美術の窓

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公募展便り(2012年11月号)

美術の窓 2012年11月

再興第97回院展

(9月1日~9月16日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 鈴木恵麻「道程」。地面の上に石を組んだところがあって、そこに光が当たっているのがあやしい。そこには水のイメージが仮託されているようだ。そばに若い女性が立って物思いにふけっている。向かって左側には低い丈の木が伸びて、黄土色の果実をつけている。周りに野の草が生え、小さな淡い青い花も咲いている。地面のもつ生命感、大地の鼓動に耳を傾け、その風景を眺める。その大地の気ともいうべきものを画面に引き寄せる中に少女が立つ。少女はこの大地と一体化するような雰囲気で、黙って大地の鼓動を聴いている。黄土系の色彩をベースにしながら、しっかりとしたマチエールと独特のコンポジションに魅力がある。

 福井爽人「明ける」。「夜の永いしじまの末に、沈黙の大地は深い眠りからゆっくりと目覚める。そして太陽は総てを光彩と喧騒の世界へと移り変える。この広大なドラマに遭遇することは運の良いことかも知れません。そこでは希望を持つことが出来ます」。微妙なかたちで上方に立ち上がっていく樹木の形が面白い。それが十数本も描かれて、その屈曲した枝や幹の形が全体で深いハーモニーをつくる。春が来て、すこし葉が芽吹き始めた頃の季節だろうか。バックの黄色や淡いピンク、あるいはブルーなどのトーンの中に立つこの樹木の形は実に繊細な生命を感じる。その自然のかたちに画家は自分を重ねながら、一種独特の音楽性とも文学性ともいえるイメージを描く。

 鎌倉秀雄「雪色平等院」。「地球の温暖化はますます進んでいるようで、今年の夏は昨年以上の亜熱帯風の暑さでした。院展に出品しだした昭和二十年代はまだ今のようにアスファルト化していないので夕方になると涼風がたち蟬の合唱が始まったものです。ところが今の都会はどうでしょう。騒音の満ち満ちているなか、今年は更にロンドン・オリンピックの開催ということで熱気のある実況放送が深夜まで続きました。その興奮がおさまり、ようやく静かになったのはお盆休みの頃からです。人々は全国に大移動を開始。あふれんばかりの車も急に少なくなりました。熱気と騒音に身をひそめていた蟬達も急に鳴き出し、二十年代の制作期の気分にやっとさせてもらえました」。平等院鳳凰堂の門と左右の建物が描かれている。雪が積もっている。屋根の独特の反りのある形。そのカーヴの連続した様子は、まるで中世の音楽を聴くような感興に襲われる。そんなフォルムを見事に画面に再現する。

 郷倉和子「春の瞬き」。「幼い頃の春の記憶を描いてみました。春風と春の光が交錯する中、なにかの気配を感じました」。白梅が咲いている下方に三羽の莵が描かれている。独特の生命感をもつ莵の丸いフォルムと柔らかな日差しに咲く白梅とが独特の香りを漂わせる。画家の心のスクリーンの中にあらわれた光景が実に静かに迫ってくる。

 松尾敏男「白糸の滝」。「生涯を通して向かい合ってきた『日本画』で重要なテーマである墨について考えなければとの思いで『水墨』に挑戦しました。人生の終りが近くに見えて来た今やらねば、その機会が失われるとの気持ちからです。墨に五彩ありとは先人の言葉ですが、その深遠な意味を痛感しました。私に出来たのは一彩かせいぜい二彩。しかし、それを諦めず之から三彩四彩と究めて行けるよう、さあ新たなる出発です。『人生の終り』もうちょっと待っていて下さい」。画面の中心に白糸の滝が左右に広がって描かれている。淡い墨色をバックにして下りてくる水の様子が崇高なものとして捉えられている。右のほうに手前に向かってくる斜面があって、それに沿って水が下りてくる様子が描かれている。ある部分をピックアップして手前に置いている。ダブルイメージである。そして、その手前の風景と向こうの滝とのあいだに黄金色の虹がかけられている。水の中には円弧がいくつも描かれて、水の動きをつくりだす。バックの柔らかな墨色から濃墨にわたる深い調子が、この水の様子を支えている。ずいぶん考えられた構図だと思う。水のもつ量感が表現されているところが魅力。

 後藤純男「大和の雪」。五重塔と建物、そして松。そういった光景に雪が積もっている。それを静かに描き起こす。「私にとっての雪の魅力は、雪景色を描くという行為を通じて、心身を無垢な状態に立ち返らせることが出来ること、正に、絵の世界に没頭するということです」。静かな中に緊張感がある。垂直に立つ五重塔の動きとその上方の水煙、それに相応するような枝垂れ桜の複雑な下方に下りる動き。どっしりとした瓦屋根の建物と築地塀。屈曲する松。遠景の杉林。それぞれのフォルムがそれぞれの韻律をつくりながら画面の中に構成される。静寂な中に独特の精神的空間ともいうべきものがあらわれる。

 那波多目功一「爛漫」。「角館で見た枝垂れ桜。黒い塀に淡いピンクの桜が美しく映え出品画にと思い写生をしました。下地を作る段階になって、角館の塀がどうしても意に添わない。そこで近くの六義園の門が自分のイメージに近かったので角館の枝垂れ桜と門とを組合せ、制作しました。爛漫と咲く枝垂れ桜を絢爛に描いてみたかったのです」。塀がシルエットに描かれている。竹を結わえた塀が左右に続いていて、素朴な昔ながらの門が中心にある。隙間から向こうの風景がのぞく。その墨色の竹のあいだからのぞく空間と墨色とのバランス、リズムが、この全体のコンポジションに必要であったのだろう。そして、一歩中に入った向こう側に矩形に組まれた屋根のある柵がひっそりと立っている。桜は門の屋根の上から下方に塀の手前に、静かに流れてくる水のように描かれている。そのあたりは徹底した写実の結果あらわれた幻想のような雰囲気がある。満開の桜は何十本も何百本もあるようで、その満開の花の奥行きがピンクのトーンの変化によってその向こうにつくられ、徐々に手前になるに従って形があらわれ、このグレーのシルエットを背景にした枝垂れ桜の花となって眼前に描かれている。画面に接近すると、絵具をたっぷりとつけて、その上に静かに置きながら、それを繰り返すことによって複雑なニュアンスがあらわれていることがわかる。この門の中に入ると、異郷の中に入っていくような不思議なあやしさと幸福感ともいうべき世界が感じられる。桜のもつ生命感を実によく表現していると思われる。

 村上裕二「巨木とハシゴ」。文部科学大臣賞。「巨木は『宙』、ハシゴは『空』。彼は何処から来て何処に向かうのかな? 巨木は『過去』、ハシゴは『未来』。ていうのはどう? 彼は誰? 自分でも答えを探しているけれども結局は、ただぼんやりと見てもらえれば、それがいい」。ジャックと豆の木の童話を思い起こすところがある。無限に伸びていく豆の木の上にジャックが上っていく話だが、この作品は下方に巨木の地面に接する部分があり、その手前にシルクハットをかぶった少年が梯子を持っている図である。その巨木の地面に接するあたりの様子は、巨大な波が立ちあらわれているようなあやしいフォルムもあらわれている。地面は黄金色。梯子をもつこの少年は冒険家であるし、いわばトリックスター的な性格をもっているようだ。ダイナミックな動きをもつ背景。まるで巨大な波が揺れ動いているような、そんな樹木の塊を背景にして、このナイーヴな少年は何を必要とするのか。いわば創造のベースにあるイマジネーションをこの少年に仮託して表現したのだろうか。イメージを自由に形象化する画家の力に注目。

 山本浩之「現(げん)」。奨励賞。スカートをはいた女性が立っているが、その胸のあたりの衣装が取られて裸の姿が現れる。女性は白い花を手に持っている。背後にダリアのような花がピンクや黄色、青などの色彩で浮かび上がる。下方の両側には白い花瓶に鶏頭が挿されている。その二つが捧げもののような雰囲気で、この女性がいわば生身の体でありながら、そのまま仏の像のイメージと重なる。静かな斜光線がこの女性に差し込み、そこに不思議な光を与えている。その光によってつくられた独特の陰影が、なにか浄化された世界を表す。ハーフトーンの柔らかな光の中の陰影が神秘感を醸し出す。

 藁谷実「共鳴」。奨励賞。赤い鐘楼が瓦屋根の上にある。その下方には二階建ての建物があり、近景には灌木がシルエットとなって浮かび上がる。きわめて大事なものが中に入っている建物といった雰囲気である。鐘楼の上方に伸びていくものに旗がはためいている。現実が不思議な非現実の中に化して、憧れといった心象を引き起こす。

 松本高明「静池」。画面全体が水面である。複雑なさざなみがいくつも立っている。その波を鑑賞者が目で追うと、不思議な世界に引き寄せられる。横に動いていく波紋に対して、木の影と思われるものが垂直に映っていて、その二つの動きが実に玄妙な世界を醸し出す。いわば水という実体が波紋で、映っているものが虚の世界として画面の中にあり、実と虚がお互いに影響を与えながらこの不思議な世界をつくる。

 前田力「廻(めぐ)る」。奨励賞。回転する球形の古い遊具。その鉄の輪が錆びている。その前に同じく錆びたブランコに乗る少年がいる。少年時代の回想シーンだろうか。鉄の球がしっかりと描かれていて立体感がある。そこに包まれた空間が現実と記憶とが交差する不思議な世界をつくる。ブランコに乗る少年もまたリアリティがある。空間の深い奥行きの中に植物や光や建物などが柔らかなグレーのシルエットとして浮かび上がる。独特のロマンの世界である。

 谷善徳「春を待つ参道」。白黒の世界。ゆるやかな石段がずっと画面の中心を奥に続いている。両側に立つ樹木。白い雪の上に落ちた針葉樹の落ち葉。遠近感を強調しながら、この石段を上っていくともう一つの異界にたどり着くようなあやしさがある。モノクロの中に茶褐色が入っている。強い緊張感がある。

 山田伸「THE EARTH」。湾曲した大きな角をもった二頭の小さな山羊。その背景は緑で、下方に行くとダリアなどの花が咲いたもう一つの世界があらわれる。そこにダブルイメージのように水や蓮の葉などが置かれ、残照の風景さえもあらわれる。下方の色彩豊かな花や空のイメージに対して、上方のしっとりとした緑の世界。二つの季節のはざまにこの二頭の山羊がいて、ロマンティックなイメージをつくる。

 髙島圭史「旅の博物誌」。日本美術院賞・大観賞・第十八回天心記念茨城賞・特待推挙。これまで一人の女性を描いてきたが、今回は一転して、大きなテーブルの上に様々なものがある情景。そのテーブルに両手を伸ばしてそこに顔を寝かせた女性が、座っている。それら全体を描き出した。画家独特の一種の音楽性ともいうべきものが、様々な形象を入れることによってあらわれる。また、テーブルの上の反射光のような光、そしてそれを取り巻くものたちと、もうひとつ背後の床の向こうからあらわれてくる光とが交錯しながら、陰影のドラマをつくる。稠密に構成することによって画面からメロディが生まれる。

 宮北千織「悠久の眠り」。「スペインの教会での取材です。旅行中、数々の墓碑彫刻を目にしましたが、どれも美しいものでした。日頃人物を描く私にとっては様々なイメージを与えられ、制作のきっかけとなりました」。宝冠をかぶった男性が仰向けに寝ている。墓碑彫刻というから、死んだ人のひつぎの上にある彫刻からインスパイアされて、そのイメージを実際の人間に戻して表現した。時間を超えた不思議なあやしさが感じられる。それに加えてこの画家独特のディテールの表現が絵画的な魅力をつくる。とくに手の形などは見事だと思う。

 倉島重友「合歓(ねむ)」。内閣総理大臣賞。「朝靄の中、夕べに勢いを増した柔らかな花群に爽やかな微風が渡り、合歓の葉は目覚める」。近景から太い幹が上方に上って枝に分かれていく。その先に、巨大な合歓の花の咲いている様子が描かれる。下方に犬を連れた若い女性がシルエットに表現される。女性は帽子をかぶり、エレガントな洋装である。合歓の花のもつ温かな幻想的な味わいが、この画面の作調を決定している。まさに垂れてくる葉の形やピンクを帯びた白い花は、そのまま眠りに誘うような魅力がある。実際の情景がそのまま一種の幻想、ファンタジーと化す。

 北田克己「朝との汀」。「中心は庭園の池の水面です。朝の光に緩やかな流れが少し光り、汀が輝く時間帯を描いたものです。桂離宮などを取材し、そこで触れた造形に触発された作品です」。中心に水の矩形の色面が置かれ、その青が、横にいくと柔らかな緑に移っていく。島や草が金色(こんじき)に光っている。左のほうには矩形の琳派ふうな装飾の描かれた空間がある。このあたりのイメージはまさに桂離宮のイメージだろう。日本のもつ美の頂点といわれる桂離宮の造形から触発され、朝の射光線の中の水面を中心としたコンポジションをつくる。これまでの人物を中心にした作品から人物がいなくなり、風景のみによるコンポジションとなった。重層的なイメージを含んだ奥行きのある空間に注目。

 村岡貴美男「二人」。ソファに座る二人の少女。ウサギの縫いぐるみを抱えている。その周りにはクマや少女の人形がたくさん置かれている。二人の少女の顔は一種シルエットふうな表現になって、深いイメージのなかにあらわれる。背後に樹木が立ち、葉が茂っている。無数の蝶がバックの黄土色の空間の中に群れている。稠密な息苦しいまでの密度のある空間のなかに、この二人の少女は描かれている。死の世界から呼び戻された二人の女性のようなイメージ。キューブリックの映画に死んだ人たちが現実化して現れてくる作品があるが、ふとそんなイメージも思い起こす。

 並木秀俊「青い閃光」。奨励賞。エッフェル塔や東京タワーのような高い鉄で組んだ塔を、下から上を眺めているといった構図がダイナミックである。シャープな鉄による構築物の直線の動きが画面の構成の軸になっている。そこに青い光が差して、ファンタジックな空間が生まれる。

 前原満夫「萌芽の時」。すこし上方から下方の地面を眺めている。そこから立ち上がってくる繊勁な植物の茎。その茎の先にこれから花や葉になる蕾や芽が点々と小さなともし火のように存在する。周りは雑木と枯れ葉などで、そのあいだに地面のもつ土の感触がしっとりと表現される。地面の一隅の中から立ち上がってくる一つの植物の姿を実に丁寧に描きながら、独特の生命感をつくりだす。

 中村譲「豊漁鯛網」。二つの船のあいだに大きな網が置かれ、そこにタイが掛かっている。水しぶきの中にタイが泳いでいる。たくさんの漁師たちが立って作業している。それを上方から眺めている。静かにスポットライトが当たるように光が差す。上方から眺めるという視点の中に黙々と働く人々の表情が不思議な雰囲気である。その船の上の人々との距離感が、イメージから起きるのか実際に見ているのか、二つが重なっているところがあって、そこに独特の陰影が捺されていて、無言劇とも言うべきシーンがあらわれる。船の上にはタイ以外の魚などもいて、魚のそれぞれのディテールがまたアクセントとなっている。

 岸野香「交響」。雪景で、画面の下方に静かに川が流れている。その洲に雪が積もり、樹木が伸びて、すこし緑が鮮やかに発しているから、春の浅い時期の風景である。山の斜面にも雪が積もり、そこからも樹木が立っている。その地面の起伏や静かな水の流れの中に立つ雑木を一つひとつ丁寧に描きながら、画家は風景を静かに歌う。清潔な中に独特の韻律があらわれる。

 吉澤照子「椿曼陀羅」。椿の花が地面にたくさん落ちている。その赤い椿の絨毯のような中に二匹の黒い猫が寝そべっている。目が白く輝いてあやしい。画家独特の幻想である。赤というものが呪術的な強い力をもって画面に置かれ、静かに命のイメージを醸し出す。その両側に椿の木に花がついている様子が描かれていて、一隅がそのまま神秘的な世界に変容する。

2室

 赤田美砂緒「わかれ道」。道がY字路になっている。その分岐点にトタン葺きの粗末な建物がある。道が白く、そのそばの電信柱も白く、トタンも煤けて、白茶けた風景である。時間に漂白されたような雰囲気があって、その時間の手触りが独特の雰囲気とリアリティを呼ぶ。記憶と現在とが混在する中にあらわれた風景の面白さである。

 藤原まどか「夜になる前に」。緑や青、黄土の色彩が瑞々しくハーモナイズする。建物が密集したようすを背景にして、若い女性が帽子をかぶって立っている。モダンな感覚が新鮮である。上方を見ると、夕方の月が浮かんでいるようだ。棚引く雲のフォルムと建物のフォルム、女性の衣装のフォルムが連結しながら独特のメロディをつくる。

 高橋誠「久遠」。地面が奥深い断崖になって、その下方を水が流れている。その地面の上に雲のあいだから光が差し、暗い部分と明るい部分とに分けられる。そんな光景を上方から眺めている。立体的な崖のあいだの面積がよく描かれていて、それによって風景に立体感のあるところが面白い。

 杉山紀美子「想う」。蔓草が繁茂しているその下方に座っている女性。大きな葉が深い緑や明るい緑、あるいは青で彩られ、その色彩が女性の上衣の青と響き合う。横向きの女性が静かに上方を眺めている。蔦の独特の生命感と若い女性の生命感とが響き合う。一種の装飾性と写実性とがクロスするところにあらわれた面白さである。

 河合重政「生(明し海へ再び)」。卵を産んだウミガメがまた海に向かおうとしている。その鈍重と言ってよいような紡錘形のフォルムが力強く描かれている。甲羅から首を出し、両手をかきながら前に進むその姿は、どこか人間的な雰囲気である。独特の重量感と手触りのある表現に注目。

 浦上義昭「単行 ・」。雪の積もった地面がはるか向こうまで続いている。遠景は斜面になっていて、そのゆるやかな斜面に民家が点々と立っている。あいだに川があるがその水もほとんど枯れた雰囲気である。そんな茫漠たる雪景の向こうに赤い一両の車両が動いていく。その赤い車両によって風景に童話的な物語性が生まれる。懐かしいふるさとの風景を語るように表現する。

3室

 秦誠「線路」。建物の中にとまっている車両。そこからいま動き始めている車両。その背後の車両。四つの車両を駅の構内の中に見て、それを上方から眺めている。上には陸橋があり、そこの向こうにはビルが並ぶ。そのビルのもつ現実性に対して、下方の線路や車両は白く晒されたような雰囲気で、なにか記憶の時間がそこに重なっているように感じられる。車両は時間のなかを進んでいく旅のようなイメージがしぜんとあらわれる。風景と時間とが面白く交差する。

 松村公太「島人(しまんちゅ)」。水の中に洲があって、そこに雑草が生えている。そこに牛と一緒に立つ農民。棒を持って三角の帽子をかぶっている。中国の農村風景だろうか。牛は座りこんで遠くを眺めている。悠久なる時間の中に今日という日の生活する時間があらわれ、労働を讃歌するように周りの水面がきらめいている。その光を背景にしてシルエットふうに描かれた人間と牛に独特のモニュマン性が感じられる。

 中神敬子「光の谷の街から」。ヨーロッパのある集落が描かれているのだろう。はるか向こうには草原が続いて、そこを川が流れているのが遠景となっている。中景は建物群で、中景の中のいちばん遠くにあるものが茶褐色に、その手前が黄金色に輝くように描かれ、もっと近景になると茶褐色系のグレーのシルエットふうな風景に変わる。集落を三つの色調に分けながら刻々と移っていく時の移ろいがそこに照らし出される。クリアなフォルムによる建物の連続性の中に、リズムともいうべき動きがあらわれているユニークなコンポジションに注目。

 加来万周「朧煌(ろうこう)」。高知県の或る海岸をモチーフにしたものである。このような岩が海に突き出ている。海の向こうには水平線がある。太平洋の広がりに向かってこの岩は続いていて、それが白く銀色に光るように表現されている。海の向こうは暗く、この岩の手前は暗く、海に向かって突き出る部分が白く輝いていて、そこに風景のもつドラマ性、あるいはロマン性ともいうべきものがあらわれる。その岩のもつ手触りと同時にムーヴマンが面白い。遠近感の中にあるパースペクティヴの消失点に向かってこの岩が伸びているといった、その集中していくような動きがこの画面の中に緊迫感をつくる。

4室

 中井香奈子「Coffee Shop」。コーヒーショップのカウンターに座っている青年の後ろ姿。カウンターの向こうには様々な容器がたくさん置かれている。そこに斜光線が差し込み、きらきらと輝かせる。平凡なある一隅がきらきらとした雰囲気のなかに捉えられる。若々しい感性に注目。

 大山龍顕「邂逅(かいこう)の兆し」。水の上に蓮の葉がずいぶんたくさんあるが、いずれも朽ちているような雰囲気である。それに対して点々と茎が立ち上がり、その先には緑色の蕾があって、それは命のともし火が青く灯っているような雰囲気である。水の上のこの水墨ふうなトーンの中に描かれた蓮のその死んだような雰囲気に対して、蓮の蕾が生命の証のように対照される。どこかレクイエム、あるいは祈りといったイメージが漂う。

 斉藤博康「歴―厚沢(あっさ)部(ぶ)浜―」。道を上っていくと建物があるが、それは廃屋らしい。電信柱も傾いている。そして、手前は浜になるのだろうか。引き揚げられた船がほとんど解体しつつある。グレーのトーンの中にすべてが崩壊しつつある。空がオレンジ色に輝いている。風景を見ながら、なにか深い瞑想の中に画家は入っていく。失われた時間というものがしぜんと画面からにじみ出るようにあらわれてくる。

 清水操「夏の旅」。浜の向こうは透明な青い海である。その上方に空があり、それは画面全体の四分の三以上を占める。そこに入道雲が浮かんでいる。入道雲の先端が白く輝いている。その雲の上方に行く動きと浜の水平面の動きとがお互いに呼応し、そのあいだに海が広がり、静かに波が寄せる。真昼の幻想といった情感の感じられるところが面白い。

 吉原慎介「わかれみち」。道が二つに分かれている。その分岐点に二人の青年が立っている。一人は女性なのかもわからない。向かって右の人物がそうで、その人は花を手に持っている。二人は静かに会話をしているようで、単に道が分かれるだけでなく、二人の人生は別れていくのだろうか。ささやかな物語が画面から感じられる。その周りの植物が丹念に描かれていて、道もまた同様で、それぞれがしっかりと手で触るように表現されている。その手触りというか、マチエールがこの作品全体のリアリティと情感を支えている。

5室

 洞谷亜里佐「あさ」。左に漁師の女性たちがいて作業をしている。右に鷗が飛んできている。清潔な韻律が魅力。それぞれのフォルムが力強く描かれている。優れたデッサン力に注目。

 柏谷明美「寂光」。背景は銀箔を置き、そこにグレーによって樹木が立ち上がっている様子が描かれている。葉が落ちて、細勁な枝や梢が独特の韻律をつくる。木の命の姿があらわれる。

 才木康平「青映」。多目的遊具としての滑り台のついている建物が画面の真ん中に描かれている。不思議なカーヴをしていて、ファンタジックなお城のようなイメージである。そばに風見鶏が浮かんでいる。近景には水があって、ロープで柵があり、植物がある。公園の中のある一隅が神秘的なおとぎ話ふうな風景に変ずる。そのカーヴする中に入っていくと、もうひとつの別の、たとえばハリー・ポッターの世界のようなところにたどり着くのだろうか。そんなファンタジーのもつリアリティを面白く表現する。

 芝康弘「みつめるもの」。グループになって座っている少年少女。十数人の子供たちが描かれている。それをすこし斜めから見ている。どの子供たちも生き生きとして輝いている。小さな花がそこにたくさん咲いているような、そんな新鮮な雰囲気である。一人一人の子供の手足や顔のディテールがクリアに描き分けられて、その集合によって独特のハーモニーが生まれる。

6室

 荒井三重子「JFKターミナル8(立体トラス)」。ケネディ空港のロビー。カウンター。中に点々と旅行客がいる。その広い空間に独特のリアリティが感じられる。

 井田昌明「クロノグラフ」。題名のクロノグラフを辞書で引いてみると、ストップウオッチのついた懐中時計という意味になる。画面に描かれているのは古い機関車である。墨色によって彩られている。上方に月の満ち欠けが、ストップ写真を連続させたように新月から十五夜まで描かれている。時間をいま画家は止めて、画面の中に定着する。機関車ご苦労さまといった、そんな温かな雰囲気で、貨物線と画家との距離は近い。ヒューマンな味わいがこの作品の魅力だろう。空には星がたくさん輝いている。その背景は古い機関車と対照されてもうひとつの作品の魅力をつくる。

7室

 西田俊英「鳴々生々」。「丹頂鶴を取材しはじめてから、もう十年近くになったでしょうか。明快な白黒のコントラストに丹(赤)のさし色が鮮やかで、鳴き合いやダンスで様々な意思交流をとって厳しい自然の中を生き抜いている姿は、潑剌として輝いてみえます。水墨的な抑えた色数で描くことで、彼等の凜とした佇まいの美しさの表現を試みました」。水と空が黒く、そこに木目のようなフォルムがフロッタージュするように表現されている。それが水の流れを表す。上方の空にも同じような文様が置かれ、上下のそれが、時間というものの推移を表すように感じられる。中心に洲があり、植物が白くその葉を茂らせている。その洲を囲むように五羽の丹頂鶴が描かれている。遠景では上方を向いて鳴き、近景でもそれと呼応するように両翼を広げながらやはり空を向いて鳴いている。近景ではその後ろからの姿が描かれ、遠景ではその手前からの姿が描かれる。そばには上方を見る鶴。首を曲げながら胴の中に嘴を差し込む鶴。左のほうにはシルエットとして羽を広げながら上方に向かって鳴く鶴が描かれている。そしてもう一羽、左上方に飛ぶ鶴が描かれている。四枚のパネルを合わせたものであるが、中心の洲の白黒の世界に金が置かれているのが、神々しいアクセントになっている。洲に生える植物の葉の白い様子が、時間のなかに晒されたような、そんな不思議なあやしい雰囲気である。六体の鶴の様子は能を見る時の感動に共通するものがある。能のシテはだいたい死者であるが、この作品の中には能と同様に生死の境界を超えたなかに鶴の家族、鶴の命の姿がうたわれているように感じられる。その意味で、暗い川も、空も、前述したように時間というものの象徴のように感じられる。

 手塚雄二「天の橋立」。「そこは光に満ちあふれていて、雄大な天と地を結ぶ橋が、かかっておりました」。画家は天の橋立を天と地を結ぶ橋というイメージのなかに表現している。丹後国風土記逸文には国産みの大神イザナギの命が天に通おうとして梯子を作り立てたから天の橋立というが、しかしイザナギの命が寝ている間に倒れ伏したという話がある。その神話のイメージを画家は画面の構成の中に考えているところがあるのだろう。海は黄金色で傾いて見える。くの字形の天の橋立が、その海の上を動いて向こうに渡っていく。手前には樹木が生え、独特の量感のなかに表現されている。その量感のある近景から不思議なカーヴをしながら、陸が細く向こうに続く様子。その不思議なあやしさがよく表現されている。向こうの陸地はすこし半島のようなかたちで、はるか向こうに続く。上方の光る青金ふうな空に対して、海の赤金ふうの表現が対照される。向こうの陸を媒介としながら、空に向かう動きが表現される。その動きを表現しているところがこの作品の魅力である。海にしても、陸地にしても、独特の箔を使った手触りのあるマチエールづくりがなされている。空間の詩ともいうべきダイナミズムとイメージが描かれているところに注目。

 田渕俊夫「木(こ)の間(ま)」。「吉野川源流の奈良県吉野郡川上村には、室町時代から始まった林業による、杉や檜の美林が広がっています。整然と植樹された木々の中に、巨大な古木を見ることができ、この地域の林業の歴史を感じさせます」。墨による檜の木の表現。いちばん手前に数本の太い檜が画面の上下を縦断している。左右に行くに従ってすこし大きさが細くなり、遠景になっていく。左のほうは半ばシルエットになって霧の中に霞んでいくようだ。墨の線によるクリアな樹木の形を見ていくと、その姿自体に不思議な強さと同時に神秘的な生命感、あるいは長い歴史といったイメージが浮かび上がってくるところが面白い。それを背景にしていちばん近景には細い枝の先にいま萌えたばかりの緑の葉が置かれている。その緑が実に清新な生命感を表す。それはいまという一刻の時間を表現する。いま命が華やぐ様子。それに対して背後の幹が長い歳月を感じさせて、独特の時間の物語といったイメージがあらわれる。

 松本哲男「ティカル追想(マヤ)」。「マヤ文明の中で、際立った高層建造物に感動し、その栄枯盛衰を描こうとした。グァテマラにあるティカル遺跡にて取材」。不思議なピラミッドふうのフォルムがいくつも画面の中から立ち上がっている。それは石を積んだフォルムで、階段状のものがつけられているから、それを上っていくことができる。その上にのるあやしい不思議な形。像が刻まれているらしいのだが、風化している様子で定かではない。そんなフォルムが連続する様子には神秘感が漂う。まるで古代人のマヤの人々の魂がいまなおここに存在しているかのようである。背後は鬱蒼たる樹木の様子である。その渾沌とした樹木の形もなにかあやしく、時間というものの謎、あるいは心というものの謎が渾沌とした雰囲気であらわれる。まるで深い淵を見るような思いに誘われる。面白いのは下方があいているところで、そこは白く輝いている。そして、左右に溝が掘られているようで、その周りには、何か結わえるためのものだろうか、突起物が点々と置かれている。その白い空間の中に不思議な霊気ともいうべきものが漂う。たとえば靖国神社でも白い玉砂利のあたりに、霊気が感じられるが、この遺跡のこのスペースには一種の宗教的な強い霊気が宿っているようだ。この中に人が座ると、強くインスパイアされるものがあるのだろう。

 清水由朗「煙波」。「フランス北部、ノルマンディ地方のバイエーにある、中世ノルマン人の船を取材しました。トルバルド船といいます。テクノロジーが発達する以前に、遥かな距離を風と人の力だけで移動した人々の智恵と勇気を想像し描いた作品です」。トルバルド船がその船首に竜のようなフォルムを置いたかたちで、右上方に向かって静かなカーヴをつくる。櫂が五つ付けられている。周りには波しぶきが立つようで、水がこの画面の中に引き寄せられている。上方から光が差し込み、この船やオールを照らす。人々はいないが、強いロマンの香りが漂う。

 齋藤満栄「平城京」。「二十年ほど前、イタリアのポンペイを初めて訪れた時のこと、街並みを見てまわっているうちに何故か不思議な懐かしさを感じた。奈良の平城京跡の草原にも同じ思いを覚えた。この懐かしさは一体何であったのだろう。私の中の遺伝子が遠い昔に反応したのかもしれない。たった七十年しか栄えなかった都を思い、この絵を描いてみた。青丹よし 寧楽の都は咲く花の…」。下方に先が数本に分かれて手のように感じられる雑草が生えている。そのはるか彼方は黄金色に霞んだところで、そこに朱雀門が立ち上がる。いずれもシルエットになっている。その両側の樹木もそうである。はるかに霞む山もそうである。そして、空は黄金色に染まって、上方に雲に隠れた太陽が白く輝いている。その太陽の様子は月のイメージとも重なる。幽遠たる古代の時間がいまなおこの周りに漂っているような雰囲気である。その中心にシルエットの朱雀門があり、それを囲む黄金色と緑の空間。下方の緑の植物はそのまま水の世界を思わせる。懐かしい時間がすぐそこにあり、その時間の中に彩られた光景と言ってよい。

 王培「初空(はつそら)」。小学生ぐらいの女の子が両手を上げている。赤い上着に紺色のスカート。裸足で石の上に立っている。微妙なバランスをもつフォルムである。そのフォルムのディテールがクリアで、少女のもつ魅力が生き生きと表現される。背後のグレーの岩肌のように見える空間。その歴史性に対して、いま若い植物のような少女の美しさが対置される。

 番場三雄「タルチョ舞う中で」。日本美術院賞・大観賞・第十八回足立美術館賞・招待推挙。数頭のヤクとともに歩いている人。激しく風が吹きすさんで、タルチョが左下にも右上にもあって、それが風に靡いている。しっとりとしたトーンの中に、この毛のいっぱい生えたヤクのフォルムは周りの自然と一体化しているようだ。生き物でありながら、自然の樹木が動いているようにも感じられる。チベットと思われる光景であるが、独特の塊としての動きが画面に表現されているところが面白い。それを上方から眺めている。上方から眺めていながら、このヤクの中に入って、一つひとつ確認しながら描いているような、そんな視点の自由な移動が感じられる。視点の自由な移動によってイメージが強くなり、チベットのある寒い日の人間とヤクたちとの共存する姿が敬虔なイメージのなかに表現される。敬虔さがそのまま生命感や力強さといったもの、匂いや動きとして感じられるところが面白い。

 吉村誠司「印度微風」。「以前、インドやネパールで様々な壁をスケッチし、その取材を通してリズム感と風が通り過ぎて行くような空気感のある絵を描きたいと思いました。人物・レリーフ・窓・壁画等が響き合いながらインドの明るく静かな日だまりを感じられるように制作しました」。右下方に女性が座っている。そのそばの壁に駱駝や象の動いている様子が幻想のように描かれる。石を積んだ壁に花の描かれた龕。矩形の額のようなそれぞれのフォルムの中に、三日月や星、タージマハルのような建物、衣装をつけた女性などが描かれている。壁をスクリーンのようにして、イメージが触発されるごとにフォルムがあらわれて、ひとつのリズムやメロディをつくるといった雰囲気である。その意味では通常の時間や空間の制限を排除して、いわば演奏するようにこの壁の上にイメージを形象化し、そのイメージの跳躍する連続性の中にこの作品が表現されているという面白さである。

 宮廽正明「放(ほう)下(げ)便(びん)是(ぜ)」。「淡紅色の花びらが、時を織り込み背景の色と入れかわっていく。八坂神社の枝垂れ桜にめぐりあった。花びらの色から解放され、今まで見えなかった透き通った背景がその色を引継いで輝いて見せた。その時、枝垂れ桜が描けるような錯覚にとらわれた。最近、線が描けるようになり、絵を描くのが一層楽しくなった。しかし、長い年数をかけ探し求めてきたその線を手放すことにより、花や枝から舞い降りた風が、絵の上で背景になることを許された。空から地に向って伸びていき、花になり枝になって揺れていった。手放す事が、即ちとらわれない世界への入口である事を教えてくれた」。柔らかなピンクやジョンブリヤン系の色彩が画面全体を覆っている。そこに枝が下がり、枝垂れた先に花が咲いている。花と背景とが一体化した充実した空間があらわれている。そこに一羽の鳥がとまっている。その鳥もまたこの風景の中に溶け込んでいる。植物の力に対して鳥の生命感が入ることにより独特の生気が生まれる。カーヴし屈曲する枝や梢の形と、そこにつく花とが渾然としながら、縦横に画面の中を動いていき、不思議な強さをもって表現される。フォルムがそのまま空間の中の象徴と化す。

 清水達三「波(なみ)颪(おろし)」。「波颪(水面を吹いて波を立たせる強い風) 海が動いて立つ波は波涛、反対に海が静かで水面を強い風のためしぶきが上がるのが波颪。今回は美しいしぶきを表現したかった。写生の場所は、和歌山県有田市箕島広浦リアス式海岸の切り立つ山の麓」。どっしりとした岩が海から立ち上がっている。低い岩の上に水が流れている。立ち上がる岩の背景に白い波が立っている。まるで幻想のような、白い炎のような姿である。それに対して背後では波が静かにそのフォルムを立てこちらに向かってくる。遠景はすこしピンクを帯びた調子の色彩で彩られ、その向こうに山の斜面があるようだ。手前の青みがかった黒ずんだ岩の左後ろに立つ白い波の様子が神々しくあやしい。風景に合掌するような宗教的ともいえる力が画面から立ちあらわれる。

 小田野尚之「響(きょう)」。「九州のJR日田彦山線・筑前岩屋駅付近の、七月中頃の風景です。同じ橋でも鉄橋ですと、列車の通過の際に橋全体が大きな音を発しますが、この昭和十三年竣工のコンクリート橋は中身が詰まっているせいか、一両のディーゼル車のゆるやかなスピードとあいまって『カタン、カタン』と、のどかな音を里山に響かせておりました。橋脚のいくつかには、鳥や風によって種が運ばれたのでしょうか、側面のかなり高い所から枝を伸ばす植物も見られ、年月と共に人工物が自然に取り込まれていく様子に心を動かされました」。上方に高い橋脚が描かれ、その左にいま黄色いディーゼル車が現れている様子が描かれている。それを取り囲む緑の鬱蒼たる様子。杉のような樹木もあれば、地面から生えてくる植物の圧倒的な生命感に満ちた色彩もある。下方に道があり、道がその向こうで二つの道に分かれる。橋の褪せたコンクリートの手触りのある表現に対して、自然のもつ輝くような命の光景が対照される。人間のように静かにディーゼルカーが現れる。

 狩俣公介「螺(ら)生(せい)」。奨励賞。白と黒の世界である。渦が描かれている。その渦のダイナミックな旋回する力が画面の中に描かれ、鑑賞者を引き寄せる。そして、そこに起きる波の形や中心の白と黒の世界が両側では明るいグレーと暗いグレーに変わり、上方ではそれが暗い世界にそのままフェードアウトしていくような様子。手前の波の量感をもつ形。渦をこのように描き、ある象徴的な運動体のもつ魅力として表現するところに、この画家の筆力がある。運動するもの、変化するもののかたちが画家の美意識の中に表現される。構成の面白さと同時にフォルムの面白さである。

8室

 木下千春「石切り」。海岸で少年たちが石を投げている。それが飛び飛びに水の上を走っていき、波紋をつくる競技である。三人の少年と七つの波紋。その波紋の様子が面白く、それをこのようなかたちで絵に入れることによって、独特のファンタジーと物語があらわれる。水紋の表現が面白い。

 西澤秀行「路地裏」。建物の裏側にある通路が面白く表現されている。反対側は店になっているのだろう。上方の空にガラス張りの屋根がつけられている。蛍光灯が一つぶら下がっていて、白く輝いている。その下方に白い衣装を着た十歳ぐらいの少女が立っている。トーンを重視しながら、クリアなフォルムがお互いに連結しながら独特の臨場感をつくる。自転車やものの置かれている中に道が向こうまで続く。その路地にいる一人の少女がヒューマンな感情をあらわす。

9室

 沼田修「眞(ま)」。細い幹の樹木が立つ向こうに川が流れている。川の向こうは太い幹の樹木がシルエットふうに描かれている。手前の細い幹の樹木は緑の葉を茂らせている。霧があいだを動き、水が動く。風景がある癒しの力をもつ。

 藤井聡子「crossover」。下方ではスケートをしている。そのあとが氷の上に複雑なカーヴをつくる。上方には回転遊具が回っている。その鎖の先に椅子があり、それが回っている。不思議な幻想感である。人間たちはシルエットで表現されている。リズムのなかにメロディが流れていく。聴覚的空間を視覚化したような面白さ。

 伊藤深游木「夕暮 水無月」。広場に大きなモニターがある。スクリーンに赤い花火のようなものが映っている。その下方に傘を差したたくさんの群衆がいる。群衆はシルエットである。周りのビルもシルエットで描かれ、右のほうに高層ビルが見える。都会の一隅を画家独特の感性で切り取る。一種の抽象的な美しさをあたかも再現的に、人間の群像を通しながら表現する。独特の感性である。

10室

 小川国亜起「清響」。岩絵具で描いた水墨の趣がある。崖の上から滝が落ちている。下方に虹が立っている。グレーの中にやわらかな虹の色彩が清々しい。画面全体の持つ韻律が魅力。

 永井健志「気韻」。琳派を思わせるような装飾性がある。背後に杉木立を思わせるような垂直のリズムが連続している。そこはごく暗い調子であり、それに対して近景の雑草は明るい黄金色で描かれている。その対比がおもしろい。黄金色は明るいシルエットのようにも感じられる。一枚一枚の葉をクリアに描き、そのディテールの力で作品をもたせている。水墨の情感と琳派の絢爛さを接続し、季節の詩情ともいうべきものを表現する。

 岩永てるみ「天の窓」。円形の壁の内側、下方に画家はいて、上方を見上げている。その壁にはアーチ状の窓が穿たれ、そこに青い空が見える。円形の光が当たる。上方は円形に上部が切り取られ、やはり青い空がのぞき、空を背景に塔の先が見える。ヨーロッパのある古いお城のような建物の中で発見した光景の面白さである。それをしっかりとしたマチエールの中に表現する。建物が長い歴史に支えられながら、独特のその建物の歌を空に向かって歌っているような、そんな面白さである。そこには一種のモニュマン性さえもあらわれる。

 小田原千佳子「火夏星」。シダや大きな葉をもつ植物などが繁茂する上に、十代と思われる女性が寝ている。植物も女性も暖色系の色彩で統一され、髪が白く、妖精ふうなイメージがそこにあらわれる。植物を慈しむようにこの少女を慈しむ。深い感情により現実の上澄みのようなイメージが表現される。

11室

 重里香「映」。水際に立つ樹木。その樹木が水に映っている様子が面白く、メロディアスに表現される。

 浅村弥生子「工房へ」。グレーの色調。床は青味がかったグレーだし、壁や扉は暖色系のベージュである。扉がすこしあけられ、黒い猫が顔をのぞかせている。手前のフロアには壁際に屑籠がある。そんなお膳立ての少ない空間に、ある独特の霊気のようなものが感じられる。気配と言ってよい。その気配というものをこの空間の中につくりだす画家の感覚に注目。

 荒井孝「聖河」。左上方にガンジス川が流れている。近景にたくさんの人々がいる。傘を差してその中にいる人々の様子が、グレーのシルエットふうに表現されている。悠久たるガンジス川の生と死を包み込む流れのそばに密集する人々の姿。それぞれの人間のもつ運命といったものが、下方の人間群像に色濃く捺されている。

12室

 小島和夫「道」。ターバンを巻いた男と少年。白い衣装をつけている。背後にはインドの古い建物がしっかりと表現されている。二人の人間に重量感がある。その人間全体のフォルムの力強さと同時に、その内面にまで想像力の触手を伸ばそうとするかのようなヒューマンな味わいが独特の手触りを生む。

 浜口和之「暮色」。二つの建物のあいだに空が見え、空が赤く染まっている。残照である。そこに葉を落とした繊勁な木が枝を伸ばしている。独特の緊張感がある。強い感情表現である。

 牧野環「音無き雨」。たくさんの十字架が林立している。左下には十字架にキリストと思われる姿が彫られている。背景はオレンジ色の空間。このような不思議な鎮魂の場所が海外のどこかにあるのだろう。まさにこんな光景に立つと、その強い気配に圧倒されるだろう。そんな臨場感がよくあらわれている。

13室

 小山硬「満鉄アジア号」。「私は満州の新京に三歳から小学校五年生迄住んで居りました。姉が大連に住んで居り、度々、アジア号に乗り遊びに行きました。今回の院展には満州シリーズ四作目として屛風にアジア号を描きました。参考の為五年前に満州へ行って参りました。鉄道は広軌で七両、時速百三十km、ハルビンから大連迄です。テーブルの上のコップの水がこぼれない安定感がありました」。チチハル、ハルビン、新京、奉天、大連、旅順、安東の路線図が画面に大きく描かれ、駅名が書いてある。そしてアジア号、七両編成の列車が大きく図像的に画面の中心に描かれている。両側には雪の積もった高い山が見える。グレーのバックの上に、この不思議な機関車は画家の夢と記憶を乗せてこの画面の中に現れた。図像がそのままひとつの強い絵画性を獲得する。

 福王寺一彦「星降る海に(三)」。上方は青い空にいっぱいの星で半月が浮かんでいる。下方は水の世界で、そこに星が下りたような点々としたフォルムが集積してあやしい。下方には小さな植物が集積しているような様子で、そこに女性が立っている後ろ姿が見える。女性は月の光を浴びて黄金色である。青や緑の中にその黄金色の月と女性が匂い立つようなロマンティックなイメージを示す。

 松村公嗣「紫禁城」。「有名な映画、『ラストエンペラー』に登場する紫禁城。『紫』は北天の不動中心星の名に由来し、天帝の居住地を指す。『禁』は庶民が足を踏み入れることを禁ずるという意味で名付けられた。皇帝とその一族が暮らしていたその建物は、今は亡き主をしのぶかのように存在している。かつて栄えた権勢は色褪せ、現在の中国のビル群に呑み込まれながら、過ぎ去った時間を連れて来る。瓦一枚一枚描くことで、そこで生きた人々の存在を描きたかった。当時の風景に想いを馳せながら、すやり霞を用いた」。すやり霞とは霞を画面の中に入れて、ある部分をそれによって覆うことによって画面全体の構成を面白くする日本画の技法である。中心に紫禁城の屋根が遠景まで一つひとつ描かれ、独特のパースペクティヴの中に堂々たる建物の骨格を見せる。そこに明るいオレンジ色や黄金色の光が差し込み、その光を屋根瓦が反射する。両側にも建物の組み合った屋根の複雑な骨格の一部が見えたり、屋根の一部が見えたりする。そして、遠景には高層ビルが立ち並ぶ。朱色が画面全体を覆い、その朱色はいわば霞のように画面を覆いながら、その合間から輝く黄金色やオレンジ色の光は独特のエネルギーとノスタルジックなイメージを引き寄せる。たしかにじっと見ていると、この向こうに生活する人々のイメージも彷彿とする。四曲の屛風の中に左右にある建物のフォルムの連続性と、垂直に遠近感をもって置かれるフォルムの連続性によって、独特のモニュメンタルなコンポジションが生まれる。朱色の中に金色(こんじき)がきらきらと輝きながら、ロマンを醸し出す。

 梅原幸雄「水無月・奥入瀬」。「五月の奥入瀬は藝大の東北旅行(取材旅行)で何度もいきましたが、六月の雨の日の激流の阿修羅の流れを描きたくて、今年の雨の日に取材に出かけました。雨の日の奥入瀬は思っていたより、暗く、両岸の岩は雨に濡れて漆黒の艶を帯び、あらゆる物を流す勢いの激流は白く激しく流れていた」。激しい奥入瀬の流れが六曲の屛風に表現されている。向こう岸は暗く、そこにグレーのシルエットのように植物の葉や幹が描かれている。手前は黄土系の色彩で、岩や地面が描かれ、その向こうにインディゴふうの青い色彩と白い波頭が水の流れを表す。無明長夜といった趣が感じられる。無明長夜の中を水が流れているといったあやしい雰囲気が、この激しく流れていく川とその両側の景色から感じられる。そんな独特の宗教性、あるいは時間性といったものを感じさせるところが面白い。

 高橋天山「火之迦具(ほのかぐ)土神(つちのかみ)」。「京都の西、愛宕山に有名な愛宕神社があります。府民の台所には決まってこの神社のお札が…火の神様の御加護を願っての事でありましょう。古くは阿多古神社と呼ばれており、この阿多古が愛宕と転化した訳ですが、本来の意味は仇子。即ち親に仇成す子という意味です。それと言うのも、神代の時代、イザナギ、イザナミ二神によって島生み国生みが成されたのですが、後、三十五柱もの神々を生み出したその果てに、この火之迦具土神を産み落とす事でイザナミは死んでしまうのです。火神を産む事で、ヨミの国へ旅立たれる…神話も急転回します。非常にパワフルで、制御しがたいエネルギッシュな神なのでしょう。古事記千三百年の今年、神代の昔に思いを馳せて、人類の未来をも司る火神のお姿を描いてみました」。スキンヘッドの男が剣を持って前方に向かっている。フォルムが力強い。輪郭線によって作られたこの火之迦具土神の姿は、この画家の優れた造形力を表す。体に静脈が浮いている様子なども面白い。

 武部雅子「無双の花」。題名はこの女性のことだろうか。グレーによって表現されて、周りに赤や青の色面がちりばめられる。装飾的なコンポジションの中に線によって若い女性の姿がしっかりと表現される。座った姿で、膝の上にX字形に腕を交差しているが、独特のムーヴマンが画面からあらわれ、それが立ち上がってくるような強さである。

 大野逸男「霧の峠」。「埼玉県寄居町より秩父市にぬける峠の風景です。十五年位前峠を越へた時霧が出ており、杉の中に自然の松があり面白く、一時間位の写生をしておきました。今年桜の終る頃三回程写生に行き作画致しました。雨の日に行くと思いどおりの霧の風景で、霧の変化を楽しみながら写生を致しました」。山の斜面に杉と松が生えている。杉はグレーのシルエットふうに現れ、それを背景にして松が濃い緑の様子で、屈曲しながら立つ様子が独特の韻律をつくりだす。近景に裸木の倒壊したようなフォルムがあらわれている。山の斜面に、その内側からとらえられているようなリアリティがある。上方に鳥が舞う。深い水墨の空間を思わせる。それを岩絵具を駆使しながら表現する。霧の動く中に風景もまた霧とともに動き出すような、そんなムーヴマンが魅力。

 大野百樹「樹陽」。「欅は埼玉県の県木で、この木は樹齢五百年余。天然記念物に指定されている名木で幹回り五米余、さいたま市、日枝神社のご神木。力強く生きる生命力に感動して描くことにした。この樹を早朝から写生し終る頃、真上にあった太陽をそのまま描きました」。ご神木といわれるこの樹齢五百年の欅のフォルムを画家は画面の下方に描いて、不思議な力をつくりだす。その梢の先につける葉と梢や枝を支える幹の形が実に面白い。たしかに五百年という歳月が醸し出す世界と言ってよい。上方の赤い太陽は五百年の歳月の象徴のように感じられる。時をつかさどる神のようなイメージで、上方に朱が入れられている。その朱は日本の装飾古墳などにも使われる朱で、そのような独特の呪術的な力をもって上方にあり、命の源としての光を発している。幹から枝にわたる形が、無数の手を伸ばしているように感じられる。いわばあの千手観音の手のようなイメージが、この欅に重なって感じられるところが面白い。

 今井珠泉「渚」。フラミンゴを描いたものである。二十羽近いフラミンゴが横に描かれ、水の上に立っている。右のほうを向いている全体のリズムのなかに、二羽ほど反対側を向いているフラミンゴがいたり、羽の中にその頭を入れている様子もある。満月が差し、フラミンゴを黄金色に染めている。まるで音楽のメロディを思わせるところがある。そのメロディの旋律に沿ってフラミンゴが配置されているような、音楽性とロマン性が魅力。

 菊川三織子「静日」。「数年前に訪れた、タイ・バンコクでの取材スケッチを取りまとめて制作してみました」。バンコクの人形と思われる二人の女性が立っていて、その両側の後ろ側に実際のバンコクの女性と思われる人が脇士のように立っているのが面白い。人形らしきものが人間として置かれて、あやしい独特の演劇空間ともいうべき世界があらわれる。

 大矢紀「須弥山図」。「古代インドの宇宙天文学によると世界の中心となっている高山を須弥山と呼ぶ。日本における須弥山は妙高山である。この妙高山麓を東洋のバルビゾンと呼び、こよなく愛した岡倉天心、そしてこの地でその波瀾に富んだ五十年の生涯をとじたのである。奇しくも天心生誕百五十年、没後百年を迎えようとしている。私達日本美術院の院生は創立者岡倉天心先生を想う時、日本美術の為に『何かを』考えなければならない」。上方に妙高山が黄金色に聳えている。下方には湖があり、近景には裸木が立って、その梢を広げている。手前の寂寞たる光景に対抗するように妙高山は気高く金色(こんじき)に輝いている。その妙高山に須弥山を思い、岡倉天心を思う。手前の寂しい光景はいまの日本の美術の風土のように画家は考えているのだろうか。そのあいだに水がきらきらと輝く波紋をつくる。風景の中に画家は静かにドラマをつくる。

 篠﨑美保子「風の記憶」。奨励賞。赤いテーブルのようなクッションのようなものに上体を投げかけた女性。その女性は赤い上衣を着ていて、その赤い朱色が不思議な温かさと同時に、象徴的なイメージをつくりだす。その背後に横座りに座った女性。上方から布をかぶっている。その背後には植物のフォルムが静かに浮かび上がる。寝た女性の横には大きな膨らんだ壺が見える。いずれにしても、女性の衣装の植物を思わせる文様の面白さもさることながら、女性の骨格のフォルムがしっかりしているところがこの作品の面白さ、魅力である。とくに横になった女性の赤い朱色の上衣は様々なイメージを感じさせる。太陽のようなイメージもあるし、記憶の中から浮かび上がった懐かしい夕日のような色彩も感じられる。二人の女性を描きながら、不思議な抽象のイメージが画面に漂う。

14室

 仲裕行「戯(たわむれ)」。驢馬が一頭、画面いっぱいに描かれている。なにか物思いに沈んでいるような驢馬の表情。そこにたくさんの雀が飛んでいる。地面にもいるし、頭の上にも首の上にもいるし、背中に置かれた布やロープのそばにもいる。この驢馬を静かに荘厳しているようなイメージが感じられる。驢馬が年老いた人間のように、あるいは老いた母親のような、そんなヒューマンなイメージで描かれている。そこにたくさんの小鳥たちは驢馬を荘厳すると同時に、驢馬によって支えられているような、そんなイメージもあって面白い。たくさんの雀たちの様子が一つひとついとおしい命をもっていて、驢馬のもつ大きな画面の中の量感がいわば大地的なイメージに変容し、そこに戯れているたくさんの命といったイメージも感じられて面白い。

 桜井敬史「情景」。トレドの風景だろうか。遠景にお城があり、その高いところからだんだんと下方に向かって建物が集積している。左下には川も流れている。塔のそばからいま日が昇りつつある。一つひとつのフォルムをきわめてクリアに描き、それを画面の中に埋め込んでいくような仕事によって、街全体の量感が生まれる。画面に接近すると、一枚一枚の瓦まで描いていることがわかる。力作である。

15室

 岩谷勢子「時の回廊」。修道院のような建物の一部だろうか。石の壁。石の柱。柱から光が床の上に差し込む。石畳に陰影が捺される。その光の様子が聖なるもののように手触りをもって表現される。光を独特の存在として表現している。そんな感性に注目。

 神田良子「雪の降る夜」。俯瞰した構図である。広い道に車が走っている。真ん中には樅の木のようなものがあり、街灯が立ち上がっている。左上方には建物の一部が見える。静かに雪が降る中に動いていく車がしっとりと表現されている。懐かしさと同時に、静かな精神の緊張感ともいうべきものが感じられる。聖夜という言葉がふさわしい街の一情景。

16室

 野口満一月「羽化」。柔らかな緑の調子は水面を表現する。そばに繊勁な植物の葉がたくさん描かれていて、そのクリアなフォルムが実に魅力である。中心の植物に水滴がたまっているのも、神々しいような自然のもつ魅力である。水面から伸びた茎にいまトンボが羽化しつつある様子がクリアに描かれる。自然の一隅の様々な形象が緊張感をもって表現される。トンボの様子を見ると、このささやかな命を画家は見つめ、聖なるものとして描こうとしていることがわかる。それは植物の葉にある水滴も同様で、一種の宗教性さえも感じさせる。

17室

 須藤和之「虹」。縦長の画面の中心から上方に大きな円弧が描かれている。それが虹である。周りの青みがかった独特の気配のある空間に虹が立っている様子が、清潔に強く表現されている。これだけの要素で一枚の空間と虹を描くという画家の力量に注目。

 千種伸宣「岩壁」。ごつごつとした岩の向こうに船がある。磯の風景である。ぐいぐいと描き込む筆力ともいうべきものが、ムーヴマンと熱気をつくる。

18室

 當川伸一「皓耀(こうよう)」。シマウマを数頭、群像のように描きながら新鮮な印象。とくに手前の母と子のシマウマの姿が生き生きとしている。

 新生加奈「扉へ」。母と子が立っている。母親は子供の手を握って子供を見下ろし、子供は母親を見上げている。その二人の様子が静かに温もりをもって表現される。周りの暖色系のしっとりとした空間が、この母子を包み込む。母子の肌の色が静かに輝いている。聖母子像としてのイメージに注目。

 高宮城延枝「季節の間(あわい)」。水面が描かれている。上方には雲のあいだの空が明るく輝き、そこに波が立っている。緑の葉をもつ樹木の影が映っている。手前のグレーの水の上には落ち葉が点々と浮かんでいる。水というものが虚像としてそこに様々な像を映す。同時に、実像として木の葉が描かれる。水が聖なるもののイメージを醸し出す。

 平林貴宏「表象と消費」。だらりとした着付けの着物を着た女性。ぽっくりをはいて、花模様の衣装をつけている。白黒によって表現されている。女性の顔を見るとあやしく、狂気を帯びているようで、だらしなく帯が垂れている。もみじの中で狂う能の演目があるが、そういった世界も背後に感じられる。いずれにしても、クリアなフォルムによる独特の、そのような狂気の世界の表現として注目。

 三浦長悦「静動」。植物のフォルムが生き生きと描かれている。蔓草が立ち上がり、その上に青いネットが掛けられている。そのネットの網目の文様も面白く、この画家の感性がうかがえる。抽象性と具象性の両方に軸足を置いた作品として注目。

19室

 繭山桃子「urbanism」。アーバニズムとは都会主義といった意味である。二階の広場とマンション。そのテラスふうな広場には自動車が一台駐車している。蛍光灯がスポットライトのような光をその地面に放射する。建物の内部は暗く、電信柱の光がその手前の地面を照らしている。しーんとした無音の都会の空間がなにか独特の親密な雰囲気をたたえて表現される。一種シュールな味わいもある。

 中野邦昭「星の降(ふ)る日」。穀物を入れる塔。二階建ての建物。温室栽培のためのシート。樹木が建物の後ろから伸び、星がまたたいている。北海道と思われる農家とその周りの空間が親密にしっかりと表現され、懐かしい。

20室

 松岡歩「隠沼(こもりぬ)」。紫色の水の上に蓮の葉が描かれている。また、そこに枯れた枝のようなものも漂う。この紫の水を背景にした蓮の葉が不思議な幻想感と同時にある想念の象徴のような空間をつくる。画家はよく魚を描くが、これは水というもののもつ不思議な味わいを表現した佳作。

 新倉嘉江「帰り道」。森の中の小道が描かれている。木漏れ日が当たり、樹木の幹がくっきりとした影を捺す。自然の一隅がくっきりと鮮やかに画面に切り取られる。

 古谷照美「静々(しずしず)と」。透明な海が向こうまで続いている。手前の岸には昼顔が咲いている。鮮やかな青い水や白い砂浜、昼顔のピンク色が、そのまま夢の世界にいざなう。

21室

 山田美知男「気配」。二頭の牛が柵の向こうにいる。肉牛ではなく、人間の友として労働を助けるための牛である。懐かしいイメージである。人間の同伴者としての牛が、その巨体を足で支え、あるいは寝ている様子が、手触りをもって表現されている。白い植物が幻想のように周りに配されて、この二頭の牛を荘厳する。

22室

 勝部雅子「山茶花の頃」。山茶花の白い花がたくさん集まって咲いているのが、まるで月の光がその花を通して滲み出ているような味わいである。無限空間ともいうべきバックの中に花が浮遊するように表現されていて、独特の魅力をつくる。

 坂根輝美「喪失した友人」。院友推挙。亡くなった友達の肖像。若い女性である。その胸のあたりに左右にダリアのようなガーベラのような、赤茶色のくすんだ花が浮かんでいる。レクイエムの表現である。切ない雰囲気が鑑賞者を引き寄せる。

 藤城正晴「莫妄想」。院友推挙。上方に満月が黒い空間の中にぽっかりと浮かび上がっている。下方は飛行機から見た雲のような様子で、それがあえて焦点が合わないような雰囲気でぼんやりと浮かんでいる。哲学的とも想念的ともいうべき作品で、強い印象を与える。上方にぽっかりと浮かぶ月が、いわば真我、あるいは曼陀羅の本質のような、そんな象徴的な性質を感じさせる。哲学的なイメージの造形化として注目。

 平昭治「歴(宮島・千畳閣床下)」。千畳閣という広い建物の床下を描いている。視点が面白い。太い柱がずっと向こうまで続き、右のほうは石を積んだ石垣で、それが柱を支えている。それがはるか向こうまで続いている様子が、まるで長い時間というものが画面に現前しているようなあやしい雰囲気である。

 森ゆだね「天球図」。院友推挙。ドックの内側から海を見ている。対岸の向こうには高層ビルの窓が白く輝いて、まるでお城のようである。上方を見ると、星がたくさん浮かんでいる。黒と白とのコントラストが鮮やかで、独特の色彩感覚を感じさせる。天空の様子がそのまま向こうの人工の建物にも反映する。そこにロマンともいうべきものが感じられる。

23室

 鈴木佐和子「secret garden」。女の子が三人、ベンチに座っている。三姉妹のようだ。そのフォルムがクリアで、しかも会話する右の二人の少女、俯く少女、実に愛らしく表現されている。周りを囲む植物もハーフトーンの中に描かれ、夢の中の世界のような雰囲気。清潔感と同時にヒューマンな味わいに注目。

26室

 手塚華「くりかえす」。マンションの窓をテーマにしている。黒いバックに明かりが窓に灯っている様子が懐かしくロマンティックに、一種の華やぎのなかに表現されている。窓の構成に独特の心象的リアリティがある。

 平野博士「夏のはじまり(蓮田)」。水の様子をゆるやかな動きの中に表現している。左のほうに蓮の葉があり、トンボがとまっている。独特の動きと生命感が感じられる。初々しい力強い作品。

第48回主体展

(9月1日~9月16日/東京都美術館)

文/高山淳・磯部靖

1室

 矢野利隆「鳥」。縦長の画面のほぼ中心に白い衣装を着た女性がいる。そばに鳥が羽を広げて飛んでいる。下方にはアルカイックな恐竜のような鳥が白いシルエットで描かれている。そばに黒い鳥がうなだれて物思いにふけっている。その物思いにふけっているように見える黒い鳥の姿が人間的であるし、また、画家自身の自画像のように感じられる。今回の津波の様々な困難なことを深く感じ取り、物思いに沈んでいる人間の姿が画家自身であると同時に、日本人全体のイメージとしてこの鳥に集約されているように感じられる。画面全体は深い緑がかった調子である。右上には鳥の頭蓋骨と羽が飛んでいたり、鳥がいる。そして、そのそばから下方に向かって青い不思議な道のようなイメージがあらわれている。死んだ人間の魂がそこを渡っていくような、そんな雰囲気である。画面全体の空間に緊張感がある。白い衣装を着た女性は冥界の住人のようだ。冥界の住人のはるか向こう、古代にすでに死に絶えた恐竜が、そのイメージを補強するように立っている。うなだれた黒い鳥ははげた頭をしながら物思いに沈んでいる。一つの寓意を画面の中で静かに語る。(高山淳)

 中村輝行「机上」。F型の縦長のキャンバスにほぼ相似形の黒い矩形のテーブルがある。そのテーブルの向こうに女性の顔がのぞき、それを眺めているもう一人の人間が右側にいて、肩まで描かれている。手も一部見える。語りかけているが、その左の顔だけのぞいている人間は無言で何も応答していない。下方には、テーブルに肱をついて話をしている男がいる。不思議なことに、黒いテーブルの中にたくさんの人間が浮かび上がってくる。下方から人々が上方に向かって動いているような動きがある。向かって右のほうには子供とバケツのようなものがあり、その下方には家、あるいは今回の原発事故の跡のような建物が見え、海がのぞく。上方には円環があって、円環の中に横向きの顔がある。明らかにこの黒いテーブルの中には今回の津波で被害に遭った人々の姿がある。同時に、そのほとんどの人は死んでしまった人々のように思われる。その人々の象徴として、前述したテーブルの上の左側の無言の、何も応答しない女性の顔がある。死の顔である。その顔に向かって、いま生きている人は語りかけている。左下の男性は国会議員のようなもので、話をしているが、まさに机上の空論で、実際には何も行っていない。画家の深い悲しみと怒り。深い感情から、この静かでありながら力強いコンポジションが生まれた。(高山淳)

 吉江新二「土・2012」。抽象画面であるが、ベージュを帯びたグレーに激しいドローイングの跡が見える。「色即是空 空即是色」という言葉があるが、すべてがなくなってしまって、空のみがこの空間の中に渺々とした雰囲気であらわれている。激しい悲しみの音色が聞こえてくる。今回の津波の災害に対する画家独特のレクイエムの表現だと思う。(高山淳)

 井上俊郎「高昌古城と火焰山(トルファン・中国)」。トルファンは中国やモンゴルやムスリムたちがそこを占拠した攻防の歴史をもつところである。その遺跡が手前に描かれている。静かに光が差している。驢馬と思われるものに乗った二人の人物が向こうから歩んでくる。オレンジ色の光がこの遺跡に差し込んでいて、その激しい歴史があるにもかかわらず、いまはきわめて穏やかな雰囲気である。画家の心持ちのあらわれだろう。そして、背後に淡いピンクの火焰山が長く続いている。歴史といまという一刻をしぜんと感じさせる。(高山淳)

 田中淳「月代(つきしろ)」。岩が複雑な形状をなしている。両側に立ち上がっているからU字形になっているが、その底辺の向こうに海がすこし見える。水平線のあたりが黄金色に輝いている。満月がその上に出ている。岩は白く輝いている。その複雑な岩の形を見ると、長い時間の経過をしぜんと思う。海の向こうには母なる国があるという。そういった水平線の向こうにある国に対する憧れのような心持ちがしぜんと感じられる。上方の月はその向こうの国とこちらの国の両方を照らしているように思われる。こちらのしらじらとした岩は時間の長い連鎖のなかに困難な人間の歴史を思う。その困難なイメージを手前の岩に感じると、今回の津波の災害も長い歴史の中では繰り返し起こったことだと考える。(高山淳)

2室

 水村喜一郎「夕映えの岸辺のバザール」。川の向こうに道があり、道の向こうに古い建物がある。中心の建物、その左側の建物などに灯がともっている。中心の建物は三階建てで、その屋上にもう一つ建物がのせられている。その建物は中は市場であったのだろう。そばに電信柱が傾いて立っている。右の町工場と思われる煉瓦色の建物の背後には煙突が立っている。空は黄色く染まっている。その残照の中に、この建物はなにか亡霊のような雰囲気である。おそらく実際にはこの建物は破壊されて、別の建物が建っているのではないか。深い記憶の中から呼び戻された風景のように感じられる。手前の暗緑色の水はそういった時間の層が幾重にも重なったイメージだと思われる。人間が素朴に生きてきた時代、アナログの時代の象徴のように、この建物を中心とした風景は表現されている。電信柱は高く傾いて立っているが、電線は消えている。心のコミュニケーションを暗示する電線はなくなってしまった。画家の心の中に在る記憶が形象として結晶したような力強さがある。絵具がよくついている。一つ一つの絵具がこれほどついている作品も少ないと思う。そのマチエール自体がまた時間というものの象徴のように感じられる。(高山淳)

 小菅光夫「奥州安達原三段目・袖萩祭文」。鮮やかな朱の色彩が鑑賞者を惹き付ける。歌舞伎の題目の一つである、奥州安達原を主題に描いている。中央では、袖萩が三味線を弾きながら祭文を語っている。生き生きとした人物描写の中で、特に三味線を弾く袖萩の楽曲に深く入り込んだ強い存在感が印象的である。背後には青がうっすらと施してあり、演目内の感情や会場の熱気の浮き沈みを確かに伝えてくるようで興味深い。(磯部靖)

 﨤町勝治「正法寺大銀杏」。埼玉県東松山市の正法寺にある大きな銀杏の樹の根元を描いている。強い生命力を孕んだ根の、うねうねとした動きが強く印象に残る。地面は落ちた葉が広がり、黄色に染まっている。この画家独特の細やかな描写によって、それらが強い生命の力を孕んでいるようだ。特に黄色の色彩が、ポジティヴなイメージを鑑賞者に運んでくる。樹木を中心とした三角形の安定した構図の中に、そういった生命の根源的な存在を描き出しているところがおもしろい。(磯部靖)

3室

 野辺田紀子「花の幻」。灰白色の色彩をしっとりと扱いながら、そこにほんのりと赤や青の色彩を施している。画面に近づくと、細やかに小さな花がいくつも描かれていることが分かる。画面の中心やや左に縦に暗色の色彩が入れられていて、それがちょうど開いた本の頁の境目のように見える。自身のイメージを記すように、あるいは幻想的な物語の世界へ鑑賞者を導くように画面を構成しているところが特におもしろい。画家の豊かなイマジネーションを感じる。(磯部靖)

4室

 藤田俊哉「MEMORIAL 2012」。画面全体に施した金箔が、強く印象に残る。その画面をいくつかの矩形で区切り、さらにその中に花や果物を描いている。矩形は赤や暗色、ストライプで描かれていて、それがシルクスクリーンによって施された楽譜や文字と相俟って、ある種の調子を作り出している。綿密に描かれている花や果物は、どこか艶やかな女性の群像を思わせる。雅な雰囲気を漂わせながらも、どこかしーんとした気配を漂わせているところが興味深い。二〇〇一年に富嶽ビエンナーレの大賞を受賞した作品と同じ構図・構成で描いたとのことだが、この十年間の様々な画家の想いが凝縮されたような密度のある見応えが魅力である。(磯部靖)

 續橋守「音が消えた場所」。大きな工場と思われる建物の屋根がなくなって、ほんのすこしその残骸が残っている。下方は散乱した器物が集積している。かつて動いた太い屈曲したパイプも廃棄物としてそばにある。向こうの出口にシルエットになった、黒いクレーンの吊り道具だけがポツンと一つ残っている。その向こうは灰白色の空間である。上方にもベージュの空間があらわれて、この廃屋と強いコントラストをなす。この廃屋のシルエットはかつて画家が足尾銅山をテーマにして描いたそのテーマの延長にあると思われるが、それに加えて、今回の津波の災害が画家に衝撃を与えたものと思われる。足尾銅山はもちろん人災であるが、今回の津波も自然災害というより、それを増幅させたのは人災であることは間違いない。とくに原発はそうである。その衝撃がこの強い緊張感を画面につくりだした。それぞれの散乱するものや上方に突き立って残った建物の残骸は慟哭の表現で、天に向かってその骨が突き出ているような、そんな深いイメージが感じられる。クレーンを吊るための道具が一つ残されているのは、きわめて人間的で、人間の行為、本来やるべきことをもう一度やらねばならないといったイメージの象徴のようにも感じられる。(高山淳)

 福田玲子「塚」。ここに描かれている場所は茨城県取手市にある中妻貝塚である。利根川流域最大の貝塚で、昔は湖沼であったという。地面の上に貝が無数に集まって、その残骸がしらじらと輝いている。まるで小さな小石を振りまいたような趣である。そこに倒れた流木のような木の幹が横になっている。いわばなくなった大木のトルソである。そのフォルムが実に力強い。重量感があり物質感をもつと同時に、そのまま強いイメージがインカネーションとなっている。つまり、精神が肉化したような雰囲気である。そこにしらじらと日が当たる。かつて人間の集落の象徴であった貝塚。そして、ここにいま横になった死体のような大きな幹。その人間を思わせるトルソは、今回の津波の死者に対する画家のイメージだろう。ただ、絵画的にはそのフォルムのもつ曲線の動きがきわめて力強く、前述した観念が肉化して現実化したような力をもつ。そこがこの作品のとくに優れているところである。(高山淳)

 山本靖久「不在への想い―隠しきれぬ埋火―」。画面の中央に大きく炎が立ち上っている。まるで太古からある古木のように、独特の存在感を放ちながら、上空に向かって腕を伸ばしているようだ。周囲にはたくさんの人々がその炎の伸びゆく先を見つめている。それはまるで天へと昇っていく魂を見送っているかのようで、深い鎮魂と祈りの感情が内包されているようだ。東日本大震災をはじめとする死者への忘れがたい想いは、数年前に母を亡くした画家のそれと重なり、業火となって強いメッセージを孕み鑑賞者の共感を呼ぶ。これまでとは変わって炎を題材にした、新しい展開にも注目する。(磯部靖)

6室

 森脇ヒデ「'12 梼」。大樹の根元が露わになっていて、その部分をじっくりと描ききっている。地中に根を張り、幹をしっかりと支えるその様子が繊細に、しかし力強く表現されている。茶系から灰白色に色彩を丁寧に扱いながら、複雑な立体感をしっかりと捉えているところも見所である。足下あるいは芯をしっかりと持った上でこそ大樹へと成長するという、生きていく上での矜恃が強く訴えかけられてくるようだ。(磯部靖)

 鈴木直「行き交う人達―子どものテレパシー」。街角の情景。画面の右端に一人の托鉢僧が立っている。その前を母親に手を引っ張られながら通り過ぎる子どもが見つめている。子どもは托鉢僧が気になって、足を引きずられるようにして引っ張られている。その様子がユニークでおもしろい。托鉢僧と子どもの微妙な距離感と心の通い合いが、独特の物語性を作品に引き寄せている。(磯部靖)

 有馬久二「風葬の果て」。砂丘に手前から奥へと点々と足跡が続いている。その左脇に、鳥の死骸が半ば砂に埋もれて描かれている。寂しく孤独に死んだその鳥の姿が、何とも切ない。人は誰でも死を意識した時に、強い孤独感を抱く。この鳥は死の間際に何を思ったのか、果てしない寂寥感が砂丘の風景と相俟って鑑賞者を襲う。この死骸は画家自身の死を意識したものでもあるだろうし、普遍的な死のイメージでもあるだろう。逆に言えば死を意識することで生が立ち上がってくる。傍らに死のイメージがあろうとも一歩一歩進んでいく決意のようなものが、この確かな足跡から伝わって来るようだ。(磯部靖)

 手塚國彦「峠の棚田」。コクのある色彩の扱いで、眼下に広がる棚田の風景を描いている。緑と暗色の合間に、張られた水がチラホラと見える。空にも暗い雲が立ちこめある部分では雨も降ってはいるが、やや左に寄ったところに青空がほんの少し見える。それが一つの希望の象徴となって、鑑賞者の視線を導くようで興味深い。画面に近づくと、それ以外にも赤や黄が所々に見え隠れし、この風景に見応えのある抑揚を与えてもいる。手触りのあるマチエールで味わいのある日本の田舎の風景を描きながら、暗鬱とした現代に対するポジティヴなイメージも重なって、強い余韻を残す作品となっている。(磯部靖)

 佐藤善勇「2011年3月11日を忘れぬ為にそして3月30日を」。画面の下方手前に描かれている男性の背後には、東日本大震災による津波で破壊された被災地の風景が広がっている。震災は昨年の三月十一日におきたが、手前の男性はそのすぐ後の三月三十日に亡くなった。彫刻家の佐藤忠良氏である。青森生まれの画家は上京した後、氏に出会ってデッサンの指導を受けた。その後も公私ともに交流を続けた恩師である。昨年の三月はそういう意味で画家にとっては忘れがたい月となった。一筆一筆に想いを込め、絵具を重ねて描かれたこの作品には、深い悲しみと共に亡くなった人々への哀悼を捧げる強いメッセージが込められている。(磯部靖)

 三笠晃裕「午後に」。椅子に腰掛けた一人の女性の肖像である。手を重ねた腿に置き、向かって少し右を向いている。薄いピンクの衣服に黒のマフラーをゆったりと巻いている。その力を抜いたポーズがしっかりと捉えられている。髪が少しぼやけてバックに溶け込んでいるところがおもしろい。うっすらと緑や黄、ピンクなどを混ぜ合わせたグレーのバックが、どこか緩やかな空気感を運んでくる。しっかりとしたデッサン力の中に、そういった画家の確かな表現力が見てとれる。(磯部靖)

 山﨑弘「上富良野の道」。手前から奥に向かって、まっすぐに道が延びて行っている。中景で一度下り、そして上り坂になりながら、鑑賞者の視線をぐいぐいと画面に惹き付ける。向かって左側や、その向こうにもあるこんもりとした雑木林が作り出す面との緩急の対比もまたおもしろい。清潔感のある色彩のトーンで画面をまとめながら、そのドラマチックな画面構成と共に、強く印象に残る作品となっている。(磯部靖)

 岩見健二「創る」。今回の主体展には、昔の私のこの一点というテーマで、昔の写真と画家のコメントがあるが、この作品に共通するものがあると思うので、引用する。「使い古され廃棄されたものたち。無造作に積み上げられたその美しさに感動し、数年このシリーズを続けたが、阪神大震災で被災し、あたりいちめんのものたちの中に立ってから描けなくなった。現在のテーマ『創る』はその時とどこかでつながっているように思う」。巨大な工場の内部が描かれている。パイプが連結し、様々な機材がある。人工灯が輝いている。そして、人間の心臓のようにこの機械は動いている。その人間のつくったものに対する画家の深い信頼感が感じられる。それはつくったものがすべて壊された阪神大震災の深いイメージから立ち上がって、生きることの意味を求めるといった深い思想からあらわれたものと思われる。工場の内部がこれだけ有機的に生き生きと生きたものとして表現されているそのコンポジションとリアリティには、静かで力強いものが感じられる。(高山淳)

 栗﨑進一「麦秋『風のいたずら』」。画面一面に麦畑が広がっている。綿密に描写しながら、麦の穂が風に揺れる様子をしなやかに描いているところがよい。風に大きくえぐられて空間が空いている場所が三ヶ所あるが、それが画面に強い動勢を作り出している。そういった繊細さと大胆さを兼ね備えた印象深い作品である。(磯部靖)

7室

 見藤瞬治「道がある・道はある」。下方から上方に道が伸びているが、その先で道路が壊れている。その向こうには自然の丘陵があり、さらにその向こうには湖があり、山がある。自然の中につくられた一筋の道が壊れている。壊れたあたりの岩がなにか神話的な人物のようなプレッシャーをもって立ち上がってくる。それぞれの自然のものが無機物ではなく、神話的なある生命力をもった生き物がお互いに連結し構築した世界のように描かれている。そういったヴィジョンがこの作品の魅力である。壊れた道もまた修復され、道はつながっていく。強いヴィジョンが鑑賞者を打つ。(高山淳)

 石井晴子「都会の木洩れ日」。高くそびえるビル群を背景にしながら、女性が一人椅子に座ってくつろいでいる。女性は左足を曲げて椅子に乗せ、少し上を向いている。隣には無花果の樹が伸びていて、その下にダルメシアンが一匹ちょこんと座っている。降り注ぐ木洩れ日が点々とその光の斑点を落としているところが、何ともいえないやさしい雰囲気を醸し出している。旧約聖書では禁断の果実を食べたアダムとイブが無花果の葉で身体を隠したとある。そう考えると背後のビル群も現代人の虚勢の象徴であるかのように思えて興味深い。いずれにせよ、寒色系の色彩で主にまとめながら、都会の中の安息の場を心地よく描き出しているところに注目する。(磯部靖)

 吉田正「再生」。大きく描かれた竹の切り口に若い女性が一人立っている。女性は手に明るく光る半球体を持っている。それが半月を思わせる様で興味深い。震災からの復興で今も被災地の方々は努力をしているが、それに対する祈りが、月の光を少女の手元に引き寄せたのだろうか。竹から生まれたかぐや姫を思わせながらも、深い祈りと希望のイメージが作品に満ちている。確かな描写力とともに、そういった表現力に特に注目する。(磯部靖)

 結城智子「楽園の寓話―祭り―」。止まり木にとまったフクロウを中心に、沢山の人々が輪をなして踊っている。人間と動物の深い関係性を暗示しながら、全体で動きのある見応えのある画面を作り出している。動物たちを絶滅に追いやっている人間が、この作品では逆に動物たちを奉っているようだ。そういった危うい関係性を巧みに寓話的に表現しているところがおもしろい。(磯部靖)

 篠田正美「人々の風景」。画面の両端に大きくスルメを二つ描き、その間に男性の顔が描かれている。鑑賞者を強く惹き付ける画面が印象的である。しかしながら大味ではなく、例えばスルメの皺などもしっかりと描き込まれている。男性の目は見開かれ、こちらを見つめていて目が離せない。茶系の色彩の中に黄や青、緑など様々な色を入れ込んでいるところもまた見どころである。(磯部靖)

 グェン・ディン・ダン「REFLECTION/鏡の向こうに」。蠟燭をもった女性を画面のやや左に描き、その右側には蝙蝠とこうもり傘が描かれている。女性の手前には机があり、鏡が置いてある。つまりこの女性や蝙蝠のいる場所は鏡の中の世界のようだ。鏡の前に置かれた紙片の「Umber」の文字が、鏡の中で正しく見えているところが、特におもしろい。静謐な描写で、豊かなイメージの世界をしっかりと構築している作品である。(磯部靖)

8室

 麻生眞紀子「レクイエム」。寒色系の色彩でまとめられた画面の中に五人の女性が描かれている。五人といっても一人の女性を描いているようだ。ちょうど扇を少し開いたような構図である。下方には蓮の葉がいくつも開いている。どこか静かな気配が漂っているが、そこに女性の動きが加わって、画面全体に独特の感情が込められているように思う。鎮魂のイメージも引き寄せながら、誠実に作品を描き上げているところに注目した。(磯部靖)

 石崎哲男「コスモス(ひびき)」。七人の人物がセッションを奏でている。円卓を囲むようにして演奏しながら、どこか深い瞑想に耽っているようでもある。背後の紋様も相俟って、宇宙との交感を行っているようなところがおもしろい。独特のデフォルメで描かれた人物一人ひとりの様子もまた印象深い。(磯部靖)

9室

 佐野未知「こどう〈遊〉」。青で統一されたバックに緑の動きが横に入り込んでいる。陶芸の釉薬を使った独特のマチエールで、伸びやかな画面を作り出している。これまでのように生命の鼓動をテーマにしながらも、画面の外の周囲に広がっていくようなイメージの広がりを感じる。うっすらと入れられた灰白色の色面が右下と中央やや右寄りにあり、それが画面を支える背骨のような役割を果たしているところが興味深い。堅実に画面を構成しながら、画家の自由なイメージが解放されたような、見ていて気持ちの良い作品である。(磯部靖)

10室

 榎本香菜子「狂ったピアノ」。ピアノに一羽の白鳥が乗って鳴いている。周囲は肖像画のような枠に取り囲まれていて、描かれている人物はそれぞれ赤い羽根を一枚手に持っている。独特の世界観で構築された画面の中で、白鳥が首を上げて自己を主張している様子が強く印象に残る。白鳥の白と鍵盤の白と黒がこまやかに響き合いながら、周囲の肖像の人物が持つ赤い羽によって作られた曼陀羅が鑑賞者をその世界に強く惹き付ける。(磯部靖)

 中城芳裕「地獄公園」。黒いざらざらとした岩絵具のような厚いマチエールに様々な妖怪が集まっている。妖怪と画家の少年時代の自分とが友達のようにここに現れている。中心では妖怪と手をつないで歩いている帽子をかぶって左手を包帯で吊った少年がいる。右のほうでは椅子に座ってタバコをふかしている青年。その左には兄と妹が妖怪に抱かれるように、あるいは妖怪のマスクを持っているように描かれている。下方には巨大な恐竜が居て、その目玉が上を向いてユーモラスで、歯をむき出しにして笑っている。その尾が上方にあって、左に向かって動いている。そのそばには妖怪によって吊るされたマスクをかぶった人がいる。地獄公園というより、妖怪公園と名付けたほうが絵の内容にふさわしいだろう。日本には百鬼夜行の図があって、百鬼夜行する様子は実は人間のある暗い側面の人格化といってよい。そういった妖怪たちが現れて、画家の内界の世界の中では同伴者となっている。夜の世界。昼の世界とはまた違った夜の世界は深い無意識の世界といってよい。画家のイメージが活性化し、妖怪たちと不思議な物語を始めようとする。(高山淳)

 齋藤典久「field」。アイルランドの石の島、イニシモアの連作である。アイルランドはケルトの文化をいまなお残している。キリスト教の信仰とはまた違ったケルトふうなヨーロッパの古層にある力を画面に引き寄せようとする。重い石を積んだような手触りのあるフォルムによって描く。植物的な命を下方の緑の色面によって表現する。人間の営為をそこに溝のような切り込みで右から水平に置く。上方のこの石の壁のようなフォルムのはるかかなたにほんのすこし海が描かれていて、静かに輝いている。歴史と現在、自然と人間といった、ベーシックに対立的な要素を画面の上に表現し、人間のもつ力、ヒューマニティを表現しようとする。グレーの色彩が銀灰色というか、錆びた金色のような手触りがあって、いわば古色のような光を表しているところが面白い。それはそのまま時間というものの象徴のように感じられる。(高山淳)

 浅野修「構造(虚と実)」。今回の津波や原発事故は画家に深い衝撃をもたらしたようである。観音開きふうなキャンバスの構成によった大画面である。中心に一つの深い縁から波紋のように広がるエネルギーを表すと思われる円がある。それに対して黒い柱が斜めに描かれ、V字形に右に立ち上がる。両側には鍵形に二つの直線によるコンポジションが生まれている。この黒い柱のようなフォルムは実で、その深い縁から波紋を広げながら動いてくる力が虚の世界のように思われる。虚の世界が実の世界を凌駕したその怖さを、今回の原発事故で画家は考えたのではないか。そして実のほうの暗いこの柱をどうにか垂直に立てて、立て直さなければいけないという深い思いが、このこだまするようなエネルギッシュな画面を生んだのだろうか。(高山淳)

11室

 中島佳子「地の符・2012」。飛行機の上から眺めたような光景である。道が走り、川が伸び、農地と農地でない土地があり、建物が一部ある。歴史がつくりだした大地の様子を一望のもとに眺める。同時に、左のほうを見ると、そういった建物や川の流れのようなものを地面の上から見ているようなもう一つの視点も感じられる。複合的な空間になっている。また、この道や川などの長く続いていく様子は画家自身の心の歴史といったイメージもあるにちがいない。時間と空間とがクロスする。左上方に青みがかった、たらし込んだような空間があらわれているところが面白い。そこはいわば命の井戸のような雰囲気で、その深い井戸の奥底から命の水、イメージをくむ。トータルを俯瞰できるパノラマ空間の中にその井戸を端に置いたと思われるところが、実に面白く感じられる。歴史と個人の自分史、そこにある文化、人間の行為、地球のもつ強い働き。様々な要素がミックスしながら、深いメロディがそこから聞こえてくる。(高山淳)

 佐野たいし「夜の王様」。面白い作品で、独特のリズムとビート感がある。夜の王様の冠は上方に浮いて、顔が砕けつつある。持っていたコップは逆様になって宙に浮いている。下方に青緑色の色彩がたらし込まれている。背後は漆黒の闇である。きわめて音楽的な雰囲気。ジャズのセッションを思わせるところがある。画家は農業を行っているが、農業の未来もなかなか困難な様子である。大地と空に囲まれて画家は生活している。画家の生活の中からあらわれた強いフォルムと空間のせめぎ合いである。鼻のところにひっかかっている丸い二つの眼鏡。すこし壊れているが、それもユーモラスである。スペインにアントニー・クラーベという画家がいる。クラーベのもつあの時空感を超越するようなイメージが、この作品から感じられるところが面白い。(高山淳)

13室

 長崎祐司「梨樹 A」。横長の画面に梨の果樹園が描かれている。しなやかにその樹林を描きながら、黄土色の色彩で淡々と纏め上げているところが印象的である。確かな描写力が魅力。(磯部靖)

 赤本眞智子「劇場裏 控室にて」。和服を少しはだけた女性の後ろ姿を中心に、招き猫と猫を描いている。画面の左から光が差し込み、ゆったりとした空気感がうまく表現されている。どこか現実離れした空間を作り出しながら、細やかに描き上げているところに好感を持つ。(磯部靖)

18室

 河内一「冬の海 ・(雪の笹口浜)」。これまでよりも家並みに接近して描いているように思う。打ち寄せる激しい波とそれによって表現される冷たい風。肌に迫るような臨場感が強く鑑賞者を惹き付ける。暗鬱とした曇り空もまた、どこか不穏な気配を漂わせている。モノトーンに近い色彩の中に、現場ならではの空気を引き寄せている。(磯部靖)

第19回新作家展

(9月1日~9月7日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 森吉健「鏡」。鏡の中に若い女性の姿がある。森吉さんの妻の像である。下方に壺の中の筆やオイルの瓶や壺などが置かれている。いわば画中画のようなイメージで、絵の中に鏡というもう一つのフィクションの世界がつくられて、それがその絵の中の実在より、より強いイメージを発信してくる。そういった虚と実とがお互いに反響し合うようなコンポジションになっているところが面白く感じられる。

 中野淳「都市と人」。ホームに、新聞を読んでいる人や階段を上っていく人、あるいはこちらに歩いてくる若い女性がいる。そばに川が流れていて、向こうに高層ビルが見える。面白いのは、室内で子供を抱く母親の姿がそのそばに宙に浮いて描かれていることである。都市の中のホームとプライベートな自分自身の部屋の中の空間とが画面の中に連結される。御茶ノ水あたりの風景だろうか。川の表情を見ていると、画家の青春時代、数十年前の川のイメージがそこに静かに立ち上がってくるように感じられる。そして、世代が交代しながら現在に続いてくるといった、そのような自分史のイメージもそこに重ねられているように思われるところが面白い。

 根岸正「梅雨明(つゆあ)けのスキャット」。スキャットとはダバダバダバといったような、言葉でない旋律、曲のことをいう。この作品もとくに何かを語ろうとするような姿勢ではなく、自然の中からしぜんと生まれてきた歌のような趣がある。背後に樹木があり、たくさんの鳥がそこにとまっている。マンションは夜の世界にいるようだ。暗いシルエットの中に窓が明るく輝いている。その窓の中に様々な色彩が入れられていて、楽しい。そのまわりは昼で空には入道雲がわき上がりつつある。梅雨が明けて、まぶしいような光線が差し込む。そんなイメージを自然とほとんど合体する中から画家は歌うように造形化する。いちばん近景に八つの不定菱形とも言うべきフォルムが置かれている。下方からオレンジ、赤、青、紫、緑、黄色、ピンク、青である。その歪んだ大小の菱形の連続して上方に向かう形が楽しい。このようなフォルムのイメージを言葉にすると、たしかにスキャットという言葉も引き寄せられる。その中に散乱する小さな色片がその時その時の心持ちを乗せて浮遊する。瞑想的な静かな緑の世界。パッショネートな赤の世界、ぼんやりとしたピンクの世界、そして夕暮れ方の青い世界。様々な時間のなかでの思いも乗せられて、風景と画家の心象とは重なりながら、この独特の軽やかな空間を生む。

 杉本由明「景色」。K氏賞。文字を組み合わせながら、その稠密な集合体の集積と分離する様子によって独特のリズムとエネルギーが生まれる。画家によると、今回の津波のイメージをこのようなかたちで表現したという。面白い造形表現である。

 上野尚子「明日という日」。柱を立てて、一つの未来を構築する。そして、つくられた構築物はやがてフェードアウトしていく。上方には散乱する柱が浮遊している。それはある事件によって崩壊した現実。たとえば近親者の突然の死であるとか、そういったイメージがあらわれる。左の立つ五本の柱が瑞々しい。その柱を軸にしながら、過去と未来、あるいは明るいものと暗いものが交錯する。そんな人間の通常の心理の陰影が淡々としたノンシャランなコンポジションの中にあらわれ、静かに語りかける。

 河口いくえ「森の中」。椅子に若い女性が座っている。背後に森があり、鬼のような生き物や鷲や鹿などがいて、ミステリアスな世界である。手前に猫と犬がいる。犬は女性が長く飼ってきたハスキー犬で、いまは亡くなったそうだが、猫はいま現在飼っているそうだ。二人は仲のよい友達であったという。上方に亡くなったハスキー犬が浮かび、それに向かって跳躍する猫がいるのもほほえましい。森は渾沌とした未来を暗示するようだ。過去と未来と現在という時間軸を面白く画面の中に扱いながら、自分の身近な人と思われる女性をそこに愛情深く描く。その心理的なエネルギーが独特の強い空間のひずみをつくり、旋回するような構図を引き起こす。

 加藤広貴「バベリング」。画面の遠景にバベルの塔を思わせる高層ビルが描かれている。それを取り囲むように円弧を描くように幾何学形態によって建物が描かれている。その混沌とした無秩序は、崩壊した中からもう一度生まれ、また崩壊するような予感がある。そんな様子を画家はどこか突き放して淡々と表現しながら、独特の瞑想的な空間をつくる。

2室

 橋本清一「思い出通り」。モンパルナスの裏通りだという。モンパルナスは画家の尊敬する画家たちが住んでいたところである。そんな思いがこの風景に染み通っているようだ。ホテルという看板のある四階建ての建物のそばに歩道があり、車道には車がある。反対側の八階建てぐらいの建物の下方は暗く、上方に光が射している。パリ独特の赤い煙突が見える。大きな入道雲のような白い雲が空に浮かんでいる。周りの空の青さはすこし暗く、斜光線が差し込んでいるように見えるから、夕方の頃だろう。そこにあらわれてくる白い雲は不思議なエネルギーをもつ。不定形なその雲の形はどんどん変わっていき、そのようなエネルギーが画面に引き寄せられていると同時に、それと対応するように時間の染み通ったような街が下方にある。それは人間の生活の繰り返しによって、独特の汚れた触覚の風景である。その中に、いま斜光線の中に雲が立ち上がる様子は、画家のインスピレーションを象徴するようだ。と同時に、風景の中に不穏な動きのようなものが感じられるところが、画家の精神が生きてこの風景を見ている証拠のように思う。

 早川昌作「城門」。手前に江戸時代の頃につくられたような門と石垣がある。そして、青い海のような空間を置いて、遠景に高層ビルが立っている。一見して手前の城門は皇居の門のように感じられる。皇居はかつて江戸湾から運河がたくさん来て、周りは堀で囲まれていた。そんなイメージも背後にあるのだろう。そしていま皇居の周りにはたくさんの高層ビルが立ち並んでいる。そういった様子を独特の詩的なコンポジションの中に表現する。背後の海を思わせる茫漠たる空間はまた時間というものの長い流れも表すのだろう。手前の城門の明るいしっとりとした青のトーン、その手触りのある表現が魅力である。堅固で、余分な装飾のない城門の形が作品の構成のポイントとなっているところも面白い。

 安井キミコ「GAILLARDE」。ガイヤルドは昔の三拍子の楽しい踊りの曲のことを言う。その活発な音楽が画面の中に鳴っている。下方には弦楽器や管楽器を演奏するオーケストラがあって、ピラミッド形の中に二十人近く描かれ、演奏している。その音楽のメロディに乗って指揮者は宙に浮き、天使は上方から下方に下りてくる。楽譜が舞う。緑やグレーの中に赤い色彩があらわれ、それが演奏家たちを取り囲んでいる。パッショネートな生命的なメロディが画面から聞こえてくるようだ。

 中山雅子「早春の朝」。青い三本の木立が中景にある。その向こうにはもうすこし数の多い樹木の連なりが二つのブロックをなす。その向こうは海岸で、波が寄せている。海岸の穏やかな広がりが、しかし、画面全体の雰囲気からすると、あるときに不穏なものになるといった、そんな気配も感じられる。これまで以上にスリリングなコンポジションだと思う。一種の不安定なものを安定化させようとするその力が、そのようなイメージを引き寄せるのだろう。三羽の白い鳥が空を飛んでいる。人間の魂のように感じられる。あるいは、画家の想像力の象徴で、鳥となって自然の中に入っていき、海を発見し、空を発見し、樹木を発見する。そんな画家のイメージの力そのものが、この白い鳥に重ねられているように感じられる。また今回、背後にある海の静かな広がりが、なにか厳粛で敬虔な雰囲気をつくりだす。

 斎藤歩「休息」。椅子の背を後ろに倒して、ほとんど寝た様子のフォルムをしっかりと表現する。静かに光が射しているような、そんな色彩感覚も面白い。

3室

 日高梢「ひととき」。正方形の中に円弧をもつ赤とU字形の赤とが組み合わされて、独特の強い空間をつくる。その呪文のような赤の中に花のようなものがあらわれている。あるいは、机や鏡台のようなイメージ。室内の密度のある空間。しかし、この赤は深い感情、あるいは呪文的な効果と同時に、朝日や夕日の赤の性質も入れられて、独特である。その赤が静かに深い感情をうたい始める。心の中の大切なものがある不定形なフォルムとなって立ち上がってくる。

4室

 八木原由美「月の舟」。ベッドに仰向けになった女性。ストッキングだけをはいていて、あとは裸である。キメ細やかな肌の様子をたとえると、練絹という言葉が浮かぶ。そして、室内で奔放な姿勢をしてアンニュイな様子で呼吸をしているその放恣な姿が、エロティックに表現されている。それと対応する二匹の黒い猫はこの女性の色彩を引き立たせるために存在しているようだ。ベッドには桃のようなフォルムが三つ現れている。桃の甘い蜜の味がそのまま女性のもつ官能性のもうひとつの象徴のように感じられる。そして、この寝台は船となって、夜の海の中に漕ぎ出して、月の光を浴びるのだろうか。外部から描くと同時に、その内側から女性のエロスを画面の中に引き寄せようとする。そんな視点も面白い。

 石田曻「寂廖たる光景」。A氏賞。漁師の小屋が描かれている。無人である。今回の津波によって亡くなったのだろう。その残されたものを通して深いレクイエムの感情を表現する。

 中村勝久「北アルプス群峰」。一度大病したあとに回復して自然がより美しく見えるようになったという。明るい明度できらきらとした雰囲気。遠景には雪を抱く高山。そして、近景には緑の植物が姿を現し、春が来た様子が表現される。明るい陽光を風景の中によく捉えている。

 山田一夫「幻景(北緯42° 20´から)」。山田は室蘭にアトリエがあるから、この北緯42° 20´は室蘭のアトリエからという意味なのだろうか。いずれしても、先日押し寄せた津波の恐ろしさをしぜんと画面から感じる。内側からせりだしてくるような強いエネルギーを画面の中に引き寄せている。そして、たくさん死んだ霊が浮遊し、上方に上っていくかのようだ。

5室

 小池弘恵「天空の花」。大きな樹木が立ち上がっているが、途中で切られている。そこにハシゴをかけて、あるいは綱をかけて少年が上っている。上方に青いケシの花が見える。画家はヒマラヤのシリーズを描いていた時期があって、そこに発見した青いケシの花が、今回はこの日本の青空の中に浮かび上がった。それは少年の未来の象徴だし、理想というものの存在を示すようだ。そういった天空の表情と少年たちの姿が生き生きと対照される。

 伊藤介一「蓮の精の演奏会」。大きな蓮の葉が広がっている中に小さな蓮の葉が点々とあり、そこに花が咲いている。下方には黄土色の蓮があって、あいだの海に楽器などが沈んでいる。今回の悲惨な津波の世界を暗示する。しかし、希望がある。希望のメロディを蓮の精は花を頭に置いて横笛を吹き、梟が指揮をし、妖精たちが音楽を奏でる。そのメロディは天空に向かって響いてこだましていく。優しく繊月がそれを見守る。一種の曼陀羅構図のあらわれているところも面白い。

 坂口富貴子「通り過ぎた街」。矩形のフォルムが繰り返し画面の中に置かれる。小さな矩形と大きな矩形。建物と街。白い矩形の中に黄色い色彩が入れられたり、青紫の窓のようなフォルムがつくられたり、あるいは、緑の色彩によって染められた矩形を組み合わせたフォルムも見える。白いフォルムが道のようなイメージを表す。街、或いは建物全体を心の内部に入れて、その内側から街を描く。そこから生まれてくる深い空間とダイナミズムに注目。

 本田久一郎「網想(復興)」。四つの大きな円形の網。その向こうには大漁旗があって、復興末丸、復興栄丸などの文字が見える。大きな鳳凰のような模様も見える。ところが、その向こうに灯台があり、灯台の下方には津波で流された家々が幻のように浮かび上がる。悲惨な今回の津波の災害とそこから立ち上がる復興への祈りが、この独特の強いコンポジションをつくりだした。網の目がまるでイスラムのアラベスク模様を思わせる強さで、画面全体に放射して動いていく。背後の恐ろしい出来事を描きながら、この網がそのような強い力をもって画面の前に置かれているところが画家の精神、そしてヴィジョンの力である。

第97回二科展

(9月5日~9月17日/国立新美術館)

文/高山淳

1階─1室

 濱田進「MANSART,508」。MANSART とは屋根裏という意味になる。パリの広場がその部屋の床の上に幻視される。無数の人々が広場に集まっている。パリで暮らす孤独感のなか、床の上に広場に人々が集まるという図を幻視する。スタティックな周りの空間に対して、中心に起きた激しい曼陀羅構図が興味深い。

 西健吉「浜の休息」。若い女性が背中合わせにワイヤーを巻くものを倒したようなものの上に座っている。そばで漁師が網を繕っている。浜の向こうには海が広がる。全体に暖色系の色彩を地に置いて、上にグレーを置いたような温かさがある。浜の労働がずいぶんロマンティックに表現されている。独特のパッショネートな群像表現である。海に対するパッション、水平線に対するパッションがこの画面全体を不思議な光線に染め、そこからあらわれてくる色彩だと思う。

 加覧裕子「海から」。クラゲが静かに海の底を動いている。そのクラゲがまるで光背になって、そこに女性の姿、立像があらわれる。画家のたいへん親しい人が亡くなって、このクラゲはその女性を霊界に送ろうとしているかのようだ。クラゲ全体が不思議な柔らかな雪洞のような雰囲気で画面の中心に描かれている。海のもつ水圧が画家の想念のもつ密度を暗示するかのようだ。

 川内悟「海潮音」。五〇〇号の作品の中にたくさんの裸体の女性が集まって旋回している、頭はなく、ほとんどトルソのようなかたちであるが、それは女性の体を暗示する。海は女性名詞である。海の中の動きを女性のトルソを使って描き、海の中に不思議な花が開いたような、そんなコンポジションになっている。茶褐色を中心とした色彩があやしい花のようでもあるし、悲しみの旋律のようにも感じられる。

 中島敏明「慈愛」。子供を抱える母親。子供の顔も母親の顔もない。画家は幽明界の中に存在する人間を描く。いま幽明界の向こうからこの子供を抱く女性はだんだんと人間化しているように感じられる。それは画家のイメージの力の強さである。死者を現世に引き戻す。仏教には六道を輪廻するというイメージがあるが、そんな仏教的な世界観をベースにしながら、この聖母子像を画家は現実に引き戻そうとする。それによってだんだんとこの母子には血が流れ、心臓が鼓動を始めるかのようだ。そういった図像の上方にベージュ色の四分の一円が現れて、まるでこの母子像の光背のように感じられる。平面の上で死と生の両端に足を置いて、画家はイメージというものの深さ、愛の深さを語る。

 伊庭新太郎「クリップ」。クリップのラインがオレンジ色によって描かれている。背後は暗い紫と黄色との混色によって密集した細胞のように感じられる。クリップはひとつの無機質のものであるが、その形を画面いっぱいに描きながら不思議な空間をつくる。日常の身近なものに画家は命を吹き込む。そのクリップの直線と曲線のラインがまるで二つの橋のように感じられる。橋のあいだにあけられた楕円や円形。それが一つひとつ発光する。ラインの中に細胞的なオレンジ色の無数の分節があらわれ、そのラインが発光する。いわばイメージによる幻視と言ってよい。最近、具体展がこの国立新美術館で開催されたが、関西ではそのような前衛精神がベースにあるようだ。この作品も、クリップというものが実はクリップでないもう一つの世界を暗示させる契機として引き寄せられる。そのクリップが命の輝きとして表現される。

 田中良「北の大地」。しんしんとした気配がある。手前に緑色の水が静かに横たわっている。岸辺も、その後ろの斜面も、雪に覆われている。そして、中景にもう一つの斜面がある。針葉樹がそこに生えている。空の下方にはセルリアン系の柔らかな青い色彩が置かれている。上方の空は雲に覆われて暗い。「山のあなたの空遠く『幸』住むと人のいふ」というカール・ブッセのかつて愛唱された詩のイメージを下方の空の青さに想う。山の向こうにもう一つの理想的な世界があり、それをこの北国の風景の中に引き寄せる。それは、いまは冬であるが、やがて春が来るというイメージでもあるし、困難な厳しい大地にもうひとつのロマンの世界があるという文学性もしぜんと感じられる。存在するものと憧憬との二つの世界のせめぎあいが、大地と空のせめぎあいによって表現される。

 月舘れい「風景のみえる室内」。女性がソファに座っている。テーブルの上には壺や果実がある。窓の向こうには田園があり、田園の向こうには建物がある。窓際に樹木が立ち上がっている。いま夕方で、空は茜色に染まっている。風景と同時にテーブルの上のものたちが風によって靡いている。そこに座っている女性の髪もその風によって動いている。風を起こすのは画家の詩情である。刻々と動いていく時間がそのまま詩の世界と重なるところにこの作品の魅力がある。詩の世界の象徴のように、この畑の上に不思議な鳥の姿が灰白色で現れる。画家は高齢であるが、画家の詩心は全く衰えていない。

 生方純一「寓意」。三つの岩が置かれているが、その三つの岩が広大で巨大な大地のように感じられる。三つの大地のあいだに霧が動いている。背景に宇宙的な空間があらわれ、灰白色の太陽のようなフォルムが動いていく。その暗い空間に青く点々と動くものは何か。大地の中にもその暗い青よりもっと明るい青が、この塊の中にもある。自然というもののもつ不思議な力。いわば創世記神話とも言うべきものを画家はイメージする。

 五味祥子「遺跡の人」。まるで幾重にも囲まれた洞窟の中に女性がいるように描かれている。蓑虫の中にいる虫はやがて時間がたつと羽化するわけだが、この遺跡の中の人は永遠にここに閉じ込められている。女性を囲む灰白色のフォルムが独特の動きのなかに描かれる。画家は時間というもの、歴史というもののなかに深く潜入する。歴史的な感覚のなかではこの中に閉じ込められた人間はいまだ死なず、画家のイメージの力によってやがて蘇るかもしれない。上方の赤い色彩は、そのような画家のロマンが生み出した儚い透明な幻のような美しい色彩である。

 香川猛「待春」。ベージュ色の空間の中にすこしピンク色の空間がある。上方に三人の人がいる。下方には頭を傾けた女性やこちらを向いている女性。その向こうには裸木が複雑に屈曲した形を見せる。道が向こうに行っている。黒い空間は冬の川のように感じられる。冬の川はまた、そこで暮らす人々の心の中を流れている川で、やがて春が来ると、それは解けるだろう。中にオレンジや赤や緑や黄色の色彩がすこし色面として置かれているのは、春を待つ心持ちのあらわれだろう。画家は小田原に住んでいるが、その風土と密着しながら暮らしている。風土のもつ鼓動、そこに暮らす人々の心持ちと重ねるようにして歌をうたうように絵を描く。歌の流れのように、様々なフォルムが連結されながら、冬の川が春の川になる。冬の時間が春の時間の流れになることが画面の中に象徴的に表現される。

 山中宣明「An anonym」。アノニムとは無名性という意味である。五〇〇号の空間の中、上方はコバルトブルーの青い色彩が輝く。そこに白く浮遊する塊がある。それは様々な寓意を含んで動いている様子である。易に乾(けん)坤(こん)という言葉がある。乾は空で、坤は大地である。まさに天地がいまここに始まり、新しいイメージが生まれ、新しい命があらわれるといった様子を輝かしく表現するかのようだ。

 三後勝弘「芥子と青虫と蛹」。青虫が画面の真ん中にいて、下方に蛹があり、蛹の中に緑の女性が横たわっている。いま蛹から羽化しようとするかのようだ。芋虫と蛹と羽化する命、三つの時間が画面の中に同時的に併置され、自然の中に営まれる命の力を神々しく表現する。緑という色彩が命の聖なるイメージの性質を語ろうとするかのようだ。緑が神秘的な色彩として扱われている。漆黒の二つの芥子のような黒い花が背後に置かれ、この黒いブラックホールのような花が手前の命を荘厳するかのようだ。深いロマンのモニュマン的な表現と言ってよい。

 山岸光代「思い出の部屋」。部屋の中に不思議な光が差している。座っている女性の肌も黄色い服も、現実以上により高い明度で輝かせている光線はどこから来るのか。そばに花があり、鳥が飛んでいる。青い壁の向こうには白い窓がある。不思議なことには、この女性の背後にシャドーのようにもう一人、座っている人がいることだ。そばに花があり、椅子の上には法螺貝がある。柱時計が壁に掛けられている。「思い出の部屋」という題名であるが、この女性の両側にある花、そして女性の後ろにあるこのシルエットの人間を見ると、深いレクイエムを思わせるような静かで深い感情と同時に、魂というものの現存感、存在感を表現しているように感じられる。背後のシャドーのブラックホールのようなイメージに対して、手前のビーズのように輝く黄色いワンピースを着た女性は髪に赤い花を差している。そして、両側の脇士のような花、そして床の上の花、室内を飛ぶ白い鳥はまさに魂が飛び、窓の向こうに行こうとするかのようだ。やはり織田廣喜という画家を亡くしたことのイメージもあるのだろうか。いずれにしても、明と暗と二つの世界の色彩の連続性を画面の中に対置させながら、魂というものの力を画家は表現しようとする。

 粕谷正一「ハコブネ」。内閣総理大臣賞。五〇〇号の巨大な画面いっぱいに白い方舟がある。その中には画家のアトリエの中にある石膏像をはじめ、鳥の剝製や三角定規、観葉植物、人形など、実に様々なものが置かれている。その白い舟にはラディオ・アクティブ・マテリアルという題名がつけられている。そのクリアなフォルムの力がこの作品の魅力である。この大作の中にある一つひとつのフォルムが強い光の中にその形を立ち上げる。その強い光は画家の視力と重なる。そのアトリエの中のものたちには価値の高低はない。すべてが同一の価値をもって並列的にこの方舟の中に置かれて、海の中を動いていく。そんな、いわばアトリエの物たちを荘厳するように虹が立っている。再現的な力を極限まで行使した力作と言ってよい。

 中原史雄「画聖織田廣喜に捧ぐ 12─8」。二つの虹が立っている。その虹を背景にして三人の眼鏡をかけた青年が立っているが、実は地上よりすこし浮き上がったかたちで浮遊している。紫色の花束を持っている。その花は献花である。同じ花の色彩が雲のように不思議な生き物のように空中を浮遊している。下方には小さな丘があり、田園があり、田園の動きはそのまま海の動きと重なる。画家は京都にアトリエを持っているが、京都の古画の世界、日本画の世界に深く親(しん)炙(しゃ)している。日本画のもつ山水のあの平面的な力強い世界を油彩画に重ねながら、織田廣喜の魂が昇天する様子に対して献花しているように感じられる。すべてのフォルムが空中に浮遊し、お互いに合掌しているような、そんな深いイメージが鑑賞者を招く。

1階─2室

 阿美代子「争う女たち」。二つの着物が宙に舞っている。いずれも小紋ふうな着物で、一つは墨色で花などが描かれている。もう一つは緑とオレンジ色との細かな小紋の様子である。いずれも月光がそこを照らしているような華やかさである。バックはグレーで、そこに明るいグレー、深いグレーなどがうねうねと曲線の中に描かれ、一部茶褐色の色彩が入れられている。満月が出ているようだが、月は半ば雲の中にあるようで、くすんで見える。レンゲの花が点々と散っている。祈りの空間であるが、題名を見ると「争う女たち」いう題名で、嫁と姑の闘いも背後にあるのだろうか。向かって左の緑のオレンジ色の着物が姑で、墨色の花柄が嫁なのだろうか。いずれにしても、二つの世代の女性がこの円弧の動きの中に入れられて、女性から女性へと伝わってくる日本の母系社会のもつ歴史もしぜんと暗示される。

 倉橋寛「方舟は何処に」。赤茶色の直方体は方舟である。上方に金環食の太陽が浮かんでいる。それ以外は無地のしーんとした海と空の渾然とした褐色の空間である。倉橋というと、デッサン力に優れた女性のリアルな人物像をいつも見ているのだが、今回は昨年の津波からの深い印象を祈りのコンポジションの中にまとめた。切ないなかに強い表現で、どこか香月泰男を連想するものがある。祈りのコンポジションである。

 平権「聾(ろう)瞽(こ)指揮(しいき)」。龍が海から立ち上がっている。手前で船の上にいる僧が数珠を持って祈っている。上方に天女が現れている。『聾瞽指揮』は空海の著作で、仏教と儒教と道教のどれがいちばん優れているかを自ら自叙伝ふうにまとめた物語である。

 松室重親「生きる」。駱駝のそばに女性が立っている。青みがかったグレー、黄色みがかったグレー、ピンクがかったグレー、グレーのハーモニーが雅やかである。一つひとつのフォルムがクリアで、一種の象徴性を獲得する。想像のシーンを見事にリアルに表現する。

 大隈武夫「沙漠に甦る薔薇・献花」。若い女性が小さな子供を抱きながら両手の上に皿を持ち、その上にたくさんのピンクの花を盛っている。頭の上にも花を植えた籠をのっけている。大きなスカートの手前に子供がいる。周りをピンクの薔薇が咲き誇り、つがいのピンクの鳥が歌っている。愛を荘厳するといったイメージが感じられる。聖なるものに対する献花のイメージでもある。それを三角構図の中にダイナミックに表現する。グレーのバックにピンクが宝石のように輝く。そして、女性のフォルムのすこし上方に青い色が入れられているのは、あの無窮なる空のイメージだろうか。

 岩田博「出会い」。関節人形の母と子。顔は隠されている。背景に七体か八体の関節人形が、その中心から傾きながらストップモーションのように動いている。亡くなった母と子がこの画面の中に出会ったような趣である。一年前の津波の大災害を画家は深い鎮魂のなかに表現したと思われる。いわば虚の空間の中に咲いた花のようなコンポジションが痛切なイメージを伝える。

1階─3室

 佐野明子「バリエーション」。明るいピンクとすこし調子を落とした赤と二色のバックの上方に文字などが集まったフォルムがあって、それが花束のように感じられる。そこからカーヴするフォルムが両側に向かう。二つの赤の連携するところから左右に伸びる白や黒のフォルムがあるが、きわめて音楽的なイメージがあらわれる。下方でピアノのメロディが流れ、上方には弦楽器が流れ、祝祭の音楽が鳴っているような、そんな朗々としたイメージを造形化する。

 友政光雄「かくれんぼ」。壁に落書きをしながらだんだんとイメージをふくらませ、一つの壁が空間を獲得する。建物や線路が線描きで描かれ、その上方には煙突のある工場のフォルムもあらわれる。それに対して面による建物のようなイメージが厚いマチエールを伴ってあらわれる。地上の道が空の銀河のようなイメージと重なる。地上の風景を見ながら、それを天井に宙吊りにし、それを壁の中に閉じ込めたような、そんな表現に注目。

 江㟢榮彦「かごめかごめ後ろの正面だあれ」。会員賞。スクランブル交差点の中心がぽっかり空いて、そこに傘を差した女性が一人いる。周りはたくさんの交差点を渡っている人々であるが、全員傘を差している。「かごめかごめ後ろの正面だあれ」は一人の人間を囲んで遊ぶゲームであるが、この中心の人間の周りに空いたぽっかりとした空間と周りにいる人々の様子を見ると、人間のもつ孤独感、不安感といったものが表現されているように感じられる。ブルーを基調としてカラフルな色彩が点じられて、ロマンティックな雰囲気が漂うように感じられるのだが、画面をよく見ると、その中にある一種の寂寥感とも言うべきものが翳りのように画面からあらわれていることに気づく。しかも、中心の女性と周りの人間とは実は連帯感をもっていない。人と人との関係の断絶ということもしぜんと浮かび上がってくる。現代人の不安な様相をこの群像の中に表現する。

 竹井英子「Sky blue」。青い空に白い雲が流れている。そんな空間を抱きかかえている金髪の女性。下方には、白い背景に一輪の薔薇の花が線描きで描かれている。その青い空に流れていく雲は無常観の象徴のようだ。一年前の津波の災害をこのようなかたちで画家はレクイエムとして表現したのだろうか。

 髙藤博行「共生」。鏡面になったビルが斜めに立っている。左側には樹齢二百年か三百年ほどと思われる松が激しく屈曲しながらその枝を伸ばし、葉をつけている。右のほうにもまた松が崖のように聳えている。その自然の持つヴァイタルな力と幾何学的な建物とが対置され、お互いに響き合う。その鏡面には高速道路がカーヴしている様子がダイナミックに描かれている。その高速道路のもつダイナミズムと松のもつダイナミズムとが画面の中で響き合う。それを一種文人画的なエネルギーによって表現する。

 餅原宣久「時感 12─・」。男女が抱き合っている。女性は男の体にすがった後ろ姿で、男性はシルエットでこちらを向いている。下方に四人の女性たち。遠景にもっとたくさんの女性が点々と小さく描かれている。その向こうは海のようだ。困難な現実を背景にして女性たちが現れ、女性は向こうの黒い幽体のような男性を癒そうとするかのようだ。

 森岡謙二「ヴォールドなスペース」。ヴォールドとはロマネスクなどの教会の穹(きゅう)窿(りゅう)を言う。そのアーチ状の教会の骨格が、画面から突き出た太いピンク色のフォルムによって表現されている。その上方に空が浮かび、蝶が飛んでいる。魂の象徴と言ってよい。ステンドグラスが窓に嵌められている。教会の内部にある神聖な空間を心の中に画家は入れる。教会の内部の視覚的なフォルムを描くのではなく、その空間を心象空間として画面の中に引き寄せる。それは天井と地上を結ぶ空間である。そんな空間の中にステンドグラス的な色彩が散りばめられている。具体的なものは描かれていないが、まるで花束を一つひとつの窓に嵌めたような、そんなイメージである。そして、蝶を飛ばす。下方の何層にもヴォールドが重なった親密で凝縮されたような空間が、上方の開放感と対置される。やはり津波の悲惨な出来事を深く画家は心の中に受け止めて、それを癒そうとする強い力がこのような空間を創造したのだと思う。

 戸狩公久「北幻」。雪の積もった岸壁が向こうに続き、その果てに煉瓦造りと思われる灯台が立っている。岸壁に一艘の船が係留されているが、そこも白く雪が積もっている。岸壁の外側にテトラポットが幻想のようにたくさん浮かび上がっている。そのテトラポットの不思議な表情を見ていると、画家は青森の生まれであるが、今回の津波で亡くなった人々の霊がそこに集まっているような雰囲気がある。そう考えれば、そのそばから二羽の鳥が空に向かおうとしているのも、その霊的なイメージの発展として理解できる。電信柱に裸電球があって、それがこの情景を照らしている。しんしんとした気配のなかに温かさや懐かしさや寂寥感といった複雑な感情があぶり出しのように浮かび上がる。水平線に点々と光が見えているのは漁のシーンだろうか。いずれにしても、この暗い海をバックにして浮かび上がる白い積雪の岸壁と船の様子は、実に深い詩情を醸し出す。岸壁の海と接するラインが垂直に画面の下辺から立ち上がっているのも強いコンポジションである。

1階─4室

 塙珠世「COSMIC MUSE」。五〇〇号の大作である。画面の下方から巨大な帆船がこちらに向かってくる。その背後から太陽がいま昇りつつあるような輝かしいイメージがある。深い海から現れてきた船は希望の象徴のようだ。そのそばにファンタジックな妖精のような女性が一本足で立っている。その背後には月があるようにも見えるし、金環食のように太陽と月が重なって周りにコロナのような光があらわれているようにも感じられる。東日本大震災の悲惨な災害から一年以上たつわけだが、深い鎮魂の祈りによってもう一度海を回復させ、希望の光を取り戻そうとする、そんなイメージが感じられる。円弧が大胆に使われ、それは船の形をなしたり女性の形をなしたり太陽や月の形をなしたりしながら、その円弧はお互いに、連携し、力強いメロディともいうべきムーヴマンをつくる。

 金澤英亮「INNER SPACE」。正方形の画面を横に二枚重ねた横長の作品。両側に黒い矩形がとられている。その左には暖色系の色調の入れられたグレー。右側には寒色系のグレーが置かれている。二つの矩形のあいだに太いストライプがあり、その上下に矩形がたらし込みふうな調子で置かれている。不思議なバランスのなかにある。均衡と不安定。二つの要素を静かに秤にかけながら画面をつくっている。そこには祈る心のような深い内的な感情があらわれる。

 鶴岡義詮「空」。裸の女性が立っている。膝から上が描かれて、両手が上にあげられている。豊満なボディである。踊り子のような雰囲気。背景の深い青い調子がバックの空間をつくる。向かって右側にイーゼルがあって、描きかけのキャンバスがあるが、そこには円弧を描いた抽象形態がある。その下には竜巻のような黒いフォルムがあらわれている。「空」という題名であるが、なにか無常の風が画面の中を吹いているようだ。その中にエロスの象徴ともいうべき女体が静かな舞踊を行う。生命というものの力が発現するのだが、それに対して無常の風がそこを吹き抜けていく。

1階─5室

 中村美穂「らぶ・はんと」。人間のトルソを思わせるようなフォルムが下方から左上方に向かう。暗いバックの中に青い不思議なフォルムが出会おうとしている。独特の壁画的なマチエールの中に動いていく形は人間のフィギュアである。「らぶ・はんと」という題名を見ると、時間というもののもつ不思議な力、時間が人と人を会わせ、人と人を別れさせる。そんなイメージがゆるやかなこの動きのなかに感じられる。

 武田美智子「LIFE・光に向かって」。すこし地味な色彩であるが、不思議な遠近感の中に心のときめきや時間の動きが感じられる。大きな翼が中央にあり、その下には薔薇の花を持った手、そして、横顔の彫刻、二人の女性、樹木、青い林檎、大きな葉、籠の中の鳥。命を育む力、自然の刻々と動いていくなかに人間も存在するといったイメージが、その独特のコンポジションの中から浮かび上がってくる。

 木脇秀子「チゴイネルワイゼン」。ヴァイオリンを弾く女性がピンクのワンピースを着て立っている。そばに赤やピンクの可憐な花が花瓶に差されている。ヴァイオリンの流れる旋律によって緑の月が下りてきている。下方には白鳥がいる。エッフェル塔のような金色のフォルムの下には四弁のピンクの花が咲いている。遠景には星が輝き、カフェらしきものが見える。グレー、茶色、深いインディゴ系のブルー、明るい黄色やピンク、緑などの色彩が深い夜の心象空間の中に浮かび上がる。音楽の旋律によって様々な形象が引き寄せられ、また後退していく。そのベースにある深い暗い色調がまず強く、その色調の上にオレンジ色や様々な色彩がのせられている。深いイメージの世界がチゴイネルワイゼンの旋律に沿ってあらわれてくる。独特の色彩の輝きと空間の表現が魅力。

 鬼頭恭子「踊 '12」。五人の女性がフラメンコを踊っている。右手を上げ、左手でスカートを持ったダイナミックな動き。足で床を鳴らしたり、持ち上げたりしている。その後ろにも踊り子たちが横に並んでいるのがわかる。衣装の赤い色彩が見事である。輝かしく、まるで太陽がここに下りてきたような華やかさと生気をもつ。人体の肌は茶褐色にして、すこし背景に沈められているために、よりフラメンコの衣装が輝く。また、その波打つようなひだの多いフォルムが五人の衣装の中にお互いに連結しながら、うねうねとした強い動きをなす。まさに生命というものの讃歌と言ってよい。右のほうでは赤い衣装の中に青が入れられて、それも画面全体の中を見ると、優れたアクセントになっている。

1階─7室

 水谷正「祈る人」。黒が圧倒的な存在感を示す。いちばん近景に手を合わせている男がいて、その両後ろ側にお互いの顔を見ている人間がいる。まるで中心の阿弥陀如来と後ろ側の脇士のような趣である。そして、その背後の空間に赤い面とその外側の円弧があって、まさに祈りのイメージがそこにあらわれている。上方には横になった人間。死んでいるのだろうか。背後に三人の男のシルエットの胸像が見えるが、その様子を見ると、横になっている人間は棺桶の中にいるような雰囲気である。生と死のイメージを祈りという深い心象空間の中に表現する。

 寺㟢陽子「夢の二次加工~奇妙な音律」。正方形の中に抽象形態が構成されている。一部コラージュされて、マチエールの変化があらわれる。上方に深いウルトラマリンの色面があり、それに対して広場を思わせるベージュの色面があり、両側に建物を思わせるような紫や青みがかったグレーの色面があり、あいだに緑が樹木を表すようだ。上方のウルトラマリンは海を思わせる。独特のバランスのなかに静謐な印象であるが、その内側から動いてくるリズムとムーヴマンが感じられる。華やかなものと悲しいようなものの二つの感情がクロスするようだ。

 大野哲司「希望の部屋」。赤褐色の色彩が重ねられて、深い空間があらわれている。向かって右のほうにクリムソンレーキと思われる色彩による女性のトルソが立っている。左のほうには金と黄土を混ぜたような色彩が横に流れていて、その下方にビリジャンやバーミリオン系の色彩が置かれている。テーブルに光が当たっているような趣である。あるいは、そのテーブルの上から光が滲み出ているようにも感じられる。そのテーブルは大地のようなイメージも重なっていて、地面の奥深くから何か新しく春の息吹があらわれてくるようなエネルギー、あるいは萌えいずるもののイメージもある。あるいは、そのテーブルは大きな一つのボックスで、ボックスの中に満月があって、満月がじわじわと輝きはじめているような、そんなロマンティックな印象もある。女性のトルソは母性的で、大地というもののもう一つのファクターのように感じられる。室内の空間がそのまま大地的な風景的な要素と重ねられて、そこに画家の敬虔な祈るような気持ちが月や太陽のイメージを引き寄せて、じわじわと後ろ側から光があらわれてこの空間を染めているような、そんな雰囲気に注目する。

 渡邉丞「チムニーのある景」。チムニーとは煙突という意味であるが、煙突が壊れかかっている。その壊れかかった煙突の様子。上方の三角形の覆いの中が壊れて、まるで人間の目のように感じられる。背景には東日本大震災の衝撃もあるのだろう。煙突は家の中から煙を出して、いわば家が息をしているような、そんな強いイメージであるが、壊れた煙突は悲しい。建物が死んで崩壊したイメージがそこに漂う。深いレクイエムのなかに、壊れた妖精のようなイメージが悲しい。

1階─8室

 鎌田道夫「夢想人」。ピエロの青年がタバコを吸っている。そばに恋人と思われる女性が立っていて、すこし俯いた様子で目を閉じている。親密な雰囲気があらわれる。青年のそばに子供のピエロがいて、反対方向を見ている。鳥の羽が画面にいくつも浮かんでいる。月が出、気球が遠景に見える。空には誰も乗っていないブランコが揺れている。メランコリックでロマンティックな雰囲気が夜想曲のように歌われている。体全体の仕草によって、様々な感情があらわれる。この作品ではカップルの親密な感情と未来に対する不安感といったイメージが感じられる。

 尾崎ゆき子「゚啄」。啐(そっ)啄(たく)とは卵の内側から雛が殻をつつく頃に、親が外側から殻をやはりつついて雛がかえることを言う。ある時期が到来すると、事態が変わることを言う。画面には大きく顔が描かれている。女性の顔と男性の顔が重なった様子が正面に描かれている。女性の顔は明るい色で描かれ、男性の顔は暗い色彩で描かれていて、すこしメランコリックな雰囲気である。その男性の顔の向かって左側、女性の顔の反対側に紫の女性の横顔が現れている。それぞれの顔を見ていくと、陽気な気分、暗い気分、朝の希望に満ちた気分、夜の瞑想的な気分、様々な感情がそこに描かれているように思う。右上方に卵が宙に浮いている。一つのファミリーの中にあっても喧嘩をしたり仲良くなったりする。とくに定年後の夫婦の問題とか思春期の子供と親との問題が和解に向かうときがあるだろう。まさに啐啄の時期が来るわけだ。そういった様々なイメージが画面から感じられて楽しい。

 藤橋秀安「錦秋譜」。黄金色の樹木が五層のラインの上に描かれている。その水平のラインの連続によってリズムが生まれる。その上方にチェロを弾く人やサックスを吹く人の姿がある。秋の物思いにふける季節のイメージがあらわれる。右のほうには同心円のフォルムがあらわれ、中に赤い色が描かれているから、紅葉を示すのだろうか。下方はすでに冬が近く、雪の気配である。季節の移ろいのなかに画家は静かにメロディを奏でる。

 大渕万弥子「栖息」。柔らかな緑が夢のような雰囲気をつくる。背景にある若緑色と近景の植物の葉の色彩。背後に白い幹の樹木が立ち、もうすこし濃い緑や紫色の入った葉の様子。それらがお互いにハーモナイズして優しいファンタジーをつくる。淡々と自然の一隅を描いていながら、それがそのまま幻想につながっていくようだ。それぞれの葉の形がしっかりと描かれながら、ある部分はシルエットに、ある部分はピックアップされ、その葉がある方向をもって靡き、傾き、動きをつくる。そのムーヴマンもこの作品の魅力である。

1階─9室

 深見まさ子「空─遙かなるもの」。下方に地層と建物のようなフォルムが見え、上方に夜空の星雲が金粉をまいたようにあらわれ、巨大な月もそこに浮かんでいるようだ。壮大なイメージである。われわれの頭上に広がる空が下りてきて、遺跡のような建物を覆っていて、そこには月をはじめとした星座があるといった、ロマンティックなコンポジションに注目した。

 寺田眞「傷ましきもの」。地面の上に六つの円柱状のフォルムがある。二つの円柱のフォルムが重ねられて、三列である。太い樹木の切り株が重ねられているように感じられる。いちばん左の切り株の上に鼠がいて、遠くを眺めている。背後はグレーの調子で、メランコリックな雲があらわれている雰囲気。樹木の幹はベージュの中に独特の画家らしい繊細なトーンがつけられ、中心では切断された枝の様子が描かれている。その側面には切断された跡が痛々しい。まさに「傷ましきもの」という題名のように、一年前の津波のことを思い起こしてあらわれた図像のように思われる。生の連続が断ち切られたことを、六つの切り株を重ねることによって、痛ましいモニュマンとしてここに構成した。柔らかな独特のマチエールが、その心の様子を表現する。画家は鼠になって、そのモニュマンの上に立って遠くを眺め、祈る。深いレクイエムのモニュマンであるが、同時にどこかあやしいシュールな気配が漂う。それは画家が自然と深く交感するところからあらわれるのだろう。

 竹内幸子「ヤックの鱗」。ヤックとは東南アジアの鬼の意味である。独特の強いマチエールとフォルムの連続である。二つの画面を合わせているが、その中心あたり右側に人の顔を思わせるようなフォルムがあらわれている。その目の下あたりに水平に動いていくフォルムがあり、その右端にはイモムシのようなものが動いている。下方にはその水平に動いていく接続されたようなフォルムがやはり左につながっていく。ある時間軸のなかに画家は深い思いを託しながら画面を構成する。中心にハンドバッグを思わせるようなフォルムが浮かんでいる。左上方にはヤックの面のようなイメージがある。画家は内界に深く下りてきて、その内界で旅をする。内界に入ることによって、現象的な世界は消える。それによって深い感情、あるいは時間、運命といったイメージがあらわれる。

 武藤挺一「旅の衣は篠懸けの」。武蔵坊弁慶と義経の逃避行をテーマにした連作が続いている。とくに安宅関で富樫に対して弁慶が見えを切るシーンは歌舞伎でも有名で、そのシーンがおもに扱われている。弁慶が見えを切るその顔が上方に六つ現れている。それぞれ色が異なり表情が異なる。画家は演劇の舞台の仕事もしていて、芸能の世界とは近い。弁慶のもつ気合、韻律、見え、様々な要素を使いながら画面を構成する。画面の向かって左側に棒を持つ弁慶の手がある。背後は暗いトーンの中に溶解している。その暗い様子を見ていると、織田廣喜先生が亡くなられたことに対するレクイエムの気持ちもあらわれているように感じられる。悲しみのなかに弁慶の見えを切る顔が連続して現れる。義経と弁慶の逃避行もまた悲劇で終わることを思い起こす。

1階─10室

 川井幸久「霊峰八溝(茨城)」。遠景は山の頂上である。頂上まで緑で覆われている。初夏の風景のようだ。中景の峰まで緑に覆われたそのフォルム。近景はもっと植物の形や樹木の葉の形が見え、ピンクの花が咲いている様子があらわれている。空は青く、白い雲が浮かんでいる。緑のもつ深さ、その色彩がそのまま樹木や植物の輝かしい命の表現となっている。緑を使って、これほどの変化と豊かさを表現することはきわめて難しいと思うが、見事にそれをなし遂げている。しかも、近景から遠景の山の頂上に至るまでの距離感、大きさが描かれているところに最も感心する。しかも、山が単なる大地の起伏ではなく、ある生命的なイメージであらわれていて、なにかうねうねと動いているような気配がある。その動いている気配はリアルな写実の力によるものであるが、クオリティの高い水墨作品のもつ生気と共通するものがあるようにも感じられる。

 渡辺美加「バスルーム」。娘がバスタオルを頭に掛けている前に母親がひざまずいて、その着衣の紐を結んでいる。花柄の壁やカーテンのレースや母親のレース状の着衣、あるいは壁に掛けられた絵。それぞれのディテールが一つひとつ編むように描かれていて、そのディテールが次のディテールを呼んで、不思議な連続性を示す。そのディテールによって命というものの動き、その繊細な力があらわれてくる。

1階─11室

 中川功「春風」。女性が俯きながら横になっている。そのお尻のほうから眺めている。そのそばには仰向けの女性がいる。いずれも着衣である。グレーの微妙な色調によって、しっかりとその二人の寝た女性のフォルムが描かれ、よく見ると、その向こうにもう一人若い女性が顔をこちらに向けて横になっている。背後のベージュや柔らかなグレー、柔らかな緑の色面は、風景的な要素を表すようだ。風が静かに流れている。徐々に暗い冬から春があらわれてくるときのそんなイメージを感じる。いずれにしても、色面による背景とクリアな人体の三体のフォルムの組み合わせによる造形である。

 青木悠「址」。椅子に座った女性が遺影のようなものを抱いているように感じられる。その赤茶色の額縁の中が空洞で、深い喪失感が感じられる。それを抱える腕から伸びる両手の表情などのディテールが生き生きとしているところが絵画性である。静かに波紋状に響いてくるものがあるのだが、その中心にあるブラックホールのような空虚な感じが悲しい。

1階─12室

 永井二郎「少年の森・12」。少年が立っている。背後には黄金色の雲があらわれ、そこにたくさんの鳥が羽ばたいている。その鳥のもつ躍動的なヴァイタルな力はしかし、その黄金色の雲に包まれたシルエットとして表現されている。少年のもつ内面の強い力をその鳥によって画家は暗示する。長い教師生活をしてきた画家は少年と長い付き合いを行ってきた。そこからあらわれてきたヴァイタルなイメージが鑑賞者を引き寄せる。

 有水基雄「競う」。剣道の試合がモチーフになっている。画家自身剣道の高段者である。お互いが竹刀を持って闘う。そのクライマックスのような動きが黒い二つの影によって表現される。そこにある純粋なパッションがバックの赤い色彩によって象徴される。そのバックには黄色や緑が置かれ、緑は床の空間、黄色は赤と同じようなもう一つのパッションのように思われる。

 大脇春美「面─ヘビースモーカー」。女性が口にタバコをくわえている。左右の二本のタバコから煙がもうもうと上方に上っている。面白いのは、その鼻に不思議な生き物が現れて、その不思議な生き物がやはりタバコを吸っていることである。一服するという言葉で表されるような心象と連結する。顔は左を向いた顔と右を向いた顔の連結によってつくられ、その中心に一種植物からあらわれた妖精のような不思議な生き物が現れ、その生き物がタバコを吸っているという、実にほほえましい作品である。

 前田芳和「生きる」。都会の中に生きる一人の男性像。帽子をかぶったシルエット。建物もシルエットふうに描かれている。黄色いバックにその抽象的なフォルムが連続する中に、男性の形のみがグレーのシルエットとして描かれている。そして、白い玉やピンクの玉や茶色い玉が浮遊する。日常の様々な言語がそこに象徴されているようだ。都会の中の独り言といったイメージが生き生きと表現される。

1階─13室

 今村幸子「昼さがり」。不思議な生き物のような抽象形態が画面の中心に描かれている。白や茶色の中に彫り込まれた記号的なフォルムがあり、そこに光が当たり、陰影ができて、なにかじわじわと動いているような趣である。上下のベージュの中に庭に埋められた石のようなフォルムが、上から見下ろした視点からあらわれているようにも感じられる。いずれにしても、心象空間で、画家の心のスクリーンの中にあらわれた形象だろう。それが午後のけだるいような雰囲気のなかに、ある生き物のようなかたちであらわれていて、逆にそのフォルムが鑑賞者を眺めるような強ささえも感じられる。

 木戸征郎「現代模様」。独特のコンポジションである。画面から独特の動きが感じられる。背景にグレーの高層ビルを思わせるような建物があるが、半ば壊れている。下方に行くに従って、今回の福島原発の事故を思わせるような建物。建物から噴煙が上がり、空がマーブル模様のようなかたちに変形しているような動きが感じられる。そのマーブル模様のようなあやしいフォルムは現代人のもつ不安感も象徴するようだ。画面の地はベージュで、すこし黄土系の色彩が入っているが、それからグレーや黒、緑、朱などの色彩が入れられて、ほとんどアンフォルメルふうな形が、やはりしっかりとしたデッサン力によってある形象を表現し、形象全体でもって現代の不安感ともいうべきものがあらわれる。

 野口睦幸「坂の街」。道を上っていくと建物がある。建物の向こうに丘があり、丘の上に家がある。途中に川が流れている。そういった大地の起伏とそれぞれのポジションにある建物を十字形の構図の中に表現する。それぞれの建物が有機的な空間の中に配置されている。その集落の様子はそのまま人間の内界のかたちのように描かれている。

 古賀恵美子「明日へ」。赤い色面の上に青や黒のたらし込みの色面が不思議な膨張するようなフォルムを表す。赤のもつ生命的な空間の上にたらし込みふうな世界が広がる。その中に白が立ち上がってくる。黒は無意識の世界でその中から意識が目覚めて立ち上がってくる。そういった人間の力を赤というパッショネートな空間の上に表現する。

 冨士谷隆「恋文」。木炭のデッサンをキャンバスの上に描いて、それをそのまま生かしている。上からおつゆがきで黒を使いこなしながらフォルムをつくっていく。店の前にいる帽子をかぶった男と女性。黒い矩形の中にあらわれてくる女性のトルソ。立っている女。上を向いている女性。犬を連れた男。カーテンの前に立ってカーテンを広げる女性。傘。もの思う男。男と女の恋の物語。それを男の側から描く。男の側の内面に浮かび上がってくる女性の姿を描く。同時に、画家はところどころにその二人の姿を客観的に描く。その主観と客観とのコラボレーションの中に深い心象空間があらわれる。

 大松峯雄「ジャータカ ・」。ジャータカとは仏教でいう前世の物語であるが、ここに描かれているのは様々な円や同心円である。それらがいくつも画面の中心に集まり、動いている。それは輪廻というものの働きを思わせる。しかし、ジャータカは輪廻が起きる前の前世の話というが、前世にも輪廻があったようだ。それを画家は画面の中に象徴的に表現する。しかし、いくつもの円が集合して動いていく様子は実に強い。平面の上に描かれているものとは思えないほど強い。それはこの平面がもっと大きく深い、立体的で精神的な、ある空間の声としてあらわれているからだろうか。

1階─14室

 須藤愛子「Le Vent (風)奇遇」。画面の中に激しい動きがあるが、激しい動きのなかにきわめて静かなものもある。しかし、何かが出現してくるような、そんな不思議な力が感じられる。F型の画面のすこし左側を垂直に立ち上がっていく動きがある。巨大な樹木のようにも、巨大な川のようにも見える。そこに様々な人間の形が重ねられているように感じられる。顔もあれば、体もある。そして、上方に黄金色の色彩が描かれ、右から左に向かってくる動きがあり、左下からカーヴしながら右に行く動きがある。この太い柱の川の上と右と下から黄金色の川が流れてきて、この柱の向こう側でまさに出会うといったイメージがある。その出会いはある奇跡的な出来事であって、それを祝っているようにも、あるいは、その激しい波動によって強風が来ているようなイメージもある。前述した黄金色の色彩の背後にグレーのカーヴする道が左側にあり、右の上方からもカーヴしてくる形があり、その中に青い色彩が三か所点じられている。それはその激しい、いわば神霊が交感するような動きのなかに透明な空が見えるかのようだ。黒の中に白いフォルムがあらわれ、白い中に黒いフォルムがあらわれ、それを画家はイタコのようなかたちでこの画面の中に降ろす。左上方に円があり、その円の中は白い輪郭線に包まれた茶褐色の色彩であるが、右下には黒い円があり、その黒い色彩の中に茶褐色の中心がある。左上と右下のほぼ対角線に沿った二つのフォルムがこれから出会おうとしているのだろうか。激しい力。それは神霊術の現場に出会ったときの暴風雨のような動きと言ってよいかもしれない。そして、画面を熟視すると、その後ろ側になにか不思議なもう一つの世界があって、それは静かで、その世界から前述した青い色彩が引き寄せられるような実に不思議な雰囲気も感じられる。

 宮村長「落とした太鼓を拾う雷神」。上方に雷神が水墨ふうに描かれている。太鼓は下方の、やはり水墨ふうな表現の上にコラージュされている。その太鼓を赤い紐を垂らしてひっかけて持ち上げようとしている。左のほうには太陽や音などが象徴的な雰囲気のなかにコラージュしたかたちで表現されている。太鼓を落とした雷神の様子は、まるで現在の日本の元気のない社会の象徴のように感じられる。雷神が太鼓を拾って生命の雷を世界に轟かせようという画家のイメージが生き生きと伝わってくる。

 入佐美南子「existence 2012」。会員賞。ポッと明かりが灯ったような不定型の曲線によってつくられたフォルムが、空間の中に浮遊して動いている。いちばん明るいところは茶色がかったベージュ系の二つの球をくっつけたようなフォルムであるが、背景はその明度と彩度を落とした茶系の色彩である。その中に柔らかな青い光が動いていく。黄色い光がそこに散りばめられている。いろいろな風船を空に飛ばして、一つひとつの風船は人間の魂のようなイメージである。温かな心の鼓動が聞こえてくるようだ。

 本間千恵子「刻音(くつろぎの空間)」。右手前に歯車が回っている。左のほうには一階建ての建物があり、アンテナのようなものが見え、電信柱があり、電線が伸びているが、それは丘の上にあって、丘の下にも歯車が回っている。グレーを中心とした微妙な色彩の変化の中、家の中に黄色い明かりが灯っているのが懐かしい。その色彩はその丘の中にも黄色のヴァリエーションとしてベージュ系の色彩がつけられているし、手前の歯車の中にももっと明るいベージュが使われている。グレーの中にベージュが人間のふるさとの、あるいは家の日陰の懐かしさのように表現されている。刻々として時が移っていくその実感は、人が生きていくことの実感につながっていく。時間というものが物理的な時間ではなく、人間的な心臓の鼓動のように画面の中に表現されている。そのように書いてくると、右側の大きな歯車はまるで風景の中にあらわれてきた心臓のような象徴性だと感じられる。

 大塚章子「主よ憐れみたまえ」。下方に三〇〇号ぐらいの大きさの作品。その長辺の上に三角形のフォルムを置いて、六〇〇号ぐらいと思われる大作である。赤い色彩がまるで心臓を流れる血のようなイメージをつくりだす。あるいは、いずれも横顔が描かれていて、エジプトの浮き彫りに見える側面性による群像のようなイメージもある。上を向いた人間が両手を前に突き出しているのに対して、下方を向いた人間がその左手をこの人間の胸のあたりに置いている。その下方には五体投地をしているような姿が見える。上方の三角形にもやはり跪いて神に祈っている人間が見える。赤が主調色になっていて、その赤の上に墨を置いたような雰囲気。画面の内側からその赤が太陽の光線のようにも人間の血の流れのようにも感じられる強い力を発揮している。ちょうどエジプトの神殿のたくさんの大きな柱が太陽の熱によって温かくなっているような雰囲気。石は冷たいはずだが、エジプトの神殿の石は温かい。そんな画面の内側から地熱のように熱が伝わってくる。旧約聖書の「主よ憐れみたまえ」というテーマである。人間の愚かな行為、人間であるがゆえに行うことの許しを、この祭壇画ふうな画面の中で画家は表現する。それぞれのフォルムが側面性を強調されながら、様々なポーズをしながら、まさにいま動いているような雰囲気である。臨場感と象徴性とが結合したところにこの作品の魅力がある。

1階─15室

 永吉規公子「詩人のことば(4)」。会員推挙。様々なグレーが集められて、グレーごとに空間が生まれる。上方のグレーは風景を思わせる。下方のグレーは人の顔を思わせる。人の顔の頭部の中には様々なイメージが詰まっていて、それがにょきにょきとそこからあらわれていく。上方に道が続く。イメージを内景化しながら、独特の時空間をつくる。

 加藤ひとみ「刻の空間」。会員推挙。しわのある紙の上に枝が一つ。白い布で覆われている。その黒い枝は死体のようだ。バックに裸木が伸びている。残照に染まった風景。その後ろ側に暗いグレーの空間を背景としてやはり裸木が伸びている。背景の風景の一部をピックアップしてそばに置いた雰囲気。絵画は平面というものの上のイリュージョンであることを示すように、あえて画中画のように折られた紙の上に風景や樹木が描かれている。独特のシュールなコンポジションだが、近景の白い布で覆われた枝が強くモニュマン的で、そこに深いレクイエムとも言うべき感情があらわれているところが面白い。一年前の津波に対する鎮魂からあらわれた構図だろうか。

 石田勝己「田んぼの守人」。道がうねうねと続き、小さな家がある。上方に雲があり、その後ろに案山子が大きく幻想のように浮かび上がる。家の向こうにまた田圃があらわれ、道があらわれる。心象のスクリーンの中にあるイメージの遠近感が面白く表現され、農村の中の生活、自然が童話的に表現されて懐かしい。

1階─16室

 渋谷良子「豊饒 ・」。会友賞。二人の若い女性を組み合わせた構図。スリップを着た女性が立て膝をして座っている。そばに着物のような襦袢のような服を着た、もっと若い女性がいる。独特の動きがある。形態感覚が優れている。

1階─17室

 狩谷昌孝「A Happy Day」。ぐいぐいとイメージを形にする力がある。子供を抱く母親。そばの木馬。ヒヨコのような鳥。茶色の扉。レストランやキッチンの一隅のような雰囲気のなかに母と子、鳥、花などの物語があらわれる。物語を構成するイメージの力と筆力に注目。

1階─18室

 佐野宜子「DANCE ・」。ストリートダンスをする男女を面白く描いている。シャープな線によるフォルムの把握が生き生きとしていて、そこに独特の色彩を与える。

 長谷川昭三「飛翔」。透明感のある青い色彩で染められた作品。室内と室外とが連結されて、独特である。室内に津波が押し寄せてアップアップしている様子。それを見守る鳥。薔薇の赤い花が命の象徴のように揺れている。画家は阪神大震災の深い経験からこのような作品になったそうであるが、経験を消化しながら独特の音楽的なコンポジションの中に表現する。

2階─1室

 山㟢美恵子「メロディー」。パリ賞。右にピアノの鍵盤、左に黒いテーブル、そこに白い線描きでお皿と果実や箸が置かれている。線描きの瓶もある。背後は白と黒とのせめぎあいのもっと抽象的な空間があらわれる。ブルーや黒の中に赤い色面が点在する。イメージのなかにインスパイアされたその動きによって色彩やフォルムが動いていき、独特の音楽的な感興をつくる。モダンな洗練された空間に注目。

 合田紘露胡(寛子)「想D」。損保ジャパン美術財団賞。グレーが独特のニュアンスをつくる。上方では樹木の幹が黒いシルエットとしてあらわれている。下方ではグレーが霧のように画面を渡っていて、その中に点々と樹木の葉や幹などのフォルムが浮かび上がる。中心に黄金色の部分があり、その黄金色を背景にしてグレーによる葉や枝があらわれている。どこか琳派と水墨とを連結させてそれを油彩画で表現したような雅やかさがある。優れた造形力である。あらわれてくるのは自然との深い交感で、独特の美的情趣と言ってよい。

 片岡佐智子「人形 2」。会友推挙。紫色に染められた画面の中にトランクとそのそばに座る人形を描いている。人形は黄色が入れられて、全体の中で補色の関係である。独特の手触りのある表現で、存在をじんわりと追求しているような雰囲気が独特である。

2階─2室

 水野興三「風の街(2)」。俯瞰した視点と水平に側面を見ている視点の移動により建物群が面白く構成され、独特の生気をつくりだす。屋根、壁、窓などのフォルムを組み合わせながら、強い独特のリアリティが生まれる。それぞれの建物が一つの細胞のような雰囲気で、窓がその目のように感じられる。

 廣木秀夫「残映」。会友賞。浜に引き揚げられた白い漁船とボート。重ねられた大きな網。遠景には廃屋がある。漁業は失われてしまった。その鎮魂歌ともいうべきイメージ。クリアな船のフォルムが画面から独特の動きをもって迫ってくる。

 長嶺宏子「ティータイム」。会友賞。テーブルの上にお皿があり、果実が盛られている。グラスやボトルなどがそこに置かれ、背後から樹木が立ち上がる。画面のバックは緑で染められている。戸外のテーブルとそれを取り囲む樹木がしーんとした気配のなかに表現される。自然のもつ独特の気配、そのオゾンいっぱいといったイメージが画面に浸透し、この独特の緑のトーンをつくったのだろうか。

 高橋秀「風そよぐとき」。裸木が二本、画面の下辺から上方に伸びていっている。その二つの幹から伸びる枝が悩ましい孤独な人間の姿のように感じられる。そして、二本はある連帯感のなかの存在のように思われる。茶褐色の樹木の葉がそのそばに伸びて、遠景に向かっている。グレーの中にこの茶褐色もまた悩ましい独特の心象を喚起する。白い壁をもつ建物が続いている。心の中に存在する風景のようなイメージを、余分なものを除いたフォルムによって表現する。

 世古明子「共存 ・」。会友推挙。水彩作品。ひび割れた大地に両生類の生物が口をあけている。その背に鳥がとまっている。そばに魁偉な屈曲する樹木の幹があり、その洞の中に鳥がいて、親鳥が餌を運んでいる。梟の家族である。茶褐色の別の鳥がその首を伸ばしている。サボテンのような植物がその周りに浮かんでいる。この不思議な樹木は母のような存在で、周りの鳥や生き物を生かしているように感じられる。まさに共存する世界がダイナミックに描かれている。ひび割れた大地はある不毛の地面、風土を思わせるが、それに負けないこのパワーのある、動きのある樹木の形は、画家の創造したものであり、魅力である。

2階─3室

 山田洋子「もう二度と…(ナガサキ8・9)」。右のほうに原爆のマリアと思われる女性の胸像がある。それと向かい合う三歳ぐらいの女の子。暖色系のトーンの中に深い感情がこめられている。上方から光が差し込んで、この原爆のマリアと子供とのあいだを照らし出しているのも、ある聖なるイメージの表現と言ってよい。

 森山修「勝ちと負け」。軍鶏をテーマにして、昂然と背筋を伸ばして立つ軍鶏とうなだれた軍鶏の二羽を対比させて面白い。この軍鶏の太い足と独特の赤い頭の様子などを面白く使いこなしながら、人間を描く以上のヒューマンなドラマを画面の中につくる。バックのグレーに独特の奥行きと雰囲気がある。銀灰色を思わせるようなトーンがこのテーマにふさわしい。気品のある雰囲気を背景につくる。

 安藤恒子「私は飛びたい」。サリー姿の母親のそばに二歳ぐらいの子供が座っている。その男の子が白い鳥を持っている。上方に幻影のようにこの鳥が飛んでいる様子が描かれる。母と子供のコンポジションの中に、何か育むもののイメージがあらわれてくる。その親密な愛情豊かな心持ちが画面全体に柔らかな波動をつくる。

 奥山嘉男「マテーラ(・)」。青みがかったグレーの色彩がきらきらとした雰囲気をつくる。俯瞰した構図で階段や建物、道などの、いわば幾何学形態を面白く構成している。地中海の陽光が画面の中に引き寄せられる。

 織田清子「郷思 ・」。スリップをつけた若い女性が座っている。それを斜め後ろから眺めている。アウトラインがこの女性の物思いにふけった様子と同時にしっとりとした女らしさを表現する。バックは暖色系の色彩で、赤茶色の色彩がたらし込みふうに置かれ、女性の頭の背後は明るいグレーで、ピンクなども置かれていてロマンティックである。たらし込みふうなバックと線によるフォルムの把握とが連結し、独特の文学的なイメージが浮かび上がる。

2階─4室

 館礼子「私の部屋 ・」。白いテーブル。高坏の上に盛られた林檎や葡萄や西瓜のようなもの。開かれた本。デコイが羽を広げる。バックのしーんとした気配の抑えた調子の赤茶色やグレー。デコイの鳥の線描きのフォルムが心の羽ばたきのようなイメージを伝える。線というものがある心象を喚起する。再現的にものを描くのではなく、線による表現が物質をイメージに変換する。

 永井勝「過ぎし日からの風 ・」。昔の蒸気機関車の博物館のような雰囲気である。中心に大きくこちら向きの機関車が重量感をもって描かれている。後ろに柱が何本か立ち、その室内にも機関車が見える。古い煙突が上方に浮かぶ。なにかシュールな気配が漂う。機関車というもの自体が、人間のエネルギーであるとか情熱といったものの象徴として心理学的に使われる。そういった独特のパッションの象徴のようなイメージを画面の中に静かに置く。

 會澤佐智子「ランプの詩」。二十近いランプがぶら下がっている。傘とその下の球体。灯はともされていない。しっとりとした雰囲気のなかに青やピンクなどの色彩が点じられて、静かに揺れているような趣である。長い年代もののランプは、長い時間をそのなかに醸し出している。そんなランプが静かに揺れている様子のなかには、時間のなかに人間の続けてきた祈りとか愛といったイメージがしぜんと浮かぶ。

 柴㟢康男「教会のある風景」。白い教会が厚いマチエールの中に輝くように描かれている。そばにもっと低い建物がある。近景は絵具をペインティングナイフで置いて、かなり抽象的な雰囲気として描いている。そこにあらわれるペインティングナイフの動きによってムーヴマンが起こる。空は黒とグレーによって表現されている。夕暮れの風景だろうか。教会が魂の表徴のように表現されている。

2階─5室

 汐待和子「顔のある風景(4)」。文楽の人形がテーマになっている。右のほうに花魁と思われる女性が座り、左にやくざふうな男が見えを切っている。下方に文楽の顔が描かれ、文字がある。どのようなストーリーなのかわからないが、独特の力強さがある。大阪で文楽は愛されてきた。その庶民のもつ力強い感情がこの作品の中にこめられているように感じられる。また、古い形の文字が連綿と描かれているが、その文字も独特の韻律を表す。

2階─6室

 山村由紀子「こどものくに ・」。妹は笛を吹き、兄は小さなヴァイオリンを持っている。背景に象が鼻を伸ばし、子供を肩車した父親の姿が見える。赤、ピンク、黄色、緑などの色彩が輝く。親密な感情がそのまま色彩の輝きとなってあらわれる。サーカスというすこしエキゾティックなそのシチュエーションの中に、父親と二人の兄弟との親密な空間が輝きの中に表現される。

2階─7室

 遠山由美「水辺のMadre ・Padre」。マドレ、パドレはスペイン語で母、父という意味である。黒い調子の中に街の骨格が描かれる。その中心に跪いた母と父の姿がシルエットふうに表現される。上方には不思議な丸い形や吹流しのようなフォルムがあらわれ、それは赤系の色彩で描かれ、山の上方のピンクの空と対応する。画面の奥は地に赤が入れられて、その上にこの様々な暗い色彩が入れられているようで、内側から温かな雰囲気がしぜんと伝わってくる。人間讃歌といった心象をモニュマン的なコンポジションの中に表現する。

2階─8室

 清水尚子「深層都市」。特選。量感をもったフォルムが連結しながら、力強い空間が生まれている。Y字形のフォルムは耐震構造に使われるもの。建物の下にまた建物があるその重層的な骨格が、力強いエネルギーや生命感を表す。ベージュ系の色彩に柔らかいマチエールがあって、ノスタルジックな雰囲気も漂う。具象でありながら、一種抽象的な感興を引き起こす。建物を構成しながら、いわば細胞と細胞がお互いにくっつきながら生命体をつくるような、そんな構図になっているところが魅力である。

 北村美佳「ANDALUCÍA I 」。赤茶の色面、暗いグレーの色面、明るいグレーの色面などがかみあいながら独特の風景的な広がりをつくる。静かなパッションともいうべきものが画面から滲み出てくるようで独特の生命感に注目。

2階─9室

 田村一男「ドイツ・バンべルグ旅情」。ドイツの建物が画面の真ん中に連続して描かれて、独特の韻律をつくる。その下方と上方の空にレースのようなフォルムがつくられている。それをじっと見ていると、その中には植物のようなものが隠されているような気持ちになる。上方の空に使われているこのネットのようなフォルムは、迷路のような雰囲気である。そのネットのようなフォルムは建物のあいだにもつくられて、クリアな建物の形と呼応しながら不思議な音楽性を醸し出す。

 縄井かつみ「寂寞」。裸の女性が座っている。下半身が強調されて、どっしりとした存在感を見せる。そばに右手をついて横座りの女性が描かれている。グレーの中にすこし茶系の色彩がおつゆのように入れられている。しっとりとしたなかに人間の生きている気配が静かに表現される。

 長田秀雄「故郷の棚田」。段々になって、上方に行くに従って高くなっていく、その地面を石を積んで支えている。地方の独特の風物である。いちばん上方には農家と思われる建物が見える。石垣の形が面白い。一つひとつ作家自身が積んだような臨場感がある。右に五つの石垣があり、左に四つの石垣があるが、その九つの石垣が力強いハーモニーをつくる。あいだに道があって、地面のもつしっとりとした感触が描かれているのも、この作品の奥行きを深くしている。独特の幽玄の気配も漂う。

2階─11室

 佐々木邦枝「橋と風」。題名には橋とあるが、ベージュの地面は道路のような雰囲気である。両側に柱が立ち、上方に横に太い桟が置かれている。天井はなく、その向こうに青い空がのぞく。そこに解放感が感じられる。閉塞の中にぽっかりと空が浮かんでいるような不思議なイメージが漂う。

2階─12室

 上村伊佐子「PIANO CONCERTO IN G MAJOR 」。ピアノコンチェルトの曲が朗々と響いてくる。旋律が高くなり、あるいは弱くなり、スローテンポからハイテンポになるような、そんな動きに沿うようにフォルムがあらわれる。ピアノと思われる黒い色彩とそれを取り巻く赤と寒色の青い色彩とが独特のハーモニーをつくる。パッショネートなものの中にクールなものが混在しながら、音楽のもつ魅力が感じられる。

 田口郁子「永遠なれ生命の輝きよ」。赤子を抱く母親。サリーを着ている。インドか中東の人のように思われる。母の顔と子供の顔。その全体に暖色系の色彩が使われて、静かに内側から輝いてくるようだ。上方に太陽が見える。そこには黄金色が使われている。そこから差す光が画面全体に満ちている。下方には尖塔をもつ宮殿のような建物も見える。空に使われている緑系の色彩がエキゾティックである。画面全体に祈りのもつ独特の心象空間があらわれている。光が色彩としてあらわれている。一種の形而上的な世界が独特のこの輝きをつくりだす。それに対して、子供をしっかりと抱く母親のもつ一種彫刻的な力強いフォルムがその空間と対照される。形而下と形而上の二つの世界が画面の中に統一され、独特のモニュマン性を生む。

 伊藤文夫「愛・ふれあい」。鶏の母親が雛を抱いている。その情愛に満ちたシーンを嫉妬しているような鳥が上方にいて、その首を伸ばしてうらやましそうに母と子の情景を見つめている。下方には四羽の鳥がいて、この光景を無視したような表情、あるいはさっさと歩いて向こうに行っているようなフォルム。あるいは、男の鳥と女性の鳥とが出会って何かドラマが始まるような雰囲気の二羽の鳥。鳥の形が面白く擬人化されて、独特の人間ドラマともいうべきものを表現する。

 福岡幸子「はねっと(男)」。頭に花をつけた着物姿の人が踊っている。形が独特の優雅な雰囲気で、中性的なイメージが漂う。茶系のバックの中に黄金色の光が差し込み、月夜の幻想といったイメージもあらわれる。いずれにしても、一人の踊り手の全身像を縦長の画面の中に入れ、そのフォルムが生き生きとしていることに感心する。同時に、祭りのもつロマンティックな雰囲気が漂うところも面白い。

 世木田耕作「鎮魂 ・」。今回の津波の悲惨な出来事に対する鎮魂の表現である。いちばん近景に、頭蓋骨を横から見たフォルムが宙に浮いている。その背後に一本の柱が立つ。様々な感情のこめられた心柱のようなフォルムである。背景に人の顔がいくつも重なって見える。死者のイメージである。強いマチエールの上に独特のモニュマン的なコンポジションをつくる。画面全体からあらわれてくるエネルギーが鑑賞者を引き寄せる。

 工藤孝城「人物(手紙)」。椅子に座った女性。上半身は再現的にクリアに描かれているが、下半身は線描きである。独特の気配がこの女性を取り巻いている。ロマンティックなメロディが画面から聞こえてくる。

2階─13室

 中村佳阿瓔「記憶の断片・・」。赤が独特の魅力をもって使われている。微妙に変化する赤のヴァリエーションによって、まるで太陽を画面の中に埋め込んだような、そんな力強さが感じられる。画面の上方に青の中に引っ搔いた三角形のフォルムがあらわれ、その周りをピンクの同心円が渦を巻くように描かれている。呪文的な表現である。画家の強いイメージが一種念力のような力を画面に与える。

 濱征彦「ベニスの仮面カーニバル」。川に橋がかかっている。そこにたむろするミュージシャンや人々。手前には仮面をつけた人々がいる。ヴァイオリンを弾いている人もいる。花を持っている人もいる。ヴェニスという古い街のもつあやしい雰囲気がよく表現されている。上方に裸電球がぶら下がって赤い光を発している。じっと見ていると、どこか京都にもつながるような親密感が感じられる。

3階─1室

 竹川洋子「ナニモ ナイ。・」。上野の森美術館奨励賞。グレーの手触りのある壁のようなバックに矩形の色面が取られ、そこに様々なものが置かれている。そして、そのフォルムがそれぞれある韻律をもちながら、お互いに響き合う。心のときめきといった様子が画面の中にリズムをつくる。

 髙見愛「日の名残」。会友推挙。板や薪のようなものを積んだ下方に、古いテーブルや車輪などが置かれている。そこに光が差し込む。現実がそのまま過去の風景のように描かれる。

 吉金幸枝「夢のちから」。会友推挙。上方のグレーの光を含んだような空間の下方に黒いフォルムが両側に湾曲しながら描かれて、独特のムーヴマンをつくりだす。あるインスパイアされた心象の動きを筆がなぞるようだ。

 山崎英子「兆 ・」。若い女性が立っている様子を、膝から上までを画面の中に入れている。独特の色彩の輝きがある。一種彫刻的な強さがモニュマン性をつくりだす。

3階─2室

 小川エリ「奏」。特選。サックスを吹く女性を面白くしっかりと描いている。後ろに同じような姿をした男性が映っているのが、面白いニュアンスをつくりだす。サックスのフォルムが画面のポイントとしてよくきいている。

 田原馨「森の主(共生)」。特選。大木に宿り木が這っている。下から見上げている。巨大な血管が頭上に上っていくような雰囲気が面白い。実景とイメージとが重なったリアルな表現に注目。

 鳥谷啓子「還る物 ・」。会友推挙。白い金属が壊れて、その破れた中から小さなネジ釘やボルトやナットなどが見える。壊されたものの詩ともいうべき独特のニュアンスがあって面白い。灰白色のもつデリケートな表情の上に錆びたパイプがアクセントとなっている。

 岡山芳彦「坂のある道 ・」。すこし上りになっている車道がカーヴしている様子を面白く表現している。その上っていく様子にある心情を喚起するものがあり、遠景にオレンジ色の光が差し込んでいて、不思議なロマンを漂わせる。

 山田祐二「窓辺(レクイエム)・」。人形が十字架にくくりつけられている。十字架は白い素材でできていて、ひび割れている。その前に大きなゼムクリップ。海を背景にしてバッタがピンで留められている。東日本大震災に対するレクイエムであるが、それをポップな感覚のなかにまとめ、時が止まったようなモニュマン性を表現する。

 斉藤りゅう子「牛」。二頭の牛を面白く描いている。ぐいぐいと描きこむことによってムーヴマンが起きる。また、どことなく人間的な表情をしているところも面白い。

 牟田志津子「風の音(・)」。特選。コンクリートの塊が前方に突き出した面白いコンポジションである。直方体を組み合わせながら、都会の歌ともいうべきイメージをつくる。このフォルムは工事中の現在進行形のような様子であるところも面白い。手触りのあるマチエールも魅力。

3階─3室

 高谷ひろ子「la vie(予感)」。お洒落な服装の女性である。黒い帽子をかぶっている。大きなイヤリング。洗練された趣味のよさの感じられるファッションをした女性が歩いている。そばに柵があり、黒い猫がこの女性を眺めている。背後に窓が一つ。それぞれのフォルムをピックアップしながら、一種図像的な強さをフォルムに与える。柔らかな絹に触るようなマチエールがしっとりとして、鑑賞者を招く。グレーの中に深く繊細なニュアンスが感じられて、それも魅力。

 田上俊一「干し大根 ・」。特選。干し大根が四列に吊るされている。その白い大根の形と葉の様子が生き生きと表現される。自然の中に発見した面白さである。十本ほどの大根が数珠つなぎになっている様子を見ると、なにか不思議なオブジェのような面白さがあらわれる。

3階─4室

 行田尚義「ファドを歌う」。ファドはポルトガルの民謡である。立派な体格をした歌手とそれを挟む二人のギタリストをクリアに描きながら、顔だけにスポットライトを当てるように描いていて、独特の雰囲気をつくりだす。

 城戸佐和子「つらなるもの達」。壁画的な強いマチエールが特色。大きな円弧が繰り返されている。一つの波が起き、それが連続して続いていくようなエネルギーがあり、上方に稲妻のようなフォルムがあらわれている。自然のもつ恐ろしいエネルギーを描きながら、汎神論的な世界観も感じさせる。

3階─6室

 髙橋徳子「みどりの中の保育園 ・」。特選。草や樹木が緑色を呈している中に空き地が白く輝く。滑り台などが線描きで描かれて、ファンタジーが生まれる。とくに地面の白い輝きが一種の幻想感をもってあらわれているところが面白い。

 石井英司「崩れた安全神話 ・」。塗りこまれた絵具が輝きと強いマチエールをつくる。下方に時計があって、二時四十六分を差している。東日本大震災の津波が起きた時刻である。上方に重機のクレーンの先のようなものが描かれ、背後に建物が見える。今回の大地震をこのような重機や建物の組み合わせによって追想する。重機のもつパワーを通して津波の恐ろしさを表現する。

 上石直美「U-lag 1203」。蓮の葉の群生している様子をほとんど水面すれすれあたりの視点から眺めている。透明感をもって立ち上がる葉が面白い。光が葉を通過しているような雰囲気で、敬虔な祈りと浄土の雰囲気が漂う。

 平井征史「うつになって二年」。布団に寝た眼鏡をかけた少女。そばで犬が上方を見ている。ノンシャランな雰囲気のなかに独特のリアリティがある。心象のもつ濃い様子が、室内の空間に気配を引き起こす。

 鈴木旭「ムーラン・ルージュ曼陀羅(3)」。赤い風車、建物などを背景として女性の上半身が描かれる。一種たらし込みふうな表現になっている。紫色が主調色となって、独特のロマン、あるいは香りが漂う。女性の顔の後ろに大きく足を広げた踊り子が描かれているのも幻想的である。下方にはたくさんの人々の姿がシルエットふうに描かれ、その向こうのバーはくすんだ赤い色彩が点じられている。シャンソン風な雰囲気を微妙な色彩の変化によって表現する。

3階─7室

 前橋伸哉「裏」。ビルの裏通りの小さな窓やくねった形をしたパイプ、あるいは冷暖房装置の排気口などを面白く配置しながら、生活感を漂わせる。しっとりとしたグレーの中に緑色などが入れられて、静かに色彩が輝く。この建物全体は窓を通して中にいる人間も連想させる。独特の人間臭い表情をしている。

 望月太門「創生」。ダイナミックなかたちであるが、よく見ると、右のほうが莵のように見え、黒い部分は驢馬のような雰囲気。どちらかが男で、どちらかが女性のようで、愛の始まる瞬間をコミカルに表現する。

 蜂須賀和子「sanctuary B」。寄り添う男女。上方には仰向けの女性の裸身が斜めに描かれている。下方には俯いている人間の姿もある。愛のもつ濃厚な心象風景と言ってよい。それをグレーのシルエットふうな人体を通しながら表現する。

 奥州谷啓子「今、ここから」。ライトレッド系の赤とウルトラマリン系の青が強いコントラストをなす。その二つの色面のあいだに女性が座っている。そのコントラストは二つの心象を表すようで、そのはざまにいる人間はいまは考えているが、やがて行動を起こすだろう。独特の緊張感が画面から感じられる。しっかりとした人体のフォルムもまた魅力。

3階─8室

 植松啓次郎「青いピエロ」。サーカスの二つのテントのあいだに、ボックスに座るピエロがヴァイオリンを弾いている。背後に満月が現れる。孤独な人間の深い思いが画面から静かに伝わってくる。

 瀧澤典子「サンジュリアンの街角」。うねうねとしたフォルムで二つの家を表現する。ベージュの壁に窓があいて、手前から屈曲する樹木が立ち上がる。建物と樹木とがお互いにコラボしながら揺れ動くような雰囲気で、独特の生命感があらわれる。

 長澤登美子「空想と現実の中・秋」。黒いワンピースを着た女性が正面を向いて立っている。手や顔の表情などがクリアで、一種の象徴性を感じさせる。背後に群舞する蝶や上向きの女性のシルエット、シマウマなどが配される。舞台にシテが現れてきたときのような幽玄な気配が興味深い。

 小川憲一「うみかぜ(2)」。窓の向こうには海と灯台。見下ろす角度から見たコンクリートの建物。室内には頰杖をつく少女と猫。そばにもう一人の女性が立って外を見ている。マティスを思わせる絵。それぞれがきわめてクリアなかたちでフラットに表現されながら、そのフォルムの組み合わせによって心象空間を表現する。

 青山恭子「青い血脈 3」。石を敷いた床に裸の女性が五人ほど寝そべったり、立っていたり、踊っていたりする。そして、天井は湾曲して、いわばトンネルのようになっていて、そのはるか向こうにもう一人シルエットの人がいる。亡くなったパートナーの姿だろうか。悲しみの中にこの女性は踊る。深く内向するところからあらわれた感情表現に注目。

3階─9室

 上嶋啓司「窓辺」。柔らかなグレーの光が魅力。室内に二人の女性、あるいはマネキンなどが点々と置かれ、窓際に黒猫がシルエットに描かれる。ノスタルジックでメランコリックな心象を、この不思議な光の中に描く。

 安新治「影─A」。粗末な一階建ての建物が点々と並び、裸木が伸びている。そんなものを背景にして、黒い犬がこちらを見ている。その素朴な庶民的な状況と対比されるように、背後に高層ビルが聳えている。そしていま茜色の光が差し込み、やがて日が暮れていく。そんな切ないようなイメージを表現する。犬は画家の自画像のように感じられる。

 星野千鶴子「スコールが行く頃」。激しいスコールがまだ終わらないような雰囲気で、ザワザワと椰子のような樹木が動いている。それを背景にして、帽子をかぶった少女と赤い花。遠景ではスコールは晴れて、向こうの空には虹がかかっている。時間の推移のなかにあるイメージを面白く歌い上げる。近景の女性の姿がアクセントとして効果的。

3階─10室

 吉田幸子「卓上の小宇宙」。丸いテーブルに青いクロスが掛けられ、たくさんの瓶や果実や花瓶に差された青い花が幻想感を漂わせる。とくに花瓶のあたりに光が入れられていて、まるで月光がそのあたりを照らしているような、そんなロマンティックな雰囲気が魅力。

3階─11室

 片野哲夫「戯れて─B」。フリーハンドの線が面白い味を出している。紫や青、ベージュのノンシャランな色面。その色面が内界を照らす光のように感じられる。センスのよい詩の世界。

 岡部桃子「記憶 2」。特選。ところどころコラージュをしたりしてマチエールに変化をつけている。左上には、紙の上に線によって表現されたものを貼ってある。街を思わせるようなフォルムが続き、そこに湾があらわれ、船のようなフォルムも見える。対象を再現するのではなく、図像的に平面の上にドローイングをしながら、時間と空間がクロスする世界を表現する。

 岩下百合「明日への刻 ・」。会友推挙。厚いマチエールの上に瓶や窓や果実などを描く。風景と静物とがリンクした世界。クレヨンで描くような、そういったじかな感触が面白い。対象の形をイメージとして捉え、それをナイーヴに画面の中にこすりつけるように表現する。

 大堀幸子「象 ・」。黒いバックにグレーのフォルム。その上に白い線による不思議な形。夜の街の中に自分の思いをメロディアスに線として表現したような、そんなニュアンスが面白い。

 佐治登茂子「墟 12─・」。巨大な月が下りてきているようなイメージ。水平線が傾き、不思議な魚のようなイメージもあらわれる。見ていると、津波に対するレクイエムのような雰囲気である。死者を救うために来迎してくるもののイメージを象徴的に表現したのだろうか。

3階─12室

 米倉しおり「柳の木の下で」。柳の木の下に貘のような生き物がいる。その子供がそばに四つ足で立っている。ファンタジーの世界である。悪い夢を食べてくれるという貘が、いま眠って横になっている。その浄化作用によって手前の子供が生まれて、ある謎をかけているような雰囲気。上方の柔らかな柳の緑と青とが繊細なハーモニーをかたちづくる。

 竹淵直美「光の分離」。グレーの床にグレーの壁。そこに光が差し込む。横になった若い女性と、それを見ながら膝で立っているもう一人の女性を照らす。自分自身を眺めているもう一人の自分といった趣。陰影が心の中の陰影に重なる。独特の黙示録的なイメージに注目。顔が描かれていないために、逆に心象性が深くなる。

 石㟢由夏「まなざしを聴く」。大きな眼球があり、それに両手をかざしている。下方には眼球が飛び出ていたり、くねくねとカーヴするフォルムがあらわれて、パッショネートな温かな雰囲気が生まれる。内側から発するエネルギーに注目。

3階─13室

 南木まどか「森の中には静かな池がある。」。中心に池が静かに神秘的に描かれていて、それを囲むように両側に樹木が立ち上がる。そして、空は静かな青で、満月が浮かんでいる。神秘的な自然の様子を描く。三羽の小さな鳥が浮かんでいるのが、ノスタルジックなイメージを醸し出す。

3階─14室

 新井千鶴子「楽しい空間 A」。強いマチエールの上に入口のようなものがあらわれ、その向こうに風景らしきものがのぞく。手前には花瓶に花が差してあるような雰囲気であるが、さらにその手前にはまた風景があらわれる。風景と室内とがお互いに組み合いながら、独特の心象空間が広がる。

 藤田典子「旅の途中 2」。窓の中に赤い繊月。中心に、紙の上に線による女性の顔。青い三つの葉。黄色い果実。波打つフォルムは海を表すのだろうか。小さな建物。赤い抽象的な形は太陽の名残か。様々なイメージを寄せ集めながら、独特の詩的空間をつくる。

 西本誠「彩雲の神殿」。洞窟の中の壁画に太陽や月や樹木を描くような、そんな象徴性のある作品。マチエールが独特で、そのマチエールの上にこの図像が支えられている。

 中村美子「小さな音楽会」。ピアノを弾く人を後ろに置いて歌を歌う女性。大きな口をあけて歌っているその様子が生き生きと描かれる。

3階─15室

 小川洋子「時の迷路(アナトリア ・)」。女性が座って球を持っているが、球の中に一つの赤い薔薇が入れられている。後ろにグレーのシルエットで、すっきりとした姿の女性がその背中を見せて立っている。ここは草原で、V字形に光が差し込み、左のほうに樹木が立ち、右のほうに向かう光の中には赤い屋根の白い建物がある。草原の影の部分に赤い服を着た少女が立っている。ふるさとの懐かしいイメージを画家は表現したのだろうか。それを日本でも外国でもない、もう一つの画家のつくりだした空間の中に描き起こしたようなイメージである。そして、はるか向こうに白い建物が立っているのが、都会のビルをそのまま宮殿のようなイメージに変換したように感じられる。イメージの変容ともいうべき造形が興味深い。

3階─17室

 丹野史子「街角の楽士たち」。チェロ、サックス、ヴァイオリン、トランペットを演奏する四人の楽士のフォルムが生き生きと力強く、モニュメンタルである。柔らかな雰囲気のなかにそれぞれのフォルムが生かされる。左上方に弦を弾く手だけがのぞいているのも面白い。

 大森寛治「十五夜の月」。しっとりとした青い深い空に、すこし緑がかった満月が大きく浮かび、白い雲が動いている。ススキがその穂を靡かせる。地面には草が生え、小さな黄色や青い花が点々と咲き、三羽の莵がいる。階段の向こうには神社がある。そんな道具立てのものを画面の中に収めながら、懐かしい日本のファンタジーをつくる。ススキの向こうに満月を見ながら仲秋の名月をめでる習慣があるが、そんな日本人の伝統的な心象をよく表現する。

3階─19室

 江島良子「La vie à Paris ・」。パリの建物を上方から眺めている。屋根の上に立つ煙突。白い壁。あいだの広場。そんなものを連続して描きながら、独特のメロディをつくる。シャンソンが聞こえてくるような、柔らかでしっとりとした雰囲気。

 山田公代「追憶の欠けら ・」。シュミーズ姿の女性が座っている。すこし俯いて考えこんだ表情で、手が頭の上にある。そばにある瓶や大きな壺のようなフォルム。その背景に風景を上方から見たようなフォルムがあらわれ、大きな星のようなフォルムがあらわれる。津波の被害をこのようなかたちで癒そうとするかのように感じられる。いずれにしても、柔らかなベージュ系の色彩が光を含んで輝く。横向きの女性のフォルムも生き生きとしていて力強い。

 竹添洋子「ILLUSION ・」。花の向こうにいる女性の姿が優しい。傾いた女性のデフォルメした形。卵形のそのフォルムに差されたベージュの色彩。周りの緑と静かに響き合う。暖色系の赤を中心とした色彩と緑系の色彩とが雅やかなハーモニーをつくりながら、女性のもつ優しい心持ちを、まるで可憐に咲く花のように表現する。

 内田諭義「花に遊ぶ」。太い茎から手を広げたような葉が伸びている中に、黄緑色の裸の女性が座っている。マティスのフォルムから取ったような力強く簡潔な形。赤い同心円の大きな花のようなフォルム。植物の生命感を捉えながら、デフォルメした形がヴァイタルである。

3階─20室

 河本恭加子「庭 ・」。柔らかな黄色みを帯びた緑を背景にして、ひっそりとしたグレーで白い百合の花を描き、紫色やブルーの花がそこに咲いている。センスがよい。また、バックの黄緑色の広がりをもつ生命感と可憐な花とのハーモニーが心地よい。

3階─21室

 渕上千代子「ウルビーノ(イタリア ・)」。赤茶色の高い壁。黒い扉。黄土色の道。黒い扉に白い線描で瓶が描かれ、瓶の中にいろいろな人間の姿や顔が描かれていて、実に面白い。人間のもつ生命感、そのエネルギーを、瓶の中に詰め込んで配置する。ラテン的なエネルギーや人間力を詩的造形に表す。

3階─22室

 鈴田文明「西荻窪」。魚眼レンズで見たようなコンポジションになっている。上方に街が丸く集約して描かれ、その手前にプラットホームにいる人々が描かれ、その手前に電車と屋根。さらに手前は高層ビルのベランダで、その上に二羽の雀が会話をしている。視覚的な面白さでありながら、手前の雀やプラットホームの人でわかるように、なにか懐かしい物語性も感じられる。

〈彫刻室〉

 梶彰平「A:2 躊躇う者 彷徨う者」。特選。様々な木で足のようなものをつくっている。結束がいくつもあって、その結束が連続しながら独特の生命力をつくりだす。先端は白木の牙のような先の尖った形である。二点あって、一点はそれが尾になってもう一点は前方につけられている。若々しいエネルギッシュな作品である。命というものの不可測な力を面白く造形化していると思い、好感をもった。

 三宅一樹「YOGA─犬の神殿」。ヨガのポーズである。両手のひらを地上につけ、両足の裏も地上につけ、逆V字形のポーズをつくる。その柔らかな不思議なフォルム。静かに息を吐いたり吸ったりすることによって、あばら骨がゆるやかに動く。まるで植物のようなフォルム。犬の神殿というポーズであるが、彫刻のもつ力はある植物的な力と人体との結合のように感じられる。

 工藤健「夏・朝」。若い女性が爪先立ちで立っている。右手を垂直に上にあげ、その手のひらを上に向け、左手を水平に伸ばし、甲を上にしている。左足は屈曲させ、その爪先が右足の脛に置かれている。右足一本で立つ実に微妙なバランスのなかにある彫刻である。胸のあたりや頭の髪などの曲面に対して、ほぼ体全体の、曲面でありながらほとんど直面に近いようなかたちの面取りがシャープで、独特の流れをつくる。まるで音楽のメロディがそのまま彫刻として結晶したような趣である。背面から見ると、右足の先で立ったそのフォルム、踵の形、お尻から肩、頭にわたるフォルムが、実に安定して力強くつくっていることがわかる。流麗なモーツァルトのような曲がそのまま彫刻になった面白さである。

 日高頼子「霞立つ」。右足を前に出して両手をすこしくの字形に曲げた女性像である。右手は手をひねり甲を見せて、左手は手のひらを前にしている。その二つの動きが独特の陰影をつくる。黄金色に彩色されている。人間の像というより、ミューズ、女神のイメージである。それもヨーロッパの女神ではなく、どこか日本の古神道からあらわれてきた神像のような趣である。「霞立つ」という言葉も万葉集に出てくる歌から拾われたのだろうか。いずれにしても、日本の国土を豊穰にするその農村の中からあらわれた神々しい姿のように感じられる。

 吉野毅「夏の終り '12 」。左足に重心を置いて、上体をすこし右にひねった微妙なムーヴマンが清潔な雰囲気をつくりだす。とくに白い石膏による作品であるから、そこに光が実に美しく取り入れられているように思われる。この会場では上方から光が当たり、胸の周りが白く輝いているのも初々しく精神的である。

 綿引道郎「アンデルセン─未来ある子供達のために─」。左手をポケットに入れ、右手に原稿を持って立つアンデルセン像である。銅を叩き、溶接し、じかづけの作品である。そんな作業の過程によって独特のオーラのようなものがこの彫刻の周りに漂う。たとえば、上着の衿一つにしても、一種ひずんだような空間があらわれ、そこに周りのエネルギーを引き寄せる。周りのエネルギーを引き寄せることによって、彫刻という虚像がある命をもった詩情を獲得する。遠い空を眺めているようなアンデルセンの顔には、すこしほほえんだような雰囲気と同時にどこか哀愁が漂う。もう一点、木彫で鈴木大拙居士の胸像がつくられている。綿引は禅に対する造詣が深い。鈴木大拙の本は青年期に読んでずいぶん影響されたという。その大拙のもつ佇まい、精神の気合のようなものがしぜんとこの木彫に感じられる。

 阿部昌義「日々…うつろう季節の中で」。女性の胸像である。ほほえんでいる。どっしりとした上体の形に対して、繊細な顔の表情が上に置かれている。顔と胸とのバランスが繊細で、ある精神の佇まいを表現する。

 神田毎実「価値について 2012─15 」。五つの盥(たらい)があって、四つの盥には黄色いヒヨコがたくさん並んでいる。白い盥には白いヒヨコが並んでいる。黄色い色彩に赤い嘴。一方は白一色である。時々時間を区切って雛が鳴き始めると、鑑賞者が寄ってくる。愛らしくエスプリに満ちた佳作である。

 藤巻秀正「森の窮音(きゅうおん)」。十本ほどの傘を閉じたようなフォルムが、高さが様々に立ち上がっている。針葉樹のようなフォルムである。そのフォルムは左右に並んでいるだけでなく、前後にも並んでおり、その頂点近くに穴があけられている。一本一本の木は生き物で、何かを叫んでいる。窮音と題名にあるように、自然が破壊されて、その困った状況を訴えているように感じられる。独特の韻律があり、なにかユーモラスな雰囲気もある。大小の樹木が固まって合唱し、何かを訴えている、そんなイメージが実に生き生きと表現されている。台座も独特で、もっこりとしたフォルムとなって、上方の垂直に動く韻律を支えているところも面白い。

 川本拓「生命の海」。太い茎が上方に伸びて、チューリップのようなフォルムが半分に切断されたようなフォルムが開いている。あるいは、手のひらのようなフォルムがあらわれているという言い方もできるかもしれない。蓮の花托を思わせるところもある。三本のそのフォルムに対して、下方は穴をあけられた横に広がっていくフォルムで、その二つの動きによって、この彫刻は生まれている。曲線が力強く、生き生きとしている。「命の海」という題名を見ると、なるほどと思うところがある。海のもつ不定型な形、そして、波の動きや海の奥にある海草や魚たちのイメージ、すべてを象徴したところからこのような強い形があらわれたのだろうか。

 杉本繁「The meeting(No.1)」。ステンレスによる作品。六つのフォルムが下方の塊から立ち上がっている。いちばん真ん中にある球形のフォルムから髪の毛のようにも光のようにも見えるフォルムが立ち上がって、太陽を思わせる。太陽と六つの星をツクシのようなイメージにして彫刻したような愛らしさがある。以前の激しいエネルギーが充満したような作品からこの作品はすこし異なって、ミロのもつナチュラルで宇宙的なイメージに共通するものを感じる。ステンレスのきらきらした輝きがこの作品のテーマにふさわしい。

 金巻芳俊「空刻 メメント・モリ」。題名は死を忘れるなという意味である。立っている青年がその顔を骸骨のあばら骨の中に入れている。つまり、あばら骨から上方の骨をフードのようにかぶっている。そして骸骨の手が下方に下りてきて、この青年の脇腹のところにある。パンツとシャツを着たこの男の形も面白いが、骸骨の形がそれに増して面白く、二つは不可分の関係で離れることができない。ちょうど『ガリヴァー旅行記』に出てくるおんぶをした老婆のようなイメージが、まさにメメント・モリとしてのテーマを表現する。

 菅原二郎「内側のかたち 12─70─8」。直方体のボックスの中を曲線でくり抜いていく。その直方体の内部には太い血管がお互いに連結しているようなフォルムがあらわれる。人間にしても木にしてもそうであるが、その内側にある有機的なかたちを作家は目に見えるように彫り起こす。直方体の残りは白い不定型な円状の形になり、稜線は直線である。そこは白く、その内部はグレーに研磨されている。顕微鏡で血管の中を見ると、まるで複雑な樹木の森の中に入っていくようなフォルムがあらわれているが、そういったイメージをこの彫刻に見る。

 大村富彦「恋人達」。テラコッタである。裸の体に衣をつけているが、衣の一部は剝がれて裸身がのぞく。寄り添った二人の女性。衣装は一枚の布を巻いたようになって、そのしわが独特のリズムをつくる。

 石川慎平「楔─super delicate─」。特選。女の子の全身像である。茶色い髪が垂れて、それがそのまま胸の前でもっこりとした塊になっている。蓮の花托のような穴のあいたワンピース。どこか植物が人間に変容したような妖精的なイメージが漂う。親密な雰囲気のなかに、現実の女性に加えて、それがイメージに変容した面白さを感じる。

 信時茂「山の端に」。女性が足を折り曲げて座っているが、ロングスカートによってそこに大きな膨らみがあらわれて、ほっそりとした上体と面白く対照される。「山の端に」という題名のように、山の端にかかる雲のイメージがそのまま人間に変容したような面白さである。イメージの新鮮さに注目。

 下山直紀「unity」。人間が犬になって葉巻をくわえてコートを掛けている。ユーモラスである。それに対して手は黒く、ちょっと異様な気配も漂う。革靴をはいている。チョッキにズボン。茶色いコート。彩色され、実にリアルな再現力が感じられる。左のほうを眺めている。耳が左のほうは後方に立ち上がり、右の耳は前に垂れ下がっているといったディテールも面白い。彫刻でなければできない存在感、世界が見事に表現されている。

 島田紘一呂「CARAMEL et CHOCOLAT」。文部科学大臣賞。キャラメルは黄金色に彩色された猫で、チョコレートは茶褐色に彩色された猫だろう。猫の動き、骨格をピックアップして、独特のフォルムにしている。そして、キャラメルは目をつぶって体をすこし寝かせた雰囲気で、それをチョコレートが眺めている。二人に通い合う情愛、関心の様子などが、健康なエロスの力を引き寄せる。影がつけられているのが面白い。それによって彫刻としての形に加えて、時間性あるいは心理的な陰影とも言うべきものが表現される。

 工藤直「Wow」。女性がジャンプしている。大きなおっぱいと大きなお尻に比べて足や手が小さく、髪が逆立っている。下方にその影がつくられている。動きというものをテーマにした躍動的な表現である。どこか漫画的なところがあって、それが逆に新鮮である。

 藤田明美「魅惑の缶詰」。ドラム缶をあけると、流木でできたお化けが現れてきた。みんな女性で、溶けたような中に顔だけがクリアに表されている。どこか映画監督のキューブリックの怪奇映画を見るような、なまなましさとユーモラスな雰囲気が感じられる。ドラム缶と流木という取り合わせも面白い。

 山中洋明「整体師─施術前に気を入れる─」。会友賞。整体師が両手を前に突き出して独特の印のような形をつくって、気を入れている様子である。両足を開いて立つその形自体に力がある。堂々と立って大地に樹木のように根を生やしたような男性のフォルムが、力強く魅力的である。これまでの山中作品の中でもとくに佳作と思われる。それは、形象を通しながら最も中心にあるエネルギーとかその存在のもつ力というものが捉えられているから。

 鈴木法明「狙う」。鷺が水のおもてを見ながら魚を狙っている様子である。おそらくチタンを溶かしてじかづけしたものと思われる。左足は水の中にある。じかづけによる独特のエネルギーのごときものが、この鷺の一瞬を狙う動勢を伝えて見事である。また、上方に、技法はわからないが、七色に輝く点々があって、それが独特の色彩効果をつくりだす。

 川口三千雄「森の命」。素材は粘土・真鍮となっているが、下のボックスは紙によってつくられて、上に絵具を塗ったような雰囲気。ゴリラの頭としおれた花を持つ手。悩ましくメランコリックな表情である。ボックスを積み重ねた上にあるその不安定な雰囲気が、このメランコリックなゴリラの表情と響き合いながら、独特の哀愁とユーモアを漂わせる。

 桜井綾子「さんかく同盟」。キティちゃんのような女の子が木の枝を持ってバケツを片手に持って立っている。そばに三匹の猫が歩んでくる。猫の丸い円筒状のフォルムが愛らしい。彩色され、目や頭などもつくられているし、それは少女も同様である。ノンシャランな雰囲気のなかに不思議な気配が感じられる。太った丸い三匹の猫のもつ独特の獣としての力に対して、楕円状の空洞の目をした愛らしい女性のフィギュアとも言うべきフォルムが不思議な調和を見せる。

 中山憲雄「沙漠の麗人」。駱駝の頭に帽子をかぶせて植物をのっけたようなフォルムで、ネクタイを締めさせている。駱駝の睫毛は長い。その長い睫毛がこの頭像のチャーミングなポイントになっている。駱駝の頭を女性のようにつくるというアイデアが面白い。鉄による作品で、鍛金と同時に熱で溶かし、くっつけているから、相当の力わざである。鉄のもつ柔らかで強靱なマチエールと、この女性の顔になった駱駝という取り合わせも実に面白い。風がこの頭部に吹いているように感じられるところも面白い。

 細田愛由美「坐」。寄木によって猫の頭をした人間をつくっている。薄く彩色されている。立体的というより、絵画から抜け出て立体になったような、そんなイメージの変容が詩的である。

 橋本和明「Kanon─残月」。逆円錐状の盤の上に足先を立てて細長い女性が立っている。どこか百済観音を思わせるような肉の薄いフォルムであるが、一見して樹木を思わせるところがある。樹木が月の光の中でシルエットになって何か語りかけてくる。そんなイメージを生き生きと彫刻する。

 小田信夫「泰山木」。一木から彫り出した女性の胸像である。丸太を台座として両手を顎と頬に当てた女性像で、ダイナミックな動きと量感がある。一木のもつ年輪の文様が表面にあらわれて、それもまた彫刻の面白さとなる。

 竹田光幸「天地廻廊」。斜めに二十五度ほどの傾きで床から立ち上がっていく板に対して、六十度ぐらいの傾きでその板と組み合って上方に立つ板。その板に対して円弧を切り取ったフォルムが交差し、この円弧のフォルムも七十度ぐらいの角度で立ち上がっている。中が波形にくり抜かれている。一部は市松状にもくり抜かれているが、その表面が波打っている。円弧の形の板も、横から見るとやはり波打っているし、その一部のネット状のフォルムは膨らんで球状を呈している。その球状のフォルムはそれと交差する板の一部にも見える。床から二十五度ほど立ち上がるフォルムの側面に球が七つほどつくられ、その下が垂直のジグザグになっている。まるでアラベスクの神殿のような感じである。天と地。天から降る光と地面から立ち上がっていく動き。あるいは地面の中を流れる水。大地。空から降る光。そんな形なきものが刻々とうつろっていく様子を造形にしたような面白さである。その陰影も変化していく。光と影は物質ではないが、それが物質化されて、大きな神殿のようなコンポジションをつくる。それに加えて、形なき水の流れ。それは血管のようにあらゆる樹木の中を通って伸びていくし、地面の奥深く地下水のように流れているし、陸に対して海という存在もある。そういった自然の水と光と、そこに生きる植物や樹木の姿を、このような形で形象化したと考えることができる。これまでになくパッショネートで、複雑でありながら実にシンプルでもある。総合的なハーモナイズする力は実に見事で、小さなカテドラルといった性質をもつ。

 津田裕子「浮遊─2012─」。FRPによる作品で、裸の女性が宙に浮いている。背後にそのシルエットが二つ浮遊している。青い空に白い雲が浮かび、その雲が影を映しているようなイメージである。インスタレーションとしてのダイナミズムが感じられる。女性の体を浮かせて、そのシルエットを平べったくして宙に浮かせるという発想自体はナチュラルであるが、その構成力によって、刻々と雲が動き光が変化していく、そんな時間の流れさえも表現されているように感じられる。

 嶋崎達哉「はるかなる時を見つめて」。頭に烏帽子のようなものをかぶったように、髪の毛を前に向けてカーヴさせて立ち上げた不思議な貴公子の像である。木彫に彩色で、首と顔の部分が白木である。衣装も貫頭衣のような雰囲気で、そのしわが微妙なカーヴをつくる。ほほえんだ二人の貴公子は妖精のようなイメージで、現代はジャニーズ系の男性が人気を得ているが、彼らに平安時代の服装をさせたような面白さもあって、それも興味深い。

 松田重仁「生命のみなも」。水からうねうねと曲線を描きながら茎が立ち上がり、その先に双葉がついている。下方の半円状の形は表面のフォルムを見ると、水のように思われる。水と木が光の中に輝きながら伸びていく様子。また、茎の曲線のメロディアスな形も魅力である。

 和田真貴子「あなたの回路を花瓶に差せたならば」。あやしい木彫である。両腕が五セットあって、おなかの上に両手があり、その上は首のあたりに行って、その上では腕を組んで、いちばん上の二対の腕は頭を持っている。頭は反対側を向いて、大きく彫られている。それは反対から見ると、男の顔である。下方にあるのは女の体で、腰から首に向かって垂直に切られていて、首はない。人間と人間のコミュニケーションを深いところから表現している。人と人とのあいだの深淵ともいうべきものを見事に造形化している。

〈野外彫刻〉

 豊田晴彦「海の詩(うた)」。座って足を交差させ、その膝を両手で抱えている裸婦である。豊かな量感がある。曲面が力強くゆったりとして、まさに寄せては返す海のもつ力を思わせる。

 市川明廣「ふわり─ビーチ─」。大理石の厚い板を宙に浮遊させたようなかたちになっている。全体で飛行機を思わせるようなフォルムがつくられ、その上に椅子や鴨のような鳥、もっこりとした樹木が連続した森のようなフォルムが置かれている。夢の中にいざなわれる。この柔らかなチーズのようなマチエールをもつ大理石によってつくられた世界は、夢の中にあらわれてくるような形象である。椅子には誰も座っていないが、その世界に導入された人が座って、その視点からこの大理石の光景を見ると、独特の世界が広がって、新しい体験をする、そんな装置のような詩的イメージが魅力である。

 越智久美子「記憶」。六つの厚い大理石の板を組み合わせてつくった構築物と言ってよい。独特の柔らかな触感が魅力で、それによってつくられた構成はその周りを一周するごとに違った表情を見せる。無機物でありながら、独特の柔らかな有機的な優しいイメージが漂う。

 宮澤光造「BOOK」。本を抱えた女性である。ワンピースを着て体をすこしひねった形。そのおなかのあたりから腰に向かう柔らかなカーヴが、独特の彫刻的魅力である。それは鑿(のみ)を打った跡を見せたざらざらとしたマチエールである。本は磨いてある。後ろにオバQのような不思議なフォルムが磨いたかたちで寄り添っている。後ろから見ると、背後はほとんどそのオバQのようなフォルムになっている。本の中の様々なミステリアスな世界をその後ろのフォルムは象徴しているのだろうか。形而上的なイメージを形而下のこの女性の背後に置くことによって、本を読むということの魅力を表現したのだろうか。独特の存在感がある。体をひねって上方を見ながら目をつぶって本を抱えているような若い女性の後ろに、この女性の中をのぞきこむような不思議な気配をもつ人間があらわれてきて、それが面白い。

 漆山昌志「家路」。若い母親が男の子を抱いて立っている。それにくっつくように女の子が両手に果実を持って寄り添っている。男の子も何か果実のようなもの持って、母親の胸に抱かれている。全体の曲面の連続性が力強く、独特のモニュマン性を表す。街の一隅にこういう彫刻が立つと、たいへん親しまれて人気者になるような、そんな情愛に満ちた温かな作品である。

 戸部晴朗「風の跡」。石をざっくりと切って、その断面は黒い鑿の跡を残す。左から一度カーヴをして下りてきたフォルムが、二回の曲線をつくりながら上方に立ちのぼっていく。右側がいちばん高い。その石をゾル状のマチエールのように扱っていく。その曲面は両側で断ち切られているが、無限に動いていくような動きが感じられる。一種の音楽性を感じるし、あるいは、寄せては返す波の力も連想する。

第38回東京展

(9月9日~9月16日/東京都美術館)

文/高山淳・磯部靖

1室

 横前裕子「女三の宮(源氏物語)」。横前裕子は「女三の宮(源氏物語)」を二点出品。大きな作品が二枚対になっている。金とブルーとの市松状の帯を思わせる文様は柏木で、ピンク状のフォルムは女三の宮のようだ。その二つの帯が重なったり離れたりしながら、空中を浮遊していく。愛と別離のイメージに違いない。そこに黒いストライプが激しく三ヶ所入っている。女三の宮と柏木の不倫を源氏に認識されて、柏木はノイローゼのなかに死んでいく。そういった不吉なイメージが、この黒い空間にあらわれているように思われる。また、それは人間の心の奥深くに広がる意識化できない暗い世界のイメージも重ねられている。愛のもつ喜びと別離の悲しみ。あるいは充足感と不安感。禁(タブー)を犯したことによるおののきと戦慄、陶酔といった二つの相対するイメージが、見事に造形化されているように思う。

 もう一点の小さなほうの作品(掲載作)は、やはり金とブルーの市松状の帯とピンクの帯との組み合わせであるが、中心に菱形の正方形がとられていて、その中心に赤い帯が置かれている。まさに御簾の向こうにある女三の宮のイメージである。タブーのなかに女三の宮は一人孤独にいて、その周りを柏木の帯がリフレインしながら浮遊している。激しい柏木の慕情を感じさせる。中心の女三の宮の帯の上に横のストライプが置かれているのは、御簾のイメージもあるし、タブーのイメージもあるだろう。そして、そこに横の黒いストライプが二つ、上下に大きな黒いストライプがあり、それをピンクのストライプが囲む。やはり柏木のノイローゼによって二人の別離を暗示する。とくにこの作品では愛の悲しみのようなイメージが画面から聞こえてくるように思われる。そのような一種の音楽性がまた魅力。(高山淳)

 原弘「012 内面空間 A」。下方からストライプの三角錐が無数と言ってよいほど横に並んでいる。いちばん上方は黄色い色で、明るいピンク、それからもうすこし明度が下がったピンク、下方に行くに従って黒や濃い赤が入れられている。上方には三角形の装飾古墳にある文様を思わせるような図像が上下に幾層にもつながっている。その上方にはエッジをもった暖色系の色面がある。暖色系のその色面は都会のイメージもあるし、なにかのドラマが起こりつつあるといったイメージもある。都会にはたくさんの人々が暮らしているが、お互いに孤独ななかに暮らしているそのドライな感じが、よく下方の三角錐の連続体に感じられる。その上方の三角の連続は集落を思わせる。しかし、都会にも日は昇り、日は沈む。そして、様々な行動があらわれ、人間的な現実がそこに起こることが上方の色面にうたわれているように感じられる。上方の中心が明るいベージュで、その密集するフォルムが二つに分けられているのは、そこにもう一つの希望のようなものが感じられる。(高山淳)

2室 

 西浦絵理「canon I」。やわらかな暖色系でまとめられた画面が鑑賞者の心を癒す。椅子や絵画などが入れられていて室内風景のようでもあるが、心象的な要素が強い。イメージの中で音楽を奏でるような軽やかさと共に、じっくりと描き込まれた印象深い作品である。(磯部靖)

4室 

 井上利哉「GENJI・E(慕)」。左下に几帳のようなものがある。右のほうには何人かの女性たちが座っているようだ。左上方にはもう一、二人の人らしき雰囲気がある。独特の色面構成の組み合わせであるが、そのような印象をもつ。濃密な空間がある。それは心象の煮詰まることによる濃密さといってよい。女性も男性も暖色系の色彩が使われ、深い愛のイメージがあらわれる。几帳はブルー系の色彩で描かれて、しんとした気配を示す。じっと見ていると、その画面の上方にある二つの矩形もそうであるし、その向こうの二つの石のようなイメージもそうであるが、室内にいる人間たちを上方からイメージの中で見下ろしながら、その庭も含めてぐるぐると巡回するようなコンポジションがあらわれている。その旋回するムーヴマンは、慕情という心のやるせなさ、その無限なる思いによるものだろうか。(高山淳)

5室

 津田のぼる「地中缶都市(メトロ・キャン・シティー)」。空き缶や王冠などで独特のジオラマ的世界を創造している。高い塔や飛行船など、幻想的な世界観をしっかりと構築して行っている中に、細やかな技術によって引き寄せられたリアリティが、鑑賞者を強く惹き付ける。見ていて飽きない作品である。(磯部靖)

8室 

 大野録「シチリア島の小さな港」。遠景に街並みと丘を臨む入江の風景を丹念に描き出している。手前の船舶の細やかな様子と入江の静かな水面の空間。そして奥の丘によるドラマチックな画面構成もまたしっかりと考えられていて、画面全体で確かな見応えを作り出している。(磯部靖)

15室

 平野哲男「海」。軽やかな描写で海岸風景を描いている。明るい色彩の扱いが特に魅力である。連なるヨットや人物たちも、生き生きとした魅力を湛えている。心地よい空気感と爽やかな風をこちら側に運んでくる。(磯部靖)

19室 

 青柳芳夫「タグ・ボート」。仰向けに寝そべった裸婦を中心に、たくさんの女性がその周囲を取り巻いている。タグボートは海上の建造物や船舶を押したり引っ張ったりするための船であるが、それが画面の中央やや右側に描かれている。そのあたりに植物の葉が描かれているのだが、おもしろいのはそれが青で彩色されていて、それが海をイメージさせるところである。海を連想させるモチーフを随所に入れ込みながら、海から引き寄せられる女性性が鑑賞者を強く惹き付ける。確かな描写力によって支えられたこの画家らしい群像表現である。(磯部靖)

 齋藤鐵心「Composition 012A-・」。三枚のパネルに描かれた灰白色の画面が、独特の空間を作り出している。それぞれの画面の周囲にグレーと暗色を施し、線と糸によって作品にアクセントを作りだしている。光と影あるいは生と死をイメージさせるような世界観の中で、テンポの良いリズム感が生まれているところが特に興味深い。(磯部靖)

第42回双樹展

(9月17日~9月24日/東京都美術館)

文/磯部靖

1室

 谷福子「明日へ」。一人の女性が大きく描かれている。背後には廃船があり、左上方から大きな津波が押し寄せている。左下方には驚き慌てる人々がシルエットで描かれている。昨年の大震災による津波をテーマとしているが、その瞬間の時間軸をいくつも作りだして画面に入れ込んで構成しているようなところがおもしろい。少し笑みを浮かべた女性が、まるで希望の象徴のように描かれているところもまた印象深い。

 河合克弘「岬稜」。双樹大賞。灯台を望む海岸の斜面を丹念に描き出している。遠方には海も見える。最も手前に大きな岩があり、その背後にもまた岩が連なるように続いていく。その一つひとつのフォルムが、強い存在感を獲得している。そういった荒々しい動きの中に、すっと立つ灯台の姿が絶妙のアクセントを作りだしている。いずれにせよ、誠実に画面を描きながら、巧みな構成によってドラマチックに作品を纏め上げているところに強い見応えを感じる。

 狐塚照子「陽だまりの中で」。森の奥にひっそりと建つ教会を中心に描いている。この画家らしいやわらかな線と色彩の扱いが魅力的である。特に教会の屋根などの白が輝くような色彩が、霊的な気配を作品全体に作りだしているように思えて興味深い。おだやかな画家の内面がそのまま現れてきたかのような、見ていて気持ちのよい作品である。

 前之園千賀子「古代への夢」。画面の左に女性を描き、その右奥に遺跡のアーチが見える。女性は膝を立てて座り、左手で顎を支え、何か考え事をしているようだ。それはかつて訪れたこの地で感じた古代へのロマンを夢想しているようである。昨年に続き、シリアをテーマに描いているが、戦禍にまみれるこの地の遺跡は徐々に破壊されていっているようである。何千年と存在してきたものを、一瞬で破壊することの愚かさが作品の背後に見え隠れするようで興味深い。アーチの奥には道がずっと続いているが、それがどこか時間を過去へと遡っていきながら鑑賞者を惹き付けるミステリアスな雰囲気を醸し出しているようなところもまた見どころである。

 黒鳥正己「棚田の見える丘」。画面の手前から河川が蛇行しながら伸びていき、遠景の山へと続いていく。その右側には連なる棚田が見える。雪の降った翌朝のような、清々しい空気感が気持ちよい。じっくりと描き込みながら、確かな臨場感を作品に引き寄せているところに注目した。

2室

 今村由美「子供の情景~永遠の森 ・~」。三人の女性を三角形型に配置して、その上方に白いフクロウを描いている。フクロウは少し首を傾けながら、こちらを見つめている。子供時代特有のロマンティックな内的情景が、周囲の白や赤の幻想的な色彩と動きによって引き寄せられながら、森の賢者と呼ばれるフクロウの存在が、彼女たちを未来へと導くように描かれているところが興味深い。安定した構図と軽やかな動きの中にそういった母としての眼差しが心温まる感情を引き寄せてもいる。

 半澤満「追想12夏」。透明感のある青から水色の色彩を中心にして描かれたロマンティックなイメージが鑑賞者を魅了する。魚を捕る網と箱眼鏡を中心に置き、その傍を河川が流れている。画面は左右で昼と夜のダブルイメージとなっており、幼少時代を想い起こすようなノスタルジーが重ねられている。繊細な描写の中に生まれる、そういった鑑賞者との心の交感が、そのまま作品の魅力となっている。

 岡田一忠「千草富士」。富士山を大きく描き、下方には背の高い草木がいくつも立ち上がってきている。コクのある青でその姿を描きながら、中央ではなく、左にずらして富士を描いているところが独特で印象深い。冠雪の部分や空などが、ほんのりと朱に染まっているところも不思議な色気を感じさせる。トーンによって抑揚のある画面をつくりながら、細やかに描いた草木をそれと対比させて画面を構成しているところが、特にこの作品の見どころである。

 伊勢正史「刻」。犬吠埼の岬にかなり接近して描いたその臨場感が、鑑賞者をぐいぐいと画面に引き寄せる。ゴツゴツとした手触りのある岩肌と、その下方にある水面の穏やかな気配。そして空の、灯台から上方へと広がっていくような動きが、画面を強く活性化させている。しっかりと下地を施してマチエールを作りながら、最後に細やかで大胆なストロークによって作品に豊かな表情を与えているところがこれまでにあまり見られなかったおもしろさである。そういった中で立ち上がる灯台の存在が、どこか画家自身の姿のように思えるところが興味深く、この風景に強い思い入れを感じさせる。

 佐藤宏「都会の川辺」。やわらかな筆の扱いで、下町の船着き場を描いている。右側や奥には高い建物の壁が見える。左上方から差す陽の光が、その壁や水面を照らしている。それによって生まれる豊かな情感が、作品にもう一つの魅力を作り出してもいる。モチーフそれぞれもしっかりと捉えられ、鑑賞者を作品の世界に抵抗なく引き寄せる。

3室

 藤岡隆子「ひかり」。建物に続く道を中心に心地よい風景を描いている。画面の右上と左上から斜めに強く白い光が差し込んできている。明るくポジティブなイメージが、その光に導かれてくるかのようである。パステル調の色彩の扱いもまた魅力である。

 臼井桂子「午後のカフェ」。画面全体に漂うゆったりとした空気感が気持ちよい。向き合って座る二人の女性を中心に、その周囲に同じように座る沢山の人々を描いている。朱、あるいはピンクの色彩を基調色にしながら、楽しげにまとめられた群像表現である。豊かな絵画的センスを感じさせる。

4室

 根岸嘉一郎「聖樹」。太い幹を持った樹木を二本大きく描いている。その幹は左から右へとグラデーションになっている。幅のある刷毛で一気に描き下ろしたような動勢を持ちながら、上方の枝葉は実に細やかに描き出されている。そうやって立ち上がった樹木は強い存在感を孕みながら、独特の気配を醸し出している。深い森の奥に長く存在してきた樹木の持つある種の霊的な気配が、作品の前に立つ鑑賞者の好奇心を捉えて離さない。

5室

 小浜喜平治「地韻(再生)」。独特のフォルムを持った樹木を数本描いている。緩やかに、あるいは急激にカーヴを繰り返しながら幹と枝を伸ばす樹木が、どこか擬人的な存在感を放っている。それらは金色の霧のようなものになって、画面全体に漂っている。画面の下方と上方、あるいは幹の一部分は暗くなっており、それが強い対比を作り出すとともに、天上的な世界観を引き寄せている。日本画特有のしっとりとしたマチエールの中に、強い生命力を孕んだ樹木が強く鑑賞者を惹き付ける。

7室

 熊谷イサオ「川 A」。新人賞。都会の中に流れる川を橋の上からまっすぐに見ている。右上には高速道路が走っている。直線と曲線をうまく扱いながら、しっかりと画面を構成しているところに注目した。

 西原智「走れメロス」。独特のデフォルメで大きく牛を描いている。赤、青、黄、緑などの色彩を的確に施しながら、強い吸引力を持った画面を構築している。ポップで明るいイメージの力が強く印象に残った。

第74回一水会展

(9月19日~10月3日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 さきやあきら「旱風」。たしか一水会に以前右半分が出品されたと思う。それに対して左の作品が描かれ、一枚の大きな画面があらわれた。右の牛は向かって右方向を向き、左の牛は向かって左方向を向いているが、その量感のある牛の存在が画面の構成の軸になっている。右の牛の下方には座って頭を垂れた男の像がある。左の牛の上には子供たちが乗っていて、その下方には右の男のほうを眺めている、あるいはそこに向かって何か発しようとしている老いた女性の像がある。自然に対する画家の深い思いが画面から醸し出される。それは自然を崩壊させようとする一年前の津波や原発の事故に対する、あるいは行政に対する深い怒りがこの根底にあると思って差し支えないだろう。しかし画家はそれは絵の中では抑制し、自然というもののもつ豊かな恵みを牛によって象徴し、それに抱かれた子供たちを描く。そして、物思いに沈む苦悩の人間像をそこに置く。背後に建物群が見える。雑木林もある。そして、両方の画面を結ぶのに植物の茎と葉を置いている。両方の画面をその植物がつないで、その小さな花のような可憐な様子が自然に対する愛と自然と共生する人間のイメージを表す。あるいはそういう関係に対して捧げられている。強いコンポジションである。右に裸の頭を垂れた男。左に目をつぶって座っている若い女性。二人は未来を象徴する若い夫婦で、牛に乗せられた二人の子供。そんな未来に対するイメージも感じられる。年老いた母がその中に深いメッセージを発信する。

 本山唯雄「霧降高原」。雪の積もった山脈。茶褐色の枯れたような冬枯れの景色。そこに葉を落とした樹木の枝が伸びている。屈曲しながら伸びていく様子は、しかし樹木というものの命の姿を如実に表すようだ。その複雑な屈曲するフォルムが連続して、それぞれがお互いに呼応しながら独特の命の鼓動ともいうべきものを表現する。

 小川游「北前の海」。北海道の富士山のような山が雲の上に浮かんでいる。海に波が立っている。近景には船が半ば壊れて、その舳先を上に向けている。鳥が飛んでいる。画家は北朝鮮のほうで生まれたそうだが、北の風土に対する深い思いがある。それがこのような独特の構図をつくるのだろうか。壊れた船はやはり昨年の震災が画家の心の中に深い陰影をつくりだしたものと思われる。それに対して同じような鋭角性をもつ山が雲の向こうに浮かび、希望の象徴のように感じられる。

 田中義昭「靜物」。テーブルの上に置かれた林檎や柘榴やドライフラワーが、刻々と時間のなかに動いていくようだ。静物がそのまま風景と化し、ある画家の情念や美意識を背負って動き始める。独特の空間である。

 山本耕造「過ぎし刻・島の記憶」。遠景にいくつも島が見えるから、瀬戸内海の様子なのだろうか。全体に柔らかなベージュに染められて、近景に大きな白い五弁の花が咲いている。ふるさとに対する懐かしさ、ふるさとに対する讃歌を、この白い花によって表現したのだろうか。一種日本画的な空間意識もあり、物象を通してしみ通った時間ともいうべきものが表現される。

 武藤初雄「湾岸にて」。砂が重なって層をなしている。その中からコンクリートの塊が突き出ている。砂の向こうにはコンベアのような形が突き出たり、建物の一部がのぞく。砂のもつ流体のような強い力があらわれている。それに対してコンクリートのブロックがもう一つの激しい力としてあらわれ、その前面が切断されている。画面をじっと見ていると、今回の津波のあとのような、そんなイメージも感じるが、違うのかもしれない。しかし、画家はこの湾岸の砂やブロックや建物の中に深く入っている。遠近感の中に大きな空間があらわれ、無機的なものの中にある力やムーヴマンを引き出していることは間違いなく、そこが面白く感じられる。

 葊畑正剛「花の雲」。樹齢三百年といった感じの桜の木。満開の様子が下方から見上げる方向で表現されている。背景は曇り空で、桜の透明な花びらと一体化して、まさに花の傘が上方にかかっているような雰囲気。タイトルの「花の雲」という言葉もまさにこの空間にふさわしいのだろう。そして、枝を広げる桜の姿がアルカイックな人間のようで、動き出すようなパワーが感じられるところが面白い。

 宇野のり子「移りゆく刻」。ベージュの無地のバック。テーブルも台も壁も同色の調子の中に塗り込められている。そこにすこし明度を落とした調子でワインの瓶や缶や花托や落ち葉などが置かれている。黄金色の液体がグラスに注がれているのは、ウイスキーだろうか。ものが寄り添いながら、寂寥感のなかにある親密な気配があらわれる。

 浅見文紀「厳寒氷柱」。画家はディテールに対して鋭い感性をもって、そこから絵を発想する。今回は滝がそのまま凍った異様な姿がテーマになっている。いわば時間がそのまま空間化されたあやしいイメージである。それを背景にして裸木が枝を伸ばしている。その梢までの繊細な表情はきわめて人間的なイメージで、人間の神経が震えているようである。時間というものを引き寄せた空間のなかに、いわば実存的な生のイメージがあらわれる。

 久保田辰男「明日へ」。子牛が二頭。母牛がそばにいて、鑑賞者のほうを振り向いている。子牛はノウサギを眺めている。遠景には牛や山がシルエットに描かれていて、上方に虹が立っている。いまはなくなった田園の生活。その頃は牛は肉を供するためではなく、労働の仲間であった。その頃の牛のイメージを描きながら、懐かしい郷里のイメージがはるか向こうに陽炎のように漂っている。古里のモニュマンと言ってよい。

 玉虫良次「家路」。画家は浦和の少年時代の光景を繰り返し画面に描く。描きながら、もう一つの絵の中の時間ともいうべきものが動きだしてきた。これまでは顔は描かれていなかったが、顔があらわれ、たとえば線路のそばの子供をおんぶする母と子供のような、そんな生気もあらわれてきた。荷車を引く人もいる。上方に電車が走っているが、その中は照明されていて、その光景は夜の光景であるにちがいない。ところが、空は青空で、雲がたなびいている。深い無意識の記憶の世界を画面に描き、画面の中の特有の時間が発展していくと、夜と昼とがとお互いに混在する不思議なシチュエーションが生まれる。そこに生かされた人々は画家がイメージの中に生かしているわけで、それはまたそれなりの現象から夾雑物が脱落した独特の強さを表す。上方の緑の建物の中にある駄菓子屋のような、人形などのある光景が、不思議な懐かしさのなかにあらわれてきた。

 綱川サト子「渓」。一水会賞・文部科学大臣賞。水彩。岩と渓流、その様子がしっかりと表現されている。明暗による追求によって時間というものの不思議な性質があらわれた。

 保坂晶「朝の月」。損保ジャパン美術財団賞。七階建てぐらいの建物や、もっと高い建物もある。その幾何形態の上方は青い空で、月と星が輝いている。ロマンティックなファンタジックな風景が静かに情感を醸し出す。

 斉藤蕙子「ひととき」。ソファに女性が座って本を見ている。白いワンピース。そばにはガラスと思われる丸いテーブルがあり、花瓶に花が挿され、果実があり、ガラスの器がある。バルコニーの向こうから光が入ってきて、この光景を染めている。その黄金色の光は画家の深い心情がつくりだした光だろう。実際の外光に加えて、もう一つの性質のものが与えられている。それによって柔らかく画面の中が光り、この光景が深い感情のなかにあらわれる。女性の耳の、光に輝いた様子や影のエメラルドグリーンなどがアクセントになっている。光が室内に戯れ、その光に呼応して女性のフォルムが立ち上がってくる。ロマンティックなコンポジションだし、優れた感情表現だと思う。美というものに対するある節度と品のよさというものも、この作品の魅力。

 山本勇「聖地巡礼」。階段がコンポジションの軸になって、人間の後ろ姿がある。お坊さんである。一人だけ正面向きのお坊さんが、両手を上げて棒のようなものを持っている。赤茶色の暖色系の色彩が強い情動ともいうべき性質をもって使われていて、ドラマティックなイメージがあらわれる。

2室

 小島義明「陽春の採石場」。えぐられた山肌が幾重にも連なる光景の下方に道があり、積まれた砂の集積があり、小さな建物がある。中景には砕石場の工場がある。シャープな動きがある。斜め方向の動きがそれぞれ互い違いに動きながら、独特の動きを画面全体につくる。春の光がその場を照らして暖かい。見ていると、めまいが起きるような動きの渦の中にこのシーンが表現されていることがわかる。風景を描きながら、時間というものの謎を描いているようだ。

 吉崎道治「雪の詩」。水の上に雪が浮かんでいる。白い塊があり、手前のグレーもおそらく水と思われるが、そこにも三つの小石のような雪が浮かんでいる。それぞれ水草や石などの上に雪が積もった様子で、なにか禅的な謎をかけられているような不思議な雰囲気である。ささやかなものによって自然というものの広大な世界を暗示する。その二つを結ぶものが雪というわけだろうか。風景を長いあいだ描いてきた画家であるが、その風景の中からこのようなシーンをピックアップして画面に構成し、自然というものの秘密、不思議さを鑑賞者に質問しているような雰囲気で、面白く感じられる。

 淺見嘉正「雪曇り」。桑の木がずっと向こうまで続いている。雪が積もって、ふかぶかとした地面の中から黒い桑の木が整列している様子が面白く愛らしい。中景に素朴な建物がいくつも現れ、そこにも雪が積もっている。遠景には山がある。日本の里の風景であるが、それが絵の中に簡略に一種のモニュメントとして表現されると、強いノスタルジックな感情を引き起こす。空が画面の半分以上を占めて、曇り空の中に太陽が白くぼんやりと霞んで見える。その空のグレーの階調の奥行きが下方の地面の風景を上方から支えているといった趣であるところも面白い。

 寺井重三「チャイナドレスの絵里香ちゃん」。扇子を持ってチャイナドレスを着た少女。チャイナドレスは赤く、シルクのようで、輝きを放っている。後ろの椅子の背にももう一つの赤い布が置かれている。ベージュの壁や床に対して、同色の肌の陰影のある表現。明暗のコントラストの中に、赤いチャイナドレスの衣装が実に輝かしい。画家は能登の生まれで、少年時代に繰り返し海から出る太陽と海に没する太陽を眺めていたそうだ。繰り返し画家について筆者が述べてきたことだが、赤に対してその太陽のイメージが常に漂っているように感じられる。そんな太陽の輝かしい赤がそのままこのチャイナドレスの赤に重ねられているように思う。そして、赤い衣装をつけた若い女性が斜光線の中に静かに輝くように描かれている。

 鈴木益躬「雪解川」。近景は中心に洲のある大きな川の様子。そこは大きくカーヴしているところで、細い川もそこに進入してきている。そんなぽっかりあいた川の広がりを画家は見下ろして、この不思議な風景を描いた。周りは山の斜面になっていて、樹木がそこに立っている。遠景は冠雪の山頂である。川の右側は低い地面で、そこにもちろん雪も残っているし、緑の植物が見えているところも面白く、やがて来る春の気配がそこに感じられる。くすんだ樹木の連続したあたりには水墨表現にふさわしいような独特の陰影があって、やはり日本のもつ風景のしんしんとした気配が漂ってくる。洋画のもつ筆力と日本画のもつ独特の陰影とがクロスするところに、この不思議な画調があらわれたのだろうか。

 一の瀬洋「海を想う」。海が白く光っている。それと対照的に空は青く、そこに雲が浮かび、その雲の上方から光が滲み出ている。面白いことに、白い部分が空で青い部分が雲、青い部分が空で白い部分が雲といった逆転したようなイメージもあらわれている。いずれにしても、自然というもののもつ不思議な気配、そのアルカイックで神聖な様子がよく表現されている。下方の海の中に点々と船らしきものが遠景に見えるが、その船の白い張り詰めた様子は箔を貼ったようなかたちを連想する。日本画のもつ装飾的な要素を取り入れた油彩画の空間として注目した。

 佐藤道雄「閑日」。画家は戸外で実際に現場を前にしてキャンバスを立てて制作する。それによってアトリエの中で概念的につかまえた自然とは違った、謎めいた自然があらわれる。樹木が立ち、葉が茂り、下方に道があり、といった平凡な光景が強い奥行きと密度を伴ってあらわれている。不思議なことに外で描いているにもかかわらず、印象派的な光は一切消えて、ただ静寂な中にそれぞれのものの形が立ち上がってきているところが実に面白く感じられる。自然を前にして実際の現場に立って、光を除去し、存在のもつ不思議さを表現しているところが魅力。

3室

 川本幸子「集落の屋根」。屋根に瓦が置かれた建物が緊密な関係をもちながら、一つの集落をなしている。そこに光が当たり、陰影があらわれる。その瓦を画家は一つひとつ触りながら、その重みや時間を測りながら描いているような雰囲気があるところが面白い。そして、それらが集合すると、不思議なメロディがあらわれる。屋根に一つ天窓がつけられていて、青く空を映しているのもユニークなアクセントである。それに対して壁が灰白色で、周りの光の様子をそのままそこに映し取っているところがあって、いわば高音部に瓦屋根があると、低音部に壁があって、二つがフーガのようなイメージをなすところが面白い。また、壁に穿たれた窓が中にいる人間の存在を暗示し、建物全体の目のように感じられるところも面白い。

 宮原麗子「スペイン回想」。テーブルの上にスペインの壺や皿が並べられている。後ろに女性の石膏像が白く置かれているのは、全体の暖色系の中の色彩上のアクセントになっている。また、栄光のスペインの昔の時代に対する回想のイメージも与えられる。バックは丘になっていて、低い樹木や草が伸びている。その空の赤茶色の色彩はスペインの色彩で、大地の色彩であると同時に深い感情に染められた色彩でもある。静かに静物が置かれているが、その暖色系の色彩の中に強い力があって、パッショネートな感情がしぜんと表れそれを背景の風景が支えている。

 山田正博「冬の海」。丸いテーブルに貝や花瓶に挿されたドライフラワーがある。向こうに黒い海がのぞき、波が寄せている。しーんとした気配が漂う。海というもののもつ謎のような性質がそのまま室内に浸透し、室内の空気を通して鑑賞者に伝わってくる。

 山田和夫「記憶の譜・格納庫」。屋根が円弧をなしている大きな建物は格納庫である。ところが、屋根は壊れ、窓も割られているから、いまは使われていない。その使われていない格納庫の左向こう側に、一機の飛行機が描かれている。その飛行機は現在も動いているようで、その飛行機が現れることにより、いまは使われていないこの格納庫の古びた時間性というものがしぜんと浮かび上がる。その手前に向かって道が蛇行していて、野原には枯れた草が生えているのだが、杭が点々とその道の途中まであって、それがチェーンでつながれている。その杭の一本一本の表情が独特である。それはまるでモニュマンのようで、亡くなった、いまはいない人々のイメージを色濃く漂わせているようだ。追想というもののもつ感情の密度がこの杭にあらわれているところが面白いと思う。時間に染められた風景が鑑賞者を招く。

4室

 宇佐美明美「移ろう光」。砂丘に柵がつくられて、それが蛇行しながらはるか向こうに続いている。砂丘にもところどころ草が生えているところがある。右上には空が暗いグレーでのぞいている。面白いのは、左上方のすこしへこみつつある砂丘の表面に一本の杭があることだ。砂丘の中に入ると、無音だという。砂丘のこのうねうねとしたフォルム自体が心の奥底にある世界、あるいは無意識の世界を表徴するところがある。そうすると、一本の杭には記念のようなイメージもあらわれてきて、そこにこの作品のシュールな気配があらわれる。また、人の足跡が上に描かれているのも同様のイメージを醸し出す。

 菊地洋二「ガリシア風景」。教会を中心とした建物や樹木の広がり。遠景には山があり、空には入道雲がわいている。建物や集落がすこしシルエットふうになって、斜光線が差し込んでいるが、トーンとフォルムの扱いが優れていて、奥行きがあらわれる。

5室

 相馬順子「タカラモノ」。会員佳作賞。温室の中に女性が佇んでいる。周りに紫の花が咲いているが、花々がこの女性の宝物ということだろう。女性自身のフォルム、雰囲気も、花から生まれた妖精のようなイメージが感じられるところが面白い。

 中澤嘉文「雪の筒石港」。会員佳作賞。暗い青みがかったグレーが水を表し、そこに向かう岸壁に雪が積もって灰白色によって描かれ、何艘もの船が陸に揚げられている。背後の建物群。しっとりとした情感のなかに赤がところどころ使われているのが生き生きとしたアクセントになっている。

 鮎川功「鍛冶」。会員推挙。いまはほとんどないと思われるが、火に鉄を溶かして槌で打つという鍛冶場が描かれている。男が金属の棒を火の中に入れている。暖色系の色彩が使われて、なにかしみじみとした雰囲気がある。一つひとつのものが的確に描かれ、全体で鍛冶という独特の世界が静かに、まるで荘厳されるように表現されている。

 辰村浩子「華」。テーブルの上にヴァイオリンと埴輪の馬があって、そのあいだに白い花瓶があり、実にたくさんの花がそこに盛られている。テーブルの上も、テーブルが地面に変化して、そこから小さな花が咲き出ているような雰囲気である。花の中に画家は入り込んで、実際の花以上の働きを画面に与えている。そして、しぜんとイメージは音楽あるいは素朴な埴輪の頃の人間の心持ちに向かうようだ。花を媒介にして音楽や追想のイメージが醸し出される。そんな独特の心象空間に注目。

 梅野輝明「クエンカ(スペイン)」。一大パノラマである。手前の高台の上の集落。崖を挟んでもう一つの高台の上に建物がある。中世の建物群だろう。その向こうに広がる平原の上の建物群。遠景には低い山並みが見える。全体を大きく捉えて、空間の広がりがあり、その中でのトーンの変化、微妙なヴァルールの変化をよく捉えて、空間の大きさを描いているところに注目。

6室

 松下久信「待春の道」。道が下り坂になり、水平になり、また下り坂になって伸びていく様子を描いている。周りの冬の終わりの自然の中に残雪の道が一筋続いていく様子は、なにか力強くスリリングである。絵具がよく画面について、それぞれの道の高低を見事に表現しているために、よりダイナミックでリアルな力強さがある。

 丹羽章「晴れゆくオンフルール」。画家はオンフルールは繰り返し描いてきた。今回はその港に突き出た岸壁の角のそばに犬を連れた男を立たせた。犬は白く、男のシャツも白く輝いている。その白は対岸のヨットの白い連続したフォルムにリフレインしていく。対岸の建物の前の道には点々と人がいる。右から光が当たっている。空は、左のほうが明るい。斜光線の中に刻々と光がうつろっていく一瞬。犬を連れた男のそばに帆をつけていない帆船が一艘、そのマストが垂直に伸びて画面の上方を突き抜けている。旗が一つ垂れている。その帆をつけていない帆船の様子が、この犬を連れた男のイメージと深くかかわっているようで、休息の時間を感じさせる。休みの時間にこの男性の心の中の祝祭として一枚の旗が垂れているようなイメージもしぜんと浮かび上がる。不思議な静寂感のなかに犬を連れた男は立っている。中原中也の詩に「旗ははたはたはためくばかり、空の奥処に舞い入る如く」というフレーズがあるが、そのような抒情も漂う。

 田島健次「かぞく」。水牛の親子がシルエットとなって背景にいて、手前に水をくむ女性が動いている。女性もすこしシルエットふうな表現で、地面に水牛の影が映っている。トーンが中心となって、水牛と女性との深い関係が描かれる。地面が明るく、生き物が暗く、時間とか人生といったものがしぜんとそこに暗示される。

 髙﨑高嗣「夏色の想い出」。紫や緑の花柄のワンピースを着た若い女性が籐椅子に座っている。バックは無地と言ってよく、床と壁はほんのトーンの変化による。焦点は、この女性のもつディテールの力である。目、鼻、口、指までくっきりと描いて、独特の審美性が漂う。

 前田正夫「北の城址」。お城の建物の跡がほとんど壊れた様子で立っている。それを見上げる視点から描き、青い空に鳥が舞っている。画家はヨーロッパをずいぶん歩いてスケッチをされているから、その中からピックアップした風景だと思う。滅びていくものに光が当たり、その不安定さが画面に表現されているところが興味深い。

 山名將夫「日溜りの想」。ブロンドの女性が椅子に座っている。オレンジの上衣に紫のスカート。バックには母子像とそれに手を差し伸べるもう一人の神像のようなもの。ヨーロッパのギリシャ・ローマ神話を思わせる図像が描かれている。それに対して静かに瞑想する女性が対照され、しかもその衣装はオレンジと紫という強い色調である。瞑想しながら呼吸をする、その微妙な人体のもつ陰りのようなものが描かれているところが面白い。

 平井利明「乗馬の後で」。乗馬のあと、騎手が馬に手を差し伸べている。馬も騎手を見ている。親密な情愛が醸し出される。女性はブロンドの髪で、全体にモダンな雰囲気が漂う。同時に、デッサンがしっかりしていて心地好い。動きを描くことによって馬と人間とのコミュニケーションが表現される。

 池田清明「パリージョを持つ踊子」。フラメンコの衣装を着た女性がパリージョ(カスタネットの一種)を左手に持っている。絵具がよくついて、しっかりとした空間表現になっている。座っているにもかかわらず、独特のムーヴマンが画面に醸し出されるところがよい。

7室

 永谷光隆「風化」。壊れたものが散乱している。それがクリアに描かれている。まるで散乱したものが風景の中の静物のような視点から描かれて、独特である。通過した時間の痕跡がものから静かにあらわれ、鑑賞者を引き寄せる。

 今城俊雄「午後の一隅」。岸壁に繫留された漁船。艫のほうから見ている。網が赤茶色で、なにか聖なるイメージを伝える。海にはさざなみが立っている。中景から遠景にかけて二つの突堤。遠景には低い丘のようなフォルムが続いている。一つひとつクリアに描く。緑を中心とした中に赤茶色の色彩が入れられて、その暖色がしみじみとした情趣を感じさせる。

 村山陽「『描く』を描く(2)」。絵を描く眼鏡をかけた一人の男を面白く表現している。両側に描きかけの絵があって、頬杖をついた女性像や、馬の下の牧場の二人、あるいは巨大なタンポポの綿毛を持った小さな男。自由に画中画が描かれ、その中に筆を持った男がいる。画中画というものが積極的に扱われて、イメージの豊かさがあらわれる。それぞれの絵がお互いに語りかけながら、アトリエという密室の中の制作風景が表現される。たとえばこの画家の画集を開きながら作品を眺めることなどは普通経験することだが、画中画がこのように描かれると、まるでそれぞれの画集が立ってきて、動き、一つの空間をつくったといった面白さで、そのユニークなコンポジションに注目。

 山下審也「午後の給食室」。会員推挙。給食室の内部の水の蛇口や金属の箱や釜、パイプ、換気扇などがグレーのトーンの中に表現されて、独特の手触りと気配を示す。柔らかな光が差し込んで物象を照らしている。もののもつ存在、その気配というものが濃厚で、それによって空間の密度も高くなる。

 弓手研平「ブータンの月夜」。松並木を驢馬に荷物を背負わせてブータンの人々が歩いている。左上方に棚田がある。右には地面がいくつものパートになって、そこに建物などが置かれている。棚田の向こうは山の斜面で、そばに月が下りてきている。視点を自由に変化させながら独特の空間をつくる。日本画の、たとえば室町屛風などを思わせるところがある。月光に照らされた自然の様子。地面はその光を受けて輝いている。松並木もしっとりと葉を茂らせて生きている。自然と深い関係をもった人間のイメージ。それを荷物を背負いながら道を歩く二人の大人と母と子、二頭の驢馬によって表現する。じっと見ていると、たとえば那智曼陀羅などにある自然と深い関係をもった人間たちの群像の世界を思い起こすところもある。これまでの作品より一歩進境した独特の時空間のクロスする世界である。

 所征男「花の響」。白いワンピースを着た女性が椅子に座り、周りに花が咲いている。森の中のミューズのようなイメージを感じさせる。

 北原啓介「砂のらくがき・いぬ」。女の子が砂の上に落書きをしている。どうも犬のようだ。すこしピントをぼかしたような調子の中に、女の子の後ろ姿と砂から浮かび上がる像が描かれている。そして、その犬の落書きはだんだんと姿を現す。その現在進行形の時間が画面から感じられるところが面白い。微分された時間というものがあらわれているところが面白い。

 増田敏郎「陽だまり」。床に座った若い女性。白いシャツを着て、背後は若緑色の初夏の自然である。外光が差し込み、この女性の体を透過するような色彩によって描かれているところが瑞々しい。

 辰巳彰「帰りを待つ」。四台の自転車が駅の外に置かれている。窓をあけると階段が見え、ホームの向こうの建物がすこし見える。斜光線が差し込み、この風景を照らしている。騒がしいはずの駅の様子が静寂の中に満たされ、ただ光のみが輝く。不思議な風景である。

 小山容子「懐郷」。ペリカンのような大きな嘴をもつ鳥が、まるで人間のように感じられる。背景は海で、その海をバックにして遠くを見たり、厳粛な表情をしたり、ほほえんだりしている様子。鳥が寓意化されて、ファンタジーがあらわれる。

 外山順子「からくり舞いを待つ」。球体関節人形に着物が着せられている。背後に百合の花が咲いている。球体関節人形のもつあやしい雰囲気が、着物を着せられることにより、独特の日本的ともいえる情趣の世界を醸し出す。

 松田寧子「向春」。海に突き出た岬を手前のほうから眺めている。岬の上には雑草が生え、雪が一部覆っている。松のような樹木も見える。その岬全体のもつ量感がよく捉えられている。光がスポットライトのように当てられ、この岬の上方が浮かび上がる。周りの暗く、すこし調子を落としたトーンに対して、浮かび上がってくるその岬の突端の様子は、なにか聖なるもののイメージを伝える。

8室

 髙橋喜美子「初秋・北の浜」。陸に揚げられた木製の船が壊れている。ほとんど解体しつつあるが、側面の一部などがまだ残っている。その向こうにはもう一艘の、まだそこまで解体していない船が置かれている。解体した船のもつ手触り、時間のしみ通ったような木の肌などが生き生きと描かれている。かつて盛んであった漁、あるいは漁村の繁栄などが喪失し、その挽歌の表現と言ってよい。二羽のカラスが地上に下りているのがあやしい。人間の心のシャドーのようなかたちでカラスが扱われている。湾ははるか向こうまで続き、淡い透明な青い水が空を映している。そのはるか向こうの空に雲がオレンジ色に染まっているのが、繊細でノスタルジックな心持ちを引き起こす。

 松岡貞子「サボテンのへや」。サボテンに花が咲いている。それがこれだけたくさん集まると、一種不思議なエキゾティックな雰囲気があらわれる。そのファンタジックな空間に注目。

 新井隆「仲春・アトリエの窓」。画家のつくりだすヴァルールがより深くなってきた。室内の丸いテーブルに百合の花が挿されたり、ガーベラが挿された花瓶があり、ウイスキーの瓶があり、果物がある。窓の向こうに風景が広がり、斜光線が建物の屋根を輝かせている。ひっそりとした雰囲気。曇り空の中の風景。実は人間の視覚は直射日光の中の風景より曇り空のときのほうがよりクリアになるという説があるが、まさにその曇り空の中の視覚の広さ、奥行きが表現されているといった形容ができるかもしれない。グレーが最も繊細に使われて、微妙かつ精妙と言ってよい感覚を引き起こす。透明な空気の様子、あるいは透明な光というものが、風景と物を通して浮かび上がってくる。

 須貝昌春「谷に吹く風」。岩の上に女性が俯いて寝ている。両手を岩の前に伸ばして遠くを眺めている。「谷に吹く風」という題名を見ると、この様子は谷底の様子であって、そこにいる女性のこの様子はエロスが漂う。そして絶望と希望といった寓意性がしぜんとあらわれる。それを舞台の一つのように演劇的に構成することのできるデッサン力に注目。

 栗原髙光「一月の港」。地面に雪が積もっている。いまだ雪は降りやまない。繫留されている船、岸壁に置かれたものたちがひっそりとその中に描かれる。赤い球や赤い箱、旗の緑や青の色彩が、その無彩色の中に静かに輝く。幽玄とも言ってよい風景の表現に注目。

 松浦欽子「朝靄の道」。建物がアーチ状にくり抜かれて、そこを通って道が続いていく。樹木が紅葉している。繊細なトーンの変化が魅力で、同時に、建物と道という人工的なものの姿が、柔らかな紅葉した樹木と対比されて一筋続いていく様子が生き生きと表現されている。

 池田竜太郎「Seeing a Lake」。湖の上に樹木の葉が茂り、ほとんど水面近くまで葉が垂れてきている。樹木も緑。水面も緑。一つは水面で、一つは命の盛んな様子がつくりだした葉の集積した様子である。その葉のあいだから黒ずんだトーンがのぞく。生の内側にある影ともいうべきものもしぜんと感じられる。ほとんど波の立っていない水の様子は、その自然を映しながら実に不思議な雰囲気である。水面に自分の顔を映して、その自己愛によって水仙に変えられたというナルシシズムの伝説があるが、木も水もその存在感と同時になにか深い寓意性のなかに表現されているところが面白い。

 市川広美「ひまわり」。硲伊之助奨励賞。若い女性が裸になって座り、その膝を両手で抱き、膝に顔をのせている。周りにたくさんの向日葵が描かれている。「向日葵は金の油を身にあびてゆらりと高し日の小ささよ」と歌った歌人がいるが、十七、八の女性の美しさをこのようなかたちで画家は表現する。コンポジションが面白い。

 吉田輝夫「収穫の時」。地面に布を敷き、上にたくさんの林檎が置かれている。輝くような雰囲気。宝石のような林檎の扱いが、自然を背景にして生き生きと表現される。

 工藤道汪「巨匠へのオマージュ―模写の途中―」。H型イーゼルに安井曾太郎が在仏中に描いた人体デッサンが描かれている。そばのカルトンにもう一つ同じ像が写されている。おそらく左の像が安井曾太郎の人体デッサンで、それを画家自身がいま模写しつつある。その現在進行形の様子が置かれている。そばに削られたパンとフィキサチーフ、青い上衣がある。パンは石膏デッサンの消しゴム代わりに使われているのだろうか。アトリエの中にある刻々とした制作の時間が、このようなかたちで現在進行形ふうに表現されているところが面白い。制作するという時間軸が空間に引き寄せられているところが面白い。

 滝沢美恵子「或る日」。ピカソの顔やモリエールの石膏像、あるいは映画のワンシーンを思わせるものをバックの中に浮かび上がらせながら、若い女性が立っている。アートや演劇、映画などのイメージを背景にして女性が立って、画家の内面空間といったものが客観的な世界の中に投影されているような面白さがある。

 柳沢賢一郎「裏町 ・」。木下義謙奨励賞。しっかりとしたマチエールで建物の壁が描かれている。レストランという文字が見える。入口の緑の扉のそばに男が立っている。レストランの窓には内部の情景が一部、その手前の外の情景がガラスに一部映っていて、中と外とがクロスしている。厚い壁という境界を置くことによって内と外が切断されるが、窓がその内と外を浮かび上がらせ、そばに立つ男のもつ孤独感、あるいは人間的な存在というものが浮かび上がってくる。

 芝教純「私と夜」。横長の大きな建物を背景にして女性が立っている。その建物は下方に映っているから、水面の前にこの女性は立っているということになる。建物は校舎のように思われる。女性はこの校舎の卒業生か、先生をしているのだろうか。建物の映った像は鏡面のようなイメージもある。過去というものが蜃気楼のように浮かび上がってきて、それを背景にした女性の様子。女性は全身が描かれ、目や口や指や足の先までがクリアに表現されている。背景の建物もクリアで、しかもそこは夜で、窓の中は暗く、内部に光のようなものがのぞいている。そばに街灯がある。夜の中に浮かび上がる校舎は、記憶というもののボックスのようなイメージもある。校舎の横に付属した小さな倉庫のようなフォルムがあり、階段を二段上がると、そこの扉に行く。その部分も校舎をもっと縮小させた記憶の箱のようだ。その後ろにも同じような倉庫がもう一つ置かれている。「私と夜」という題名だが、「私」はこの女性像のように感じられるが、実はこの女性は自分の娘で、娘を通してその校舎のイメージが浮かび上がり、画家自身はその娘の父親といった記憶の連鎖、DNAの連鎖のようなイメージもあるようだ。校舎は下方に映っているわけだが、そのあいだに黒い大きな帯があって、それは記憶の混沌とした暗いイメージがそこにあらわれているのだろうか。この作品はもっとクリアな不思議な明るさがあって、この校舎の奥、あるいはそばの物置のいちばん後ろ側からだんだんとクレッシェンドで音楽が鳴ってきて、この女性に行き、女性を通して、ここに描かれていない作者の心の中にメロディが伝わってくるような、そんな雰囲気もあることが興味深い。

 久保博孝「獺祭図」。有島生馬奨励賞。鹿のような骨、枯れた向日葵、林檎、枯れ葉、箱に置かれた人形などが、独特の触覚のなかに表現されている。キメ細かな触覚と柔らかな光によって、このものたちがなにかあやしい雰囲気でメッセージを発信してくる。季節は冬で、この静物たちの中に春のもつ再生の命のイメージが静かに伝わってくるようなコンポジションになっている。また、人形の女性の髪の毛が下方に垂れてきて、下方のシーツの下にまで届いているその曲線のもつ重量感もまた、静物を静かに手のひらに載せて量っているような繊細な表情がそこにあらわれていて、それも面白いと思う。

 高橋康夫「岬」。前景から中景に向かって岬が後退している。その頂上に灯台がある。海に突き出た岬の様子をこのような視点から描くと、実にスリリングである。そのままドラマを感じさせる。海に向かって垂直に下りていく断崖は、その先に岩がある。恐竜の背骨のような地面の隆起した頂上のラインが灯台まで続く。その大きなムーヴマンと量感を捉えているところが面白い。

9室

 村田泰造「山中降雪」。石段が上方に昇っていき、両側に樹木が立っている。そんなシーンに雪が降っている。水彩であるが、ガラス窓を通して眺めているような情感がある。映画のワンシーンを思わせるようなコンポジションに注目。

13室

 濱上明希子「パンをやくひと」。左に焼かれたパンが積んであり、それに手を差し伸べている太ったパン焼き職人。白い衣装を通した存在感のある職人のフォルムとパンとが面白く呼応する。暖色系の色彩の中に温かな時間がしみ通っている。一つひとつのものをしっかりと描きながら、全体で一つひとつのものがそこに描かれている必然性の上に表現される。それによって、このパンを焼くという仕事がある象徴性をもって立ち上がってくる。後ろのオーヴンのどっしりとしたものも強い存在感がある。奥行のある空間とやわらかな光も魅力。

 黒田葉子「穏やかな日・マテーラ」。マテーラは一万年前から今日までの歴史に沿って建物が重層的に見られる不思議なところであるが、そんなマテーラのあやしさをよく表現している。道の両側に建物が立つ様子に独特のリズムがある。階段がアクセントとして効果的に使われているところも面白い。

14室

 梅村徹「湖北」。竹生島が青く遠景にのぞき、ススキが風に穂を靡かせている。明度が明るく、色彩に透明感がある。湖北の風景がモダンに、独特の光を含んだ透明な色調のなかに表現されているところが面白い。

 岡崎浩「十二神将」。大日如来を中心に十二神将が取り巻いている様子。槍を持ち、弓を持ち、剣を持った、三体の神将が画面いっぱいに描かれ、後ろには座った仏の豊かで力強いフォルムが見える。強い気配がこれらの仏の中にあり、それを油彩画によって表現する姿勢に好感をもつ。

15室

 佐々木晶子「つかの間の休息」。近景にスリットの入った紫のディナー服を着た歌手と思われる女性が高い椅子に座っていて、そばにコントラバスがあり、後ろにピアノや、そのもっと向こうにはドラムがある。本来歌手がいるべきスペースはぽっかり空いて、照明だけ輝いている。そんなぽっかり空いた空間と物思いをする歌手とが、画面の中で独特の心理的な陰影をつくる。

 野田真由美「室内」。白い布の上に花瓶があり、そこにたくさんの白い薔薇が挿されている。その白い薔薇の量感のあるフォルムが力強い。ひっそりとした雰囲気のなかに花の様子がよく表現されている。戸外に見える緑の草木と静かに響き合いながら、この白はまたテーブルクロスの白とも響き合って、簡素でありながら、精神性といったものの豊かさを表す。

 勝谷明男「冬晴れの道」。雪の積もった道。周りには雪搔きの雪が積もって複雑な形をしている。冬の透明な光が差し込む。くっきりとこの雪景に陰影をつくる。中景に犬を連れて散歩する男の後ろ姿がある。その向こうの電信柱や家並みや遠景に霞む山も含めて、すべてがクリアに表現されている。そのクリアさはそのまま画家の強い目の力をしぜんと感じさせて心地好い。画家という職業はまず何よりも見ることに喜びを感じる人たちだろう。そんな伝統的な画家の目玉のもつ強さに鑑賞者はリードされて風景を発見する。

 長谷川清「初秋の待合室」。これは駅の中の待合室の一シーンだろうか。手前に三人、後ろにはグループが三人集まっている様子で、人間のもつ一人のときの表情と話をするときの表情が対照されて、親密な温かな雰囲気が漂う。その感情の表現がコンポジションから浮かび上がってくるところが面白く感じられる。

 茅野吉孝「ジョーヴェ」。いくつかの民家が立体的にしっかりと描かれている。斜光線がそこに光と影をつくる。骨格のある構成が好ましい。

16室

 辻原久美子「憩う」。白いブラウスに赤いスカートの女性が窓際に座っている。右足を窓ぎわにのせている。キメ細かなしっとりとしたマチエールにひかれる。女性の姿をその触覚的なところから描いているところが、この作品の魅力だと思う。

 森岡節子「海鳴り」。浜の空間が画面の約三分の二を占めている。海際に平屋の粗末な建物が数棟立っている。左に海がのぞく。地平線の際の空が灰白色で、朝方か夕方の景色だろう。浜の中に白く輝く道のようなところがあって、それが独特のロマンティックなイメージを伝える。

 下森勝之「公園の男達」。コンクリートの円柱と思われる周りに九人の男たちが座っている。ほとんど高齢から中年の人々である。その姿を一つひとつクリアに丹念にディテールまで描く。それによって独特の密度が生まれる。それぞれの人間は休んでいて、中には居眠りをしたりぼんやりしている人もいるのだが、それを群像として描くことによって、日本の社会の一断面ともいうべきものが表れる。その客観性とも言うべきものが魅力。

 小山英一「冬の日差し」。一水会の中でもとくに優れたデッサン家だろう。小川の両側に細い道が続いている。左右には畦があり、いまはすこし下がったところにある田圃に雪が積もっている。遠景に建物が一つ。右のほうの土手の上にも建物や木がある。燦々と光が当たり、雪を輝かせる。空間の広がりがよく表現されていて、手前の空間の強さが作品のポイントとなっている。

 寺井徹「秋色(プロバンス)」。岩山の下方に集落がある。赤い屋根に白い壁。そして、そこからさらに一段下がったところに農地らしきものがある。その三層の様子をよく捉え、強いコンポジションの中に表現する。独特の面を捉えた表現によって、フォルムに力強さと陰影があらわれる。それがそのままあるムーヴマンをつくる。そこに光が当たり、明暗のドラマが生まれる。

 柳茂忠「春雪鉱山」。遠景に削られた山がある。下方に工場のある建物群。手前に池があり、そばに雑木が立つ。そんな風景の様子をパノラマふうに一望に集めて親密な空間秩序をつくる。雪が下りて、白い面がそのままこの風景全体の起伏のある様子を表現するのに有効に使われているし、しっとりとした情感が全体に漂っているのも魅力。

17室

 長瀬庄衛「蘇州・臨水有人家」。蘇州の運河沿いの建物が描かれている。地面から石段を下りてくると水に接し、おそらくそこで洗濯なども行われるのだろう。柔らかな日差しが差し込んでいる。右上方の壁の前には洗濯物が干されている。その緑、青、ピンク、白などの色彩が全体のグレーのトーンの中のアクセントになっている。漆喰の壁の一部が壊れたり、石を積んだような建物や瓦屋根が画面に変化を与える。塀の向こうから細い裸木が伸びている。その繊勁な動きがどっしりとした建物と対照される。風景を通して、いわば変わらない人間の生活の詩ともいうべきものが生き生きと表現される。

 荒木幸子「レースの日傘」。黒いレースの日傘の上に両手を置いた白いワンピースの若い女性。すっと立ったその女性の全身を生き生きと健康的に表現する。

18室

 張益学「手紙」。椅子に座って手紙を持った女性。その目線は手紙のほうにいま行かず、遠くを眺めている。手紙を読んだ結果、物思いにふけっている様子。その物思いにふけっている姿がこの体全体から感じられるところが、この画家のデッサン力と言ってよい。左足の上に右足を置いたそのサンダルの様子、ロングスカートの一部に光が当たっているのが温かな雰囲気で、しぜんと手紙の内容とも呼応するようになっている。フローリングの上に木製の椅子を置き、そこに座っただけの女性であるが、そのような光の効果も取り入れながら、物思いのなかにいる女性の姿をよく表現している。

19室

 小林勉「石道」。自然石を積んだ階段が画面の中心に置かれている。それが構図のポイントとなっている。近景の地面の様子やその石段に上る方向とは逆に左に下がっていく道がすこし描かれていて、そこにムーヴマンが起きる。一隅に発見した光景の絵画としての表現が面白い。

 安井啓二「石段のある家」。しっかりとした石を敷いた道が一度さがり中ほどから上り坂になる。そこに赤い上衣を着た男が後ろ姿を見せて歩いていく。近景には石段を上ったところに建物の入口がある。同じような建物が小さくなって、その後ろに描かれている。両側に石を積んだ建物が並ぶ。その手触りと量感のあるフォルムを組み合わせることによって、密度のある造形空間が生まれる。と同時に、生活の匂いが漂うのも面白い。加えて、道を歩く人間を入れることによってこの歴史のある街の中をいま生きた人間が動いている様子が浮かびあがる。

 木原徳子「古村悠久」。水彩。瓦屋根と漆喰の壁。窓には様々な桟がつけられている。そんな様子を上から俯瞰する構図で描くから、屋根がいくつもあらわれ、あいだから白い壁がのぞく。古村という題名のように歴史をもつ村らしく、時間がしみ通ったような光景である。

21室

 松林重宗「造船所」。水彩。海と建物と船とその船を支える枕木のあるものなどが雑然と描かれているようだが、そのディテールを追いながら画面の中に独特の生気をつくりだす。再現的に描く力と同時に全体を統合してハーモナイズし、ムーヴマンをつくる力に注目。

 服部則子「廃屋」。赤い屋根にトタンの壁。そこに窓がつけられているが、一部窓枠は壊れている。そこに階段が続いている。周りは紅葉の様子。そのコンポジションが独特のリズム感をつくり出すところが面白い。寂しい風景が陽気なリズムのうえにのせられて、メロディが流れてくるような独特の感覚に注目。

 橋場房子「青木湖待春」。ほとんどモノトーンの世界である。湖のそばの建物がしっかりと描かれていて、そばの電信柱が立ち上がってくる様子が造形的に面白い。

22室

 前田民義「春の山間」。小川が流れ、その上の丘と遠景の山を背景にして一本の桜の木が花をつけている。枝垂れ桜である。その様子をよく表現している。地味であるが、自然に対する観察の力に注目。

 江口光興「残照」。稲を刈る機械を車で牽引して農作業をしている様子。ほとんど暮れ方で、遠景の山はシルエットになり、刻々と闇がこの情景に広がりつつある。畦道が光り、穂が光るが、そのあいだが黒ずんできている。そんな時間の一刻のなかに車が動いていく。その平凡な事実がこの画面の中ではなにかシュールな不思議な味わいを醸し出す。

第84回新構造展

(9月19日~9月24日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 益村司「舞楽『蘭陵王』」。有名な舞楽の演目であるが、面をかぶった絢爛な衣装の蘭陵王の姿を、クリアに再現する。舞楽に対する深い教養とデッサン力のたまものである。その正面向きの蘭陵王の所作に対して、斜めから見た蘭陵王のもう一つの形がうっすらと描かれていて、古代に対する思いをうたう。背景の無地の黄土系の調子が金箔を貼ったような独特の装飾的な空間をつくる。オレンジの衣装が輝かしく、日本の天平時代、あるいは平安時代の当時の文化のクオリティを、この蘭陵王の姿を通して象徴的に表現する。

 髙橋忠治「宙の指環 H24─A」。光線がテーマになっている。その光の中に音楽を聴く。同心円の大小のものが音楽の楽譜のようにその光を背景にして描かれている。あるいは、様々な円弧がそこに組み合わされて、全体で音楽的なハーモニーをつくる。

 田村誠「コンポジション」。ドラム缶を上から眺めている。へこんで真円ではなく、時間のなかに歪んだ変形の形の上にあけられた二つの、取り出し口と空気口のようなものが、まるで生き物の目のように感じられる。一部錆びた茶褐色の色彩がにじみ出ていて、本来のブルーの色彩がその周りにある。画家は長くドラム缶をテーマにしてきて、描くうちに熱を帯び、無機物であるにもかかわらず、人間化された不思議なイメージがあらわれてきたように思われる。手触りのあるマチエールも魅力。

 細谷玉江「空の旅人 2012」。下方は濃いウルトラマリンで、上方はスカイブルーのような色彩になって奥行きがある。そこに線による円柱状のフォルムが斜め上方を向いてあらわれている。その上下にも同じようなフォルムが見える。その上に様々な円弧が一部ドリッピングされながら描かれている。題名にある「空」というものは宇宙のイメージも表すし、あの般若心経にある「色即是空」の「空」の性質ももっているようだ。いわば徹底した無常のなかに意識や思いだけがあらわれる。その深い思いがひっかいたような線になったり、ドリッピングしたようなフォルムになったり、あるいは筆でかいた円弧になる。その円弧の繰り返しをずっと眺めていると、いわゆる仏教音楽の声明を思うところがある。深い瞑想のなかに画家は入っていき、実体ではなく、いわゆる阿頼耶識という言葉にあるような、思いの世界を描いたように感じられる。中心にある三つの大きなフォルムに対して、右下に線だけでできた円状のフォルムがウルトラマリンのバックに浮かび上がってくる。想いでできたささやかな小さな花束のようである。いわば無明長夜のような中にその心によってつくられた花束がささやかな希望のようなイメージとして感じられる。

 古川泰司「佐渡の祭り」。鬼の面をかぶって太鼓を叩く勇壮な佐渡の祭りを描く。正面にその鬼面をかぶった太鼓を叩く人を描く。周りには踊る人の姿。笠をかぶった女性群像と大きな獅子の面。黒ずんだ明度を落とした中心の太鼓を叩く男の周りに緑の色面が置かれ、波濤文を思わせるフォルムが青く描かれ、全体で一種の曼陀羅的な構図になっているところも面白い。

 中谷時男「城塞・ドブロヴニク」。損保ジャパン美術財団賞。ドブロヴニクは地中海に突き出た半島にある町で、ヨーロッパの保養地として有名である。その美しい建物の連続した様子を画面の上に装飾的に表現する。海峡の上下にU字形の対照的な黒いフォルムを入れながら表す。色面と線による独特の装飾的表現である。

 桑本順子「街の詩  '12」。ポップふうな感覚が新鮮。アイスホッケーの選手のような衣装を着た男が、橋の上に寝そべって本を読んでいる。橋の上にU字形のダイナミックなアーチが浮かび上がる。現代という都市空間の中にある人間像のイメージとして面白い。

 原尚利「刻」。青い空間の中に一条の光が画面の中心を通っている。無明の中に伸びていく一つの白い道のように感じられる。あるいは、無明の中に声明の声が響いてくるような、そんな宗教性も感じられる。

2室

 松田悦子「ある刻 2012」。ヨーロッパの風景だろうか。とくにパリの路地を連想する。壁土が剝落し、石造りの構造があらわになるほど長く使われた建物。そこに黒い扉がある。同じような黒い衣装を着た女性が杖をついて、この舗道を歩いている。すこし上り道になっている。赤い手袋と帽子がポイントとしてよくきいている。建物のもつ長い時間と老婆の過ごしてきた人生の長さとがしぜんと呼応する。帽子や手袋の赤は生命の印のようだし、画家が捧げた花のようなイメージでもある。古い建物の黒い扉が固く閉められているように、やがてこの老女も自分の人生の扉を閉めるときが来るのだろうか。建物の右のほうに柔らかなピンクの空が浮かんでいるのが、希望の象徴のように感じられる。

 石田浩「大漁の浜今は昔」。陸に引き寄せられた船は捨てられて壊れている。錆びたドラム缶がそばにある。右のほうには廃屋があって、屋根に穴があいている。浜に続く道が中心にくっきりと描かれている。その道は未来に向かう道なのか。過去に向かう道か。シュールな味わいがある。道の向こうには本来輝かしい漁村の繁栄するイメージがあってよいはずなのだが、あるのは壊れた船と家だけである。そして、変わらず海は波を寄せている。そういった浜辺にスポットライトのように光が当たり、電信柱にくっきりとした影を与えている。空間と時のクロスするなかにあらわれた光景として面白い。

 前嶋実「九十九里凱風」。九十九里讃歌と言ってよい。陸の上と海の上の船。海の上の船を太陽が照らし、その間に白い鳥が同伴しているような燦然たるイメージが楽しい。陸の上の船は廃船のようだ。滅びていくものと新しく再生していくものとの循環する歴史を、その生命を画家は歌う。

 森靖男「糸あやつり人形師」。何徳賞。獅子舞の男が寝そべって上方を眺めて、恐怖の表情である。その獅子舞の男は実は上方の巨大な人形師によって吊るされた糸による操り人形と化している。人間的な現実を超えたものによって操られているような不吉なイメージはしばしば人間が思うことだが、それをこのようなかたちで寓意化したと考えると面白い。最近の中国問題であるとか、あるいはその一年前の津波の災害、様々な困難の中の日本人の一種の暗い絶望感を表現したように筆者には感じられる。

 小田原朝子「サクレクール寺院を見る」。白いサクレクール寺院を向こうにしたモンマルトルの舗道。両側の建物。建物の前の店。カフェの外の椅子に座る人。独特の動きが感じられ、しっとりとした情感があらわれる。

 永島秀雄「共に」。牛の量感のある体や頭が構成のポイントとなっている。その蹄に手を添えて世話をしている男。その周りを三人の男が囲んでいる。手を差し伸べているのは獣医だろうか。人間や牛の量感をよく捉えながら、ダイナミックな動きのなかに構成する。

3室

 星嘉子「献花」。曼珠沙華が鎮魂のイメージを表す。上方に猫と男がシルエットに描かれて、背景の三日月、半月、満月によって時の推移を表す。亡くなった人に対する追想だろうか。下方にその猫を抱く女性が描かれている。鑑賞者のほうを眺めている抱かれたグレーの猫の目の表情が面白い。

 水谷清子「疑の不問」。中心に女性を置いて、四人の女性がそれを取り巻いている。いずれもモデルふうなチャーミングな女性たちである。上方に花がたくさん揺れている。それぞれの女性の姿かたちが画家の創造したものとして実に面白く感じられる。クオリティの高い美的な感性があってこそなし遂げられた群像と言ってよい。

 関根常雄「雨の小樽運河」。手前の街灯の立つ石造りの手摺り。向こうは石垣を積んだ場所で、倉庫が見える。橋がかかっている。傘を差した女性が歩いている。運河に一艘の船。遠景にしぐれる山並み。雨の中にしっとりとした情感が漂う。

 坂田喜久子「時の彼方から」。樹齢数百年と思われる樹木の地面から立ち上がるフォルムが描かれている。魁偉な姿である。左のほうの幹は切られている。洞の中から目がのぞいているような不思議な強い印象である。そのままこの絵を描いた画家の人生を投影したような気配がある。人間の記憶の深さ、その独特の暗さが画面からしぜんと感じられる。

 寺本洋子「秋色」。ススキが伸びて、街灯が吊られているが、その中に梟がとまっていて、全体がシルエットになっているのも面白い。茶褐色の画面の上方に満月が浮かんでいる。下方から繊維がコラージュされていて、繊維の一部が分かれてカーヴをなしている。歴史の中から霊体が画面にあらわれてきたようなあやしさである。独特の心象空間に注目。

4室

 山本啓子「なにげない日常」。黒い肌の女性が籠にたくさんの花を盛ったものを抱えている。赤いターバンふうなものをまとっている。大きな目に魅力があって、その目のもつ柔らかな表情がこの作品のポイントとなっている。バックには様々な横文字のポスターが貼ってある。花の盛られたその黄色い豊かな雰囲気と明度を落とした体や顔のフォルムとの対照が実に効果的である。

 藤本節子「カルカッソンヌ」。総務大臣賞。近景に海に向かうカーヴする地面。背後に立つ樹木。その向こうにアーチ状の石造りの橋。さらにその後ろにお城を描いて、強いコンポジションをつくる。グレーに微妙なニュアンスがあり、オレンジ色と静かにハーモナイズする。樹木の表現は一種水墨ふうなかたちになっており、周りの立体的な描き方と異なっていて、それもこの画面の内容を深くしている。

5室

 本目雅己「建築ラッシュ」。ブルーのシートを掛けた工事現場が続いている。マンションか一戸建ての建物をつくっているのだろう。道のそばにはトラックや警備員が立っている。日常見慣れた光景である。それを淡々と画家は描くことによって、絵画としての情感があらわれる。とくにブルーシートの掛かっている反対側の古い建物に、上方から伸びて下方に下りている不思議な樹木の様子などは、日常のなかに発見した一つの美と言ってよい。その下方に二人の人間がいるのも、右のガードマンより小さく描かれていて、なにかファンタジックなイメージがそこにあらわれてきて面白い。

 小田津也二「浸蝕」。三陸海岸の岩組みのようなフォルムと海とをテーマにして不思議な雰囲気があらわれている。一年前の津波のこともあるのだろうか。この大地のもつ何十万年もたつ時間性のようなものと海とが不思議な調和を見せている。

 熊谷良夫「お蔵への路」。フォルムが強い。石段が何段か向こうに続いていくわけだが、その一つひとつの石段のもつ量感と上方に行くに従って後退していくその距離感。両側に太い樹木が枝を広げている様子。とくに両側の木の形などは力強く生き生きとしている。この会の中でとくにフォルムのもつ魅力を十全に発揮した佳作である。

6室

 安富由美子「多羅施悲図」。三村賞。二人の女性がインドの踊りを踊っている。二人はともに片足で立っていて、蓮台の上にいる。仏教的なイメージが背後にある。下方に波が図像的に描かれている。クリアなフォルムによる力強い表現に注目。

7室

 内田雅敏「VOYAGE」。題名は旅という意味である。海を背景にしてボートに若いカップルが乗っている。周りに大きな花があらわれ、カップルを祝福している。海を飛ぶ対のトビウオもそうである。ポップふうな感覚で線をピックアップし、色面によって明るく新鮮なイメージをつくる。

8室

 佐伯孝之「収穫の痕」。印象が強い。真ん中に水があり、周りに大地があり、その上に枯れた茎が散乱しているシーンである。水の中には刈られた稲の株がすこしのぞく。農業と深い関係をもった人のイメージのようだ。一隅の中に構成されたシーンがそのまま稲を作るという長い時間の経緯を暗示させる。中心にその水の入った刈田を池のように置くという発想も面白い。水と大地に深いイメージが感じられる。

9室

 神保雅春「サーカスは船に乗って」。会員賞。縦長の画面いっぱいにコンテナ船が描かれ、そのコンテナの上でサーカスが行われている。象やシマウマや虎が演技をし、笞を持った女性が立ち、その一段下では数人のピエロが演技をしている。上方には赤と白のテントが見える。サーカスのこの様子は一種のお祭りのようであるが、積まれているコンテナの中身は、たとえばプルトニウムのような禍々しいものをしぜんと連想する。そんな状態のまま船は動いていく。たとえば今回の原発の危機の日本の社会の状況をそのまま寓意化して画面に表現したような、そんな面白さがあり、現代性がある。と同時に夢中で演技をするサーカスの人々のフォルム自体もまた面白い。そこにあらわれてくるドラマは意識的であると同時に無意識の世界にも通じるような魅力がある。

11室

 岸さとみ「街角」。岸壁や海岸の道に接して、洋館が立ち並んでいる。夕方のようで、柔らかなオレンジ色の光がこの風景を染めている。どこかメルヘンふうなイメージがあらわれて楽しい。

 平野康子「高架下」。有楽町や新橋には、高架の下にたくさんの煉瓦造りの店がある。煉瓦もすべて青く描かれていて、ひんやりとした雰囲気のなかにレストランと思われる看板と入口が不思議な雰囲気を表す。宮沢賢治の童話のレストランのような、そんなファンタジーが画面から漂う。

 大内敬子「モンサンミッシェルの屋根」。モン・サン・ミッシェルからヨーロッパ大陸のほうを眺めている。海の中に続いている道とはるか向こうの山並みなどが描かれて、通常とは反対の角度から描いた新鮮さがある。近景にモン・サン・ミッシェルの建物の一部が立ち上がってくる。視点の面白さと、それによってあらわれる空間の面白さ。

 宮原武義「湖畔のセッション」。水着姿の女性がサックスを吹いている。その音楽に沿って十二支が踊っている。子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥。それに左のほうには猫が加わっている。それぞれの動物のフォルムが面白い。優れたデッサン力による。女性の背後には湖があらわれ、動物たちは緑なす自然の中で踊っている。音楽を聴きながら様々なイメージが脳裏にあらわれることはよくあるが、それがそのまま一つのクリアな情景と化した面白さである。

13室

 松田豊子「一本桜」。池の向こうに大きな桜が枝を広げて満開である。青い空にその薄いピンクの桜がそのまま一体化している。深い幸福感のようなものが画面から感じられる。

 毛利直道「ブルージュの街並」。赤い屋根に白い壁の二階建ての建物が両側に続いている。マチエールを大事にして、建物のもつ時代を経た触感を描いている。道はカーヴするあたりで閉塞されたような不思議な雰囲気のあるところが面白い。時間というものの謎が描かれているように思う。

15室

 益村範子「大久野島」。研究賞・会員推挙。工場や発電所などの跡なのだろうか。コンクリートによってつくられた広い空間が描かれている。三階まで窓があり、その窓から光がこの床に入ってきている。光の陰影が独特で、そのトーンに、一種の詩情のようなものがあらわれる。

16室

 小山博「渚から見える風景」。努力賞・会友推挙。白い柵の向こうに海があり、海の向こうにビルを中心とした家並みが茶褐色のシルエットに描かれている。グレーのトーンの変化が新鮮で、柔らかな情感をつくりだす。幾何学的な形の中に波の寄せている様子、その曲線が独特のもう一つの存在としてあらわれ、画面全体の大きなアクセントとなっている。

 田中菊枝「水郷好日」。茫漠として広がる茶褐色の原に余情が感じられる。上方が湾になっていて、空を映していてグレーの海が静かに光っている。その向こうの青い山並みに対して画面の大半を占める茶褐色の色彩のもつ感情表現に注目。

〈版画室〉

 谷田川卓「明日へ」。のの字型の螺旋状の動きが中心になっている。そこに百合の花とサッカーをする人々の群像が描かれている。それを背景にして、叫ぶ男性の顔と朝の時を告げる鶏が二羽。サッカーは貧困な国でできる唯一のスポーツと言ってよく、ボール一つあれば集団が楽しめる。そこにはまた人間の連帯感も生まれる。戦争や紛争が各地で起こっているが、画家は平和と人間の連帯を願う。日本でおこった昨年の震災から復興への思いの表現である。画家は鹿島アントラーズのサポーターをしているが、特に盛岡出身の小笠原選手を応援している。希望の夜明けがいま始まる、と朝を鶏が告げる。そんなポジティヴなイメージをのの字型のダイナミックな旋回する動きを中心として表現する。そしてまた旋回する動きはもう一度大きく画面の外にはみ出て、小笠原選手と思われる手前の力強い人間の顔に返ってくる構図になっているところも面白い。

 早坂宗太郎「風の詩 1」。秋山賞。様々に彩られた木の葉のようなフォルムが宙に浮いて動いている。その中心に満月を思わせるフォルムがある。下方には海を思わせる暗緑色の空間。上方の空と海にまたがるように木の葉は動いているから、一年前に起きた津波に対するレクイエムの心持ちもあるのだろう。黄色、赤、緑、オレンジなどの色彩に彩られた木の葉のような形は、季節の変化も暗示する。日本人はいま太陽暦のなかで過ごしているが、長い陰暦の月を暦にした時代があって、いまでも人々の心の中にはその時に対する感覚があるに違いない。月はそのような暦をつかさどる中心として画面にあらわれているように感じられる。四季の変化のなかに静かな祈りのようなイメージが柔らかく響いてくる。

第44回新院展

(9月25日~10月3日/東京都美術館)

文/磯部靖

1室

 石井宝山「流れ」。柔らかな筆の扱いで、流れる川を中心にした風景を描いている。明るい色彩をセンスよく施しながら、岩や樹木、水の動きをそれぞれ捉え、画面全体で心地よい空気感を鑑賞者の側に運んでくるようだ。何気ない風景の中で巧みに構成した構図もまた見どころである。

第46回記念創展

(9月25日~10月3日/東京都美術館)

文/磯部靖

1室

 木村巴「帰宅(朝)」。文部科学大臣賞。扉を開けて女性が帰宅する様子を描いている。飼っている黒猫が出迎えに来たようだ。女性は右手を戸にかけて、少し疲れている様子である。猫はそんな主人の心情を察してか、近くまで歩み寄ろうとしている。そういった心の交流がなんとも微笑ましい。しっかりと絵具を重ねてマチエールを作りながら、描き上げているところにも好感を持つ。

 百瀬まつ子「華の樹2012・祈り ・」。木の葉を身に纏った女性を画面の少し右に描いている。その女性の左背後には、もう一人の女性の姿が重なって見える。同一人物かも知れない。どこか妖精的な佇まいが強く印象に残る。背後は深く濃い赤で統一されていて、左下から右上方にかけて枝葉が連なっている。妖しくもあり清純でもある画面全体の独特な雰囲気が強く印象に残った。

 左時枝「キングプロティア」。創展賞。花が咲いた後、しおれかけたキングプロティアの花が画面一杯に大きく描かれている。その細やかな描写と大胆さが鑑賞者の目を集める。花弁やその内部の連続するフォルムが、ある一定のリズムを作りだしているところもまたおもしろい。

 大森流河「銀河」。色彩をうまく扱いながら、動きのある画面を作り出している。黄色の色面の中に小さな葉のついた草木をいくつも描き、その背後は青、あるいは緑を施している。画面の中心には猫が二匹いて、お互いに顔を近づけている。その猫のしなやかなフォルムがよく捉えられている。二匹は鼻をくっつけて、何か会話しているようだ。風景的要素を内的なものに変換させながら、自身のイメージをじっくりと煮込んで描き上げた見応えのある作品である。

2室

 岡村泰成「雨ニモマケズ(第二景)」。三点出品のうちの一点。宮沢賢治の言葉をテーマにしているが、掲出の作品はその「風にも負けず」を表現している。黄土色の色彩を中心に、風に吹かれる男の様子がユニークである。左手を挙げ、左足を曲げ、風に何とか耐えている様子である。その動きとそれほど苦しそうではない表情の対比がまたおもしろい。独特の絵画的センスを感じさせる。

 森水碧「まわれ まわれ ありがとう」。三枚のパネルを繫げた横長の画面に、旋回するような構図で画面を構成している。左上には女神がいて、右下にはサッカーのゴールキーパー、左下にはその応援団が描かれている。オリンピックやワールドカップで戦うサッカー日本代表に、女神が桜の花で祝福を送っているようだ。線によってそれらのモチーフを軽やかに描きながら、繊細に彩色している。サッカーのボールの円のストップモーションのような動きと花弁の散らばる様子。そして矩形の金箔によって、画面全体がいきいきと活性化している。日本の過去と現在を繫ぐような、イメージの広がりとポジティヴな感情が、鑑賞者を強く惹き付ける。

 髙松富士子「月の番人」。月が顔を覗かせながらも深い闇によって包まれた画面の中に、妖しい人物と犬が描かれている。物語に登場するようなこの人物の強い存在感が実に印象的である。月の黄金を思わせる輝きが、犬や人物を照らし、静かに色彩的に響き合っているところもおもしろい。画面全体で独特の気配と妖しさを醸し出しながら、安定した構図で纏め上げているところに画家の確かな技量を感じさせる。

 砂田恭子「Heart Station '12」。茶あるいは暗色でまとめられた画面の中に、横に長い長方形の部屋があり、男女がテーブルを挟んで向かい合って座っている。画面の上方には夜の町の風景が見える。どこか水墨画的な要素があり、軽やかさと奥行きが同居しながら印象的な画面を作り出しているところがおもしろい。堅牢なマチエールと伸びやかな筆の動きもまた魅力である。

3室

 木間明「語りあう空間 1」。繊細な墨の扱いによって様々な人物模様を描き出している。画面を曲線によっていくつものパートに分けながら、そこに描かれている人々の表情がそれぞれ独特で印象深い。現代社会において様々な問題を我々はそれこそ語り合わなければならないが、その必要性と滑稽さをこのように描き出しているところが実にこの画家らしい表現である。淡墨と濃墨によって繊細に強弱をつけ、見応えのある画面を描き出している。

 鬼頭霧子「たおやかな森」。左右に少し茶がかって影になった森のフォルムがあり、その中間は月の光のような輝きに満ちている。その神々しい輝きが強く印象に残る。どこか漂う霊的な気配が、そういった輝きを背後から支えているようだ。シンプルな画面構成の中に、画家の自然に対する信仰心と親近感が静かに感じられる。

4室

 小樋山弘子「メビウスの輪のように」。画面いっぱいに女性の顔を二つ大きく描いている。左側は背後と同じ種の色彩で肌を彩色しており、右側はそれに対するように黄みがかった水色で描いている。どこか女性の相対する内面を表現しているようで興味深い。画題にあるメビウスの輪のように、終わり無く循環する正と負の感情が作品の中で行き来しているようだ。こちらを見つめる眼差しの強さと女性性が相俟って、強く印象に残る作品となっている。

7室

 倉島美友「叢(くさむら)」。静かな心休まるような気配が、画面を満たしている。手前に樹木が四本枝を広げ、その奥に小川が流れている。そしてまた草むらが続き、空には満月が浮かんでいる。草木の細やかな描写が、小刻みにリズムを作り、そこに黄色の小さな花が彩りを添えている。その花と満月が、輝きながら静かに響き合っているところが特に魅力的であり、見どころである。

 渕辺凜「ひまわり」。会員推挙。室内の風景である。手前の床にたくさんの向日葵の花を束ねたものが大きく描かれている。そのじっくりと描かれた描写が印象的である。周囲はあたたかな赤や朱で彩色されていて、扉の奥は陽の光で輝いている。向日葵の力強い描写とは異なり、それらは実に柔らかく描かれている。その対比が、鑑賞者の視点を向日葵へと導き、奥行きのある画面を作り出している。誠実に画面を構成しながら、心象的風景としてじっくりと描ききっているところに注目した。

第34回大洋展

(9月25日~10月3日/東京都美術館)

文/磯部靖

1室

 西脇美智子「姉妹」。二人の姉妹を描いているが、その様子が実に愛らしい。暖色系の色彩を繊細に扱いながら、マチエールはじっくりと作り上げている。窓辺に置かれたソファに座った二人の絆の強さ、親しさが確かな関係性を持って描かれているところが特に見どころである。

 直井照美「大地への想い」。老婆と少年が壁にもたれて座っている。素朴な二人の様子が、丹念にそのフォルムを追いながら、しっかりと描かれている。茶系の色彩を中心に描いているが、それがそのまま大地の色彩と重なるようだ。背後の土壁や赤い網、熊手などを丹念に描きながら、そういった人間本来の生き方というべきものをメッセージするかのように描いている。画家の内面から呼び起こされたような、強い思い入れを感じさせる。

 根岸英「オープンカフェのひととき」。明るい日差しの降り注ぐオープンカフェの情景である。清々しい空気感が心地よい。光と影の扱いが端的に捉えられていて、それが樹木の枝葉やテーブル、椅子、人物などに確かな存在感を与えている。奥には道路があり建物があるが、カフェからそこに向かう視点の動きを巧みに誘うような画面構成が特にうまくいっている。画家の確かな絵画的センスがよく分かる作品である。

 海老原利雄「軍鶏の図」。激しく戦う軍鶏の動きが躍動的である。その左背後にも、それを見つめる軍鶏たちがいる。どこか現代の国際情勢を思わせるようなところもあって興味深い。赤と青、灰白色の色彩が、そういった軍鶏それぞれの温度差を感じさせるところもまたおもしろいと思う。

 早稲田郁子「心象」。古い教会の扉を中心に描いている。奥は暗くなっていて、外の壁は手触りのあるマチエールでじっくりと描かれている。一人の男性がそこからこちらに向かって出てきていて、また女性が一人中に入っていこうとしている。その前後する動きが、どこか不思議な感覚を作品に引き寄せている。未来へと向かう男性、あるいは過去へと戻る女性といったように、教会の存在し続けてきた時間を行き来するかのような動きを見せているところが鑑賞者の好奇心をそそる。そう考えると、建物の内部の暗闇もどこかミステリアスな雰囲気を醸し出している。上方には女性が数人浮かび上がるように描かれていて、それもまた過去から現在への旅を暗示させるようだ。いずれにせよ、画面全体で鑑賞者を画家のイメージの世界へと誘うような魅力を持った作品である。

2室

 勅使河原昌子「ミモザの静物」。テーブルの上にミモザをはじめ、たくさんのモチーフが置かれている。その中でミモザの花の耀くような黄の色彩が強く鑑賞者を惹き付ける。それがテーブルの上を月の光のように照らし、他の果物や瓶、スケッチなどを生き生きと活性化させている。そういったポジティヴなイメージが特に魅力である。

 伊藤孝子「水辺の館」。大洋会賞。洋風の建物の前に川、あるいは池が描かれている。建物の影を映しながらゆっくりと動く水面(みなも)の様子が、穏やかでやさしい。建物の正面には、一本の木立がある。ちょうど鑑賞者と建物の間を遮るような位置にあえて描いているところが印象的である。繊細ながらもしっかりと立ち上がってくるその姿が、水面と建物とをうまく繫ぐ役割をはたしているようだ。明るい日差しを受けた色彩の輝きもまた魅力である。

3室

 倉賀野啓子「過ぎゆく日々」。大洋会賞。壊れかけた廃屋を大きく描いている。風雨にさらされて徐々に朽ちていくその姿が強く印象に残る。茶系の色彩の中で、赤く小さな郵便受けがぽつんと残っていて、それがかつてここに暮らしていた人間の気配をわずかに感じさせるところが特におもしろい。

 及川孝子「緑と家並み」。会員優秀賞。やわらかな筆の動きが魅力である。中景に家並みを望みながら、手前に草木を生き生きと描いている。その萌える草木の強い生命力が、画面全体を活性化させている。空間をうまく扱いながら、独特の情景を描き出しているところに注目した。

5室

 岡田和子「薫る窓辺」。エッフェル塔を思わせる建物を眺める窓辺の風景である。清潔な白の色彩が輝かしい。手前には椅子とテーブルがあり、カップやケーキ、グラス、瓶、そしてピンクや紫の薔薇を生けた花瓶が置いてる。その薔薇の色彩が、白の中にうまく馴染んで描かれているところもまたよいと思う。

6室

 佐々木雅弘「求めて Part17(思い)」。躍動的な画面が鑑賞者を強く惹き付ける。ピアノを中心に画面が展開していて、左上方の二人の裸婦の動きが、旋回するような構図の中で特に際立っている。楽器を主なモチーフにしながら、それらがそのまま音楽的なリズムを作り出しているところもおもしろい。

7室

 富岡美枝子「とりつかい」。透けた衣服を着た女性が一人描かれている。女性の周囲には鳩が集まって来ている。暗色のバックの中で、女性や鳩の透明感のある白の色彩が強く印象に残る。また、動かない女性に対して、飛んだりしている鳩の細やかな動きも静かに対比されている。うっすらと入れられた黄やピンクの線もまたそれらにもう一つの動きを与えていて興味深い。

 池田紀子「旅の思い出」。手前に川が流れ、その向こうに城や街並みが見える夜の風景である。それらの灯りが川面に映り、幻想的な雰囲気を醸し出している。じっくりと描き込みながら、そういった雰囲気を失わずにセンス良く纏め上げているところに注目した。

8室

 平野信恵「カノン(canon)」。ヴァイオリンを弾く少女の肖像である。確かなデッサン力がある。特に両手の指がしっかりと弦と弓を押さえているところがよい。背後の森の風景と相俟って、独特のミステリアスな雰囲気も印象的である。

第14回水彩人展

(9月25日~10月3日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 山吉とし子「木洩れ陽」。会員賞。両側に草があって、あいだに水が流れている。そこに木漏れ日が当たり、複雑な陰影をつくる。なにかルノワールの小品を見ているような豊かな感情と色彩感覚に注目。

 笹村出「光の朝」。色彩家である。手前に紅葉した樹木があり、背後に松のような樹木があり、あいだに畑があるようだ。一つのタッチが一つの色面を表すように表現されている。全体で雅やかな独特の世界があらわれる。

 栗原直子「習作」。栗原直子は四点出品であるが、最も小品である半切の「習作」に強く惹かれた。縦のガラス窓の枠が構成のポイントとなっていて、その向こうに女性が左端に立ち、テーブルがあり、スタンドがあり、といった雰囲気であるが、柔らかな緑、グレーなどのあいだに女性の茶色いワンピース、その後ろ姿が温かな親密な雰囲気で表現されている。この室内にある空間自体が独特で、柔らかで強い詩情を醸し出す。

 大原裕行「群・睦月」。大原裕行は月次絵で十二枚の植物をテーマにした作品を出品して、圧巻である。中の一点「群・睦月」は水仙を描いたもの。水仙の細長い葉のあいだに白い花が咲いている。しべが黄色く、神々しく敬虔なイメージがあらわれる。柔らかな緑のバックに葉のすこし明るい緑の色調。あいだに白い花弁に黄色いしべ。その形や色彩。対象に体を重ねるようにして内部からもう一度この水仙の群生する様子を描いたような雰囲気が、いかにもこの画家らしい。客観的世界と主観的な世界とが合一するところから生まれた強さであり、どこか文人画的なイメージの強さ、魅力が感じられる。

2室

 秋元由美子「洞窟の音風」。三枚対になっている。真ん中は金魚の入った器を載せた赤い台があり、そばにはメロンや桃を載せた台があって、その両側に、右には二人の女性の立っている仏画的なイメージを表し、左には現実の女性を描いている。いずれもチベット密教のあのあやしい世界を想起させるものがある。深い感情がエロティシズムと密接な関係をもった、そんなイメージが強く画面から発してくる。「洞窟の音風」は、サリーを着た女性のクリアなフォルムが力強い。とくに目や手の表情が魅力である。その背後に楽器を鳴らしながら来迎する洞窟の壁に描かれている図が、ピンクのモノトーンの中に表現されて、その背景と女性とが呼応しながら、独特の密度のあるイメージ空間があらわれているところに注目した。

 小笠原緑「点灯」。小笠原は三点の抽象作品の出品だが、「点灯」は、白いフリーハンドの不定型の円弧が下方から上方にだんだんと大きくなっていて、独特の優しい雰囲気をつくる。同時に空間もよくあらわれていて、魅力である。明るいベージュのそのフォルムの集合した形全体でハーモナイズしてくるものがあり、また、平面から立ち上がってくるその大きさによって、しぜんとそこに空間があらわれる。

 橘史郎「終い咲き」。橘史郎は三点出品である。珍しく花が描かれた作品が出品された。「一隅に咲く」と題されて、野原に淡い黄色やピンクの花が咲いている様子。花も空もほとんど紙の地が生かされた画面の中に光が灯ったような雰囲気である。地面の上の様子を描いたものは「収穫のあと」と「終い咲き」である。「収穫のあと」は大作で、存在感が強く感じられて面白いのだが、「終い咲き」のもつ、いかにもこの画家らしい、地面も生きていて枯れた雑草も生きているといった、その表現に好感をもった。ほとんど枯れかかったような草の中に一つ黄色い花が咲いている。周りの地面の褐色の様子。水彩でありながら、独特の手触りや空気感が感じられる。そのものに強く接近しながら表現した面白さである。接近することによって再現的要素が後退し、もっと強いマチエールとかイメージが立ち上がってくる。逆にいうと、画家のこの場を眺める力と瞑想する時間とが繰り返され、重ねられるうちに、このような独特のものが出来上がったのだろう。どこか坂本繁二郎の作品も想起するような魅力がある。同色のすこし調子を落とした黄土系の草を背景にして、黄色い花が宝石のようなイメージで表現されている。

 古川謙一「漁港暮れる」。三〇号の作品。近景から遠景に向かって漁船が繫留されている。遠景には建物がシルエットになり、その向こうに夕日が落ちている。その柔らかな夕日の光が船や水を染めて、暗い部分と光の部分とが独特のリズムをつくる。また、それぞれのフォルムもクリアに、水彩独特のトーンの中に溶解するようなかたちで描かれていて、清潔なノスタルジーともいうべき心象があらわれる。

3室

 安倍千恵子「さぼてん(月光)」。一〇号の小品。サボテンの葉の連続する形と、そのあいだにまるでともし火が灯ったような花の様子が、しっかりとした構成の中に表現されている。フォルムも力強いし、色彩もよい。

 鈴木元子「Meething」。二〇号の小品であるが、道路の周りの建物はすでに夕闇で、窓に明かりがついている。電信柱が二本伸びている。その下に三匹の猫がいて、お互いに目と目を見交わしている様子。手前の白い猫に対して、向こうの黒い猫の目が光っている。どこか古賀春江のファンタジーを思わせるような、モダンでありながら優しい詩的なイメージが漂う。

5室

 奥山幸子「忘れられた処」。奥山幸子は五〇〇号の大作を出品した。三枚のパネルを組み合わせたもので、大理石でできたような柱が三本立っている。下方には雑草がたくさん密生している。中心あたりに紫の穂のような花が描かれていて、細勁な茎の先にその花がついた様子があり、それが十以上あって、独特のリズムをつくる。その上方が白くあけられている。周りの緑の生命力豊かな表現に対して、ぽっかり空いた白い空間がミステリアスである。その向こうに何かが存在するのだろう。ミステリアスなもう一つの世界が向こうに暗示されるような、そんな雰囲気が画面全体にロマンティックな雰囲気を与える。

 疋田利江「冬の田」。疋田利江は二点出品で、「冬の田」は、雪が半ば解けて残っている地面に丈の高い草が伸びて、周りに水がある。水はうっすらと青く、雪はうっすらと黄色く、繊細な寒色と暖色とがハーモニーをつくる。クリアに一つひとつのディテールを再現的に描かずに、大づかみにその表情を表現している。地面と水とが組み合いながら向こうに続いてく様子。そして、それが空を映しながらたゆたっているような独特の安息感が感じられる。

 小野月世「日曜日」。女の子が二人描かれている。一人はソファの上に足を投げ出して、もう一人はソファに座っている。二人とも白い衣装を着ていて、光の中に輝いているように感じられる。それは女性の肌もそうである。全体に暖色系の柔らかな色彩が使われている。光がそこにしみ通るようなかたちで表現される。温かな愛情豊かな雰囲気である。と同時にイノセントな二人の少女の表情もまた魅力である。優れたデッサン力がこのような表現を可能にする。

 松田憲一「しのばず・蓮枯の季」。黄土系の色彩と紫系の色彩。中に淡く緑が入って、冬の冷気を感じさせる。寂寞とした雰囲気のなかにある。画面に接近すると、茎が曲がって、その先に枯れた花のついているフォルムがあらわれてくる。画面からだんだん遠ざかると、全体の空気感があらわれてきて、たらし込みふうなトーンのなかに、蓮のフォルムというより、全体の雰囲気が強くなってくる。冷気や寂しさや厳しさといった雰囲気が立ち上がってくる。

第62回流形展

(9月25日~10月3日/東京都美術館)

文/磯部靖

1室

 田島順子「街の記憶」。段ボールなどをコラージュしながら、独特の街の風景を作っている。モノトーンの色彩を繊細に変化させて作り出した、どこか幻想的な雰囲気が印象的である。

 勅使川原正代「光陰 ・」。グランドキャニオンを思わせる崖の入り組んだ大地の様子が見応えを感じさせる。左上方には虹がうっすらと浮かんでいる。それが、赤茶色でまとめられた大地の色彩に、小気味よいアクセントを作り出している。影になっている部分とそうでない部分などをしっかりと捉え、画面全体で抑揚のある奥行きを作り出しているところも見所である。

3室

 小林清子「街角の花屋さん」。グレーの色彩をベースにしながら、街の風景をじっくりと描き込んでいる。童話の中に出てくる街のような、どこか物語性を感じさせるところがおもしろい。鑑賞者を作品世界へと誘い込むような魅力を湛えている。

第42回純展

(9月26日~10月3日/東京都美術館)

文/高山淳・磯部靖

1室

 川田謙三「ムーンライトセレナーデ」。深い森の奥で、ピエロが一人サキソフォンを吹いている。そこに二匹の猿とダルメシアンが近寄ってきている。微笑ましい光景である。奥にはテントが張られ、周囲は暗い。ひっそりとした気配の中でソロを奏でるピエロが画家自身の姿を重ねているようにも思わせる。情感豊かな画面が鑑賞者を強く惹き付ける。(磯部靖)

 多田恵子「共に」。青い服を着たたくさんの人々が手を取りながら繫がっている。画面の左上方が最も明るくなっていて、そこに全員が向かって行っているようだ。その明かりは希望の光のようである。誰もが他人との繫がりを大切にし、この困難な時代を乗り越えていこうという、強いメッセージを訴えかけてくる。その光に収斂していくような画面全体の動きが特におもしろい。中央に一匹だけウサギが描かれているところもまたファンタジックでもあり、人間だけじゃなく動物たちの代表のようにも思えて興味深い。(磯部靖)

 宍倉聰哉「秋の陽ざし」。木立が立ち並ぶ小高い丘から街並みを眺めるような視点で描かれた風景である。左側の樹木はまっすぐに伸びているが、中央に描かれたものはわん曲しながらその枝葉を伸ばしている。その樹木の一本一本のフォルムが独特でおもしろい。傾きかけた陽ざしが深い影を作り、作品に深い情感を引き寄せている。その陽ざしのわずかな温かさと秋のひんやりとした空気感が、繊細な情感を鑑賞者側に運んでくる。丹念に筆を重ねて描かれた手前の風景と空の透明感のあるグラデーションが静かに対比されているところもまた見所である。(磯部靖)

 加藤郁子「ワーイ、みつけたよ」。根本からY字形に分かれた樹木を手前に大きく描いている。その向こうは丘になっていて、子どもたちが走り抜けていっている。素朴で心あたたまる情景である。樹木には蔦が絡まっていて、そのフォルムが、作品にもう一つの動きを作り出してもいる。大胆な構図を取りながら、生き生きとした画面を作り出しているところに注目した。(磯部靖)

2室

 齋藤信雄「シチリア島、チェファルー」。右にカーヴしていく海岸線がぐいぐいと鑑賞者を惹き付ける。手前に小舟がいくつかあるが、その青が周囲の茶系の色彩の中で独特の存在感を放っている。海岸に沿って同じようにカーヴしながら連なる建物もまた、小気味よいテンポを作品に与えている。近景から遠景にかけての距離感もしっかりと捉えられた、見応えのある作品である。(磯部靖)

 片岡英明「鎮魂」。シルエットになった男が一人埠頭に佇んでいる。海に向かって何か祈りを捧げているようだ。昨年の震災による津波を彷彿とさせる。そのもの悲しい後ろ姿に強く惹き付けられる。モノトーンに近い色彩で淡々と描きながらも、濡れた地面に映る影を繊細に描き出している。雲間から少し漏れる光が、わずかな希望のようで興味深い。(磯部靖)

3室

 大澤榮「夏の昼さがり」。路地裏の光景を水彩によって丁寧にしっかりと描き出している。建物や鉢植えなどの描写も細やかである。犬の後ろ姿も見えたりなどして、画面全体でゆったりとした空気感をうまく醸し出しているところに特に好感を持つ。(磯部靖)

4室

 白戸昭「旅愁」。画家の北欧のシリーズも長い。今回はこれまでになかった縦型の画面にその情景を描き出している。赤い屋根が連々と続きながら、下方は暗く、上方はやや茶がかっている。空は細やかに引っ搔くようにして独特のアクセントを作り出している。画面の中央には背の高い塔があり、それが作品の背骨となるように構成しながら、画面を安定させて巧みに纏め上げている。そうやってじっくりと描き上げられた作品から発せられる強い情感が、鑑賞者を捉えて放さない。また、前述した下方の暗色の部分が奥行きのある心理的な間を作品に与えているところも見逃せない。(磯部靖)

 斎藤良夫「朝の集落ソラノ」。ソラノはイタリアの中世の街で、ローマから北にすこし行ったところにある。ここに描かれている集落は実に独特の有機的なかたちを見せる。両側は深い断崖になっている。画面の中心よりすこし左に鐘楼が立っていて、そこが教会で、周りに赤茶色の瓦を置いた民家が密集している。民家と民家も実はお互いに連絡できるようになっているそうだ。そこに光が当たり、深い陰影をつくりだす。上方に時計台のある不思議な建物は、実は向こう側に窓があって、これは中に人が住んでいる、いわば集合住宅ふうな建物だそうである。そのあやしい不思議な大きなかたちとそばの階段がもう一つの構成のポイントになっている。画家はスペインなどの風景を描くときにナイフなどを使いながら、よくマチエールによって独特の情感をつくりだすが、これはソラノという街と全身的に向かい合ったところからあらわれた、きわめて構築力のある客観的な実在を筆で描いたものである。その力が画面に強いエネルギーともいうべき力を与えている。画面のいちばん下辺のあたりに民家の壁が描かれ、窓があり、その下方に暗いところに地面らしきものがあり、その右側に階段のあるところがもう一つの構成のポイントとなっている。そこからあらわれてくる強い生活感、あるいは人間の長く繰り返してきた歳月といったイメージが、上方の光に輝いているような教会や屋根の様子と対照されて、心理的な奥行きを深くしている。(高山淳)

8室

 戸田泰生「マヌカンの街―A」。会友賞。強い赤の色彩を中心に描いている。画面の中央右寄りに大きく描かれた三人の女性が、強く鑑賞者の目を惹く。左の方には街の風景が描かれていて、たくさんの人々が行き交っている。ショウウィンドウとのダブルイメージによって複雑な画面構成になっているが、それをしっかりと描ききっているところに注目した。(磯部靖)

第76回新制作展

(9月19日~10月1日/国立新美術館)

文/高山淳・小森佳代子

2階─1室

 佐野ぬい「動くスペース」。青、緑、赤の色斑が自由に構成されている。赤は太陽を思わせるし、緑は樹木を思わせ、青は空や水、あるいは明るい昼と夜の二つの空間を表すようだ。黄色がそこにあらわれている。黄色は光線で、赤は命のようなイメージかもしれない。いずれにしても、現象にある色彩よりひときわ純度の高い色彩が使われている。そして、それぞれの色彩がランダムにあるようだが、実は画家の心象のなかに組み込まれて、見事な構成をなす。それが止まっているのではなく、じわじわと変化し、動いていくようで、内側からあらわれてくる不思議な詩情ともエネルギーともつかぬ力が表現されているところがよい。(高山淳)

2階─2室

 平田智香「私の部屋」。室内に二人の人間がいる。中心に眼鏡をかけた女性がいるが、テーブルの中にすっぽりと嵌まったようになっているところが面白い。テーブルのもつ側面と上の面が画面のポイントになって、二人の人間がクリアなフォルムの中に独特のイメージをつくる。色面構成的な要素があり、背景も静物もそうで、人間もすこし静物ふうな扱いで、人形芝居のようなものが行われているようなウイットも感じられる。(高山淳)

 成尾勝己「マルサンカクと四角」。縦長の三枚の作品を合わせたもので、三曲屛風と言ってよい。それぞれに同じ女性が違ったポーズをして位置を変えて立っている。中心の女性は傘を持って、いちばん手前にいる。両翼はほぼ位置は一緒であるが、一人の女性は水平に手を伸ばし、もう一人は斜めの方向から描かれて、カップを持っている。背後の黄色い楕円形のフォルムはテーブルを表す。猫がその上にいる。左にはキリンが首を下方に傾けている。右のほうにいる猫はフラットに、プレスしたような雰囲気になっている。黄色が満月を思わせるような強いエネルギーを発揮する。室内、あるいは内的な力がその黄色い色面に込められているように感じられる。淡々と描きながら、強い詩情を発散する。(高山淳)

 田村研一「伊坂居町踏切」。踏切の向こうからハイスピードの電車が現れているが、その上方にカブトムシがいて、焦燥の様子である。周りに煙が立ち、たくさんの人々がいて、喧嘩をしたり動的な動きを示す。荒唐無稽なシーンであるが、都会のもつ力がそこにあらわれているし、平和なようで、実は内に暴力性を秘めたような都会の人間関係もまた引き出される。クリアなディテールがそのようなドラマに説得力を与える。(高山淳)

2階─3室

 鍋島正一「ミロワール」。ミロワールとは鏡という意味である。テーブルに座って背中を見せている裸の女性。マン・レイの作品を連想する。その向こうには様々な瓶があり、いちばん高い瓶に黄金色の球体が置かれているが、アトリエの中でこの絵を描く画家自身をそこに映している。その祭壇のようなフォルムの上方には屋根がつけられ、周りの雲は一部壁となって窓がつけられ、窓の向こうには風景が映っている。その窓に映っている風景を見ると、それは実は鏡に映っているのかもしれない。画家は画面の中に鏡というイメージを導入し、その中に様々なシーンをコラージュするように入れ、室内と室外の物象を引き寄せながら、室内にいるはずの背中をあらわにした女性に、外光というスポットライトを当てる。アトリエの中で行われる制作という仕事を意識化し、平面の上につくる形象を検証するような、独特の自意識上の操作を行っている。クリアなディテールが強い存在感を示すために、逆にフェイクな力が強くなる面白さである。(高山淳)

 田澤茂「北の地蔵 1」。こけしのような地蔵たちが横に並んでいる。よく見ると、それはそれぞれの懐かしい人間たちのようだ。人間たちは画家の独特の強い力によってプレスされ、縮小され、こけし的な地蔵に造形化され、並べられているような面白さである。バックはグレーで、空は激しい渦巻くような動きを示している。はるか向こうには山が見えているようだ。手前のあたりのもやもやとした雰囲気は不安定で、昨年起きた津波の余波がそこに浸透してきているような雰囲気である。画家は青森の生まれで、イメージと強いデッサン力を駆使して、自由奔放な汎神論的な世界を描いてきた。今回は内面化された自然が周りに恐ろしい複雑な動きを示す中に、こけし的な地蔵が愛らしい表情で立ち並び、実に不思議な魅力を放つ。画家の詩心ともいうべき優しい心持ちが、そのままこの地蔵に結晶している。(高山淳)

 張替眞宏「空観」。大きな建物の外階段のあたりの風景のようだ。そこに光が当たり、暗いなかにスポットライトのような光の面をつくる。その光は日が動くと同時にどんどん変形していくのだろう。画面の建築的なコンポジションは光を捉えるための舞台であり、光に相対する暗い空間もまた光を表すためには必要である。右のほうには、ビルの横に茫漠たる青い空のようなイメージが広がる。光の移ろいを見ていると、実際に現実というものはないのかもしれないといった、きわめて一元的な世界観に人を誘うときがある。哲学の最初のテーゼである客観と主観との問題である。仏教はきわめて主観をベースにしていて、阿頼耶識という考え方をもっているが、その阿頼耶識が光というものを通して画家を逆に眺めているような、そんな緊迫感があって、それが興味深い。(高山淳)

 佐藤泰生「山水湘南富士」。下方に大地があり、そのあいだを流れる川や社(やしろ)や建物が置かれ、家があり、樹木がある。右のほうは湾になっていて、上方に富士が見える。すこし熱海のあたりの風景を思うところもある。いずれにしても、自由奔放なフォルムの組み立てである。客観的な現実を平面に移し変えるときに平面としての造形原理が働く。その原理を自由に使いこなしながら、いわば胸中山水に似たような空間を表現する。夕焼けに染まった富士の神々しい姿が、空間の一つのポイントとなっている。そこが最も遠いところにあり、キャンバスの前に立つ画家自身の位置が最も近い距離にある。そのあいだの複雑な空間。それは奥行きもあるし、上下にも左右にも広がっていく。その空間を絵巻のような空間の中に表現する。絵巻は時間軸に沿って左右にそのパノラマと視点とが変化していくわけだが、それを一望のもとに圧縮すると、このようなダイナミックな空間になるだろうか。色彩は緑とオレンジ色とが輝かしい対照を見せる。画家のそばに水が流れてきている様子が、もう一つのポイントとなっているように思われる。そのそばにマジシャンのような猫が画家自身を見ているところも面白い。(高山淳)

 松浦安弘「砂のカスバ(モロッコ)」。建物が並んでいる。カスバというのだから、中に入ると迷路のような民家が密集しているのだろう。斜光線の中に黄土系の輝いているような色彩がそれぞれ微妙に異なって、独特のハーモニーをつくる。このあたりの色彩感覚は松浦独特のものである。そして、後ろに砂丘がある。相当高い砂丘だが、風によって動いてきて、砂塵が舞い、砂丘自体も形を変えていくのだろう。その砂丘の中に入っていくと、音が聞こえなくなるという。恐ろしいが、懐かしいもの、海のようなイメージでありながら、中に入ると無音で取り囲んでくる不思議な力。砂丘のそのあやしさと下方の構造的な骨格のしっかりとした建物群とが面白く対照されている。そのあいだに、柔らかな明るい光の中に霞むようにもう一つの建物群が描かれている。

 黄土系の色彩のヴァリエーション、その暗い部分、明るい部分、光っている部分、様々な要素だけによってこの作品はできている。モノトーンといえばそうなのだが、その中の複雑なハーモニーが実に魅力である。この光っている建物群には宮殿のようなイメージさえも感じられる。

 もう一点の「砂の流れ」は、下方に建物群を置いて、上方に砂が覆いかぶさってくるようなあやしさで、砂がまさにこの建物の上を空のように覆い始めているような不思議な感じである。それが実際に襲ってくると、全く別の世界に連れていかれるような、そんな大きな波のような力が面白く表現されている。(高山淳)

 太田國廣「龍神曼荼羅図」。縦長の画面の下方に富士山を置いて、上方に円を置き、その中に月を描いている。その富士の山頂の部分に水平線を置くと、上方が正方形になり、その中に龍の頭を中心として渦巻くような、旋回するようなコンポジションをつくりだしている。その旋回するコンポジションは、富士の上の二重の円弧と関係をもつし、また、右上方の円弧とも関係をもっている。円はほかにも、たとえば龍の持っている球体であるとか、様々なところに置かれていて、太陽と月と両方のイメージが繰り返しあらわれながら、一種神道的なエネルギーが引き寄せられる。龍は中国の想像上の産物であるが、日本は基本的には古神道という、いわばアニミスティックなエネルギーを仏教や道教の言葉や図像に仮託して表現してきた。この作品も図像が絡み合いながら、独特の曼荼羅構図をつくっている。じっと見ていると、たとえば那智曼荼羅などに見られるような独特のエネルギーと熱気が感じられる。これだけ金や銀が使われているにもかかわらず、それが飛び出てこないのは、画家の構築力であり、造形力であるに違いない。(高山淳)

 石阪春生「鞄たち〈女のいる風景〉」。正方形の画面の中心両側に二人の女性がいる。向かって左は背中を見せ、向かって右の女性は側面で顔はほぼ正面向き。観客の頭の上方を眺めている。背中を見せる女性は左方向を眺めている。その二つの視線のほぼ直角の向きが、まずこの作品のポイントとなっている。あいだにトランクの上に人形が座っている。旅行用の大きなトランクが両側に立てられて、人形以外にはドライフラワーの入った籠のようなものや、金属の容器がある。また、鞄がそこに掛けられてぶら下がっている。左下にも鞄が置かれている。ショルダーバッグである。旅行のイメージがしぜんと浮かび上がる。背後には衣装を積んだものがあって、その後ろには樹木が茂っている。全体的にドライフラワー的な要素によって占められている。現存しているものたちがそのまま過去の記憶を引き寄せ、その中に存在するような不思議さがある。時間というものの長い連続性のなかに鑑賞者は巻き込まれ、謎めいたこの世界に連れていかれる。青々と茂ったものは何一つなく、すべてがすこし枯れたものになっていて、それが複雑な円運動の中に組み込まれている。女性たちも、生きている女性というより人形的で、ある時間のなかに静止しているような趣である。ところが、静止した時間のなかにそのような過去の連鎖があって、そこから未来を眺めているようだ。処々に赤が置かれているのが鮮烈な印象を与える。錆びた、すこし褪せた青や緑、茶色、黄土色の中に、赤が強いイメージ、つまり生きた感情の強さといった雰囲気で使われている。画面をじっと見ていると、前述した左右の人形のような女性が立っているそのあいだの後ろ側に、前方を見ている人形が置かれ、もう一人の手前の人形と四つのポジションがあり、そのあいだの空間が独特である。いわば正方形の画面の中に円柱を置き、その円柱の周囲に人間や人形を置き、その旋回する動きが実はこの作品の構図上のポイントとなっていることがわかる。そのあいだにしわの寄った布や背後の蔓のようなものにつけられた赤い花のようなもの、あるいは赤く紅葉した葉、蝶の一部が赤くなったものなどが置かれ、そのうねうねとした動きがやがて画面全体のうねうねとした循環するような動きにつながっていく。エロスという人間の働きは関係をつけるもので、ロゴスという働きは切断するものだといわれている。そのあらゆるものと関係をつけるエロス的な力が、実はこの作品の魅力をなす。そのエロスとこの瑞々しくないもの、枯れたものとがお互いに関係をもち、ある過去の記憶のような時間とエロスの働きから、このあやしい独特の空間が生まれるという言い方もできるだろう。背後にある樹木は茨のようだ。茨というと、イバラ姫の話を思い起こす。長く眠りのなかにいるイバラ姫は王子の愛によって目を覚ますわけだが、画家の魔術によってこのものたちは生と死んだものとの中間領域の中にとどめられ、独特の画面の中に眠りを与えられ、その中で夢見るような世界が画面に表現されているのだろう。(高山淳)

 金森宰司「ライフ『画家の庭で遊ぶ』・」。タンバリンを持つ男。その右向こうにはアコーディオンを鳴らす男。そのあいだにメリーゴーラウンドが回っている。そして、その向こうには道があらわれ、建物や樹木が見える。上方の緑の部分はキュービックな処理によってつくられている。文様がそのまま空間化し、画面の中に構成される。面白いのは二人の男のあいだの下方に可憐な花が小さく咲いているところである。画家は画面の中に音楽のメロディを思わせるような構図をつくろうとするかのようだ。メロディに沿いながら遠近感があらわれ、全体がハーモナイズすることを願っているのだろう。ほとんど十二色環すべての色彩を使いこなしながら、楽しい、独特のエキゾティックな空間を表現した。フラットな平面処理をした色面を組み合わせながら、そのような空間をつくる画家の力量に注目した。(高山淳)

 松尾萬里「座る椅子 '12」。真ん中に五人ほどの女性が座っている。それにむかいあう左側の二人の女性。右のほうは男も混じっているようで、五人ほどの人が立って、中心を見ている。フォルムがお互いに連続しながら、無限旋律ともいうべき力を獲得する。フンデルトワッサーは抽象的な空間でそのようなフォルムをつくったが、これは具体的な人間群像を使いながら、そういったエネルギッシュな閉じた空間をつくっているところに驚く。上方も床も波打つような動きがあらわれて、この人間たちを囲いこんで、一種の結界のようなものを表している。その結界のような力、呪術的な力に注目する。(高山淳)

2階─4室

 村山容子「風の詩 '12─・」。茫漠たる白い大地が広がっていく。空は赤黒い奥行きのある空間である。白の色面の果てに赤い小さなものが上方に上っていく。魂が上っていくのを見るような雰囲気である。白の独特の左右に動いていく動き、その茫漠たる広がりはなにか不思議な懐かしさのなかにあらわれている。そこにフリーハンドの線が動いていくのは、何かの軌跡だろう。あいだから暗いものがのぞいている。人間の煩悩を吹き払う風が吹いているようなイメージである。無明長夜という言葉がある。その世界にわれわれは住んでいるわけだが、それを癒すように白く風が渡り、様々な煩悩を消すような、そんな不思議な人を癒す力がこの作品にはあるように感じられて、実に魅力的である。(高山淳)

 渡辺久子「still life」。大きくあけられた窓の向こうに建物が見える。手前の棚の上に葉のついた果実や黄色い汁の入ったカップや花瓶に生けられた薔薇の花などがある。緻密なディテールを描きながら、独特の動きが感じられるところが面白い。その動きは光の扱いから来るのか、あるいはドローイングする力から来るのかと考えてみると、やはりドローイングの力と思われる。塗り絵の多い中に、描く力からあらわれたムーヴマンが面白い。(高山淳)

 馬緤紀子「いのち 2012」。樹木の上が女性の顔になっている。女性は何かを叫んでいる。両手に抱えているのは水である。そばに桜の花が咲いている。その手前にもこもことした塊がたくさんあるのだが、それは死んでしまった人々で、頭を垂れたりしている。その黒いシルエットは一年前の津波で亡くなった人々だろう。その津波をこの女性は抱きかかえている。水が波紋をなしている。祈りによって水のもう一つの聖性ともいうべき力があらわれる。その水はまた人間にとって大切な命のもとになっているのだが、それによってこの樹木も癒されている。水の両面性、津波のような暴力性と命を守り、養う水という二つの力が画面に捉えられて、それを表現するのに樹木をそこに置き、樹木を人間化するというユニークな発想に感心する。頭の中には子供の顔をのぞきこんでいる若い母親のイメージがあって、それがこの頭の中にあるというのも面白い。水はそのまま空と重なり、そこにすこし黄金色の雲が出てき、その光に照らされて上方の桜がピンクに輝いているのは、希望の象徴と言ってよい。(高山淳)

 福田徳樹「遊行」。左にショルダーバッグを掛けて帽子をかぶって旅立とうとする男。右のほうには建物のようなイメージがあり、窓があいているが、様々なものが浮游している。そこにあるのは、この男の内面化された部屋の中の記憶や過去のイメージだろうか。あいだに鳥が飛んでさえずっている。その鳥のフォルムが面白く、全体に一種の念力を思わせるような、そんなエネルギッシュな力が感じられる。ロマネスク的な造形を内面化し、胸中山水のように表現する力に注目。(高山淳)

 四宮敏行「卓上の街」。テーブルの上にイタリアの教会ふうな建物があり、その前に裸の女性が立っている。空が青く、その青が独特の精神性ともいうべきものを感じさせる。女性はおなかのあたりが抉られて、中に鳩がいて、手の上に布があり、もう一羽、その上にのっている。この女性は人形のようで、どこかキリコの形而上的なあの人間のイメージを感じる。背後には人形とわかるようなかたちで人物が置かれ、トランペットを吹き、タンバリンを持っている。その建物に入口があり、赤茶色のドアをすこし開き、人の姿の一部がのぞく。ドアの背後もやはり上方と同じ青であるが、やや緑がかった不思議な青である。心の中に入って、心の中の扉を一つひとつあけていって、人間たち、あるいは建物たちを招いて描いているような、そのような詩的なヴィジョンが魅力である。現実の時間とは異なった、その無意識の世界、あるいは夢のような世界の時間があらわれていて、その流れがゆるやかに動きながら次のドラマが展開されていくようだ。不思議だが、画面を見ていると、心の癒されるような力を感じる。(高山淳)

 高堀正俊「母子」。椅子の上に少女と母親が座っている。二人のあいだには距離がある。バックはコンクリートのようなもので、地面もコンクリートで、それが乾いて独特のマチエールをもつ。地面と壁とのあいだのコンクリートが壊れて、中から土が顔を出している。乾いた独特のグレーのマチエールとその微妙なディテールを、見事に画家は描いている。バックのもつ強いリアリティが、この二人の女性のリアリティを支えていることは特筆しておく。また、少女も母親も写実的に描かれている。静止しているが、呼吸はしているわけで、その呼吸している動きまでも捉えようとするような筆の入り方が素晴らしい。人間のもつ微妙な気配が見事に表現されている。その気配はこの床や壁の気配にも浸透していく。そのような筆の力に注目した。(高山淳)

2階─5室

 和田和子「不確かな風景」。画面の真ん中に池があって、雲を映している。そばに植物図鑑を見ている女性が座っている。下方から枝が伸びている。上から眺めるという視点の面白さによって、池というか、それは水たまりに近いのだが、その周りのものたちが新鮮な雰囲気で描かれている。よく見ると、ドライフラワーのような植物もあるし、羊歯のようなものもあって、様々な植物が周りに置かれているところが面白い。そして、それらは白い中に置かれて、晒されたような雰囲気である。図鑑を読む女性も現実には存在しないような不思議な白の魅力が周りを取り巻き、それに対して瑞々しい緑の葉と枝が左下にその触手を伸ばしているといった、時間の謎のような雰囲気も感じられる。ユニークな構成である。(高山淳)

 森愛子「千の夢」。ユニークな構成である。無数と言ってよいほどの民家を集めている。茶褐色の屋根に白い壁の民家を画面に構成し、そのリズムによって波動をつくる。中心に円状の建物群がある。ちょうど太陽から光線が発し、光の波が伝わってゆくような放射状の動きが実にダイナミックに表現されている。それを建物を集積することにによって描いている。中心からあらわれてくる放射するエネルギーはきわめて生命的で肯定的な力である。(高山淳)

2階─6室

 近藤オリガ「風になって」。絵画部賞。翼を広げる三羽の鳥。ところが体は描かれていない。インスパイアされた瞬間の人間の心象を、この翼によって表現したのだろうか。渾沌とした柔らかい地面の向こうに水が見える。想念の世界を面白く形象化する。(高山淳)

 小野仁良「オトノキオク・セミシグレ ・」。新会員。農村の民家の室内に少年が麦わら帽子をつけて立ち、窓から戸外を見ている。紫色の陰影の中に戸外がまぶしく輝いている。蟬時雨の降る夏の一刻。桟がたくさんあるドアが蟬時雨の様子を擬態するようだ。昔の日本家屋にあった陰影と戸外のまぶしさとが生き生きと描かれている。(高山淳)

 神野隆起「港横浜朝模様 5」。ヘリコプターから眺めているような横浜の港風景である。大観覧車やランドマークタワーなどが聳えている。海に向かって桟橋が伸びている。そんな様子をすこし右に傾いた角度から描いている。クリアな形象が立ち上がってくるところが、この作品の面白さである。実際にヘリコプターから見たのかどうかわからないが、イメージの力にしても、それらのディテールが面白い。(高山淳) 

 片山裕之「ある風景 ・」。新作家賞。錆びた鉄によって、まるで案山子のようなフォルムがつくられている。逆様にランドセルがぶら下がっている。遠景にはコンビナートのようなものが見える。崩壊した現実の中の人間のモニュマンといったイメージが伝わってくる。ユニークな視点に注目。(高山淳)

2階─7室

 馬淵哲「幻視 太陽を着る女」。新会員。クリムトふうな金や銀などを装飾的に使い、そこに文様を入れた画面である。中心に女性の横顔が描かれている。画面は真ん中で切れて、手の先がなく、そこに向こうがわから出た手が重なっているのがシュールである。いずれにしても、あるイメージを音楽的なメロディのようなムーヴマンにそって装飾的に表現する力に注目。(高山淳)

2階─9室

 葉山たみ子「時の風音 ・」。もの派を思わせるような強いマチエールである。そこに手のひらの跡などが点々とつけられ、線によって円弧を描くその上方に両手を広げている人の形があらわれる。ところどころに植物の花や葉や、中にある実を出したフォルムなどがコラージュされている。自然の四季の恵みの象徴のように植物をコラージュし、生きている証拠に手のひらを捺印し、線でもって人間の姿を描くといったアルカイックでプリミティヴな表現に注目。(高山淳)

2階─10室

 滝田一雄「室内風景(午前の光)」。二人の女性を上下に構成している。ヌードである。柔らかな光が照らし、女性も周りもハーフトーンの中に染め上げる。その色彩のハーモニーがロマンティックな雰囲気である。優雅に画面が動いていくようなムーヴマンも魅力。(高山淳)

2階─12室

 星ゆみ「遅れてきた青年…未明の夢」。コートを着た青年たちが浮遊している。みな背中から描かれていて、五人の人が、一人は雲に乗り、三人は雲に手を伸ばしてぶら下がり、一人は下方に落下している。実はもう一人いて、それは左上方に小さく紐にぶら下がっている。鳥が飛ぶ。まさに夢の中の世界である。実現されなかった夢。雲にすがりついているが、果たしてその雲は頼りになるものかどうか。また、落下していくときに見える下方の風景。不安な夢が、曲線の繰り返しによるフォルムによって表現される。独特の浮遊感がこの作品の魅力だと思う。(高山淳)

 立畠裕子「渡りの朝 ・」。海岸が湾になっていて、そこに一艘の船がある。そこに男がいま乗り込もうとしている。見送る子供を抱いた母親。その手前には竪琴を持つ人や、右下にはホルンやヴァイオリンを弾く三人の天使がいると思うと、一人の子供の足は獣の足になっている。後ろにはスフィンクスに乗る幼児がいる。ギリシャ神話に出てくる人々が集められて、その群像のもつイメージはミステリアスで、それがそのまま旅に立つ未来に対する曖昧で渾沌とした雰囲気をつくるようだ。手前が人間の記憶の無意識の世界とすると、そこから自我というものがあらわれ、それが出帆するという意味合いと重なるのかもしれない。いずれにしても、クリアな群像による寓意性であるところがこの作品の魅力である。(高山淳)

2階─15室

 上岡真志「fragranza」。題名は香りという意味である。灰白色の画面の上に薄いピンクのたらし込みふうな色面が浮かび上がり、上方にグレーのもあもあした色面、左には線描きの花弁を思わせるようなフォルムが見える。あらわれてくる空間のクオリティが高い。はんなりという言葉があるが、そのような上品なエロス、香りが漂ってくるような独特の面白さである。(高山淳)

2階─16室

 高橋万知子「遠い日の月」。ハーフトーンのパステルカラーといった調子で懐かしい室内空間があらわれる。人形がいたり、ワンピースが掛けられていたり、三日月の仮面や方位計があり、猫がいる。カーテンのそばに、上方の左端だが、裸の女性が立っているのが面白い。窓の中にグレーの空があり、雲が動いている。時間が回想に向かっているようだ。その中から大事にしてきた親密なものたちが一つひとつあらわれ、そのすべてを一挙に画面の中に見せてみるといった、そんなコンポジションに注目。(高山淳)

2階─17室

 藤田邦統「『量子』―質について―(鉛と緑の間)」。五〇〇号を超える大画面である。不定型のフォルムが両側にあって、あいだが深い緑のトーンで、そこに浮かんでいるものがある。空間の奥行きと広がり。エネルギーをもったフォルムがそれを囲み、そこに独特のムーヴマンのあるところに注目。(高山淳)

 竹内一「想いの場に―降ろす―」。すこし焼かれたような柱が四メートルほどの高さに立っている。両翼にキャンバスがつけられ、三人の人間がいる。上を見る人、遠くを見る人、下を見る人と三つの視線が交差する。手が下方に伸びていて、下方に布で覆われ、結わえられたものがある。十字架からのキリスト降下のイメージが背後に漂う。現在の嘆きと未来に対する思い、そして天空を眺める視線。それぞれの視線が交差するなかに、この大画面が表現される。(高山淳)

 樺山祐和「森にうつるもうひとつの森へ―生まれかわる光咲く日に―」。垂直にたくさんの樹木の幹が連続している。あいだから光が漏れている。その光は黄色っぽい光、白い光、あるいは赤みを帯びた光もあって、その光を見ていると、ステンドグラスを眺めているような趣になる。その樹木の向こうにもう一つの別のより素晴らしい世界が存在するような雰囲気である。縦に連続する動きを見ていると、たとえば静かな音楽、バロックふうな音楽が聞こえてくるような魅力もある。(高山淳)

 矢澤健太郎「ヒエダノアレかく語りき」。稗田阿礼が語ったものを太安万侶が筆記したのが『古事記』である。ここにあるのは『古事記』の中の世界である。下方にいるのが稗田阿礼らしい。上方は画面が十字になっていて、その中心に仰向けになって横たわっているのが、死んだイザナミノミコトである。イザナギとイザナミはたくさんの国や命を生むが、イザナミは最後にホデリノミコトを産むことによって産道が焼け、亡くなった。そこから麦が伸びてきたという話がある。そのイザナミノミコトを中心として『古事記』の物語に出てくる様々なことが描かれている。下方に顔のようなものが垂れ下がってきて、その下方に弓を持つ人などがいるのだが、稗田阿礼の物語に沿って物語が膨らみ、展開していく様子を、この独特の不思議なフォルムの全体によって表現する。ユニークなコンポジションである。(高山淳)

 木下和「遺されしものへ―星・月明かり '12―」。ルクソールの風景である。手前にナイル川が空を映して青く神秘的な水の色を示す。その向こうに椰子の木が点々と立っている。巨大な月が地上近くに浮かんでいる。現実より大きく描くことによって、神秘的でロマンティックな空間があらわれる。ルクソールにはエジプト文明を代表する神殿があるが、過去のエジプト王朝の栄光の時代のイメージが風景の背後にちらつくようだ。雲が不思議な表情を見せる。黄金色であるが、雲というより様々なものをはらんだ時間の帯のような雰囲気である。そして、背後の群青の空にたくさんの星がまたたいている。いま流れ星が過ぎる。青と金の二色によって神々しい雰囲気があらわれる。月に照らされた椰子の木の向こうの赤茶色に光る砂の山が、いかにもこのテーマにふさわしい脇役となっている。(高山淳)

 宮田保史「伊太利亜 2012(石の村)」。二枚の作品をすこしあいだを離して、一双ふうに構成している。上方に白い建物が見え、建物は画面全体にあり、あいだに道があり、空があり、人がいる。内面空間の中にあらわれた街と人間、空である。赤い色彩に囲まれたこの輝くような白が魅力である。それぞれがお互いに関係をもちながら、堅固なエネルギーを発する。(高山淳)

2階─18室

 松木義三「子供の時間」。たくさんの子供たちが逆立ちをしている。それが集まってくると、不思議な迫力のようなものがあらわれる。逆立ちをした人間がたくさん集まるだけでシュールな気配が漂うから不思議である。周りは夜のようだ。親のいない時に子供たちが集まってこんな格好をしていると、実に変な気分になる。夜に猫が集まって会議をするというおとぎ話があるが、そんなイメージもある。通常の見方を逆転することによってあらわれてくるその問い掛けを、面白く子供を使って表現する。(高山淳)

 蛭田均「南仏の景光」。構図が面白い。画面の下辺からほとんど垂直に白いテーブルが向こうに続き、そのそばに人々が座っている。それに対して直角に南仏の建物群が、オレンジ色の色調の中に描かれている。このカフェの前は庭になっていて、黄色い光線によって染められている。昼下がりの穏やかな情景である。手前の人間たちのそれぞれの様子がよく表現されているが、ほとんどが日本人のようで、親密感があらわれる。女人たちを集めて、このような舞台をつくったのだろう。いずれにしても、人体のフォルムと構図の力に注目。(高山淳)

 金本啓子「着衣の女(厳島の水中花火)」。オレンジや赤い色彩が画面の中に大きく浮かび上がってきて、ダイナミックである。それが下方の青い水に映ってきらきらと輝いている。宮島の鳥居がごく小さく描かれて、心理学的な遠近感がつくられる。オレンジの色面は実はスカートで、その上にチャーミングな横顔を見せる若い女性の体がついている。この女性は海の上にかけられた紐の上に座っている。妖精的な女性。その輝くようなオレンジ色のスカートや、間に上がるたくさんの花火。そんな中に宮島の鳥居がある。神道的なイメージの力を引き寄せながら、独特の強いデフォルメがされているところが面白い。夜空に上がるたくさんの花火が描かれているが、その花火の一つが女性に変身したような、独特の汎神論的なイメージが感じられるのも興味深い。(高山淳)

 明山應義「ふたつの白い道」。鬱蒼と茂った森の中を道が続いて、途中で二つに分かれて、はるか向こうまで伸びていく。そんな自然を背景にして、老女と孫、男の子と女の子の二人を描く。二人の子供はこの中心の老女にしがみついている。母子像はたくさん描かれているが、あえて母の代わりに祖母を置いたことにより、より家族の代々伝わる連鎖というものがあらわになる。そういった強いモニュマン性を画面が獲得しているところが興味深い。(高山淳)

 小島隆三「行雲流水」。画面の真ん中に若い夫婦や友達が集まってギターを弾いたり、ビールを飲んだりしている。木のそばでは、母親のそばで子供がそのスカートを引っ張っている。右のほうでは上方を向いて祈っている女性がいる。樹木が立っているが、その緑の草の生えている空間は小さな狭い部屋のような雰囲気で中心に置かれ、左から右に光琳の紅白梅図屛風に出てくるあの波の文様のようなフォルムがあらわれてくる。その途中には子供を抱く母親とそのすこし大きな子供がいて、いわば聖母子像があらわれている。それに対して、右のほうに流れている水の上方は滝になっている。自然というものに対する尊敬の念。その自然をほとんど信仰のように扱ってきたところから日本の風景画があらわれたわけだが、その典型の琳派を自然の聖性に対するイメージとして扱いながら、平成の一つのファミリーがそこに描かれ、画家の深い祈りが感じられる。金を上方の空に使い、装飾性を中心としながら独特のイメージ、極端にいえば、われわれはどこから来てどこへ行くのかといった、そんな性質の問い掛けを画面の中につくっているところが面白い。(高山淳)

3階─1室

 熊沢淑「2012・風―Natural」。細長い長方形の茶色い支持体の上に麻布が吊るされている。その麻布はしわになり、中に同じ種類の糸の縫い目が幾重にも置かれている。布の上方から左下に流れる動きは独特で、いわば砂丘のようなものをそっとここに置いたような趣がある。そして、風によってしぜんと動きが変わるだろう。いま一人の人間がそっと立っているような趣もある。立っているのも、足を踏み締めているのではなく、すこし宙に浮いたようなかたちで立っている。そんな自然体の雰囲気がある。その人間の中には幾重にも様々な記憶が入っている。その記憶の群れがこの不思議な縫い目によって表現されているようだ。そして、すこししわになった部分があって、光の当たっている部分と暗い部分とがあらわれる。その陰影もまた独特で、人間のもつ陰影に近い。人間をほとんど自然の砂丘のようなイメージの中にそっと置いて表現する。砂丘の中に入っていくと、音は聞こえなくなるという。同時に、不思議な懐かしさもあらわれてくるという。そこにはきわめてピュアなものが存在する。砂丘のように人間をそっと置いたのだが、やはりそこに群がり起こる記憶があらわれてくるといった様子で、この作品にはそのようなイメージが鑑賞者の心に浸透してくるような魅力がある。(高山淳)

 伊藤茂擴「廃船の詩」。画面のすこし右側に太い二つの柱が立っている。それに対して横に柵のようなものが走っている。赤い部分は海のようだ。そこにしわしわになった不思議なフォルムが動いている。一年前の津波で崩壊し海に沈んだイメージを引き寄せようとするかのようだ。画面全体に深い気配がある。とくに赤を中心とした空間には閉塞されたような密度があり、それがそのまま深いレクイエムの感情につながるようだ。(高山淳)

 眞野眞理子「いつくしみとともに」。左側に三人の天使がいて、右側に七人の聖人たちがいる。その二つのグループがいま出会って、お互いに会話を交わしているようだ。平和な情景である。画面全体がモザイク状につくられていて、周りを樹木と葉が取り囲んでいる。それぞれのフォルムは図像的で力強い。モザイクのもつ質感を絵具でもってつくりながら、独特の親密で聖なる精神的な空間を表現する。(高山淳)

 間中敏子「想 '12─・」。六つのマネキンが画面の中心に置かれている。斜光線の中に静かに輝く。一人のマネキンには赤い帽子が掛けられている。夏の名残のようだ。両側に、筆者にはよくわからないが、中世の音楽を思わせる楽譜が置かれている。静かに瞑想しながら、時間というものの過ぎていく様子を敬虔に表現する。(高山淳)

3階─2室

 加藤鉦次「生々流転」。お祭りを描いたものだろう。三列のグループが神主さんと一緒に歩いている。旗がたなびいている。その後ろには四階建てぐらいの高さに思えるのだが、赤い櫓のようなフォルムがある。いちばん上にいるのはからくり人形のようだ。名古屋には玉屋庄兵衛という名人のからくり人形師がいて、このような祭りに使う人形をつくったことはよく知られている。名古屋の古いお祭り、当時の人々のイメージが画面の中に引き寄せられる。その回想のイメージが、このパッショネートな赤い空間を呼ぶ。その左側に不思議なフォルムがある。クリアに描かれていないからわからないが、なにかあやしいものが立ち上がってこちらに向かってくるような雰囲気である。赤いパッショネートなフォルムに対して、この空間はネガティヴな空間で、ブラックホールのようなイメージを感じる。いずれにしても、下方の人間たちもほとんど幽体のような存在で、現実にはすでに亡くなった人々がここに集合し、不思議なお祭りを行っているようなあやしい雰囲気に注目。(高山淳)

3階─3室

 中井英夫「come home」。だいぶ前に画家が妻を亡くして、強い喪失感の作品を描いた時期がある。この作品もそのイメージの延長線上にあるようだ。二階建ての家屋が中心に描かれているが、中は無人で、誰も住んでいないような雰囲気。そばの庭におもちゃの車や木馬やドラム缶などが置かれているが、それも廃棄されたもののように思われる。木の柵の入口があけられているが、柵も歪んで壊れている。「come home」という題名のように、家に帰ってきても、そこにはもう何もないといった雰囲気。その空しい虚の空間、心持ちを救うために、このようなお膳立てをこしらえたような雰囲気がある。空間が中心に向かって深く沈んでいくようなあやしさに注目。(高山淳)

 野村昭雄「花と街」。画家の視点は地面の上に立って見ているようで、それによってあらわれるパースペクティヴがナチュラルである。画面の下方三分の一ぐらいが野原で、そこに花が咲き乱れている。その向こうに街があり、白い建物群が続く。さらにその遠景には青くシルエットになった山が幾重にもつらなっている。山までが画面の約半分で、残り半分は空である。空にはピンク色の雲があり、あいだに青い空がのぞく。静かな雰囲気で、一つのパノラマを描く。面白いのは、ほとんど無風のようで、一つの空間がそのままそっくり切り取られたような雰囲気のあるところだ。(高山淳)

 有田守成「時間(変動 '12)」。銀色のレールがはるか向こうに続いている。画家は蒸気機関車の運転士をしていた時代がある。その頃運転席から見たレールがこの下方にあらわれているのだろう。ほとんど一般の人が経験しない、そんな経験を生かしながら、強いパースペクティヴの中にレールが広がっていく。考えてみると、こんなレールの上を走る運転士というのは、きわめて危険な仕事だと思う。そんなイメージがそのまま現代の不安感を引き寄せる。地平線から竜巻のような激しい渦巻く動きが、円弧を描きながら立ち上がってくる。その右のほうには怪物の顔を思わせるような姿がある。それは雲でできているのか、あるいは風によってこのようなあやしいものがあらわれたのか。いずれにしても、強いダイナミズムのなかにあらわれたフォルムで、どこか終末的な未来が迫りつつあるといった雰囲気を感じさせる。渾沌とした世界で、中に入ると、方向もわからなくなるような、そんな性質の怪物が上方に、一見雲の姿をしながら立ち上がってくる。非情な青い空がそのあいだにあり、それはそのまま大気圏を超えて宇宙のブラックホールのような空間につながっていくようだ。現代という時代の不安感を見事に象徴的に造形化する。(高山淳)

3階─4室

 杉野和子「潜」。巨木がまるで巨大な蛇のような、そんなイメージで画面の中にあらわれている。画面の中にあらわれたその幹は画面の上辺や下辺で切れて、またこの画面に入ってくるような、強いうねるような動きが魅力である。ところが、そこに管のようなものがつけられていて、よく人造人間の映画があるが、木の人造化のようなものがそこに与えられていてあやしい。あいだに青や白の蛾が飛んでいる。この作品は鉛筆による作品で、その集積によって独特の陰影があらわれている。長い樹齢をもつ木の命と人工的な機械とが連結しながら、どこか映像的なイメージも感じられるところが興味深い。(高山淳)

3階─5室

 田中直子「イチョウ-rising out-II」。絵画部賞。イチョウは日本の木の中でも最も古代からあるといわれている。樹齢千年を超えるものもあるそうだ。長い歳月を経たイチョウの木をテーマにして、幹から枝、梢にわたる様子をくっきりと描いている。冬が去り、春が来て、まだ芽吹いている頃の季節である。肖像彫刻と一緒で、このようなイチョウを発見するところがポイントになって、その対象自体の神々しさや力、生命力を画家はよく表現している。写実の力に好感をもつ。(高山淳)

 伊藤万几子「絵を貼った日―・」。上方のグレーの壁にヨーロッパの建物群を描いた絵がピンで貼られて、両側がすこし曲がっている。その下方に仰向けの人形や布などが積まれて、時計が宙に浮かび、三時十一分ほどを指している。この数字は、東日本大震災が起こった月、日である。そのときのイメージが再び絵の中に呼び戻されたのだろうか。もあもあとしたあやしい気配が画面に満ちている。対象と画家との距離はずいぶん近く、それぞれのものは画家のイメージによって不思議な形をなし、画面の中でうごめいている。とくに津波といった大自然の危機的な要素が進入してくると、なおさら物は画家と一緒になって危機感や虚無感を発揮するだろう。対象と画家とがほとんど重なりながら、深い情動やメッセージや感情を伝えるように描かれているところが面白い。(高山淳)

3階─6室

 豊澤めぐみ「革命イレイザー」。損保ジャパン美術財団賞。若い女性が向かい合っている。一人は座り、一人は立って、立っている少女はピストルを座っている女性の頭に向けている。劇画ふうなイメージを面白く描いている。テーマ自体のインパクト性によって作品の魅力が生まれる。(高山淳) 

 井内利彦「佇むもの(姫路港)」。岸壁のシーンである。鉄でできた大きなボックスが中心に置かれている。コンテナという言葉が浮かぶが、別の存在なのかもしれない。錆びていて、強い存在感を放つ。その触覚を最大限引き出すところに、この作品の魅力がある。(高山淳)

 藤田憲一「映写室」。昔ながらの映写室の内部が描かれているようだ。フィルムを手に持っている男。それを巻いて映写する機械を持っている男。プログラムという文字を眺めている女性もいる。右のほうにはアコーディオンやヴァイオリンやトランペットを演奏しているシルエットの小さな三人組がいる。いずれも映画のもつ楽しさを寓意化したものと思われる。それぞれの人物の配置も全体が浮遊していて、一種のメロディに沿って置かれているような趣である。そのメロディはすこしスローリーな曲のように感じられる。EXITと書かれた向こうに戸外が見え、そこに灯台が描かれているのが不思議である。それも映画のワンシーンのように感じられる懐かしさがあるところが興味深い。(高山淳)

3階─7室

 多養麻子「創造の楽園」。様々な植物が花をつけている。それが一瞬にして全体が弾け飛んでいるような、そういった衝撃的なシーンである。下方の丈の低い草花はそのままだが、丈の高い不思議な花をつけた植物がそのような有り様で、飛び散った瞬間が描かれている。持続している時間が断ち切られる。一種の暴力性ともいうべきものが魅力になっている。ユニークな感覚である。(高山淳)

 奥田善章「遊花(髪)」。ロットリングのようなものでハッチングし、あるいは長い線を連続させながら、太った女性が自分の髪の一部をいま切ろうとしているシーンである。左手に鋏を持ち、右手に伸びた髪の先を持っている。ボリューム感がある。そのボリューム感のある女性の胸と手の間に出来る空間が面白い。一種の母性的な力がそこにあらわれているのに対して、切断するというロゴス的な力があらわれ、その二つの性質が拮抗するところから出てくるイメージがユニークなのだろう。(高山淳)

3階─10室

 渡辺有葵「Fantastic Butterfly」。画面にあるムーヴマンが面白い。画家は蝶になって、この空間の中を動きながら、そこで見、感じたことをどんどん絵の中に描いていったような、そんな動きがある。画面がすこし揺れながら、樹木や鳥や人間のお祭り的なイメージが生き生きとあらわれる。(高山淳)

 高橋正樹「終焉と継承」。新会員。横板を遠景まで連続して間隔をおきながら置く。同時に、そこに垂直に立つ細いストライプ状の板を置く。あいだに矩形のフォルムができる。そこに蝶や卵や蜂の巣のようなフォルムなどが置かれている。一種の細胞的な連続性と同時に、それがそのまま止まって凍結されているような静止する動きと二つの要素が絡み合う。単なる標本的なものではなく、時間軸を入れたところが面白い。背景に海が描かれている。最近の津波のように、海自体のもつある圧倒的なイメージもこの時間のなかに引き寄せられて、イメージの内容を深くしている。(高山淳)

3階─11室

 板谷諭使「ヒトリシリトリ」。新作家賞。オレンジを帯びたグレーの色彩に不思議な安息感がある。テーブルの上に座って標本のようなものをいじっている眼鏡をかけた若い女性は、頭に猫の頭をかぶっている。そばに横向きに立っている女性は頭に鳥の頭をかぶっている。彼女は細い棒で下方の盥(たらい)にいる金魚を釣ろうとしている。金魚は盥の中だけでなく、上方に宙に浮いて泳いでいる。棒をもつ彼女の上下にその金魚が浮遊している。そばにはウーパールーパーがいる。画面の右端から貘のような生きものの頭が覗いている。理科の実験室のような空間の中に様々な生き物や標本がある心理的な関連のなかに描かれている。貘やウーパールーパーのように定義しがたいようなイメージを、画面の中に描こうとしているかのように思われる。イメージの転換を具体的な形象によって表現しているところに注目。(高山淳)

 田中亮平「ノスタルジィア ・」。昭和の時代の都市のようだ。ビルの屋上に洗濯物が干してあったり、家があり、車もある。その向こうには時計のある塔が伸びている。空には飛行船が浮かんでいる。下方には路面電車が走っている。そういった光景は日本のものか外国のものか定かでないが、いずれにしても、画家のイメージの中では親しいものであるに違いない。画面の下辺から二本の樹木が伸びてきて、上方に葉を茂らせている。このような情景を描くための想像力の触手が下方から幹として伸びてきて葉を茂らせたといった、そんな言葉も浮かぶ。ファンタジックでもあり、エキゾティックでもあり、しかも懐かしくもある不思議な街が鑑賞者を引き寄せる。(高山淳)

 松本直子「サマーホリディ」。すこし下方に大きな白いバスタブがある。そこに座っている女性。片足を突っ込んでいる女性。面白いことに、後ろには水着を着てフラフープを持つ女性や、波乗りの板を持つ少女もいる。柔らかな緑色のバックは海辺のイメージだろうか。海は描かれていないが、バスタブを描きながら少女たちを配するうちに、海岸のイメージが引き寄せられた。イメージの中には浮き輪やパラソルがあらわれてきたから、それを描いた。いずれにしても、社会生活の制約のなかから自由になって、イメージの中に人々を遊ばせようとする。中心をつくらず、オールオーバーにものを置きながら、そこに流れる時間のもつ独特の気儘な性質がこの作品の魅力だと思う。また、すこし沈んだ青い色調を背景にして、人間の肌が独特の黄金色ともいうべき色彩で輝いているように描かれているところも面白い。(高山淳)

3階─14室

 仲田道子「ラダー」。梯子に寄り掛かった割烹着姿の少女。少しデフォルメしたクリアなかたちが魅力である。紐が梯子に掛けられて、砂時計と目覚まし時計が吊るされている。梯子というのは、イメージの中の小道具としてなかなか面白い効果をあげる。探究することや別の世界に向かうメディアのような存在として。クリアなフォルムによって、そのミステリアスな意味を問うようなテーマが面白く、象徴的に描かれる。(高山淳)

 青山幸代「夢音調律師」。少女の胸に金魚や一角獣、豚、人形、タコ、赤子、ライオン、花、ピストル、実に様々なものがごく小さく微細に描かれている。それがすべてこの少女を装飾するものである。下方には空気の上に薔薇やキャベツのような花が咲き、象が上を向いている。女性のもつ、あるいは画家のもつ好きなものをすべて集合させて、絵としての自分の空間をつくる。それは自分の部屋を飾るのと全く同様の性質のようだ。そのパッションから独特の香りのようなものがあらわれてくる。(高山淳)

 名執光子「おでかけ」。三冊の本を積んだ上に少女が立っている。莵のお面をかぶり、赤い翼を生やして、ピンクの手袋とハンドバッグを持っている。そばに犬がいる。ファンタジーの世界にこれから出向こうとするかのようだ。物語の序章のようなイメージを面白く表現する。(高山淳)

3階─17室

 郡桂子「遺跡と人と」。画家はオマーンの砂漠の風景を長く描いてきた。画面の中ほどに白い素朴な石造りと思われる建物がある。そばに二人の女性。すこし距離をおいて三人の男性が立っている。風が吹き、砂が動いている。なにか懐かしい光景が描かれている。昔行った光景から、だんだん余分なものが脱落し、建物と人間だけが画面の中に浮かび上がり、周りの黄金色の砂漠が揺れているような、そんなアンティームな雰囲気である。見ていると、画家の心の中からだんだん風景が遠ざかっていきながら、それを引き戻して描いたような不思議な動きが感じられる。(高山淳)

 大上美智子「風葬(A)」。遠景には山があり、そのそばに粗末な民家がいくつか立っている。その手前は青と黄土色の何層にもわたるフォルムで、右肩あがりになっている。畦道と水の流れを象徴しているようだ。そこに鳥があらわれる。「風葬」という題名であるが、現実とその向こうにある異界とも言うべきものがともに画面にあらわれて、もわもわとした空間をつくっている。そこに鳥が魂の象徴のように飛んだり地面に下りてきたりしてきている。黄色系の色彩と青系の色彩、二色を中心に揺れるようなコンポジションをつくる。(高山淳)

 大道寺里子「いつしか時は―1」。トウモロコシの葉が、大小とりまぜて、遠近感に従って集積している様子が力強く描かれている。風がすこし吹いているようで、それによって葉も様々な方向を向いている。風に翻りながらその長い葉を伸ばした形が、このようなかたちで動いていくと、渾沌としたなかにそのいちばん遠景の先に何があるかといった、そんなイメージも浮かんでくる。渾沌とした現実と未来のイメージがしぜんと作品から伝わってくる。(高山淳)

 渡辺幸子「命 ・」。高層ビルが立ち並び、あいだにハイウェイがカーヴしながら続いている。そんなシーンの上に三つの影が動いている。乳母車である。暗い緑がかったグレーの三つの乳母車の影をこの都市空間の上に捺す。乳母車にいる幼児の未来は決して明るくないというメッセージがしぜんと伝わってくる。ドライな都市空間の中にそのような感情が影のように映る。(高山淳)

3階─19室

 石川由子「何処へ」。上方から俯瞰している。いろいろな屋上が見える。たくさんの人々がそこにいる。その下には窓の中にいる人々。あるいは橋の上を歩く人。さらにその下には街や道路が見える。複雑な空間がまるでコラージュするように画面の中に集められ、それを独特のイメージの中に統合する。数えてみると、おそらく数百人の人々がこの絵の中に描かれているようだ。それぞれの人々がそれぞれの時間のなかにそれぞれの場所にいる。その異なる時空間をたくさん集めることによって、きわめて人間的でヴァイタルなイメージがあらわれる。視点も面白いし、そういった人間に対する接近する力に注目。(高山淳)

 八重樫眞一「雨の通りで」。近景に椅子と小さなキャンバスの架けられた小さなイーゼルがある。後ろは道で、雨が降っている。濡れた道は向こうの建物を映している。背景には雪山が見える。荒唐無稽なシーンのようだが、現実感がある。絵を描きながらアトリエの壁を壊して、一挙に戸外の現実をそこに引き寄せたような、そんなヴィヴィッドな力が魅力である。(高山淳)

3階─20室

 河島鏡子「遠い日 ・」。フローリングの床に毛足の長い絨毯が置かれ、そこに関節人形が横になっている。あいだに真紅の薔薇の花がたくさん置かれている。薔薇の赤以外はすべてモノトーンである。モノトーンであるが、独特の色彩、あるいは香りを感じさせるところが面白い。空間の中の密度が高く、その密度によってエロティシズムともいうべき官能性が濃厚にあらわれ、それによって香りが発生するのだろうか。「遠い日」という題名を見ると、回想シーンのように思われる。人形の足のあたりに小さな鏡があって、それが画面の中のハイライトになっている。過去と未来の間にあるマジックのような存在なのだろうか。(高山淳)

3階─21室

 鈴木喜美子「―足尾の今・2012―」。足尾銅山が廃坑になって長いが、その様子を長く描いてきた。ほとんど銅山の跡はなく、二つの入口の柱のようなものと、その上にかぶさっているもの、下の石段らしきものが後ろのコンクリートと思われる基礎の前に立っている。そして、影をその基礎に与えている。手前も地面だけで、やはりコンクリートの跡のようなものの窪みがある。背後は山である。黄土色からグレーにわたる色彩によってしんしんとした気配があらわれる。何もないものを描きながら、画家の精神というものがそこに反映されて、不思議な力を発揮する。そういえば、前述した柱のそばに小さな丈の低いミラーがあるのも面白い。「夏草や兵どもが夢の跡」という句は芭蕉だが、人間の計り知れない営為の跡を描きながら、画家自身もまた時間というもの、あるいは自分自身の過去や現在にも思いを馳せながらこの空間を描いたような、独特のイメージの力が画面から立ち上がってくる。(高山淳)

 伊藤康夫「ARCADIA〈光芒〉」。ベッドに横になった若い母親らしき女性。その向こうには背中を見せるもう一人の女性がいる。ベッドの手前に、椅子に体を投げかけて、顔を両腕の中に埋めた男性らしき人がいる。あまり芳しくない未来が見えているなかに日が当たり、今日というひとときを静かに照らしているような不思議な雰囲気が感じられる。とくに中心の肘で上体を立てた女性のフォルムなどはクリアで、どこか彫刻を思わせるような魅力が感じられる。それはそれぞれのフォルムのある部分、たとえば手前の男の指の表情などもそうで、そのようなクリアなフォルムが連続しながら独特のリズムをつくる。それ以上に柔らかな光というものが、一種の物質感をもって表現されているところが魅力であるが、その平和な感じを取り巻く不吉な時間が迫っているようなスリリングな気配もまた興味深い。(高山淳)

 一居弘美「Seeds」。タンポポの綿毛は一つひとつにそれぞれ種がついている。綿毛が飛ぶことは種が四方八方に広がる自然の生殖作業なのである。そんな様子が美しくファンタジックに描かれている。綿毛がきらきらと光る。まだ飛んでない綿毛は球形の中に星が集まったような雰囲気である。そして、一つひとつの綿毛が旅をしながら種を運ぶ。そんな綿毛の空間と時間性とその性質が、捉えられているところに注目。(高山淳)

 手嶋醇子「或る日のテーブル」。静物のそれぞれのものを通して心象風景をつくる。遠景のテーブルが楕円状になって、すこし傾いている上に白いピッチャーや瓶やカップや人形や南瓜が置かれているが、それはすこし浮いているようだ。下方から葱の先が緑の四本の鋭いフォルムをもって立ち上がってくる。すこしの力でも葱は変形するような繊細な趣である。湿度や温度によって人の気持ちはすぐ変わるが、そんな危うい人の心を静物を使いながら歌っている趣。バックに樹木の上の葉の塊が、もこもことした雲のような雰囲気であらわれている。黄土色のカーテンが翻る。そのしっとりとした感じとすこしメランコリックな雰囲気も画面全体の調子を決める要因だろう。清潔な楕円の白いテーブルと白いピッチャーが上品で、毅然とした美意識も感じられる。(高山淳)

 島橋宗文「田園譜―大地の形象」。ほとんど幾何学的な形の組み合わせになっているが、力強いコンポジションである。月光が差しているようだ。これまでは昼の世界で、青や黒や緑が強く構成されていたが、この大地の形象を見ると、柔らかな月の光がポイントとなっているように感じられる。そして、上方の緑の部分は海のようだ。画家は三重県の山の中のすこし入ったところにアトリエを構えているそうだが、伊勢湾のイメージは常にあるのだろう。それが後ろにあらわれてきたといった印象をもつ。山があり、地面があり、斜面があり、家があり、といったものをある塊として捉え、それを抽象的なフォルムの組み合わせの中に表現している。しかし、その強いコンポジションは月の光によって柔らかくなり、瞑想的なものがあらわれてくる。とくに下方の黒による大胆な色面の中にベージュの直線と曲線を組み合わせたフォルムがあるのは、なにか艶めかしい。人の心の中にある柔らかなもの、端的にいうときわめて女性的な乳房やお尻のフォルムを連想するような、そんな艶めかしさがあらわれているのも面白く思われる。円弧がいくつも使われているが、その円弧は連続の中に捉えられて、連続することにより空間の奥行きや動きがあらわれてくる。そしてまた、そこにエネルギーがあらわれ、自然のもつ強い気配があらわれてくる。その円弧が上方の緑の部分から青い部分、黒い部分、あるいは先ほどのベージュの部分と繰り返されている。それによって大きな空間が中心に取り込まれる。そこに独特の曼陀羅ふうな力があらわれる。それに対して上方に水平線があらわれ、海というもう一つのエネルギー、力がそれに対置される。そのすべてを満月が柔らかく染めているといった趣で、見事な郷里のコンポジションになっていると思う。先ほどのベージュの部分から左右下に行く円弧や直線のフォルムを見ると、人が寝ているような雰囲気もある。それは作者が意図したものではなく、抽象形態の組み合わせがしぜんとそのようなイメージを醸し出すのだろう。(高山淳)

 新保甚平「水光る」。新保甚平は水をテーマにした作品を二点出品。いずれもそこにきらきらとした光が映っていて、瑞々しい。「水光る」は、画面の約三分の二以上を水が占めている。畦道があるから、水田で、稲を刈ったあとに水がたまった様子。それが向こうの樹木を映している。水の底に地面や刈られた稲株などが見える。この水を眺めている画家の視線が面白い。水の中に入って、もう一つの世界をそこに眺めているような不思議な雰囲気がある。もともと優れた写実力のある画家であるが、その写実の方向性が水を通して幻想感を引き寄せた。その上に光る水の様子は、なにか瞑想の同伴者のような趣である。(高山淳)

3階─22室

 鶴山好一「風屋―2012」。建物がほとんど壊れて、煉瓦造りの壁だけが残っている。その前に廃棄されたトラックやオイルタンクなどがある。そばにやはり壊れた風車がある。集められたものは、いってみれば昭和のものたちで、壊れたもののモニュマンのように表現している。記憶の中にあるものたちをこれだけ集めるためには、強い愛情が必要だろう。その愛情が独特の温かな雰囲気を画面に与えている。時のモニュマンと言ってよい。(高山淳)

 辻井久子「栖の静物 2012―・」。画面の中がきらきらと輝いている。樹木が半分に切断されて立っている。木の葉が大きく画面の中にいくつも描かれ、お互いに絡み合って、風を巻き込んでいる。そんな中にトンボが飛んでいる。下方に水が流れている。上方にはきらきらとした水と青い空とが重なるイメージがあらわれる。白が清潔感と同時に強いマチエールをもってあらわれている。風と光と植物とが組み合いながら命をうたう。(高山淳)

 河村雅文「理科室」。上方に五つのクワガタムシが標本として置かれている。このように拡大してみると、それぞれ微妙に異なっていて面白い。下方に森が描かれている。その森の中にこれらの虫が棲息しているのだろう。下方にテーブルがあり、五つの瓶が蜃気楼のように立ち、中に一つホオズキの入っているものがある。自然というもののもつ気配を面白く構成する。(高山淳)

〈彫刻室〉

 松本弘司「海に聞く」・「風に聞く」。新作家賞。生命の尊さを伝えようとする、松本が作品に込めた思いがストレートに伝わってくる。楠をダイナミックに彫って、子を抱く母を象徴的に表現した「大地」と、レクイエムの表現のような「海に聞く」「風に聞く」。作品全体から波の音が静かに聞こえてくるような風景彫刻が現出している。(小森佳代子) 

 日比野知三「墜落の構図─溶けた蠟の翼─」。宙に浮いたような、どこか不思議なフォルムの男性がFRPに着色で表現されている。ギリシャ神話のイカロスの姿を借りて、人間のおごりに対する警告を表現したのだという。調子にのって太陽に近づいて羽根をとめた蠟が溶けてしまった光景を、金色ではらはらと表現している。胴まわりの動きを強調することで、不思議なリアリティが表れていて興味深い。(小森佳代子)

 江村忠彦「春の唄」。新作家賞。乾漆による作品二点を出品。掲出した「春の唄」の大胆で詩情溢れるフォルムとマチエール、どこか軽妙な心地よさのある「祝福」、いずれにも注目した。今後の可能性を感じさせる見応えある作品である。(小森佳代子)

 ゼロ・ヒガシダ「INOCHI 勇姿」。新作家賞。ステンレスを溶接し、部分的にはブロンズを貼り、自然なグラデーションをつけるという仕事ぶりに敬服する。その微妙なグラデーションや風合いは作品に輝きをもたらす。逞しいフォルムは、ミケランジェロのダビデ像からのイメージだというが、根源的な生命の尊さが表現されているように思う。(小森佳代子)

 奥田真澄「小さな翼の歌」。夢想するように横たわる女性がテラコッタで表現されているが、どこか雅やかな趣である。スカート部分には色とりどりの明るい色彩が置かれ、心の声を表現している。それが胸元に置いた手と呼応しているようで、まるで小さな歌を口ずさんでいるような、イメージの世界が現出している。(小森佳代子)

 杉山惣二「『女』、か、'12」。ブルーの衣裳が鮮烈なテラコッタによる女性像である。見る角度によってずいぶん体の傾きが異なってみえる。どことなく謎めいた雰囲気もあるが、穏やかな詩情とともにシュールさも湛えているところが興味深い。(小森佳代子)

 一色邦彦「宇宙・界・地」。星雲にのった女性の頭上には鳥が羽ばたこうとしている。宇宙と自然、そして人間との共生を具象表現で追求してきた。今回はすっくと立つ女性が未来を見据えるかのように力強い姿で表現されている。自然界に宿る命の尊さをメッセージしている。

 大国丈夫「包み込む形」。カーヴしながらU字形のフォルムをつくった金属造形である。抽象であるが、毅然とした精神の力が形をなしたような強さがある。(高山淳)

 笹戸千津子「パーマの女」。凜とした女性立像の「颯」と首の作品「パーマの女」の2点を出品。たしかな描写力に裏づけられた人物表現である。しっかりと前を見据えた顔に、女性の内面性が表現されている。(小森佳代子)

 山本正道「こだま '12」。グレーの大理石のしっとりとしたキメ細かな柔らかなマチエールをよく生かしている。木のあいだに妖精的な人間がいて、横笛を持っている。周りにアーチ状に空間ができて、両側が木のようなフォルムであるが、向かって右の木は右前方にカットされた枝の跡がある。向かって左は、向こう側のほうに向かって、カットされた枝の突起がある。その二つの呼応するイメージが実にこのタイトルの「こだま」のイメージと重なる。その二つの、いわば独特の柔らかな結界の中にこの人間は立っている。まるで音楽のメロディがそのまま造形化されたような魅力である。(高山淳)

 北郷悟「いざなぎいざなみ」。高さ二メートルにも及ぶブロンズの大作である。寄り添う男女の姿は厚みがあり、まるで山のような趣である。男性の方は北郷の故郷・いわきの中田古墳の壁画の三角文様が金で施されている。一方女性の衣裳は、緑青色で雨のような、あるいは水の循環のようなイメージの表現となっている。東日本大震災による犠牲者の鎮魂と、震災からの復興を願っての象徴的な力作といえる。(小森佳代子)

 田中実「起き上がり小法師」。今回は二百七十センチもの高さの木彫作品である。上に上に伸びるような不思議なバランスと空間の表現である。羽根をつけたようなユーモラスなフォルム、上に行くにつれてのリズミカルな動きは田中の独壇場である。それでいてどこかとぼけたような雰囲気を醸し出しているところが楽しい。(小森佳代子)

 澄川喜一「そりのあるかたち 2012」。今回は欅による作品である。凜とした佇まい、そして四方柾の木目の美しさにも惚れ惚れとする。日本建築の美学を活かし、自然の中で、洗練されたそりの姿が息づいているようである。一見シンメトリーで対に合わせたようなフォルム、上方をよく見ると薄く切り取られていて、多角形が現出し、より量感を湛えている。シャープさと優美さを兼ね備えた、このシリーズで最も出色の一点だと思う。(小森佳代子)

 山縣壽夫「遺された時─24」。先人達が遺したものと大地との接点に魅かれるという山縣。木彫によるシンプルな構成の「遺された時」シリーズの一点である。今回はところどころに銀が確かな痕跡のように入れられ、時間につれて変容する象徴のようなイメージが現出している。(小森佳代子)

 加藤昭男「『富士』佐藤秀樹氏像」。オーラをはなったような男性の胸像。富士山が表現された巻物を手にした、イメージ豊かな作品である。右手を強調する表現で、ディテールも豊かに表し、佐藤秀樹というモデルを超えて普遍性を獲得している。(小森佳代子)

 石松豊秋「3つの弦」。寄せ木と金色、ところどころ青みを帯びた面の変化が、まるで揺れ動く心模様を、あるいは音楽の旋律を描いているような美しい作品である。三つの弦のある不思議な楽器と、グラデーションのように表現されている三つの顔との対照が興味深い。作品全体から、美しい旋律が聞こえてくるような幸福感が生まれている。(小森佳代子)

 人見崇子「新芽」。新会員。木という素材を活かして有機的な表現を続けてきた人見。今回は植物の芽を思わせるが、どこか不思議さがある。木そのものの味わいに、どこか素朴な趣が加わって生命感が伝わってくる。(小森佳代子)

 中島幹夫「波の目」。御影石で海の波を表現した中に、ぽっこりとガラスが置かれていて哀愁感が漂っている。卵型で表現されたガラスの中には彫って磨く時の小さな陶片が入れられている。下から覗くと大きな目のようなフォルムが現出するという演出である。石とガラスのロマンティックな表現として興味深い。(小森佳代子)

 五十嵐芳三「クロスするメビウスの環」。二つのメビウスの環を組み合わせたものである。その表面を追っていくと、裏側に続いていく。その無限運動のような形が作者をインスパイアしてきた。その二つが絡まると、世界全体の面をそのままそこに閉じ込めるようなイメージがあらわれる。石膏の一センチぐらいの厚さの板が清潔な輝きをみせる。世界観を表す抽象彫刻として興味深い。(高山淳)

 雨宮透「讃(サン)・2012」。十数年ぶりの石膏作品である。会場の白い壁にすっかり馴染む雰囲気で、作品全体が醸し出す淡いトーンが印象的である。深遠をイメージするような顔や目の表情が魅力的である。コスチュームの凹凸ができる限り抑えられていて、胸のあたりの手の表情が豊かである。何か大切なものを摑もうとしているのだろうか。爽やかな空気に包まれているような柔らかさである。(小森佳代子)

 片伯部平「オルガン 17-POINT TRIANGLE ÉQUILATÉRAL-」。ヨーロッパの遺跡の風景を見ているような趣のオルガンシリーズを表現して十七年になるという。今回は前後に四角い穴が、長辺の左右には三角形の穴が空けられている。その三角形の穴を覗くと、光の反射で万華鏡のような世界が現出していることに気づく。この輝くような表現を石彫で成すということは類がないであろう。空間を彫刻するということの意味を思う。(小森佳代子)

 市川悦也「wake」。高さ百六十センチほどの柱のような堂々とした佇まいの木彫作品である。穴があけられ、カーヴするように削られた部分に黒漆が施されていて、自然のエネルギーを発しているような趣である。いわば人類の軌跡ともいうべき力強い表現となっていて、単純化されたフォルムと色彩が清々しい。(小森佳代子)

 上野良隆「l・o・o・p」。ループとは円環、繫がる、循環するという意味であるが、下方に女性のフォルムが両手を広げて、その掌に男の両足を支えている。一周すると、それが正面のように筆者には思えるのだが、女性の頭は磨かれた紡錘状のフォルムになっていて、男のほうのフォルムは胸の上で切断されている。二つの蛙が戯れているような不思議な雰囲気である。月をテーマにした連作が続いてきたが、これも月というもののもつイリュージョンの一つだろうか。人体というものをどんどん崩して、不思議な曲面の二つのフォルムが手と足でつながるというユニークなリズムをつくりだした。これまで直線の鳥の長い足に腐蝕し浸透していくような不思議な形があったが、この作品は逆にすべてが曲面で丸く、そして中心は磨いている。中心の胸や頭の銀色に輝くフォルムは、そのまま月のイメージと重なるものがある。月のもつ暦、日本はもともと陰暦で、月の満ち欠けによって暦をつくっていたが、月のイメージのなかで遊んでいるような雰囲気がある。蛙と言ったが、月の光のなかで田圃に蛙がたくさん集まって踊っているような、そんな楽しさも感じられる。(高山淳)

 高野正晃「太陽のあたる場所」。家族の素朴な表現である。いずれもやや上方を向き、その眼差しは力強い。風雪に耐えているような逞しさ、あるいはどこかユーモラスな雰囲気もあるが、未来への希望をこの家族に託しているように思う。(小森佳代子)

 浮田麻木「月光」。宗達に子犬を描いた名作があるが、それと似たような豊かなエネルギーとかわいらしさを感じる。一見すると、狛犬のような象徴的なイメージも、この木彫の中に入れられているように感じられる。ロマネスク彫刻に通ずるような、ゆったりとした精神的な命の力を木の中に作家は発見したのだろう。(高山淳)

 照井榮「山の鬼神さま」。今回も山の表現のような石彫に朱い神様のお印のアクセントが施された作品である。くっきりした顔のディテールに対しておだやかに瞑目したような表情、それは山の鬼神様のイメージなのであろう。どこか北国の風景と人物が昇華されたような、オマージュ的な作品に仕上がっているようにも見える。(小森佳代子)

 平山隆也「アイの胸像」。端正な女性の胸像である。きりりとした女性の眼差しが心地よい緊張感を生み出している。首筋から胸まわりにかけて大きく肌をみせる表現と、まわりの空間とのバランスに風情がある。(小森佳代子)

 橋本裕臣「雲の柱と 12─・」。テラコッタによって、雲と人間の関係を時間軸によって表現するシリーズである。今回は雲の柱が空に向かって非常に薄くのびやかに表現されていて、独特のトーンを感じさせる。その雲に吸い寄せられるような女性の表現は、デッサンをしているような趣である。無重力に浮遊しているような心地よさとともに、不思議な空間が生まれている。着色のベンガラ色はどこか懐かしさを湛え、見る者のイメージをかき立ててくれる。(小森佳代子)

 喜名盛勝「散歩道」。母と子供の豚が愛らしい。砂岩と思われるが、自然の石の中に形をみいだしたような面白さがある。つまり、ある客体としての豚があり、それを写実的に彫刻として再現するのではなく、一つの石の塊の中に豚のイメージを発見し、それを彫り進めた強さがある。中国の西安に自然石を彫り出した馬などの動物の彫刻があるが、それと似たような力が感じられる。沖縄の作家であるが、明るい日差しの平和なイメージが漂う。同時に独特のボリューム感があり、立体造形としてのエネルギーが内側からじわじわと外側に放射してくるような力が魅力。(高山淳)

 鳥原正敏「memoir」。鳥原ならではの詩情溢れる世界である。シンプルな台座と棚の中にテラコッタで制作された小さな家が点在するように置かれている。いずれも素朴で、一つ一つ、丁寧に彩色されていて、その数だけパーソナリティがある。いずれか、自分のお気に入りを見つけて眺めていると、やがて物語が浮かび上がってくる。(小森佳代子) 

〈野外彫刻〉

 青木三四郎「friends」。いつもながらの素朴な手彫りによる石彫作品である。実物大に表現された二羽のカラスと呼応するように羊が彫られている。やや抽象的なかたまりのように表現されている羊がなんとも愛らしく、心和む情景となって見る者を癒す。(小森佳代子)

 市川壮途「園」。新作家賞。気の遠くなるような大理石の丸彫りによる作品である。どこか中国・清朝の工芸世界を見るような趣である。ディテールも実に面白い。花園のなかで、母が娘に本を読み聞かせている。徹底的な装飾を表現することによって独特の世界観を獲得しているところが興味深い。(小森佳代子) 

 渡辺隆根「生きものの海 ・、切り込まれた形・洞」。渡辺隆根が急死して、たいへん残念である。享年七十三歳という。二点の過去の作品が出品された。一九九七年、いまから十五年前の「切り込まれた形・洞」を見ると、石の中を菱形に切り込んで、手前をあけている。強い祈りのイメージである。奈良にある石舞台は、石を積んで、深い感情をそこに与えたものだが。そんなエネルギー、同じようなイメージがこの作品から感じられる。また、一九六九年だから、いまから四十三年前、三十歳の時の「生きものの海 ・」は、海という膨大な肉体とエネルギーをもったものを、こんな不思議な形につくった面白さ。渡辺にとって彫刻はエネルギーをどう形にするかということが課題であったと思われる。御影の自然石の上に置かれた長い鼻をもったような不思議な抽象形態はミステリアスで、たしかに命というもののもつ力を彫っていると思う。「洞」の抽象的な想念に対して、もっとなまなましいものがこの三十歳の時のフォルムには感じられて、懐かしい。いずれにしても、優れた彫刻家であった。合掌。(高山淳)

〈スペースデザイン室〉

 片岡葉子「CIRCLE-B 2012」。ブルーを基調とした、雫のようなフォルムの重奏が軽やかで美しい。素材を活かして不思議な浮遊感とリズムが生まれている。鑑賞者に囁くような心地よさが魅力である。(小森佳代子)

 二井進「守り人」。二つの台座をまたぐように、フォルムが置かれ、その間は赤や黒で軌跡のような表現がされている。台座の上面は鏡のように周りの事物を映し出す。二つの島の架け橋のようにも見えるし、人々の絆のようにも思えるし、様々なイメージを発信しているところが興味深い。(小森佳代子)

第67回行動展

(9月19日~10月1日/国立新美術館)

文/高山淳

1室

 汐月顕「Termini」。テルミニとは終着駅という意味である。ベージュの壁のような空間に横文字や数字がスタンプで押したように描かれている。2という数字が浮かび上がってくる。文字は白い部分に黒く浮き出すように描かれていて、なにか心の歴史のシャドーのような趣もある。ベージュの空間に道のようなフォルムが左右にわたって置かれている。時間の亀裂のようなイメージもあって面白い。

 斎藤幸子「☆1208★again☆」。宇宙空間の中を放物線を描いて黄色いフォルムが動いている。近景に、中景に、遠景に、暗いディープな青い空間を背景にして、その軌跡は魂の動きのように感じられる。それに対して、下方から左上方に赤い炎が立ちのぼっている。まるで夜の炎のように感じられる。たとえば能にも薪能があって、夜、かがり火の中で演じられるが、そのような性質の赤のように感じられる。それは黄色い軌跡を背後から支えている存在のように思われる。そして、赤は左側になるに従ってすこしずつ褪せてきて、その背後にコバルト系の明るい青があらわれてくる。夜もやがて後退し、朝が来る。時間の循環さえもこの空間の中には表現されているようだ。いわば時空間のドラマとその中にある命の輝きを表現する。根底には一種の無常観も感じられる。

 土屋豊「TENSION-12」。円形の板を二枚重ねたようなフォルムである。それを黒い長方形の色面が囲み、その外側は円形の中と同じ色調。ところどころ穴があき、そこから針金のような円弧があらわれる。また、円の中心に小さな杭があって、そこから円周に向かって直線の針金のようなフォルムが伸びていて、それは緊張を表す。緊張とジャンプするもの。緩急のなかにこの空間が表現される。じっと見ていると、円弧は時間の連続の中に起きているようで、脳の中のイメージが断続的に起きる様子を空間化したような面白さもある。また、矩形の空間に囲まれていて、一種の閉塞感もあって、ドライな都市空間の中に生きている人間の息の様子やイメージの様子を象徴化しているようにも感じられる。

 根本忠緒「WORK 1271 NORTHEAST」。いままで縦長の画面の中に直線のフォルムが連続していたが、今回は縦長の画面に左右に傾いたストライプが重層的にあらわれている。ストライプの幅もそれぞれで、オーレオリン系の色彩から暗い黄土、茶褐色、赤などの色彩がそこに与えられている。菱形の花吹雪のようなものが画面全体に散っている。下方に満月が現れているように感じられるが、その背後に太陽の赤い色彩が重ねられている。月と太陽とのあいだはすこしずれて、オレンジ色の繊月のようなフォルムが浮かび上がる。画家のつくりだした日月屛風の趣もある。あるいは、仏教音楽の声明のメロディが聞こえてくるようでもある。深い音楽が画面の中に鳴っている。ノースイーストという題名を見ると、東北をあらわし東日本大震災から一年以上たつが、その悲惨な出来事に対するレクイエムの心持ちが画面の中心にあるのだろう。淡いブルーの背景が懐かしい。夕方になって、まだ昼のうちに昇った月のような朧なフォルムと、夕方を思わせるような赤からオレンジ色にわたる太陽とが重ねられているのも、なにか不思議な雰囲気である。実際、現在太陽暦であるが、かつて日本は陰暦で月の暦であったから、二つの存在が重ねられてあらわれてくるのも、ごくしぜんな思いに誘われる。深い感情と瞑想のなかに入っていくと、そのような象徴を画面の中に引き寄せることも頷ける。

 柳原雅「乾いた風」。グレーのひんやりとした背景の上に、黒い線や連続する円弧やジグザグ形のフォルム、たらしこみ、滲み出るような足跡のようなフォルムなどが、ところどころ入れられている。画面の上方に二つの大きなストライプがあらわれている。黒と緑がかった暗い調子のフォルムである。その先がなくなっているから、ある事件を予測させる。なにかが中断したこと、それに対する様々な思いがその周りの空間の中に、前述した線やたらし込みふうなフォルムによってあらわれているようだ。日常とそこに起きた事件というものを独特のノンシャランな雰囲気のなかにピュアに表現する。

 戸田あや子「ひろがりの空間」。不定型の中を、不定の四角でくり抜いたような暗い青みがかったグレーのフォルムが動いていく。その上を白い線による輪郭線のようなフォルムが動いていく。時が流れていくなかに自己を解放して物思いにふけっているような、そんなイメージが懐かしい。時間というものの過ぎていくその移ろいのなかに身を横たえて、自分自身と自然とを一体化させながらこのような抽象空間が生まれたのだろう。

 髙井道夫「海の空」。「海の空」という題名も不思議である。海が荒れて動いているようなフォルムがあり、そこに白い不思議なフォルムが重ねられている。白いフォルムの上には足跡のような形がたくさん入れられている。この作品もまた一年前の津波に対する深いレクイエムの心持ちからインスパイアされたように感じられる。足跡は人間の跡のように思われる。囲まれた三角形のグレーの空間は死の海で、激しく波立って視界が見えないような雰囲気。そして、左上方と右下方に白い鳥が飛んでいるのは、魂を癒すようなイメージなのである。

3室

 桜井忠彦「流転 '12─9─1」。横長の画面に波を思わせるようなフォルムや水平のストライプなどのフォルムが上下に幾重にも重なっている。その中に無数の大小の円弧が浮遊し、上方に立ちのぼっていく。その円弧は霊魂のようなイメージである。深いレクイエムの心持ちを画面の中にうたう。

4室

 松本貴代美「循環 2」。和紙の上に墨の作品。画面のほぼ真ん中に、笹の葉のようなフォルムを濃淡の中にたくさん集めたコンポジションがある。バックの紙の色とその墨色とが生き生きとしたコントラストをなす。右のほうには大小のフリーハンドの輪が浮遊している様子が描かれている。バックは漆黒である。笹の葉のようなものは身体で、輪のようなものは心とか魂のような存在で、二つがお互いに連携しながら一つの世界をかたちづくっているといった、そんなイメージも感じる。いずれにしても、墨色の美しさとリズムに注目。

5室

 黑田恵子「希求 12─13」。不思議な植物のようなフォルムが上方に立ちのぼっていく。画家のつくりだしたネットでつくられたフォルムである。中には卵のようなものや血管のようなものが入っている。あるいは、紫色の炎のような葉が上方に伸びていくところもある。バックの柔らかなグレーから黄土にわたる透明な空間の中に、フォルムは透明感をもちながら上方に立ちのぼっていく。優しい女性的なイメージである。しかし、弱くもない。強い生命感が感じられる。何かを育みながら、その触手を伸ばしていく、そんなイメージが面白く表現されている。

 中田幸夫「森の音」。水の中から樹木が立ち上がっている。太いものもあれば細いものもある。微妙なカーヴをして立ち上がっていき、遠景では灰白色の霧のような空間の中に溶け込んでいく。水から上方に立ち上がっていく動きは、命を表すのだろうか。森というもののもつ気配を柔らかく強く表現する。

 滝川英明「青の迷宮 22630」。青紫色の背景の上にベージュや灰白色によって厚い壁のようなマチエールができ、そこに引っ搔いたようなフォルムで有機的な形があらわれている。そして、刻々と時間が過ぎると同時にフォルムも変化していくようだ。つまり、絵の中に描かれているフォルムは生きていて、じわじわと絵の中で動いていくような、そんなムーヴマンがこの作品の魅力だと思う。とくに中心のベージュの中にあるフォルムは指のような部分もあるし、触手が伸びていくような独特の強さが感じられる。右上方には植物を思わせるようなイメージもあらわれている。また、青い無限の空間の中に命が線描のフォルムとなってあらわれ、その青い空間の内部に入っていこうとするような様子もある。パウル・クレーは内界の現実を描こうとしたそうだが、この作品も目に見えない命の働きを絵画化しようとする試みとして興味深い。

 赤穂多恵子「空の鳥・地の花」。緑の衣装を着た女性が座っている。横を向いている。顔から胸、手などの肌の色彩が、ある熱をもった雰囲気で生きた体温を表すようだ。服装の緑はそのまま植物のイメージと重なり、周りの大きな花と連携していく。漆黒の空に二羽の白い鳥が飛んでいる。そばには天の川を思わせるような青地に金の星雲もあらわれる。空と大地、そして植物、そういった日本人の身近で親しいものを集めながら、命をうたう。

6室

 大鷹進「太古、海より出でて、そして」。画面の真ん中にネットでできたホオズキのようなフォルムがあり、中に生まれたばかりの赤子が上方を向いて寝ている。背後から波が押し寄せてきている。そのホオズキのようなネットに向かって岸辺から無数の人々が小さく現れ、そのネットに取りついている。人間の昔からの連鎖をその小さな人々によって象徴し、その果てに現在という時間があることを表現しているのだろうか。波が寄せている様子も、その繰り返される動き自体がある長い時間性を想像させる。原始の時代から今日までの人間の連鎖と、いま新しく命が誕生したという寓意を面白く画面の上に描く。

 山本君枝「時の風 1」。若い女性が立っているその全身像である。バックの赤茶色の調子が魅力。女性の両側の後ろに、まるで脇士のように樹木が枝を広げていて、上方には遺跡のようなものも見える。歴史のなかにいまこの女性は立っているといったイメージを、繊細な色調の中に表現する。

7室

 石原佑一「或る日の風景」。床の上にマットが敷いてあって、数人の病人と思われる人が寝ている。ケアしている人が真ん中にいる。後ろには四人の人間が座っている。人間のフォルムは白く描かれて、どこか死と近い関係にある存在のように思われる。いわば実存的な孤独な人間像をこのような群像の中に表現して痛切なものがある。

 河村純一郎「あの日のこと」。ベージュの壁に彫り込むように家と人間を描いている。上方の屋根の煙突から煙が出ている。その煙の様子とほぼ相似的な、上方に手を上げる四人の女性と真ん中の女性。存在するものをイメージに化して、ちょうど銅版の上に金属のペンで彫り込んで刻み込むように絵の中に表現したところからあらわれてくるトーンが魅力。

 守末利宏「夏の日」。昔の校庭のような土でできた地面が画面の真ん中にある。遠景には樹木や林、山。手前には錆びたドラム缶。そして、古いベンチが一つ、校庭に置かれている。時間が止まったような雰囲気である。その止まった時間は現在ではなく、もう何十年も前の時刻で止まったような不思議さがある。時間というものの不思議さを、この白茶けた地面の上の一つのベンチによって画家は表現する。また、近景のドラム缶や木のベンチはずいぶん古いものだが、その中にいま現在樹木が茂っているという時間の対比も、脇役として面白い。

8室

 木寺明「蟬時雨のなかを」。シュミーズ姿の若い女性が立っている。画面の上下いっぱいである。フォルムが力強い。同時に肌のピンク色を帯びたトーンとバックのたらしこんだような黒い中から、ジョンブリヤン系の色彩がちらちらする様子が呼応する。横になった女性の姿に官能性を見て、背景に蟬時雨の幻聴のイメージを描いた作品が多かったが、今回は立った女性で、それだけに官能性は後退しながら、逆に命というもののこだましてくるような、そんな緊張感のあるイメージが、一種たらし込みのような画面から感じられるところが興味深い。

 大森重夫「室内(刻(とき))」。夫婦と思われる男女が立っている。そばに椅子があり、牛骨が置かれ、すこし高い台には花瓶にドライフラワーが盛られている。その下には制作に使う瓶や古いランプが置かれている。しーんとした気配のなかに不思議な緊張感が感じられる。日常の中に流れる時間。とくにアトリエの中に感受する時間というものが画面から静かに聞こえてくるような、そんなリズムが画面の中に存在するところが面白い。

 廣島巖「美をもとめて!」。画家は一種のフェミニストだろう。独特のデフォルメされた女性たちがU字形に置かれ、真ん中に仰向けになってシャンプーをしてもらっている人がいる。ずいぶんおなかが出た中年を超えた女性である。上方に不思議な緑の空間があらわれ、犬がそれを眺めている。画家自身がこのノンシャランな犬のような雰囲気で女性を観察しながらあらわれたコンポジションと言ってよい。強いリアリティが女性たちにあらわれているところが面白く感じられる。

 新美晳也「HAZAMA…生く瀬」。画面の下方に海岸に寄せてくる白い波が描かれている。見事なデッサンである。上方には船体か家屋の一部が沈んで、一部が海から三角形でのぞいて、その周りに暗い波が描かれている。平和な波と津波のような恐ろしい波。二つの海のはざまということが題名になっているのだろう。中間はグレーのトーンの中におさめて、そこは勝手に鑑賞者のほうにイメージしてほしいといった意味だろうか。優れた造形力である。

 大平和朗「地のうた '12」。地平線が円弧を描いている。その果てに工場があって、工場から茶褐色の煙が出ている。地平線から湾曲しながら手前に向かう線路。そして、横断歩道も円弧を描く。そこにターバンのような衣装をつけた女性の胸像がある。何か危機を告げるシーンである。上方の線路の中に子供のようなシルエットが屈み込んで、白いものを持っている。旗が激しい風に靡いている。魚眼レンズで見たような独特のゆがんだ円弧のコンポジションの中に、ある危機感が強く発信される。

 國嶋陽子「田植えの朝」。水墨を思わせるような陰影豊かな風景である。畦道と畦道のあいだに水が張ってあるのだが、その水の様子が上方になると輝いている。夕日を映して輝いているようなその様子が独特である。田園、自然に対する敬虔で深い心持ちが感じられる。上方の山も水墨ふうな輪郭線による表現である。油彩による水墨的な情感や空間の表現に注目した。

9室

 跡部髙染「窮原図」。人間の上半身と樹木とメカニックなパイプのようなものとがオールオーバーに混在したように表現されている。あいだに真っ赤に輝いて、中にマーブル状の動きのあらわれているところが何か所かある。遠景はシルエットの建物の様子だが、廃墟を思わせる。原発問題などの社会の危機的な様子をこのようなかたちで暗喩のように表現したものと思われる。背景の家並みの上方の月や星の輝く様子とそれに対する壊れたシルエット、そして近景に広がる風景が強い危機感を発信する。

 神田一明「猫と女」。猫は女性に首のところを持たれて吊り下げられている。そのフォルムが生き生きとして面白い。女はどこか内向的で、一種の狂気を背負っているような雰囲気である。時計は12時26分ほどを差して、昼の時刻。床にはものが散乱し、壁がすこしひずみながら、壁も床もあるべき位置から動いてきているようだ。その閉塞された中にある強いエネルギーともいうべきものがしぜんと伝わってくる。左隅に男の裸のフォルムが人形のように小さく描かれて、座っているようだ。そのように小さくなるような視点から室内の女性や猫や静物を画家は感受し、見ようとしているところからあらわれた強迫的なイメージが面白い。

 辻司「メキシコの生命の木」。生命の木が下方から枝を茂らせて上方に向かい、そのあいだにアダムとイヴのような裸の男女を含めて鳥や花、月、驢馬、植物、太陽などを、その木の周りに集めている。メキシコの風土にある森羅万象、あらゆるものが集められたかたちで、独特の曼陀羅的なコンポジションになっている。互いに関連しながらその風土に存在するものが互いに生かされているといった様子を、明るく肯定的に表現する。

 吉井爽子「ミクロコスモス ・」。頭も足首もない男女のトルソが並んでいる様子は、なにか不吉であるが、それに対して二、三歳の子供が手前にいることが希望である。ところが、この幼児はオブラートのような球体に包まれている。背後のトルソのような人間たちには、壊された樹木のイメージも重なる。日本の社会や自然の荒廃したイメージとこれから未来に向かう子供とが対照されて、強いモニュマン性を表す。

 吉井寿美子「刻(とき)を積む」。底のない矩形の箱が乱雑に積み重ねられている。バランスを崩せば崩壊するだろう。そこに梯子が掛けられ、人間たちが作業していたり、遊んでいたりする。いちばん上方にはゲームに使われる迷路がつくられている。先行きの見えない日本の社会と人間の有り様をこのように寓意的に描く。ディテールが面白く、それぞれのフォルムに現実感と手触りがある。それがこの作品の絵画性で、人間たちの形を追っていくと、その部分だけで一つの作品になるような面白さが感じられる。

 猪爪彦一「夜のトルソ」。丸い細い柱にトルソがつけられているが、下方は壊れている。胸のあたりにも穴があいている。暗い不吉なイメージに対して、卵が一つ立っているのが未来を象徴する。床はライトレッド系の色彩で、背景は暗い空間になっている。崩壊するものと生まれいずるものとの対照を描く。

 吉松陽子「千回の夢:咲きそめよ、春」。山桜がすこし花をつけはじめている。その両側に妖精のような若い女性が立っている。一人はすこし踊っているような様子である。桜の木をキーワードにして、まさに千回の夢といったイメージで、女性の情念を表現する。生まれて死ぬまでの幸、不幸のない交ぜになった、深い感情世界が繰り返されてきた歴史に画家は思いを馳せる。『源氏物語』ではないが、感情世界というものが画家にとってのテーマで、当然そこには一種の審美性があらわれる。尽きない歌がうたわれるような、そんな趣が興味深い。

 近藤大志「反射率39%の重複視―大樹―」。鏡でできたような建物などを連作してきたが、これは大樹をテーマにして、すこしそのフォルムをずらしたかたちでモンタージュすることにより、一種の蜃気楼のようなイメージを表現したものである。都会のもつ人工的な空間。その中で生きるわれわれの視覚に沿うように表現する。都会人はそのものの材質感とか実体というより、ほとんど一瞬見て、イメージのなかに組み込む、といったことの繰り返しで、そんな現代人の視覚をトレースしているような面白さが感じられる。

 増井尚志「2012…ある風景」。強い存在感がある。まるで巨大な籠のようなフォルムが前にあって、上方に棒があり、上下にその棒を人が担いで動かすような、そんな人間臭いアナログの世界が感じられる。しかも、同心円の朱色のものは、しばしば装飾古墳の中にあらわれている図像である。神社や日本の古神道、あるいは縄文時代などの日本人のもつある原型的な呪術的な力が画面に表現されているように感じられて面白い。

 下平武敏「鳥海八兵衛浮立」。浮(ふ)立(りゅう)とは太鼓や鐘を鳴らして集団で踊る祭りを言う。上方に山内町鳥海区浮立保存会という文字が見える。それぞれの人間のところに八兵衛、七兵衛、六兵衛、爺、婆、布袋、法主、嫁、婿などの文字が読める。木の板にこのようなフォルムを描くといったシチュエーションになっている。木目がバックになっていて、長く行われた芸能、お祭りのもつ時空間がしぜんと暗示される。線によるそれぞれのフォルムはお面をつけたような独特の象徴的表現となっている。

 堀研「生」。桜がその枝を四方八方に広げて満開の様子であるが、その下方の太い幹が女性の裸の体と重なっている。緑色で苔の生えた古木のような色彩である。顔はピンク色に染まって、桜の幹に重なっている。その額の上にバレリーナのような女性が立っているし、左上方には宙に飛ぶ女性の裸があるし、下方ではバレーを踊っている女性のフォルムも見えてくる。満開の桜の物狂おしいような雰囲気が、そのような幻想を呼んだのだろう。梶井基次郎が桜の樹の下には死体が埋まっていると述べていたことはよく知られているが、これは堀が画家として桜の木を通しての幻想である。水墨ふうな激しい動きと油彩画のもつねっとりとしたマチエール感とのせめぎあいのなかに、この独特の幻想光景が描かれている。じっと見ていると、不自然ではなく、人間は満開の桜を見ているとこのような幻想を経験したことがあるような気持ちになってくる。説得力が感じられるのは、画家の筆力のゆえだろう。いずれにしても、激しい集中力と動きというものが幻想を引き起こす。制作の中に無理に引き寄せたものではなく、ごくしぜんにこのような幻想感があらわれたような、ナチュラルなところが興味深い。

 山口実「3×1/3の静物」。画面が横に三等分されている。中心にテーブル、左右に椅子とソファ。テーブルの上には三つのものが置かれている。引き出しの中に皿が置かれて、テーブルの上の高坏と床の鍋とで三つの円弧がある。テーブルの上にはランプとケーキの箱と切られたケーキ。そしてケーキサーバー。昼下がりの日差しが静かにこの室内に差し込む。窓の向こうには突堤のようなイメージが浮かび上がる。コンポジションとしての面白さもさることながら、ここに差し込む光が聖なるもののように表現されているところが面白い。光によってものが静かに輝くように描かれているところに共感をもつ。

 竹村皓子「国境の街」。正面向きの女性の上半身が不思議な親近感のなかに表現されている。どこかアニマといったイメージも漂う。後ろにも横顔の女性がいて、突堤のようなものや海と岬のようなイメージもあらわれてくる。しっとりとした青や緑や茶色い色彩が渾然と響き合いながら、優しいしっとりとしたロマンティックな雰囲気をつくる。渾沌とした空間の中から湾があらわれ、鳥があらわれ、人があらわれてくるといった様子が、強いイメージを伴って表現される。

 前田香織「夜の入口」。蕾が開いて、それが女性になりつつある。あいだにたくさんの猫がいる。光が地面から上方にいくつもいくつも放射し、その上方に花びらが動き、長い金髪の女性が一輪車を棒で押して走っていく。夢が始まる序章といった様子をロマンティックに表現する。猫という本能の象徴のような生き物が脇役としてよく生かされている。

 角護「白夜」。ボートに女性が乗っている。その後ろにオールを漕ぐ姿が現れているが、この女性ではない別の人が漕いでいるような趣である。深い緑の空間に囲まれている。その緑の空間の中に不定形のフォルムが繰り返しあらわれている。夜の闇の中に何かが生まれながら崩壊することの繰り返しのような、そんな空間である。空間というより、時間というもののなかに起きる様々なことが、ほとんど抽象的な味わいのなかに描かれているといったほうが適切かもしれない。それを白い空間が包んでいる。白夜は夜のない世界で、夜にもうっすらと光が入ってくる。意識が持続して眠れない時間。そんなイメージがあるように感じられる。そのイメージのなかで人間の働き、生活というものを象徴的に、下方の船に乗る女性の姿によって表現する。粗末なバケツのそばに亀がいる。亀と莵の話があるが、亀はとにかくのろいが持続する力をもっている。そして長く生きる、と話の中では言われている。その亀が、人間の生活のシャドーのようなイメージとして引き寄せられたのだろうか。バケツは水をくむもので、最低限の命を生かすそんな容器でもある。このように述べてくると、なにか暗いイメージが漂うのだが、実際そのようなものを背景にしながらも、どこか不思議な明るさも感じられる。いわばペシミスティックな人生観の上に日々を大事にするといった、そんな時間がこの作品の中に表現されていると思うと興味深い。

 畑中優「漂泊の位置(・)」。ドローイングによってできた空間。たくさんの人々がいる。その様子を見ると、たとえば戦後のイタリアの映画「自転車泥棒」などに出てくる、そんな時代の人々のような雰囲気がある。そして、近景になるに従って、すこし前の、おじいさん、おばあさんと一緒に暮らしていた子供たちのイメージも浮かび上がる。映画のワンシーンのようなイメージを大群像の中にまとめあげる筆力に注目する。

 松原政祐「生きるものたち『ロマネスクな夜』」。まるでテーブルのような茶褐色の矩形の空間が下方にあり、そこからあぶり出しのように人間の顔や様々な人々の姿、鳥、馬、階段、植物の花などが浮かび上がってくる。上方は空のようで、満月が浮かんでいる。その赤茶色の空は通常の空間というより、時間によって現れた空間のようだ。下方は壁画の中から様々な顔が浮かび上がってくるような、そんな図像的な表現になっている。イメージが現実以上に生きたものとしてメッセージを発信してくるように感じられるところが興味深い。

 高橋三加子「刻―2012」。四人の女性が描かれている。一人は台の上に立って、顔に包帯をして、包帯の下にほんのすこしあけられた目は瞑(つむ)っているような雰囲気で、手は顎の下にある。右のほうの女性たちは、その女性のほうを向いて立っている。「群盲象を撫でる」という言葉があるが、右の三人とも目は開いているが、何も見えていなく、前の人に手を差し伸べたり触れようとしたりしながら、うまくいっていない、そんなイメージである。内界の中に発見したイメージ、人間たちの姿のようである。未来の見えない手探り状態の様子を、この不思議なパントマイムのようなフォルムによって表現する。ベージュのバックに緑や褪せた茶色や焦茶色などの色彩が悩ましい。

 石原恒人「僕達の居る場所」。人工的な都市空間の中にウェブが走るわれわれの日常生活。頭をあけると、中は電気の配線になっている。大きな顔を取り巻く五つの顔。みんな男たちである。目は開いているのだけれども、石像化して、彫刻のような雰囲気である。体も金属の帷子(かたびら)を着ているようなかたちで硬直した様子である。まさにぼくたちのいる場所、ぼくたちの今日の群像と考えると面白い。

10室

 阿部直昭「躍動への軌跡」。左から激しい波がきて、真ん中の水がしぶきを上げている。右のほうは波しぶきのように見えるが、それは人間の姿のように感じられる。上方から二つの棒がV字形のフォルムをつくる。ある強い瞬間的な動き。それは画家をインスパイアする働きで、それによって霊感が生まれる瞬間のようなイメージがある。四つの青い球は夜のかなた、暗い空間の中に輝くように浮かんでいる。内面の働きを抽象的なコンポジションの中に表現する。

 平木久代「遥かなる夢・起点」。黄色と紫色の顔をもった女性と男性。横顔で、仮面のようである。それを紡錘状の白い線が包み込んでいる。それに対して赤い紡錘状の線が背後にある。意識の二つの流れのように感じられる。自意識と無意識の二つの領域の意識によって囲まれ誘導される人間のイメージ、と言うと深読みに過ぎるだろうか。対して、象が一頭出ているのが面白い。人間的存在の対極にあるような、もっと大地に根ざしたその象の姿がシャドーのようにあらわれているところが面白く感じられる。

 富田知子「渇いた伝言 2012」。男が立っているが、その上半身が画面の下方に描かれている。何かのメッセージのようにボックスから翼が立ち上がってくる。上方はブラックホールで、星のような大きなフォルムがあり、下方にはひつぎがあり、十字形の白い図像が描かれている。深いレクイエムの表現のように感じられる。

 森下良一「記憶の板塀(いたべい)」。粗末な板塀にダブルイメージが浮かび上がる。中心は黒くあけられた矩形で、そこに遠近感をもって板があらわれ、板の中心から水がこちらに流れてきている。両側には黒いマスクと眼鏡。手袋が両側に浮いている。亡くなった人に対するレクイエムのイメージが感じられる。二つのサクランボが吊るされているのも、亡くなった人に対する献花の意味だろうか。静かな中に水が滝のようになって下りてくる様子が沈痛と言ってよい。

 森井宏青「失いし夏の水辺」。白く晒されたような空間の中に青い蛇が動いている。この蛇はエロスの象徴のような独特の生命感をもっている。あるいは、かつてアダムとイヴに囁いた知恵の象徴のような雰囲気で、喪失した過去の中を動いているようにも感じられるし、人間の生きてきた軌跡の象徴のようにも感じられる。茫漠たる晒されたようなその白い空間。上方にたらしこんだような楕円形の黒い空間から下方に流れてくるものは、暗い記憶の象徴のようだ。夏が終わり、秋が来る季節の境目のようなときに、季節全体が消えて、不思議な現存感があらわれるときがあるが、そんな誰もが経験する時のはざまのようなイメージもしぜんと感じられる。

 矢元政行「コンビナート」。たくさんの工場が描かれ、あいだにレールが敷かれている。地平線は円弧をなし、煙突が立ち上がり、無数のパイプが絡みついている。いつもこの画家の絵の中に出てくる人間たちは消えてしまった。無人のコンビナートである。このコンビナートは実際に動いているのかどうか。煙も出ていないし、ある時、人間が一斉にいなくなって、ただしらじらと人間がつくった街が残されたような、そんなひっそりとした情感があって興味深い。

 小杉義武「断章―白」。両側に崖があり、真ん中がなく、亀裂が走り、そこに様々なものが落下しつつある。上方には人間もいれば、鳥もいるし、様々なものが存在しながら、すべてが落下しつつあるようだ。左の丘の上に黒い男のシルエットがある。崩壊するそのスリリングな予感のなかに、命というもののエネルギーが逆にあらわれる。そんなコンディションをアンフォルメルふうな独特のコンポジションの中に表現する。

 髙田光治「胎内潜り(馬酔木峠)」。近景は川で、三艘の船があり、そこに荷物が積まれている。岸壁から背後の山に登っていく人々がいる。大きな岩のようにも小さな丘のようにも見える周りに注連縄が張られている。上方には三日月の模様のついた車を馬が引いている様子。手前の川は三途の川のようで、それを越えると冥界があり、冥界をいま巡ろうとしているような、そんなあやしい雰囲気が面白く表現されている。人間の意識下の世界と死の世界とはかなり共通したものがあって、その未知の世界の中に入っていこうとする、そこに想像力の触手を伸ばそうとするところからあらわれたコンポジションだろうか。

 上川伸「Shell」。シェルとは貝殻という意味であるが、一本の柱の上に、上方に行くに従って拡大して大きくなってくるマンションのようなフォルムがつくられている。いままだ工事中のように感じられる。まさに旧約聖書にあるバベルの塔の現代的イメージと言ってよいかもしれない。バランスを崩すか、あるいは下方の柱がすこし回転すると、すべて崩壊するだろう。その崩壊の予感の中にこの直方体を重ねた建物群、都市が存在し、上方に行くに従って光に輝かしく染められている。スリリングで不思議な象徴的なコンポジションである。

11室

 坂巻登水「SORA(I)」。会友賞・会員推挙。壁に落書きを描いたような古代的なプリミティヴな面白さがある。どこかミロの宇宙観を思わせるような、そんなイメージの表現が興味深い。

 中田純子「交わる時間」。黄土系のフォルムが膨張してきている。それに対して中心に上下に動いていくフォルムがある。左上方には淡いもやもやとした白い色面があり、その中に不思議な、下方にギザギザのあるフォルムが見える。なにかゆっくりと事態は進行しつつあるような雰囲気。そして、水平にストライプのようなフォルムがあって、その中にある白いフォルムと前述の黄土色のフォルムとのあいだが糸で縫われている。いくつかの要素がぶつかり、次の展開が予感される。触覚的な力を駆使しながら、時間というものの謎を追求する。

12室

 脇田啓子「おしゃべり」。青い風が吹いている。ドレスを着て座るそれぞれの女性のフォルムはしっかりしている。ほとんど肌を露出したドレスで、ゆったりとした雰囲気である。社会的な制約から外れて自分自身を解放した雰囲気が独特の生気を呼ぶ。女だけの自信に満ちた空間である。上方の鏡は白雪姫ではないが、世界でいちばん美しいのは誰かと聞きかねないような女性の生命力が、風を引き起こしながら表現される。

 細井美奈子「2012・刻(・)」。ワイフの足元を抱きかかえるハズバンドは、逆円錐の小さな面の上に小さな足で立っている。ワイフは猪を肩に抱き、ハイヒールの足を高く上げている。その上にカラスがとまって下方を眺めている。夫婦関係をユーモラスに描いたのだろうか。空にまるでフォンタナの切り込みのような垂直の切り込みが数か所置かれているのも、なにか不吉である。日常生活のコンディションとその亀裂を面白く寓意化する。

14室

 白岩史子「となりあう人々 さん」。十七人の人間たちが集合している。いちばん上方はカップルのようで、目と目を見合わせている。いちばん下は老人のような人で、そばに二人の孫がいる。親子や世代の異なる親戚の人々や近所の人も集めて、その人々を愛情をもって描いている。独特な人間たちの連帯感のモニュマンと言ってよい。その素朴な表現に引かれる。

 安養寺智子「旅行者たち」。行動展の中ではすこし異質な作品である。赤いテーブルの前に座った女性は妖精のような大きな目をして遠くを眺めている。ワイングラスのようなものにオレンジ色の液体が入れられている。それを窓の向こうで見ているもう一人の女性。後ろにはハートや球体や鞠のようなものなど、遊びの道具のようなものが置かれている。時刻は三時三十五分をすこし過ぎたあたり。二人の女性は同一人物で、ドッペルゲンガーのように自己をもう一人の自己が眺めているような、そんな緊張感とあやしい空間があらわれている。強い詩情が魅力。

17室

 小笠原実好「復活 A」。会友賞・会員推挙。抽象表現であるが、エネルギーが漲ったような強さがある。復活というタイトルのように、新しくあらわれた力、そのパワーを絵の中に表現したような面白さが感じられる。たらし込みふうな背後のグレーのフォルムと様々な円弧の繰り返しとが独特のコンポジションをつくる。

 古川昭芳「Kan 12-5」。会友賞・会員推挙。金属がコラージュされ、その上から絵具が垂らされ、黒い線がつくられ、独特の強い力を表す。中心の黒い線による抽象的なフォルムが何かということは指摘できないが、ある強さをもって迫ってくる。そして、そのフォルムは下方から上方に突き抜けていく。そんなダイナミズムもあるし、逆に中心のあたりにエネルギーの源があって、そこから展開したような動きも感じられる。

 安藤真由「明暗を分ける出来事 ・」。キャンバスの麻地そのものが上方に膨らんでいる。その上に上部を曲面にした棒がコラージュされている。ベージュのキャンバスにその黒いコラージュされた、離れると直線に見えるフォルムが実にお洒落な感覚を表す。イタリアの優れたデザインを見るような思いに誘われる。

〈彫刻室〉

 湯村光「四角柱」。御影石の台座の上に黒御影石の四角柱を、あいだ二ヶ所を切断し、組み合わせ、積んだ、ユニークな造形である。微妙なバランスの中に立っている。切断し、それを改めて載せることによって、人間の行為の跡があらわれる。いわば一つの茶碗を割って、それをたとえば継ぐことによって茶碗がまた違った表情を見せるように、一つの美しい御影石を割り、改めて重ねることによって、独特の韻律が生まれる。切断と連続といった行為を視覚的な造形として表現する。

 平野元起「机上のいきもの nag」。金属の台の上に植物の葉を思わせるようなフォルムが両側にある、不思議な生き物のような形が置かれていて、いわば詩の世界が造形化されたような面白さである。

 常松大純「気流〈消失点のある風景〉」。金属の三角の面が床に置かれ、途中で立ち上がって、その三角の突端は美術館の壁につけられている。そこから一本の線が手前に伸びてくる。円弧を組み合わせたフォルムが三つ、だんだん向こうに行くに従って小さくなるように置かれている。三角の床のフォルムはパースペクティヴを表す。そのイリュージョンの上に置かれた三つのフォルムが不思議な謎をかける。絵画性と彫刻の立体性との二つに軸足を置いたユニークな作品として注目した。

 糸賀英恵「月に磨く」。奨励賞。銅版を叩いて、真ん中が木の幹のようになって、その両側から花が開いたような、不思議な形態である。一枚の木に茂る葉はあらゆる面を太陽の方向に向けてあらわれているわけだが、この立体は三百六十度の空間に向かって面をつくり、その面を組み合わせながら花のようなイメージをつくりだしている。

 惠村正大「里山からのおくりもの―2012―」。トルソのような白い木。タイル張りの浴槽の一部のようなフォルムから木による柱が伸びて、水道の蛇口がつけられて、チューブがつけられている。タイルの上には自然石。そして全体の台である無垢な木の板の上に自然石がもう一つ。「里山からのおくりもの」という題名だがエスプリのきいた作品である。現代の明るい浴室の中に木や石を運んできて、置いて、謎をかけているような雰囲気。しかも、彩色されていて、タイルの緑色にすこし茶色が入れられたり、茶色の水道につけられた緑のパイプ、あるいは石に彩色されたベージュの色彩。それぞれが柔らかな不思議な色彩で、全体で光のハーモニーをつくる。じっと見ていると、光がここに集められているようなイメージも漂う。素朴でありながら、モダンなエスプリが融合したように感じられるところが面白い。

 翁観二「視程―'12」。木の板の左右は円弧になっていて、真ん中が柔らかく突起している。そこにアーチ状の金属のフォルムを嵌め込み、そのフォルムを前に突き出す。三つの表面が円弧をなすフォルム、棒を三つ嵌め込む。後ろを見ると、それはフラットな木肌の中にその部分が削られて、シャドーのように浮かび上がっている。彩色された長方形でありながら、アールのとられた不思議なフォルムに対して、アルミのアーチ状のフォルムが独特のイメージをつくる。ロマネスクの教会を思わせるような、シンプルでありながら、温かで充実した造形のイメージに感心する。

 水本智久「Natural Posture」。S字形の二つのフォルムを中心で接続するが、その媒介となっているのは球であり、球の下は三角柱の稜を円弧にしたものである。そして、S字形のフォルムに三つの大小の球体が置かれ、回転する。メビウスの輪というものがあるが、あらゆる方向の空間を面が捉え、その面が移動し、動いていくことによって、大きな空間がそこに引き寄せられる。そこに球という人間がつくりだしたフォルムが置かれ、その球は周りの景色を映す。独特の工夫のある立体造形である。数学の世界のもつ詩的なヴィジョンの造形化という形容もできるかもしれない。

 藤岡智紀「とんピー」。丸い石の上に座蒲団のような石が重ねられて、そこに太鼓を叩く熊がいる。金属の細い円柱が手前のハンドルのある石と人の座れる座蒲団状の石とをつなぐ。ハンドルを回すと、この熊が太鼓を叩く。実にユーモラスで楽しい環境彫刻である。

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