美術の窓

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公募展便り(2012年7月号)

美術の窓 2012年7月号

第78回東光展

(4月25日~5月10日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 佐藤龍人「画室」。文部科学大臣賞。アトリエの中の自画像である。丸い椅子に座っている横向きの画家の姿。後ろには大きなキャンバスが描きかけで、H型イーゼルの上にのっている。しーんとした独特の密度のある空間の質に注目。たゆたうようでありながら、しんとして集中力のある空間の雰囲気が画面全体を包みこんでいる。

 難波滋「逍遙邂逅」。文楽人形をテーマにしている。文楽は近松ものが多いが、最後は心中で終わる。左に頰かむりした男性と花飾りをつけた女性が俯いている。そばに脇役の二人の女性。背後はライトレッド系の強い色彩で無地で覆われていて、絶対的な断絶した感覚を示す。あるいは、激しい深い感情を示す。花が一つ、上方に散っているのも悲しい。

 北本雅己「春光」。ベンチのようなところに座る若い女性。そばに青年が立って画板を肩から吊るしている。背後の壁に光が差し、明るいところはベージュに、樹木の影がグレーに表現されている。二人の人物の表情はグレーで、しっとりとした味わいを醸し出す。とくにフォルムが力強い。そこに独特の韻律が生まれる。

 前原喜好「運河の街」。色彩家である。運河と接する建物の壁がオーレオリンや赤茶色、紫などに色分けされている。静かに光が当たり、色彩が輝く。水は調子を落とした暗い紫色の調子に抑えてあるが、壁が明るく輝いて朗々とした音楽が聞こえてくるようだ。

 中西繁「雨のコーランクール」。Y字路になっているあいだに七階建てぐらいの建物が見える。近景には裸木が立っている。しっとりとした雰囲気で、車のランプとそれが濡れた舗道に映る様子が明暗の独特のアクセントになっている。街全体が生きているものとして表現されている。その要素として建物や樹木や車や人間がいる。生活の歌ともいうべきものがしぜんと画面から伝わってくる。同時に、人懐かしい温かな雰囲気が醸し出されているところが魅力。

 庄司勲「笹野一刀彫」。幅の広い鑿でいま白い木を削っている。男は座っている。木を左手で押さえたその指の形、鑿を持つ右手の形がしっかりと描かれていて、そこがポイントとなっている。息を詰めるように仕事に集中している人間のもつムーヴマンが、独特の緊張感をつくる。背後の柔らかなグレーのトーンの上方に障子のようなものがあり、白い光が漏れているのがまた間の表現であり、緊張感に対するくつろいだような、そんな空間を提示する。

 野口稔「無明秘・抄2012」。森田賞。大きな岩が下方にあり、そこから茎が出て白い花が咲いている。上方にはすこし欠けた月が見える。今回の震災に対するレクイエムのようだ。無言の長い歳月を経てつくられた岩に対して、いま咲いた花が対照される。その時間に対する深い思いがそのまま今回の津波に対する鎮魂歌と化すようだ。

 高田啓介「古い工場」。二階から三階建てぐらいの高さの工場があり、その手前にもっと低い建物が連結されている。黒といっても中にブルーや緑などの入った独特の色彩によってこの工場が表現されている。煙突が屋根にあり、近景の壁には赤い色彩が入れられたり、グレーの色彩が入れられている。フォーヴィックな筆のタッチの中に色彩が輝く。空はベージュやジョンブリヤン系の色彩で、オレンジ色や朱色が点々と使われている。近景の地面は灰白色で、放射状の動きがあらわれている。建物の中に画家の魂とも言うべきものが込められているような、不思議な雰囲気である。詩魂とも言うべきものが風景から伝わってくる。それほど色数は多くないが、色彩自体に輝きがある。色彩が画面全体の中にあるムーヴマンと連結しながら独特の輝きを表す。

 飯田裕子「流転」。会員賞。ライオンとシマウマと鷲を背景にして若い女性が立っている。線によって対象のフォルムを捉えている。その女性の形態が柔らかく、そのフォルムが強い。

 山口操「風を待ちながら」。損保ジャパン美術財団賞。粗末な木箱が四つ立っていて、前に扇風機がある。木箱の中が暗く、ひっそりとして独特である。歪んだ中に風が吹いているような、そんな寂しい雰囲気である。それをしっとりとした陰影の中に表現して、興味深い。

 本田年男「BAR」。イヴニングドレスを着た女性が丸いテーブルに肱をついて瞑想している。後ろにはスツールに座った女性の後ろ姿が見える。その向こうには踊り子のようなポスター。左右の棚には様々なボトル。緑と青が面白く使われている。とくに緑がエキゾティックな雰囲気を醸し出す。バーという密室の中の空間が、独特のロマンティックな雰囲気の中に表現されるのは、この画家独特の感性である。また、手前の肱をつく女性のフォルムがクリアである。指の表情や二の腕、あるいは顔などのフォルムが魅力である。アウトラインに注目。

2室

 小林欣子「貝の譜」。二人の女性が立っている。向かって右の女性は籠に貝を入れ、向かって左の女性は帽子を手に持っている。背後にベージュと青などの色彩が入れられ、下方にヒトデや貝、途中で切れた樹木などが置かれている。海のもつイメージと女性のイメージとが重なる。フランス語では海は女性名詞である。海から浜に吹くそよかぜのようなものが感じられる。それが光線となってこの女性を包みこんでいるようなロマンティックな味わいに注目。

 鳥屋尾敬「モスクの前で」。白いヴェールを頭に掛けて顔はのぞかせたイスラムの女性が立っている。バックはモスクで、大きな窓の向こうから光が滲み出てくる。その黄金色の光が深い信仰心のようなものを表現する。また、その光がこの女性の胸の中に灯っているような、そんな温かな雰囲気が魅力。

 中尾廣太郎「私の村」。瓦屋根の民家が浜辺にある。突堤があり、波が静かに寄せている。そんな海と夜空を背景にして白髪の男が立っている。左手を頰に当てて遠くを眺めている。その手や目の表情が力強い。まさに今回の津波の災害を心の中に深く浸透させて創造したモニュマンである。海とともに生きてきた街の歴史。それがこの瓦屋根の独特のカーヴをもつ建物の集合として表現されている。それは朗々とした旋律を醸し出すようだ。そのように屋根のカーヴがお互いに連続しながら、堂々として豪華な雰囲気をつくる。海の向こうにいま日が沈み、また日が昇る二つの時間が描かれているようだ。日の沈むことが悲惨な津波、日の昇ることがもう一度希望をもって立ち上がるイメージと重なる。一人の男の姿と漁村の風景を組み合わせたコンポジションによって連帯感と希望を表現する。砂浜は、白砂という言葉があるように白っぽくベージュに輝いている。デフォルメした手と顔の形が実に力強い。

 南濤敬「想」。磨崖仏がテーマになっている。立っている仏のそばには牛のようなフォルムも見える。上方には別の顔がのぞく。グレーと緑の中に風化した石仏があらわれ、静かに当時の信仰心のようなものが伝わってくる。

 黒木ゆり「朝の光の中で ・」。会員推挙。古い木製の台の上に瓶やガラス器や金属のうつわ、入れ物など、五つのものを置いている。それぞれのマチエールが異なる。そのマチエールを描き分けながら、それぞれの瓶のもつ個性、あるいは佇まい、あるいはつくられてからの長い時間などを描き起こす。対象に対する眼差しが親密な気配を呼ぶ。背後の、これも風化したような手触りのある壁のもつ時間性が瓶の存在を背後から包み込む。錆びたバネ秤が一つ置いてあるのもテーマにふさわしい。

3室

 藤本正男「海の上の作業場」。海上にたくさんの材木が置かれている。それを操っている男たち。二つの建物が水の中に浮いたかたちで置かれている。背後の岸壁と建物。それぞれのフォルム全体に生き生きとしたリズムをつくる。小さなリズムが全体で集合すると大きなリズムになり、懐かしい雰囲気があらわれる。建物の中に裸電球が一つ吊るされているのが面白い。

 入江英子「納屋裏」。木の桶に白い花などをつけた植物が伸びている。赤いホオズキが顔をのぞかせている。地面には枯れた葉や花などがあり、竹箒が壁に掛けられている。茶系の色彩を使いながら、その微妙な変化のなかに静かな韻律が生まれる。それぞれのものたちがそのまま静かに輝いているような雰囲気に注目。

5室

 小泉祥二郎「風景(忘られしもの)」。線路を横切って道が向こうに続いていく。すこし道は上りになっている。線路際に粗末なバラックのような建物が立っている。雨が降ったあとのようで、道がすこしぬかるみ、水たまりが雑草の中に見える。緑がかった空や緑がかった壁などの緑の扱いがうまく、その色彩とオレンジがかった道とがしっくりと響いていて、深い情感を醸し出す。線路の横の線に対する垂直の道という構図がヴィヴィッドな印象をもたらす。

 早川二三郎「裏街」。道が上方に上っていき、すぐ右のほうに分かれる二股になる。その道に面するように建物が立っている。右下にはいちだん低いところにある地面があり、その道との段差のあいだに扉などが置かれている。そのような地面の段差によってできる建物、街の面白さを生き生きと表現する。ベージュを中心に、ブルーコンポーゼ、バーミリオン、クリムソンレーキなどの色彩が散りばめられる。

 安増千枝子「窓辺」。ずいぶん縦長の画面である。テーブルの上には様々な植物が置かれ、シャコガイの中にもまた果物が置かれている。窓の向こうに灯台と岬が見える。このテーブルのある窓辺がひとつの楽園のように表現されている。紫をベースにしながら、緑、黄色、オレンジなどの色彩が静かに輝く。

 佐藤哲「クインとジュエル」。色彩家である。ピンクのシャツにグレーの縞のパンツ。ショッキングピンクのような紐をもつズック。白いシャツに赤い靴。二人ともに黒人の女性。バックの柔らかなベージュの壁に落書きがされている。それぞれが色彩をもって立ち上がってくる。また、シャープな動きが感じられる。画家は一瞬のポーズを捉えて画面の中に構成する。五、六歳の子供と十二、三歳の少女のもつ醱剌とした生気が画面によく表現されている。落書きが楽しいアクセントとなって、余韻をつくる。

 飯泉俊夫「ヴェニス朝明け」。運河には三艘のゴンドラ。杭が上方に伸びる。朝日を受けて白い建物がピンクに輝き、屋根が赤く染まる。朝焼けの一瞬の情景のなかに美の至福とも言うべきイメージを構成する。

 大野昌男「藪椿」。古い朝鮮ふうな箪笥の上に緑の花瓶があり、椿が生けられている。そばに大きな染付けの皿。緋毛氈を敷いた床に和人形が座っている。壁には軸が掛けられている。水墨らしい。和の空間を色彩豊かにうたいあげる。それぞれがある湿気をもった色調として扱われ、ハーモニーを醸し出す。一人遊びをしているような楽しさでトランプが散る。

 上野豊「古い街にて(春宵)」。漆喰の壁。瓦屋根。石垣を積んだ壁。電信柱。語り合う二人の男女。黒い犬。古い街の一隅に流れる時間を構成する。向こうからいま満月が顔をのぞかせている。柔らかな清浄な光が画面に満ちていて、そのハーフトーンの色彩のハーモニーが魅力である。

 田中里奈「セッション」。版画である。チェロを弾く人と手を叩きながら歌う人。そんなフォルムをキュービックに大胆に扱いながら、生き生きとしたコンポジションをつくる。

 下村康二「初春のクリーク」。水路の周りにまだくすんだ樹木が立っている。ところどころ柔らかな緑が萌えている。遠景には建物があり、あいだに広場があり、菜の花などの花が咲きそうな雰囲気である。複雑な色彩をよくまとめて表現している。空を映す水の色彩がコンポジションの軸になっている。それに対する茶色の色彩が悩ましい表情を見せる。

6室

 井上陽照「花柄模様のワン・ピース」。黄色によって画面が染められている。白いワンピースの女性が椅子に座っているが、その女性の肌も布もバッグもすべて黄色の変化によって彩られていて、独特の輝きを見せる。背後に向日葵が描かれている。向日葵のような生命感、その色彩を画面全体に敷衍したような面白さ。

 中木征一郎「昔日」。竈に昔ながらの釜が置かれ、上にしゃもじ。煙突が上方に伸びていく。七輪がそばにある。青みがかったグレーに対してオレンジがかったグレーと二色が深い色彩の輝きを見せ、微妙な繊細な表情を表す。この竈が聖なる存在のように、画家は丹念に心をこめて描く。

 竹留一夫「黎明」。桜島が噴煙を上げている。朝焼けの空が朱色と黄色によって描かれ、それに対する青く黒ずんだ桜島。空を映してセルリアン系の海。船が行く。風景の中のドラマを描く。

 楢崎重視「青い扉と白壁の家」。デッサンがそのままタブローになったような色彩によるデッサンといった趣である。ベージュの壁やそんな白い布で身を包んだ人間たちに対して、青い扉が不思議な輝きを示す。その扉にはステンドグラスのような輝きが感じられる。

 和田貢「幕間」。三人のピエロが描かれている。二人の男のピエロが椅子に座って静かに会話をしている。真ん中のピエロは耳を傾けている。そばに立っている女性のピエロがいて、ウクレレを弾いている。サーカスの芸人たちの人生が哀愁をもって表現される。背後の布の緑色の色彩が独特で、旅の中に過ごした時間が重なって、それが海のようなイメージとしてあらわれているように感じられる。優れたデッサンによるフォルムの強さが、この人間たちを生かしている。

 井原智義「木立」。葉を落とした細い幹が伸びている。バックの色彩を見ると、秋もたけて晩秋のようだ。そんな山の中の風景をピックアップして画家は描く。その輪郭線を見ると、水墨に使われている線をしぜんと連想する。なにもない寂しいような風景の中に色彩が引き寄せられる。画家は風景を歌い上げる詩人と言ってよい。

 加賀羅聰「一隅」。茹でられたカニが赤い色彩を見せる。カレイやオコゼのような魚がそばにあり、大きな寸胴鍋や大きな瓶、あるいはフライパンなどが描かれている。キッチンと食卓の上にある静物たちが塗りこまれた色彩によって表現される。色彩に独特のコクと輝きが生まれる。

7室

 山口忠彦「瑞光〈辺〉」。奨励賞。枯れたカヤの向こうに水がたゆたっている。オレンジ色に染められている。その水とカヤのディテールが魅力。

 下田秀子「壁」。茶色い扉。灰白色の壁。壁にあけられた窓の中に黒紫色の色彩が入れられている。横文字が扉や壁の上のポスターとして表現され、落書きも描かれている。音楽的な感興を覚える。生活の歌、シャンソンのような旋律が画面から流れてくるような思いに誘われる。

 川瀬多真希「月夜のドリームキャッチャー」。奨励賞。上方に蜘蛛の巣。右のほうにはインディアンの横顔。左のほうには楽器を奏する人と繊月。下方にはインディアンのテント。まさに夢の世界のようだ。一つひとつの蜘蛛の巣の網目がまるで夢を紡ぐ糸のような、そんな雰囲気で表現されている。すこし紫がかったグレーの空間にふくらみがある。

 手嶋哲也「弧舟」。浜の上に揚げられた船はほとんど壊れている。そのフォルムが面白い。また、バックのベージュと緑や青とが緊張感のあるハーモニーをつくる。

 窪田哲香「慟哭の浜辺」。浜辺に壊れたものが散乱している。その壊れたものたちが赤や青、黄土、茶色などで表現されていて、強い輝きを放つ。海はグレーで、空にも黒い雲が出ている。無彩色の中に輝くその散乱しているもの。それはそのものたちと人間とが交渉していた痕跡のあらわれである。それらを深い感情をもって画家は表現する。そこからあらわれている色彩の輝きに注目。

8室

 吉田定「昔日」。板塀に囲まれて鶏が二羽立っている。バックに車輪があり、一部紙がコラージュされている。そんな中に二羽の鶏が鮮やかな印象で立っている。鶏は朝、時を告げる。古い長い時間に対して時を告げているようなイメージがこの鶏に与えられている。時間という不思議なものをテーマにして、面白い表現だと思う。

 宮里洋詔「会話」。テーブルに座って赤い飲み物を入れたコップを持つ男。すこし硬い表現だが、叙情を感じる。一本の緑色の瓶がまた、ミステリアスなアクセントになっている。

9室

 舩越秀忠「刻の証人」。建物が水につかっている。上方に雑草が風に靡いている。津波のあとのような風景である。しらじらと壁が輝く。なにか痛切に感情を刺激してくるものがある。

 伊藤久美子「アトリエの花」。水彩。花瓶にたくさんの薔薇と思われる花が盛られている。あいだから緑の茎や葉が伸びていて、絢爛たる趣である。バックは灰白色で、棚の上に様々な瓶やコップ、あるいはヒトデのようなフォルムが置かれている。かなり抽象化された扱いのものたちと、直線によって区切られたバックの分割とが面白く響き合う。その中に有機的な赤や白い花、あるいは背後の棚に置かれた白い花などが静かに輝くように表現される。室内楽を思わせる。

 山口信子「再生」。ドローイングがそのまま作品になったような力がある。シルエットの樹木と地面との取り合わせが面白いコントラストをつくる。

 住井ますみ「待ちぼうけ」。大きな円筒形の金属でできたローラーがぽつんと置かれて、そこに縄がつけられている。校庭と思われるグレーの地面の向こうにネットが風に靡いている。何もない空間を眺めていると、そこに記憶が炙り出しのようにあらわれてきそうな独特の気配が感じられる。そうすると、円筒形の錆びたローラーは記憶というものの象徴と言ってよいかもしれない。

 廣田純男「中世山岳の街」。会友推挙。水彩。石で組んだ舗道がだんだんと下降していく。その両側に中世の古い建物が立っている。見上げると、教会と思われる建物があり、鐘楼が聳えている。柔らかな光が当たっている。グレー、ベージュを中心に柔らかに包みこむような雰囲気のなかに描いている。この街を心の中に入れて描いているような雰囲気。鐘楼を見ると、宗教について画家は敬虔な親密感をもって描き起こしているように感じられる。

11室

 木島芳雄「暦日」。壁から漆喰がかなり剝落している。左のほうに入口があって、ドアがすこしあけられている。風化した時間をいとおしむように描いている。地面の上に赤白のパイロンと黄黒の棒が置かれているのがアクセントになっている。あまり構成せず、無作為のなかに何かイメージがあらわれるのを待つという姿勢が興味深い。

 田内豊三「白壁の民家」。瓦屋根に白い壁。窓の桟がオレンジ色。下方の白い入口の向こうはバーントシェンナにオレンジを入れたような色彩が使われている。モダンな楽しい感覚で建物を描いている。瓦屋根から斜めに立ち上がる煙突が面白いアクセントになっている。

13室

 清原邦彦「根を張る」。ススキの穂が灰白色、あるいは黄土系の色彩に彩られて、かなり抽象的に構成されている。独特の韻律が感じられる。風に靡く穂の動きが面白くアレンジされている。

 川村利子「少女と山羊」。山羊と少女を面白く構成している。独特の色彩家である。

14室

 天達章吾「港」。海に向かってS字形に道が下りてくる。右のほうの断崖。そばに立つ樹木。左のほうの建物。白い建物の向こうには濃い青の海がのぞき、そこには岬が突き出ている。そういった様子をフォーヴィックに表現する。色彩の輝きとムーヴマンが魅力。

 山本博子「晩秋」。白い肌をした樹木がいくつも立っている。その柔らかなカーヴする形が艶めかしい。樹木を生きた存在として眺めている。あいだから紅葉したオレンジや赤い色彩が命の炎のように輝いている。

 次賀真里江「浜の小屋」。石垣の上に木造の二階建ての建物がある。青、茶、明るいベージュなどの色彩で彩られて、懐かしい。手触りが感じられる。独特の温もりが建物から醸し出される。抑えた色彩であるが、内側から色彩が輝く。

15室

 市川弘子「青いガラス瓶のある静物」。丸いテーブルの上に瓶や林檎などが置かれている。バックはグレーの複雑な色調の変化による色面構成である。ブラックと思われるポスターが貼られているのがアクセントになっている。一つひとつのテーブルの上のものを大切に扱いながら、お互いが静かにハーモナイズする。

 森本計一「パリの休日」。カフェに座って新聞を読む青年。ブルーのズボンに黄土色の上着。髪は茶髪で、椅子とテーブルが朱色。その朱色がバックのビリジャン系の緑やベージュの色彩とお互いに響き合う。いかにもパリならではの色彩感覚である。ひとときの休息の時間が流れる。床に寝ころぶ犬がアクセントとなって楽しい。

18室

 沼田泰子「檸檬」。会員推挙。グレーの長いテーブルに白い布が置かれ、バケツや瓶や壺などが置かれている。バックも濃いグレーで、グレーの中に微妙な色の変化を与え、それを静かに共鳴させる。黄色い一つの檸檬が全体を統合するような効果を上げている。それぞれのものが心の中で温められた存在として描かれている。

 森田秀雄「刀の火造り」。会員推挙。金槌を上方に持ち上げて、左の先の溶かした鉄を叩く。そんな動作が面白く表現されている。いま金槌を上方に振り上げている。そのときの緊張感のある動きが描かれている。周りにたゆたう空気感がある労働の純粋な時間の性質を表す。

45周年記念第43回新生美術展

(4月24日~4月30日/東京都美術館)

文/小池伊欧里

1室

 勝間田英幸「休息」。葦の刈られた水辺だろうか。土壌をゆっくりと癒しながら次の生命を育んでいるかのような落ち着いた画面である。水の透明感や細かい葦一本一本の描写が精緻である。執拗なまでに対象を観察し、一筆ずつ丁寧に絵具を載せていくという写実表現を徹底している。画面から遠ざかるにつれて不思議なほどリアルに光景が現れる。実に計算された描写である。久しぶりの本展開催となった新美展であるが、若き会長として作品の力でも会を引っぱっていくという静かな思いを感じた。

 山本捷「卓上の調べ」。新美大賞。暗い背景に、赤を基調とした卓上風景が強い存在感を放つ。テーブルクロスの上には、花瓶、ポット、バイオリン、楽譜などが置かれているが、赤の階調を中心に構成された画面の中でも、大きな花瓶に挿されたバラに一際高い温度を感じる。赤と黒やグレーの強いコントラストと、テーブルに対して斜めに置かれたクロスによって空間の面白さが演出されている。

 近藤伸子「今を―2012」。描いては削るを繰り返し、画家独得のマチエールを作り出している。寒色と暖色を行き来する複雑なハーフトーンが、実に繊細で柔らかな光を表現している。階段に座る幼い少女の周りには、無数の貝殻や珊瑚、ヒトデ、古い燭台やランプなどが集積し、奥には花々と、先に続く丘が見える。長い生命の記憶が詰め込まれたようなこの心象風景内の少女に、画家は未来への希望を託す。階段を一段上るごとに成長が刻まれて行くのだろう。無垢な表情で足をぶらぶらとさせて座る少女が愛らしい。先のことなど考えずに、抱えきれないほどの花を手に無邪気に今を生きている。しかし、長い時間を蓄積させた周りの物たちは少女をじっと見つめ、着実に実りある未来へと導いている。 4室

 金崎百世「TAO-smile」。背中の大きく開いたドレスを着た女性の後ろ姿が、優れたデッサンによって描かれている。パステルによってだろうか、肌の陰翳による質感が良く出されていて、後ろに回した左手と、その指先のしなりが印象的だ。紫の衣裳が風に舞い、背景に溶け込んでいる。女性と白いユリの花が重ね合わされ、妖艶さの内側に潜む女性の純潔な想いが表れている。

 中塚禮子「浅春」。淡墨の旋回するような筆致の中から紅梅が幻想的に出現している。その筆致は枝そのものであったり、影であったりと、変化に富んだイメージを与えている。花びらの赤が真ん中に寄り集まっているように見えるのは、まだ残る外気の肌寒さに身を寄せあうような雰囲気もある。空気や光の動きを体感させられるような豊かなコンポジションである。

第86回国展

(5月2日~5月14日/国立新美術館)

文/高山淳・磯部靖

1室

 稲垣考二「斜面」。左右四つ、縦五つ計二十の箱によってできている。その箱の中に花や目や母と子のいる風景や果物などが入れられている。そして全体で大きな女性の顔が浮かび上がる。アルチンボルドふうな世界が表現される。ピンクの色彩が独特の禍々しいイメージを表す。メロンのような筋のある紡錘状のフォルムの上方に雲と鳥影のようなものが映っているシーンが右上方にあって、その圧倒的な地上的な存在に対して風穴があいている。安易にイメージに流れるのではなく、地上にあるものたちと会話をしながら、それを組み合わせてひとつの独特の終末的な世界を表現する画家のイメージの強さと筆力に注目。(高山淳)

 加藤健二「グラウンド 2012・O─4」。地面には水があり、樹木があり、光がある。地下には地層があり、根が張っている。大地の見えるものと見えないもののコンディションを画家はイメージの中に表現する。波打つような曲線が力強く、幾重にも表現され、そこに黒や赤や緑やピンク、オレンジなどが入れられて、独特の波動を表す。(高山淳)

 前田昌彦「いざない '12―再生」。グレーのトーンが親密で、緊張感と静寂感をつくりだしている。地面の上には後ろ姿の裸の女性やタンクのようなもの、あるいはマネキン、花などが置かれて、手前は男が下方を見ている。上方には壊れた家屋と飛行機。さらにその上方には気球が上がっている。渾沌とした大地の崩壊した様子が暗示される。そこにあがる気球は希望の象徴でそれを静かな光の中に歌い上げる。(高山淳)

 安達博文「時の符―XII」。男の顔の小さな目からビュッと耳が飛び出している。頭にサングラスが置かれて、そこには雪の積もった田舎の風景、建物と水面に着陸した飛行機とが置かれている。上方の空に犬たちが、雲になって浮かんでいる。情報化社会の中で目と耳とが様々な情報をキャッチする。サングラスの中に映像が映る。それはテレビのモニター、あるいはパソコンのモニターを象徴する。現代の情報化社会の中に生きる人間像を面白くアレンジして寓意化する。シャープな線がそのまま時間というものの流れを淡々とトレースするようだ。そして、そんな人間のイメージの世界をまるでそれ全体が夢の中にあるように表現するのは、上方の雲になった犬である。現代の人間的存在に対する独特の視点である。(高山淳)

 開光市「顔」。顔が逆様になっている。その耳のあたりが壊れて、中からもう一つ目が浮かんでいる。それを錆びた鉄の棒が幾本も立って支えている。まるで福島原発の様子である。あるいは、津波によって流された家屋や建物の象徴のようだ。さらに言えば、地球というものの象徴かもしれない。繊細に扱わなければいけない地球。それが今回の3・11でいかにもろいものであるかがわかった。国民みんながそんな敬虔な思いになったに違いない。その3・11の出来事をこの逆様になって鉄の棒によって支えられた人間の顔が象徴する。深い表現である。(高山淳)

 福井路可「昨日の雨、明日の海 ―12・3―」。真ん中に両手を広げた人体がある。木でできている。一部キャンバスが使われている。両側に波が描かれている。波は海のものであると同時に時間の象徴のようだ。時間と呼応しながら人体が響き合う。時間のなかに漂うひとつの人間的姿の表現である。(高山淳)

 肥沼守「浮遊譚~遊園~」。フレスコの画面。円筒を重ねた、だんだんとつぼまっていく塔の中に人間や蛇などがいる。周りに海があって、盥のようなボートから立ちあがって水を見ている男。建物の中から花が飛び出て、その中に人間の顔がある。旅をする二人の青年。手前の島には建物が点在し水の上をアメーバのように動いている男の顔もある。太陽が近くに下りてきている。すべての自然,人工の形象を寓意化し、人間的存在と化す。そして、それを組み合わせながら、一種汎神論的な世界を繰り広げる。その図像的イメージを連鎖しながら、いわば終わりのない物語を画面の上につくる。つなげていくと、絵巻になるだろう。青と赤、黄色などの原色を使いながら、地球の上の生命の物語をファンタジックに表現する。(高山淳)

2室

 東方達志「庭院深深」。近景に女性の大きな横顔。上下にたくさんの風船。後ろに二つの建物があり、二つの扉がある。鳥がとまっている。あいだを路地が向こうに進み、その向こうに二階建ての建物が見える。画面の両翼に扉がつけられている。画家の夢想する世界が表現される。ファンタジックな魂の物語を語る。(高山淳)

 佐々木豊「海辺のオーケストラ」。波打ち際から水平線に向かってオーケストラがチェロやヴァイオリン、太鼓などを演奏している。その前で赤いドレスの女性が歌を歌っている。向こうには津波で流れた船。その上に乗って笛を吹いている人がいるし、いかだに立ったりしがみついている人もいる。津波を象徴するように鯨が潮を吹いている。水平線近くには福島原発を思わせるような炎が噴いている。その炎と夕日とが重なっている。津波というすさまじいエネルギーを経験して、その結果の悲惨さをわれわれはよく認識したわけだが、画家は同時にそこからエネルギーを逆にもらったようなところがある。まさに天性の芸術家である。それを逆転させて、命の歌を歌わせる。それが手前の女性の様子である。しかし、全体の印象はパッショネートであるにもかかわらず沈鬱な雰囲気で、その内容はレクイエムと思われる。厚いマチエールが、筆力が、筆の筆勢が、この画面全体に強い動きをつくる。(高山淳)

 井上悟「昼食をおえた頃」。新聞を読む男が壁の前にいる。そばに緑の扉がある。上方に赤でレストラン名が書かれている。扉の緑にしても、人間のベージュの肌の色にしても、それぞれの色が生きている。色自体が生き物のように画面の中に扱われている。実に特異な才能だと思う。マチエールをもった色とフォルムがまるで生き物のように画面に配置され、扉にしても看板にしても、生きて動くような、そんな雰囲気なのである。(高山淳)

 島田章三「室内にある彫刻」。画家は経験をイメージに変える。そのイメージを形にして構成する。視覚的現実をイメージとしての現実に変える独特の才能をもっている。兄が歌人で母親が歌人、父親は船のデザイナーであったというが、詩人としての資質と造形力とがかみ合うところから、この強い隙のないコンポジションが生まれる。ジャコメッティの彫刻が、今回の悲惨な津波の災害を受け止めて、人間の普遍的な姿として画面の中に象徴的に扱われる。広い陳列室の向こうのコーナーに立像があり、後ろには通路が見える。その手前に椅子に坐る監視の女性。近景には画面いっぱいの大きさの歩む彫刻。それぞれのフォルムの位置がクリアで、その間に緊密な空間が生まれる。手前に向かってクレッセンドで鳴るメロディとリズムがある。その力強い音楽が造形の中にとじこめられ、永遠化される画面から聞こえてくる。(高山淳)

 大沼映夫「色彩降臨 AB」。左右二十、縦九の枠がとられている。その中に色彩がはめこまれ、ちょうど上から下りてくるように色彩が置かれている。左右同じ大きさの二枚のキャンバスが合わされている。左は横十二、縦九、百八の緑やブルーなどの色彩である。右のほうは、その中心にグレーの大きな柱、あるいはシルエットの色面がとられている。イスラムあたりのアラベスク模様を連想するところもあるぐらい、色彩が輝かしく、色彩そのものが迫ってくる。太い柱の、影があることによって色彩が浮かび上がる。そのグレーは色彩の背後に置かれているグレーとも同一だし、いわば金環蝕のように中心がグレーで、その周りに炎が燃える太陽のように、グレーを背景にして色がきらめき、まさに天空から色彩が下りてくるようだ。色彩がイノセントで、不思議な輝きを放つ。(高山淳)

 島田鮎子「早春の日差し」。女性が座っている。その胸の上に白黒の幾何学模様がコラージュされている。同じような模様のもっと繊細なものがテーブルの向こうの壁のところに置かれている。手前からS字形にカーヴしながら茎が伸びて、四弁の青い花が咲いている。その茎の周りのジョンブリヤンの色彩が輝く。そばの逆三角形。下方の楕円。グレーと灰白色の呼吸するような強いマチエールによって空間が分割され、そこに不思議な目のような青い花弁があらわれる。右上方には緑のくすんだ三角形があらわれ、その向こうに窓が見える。窓の向こうには海があるような雰囲気。柔らかな日差しがしみ通って温かい。しかし建物も女性のフォルムも窓も遠ざかっていくような雰囲気がある。その中に魂を象徴するような四弁の青い花が大きく近くに浮かび上がる。ショパンのエチュードの調べが聞こえてくるような上質な空間のクオリティが魅力である。(高山淳)

 津地威汎「航跡…旅の話をしよう…」。船の後ろに立って、遠ざかっていく海を眺める。航跡がきらめく。上方に入道雲のような雲が浮かんでいる。残照に染まっているようだ。遠ざかっていく光景は過去の光景である。そして、その風景が今回しらじらと、まるで時間に晒されているようなイメージの中に表現されている。見ていると、その向こうから懐かしい切ない物語があらわれてくるようだ。成就した恋愛というより、寂しい失恋の話。情熱がほとばしりながら、失敗した仕事。そんな過去の努力した切ない物語が、この残照の空と白い澪の中にしぜんとあらわれてくるような雰囲気がある。それほど前に向かう風景と違って、船尾から見るその遠ざかっていく風景には独特の味わいがある。その哀愁の動きの中に、今回は晒されたような独特の光が画面を荘厳している。(高山淳)

 塩川髙敏「春映」。下方に瀬戸内の工事をしている様子や島などが描かれている。上方に雲が浮かんでいるが、そこに潜水しているような人々の姿が浮かぶ。春ののどかな様子を描く。雲の上に不思議なイリュージョンがあらわれる。(高山淳)

3室

 大島幸夫「竹林…刻」。モノクロームの竹と彩色の竹の左右二つの空間が接続されている。夜の竹と昼の竹のようだ。二つの竹のリズムが実に面白く応和する。竹と言うと、朔太郎の「光る地面に竹が生え……」といった詩を、この作品を見ながら久し振りに思い起こした。この韻律自体が生の象徴のように表現されている。(高山淳)

 川井一義「津波:泣かないで!」。上下横長の扁額のような三枚の画面。いちばん下方には黄色を中心とした中にブルーなどが入れられている。緑もある。水に流される様子が抽象的に表現されている。その上方はもっとモノトーンで描かれていて、さらにその上方は空の空間のように感じられる。白い線や黒い線がまっすぐ斜めに飛んでいるのは流星のようで、魂がいま飛んであの世に行ってしまったような雰囲気。悲しく切ない。しかし色彩は甘く、なんともいえないやるせない雰囲気である。この津波の災害に画家は切ない花束を捧げたようだ。その花束は、空では星になり、下の画面では海の中に消えながら、その光を内側から発する。左右に動く動き、斜めの線、筆触、円弧のような動き。人々を呑み込んだ津波の中に花を散らしたような雰囲気。レクイエムである。(高山淳)

 山村博男「クエンカ」。斜面の上に五人ほどの旅行客と思われる女性たちが立って街を眺めている。達者な筆で建物群が描かれている。遠景には山があり、建物と山とのあいだに田園が広がる。空は柔らかな青紫色である。柔らかな光線によって微妙な色彩が浮かび上がる。カラリストである。達者な筆の動きをあえて止めるようにしながら風景の骨格をつくりだし、光線の美しさを表現する。(高山淳)

 山口静治「夢追い人」。ドン・キホーテがテーマになっている。上方に浮遊するドン・キホーテを手前のドン・キホーテが眺めている。まじめにやればやるほど滑稽になってしまうドン・キホーテ。夢を追う人がそんな自分の姿を眺めているような不思議な味わいがある。下方に碁盤状のブロックのようなフォルムがあり、そこに風車やスペインの建物が配される。バーントシェンナの空に虹のようなテープが二筋。ユニークな構成である。(高山淳)

 城康夫「景 '12─1(桜花)」。ほとんど抽象画面であるが、不思議な現実感が漂う。コバルトブルーのバックに右のほうから柔らかなカーヴを描いたフォルムがあらわれているのが、まるで伸びていく木の枝のように感じられる。左のほうの黒い色面は夜を表し、右の空は夕暮れのようだ。そこに桜の満開の様子が目に浮かぶ。そしていま静かに花が散っている。(高山淳)

 森本草介「NUDE」。背中を見せて座る女性。体を右にねじり横顔が見える。その耳から横顔のアウトラインが繊細で、息づくようである。さらにいうと、肉体自体が息づくよう。その背中の貝殻骨や背骨、あるいはお尻のくぼみ。淡い陰影の中に対象の形がつかまれる。爪先を床につけて、足の裏を見せる。背中や足の裏が不思議な陰影をつくる。気品のある横顔のその下方を見る目の表情。柔らかな髪の毛をとめるバレッタ。ベージュの布の上に座っている。そのベージュの布のさざなみを立てるような動き。微妙な動きがお互いに連鎖しながら波紋のような動きをつくる。そんな動きを横顔のフォルムが止めているようだ。座っているが、重量感というより、むしろ逆に下方の布のしわの形から背骨を通って上方に動いていく動きがあり、それが目でとまり、目からまた下方に向かう、そういったムーヴマンがあらわれる。それは音楽が段々と激しくなり、やがて静かに終曲に向かう、余韻を残しながら終わるといった、そんな雰囲気もある。単に視覚的幻想を追うだけでなく、そういった音楽を感じさせる構成になっているところがとくに魅力だと思う。(高山淳)

 半田強「生き物語」。強いマチエールをつくった上から引っ搔くようにしてフォルムをつくる。いわば壁に篆刻するような表現方法。女性や動物たち、鳥。動物たちは山羊や豚、猿、兎、ライオンや馬などがいる。そういったものと人間の女性を構成しながら、強い生命のイメージを表現する。上方の両側に太陽と月を引き寄せている。画家のつくりだした人間と動物たちの日月屛風である。(高山淳)

 西川ひろみ「spring curtain」。樹木がその枝を広げている。その幹がきわめて人間的に表現されている。その樹木の幹と沿うように人間の裸の後ろ姿が二体あらわれる。人間を見るように樹木と接するところからあらわれてきたイメージの展開である。そしていま、春の光が輝く。(高山淳)

4室

 野々宮恒人「光り差す午後」。三枚組の額の中に本を読む人とそのファミリー。男が絵を持っていて、そこには誕生と死の二つの祭りが描かれている。向かって左には三人の男女。向かって右のほうにはトランクを持って旅をする夫妻。下には休んで犬を抱えている少年。数十人の人間が大小入れられて、ヒューマンな物語がつくられる。すべて画家のイメージがつくりだした人間たちである。画家に聞くと、犬も猫も実際に飼っていないから、それも画家のつくりだしたイメージである。絵としての面白さ。紙芝居を思わせるところがある。商業主義的な紙芝居ではない、心の中のストーリーを芝居のように画面の中に描く。色調も落ち着いてきて、より構成力があらわれてきた。人生の喜びと悲しみ、とくに真ん中の絵の中の誕生した様子と死んで集まっているときの様子とが感慨深い。(高山淳)

 新井延彦「風はふく」。赤いカーテンが翻っている前に女性が立っている。後ろのほうにピエロを思わせるような人物がいる。その赤いカーテンのそばに鳥が飛んできている。バックには建物や道などの風景が見え、さらにその向こうには福島原発の噴煙があらわれる。近景は卓上静物や犬である。自分自身のファミリーとその住む街並み、そして原発のニュース。画面は画家の日常の中から構成されている。とくに赤いカーテンが血の滲むような夕日の色彩に染められて、切ない。(高山淳)

 岡本増吉「プールにて」。プールの水中を泳ぐ少年をプールの底のほうから見上げている。水を通してプールの外側にいる二人の女性が見える。水というものを通して見える光景が夢幻的である。夢幻的であると同時に、水という実質は空気以上に密度があって独特である。われわれは空気を自由に吸って生きているから空気の存在を感じないが、このプールの中の水のように、空気という実質の中に生活していることをしぜんと連想する。また、少年のフォルムが優れている。優れたデッサン力がこの構成を支えている。(高山淳)

 松岡滋「室内風景、2012」。室内に木製の椅子や机、扉などが構成されている。四角い椅子でも机でもどちらでも使える台の上に赤と黄色の花が生けられたグラスがある。そばに赤いボックスがある。もう一つの椅子には六角形の朱色の筒があり、褪せた赤茶色の球体がある。床の向こうのドアが大きくあけられ、木立が見える。室内風景という題名のように、この室内の空間が風景と重なっている。赤いボックスが太陽を結晶させたようなイメージとして感じられる。イメージの詩的な転換が興味深い。(高山淳)

5室

 堤建二「たびのおとしもの」。建物の側面に階段がつけられている。そこに二人の青年が座っている。上方に木造の船があって、子供と若い女性が乗っている。壁面に矩形の窓があけられ、犬が本を読んでいる。不思議な作品であるが、独特のリアリティがある。まるで心臓の鼓動のリズムに沿ってものを配置しているような趣がある。そして、彼らはいま旅の途上にある。そのエトランゼとしての存在によって、より感覚が新しく繊細になる。そんな時というものの入れられた空間である。(高山淳)

 弥富節子「響き・伝わる音の譜」。二枚の画面を合わせている。向かって右のほうは少年がマラカスを振っている。向かって左にはやはり青年が立って太鼓を叩いている。後ろの丸いテーブルのそばに妹とおぼしき女性が座って、糸操り人形のジョーカーを動かしている。三人の男女の心理劇がバックの壁に波紋をつくっている。水紋のように同心円の波紋が広がっている。視覚に聴覚が引き寄せられた空間があらわれている。それぞれの三人の人間たちのかたちがクリアである。それが画面の説得力をなすのだが、それに加えて空間自体が、壁が水になって動いているような独特の気配を表している。両側の大きな観葉植物の葉の表現が面白い。生きている植物である。日々姿を変えながら動いていく気配を示す。三人の若い男女のあいだの空間に不思議な緊張感がある。ジョーカーの人形がミステリアスな表情を見せている。運命の謎をこのジョーカーが象徴するように思われる。(高山淳)

 西川正恒「エチェガライ通りのアトリエで」。二人の若い女性が仰向けに寝ているが、腕を組んだり、立て膝をしたり、首を横にしたりして、面白いポーズをして二人が絡み合っている。クリアなフォルムによって上から見られたこの二人の女性は、床の上に敷いた赤いシーツの上にいるわけだが、不思議なメッセージを発信する。人間でありながら、人形のようなイメージもある。このシーツがそのまま寝台となって夜の海を漂っているような、そんなイメージもある。時間が浸透して生と死の中間領域からあらわれてくるようなイメージ。そんなイメージをクリアな二つのフォルムが強く発信してくる。(高山淳)

 菅野充造「MUDAI '12-1」。下方はえび茶色の色面、上方はベージュの色面。ベージュの色面をバックにしてゾウリムシのようなフォルムがいくつもいくつもあらわれる。えび茶の色面には同じようなフォルムがもう一つあらわれる。それが一つひとつの細胞であり、一人の人間であるような趣。人間の気配に満ちたその抽象的なフォルムが寄り集まり、寄り添っている。人間実存的なイメージを歌う。(高山淳)

 梅澤希人「ZOUと」。象の鼻が上方にあって、茶褐色の色面がそれを覆っている。その全体が象のもつ包容力を象徴するようだ。そこに仰向けになって寝た犬。二本足で立っている犬。中間に鳥人間のような胸像があらわれる。日常に流れる時空間からイメージをすくい取りながら、温かなコンポジションをつくる。喜び、傷つく、怒り、悩む、様々な心象を象というキーワードが包み込む。そして、その癒すようなフォルムによって様々な感情を支える。(高山淳)

6室

 松山俊彦「動態図」。有機的な不思議な塊が蠢いている。命をはらみながら変容しているような、そんな雰囲気である。レオナルド・ダ・ヴィンチに洪水を描いたドローイングがあるが、それも洪水という自然のもつ恐ろしいエネルギーを形象化しようとしたものである。ここにあるのも、きわめて強いエネルギーをもった存在を表現したものと思われる。そして、その中から何か形が変容しながら生命の形をそこから生み出すような、そんな力も感じられる。台風の暴風雨のイメージ、あるいは最近の竜巻などのイメージなどもあるかもしれない。変化しながらエネルギーをもち、死と再生を繰り返しながら、その生命の根幹にあるそういったイメージを面白く表現している。(高山淳)

 多納三勢「風骨の森(86)」。十字架にかけられた人間たちを九十度横に倒したような、圧倒的な存在感がある。そして人々はみんな死んでいる。中に鳥のような顔をした人間の姿もあらわれてくる。屈曲し、様々なポーズをしながら亡くなった人間たち。まさに今回の津波による夥しい死者を、この画面の中に象徴するように感じられる。ねっとりとした油絵らしいマチエールが、その人間的な存在、その実存的な姿を表現する。死を通して生の苦しみが描かれる。悲劇が描かれる。単なる死体が描かれているわけではない。われわれはそのようにしぜんとイメージする。生きているとはそういうことであるにちがいない。そういった生死の中に画家の想像力は浸透していき、この一大モニュマンをつくった。斜めに傾いた柱のその激しい動きと、それに対して水平に、あるいは斜めに横たわる人間たちの群像。上下に黄色い色彩とブルーとグレーが使われている。ブルーは水を、黄色は深い癒しを表すようだ。(高山淳)

 星兼雄「My・みゅうじあむ」。横たわった裸婦と立っている裸婦のフォルムが崩壊しつつある。上方には地球儀がある。壁もまた崩壊しつつある。右のほうには崩壊してしまったフォルムがある。窓の向こうには福島原発を思わせるようなフォルムが見える。人間が砂に変容して塵になり土に戻るような、時間と空間とのクロスするところにあらわれた存在を面白く構成する。左の遠近感をきかせた柵のある窓に洋梨が光を受けて描かれているが、それが実態を失った影のように描かれているところも面白い。(高山淳)

 佐々木良三「マーク ・」。佐々木良三は「マーク I」と「マーク ・」の二点出品である。人間の顔や人間の体が描かれているが、そのまま壊れている。キャンバスの一部(これはプラスティックでできているキャンバスだが)が切られて、厚さ十五センチぐらいの奥行きがあり、そこにヘドロのようなものが垂れている。また、四辺がカーヴしているが、カーヴしているその隙間にやはりヘドロのようなものが入れられている。今回の東北を襲った津波の恐ろしさからこのような表現が生まれたのだろう。表面にはドローイングされた人間のかたち、あるいは屈曲するかたち、建物の一部、散乱する物象、壊れた鍵盤、梯子、様々なものが入れられているが、そういったものが渾沌としている。この渾沌はそのまま画家が今回の津波で受け止めた経験である。その経験がそのまま激しく画面に入れられている。もの派的な激しさの中にデッサンふうなクロッキーふうな線が生かされる。そのフォルムの上にまたヘドロのようなものが掛けられている。ところどころ切り取られ、窪みがあらわれ、十五センチほどの厚さの中にまた内臓的なものがあらわれる。平和な時には考えもしなかった内臓。建物の内臓。海の内臓。人間の内臓。コンクリートの内臓。そんなものを描きながら、それを画家は統合しようとする。それが画家の人間的なドローイングの力である。渾沌の中から立ち上がろうとする動きが、独特の粘りのある形象の中に表現される。灰白色の中にところどころ柔らかなピンクや黄色が捺されて、画家の祈りが隠された虹のような色彩を表す。(高山淳)

 安富信也「ゆれ動く地に立ちてなお十字架は輝けり」。祭壇画を思わせる三分割の画面構成である。中央の家屋をイメージさせる画面には大きく十字架が描かれている。両脇の画面にも小さく十字架が描かれているが、その三つの画面はどこか異空間で、描かれている人物も精霊的な要素を孕んでいるようだ。画家は、昨年の東日本大震災をきっかけにこの作品を描いた。地震や津波によって故郷や家族、全てのものがなくなった地に十字架が立ち輝いている。それは希望と救いの象徴といって良いだろう。この度の震災を通して、画家は一九二三年の関東大震災にもしぜんと思いを馳せたという。東日本大震災よりも被害が甚大だった関東大震災だが、その日の夜に「とおきくにや」という聖歌(三百九十七番)ができた。画題はまさにその歌の一節である。透明感のある青の中に赤や金などの鮮烈な色彩を使いながら、画面のなかで繰り広げられる神と精霊のドラマと、それによる救済のイメージに強く惹き付けられる。(磯部靖)

 瀬川明甫「ある日」。老若男女という言葉があるが、まさにそのとおりの人間群像である。後ろに葡萄棚がある。中にテントウムシ、カタツムリ、セミ、トンボ、蝶、カワセミなどが描かれている。生命のはかなさを背後の昆虫たちが象徴するようだ。そして、その下方に老若男女の群像。五、六歳の女の子が黄色い薔薇を持っているのが切ない。誕生から死までの人間の切ない一生というものが静かに照射される。(高山淳)

7室

 蝦名協子「人・兆」。何かキラキラとしている。背景に光が結晶したようなかたちで置かれているように感じられる。また、下方に細長いストライプの様々な色彩が入れられたフォルムがあって、それもまた不思議な光を放つ。中心に横顔と前向きの二人の女性の重なったフォルムがある。右のほうでは跪いた人間のかたち。そこから立ち上がろうとするかたち。左のほうは逆様になった人間のかたちがある。過去と未来の中間に現在がある。そのことをよく考え、理解する。現在というものが実は不思議な存在であり、現在は瞬時にして過去になり、未来を臨む。そんな現在の不思議さの独特のきらめきがあらわれ、その現在に生きる人間を、画家が静かに荘厳するような雰囲気があらわれているところが面白い。きわめて地上的なものがコンセプチュアルに結晶化される不思議さである。(高山淳)

 宮下直子「マングローブ ・」。宮下直子は「マングローブ」という題名の作品を二点出品である。水から屈曲しながら伸びていく枝が描かれている。そして、新緑のような緑がその枝を取り巻いている。下方の水がそれらと空を映して、深い印象である。その屈曲する枝の形がまるで人間を思わせる。同時に盛んな生命の若葉のイメージの中に白骨化したような死体が浮かび上がるといったダブルイメージがあらわれている。そして、水が周りを映しながら、深いもう一つの対極の世界を表すようだ。生と死のはざまの中にこのマングローブの木の表現があるように感じられる。また、マングローブの形自体が、おそらく写生から始まりながら複雑な強いフォルムとして画面に表現されている。その形自体が魅力である。そのフォルムが生と死と両方のイメージに照らされて、不思議なダンスをしているようだ。(高山淳)

 柏健「存在へ向かって(追憶)」。たくさんの男たちが走っている。あるいはジャンプをしている。あるいは屈伸運動をしている。跪いて伏した裸の男もいる。そんな中に画家自身の顔と亡くなった妻のかたちが下方に浮かび上がる。走る男たちや運動する男たちはまさに仕事をし社会生活の中で生きている人の象徴である。ほんのすこしの休息以外は走り続けているようだ。横になった男を螺旋状のフォルムが取り巻いているのは、休息さえもままならないような、そんな雰囲気もある。そして、これまで生きていた長い人生が回顧される。亡くなった妻の微笑が浮かび上がる。(高山淳)

 井上八重子「あの日」。左手を伸ばした女性の上半身。その三枚のキャンバスの上に描かれたダイナミックなフォルムが、陳列にあたっては真ん中がすこし下方にずらされて、互い違いになる。そのずれが逆に躍動的な力を呼ぶ。向かって二枚の右の手の下方には様々な唇が浮かび上がる。背後に湖のようなフォルムが浮かび上がる。火山湖を思わせる。カルデラ湖は女性と重なる。深い水の奥底にはいつ爆発するかわからない激しいパッションがある。独特のダイナミズムである。目がミステリアスで大きい。川端康成は女性の瞳の中で泳いでみたいと述べているが、この二つの大きな目はそのまま青い惑星地球のイメージと重なるようだ。(高山淳)

 江村正光「生成の遠近法(1)・(2)」。赤い色彩が輝く。あいだに不思議なフォルムがあらわれる。生まれつつあるもののイメージのようだ。鮮やかな緑と輝くような白が引き寄せられる。生命の発現するイメージが輝かしく表現される。(高山淳)

8室

 榊美代子「川岸からの風景」。ライトレッドの被膜力の強い色彩が画面の大半を占めている。そこに燃えるようなピンクの色彩が点じられて、それは桜の様子である。長方形のフォルムは幹を表す。そこに線描きを中心としながら、男女が戯れて歩いている様子、あるいは犬などが描かれている。下方には水が激しく動いて、可憐な花が手前の岸に咲いている。そういった様子を象徴的に色彩のハーモニーの中に表現する。幹が黒もあれば、真っ白く塗られた矩形のフォルムもある。それがあやしく不思議な扉のようで、そこに入ると桜の森の中で道に迷ってしまうような、そんなシュールな気配も感じられる。(高山淳)

 髙橋美則「平泉・ひかり堂」。お堂の中に阿弥陀三尊像などと思われるフォルムが静かに輝いている。イメージによってつくられた世界である。ご開帳の日などにスケッチしながら様々な資料も合わせて、物語のある独特の御堂と風景を表現する。画家には芭蕉の『奥の細道』を絵に描いたものがあるが、そのような延長の中にある歌と絵とがクロスするところにあらわれた文学的絵画世界の魅力である。(高山淳)

 野田好子「秋蝶は小さし ハップルの蝶星雲」。黒い箔を貼ったような空間。バックに百合の花、ヒガンバナなどが咲き誇り、蝶が飛んでいる。右上方には月を思わせるようなフォルムがあらわれている。それはそのまま地球のイメージとも重なって、地球のこの盛んな生殖を行っている星を遠くから眺めているといった趣もある。それぞれのフォルムが強い。クリアで、お互いが響き合う。日本には長い花鳥画の伝統がある。それは自然を再現するのではなく、自然の一つひとつのものをピックアップして目の前に置いて、そのディテールをクリアに描きながら画面に散らして、全体で空間をつくるといった独特の方法であるが、そういった造形的コンポジションもこの作品から感じることができる。(高山淳)

 斎藤静輝「記憶のなかの形」。若い母親と思われる女性。老人。建物。海。仕事をする男。そんなイメージを独特のアンティームな雰囲気のなかに形象化し構成する。じんわりと画面の内側からオレンジ色の光が浸透してくるような趣である。もともと天性のカラリストである。今回の津波の災害のショックなども深く受け止めながら、生活の敬虔な歌を画家は表現する。(高山淳)

 千原稔「遠雷(響灘)」。下方には浜に波が寄せている様子が描かれている。グレーの空に雲がわだかまり、その中から稲光がいくつも下りてきている。その稲光の様子が不思議な艶めかしさの中に描かれている。芸術家のインスピレーションが脳裏に発するときのイメージのような、そんな性質を感じる。激しいが、きわめて繊細なもの。その周りに淡いピンクや青色などの色彩が入れられていて、その光る様子はメインの神経が活性化して働いているような、そんな雰囲気で、きわめて象徴的、かつ暗示的である。水平線近くまで稲光が下りていく様子は、もちろん雷が落ちたわけだけれども、下方の海のこの広がりとともに見ると、深い無意識の世界の中に波立つもの、そして空の脳髄の中からインスピレーションがあらわれ、脳の中の細胞を輝かせて、何か新しいことが起きる予兆といったイメージが感じられるのである。(高山淳)

9室

 石丸康生「大津島から」。大津島は瀬戸内海の島で、画家がアトリエを持って住んでいるところである。今回は二つの画面からできている。左の画面はF型の横の画面で、右はM型のように思えるのだが、面白いのは高さが違うことである。右のほうの縦長の画面がすこし沈んでいる。そして、二つの画面を通過するように白いフォルムがあらわれる。不思議な顔のような表情である。その周りを青いフォルムが包む。ちょうど水がその窪みを流れているような、そんな雰囲気もある。あるいは、浮かび上がってくるこの温かな存在には手触りがあって、フォートリエの戦中の壁に描かれた顔を思わせるところがある。一つの大津島のイメージを柔らかな顔のように画家は描いている。ところどころコラージュした布のあいだに亀裂が走って、そのあいだをタコ糸で結んでいる。それが独特の繊細なメロディのような動きをつくる。繊細な感受性をもつ豊かな肉体のようなイメージがこの大津島に表れているところが興味深い。(高山淳)

10室

 小川浩司「Zou-2012k」。手前に四頭の象の顔が描かれている。バックには向日葵が咲き、スカイツリーのような塔が伸びている。福島原発の壊れた建物のようなフォルムも浮かび上がる。右のほうには富士が顔を出し、バックに太陽を背負っている。対象のフォルムを輪郭線でもってフラットに表現しながら中に色面を入れていき、フォルムの大小によって遠近感をつくる。象はあらゆるものを許容する優しい存在の象徴のようだ。日本がんばれといったイメージをポップに歌い上げる。(高山淳)

 上條喜美子「春が来た」。画面一面にタンポポの黄色い花が咲いている。正面性から捉えて、オールオーバー的に配されていて、独特の装飾性が感じられる。左右にほぼ相似の少女が立っている。着ている服が赤いガーベラのような花模様に対して、片一方は露草に赤い実のついたような花柄の文様。髪型がすこし異なる。真ん中におとぎ話に出てくるような煙突のある家があり、その壁に薔薇の花が浮き出ている。まさに春が来た喜びを画面の上に構成している。明るい色彩が強いテンションの中にハーモナイズする。自然。森。春。そういったイメージを説明するのではなく、象徴的に表現する。二人の女性は森の妖精のような趣であるところも面白い。また、そこに使われたピンクが独特で、明るい波動を引き起こし、タンポポの黄色と心地好く響き合う。(高山淳)

 浜田公子「雲と樹々の映る湖面」。二枚のキャンバスを日本画でいう一双のように扱っている。中景に湖が広がり、対岸に針葉樹の林。その向こうには青い山があり、山の向こうには雪をかぶった峰が立ち上がる。青い空に白い雲が浮かび、それを湖面が映している。近景は塀によって手前が室内であるということを示し、そこに黒いシックな机と椅子が置かれている。机には左にレモンと新聞、右にはレモン色の液体の入ったグラスに葡萄。フランス系の新聞と思われるが、その新聞が風に靡いているように置かれている。静かに画面の中を風が渡っているように感じられる。その風が爽やかで、詩情を運んでくる。瞑想しながら夢想するようなイメージ。われわれの心の中にある憧れ、よりよきものへの希望、そういったイメージがこの山と空と湖の風景から感じられる。白い雲をまさに自然の息のように、あるいは詩情を中に含んだ存在のように三つ位置を変えながら置くという構成も優れている。(高山淳)

 遠藤賢太郎「時の彩り(2)」。(1)と(2)の二枚の作品によってできていて、一双の趣である。下方にピンク色の樹木が描かれている。それは桜の木のようにも桃の木のようにも感じられる。春が来て、花が咲いた。花を咲かせている樹木である。ピンクの中に紫や緑が入れられていて、深い味わいがある。そこに道が向かっている。上方に明るいベージュがかった灰白色の空間がつくられ、それが青い色面を囲いこんでいる。青い色面は青空である。あるいは海でもある。空と海とが重なったようなイメージがあらわれている。それがそのまま宝石のような色彩としてあらわれている。空と海という無限なるものをそのように象徴的なフォルムに表現する画家のイメージと構成力に敬服する。そして、それを囲いこむベージュの空間はそのまま上方にも大地があるように、そんな雰囲気になっている。一双の青い空が二つの目のように感じられる。その巨大な深い眼差しが地上を眺めているような趣である。そしていまその地上は可憐な花が咲いた明るい春の自然である。その巨大なる目が無限なるものの存在を暗示させるところが面白い。(高山淳)

11室

 山岸恵子「君のいた森」。帽子をかぶった女性が左に立っている。右のほうは隕石が落下してきているような、動きのある抽象的な空間である。音楽を聴きながら浮かび上がってくるイメージを感じさせる。しっとりとした緑やベージュの色彩に親近感、あるいは親和力が感じられる。(高山淳)

 上原一馬「以心伝心(音楽電波)」。右に女性が立っていて、その肩から黒い翼が伸びている。左のほうにはカモシカがいる。あいだにエレキギターがある。バックの銀灰色に花や抽象的なフォルムなどが配されて、独特のリズムをつくる。遠景には電波塔のようなものがいくつか描かれている。バックのグレーの銀灰色がしっとりとしている。ある意味でモノトーンを中心にしながら色彩を散りばめている。フォルムに対する感覚のよさと独特の美意識が感じられる。(高山淳)

 中山正「アフリカ(種の起源)」。力強い画面である。いくつもフォルムが立ち上がって、そのカーヴする形や円などがお互いに相まって強いビートをきかせる。「種の起源」という副題も面白い。アフリカの大地から生命がその命を伸ばして植物になり、あるいは動物になるといった趣である。赤茶色の色彩がパッショネートで、緑と響き合う。一種呪術的なパワーが感じられる。(高山淳)

12室

 東條新一郎「トカラの夏」。トカラ列島は南西諸島に位置し、画家の在住する鹿児島県に属する。今回は灰白色の色面の上下に、丸みを帯びた暗色の立体部分を配置している。かなり重厚なマチエールによって、灰白色の部分はキラキラと輝いているようだ。暗色の部分はコールタールを使ってさらに重厚である。島の浮かぶ海をイメージさせるようで、大自然の魅力を強く訴えかけてくる。塗ったり削ったりを幾度も繰り返して調子を付けながら、爽やかな空気感を感じさせるところもまた魅力である。(磯部靖)

 本田正史「行方」。下方から樹木の幹が上方に伸びていき、その上方の葉のあるところにアフリカの仮面のようなフォルムがいくつもあらわれている。黄土色系のバックにピンクの色彩。そして、黒による顔やフォルムがダイナミックに表現されている。生命の木といったイメージがしぜんと画面から感じられる。黄土に対してバックの上方は黒く、生と死の間にある人生を癒すような、そんな趣も感じられる。(高山淳)

 藤本洋文「二人・Two Persons」。両側に赤い楕円と青い楕円。中にムニョムニョと動くフォルムがあらわれ、あいだをカーヴする川のようなフォルムがつくられ、上方に目がある。楽しいジャズの音楽が画面から聞こえてくるようだ。都会と自然、男と女、基本的な要素をユニークなコンポジションの中に抽象的なフォルムを使いながら歌い上げる。グレーが豊かなニュアンスを感じさせる。(高山淳)

 進藤裕代「大地 ・」。触覚的な要素が強い。画面がイメージのスクリーンとなって、その中に画家は一つひとつ丹念にイメージを描いていく。地中から伸びた茎に葉がついている。上方には植物が宙に浮かんで、葉も浮かんでいる。小さな大根のようなフォルムが見える。下方からはネギのようなフォルムが立ち上がり、その触手を伸ばしている。画面に近づくとベージュの空間の中に様々なフォルムが入れられていることがわかる。下方に大地があり、上方に空があるように見えるが、その空のように見えるところも実は大地で、その大地のイメージを上から見、横から見ながら、つまり心象空間の中に表現する。そこに芽吹く命を大切に扱いながら、独特の具象的な空間があらわれる。どこかクレーの表現を思わせるところがある。(高山淳)

13室

 井上政好「―錆・蝕―」。題名のようにまさに画面全体に様々な錆がつくられている趣である。その錆の朱色が不思議な輝きを見せる。日本にはわび、さびの文化がある。なまなものではなく、時間によって腐蝕されたものに美しさを感じさせる。うつわにしても、壊れたものを継いだりして、そこに味わいを見る。時間というものが錆をつくるわけだから、ここにあらわれている内容は時間というものの美しさ、あるいは時間というものの不思議さといってよい。錆がスタンダールが言う洞窟の中の岩塩の結晶のようなイメージとしてあらわれている。スタンダールはその岩塩の結晶を恋愛の結晶のたとえとして述べているのだが。(高山淳)

 松野良治「靡く(なびく)」。正方形の画面の中にパネルを三枚貼ってある。その高低の切り込みによってフォルムが浮かび上がる。充実した存在感がある。自由な四辺形が三つ重なって、それが正方形の画面の上に置かれているのだが、そのフォルムが静かにもこもこと動き出しそうな、そんな動きが感じられる。そして、深い空間の奥行きがあらわれる。いちばん上方のフォルムはすこし紫がかった赤色がかった色彩で、だんだんと調子が落とされ、背後の黒になる。その色彩効果もあいまって、空間から徐々にせりだしてくるような、そんなムーヴマンがユニーク。(高山淳)

14室

 山寺重子「甦る春」。赤が強い存在感をもって使われている。赤の中に暗い赤、あるいはショッキングピンクのような、そんな蛍光色的な赤の色彩。二つのものが赤の中に組み合いながら動いていく。そこにキャンバスの地そのままの白、あるいは塗った白、黄色、青、緑などが置かれて、強い生命感をたたえている。ムニョムニョと下方から上方に上っていく動きは、植物の生命感を象徴するのだろうか。そこに月や太陽や光や水、様々な自然の原型が寄せ集められ、それがそのまま人間のパッションのイメージと重なるところが面白い。(高山淳)

 瀬尾昭夫「春の庭 ・」。色彩に輝きがある。まるで暗いステンドグラスを見るような趣である。そこに鳥や猫などが配され、あいだに青や紫、オレンジなどの色面が置かれている。庭を室内の空間に転置させ構成したような、そんな内的な趣のなかに色彩が輝く。(高山淳)

 西村駿一「ふるさと 2012─・」。ピンクの色彩に茫漠たる深い味わいがある。そのあいだから黒のようなインディゴのような色彩でフォルムが浮かび上がる。それは遠望する風景を墨によって表現したような趣である。墨によるクリアな懐かしいふるさとのパノラマの上にピンクの靄がかかり、風景が見え隠れするといった趣。それはそのまま心象空間の深さと重なる。そして、深いノスタルジーを醸し出す。(高山淳)

15室

 安井正子「(K-99-31-3)」。ピンクを縦に細やかに彩色しながら、そこに青や水色で横に伸びる曲線をいくつも描いている。画面の縁は朱で縁取りされている。どこか風景的要素を感じさせながら、深いイメージの世界に潜り込んだような世界観もある。やわらかな色調の組み合わせを細やかに繰り返しながら、色彩を編み込むように描いているところが興味深い。画家の豊かなセンスを感じさせる作品である。(磯部靖)

17室

 谷口朋栄「煙を吐くようにもう一度生まれてくる」。やわらかな線の扱いが魅力的である。水面に浮かぶ女性とそこから浮かび上がってきたもう一人の女性。繊細な筆の扱いができるからこその描写である。色もほんのりと置くだけにして、どこか異世界を感じさせるミステリアスな雰囲気もまた印象的である。(磯部靖)

18室

 甲原安「One day 2012-・ Oita」。自動車の内部からフロントガラス越しに眺めた街の風景である。その大胆な構図に惹き付けられる。車内は薄暗くやや青みがかっており、街の風景は色彩豊かに描かれている。その街をシルエットになった人々が闊歩している。淡々と描いているようで、画家はこの作品にかなり入り込んでいる。ふと目にとまった日常の風景を独特の表現方法で切り取って描いているところに注目した。(磯部靖)

 辻久美子「crab-boat」。横長の画面に大きな蟹を描いている。蟹の甲羅には不思議な紋様が刻まれている。その紋様が独特で印象的である。蟹の上部には大きな魚などが乗っている。力強いタッチとフォルムによって、画家のイメージの世界が眼前に立ち上がってくる。それによる説得力もまた魅力である。(磯部靖)

 小西雅也「土曜の夜と日曜の朝」。向かって右側の画面が夜、左側が朝になっていて、男がピアノを弾いている。人物は板や麻を使うことで半立体的に造形されている。そのピアノを弾く様子がリズミカルで、小気味良いテンポを作り出している。青や黄、緑、赤など様々な色彩が使われているが、それもまた作品の中に流れているメロディと相俟って、画面全体で鑑賞者を誘い込むような魅力を作り出している。(磯部靖)

19室

 長谷川輝和「黒い水」。水の入った桶を抱えた男とその左側の女性がこちらを向いて立っている。桶に入っている水は黒い。背後には沼があり、どこか不穏な雰囲気が漂っている。沼にはラジオや熊のぬいぐるみなどが浮かんでいる。現代社会に対して強い警鐘が鳴らされている。それが、この画家独特のデフォルメされた人物像によって強い無言のメッセージを孕んで鑑賞者に語りかけてくるようだ。終戦間際の原爆投下後には黒い雨が降ったというが、それが昨今の原発問題と重なり、この黒い水が強い余韻を残す。(磯部靖)

 清水恭平「アトリエ」。モデルを前に絵を描く男の悩む様子が描かれている。画家自身の日々の苦悩が込められているようで、作品の中に強いリアリティがある。周囲に散らばる小物などもしっかりと描かれている。奥に立つモデルの女性と左右手前の画家とイーゼルによって中央に空間ができるという構図の取り方もよく考えられていると思う。(磯部靖)

 中村宗男「風の刻・春」。背の低い赤い椿に囲まれたその中央に、少女が一人立っている。少女は身体の中央に両手を持ってきて、何かを包み込むようなポーズをしている。深い赤を効果的に扱いながら、画面を上下に色彩によって二分している。そういった巧みな構成と無垢な少女の存在が鑑賞者を強く惹き付ける。(磯部靖)

20室

 佐藤功「来訪者」。白い羽根をそっと支える両掌を画面いっぱいに描いている。実に細やかなその描写力が、作品に豊かな表情を作り出している。そっと舞い降りてきた羽根の軽やかで繊細な様子に、画家の優しい眼差しを感じる。清潔な色彩の扱いにもまた注目する。(磯部靖)

 小西千穂「星の話しを聞く」。室内で本を読んでもらう少女とその家族が描かれている。右奥の窓辺では、少年が星空を眺めている。本に書いてある星座を確認しにいっているようだ。背後に灰白色を施しながら、人物には暖色系を使って画面をまとめている。安定した構図の中に、家族というもののぬくもり、愛情の表現をじっくりと描いている。(磯部靖)

 本田紀子「The 迷路」。モノトーンの色彩によって巧みに複雑な構図を描ききっている。階段と柱によって直線を組み合わせ、それが独特のリズムを作り出している。その中の明暗を細やかに捉え、どこか夢の中をさまようような幻想感を感じさせるところが特に印象に残った。(磯部靖)

21室

 高木美希「Galaxy Express」。愛らしい少女と動物たちが宇宙を飛んでいる。画面の右側に大きく少女を置いてドラマチックな画面構成を作り、そこに豊かな感性によって楽しげな世界観を構築している。ポップな雰囲気の中に確かな構成力を感じさせる。(磯部靖)

24室

 石井秀隣「兆」。灰白色の輝くような画面が強い魅力を放っている。そしてその背後にはブルー系の色彩が見え隠れしている。厚く絵具を重ねながらも、色彩の透明感や輝きを失っていないところが特によい。ブルーの色彩からは、空、海といったイメージを自ずと想起させられるが、自然の持つ美しさと恐ろしさという表裏一体の偉大さを画家は丹念に作品に描き起こしているようだ。これまでよりも画面がより純化してきているようなところも、画家の感性がより敏感になってきたようで興味深い。(磯部靖)

25室

 藤井裕子「Breeze'12―窓―」。少し開けられた扉とその右側に小さな窓がある。黄土色の扉の向こう側は、白い光に包まれているようだ。また、窓は深い暗色に染められている。色面でフォルムを象(かたど)りながら、その色面に実に豊かな表情を与えている。そうやって描かれた扉や壁には人の温もりのようなものがある。そしてその画面の中に、白く細長い曲線が三本縦に伸びている。それが、この情景の中で呼吸する自然の空気感を感じさせるようだ。具象と抽象を行き来しながら、自身の感性を大切に描いている。(磯部靖)

 鳥井公子「人として」。五人の裸の男女を描いている。その内手前の三人は胸から赤い血を流している。痛々しい情景である。一番手前の女性は右手からも血を流している。人間が生きていく上で他の動物を食べなければいけないのは仕方のないことだが、そのための痛みを表現しているようだ。つまり生きていくということは決してきれい事ではなく、自身の手を汚さなければいけないという、自然界ではごく当たり前のことだということである。また、背後は青と灰白色によって彩色されている。考え過ぎかもしれないが、昨年の地震による津波被害に対する画家自身の心の痛みも重ねられているようにも思える。いずれにせよ、確かなデッサン力を背景に、繊細な心の機微をこのような群像によって表現しているオリジナル性が強く印象に残る。(磯部靖)

26室

 門田敏江「untitled I」。頭をこちらに向けてベッドにうつ伏せに寝そべっている女子高生を描いている。薄暗い室内で、この少女の髪とセーラー服の暗色をうまく浮かび上がらせている。確かな描写力を感じさせる。(磯部靖)

 阿部正彦「12月30日」椅子に腰掛けた裸婦の後ろ姿が鋳型のように画面に凹むように象(かたど)られている。女性のやわらかな曲線によるフォルムとその型取りに不思議な感覚を覚える。女性は真っ暗な窓を室内から眺めている。この室内は女性の記憶の中で、女性自身が深い瞑想に入っているのかもしれない。独特のイメージの世界が展開されているようで印象に残った。(磯部靖)

27室

 高見基秀「SHOW」。今にも崩れていくビルを描いている。その崩落するドラマチックな情景を見る視点がおもしろい。下方に大きく空間を取っているのも巻き起こる砂埃が広がっていく動きを感じさせる。そういった独特の余韻にオリジナリティを感じさせる。(磯部靖)

 中野紋「次はどこまでお散歩しようか?」。新人賞。テーブルに寄りかかった緑の髪の女性と猫が描かれている。女性の様相がおもしろい。この一人と一匹に強いキャラクター性があって、それが鑑賞者の脳裏に強く残るようだ。(磯部靖)

28室

 井山庄司「糸杉と羊群」。点景でぽつぽつと描かれた羊の群れを望む風景である。緑系の色彩を繊細にトーンを変えながら扱って、草原の起伏を表現している。そこに葉を付けた糸杉が点々と並び立っている。淡々と描かれた風景のようで、そこに深い味わいがある。少し薄暗くなった空もまた、それらの色彩とうまく響き合っている。画家のこの風景に対する深い愛情を感じさせる。(磯部靖)

 竹内佑未「うごく」。国画賞。細やかな線描で、独自のイメージの世界を構築している。雲や岩が擬人化された風景が生き生きと描かれている。それらをじっと見つめる中央の女性が画家自身のようで興味深い。(磯部靖)

 中川孝司「エーテル」。正面に若い男性を描き、その背後には海が広がり、さらに奥には山と入道雲が立ち上がっている。その重層的な構図が作品に奥行きを作り出している。少年の若々しくも尖った雰囲気と背後の雄大な自然の様子が対比されているところが、単なる肖像に終わっておらずおもしろい。(磯部靖)

 石田克「月下の、ユラユラ」。絵画部奨励賞。力強いフォルムで月下で踊る男女を描いている。大きく目を開いたその女性の表情が特に印象的である。アルカイックな生命力が画面の中に満ち溢れているようだ。よく見ると、月や人物の内部には無数の人間の表情が見て取れる。この二人は全ての人間の祖である神話にあるような男女とも感じさせる。そういった根源的な人間の持つ魅力を強く感じさせて印象的である。(磯部靖)

 桶谷紫乃「a holiday morning II」。新人賞。パステル調の色彩による画面がやわらかくて心地よい。様々なものが散らばった室内の様子も、小物によって少女の日常生活を感じさせるようでおもしろい演出である。爪を切る少女の顔は見えないが、その人となりがうかがえる。画面構成と演出に注目した。(磯部靖)

 秋満亘「蟲の人 Re1」。絵画部奨励賞。赤と白を基調に、物語の一場面のような世界を描いている。小人と植物によって紡がれる物語の内容に興味がそそられる。重厚な画面がそういった世界観を支えている。(磯部靖)

34室

 澤田浩明「抽象絵画と具象絵画と僕」。画面を上下に分けて、上部をさらに二つに分けて構成している。抽象と具象作品を前にしながら、下方の人物はそれに対してあまり興味がないようだ。深いテーマでありながらも、それを痛快に嫌みなく描いているところが特におもしろい。(磯部靖)

36室

 富田郁子「友禅曼陀羅─牡丹─」。画面の中に牡丹の花や猫、そして友禅など、画家の愛するものを複雑に描き込んでいる。しかしそれらがうまくまとめられて構成されている。色彩も豊かで見ていて楽しい。画面中央やや右にある青海波を背景にトルソのような人体があり、そこに鳳凰が飛んでいる。それが作品に一つの動きを作り出してもいる。的確な描写力にもまた注目する。(磯部靖)

37室

 森本憲司「夜明けの詩」。情感豊かな風景である。日の昇る雪景であるが、一日の始まりを感じさせる清々しい雰囲気である。右側の道にゆっくりと歩く人物が点景で描かれていて、そういった描写がこの風景を味わい深いものに仕立て上げている。画面の中央に裸木を一本描くところも構図としておもしろい。(磯部靖)

39室

 辰巳ミレイ「刻(Waiter 1)」。太ったウェイターを肖像画風に描いている。ウェイターの肉感たっぷりなフォルムもじっくりと描かれていて、そのにっこり微笑んだ表情が何ともいえない印象を残す。(磯部靖)

〈彫刻室〉

 峯田敏郎「記念撮影―終わらないアンコール・311のアリア―」。三つの木のブロックの前で女性が歌を歌っている。白い色彩を加彩して朱色が塗られている。ひつぎの中の女性のような趣。朱色、かつての丹色にはそのようなひつぎに使うような呪術的な要素があったが、今回「311のアリア」という副題がついているように、亡くなった人々のレクイエムといった趣が感じられる。後ろのブロックの裂け目から花のようなものが顔をのぞかせているのもそうだし、歌手の頭に白い花が置かれているのも、そういった印象を強くする。一種異様な空間の密度が感じられる。(高山淳)

 関谷光生「受容する心」。老人の首である。下方を見て、半ば瞑目している様子である。頭部は皮膚がそのまま露出していて、独特な内的な雰囲気がある。強い想念の中にいる人間。受容する心とは、様々な運命を受容するという意味になるのだろうか。内面的なものの表現として強い印象を醸し出す。(高山淳)

 本郷寛「歩むこと」。老婆の立像だが、ずいぶん腰が曲がっている。乾漆である。作者によると、まだ未完だという。手首や背骨が曲がっていて、いまにも骨が折れそうな弱々しい雰囲気であるが、しかし立っている。九十歳ぐらいの女性のように思われる。日本人の老年の姿のモニュマンである。世阿弥に「老木の花」という言葉があるが、これほど弱々しくても、精神的オーラが周りに醸し出されているところが、いかにもこの作者らしい。(高山淳)

 西村公泉「サルタヒコ」。サルタヒコは天孫降臨に登場する国津神である。下方の古木から体を起こして指差している像は、圧倒的な存在感がある。たしかに上方からこの下方を眺めて、ぐっとパーツをつくって絞り込むような、そんなムーヴマンがこの彫刻にあるところが面白い。「邇邇芸尊が天降りしようとしたとき、天の八衢(やち また)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいた。その神の鼻長は七咫、背長は七尺、目が八咫鏡のように、またホオズキのように照り輝いているという姿であった。そこで天照大神と高木神は天宇(あめの)受売命(う ず め)に、その神の元へ行って誰であるか尋ねるよう命じた。その神が国津神の猿田彦で、邇邇芸尊らの先導をしようと迎えに来たのであった」。国津神であるから、ある意味で日本人の先祖とも言うべき圧倒的なエネルギーがこの彫刻、あるいはこのフォルムから感じられる。とくに自然木をそのまま使いながら彫刻した、渾沌として渦巻くその猿田彦の立つステージというか、その場所のもつあやしい雰囲気がとくに面白く感じられる。(高山淳)

 藤田英樹「雲の庭 ・」。白い雲を思わせるブロックの上に女性が立っている。ヌードである。両手のひらを前に向けて肱をすこし曲げている。顔に化粧がされているが、この裸の肉体に一枚ヴェールがかぶさっているような趣であるところが面白い。純粋なヌードとは言いがたい様子がある。いわば裸体全体がそのまま能の面に近いようなものとしてあらわれている。ほとんど両足に均等な重心を置いて、白い雲の上に立っているこの女性は、身近であると同時に仰ぎ見るような独特のイメージを醸し出す。いわば女性の中にある聖性とも言うべきものの表現と考えられる。(高山淳)

 水野智吉「風をたどる」。右足に重心を置き、左足をすこし下げて、上体を右にひねった裸婦像である。豊満なボリューム感と同時にそのフォルムの中に内側から発現する力があり、それが独特の生命感をつくりだす。シンプルなようで実に微妙な起伏をもつモデリングが見事である。(高山淳)

 堀拓馬「泥の男」。今回の津波の中からもう一度立ち上がり、再生のイメージをここに作者はつくりだしたように感じられる。鉄を溶かし、じかにフォルムをつくっていく。そういった作業によって強いマチエールが生まれるし、また、激しいダイナミックな動きの中にあるムーヴマンが見事である。(高山淳)

 石谷孝二「湖虹」。湖の中に小さな山のような島がある。その上辺から虹が立っている。湖の周りのフォルムはゆるやかな起伏をもつ楕円形の形である。言ってみれば、盥の中に小さな二つの峰をもつフォルムがあり、そこから虹が立っているわけだが、独特の空間の波動を醸し出す。虹の部分の彩色、黒く焼いた部分や色をつけた部分、そして赤橙黄緑青藍というように虹色をつけた雲のもっこりとしたフォルム。風景というより山水の趣である。胸中山水という言葉があるように、心象の中に山水を引き寄せて構成する。たとえば日本の庭の枯れ山水などと同様のイメージの展開である。小さなフォルムに大きな山水、水や山のイメージをそこにつくる。重量感と同時に深い奥行きが感じられる。その奥行きの中から、いま現れた虹がまことに新鮮な印象である。(高山淳)

 靏田清二「春の予感」。大理石に十歳ぐらいの少女のフォルムを彫り出している。大きな目と笑った唇が印象的である。その目は地中海のギリシャや、ギリシャ以前の彫刻との共通性を感じる。単なる少女像というより、どこか神的なイメージが引き寄せられている。(高山淳)

 鈴木琢磨「存在と言う力」。頭と両腕のない、いわばトルソである。しかし、両足はつくられていて、両手を上に伸ばして立っている。上方に伸びていくような力が彫刻の中によくつくられている。漲るようなボリューム感と動きが魅力。(高山淳)

 世良伸幸「虫が教えてくれたこと」。彫刻部奨励賞。五つの花弁のようなフォルムでできているが、横から見ると、四つの羽にトンボの胴体のようなもの、そして頭に羽がついているようなフォルムである。虫と花とが合体して重なったような、独特の空間とフォルムの面白さがある。丸鑿の韻律が心地好い。花にとまるトンボに接近して、その中にある小宇宙をこの木彫の中に表現したような趣である。(高山淳)

 鈴木雅大「鱗」。F氏奨励賞。金属のネットをうまく利用してカメレオンをつくっている。木の台の上にある。そして、大きな目、尻尾、自由にデフォルメしながら、ファンタジーを現実化させている。また、そのネットの中にモコモコとした小石のようなフォルムを連続させるようにして、そこに彩色している。色がキラキラと輝いて透明感がある。その色彩とネットによって、いまカメレオンに変身してここに現れたような、そういったヴィヴィッドな生命感を湛えている。イメージの強さが鑑賞者を引き寄せる。若々しい才能のある作品である。(高山淳)

 池田秀俊「鳥の歌が聞こえる」。二十五、六歳ぐらいの女性だろうか。襟巻きをして遠くを眺めている。題名によると、鳥の歌を聴いている。林の中に立っているのだろうか。肖像彫刻でありながら、もっと内的なものがある。舟越保武の彫刻が、ある意味で肖像彫刻ふうな強さをもちながらもっと普遍的な女性の存在感、あるいは宗教性を獲得するのと同様の性質をもつ。(高山淳)

 大原央聡「こども」。木彫である。一木から彫り出したようだ。十歳ぐらいの少女のようだ。ワンピース状の子供服を着ているのだが、胸からおなかにかけて膨らんでいる様子。そして、衣服には茶系の色彩がかけられ、手足も肌色がつけられている。鑿の跡が白く、その彩色の中からあらわれている。それがまるで木漏れ日が当たっているような、独特の光を引き寄せる。(高山淳)

 藁谷収「ARATANAMEGUMI」。大理石に低い円柱。四角錐。回転する把手のようなもののついた不思議な建物。もっこりとした四本の樹木の連続した形。一本の樹木の上方が双葉のように立ち上がる形。イタリアの井戸や樹木、ロマネスク教会、ピサの斜塔。そんなイメージを大理石の上に彫り込んだような印象。キリコはリングを回して走る女性と塔の影によって形而上的絵画とも言われるものを表現したが、この作品も現実のフォルムのようでありながら、ファンタジックな要素があって、もう一つ別な世界、いわば詩の世界にわれわれを連れていくような、そんなイメージの吸引力がある。シュールというより、形而上的なものの存在を暗示する容器のような魅力に注目。(高山淳)

 鈴木茂「光の軌跡」。御影石の上に紡錘状のガラスのフォルムがつくられ、上方にエッジが立てられている。光を閉じ込めたもの。あるいは、光と水とが重なって、それを目に見えるように造形化したような雰囲気もある。光が当たるとキラキラ輝く。ガラスという物質感を出しながら、本来、手でさわれない、目に見えないが確実に存在する光というものを、目に見えるかたちとしてとらえ、表現しようとする姿勢に好感をもつ。(高山淳)

 本郷芳哉「積んできたこと。そこから見えるもの。」。鉄の板に熱を与えて槌で叩いてデコボコにしてある。そんな板が何枚も重ねられている。まるでぬかるんだ大地の様子であるが、鉄であるためにそれがまた独特の波動と動きをつくりだす。見ているうちに、備前の陶芸のことを思う。備前の陶芸は土を高温の中で焼いて、独特のマチエールの強さがあらわれる。これは鉄に高熱を与えてつくられた存在感のあるものである。彫刻というよりベーシックな自然との触れ合い、自然のエネルギーを引き寄せた作品としてユニークに感じる。(高山淳)

 赤羽雄太「交信装置」。千野賞。上向きに横になった人間のフォルム。足から首までは丸太によってできていて、その先に二つの足がつけられ、丸太の上に頭がつけられ、そこに水平な弥次郎兵衛のようなフォルムがつけられている。独特の韻律である。交信装置と言われると、そんな印象である。SF映画で人間がサイボーグになったり様々な変身をする一連のものがあるが、そういった映像の影響もあるように思う。いずれにしても、交信という独特のイメージを面白くアレンジしている。(高山淳)

 新井浩「蝶が舞う森―いつか―」。二人の少女。胴体は重ねられて、一つの直方体の中に入れられている。手がパントマイムのような独特の動きをつくる。頭に蝶がとまっている。刻々と動いていく時間軸の中にこの女性はいる。(高山淳)

 古川智佳子「ガーラント」。イグアナの子供のようなものが面白く愛らしく表現されている。粗削りのフォルムが逆にピュアな生命感をつくりだす。(高山淳)

 三島樹一「ちきゅうのたまご―OOFUKU MAME―」。升の外側に五つ、中に十ぐらいの天(そら)豆(まめ)がつくられている。柔らかで、艶やかで、独特の生命感をもつ。種というもののもつ不思議な力。天豆の莢を取って一分ほど茹でて食べるとたいへんおいしいが、あの天豆のもつ神々しさ、初々しさといったイメージもこの彫刻に感じる。原初的なもの、胎児のようなもの、内側にすべての可能性をもちながら、独特のカーヴをもってそこからすこし芽をのぞかせている豆の様子。ユニークで愛らしい。(高山淳)

 笠原鉄明「この地より始まる」。一木から男女の像を彫り出す。男は右腕をまだ彫りすすんでいない方形の木のかたまりから出し、女性は両手がそこから伸びている。独特の韻律がある。顔の表情など実に見事である。その個的な女性、男性の顔をつくりながら、単なる描写ではないある本質的な動きというものが内側から張り出してくるような、そんな存在感がある。ともに静かに呼吸をしているようだ。木彫の世界で一種の名人芸と言ってよい世界をつくる。彩色して、一種身近な存在として置かれているが、その直方体の原木の内側から放射状にあらわれてくるような動きが、この作品の彫刻性だと思う。(高山淳)

 冨森士史「胎動 2012」。新人賞。巨大な龍がその胴体を絡ませて爪を伸ばし球を握っているような、そんなイメージがダイナミックに表現されている。金属による作品で、制作工程もなかなかテクニックが要るにちがいない。龍という架空の恐ろしいエネルギーをもった存在を実に面白く造形しているところに注目。(高山淳)

〈野外彫刻〉

 大成浩「風の地平線―蜃気楼 ・(部分2)」。楕円形の円柱に水平の二つのフォルムが上下つくられる。また、円柱にカーヴするフォルムが彫り込まれて、独特の大成スタイルのフォルムがあらわれる。同じようなタイプのものをこれまでも繰り返しつくってきた。存在感がありながら、風の音にメロディが鳴るような繊細な表情があらわれる。それは水平の断面、あるいはカーヴの断面の鑿を入れたそのままの様子と磨いた部分との対照によるところもある。また、白御影が光の中にキラキラ輝いている様子は、実にモニュマン的であると同時にピュアなイメージがある。蜃気楼という副題がついているのもうなずける。この立体が横にずっと並んだものが設置された写真があるが、圧巻と言ってよい。自然からイメージをもらうこと。それに対して人間の営為による彫刻のイメージとがクロスする。いわば風景と彫刻家のイメージとがクロスする中にあらわれる詩の世界のようなイメージに惹かれる。それを支える基本の楕円状の柱、その造形が見事である。(高山淳)

 原透「特異点のある石」。立方体の一つの角をぐっと内部に押し込む。それによって稜線にカーヴが生まれ、渦巻き状のようなフォルムが生まれ、その稜線は奥深く穴のようなかたちになっている。そういった赤い御影石による作品である。ひずんだ形。そこにあらわれる不思議な力。外側に張り出してくるポジティヴな力ではなく、内側に引き寄せるようなブラックホールを思わせるようなネガティヴな力が、正立方体という幾何学形態の中につくられる。茶系の御影石という存在感がそれに加わって、独特の造形としての面白さが生まれる。シュールな気配もまた魅力。(高山淳)

〈版画室〉

 世古剛「マスク ・」。「仮面は、単なる顔面彫刻ではない。役者のおもてにかけられ、劇中人物や観客との間におかれて、はじめてペルソナとして生きる」。黒人彫刻を思わせるような仮面が右に二つ。左のほうは別のマスクに覆われた顔が見える。ボーリングのピンを思わせるようなフォルムの上方にマスクがある。英文の言葉が使われる。透明な光線を中に入れたようなピンクや黄色、緑の色彩。いわば仮面による詩とも言うべき空間があらわれる。仮面が人間の顔以上に強くヴィヴィッドに扱われ、それが構成される中に古代人と現代社会に生きる、両方にもつながるような深いその存在理由がポップに表現される。(高山淳)

 サイトウ良「瞑―流れゆく刻」。「時は移り変わる。諸行無常、であるが人類は常に前に前に、空是即色では……。等々想像し表現してみました」。諸行無常、色即是空空即是色、般若心経的な世界観を面白く表現している。透明な青がまさにその空の表現となって、宇宙的な広がりを見せる。両側の紫から伸びるクロスする斜線が三角形の相似の黒をつくり、上方に球体の白があらわれる。球体は下方にも大きな青いグラデーションの中にあらわれる。天の川を思わせるような上方のストライプ。それはまた太陽の光も表すようだが、そんな中に無常の風が吹く。無常であるがゆえに、かえって情念が純粋化され、色彩が輝く。(高山淳)

 藤田和十「月影」。「月光シリーズの一点。月影が雪山に投影するところをウエク・ポイントとする。雲海に散見する山肌に苦心した」。なだらかな月山のような山。その山の不思議な青緑色の色彩に黄金色の光が隈のようにその頂上に差している。上方に月がある。雲もたなびいている。下方の波打つようなフォルムは雲をあらわしながら、柔らかな月光の差し込む光を表す。下方の三本のフォルムは水の流れを表すようだ。空の深い緑色と相まって、緑や青を中心にベージュやグレーを使いながら独特の神秘的な夜の山の表現となっている。木版の温かさがよく生かされている。柔らかな詩情とも言うべきものが魅力。(高山淳)

 工藤忠孝「とき 12─5」。「心象的世界、特に黒の神秘性におもきをおいている。形はふと目にとまり、心に残ったものから、夢の思いに置きかえて制作した」。黒と白が実にシックなハーモニーをつくる。不思議な心のモニュマンの表現。(高山淳)

 熊谷吾良「天の鳥 地の鳥」。「『天と地』という言葉に日頃から魅力を感じており、視覚化出来ないかと考え、鳥を対比する事で作品にする事にした」。樹木と鳥との組み合わせ。空を飛ぶ鳥と地面の上にいる鳥。手前の鳥はバックの逆台形のグレーの中に入れられている。全体の柔らかな緑色。木版と紙版、七版刷りとなっているが、優れた作品だと思う。フォルムが象徴として扱われ構成される中に、心象としての空間があらわれる。(高山淳)

 木村多伎子「情念」。「幼い頃から、人形に魅せられている。人形使いの手を借りて、女の悲しさ、優しさ、激しさを表現する伝統の美を描きたかった」。文楽人形をテーマにしながら、しっかりとしたフォルムを組み合わせる。五体の人形が構成されている。正面向き、横向き、かなり上方から見たかたち。俯いたかたち。それが位置を変化しながら画面に構成され、下方から赤い花が咲いている。曼珠沙華を思わせる。近松の心中ものに出てくる女性の情念の激しさ、悲しさ、そういったイメージを木版によるしっかりとした輪郭線によって表現する。そのクリアなフォルムと色数を抑えた色彩が、この生命感をつくるのに効果的である。人形の肌のごく柔らかな胡粉のような色彩が効果を上げている。(高山淳)

 小原喜夫「天河 2」。「霊気あふれる・天河・の自然と人間との一体感を表現しました」。下方のデュビュッフェを思わせるような人間のフォルムが躍動的である。上方に花のようなフォルムがあらわれているが、それは細長い風船を膨らませたようなフォルムの連続である。上方からその大きなフォルムが銀灰色であらわれている。天の川のイメージを夜空の花のように作者は表現している。モノトーンでありながらシックで、渋いが華やぐ空間が生まれる。(高山淳)

 白鳥勲「小夜曲」。「夕べ、思いを寄せる女性のために歌い奏でる音楽。近年は、幻想的な物語に誘い込む魅力を漂わせようと……制作しているのだが!」。鳥が歌っている。その鳥の首から上方に円弧があらわれ、その中に黄土や金が彩色されている。その部分は手彩色なのだろうか。ハッチングしたような線、石版画を思わせるような線、線の表情が独特で、月を思わせるような色彩と静かに響き合う。紙自体にも柔らかく黄金色のような色彩が賦されているのだろうか。人間的な手触りをもつ独特の浪漫的な雰囲気。どこかシャガールの作品を思わせるところがある。また、鳥の歌っている下方が丘のようなフォルムになっている。そこにも柔らかな光が差し込んでいるようだ。深夜、月の光を浴びて月に向かってその思いを歌っているような、そんなロマンティックなイメージをきわめてヒューマンな手触りのなかに表現する。(高山淳)

 園城寺建治「木の海」。地平線が柔らかな軽い円弧をなしている。そこまでたくさんの針葉樹と広葉樹、様々な樹木のフォルムを彫り込んでいる。緑一色の中にあるそのフォルムは、見ていると不思議なリズム感があるし、森や木の生命感が独特の気配をつくる。まるで苔のように繁茂する人間と同じように、地球に繁茂する樹木を面白く表現し、一種シュールな味わいを醸し出す。(高山淳)

 奥野正人「おんな〈幻視現惑〉」。「春暁の現(うつつ)心 たゆたふなずむ修惑、うた(転)たう赤心は、かつ消えかつ結びて久しくとどまらない」。墨一色の作品である。樹木の幹を思わせるバックに山のようなフォルムが重なり、月が出ている。その前にいる女性の胸を出したフォルムが艶めかしい。線による表現とたらし込みふうな墨色との対照も魅力。(高山淳)

 冨永真理「Bye-bye Mama」。「ママ、さようなら/もう私はあなたのそばに/いたくありません。/私の、名前を呼ばないで下さい。/私を、ほっておいて下さい」。茶褐色の家から飛行機が飛び出ている。その飛行機は四つ描かれて、その航跡のあとを示すのだが、飛行機がまるでトビウオのような雰囲気で表現されている。茶褐色の中に市松状の床があり、そこに樹木が枝を茂らせて不思議な動きを見せる。懐かしいしっとりとした情感のなかにジャンプするトビウオのような飛行機がほほえましい。(高山淳)

 沼田豊彦「形象 6─1」。ぐるぐる回るフォルムとストライプ、あるいはそれでできる三角形が、日本の装飾古墳にあらわれている図像を思わせるところがある。そのような一種の呪術的な力があらわれていると感じられるところが面白い。「私は下図を書かないので、ただ線を入れてから始め最後まで分からない」と述べているが、版画のもつテクニック的な問題をおいて、タブローとしての表現の魅力になっているところに注目。(高山淳)

 塩崎淳子「愛欲貪染」。「むさぼり続ける心をそのままに仏心にかえるという、明王像の意味に魅かれて。表現の多様を求めて、技法を変えて制作しました」。日本画でいういわゆる白描の表現になっている。明王のおなかのあたりに鶏頭の花が描かれているが、それが蝶が絡まっているように感じられる。シャープな黒い線の力強い韻律、その線によって独特の強い情感が生まれている。曲線が画家独特のエロスの表現になる。そして、その愛欲貪染の心を版画の上に昇華させようとする。いずれにしても、煩悩というものの魅力をよく表現している。(高山淳)

 我妻正史「あの日の記憶」。「3・11の出来事が、さまざまな角度から伝えられている。一瞬の惨事をいかに表現するか、常に脳裏に空しさと、復興とが、さまよう」。一挙につくられたような抽象的なコンポジションである。ダイナミズムを黒とオレンジ色で表現する。まさに一瞬の惨事、その悲劇のドラマを版画に表現すると、そのような独特の激しい音楽的性質を帯びる。いずれにしても、画家の全感覚を発揮させてつくったダイナミックなオレンジ色(ジョンブリヤン)と黒との構成が魅力。(高山淳)

 豊田素子「都市の幻想 2012─5」。「クリスタルな高層ビルと眩しい程に彩られた光と孤独な陰影……。」のイメージがよく表現されている。それを見上げたり俯瞰したりしながら構成している。なによりも色彩に透明感があって、その微妙な色彩の変化を集め、小さな色斑が全体で集合し、独特のハーモニーをつくる。それによって透明な光を集めたような都市空間の面白さがよく表現される。(高山淳)

第57回新世紀展

(5月2日~5月10日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 岸本恵美「室内 B」。上方に大きな二つの目があらわれている。それは二つのタイヤで、トラックの側面の形である。荷台がすこし上方に持ち上がっている。そばには枯れ山水のようなフォルム。建物、大きな葉をした植物、果物、貘のような生き物、花、船、車などが線描で象徴的に表現されている。瑞々しい黄色によって染められている。黄色は四方に広がっていく色彩である。どこか祝祭的な世界が表現される。ほんのすこしのビリジャン系の色彩が宝石のようなイメージをもたらす。ドローイングする力がイメージをそのまま象徴に高め、全体のコンポジションのなかで力学的、かつ祝祭的な空間があらわれる。

 佐藤忠弘「風のゆくえ」。黒田賞。三人の人物が背を向けている。向こうには黒い大きな古墳のようなフォルムが見える。その背後には緑の風が吹いている。今回の津波や原発に対するレクイエムのイメージを大胆に省略したコンポジションによって表現する。

 森長武雄「干支の図」。高松塚古墳には朱雀、青龍、玄武、白虎といったものが描かれている。四方の方位であると同時に、四方の方位を守る神である。この作品は青がキラキラとして、そこに白い風が吹くようだ。今回の新しくできた東京都美術館での新世紀展を祝うような趣である。上方から白虎、朱雀、青龍、右のほうには玄武の亀がいる。緑や赤、青で彩られている。青は空であると同時に海の色彩のようだ。地球の生き物は海から生まれたといわれている。そういった深い表情をたたえた青い空間の上に灰白色の風が渡り、画家独特のデフォルメされたフォルムがあらわれる。それぞれが笑いさんざめいているような雰囲気である。中に赤が呪文のように入れられている。画家は四国の海のそばで生まれ育った。そういった四国の海もしぜんとこの画面の中に引き寄せられたのだろう。フォルムが説明ではなく、この四角の画面の中に象徴として彫り込むように表現されている。どこか壁画的である。また、いずれもイノセントで、いま生まれたばかりのような新生の四図のような趣のあるところにうたれる。

 藤田禅「擬態」。化石化した魚と古い機械や計器、チューブなどが同じような性質のものとして画面の上に表現されている。文明によってつくられた様々な器具も化石のようになる。生きていた魚も化石化する。無機的なものも有機的なものも時間の浸食のなかに同様の性質を帯びる。そんな不思議な都会人のイメージをファンタジー的に表現する。化石に当たっている光が切ない。

 三浦敏和「パリ・ブランクーシ・ペンギン」。パリの建物を正面から見、上方から見下ろす。そんな角度を変えたフォルムを画面の中に描く。その発想はキュビスム的な発想である。ポンピドゥーセンターのそばにブランクーシのアトリエが保存されているが、ブランクーシの彫刻が右に立ち上がる。左上方にはペンギンのフォルム。中心には黄金色の受話器のようなフォルムが立方体の上に置かれている。背後の建物にオレンジ色、茶色の煙突がところどころ置かれている。パリの煙突はパリの人々の生活の象徴である。ブランクーシはルーマニア人であるが、パリに来て、エコール・ド・パリの一員として素晴らしい芸術を残した。その素朴な彫刻は日本人にもたいへんなじみがある。ペンギンの愛らしい寄り添うフォルム。パリ讃歌ということは人間讃歌ということでもある。そういったイメージを垂直、水平の無限に広がっていく構図の中に構成する。

 岩崎奈美「ひととき ・」。東京都議会議長賞。数頭の犬を寄せ集めて、アンティームな親しみやすい構成を表現した。灰白色の中に犬のフォルムが生きている。

 田村敏子「女のいる部屋(二曲一双屛風)」。女性らしい作品である。タンクトップを着た女性が目をつむって立っている。後ろに四谷シモンからヒントを得たという男女像が置かれている。両性具有的な、そんな性質をもっている。また、男性の中にも女性性があり、女性の中にも男性性がある。そして、二つの像は額の中に入れられていて、二つは食い違うように表現されている。含蓄のある大人のイメージである。その柔らかなベージュの色彩はキメ細かい。画家独特のマチエールである。見ていると、その背景はシルクロードの砂漠を思わせるところがある。悠久なるロマンの表現と言ってよい。大きな東洋という分母の中にある日本。その日本の若い女性の未来を望んでいる、そんなイメージが表現されていると思う。

 髙橋重幸「castella―月の雫―」。大きな体に小さな女性の顔。青い空。その大きな女性の体には男性のフォルムが重なっているようだ。背後にスペイン独特の赤茶色の大地。そこにいる牛と老婆と木。男女の交合の図も小さく描かれている。スペインは画家にとって第二のふるさとである。その青い空に昼の月を見るように女性の幻を画家は見たのだろうか。

 冨永之廣「飛泉『錦秋から晩秋へ』」。冨永之廣は二点出品。もう一点は「飛泉『晩秋から初冬へ』」。秋から冬を二つの景色にわたって双幅のように表現している。リズミカルな小さな色面が集成する中に秋の光線、冬の光線が表現される。

 佐藤一成「旅」。女性の体の上に大きな女性の顔が置かれている。そこは黒や暗い赤などの色彩で彩られている。周りにベージュの色彩が置かれ、風が吹いている。旅をするイメージを内界の触覚のなかに託して表現する。キメ細かでありながらしっかりとしたマチエールがそれを支える。

 神戸正行「宙―12」。一対二ぐらいの縦長の画面。そこに紙を何枚も貼り、岩石や植物、あるいは円形のフォルムなどを浮き彫りのように浮かび上がらせている。空と大地にあるものを象徴的にこの中に配置する。それによって長い歳月と地球の歴史と宇宙に対する夢を託す。画家自身、関西電力に勤め、原発の仕事をしてきたが、今回の原発事故は深い衝撃を与えたのだろう。そんな不安な様子はこの作品の中にはなく、一つひとつのものに思いを託しながら深い想念の中に未来をイメージするといった趣。ベージュの色彩が柔らかな黄金色に輝く。

 紀井學「艶麗な刻」。正方形の画面の中心から体をひねって両手を上げたフォルムがあらわれる。その肩のあたりに二つの目がある。一本の樹木を通して人間的な感情を画家は表現する。中に赤から緑までの色彩が入れられて、艶麗である。二年間の都美館の改修が終わって、新しい東京都美術館で新世紀展が開催された。そんな喜びの表現のように思われる。周りにハッチングするようなフォルムやカーヴする白にグレーのフォルムが描かれているが、それもまた木というものの表現のように感じられる。接近するとわかるけれども、様々な布などをコラージュした結果の表現である。

 藤野眞佐子「liberte 12A」。損保ジャパン美術財団賞。窓に女性の白い横顔が見える。窓は暗いグレーから明るいグレーまでのグラデーションによってつくられて、奥行きがある。その周りにグレーのカーヴするフォルムと赤く太いストライプがあらわれる。アンニュイな中にイメージと心を解放させる。女性らしい香りの漂うような画面である。

 川井雅樹「WHY」。新世紀賞・会員推挙。左の足の跡が大きく描かれている。その足の中に岩石や壊れた金属などがまるで装飾するように描かれている。下方にも散乱する壊れたもの。金属でできた犬が目を見開いている。今回の東日本大震災の跡と、その悲惨の中から立ち上がろうとするイメージをダイナミックに足によって表現する。

2室

 向芝節男「溜池」。動きのない水に蓮の葉が点々と存在する。そばの水草。その自然の一隅を画家は凝視する。

 ユタカ順子「黙考」。ユタカ順子は二点出品。「アトリエにて」は、画家自身が立っている全身像である。「黙考」は、茶色いソファに三人の男性が座って静かに瞑目している。黙祷しているようだ。一年前の津波の大惨事に対する痛切な鎮魂のイメージだろうか。その三人の男性は全身が入れられている。フローリングの床に茶色いソファ。そこにお互いに体を接しながら、一人は労働者、一人はサラリーマン、一人は学校の先生のような、そんなイメージの三人の人が座って目をつむって静かに瞑想している。皮膚の色が黄金色に感じられる。それは床もバックの空もそうである。画家のつくりだした日本人のイコン像と言ってよい。祈りという深いイメージからあらわれたイコンが、この、ある意味で普遍的な平凡な三人の男の全身像によって表現された。画家の強いヴィジョンが創造した世界である。もう一点の画家自身が立つ像には、こういう言い方をするとおかしいかもしれないが、マリア的な聖なる母の像のようなイメージが漂う。いずれも柔らかなベージュや黄土色が使われていて、それが内側から輝いてくる黄金色に見えるところが特色。

 鶴田貞男「鳴門」。鳴門の大渦が下方に描かれている。そこに虹がかかっている。上方に鷗が五羽、静かに舞っている。鳴門の大渦は日常見られる。誰もが知っている。しかし、それを眼前にすると、驚く。今回の津波の大惨事を受けて、画家はこのような鳴門の渦に虹を置くことによって、静かな祈りのコンポジションをつくった。柔らかな青いトーンの中にある下方の大きな動きと上方の静寂、白い鷗と虹が見事なコンポジションをなしている。仏画を思わせるような静かな中に緊張感に満ちた表現である。

 今橋利満「再生の時」。新人賞・準会員推挙。横になった女性。上方に月の移っていくフォルム。海と島。化石がもう一度よみがえるような複雑なあやしいフォルムが上方にある。この女性は夢の中でもう一度こわばりから解放されて新しい命を獲得する。そんなイメージを追っているようだ。独特のロマンティックな女性像である。

 ふるた加代「光と影と」。スペインでゴヤを見てたいへん感銘したのだろうか、ゴヤはどこですかというスペイン語が下方に書かれている。彫刻を思わせるような裸の女性が立っている。それとクロスするように瓶や時計や絵具の筆や刷毛やオイルなどが置かれている。電話機もある。後ろ側にはスペインと思われる街並みが描かれている。アトリエの中にあるものは紫で、それ以外は黄金色に。絵を描くということの根源は人間を描くことである。そして、人間には光と影がある。それはゴヤの絵を見れば明らかである。出発のエチュードと言ってよいような十字形のコンポジションがつくられている。

 面矢元子「裸婦―(・)」。横になって頬杖をついて、こちらを見ている裸婦。ソファに座ってすこし仰向けになり、目をつむっている裸婦。いずれも力強い。触覚が強く、温かな温度が鑑賞者に伝わってくるようだ。背景の市松状の装飾的なフォルム。線によってつくられた大胆な形。同時に、部分部分は彫塑を思わせるようなボリューム感のある人体の表現。そして、二人とも裸になり、社会的衣装を脱いで、本来の自分に返ったところからあらわれてきた強いメッセージ性が魅力である。虚飾を捨てて、もう一度出発する。その前のまどろみのような表現である。

 阿部弘「刻 2」。あぐらをかいた少女。バックに葉を落とした樹木のシルエット。クリアなフォルムで切り絵のような表現。優れた形態感覚に注目。

 大杉英郎「雨の終電車」。上方に電車が走っている。下方に道が蛇行しながら上っていく。公衆電話がある。紫を中心として様々な対象が、あるリズムの中に溶け込むように色斑として描かれる。そして、なにか人懐かしい、しかもロマンティックな歌がうたわれる。

 谷口さやか「白い箱 ・」。白い箱の中から何か不思議な形象が浮かび上がってくる。そばに女性が立っている。太い足や手。生活感のある彫刻的なフォルムである。白い箱の中からは過去や未来が炙り出しのようにあらわれてくるようだ。生活する中からイメージを紡いだところから、この独特のコンポジションとマチエールが生まれた。

3室

 小野瀬緑「WATER」。奨励賞。ウォーターと言うと津波を思うが、ここにあるのは、海岸に集まった元気のいい群衆である。そして、みんなで運動してラジオ体操のような動きをしている。潜水夫もそんな中に入っている。大きな金魚がこの空中を浮遊している。オレンジ色や黄土、黄色などの色彩が多用されて、希望の光が画面の中に浸透してくるようなイメージ。海を見ると大きく波が騒いでいて、その水平線の向こうに富士山のような山と灯台のようなフォルムがシルエットになって見える。日本がんばれ、といったイメージを明るく表現する。

 小枝真紀「Living on Earth1」。会員推挙。ゴリラが子供を抱えている。大きなゴリラの母親の安心感のある雰囲気と、本当に小さなゴリラの子供の無垢な甘えたような表情。人間の親子以上に懐かしく温かい。上方に葉のない木が枝を広げている。それが定かならない道のような、そんなイメージとしてあらわれ、この画面全体の内容を深くしている。

 生川香保里「響―・」。曲線が多用されている。赤やオレンジ、黄土色の色彩。左右に揺れながら続いていく。右上方に大きな円弧があらわれる。ベージュの風が吹いている。あいだからブルーがのぞく。ブルーは水であり、海であり、空である。心の有り様をメロディのように歌い上げる。そのメロディが赤や黄土のもわもわとした曲線の連続したフォルムによって表現される。その心を白い風が包んでいる。いわば音楽によるヴァリエーション、変奏曲を思わせるところがある。単なる空間というより、その持続する命の表現として考えると興味深い。

 大形美知子「巡り来る春」。新世紀美術協会奨励賞。洋紙に水彩。アコーディオンを弾く女性の周りに鳩が飛んでいる。花が植木鉢に咲いている。猫がジャンプをする。高速道路のようなラインが走る。樹木がその枝を広げて花をつけている。赤が強い生命的なイメージで使われている。猫が喜び、一筋の道がダイナミックにはるか向こうに続いていく。

 足立慎治「ハレルサ(抱)」。刑部賞。ハレルサとは、明日は晴れてほしいの意味である。地震のあと桜の花を見て、いままででいちばん美しいと思ったそうだ。一本の桜の木を後ろから一人の人が抱きかかえている。その桜の木の幹はねじれて、ねじれたところに断面が見える。今回の地震や津波の痕跡を思わす。日本人は樹木や植物と強い親和力をもつ民族である。傷を負った桜の木が枝を広げている。その桜を後ろから抱きかかえているそのフォルム。シュールな味わいがしぜんとあらわれる。それは生というもののなまなましさの表現である。ジェット機が一筋、空に軌跡を見せ、雲の中から青い空がのぞいているのは、希望の象徴の意味であるに違いない。

 橋本隆範「生きる」。新人賞・準会員推挙。サボテンのような植物がモノトーンの中に表現されている。まるでその一つひとつが生きて蠢いているようななまなましさがある。乾いた砂地にこのサボテンのような曲面をもつ生き物は、ミステリアスである。と同時に、何かを求めて渇望の中に蠢いている存在のようにも感じられて、現代日本の社会をそのまま暗示するようだ。

4室

 浅井陽子「rite now」。線によって弾むようなイメージがあらわれている。そして、ジャンプしながら、まるで月をつかまえるような、そんなロマンティックな味わいがある。ベージュの空間が優しい。ベージュの空間の中に不思議な顔のようなイメージもあらわれる。あるいは、旋律を思わせるような線による表現。心臓が動くように、心も生きている。そんな有り様を女性らしい繊細なタッチの中に、あるムーヴマンの中に表現する。

 中神ふみ子「記憶の断片 ・」。心という、表現するのに難しい世界を、曼荼羅ふうなコンポジションの中に表す。一本の樹木のように画面を上下に縦断する二つのフォルム。中心に大きな円弧があり、その中に球体が浮遊している。いちばん近景には矩形の中に円があり、円が分割され、赤い線が時計の針のように時を表すようだ。刻々と時間の移るなかに心が変化していく。表層のエゴではなく、心理学的にはセルフとも言われる自己を表現してユニーク。

7室

 工藤明俊「雨粒」。会員推挙。紙の上の仕事である。水墨と言ってよい。手前に傘を差した青年。ジグザグの道があり、ところどころに女性や男性が傘を差して立っている。人恋しいイメージ。誰とも知らない女性にラブレターを送っているような雰囲気。個的な対象ではなく、宛名なしの恋文を一つの画面の中にレイアウトし構成したような、そんな詩情豊かな表現に注目。

 荒木田和美「船溜り」。海岸に何艘かの白い船がある。海岸の向こうには建物があり、パラソルのようなものも見える。一段高いところに民家がある。懐かしいふるさとの光景のように感じられる。それによって慰藉が生まれる。ノスタルジックな雰囲気の中に形象が白く輝くように表現される。

 伊藤勇夫「大和棟 '12─1」。瓦屋根の民家をたくさん集めて、独特のエネルギッシュなコンポジションをつくる。建物も側面から見たり、斜め、正面、様々な方向である。そして、その建物がその中にある様々な家族の象徴となって、いわば民衆のエネルギーのようなものが生まれてくる。人間を描くと鬱陶しいが、瓦屋根の建物によって描くことによって、そこに独特の美的な秩序も生まれる。

 松下喜郎「時移りて」。市街をパノラマふうに俯瞰している。パラボラアンテナのような楕円形のフォルムがそこにたくさん描かれている。それが独特のリズムをつくる。まるで白いたくさんの風船が遠近感に従って密集し、離れながら続いているような雰囲気である。洛中洛外図を見るような、そんな生活の歌といったイメージが感じられる。

8室

 時岡千鶴子「Windows―2012―キャッツアイ―3」。会員特賞。キャンバスの上を白く塗って、その上から太い線によって様々な猫の肢体を描いている。三十ぐらいはありそうである。そして、中心に菱形が幅十センチぐらいの淡墨のような調子で描かれている。そこに縄がぶら下がって、幾本も下方に下りてきている。黒いたらしこみの表現で植物の葉も描かれている。心のフィールド、その中で画家は独り遊びをする。それを猫に仮託する。渾沌としたもの、クリアなもの、明るい気持ち、暗い気持ち、善意の気持ち、悪意。様々な心象をこの猫によって表現しながら、あるフィールドをつくっていく。そのフィールドにしぜんと奥行きが生まれる。独特の表現だと思う。

 榎原保「忘れてきた学舎 ・」。吉村賞。画家は京都工芸繊維大学を卒業しており、在学中のクラシックな校舎をモチーフとしたそうである。その校舎が絵の中ではヨーロッパの建物のように表現されている。そのようなモダンな雰囲気が、自分自身の学んだ大学の建物をモチーフとしてあらわれているところが実に面白い。あいだに余白がとられている。余白は記憶というものの広場と言ってよい。建物を説明しているわけではなく、記憶の深さ、懐かしさ、そういった様々な感情を表すためのコンポジションである。建物が左、右に傾いて、まるで振子のように揺れている。ほかに線描による小さな街灯が描かれている。そばの白い線によって描かれた窓、あるいは小さな机。それぞれが記号化されて、心という深い世界に入る入口であったり、それを照らし出す存在のように表現されているところが、いわばひとつの詩の世界を表すための図像のように感じられる。そのようなかたちで対象のディテールが扱われているところが、この作品の絵画性である。

9室

 和田依佐子「過ぎ去りし日」。奨励賞・会員推挙。水彩作品。デッサンが優れている。井戸から地下水を汲み上げるポンプが正面に描かれている。紫がかった茶褐色によって柄とか水の出るところなどが描かれていて、懐かしい。周りにはポットや木の葉や葡萄やビー玉、あるいは大きな葡萄の葉などが置かれていて、端整でどこか雅やかな雰囲気を醸し出す。この昔ふうのポンプは記憶の地下水を汲み上げるポンプといった象徴的な意味もあわせて表現されているのだろう。

12室

 武田恵江「わたしはわすれない―2」。会員推挙。妖精のような人間が線描きで描かれている。腕と手はオレンジ色に彩られている。その首のあたりに逆様になったカマキリが垂れるように仰向けになって描かれている。カマキリは自然の象徴のようで、その自然が遠ざかっているというイメージだろうか。金平糖のような星が緑に、ピンクに描かれている。自然との深い交感の中から生まれた表現に注目。

 鷺邦明「2012 興」。準会員推挙。正方形の画面を垂直、水平に矩形に分割する。中に正面向きの女性の顔。同心円のフォルム。横のストライプを連続させて、塀のようなフォルム、あるいは壁のような形、たらしこみふうな陰影、建物、窓などのイメージを組み合わせることによって、内界の世界を表す。内界に窓をあけて、そこに一人の人間のメランコリックな顔を浮かび上がらせる。心の中をのぞきこむような、そんな表現に注目。

13室

 山本貞子「決闘」。太った二頭の牛が向かい合って角を突き合わせている。地面が傾いている。黄金色で、満月の輝きの中にいる。心象風景である。お互いに向かい合って角を突き合わせながら、一歩も引かない。そんな様子を生き生きと表現している。議論で解決できない人間と人間との格闘を表現していると思うと、ヴィヴィッドである。

14室

 田代晃士朗「ゾーン」。密度の濃い空間である。小さな小川のような流れに樹木や草が両岸にたくさん生えていて、それを緻密に稠密に表現している。影の部分は赤茶色で、あいだに点々と青い色面があるのは空を映している。水の上に伸びている枝の屈曲したフォルムも念入りに表現している。独特の密度のなかに青い空が映るように、どこか風穴があいているところが面白い。

17室

 辻みどり「約束」。黒い衣装を着た女性が向こうからこちらに走ってくる。白いケースを抱えている。道はだんだんと下方に下がっていく。左右の建物も白く、黒い空にグレーの教会が見える。建物のそばに白いスクーターがある。「約束」という題名のように、待ち合わせ場所に、待ち合わせた時間にまにあうように走っている女性のイメージを面白く表現している。強いマチエールがそれを絵画的世界にしている。また、両側の建物が向こうでは狭まってきて暗くなり、閉ざされているようになっているところも心理的な奥行きを深くしている。

第72回美術文化展

(5月12日~5月20日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 本山正喜「罪を背負って」。会員賞。林檎を持つ若い女性。その背中に夫婦が寄り添って、母親は子供を抱えている。林檎を持っているところを見ると、原罪の神話がいまなお人間のベースにあると画家は語る。林檎を持つ女性の姿は裸で、顔は美しくエロティックな身体をしている。ところが、髪が蛇になっている。ジェラシーであるとか、憎しみとか、不安感、あるいは驕り、様々なネガティヴなイメージがこの美しい女性の内部にあると画家は語る。そして、いま夫婦に子供は生まれたが、その未来は不安である。そういったイメージを具象的に淡々と表現する。女性の背中に夫婦を描くというコンポジションが面白い。

 藤野千鶴子「角笛ひびかせ星を狩る人」。透明感のある青が全面を覆っていて、そこに太陽を思わせる赤、あるいはアクセントの赤が画面の中ほどに入れられ、そのそばにはオレンジやピンクの色彩が散りばめられている。星が人間的なものを背負いながら歌っているような趣である。古代の壁画、洞窟の中の壁画に祈りをこめて牛などや狩りの図を描いた。いま画家は空を一つのスクリーンとして、そこに神話的なイメージを描く。キャンバスがそのような心象のスクリーンとなっている。右下にお地蔵さまが描かれている。静かに祈っているような雰囲気である。その周りは深い青い色彩で統一され、線描きの人間たちがたくさん描かれている。津波の悲惨な出来事を連想させる。ところが、そのお地蔵さまの祈りが青の左のほうに、前述したもっと透明な青や黄金色や黄色、ピンクなどの色彩を引き寄せて、ある祝祭的なイメージを引き寄せている。お地蔵さまの対角線上の対極のところに大きな太陽を思わせる赤いフォルムが入れられている。それは生命の源のイメージである。そこには復活があり、死んだ人も悲惨な人ももう一度よみがえって、さんざめきながら笑っているようだ。津波の出来事を描くと深刻になりがちだが、画家はそれをもっと明るく癒す。そんな力が画面から伝わってくる。また、人間が一人で生きているわけではなく、人間のフォルムがアメーバのようなフォルムに還元されている。地球の上の人口だけでも七十億や八十億いて、死んだ人や動物などを入れると、それの何億倍かになるだろう。因果律ではなく、仏教でいう縁起的な世界観が画面に引き寄せられ、癒す力がより強くなって、この不思議な光線が画面に充満しているような世界があらわれた。

 浅野輝一「夜の集い」。画面の下方に五人の男女がいる。顔はほのかに光っているが、それ以外は黒いシルエットで、静かに語り合っているが、なにかミステリアスな雰囲気である。ところが、その上方に同じ人と思われる人物五人が笑いさんざめいている。開放感のなかにお互いが語り合っている。その上方を柔らかなブルーやピンク、ジョンブリヤン系の波打つようなフォルムが囲んでいる。下方の夜の集いにあるのは、疑惑のなかにある人間関係のようだ。その人間関係も、実は見方を変えて昇華すれば、もっと楽しい仲間として語り合えるはずだ。そんなことを画家は画面の中に主張する。また、下方にある黒いシルエットは現実の人間群像であり、上方にあるのは画家のつくりだした魂の人間群像と言ってよい。今回の津波でたくさんの人が亡くなったが、本当は亡くなる前にもっと裸になってお互いに語り合えばよかったといったイメージもあるのかもしれない。幾重ものオーラが、言ってみればこの魂の人間像の光背のように上方に動きながら描かれているのも面白いコンポジションである。

 竹内庸悦「忘却への階梯」。画面の左下にベンチがあり、その上にコンクリートの建物があるが、廃墟に見える。茶色い十字架が中に入っている。上方に壊れた建物の破片が浮き、そこから鳥が下方に下りてきている。その鳥は人工の鳥のような不思議な雰囲気。普通、亡くなった人は天上に向かって上方に行くはずが、この鳥たちは下方に落下しつつある。そのコンポジションがまことにユニーク。上方から下方に落下する鳥は、地面にぶち当たるのか、あるいは地面を通過してもっと地中に行くのか。だんだんと下方に行くに従って黄金色になり、地平線が輝いている。右のほうには不思議な窓が縦に四層ある。そのステンドグラス的な窓はその向こうにある魂の建物を暗示する。宗教の崩壊した今日、死んだ人間はどこへ行くのかといったシニカルなイメージも感じられる。

 野村明正「残映 ・」。美術文化賞・準会員推挙・損保ジャパン美術財団賞。画家は鹿児島出身で、少年の頃よく海に潜ったそうである。そして、水中から上方を見上げるのが好きであった。また、そこに生まれる浮遊感が忘れられないという。そんな浮遊感のイメージが、カーヴする植物のようにも樹木のようにも見えるフォルムに感じられる。マンタのようなフォルムが紫色の不思議な植物的なイメージで浮遊しながら上方に向かっている。ところが、その幸せな雰囲気に対してはるか向こうにはビルディングが立ち、それまでの地面は壊れた建物の破片で埋まっている。今回の3・11の悲惨な出来事がはるか向こうにあり、それに対する少年時代の幸せな雰囲気が対照される。それによってより今回の悲惨な現実が浮かび上がる。

 富田宏代「21─の神話」。白い大きな袋を両手に持って、男たちがこちらに向かってくる。あるいは、持って立っている。緑の制服に緑の手袋をしている。白い袋の中にはメルトダウンした原子力発電所の格納庫、あるいは高層ビル、あるいは狐のお面、空き缶などが入れられている。空き缶や瓶や狐のお面と今回の原子力発電所のメルトダウンした格納庫がほとんど同一次元で置かれている。そのこと自体の怖さがひしひしと感じられる。

 圓尾博一「御伽草子 (URASHIMA)」。亀に乗った浦島が矛を持っている。右のほうに龍宮を思わせるフォルムが蜃気楼のように緑で表現されている。ハヤのような魚が群れをなして泳いでいる。ところが青黒い丸い魚がこの浦島に向かって龍宮に行かせないように阻んでいる。それに対していま浦島は戦おうとしている。亀の顔が面白い。巨大なアルカイックなコンドルを思わせるような顔をして、甲羅に浦島を乗せている。浦島の背後には光背があらわれ、それがリングとなって渦を巻く。そばには不思議な八つの手裏剣のような雪の結晶のような透明なフォルムがふわふわしているが、それはそれぞれの先に口のある不思議な生き物である。その生き物はどちらの味方につくだろうか。いずれにしても、浦島伝説をモチーフとして、画家は自由にストーリーを展開する。ファンタジーの物語が生き生きと表現される。

 鈴木秀明「還道(みち)」。ローマのフォロ・ロマーノの彫刻からヒントを得たそうである。かつての栄光の建物が、いまは遺跡となっている。栄えたローマの文明もいまはなくなった。最近、画家の近親者が相次いで亡くなったそうである。その悲しみの中にフォロ・ロマーノの彫刻の残欠とも思われるものが引き寄せられた。悲しみのコンポジションである。

 直原清美「時を織り込んで」。ずいぶん横長の画面である。垂直に立ち上がる黒や赤のフォルムを中心に置いて、そこから左右に直線的に伸びていくフォルムがやはり墨や茶褐色によって表現されている。そんな十字形の構図の中に女性のトルソと思われるフォルムが三体浮遊している。中心に車輪を思わせるフォルムがある。車輪は時間というものの象徴のようだ。透明な白いヴェールをかぶった女性が優しく浮遊している。アンニュイな雰囲気の中に休息し、あるいは飛翔したい。そんなイメージと強い現実感とが対照されるユニークなコンポジションである。

2室

 小関通「縁日」。小関通は神仏の混合した寺院や神社の強いエネルギーを描いてきた。今回は縦長の画面の中に大きなU字形がつくられ、上方は青い空にジェット機の軌道が見える。下方に渦巻くようなエネルギッシュなフォルムが抽象的にあらわれている。カーヴする勾玉のようなフォルムが連続しながら、強い波動を起こす。そして、波動を起こしながら空の無垢なるもの、宇宙の「神」の絶対的なイメージというものを引き寄せようとする。その強い力がU字形のコンポジションを生んだのだろうか。

 東俊一「汚染シリーズ011─7(メルトダウン)」。目を見開いて恐怖に震えているような不思議な印象である。下方に格納庫を思わせるような二つの球がつながったフォルムが見える。青いフォルムの周りの緑がかったグレーのフォルム。コンフューズして崩壊する、その様子を目を見開いておののいているような、そんなイメージが感じられる。

 逸見幸也「魂(源) Part.1」。ベニヤ板の上に、細かい水墨ふうなタッチで赤茶色の色彩によって表現されている。たくさんの魂が集合しながら動いている。渾沌としたこの世界に未来があるのか。

 椋野茂美「HANAMATURI I」。大きな緑の葉の中に花粉を思わせるような赤い紡錘状のフォルムがいくつもある。それが風船のイメージと重なって、上方に浮遊しつつある。花に接近し、そこにある小宇宙をリアルに画面の上にコンポジションとして表現する。力強い生命のイメージがあらわれる。

 石川裕「封印の刻 (TOKI)」。コンセプチュアルなコンポジションである。右のほうのアクリルの透明な直方体の容器の中に、積み重なった黒いフォルムがある。それは電力を表す。左の円錐状の白い螺旋状のフォルムの下方に黄金色の卵がある。黄金色の卵はわれわれで、螺旋状のフォルムはそれを覆う電力的環境なのだろうか。二つを結ぶ木の螺旋状のフォルムは時間を表す。時空の天秤棒の両側に電力に対して環境と卵が置かれ、測っているような趣である。原子力がなくても電力は十分に供給されるのか、あるいは原子力の事故のなかで日本はこの繊細な卵をもち続けうるのか。卵はもちろん命というものの象徴である。それが黒い薄い金属の上に置かれていて、緊張感を醸し出す。もう一点「時の番人」は、真ん中に白いクスの木を彫った鳥を思わせるような、魂を思わせるようなフォルムが柔らかくつくられている。そこから羽をもつようなフォルムが両側に翼が伸びている。その翼はある時間を表すようだ。そして、その翼の中に卵のようなフォルムが彫られている。作者の祈りの表現と言ってよい。不思議なこの生き物の翼の中に育まれた鳥は、希望の未来を展開することができるのだろうか。それを支える三つのケヤキの樹皮を思わせるようなフォルム。自然の中に深く入ったところからあらわれたイメージの展開である。

4室

 吉岡治美「黙示録から」。ヨハネ黙示録十二章に「女と竜」という項目がある。中から少し引用する。「また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた。女は身ごもっていたが、子を産む痛みと苦しみのため叫んでいた。また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、火のように赤い大きな竜である。これには七つの頭と十本の角があって、その頭に七つの冠をかぶっていた。(中略)さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。(中略)竜は、自分が地上へ投げ落とされたと分かると、男の子を産んだ女の後を追った。しかし、女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒れ野にある自分の場所へ飛んで行くためである。(中略)竜は女に対して激しく怒り、その子孫の残りの者たち、すなわち、神の掟を守り、イエスの証しを守りとおしている者たちと戦おうとして出て行った。」

 遠景には福島原発と思われるフォルムが見える。原発の事故はまさに黙示録的世界といってよい。原発を「悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす」竜として画家は捉えている。それに対して信仰を持つ女性が新しく子を産もうとしている。そこに人類の未来がかかっている。ヨハネ黙示録を現代の問題として捉え、そのベーシックな思想を画面の上に描く。

 見﨑泰中「GREEN MESSAGE(犬のふぐり)12-4A」。イヌノフグリという植物がある。その屈曲した葉の下方に二つのふぐりのようなものがぶら下がっている。自然というものは不思議なもので、とても人知の想像できないような植物があるものだ。その植物の面白さを新しい宇宙人のようなイメージで彫刻する。

5室

 水野唯男「裏庭の植物」。植物のフォルムが自由にデフォルメされて面白い。それぞれが触手を伸ばした手のように感じられる。その中にポピーのような花が咲く。面白いのは、その背後にまるで人間の眼球を思わせるような花が咲いていることだ。ランボーは花の中に目があると歌ったが、強いヴィジョンに注目。

 全昭彬「月の林 B」。佳作賞。月と林が結合している。林の中に月が重なって、艶めかしく激しいロマンティックな歌があらわれる。シャープな動きの中に優雅な舞いのような運動が対置される。

 黒部迪子「ミモザは謳う」。ミモザの黄色い色彩が圧倒的な存在感を示す。それに対して近景に黒々と立ち上がる樹木の幹。あるいは、水のようなフォルム。中心にもまた黒いモニュマンのようなフォルムが立ち上がる。黄色とのコントラストが強い。それに対して上方のグレーの中に白い色面が動いていく。洗練された雰囲気の中に自然のもつポジティヴな側面とネガティヴな側面が合わせて表現されているようで、興味深い。

 山田光代「はなびら ・」。水墨をたらし込みふうに扱い、そこにピンクの色彩も同様に組み合わせ、花びらが散るイメージを表現する。ドリッピングふうな点々がそこに入れられ、華やぎの中に深沈たる趣があらわれる。まるで夜、かがり火の中に映える艶めかしい桜のような審美性と深い感情世界が表現される。桜と心とが一体化しながら、はかない命を歌い上げる。桜の背後から花びらが散ったあとの世界が徐々に染み出るようにあらわれる。闇を背景にして、桜がなお輝く。

 井之口祐子「あの夏」。奨励賞・会友推挙。細長いバナナのようなフォルムを重ねながら、密度のある空間をつくった。木でできていて、白木の部分と黒く彩色された部分とがあり、それが光と影を表す。あるいは昼と夜を。あいだに球形の果実を思わせるようなフォルムが入れられている。いくつかのブロックに分けられて、それがお互いに関係をもちながら、華やぐような自然のもつ蠱惑的な世界を表現する。

6室

 夏井慶志「みづごころ」。円弧が垂直にお互いに交わったり、円弧の上に円弧があったりしながら、複雑な動きをつくる。その抽象的なフォルムに対して反対側に手のひらを上に向けた手が置かれ、その上に船や松ぼっくりや魚や達磨や家などが風鈴のように上から吊るされている。その風鈴は千羽鶴から吊るされている。手の手前にはおにぎりとたくあんのようなフォルムもつくられている。千羽鶴は原爆の時にたくさん折られた。同じように今回の津波で亡くなった魂を癒すためにあらわれたこの千羽鶴。そして、風鈴のような船や車や家。達磨もある。魚もある。水もある。そんなものを両手で受け止めようとするイメージ。津波の終わったあとの夏の夜の幻想だろうか。声高に主張するのではなく、一歩引きながら、何かムニョムニョと形があらわれ、連結され、それが運動を起こし、しぜんと千羽鶴を呼んだ趣である。千羽鶴と下方の両手とはお互いに呼応しながらヒューマンな優しい感情を表す。

7室

 山口裕美子「TIME TRAVEL」。木製の舵が下方に置かれている。上方から蔓が下りてきて、そこに色づいたカラスウリの実がついている。やがてカラスウリは落ちて、蔓も消えるだろう。そして、すべてがなくなったあとにまた新しい芽が出る。そんな循環する季節をこの円形の舵が表す。四季の循環のイメージを静かに歌いあげる。ディテールの現実感がそのまま時間の推移を暗示する。つまり、色づいたカラスウリは色づくまでの時間を表すし、風化した木の舵もまたそこまでになる何十年かの時間を表す。時間というものをテーマにしたリアルな具象の表現として注目。

8室

 長船侍夢「時、刻む。鼓動」。新人賞・会友推挙。上方にすこしおなかの膨らんだ妊婦。下方に卵のない鳥の巣。果たして子供は健康に生まれるのかといった問いかけがしぜんと画面から感じられる。リアルな再現的な描写力を駆使したコンポジションに注目。

9室

 斉木章代「時勢(開路)」。たらし込みによって起きるフォルムと筆のストロークによるフォルムが一体化しながら、激しいムーヴマンをつくりだす。そこに黒、青、朱の色彩が入れられる。激しく燃え上がる、そんなイメージがあらわれる。その燃え上がる上方に白い風の吹く空間があらわれる。その空間が新しいものの予兆のようなイメージとしてあらわれているところに注目。

 奥田美晴「記憶の中より・水」。今回の津波は三十メートルの高さで東北を襲った。一挙に人家も車も人間たちも引き寄せられて亡くなった。いま海を見ていると、その時の怖さがしぜんとあらわれ、激しい波がそこに幻視される。亡くなった愛らしい人間の象徴として目があらわれる。少女の目のようだ。そして、鎮魂するかのように緑の葉が海草のように画面の上を揺れる。周りの青い中の渾沌とした渦のような曲線。その中に金環食のように黒い色彩が円弧の中にあらわれ、その中に顔や海草のような植物や波の白いフォルムがあらわれる。痛切な表現である。なまなましい現実を再現するのではなく、深く心の中に浸透したイメージの表現として注目。

10室

 森中喬章「サンサーラ」。サンサーラとはサンスクリット語で世界・輪廻という意味である。アメーバのようなフォルムが稠密にたくさん描かれ、お互いに組み合って圧倒的な存在感を示す。因果律というより、世界を構成する縁起的な世界。それが刻々と変化しながら世界をかたちづくる。インド的な世界観がデュビュッフェのような力をもって迫ってくる。

12室

 若月朝夫「対立」。二人の女性が向かい合っている。裸の体に太いグレーのテープを巻き付けていて、顔は見えない。膝の下で切られている。側面が描かれていて、二つの女体が対照される。向かって左のすこし赤みがかった女体は手で乳房を持ち上げ、相手の乳首に向けている。向かって右のすこし黄色い色彩の女体は手を後方に引いて、そのより弾力のある膨らんだ乳房を前に出している。乳房を誇示し合ってたたかっている様子がユーモラスで、つい微笑してしまう。どうも向かって左の女性は年取った女性で、向かって右の女性は若い女性で、いわば嫁と姑のたたかいを寓意的に表現したようにも感じられる。あるいは、太った女性と痩せた女性、もっこりとしたおっぱいの女性と紡錘状に前に突き出た女性の女のたたかいともとれる。テープ状のフォルムは情念が決して枯れることなく無限にこの女性に存在し巻きついていることの表徴のようだ。観念を形によって表現する画家の力量に注目。

13室

 池田純子「瞳 ・ ~月に願いを」。横長の画面の中に半円のフォルムが切り取られ、その中に円弧がいくつもいくつも集合したかたち。その円弧の中は空洞で、それがいくつもいくつも集合して面白いリズムをつくる。そして、その上方にはビルを斜めから見たような直方体のすこしパースのかかったフォルムが連続してカーヴしながら上方に向かう。都会のビルの中の幻想と言ってよい。それがクラシックな音色を響かせるから面白い。グレーを中心としたトーンの変化のなかにしっとりとした音色が聞こえてくるようだ。

 五島秀明「ザマニシリーズ.たまゆら」。心の奥の深いところからあらわれてきた強い感情の表現である。黒と赤、そのバックの黄土色。上方に目を暗示するような、青の中の黒いフォルムがあらわれている。「たまゆら」とは一瞬という意味であるが、一瞬の中にすべてがあると言ってよい。一瞬の中にある構造があらわれる。

第72回日本画院展

(5月12日~5月20日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 大田のり子「春うさぎ」。準会員推挙。正面向きと横向きの二匹の野兎のディテールがしっかりしている。木の幹から枝にわたるフォルムや野草の形がクリアである。装飾的に処理せず、淡々と対象を描きながら、余分なものを排除して、愛らしい野兎の図になっている。

 川上嘉宏「乾いた大地」。会員賞。赤銅(あかがね)色の屋根にベージュの壁をもつ建物が一つひとつ丁寧に描かれながら、だんだんと上方に向かっていく。いちばん上方は宮殿のような建物が聳えている。空はジョンブリヤン系の色彩に染まって、いま日が昇ろうとしているかのようだ。あいだに階段とその先の広場が二つ、大小あるのが構成のアクセントになっている。建物は基本的には正面性を中心として構成されている。それによって一種のリズムが生まれ、その変化によってメロディが聞こえてくるような趣。

 高橋かね子「想 福島の海」。会員賞。椅子に座って立て膝をし、その膝の上に肱をついた女性の姿。イヴニングドレスふうな衣装である。ゆったりとした輪郭線によって、この女性を大きく捉えている。窓から福島と思われる風景。その海と月が浮かんでいるのが強いアクセントになっている。

 深津富士子「花」。佳作賞・会友推挙。下方に大きく花弁を広げている白い花の中心のしべが上方に伸びていって、その先にもう一つの小さな相似の花をつけている。周りにもしべを伸ばしたいくつかの花があり、紫や茶色の蛾が飛んでいる。小さな青い弁に黄色いしべを持つ花も描かれている。空の星が花になって、目の周りにあらわれているようなロマンティックな味わいがある。花も蛾もお互いにダンスをしているような優雅なムーヴマンも魅力。

 石渡雅江「いのちの詩」。奨励賞・会員推挙。十三頭の羊が手前にゆっくりと歩いてくる。三番目の列の羊がいちばん大きく、その前の五頭は小さいという、大小の変化もまた構成のポイントとなっている。白い羊の中に茶褐色の羊が三頭入っているのも同様である。光が静かに差す。その中にこちらに行進してくるような羊たちは無垢な雰囲気。同時に親密な様子もある。人間を見るように羊を眺め、その心の中に入って一頭一頭描き出したような味わいが魅力。

2室

 嶋田鈴子「一歩」。準会員推挙。伸びていくスカイツリーを背景にタンクトップの女性が宙に浮いている。その横から見た姿がクリアで、独特の幻想性の中に絵画的な魅力をつくりだしている。

 滝上くら「キウイ曼荼羅」。広瀬川美術館賞。キウイのくねくねとした枝が画面を動いている。中心に三重の同心円。四隅に四つの円。それに対して十字形にもうすこし小さな円を配し、中にキウイの実や花などを配している。独特の強さがある。それぞれのフォルムは対象に沿って描くというより、むしろ対象に触発されてその特色をピックアップしながら、かなりデフォルメされている。花も正面性を強調され、キウイは半分にカットされて、中が見えている。強い生命感が感じられる。くねくねとした枝が生命力を表すと同時に時間というもののメタファーとなっている。独特のコンポジションである。

4室

 望月昇「神の木」。いわゆる御神木が注連縄を巻かれて、そのうろのあたりが画面の約七分の三ほどを占める。枝の向こうに三日月が浮かぶ。あやしく深々とした雰囲気である。あいだに若木のような不思議な赤茶色の形象などが重なっているが、そばに接近すると、注連縄が柔らかなカーヴをもちながらこの幹を巡っていて、その御幣や綱の様子なども面白く感じる。樹木の怪異な霊的な雰囲気がよくあらわれているが、それに対して注連縄のこのフォルムが愛らしく懐かしい。

 髙澤かなえ「めぐる季節」。春から冬までの木や植物を一つの画面に配して、一望に眺められる絵巻のような構成にしている。優れた構成力である。左上方に桜が満開で、その下方にレンゲが咲いている。そばに川が流れている。川の手前にはシロツメクサやハルジオンなどが咲き、夏の上方に百合や黒いアゲハチョウ、アザミが大きく描かれている。そばは秋でススキが穂を黄金色に靡かせ、柿の木が赤い実をつける。その背後は雪が降っている。葉を落とした裸木が白く幻影のようにその梢を伸ばしている。そこには満月が顔を出す。過ぎ行く季節に対する思いが画面の中に漂っている。桜の上方に渡り鳥が群れをなしているのが移っていく時の象徴のようで、画家の想念の形象化と言ってよい。四季の変化に思いを巡らせながら、独特の審美性とも言えるものがあらわれているところも魅力。

 新井唯一「霧湧く」。白樺の木が伸びている。手前には水芭蕉の花が咲いている。霧の中に裸木が立ち、雪がまだすこし残っている中にすでに春に咲く水芭蕉の花が点々と咲いているといった構図であるが、裸木に対して水芭蕉の花の群れが、静かに灯し火をともしているような、そんな温かな魅力をなす。

 百々茂貫「皎」。まるでヒマラヤの高い峰を思わせるような、鋭角的な雪をかぶった山が画面の上方に描かれている。背景は黒であるが、白い満月が浮かび、雪に覆われた斜面が白く輝いている。下方にももっと低い山稜があるが、それは暗い調子の中に沈みこんでいる。屹立するこの山の姿は芸術家の象徴かもしれない。画家のもつ詩魂とも言うべきものを、このようなかたちで表す。高邁なある精神の佇まいを絵画として象徴的に表す。そばに月が友達のようにいて、この様子を照らしているが、この作品から妙恵上人が月の歌をたくさん詠んだことをもしぜんと想起した。

5室

 荒川喜美子「漾虚No.・(イリュージョン)」。青い円弧の中に黒い楕円が入り、その中からピンクの薔薇の花が浮かび上がる。逆に青い薔薇の花は沈みこんでいる。下方から伸びる渦巻く星雲のようなフォルムが、この円弧の内部と連続する。蝶が飛ぶ。あらゆるものを呑み込み、また再生させる。そんなイメージをロマンティックに歌い上げる。

 酒井重良「花のゆくえ」。二点出品で、小さな矩形の赤やオレンジなどの色彩を小さくコラージュしながら、画面全体をオールオーバーに覆って、その上にグレーの風のようなストロークを置いた作品と、グレーのたらし込みふうなバックにやはり線のストロークを置いた、対照的な二点を出品である。小さな矩形の色彩豊かなものが声明の一つひとつの言葉のように感じられる。そこに無常の風が吹いているような、そんな独特の日本人のもつ時空間、心象空間の表現として注目。

 鈴木美江「人形たちの店」。大きな窓の中に上下の棚がつくられ、そこに人形たちがいる。下方の人形は大きく、ドレッシーな雰囲気をした女性の人形たちである。上方はもっと小さな人形たちが座ったり立ったりしているが、そのあたりは鉛筆の線描きを生かした表現となっている。その窓からひさしが伸びて、レースというフランス語が書かれている。そのフランス語の下の窓、つまり下方の人形の上方にレースでできた同心円の文様などが置かれて、その周りに光が漂っている。ロマンティックで夢想的な世界があらわれる。人形は外部にあると同時に画家の心の中に存在するもののようだ。単なる人形というより、画家のイメージを託された存在としてここに様々な様子で立っている。人形とレースのあいだに鹿が飛び、馬が歩いているのも、そんなイメージの中からしぜんとあらわれたものだろう。窓の中は温かな光に満ちている。上方はその光がだんだんと落ちて夕方になり、人形のほうに逆にスポットライトが当たっている雰囲気。この一つの窓を現実のものにするように、窓の周りに壁をつくり、その全体に光を差し込ませている。あたかも客観的な現実のように見えるが、画家のつくりだした絵画ならではのファンタジーと言ってよい。詩情豊かな、深く柔らかな感情表現として注目。

 北尾君光「旅の思い出」。線が生かされて、お互いに関連しながら旋回するような動きをつくる。テーブルの向こうに座って腕の上に顔をのせた若い女性。手前にはたくさんの薔薇の花が花瓶に挿されている。女性のそばに二羽の鳥が来て話し掛ける。白い大きな鳥がいまこの空間に向かっている。下方には船が進む。岸壁が見える。サーカス小屋。様々な経験の中からピックアップされたイメージを集めながら、きらきらとした絵画的な空間を表現する。

 高橋賢心「一隅」。三本の竹のそばに大きな岩がある。つがいの雀がその上下に描かれ、鳩のつがいが地面の左右に描かれている。桜の花が散っている。花に囲まれて、このつがいの鳥たちはお互いに会話をしながら、困難な現実を忘れて遊ぶ。そんなひとときが素朴に表現されている。中心の岩のもつ存在感がポイントとなっている。様々な時間をすべて中に入れこんだような不思議な岩がこの構成を支えている。

6室

 岡田多栄「そよ風」。緑や黄土を墨のように扱った独特の山水的表現となっている。湖の中に島があり、その周りの大地の様子。遠景の幾重にも重なる山並み。近景に針葉樹が大小点々と伸びて、まるでお互いが手をつなぎながら輪になっているような優しいコンポジションが生まれている。点々と立つその針葉樹が、生き物のように感じられる。柔らかなトーンの中に山水を構成するフォルムが息づく。

7室

 荻原康弘「街角」。会員推挙。円筒形の金属の鏡面をもつ柱があり、そこにその周りの光景が映っている。デフォルメされて、マジック的世界があらわれる。その部分を拡大して描いているために、よりヴィヴィッドな表現になる。画家の発見したアリス的世界と言ってよい。

 山田京子「凍る滝」。会員推挙。凍った滝と水面を描いている。水面が滝より面積が広く、落下する直前の滝の部分とそれを映す水面をテーマにしていて、独特の抽象的なかたちがつくられている。滝の流れている時間が凍ってそのまま停止した、そのあやしさを面白く表現している。

 三森千惠子「池映」。会員推挙。シャープな細長い先の尖った葉と豆の葉のような二つの植物が上方に重なって描かれている。あいだに黄色い小さな花が咲いている。周りは水で、水は暗く、ところどころ白い石垣のようなものを映している。雑草が鮮やかに表現されている。その雑草の中に咲いた小さな花をまるで仏を見るような雰囲気で大切に描いている。

9室

 田端藤次「法楽の舞(静御前)」。永寿賞。烏帽子をかぶり扇子を持った静御前の舞い。上方には僧兵の姿をした人々が座っている。面白い構図だし、省略化されたそれぞれのフォルムが生き生きとしている。色彩も濁らさず、発色がよい。舞いの一瞬の動作を面白くかたちにして構成している。小さな手の指の先がのぞき、そこから扇子が伸びているのも愛らしい。

12室

 佐藤維佑子「林の中」。両側に樹木が立ち、あいだに道が続いている。そんな平凡な様子をよく表現している。葉の一枚一枚までもその動きを見定めながら表現している。紫の道に茶褐色の落ち葉が積もっている。あいだに水たまりがあり、それが木を映す。森の空気感も含めて、その気配がよく表現されている。

17室

 山岡節子「schedule」。会員推挙。手帳を持つ女性の全身像である。黄土系のバックにオレンジ系の花柄の衣装をつけた女性が立っているのだが、一つひとつ丹念に描きながら、独特の存在感をつくる。趣味のよさとか上品さというものもまたこの絵の魅力をなす。

 丸山敦子「望春」。一本の若木に白い花が咲いている。周りに雑草が伸びている。その花の咲いている一本の様子が、明かりがそこで灯っているような優しいロマンティックな様子である。

第34回新洋画会展

(5月12日~5月20日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 塚田カズヱ「初雪」。東京都議会議長賞。ペインティングナイフで絵具を置き、色彩の輝きを出す。雪の積もった地面に伸びる木。ピンクの空を映す湖。近景の地面もピンクで、そこに緑の植物。ピンクと緑がお互いに響き合いながら、灰白色がそのあいだの色彩をつなぎながら、風景が合唱するようなイメージをつくる。

2室

 高橋祐之助「アンジェー城からの眺望(サン・モリス大聖堂)」。東京都知事賞。中景にサン・モリス大聖堂。手前の煙突のある民家の屋根。手前のお城のカーヴした石垣。青のトーンの中にそれらを表現する。なかにサン・モリス大聖堂が黄金色に輝く。しっかりとしたフォルムを連続させながら、おとぎ話のような風景を画面の上に創造する。裸木のあやしく屈曲する形と民家の茶褐色の煙突の連続する形とは、ミステリアスでファンタジックな物語の脇役のような、不思議な雰囲気を醸し出している。ユニークな才能である。

第108回太平洋展

(5月16日~5月28日/国立新美術館)

文/高山淳・小池伊欧里

1室

 よでん圭子「夜話」。両側に裸婦が座っている。かなり彫刻的なフォルムである。バックは茶や褐色の色面構成と言ってよい。そこに銀箔なども散らされて、独特のリズム感をつくる。上方に鳥が大きな目玉をもって浮かび上がっているのも面白い。星がまたたく。夜の中のイメージ。対象を再現的に表現するのではなく、女性をいわば人形のように配して、ノクターンを歌うようなイメージを構成する。(高山淳)

 佐々木徹郎「静謐なる桟橋」。会員努力賞。木の板で組まれた桟橋が堂々とした佇まいで描かれている。山、岸辺の家々、係留されたボート、水面に映る山影、と画面を横断する層に対して、縦に力強く伸びる桟橋に存在感がある。日差しを受けた桟橋は、ベージュ系の様々な色調を見せている。油絵の醍醐味とも言えるしっかりとしたストロークを重ねることで表現された微妙な色彩の変化と、視点の面白さがあるので、オーソドックスながらも新鮮な作品である。(小池伊欧里)

 川崎常子「連鎖の情景―・」。大きな白い蓮の花托が遺跡のような趣で水中を漂っている。中から蓮の葉やつぼみ、花などが顔を覗かせ、魚も住処にしている。面白いことに、小さな白いカニがワイングラスを掲げてこの大きな花托から注がれる液体を受けている。この花托は生命を育む母船のようなものなのだろう。全体的に青と緑でまとめられた画面は、小さなドーナツ状の円を点描のように連ねて描かれていて、水中の泡沫や小さな生命が海流に乗って漂うイメージが感じられる。(小池伊欧里)

 塚田讓「ハッピーウインドー」。イタリアのルネサンス時代の建物、都市を思わせるような光景が広がっている。近景に犬を連れた若い女性がマントを羽織ってバイオリンを抱えている。中庭に波打つようなものが置かれて、そこでピエロのような女性が演技をしている。その向こうにももう一人のピエロがいる。赤や緑の球がいくつも浮いている。たとえばビバルディの音楽を聴きながらイメージするような世界を画面の上に構築する。その世界の中では社会的な役割から外れて自由になって自己を解放する。そんなイメージをシンメトリックなコンポジションの中に表現し、上方に飛ぶ鷹のような鳥は、そんな画家自身の魂を象徴するようだ。暖色系の色彩に対して寒色系の配分も的確である。(高山淳)

 宮本千恵子「江南の船溜り」。白い壁に瓦屋根の民家が運河にそのまま接している。たくさんの船が運河に浮かんでいる船溜まり。その船に点々と人間がいる。上方に樹木が円弧を描いて伸びて、緑の葉を茂らせている。柔らかな日差しが当たる。そんな一瞬の情景を的確に表現し、独特の静寂感がある。(高山淳)

2室

 鈴木誠市「夏衣」。籐の椅子に座る女性。そばに猫がうずくまっている。右上方に窓があり、青い空が見える。そこに紫や白い可憐な花が挿されている。柔らかな斜光線が差し込む。それぞれのフォルムが的確に表現されているが、それ以上にその柔らかな光を手ですくうように、ある実質のものとして表現しているところが面白い。フォルム以上に光の魅力に注目。(高山淳)

 灰谷敏子「丘から望む」。会員秀作賞。近景は斜面になっていて、灌木が茂っている。中景にヨーロッパの建物が点々と集合している。左上方には水が見える。近景から中景にわたるところに光が差し込み、遠景は影になっている。そういった光の配分の中にハーフトーンの色彩が柔らかにハーモナイズする。中景のそれぞれの向きをした屋根と壁の幾何学的な形が独特のリズムをつくる。(高山淳)

 横山多佳枝「景」。黒い背景に線によって矩形のフォルムをつくる。その中に黄色、オレンジ、赤、ブルーなどの色彩をはめこむ。温かな雰囲気である。それぞれの家にはそれぞれの窓があって、内側から光が滲み出ている。あるいは、その窓が心の窓と重なるように画家は表現する。温かで安らぎのある空間が生まれる。(高山淳)

 加藤ひろみ「サボテンのある光景」。会員努力賞。三分割された画面、それぞれに球形をしたサボテンが描かれている。チェス盤のような地面は、現実とは異なる精神世界をイメージさせる。その世界に対応するように三つのサボテンはそれぞれ何か瞑想している雰囲気で、三尊仏を思わせる。中央手前の少女の心はこの困難な時代の中、奥に描かれた裸木のように枯れてしまっているのだろうか。枯れた大地にあっても水分を湛えるサボテンに希望が託される。左翼と右翼に描かれているのは、花が咲き実の成る未来なのだろう。白黒の無機質な地面に対して、柔らかな緑で描かれたサボテンの生命感が引き立っている。(小池伊欧里)

 松倉弘子「クリスマスのお買物」。夢想の世界を人形を通して表現する。たとえばロンドンのボンドストリートでショッピングをしてみる。クリスマスのために買物をする。四人の女性たちの衣装を見ると、すこし年配の女性の趣味がうかがえる。少女の人形だが、年齢不詳で、中年から老年の女性のイメージがそこに重ねられている。そして、イメージの中ではのびのびとして、贅沢な買物をしながらその周りの情景を眺めている。四人の人形の視線がそれぞれ違うところが面白い。それによってより心理的空間、つまりここに描かれていない空間が想起される。毛でできた温かそうなアヒルのぬいぐるみのようなものにリードをつけて、それを左手で持っている様子だが、そのアヒルの人形が不思議な独特なイメージを醸し出す。ふさふさした感じはおそらくこの絵を描いた人の室内の空間につながっているのだろう。窓の棧や壁が黄土系に彩色されていて、全体に柔らかな黄金色の光がそこに存在するように感じられるところも面白い。(高山淳)

4室

 多田知史「ゆずり」。カーヴするフォルムが連続して、それが山の斜面をイメージする。そのあいだに谷があって、そこは様々な色面によって構成されているが、階段を思わせるところもある。アーチの向こうにぽつんと一人の人間がいて、手前に二人の人間が会話をし踊っている。背を向けて手前に歩いてくる女性が一人。夜空には金平糖のような星がたくさん輝いている。掌の上に風景を眺めて表現したようなファンタジーが面白い。また、人間のディテール、とくに真ん中の二人の女性のディテール、帽子や衣装、あるいは動いているフォルムがまたポイントとしてよくきいている。(高山淳)

 畑孝子「初冬」。中景に杉林がある。その黒ずんだフォルムを左右に描いて、強いリズムをつくる。遠景には雪を抱いた青い山。近景には空を映して静かに流れる水。水と杉林のあいだには枯れた草。しっとりとした情感が漂う。中景の前述した杉のリズム感が心地好い。(高山淳)

5室

 我那覇絹子「木麻黄のある風景」。白いコンクリート造りの人気のない建物が二棟建っている。建物を裏手から囲むように大きなモクマオウが青々と茂り、芝に影を落としている。夕暮れだろうか、あかね雲に吸い込まれて行くかのように枝をうねらせるモクマオウの動きは風と一体化している。南国ならではの風景ではあるが、強い陰翳によって表現された画面はドラマチックであり、ガラスや幹に反射する朱色もポイントとなっていて普遍的なノスタルジーを引き寄せる。(小池伊欧里)

6室

 村田宏一「天使の島」。会員推挙。モン・サン・ミッシェルが夕焼けの中に黒々と画面の中心に描かれている。上方の修道院の建物の部分はライトアップされている。そのそばには民家もあるようだ。そのモン・サン・ミッシェルに向かう道に立ってこの光景を眺めている人。自転車に乗って背を向けてこちらに走ってくる人。そばの海の静かな波。自転車の二つの照明灯。夕焼け雲のダイナミックな表情。映画のワンシーンを思わせるような、そんな様子を横長の画面の中に海と空を大きくとりながら表現する。垂直に立ち上がるモン・サン・ミッシェルの鐘楼と思われる建物の屋根になお先鋭に聳えるフォルムも、画面のアクセントとしてよくきいている。(高山淳)

 与那覇房子「夜の桜坂」。ゆるやかに下方に向かう道を並んで二人の女性が歩いて、背中を見せ、遠ざかっていく。両側にはところどころ店の光が店内から差している。二つの街灯が人懐かしい情感を醸し出す。道の微妙な傾斜がこの作品の絵画性と言ってよい。(高山淳)

7室

 野村久司「朝瞬の靄」。近景に畑があり、その向こうにたくさんの民家があり、樹木があり、その向こうには田圃が広がっている。さらにその向こうには山がある。そういったパノラマを独特の心象的空間に表現している。たとえば民家にしても、周りの樹木や畑に対してずいぶん小さくデフォルメされている。逆にそれによって愛らしいファンタジックな空間が生まれる。靄が点々とした光の集合によって表現されているのも面白い。光景を小さな光の粒子が集合して鑽仰しているような、イメージが鑑賞者を引き寄せる。ふるさと讃歌と言ってよい。(高山淳)

9室

 遠山はるみ「GIFT」。左に老人のピエロ。右に三人のもっと若いピエロがいる。あいだにボックスがあけられて、宝石のようなものが見える。上方から緑の小さな球状のものが下りてきている。左の人間は貧しいホームレスのような存在の人らしいが、共通の人間だというヒューマンなイメージを画家は強調する。人間的な存在を超えたものを暗示的に表現しながら、静かなドラマをつくる。(高山淳)

 三上久戴「ジャンヌ」。会員秀作賞。白い肌着姿の女が横臥し、目を閉じ上を向いている。繰り返し人物デッサンを続けてきたのだろう、手足の先まで緊張感を持って的確に描かれた人物である。背景には数頭の騎馬を従えたジャンヌ・ダルクがシルエットで描かれ、明るい色調の女と対比される。トリコロールの布に手を置き、ジャンヌ・ダルクの気高さに思いを馳せているのだろうか。女性の美がよく強調された構図と描写力である。(小池伊欧里)

 鈴木勝昭「21才・心揺れて」。損保ジャパン美術財団賞。赤いワンピースを着た女性。二十一歳。同じ女性をポーズを変えて横に八体並べている。未来に向かって足踏みし行進しているような強いリズム感が面白い。赤いドレスも朝日を連想させる。光に向かっている女性の存在を面白く画面にアレンジする。顔も面白いが、足とハイヒールとの関係によってできるフォルムの連続した形が、一種抽象的な動きをつくっているところも面白いと思う。(高山淳)

 下山尋利「時の過ぎゆくままに」。荒川区長賞。廃屋が感情をこめて表現されている。塗りこまれた絵具が独特の微妙な色彩の変化を表す。この家がこのような状態になるまでの長い時間がそのまま目の前にあらわれてきたような、そんな存在感がユニーク。(高山淳)

 関由紀「待つ」。独特の触覚的な力がある。すこしあけられたドア。小学校入口のバス停。反対側に猫がうずくまっている。もうここにバスはとまらないようだ。時間から捨てられた空間。その捨てられた時間、空間の中に幻影のように黒い猫が浮かび上がる。そこにシュールな気配が漂う。実際にすでに存在しない世界を絵画の上に再現したような趣のあるところが興味深い。(高山淳)

 大倉悦男「2012原生の森」。真ん中にドンと大きな、長い樹齢をもつ樹木の幹を描いている。言ってみれば神木のイメージである。それに対して、周りの石のあたりから可憐な植物がその茎を伸ばしている。苔むしたその地面や樹木の雰囲気と霧が出たような空気感。森の中に入ったあの独特の空気感がよく表現されている。古木のメッセージを受け止めようとするかのようなコンポジションである。また、その周りの樹木と植物、そして霧によって細かく動いていくような動きが、手前のどっしりとした山のようなフォルムと対照されているところも良いと思う。(高山淳)

10室

 大川芳範「ガード下の風景」。学生の頃に神田から新橋までこの道を歩いた時の記憶を描いたそうである。記憶の中の余分なものが消えて、よりイメージが純化されているところが、この作品の魅力である。磯貝居酒屋の暖簾の中には、座っておしゃべりしている人、お酒らしきものを運ぶウェートレス、そばの靴磨きの二人、易者などが、まるで生きているように描かれている。画家の心の中に生きている人間たちの姿であるにちがいない。(高山淳)

13室

 大久保正子「魅せられて」。狐の衣装をつけ、顔も白く塗って、赤くヒゲや目をつくった子供が三人描かれている。傘の下に雪洞をつけて、それを動かしながら踊っている。中心の子供は前向きで、両側の人間は中心を向いている。桜の花が点々と落下しつつある。満開の桜の下のお祭りである。桜と一体化するなかに日常生活を忘れて、純粋にある世界に入る。全身像が入れられている。シャツやパンツの白一色の中に青やオレンジ色の光線が差し込む。面白いのは、地面の上に上向きの狐のお面が置かれていることである。一種の軽いシャーマニスティックな世界に入り、日常生活から飛んだところにいるイメージを、面白く表現している。上向きの狐を見ると、お稲荷さんはこの村では生きていて、身近なところに存在するようだ。長い日本の神仏習合のなかにある神社の役割。そして、狐の真似をして踊りながら、もう一つの異次元の世界を引き寄せて、それを異次元とも思わずに遊ぶ、日本独特のお祭りの雰囲気がよく表現されている。手の表情を見ると、狐の真似をして指を曲げていて、狐の声色さえも真似ているような様子で愛らしい。(高山淳)

 山岸正侃「慈・戒」。画面から強く発信してくるものがある。建物の向こうに地蔵と女性の後ろ姿らしきものが見える。左には仏頭、右には、若い女性のように見えるが、阿修羅像の顔と重なるものがある。震災に対する深い怒りと祈りからあらわれた構図だと思う。それほど色数は使われていないが、色彩、輝き、強いムーヴマンが生まれている。二匹の蝶は魂の表徴のようだ。(高山淳)

 上林如子「まだまだ負けぬ」。心象的な風景である。大きなトルソを思わせるような樹木。途中で切断されているのだが、その切り口から黄金色の幹が伸びつつある。そんな木を鑽仰するように、そばに可憐な黄色い花が咲いている。はるか向こうには鉄塔がいくつも伸びている。震災の不幸な出来事を乗り越えて生きていこうとする。あるいは、そういった人に対する応援を自分の心の内側に入れこんで、それをこの一本の幹に託して画家は表現する。地味であるが、独特のコクのある色彩。若い伸びていく幹が黄金色に輝く。(高山淳)

16室

 小笠原洋子「森の詩」。グレーが画面全体に使われている。このグレーが画家のマジックである。地面も樹木もそのグレーの変化の中にあらわれる。それによって森の世界が画家の心象世界に還元される。そこに子供たちが生き生きとして遊んでいる。いちばん手前では蔓を綱にしたものを持っている少年。いまゴールインする少女。そんな様子を優しく見守っている母親の象徴的存在としての若い女性の横顔が見える。面白いのは木にキツツキがいることだ。キツツキもまたこの子供たちを見ているが、そばに巣があって、毎日コンコンと木の肌をつつきながらこのシーンを見守っているようだ。キツツキは日常の生活の象徴的存在のようだ。子供を子供らしく描くことは意外と難しいが、その純粋さをよく画面の中に表現している。(高山淳)

 久保木妃呂子「響―2012」。ピアノ三重奏の舞台が描かれている。上手側から俯瞰するように捉えられ、安定感を持ったチェロを弾く人物がクローズアップされている。舞台を丁字に明るい紫色の帯が走っていることで、構図にシャープな印象を与えている。照明の光が水色で入れられ、所々に反射し、幻想的なムードのある作品となっている。(小池伊欧里)

 渡辺元司「ガーデンアンサンブル」。屋外で弦楽四重奏が演奏されている。緑に囲まれた背景は、鉛筆の線を活かしながら淡く描かれ、手前の演奏者を強調している。楽器の質感もよく出ているが、四人の演奏者それぞれが個性的な表情をしているのが印象深い。衣裳の色彩の爽やかさも相俟って、気持ちのよい音楽が響いてくるようだ。

(小池伊欧里)

 小池かよ「思考する形象」。二人の女性が立っている。シンメトリックな様子だが、手の表情が違う。グレーの中に黄色や緑、青などの柔らかな色彩が置かれた抽象的なフォルムが組み合わされているバック。一見してステンドグラスを思わせるところがある。現実の女性というより、ステンドグラスの中に嵌め込まれた女性に光が差し込み、輝く。天気が移ると、それにつれてステンドグラスの光も変化しながら呼吸をする。聖なる教会に嵌められた女性の像。画家のある理想的な世界。スピリチュアルな女性像として実に魅力的である。(高山淳)

18室

 丸毛利久「早春賦」。赤い瓦屋根。裸木。裸木の中に飛ぶ白い蝶。その向こうに見える、しっかりとした構造をもつ建物。遠景には山が青く霞む。ヨーロッパの一隅を胸中山水のように描く。蝶は季節をいま運ぶ存在のように表現されている。的確な樹木のフォルムの網の目のような形が、季節の境のイメージをよく表現する。(高山淳)

19室

 浜辺順「ワルキューレ」。ワルキューレは戦場において死を定め勝敗を決する女神。北欧神話に登場する。そのワルキューレが真ん中にピンクの光を放つような肌の色彩の中に神々しく表現されている。上方には抽象的な黒い動きのあるフォルムが置かれて、戦争を暗示するようだ。その戦争はまた今回の津波の大災害、悲惨なことも暗示させる。それを克服して癒す。死と生をえり分けながら、いずれのほうも癒す地上的な存在のようにこの女神は表現されている。女性の肌にレースのように花模様のフォルムがつけられているのは、勝利した人へのプレゼントのようだ。そして、背後に八の字形に動く死の世界もともに背負っている。中心に青い色彩があり、そこに建物があるが、一部は倒壊している。その青は今回の東日本大震災の津波のイメージも引き寄せていると思われる。いずれにしても、絵というものは現実にないものを表現するところが面白く、神話をテーマにした佳作だと思う。(高山淳)

 澤村みちる「貴婦人GODIVA」。ゴダイヴァは十一世紀のイギリスの女性。マーシア伯レオフリックの夫人で、自身ものちに領主となった。夫レオフリックの圧政を諌めるためにコヴェントリーの町を裸で行進したという伝説が残っている。ゴダイヴァは美しく、清い心もちの女性であったといわれる。いまの日本の混乱した政治や経済のなかにそういった女性を画家は絵の上に呼び起こした。黒い馬に裸でゆったりと乗る金髪のゴダイヴァは気品があり崇高なものの象徴のように描かれている。背景にはイギリスの建物が描かれている。(高山淳)

 佐田興三「いろは」。緑の複雑なヴァリエーションの中に黒やブルーが入れられている。フォルムの連続性によって独特のリズムが生まれる。動物の頭をした人間のようなフォルムが集合してあらわれているし、集合しながら逆立ちしている図もある。日本はアニミズムの国である。たとえばお稲荷さんが神になる。自然というものを表現するのに、そのようなイメージを引き寄せて、独特の密度のある画面をつくった。「いろはにほとちりぬるを」は弘法大師がつくったといわれているが、その文字が描かれていて、日本のはるか昔からの自然との親密な世界を表現する。(高山淳)

 佐田昌治「風の記憶」。椅子に座る老人が物思いにふけっている。後ろにポスターがある。「A MEMORY OF WINDS」という文字の書かれた上に若い女性が横向きで瞑想にふけっている。女性の記憶と老人の記憶のあいだを白い風が渡る。その白い風が壁となって画面の上に置かれている。鳩が何かのメッセージをもって、いま向かってくる。その羽ばたくようなフォルムはイメージがいまわき上がった瞬間を表すようだ。老人と若い女性とは、たとえばシャンソンの中ではずいぶん共通した同伴者のように歌われる。そんなパリのシャンソンが聞こえてくるような画面である。白い風がそのまま壁になるといったところに、今回の作品の工夫がある。(高山淳)

 根岸一雄「西の風」。西から吹く風というと、西方浄土から吹く風だろうか。その風に顔を向けている女性たち。右のほうはだんだんと茶褐色になって、深い煩悩の世界があらわれてくるようだ。一年前の津波の災害でたくさんの人々が亡くなった。それに対するレクイエムの表現とも思われる。左の灰白色の強いマチエールをもつ風の吹く空間の表現に注目。(高山淳)

 杉澤安江「回想」。三人の女性がソファに座っている。しっとりとしたトーンが魅力である。あまりボリューム感を出さず、フラットなかたちで表現している。それは日本の浮世絵にも通じるだろう。ハーフトーンの色彩のハーモニーが優しい。(高山淳)

20室

 日置偉之「晩秋の夕暮れ時」。佳作。鞄を背負った女性の後ろに二人の少年、その後ろには少女と、四人の人物が歩いている。あいだに犬がいて、いちばん後ろには大きな猫がいる。面白いのはそれぞれの少年少女が柿を持っていること。猫も柿をくわえている。ここは橋で、背後に川があり、土手にいま夕日が沈もうとしている。その夕日のオレンジ色がそのまま柿の色彩と重なる。少年少女は夕日が柿に化身したものを持って歩いているようだ。その柿は温かく、この少年少女の寂しそうな雰囲気と対照的である。どうもこの川は三途の川のようで、そこを渡りつつある少年少女に柿を持たせたような趣もある。深読みに過ぎるかもしれない。ただ、地面に散乱している石や木屑があり、花もうなだれている様子を見ると、そんなイメージもわく。一つひとつクリアに描きながら、不思議な幻想感を表現する。(高山淳)

24室

 西村純子「discovery IV」。太平洋美術会賞・会友推挙。形態感覚が優れている。中心にリングがあり、リングの中に四人の女性の目が描かれているのが面白い。そこから放射状に煙のような動きがあらわれ、そこに人間の顔や蝶などがあらわれている。真ん中の円はアラジンのランプのようなもので、それをこすると画家のイメージが活性化して、独特のファンタジックな空間が生まれるといった趣である。いずれにしても、それぞれのフォルムのディテールのクリアさが魅力である。(高山淳)

26室

 渋谷啓子「パリの夕暮れ」。丸山晩霞賞・会友推挙。夕暮れの光線が街や建物や人間たちを紫色に染めている。ところどころオレンジ色の光が窓から漏れる。遠近感を強調した的確なフォルムが配置されている。ガス灯がだんだんと低くなっていくその動きとリズムを画面の中心に置いて、両側には歩道と自動車道、歩行する人、そして建物から漏れるオレンジ色の光。まさに間然ない構成である。(高山淳)

29室

 牧野健治「形態 2012─・」。一般努力賞・会友推挙。椅子に座った女性がいまブラジャーを取ろうとしている。両側に背中を見せて座る女性。右の女性の後ろ側のブラジャーがすこし外れかけている。的確な女性の形を描きながら、そこに白いブラジャーを面白い造形的アクセントとして表現している。全体の淡い調子にこの三体の女性が静かに輝く。突き放したような視点から的確に対象のフォルムを捉えるという造形力がある。同時に、柔らかな雰囲気が漂う。ロマンティックな雰囲気が鑑賞者を誘う。(高山淳)

31室〈版画〉

 熊本くにみ「時の流れ・1」。文部科学大臣賞。白い花が可憐な様子で、しかも生命力をもって画面の中心に描かれている。優れたデッサン力である。上下に縄文時代の壺と土偶が置かれている。火炎土器の曲線の呪術的な強い動きに対して、まるで宇宙人のような大きな目をした土偶が配置されているのが面白い。縄文時代の素朴な人々の心に心を通わせる。可憐な和花が真ん中に置かれ、それは時の移ろいの中に繰り返し咲く現在とも言うべきイメージを表す。身近なところからその想像力の触手を伸ばす。力強く柔らかな表現に惹かれる。(高山淳)

 藤林峰夫「冬のしじま ・」。三階建ての教会が懐かしく品よく表現されている。建物の上に立つ十字架の背後に暗い夜空が広がり、星がまたたく。夜空のインディゴ系の青に対して、雪の積もった屋根に、あるいは地面に積もった雪の上にはセリルアン系の青が使われていて、その青の使い分けもこの作品の内容を深くしている。いずれにしても、形に対する感覚がよい。それによって素朴な教会がそのまま、いわば心のモニュマンのように画面の上に表現されている。(高山淳)

32室

 山口みつ江「春の雪」。バックの浅葱色が懐かしい。雪が点々と降っている下に母親犬と子犬が描かれている。下方の向き合った子犬の様子は、地面の匂いや植物の匂いをかいでいるようで、なんともほほえましい。犬のかたちを見ると、宗達の墨による子犬のフォルムを連想するところがある。いずれにしても、ゆったりと対象をつかみながらディテールのもつ繊細な表情を表現し、空間にも奥行きがある。(高山淳)

33室

 戸田喜守「川べ」。グレー一色によって川と土手と建物、工場、雲などを表現しているが、不思議な情感が感じられる。流れる水の表情とその両岸の建物には人懐かしい情緒が感じられる。線が、浮世絵以来こんにちまでつながる柔らかな生きた線として表現されているところもよい。(高山淳)

第64回三軌展

(5月16日~5月28日/国立新美術館)

文/高山淳・磯部靖

1室

 荒川里枝「TORANKU」。古い革のトランクがあけられている。中には壊れた時計や写真、人形、瓶、本、様々なものがある。時間の浸透のなかに、そのすこし汚れた感じのものたちが独特の手触りと存在感をもって迫る。人間がふれたものは時間の経過のなかで別のものに変容する。そういった存在自体に画家の視線が向けられているところに、この作品のリアリティがある。(高山淳)

 遠藤喜美子「古代ロマン」。三軌会賞。鹿の頭を持った人間たち。そばにタツノオトシゴのようなフォルムがあらわれたり、蛇の頭が牛になっていたりする。紐が結ばれて、その屈曲しカーヴする紐の中にモザイク状に色彩が嵌め込まれているのが、まるで遺伝子の配列のように感じられる。グレーの壁面に古代人がつくった形象を描きながら、何か渾沌としたものがあらわれている。過去を振り返って未来を望むのは人間の常だが、未来からくるイメージが明るくないところから、このようなコンフューズされた世界があらわれるのだろう。それがこの作品の現代性と思われる。(高山淳)

 横須賀幸正「わだつみの」。長くこのテーマで描いているが、今回は昨年の震災による津波も自然と意識されている。画面下方に描かれているハマヒルガオも、被災者に対する献花のように感じられる。細やかな筆遣いで浮きや貝、泡など海にまつわるものを長く描いてきた画家だけに、海の素晴らしさも恐ろしさも熟知していることだろう。それだけに今回の作品は肌に迫るものがある。淡々と自身の仕事をこなしながら、深い祈りの想いが作品に込められている。(磯部靖)

 矢澤利子「祈り」。文部科学大臣賞。顔も体も布で巻かれて一部変形したような、そういった人造人間のような人々が赤い薔薇の花を持っている。その薔薇の花もまたデフォルメされて、溶解しつつある。背景は複雑な曲線や直線のクロスする世界である。情報化社会である現代の、しかしメルティングしているような社会、原子力発電所に対する政府の対応、その不安感、そういったものを寓意的にこのようなかたちで表現したと考えると、面白い。赤い薔薇が、薔薇というより心臓に近いイメージとして、なまなましくあらわれている。(高山淳)

 大塚健二「記憶の中で」。画面の真ん中に大きな縦長の画面、両側にすこし小さな縦長の画面を置いて、観音開き風の構成にしている。中心には矩形の上に座る若い女性。面白いストッキングをはいて、ファッショナブルな雰囲気である。両翼には花が描かれている。その上方に菱形あるいは長方形の窓のようなフォルムが入れられ、赤と白、あるいは白とグレーなどの細いバーが置かれている。様々な人生の軌跡。どちらの道をたどってきたかわからない過去。そんな曖昧な記憶を抽象的に表現したようだ。いずれにしても、下方の若い女性のもつ健康な生命力ともいうべきものが作品のテーマとなっている。独特のフェミニズムのための三枚対の作品と言ってよい。(高山淳)

 中井一男「私風景(風・赤い記憶)」。損保ジャパン美術財団賞。F型の100のタテのキャンバスを三枚横に重ねた横長の作品。真ん中には矩形に分けられたボックスがあって、ボックスの上には瓶やポット、矩形の中には瓶や赤い球体や電球、フレスコ、あるいは曲がった管、手品の道具、アンモナイト、箱などが置かれている。それの置かれた机には南瓜や植物の葉、プラスティックの容器。両側にはマネキンや積み重ねられた段ボール。あるいはドラム缶や、人形の木製の手や倒れたマネキンなどが置かれている。そのようなものはある意味で無秩序に置かれている。その無秩序の部屋はそこから何かを取り出して表現するための原風景のようだ。右上方にデコイというか、人形のような鳥が浮かんでいるが、そのフェークの鳥に乗って、ここからテーマを引き出すための場のような、そんな雰囲気がある。まさに私風景。壁が赤いから赤い記憶。そこから何かを引き寄せるための場を、アトリエの内部をそのまま画面の上に置いてみたといった雰囲気である。紙とパイプ状のものが浮遊している。あるいは、ところどころそんな破片が浮遊しているのが面白い。そのイメージの最終的なものをやがて統合していくわけだろうが、統合する前の現在進行形の心象風景のようなところが、まさにコンフューズした現代社会と呼応するようだ。(高山淳)

 滝浪文裕「そとあそび」。会員優賞(A氏賞)。公園の砂場に三人の少女がいて、砂遊びをしている。その動作がよく描かれているし、手や目の表情などのディテールも生き生きとしている。しっとりとした砂のもつ触感とそこに点々と穴があいている様子がねっとりとして、現代の渾沌とした社会を暗示するようだ。そう思って見ていると、くっきりと少女の影が砂地に捺されているのも、あまり希望的なイメージではないのだろう。単に少女の愛らしさだけではなく、そういった社会背景までも取り込んだ表現として注目した。

 大槌隆「2012年4月1日」。画面の半分近くが海と砂浜になっている。海は静かに波が寄せている。砂地のもつ微妙な起伏が丹念に表現されている。看板が三つ。工事用車両出入口。工事の迷惑に対するお願い。この先通行止め。そんな単なる看板が、一般的な性格を離れて、異様な強さで迫ってくる。この海と砂浜というバックグラウンドの背景の中では人間の宣伝文句さえも異様なものとして映る。画家は常にこの砂浜と海を背景にしてあるメッセージを発信する。砂地のすこしへこんだあたりのもつ触感には、地滑りが起きてくる予感さえも与えるようななまなましさがある。(高山淳)

 佐藤美代子「つなぐ『遼 遼』」。互井賞。裏返したキャンバスに独特のイメージ世界を描いている。ウサギは佐藤作品の長いモチーフであるが、今回は白い服を着てデスク前に座っているようだ。その背後には遠景に岬が見える。岬には昨今問題になっている原発を思わせる建物が見て取れる。手触りのあるマチエールによって画面を構築していきながら、画家は敏感に日々感じることを作品に込めながら描いている。また、手前には首輪をはめられた猫がいる。画家のそういった複雑な心情に全く興味がないかのように寝そべっているその気ままな様子がおもしろい。画面に配置されている様々なモチーフとウサギ、そして猫。それらの関係性のユニークさが、特に今作品の見どころだと思う。(磯部靖)

 新井達夫「白い太陽」。果てしなく広がる大地にたくさんの皮だけになった実が転がっている。そのどれも中身が無くなっている。遠景には集められた藁なのだろうか、大きなシートが被せられて積み上げられている。そして、画面の右側、地平線の彼方に小さく太陽がある。孤独な風景である。逆光の中にものの存在を深く追求するような、または朽ちていく時間の流れをただ受け入れるかのような、生と死のドラマが描かれている。生きるということの意味を、画家は鑑賞者に投げかけている。(磯部靖)

2室

 縣二三男「ポーランド・壁の傷痕」。長くアウシュビッツの悲劇をテーマに描いてきたが、今回は画面構成をずいぶんと変えて描いている。画面の左側にキャビネ、右に椅子を線で描き、椅子の上方には太陽が浮かんでいる。背後は、壁と空のダブルイメージになっていて、空の部分は青みがかっていて、壁の部分には文字が書かれている。牢獄に閉じ込められた人々はこの青空を見ることなく殺されてしまったのだろう。作品の裏側から深い悲しみが浮かび上がってきているかのようだ。色数を抑えながらも、希望の象徴である太陽に強い吸引力を持たせている。堅牢な画肌がそういったイメージを背後から支えている。(磯部靖)

 庄子明宏「浄夏」。三つのパネルと一つのパネルをそれぞれ木製の額の上に浮かせるように置いて並べている。下方には曼珠沙華が咲いている。上方には月があり、赤とんぼが飛んでいる。赤とんぼは死者が変容してあらわれてきたようだ。悲しいイメージである。深いレクイエムの感情があらわれている。月は祈りの対象であると同時に、われわれの住む地球のイメージもそこに重ねられている。(高山淳)

 市川元晴「デイ・ドリーム」。背のある椅子に座って、背のほうに両手を置いて、その上に顔を置いたピエロ。目をつぶって考え事をしている。そこから百二十度ずつ三匹の犬が配置される。上方の両側の犬は向こうを向いて、いちばん手前の犬はこちらを見て首を傾げている。ピエロの体は消えて、夢の中にいるようだが、その背もたれの椅子にある黒い矩形の画面の中には何もあらわれていない。あまり幸せな夢を見ているようには思えない。その夢を暗示するように犬がこちらを眺めて、「何が見えていますか」と尋ねるようだ。優れた形態感覚と構図の上に現代人の不安な心理を表現する。(高山淳)

3室

 森田一男「耐える人々A」。画家は二点出品である。一点は、津波から逃げ惑って、お互いに寄り添った人々。その困難なところにいる人々に対して花束を与えている。もう一点は、お互いに抱き合い、顔に手を当てて悲しんでいる人々の姿である。友達や近親者を亡くした人間たちだろう。下方には波が見える。上方に青い空が雲のあいだから浮かんできているのが、希望を象徴するようだ。その青い空をシャツとパンツに映した少年が鑑賞者を眺めているのが、茫然たる中の希望といってよいのか、切ない雰囲気である。画家は戦争を体験しているのだろうか。今回の津波の現実に対するなまなましい想像力が描かせたコンポジションである。(高山淳)

 鳥羽佐知子「終わらない旅(祈り)・」。廃船に若い女性が二人乗っている。背後には湾が広がり、昨年の震災による津波被害も連想させる。右上方には黒い鳥が二羽飛んでいる。上方のこちらを向いている女性は黒いタンクトップに白のパンツを履いている。下方の目を閉じて青と白のストライプのシーツに寝ている女性は赤のワンピースを着ている。抑えめの色調の中で、赤と青の色彩がうまく馴染みながらも作品を印象的なものにしているところが、この画家のセンスを伺わせる。若い女性像と廃船という時間の対比もさることながら、背後の荒涼とした風景もまたもう一つの感情を呼び起こす。それは廃船の中にある白い花とともに、震災による被災者に対する祈りであり、今現在を生きて未来を見つめる女性という姿に託した希望である。そういったものを今作品から強く感じた。(磯部靖)

 齋藤リラ「蒼穹・'11」。奨励賞。夏から秋にかけての季節に咲く白い百合やノウゼンカズラなどの花。もう枯れかかった蓮の葉。蔓の先にはホオズキが赤くなっている。そんな花鳥画ともいえるようなオールオーバーの世界の中に、ところどころ青い空間がつくられる。それはそのまま空を暗示する。花はいわば地上の星々のようなイメージで、その向こうに青い空が見えるといったコンポジションになっている。天上のものと地上のものを同一平面にダブルイメージさせる。独特の生命の表現である。接近すると、テントウムシやカミキリムシ、セミの抜け殻など、小さな生き物たちが描かれているのも楽しい。(高山淳)

4室

 六鹿泰「新鮮な空気の為の習作」。青みがかったグレーで統一されている。白い布の上にビニール袋が三つ。背後は白いカーテンである。ビニール袋の中に入れられた空気とこの室内を取り巻く空気とは質が違うように描かれている。空気という目に見えないものを表現しようとする。目に見えない存在がわれわれを規定していると画家は主張するようだ。そのようなコンセプチュアルなテーマにトライしているところに好感をもつ。(高山淳)

 岡田早苗「街」。ショルダーバッグを肩に掛けて紙袋を手に持った若い女性がこちらに歩いてくる。周りに様々な女性たちが座ったり、立ったりしている。夜の街である。街の舗道の中に自分自身を発見する。周りの女性たちの顔を見ると、立っているこの少女ふうの女性と同じ顔をしているところが面白い。自分自身の中に深く入ることによって、街のイメージを再構築する。そして自己を確認する。そういう内向的なところからしっとりとしたこの色彩があらわれる。静かに内側から色彩が輝く。女性のフォルムも力強い。(高山淳)

 もりたかめい「見えない都市」。「見えない都市」はイタロ・カルヴィーノの小説である。マルコ・ポーロの『東方見聞録』を下地にして、マルコ・ポーロがフビライ・ハンに架空の都市を語るという幻想小説である。読者はそれぞれの有り様を想像力と集中力で読んでいく必要があるという有名な小説である。この作品は建物を思わせるようなフォルムをバックに置いて、ある都市のイメージを描いている。その手前に巨大な塔のようなフォルムを置く。塔はグレーと黒によって色分けされ、立体的につくられる。その黒の中にライトレッドの色彩で右のほうは直線、左のほうはギザギザのフォルムが入れられている。周りの輝く光によって、この建物は金環食のような、ブラックホールの中に入ったような雰囲気である。この中にカルヴィーノが語ったような都市の像を発見しようということになるのだろうか。都市を描いているうちにカルヴィーノの小説を読んで、筆が止まって、このようなかたちになったそうである。ライトレッドの伸びていく線がまるで血管のように感じられる。その血管は途中で切れている。都市のもつ暗闇のようなものがあらわれている。その都市はカルヴィーノが読者にそれぞれ想像してみろと言った架空の都市のように、個人個人のイメージの中にある都市。それは一人の人間の人生にも匹敵するもの。白い街並みを背景にして一人の人生をまるで屹立する塔のように画家は置いてみた。その中に遺伝子情報や血管のようなものをライトレッドで入れてみた。そんなイメージを画面から感じる。そして、赤茶色のものが途中で上昇しながら断絶するように、やがて死が到来する。街と人間とをダブルイメージのように両立てにして、両方重ねながら不思議なシンボライズされたイメージがあらわれている。人が死ねば街も消える。見えない都市に街を表すのは作者の想像力であると同時に読者の想像力でもあれば、絵もまた同様であるにちがいない。人生と都市とが重なるモニュマンと言ってよい。(高山淳)

 山口たか子「生存」。廃墟のようなお城を両側の遠景に描いて、近景に枯れた蓮の花托、向日葵、鳥の翼、トンボ、花などを描いている。シュールな気配が漂う。人間のつくった街がだんだんと崩壊する中に、植物や昆虫、あるいは鳥などがその命の触手をより強くし、徐々に羽ばたき、この画面全体を覆い始めるようだ。「生存」という題名だが、人間の生存だけでなく、地球の生存に画家の想像力は伸びていく。そこからこの独特の形態と色彩が生まれる。生命のもつあやしさが表現される。(高山淳)

5室

 安井敏也「EYE OF THE ABYSS」。アビスとは深淵、ジ・アビスで地獄という意味になる。地獄の底から仏が五つの目をもってあらわれている。その両側には牙のある額と片目がその従者のようにあらわれ、その鬢のあたりから炎が上方に立ち上がっている。頭からも炎が立ち上がっている。一年たったが、東日本大震災の悲惨な出来事に対する怒りが画家の中に激しい情動となって、このような画面をつくらせたようだ。その情動の表現をするためには、平安時代や鎌倉時代の仏画の様式が必要となったのだろう。深い感情を表すには再現的な方法では難しく、地獄の奥底、暗闇から異形のものを引き寄せ、めらめらと炎を立ち上らせた。そして、何事かを鎮めようとする。(高山淳)

 栗原忠次「朱い月」。若い女性と男性が手をつないで空を飛行しながら下方に下りてきている。青年は花束を持っている。上方には電車のようなものが浮いて、そこから光線を下方に放射している。下方には犬と一緒にリヤカーを引くバタ屋(屑屋)がいる。このバタ屋と犬を荘厳しようとする画面である。最も底辺の人、友達は犬しかいない。彼を聖なる者として画面の中に荘厳する。オスカー・ワイルドのロマンティックな世界を連想するものがある。(高山淳)

 横田京悟「記憶に佇む白壁」。昔の蔵が人間のように描かれている。小さな三つの窓と二つの大きな窓。漆喰の壁。瓦屋根。一つひとつ手で触るように描く。おそらく現実にはすでに存在しないもののようだ。それを記憶の中に呼び戻し、画面全体の中に人の顔のように描きながら、画家は時間というもの、あるいはいまというもの、何かを確認しようとするかのようだ。(高山淳)

 山﨑巨延「明日へ」。真ん中に大木の幹を置いて、それを構成の軸にしている。その手前に柔らかな細い幹の樹木が枝を伸ばしている。黄金色に紅葉している。その後ろの木は、茶褐色に紅葉している。それに対して左向こう奥に松のような常緑樹が聳えている。秋の透明な空気の中の紅葉した、四季の中でも最も魅力的な風情である。背後に湖と思われる風景が広がっている。風が吹かず、時が止まったよう。ひたすら命の火を燃やすように紅葉した樹木たち。それに対する常緑樹の姿。敬虔な仏画を見るような思いに誘われる。背後の静かな湖が自然の魂のように静かに存在している。ある一刻が永遠の時間を獲得したかのように画家は画面の上に表現する。(高山淳)

 佐々木たいめい「プラネット ・」。会員推挙。SF映画のワンシーンを思わせるところがある。地球も一つの惑星であり、別の惑星にも生命が存在するかもわからない。地球というものを客体化するために別の星、あるいは別の星から見た地球などをイメージしながら、不思議な世界をつくりだした。手前には火が燃えている。生命の気配がない。その向こうに透明な新しく生まれたばかりの球体のようなものがあらわれ、もう一つの世界と生命がそこからあらわれつつあるようだ。壮大な劇を画面の上に描く。終末と再生とを同時に表現しようとする。(高山淳)

6室

 小森秀司「恵」。画面の奥から手前に流れる小川を正面から描いている。黄土色でまとめられた周囲の草木を縫うように流れてくる小川の動きに強いリアリティがある。ぐいぐいと力強い筆の動きで草木や水の流れを描きながら、どこか自然の中にある気配のようなものを画家は描いている。その気配が前述したリアリティとなって鑑賞者をこの風景の中に引き寄せる。素朴であるからこその誠実な風景画として注目した。(磯部靖)

 島田守「懐古」。風車の前に先生に引率された少年たちが集合している。いわゆる旅行のときの集合写真が描かれている。それぞれの顔が違って、一つひとつの違いが描き分けられているところが面白い。当たり前と言えば当たり前だが、そんな様子を淡々と描いて、顔以外はグレーの中に表現する。それによって古い写真を見るようなイメージと、顔と身体の肌が肌色で描かれているために、昔の光景がそのまま今であるというイメージがあらわれる。ポップふうなシャープな感覚が面白い。(高山淳)

 柴田博之「月を浸蝕するミューズの使」。神話的な世界を面白く表現している。月に金槌と鋸を持った老人が向かい合っている。月を削り取ろうとするわけだ。左のほうにはチェロのようなものがある。ロボットのような男がそれを抱えて、ピアノの鍵盤を弾いているようなイメージがあらわれている。大きな五角形の星がそばにあるし、薔薇の花もある。神話的ファンタジーをぐいぐいと自由に表現する。やはり面白いのは、このミューズの使いといわれる老人の姿と月の表現だろう。人間、年をとってもイメージは自由で、月を削り取るという荒唐無稽なことを描くことによって若さを取り戻すこともまた芸術の役割だろう。真ん中の赤い薔薇の花がロマンとパッションを象徴する。(高山淳)

7室

 矢木千鶴子「里(千(ち)種(くさ))」。輝くような緑の色彩が魅力的である。川を挟んだ向こう側は山になっていて、麓に点々と家屋が並んでいる。繊細に筆を置きながら、描かれている全てのものに、画家は愛情を行き渡らせているようだ。そうやって描かれた作品の中に満ちる清々しい空気感もまた大きな魅力の一つとなっている。(磯部靖)

8室

 山﨑達郎「雪の晴間」。大きな洋館に雪が積もっている。煙突から煙が出ている。夜空には満天の星。洋館の正面の階段を通って着飾った人々が歩いていく。クリスマスパーティでもあるのだろうか。洋館のすべての窓から黄色い光が輝く。その洋館と全く関係ないような犬と人間や雪搔きをする人、ぼんやり立つ人などが前の広場にいるのが面白い。夢の世界の中にある矛盾、分裂。それゆえにより夢としてのなまなましさがあらわれているようなコンポジションである。(高山淳)

9室

 高田増光「雷がやって来た」。緑の草原。池。中景に林。その池に雷がいま落ちた。しっとりとした色面による表現に対して、雷の表現は童話的である。風景の骨格をしっかりと表現しながら、画家はそこにファンタジーを引き寄せる。(高山淳)

 釘谷洋子「日々想々」。アパートの一室のような空間。紐に手袋やシャツが干されている。バケツの中に靴とピカソの画集。椅子には林檎と脱ぎ捨てられたジーパン。キュービックな絵が立て掛けられている。カーテンがそよいで青い空が見える。密室の中に外光が差し込む。そんな様子をとくに構成するような姿勢でもなく、ぐいぐい表現する。それによって現実と非現実の境のようなイメージがあらわれる。(高山淳)

 渡辺清隆「初夏の樹」。中景に林のように見える鬱蒼と茂った樹木の塊がある。そのすこし手前に水が流れている。その水に沿って道路がカーヴして、すこし高い位置に樹木がある。近景のほうが遠景の樹木より小さく描かれている。遠近感によって起きるものの大小が逆転する。それによって、中景の場所の向こうにある風景がより手前に描かれて、手前の風景の道の行く先が謎であるといったミステリアスな雰囲気があらわれる。自然というもののもつミステリーとそれは重なるところがあるのだろう。そういった姿勢で画家は風景を描く。(高山淳)

12室

 村山晴美「3.11 Overcome」。一年前の三・一一の津波や原発事故を乗り越えていこうというメッセージ。下方の渾沌とコンフューズした建物や壊れた形象の上を、まさに困難を乗り越えるように白馬が前足を上げて跳んでいる。白馬のフォルムが優しく気高い。全体で夢の中に誘われるような味わいが生まれる。(高山淳)

 池田紀枝「春の薫り ・」。たくさんの鞠のようなフォルムが転がっているが、その中は空洞になっている。そばに二つの揺り椅子が鞠より小さく置かれている。たくさんの花をつけた茎がそばに置かれている。その花はつくりもののようだ。斜光線に鞠は赤く、あるいは黄金色に染まっている。机の上に置いた鞠が風景となり、大地に変じて、暗い黒い空につながる。(高山淳)

 今岡幸男「VIEW 2012」。板の上にベージュ系の絵具を塗り、そこに陰影をつけながら水と空に囲まれたもう一つの風景を描く。その風景の中にだんだんと立ち上っていく動きがあらわれてくるところが面白い。風景の中にそのような遠近感と上昇するような動きがあらわれる。横のジグザグの動きに対して上っていく動き。いわば音楽のメロディのような世界が視覚化される。(高山淳)

 遠藤啓介「喪失」。踏切が画面の中心に描かれている。その向こうには高速道路の橋桁のようなものが両側に置かれている。ところどころ車もある。遮断機が上がっている。いま線路の上を傘を差した男が渡っている。面白いことに、その男のイメージは薄く、周りの風景が強くあらわれてくる。喪失によって画家は風景を発見したのだろうか。(高山淳)

17室

 小林俊彦「銀の暮色」。会友推挙。海峡をはさんで島があり、本土がある。たくさんの建物が並んでいる。海峡は銀色に輝いて、船が動いている。島の向こうにも島があって、そのあたりにのぞく海はもっと光っている。島と手前の建物の密集した様子をリアルに描いている。存在するというより、画家が客観的なものを資料として使いながら、自分で街をつくったといってよいような筆力のあるようなところがとくに面白く思われる。画面に接近すると、車が走ったり、街灯が灯っていたり、ところどころ窓から光が漏れていたりして、より画面を楽しむことができる。二人の男女とおぼしき人がいま門をくぐろうとしているところが左下にある。そこだけ人間が描かれているのも接近してわかることだが、画家のつくった世界である。画面の上に現実とは異なるもう一つのミニチュアの街をつくって、そこで独り遊びをしているような世界である。見飽きないものがある。(高山淳)

23室

 御正進「春のソナタ」。竪琴を鳴らす女性は現代ふうなブーツをはいている。そばにリスが立ってメロディを聴いている。ギリシャ神話と現代の女性をミックスしたユニークな女性像のように感じられる。イメージを自由に創造することのできる力量に注目。(高山淳)

 鈴木修一「月あかり」。アーチ状の入口があり、その中は教会の内陣のような独特の強い気配に満ちている。そこに女性らしきフォルムが立っている。手前には前後する位置に柱が立ち上がり、その上方がカーヴする。二つのゲル状のフォルムが伸びてお互いに接触しようとするかのように面白い構造である。月夜のファンタジーといった趣。床にもカーヴがつくられて、カーヴとカーヴが動きの中に連係しながら、もう一つの詩の世界に鑑賞者を引き寄せる。(高山淳)

第34回日本新工芸展

(5月16日~5月27日/国立新美術館)

文/高山淳

1室

 田中照一「波文」。蓋物である。上蓋のもっこりとした形が柔らかく、豊かな雰囲気である。茶の上に金彩で山のようにも草の塊のようにも見える意匠もまた力強い。

 河合徳夫「鳩」。内閣総理大臣賞。「白磁がもつ透明感を生かし自然の中で鳩や小さな生き物たちが日々育む生命の交流をレリーフや線刻で表現されている。作者の穏やかで優しい眼差しが伝わる作品である」。白く薄い大きな五弁の花びらをもつ葵のような花が右上方にある。その白のキメ細かい輝くような様子が作品全体のポイントとなっている。左上方から右下方にかけ四羽の鳩を配して、その鳩はバックのグレーのトーンの連続のなかにある。同時に、また鳩の生きている柔らかな鼓動するようなイメージと輝くように咲く白い花とが対照されて、理想的な世界といったものが表現されている。具象的要素と陶芸のもつ質感とがミックスした佳作である。

 寺池静人「春日ノ譜」。縦長の丸い形が優しい。その上方に口が楕円形にあけられている。胴には五弁の白い椿の花が配されている。マットな釉薬を使って、手触りのある品のよい雰囲気に引かれる。

 月岡裕ニ「切金砂子彩箔『翔』」。金を使わせると、作者はこの世界で第一人者といわれている。赤い花弁が大きく開き、中から蕊(しべ)が伸びている。そこに黄金色の鳥が飛んでいる。花弁や鳥に金の砂子がまかれている。金の上にまた別の砂子が、青などの砂子がまかれている。花と鳥を象徴的に扱った大胆な意匠に注目。

 久保雅祐子「風にのって」。文部科学大臣賞。蓋物であるが、上のほうの形が下の形より長く大きい。その上のほうの形の半分ぐらいが青く染められて、その青は下方の受ける容器の色彩につながる。二つの連続するカーヴするフォルムや同心円のフォルムがモダンである。上方は白くなっていて、その中にトンボが三つ配されている。半透明の乳白色の質感のある白い肌に、青とオレンジに配されたカゲロウが静かに輝く。

 有山長佑「蒼=・」。首が長く、胴が左右に張り出したフォルムで、それはそのまま短い高台に向かって急傾斜する。首に二つ、ワラビのような円弧状の把手がつけられて、そのフォルムは高さが微妙に違うところが面白い。ギリシアの空や壺を思わせるような雰囲気と日本独特の須恵器の雰囲気とが結合したような、ユニークな造形である。

 谷口正典「春陽」。楕円状に開いた口が高台に沿ってつぼまっていくのだが、その高台の位置が向かって左のほうにずれている。そのいびつな形が面白い。花が開いたよう。上方から見ると、明るい小豆色の地の上に白い釉薬をたらしこんだような雰囲気である。その釉薬のバックにある小豆色との兼ね合いで放射状の動きがあらわれていて、のぞきこむと夢の世界に引き込まれるような、そんなオーラを感じる。

 佐野寛「静風」。落ち着いた中に存在感を見せる。鍛金による壺である。胴に茶のメッキがされていて、そこに茶褐色の剣の先のようなフォルムが連続して配されている。その高さが左に行くに従って高くなるところにリズムが生まれる。そこに丸い目をした鳥が二羽飛んでいるのが愛らしい。

2室

 光久弘子「古寺の庭に咲く」。ゆったりとした胴から長い首がつけられている。中国の唐や宋代の壺を思わせるようなフォルムが力強い。そこに透明な乳白色のガラスを背景にいくつかの花が咲いている。半分は褐色の菱形の小さな文様が連続している。高度な技術を示す。内側から光が滲み出てくるよう。古寺の夕暮れ方の庭にひっそりと咲く香り高い花のような魅力をおもう。

 当麻嘉英「夜想曲」。電車の枕木のような古い角材に陶器の本が立て掛けられている。そこには「CHOPIN NOCTURNE No.13 OP48-1」という文字が見える。右には三つの蝶が矩形の中に置かれている。黒陶の上から白い釉薬がたらし込みのようにつけられている。そのたらしこんだ釉薬のフォルムが夜の中のショパンの深々としたメロディを連想させる。

3室 

 稲川久子「まなざし」。人形。五人の女性を白一色のなかに配している。一人は大きく、それを囲むように三人の女性がいて、その中にもう一人の女性がいて、首をひねっている。光によってこの白が独特の色彩効果を上げる。清潔な中にスピリチュアルなイメージが漂う。

 木暮照子「HASU」。人形。右手を胸に当てて、左手を伸ばしたポーズ。そこに下まで垂れ下がる着物が着せられている。着物には水から伸びてくる二つの蓮の花が、力強く彩色されている。上方には月を思わせるようなフォルムも見える。桃山時代の美意識を思わせるような豊かで力強い作品。

第78回旺玄展

(5月23日~5月30日/東京都美術館)

文/高山淳・磯部靖

1室

 木本牧子「CHILDMIND」。モノトーンの色彩を巧みに変化させて描いている。手前から奥に道が続き、その消失点あたりに親子の影が点景で見て取れる。やや右にカーヴするその道は、地平線で左にカーヴして上方に伸びていっている。その真逆の伸びが、作品に旋回するような動きを作り出していておもしろい。それは時の流れを逆回転させるように、過去の記憶を引き寄せる。そして鑑賞者は作品世界へと入り込んでいってしまうようだ。下方右側に取っ手のようなものがあるが、それもまた一つの装置のようで興味深い。細やかな描写の中に、画家の深い思い入れを今回も感じた。(磯部靖)

 斎藤寅彦「時の跡 '12」。画面の真ん中に岸壁を思わせるフォルムがあらわれている。使い古されたコンクリートの表面。綱を係留するためのリング。画家は釣りが好きで岸壁から幾たびか釣竿を伸ばしたと思われるが、浮き輪が一つぽつんと置かれている。右下には煙草が一つまだ煙を上げている。身近なところから画家はイメージを広げていく。今回はその岸壁が塀のように立ち上がり、その上方に切断された樹木の枝が、あるいは幹が積まれている。それは今回の津波の悲惨な出来事を連想させる。それに対照されるように下方にもっと小さな柔らかな切られた枝が置かれ、その枝には新しい葉がそこから接ぎ木のように伸びている。そのあたりの清浄な初々しい雰囲気はまことに魅力的である。オリーヴの葉を思わせるような緑がかった銀灰色の葉が、希望の象徴のように下方の枝から伸びている。そして、水晶球のような球体がいくつも浮かび上がったり、岸壁の上に置かれたりしている。岸壁というものが一つのスクリーンと化す。岸壁は陸と海との接点でもある。いまを中心とした未来と過去のイメージがそこに交錯する。そういったイメージを強引に見せるのではなく、岸壁をスクリーンとしてしぜんと浮かび上がってくるように想念を集中させる。それは観法という昔の僧のトレーニングを思わせるところがある。手触りのあるマチエールがこのイメージを支えている。(高山淳)

 小野鉱二「'12―サバンナ」。画面に大きくキリンとゾウが描かれている。その下方には現地に暮らす人々が荷物を運んでいる。左右で夜と昼を分けるような画面構成であるが、大胆な色面による画風が印象的である。自然の持つ力強さとやさしさ、偉大さを鑑賞者に伝える説得力を持った作品である。(磯部靖)

 小島房子「森羅万象」。画面を四つのパートに分けて構成している。その一つひとつに縦に長い暗色の楕円がある。またその楕円の背後に、四つのパートを繫ぐように同じく暗色の矩形が描かれている。楕円の下方から細長い蔓のようなものが伸び、お互いに絡み合っている。お互いに絡み合いながら形成されるこの世の成り立ちを、画家独自のイメージで表現しているようだ。グレーから暗色の画面の中に、ところどころ青や緑などが入れられている。それらは自然界の要素を表すようでもあり、作品に小気味良いアクセントを与えてもいる。いずれにせよ、空間をうまく扱いながら、奥行きのあるイメージ世界を構築しているところが特におもしろい。(磯部靖)

 松岡暁子「Here and Now 1110」。軽やかでリズムを刻むように作品を描いている。白や赤、ピンクの色彩を何度も重ねながら、気持ちの良い画面を作り出している。太い白の線と細い赤の線、または削ることによってできた線がまるで協奏曲を奏でるようだ。低音や高音といった重層的なメロディを形成しながら、画家の確かな美意識を背後から感じさせるところに注目した。(磯部靖)

 根井操「明日(2012年)」。縦長の画面の上方に円が描かれている。その円の中に建物などのフォルムがあって、中心が黒くあけられ、一羽の鳥が翼を広げている。希望の象徴である。下方には頬杖をついた女性のフォルムがそのまま背後の建物とつらなる。都会の中にわれわれは住んでいるが、その中で自然体のなかから画家は歌を歌ったりコーラスをするように一つの画面を創造する。都会の夜空がイメージの中では世界中とつながっている。それは今回の津波の東北の空にもつながっているし、ロンドンやパリにもつながっているだろう。そういった自由なイメージが、このグレーを中心とした空間の中から感じられる。円は心理学でいうセルフ、自分自身のことでもあるし、世界全体でもあるし、といったように自分と世界が重ねられている。そこに点々と雪が降っているような色斑が置かれ、階段が空に向かって伸びていき、やがて夜空に消えるようなイメージ。建物が静かに連続してリズムをつくる。また、ほんのすこし緑の色面が置かれているのが優しい。空を見上げる角度と建物を水平に見る視点とが同一画面に併置され、視点を変えながら朗々とした街の歌が生まれる。そして、明日への希望をわれわれに教えてくれる。(高山淳)

 大田原晴良「祈りの時」。寒色系の色彩で画面をまとめている。赤ん坊を抱いて馬に乗った母親を中心に、その左に笛を吹きながら馬に乗る男性、右側にシルエットになった二人の人物がいる。真夜中、これから何かの儀式に向かうような、崇高な気配が画面の中に漂っている。流れるようなタッチで軽やかに描きながら、静謐な雰囲気を大切に描いているところに好感を持つ。(磯部靖)

 高桑昌作「人魚姫」。ディズニーの「人魚姫」の話によると、難破した船から海の中に落ちてきた王子さまの胸像に人魚姫は恋をする。それを大切にして人間になりたいと思うが、それを魔女に祈ると、魔女は謎をかけるようにウツボを使者につかわせて人間にしてあげると言う。それは魔女の誘惑で、なかなかその先は危ういのだが、そんなディズニーの物語をベースにして、いま人魚姫が画面の中にあらわれた様子を神々しくうたいあげる。水は銀灰色で表現される。その厚いマチエールの上にひっかいた波紋状のフォルムがいくつもいくつもあらわれる。人魚姫の背後には黄金色の光が光背のようにつけられている。その光背は円状で、王子の胸像のバックにも置かれていて、独特の強いイメージをつくる。人魚姫は画家にとってフェミニズムというのか、女性の魅力の象徴のようにここに表現されている。豊満なボディをもつ人魚姫はエロスの象徴で、まだ人間には触れられていない。金と銀の背景に、いまその体をくねらせながら或るオーラの中に人魚姫は存在する。ささやくウツボなどの様子は、人間にすると悪い男の誘惑のような雰囲気もあって、その誘惑を抑えるような王子の胸像がその上方に描かれていて、愛やジェラシー、様々なストーリーの展開するドラマの序章のようなイメージを画家はここに描く。(高山淳)

2室

 杉僑二「瀬戸の春」。これまでより色彩の扱いが明るくなった。瀬戸内の風景だが、実に幻想的な雰囲気を漂わせている。手前の岸から向こう岸の間に小さな島があり、そのこぢんまりと丸みを帯びたフォルムが印象的である。画題にも春とあるが、青みがかった緑の色彩が、瑞々しい生命の息吹を感じさせる。遠景には大きな山が聳え立っているが、その立ち上がっていく力強さと柔らかな色遣い、山際のほんのりと明るくなった部分などが、強い魅力を放ってもいる。(磯部靖)

 松尾秀一「連鎖 3」。長い年月を経た樹木の根元を描いている。剝がれかけた表皮や根本に積み重なる枯葉などが丁寧にじっくりと描かれている。背後には地平線が広がり、その上方の空間は暗い。どこか現実ではない異世界を思わせる空間のようでもあり、止まった時の中を描いているようでもある。いずれにせよ淡々とこの風景を描きながら、淡い茶系の色彩を丁寧に扱って重厚な画面に仕立て上げているところに注目する。(磯部靖)

 勝俣睦「湿原に咲く花(サワギキョウ)」。山の中に入っていくと、独特の気配がある。とくに人間の姿が消えると、ますます森のもつ濃密な気配が感じられる。そんな神秘性が画面に充満しているところが、この作品の面白さである。サワギキョウの丈の高いその直線に伸びていく茎に従って紫色の花が咲いている様子。それが画面の近景の右半分ぐらいを占める。緑の湿原にこの紫色が実に濃密でミステリアスな気配を醸し出す。パステルにより微妙な調子の変化をとらえている。そしてサワギキョウの咲く風景を独特のロマンのなかに表現する。(高山淳)

 松田敬三「荒海」。激しく波濤を寄せる海の表情が印象的である。ゴツゴツとした岩のフォルムとそこに滴る白く細かい泡の様子が細やかに描写されている。波は画面の向かって左から右に寄せているようで、奥にも見える岩によって複雑な様相を見せてもいる。繊細さと激しさの両方を孕んだ見応えのある風景である。(磯部靖)

 大森英八朗「希望」。夕焼けによる逆光の中に、荒涼とした大地が広がっている。昨年の震災による津波によって流されてしまった後の風景だろうか。細い裸木が何本も建ち並び、外壁だけが残った建物が一棟立っているばかりで、実に寂しい情景である。しかし、地平線のあたりでは、復興作業を続ける重機のフォルムが見て取れる。再生へと向けた作業を少しずつ、淡々と進めるその姿が作品に小さな希望を引き寄せる。一筆一筆を丁寧にじっくりと置いていき、独特のマチエールを作り出している。作品に込められた深い情感が鑑賞者のそれと重なり、そのマチエールも相俟って、記憶に残る作品となっている。手前にある小さな水たまりがどこか切なさを呼び起こすところもまた興味深い。(磯部靖)

 中村章子「景 2012」。輝くような白の色彩が魅力的な作品である。向かって左側に白い服を着た白い髪の女性、右側に赤い服を着た赤い髪の女性が描かれている。昼と夜、あるいは陰と陽を思わせるその二人の関係性が実に興味深い。下方には街並みが広がり、都市の日常を重ね合わせてもいるようだ。また、左上方から緩やかな曲線が伸びてきていて、赤い服の女性の手前で曲がり、左下へと向かっているが、それが大きな鳥を思わせる。それもまた画家の日々を過ごす穏やかな心情、あたたかな眼差しがそのまま現れたかのようで強く印象に残る。(磯部靖)

 加藤良子「ペルセポネ」。ペルセポネは冥界の主ハーデースの妻である。ペルセポネが野原で妖精たちとともに花をつんでいた。すると、ひときわ美しい水仙の花が咲いていて、その花をつもうと妖精たちからペルセポネが離れた瞬間にハーデースが黒い馬に乗って現れ、あっという間にペルセポネをさらい、冥界に連れていったという。ペルセポネはギリシャ彫刻の有名な少女コレーと重なる。ペルセポネは冥界に行ったが、なかなかハーデースの求愛を受け入れず、拒み続けた。ハーデースはとにかく丁重にペルセポネを扱い、そのうち空腹に耐え兼ねて柘榴の実の中の十二粒のうちの六粒を食べてしまった。冥界の食物を食べてしまったものは二度と地上に帰れない。ペルセポネはハーデースから逃れて、母デーメテールのもとに帰還したのだが、冥界の柘榴を食べてしまったことは決定的なことで、母の力があっても冥府で暮らすという神々の取り決めを覆すことはできなかった。食べてしまった柘榴の数だけ冥府で暮らすことになり、一年のうちの半分を冥府で過ごし、あとは地上に戻る。母デーメテールは豊穰の女神であり、ペルセポネが地上に戻るときに地上に喜びを与える。これが春という季節だという。だから、ペルセポネは春の女神と重なる。そういったギリシャ神話を題材にしながら画家はこの画面を描いた。ペルセポネの処女性の印として白い百合の花をそばに描いた。母の強い豊穰のイメージをそのそばの彫刻の中に表現する。

 画面の上方に女性に扮装した男性がギターを奏でながら物語を歌っている。ギリシャの吟遊詩人のイメージである。画家はペルセポネという女性に強い関心をもちテーマにふさわしいと思ったのだろう。処女性と同時に一転して冥界の妻となる運命に陥ったペルセポネ、それはどこか女性というものの運命を暗示させる。また、その結婚に怒り狂った母デーメテールは地上に実りをもたらす人であったが、悲しみのあまり、オリンポスを離れて地上に身を隠したという。それもまた画家の共感を呼んだのではないか。その様子は『古事記』の天照大神が岩戸に隠れる神話を思い起こすところがある。(高山淳)

 貞永マミ「律―2012」。深い暖色系の色彩を、トーンを変えながら描いている。画面は矩形によっていくつかのパートに区切られていて、カラスウリや紫陽花、ほおずきや花が散った後の百合など、それぞれに植物の姿が描かれている。その細やかで丁寧な描写に惹き付けられる。以前はピアノなどの楽器をダブルイメージで風景に重ねて描いていたが、今回は植物そのもので作品に音楽性をもたらしている。高音、中音、低音、テンポの速さ、そういったパートをそれぞれの画面が担っている。そして画面全体である一つのメロディを奏でている。貞永作品の新しい展開としても注目する。(磯部靖)

3室

 宮島明「サーカスの人」。手前に観客席があり、右奥にはサーカスの舞台がある。そこでは熊が自転車に乗り、空中では綱渡りをしている人がいる。また、その左手前にはこれから舞台に上がるのだろうか、男女の姿が見える。観客席と舞台袖の暗色の色面と、舞台の明るい赤と朱の色彩が強いコントラストを作り出している。また、暗色といってもその色彩の深みには奥行きがあり、青みがかっていたり赤みがかっていたりである。そういった会場にいる人々の様々な心模様が色彩となって表れてきているようだ。味わい深い描写の中に、強い臨場感を作り出しているところが、この作品の大きな魅力の一つである。(磯部靖)

 川崎建二「森の話」。滲むような色彩が美しい。自然の中に身を置き、目を閉じた瞬間に様々な要素がイメージとして頭の中に入り込んだような、煌めきである。赤、緑、白、暗色といった色彩は現れては消えていくようだ。そういった自然の持つ純粋な魅力が抽出、濾過されて浮かび上がってきた画面が、鑑賞者の足を止める。(磯部靖)

 山田正夫「想・都会の景」。名古屋駅前の情景を、実にこの画家らしい表現で描き出している。黄土色から茶系の色彩によってトーンを統一しながら、やや左下方の円錐形のモニュメントを中心に画面を構成している。背後には背の高いビルが立ち上がり、ロータリーには車が入り込んできている。街路樹は葉を朱に染めながら、奥、あるいは左へと続いて行っている。かなり難しい構図であるが、それをうまく纏め上げているところに、この画家の力量が見て取れる。円錐形のモニュメントは巻き上がるように上方へと伸びているが、その延長線上に同じようにストライプの模様を付けたビルが伸びていっている。その重なりが、作品に独特の動きを作り出している。上方への動き、車の奥から手前への動きといった直線と曲線の複雑な組み合わせを、ひもとくように画家は描いているようだ。そういった画面が宿す強い臨場感が、この作品の大きな見どころといってよいだろう。(磯部靖)

 柴田光男「刻」。木製のテーブルに南瓜のような植物の実がいくつも置かれている。上方からはカラスウリが垂れ下がってきている。背後は暗色である。静物画といってよいかもしれないが、作品の中にある独特の気配が印象的である。時間をかけて腐敗していく植物のゆっくりとした時の流れが、十字型の構図の中で強い気配を作り出し、存在というものの不確かさを訴えかけてくる。確かな写実性の中に、そういった観念的な要素をじっくりと描き込んでいるところが印象的である。(磯部靖)

 大神田礼子「バラ浴」。女性が一人バスタブに浸かっている。そこには赤やピンク、白のバラの花が浮かべられている。女性も赤い薔薇を右手に持っている。そして周囲の床は銀箔の市松模様で装飾されている。薔薇の美しさ、そしてそれを支える静謐な市松模様によって、身を清めるこの女性の持つ美というものに強い永遠性がもたらされているようだ。俯瞰するような視点で描かれた女性は、なめらかな曲線でそのフォルムが描かれており、僅かに揺れ動く水面と共に実に繊細である。確かなデッサン力に加えて、今回は特に画面構成、テーマをじっくりと描ききっていて注目した。(磯部靖)

 片岡美男「ある風景」。抜けるような青空が実に魅力的である。これまで背後に壁を置いてきたが、今回は清々しい青空をバックに描いている。画面の下方やや右に大きな石があり、そこから根が生えている。あるいはこの背後に樹木の根元があるのかもしれない。石の上にはまるで舟のように木が組んであって、そこに人形やビー玉、小石などが乗っている。その舟はどこかノアの方舟を想起させる。救済のための箱船である。昨年の震災も含めて、混迷を極める現代社会に生きる我々へのあるメッセージが込められているようだ。いずれにせよ、精緻な筆致で描き出された強いモニュマン性が、鑑賞者の心に静かに語りかけてくるような魅力を湛えている。(磯部靖)

 世森純子「球体ミラー(・)好奇心」。佳作賞。球体に映る自分たちの姿を見て遊んでいる子供たちの様子を生き生きと描いている。立ったりしゃがんだりしているそのフォルムがしっかりと捉えられている。映っている姿もまた違和感なく捉えられていて、巧みな画面構成の中に、確かな筆力を感じさせる。(磯部靖)

4室

 筒井スミ子「あれからの海は…、魚とともに明日へ!」。画面を三つに分けて構成している。上部には昨年の震災による津波の様子、中段には鮮やかな色彩で描かれた魚群、そして下部には津波の後を見つめる人々。特に中段の魚たちの強い生命力に惹き付けられる。津波は確かに被災地の人々の生活を奪ったが、魚たちはそれでもその海に戻り、生きている。その魚たちを希望の象徴として、画家は下方の人々へメッセージを送っている。モチーフによってタッチを変えながら、じっくりと描かれた作品である。(磯部靖)

 斎藤操「奥利根浅春」。盆地とその奥にそびえる山並みを誠実に描いている。画面の下方三分の二程が盆地になっていて、その複雑な起伏が黄土から茶系の色彩でしっかりと捉えられている。背後の雪を冠した山は、しっとりとした白を中心に描かれている。まだ冷たい空気が漂う画面の中にある素朴な味わいが鑑賞者を惹き付ける。(磯部靖)

5室

 的場繁子「夢の中へ(1)」。ワヤン人形を数体描いている。その装飾的な画面が、強い魅力を放っている。じっくりとつくられたマチエールを背景に、人形たちは物語を紡ぎ出す。人形でありながら、生き生きとした生命力を感じさせるところに特に注目した。(磯部靖)

 平倉洋子「凍てつく田んぼ ・」。会友推挙。氷の張った田んぼをかなり接近して描いている。なめらかな氷の表情と土などの表情の対比がおもしろい。どこか抽象的な要素も湛えながら、しっかりと描ききっているところに好感を持つ。(磯部靖)

7室

 小池成芳「ブルージュ 彩る」。画面手前に水路が流れていて、その奥には広場と建物が続いている。建物の壁に這った蔦の葉の朱に染まった様子が鮮やかで印象的である。煉瓦や壁、樹木の枝葉などを誠実にじっくりと追って行っている。秋を迎え、ひんやりとした現地の空気感を大切に、そこに鑑賞者を誘い込むような魅力を孕んでいる。(磯部靖)

8室

 坂口良治「水溜まり」。深い森の中の風景である。鬱蒼と茂った植物の合間に、小さな水の溜まった場所がある。水面は暗く少しだけ枝葉が映り込んでいるが、その微かな映り込みの繊細な描写がよい。また、周囲の草木も細やかな筆遣いでその重層的な様子がしっかりと捉えられている。画面全体で湿気のある森の中の空気感までも作品の中に引き寄せている。(磯部靖)

 山本俊昭「うし」。奥に重なるように描かれた数頭の牛のごつごつとしたフォルムが印象的である。少し緑がかった黄土から黒の色彩を使い、その重量感までもしっかりと作品に引き寄せている。そういった中で、牛飼いのオレンジ色の上着が小気味よいアクセントを作り出している。ゆっくりと動く牛の強い存在感がそのまま作品のそれに繫がっているようだ。(磯部靖)

 岡村えみ子「路地裏鼓動」。捨てられたものが不思議な輝きの中に表現される。中にビールやワインの空き瓶が入れられている段ボールが二つ。段ボール自体もかなり壊れている。その段ボールが茶色に彩られ、瓶が紫や濃い茶色や青で彩られていて、そのラベルに黄金色などが使われているが、ある実体をもって輝くように表現されている。そばの壁や地面、水道の蛇口など、とても路地裏の裏ぶれた雰囲気ではない。まるで岩の中に清水の出る場所があり、そこに空き瓶が置かれているような雰囲気である。画家の作品を見て三年ほどたつが、最初の作品は上野の森美術館の小さな作品であった。今回は大作である。捨てられたものが以前より、よりパッショネートに表現されているのに注目した。(高山淳)

 原野眞城「おわら風の盆 ・」。五人ずつの男女が輪になって盆踊りを踊っている。男女で動きを変えながら、、画面全体でリズミカルなテンポを作り出している。少し斜め上から俯瞰するような視点も、独特でおもしろい。主の色彩をベースにしながら、旋回するような構図で纏めているところもまた印象的である。(磯部靖)

 今西邦代「オートワールの塔」。奥へと重なるように連なる街並みを丹念に描いている。緑がかった黄土色の色彩を、陽の当たっている所や影になっている所などでトーンを変えながら、繊細に描き込んでいっている。手前から奥への遠近感やそれに沿って続く家屋の繰り返しが、独特の調子を作り出してもいて印象的である。(磯部靖)

9室

 利根川幸子「悠」。大きく空の空間を取っていて、その下方に山々が尾根を広げている。手前には、少しピンクがかった花が繊細に描かれてもいる。ほんのりとしたパステル調の色彩をやわらかに扱っている。山の左上には月が浮かび、かなり上方では小さく星がまたたくなど、ロマンチックな雰囲気を纏いながら、心地よい風景を描ききっている。(磯部靖)

 馬場由紀子「U・RA・GI・RI」。奨励賞。画面の右側に下を向いて泣きながら立っている女性を横から描いている。左側では男女の組み合った手が見える。付き合っていた相手が、他の女性の所へ行ってしまったのだろうか。その間に描かれたたくさんのカラスが激しく右側の女性に向かって飛んでいる。その女性のフォルムやカラスの動きが強く印象に残る。暗色の中に赤や青の色彩を細やかに入れて、独特の調子を作り出している。若い感性が画面に満ちているところに特に好感を持つ。(磯部靖)

11室

 渡邉義男「白い薔薇の情景―・」。水彩の作品である。淡い色調によって描かれた画面に清々しい空気感が漂っている。縦長の画面をうまく生かしながら奥へと続く構図を作り、気持ちの良い雰囲気をうまく作品に引き寄せている。(磯部靖)

 澤田朱美「月夜・1」。旺玄会賞。深みのある色彩で田舎にある家屋とその庭を描いている。水彩絵具をじっくりと重ねて、趣のある夜の風景を描いている。特におもしろいのは、画面の中心手前に明るい黄緑で描かれた葉が生えているところである。そこだけスポットライトを当てたように、どこか神聖な佇まいを見せている。そういった独特の演出が、この作品をもう一味魅力的なものにしている。(磯部靖)

12室

 奥山幸子「忘れられた刻・ところ ・・・」。しっとりとした雰囲気を湛えた庭園が百号を二枚繫げた画面に広がっている。蛇行しながら続く道と、その周囲に生える草花の配置が、画面を生き生きと活性化してもいる。草木は、やわらかな筆の扱いでゆっくりと描かれていっているようで、画家のこの情景に対する愛情を強く感じさせる。緑の色彩を中心に青やピンクなどを少しずつ入れて、心地よい調子も作っている。道の上方に、小さな花輪が落ちているのも、どこか少し物語性を感じさせて興味深い。(磯部靖)

 吉田正造「ガルトネルの足跡」。新人賞。ガルトネルは北海道の開墾に関わったプロシアの人物である。このブナ林はガルトネルが故郷を懐かしんで植林したということだが、そのブナ林の風景を描いている。縦に伸びる樹木の連続しながら奥へと続く様子が丹念に描かれ、その幹から伸びる無数の枝が複雑な表情を画面に作り出している。白とグレーの色彩を淡々と、しかし繊細に扱いながら描かれたこの風景に、画家の在住する北海道のこの土地への確かな愛情も感じられて印象に残った。(磯部靖)

15室

 好川悦子「刻」。会員推挙。壁が剝落して、土台の煉瓦が顔をのぞかせている。そこにアーチ状の入口がある。上方の半円状のところにはガラスが入っていて、下方に木の扉が置かれている。すこしその扉が向こう側にあいている。扉は三つの矩形によってそれぞれできていて、その中にすこし青みがかったグレーが入れられている。そのグレーに不思議な味わいがある。もう一つの世界がこの扉を通してあらわれているような、そんな雰囲気である。手触りのある扉の質感に重ねるように、その質感の向こう側にもう一つの世界が存在するような、不思議な気配が淡々と表現されていることに関心をもつ。(高山淳)

17室

 小林盛幸「ペシ岬と鴛泊灯台」。斜めに傾いたような独特のフォルムをもった岬と、その下方にある港町を描いている。グレーの色彩を基調色にしながら、その力強い岬の存在感をしっかりと捉え、表現している。どこか不穏な気配も漂わせながら、たしかな筆力によって見応えのある風景を描き出している。。(磯部靖)

18室

 佐々木實穂子「遠い日(祈り)」。牧野賞。同一人物かと思われる向かい合う二人の少女を描いている。少女はグレーの色彩で描かれているが、周囲の室内風景は茶系で統一されている。左奥に屋外が見え、そこには白く輝く光の中に一本の細い樹木が立っている。どこか幻想的な雰囲気である。過去の記憶を引き寄せているような、ノスタルジックなイメージが感じられる。今回は、特に色調を抑えながら、確かなデッサン力で画面を構成し、穏やかな慈しみの感情を作品に与えていて注目した。(磯部靖)

 高畑泰子「雨上がり」。田舎の小道にできた水溜まりを右下方に描いている。手前の暗い部分をじっくりと描き、奥の明るい部分とのコントラストをうまく作り出している。なめらかな筆遣いによって、現場の空気をしっかりと画面に作り出している。(磯部靖)

 磯野桂子「仮面を売る街」。ヴェネツィア・グラーノ島の街角の情景である。明るい陽の日差しが実に気持ちよい。男性が二人描かれているがお客と店主のようだ。背後にはこの島特有のパステル調の建物の外壁が見える。画面の右側に売店を大きく描くという安定した構図の中に、輝くような色彩を魅力的に扱っている。また、仮面や写真などの小物によって、作品に豊かな表情を作り出しているところも印象的である。(磯部靖)

 佐々木俊子「野辺の春」。しっとりとした景色を描いている。視点をかなり下方に下げて樹木の根元から描いているところがおもしろい。奥に行くほど視界が掠れていくのも、臨場感を感じさせる。じっくりと考えて描かれた表現力豊かな作品である。(磯部靖)

20室

 磯村倬司「やすらぎ ・」。見渡す限りの菜の花畑による黄の色彩が、鑑賞者の眼前に広がっている。その黄の色彩はやさしく落ち着いた色彩で、花の一つひとつもやわらかく丹念に描かれている。癒されるような魅力に、鑑賞者は足を止める。(磯部靖)

27室

 石井代央子「鳩のいる景―繫ぐ―(・)」。 新人賞。草むらに立つ母子像を正面から描いている。その量感のあるフォルムが作品を安定させているようだ。母親は赤い模様の付いたハンカチを持っていて、それがこの作品の大きなポイントとなって鑑賞者の視線を惹き付けている。背後には鳩が数羽描かれているが、それらが母の子に対する愛情を具象化したようで興味深い。(磯部靖)

 井上貴代香「河童淵(遠野)2」。会友推挙。細やかな筆致で流れる川の風景を描いている。水面は木漏れ日でキラキラと輝き、独特の魅力を放っている。周囲の樹木や草も風にそよいでいるようだ。刻々と変化する自然の表情をこのように誠実にじっくりと描いているところに好感を持つ。画家のこの風景に対する好奇心というか、愛情のようなものを感じさせる。(磯部靖)

28室

 木下京子「刻・ランチの後で」。木製の机に目覚し時計が十二時半の針を指す。引き出しはなく、その隙間にフランスパンと青い袋。時計のそばには植物のスケッチがあり、そこから植物が立ち上がって茎を伸ばしている。粗末なそばの椅子に青い縄。フローリングの床も壁も時間に晒された表情を見せる。はがれかかった集合写真。小学校の頃か中学校の頃の何十年か前の教室がここに描かれているようだ。移ろうような、晒されたような白い光が画面に差し込んでいる。それは記憶の光のようだ。その記憶の風景の中に新しく植物が伸びつつある。それが不思議な癒しのイメージを与える。ほとんどイメージの世界と言っていいし、この教室の中のものたちによって醸し出される霊的と言ってよいような空間が興味深い。(高山淳)

第62回新興展

(5月23日~5月30日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 木内英文「なぜ人は働くのか」。巨大な工場が黄金色に染まっている。その長い塀に沿って男が一人歩いてくる。斜光線によって影が長く引いている。その工場の中の煙突から煙がもこもこと出ている。工場は現代の人工の都市の象徴のようだ。そして、考えこみながら歩いている男。工場の建物の圧倒的な存在感に対して、この人間の姿は孤独である。その二つのイメージの対照がこの作品の基本的なテーマである。独特のダイナミズムと孤独感とが表現される。  白石繁馬「参道の導べ」。幅の広い石段がずっと続いている。すこし上方を仰ぎ見るかたちの視角から描かれた風景である。両側に樹齢の長い杉が亭々と立っている。木立から黄金色の光が差し込む。お寺や神社は描かれていないが、この空間のもつ独特の霊的な雰囲気が、このコンポジションによってよく表現されている。

 丸茂湛祥「獅子の反乱」。上方にプルトニウムの缶がたくさん描かれている。そして、たくさんの人びとが不安な様子なのだが、そこに十一頭の獅子が現われて屈託なく人間たちを襲ったりしている。プルトニウムという恐ろしい毒の化身のような獅子たち。それに圧倒されて人間たちは恐怖、あるいは不安、あるいは表情をなくしている。そして、赤い身体をした仏が左にいる。右手に剣を持ち、左手に蓮の花を持っているのだが、蓮の花が札束を上に載せている。この救いの仏は札束によって動く存在のようだ。つまり、この赤い衣装を着た仏は国家あるいは東京電力を象徴する。ゼニしだいで動くというイメージ。それによって、野放しにされたプルトニウムあるいは放射能は、人間たちの中に行き渡り、自由に動きながら人々を圧倒し、悲惨な世界に押しやる。その意味では獅子のイメージが、最初はユーモラスに見えていたのが、見ているうちに実に不気味な力をもって画面から迫ってくる。画家の自在な精神力、あるいはその活性化するイメージのたまものと言ってよい。そのようなコンポジションとなっている。上方のプルトニウムのドラム缶の連続した様子が、まるで背後霊のように後ろに表現される。墨一色による表現で、線によって活写された大群像と獅子たちは日本の社会の混乱した様子、不安感そのものである。出色なのは、青い背景に赤い色彩によってあらわれたこの仏のもついいかげんさである。単なる寓意とも言い切れない強いリアリティが、ノンシャランなコンポジションの中から立ち上がってくる。

 安達好文「大鷹」。巨大な松の木につがいの鷹がとまっている。後ろ向きと前向きの二つを描くことによって、この鷹の姿がよりクリアに表現される。松の葉が球体によって描かれ、その連続したリズムによって独特の力強さがあらわれる。鷹は光によって黄金色のオーラを放っているようだ。ありうべき人間像ともいうべきものを、この鷹によって表現する。その寓意性もまたこの作品のテーマと言ってよい。

 小野幽恒「桜花」。満開の桜。縦長の画面の上方に桜のあいだから満月がのぞく。月が昇った頃の夕闇の中の桜がしっとりとしたトーンの中に華やかに表現されている。枝と花の配置も面白いが、この夕暮れのもつ気配やしっとりとした雰囲気、情緒が興味深い。また、月が西方浄土、あるいは大日如来を思わせるような性質を担いながらあらわれているように感じられるところも面白い。

 鈴木京子「静寂」。赤い帽子と赤い胸掛けをつけられた三体の地蔵。見ていると、その野地蔵は向かって左は女性で、真ん中が父で、右が長男といった趣である。人間を地蔵にしたのか、地蔵に人間を見ているのか。どちらともとれるようなそんな強いイメージがこの地蔵に重ねられている。背後は湖で、断崖や岩や山並み、樹木が見える。苔むしたようなこの長い時間のなかに佇む三体の地蔵は独特で、画家の深い祈りといったもの、敬虔な気持ちが託されている。頭と胸にあてられた赤い色彩が朝日や夕日の色彩を感じさせる。朝日の清々しさと夕日の懐かしさ。二つのイメージがこの地蔵に託されていて、筆者に語りかけてくるようだ。

 川原善次郎「静寂」。文楽人形がテーマになっている。中心に悪役が煙管を持ってしゃべっている。そばにいる若い娘と向かって右の老婆。その背後にいる黒子たち。あるいは人形遣い。三味線の音色が聞こえてくるような臨場感が感じられる。また、三体の人形と三体の人間が面白く対置されている。黒子の姿がそのままこの悲しい文楽のストーリーを暗示させるようだ。その意味では黒子が面白く画面の中に扱われている。

 藤咲億桜「福の神」。墨による線描。上方に福の神が左手に小槌を持って、右手に扇子を持ち、笑っている。下方に三つの三方があって、両側には樽酒、真ん中には老人や孫、動物たちなどがいる。この大いなる神に祈る人間たちが小さくそこに描かれているのがほほえましい。独特のイメージの展開である。日本の大衆の信仰が水墨という表現、また、線描によって生き生きと表現される。

 富田四郎「清流」。会員努力賞(巣居人賞)。渓流が左から右に流れてきているが、近景には大きな石が重なっている。小さな水の段差があり、白い波しぶきが上がっている。石や樹木が茶褐色や緑色の混色されたような色彩で表現されているが、フォルムが力強く遠近感がある。その重量感のあるものに対して、勢いよく流れてくる水が対照される。

 吉久保絢子「祈り鶴品川」。文部科学大臣賞。着物を着た女性がしゃがんでいる。後ろに折鶴と品川の浮世絵がある。女性の背後に大きな折鶴が光背のように黄金色に表現されている。今回の地震に対する祈りの気持ちを折鶴に託して表現する。若い女性が日本の未来を担う。

 羽太富士子「収穫の季節」。茣蓙の上に笊があり、枝豆とサンキライが配されている。サンキライはかなり装飾的に扱われていて、そのサンキライに囲まれた枝豆がまさに収穫のイメージを表す。収穫を祝うような気持ちがサンキライに託される。サンキライの根は毒消しの薬として使われる。いずれにしても、収穫したものを面白く装飾的に配しながら、枝豆の写実性とサンキライの装飾性、日本画のもつ両方の性質を面白く表現している。

2室

 鈴木光子「虫と戯むる」。萩のピンクの花が一面に咲いている。その萩の下に鶏がいる。萩の花がぼうっとして地面の色彩となじみながら、陶酔感をつくりだす。左上方に蜜蜂が三匹ほど飛んでいたり、とまっている。不思議な花鳥画である。いずれにしても、この作品の魅力は萩の茎、葉、花の様子が画面一面に描かれていて、それがそのまま独特の陶酔境の中に人を誘い込むように表現されていることだろう。画家自身、蜜蜂になったり鶏になったりして、その花の香りをかぎながらその中に入りこんでいくような、そんな姿勢であるところもこの作品の魅力をつくる理由だと思う。

 望月ます「揺らぐ葦影」。上方三分の一あたりに黄金色の葦の茎。葦の茂みに隠れるようにつがいの鴨がいる。下方はそれを映した水の様子である。余白を取りながら、水面の一隅を構成し、独特の魅力をつくりだす。とくに自由な葦の構成的な表現に注目。

 照井昌光「猩々乱」。お祝いのときに舞う猩々乱の踊りである。今回の新興展がリニューアルの東京都美術館で開催されたことを祝っている。左足に重心を置いて、右足を上げ、右手に扇子を持って頭上に掲げたそのポーズが躍動的で、独特の律動を生む。面白いのは、白足袋が一部水につかっていて、この舞いは舞台で行われるのではなく、水の中で行われていることだ。ところどころ岩があったり樹木が立っている。画家は岩手の出身で、東北の津波の被害を深刻に受け止めている。新興展を祝うと同時に、東北の人々の復興を願う気持ちが重なって、このような不思議な画調を生み出したものと思われる。いずれにしても、普段の硬さが取れて、伸びやかに笑うようにこの猩々を演ずる人が描かれている。大胆な衣装もごくしぜんな雰囲気で、真っ赤な髪の毛とよくフィットしている。面が笑っていて、手のふっくらとしたフォルムなどと相まって、豊かなメッセージを発信する。

3室

 山根久明「広島の神楽(戻り橋)」。M氏賞・準会員推挙。般若の面をかぶった男が左足を上げて見得を切っている。その姿を生き生きと表現している。また、能衣装の大胆な意匠が絵画的に画面の中に引き寄せられている。

4室

 芥川麗子「季」。立っている女性、座っている女性。姉妹と思われる二人だが、その前に赤いテープが伸びていて、そのテープを持っている。テープの背後には建物がある。テープの前後に水仙の花が咲いている。テープは時間あるいは年齢というものの象徴なのだろうか。落ち着いた彩調の中にしっかりと対象のフォルムを描きながら、情感を醸し出す。

5室

 今野佐登治「明ける」。田園が向こうの山まで続いている。青い山の上方からオレンジ色の光が左右に上下に伸びて、いま日が昇りつつある様子が新鮮に表現される。呼応するように、近景から裸木が伸びて、その手を広げている。その樹木が人間のように、生きているように表現されて、その繊細な形とダイナミックな朝日とが面白く対照される。

 小池惠子「夏の夕べ」。準会員努力賞・会員推挙。金魚すくいが描かれている。子供たちが大きな青い桶の周りに立ったり座ったりして、金魚すくいをしている。その子供たちの肢体や表情が愛らしい。青い水の中を赤い金魚が点々と泳いでいる様子も独特なアクセントになっている。それと呼応するように上方に雪洞が遠景に向かって続き、紅白の幔幕の上方に舞台がつくられ、太鼓などが打たれている。しっとりとした青い夕闇が画面全体に下りて、その中に浮き出るように表現された子供たち。背景の舞台。遠近感を表現しながら、近景にスポットを当てた表現に注目。

 綿屋偵以「回想」。黒いタンクトップに赤いスカート。そんな衣装の若い女性があぐらをかいて座って胸に手を当てている。肌は白く悩ましい表情である。何か辛いことが起きたときに、子供の頃を思い起こす。メリーゴーラウンドが静かに回りながら、楽しかった幼年時代のイメージがそこにあらわれてくるようだ。そんなシチュエーションを上方の円弧と下方の垂直、水平の動きの中に面白く表現する。

6室

 新田志津男「北国四季図(早春の溜池)」。 新興美術院賞。近景は池で、そこに鴨が飛んでいる。池には二羽の鴨が泳いでいる。山桜が咲いている。背後には針葉樹やすこし芽吹いたばかりの広葉樹。もっこりした山の稜線の向こうにまだ雪の積もった山が浮かぶ。太陽が白い円盤として黄金色の空を背景にして描かれる。横の動きが水の上にも山の上にも描かれていて、それが霞のような雰囲気であると同時に、過ぎていく時間の推移も表すようだ。樹木の幹や枝、緑の葉や花の様子を繊細に描くことによって、静かなリズムが生まれる。茶褐色を背景にして、柔らかな緑やピンク色が春が来た幸せ感を静かに表現する。

 道中富己子「白銀の中から」。京都府知事賞。雪が積もった線路の周りの地面。そこに裸木が立っているが、そこにもたっぷりと雪が積もっている。線路の向こうから蒸気機関車がこちらに向かってくる。蒸気機関車の重量のあるフォルムが懐かしい。画家のイメージがつくりだした世界。屈曲した樹木やカーヴする線路や電信柱に対して、黒い重量感のある機関車がこちらに迫ってくるというその構成の面白さである。同時に、ノスタルジックな雰囲気が漂う。 斎藤二良「蔵王連峰」。上方に蔵王連峰があり、下方に道があり、道に沿って建物が点々と描かれている。キュービックに直方体や立方体、三角錐といったフォルムに還元された建物が並び、独特の韻律があらわれる。上方の山の向こうに冠雪のもっと高い山が見えて、憧れといった心情が喚起される。画面の一つひとつのフォルムがお互いに呼応しながら、独特のリズムをつくる。

 安食孫四郎「六月の田園風景」。新緑の下に一匹の犬が描かれている。尻尾のほうから描かれて、顔が右を向いている様子が実に愛らしい。

 堀内噎子「亀城のお濠」。土浦城(亀城)の跡が描かれている。お堀や石垣の一部がまだ残っている。お堀の水がこの右下から左上に、このお城を取り巻いている様子。道とのあいだに柳が柔らかな葉を茂らせている。松や杉のような樹木。オレンジ色に紅葉した樹木。緑と黄土色、黄色、若緑色、ビリジャン系の緑などが、この画面全体の柔らかなベージュ色の光の中に包まれて、静かにその色彩を輝かせる。あいだにお城の低い屋根が見え、鯱がその尾をなびかせている。遠景の霞むような緑。まるでこのお堀に囲まれた亀城を掌の上に置いて眺めるような優しさと安息感が画面に漂う。水墨をベースにして淡彩が施されていて、まるで夢の中に引き寄せるような、そんなピュアな表情に惹かれる。

 曽和千粧「小春日和」。猫と生まれたばかりの子猫。イチョウの葉の下に数匹の猫が生き生きと表現されている。猫のそのフォルムに注目。

 岡田忠男「瀑」。白糸の滝が描かれている。崖の様々なところから水が滝となって落ちてくる様子が面白く表現されている。か細い水、豊かな水量の水、それぞれが呼応しながら合唱するような雰囲気である。ところどころに新緑と思われる樹木の葉が光に輝いている。滝の向こうの崖のあたりが独特で、不思議な幻影がそこにあらわれてくるような雰囲気もある。その左のほうのバックに対して、右のほうはもっとリアルに水と崖との関係が捉えられている。水の落ちてくる様子が白というより銀色の様子で、まるでそれぞれから光が下方に落ちてくるような、そんな雰囲気。かつてのスケッチからピックアップして表現したそうであるが、現実というより非現実のイメージで、一種の音楽性さえも感じる。

 平田春潮「紅葉樹」。紅葉した様子が茶褐色の色彩によって表現される。その葉のあいだから幹や枝が見える。独特のフォーヴィックな表現である。水墨と油絵のフォーヴを重ねたような独特の画調に注目。

 菊池柾寿「永平寺蒼映」。永平寺が青嵐とも言うべき緑の中に捉えられている。周りの針葉樹の連続した形。鬱蒼とした森のような雰囲気のなかに永平寺の伽藍がある。その樹木の際に黄金色の色彩で光が描かれていて、その連続した形が神々しい。樹木は遠景になるに従って淡くなり、その上方に太陽が柔らかな光を照らしている。森のもつ神秘感と永平寺の豪宕な霊的な雰囲気が呼応しながら、この大画面を構成する。右下のほうに笹のような葉が茂っていて、先の尖った葉の連続した塊のフォルムと背後の三角形の針葉樹の連続した形とが対照される。いずれにしても、柔らかな金色の色彩がところどころ画面全体に使われ、それが全体でリズムをつくり、いわば光が声明の音楽を奏でるような雰囲気である。上方から俯瞰した建物、見下ろした大屋根の瓦の形、それぞれがある存在感をもってこの森の中に描かれている。独特の光が画面に差している。現実の光と同時に画家の深い詩情ともいうべきものがこの光を発していて、内的な光と外的な光が重なりながら大伽藍が輝く。

 飛澤龍神「回春」。六曲の金屛風である。その金屛風の上に一本の梅の木が描かれ、左右、上下に枝が広がっていく。メジロがこの梅の木に飛んできている。枝の中には何羽かとまっている。まだ満開とは言えない。白い花が点々と咲いている。余白が大きく取られ、それがまた深い情感を醸し出す。下方に小さな青やピンクの花が咲いている。そこにテントウムシや小さな蜂などが飛んでいる。細やかな表現である。金屛風がそのまま空間の中に生かされて、強い。小さな花にしても、まるで地上の星のようにクリアなフォルムの中に左右に広がっていく。そのあいだに何も描かれていないために、かえってイメージが広がる。いま春が来て、その喜びを静かに画面の中に画家は表現する。抑制のきいた表現である。とくに梅の木のしっかりとした枝から梢にわたる形が構成の軸となっている。優れたデッサン力のうえにつくられた現代の花鳥画である。

 鈴木忠実「ウダイプールの踊子」。二人のサリー姿のインドの女性。背後に衣装で飾られた象がいる。そばに道がS字形に伸びている。画家のインドをテーマにした長い仕事の中にあらわれてきた、静かな祝いの画面である。道は人生の道であると同時に新興美術院の道もそこに重なっている。二人の女性のしっかりとしたフォルムが強い。

 浜中利夫「樹間陽光」。南画ふうな表現である。近景に太い樹木。その向こうに川があって、釣りをしている人がいる。草地に子供たちがいて、橋が二つ。だんだんと遠景に行くに従って、もう一つの橋も見える。強い筆力で幹や葉や人間たちを描く。

 野口義男「神々の田(苗場山)」。茶褐色の冬枯れの草原。あいだの空き地に雪が積もっている。霧が立っている。その向こうに山並みが濃紺のシルエットとしてあらわれる。オレンジ色の空は夕焼けを示すのだろうか。大地が鼓動しているような律動感がこの作品の魅力。

第59回日府展

(5月22日~5月30日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 宮西真里「新緑」。努力賞。丈の高い植物の下方に、少年が地面に座ってサンダルに手を伸ばしている。その少年のフォルムがクリアで愛らしい。フォルムに対する優れた感覚がうかがえる。

 廣島樹「噺・かちかち山」。兎が狸に復讐する「かちかち山」の話が面白く表現されている。一つの絵巻の中にあらわれてくる連続した物語が、一つの画面の中に併置される。背負った薪が燃えている狸。船が沈没しつつあるところに逆様になって喘いでいる狸。オールを持ってその狸に向かう兎。あるいは、爺と婆のあいだに可愛がられている兎。タヌキ汁の上に吊るされた婆。包丁。ゆったりとした線によってフォルムをおおらかにつかみながら、全体で統合する。上方に富士と日の丸が置かれている。日本昔話である。

 清水美枝「春兆」。奨励賞。丸い石を二つ重ねて、上の石に顔を彫ったような素朴な地蔵。一人は瞑想し、一人は首を傾けて、何か発信している。周りは雪である。ところどころ植物が顔をのぞかせている。「春兆」という題名だから、春の兆しをこの二人の少年のような地蔵さまが語っているようだ。イメージを構築する力が優れている。

 三枝正人「メシアとサタン」。聖書の中にはキリストを誘惑するサタンの話が出てくる。後ろ姿で杖を持って立つメシア。近景にはうねうねとしたフォルムをもつ蛇が何匹も描かれている。背景は海と島のパノラマで、黄金色の雲が浮かんでいる。劇的なシーンをクリアなフォルムによって表現する。イメージをフォルムにする力が優れている。文学性と絵画性とのクロスする世界が鑑賞者を招く。

 堀口修一「農道」。毎日新聞西部社会事業団賞。雑草の中を道がカーヴしながら続いて、遠景に茅葺きの民家が見える。しっとりとした調子の中に触覚的な力が感じられる。それぞれのディテールの面白さと風景のもつ遠近感に注目。

2室

 松本禮次「五色沼」。新人賞。近景の雑草と上方の枝と葉は一種逆光で黒ずんでいるが、そのあいだから見える沼は青緑色に静かに輝いている。神秘的な色彩である。静かなこの沼のミステリアスな雰囲気がよく表現されている。

3室

 吉田馨都江「想う」。遠景には針葉樹のような樹木が立って、空とせめぎあっている。その下は土手になっているようで、そこから画面の三分の二以上が地面で、そこには茶褐色の色彩やピンクがかったグレーや緑、あるいは黒い色面。いちばん手前は白い桜の花が咲いているようなフォルムがあらわれる。見ていると、様々なものがこの地面に見えてくる。上方の激しい針葉樹の連続した様子とこの地面の様子を見ると、深い悲しみのイメージがあらわれてくる。ところどころ赤褐色の色面が入れられていて、それと黒や緑の色彩のハーモニーにはとくにそのような印象をもつ。それに対して下方の白い花の咲いたような樹木の連続したものは、春の花の咲いているようなイメージ。春と晩秋とが重なったような雰囲気。あるいは、今回の東北の津波の衝撃を受けて、悲しみの色彩がこの大地を染めているといった言い方もできるかもしれない。

 田村公「沖縄の風」。気根を思わせるような大木が正面から描かれている。曲線によってつくられたフォルムが力強い。

 宮田益榮「街」。横断歩道を渡る自転車。方向が互い違いに歩む二人の女性。舗道のそばのコーナーに、大きなバッグを肩に掛けている男。そんな街の一隅をぐいぐいと描く。親密な空間の中に生気があらわれる。

4室

 平江正好「暮色」。奨励賞。水平線が画面の下方五分の一あたりにあって、上方は空である。下方から赤、光り輝く黄金色、そしてすこし調子を落としたオレンジ色の空。そこには濃い青い雲。その上方には紫やブルーの雲があり、さらにその上方はグレーの空になり、雲が浮かんでいる。刻々と変わっていく日没の情景を、スピーディなタッチの中に表現する。海は紫系の色彩で、水平線のあたりは赤紫で、だんだんと青紫になる。日没の豪奢な風景である。

 久住敏之「聖なる語らい」。評議員推挙。ヴィクトリア朝の頃のような衣装をつけた女性が立っている。そばに神父がその女性を眺めるとも瞑想するともつかぬ表情で立って、黄金色の盃を持っている。二つのクリアなフォルムが相まって独特の精神的なイメージをつくる。沈黙の強さ、思いの強さと。アーチ状の二つの窓の向こうに青い海を思わせるような世界があらわれ、上方に空がある。その青い水の色彩は、二人の心の中に存在するもののイメージだろうか。

 掛田典子「その先へ」。ハーフトーンの色彩が光を含んで輝いている。道の両側は斜面になって雑草が生え、そこに三本ほどの灌木が茂っている。土手の上にも樹木がある。印象派を思わせるような柔らかなタッチのなかに色彩が置かれて、お互いにハーモナイズする。ただ、光は外光ではなく、画家の内側から差す光のようで、その外界と内界とがシンクロするところから表れる空間のクオリティに注目。

5室

 熊谷順子「目覚め」。新人賞。横座りをして、その上体をクッションのようなものにもたれている若い女性のそばに子供がいて、母親の顔を眺めている。二人は目と目を見交わしているようだ。右上方に白い小鳥がいる。ヒューマンな感情が感じられる。親子というきわめて接近した環境のなかからイメージされた独特の空間の動きや、温かな包み込むような雰囲気が興味深い。

 越後早季子「まなざしのむこうがわに」。八十歳ぐらいの老人が椅子に座っているが、椅子の足は描かれていないから、不思議な雰囲気である。手や横顔の表情などがクリアに描かれて、この老人のインテリふうなその経歴さえも想像できるような細密な描写になっている。ところが、椅子の足がないために不安定で、未来に対する不安な様子もある。実際に生きている人なのか、あるいは亡くなった人を回想のなかに描いているのか、そんなイメージもしぜんと感じられる。

第48回亜現展

(5月23日~5月30日/東京都美術館)

文/高山淳

1室

 杉森由美子「創生の想い」。 産経新聞社賞。両側に樹木をシルエットふうに描く。一部切断されていて、津波などの困難な状況から立ち上がろうとするイメージを感じる。画面全体は六十四個の正方形に分割されている。その上方、樹木のあいだに胎児が描かれている。胎児は新しく生まれいずる再生のイメージである。植物の葉や蝶、花、月、太陽、星などのイメージが図像的にそこに嵌め込まれて、独特の崩壊から再生への花鳥画となっている。

 羽山清太郎「別れの花」。作者は福島にアトリエをもっているから、今回の津波および原発のじかな被害地に住んでいて、そこからあらわれたイメージだろう。壁もドアも壊れた中に女性が一輪の赤い薔薇を持って立っている。それは希望の象徴である。背景の緑の茂る野原に黒い馬が歩んでいる。その黒い馬は様々な困難に耐えて歩いているといったイメージを感じさせる。心理学的には馬は無意識の心象の象徴といわれている。そんな図像に対して女性の両側のギザギザになった上方のない被害を受けたドアが対照される。

 八田祐加子「バザールの午後(A)」。文部科学大臣賞。イスラム独特の衣装を身につけた五人の女性。四人は頭に籠や布で包んだ袋を置いている。野菜を包んだ袋を頭にのせた女性は子供を抱えている。穏やかなイメージ。面白いことに、本来茶褐色の大地が青白く塗られて、まるで雪や海のイメージがあらわれている。それによって日本の東北や北海道の働く女性と中東のこのバザールに佇む女性たちのイメージがクロスする。絵画ならではの面白さである。しーんとした気配のなかに、女性に接近して働くそのイメージをイコン的に表現する。

 金登美「光る朝」。青い花瓶にたくさんの紫陽花が入れられている。ペチュニアのような白い花やミモザのような花も入れられているようだ。背景は青と緑で、清々しい。そのバックの窓を思わせる空間に黄金色の光がたらし込みのように入れられている。花々は静かに輝く。現実の花よりひときわ純粋にその色彩を輝かせる。画家はいわば詩人的素質をもつ。花の再現ではなく、花を霊的な存在のように捉えて表現する。同時に、花の塊が静かに揺れているような存在感も感じられる。深い祈りの心からあらわれた花々のようだ。その意味では一種宗教画を思わせるような、そんな敬虔なスピリチュアルなイメージが感じられる。

 郷田良浩「わが心の内なる世界―・」。独特の曼荼羅構図になっている。内側から外側に放射する動きが巨大な花弁となって幾重にも連なり、中心では朱色と白などの色彩が円弧を描く。きわめて肯定的なイメージである。世界全体を癒すような力強いムーヴマンと色彩の性質を感じる。

5室

 中嶌虎威「春の夢」。損保ジャパン美術財団賞。チューリップやアネモネの花を大きく配して、ポップふうな感覚のなかにまとめている。金や銀などの箔を散らしていて、そのリズムと花の連続したフォルムとが響き合う。光の中に花が咲いている様子を明るく歌いあげる。クリアなフォルムがこのコンポジションの要になっている。

 大波天久(久夫)「伝説の集落」。今回の津波によって一つの町がすべてなくなったところもある。そんな痛恨の思いから、この独特の抽象的水墨のコンポジションが生まれたようだ。海と陸地のあいだを黒い太い線が横切る。その上に壊れたフォルムが象徴的なかたちで表現される。上方の雲を思わせるようなフォルムや海を思わせるフォルムなどが相まって、悲しみのモニュマンとなっている。

 姜賢三「雲場の池に春」。柔らかなハーフトーンが心地好い。水や石垣、植物などをかなり曖昧に描きながら、空間の中に溶け込ませる。

 宗雪孝夫「花咲春」。正方形の画面の中に正方形を取り、その四隅に四つの大きな円。中に菱形のフォルムをつくり、そこのコーナーに四つの円、中心にまた円、あいだに円を入れながら、そこに植物の芽や花の様子を描く。いわば花曼荼羅と言ってよい。また、矩形の外周に六十四の石ころのようなフォルムを置く。一つひとつ石を置きながら祈る。その石の中に植物のフォルムが図像的に嵌め込まれている。さらにその外側には黄色などの色彩の中に赤い花が咲き乱れている。また、曼荼羅の上から青、黄色、赤などの透明な色彩がたらし込みふうに描かれている。すべての花が呼吸をしながら、その命を歌う。それはそのまま森羅万象が合唱している様子と重なる。 7室

 荒井さつき「絆」。四つの大小のオコゼを焼き物として作っている。大きな目や強調されたヒレなど、ユーモラスなフォルム。同時に、四つの魚がファミリーのような趣をもっているところもほほえましい。

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