をうまく表現している。(磯部靖)

 平井由美子「朝霧高原にて(羊)」。羊は画家の長いモチーフである。今回はたくさんの羊を中景に配置して、その様子を生き生きと描き出している。手前には鉄条網があって、重なるように花も咲いている。鑑賞者と羊たちとの距離感をしっかりと作りながら、愛情を持って描いているところが印象深い。扱われているハーフトーンの色彩もまた、画家の羊たちに対する深い愛情を感じさせる。(磯部靖)

 榎本秀利「田焼き」。手前にこんもりと焼かれた灰の山があり、少し奥にもう一つ同じ物がある。地面は暗色が施されていて、まだ焼かれて間もないことが分かる。シンプルな画面構成ではあるが、そこに落ち着いた色彩による確かな安定感を感じさせる。そういった中で、刈られたあとの株が点々とある一定のリズムを作り、作品にもう一つの魅力を作りだしている。(磯部靖)

 松田寧子「能登の春」。切り立った崖を中景に望む浜辺の風景である。手前から奥への遠近感や、波や草木の描写が実に自然である。全体の色彩の扱いもうまく調和が取れていて、眼前に広がるこの情景の前に立つ鑑賞者を作品の中へと誘うような静かな魅力を湛えている。(磯部靖)

 江口光興「九月」。畑が手前から地平線まで続き畦道がカーヴしながら延びる田舎の風景である。空は曇っていて、どこかひんやりとした空気が漂っている。中景には家屋と雑木林が見える。鑑賞者と画家の視点がしっかりと重なった風景だと思う。それは強い臨場感を作品に引き寄せる。細やかに筆を扱いながら、画面全体の色調を繊細に統一し一つの風景として纏め上げている所に感心する。(磯部靖)

 真木克明「水辺の夜明け」。手前下方に大きく河川を描いた画面構成である。その向こうには街並みが見え、遠景には山が見える。少しもやがかかったような、トーンを落とした色彩の中に感じられる澄んだ空気感が魅力である。大胆な画面構成と繊細な描写に注目した。(磯部靖)

10室

 石井玄彦「行きずりの街 Ⅰ」。港町の風景である。画面の左側には海があり、右側に店が奥まで連なっている。そのふたつを上手く描き分けている。日が暮れ始めた頃の、少し切ない情感がしっとりと描き出されているところに注目した。(磯部靖)

 阿部俶江「室内の静物」。テーブルの上にいくつもモチーフが置かれているが、中でもトルソに惹き付けられた。丸みを帯びたそのフォルムが実にしっかりと描き出されている。確かなデッサン力を感じさせる。(磯部靖)

 安達久美子「川床」会友推挙。山間を流れる川を表情豊かに大きく描いている。静かに流れたり激しく飛沫を上げたりするその様子が自然となめらかに描き出されている所に特に注目した。(磯部靖)

 北野祥子「めぐり逢い 2012」。リンゴの樹をモチーフに描いている。燦々と降り注ぐ陽の光によって、その実や葉がキラキラと輝いている。画面の右寄りに樹木の幹があって、そこから左上方、あるいは手前に枝が伸びている。それによってリンゴの大小もまちまちであるところがおもしろい。透明感のある色彩による繊細な描写によって、清々しい情景を描き出している。(磯部靖)

 橋場房子「青木湖待春」。手前から伸びる地面に雪が被り、家屋と樹木が描かれている。周囲は水面で囲まれていて、その向こうに山並みが見える。落ち着いた色彩の扱いが上手くいっている。特に湖面の深い色彩がこの作品の大きな魅力を作りだしている。(磯部靖)

11室

 松本光久「瀬戸内の石切場」。入り組んだ画面構成が強い見応えを作り出している。手前の土の部分と奥の石の部分の質感と色彩がしっかりと描き分けられた誠実な姿勢に惹き付けられた。(磯部靖)

 池田誠史「まなざし」。一人の女性が向かって左上方を見て立っている。そこからは日差しが入り込んで女性の背後に影を作っている。シンプルな画面の中に、この女性の何かに対する純粋な心情が現れてくるようだ。それは祈りであったり希望であったりするのだろう。いずれにせよ、静物が多かった画家が、しっかりとしたデッサン力で人物を描き出している所に注目した。(磯部靖)

 前田晴子「新緑の五月」。作品全体を覆う瑞々しい緑の色彩が強い魅力を作りだしている。明るい部分から暗い部分まで、微妙に変化していく様子をしっかりと捉えている。見ていて心地よい作品である。(磯部靖)

13室

 酒井昌之「厳冬ダムの町(福島)」第七十五回展記念賞・会員推挙。川の流れる雪景を少し高いところから見下ろすように描いている。その起伏のある様子を誠実に描き出している。雪の質感もやわらかく、画面全体にあるしっとりとした雰囲気が魅力である。(磯部靖)

 綱川サト子「渓」。渓流の様子を見下ろすような視点で捉え、描いている。激しく流れる水の表情と、堅牢な周囲の岩の様子が強く対比されている。細部までしっかりと描き込みながら、画面全体の動きを失わずにしっかりと描き出しているところに注目する。(磯部靖)

 笠原美智子「降り掛かる想い」。これから旅に出るのだろうか、カバンを脇に置いた一人の女性を正面から描いている。力を抜いた自然な様子で立つその姿が違和感なく描き出されている。背後の壁の堅牢さと女性の柔らかさが静かに対比されているところもよい。(磯部靖)

 下川昭一「都会の谷間」。背の高い建物の手前に、みすぼらしい家屋が建っている。それぞれの建物がじっくりと描き込まれている。温かみのある色彩を使いながら、大きく空間をとることで、深い余韻を残す作品となっている。(磯部靖)

 小山峰民「道」。手前から奥へとまっすぐに畦道が延びて行っている。その先には民家が見える。周囲に何もない田畑から街へと入っていく、そのちょうど分岐点である。おもしろいテーマであるし、それをしっかりと描き出す筆力が印象的である。(磯部靖)

 上村蓉子「生きる」。画面いっぱいに草花が生き生きと描かれている。緑の葉と紫の花。そこに小さく白い花が点々と入れられている。それがまるで音楽を奏でるように、重層的なコンポジションになっているところがおもしろい。清潔感のある色彩もまた印象的である。(磯部靖)

14室

 岩田ヒサ子「南佛の骨董市」。市場の情景を色面を強調して描いている。店主とお客、たくさんの品物、パラソルなどが滲むような感覚で捉えられている。それは訪れた時の記憶をじわじわと甦らせるようであり、独特の印象を鑑賞者に感じさせる。(磯部靖)

 佐々木晶子「今此処に私は生まれた」。画面の手前に腰掛けた裸婦、その奥のキャンバスにデッサンが見える。デッサンがこの女性を描いたものでないところが、逆に印象的である。裸婦の丸みを帯びた緩やかなフォルムはしっかりと捉えられていて、画家の確かなデッサン力を感じさせる。(磯部靖)

 白井隆晴「雨あがる」。右上方に長く続く陸橋を描いている。繰り返される段差によって徐々に昇っていく様子が、違和感なく描き出されている。グレーの色彩を中心に扱いながら、そこに赤と白の手すりを入れ込んで抑揚を作りだしているところも巧みである。(磯部靖)

 鳥居佳子「草むらの花」。細やかに草むらの様子を描写している。トーンを変えた緑の色彩の中に、黄や紫の花でリズムを作っているようだ。ヴォリューム感のあるその茂みの様子に特に見応えを感じる。(磯部靖)

15室

 森木和子「大道芸人―マリオネット Ⅸ」。操り人形を使う人物を描いている。その男の帽子と上着の落ち着いた赤の色彩がうまく画面に馴染んでいる。人形の様子も面白いが、右奥に見えるテントまで何もない空間があるという独特の画面構成にも注目した。(磯部靖)

 茅野吉孝「プロチダの路地裏」。無数の建物が入り組んでできあがった路地裏の情景である。手前は暗く、奥の建物には陽が差し込んでいる。それによる明暗と建物それぞれのフォルムや色彩が、強い見応えを作り出している。どこか鑑賞者を作品内へと誘い込むような、そういった好奇心を刺激する魅力を感じさせる。(磯部靖)

 小山容子「昼間の月穏やかな時間」。ハシビロコウが二羽向かい合って描かれている。奥には山が見え、空には雲がかかっていて、うっすらと太陽が見える。どこかミステリアスな雰囲気を感じさせるところがおもしろい。この鳥が意志を持って会話しているような、童話的世界観も引き寄せられているようで興味深い。(磯部靖)

 寺井義夫「スペインの小さな村」。茶系の色彩を帯びた瓦屋根が連なっている。その連続する様子がしっかりと描き込まれている。手前から奥へと遠近感をしっかりと捉えながら構成された、独特のテンポを持った画面が印象に残った。(磯部靖)

16室

 島田正作「回想」。漁網が積まれた一艘の船が大きく描かれている。漁網の他にも緑の丸い浮きがいくつか見える。その細やかな漁網の描写と浮きの立体感がよく描かれている。そしてそこに一羽の鷗が留まっている。どこか孤独ながらも自由の象徴のような鷗の姿にもまた強く惹き付けられた。(磯部靖)

 辰巳彰「帰りを待つ」。駅舎の外に並ぶ自転車が、主人の帰りを待っている。その情景が光と影によって繊細に描き出されている。特に左上方からの光が大きく差し込んだ手前の地面が、どこか強いノスタルジーを感じさせる。透明水彩の魅力を存分に活かした作品である。(磯部靖)

 木原徳子「閑日古村」。グレーの色彩を中心に重なり合う家屋の風景を、少し高い視点から描いている。一つひとつの屋根の表情に味わいがある。それが連続することで、画面全体にここに暮らす人々の気配のような、独特の情感を引き寄せている。(磯部靖)

 岡田三千代「旅」石井柏亭奨励賞。田舎の駅構内の一隅である。窓口がいくつか並び、その手前右下に重ねられたカバンが置かれている。描かれてはいないが、このカバンの持ち主の気配と共に、旅情を引き寄せている。そこに漂うシーンとした気配もまた印象的である。(磯部靖)

 須貝昌春「天地」。流れ落ちる滝を背景に、一人の若い女性を描いている。女性は右を向いて座っている。どこか妖精的というか、この大自然の化身のような雰囲気を湛えている。確かな写実力で描きながら、そこに幻想的な雰囲気も感じさせるところが特に興味深い。(磯部靖)

17室

 沖津達也「星に願いを」。室内のテーブルに望遠鏡や花、時計など様々なモチーフが置かれている。その一つひとつがしっかりと捉えられ、描き出されている。奥の壁にはミュシャのポスターが貼られている。関連性のないものを一つの画面の中で統合しグループ化したような、独特の一体感を感じさせるところが特におもしろい。(磯部靖)

18室

 長瀬庄衛「山塘河・碧波倒影」。画面の下方から三分の二が川面で、その奥に家屋が立ち上がっている。川面にはその家屋の壁が映り込んでいる。煉瓦や木戸などをしっかりと描きながら、その姿を繊細に川面に落とし込んでいる。川の緩やかな流れによってその姿は少しずつ揺れ動く。その実に繊細な様子がこの作品の見どころである。明るい陽の光に照らされながら、深い空間的な奥行きを感じさせる作品である。(磯部靖)

 岡田礼子「軒下」。土壁を大きく画面いっぱいに描いている。その堅牢ながらも柔らかな触感が独特である。左下には農具が置かれていて、ここに住む人間の気配を感じさせる。茶系の色彩の扱いも自然でよい。(磯部靖)

20室

 永田弘子「閑日」。積み重ねられた重厚なテトラポットがたくさん描かれている。コンクリートの質感がじっくりと表現され、テトラポットの強い存在感が印象的である。その向こうで釣りをする人物が見えるが、それが一つのポイントとなって、画面に動きを作りだしているところもまた興味深い。(磯部靖)

 細山田圭子「あふれる想い」。裾の長いドレスを着た女性が、妖しい魅力を放っている。金箔を施した背後は屛風仕立てになっていて、この女性の魅力を押し上げているようだ。デッサン力もさることながら、独特の画面構成が印象深い。(磯部靖)

21室

 中居昭二郎「室戸岬」。険しい海岸の岩々の様子が強く印象に残る。波が激しく打ち寄せる中に存在し続ける力強さが、そのゴツゴツとしたフォルムと深い色彩から感じられる。強い臨場感が魅力である。(磯部靖)

22室

 山口武行「塒へ Ⅲ」。部屋の窓から月に照らされる田んぼの風景が見える。紫がかった色彩の扱いが、どこか幻想的な情感を引き寄せている。物語の世界に迷い込んだような、不思議な魅力がある作品である。(磯部靖)

 斎藤一男「嵐が過ぎて」。まだ水の残る田畑が遠景の低い山まで続いて行っている。緑や茶を入り組んだ様子で施しながら、作品に抑揚を作りだしている。山には桜を思わせるピンクの色彩が入れられていて、それが作品に一つのアクセントを作りだしている。画面全体にある清々しい空気感もまた魅力である。(磯部靖)

 城本明子「花と共に」。画面いっぱいに植木鉢に植えられた花が咲き乱れている。赤、黄、青、緑といった様々な色彩が相俟って、装飾的な画面となっている。じっくりと描き込まれた画面の中で、花々が生き生きとした生命力を放っている。(磯部靖)

 沖津信也「蟬しぐれ(山寺)」。山奥の、無数の木々に囲まれた寺が小さく描かれている。そのたくさんの木々それぞれのヴォリューム感が印象的である。そういった木々の柔らかなフォルムの中で、寺の鋭いフォルムが印象的な効果を作りだしている。手前から奥への遠近感もしっかりと捉えられて描かれた密度のある画面が、強く印象に残った。(磯部靖)

第45回記念新院展

(9月25日〜10月3日/東京都美術館)

文/磯部靖

1室

 石井宝山「錦絵 華の刻」。あたたかみのある灰白色の色彩を基調にして、和服を着て座る一人の女性を描いている。その繊細な筆の運びが、そのままこの女性の内面に繫がっているようだ。生地には花などが装飾されているが、それも奥ゆかしいデザインである。いわゆる日本女性の美しさが、しっとりと描き出されている所に強く惹き付けられた。

第47回創展

(9月25日〜10月3日/東京都美術館)

文/磯部靖

1室

 前田麻里「歓喜」。少年と少女が夜空に浮き上がっている。周囲には象や馬なども見え、右下のサーカス場から昇ってきたようだ。ポップな感覚でそれぞれを描き出しながら、鑑賞者を作品に誘い込むような魅力がある。童話的世界観を絵画作品として昇華させる画家の力に感心した。

 百瀬まつ子「夢のあしあと」。褐色の色彩をバックにシルエットになった人物の姿が描かれている。人物の姿は緑の植物や無数の蝶によって半分程度隠されている。女性のようでもあり、男性のようでもある。下方から上方に流れるような動きの中に、天上的な精神世界を描いているようで強く印象に残った。

2室

 嶋田正之「悠久の軌跡」。切り立った崖とその下方に流れる川を描いている。ドラマチックな画面構成である。画面全体は緑がかっていて、それが自然そのものの輝きというか気配を帯びているようで興味深い。画面全体に流れるゆっくりとした時間の流れが、雄大な自然の姿をより一層鑑賞者に訴えかけてくる。

 森水碧「空へ」。空中をジャンパーが飛んでいて、下方では観客がそれを応援している。空のコクのある青と雪の白が強いコントラストを作り出している。所々に使われている金が、そこに小気味よいアクセントを作り出している。軽やかな清々しさもまた魅力である。

3室

 木間明「軌跡=『曲折』」。画面全体に中心に向かって収斂していくような強い動きがある。その一コマ一コマに人間の顔が描かれている。たくさんの人々が議論し続け、最終的に答えを導き出すような、そういったイメージが感じられる。画面の最も端が濃墨で、そこから中心に向かってどんどん薄く、明るくなっていく。その中心に議論の答えがあるのかもしれない。いずれにせよ、人物一人ひとりの表情に味があり、それが集合して一つの群像表現となっているところがおもしろく、見所である。

6室

 小樋山弘子「輪廻転生」。画面の中央に大きな白い女性の顔が描かれていて、その周囲にまたいくつもの顔が配置されている。画題にあるように、一人の人物が幾度も転成を繰り返して生まれてきた姿なのだろうか、鑑賞者に強い印象を残す構成である。様々な色彩を使って自身の人生観を克明に作品として描き出している所に注目した。

第35回記念大洋展

(9月25日〜10月3日/東京都美術館)

文/磯部靖

1室

 早稲田郁子「心象 '13」。イタリアのコモ湖周辺にある建物の入口を正面から描いている。外壁はレンガ造りで、さらに両脇は灰白色である。入口の扉は開けられていて、中に神父を思わせる人影が見える。どこかミステリアスな雰囲気であり、鑑賞者をそのまま作品世界へと誘うような吸引力がある。レンガの上方には、数人の顔が掠れるように浮かんでいる。それはここで暮らしてきた過去の人々の姿をイメージさせ、この建物と街の永い歴史と物語を暗示するかのようだ。それと重なるように感じられるのは、この建物、壁自体の存在である。堅牢な壁が風雨にさらされ、長い時間をかけてレンガの部分が露わになる。年老いた人間のようにその表情には深みがあり、含蓄がある。そういった刻々と変化しながら、深い情感を刻んでいく壁に惹かれた画家ならではのイメージが、結晶となってこの作品を支えているようだ。安定した構図の中に、時の流れという絶対的な軸が作り出す、いわばロマンのような世界が展開し、鑑賞者のイメージを刺激する。

 直井照美「大地の風」。熊手を持って座った一人の老婆を大きく描いている。背後には竹篭や植木鉢、網などが描かれている。茶から赤の暖色系の色彩を使いながら、老婆は白い衣服という構成である。その色彩の対比が強く印象に残る。老婆の生きてきた人生そのものを作品に刻み込むような、奥行きのある画面が鑑賞者を惹き付ける。

 根岸英「初夏のシチリア」。あまり広くない通りを描いている。その向こうには緑の山が見える。上方からは明るい陽の光が差し込み、壁や植物などをキラキラと輝かせている。その鮮やかな色彩の扱いが大きな魅力を作り出している。それが鑑賞者の視線を画面の奥へ奥へと誘い込むような画面構成と相俟って、大きな魅力を作り出している。

 海老原利雄「軍鶏の図」。五羽の軍鶏を描いている。特に中央に立つ軍鶏の凜とした姿が雄々しく、強く惹き付けられる。青、赤、白といった色彩を背後に施しているが、特に右下の赤がそこに描かれた軍鶏の戦闘的な感情を思わせて興味深い。生命感溢れる生き生きとした描写力が魅力である。

 加茂糺「靜寂」。水の流れていない小川の風景である。細かく石をいくつも描き込みながら、周囲の雑木林も同じように軽やかに細かく描き出している。その林に遮られて、陽の光はわずかにしか落ちてこないが、その繊細な明暗もしっかりと捉えられている。画面全体に流れる涼やかな風のような雰囲気もまた印象深い。

2室

 森田幸江「運河沿いの倉庫」。運河沿いの情景を少し高い位置から見下ろすように描いている。厚いマチエールとコクのある色彩が深い味わいを作り出している。遠景に行くに連れて視点が真横へと移動していっているところがおもしろい。じっくりと描ききった気持ちの良い作品である。

3室

 向井喜子「旅の途中」。画面全体の温かみのある黄土を帯びたベージュの色彩が気持ちよい。正面は大きな壁で、右奥には建物の入口が見える。壁は場所によってその表情を豊かに変化させている。大胆な画面構成の中に、画家の誠実な画面作りが垣間見え、好感を持つ。

 建石力子「約束」大洋会大賞。並んで座った二人の女性を画面の右寄りに描いている。その左側には赤いテーブルがある。塗っては削ってを繰り返した堅牢なマチエールが、鮮やかな色彩を支えている。画面の中にはゆっくりとした時間が流れ、心休まる雰囲気である。ほっとするような魅力に強く惹き付けられた。

7室

 マンゲス「花火」会員推挙。花火を見に来た家族の姿が描かれている。いかにも現実的にありそうな様子に思わず微笑んでしまう。しっかりとした描写力もさることながら、遠景の波打ち際まで続く距離感などもしっかりと捉えられていて、確かな筆力を感じさせる。

第43回純展

(9月26日〜10月3日/東京都美術館)

文/磯部靖

1室

 白戸昭「旅情(北欧)」。朱色の屋根の家屋が横に連なるように並んでいる。それが画面の中央にあって、その手前下方あるいは上方には深い暗色の色彩が施されている。朱と暗色の強いコントラストに鑑賞者は強く惹き付けられる。遠景には塔が何本も建っていて、それが作品に調子よいテンポを作り出している。自身のイメージの中で濾過、抽出されたこの風景が、鑑賞者の眼前に強く立ち上がってくるような迫力を孕んでいる。白戸作品の魅力が存分に発揮されている作品と言ってよいだろう。

 斎藤良夫「塔のある村」純展特別賞。画面の手前から瓦屋根の建物が奥へと続き、その向こうでは切り立った崖に城が建っているのが見える。徐々に競り上がっていくその情景がドラマチックである。遠景には山並みが広がり、空の下方は黄金に輝いている。瓦一つひとつの表情など、筆によって丁寧に建物を描きながら、どこか幻想的な雰囲気を孕んでいるところがおもしろい。城を頂点とする三角形の構図に安定感があり、画面全体で鑑賞者をこの街に誘うような魅力がある。そういった中で、画面の中心やや右側に赤い車が点景で描かれている。それがこの作品の中のもう一つのポイントとなって、この街で活動する人々の気配を訴えかけてくるところが印象に残る。

 多田恵子「Sweet memories」。ピエロを画面の右下に配置し、その奥ではピアノが演奏されている。周囲には小さいピエロも飛んでいたりする。サーカスという現実から隔離されたような空間の中の様子が生き生きと描き出されている。上方のテントの頂点から放射状に線が広がっていて、それが強い吸引力を放ち、鑑賞者を捉えて放さない。

2室

 大石哲人「東京の屋根の下」。少し小高い視点から街並みを見下ろすように描かれている。複雑に組み合わされた曲線が、重厚に重なり、遠景へと続いていく。その様子をクリアに描き出している所がよい。明るい色彩もまた澄んだ空気を感じさせる。

 赤坂玲子「古レンガに感動」。手触りのある堅牢なマチエールでレンガの建物を描いている。その斜めから見た視点で描いた画面構成が独特でおもしろい。剝落した部分の形もまた印象的で、そういった重厚な画面に鑑賞者は足を止める。

 宍倉聰哉「窓辺」。二階から見た風景である。眼前に青々とした葉を付けた樹木が寄り添うように描かれている。その濃密な様子は、これまでの宍倉作品にはあまり見られなかった。形の異なる葉と葉が重なり、陽の光を受けた明暗も相俟って刻々とその様相は変化していくようだ。そして、右下に雀が二羽描かれている。その丸みを帯びた愛らしい姿が、画家のこの風景に対するやさしい眼差しを感じさせる。やわらかな色彩の扱いが魅力であり、それによる充実した画面が特に印象に残った。

4室

 渡辺博「越後須原」会員賞。パノラマ的に雪景を描き出している。細やかに描き込みながら、作品内の透明な空気感を失っていない。起伏する大地を丁寧に追っていきながら、誠実に描ききった作品である。

 飯塚明夫「自由市場の光景 1」。肉を売る人物を正面から描いている。何気ない光景であるが、どこか余韻の残る作品である。肉の吊るされた様子によるテンポや、老婆の持つ独特の存在感のせいだろうか。味わいのある作品である。

 川田謙三「森にこだまするリュートの調べ」。森の中で一人のピエロが演奏している。背後の白馬がこの音色に耳を澄ませているようだ。見つめ合ったピエロと馬の親近感のある関係性が印象的である。心あたたまる作品として注目した。

 稲飯文昭「静かな時」。向かって左を向いて座った二人の女性を描いている。どこか古代ギリシアを思わせる雰囲気がある。背後の壁や女性の衣装は灰白色で、手に持っている壺や果実は黄土色である。色数の少ない中に、画家のイメージによって古代からのロマンを引き寄せている。的確なデッサン力に支えられながら描かれたイメージ豊かな作品である。

5室

 森本憲司「しばれた朝」。水鳥が水辺に群がっている。ちょうど朝日が昇るところのようで、遠景では太陽が輝いている。岸辺には雪が残っていて、朝日にキラキラと輝いている。冷たく肌に迫るような空気感とともに清々しい感覚が魅力である。生き生きとした鳥のそれぞれの様子も愛らしく印象に残る。

8室

 篠原富子「洋上の都市」会友賞・会員推挙。周囲を水面に囲まれた都市を遠景から描いている。そこにはたくさんの建物が密集していて、その一つひとつをじっくりと描ききっている。その混み合った都市とは逆に、水面は大きな空間を作り出している。一つの作品の中にはっきりと抑揚をつけて、見応えのあるものにしている。そういった画面構成がおもしろい。深みのある水の色彩もまたコクがある。そういった制作に対する強い意欲を感じさせるところに好感を持つ。

第19回極美展

(9月26日〜10月3日/東京都美術館)

文/磯部靖

2室

 富永敏雄「秋」極美功労賞。厚く施された絵具によるマチエールが山並みを望むこの風景を立ち上げてくる。手前には燃えるように紅葉した木々がみえる。そして山のグレー、そらの水色という三層のパートを統合させながら、生き生きとした大自然の風景を表情豊かに描き出している。そこに内包された強い生命の力に惹き付けられる。

 横島喜一「早春の菅生沼」東京都知事賞。まだひんやりとした空気の漂う風景が肌に迫る。ゆったりと空間を取りながら、大地に伸びる樹木を点々と配置している。黄土から茶系の色彩を中心にして、そこに緑などの色彩でアクセントを付けて行っている。何気ない風景の中に、余韻の残る味わいがある。

3室

 染谷稔「芙蓉峰(富嶽シリーズ Ⅲ)」。赤く染まった富士の姿を大きく描いている。稜線は鋭く、凜とした佇まいが魅力である。それを表現するやわらかな筆の流れも魅力的で、陽に照らされながら少しずつ変化していくその表情に見入ってしまう。

9室

 坂元貴一「春待つ富士(Ⅰ)」。湖面を挟んだ向こう側に富士が見える。手前も丘になっていて、湖で一旦下り、また登っていく。その鑑賞者の視点を誘導するような構図がおもしろい。また、それらの遠近感やヴォリューム感などもしっかりと捉えられていて、見応えのある作品となっている。

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